運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1976-10-15 第78回国会 衆議院 文教委員会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十一年十月十五日(金曜日)    午前十時三十二分開議  出席委員    委員長 登坂重次郎君    理事 深谷 隆司君 理事 藤波 孝生君    理事 三塚  博君 理事 森  喜朗君    理事 木島喜兵衛君 理事 嶋崎  譲君    理事 山原健二郎君       臼井 莊一君    久保田円次君       床次 徳二君    山中 吾郎君       栗田  翠君    有島 重武君       高橋  繁君    受田 新吉君  出席国務大臣         文 部 大 臣 永井 道雄君  出席政府委員         人事院総裁   藤井 貞夫君         人事院事務総局         給与局長    茨木  廣君         文部大臣官房長 井内慶次郎君         文部省初等中等         教育局長    諸沢 正道君         文部省大学局長 佐野文一郎君         文部省社会教育         局長      吉里 邦夫君         文部省体育局長 安養寺重夫君         文部省管理局長 犬丸  直君  委員外出席者         大蔵省主計局主         計官      佐藤徳太郎君         大蔵省主税局税         制第一課長   矢澤富太郎君         文教委員会調査         室長      大中臣信令君     ――――――――――――― 委員の異動 十月十二日  辞任         補欠選任   上田 茂行君     田中 榮一君 同日  辞任         補欠選任   田中 榮一君     上田 茂行君 同月十三日  辞任         補欠選任   上田 茂行君     中村 寅太君 同日  辞任         補欠選任   中村 寅太君     上田 茂行君 同月十五日  辞任         補欠選任   山口 鶴男君     山中 吾郎君   神田 大作君     受田 新吉君 同日  辞任         補欠選任   山中 吾郎君     山口 鶴男君   受田 新吉君     神田 大作君     ――――――――――――― 十月十三日  国語教育尊重に関する陳情書  (第三三号)  石川県に教員大学院大学創設に関する陳情書  (第三四号)  国立宇都宮大学工学部機械科学工学科設置に  関する陳情書(第  三五号)  国立大学における特別図書予算継続等に関す  る陳情書  (第三六号)  公立医科大学に対する助成強化等に関する陳情  書  (第三七号)  私立大学に対する助成強化等に関する陳情書  (第三八号)  私学助成強化等に関する陳情書  (第三九号)  学校図書館法の改正に関する陳情書  (第四〇号)  公立高等学校新増設に対する国庫補助制度拡充  に関する陳情書外一件  (第四  一号)  学校用地取得に対する国庫補助増額に関する陳  情書(  第四二号)  義務教育学校教育条件改善に関する陳情書  外一件(第  四三号)  女子教育職員の出産による補助教育職員確保に  関する陳情書(  第四四号)  公立幼稚園に対する国庫補助強化等に関する陳  情書(第  四五号)  過疎、へき地教育振興に関する陳情書  (第四六号)  解放教育に関する振興法制定に関する陳情書外  二件  (第四七号)  公民館、社会体育施設等の整備に対する助成強  化に関する陳情書外一件  (第四八号)  重要文化財等に対する国庫補助拡大に関する陳  情書  (第四九号)  は本委員会に参考送付された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  文教行政基本施策に関する件      ――――◇―――――
  2. 登坂重次郎

    登坂委員長 これより会議を開きます。  文教行政基本施策に関する件について調査を進めます。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。三塚博君。
  3. 三塚博

    三塚委員 「教育課程基準改善について」先般中間まとめ発表になりました。この件について若干大臣質疑をさせていただきたいと思うのですが、その前に大学入学に伴う寄付金についてちょっとお伺いをしておきたいと思います。  特に昨今また授業料等の値上げなどが取りざたされております。私学大学経常費助成、年々これが改善され、いい形になっておるのでありますが、そういうこともいろいろな事情でやむを得ないのかとも思わざるを得ない節もあるのでありますが、問題は特に医学部の、また歯科系薬科系入学金という問題がいつも当委員会において重大な問題になっております。四十九年度においてはたしか二千万程度平均として寄付を強要されるというようなことがありました。五十年度入学につきましては、文部省でも大体実態をつかまえておられるのではないかと思いますが、その点について明らかでありますなれば本委員会においてはっきりさせていただきたいと思います。  と申しますことは、医学という国民の生命と健康に関する重大な学徒、学究、また医療者を養成するのでありますから、本来入学基準に基づいてスムーズに決定をされるべき性格のものだというふうに思います。残念ながら私立医科歯科におきましては所定の入学許可のほかに、相当額寄付金を受諾できなければ最終合格通知を出さぬ。私の聞き及ぶ範囲におきましては最低で二千万程度、高い人になりますと七千万程度にもはね上がっておる、こういう話があります。言うなれば頭の悪いやつを押し上げて入れるのであるから、それを教育するのにはそれなりの金がかかるんだという理屈もあるようでありますが、そういう理屈教育の場には当てはまらぬわけであります。そういう点でやはりこういう事態というものは、大学経常費助成ということが逐年充実をしてまいっておる現況から見てきわめて不適当なものであるわけでございますが、この点についてどのような把握をされ、五十二年度の入学についてどのような指導をされようとしておるのか、まずこの点をお伺いしておきたいと思います。
  4. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいま御指摘のように、私立医歯系大学入学寄付金が非常に多額であるということはまことに事実でございます。  昨年度の統計によりますと、医学部では寄付者一人当たり金額、いま先生四、五千万円とおっしゃいましたが、平均をとりますと千五百万円で、そういうものを払っている入学者入学者中の七二%に及んでおります。歯学部では寄付者一人当たり金額が、これも平均をとりますと千四十五万円で、九七%に及んでいるという状況であります。  これは御指摘のとおり、教育機会均等ということからもきわめて不適切でございますし、また、将来わが国医療に当たる人がこういうことでは安心して確保しにくいということがございますから、これについていろいろの手を打っていかなければならないわけでございます。  およそ四つぐらいの方法がいま並行して行われている。一つは、特に医科大学につきましては国立医科大学を各県に設けるという政策を進めてまいっておりますが、まだ完了ではございませんが、相当程度これが実現いたしまして、昭和六十年には、私立大学に依存をいたしませんでも、十万人に百五十人程度医師を確保できるという形で計画を進めているということでございます。  なお、歯科でございますが、それは十万人に百五十人ほどという数字ではなく、それを下回ってもいわゆる先進国並みであるということでありますので、歯科建設計画というのは医科ほど国立で進んではおりませんが、これも逐次徳島などから始めまして歯学部を設けるという、いわば国立による強化というのが第一の方法でございます。  第二は、医科歯科大学私立でつくります場合の設置認可の審査に当たりまして、寄付金設置費の財源とするようなことがあってはならないということで、認可に際しまして、申請者に対してきわめて厳格に入学条件となるような寄付金を求めることをしないことを確約させておりますが、この政策を昨今は強化してまいっておりますので、名前をここで挙げることはできませんが、実は申請がありましてもなかなか認められない学校があるという、これが第二のことでございます。  第三は、現在の私学振興助成法に基づく助成を、経常費配分当たりまして、医科歯科系大学につきましてはこれをたとえば文科系に比較いたしますとよほどたくさん配分するということでございますが、具体的に申しますと、大体経常費補助額では、五十年度で見ますと、学生一人当たり医歯系学生平均値の十倍ということになります。ということは、大学学生一人当たり平均値が六万円でございますから、医歯系は一人当たり六十四万円程度ということでございます。  さらに第四番目は、これは文部省というよりむしろ厚生省の方も配慮しておられることでありますが、そういうふうにして大学に入りましても、医師試験を受けて通らなければ医師になれないわけでございますが、本年の結果によりますと、そういう式の歯科私立大学の中で合格者の率が必ずしも高くないところが相当出ました。また、高かったところは、実は初めから余りたくさん受けさせないというような方法もとっているということが明らかになりましたので、こうしたチェックの方法によって、現在行われておりますきわめて異常な、何千万円に及ぶ寄付金を払って入学するという大学、これを一挙になくすということはできないと思いますが、四つ方法を並行させておりますから、逐次この勢いは弱まっていくものと考えております。
  5. 三塚博

    三塚委員 教育機会均等、すぐれた技術者を養成するという意味におきまして、どうぞただいまの大臣方針をさらに強められまして、今後も当たっていただきたいと存ずるわけです。  まだ体育局長来ておりませんね。トンガ王国のお相撲さんの話をしたいと思ったのですが。では体育局長が来ましたら教えてください。  それでは、教育課程基準について先般の取りまとめを読ませていただきました。文部大臣は、学校教育内容指導改善充実ということを大きな柱とされて力を入れられておりますが、このたび審議会からの「教育課程基準改善について」と題するまとめ発表されまして、広く世間の関心を呼んでおるところであります。この審議会まとめはほぼ最終答申の骨子となるもののようでありまして、これを中心として広く国民の世論の喚起、また提言その他をいただきたいというようなこともあるようでありますが、これに即応され文部大臣は早速新教育課程五つ目標というものを発表をされております。これに対する所見をお伺いをしたいわけであります。ちなみにその目標を順序に読んでみますと、一つは、「ゆとりのある、しかも充実した学校生活」、二つに「知、徳、体の基礎基本を確実に身につけさせるための教育」、三は「みずから考え、行動する個性能力と連帯を重視する教育」、四は「教師の教育愛創意工夫に支えられた教育」、五つは「二十一世紀の世界に生きる日本人の育成」、まことに至言であろうと思います。しかし、その一つ一つがきわめて達成までにはむずかしい要素を含むものであろうと思います。そういう意味文部省の使命というものはきわめて大であるというふうに思うのでありますが、これらを発表されるについての文部大臣所見あるいは御決意がありましたらばお伺いをしておきたいと思います。
  6. 永井道雄

    永井国務大臣 教育課程審議会は、高村象先生の御努力で、先生中心にして長く審議が重ねられまして、今回、最終答申をお出しになる前の段階でございますが、ほぼまとまったものをお示しいただいたわけであります。内容を見ますと御苦心のほどはわかりますが、しかし、この教育課程というものが実現をいたしますのには、まず指導要領を改められ、そうして教科書というものがつくられるということに相なりますと、昭和五十五年でございます。中学につきましてはなお一年おくれるということになります。しかし、いま国民わが国教育が大変な、いわゆる受験地獄の中で全く生きがいのある楽しい教育を受けないという気持ちが非常に強いのでありますから、私は、ただ漫然とこの教育課程ができた、五十五年には何か起こるであろうという態度文部省は臨むべきではないと考えたわけであります。  そこで、教育課程目標は何であるか、この教育課程を読みますと、いま先生がお読みいただきましたように、ゆとりはあるが充実をしている。そして、これまではいわゆる情報教育、あるいはこれを知育とも呼んでおりますが、真の知育とも呼びにくい情報詰め込み教育。また、体育、情操、徳育教育は軽視されておりましたからこういうものをやはり重視する。さらにまた、先生方創意工夫というものが従来はともすれば軽視されておる。また、子供がみずから考え行動するということも弱められておったのですけれども、こういうことを新教育課程は全部うたっている。そうすると、五十五年を待ちませんで、五十二年、すなわち来年度から、ここに目標が示されているのでありますから、いろいろのものをその目標に向かって準備していかなければならないというふうに私どもは考えたわけであります。でありますからあえて目標というものを示しました。  具体的にはどういうことになるかといいますと、この教育課程というのは五十五年から教科書になりますが、移行措置というのは五十三年からやることができます。これは明後年ということでありますからもうわりに近いのであります。しかし、実は明年からでも相当なことができるはずでありますのは、現在いろいろな意味での研究指定校というものは、文部省で計算をいたしますと本年度全国に千三百校ありますが、来年はさらにこれをふやす考えであります。この指定校の中には、たとえば体力つくり推進校というようなものも現在約二百ありますが、来年はもっとふやすつもりです。あるいは理科教育というものも非常に強化してやっていくという学校、語学の学校あるいは道徳教育の実験的な研究をやっていく学校、そのほかに現行指導要領に必ずしもよらないで教育を行っていく学校、これを本年度二十設けましたが、来年は四十五にふやしたいという考えであります。つまり、教科書ができ上がったときにその教科書をまた頼りにしてやるというのではやはり新教育課程精神が生かされませんから、もうそうしたいろいろな研究指定校が本年でさえ千三百あるわけでありまして、来年はそれがさらに上回る、その段階においては、先生方創意工夫をして、そうして子供自身をして考えせしめる、こういう方向でいかなければいけない。  また、ゆとりある充実した学校生活ということを申しましても、世の中の人が直ちに指摘をいたしますのは、事実中等学校では業者テストというものが支配をしているではないか。これも文部省調査いたしましたところ全国に及んでいるということが明らかでございました。さらにまた、特に大都市、中都市を中心といたしまして受験塾というものが町にあふれていると言いましても過言ではないという状況でありますので、これについても目下調査をいたしているわけであります。  そこで、大学入試というものも五十四年から変わってまいりますが、結局いろいろな手を打って総合的にこの新教育課程に盛られている精神を実現していかなければいけないわけでありますから、教育界における考え方というものを、大学入試というものを変えるのも一体何のためであるのか、また来年一層研究指定校を重視するのは何のためであるのか、さらにまたいろいろな業者テストというものに支配されないような学校教育をつくっていく目標は何であるか、そういうことを教育課程がまとまった段階で明らかにしておく必要があると考えて、私はこの五つ目標を示したわけでございます。すべてそうしたものが連動いたしますならば、五十五年、新しい教科書ができた段階におきましては、いまとは相当違った雰囲気の中で子供たち教育を新しい教科書によって受けていくことができる、そして先生方創意工夫も生かされ得るのではないか、また先生方創意工夫というものが存在しないで子供たち自身がみずから考え、行動するということはあり得ないわけでありますから、そういうことを早急に来年から取りかかっていく、そういう考えでこの目標を示したわけでございます。
  7. 三塚博

    三塚委員 今日の教育はいま大臣からお話がありましたように、まさに大学入試への予備校的な性格の中で行われる。小学校有名中学へ、中学教育有名高校へ、そして高校教育はまさに東大をトップとするこれら国立一期校へ集中をする、そのためにただいま御指摘業者テストあるいは塾のはんらん、本来の日本人としてふさわしい国民教育がその面において大きく阻害をされておるという点は、大臣たびたび御指摘のとおりでございます。教育知識を授けることにその基本がありますことは言をまちません。同時に、情操豊かな国民としてりっぱなものをつくり上げていく、そして健康に恵まれたすばらしい体力を持つ国民を養成する、知、徳、体の調和中心として学校教育の究極の目標を立てられておるということは当然であるわけでございますが、今回の審議会まとめの中におきましても、特に過密ダイヤと言われるような教育内容ゆとりのあるもの、学校教育は真に楽しいものだと言えるような環境の中で知、徳、体三者一体とした教育の成果を上げていきたい、こういう提案のように思うのでありますが、これを受けられまして、大臣として、特に教育基本とも言われるこの知識知育という面についてどのように対応されていこうとしておるのか、この点についてお伺いをしてみたいと思います。
  8. 永井道雄

    永井国務大臣 わが国においては知育に偏重して徳育が軽視されておった、あるいは体育が軽視されておったという把握の仕方をされた方々もあるのでありますが、私が思いますのに、わが国においては実は知育というのはさほど重視されてきたのではないのではないか。何があったかというと、受験のための情報詰め込み教育である、まあ言うなれば暗記教育というふうに申してもよろしいのではないかと思います。そこで、本当にやはり自分の力で考え、そしてみずから行動する人間というものを生み出していかなければならない。そこで私は、知育徳育体育調和ということを申しておるのはそういうわけであります。教育課程審議会答申を見ますと、従来よりは時間を削りまして、特に基礎的な学力を重視する。そしてさらにこれが高等学校段階などにまいりますと、共通必修ということで基礎的学力をつけますが、それから後はなるべく個性、そして能力を生かすようなふうにカリキュラムを組んでいくということでありますから、知育というものを考えていきます上でも、従来のように情報詰め込みをするというのではなくて、むしろ考えさせるというところに力点が置かれている。もっと低学年の方で申し上げますと、たとえば国語でございますが、国語などの場合にも、作文、これはずっと戦後軽視をされてまいりました。ただ読んでいるのですが、しかし西田幾多郎先生の言葉に読書考ということがありますが、読んだだけで考え人間はない。読み、かつ書く、その過程において考えるということでありますから、作文教育というと小さなことのようでありますけれども、私は知育上きわめて大事であると思います。さらにまた、この考え方というものは大学入試にどう連動していくかということでありますが、国立大学共通入試では、まず基礎的なことを第一次テストで聞くわけでありますが、これからの課題として二次テストをどのように行っていくかということが重要な問題としてあるわけであります。現在東京大学で小論文というようなことをやっておりますが、私は二次テストについて国立大学協会あるいはそれぞれの国立大学についてもこれからいろいろ考えていかれるところと思いますが、そういうところでも、いわゆる単なる暗記ではなくて、エッセーを書かせるというような形になってまいりますと、本格的な知育ができる。そして知育というのは、どちらかといいますと、余り朝から晩まで勉強していると知育ができない。むしろ余裕があって、そしてスポーツもやる、そうして余裕がある中で関心があるものに集中をいたしていくということであろうと思いますので、私は答申の線に沿いまして、まさにそういう形でわが国知育を強めていきたい。また知育を強めていくためには、たまたまきょうはここには、森、嶋崎両議員がおいでになりますが、業者テストに対して金沢市では学校先生方自分テスト問題をつくるということを努力をしておられるようであります。そういう学校先生方創意工夫というものがありませんで子供の方が考えろと言って考えるはずがないのでありますから、この自由裁量というようなところで先生方がいろいろ工夫をされる、これもまた知育を助けていくものと考えているわけであります。
  9. 三塚博

