○木島則夫君 これは別途細かい
議論はさしていただきますけれど、きょうは、
大臣に基本認識ということでお伺いをしたわけでございます。そういういま非常に郵便事業が置かれているシビアな環境の上に立って、あるべき郵便の姿をどうぞひとつ御研究をいただきたいということを申し上げておきたいと思います。
このほか労使の協調とか職場秩序の確立の問題もゆるがせにできない私は緊急な課題だと思うんでございますけれど、これも結局せんじ詰めて言いますと、郵便事業そのものの将来に希望と可能性というものが生まれない限り、そこで働いている方たちにとりましては、やっぱり前途に不安を抱いて陰うつ、憂うつになるのは当然だと思います。だから、そういう
意味でも、この社会
状況、情報化社会に適合した郵便事業のあり方というものをはっきり把握をする。その中で古い制度はもう遠慮なく捨てていく、新しいものに変えていくというやっぱり勇気と決断の時代ではないだろうかということを申し上げまして、
大臣への提言と御
質問を終わるわけでございます。ありがとうございました。
続いて、
NHKにお伺いをいたします。遅くまで御苦労さまでございます。
五十一
年度予算の
審議の折に問題になりましたのは、
NHKの経営基盤をどうするかということ、難視聴解消の問題、
公共放送としての
NHKのあり方など幾多の問題が出たわけでございます。その中で
放送の中立性、公平とは一体どういうことなのかということもございました。たくさん論議が出たわけでございます。一様に
NHKの
放送は公平であるべきだとか政治的に中立であるべきだ、
NHKは国民のための
放送局でなければならない、私もよくわかるわけでございますけれど、そのときも
指摘したんであります。
公共性、中立性、国民のための
NHK、実にあいまいもことしていて抽象的な表現である。これも
NHK前
会長の
小野さんはお
認めになりました。私はちょっと前置きとして、新聞の問題をここで論評をしながら、
公共放送の
NHKが背負っている宿命というものをひとつ御
指摘申し上げたい。ちょっと前置きが長くなって恐縮でございます。それに新聞はかくこういうものなんだという釈迦に説法的なことはまことに申しわけないんですけれど、ちょっとお聞きをいただきたいと思います。
新聞というのは、これは報道機関であると同時に言論機関でございます。したがって、ある価値に基づいた編集方針をとっていることは当然でございます。このある価値に基づいての編集方針を最も端的にあらわしているテーマは何かというふうに探してみると、これは世論をはっきり二つに分ける私はストライキの問題が適当なテーマだろうと思って、ひとつストライキを扱った新聞の見出しをひっくり返してみたんであります。
時期は四月の二十日の新聞の見出し、朝刊のまず読売は「交通七二時間ストに突入」。毎日が「交通ゼネストに突入」。サンケイはわりあい具体的で「七二時間の交通ゼネスト突入」。東京新聞は「交通ゼネスト突入」。朝日はちょっとニュアンスが違いまして「交通ゼネスト入り」となっています。ここで
一つ一つ私はこういう問題を論評したくはございませんけれど、ここに
一つの価値意識を持った新聞の見出しというものがはっきり読み取れる。大体、私の
立場で言わせると、やっぱり国民の多くが迷惑を感ずるストにあえて入るんだから、それは「突入」という表現を使ってもらいたいんだけれど、朝日はここで「入り」という言葉を使っています。これは編集の自由ですから、私はこれで偏向だとかなんとかということを言っているんじゃない。大体「入り」なんという言葉は「彼岸の入り」とか「梅雨の入り」というようなわりあい自然に入っていく言葉じゃないかと私は思う。ここに
一つの価値意識を持った編集があるんだろうと思います。夕刊を見ると、読売が「列島の足終日マヒ」。毎日が「全国の足マヒ」。サンケイは比較的これも具体的でございまして「交通ゼネスト三千八百万人の足奪う」。東京は「交通ゼネスト列島マヒ」。朝日は「私鉄、歩み寄る気配」。こういうふうに見出しを私鉄の問題に移行をしております。
もうちょっとひとつ聞いていただきたいと思います。新聞は報道機関であると同時に言論機関であるというたてまえからすれば、革新的な編集をされるのも自由だし保守的な編集も自由。その中間的な編集をなさるのもこれは自由だろうと思います。そのいずれが偏向でいずれが正しいなどということは、一概にはこれは言えない問題だと思います。ただし、ここでよく世間で言われる偏向という問題を持ち出す場合には、世論との対比において、一体、世論とその新聞の編集方針との間にずれがないか、落差がないかということが
一つの目安になることも事実であろうと思います。
このストを取り扱ったときの最も熱心な熱の入れ方、それは社説と識者の
意見と投書という形での世論という枠の中で扱った限りにおいて見ますと、朝日とサンケイが大変熱心でございました。ほかの新聞は熱心でなかったかというと決してそうではない、ほかの新聞も座談会とか特集記事において大変熱心な扱いを示しておいでになりました。ただ、ここで私が申し上げたいことは、このスト権ストと春闘のストの折の報道がいままでの報道と違っておりましたのは、多くの新聞社は特設電話コーナーを設けて、直接なまの声を聞き入れた、つまり受け入れたということがいままでの報道と違っていたと思います。
社説、投書という形での世論、識者の
意見をかりての表現、この三つの枠の中では朝日とサンケイというものが非常に対照的であったことは
先ほど申し上げたとおりでございます。対照的であったというのは、朝日は最も政府に批判的、サンケイは最も組合に批判的な