    三塚委員 大変示唆に富んだ改善への大臣の姿勢をお伺いをして感銘深いものがございます。やはり大学入試というこの壁を正常な姿に、教育の本来の姿に戻すということがわが国基本であろうと思います。そういう意味で、ぜひとも永井大臣在任中、また引き続き在任をされるかと思うのでありますが、その間に完成をしていただきたいと思います。  体育局長に来ていただきましたから、若干さっきのトンガの問題だけを、理事会においていろいろ意見が出ましたものですから、お伺いをさせていただきます。  大臣にもお聞きをいただいて所見がありましたらお話を賜りたいと思うのですが、トンガ王国、小さな国でありますが、これもりっぱな国際社会独立国家であります。ここの元首が日本の伝統である相撲というものに大変関心を寄せられまして、トンガ若者の中から特にすぐれた者ということで六人大日本相撲協会力士として派遣をされ、将来のチャンピオンになるまでがんばれという激励をいただいて、今日営々と努力をされておるわけでありますが、昨日来の報道によりますと、部屋の内紛が原因のようでありますが、それを達成することができ得ないような状態に立ち至ったようであります。人間として、洋の東西を問わず、国籍のいかんを問わず青年の持つ特質、エネルギーというもの、希望というものが達成をされていくことが国際平和への大きな前提であると私も考えるものといたしまして、また国際協調という立場に立って進めていかなければならないわが国平和外交方針、こういうものから問題をとらえてみましても、やはりこのことに理解のある態度を示していかなければならぬのではないだろうかというふうに思います。外的条件によりましてその若者意思が中断をせざるを得ないということは、いかにも人間的に見て残念であります。それと同時に、トンガという国と日本との友好親善、今日の状態から見まして、やはりこれもきわめて残念な事態だというふうに考えるわけであります。  そういう観点から、文部省が実は相撲協会指導官庁に相なっておるわけであります。そういう点からこれを何とかいい方向に、従来のしきたりしきたりとしてあるのでありましょうけれども、特に国際親善、特に両国の関係の中から、本人たち意思が通っていけるような方法がないものであろうかというふうに思うものでありますから、この点について指導官庁としまして何か妙薬と言ってはおかしいのでありますが、いい方法がないものでありましょうかと思います。それと、これを見られて大臣なり体育局長いかがお考えになり、また急なことでありますが、いかに対応しようとしておられるのか、見解をちょっとお伺いをしておきたいと思います。
  10. 安養寺重夫

    安養寺政府委員 お答えいたします。  朝日山部屋所属のいわゆるトンガ出身力士の身柄のことでございますが、結論から申し上げますと、十月の十四日に朝日山親方から協会あてに六人の廃業届がございまして、協会でもこれをずいぶん時間をかけて審議をいたしました結果、受理するというような結論に達したわけでございます。  実は、これのやや以前に、外国人には年寄の名跡を継がせないことにしようではないかというような話がございまして、新聞紙上にも一部当時出たわけでございますが、たまさかそのようなときから外国人力士相撲の国際普及、いろいろそういう観点から体育局といたしまして協会の方に、事柄はきわめて重要である、国技というからにはいよいよ慎重に考えるべきであるというように御相談を申し上げておったわけでございます。年寄名跡引き継ぎのことにつきましてはなお慎重に検討するということになりまして、ペンディングにしてきたわけでございますが、引き続きまして、このトンが力士の問題が十月前から出たわけでございます。昨今の新聞報道による事実は比較的詳細にして間違いのない記事だと私ども見ておりますけれども、協会の方にもいろいろ、いま三塚先生指摘のような経緯がございまして、一応日本力士ということで業、なりわいを立てておるわけでございますから、そういうことは一般の場合とずいぶんと趣を異にするので、十二分に慎重な上にも慎重に対応するように理事長の方にも申してまいったわけでございます。しかし事柄は大変個人的な、デリケートな問題もございましたりいたしまして、原則的な話は私の方でそのように申し上げたわけでございますけれども、具体の処分につきましては、二週間以上もずいぶんと協会理事会の方も対応に時間をかけまして、結果的には最初に申しましたような、昨日廃業届があったということで協会がこれを受理する。そしてきのう話を聞きましたところでは、理事長名でトンガの国王にも事柄の経緯と協会のとった措置についての説明を申し上げるというようなことを申しておりましたので、私どもといたしましてはこの際はこれでやむを得ないではないか、かように了承した。了承というのは言葉はおかしゅうございますが、その結果を見たという次第でございます。
  11. 三塚博

    三塚委員 相撲協会がそういう決定をしたからそれで終わるということにいたしましては、問題がトンガ日本との国際親善関係、さらに青雲の志を抱いて修業中、努力中のこれらトンガ力士の将来について余りにも問題が大きいように考えます。そういう点で、数年前でしたか、当委員会でも相撲協会の問題の改善について議論をされ、特に委員長中心となり、理事会その他におきまして相撲協会理事長を初め役員の皆さんと協議をする、懇談をするというようなことで前進を見た経緯がございます。やはり文教委員長としまして本問題について、体育局長は規定にのっとった形の中で処理をし、受理をし、指導するという厳正中立な公務員の立場でありましょうから、それ以上踏み出てこの問題に入るということがむずかしかろうと考えます。そういう意味で、委員長においてこれの前進について、いわゆるいい方向の解決についてひとつ格段の当委員会として努力をする場があってもいいのではないだろうかというふうにも思うものでありますから、委員長のひとつこれに対する所見なり決意を伺っておきたいと思います。
  12. 登坂重次郎

    登坂委員長 ただいま三塚博君の御発言につきましては、委員長といたしましても同感に存じますので、当理事会においてお諮りいたしまして善処したいと存じます。
  13. 三塚博

    三塚委員 どうぞさように御期待を申し上げておきます。  それでは続きまして教育課程の問題について質疑を続けさせていただきます。  ただいまこれからの教育基本について大臣から方向の指示がございました。教育でありますから、知識を授けることきわめて重要であります。同時に、人間知識のみで生きていくものではございませんで、人間としてあり得べき姿、人間らしい人間、こういうことも教育一つ方向でありましょうし、同時に文部大臣目標の第五番目に掲げられております「二十一世紀の世界に生きる日本人の育成」というこういう観点から見ましても、国際社会において尊敬され、信頼をされる国民像というもの、日本人像というものが義務教育段階においては特に重視をされるべき問題だろうというふうに思います。この取りまとめの中におきましても、道徳教育について項を設け、その方向を示しております。しかし、その中におきまして、特に今後涵養しなければならぬ徳性ということで、自主自律と社会連帯、勤労の尊重、自然愛、人間愛や奉仕の精神、規律と責任、愛国心と国際理解等、さらには、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を育成することを一層重視しなければならない、こういうふうに書かれております。後段の人間の力を超えたものに対する畏敬の念の育成ということは、道徳教育基本であり、全く同感であります。  同時に、この大前提に立って、ただいま言われました徳目、その中で人間愛の中に含まれるのかとは思うのでありますが、私ども日本人として特に、これは世界の人類すべてそうであると思うのでありますが、人間愛の基本は家族愛からスタートをするのではないだろうかというふうに思います。また隣人愛というものからスタートをするものだというふうにも思うのであります。そして、この家族愛という問題が特にこの中に入ってきませんことは、人間愛というカテゴリーの中に包含をしてこれを達成をしていくのだというふうにも読み取れぬことはないのでありますが、特にこのことを申し上げさしていただきますのは、学校、現場における道徳教育は週一時間であります。その中におきまして、親と子の関係が余りにも等閑視され、そのことの教育がなされておらぬような感じを私自身は持つわけでございます。人間存在の基本は親と子であります。そして祖先と自分の関係であります。やがて成人をし、子を産み、自分と子の関係であり、自分と孫の関係、この人間関係が道徳教育基本ということでなければなりません。生命というはかり知れない問題、人間の力を超えた、これはまさにそういうものでありましょうし、こういうものに対する畏敬の念を抱くということは、当然親と子の関係の中においても発揮をされるものだというふうに思います。今日自分がありますのは、あるがゆえにあるのではなくして、親があるがゆえに自分があるのだということになりますと、この親と子の関係というものが家族愛というカテゴリーの中でしっかりと道徳教育基本の中に据えられていかなければならぬというふうに思います。親にふさわしくない親、ロッカーの中に嬰児を投げ捨てていくような親もあります。また、親が子を殺すようなこともあります。子が親を殴打して恥じない社会状況も今日あるわけでございます。このことなどは特異的な一つの現象ではあろうかとは思うのでありますが、やはり基礎教育の中で本問題が人間基本として取り上げられ、教え込まれてまいりますならば、私はこういう現象も少なくなっていく、皆無になっていくのではないかというふうに信ずる者といたしまして、この親と子の関係というものが、特に道徳教育の中の重視をしなければならぬ徳性の中に、人間愛というこの范漠たる表現だけではなく、一つの柱として親子の関係を中心とした家族愛というものがこの中に強調されてまいらなければならないのではないかというふうに思います。戦後三十年にわたる戦後教育のすばらしい発展の中で、欠けておるものは何か、一つを取り出せと私が質問を受けたとすれば、直ちに言い得ることは親子の関係が道徳教育の中で等閑視されておるという事態であろうというふうに私は信じております。  またこういうお話をしますと多くの国民に広い共感を生みます。そういう点で、このことをやはり義務教育低学年、小学校段階において、しっかりとした形の中で身に体得さしていく、人間の力を超えた畏敬の念、これは一つの、神というものに対する畏敬の念にも通ずると思うのでありますが、そのことを凝縮してまいりますと、私は親と子という、この関係に到達するのではないだろうかというふうに思います。医学的、生理学的に見ますと精子と卵子が結合してそうして生命がそこに生まれていくのだという、その科学的な説明だけからは親子の真の愛情、連帯というもの、人間愛というものが生まれてまいりません。こういうものが確立されてこそ初めて隣人愛が生まれ、さらにそれが高められて人間愛がそこに生まれていく。そういう形の中で世界の協調、平和というものがやはり達成をされていくというふうに信ずる者といたしまして、大臣のこの問題に対する見解、そして大きくは道徳教育の今後の、答申にはこのような形で出されておりますけれども、大臣として所見がございましたならばお伺いをしていきたいと思います。
  14. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいま御指摘になりました家族愛の問題は、これは高村先生もいろいろお考えになっている点でありまして、今回のまとめの中には家族愛という形で表現されておりませんが、私が理解いたしますところでは、最終答申には家族愛という形で表現されるものと承っております。家族愛は当然親子もございますが、兄弟もあり、相互に信頼、また愛情の関係があり、またこれが必要であるということはあえて私が申し上げるまでもなくきわめて当然のことであります。しかしこれがしばしば等閑視されるような傾向もございますから、そうしたことは現行の指導要領も触れているところでございますが、今度の答申最終段階にはそれが示されているということになるというわけでございます。  ただ、そこで家族愛あるいは隣人愛、あるいは国に対する愛ということを考えますと、先ほどトンガお話もございましたが、ともすれば二つの落とし穴がありやすいということであります  一つは家族の愛あるいは国の中で国民が愛し合う隣人愛という場合に、連帯というものが強調されますと、この連帯というものがあたかももたれ合いであるかのごとくに考え、そうして自主自律の精神というものを失う結果を生ずるということになると困る、それが一つ。  もう一つは家族も、愛する余り家族エゴということに相なれば困るし、地域の連帯というものも、しばしば地域エゴという形をとりやすい。また愛国というものも、どうも外国の人は困るというようなことに相なりますと、開放性というものをもって真に人間を愛していくというところに参りませんから、その点におきまして高村先生の今回のまとめにおいて自主自律の精神と連帯、さらにまた国際精神ということが強調されているわけでございます。  しかしそれは家族愛というようなものを等閑視してよいということを意味するのではなく、自主自律の精神、連帯また家族愛、そして開放性、そうしたすべての面にわたる調和ある道徳教育を目指す答申というところに落ちつくように議論を進めておられる、かように私は理解をいたしておりますが、私個人の見解といたしましては、そうした教育課程審議会考え方はきわめて妥当なものであると思っております。
  15. 三塚博

    三塚委員 家族愛ということを強調さしていただきましたが、その根底には、私は教育基本というものはその国の長年培われてまいりました伝統、文化、文化の中には宗教も含まれるでありましょうし芸術も含まれるでありましょうし、人間として日本人として当然踏み行うべき道も含まれておると思います。こういう伝統と文化というものを正しく後世に継承していく、そして現代にそのことを花開かしめる、こういうことであろうかというふうに思います。  戦後教育の中で、また戦後社会の中で不足だというものは家族愛、そしてもっと家族愛の中で何なんだということになりますと親と子の関係であります。言うなれば親孝行という言葉がございますが、これはある人からは、余りにも古い言葉であり、このことは家族制度を想起をさせ、家族制度は軍国主義をつくらしめた一つの要因でもあったというような指摘の中に、親孝行ということが現代社会においてもう死語のような形に相なってきております。私は、親が子を養育する過程において示す愛情、信頼、そういうものは理屈抜きに、人間的な関係をより以上高められた親と子の関係、家族という関係の中においてつくり出されるものであるというふうに思います。そういうことから考えますならば、年老いた両親に対し子は十二分の、この年老いた両親が生命を全うし、人間として天寿を全うできるような条件を自己の及ぶ範囲の中でいたすということはまた人間としてきわめて重要な特性の一つであろうというふうに思います。  社会保障制度がだんだん進んでまいりました。わが日本は国家目標一つに福祉国家というものを大きく掲げて進んでおります。やがてこれは北欧三国の福祉レベルに日本のレベルも到達するであろうと思うのであります。このことを考えてみました際に、この北欧三国における老人ホーム、完備をされた社会福祉施設の中で、お年寄りの方が自殺をしていくケースがきわめて多いということがここ数年指摘をされておる問題であります。私どもこれを考えてみますときに、やはり人間というものは物的な環境の中で、完備された中で生きていくことも大事でありますが、それ以上に大事なことは愛情であるということを教えておるものだというふうに思います。特に年老いた御両親といいますかそういう方々は、生きる生きがいというものは高年齢に達しますと、特に家族的な雰囲気といいますか愛情が生命の支えになっていくように思うのであります。そういう点で、社会福祉国家が充実をされていく、その中でやはり同時に強調されなければなりませんことは人間愛であり家族愛であり、そして親子の愛情、そして突き詰めてまいりますならば親孝行というこの概念がきわめて私は大事な特性のように考えておるのでありますが、大臣はどのような考えを持たれておりますか、お聞かせいただきたいと思います。
  16. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいま北欧三国について御指摘がございましたが、アメリカ合衆国などにおきましても毎年の重大社会問題というようなものを学者がまとめますが、そのうちの一つが老人問題、老人の孤独の問題であるということが指摘されましてからすでにおよそ三十年を経ているわけであります。これは核家族化の進行に伴いまして老人を、いわゆる福祉政策で老人ホームというようなところでめんどうを見る、あるいは経済的な裏づけというものを考えるわけでありますが、しかし、いま御指摘のように、そういう形で実は老人のすべての問題が解決するわけではない。生けるしかばねという言葉がございますが、そういうものとしてアメリカの報告書も示しているものが多々ございます。  それはやはり人間というものは、単に物や金で生きるのではなくて、まさに人間として生きるということでございましょうから、そうした意味におきましては、経済的な発展ではおくれをとりましたわが国、また福祉国家をつくっていく点でもおくれをとったわが国といたしまして、前車の過ちを繰り返すことはない。したがって、わが国の経済生活がある程度豊かになったことは結構でありますが、しかし老人という人たちをどのように社会において互いに愛し愛される関係で包含していくかということはきわめて大事なことであろうと思っております。そのように考えますと、核家族化の方向ということだけが、果たして社会の設計として妥当であるかどうか、これは十分に考えなければいけない問題でありますが、学校教育等において、小中の段階で今後一層考えていくべきことは、日本人の年齢も延びてまいりますから、小さいときからそうした家族相互の関係、仮に核家族になって離れているときにもまた離れていても愛情を持ち続けるにはどうしたらよいであろうか。実はこういうことについては、私はどちらかというといま年配で社会で活動している人たちの方が冷淡である、そうして二十以下の人たちの方が新しい事態の中で考えているというふうに理解をいたしております。  また、大学生諸君が読む書物の傾向も非常に変わってきているというようなことを文化史家などから聞きますが、そうしたところにも非常に、人間の知恵というものはあらゆる問題を合理的に解決し得るかのように常に思いがちでありますが、常に新たな問題を生む。御指摘の家族の問題はいわば永遠の問題でありますから、これは教育課程審議会もそのお考えでありましょうが、文部省としても十分注意をしていくべきことであると考えております。
  17. 三塚博

    三塚委員 全く大臣の言われるとおりであります。まあ、当のお年寄りの方々の方が、親の方が、現代の子供はそういう方向に行くのであるから自分自分で老後設計を考えなければならぬ、また国家に、地方自治体にそういう方向づけを要求するという傾向にありますことは、私も同感であります。やはりこのことは現代に生きる者として後継されてまいるわけでございますから、自分たちがそうであっても、その後はどうあってもいいということにはならぬわけでありますので、心していかなければならぬ大変大事な問題であろうというふうに思います。そういう点で家庭教育、社会教育の場におきまして、そういう家族愛に根差した認識というものも、高齢の方々もこれは十二分に御認識をいただくことが大事だというふうに思います。  どうぞぜひともそんな方向で、答申の中に織り込まれるということは大変当を得たことであるのでありますから、具体的にその辺の指導要領において御指導を賜りたいというふうに思います。  そこで最後に、また五番目の「二十一世紀の世界に生きる日本人の育成」ということについてきわめて重要な関連を持ちます問題は、やはり国際連帯、国際協調主義、国際人として世界平和を望みますことは人類ひとしく悲願とするところであります。その前提は、コスモポリタン的でありインターナショナルであるということだけでは問題の解決にはなりません。やはり国家国民としての意識がしっかりとしておるということにおいて他を尊敬していく、他の国家も民族も尊敬していく。自分を尊敬せずして、自分の国を愛せずして国際連帯が成立をいたしません。  そういう観点から申し上げますと、いろいろな教育課程の中で行われてまいるわけでございますが、特に私は今日の現況を見て、徹底を欠くあるいは残念だと思いますのは、国旗、国歌についての指導というものが、これも現場において等閑視をされておるのではないだろうかという懸念を持つ一人であります。そういう点について大臣所見をお伺いをしておきたいのでありますが、指導要領の中には「国民の祝日などにおいて儀式などを行なう場合には、児童に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、「君が代」を齊唱させることが望ましい。」という形の中で行われておるのでありますが、現状はどういうことになっておりますか、お伺いをしたいと思います。
  18. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいまの国旗、君が代のことでございますが、御指摘のようにいまわが国では、従前は国際的な関係というものを重視する考え方というものが非常に弱かったことも事実であります。そうした事柄が戦後、国旗、君が代というようなものに傾斜することが国際人を養成していく上に非常に不適切ではないかという否定論に相なりましたが、これもまたきわめて極端な考えであろうかと思います。  私は、どこの国民もその国に生まれまして、そうして国旗を見、そして君が代のような歌を歌うということは自然に行われるということが望ましい。そこで現行の指導要領におきましても、儀式などの場合には「国旗を掲揚し、「君が代」を齊唱させることが望ましい。」、こういう言い方をいたしております。私は、こういう「望ましい」という言い方が妥当なのではないかと考えておりますが、教育課程審議会の今回のまとめでは、特に国旗、君が代の問題には言及はいたしておりませんが、文部省といたしましては、従前と同じように、国旗、君が代の取り扱いについて、やはり自然に国旗、君が代というものを日本人として掲げ歌う。しかしそのことが排他的なものになったりあるいは強制によって非常にそういう感じを持つというのではなく、むしろ国際的な立場というものと両立するような形で育っていくこと、そのことを望んでいるわけでございます。
  19. 三塚博

    三塚委員 この点については大分大臣考えが私もかけ離れるわけであります。いみじくも国旗、国歌と私は申し上げたのでありますが、君が代、こういうことで表現をされてはおります。このことが、戦後三十年の長い歴史の中で国歌に対する表現の仕方がそういうことであるということが、私は異常であろうというふうにすら思います。フランスの国歌はマルセーエーズということになるし、どこの国でもそれぞれ表題が二つついて国歌ということになります。そういう点からいきますと、日本の君が代は確実に国歌でありますことは間違いはございません。相撲協会の話をしましたが、小さい子供たちは、君が代は相撲協会の歌だ、こういうふうに答えるのが多いのであります。最近はオリンピックの歌だということにもなるようであります。しかしなかなか日章旗が数少くしか上がりませんから、やはり相撲協会の歌だという方が多いようであります。(「ボクシングだ」と呼ぶ者あり)ボクシングという話も出ましたが、これは世界選手権試合に斉唱されます。そうしますと、あれはボクシングの歌だ、こういうことにもなるようであります。私は、これはきわめて遺憾なことであろうというふうに思います。教育の現場において、祝日等の儀式において国旗も掲揚しなければ、国歌はもちろん歌わないところがあります。やはり「望ましい」という表現が指導要領が出されたときの時点からの表現でありますから、それはそれとしても、指導方向の中ではやはりこのことを取り上げていくようにしなければなりませんし、これはきっちりと指導の中で位置づけをされていきませんと、自分の国の国歌もわからぬ国民国際協調ということにはなりません。自分の国の国旗というものに対する尊厳を持たぬ人が国際協調の中で国際人として、私は、とても信頼と尊敬を受けることにはならぬと思います。長崎事件に象徴される逆さづりの国旗掲揚、いわゆる国旗というものはその国家をあらわしておるし、国歌というものはまたその国を、国民を、民族をあらわしておるものだということになるわけでありますので、やはりこの点については、文部当局におかれましてももっと前向きに進められる時期だろうと思います。何も国歌が、君が代が大東亜戦争を起こしたわけでもございません。軍国主義を強調したわけでもないわけであります。国として当然あるべき要件の基本的なものとしてこれが存在するというふうに思うものでありますから、そういう点で、ぜひとも御決意をして指導いただきたいと思います。その点について、ひとつ大臣の再度の答弁をお願い申し上げておきます。
  20. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいま御指摘にありました相撲の歌ということでありますが、私はいま調査資料を持っておりませんけれども、まず、日の丸が国の旗である、そしてそれを自然に掲げているというパーセンテージは非常に高いのです。また、君が代でございますが、君が代を相撲の歌とかそういうふうにとっている人は非常に少ない、そうしてこれは日本の国の歌である、これもパーセンテージは非常に高くて、六〇%、七〇%が自然に歌っているという状況でございます。  そこで、私はいまたまたま君が代と申しておりますのは、君が代は法令化された国歌ということでいま取り上げられておりませんから、君が代と申しているわけでありますが、国民の自然なる感情においては、御指摘のように多くの人々が日本の歌であると思って歌っている。私は、わが国の人々が戦争というものがあり、その後いろいろなことを体験しながら、みずからそうした方向に向かってきつつあるものと、文部省も協力をして、そうしてさらに文部省がその線に沿って新しい方向を示していくというような活動の仕方が妥当である、かように考えて、「望ましい」という現在の政策というものの意味合いを申し上げたわけでございます。
  21. 三塚博

    三塚委員 一生懸命、ぼくらも国民運動を展開しまして、これは非常に圧倒的な国民の意見を代表して申し上げさせていただいたわけでありまして、ぜひとも今後、大臣以下文部省におかれましては、その方向を強められてきっちりと確立されますように御要望を申し上げまして、質問を終わります。ありがとうございました。
  22. 登坂重次郎

    登坂委員長 次に、山中吾郎君。
  23. 山中吾郎

    山中(吾)委員 私は、十八年間議員生活をいたしておる間に、文教政策を軸として国政に献身をしてきたつもりであります。今回、議員生活を近いうちに去るに当たりまして、文教委員会理事の皆さんの御理解をいただきまして、この席上で最後の質問の機会を与えられましたことを感謝いたしております。(拍手)  永井文部大臣も三木内閣と運命を共にされる立場であると思いますので、この臨時国会が最後になるのではないか、これは憶測でありますが、そうでないことを望みますが、そういう立場も考えて、私も率直に所信を明らかにいたしたいし、質問いたしますので、永井文部大臣も本音とたてまえを分けないで、率直に日本の今後の教育の位置づけのために御答弁をいただきたいと思うのであります。  私の長い議員生活十八年を顧みて、いまなお国政の中における国民教育の位置づけが確立されていないと私は思っておるのであります。絶えず動揺しておることは、ある意味においては非常に残念であり、国会議員の一員として責任を感じております。終戦直後、新しい日本再建を目指しての当時の教育方針は、私の記憶から言えば、朝鮮事変以来、安保条約締結以来狂い始めて、同じ政権のもとにおける教育方針の変化とは考えられないほど変質されておると私は思うのであります。この認識が間違っておれば訂正をしてください。そしてしばしばその時折に文部省から教育方針にかかわるいろいろな発表がございました。たとえば期待される人間像あるいは中教審の答申、今回の教育課程の改革、それぞれ私は部分的、技術的には是認する点もないとは申しません。しかし、全体としての日本教育改革の方向感覚においては定かなるものはこの中に見出せない。いかなる政権ができましても、国政の中における国民教育の位置づけはこのまま安定しないのではないかというのが私の心配するところであります。こういうことを考えまして、永井文部大臣は、三木内閣ができた二年前、目玉商品と称されて国民の大きな期待を政党人でない学者文部大臣に期待をして就任をされました。私もまた学者文部大臣に大きな期待を持ちましたし、またその期待するところは、個々の教育政策でなくて、大きく国政の中の国民教育の位置づけに期待をしてきたのであります。就任以来のそういうことの期待から言いますと、必ずしも私は期待どおりにはなっていない、ある意味においては失望いたしております。永井文部大臣文部大臣の職を去った後に何が残るであろうか、主任制問題だけが残るのでは余りにも永井文部大臣の存在価値が少ないのではないかと思うのであります。私は、国会議員に出る前には地方教育行政の第一線にあって、終戦直後、六・三制施行に情熱を傾けました。そして憲法、教育基本法体制に日本の将来をかけて、教育立国を信じて実は努力した人間の一人であります。  そういうことを考えて、いま私の若干の感想を申し上げたのでありますが、国会議員になった後、その後の国政の推移は決して憲法、教育基本法体制が実っておると私は思っておりません。逆に空洞化されておる、そして教育は荒廃しつつある、こういうふうに感じておるわけでございます。永井文部大臣の著書、論文は大抵私は読んでおります。そうして大いに共鳴するところがあり、私の教育思想と非常に深い関係があるように思っておるのでありますが、大臣が就任をいたしましてからは、どうも共鳴するところが実現しないのでまことに遺憾に思うのであります。そういうことを考えまして、終戦直後の日本再建の意気に燃えたあの教育方針、そういうものに戻す役割りを、当時の教育方針は学者文部大臣がしたのであるから、久しぶりにできた学者文部大臣によって初心に返るという方向になってもらいたいということがいまなお私の念願であります。これが私の現在の所感であります。この点について文部大臣就任二カ年、顧みて永井文部大臣の率直な感想をまずお聞きしておきたいと思うのであります。
  24. 永井道雄

    永井国務大臣 山中吾郎議員は私が文部大臣に就任いたします前から存じ上げておりまして、とりわけ議員として教育のために御活動になっているということに敬意を抱いておりました。今回立候補をされないことを御決意になり、ただいま質問をいただきますことは、私にとってまことに光栄であります。また、過去十八年と記憶いたしておりますが、議員生活を通して公正なる立場で教育に臨もうと御努力になった御業績に対して、心から敬意を表する次第であります。  選挙も間もなくありますが、そして私に選挙に立候補してはどうかということをおすすめいただいた方々の数はきわめて多いのでありますが、就任以来今日に至るまで、立候補を考えたことはございません。それは何であるかといいますと、立候補することは容易でありますけれども、わが国教育を守ってまいりますためには、いまだにわが政界におきましては教育を政争の中にともすれば巻き込む勢いもありますから、私は微力でありますけれども、就任のときに総理大臣がその方針のもとに私を採用され、私も約束をいたしました事柄を守って、立候補をいたさないわけでございます。さような立場にある者として御答弁申し上げます。まず、就任以来幾つかのことを考えましたが、一つの問題は、なるほど終戦直後の日本に戻せということでありましょうが、しかし大事な問題は、終戦直後の日本というものはいろいろな形の民主的教育、そうしたものが生まれてきたわけでありますが、率直にわれわれが認めなければならないのは、日本人自身の力によって築いたのではない、そうでない部分が多々あるということであります。そして、やがて冷戦状況というものに入りまして、わが国の政治は、ときには過度にこの冷戦状況を反映し、これが教育界に投影いたしました。他方、社会がいわゆる管理社会的方向に向かっていくにつれて、管理強化、管理反対という、そうした事柄も教育界にきわめて大きな影を投げたと考えております。それが、おおよそ教育というものが政争に巻き込まれやすくなった重要な理由であると考えます。  過去二カ年を顧みまして、私は満足をいたしておるかと申しますと満足はいたしておりません。つまり私の仕事に満足をいたしておらないのでございます。しかし、他面歴史の形成というものは長い年月を要するものであり、文部大臣の仕事というものも、いわば長距離レースを駅伝競走のごとく走っていく人間が、確実に次にバトンを渡していく、そうした仕事であると理解せざるを得ないのであります。  御指摘のごとく、主任の問題につきましては相当の衝突がありました。そうした結果に相なったことは決して私の望むところではありませんでした。これも初めにお約束申し上げましたように、私は、そうした際に野党を攻撃いたしません、むしろ、みずからの力の足りないことを反省いたすでありましょうと申し上げましたが、今日その言葉を繰り返すことにいたします。  しかし、OECDの報告書も指摘いたしておりますように、わが国の社会における集団の閉鎖性というのは、単に自民党、日教組、社会党などにとどまるものではないように考えます。たとえば大学教授と学生の間、あるいは大学文部省との間、これらも例示されているところでありますが、いろいろな意味での集団的閉鎖性、これが政治的状況に助けられて、政治的でない率直な応答というものが集団を越えて行われにくい社会であるということを認めざるを得ないわけであります。  それにしてはこの二年間、主任制の衝突はございましたけれども、たとえばこの国会においていろいろ率直なる御批判を賜って また私はそれに対して答弁を申し上げました。そして意見の対立というものはきわめて大事であります。この委員会において行われたがごとき討論というものがもっと広く社会において行われることができたのであればなおよかった、かように考えておりますから、そうした意味合いにおいては、主任制の問題というものも、あるところへついていく一里塚としての争いであった、かように考えている次第でございます。  さらに、実は主任制も何をねらったかと言えば、私は、管理強化と管理反対ということではなくて、この方は四、五日前に亡くなった東京都三鷹市立四中の先生であった遠藤さんという方でありますが、「出会いの教育」というものを停年の後に書かれて亡くなりました。先生は校長になられても、後、ともすれば管理職に傾斜しやすいが、校長は引き続き教育指導をしていくものだ、そして自分はそれをやり続けてきたことは満足であるということを書かれて、そして私はお返事を差し上、けたのですが、奥様から亡くなったというお知らせがありました。  私は、主任というものが教育指導に当たっていく、そのことから、きっかけに望んでおりますのは、校長、教頭も管理は大事でございますが、同時に、教育者としての指導者、そうしたものにもう一度一層の活力を生かしていただきたい、かように考えたわけでございます まあ衝突以来しばしの時日を経ます間に、いろいろな議論がゆっくりと起こってきているようでございますから、私はまだ一里塚にいるという感を持っておりますので、この問題については、この職にあると去るとにかかわらず努力を続けたいと考えております。  ただ、主任の問題というものも、帰するところ、わが国の教員養成というものを考えた場合に、いまのもので十分か、もっと現職教育というものを十分にやっていくべきではなかろうかという問題と関連をいたしております。つまり教師の力量を高めていくということと関連をいたしております。そしてそのことは、恐らくわが国教育界の最大問題であるいわゆる試験地獄と関係しているというのが、この二年間私が痛感をいたしてまいったことであります。  したがいまして、この二年間、最も努力をいたしましたことは幾つかありますが、その一つ、重要なのは試験地獄の解消ということでございました。解消というよりは緩和であります。そして、四頭立ての馬車という言葉を創案いたしましたが、幸いにこの二年間に、大学入試制度は五十四年から発足することと相なり、また大学の形態というものも、国公私、財政的な政策の変化に伴って相当の構造変化というものを予想し得る政策をつくり上げる段階に到達することができたのは、もちろん私個人の力によるよりも、議員の方々また役所の人々の協力によるところきわめて大であると感謝をいたしている次第でございます。  さらに第三番目の馬は教育課程、しかしこの教育課程も、先ほど三塚先生に申し上げましたように課程だけ変わり、教科書が変わればよくなるというものではございませんから、やはり先生方教育指導そして教育、さらにまた教育評価がどう変わっていくかというようなことに関連する大きな問題でありますから、こうした政策はまだ足りないものがあって、一層進めていかなければならないと思いますが、まず過去二年を顧みて、やっとこの四頭立ての馬車の三頭の馬を並べることができる段階に到達することができた、あとはこれが走ってくれれば相当の変化は起こり得る。ただし、明年からどうなる、明後年からどうなるというほど簡単ではないと思います。  わが国の民主主義を建設いたしてまいりますのは、いまや占領軍ではなくわれわれでございますから、われわれが連帯し、力を合わせていかない限りできないものと思います。そしてその基本的な前提としては、政党はたくさんあるわけでございますから、意見が異なり鋭く対立するということはきわめて当然であると私は考えます。しかし、でき得る限りそうした対立というものも、教育の現場における問題に即して対立していくということで進んでまいりますならば、私はむしろ対立から実りのある成果が生まれてくるはずであるというふうに考えておりますし、そうした意味において過去の二年間というものは、私にとって顧みて空白なる感があるというのではなく、やはりこうした歴史の動きの中で、私程度の力を持つ人間というものが体験し得るものを体験した、しかし、主観的には、私としては国民教育にお役に立ちたいと考えながら生きてきた、なお不満なる点は多々残っている、これが偽らざる心境でございます。
  25. 山中吾郎