立場をとっておりました。しかし、さっき私が申し上げた特設電話コーナーに入ってくる声は、これは朝日もサンケイも、御認識になったと思いますけれど、大体七対三か、八対二で組合に批判的な声が非常に多かったということでございます。で私はここで結論を申し上げると、サンケイのように最初から終始一貫公労協のストに厳しい態度をとってきた社は、社の方針といわゆるなまの声というか、そういう間に余り落差がなかったということ。それから朝日の場合には、逆に世論と社の
立場とのギャップが相当広くなって、それをどういうふうに埋めていくかということに苦心をなすっていたというのが現状でございます。
私が長々となぜ新聞を例にとって前置きをしたかといいますと、新聞と
放送の違い、ことに政治には不偏不党、中立を標榜する
NHKのあり方がいかに微妙な
立場に置かれ、一歩誤りますと取り返しのつかないようなむずかしい
立場にある。言ってみれば
NHKは
公共放送としての宿命を背負っている
放送事業体であるということをここで申し上げたかったからでございます。
じゃ、このストを
NHKのテレビニュースはどういうふうに扱ったか、テレビのニュースに限って言うならば、ストライキが行われている現状を
説明をいたします。空っぽの駅の構内を各地からニュースでもって伝える。必ずストに対する国民の賛否の声を聞いております。ところが実際の画面に出るその賛否の声というものは賛成、反対同数ずつ、これは私も現場に行ってよくわかります。現場に行くと同数なんか絶対出ない。時間、地域それから山の手とか下町によってずいぶん違いますけれど、同数が出るなんということはない。だから、さっきの新聞社の特設電話に入ってくる世論の声を
NHKのこの場に当てはめてみると、やはり私はストライキに対する国民の声は相当厳しかったという
状況であったと思いますけれど、これが
放送に乗る段になると、やっぱり可否同数、賛成、反対仲よく並べないといけないと言うと、おしかりを受けるかもしれないけれど、だめなんですね。
私も
NHKに御厄介になっておりましたときに、街頭録音という
放送を
担当したことがございます。現場に行っていろいろ教育の問題、防衛の問題、安全の問題などを論議する。そうすると圧倒的に賛成が多いけれど、編集はやっぱり可否同数にならざるを得ない、はっきり申し上げて。じゃ反対が多かったからといって反対の声を圧倒的に多く出す編集が許されるかというと、残念ながらそういう編集は許されない。つまりここに
NHKのというか、
公共放送の持つ私は宿命というものがもう生まれたときからこびりついて離れない。そして五十年の歴史の中で
NHKが体得をされたことは、そうやっていかないと
NHKは生きていけないという知恵をつかんだんです。こういう言い方は不遜な言い方かもしれない、ここにやっぱり
公共放送の
一つの大きな
問題点があって、こいつを抜かして論議は私はできないと思います。
で大変こういう話をすると、私は
NHKを理解をして同情的だと思われちゃまた困るんですよ。これから先がある。それはそれとして私はお
認めいたしましょうと言っている。
ある人がこういうことを言ってますね、
NHKというのは野菜スープみたいなものだと。大体野菜スープをつくるときには、その素材としてキャベツとかジャガイモとかニンジンとか大根とかサトイモなどを入れるわけですね。ぐらぐら煮る。それが素材のときにはみんなそれぞれに味を持って、違った素材であるけれど、スープとして出てくるときには混合された野菜スープになる。つまり国民の
NHKはこうしないと存立をしていかれないという長い間の知恵を身につけた。こういう言い方は大変感覚的な表現の仕方でおしかりを受けるかもしれません。
そこで本題に入らしていただきます。
たとえば
一つNHKのニュースをとって考えてみますと、与党からしますと、大変野党的でこいつは困るとか、また野党から見ますと、
体制べったりで、何だいあのニュースはけしからぬと言う。当然、私はこういう
議論が起こるのはいいと思います。そのほか
NHKに対する言い分、要望というものは、それぞれ国民の
立場、国民の要望という言葉をかりて
NHKに殺到をしてくるわけですよ。大変都合がいい言葉ですね、国民の
NHKというのは。実に都合がいい。言う方にも都合がいいけれど、言われる方の
NHKも、これを、後で申し上げるように、都合よく料理をしている。
だから、ここで私が新
会長に対して申し上げたいことは、
NHKに対して、かねがね公共性、中立性ということは大いに意識をしていただきたいんだけれど、このことを余り重荷に感じて萎縮をしていただきたくないというのが新
会長に対する私の第一声なんです。意識はするけれど萎縮をするなということなんです。意識をし出しますと、やっぱり自己規制が起こりまして、かたくなって萎縮をする。そうすると事なかれ主義になるわけですよ。そうなると、どうも生気のない、つまらない
NHK、ことに聴視料問題がシビアになり、前
会長の引退問題などが起こってくると、間違いを起こすまい起こすまいとして、どうしてもガードがかたくなる。ヒットは打たないでも三振はするなというふうな番組、
NHKの姿勢は私はつまらないと思います。
だから、
会長のいわゆる
就任最初にお願いをしたいことは、何か余りにも
公共放送とか中立性ということを里何に感じてしまうと、そうして
NHKが置かれている現在の環境を余り意識をし過ぎると、自己規制が起こって萎縮をして、つまらない、事なかれ主義のどこからつつかれても
問題点がない番組づくりに集約をされることがあってはならない。意識はするけれど萎縮はするなというこの第一声に対して、
会長はどういうふうにお受けとめになりますか。前置きが長くてまことに恐縮でございます。