    山中(吾)委員 大臣の理性的な、識見の含んだ御答弁に敬意を表します。  そこで、いま主任のことに触れられたので、具体的に質問を続けたいのでありますが、私もこの機会に一言だけ見解を申し上げておきたいと思うのであります。  大臣の、学校という社会の中に管理体制をなるたけ少なくして、指導体制を持ってくるという識見に私は賛成であります。教育を目的とした学校社会に権力は無用である、指導力、教育力に基づいた権威が学校社会の秩序の原理でなければならぬので、力の権力、管理というものはこういう社会に入れるべきでない、それを、管理職とかいうふうなものを後へ後へと入れていく政策は間違いである、私もそういう識見のもとに物を批判しておるのでありまして、教師仲間の中、あるいは学校全体の中に指導というものは必要であり、それを持ってくることは私は賛成であります。しかし、給与の問題からこの問題が入ってきたところに誤りがあると私は思っておるのであります。戦前の日本学校においては、師範学校の卒業生が教師になり、先輩後輩の関係によって指導体制がおのずからできて、手当があるかないかによって指導の意欲が少なくなったり多くなったりするような伝統でなくて、日本独特の、先輩後輩あるいは経験の多い者、少ない者の中に、教育を目指す同志という形の中ですばらしい指導体制があったと信じておるのであります。そこに、手当を条件としてこの指導制度を変質していこうという傾向があるとすればまことに遺憾であり、残念に思っておるのであります。手当のない指導体制、主任体制、それが一番望ましいというのが私の見解でありますので、この機会に私の見解も申し述べておきたいと思うのであります。したがいまして、これが教員養成制度のあり方に結びついてくるのでありますが、後で時間があれば、なお教員養成のことについて具体的に大臣の御意見を聞きたいと思います。  それで、私は、政治と教育との関係についてずばり御見解を聞きたい。  現在国政の中における国民教育の位置づけが不安定のままにあるということは、政治と教育の関係について、政党間において確たる考え方が定まっていないからだと私は信じておるのでありますが、まず第一に、国家と教育の関係はどのように考えておられるのか、第二に政党と教育の関係はいかにあるべきかという二点についてお聞きしたいと思うのであります。前者は国家観の問題であり、憲法と教育の関係の問題であると思いますし、後者の方は教育の自主性、教育行政のあり方の問題であろうと思います。この点について明確な合意がないために、エネルギーの浪費もあれば、また必要以上の対立、矛盾が出ておると私は思っております。  国家と教育の関係について、御意見を聞くだけでは無責任でありますから、私も申し上げます。  私は、国家の本質が支配階級の被支配階級に対する搾取機構であると決めつける国家観からは、国民教育は全部否定せざるを得ない。私はそう思っておりません。私は、国家というものは、支配階級のための国家から人民共同体に、搾取のない自由な共同体に進化させることのできるものである。国家を肯定をして、国家が発展させるものであると思うのであって、その中に、国民教育の必要性、社会の継続性を維持する一つの社会的機能として存在すると思っております。この点について、文部大臣の国家観といいますか、国家と国民教育の関係を学者の立場で率直にお答えください。  それから同時に、国家と教育の問題は、具体的には憲法の規定する国家の理念と国民教育の関係だと思うのでありまして、現実には国民の合意に基づいた、いわゆる憲法と教育基本法体制ができておるのでありますが、この憲法と教育基本法体制を高く評価をして、このもとに、これからの国政の中における教育の位置づけを私はすべきであると思う。これも文部大臣の御意見をお聞きいたしたい。
  26. 永井道雄

    永井国務大臣 まず法制上申し上げますならば、わが国の国家のあり方は憲法によって定められているわけであります。そして憲法が規定しております最も基本的な原則ないし理念というべきものは平和国家ということであり、さらに国民基本的人権の尊重ということであろうかと思います。もちろん、その他にいろいろの重要な問題をはらんでおりますが、それが基本的な原則であろうと思います。教育基本法というものは、直接教育というものを規定していく上での原則でありますが、この教育基本法におきましても、私は、たとえば政治的な介入によってあるいは圧力によって教育行政が左右されることのないように、ということは、対立する諸集団というものはありましょうけれども、国民というものに直接責任を負う、すなわちその意味において直接責任を負い得る国民という全体が存在するという法的考え方があり、それに行政が対応すべきものであるという考え方であろうと理解をいたしております。  しかしながら、実態について言うならば、果たして国民はあるのかという議論はございましょう。国民というものもしょせんは二つの階級であって、支配と搾取、そしてそれに対する被支配と被搾取、この階級の対立であるという把握の仕方もあるわけでありますが、実態に即して考えました場合に、それは部分的になお多くの問題をはらんでいる支配が行なわれていることはありますが、わが国も自由経済下にありまして相当の変貌を遂げ、いわゆるニューミドルクラスという言葉も表現しているとおり、たとえば労使の関係におきましても正当なる交渉が行なわれる、そうした形で国民国家というものが実態的に形成されつつあり、また形成されてきた、それをまたさらに推進しなければならない、そういうものであろうと理解しているわけでございます。  そして第三点、政治との関係でございますが、さてそういう国民というものがあり、さらに平和と人権という二原則を持つ憲法というものに基づいて、本当に国民の中に人権に目覚め、平和を実現していくような教育ということを行っていくことがわれわれの願望でございますから、これについて、その実現の仕方につきまして政治の世界においてはいろいろな考え方方法があろうかと思います。しかしその政治のいろいろなあり方というものについて教育の場ないしは学問の場というようなものは、これを政治とは違う立場においてさらに検討し、そして配慮しながら次の社会をつくっていく。そうした意味においては政治に対して批判的な立場をとるという意味合いのものでございますから、私は、政党というものが教育問題を論じていかれることは当然でございますが、しかしその場合に教育をたとえば政治の道具とする、あるいは手段とするというような考え方をとることは妥当ではなく、むしろ各政党ともに教育というものは政治から一歩離れた一つの社会的な人間の営みであって、そこで行われる事柄についてはそこの自律性ないしは自主性を尊重するという方向に動いていくことが最も望ましい、かように考えているわけでございます。
  27. 山中吾郎

    山中(吾)委員 文部大臣の率直な御答弁でありますので、私も理解が十分できるわけであります。  私は、本来政治と教育は深い関係があると思っている。ただし政党と教育の関係は、政党的立場において教育を支配すべきでない。そこにやはり文部大臣は政党員でない者が妥当であるのではないかという世論もあり、また終戦後数代政党員でない文部大臣が吉田首相のもとに任命され、今度三木首相の良識に基づいて永井文部大臣が実現をした。国民はこれに対して拍手をしてこれを迎えておる。そこに政党と教育の関係についての国民考え方というものが出ておるのではないか。仮に政党員が文部大臣になったとき、私は在職中は無所属に戻るべきであるという考えでありますけれども、そういう形式論は別にしても、少なくとも政党と教育の関係というものは、政党は自粛をすべきであり、そのことが政治と教育は無関係であるという間違いを起こしておってはなおまたいけないと思っておるのであります。  飛鳥田横浜市長が新聞で発表しておりましたが、老人のバス料金の無料制度をとった。ところが電車に乗ってみると、老人がつり革にすがってふうふう息を吹いておる。若い者は座席であぐらをかいておる。老人の無料制度というのは何のためにあるかということを考えて、福祉政策に疑問を持ったということを発表しておりましたが、こういう政治政策に対して、この政治政策を支える国民の価値観の形成、いわゆるそれは教育政策によるしかないのでありますが、これが伴わない限りにおいては魂のない福祉社会になる。現在の憲法の理念に基づいて福祉国家の建設というものが各政党の当然の課題になっておるわけでございますが、これを支える社会連帯の意識、個人主義のエゴを超えたそういう新しい価値観の形成に向かう教育政策が伴わなければ、政治は右に走り、教育は左に走っておるようなものであって、そこには魂のない政策だけが残ると思うのであります。そういう具体的なことを考えて、私は、政治政策教育政策は別々と考えることは間違いだと思うのです。  国家に平和の理念を掲げたならば、やはり戦争は犯罪であるというような平和の思想教育がない限りにおいては、私は国家政策に大変な矛盾が出る、憲法に主権在民を説いて人間平等、人格の尊厳を説いておる、そして君主制を否定したならば、それに応じたやはり国民教育がなければ非常な悲劇を生むということを思うのでありまして、この点については、明確に私は政治と教育というものは、いわゆる立法に基づいて強制力で一つの社会制度をつくっていく政治と、それを支えていく、自発的に協力する価値観の形成としての教育政策は車の両輪のごとくであるべきだと思うのであって、これまで別々にするということは間違いではないか。私はそういう意味において、政治を批判するより、文部省教育政策は、憲法の理念に沿う普遍的真理と確信をしておる。人類が常識と考えておる平和と民主主義に、そこから出てくる政治政策に協力する教育は堂々ともっと大胆にやってしかるべきである。しかし、政党の党利党略の中に入れば、私はその弊害はまた大変なものになると思うので、この辺は明確にすべきではないか。そうして国政の中に教育政策の位置づけを正確にすべきであると思うのでありますが、永井文部大臣所見をお聞きいたします。
  28. 永井道雄

    永井国務大臣 私は、教育というものが政治とは違うということを政治の世界の方々にも御理解願いたいと申しましたが、その場合、完全に政治と教育が別個の世界であるかというと、そうではない側面を持つと思います。  たとえば教育の社会における条件の整備というふうな問題を取り上げます場合、これは国会における御審議を経た法律が制定される、それに基づてたとえば私学振興法というようなものができるわけでございますから、そうした意味合いにおいて、その私学振興法のつくり方についていろいろ各政党が意見を闘わす、それがまた文部行政を基本的に規定するという限りにおきましては、私は完全に教育が政治から独立しているのではなくて、相対的な独立であろうと思います。  しかし、とりわけ教育内容に入って討論を進めてまいります場合には、政党というものもこれにいろいろ意見がございましょうが、しかしその意見というものはでき得る限り相対化していただくことができるならば、教育の世界の中で自律的にその相対化された意見と見解というものを冷静に検討していくことが可能になるのではないかと思います。  より具体的に申し上げますと、憲法も当然示していることでありますが、わが国国民の中に平和の願望というものを一層強めることはきわめて重要であります。  しかしこの平和の願望を実現していくということが大事でありますが、それについて政治家はさまざまな意見を持ちます。たとえばある種の政治家は絶対に安保条約を守り続けて、そうして、しばらく前の話でございますが、中華人民共和国とは国交を結ばないということが平和の実現に役立つという見解をとります。また他の政治家は、朝鮮民主主義人民共和国との国交回復こそ平和への道であって、むしろ大韓民国はこれを非難することが平和への道である。私は、各政党に属される方々が平和実現の政策というものをお考えになりいろいろこれを展開されることは、自由なる社会において全く当然であると考えますが、教育がそれとどこが違うかと申し上げますと、そうした考え方がある場合に、そのいずれをも絶対化しない、そして教育の世界においてはそれを検討させていただくという考え方に立つのでございます。そしてまた、立つことが望ましいと私は考えております。  しかし、わが国の問題というのは、ともすれば教育の世界の中にそうした見解を持ち込むときにきわめて性急であって、そして自分考えるがごとく子供考えよというふうに思いがちでございますが、それは子供を過小評価している考え方である。子供というのには大人以上の潜在性があり、また未来があるわけであり、そこに教育の場面があるわけでありますから、いま申し上げたような意味において、相対的独立というのは、私が具体例を挙げたことでおわかりいただけますように、いろいろな条件整備についてはきわめて政治の活動というものが重要であるけれども、内容にわたってはいろいろな政治集団が持つ政策をただそのものとして教育に伝えていくということはむずかしい。  ただ、ここで小中高あるいは大学、それぞれの段階においてこうしたものをどのように消化していくかという教育方法の問題があろうかと思います。実は、たとえばロッキード事件についてもっと文部省が現場を指導して教育をしたらどうかというような御質問も数回受けたわけでございますが、たとえば小学生に外為法というようなものを説明したり、あるいは政治資金というようなものを説明してもなかなかむずかしい。そこで現段階においては高等学校においてこれを行っております。そこで、それでは小中ではどういうことを考えるか。そうすると、やはり清潔な政治が望ましい、あるいはなるべく人間はさまざまな努力をして戦争を避けなければならない、それについて大人が激情に走る余り自己を絶対化することがあるけれども、しかし同時に理性的であるということが将来の日本のあり方である、かようなことは小中の段階において教えることはできる。大学に参りますならば、より一層自由にさまざまな立場を批判的に検討できる。そうした年齢別の違いというものはまたそこで入ってまいりますが、大局的に申しますならば、相対的独立と私が申し上げましたのが原則である、かように考えております。
  29. 山中吾郎

    山中(吾)委員 お聞きしておきます。  私は具体的に永井文部大臣の著書を引例しながら質問を進めたいと思うのですが、文部大臣のいろいろの著書の中に大胆な提案がございますし、教育改革の方向についての御意見があるのでありまして、具体的に御質問をしておきたいと思うのであります。これも、私の目的は国政の中における教育の位置づけを明確にしたいがための質問であります。  文部大臣は、今日の教育は荒廃をしておる、改革すべきであるという認識の上に立っておられるようでありますが、私もこの点についてはそう思っておるのであります。たとえば、第一、文部省と日教組の対立の中に教育の本質論を論ずる余地がなくて、むしろその対立の中に教育が埋没しておるのではないかという一つの悩みがありますし、また、第二に、受験体制の中から六・三・三制、いわゆる小、中、高全体が教育不在になってしまった。第三に、マンモス大学あるいは施設設備の不備、教授能力の低下から大学が荒廃をしておる。第四に、幼稚園も、厚生省の保育所、文部省の幼稚園、そういう二元的な制度のままにあって、幼児教育体系というものはいまなお確立されていない。こういうふうなことから現在の日本教育の現状というものはこのままでいいということでは済まされない。この点について改革の方向を見定めて着手すべきだという文部大臣の御意見が著書の中にあります。  それを一、二具体的に著書の引例の中からお聞きしておきたいと思うのでありますが、「近代化と教育」という文部大臣の著書の二百七ページにこういう文章がございます。  日本教職員組合と文部省の対決がくり返され、前者は社会主義の実現、後者は現行の権力機構の維持のために戦った。けれども、それは教育内容をめぐる対立であるよりも、教育の場をかりた政争であった。いくたびかの争いののち、文部省は次第にその力を強め、中央集権化に成功した。与党と政府と財界の三位一体の権力機構が教育界の大きな部分を左右する力をもったのである。ただ、その場合に、この強力な権力機構が、実はなに一つ長期的な教育政策をもっていなかったことを注目すべきである。学校教育の拡張を放任したが、そこに生じた大学の混乱、受験準備教育など、深刻な問題にはなに一つ本格的にとりくまなかった。今日でさえ新しい抜本的政策が樹立される可能性がはたしてあるのか。私は、日本の未来を思い深い疑いをもたざるをえない。今日の日本に、きめられた政策を忠実に執行する行政、またときには硬化しがちな官僚主義はあるが、根本的な意味において、国家の方向を左右する政治が欠けているからである。高い識見であり、私も一〇〇%共鳴するのでありますが、永井文部大臣自分一つの学者的思想に基づいて出版をされた。これは初版は一九六九年でありますから、この基本的思想は学者的良心としてはお変わりないと思いますが、現在もこの認識について基本的にお認めになり、これに基づいて日本教育改革を考えるべきだとお考えになっておられるか、お聞きしておきたいと思います。
  30. 永井道雄

    永井国務大臣 いまの本は一九六九年に出た本でありまして、私は基本的にその考えでございます。政、財、官の癒着があったということは、教育よりもロッキード事件が明らかに示していることでございますから、これは余り議論の余地もないことと思います。教育の場合にはそうしたお金を財界からもらってどうこうというようなことはないのでありますけれども、やはりわが国において一つの問題は、野党も責任政党として成長してくるということがきわめて乏しかったという事実があり、その結果与党が長く政権を持つことと相なりました。これはわが国とメキシコの特色でございますが、自由国の中で大変例外的なものだと思います。そうした状況の中で私はなるべく公平に文教行政を進めたいという考えで就任をいたしました。そしてその後努力をいたしておりますことは、御承知のようにたとえば選挙に出ないというのは何であるか、それは私が政党から独立した人間として生き続けたいという願望を持つからであります。そしてそれは教育行政にふさわしい、かように考えるからであります。  また長期計画の問題につきましてはその本以後むしろ文部省に相当クレジットを上げてよいような変化があったと思われます。その最もすぐれているものは高等教育関係において高等教育懇談会を中心にした長期計画がいろいろと生まれてきた。ただその転機は大学紛争であって六九年というのは大学紛争が盛んであった時期でありまして、そうした紛争が起こった後で非常に盛んになったということであります。ですからその点では長期計画が全くないというそこの部分は修正させていただきたいと思います。  なお小中につきましてはこの教育課程審議会がその一つでありますしそうしたものとして従来とは違った政策が出てきているように考えます。  さらに中央集権と地方の問題でありますが、これは教職員組合の場合にもともすれば中央集権化しやすい性格を持っているという形で、文部省の方だけではなくて組合の方も中央集権的になっている。そして衝突をしたりするということはございますから、これをなお地方を非常に尊重するという方向に移していくことは口ではいろいろ言いますけれども、事実上はかなりむずかしい問題を含んでいると思います。しかしそうであるにもかかわらず、でき得る限りそれをやりたいというのが私の考えでありますから、たとえば本年度に入りましてからの初中局の活動というようなものも教育の評価あるいは業者テスト、それからそれに対する対応というのも、まず文部省方針を打ち出すよりも各地方の教育委員会でデータを集めて地域でどういうふうに対応しているのかという知恵を中央に結集してそれを中央の政策としてまたまとめ上げていくという方向で動き出しているわけでありまして、まず組合などにおいてももう少し地方分権の方向が進みますならば、この点は非常にやりやすくなってくる。一方の文部省だけを変えるということはちょっとむずかしい、さように考えております。
  31. 山中吾郎

    山中(吾)委員 自民党三木内閣の文部大臣としての御意見でありますのでここに国政の中の教育のあり方というものが一つの見解として出ておるので、これは記録にとどめたいものであると思っておるわけであります。  その次に「三つの問題点」として国民の参加による教育政策という点が育っていない。そこで「教育改善の担当者は誰か」というNHKの世論調査を例に出されて日本教育政策を立てておるのは、文部省が三八・一%、会社・官庁が九・九%、官僚と財界で四〇%が大体日本教育政策を立てるというアンケートの回答がある。これを批判されて、もっと国民による教育政策の樹立を必要とするという見解を出しておられます。私もまたそういう方向に持っていくべきであると思いますが、その後で「日教組の「教育研究集会」も、新しい試みとして注目に値する。」一つの評価をされておられる。これについても偏見を持たないで、全国の教師集団、この教師の集団の中から教育政策研究の集会ができたことについてむしろそれを評価し歓迎すべきであると思うのであり、文部大臣もそうお考えになっておる。ところが、かつて教育研究集会に永井文部大臣は招待を受けたが出席されなかった。ここに政党と政党内閣の文部大臣の限界をお考えになっておるのか、あるいは別のお考えがあってのことかお聞きしたいと思うのであります。
  32. 永井道雄

    永井国務大臣 まず教研集会に最初にお招きをいただきましたときに出席をしなかったことは事実でございます。どうしてそうかと言いますと、それまでまだ槙枝委員長とも個人的というか公式の話し合いというものもやっていなかった段階でございます。そこで私が教育の相対的独立ということを申し上げたのはそういう意味合いでありまして、三木内閣が自民党内閣であるということは否定すべからざる事実でありますから、私としては十分に自民党の人たちとも話し合いまして、対話と協調はそこでも必要でありました、そうして御理解を得るということが大事であると考えました。幸いにこの教育研究集会の後にいろいろな方々に、私は槇枝委員長と話し合うということについて御協力をいただいた。この部屋におられる方々も全くそうでございますが、そうした御理解のもとに進んだわけであります。私はそういう意味合いで教育研究集会というものが持っている意味も、これを絶対化するのでなければいまも尊重いたしておりますから、たとえば教育課程審議会には繰り返しその中心になっておられる梅根悟教授に、この考えを絶対化するというのではなく、やはり反映させるべく御出席をいただいてきているわけでございます。
  33. 山中吾郎

    山中(吾)委員 そういう下からの努力について問題点としてなおこういう御見解を発表されております。  政府が与党と癒着して政治への教育の依存を深めたのと対応して、下からの教育運動も、教育の独立をはかるよりも、しばしば与党に対抗する野党の政治と結合した。日教組にはとくにその色がこかった。大学改革をめぐる学生運動にも多くの場合その体質がある。たしかに国民国家としての日本が本格的に自立しているのではなく、国際政治の緊張を反映していることが、教育における政治主義を強める一因である。それにしても、与党・野党のいずれも、日本の存立の危機を自覚し、教育の場面において政治的に禁欲する努力を欠いたことは否定できない。」政党人でない永井文部大臣の面目躍如たるものがあるわけですが、「それぞれの教育の現場や家庭での努力はあったが、包括的・長期的な教育計画政策が、教育の関係者、また国民の立場からもりあがらなかった。」これは手前みそで、ちょうど書いてあるから読みますが、「山中吾郎氏が起案した社会党の「学制改革基本構想第一次草案」などは、例外の一つである。しかし、この場合にも、この草案を国民とともに検討し、改善してゆくうえで、社会党自体が意欲を欠いている。」社会党批判も受けておるのでありますが、これも率直に認めざるを得ないと思うのであります。  こういう考え方を前提として永井文部大臣一つの提案をされております。それは  教育の社会化と社会の教育化という両輪がとも  に回転する社会において、はじめて、国民の下  からの教育建設は発展をとげる。その名は国民  教育会議でも教育の広場でもよい。孤立した教  師たちだけではなく、教育関心をもつ社会人、  学生の協力と参加をえた組織が一つでも生れる  ことが望ましい。そのときはじめて、日本人の  一人一人の教育努力が、国民的な力として結  集するであろう。政府の審議会は、本来、この  ような国民の理想と要求をうけとめ、その実現  のために奉仕するべきものである。一つの提案を含んで国民教育会議を提案され、中教審の組織についても批判を含んでいると思うのです。永井文部大臣が就任をされた機会にこの理想、提案を実現する努力をされておられないのではないか。まことにその点残念に思うのでありますが、その実情はいかがでありますか。
  34. 永井道雄

    永井国務大臣 私が就任しまして文部省の中央教育審議会をどうすべきか考えました。まず第一にとった方法は、文明問題懇談会をつくったことであります。文明問題懇談会は、事の性質上これは文部省は学術、文化、教育の全般にわたっておりますので、そのすべてを論じるわけであります。そういう意味では、従来の中央教育審議会よりきわめて広範にこれを議論をするわけでありますが、こうした議論の場合には結論というよりも思考の過程が重要であるというふうに考えましたので、従来とは違って議事録全体を公表するということをいたしまして、すでに公刊されております。私は政治家の方から反応が起こることを期待しておりましたが、いまだにどなたからも御意見がございません。非常に遺憾であります。そしてそれに参加をされた方々は立場を問わないという考え方から、自分考え方を絶対化するような人でなく、非常にわが国の学界、教育界で重要な方々を集めました。何ら反応は政界のどこからもございません。それが実情でございますから、それを踏まえて次の政策考えたいと思っております。
  35. 山中吾郎

    山中(吾)委員 まだ時間はよろしゅうございますか。若干省いて御質問します。  次に大学改革について、「大学の可能性」という著書で識見を出され、大胆な大学公社論も出されておるわけでありますが、この思想はいまも変わらないのかどうか。大学公社論というものが、文部大臣になってみて、これはやはり現実的には実現不可能であるとお考えになっておられるのか。どういう形でながめておられるのか。やはり日本の行政組織の中に実現をすべきではないかとお考えになっておることも著書で明確に言われ、しかも吉野作造賞まで受賞した著書でありますから、文部大臣の在職中に見解お述べいただいておきたいと思うのであります。
  36. 永井道雄

    永井国務大臣 大学公社案の考え方は二面があるわけでございます。  一つの方を申し上げますと、国公私の大学全体を一括いたしまして、文部省大学局とかいうふうなものを独立させまして国鉄公社のような姿でつくり上げていく、そして相当の国庫補助をいたしますが、むしろそこが自営していくという形でございます。この場合には公務員から外して全く新たに構想しなければならないことになります。  もう一つは、文部省の形態はいまのようなままでよろしいけれども、一つ一つつくっていく大学をいわば特殊法人の形でつくっていってはどうかということでございます。私が大学公社案、その本におさめられておりますのを書きましたのは一九六四年でございますが、それからの大学の推移を見ますと、大学もかなり保守的な組織であるということがわかりました。つまり公社に、特殊法人にある種の大学を変えていったりいたしますと、たとえば年金の計算、そうしたものもなかなかむずかしい問題をはらむのではないかというような不安も生じてくる。あるいは公務員以外のどのような身分になるかというようなことがやはり起こってくるということがわかりました。  そこで私は簡単に、いわば一つ一つ大学をつくる場合にも、公社というもの、あるいは特殊法人はできにくい。これは実は筑波大学建設の過程で論じられたことでもございます。そこでその後ずっと考えてきたことは、さしあたりむしろわが国では国立大学はそう柔軟性を持っておりませんから、強力な私学をつくっていく方がいいということで、強力な私学に国庫補助をふやしていく。そしてそれを傾斜配分をいたしますと、相当伸ばせるものは伸ばせる。そして自主的な経営というものを行うことができますから、私はこの政策を進めていきますと、私学の優秀なるものは、もしこの政策を本当に計画的に進めていくことができれば、十年、二十年後に相当の国立大学を抜くことができるのではないか、かように考えております。ただ、いまだに特殊法人というそうした夢は捨てているわけでないのでございますので、明年度計画をいたしております放送大学学園につきましては、これは新しい形の設置形態、そうしたものとして御審議を願えるような方向でいま準備を進め、検討している段階でございます。
  37. 山中吾郎

    山中(吾)委員 その点はお聞きするだけにしておきます。  そこで、大蔵省の税制第一課長おられるのでお聞きしますが、国立、公立、私立の私学の格差解消が大学の改革の第一の柱になっております。国会においては漸次私学の助成というものが進められておるのでありますが、すでに財政的な限界に近いのではないかと私は思うのであります。本当に国立私立の格差を解消する、これは教育の機会を保障する憲法の理念からは当然政治としてはやるべきことであるが、新財源を考えない限りにおいては現実的に不可能である。私、大蔵委員会に籍を置いておりますが、絶えず文教政策から税制を考え、あらゆるものを質問をしたりしておるのでありますので、文教委員会において税制を担当しておる大蔵省の責任者がやはりひとつ見解を述べていただくということが、私が議員生活を去るに際して一番の責任も感ずるので、あえてお聞きいたします。  法人税その他について各大蔵委員会で絶えず論議になっておりますが、私はヨーロッパ、スウェーデンその他にも若干の前例があるとおり、企業、法人に対して人材雇用税とかあるいは人材活用するについての社会に還付する思想を持った人材活用還付税というような新税をつくって、その分を教育費の財源にするというような思想は考えるべきではないか。企業は、父兄が何百万という金を使い、あるいは国が何百万という税金を使って大学を卒業させ、専門技術を与え、質のいい労働力を提供しておるものを使ってやるという思想でいわゆる雇用しておるのが現在の価値観、思想である。それは大きい間違いであるのだ。そういう国及び父兄が投資をしてできた質のいい労働者、労働力、技術というものを活用させていただく、そういう思想のもとに、私はその教育費の若干を税として国に納めるべきである。それを教育振興費に使い、国立私立の格差解消の財源にすべきだというのが私の持論であります。仮にその財源を考えましても、文部統計によりますと、小中高、年間大体一万前後父兄が負担をいたしております。また、大学については大体月五万、年間六十万、四年で二百四十万、これが最低の父兄の負担であり、その三分の四ぐらい、国民の税金がまた大学教育費の学生一人当たりの費用として計上されておる。そうして、現在、一億国民のうちの労働人口は五千万、雇用労働者を二分の一として二千五百万といたしましても、一年間の雇用税を一万とすれば、二千五百億の財源が浮いてくる。企業が優秀な人材を活用させてもらう立場から、一人年一万の雇用税を支払えば二千五百億の財源が浮く。これを国立私立の格差解消のために提供すれば、完全に国公私立の格差を解消することができ、いわゆる文部大臣大学公社思想というものの問題も自主的に解決できると思うのですが、大蔵省においてこういう新しい価値観に基づいた新税を検討されておるのか、されていないのか、現在赤字財政で、いま財特法が一番大きい問題になっており、五十五年には、このままで行けば累積赤字国債が七十兆近くになるというときでありますし、遅いか早いか、増税によって国民の支持を受ける以外に道はない。そういう増税の支持を受ける政権というのはよほど国民に信頼感のある政権でなければならない。税の公正を断行できるような政権でなければだめであり、また、新しい公正の原理に基づいた新税も考案すべきであると思うのであります。その点についての大蔵省の御見解を聞いておきたいと思います。
  38. 矢澤富太郎

    ○矢澤説明員 お答え申し上げます。  ただいまの先生から御指摘のございました人的資源利用税あるいは人材利用税というような考え方がございますことは、私どももよく承知しております。ただ、具体的な問題として考えますと、たとえば教育の外部的な利益、あるいは間接的な利益を受ける者は果たして企業だけだろうか、社会、経済全体にわたって広く受けるものではなかろうかというような問題、それから恐らく目的税というかっこうで特定の財源に使われることになろうかと思いますが、その場合にはそういった目的税、特別の財源ということが将来財政硬直化の原因になるのではなかろうかというような問題があるようでございます。ただ、先生の御提案は、一つ考え方であろうかと思いますので、今後よく勉強させていただきたい、かように考えております。
  39. 山中吾郎

    山中(吾)委員 確かに技術的に検討すべきものはたくさんあるでしょう。役所に勤める者もあり、公的機関に勤める者もあろうと思いますが、私企業の立場から言いますと、一人の人材を養成するのに数百万の投資をしているものでありますから、使ってやっているという思想を使わしていただいておるのだという思想に切りかえて、新しい価値観に基づいた税目も考えてしかるべきであり、日本の現在の教育の中で最も矛盾の多い、設立者によって教育の格差が拡大しておるときでありますから、そういうことも検討して文教政策に協力をされて、財源がないから矛盾はわかるがやれないという、そういうことだけにとどまらないで、検討されることを特に私から切望しておきたいと思うのであります。  それからなお、これも私も大蔵委員会で一回ほど取り上げましたが、家計から支出する教育支出について減税をすべきであるということを再三主張いたしておりますが、大蔵省はなかなか理解を示さない。私の論理は、憲法に規定された社会的な基本的人権、二十五条の文化的最低生活を保障するというその人権に基づいて、いわゆる治療、療養、医療ですね、生活権という立場から病院その他に払った医療費については免税になっておる。引き続いて、二十六条の国民教育を受ける権利という保障された人権を行使する家庭の支出については、これは減税は不適当であるという思想がわからない。他の利潤追求のための支出その他とは違うのであって、日本の未来を背負って立つ人材養成のために薄給の中から支出しておる家計の教育費を免税するぐらいのことは税務行政の最低のモラルではないか、こういうふうに私は信じておるのでありますが、大蔵省の思想はなかなかそこにいかない。ぼちぼちその辺のことも検討されて、せめて苦しい中から支出しておる教育費には税をかけないという思想に切りかえてもらいたい。この機会に文部委員会において大蔵省の見解をお聞きしておきたいと思うのであります。最近、大蔵省もだんだんと文教に理解を深めて、予算折衝その他の経過を見ておりますと、教育に対する理解の上に立って査定をされておることは敬意を表しておるのであって、一つの進歩と思っておりますが、現在こういう課題があって文部省も毎年予算要求の中で教育費の減税要求もしておるようでありますが、減税について着手をされる時期にもう達しておるのではないか、ここで大蔵省の見解を述べてください。
  40. 矢澤富太郎

    ○矢澤説明員 教育費を控除すべきであるという先生の御意見につきましては私ども十分承知しているわけでございまして、大蔵委員会の場におきましても大蔵省の見解につきましては大蔵大臣からこれまでもたびたびお答え申し上げたところでございます。またおしかりを受けるようなことになりますが、やはり教育のような個別の事情を税制の上でしんしゃくしていくということにはどうしても厚い壁がございまして、まことに申しわけないのでございますが、従来お答えした線から一歩前へ出た答弁はできませんので、お許しいただきたいと思います。
  41. 山中吾郎

    山中(吾)委員 文教の皆さんに申し上げますが、大蔵省がこういう厚い壁の上に立っておるのでありますが、しかし論理的には大蔵省の答弁は説得力がないと私見ておるのであって、これは何としても実現すべきであると思っておる。個別的支出というのは治療費だって同じでありますから、利潤追求の企業にふんだんに補助をする政策をとっておる日本の政治の中で、教育に使っておる支出に税まで加えなければならぬということは、政治の方で主張する限りについては大蔵省もやがては反省するであろうと私は期待しておるので、国会議員を去るに当たって、大蔵省にせめて教育政策にそういう立場で協力をされて実現することを心から期待して切望しておきたいと思うのであります。ここでこれ以上課長の責任ある答弁はできないことはわかっておりますから、さらにこういう要望があるということを忘れないで省内の論議の対象にしてもらいたい。  次に、これは私の総決算の質問であり、永井文部大臣の総決算の答弁のつもりでしておるのでありますが、いつまでも続けることは委員の皆さんに恐縮ですからやめますが、最後に受験体制の問題について、教育課程の改正についても、受験体制を改正しない限りにおいては幾ら授業時間を少なくしても、やがて受験競争のためにその趣旨というものは空洞化されるであろうということが現在世論になっております。この受験制度の改正について根本的な考え方文部大臣にお聞きして、その基本的な考え方のもとに改正を行ってもらいたいと思うので、私の見解も述べておきます。  憲法で、すべての国民教育を受ける権利がある。その権利をだれが認定をするのか、教育を受ける学習権を選定する主体はだれかということを、根本的に考えてもらいたいと思うのであります。大学当局が国民として教育を受ける権利がおまえはあるないというふうな認定をする資格があるのかどうか。一回も教えていない、一回も見たことのない学習を受ける権利を持った国民に対して、一回の試験でわれわれが選択する権利があるという権利は憲法のどこを調べてもない。憲法に保障された学習権を認定する主体は、究極的に国民である。国民自身でなければならぬ。その国民の選択権を代表するものは、少なくとも、たとえば高等学校で三カ年その子供を教え、子供を認識し、能力を見ておる高等学校先生の中にむしろ教育を受ける学習権を認定してやる資格が出るのではないか。いまの論議の中に、大学当局がわれわれは学問の自由、大学の自治があるから、だれを教えるか、だれを入れるか入れないという権限が当然われわれにあるのだ。これが大学の自治と考えておる思想はまことに間違いである。間違った思想があるものだから、この受験制度の改革について、大学が個人、個人に自分の好みに応じて試験をしていやなものを落としていくというふうなことが常識になっておると思うのであります。この思想を変えない限りにおいては、国が責任をもって国民を代表して、能力に応じて学習する教育権利を認定をして、それに応じて大学教育を受ける機会を保障することはできない。国の教育計画として国の責任ではできないのではないか。これが私の基本的な考えであります。このもとに、私は受験制度だけは個々の大学を超えて国の問題として検討すべきであると思うのですが、いかがですか。
  42. 永井道雄

    永井国務大臣 この問題については、三点からお答え申し上げたいと思います。  まず、大学でなく国が直接にすべて問題をつくって、これを国、公、私にかぶせるというやり方もあるわけでありますが、そして能研、あるいは進適の場合にその方法をとったわけでありますが、今回国立大学共通一次テストではその方法をとっておりません。従来大学は、それぞれ国立の場合にも問題をつくっておりましたが、これは高校以下の教育というものは余り配慮せずに落とし穴などの多い問題が多かったことは事実であります。今度は国が確かにいろいろ物的条件その他応援をいたしますが、国立大学協会が全体で連帯をして問題をつくるというところにこぎつけたわけでございます。これは実は社会で一般に見られているより私は当委員会などにおいて高く評価していただきたいのです。国立大学は八十三もありまして、八十三の大学が各大学考えを持ち帰り、さらに教授会でも議論した後にまた集まって見解をまとめるという非常に込み入った方法をとりましたが、その結果、八十三の国立大学が一校漏れず、国立一次テスト自分たちの手で実施するという合意に到達されました。この間における林会長あるいは入試問題の委員長であるところの京都大学の岡本総長がわが国教育改善するためにされた努力というものは大変なものであったと思います。その御努力によってまず八十三の大学がまとまったということであります。  そこで問題は、高校以下の教育に相当配慮した一次テストが出ることになりますが、しかし、ただいま先生が御指摘になりましたように、やはり高校までの学習の実態というものを知っているのは大学先生ではなく高校の先生なのです。したがって、高校の先生がむしろ共通一次みたいな問題をつくるのはどうかという意見もあり得ると思います。今度のやり方でどういうやり方をとっているかと申しますと、問題は大学先生方がおつくりになる。しかしながら、その評価は高校側が行うという形に相なるわけでございます。さらに可能性といたしましては、従来形式的であった調査書というふうなものをどういうふうに一次テストとかみ合わせていくか、この問題も引き続き検討していかなければならないことでありますが、これが生かされるようになりますと、高校の先生方が、自分たちが教えた子供たちについて、大学の進学に適しているかどうかについてより一層の責任と、そして権利をお持ちになるようになる。それはより妥当なことであると思いますが、そうしたことはこれから国立大学協会で検討していただくことになります。評価をやるというところまでは決まっております。  第三点といたしましては、国立大学協会だけでは共通一次の問題は解決いたしませんので、公立、私立をどうするかという問題が残っております。しかし、この国立まとめ上げるまでにも数年を要した。そして実に何百人という先生方の御努力があり、また文部省も担当の者は大変これについて骨身を惜しまずに努力をして満場一致に到達をいたしました。現段階におきましては、国立の方がもう一歩固まったときに公立が参加したいということが公立大学協会から御意見として出ておりますので、その参加を実現することは可能であろうかと思っております。しかし、わが国の高等教育では私学の数が圧倒的でございますから、次に私学をどうするかということでありますが、この状況について御報告を申し上げますと、私学関係三団体ございますが、まだそのいずれの団体からも参加という正式のお申し入ればありません。しかし、有力な大学の学長の中で、公立も参加するというそういう段階においては自分たちも参加したいというお申し出がございますので、これもいま課題として残されているということであります。要するに、この種の問題の解決に当たって私は非常に重要であると思われますことは、民主的な社会においては、文部省がある種のことを決定し、あるいは国会にお諮りして法律をつくって、そして強行していくということも一つ方法でございましょう。しかし、教育界の場合には、そのほかのことでもそうだと思いますが、でき得る限り当事者の方々の自主性を生かして、そこに合意が成立して実現されていくというのが望ましいと思うのであります。今回、先生の御指摘のように、大学にだれが進学し、だれが入るかということを、それまで教えてきた高校の先生たちが決めていくというところまでの理想案にはいっておりませんが、しかし、少なくも到達し得たことは、国立大学先生方が御自分でおやりになる、そして、本当に満場一致になり得た、実は、私は、満場一致はあり得ないのではないかと思っておったのです。そして、問題を出した後の評価を高校の先生にもしてもらうという形で、大学側も考え方の門戸を開いていただいたということでありますので、これは一層国会におかれましてもこうした種類の事柄については、まさに党派を越えて、大学の方々の大変な御努力というものを評価していただきますならば非常に幸いであるというふうに私は考えているわけでございます。先生の理想どおりの運び方ではございませんが、その一部は取り入れられているような形で、いまのところまで進んできているということでございます。
  43. 山中吾郎

    山中(吾)委員 いい方向に行っておることを確認して、希望を持っておるわけでありますが、基本的な物の考え方をもう一つつけ加えますと、たとえば小中学校の教師、義務教育を担当しておる教師の心理は、満六歳になった者、その人の能力いかんにかかわらず入ってくる人を受けて、その受けた子供に対して教育の責任を持っている。今度は、選考の上に立った学校の教師は、自分らで選択する権利があるという心理になっておる。どっちが正しいんだということが私の課題なので、自由な教育、教師の自律性という中に、いまの義務教育段階に教師としておる者の心理と高等学校以上の教師の心理を考えたときに、自分らが選択する権利があるという思想は必ずしも正しくないのだということを強調しておきたいということであります。  最後に、ぜひこれは一言でも御意見を聞いて終わりたいと思うのでありますが、教育政策が生きるか生きないかは教師養成制度による、これは私のかたい考え方でありますが、戦後、教員養成制度は大学に昇格したまま、そのまま何もないのだ。一般大学で自由に勉強した者の中から、教壇に立った途端に、おまえは教師の専門家だと評価をし、御本人も専門家と錯覚を起こし、そして本当の意味において教師になっているかどうかということはおかしいというのが現状であるので、極端に言えば、教壇に立っておる教師の給与が改善されても、教員養成制度の中に教師としての人生観あるいは教授能力、そういうものが付与されていない限りは、私は向上という可能性はないと見ておるのであって、教員養成制度を忘れた文教政策は、魂の抜けた教育政策であると思うのであります。  そこで、一つの案として、文部大臣があなたの著書に提案をしておるのでありますが、一言だけお聞きしておきたい。  「四年の課程を経た教員志望者に、ちょうど医  学部におけるインターン制度と同様、一年間の  実習課程を設ける」ことも一つ方法であろう  し、総合大学の場合には、教職課程は大学院に  おき、新制の四カ年では、まずみっちり教科内  容の学習だけに学生が専念するようにする案も  考えられる。さいごの案を別の言葉でいえば、  新制四カ年は、法・経・文・理などの専門科目  を学び、卒業後、教師になることを希望するも  のだけが進学する大学院コースに教職課程を全  く切りかえてしまうのも一つ方法であるという提案をされておる。私は、この後の案が、日本教育、教員養成制度として定着すれば、日本教育は盤石であり、日本国民形成、人間形成に一番大きい役割りを果たすと信じておるのでありますが、大臣就任以後、こういう一つの見解を持っておる永井文部大臣は、こういう方向努力をされておるかどうか、あるいは何か壁があるかどうか、お聞きしておきます。
  44. 永井道雄

    永井国務大臣 他の事柄と同様にきわめて漸進主義的でありますが、考え方は全く同じであります。私は、わが国の教員養成において欠けているものは臨床性である、これが一番重要な点だと思います。大体大学の教職課程においては理論だけを学習しまして、実習というものは非常に乏しい。小学校の場合四週、中高が二週でございますが、しかし、現在毎年大体必要な教員の数を、中高の場合には必要な数の五倍免許を取っておりますから、したがって二週の実習といいましても、実は受入校におきまして指導する人はいないということで、課外の授業を見ているというようなことにも相なるわけでございます。また、大学先生がそこへついていって臨床的なことをやるということが一般に行われないのが教育学習の実態でありますので、すぐに教育の実習を強化していくというのは、どこにも指導者がなくて、非常に困った状態であるというふうに考えております。  そこで、私が考えておりますのは、大体、大学、高校、中学、小学校と縦並びで考えていますけれども、これを横並びにしていく。つまり、大学は理論的なことを考えますが、小中高というのは、いわば医学にこれをなぞらえると臨床の場、病院でございます。そこで、現在可能なことは、私は、やはり小中高の先生方が現職に入ってからもう一回現職教育をやっていくということを強化するのがいいのではないかというふうに考えているわけでございます。考えているだけで何もしていないかということですが、そういう考えから、本年度お認めいただきました予算の中に、東京学芸大学教育実習センターというものをつくりました。この教育実習センターの教官は大学出身の学者にはなれない、現場出身の人でなければならないという約束事がございますので、そういうものが一つできました。明年度概算要求で計画をいたしておりますのは、類似のものを岡山につくるということでございます。さらに、明年度の概算要求の中には、就職をいたしました先生方に最低十日間オリエンテーション実習というものを行う。そうすると、おのずからその先生先生となるのが主任であり教頭であり校長である、そこで実は教育指導ということも申してきたわけで、主任の問題もそういうところで絡んでまいるわけでありますが、私は、そういう構想のもとで現在臨床性というものを教育実習の中で強めてまいりたい。  ただ、この状況だけではとても問題が解決しないと思いますのは、たとえばイギリスの場合には十カ月ほど実習をしているという例がたくさんあります。したがって、わが国のような理論倒れということはなかなかない。わが国と同様に状況が悪いのはアメリカ合衆国でありまして、アメリカ合衆国の教育厚生長官のコーエン氏と私は会いまして話をいたしましたが、アメリカの場合にも開放制というものをとりましたために、どこの大学でも教職免許というものを簡単に取れる、その結果、アメリカ合衆国はいま教職免許を取れる学校の数が二千に近くなりまして、わが国では千の大学のうち八百三十の大学で教職免許を取ることができます。そして八百三十もありますから、中学や高校の先生方になるために必要な人の五倍が毎年生産されているわけでございますから、その数がおよそ十万人ということでございますので、十年間には百万人ということでございましょう。ここまでまいっておりますのをどう変えていくかということは相当抜本的な改革を要する問題であって、まず着手いたしますのは、来年から始めるそうしたオリエンテーション研修それから二つの大学で設ける教育実習研究センター、そういうものを設けますが、将来教員養成大学院というものを設けた場合に、先生がお読みになった後段に当たる部分、すなわち学部におきましてはいろいろな学科を学習して、そして大学院に来てから教育研究や実習を行うという方法も可能であろうかと思いますが、この問題についてはいまだ検討の段階にあるわけでございます。  ただ最後にもう一度繰り返し申し上げたいのは、諸外国と比較いたしましてもわが国の教員養成の実態がきわめて弱体である。それはいま申した実習の面を取り上げたときにきわめて弱体であるということは明らかでございますから、これを何らかの形で是正してまいりませんことには、理論倒れで、そして免許だけ取って先生になるということになりますから、その先生の御努力というものによっていま何とか学校を維持しているのだと思いますが、教員免許の取り方というものについては制度的に多々検討を要するものがあるのではないかと考えております。
  45. 山中吾郎

    山中(吾)委員 これで終わりたいと思いますが、最後に、進学制度と教員養成制度だけは、文部省が原案を作成する習慣を超えて、各党代表と合意ができるまで、国会に提案したりする前に、これだけはイデオロギーの論争を超えた一番教育制度のかなめであるので、文部大臣は幸いに政党人でないのでありますから、各党代表としての文教担当委員その他に大胆に合意を得るまでに論議をする組織あるいは懇談会を持つべきである、私はこれを切望いたしておきたいと思います。北欧のスウェーデンにおいては、そういう基本的な制度の改革について教育改革委員会をすでに設置しておりますが、その構成を見ますと、文部大臣が議長になり、あそこの五つの政党、社会民主党、自由党、保守党、中央党等の代表として文教担当者一名、財界一名、労働代表一名、八名で一応の論議をして、できたものを国民の批判にさらすというふうな制度が制度化されておるのであります。私は、各党で激しく政策論議をすべきものもありますが、この二つだけは政党を超えて合意を得たものを国会で論議すべきテーマであると思うのであります。  永井文部大臣は就任するに際して、国民から非常に期待をされて就任されたのでありますので、退任をするときに失望されて退任しないように、そういうものを残して、文部大臣がいままで提案をしたものあるいは思想というものを、やはり国会の中のだれが文部大臣になっても何かの形において残る最後の努力をされていくべきであると思うのであります。  一般論に走り過ぎたかもしれませんけれども、最初に申し上げましたように、国政の中における国民教育の位置づけだけは明確にしてもらいたい。どんな政権ができても教育政策だけは他の政策よりも継続性を持たないと、政権の交代は教わる国民にとっては最も迷惑なことでありますから、教育についての継続性を特に強調いたしまして、私の議員生活十八年間における総括的な最後の質問をさしていただいたわけであります。永井文部大臣も率直に政党を越えた中立的な御意見も含んで総括的に答弁されたようでありますので、その点について私も満足でございます。  要は、これから単なる対立の中に教育の本質論が埋没したり、イデオロギーの谷間に日本教育が埋没することのないように、公正な立場において人間形成という本質の上に立って論議をされることを切望してやみません。  この機会を与えていただいてありがとうございました。(拍手)
  46. 登坂重次郎

    登坂委員長 この際、暫時休憩いたします。     午後一時二十七分休憩      ————◇—————     午後一時五十七分開議
  47. 登坂重次郎

    登坂委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  文教行政基本施策に関する件について質疑を続行いたします。  質疑の申し出がありますので、これを許します。山原健二郎君。
  48. 山原健二郎

    ○山原委員 最初に、人事院総裁に対しまして、主任制度化の問題と主任手当の支給の問題について質問をいたしたいと思うのです。  この問題につきましては、御承知のようにいるいろ心配もありまして、たとえば教育反動化の有力な道具になるのではないかという不安も父母、教師の間にあるわけであります。それから、さらに現在学校運営のために主任制度が一般的に置かれていますが、この中から一定の主任を選び出して、それに対して給与を支給するというような問題についてもまた問題があるわけです。こういった問題につきまして、国会の議決は、文部省が言っておりますように、主任制度の創設は人材確保法による給与改善の一環として行う。そして、人事院に対して主任手当の支給の要求をなされたわけでありますが、この人材確保法の法律制定に当たりましては、御承知のように国会の附帯決議があるわけであります。その附帯決議の重要な部分は、五段階給与の体制はとらないということが中心になっておりまして、いわば学校の中に差別賃金を持ち込まないという趣旨の附帯決議があるわけです。それからまた、今日、日教組を初めとしまして、教職員団体が強くこれに反対をしておるという世論の動向もあるわけです。そういうことから考えますと、本年の三月十一日に教員給与の改善についての勧告と、あわせて主任手当を人事院規則の改定で実施する方針を人事院は出しております。この点について伺うわけですが、このような世論の動向、また危惧の念、あるいは反対の意向というようなもの、あるいは国会の議決があるというような状態の中で、この主任手当というものを人事院の規則でやっていくことについては、少なくとも国民的な合意が得られるまでは中止をすべきではないかと私は主張しておるわけです。この点は、この前も人事院総裁にも強く申し入れをいたしたところでありますが、人事院総裁としての今日の見解を伺っておきたいと思うのであります。
  49. 藤井貞夫

    ○藤井(貞)政府委員 お答えいたします。  主任制度並びにこれに対する給与的処遇としての主任手当の問題でございますが、これをめぐってはいろいろいままで各方面の論議があったことは事実でございます。われわれといたしましても、その点十分各方面の意見を聞きながら、これに対して対処をしてまいったつもりでございます。  この点については、従来責任官庁であります文部省からも主任制度と、これに対する給与的処遇について、何らかの措置をやってもらいたいというような要請はつとに出されておったわけでございますけれども、人事院といたしましては、主任制度自体についてもう少し的確なものがなければ困るではないかということから、それの制度化、明確化というようなものをお考えいただきたいということを申し述べてきたのであります。それに対して文部省当局も種々検討し、また苦心せられました結果、昨年の末からことしにかけて、いろいろな経緯を経て、主任制度が確立をされるということに相なったわけでございます。  ただ、これをめぐってそれぞれの方面からの反対、賛成の意見のあることは事実でございますけれども、人事院といたしましても、その情勢はいろいろの角度から見守ってまいっておる次第でございます。しかし、諸般の情勢からいたしまして、制度化された限りは、主任制度に対して一定の給与的評価をすることが妥当であろうという結論に達しまして、先般の第三次人確法に基づく教員給与の改善に際しまして四つの柱を立てた、その一つの柱といたしまして、主任制度の確立とこれに対する給与的評価ということを打ち出した次第でございます。  遺憾ながら、この勧告に基づく直接の対象に相なっておりました給与法というものは、いろいろな点から継続審議に相なって、その成立は今日まで持ち越されておるのでございますけれども、人事院といたしましては、各般の情勢から検討いたしまして、これが最善であるというふうに決断をいたしました勧告並びに報告でございますので、私たちといたしましては、この点はあくまでもこの趣旨に沿った措置がとられることを強く要望し、またこれに伴う一連の給与改善措置というものが一日も速やかに成立をいたしますことを念願をいたしておる次第でございます。
  50. 山原健二郎

    ○山原委員 人材確保法成立の中で国会の附帯決議がありましたが、この関係から見ますと、文部省が人事院に出された主任手当支給要望はかなり無理があるのではないかという受け取り方はしなかったのですか。
  51. 藤井貞夫

    ○藤井(貞)政府委員 この点は、先刻も申し上げましたように、実は突如として出てきた問題ではございませんので、従来からこの種の点についてひとつ配慮をしてもらいたいというような要望が出ておったことは事実のようでございます。それに対して人事院といたしましては、各県あるいは各学校、非常にまちまちであって、これを給与的に評価をするには適当でないような面もあるので、その点をひとつはっきりと整備をしてもらいたいということを要望しておりまして、これにこたえる形でもって、文部省といたしましては対策を講ぜられたのでございます。したがって、これに対する評価をわれわれなりに、これが妥当であるというふうに結論を下しまして、先般の勧告並びに報告の中に盛り込んだわけでございまして、これは妥当な措置であったというふうに考えております。
  52. 山原健二郎

    ○山原委員 細かく入るつもりはないのですけれども、たとえば人事院がそういう決断をいたしまして、決断の問題にこれは所属しておるということも、ちょっと私は問題にしたいわけですけれども、とにかく決断をしたとして、現在それぞれの学校に、合理的な、また円満な学校運営のために主任というのが幾つかあるわけですね。その中で一部の主任を拾い上げる、一部の主任に対してこれを指定をして手当を支給していくというその行為そのもの、これは人事院の仕事の範疇から外れているのではないかというふうにも思うのですが、その辺は矛盾なくやれるというふうにお考えなんでしょうか。
  53. 茨木廣

    ○茨木政府委員 今度の省令化されました主任の一番中心役割りは、連絡、指導、助言、調整という役割りであろうというように考えております。御指摘のようにたくさんの事務担当的な主任が現在もいらっしゃるわけでございます。そこで、私どももいろいろ苦慮をして文部省との間に相談をしておったわけでございますが、そういうことで省令化の姿が出てまいったわけでございます。  そこで私どもといたしましては、そういう省令化の趣旨を把握いたしまして、給与法の十三条に書いてあります特殊性というものを給与上どういうふうにつかまえるかということで、そういう役割りをお持ちになった主任の困難性と申しますか、そういう特殊性を評価いたしまして、主任手当とわれわれ称しております今回の手当をつけることが妥当であろうというようなやり方を考えたわけでございます。したがって、この点はあくまで給与上の評価という観点で入ってまいるわけでございまして、その点についての矛盾はないというふうに考えております。
  54. 山原健二郎

    ○山原委員 給与上評価の基準というのは、どういうものでしょうか。
  55. 茨木廣

    ○茨木政府委員 給与と申しましてもいろいろ種類がございますから、その種類によっていろいろ給与の考え方というものが出てまいるのだと思いますが、この場合問題になっておりますのは特殊勤務手当としての給与でございます。体系的には本俸で考えますものが一番基本的な給与でございまして、その本俸に盛り切れぬものが調整手当でございますとかあるいは教職調整額でございますとか、それから特殊勤務手当とかいろいろなもののさらに細かい給与の種類が出てまいるわけでございます。そういう意味一つとしてこの特殊勤務手当があるわけでございます。多学年担当手当でございますとかあるいは教生の指導に当たられます方についての手当でございますとか、そういうようなものの先例もすでに教育関係の分野についても特勤手当というのはございますわけです。そういう意味の一般の本俸なりその他の手当で考えました上に、なおかつ若干の給与上の配慮を要すべきものがあるかないかということで総体的にその関係が評価されてまいるというものであろうと思います。法律の表現は「著しく特殊な」というような抽象的な表現になっておりますけれども、具体的には、いま現在も四十七種類からの特殊勤務手当があるわけでございますが、そういうものともあわせ考え、あるいは教育界の問題でございますからすでについておりますような手当との関係等もあわせ考えてみて、そこで総体的にやはりつけることが妥当かどうかというようなところで考えてまいっておる次第でございます。
  56. 山原健二郎

    ○山原委員 現在学校にどれだけの主任の種類があるかということと、少し立ち入りますけれども、いま作業としては現在お考えになっておる手当をつける主任とは大体何々かという、そういうところまで作業が進んでいるのでしょうか。
  57. 茨木廣

    ○茨木政府委員 学校の中に現行上どの程度の主任があるかということになりますと、全部網羅いたしますと数十になるということで、一覧表の形をしたもので文部省さんの方からいろいろお聞きをいたしております。また、私どもも二、三十の学校を見させていただいておりますけれども、それぞれの学校によってまたその種類が、十幾つぐらいが大体標準でございますようですが、いろいろな種類があるようでございます。その中には今回省令化されました主任もございますし、それから事務担当と称すべきような主任もございますし、いろいろな種類があるというふうに承知いたしております。  それから、今回手当をつけます主任をどう考えておるか。まだ公式的にはこれから院議で御決定をいただくということでございますが、先般勧告の際の説明文の中に多少ニュアンスが出ておるかと思いますけれども、一応その省令化されました主任の中から規則でそれをどういうふうにつかまえてまいって、そしてその中からやはり人事院が定めるものというふうになってくるものと考えております。ですから一応の範囲は、省令化されました主任の範囲内ということに相なるかと思います。まだ具体的にはこれから御決定をいただくという段階でございます。
  58. 山原健二郎

    ○山原委員 省令化された主任の範囲の中でやられると言うのですから、省令化されたものの中でこれこれというふうに選択をされる仕事がまだ公式には残っておると、こういう意味ですか。
  59. 茨木廣

    ○茨木政府委員 公式的にはそういうことでございます。
  60. 山原健二郎

    ○山原委員 その問題についてたとえば著しく危険、不快、不健康、困難な業務に従事する者という特勤手当の条項でありますが、この中のどれに関係しておるというふうなことの検討がなされておるのでしょうか。
  61. 茨木廣

    ○茨木政府委員 私どもといたしましては、一番最後にお挙げになりました困難その他の特殊性というそのグループで読むべきものだ。前段の危険、不快、不健康というグループとは考えておりません。
  62. 山原健二郎

    ○山原委員 連絡調整、指導、助言というのはそのように困難なものですか。
  63. 茨木廣

    ○茨木政府委員 御案内のように、先生方の給与は本俸を中心といたしまして、それに教職調整額、それから先般つけました義務教育等教員特別手当、この三本が一番中心的なものであろうと思います。あとそのほか扶養手当とか通勤手当とか住宅手当とかいうような別個なものがございますけれども、一番中心点はその点であろうと思います。それらは対生徒の関係で先生教育指導をされるという点が本体をなして、大体給与が一番中心をなして決められておるというものであろうと思います。それから先般つけました特別手当の方の関係になりますと、いろいろ諸先生方の先ほど来の御議論にもございますように、いろいろ校務を担当していらっしゃるあるいは部活動の顧問という立場で指導もしていらっしゃるというような面にやや重点を置いた評価を私どもとしてはしておるつもりでございます。ところが、今回問題になっております主任手当というのは、先生が対先生の関係で連絡調整、指導をやられるという面が中心に今度はなってくるものと考えております。したがって今回の人材確保法のきっかけにもなりましたように、大部分の先生大学を出られた方が新任されてみな入ってきてそれぞれのポストにつかれるということでございますから、やはり教養の大変高い方々を同じ同僚の立場の先生方がやや先輩の形で指導、連絡調整されるということでございますから、やはりそれなりの苦労なり困難性があるものというように評価すべきものと考えておるわけでございます。
  64. 山原健二郎

    ○山原委員 困難なという言葉ですね。いまのお話ですと、たとえば大学を済んで教員をやっておられるいわば程度の高いといいますか、そういう者に対する連絡調整、指導、助言だということだから困難度が高いというふうになってくるわけですが、連絡調整、指導、助言というのは、これは新たな仕事といいますか、そういういわゆる制度化された役割り、しかもその任務の内容としていままでと違ったものを含んでおるというふうに解釈をされて、だから困難だと、そういうふうになるのでしょうかね。いままでだって、学校を構成しておる教員というのはやはり専門家としてのふさわしい力量を持っておる人たちがおるわけですから、それに対して改めてまた新たな任務、そういうものとして考える、だからこそ困難性が伴うのだ、こういうふうに解釈をされておるわけですか。
  65. 茨木廣

    ○茨木政府委員 必ずしもそのようには考えてないのです。と申しますのは、一連の今回の人材確保法の給与改定にいたしましても、従来いろいろ吟味されております対象の職務内容なり権限なり、むずかしさがなかったかということになりますと、そうは必ずしも言えぬのだろうと思います。ただその評価というものが従来の他の職種の方々との相対関係で見ますと、従来はこの程度でよかったと思われておったものがやはりもっと考え直すべきではないかというようなところでこの一連の改善が行われてきておるわけでございます。今回の問題も、そういう意味では、従来の職務分担の中にそういう役割りもございましたでしょうけれども、そういう面がさらに今回吟味されまして、その辺が十分見足りなかったのではないかということで、一連の待遇改善の一環としてそういうものも今回取り上げるということに相なったわけでございます。
  66. 山原健二郎

    ○山原委員 連絡調整、指導、助言というのは、それほどいままでと違った立場での任務内容として困難性を伴うほどのものであるという認識を文部省もしておるのですか。
  67. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 主任がやります仕事は、連絡調整、指導、助言というその内容は、従来のものを制度化したというふうに私どもは考えておるわけでございますが、それが従来のものを制度化したのであるからさほど困難がないというふうには考えておらないわけでございます。
  68. 山原健二郎

    ○山原委員 省令化されない、また手当のつかない主任、現在、現行上あるところの主任ですね。それは連絡調整、指導、助言という任務がないと文部省は解釈していますか。
  69. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 省令化されない主任にもいろいろありますので、具体的個々についてどうかと言われますればあるいは多少違う点があるかと思いますが、おおむね主任というものは、省令化されていないものにつきましても、その主な任務は連絡調整、指導、助言であろう、こういうふうに考えるわけでございます。
  70. 山原健二郎

    ○山原委員 それでは、制度化されて名前が指摘をされ、ピックアップされたもののみが困難性が伴って、一般的に連絡調整、指導、助言という任務を持っている現存している主任、そこのけじめは、要するに省令によってあるいは人事院規則によって指名をされたものが困難である、だから困難という言葉が、そこの指名といいますか指摘によって困難がくっついてくる。任務は一緒のものを持っておりながら、ここでその中で幾つか拾い上げる、拾い上げるものには困難が伴う。ここのところは任務の内容としてそんなに違ってくるんですか、今度の手当を出すことによって。
  71. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 私どもが人事院に対して、この主任に手当を与えることを考えてほしいと要望いたしておりますその主任についての説明は、こういうふうに申し上げておるわけでございます。つまり、学校教育活動におきまして教務主任というものは当該学校教育活動全般にわたる連絡調整、指導、助言というものであり、また学校教育活動というものは主として学年を単位に展開されるわけでありますが、その学年全体の教育活動を連絡調整、指導、助言という立場から見ますのが学年主任であり、そしてまた、学校の生活において直接児童生徒の指導に当たるという面で、生徒指導主任と進路指導主任というものはその生徒指導の中枢にある仕事である。そういう意味で、ほかにもいろいろ主任はあるでしょうけれども、この四つの主任の仕事は特に重要であり、かつ困難であるから検討してほしい、こういうことを申し上げておるわけでございます。
  72. 山原健二郎

    ○山原委員 それでは、文部省の見解によって、この四種類が困難性を伴うということから、人事院の方は全くそうだと、こういうふうな受け取り方になっておるのですが、その間どうなっておるのですか。
  73. 茨木廣

    ○茨木政府委員 私どもも一番苦労しておるのはその点でございまして、何十という種類のいろいろ主任がある、その中から省令化された主任がまたある、したがって、私どもとしてはこういう考え方をしておるわけでございます。オール・オア・ナッシングじゃなくて、そういういろいろな事務を担当していらっしゃる、あるいは主任というポストにもついていらっしゃる、あるいは部活動の方で言えば顧問というポストについて、いろいろ指導していらっしゃる、そういうものを評価する意味で、前回第二次の際に出しました特別手当の四%を今回もさらにそれを増額いたしましょう、その点がまあ大変、職員団体との間のお話でも、この勧告を出すまでの間に何回となく意見の交換をやっておるわけでございますが、当初一%と言っておりましたものを、そういうことでもっと全員に渡るものをよく見るべきだという御意見もあり、それではということで二%程度のプラスになるようにして、最高限度額を一万五千二百円に直していただくという提案を申し上げておるわけでございます。それがまず基礎でございまして、その上に若干やはり困難性の著しいと思われるものを、その中からさらにつけていくべきであろうということで、一日二百円程度の額の今回の業務指導連絡と申しますか指導手当をつける、その案を考えておるというのでございます。  でございますから、やはり物事にはいろいろそれは段階がございますから、ここから突然こう変わるということではなかなかおさまりが悪いだろうということを考えまして、いまの四%のものを六%にし、それから余り一時に主任手当の額をぽんと出すということを避けて、そこは漸進的にいくことがふさわしいであろうというふうに考えておるわけでございます。  もう一点は、省令化されました主任が即全部困難性が著しいかどうかということは、やはり学校規模その他にもよる問題だと思います。たとえば学年主任等の問題についても、一学年に二学級しかなかったようなところでございますと、自分よりもう一人の先生に連絡すればいいという関係になりますのと、もっと規模の大きいところで四、五人の先生に連絡をしなければならぬという場合とではおのずから段階が異なってくるだろうと思います。そういう点を実施段階のところで、それぞれ規則なり県の条例で物事がすぱっと決まるのじゃなくて、そこにやはり人事委員会なりあるいは私どもなりの定めということで、ある一定の基準なり何なりを使いながら漸進的に進めていった方がいいのではないかというように考えておるところでございます。
  74. 山原健二郎

    ○山原委員 お聞きしておりましても、たとえば学校の自主的な運営などというものは、これはこの文教委員会でもお互いに出し合っておるわけでして、そして学校における現行する主任の任務とかあるいは役割りとか、そういったものはそれぞれの学校によって違うと私は思うのです。そういう中で、その中の幾つかを拾い上げて、これに手当を出すということになりますと、いまのお話を聞きましても、文部省の諸沢局長お話伺いましても、学校全体に影響するのだとか子供全体に影響するのだとかいうように大変あいまいなものを持っていますね。ちょっと納得しがたいものを持っているのですよ。それでもなおかつ、いろいろ困難があるのだけれどもとにかくやるのだというやり方ですね。これはいわゆる教育の面では極力避けるべきものだと私は思っています。しかしそんなに困難であってもいろいろ理屈をつけてやるのだという立場にあるのではないかと思いますが、聞いておっても非常に無理な感じを受けまして、むしろ学校における自主的な運営とかそういうものを、これを決めることによって一定の制約を加えていくという、こういう役割りを果たしかねない決定が、いま人事院によってやられようとしているのではないか。しかも、学校運営の中で主任があります、その中のこれとこれが困難なもの、より困難なものだというふうな決定になるわけですから、そうすると、学校教育内容にまで人事院が関与していくという結果になりはしないか、文部省の方から言うならば、文部省の仕事、文部省の文部行政の中身に属するものを人事院に渡したという結果になるのではないか。その間は、いや文部省の意見はよく聞いてやりますと言うけれども、制度の面から見るならば、確かに文部省がやるべきことを人事院へほうり出した、人事院はそれを何の苦もなく受け取って教育の中に結果的には介入していく、こういう結果になりはしないかと思うのですが、これは文部大臣と総裁の両方から意見を伺っておきたいのです。
  75. 永井道雄

    永井国務大臣 御指摘のように、主任は非常に種類が多い。そこで、長い歴史がございますが、文部省としましては、この主任についての調査をいたしまして、全国的に見て重要度が高いもの、それがまたおのずから普及もしているわけでございますが、それをいわば取り上げたわけでございます。そうしてそれを制度化したわけでありますから、そういう意味合いにおいてはもちろん他の主任も大事でございますが、比較の問題としてより重要であると考えられるものを取り上げた考えでございますので、文部省としていたすべきことをいたしたというふうに考えております。そして、文部省はそういうふうにして私どもの方で制度化しましたものについて人事院に対して御要望しているということでありますので、われわれが当然なすべき学校の中のいろいろな仕事の分担について人事院がこれを左右するというふうなものではないと理解をいたしております。
  76. 藤井貞夫

    ○藤井(貞)政府委員 人事院の性格といたしまして、公務員の処遇の問題ということは大変大事なことでございまして、その点については国会の御協力も得ながら日夜努力をいたしておるつもりでございます。したがいまして、われわれといたしましては、各省の行政に介入したり、干渉したりするというようなそういう意図は全然持っておりません。この主任問題を契機といたしまして、いろいろ論議が起こっておりますけれども、これにつきましても文部当局の考え方というものを従来から承っております。また、それに対して、われわれとして給与的な評価をするというためにはやはりはっきりとした基礎がなければならないという点からこういう点はどうなのかというような点について文部当局にもおただしし、またそれに対する整備をお願いをいたしたということでございます。その結果、いろいろな曲折がございましたが、一応制度化というものが行われまして、その後全国的に見ましてもいろいろ曲折はございますけれども、漸次その制度に伴う整備が行われつつあるというような状況でございます。  これなどを踏まえまして、私たちは私たちなりに給与的な評価をいたそうということで、先般の勧告並びに報告ということに踏み切った次第でございまして、本来の各省それぞれの行政あるいは方針というものに対して人事院当局といたしましてこれに対して関与するとか干渉するとか、そういうような目途は持っておりませんということ声はっきり申し上げておきたいと思います。
  77. 山原健二郎

    ○山原委員 いまのお話伺いますと、文部大臣は現存する主任の中で重要度の高いものという判定を下して、人事院に対してこれこれについては手当をという要請がなされておるということがわかったわけです。これはしかし、文部省が重要度の高いものという判定を下すのは、これは文部省はできるとしても、教育の立場から見ますと全く勝手な解釈であるかもしれませんよ。そういう勝手な解釈といいますか、文部省調査にはなったかもしれません。全体の状況もお調べになったかもしれません。しかしながら、全体がそう統一された形ですぱっと出てくるような教育というのは、そういう出方はしないわけですね。その中で重要度の高いものというふうな判定を下して、それから一面、人事院の方では各省の行政に関与しないという立場から、意図はそうであってもその文部省の意向だけをぱっと取り上げていくという、こういう形になっているわけですね。  そこでお伺いしたいのですが、人事院とは一体何ぞや、それは御承知のように、労働基本権を公務員労働者から剥奪した場合における代償機関としてつくられた人事院の性格からするならば、文部省の意向だけで人事院の決定がなされるべきものではないと私は思っているのです。しかも、この問題について世界でも最も大きな組織を持っておる日本教職員組合とかいうような組織、一番関係をしておる労使の立場から言うならば、労の立場を代表する大部分の教育関係者が反対をしておる、あるいはストライキの問題まで出てくるという緊迫した情勢、そういう強い反対がある、その代償機関としての人事院が、いまのお話でありますと、文部省の意向に介入しないという態度をまるのみにしておる。ここに人事院の代償機関としての任務を放棄しているのではないかというふうに考えますが、その点はいかがですか。
  78. 藤井貞夫

    ○藤井(貞)政府委員 人事院が、要するに労働基本権を制限されております公務員の代償機関としての性格を持っておる、これは大変重要な任務であるということはわれわれ肝に銘じて十分に承知をいたし、その見解のもとにいままで仕事を続けてまいっておるつもりでございます。ただ問題は、いま仰せのとおり、各種の職員団体というものがございます。また世論というものもございます。また当局というものもございます。そういう声というものは十分承知しながら、これを腹に十分に畳み込んだ上で公正な判断をしていくというのがわれわれの責任ではないかというふうに考えておるのであります。この点、言葉は若干十分ではないかもしれませんが、民間においても労使でもって団体交渉をやるということは、結局労使でもって話し合いがついたことが決まるということでございます。そういうことでもございますので、われわれとしてはあらゆる面の声を十分に聴取した上でこれに対する公正な判断をしていくということを原則的なたてまえといたしておるのであります。特にそのためには、公務員のいろいろな団体なり何なりの声を中心的な要素として聞いていくということは最も大事なことでありまして、いままでもそういうつもりで対処してきております。そういう意味では大変な努力をして、当然のことながら、毎日毎日関係の部局でもって対処をいたしておることは御承知のとおりだと思うのであります。そういうような基本的な態度でやっておるわけでございまして、決して各省庁の当局側の言いなりになっておるわけでもございませんですし、また職員団体の見解をそのまま一方的にうのみにするというわけにもまいらない、これは公正な第三者機関としての人事院の当然の職務であるというふうにわれわれは考えております。  ただ、基本的な労働権というものが制約されておる、それの代償機関としての人事院の職責というものは大変基本的な職能であるということは十分承知をいたしておりますので、その点については最大の配慮を払いつつ努力をいたしておるということがわれわれの態度でございます。今後ともこの態度は十分に堅持をしてまいりたいというふうに考えております。
  79. 山原健二郎

    ○山原委員 私も労働基本権が奪われたときのことをよく覚えているのです。私は戦前の労働運動はよく知りませんけれども、戦後、戦争が終わりまして労働運動が高揚した時期、みずからもその運動に参加をしまして、この労働基本権が奪われたときのくやしさというものを忘れることはできないわけです。そして、その代償機関として生まれたこの人事院というものがどれほど労働者にとって重要な位置を占めておるかということ、この認識は今日に至るとやや薄れてきておるのじゃないかと思うのですけれども、そういう日本の全体の民主的な過程、民主主義発展の過程、また日本の労働運動全体の問題として考えてみましたときに、人事院の立つべき公正な立場というのは、これは口だけでなくてどうしても堅持をしていただかなければならぬと思うわけです。  いま総裁は、当局の見解がある、あるいは世論がある、あるいは労働側の意見がある、こういうふうに言われましたけれども、この問題については国会の議決があるのですね。国会の議決は、いまあなた方が出されようとしている人事院規則の改定の基礎となっている人材確保法の成立の過程、これはよく覚えておられると思うのですが、衆議院、参議院におきまして激烈な論争がなされて、最終的に各党ともこの人材確保法に賛成したときのその基礎になったものがこの附帯決議なんです。附帯決議がなければ多くの政党はあの人材確保法に反対の立場をとるという情勢があったことを記憶されていると思うのです。その中で合意に達したあの附帯決議、これは大変重要な中身を持つ。しかもその中には五段階賃金差別体制はとらないということが書かれている。まさに院の議決はそういう立場にあるわけです。言うならば世論の多くを代表する国会の議決としては、差別的な賃金制度をこの問題で持ち込まないというのが決定なのです。この決定をどう見ておるのか。あなた方が先ほどから言われておることはこの決定と矛盾をするのではないか。少なくとも決定の精神とは相離れた立場にあってこれを実行されようとしておるのではないかという危惧の念を持つのでありますが、それについては矛盾をお感じになっていないのでしょうか。
  80. 藤井貞夫

    ○藤井(貞)政府委員 人確法の成立の経緯あるいは附帯決議の内容等については私も十分に承知をいたしておるつもりであります。もとより国会の決議でございますので、これは最大限の尊重をしなければならぬということは当然のことでございます。そういう点の配慮は十分にやっておりますが、今回の主任制度の問題というのは、いわゆる差別賃金あるいは五段階制というようなこととは私は関係がないというふうに考えております。それがそういう国会の附帯決議に反するものであれば、当然私たちといたしましても考えなければならぬことでございますけれども、これは当の責任でございます文部省当局がそういう考え方を持っておられないということがはっきりいたしておりますし、また、われわれも事情を十分に承知をいたしました結果、そういうことの心配はないのだというような確信のもとに今回の措置をとろうとしているものでございますので、その点の憂慮の点につきましては、われわれとしてはそういうことは考えておらない、また、将来といたしましても、国会の決議の趣旨というものは十分尊重して今後も対処していきたいということをこの席上でもってはっきりと申し上げておきたいと存じます。
  81. 山原健二郎

    ○山原委員 国会の議決は、その解釈については国会がすべきであります。五段階という言葉が出ておりましたので、そうではないとおっしゃるけれども、あの五段階賃金制度のようなものは導入しないという附帯決議というのは、「五」という字はついておりますけれども、少なくとも学校の中に差別的な賃金体制はとらないという趣旨のもとに書かれているわけですね。それを文部省が勝手に、関係ないのだと言えば人事院も、ああそうだ、関係なければいいのだ、こうなるのです。では、そこでこの附帯決議の解釈についてそういう問題が起これば、何で国会の意思を聞かなかったか、私はそう言いたいのです。それを勝手に解釈して、これとは関係ないから主任手当をつけてもいいのだなどという飛躍した、得手のよいことは得手のよいように解釈してどんどん進んでいく、たまたま五段階という言葉があったけれども、今度の場合は五段階などというものではないなどというのは牽強付会な解釈の仕方であって、これは正確な解釈の仕方ではないのです。だから国会ではその問題について当然論議をすべきことだと私は考えておるわけです。したがって、いま私が幾つか例を挙げましたように、この問題についてはとにかく意見の相違がたくさんあるわけです。賛否両論もあるわけですね。そういう中で、ともかくこの実施をやるのだという立場ではなくして中止、または国民的な合意が得られる、あるいはこの問題について国会の審議集中して行われるというような、そういう段階を踏む、そして最終的な決定を出していくという、それだけの人事院としての余裕ある態度も持たないのか、この点を伺っておきたいのであります。
  82. 藤井貞夫

    ○藤井(貞)政府委員 これに関連をいたしまする勧告ないし報告というのを去る三月に出しておるわけでございます。     〔委員長退席、三塚委員長代理着席〕 それに基づいての関連法案は、いろいろな事情がございまして先般の国会で継続審議になっていまこの国会に持ち越されておるという段階になっておるわけでございます。われわれといたしましては、人事院の性格等からいたしまして、やはり人事院の勧告というものは当然尊重していただかねばならない。また、そのための関係法案その他というものはやはりそのとおりに成立をさしていただかなければならないという強い確信を持っておる次第でございます。したがいまして、今回の場合も継続審議になっておりまする法案は今国会で当然御審議をいただき、成立をするということを衷心から希望いたしておる次第でございますけれども、それと同時に、やはり一般の主任制の実施状況、それがどうなっていくか、あるいは世論の動向、職員団体の考え方というようなものもわれわれは無視しているわけではございません。そういう意味で、しょっちゅう御連絡もとりながら、そういう意向は十分に入れて、これに対して慎重な検討をいたしておるということは事実でございます。ただ基本的な線というものは、われわれといたしましてぜひこれはやっていって妥当なことであろうというふうな確信を持った上での勧告、報告をいたした次第でございますので、その点を踏まえて国会においても十分御協力をお願いをいたしたい、これはわれわれ人事院当局といたしましても衷心からの要望でございます。
  83. 山原健二郎

    ○山原委員 私は教員給与法の問題をきょう言っておるのではないわけです。人事院規則の問題について質問をいたしておるわけでございます。そういう意味で、あなた方の方針としては三月に出されているわけです。しかしながら、今日の段階で、さらにいまの世論の状況とか職員団体の意見とかというもの、あるいは国会の審議というようなものの経過は当然この判断の資料にすべきであるということをいま主張しているわけです。そういうことの経過を踏まえずに実施することなく、中止せよということを私は要求しておりますので、これは私の要求としてここでおきたいと思います。  もう一回伺いますが、文部大臣どうでしょうか、こういう世論、国民的な合意を得るための努力は必要だとお考えになりませんか。また、これは同じく人事院総裁にも最後に伺っておきたいのであります。
  84. 永井道雄

    永井国務大臣 私は、この問題をめぐって昨年の十二月国会でいろいろ御討議をいただき、またことしに入りましてからもいろいろ御討議をいただきました。しかし、さらにそれだけでは十分ではなく、各都道府県において、制度化していく過程におきましても話し合いというものもあって、なるべく十分に趣旨を説明しながら進めていくようにということを要望いたしてまいりましたので、これは今日も、なおその上でも疑問を持たれる方々もある、完全にすべての人々が全く全部の問題について合意ということはないと考えておりますが、しかしながら、この長い経過の中で相当議論を重ね、また各教育委員会も御努力をされた結果、私の判断では、決していわば独走的に他の人々の意見が反映せずに実現されていくという過程を経てきているのではない。これは、この国会について申し上げますれば、大臣の見解を二度出しましたが、二度目の場合にはずいぶん御討議の意見も反映して出した覚えがございます。なお、教育委員会においても非常にそうした努力を続けてこられた、かような経過を経て今日に至っておりますので、この段階におきましてまたこれを全く放棄するあるいはやめてしまう、こういう考えは持っていない次第でございます
  85. 藤井貞夫

    ○藤井(貞)政府委員 御承知のように、法的な手続といたしましては、この主任手当の問題は法律改正を必要としない事項でございますので、人事院が決断をいたしますればその時点から実施に移せるものでございます。しかし、この点はいままでもるる申し上げておりますように、われわれとしてはやはり第三次勧告の内容の、これをまとまったものの一環としてとらえておるわけでございます。その段階文部省の意向、また各県の動向、世論の動き方というようなものも十分頭に入れておりますればこそ今日までそういう状況で来ておる。ということは、そういう点の配慮を十分にやっておるということの証左ではないかというふうに考えておりまして、これらの具体的な処理の仕方につきましては、関係当局の意向等を十分に配慮をしながら、われわれといたしましてもさらに慎重な判断をしてまいりたい、かように考えております。
  86. 山原健二郎

    ○山原委員 現に主任制度を実施していないところもあるわけですね。それは教員のパーセントから申しましても決して少ない部分ではないわけです。だから、教育の問題について、ともかく大変遅々としておっても合意を得ていくというのが正しい民主的なあり方だと思うのですね。それを、主任制度も実施していないところもかなりある、それも県の名前で言えば幾つかになるけれども、実際に教育関係のパーセントから言うならば相当の部分を占めておるものがまだ実施されていない、こういう状態の中で、しかも先ほどから挙げましたように、これ以上言いませんが、まだ幾つかの釈然としないものを私は持っております。  それからまた、世論の動向についても、それは賛否あるけれども、反対の意向あるいはもっと慎重にという意向が相当部分を占めておることも全く否定できない事実なんです。そういう中での問題として、これは本当に深刻に受けとめてもらいたい。  先ほど人事院総裁がおっしゃったように、これは国会の議決あるいは法律事項でないから人事院が決めればいいのだということですから、それなりに、人事院の任務といいますか責任というものは非常に重いわけですね。それが学校教育を、いま多くの父母や教師が心配しておるように、これが反動教育の材料になるのではないかというような心配、そういう心配があるときに一つの決定を出していくということがいかに日本教育の将来にとって重要な決定であるかということは篤と認識をしていただかなければならぬと思うわけです。そういう意味で私はいままで質問をしたわけですが、これ以上申し上げても煮詰まることにはならぬと思いますので、この問題についての質問はこれでおきたいと思います。人事院総裁、おいでいただきましてありがとうございました。  続きまして、ロッキード問題と教育の関係について質問をいたします。  このロッキード問題、特に田中前総理の逮捕という事件が起こりまして、これが日本教育あるいは子供たち教育にとってかなり大きな影響を与えておるということがこの国会でもしばしば論議をされておるわけでございますが、この点について最初に伺っておきたいのであります。
  87. 永井道雄

    永井国務大臣 ロッキード事件あるいはロッキードというものが日本学校教育あるいは子供に与えている影響はきわめて大きいと思います。しかもこれは前総理大臣も含まれている問題であり、さらに外国からの金銭の授受というような問題を含んでおりますから、それが子供に与える影響というものはきわめて憂慮すべきものである、私はまず全体についてさように考えております。
  88. 山原健二郎

    ○山原委員 このロッキード事件の主役となりました田中角榮総理大臣の当時、一昨年の五月十三日に東京の武道館におきまして、当時の田中首相が五切十省、五つの大切、十の反省ですが、これを発表いたしております。その四日後に、当時の文部大臣奥野誠亮氏が田中首相に会いまして真偽を確かめております。そしてその五週間後に社会教育審議会に「青少年の徳性の涵養について」という諮問をいたしておるわけでございます。これは六月二十四日のことでございます。これは当時の田中首相の徳育論議に端を発したことは、当時の状況から申しまして明確なところでございます。またそのように当時の文部大臣奥野氏は語っておりまして、そしてこの諮問が行われたわけでございます。この諮問した状態あるいは現在の状況はどうなっておりますか、その点をまず伺っておきたいのであります。
  89. 吉里邦夫

    ○吉里政府委員 御説のように社会教育審議会に奥野大臣のときに「青少年の徳性の涵養について」という諮問をいたしておりまして、現在は社会教育審議会で鋭意検討中でございまして、まだ答申に至っていないわけでございます。
  90. 山原健二郎

    ○山原委員 現在もなお鋭意慎重に審議中と言われるわけですが、この五切十省が出ましたときに、すでに田中氏にまつわる金権腐敗の問題は、国会において論議をされておったさなかでございます。そして、この五切十省についてかかる人物がこのような徳目を発表すること自体がきわめて非常識であるという世間の批判があったことも御承知と思います。ところが、この世間の批判に耳をかさずに、全くしゃにむにという形で社会教育審議会に諮問をする、こういう形がとられたわけでございます。     〔三塚委員長代理退席、藤波委員長代理     着席〕 また、これに対して国が国民の意向を無視して、こういう問題に口を出すことはどういうものかということも言われておったわけでございますが、去る七月二十七日に田中前総理がついに逮捕される、しかもロッキード社に絡む五億円の収賄罪によるところの起訴が行われておるという今日の段階、五切十省を唱えた張本人が今日のような状態に置かれておるときに、彼の発言を基礎として行われた諮問に対して、社会教育審議会がいまもなおこの審議を続けておるなどということは、全くこっけい千万な話だと思うのですが、まさにそんなことが今日なお行われておるのですか。そして答申をするというような構えで審議が続けられておるのですか。もう一回伺っておきたいのです。
  91. 永井道雄

    永井国務大臣 五切十省ということを田中前総理が発言し、またその後で当時の奥野文部大臣が諮問をされた、これは事実であります。  そこで、その五切十省との関連において、社会教育上の青少年の徳性の問題というものを取り上げるということは考えておりません。また、審議会はそういう角度で考えているわけではございません。これは、審議会大臣に諮問をされましても、その場合に、構成される審議会自身が独自の判断を持つべきものである。ただ、そのテーマが果たして重要なものであるかどうかということが非常に最初の問題になります。それで、青少年の徳性の涵養というものをどのように行うかということは、社会教育上の問題として重要なものだと思います。そのことは、田中角榮氏の五切十省というものと全く無関係に行わなければいけない。仮に何にも問題がなかった総理大臣であったとしても、無関係に行わなければならないと思います。審議会はさような性格でなければならないと思います。いわんや、いろいろな問題を生じているわけでありますから、審議会としては今日もこの問題についての検討を、青年の徳性の涵養について、ただどういう形で審議が行われているか、一、二の点について申しますと、やはり徳目を列挙するとかあるいは現在の青少年の生活の実証的な研究に基づくこれまでの教育の徳性の涵養のあり方、また今後はどうなっていくかという、そうした実証的なものを抜いたものになりますと観念的になりますから、非常に時間がかかるかと思いますけれども、そうしたものをしっかりと審議していただいているというのが現状でございます。
  92. 山原健二郎

    ○山原委員 少なくとも社会教育審議会答申を求めた諮問というのは、五切十省ということで、当時知恵太りの徳やせという言葉を田中前首相が出しまして、それに基づいてにわかに奥野文部大臣が真偽を確かめて、そして諮問をする、こういう形態をとっておるわけです。そうして当時の新聞論調あるいはこれは内外情報でありますけれども、これを見ましても、そういう立場からこの諮問は書かれておるわけですね。そうしてこの内外情報の中には、国が口を出す問題かという疑問まで提起をされているわけでございます。その後の経過はもう御承知のとおりで、全く五切十省などという言葉を出す資格のない者が出しているわけで、それを基礎にして社会教育審議会がいまなお鋭意審議しておるということはどうしても納得いきません。だからこれは答申は出さない、諮問を一度引っ込めて、改めて出すなら出す、今日ロッキード問題で国会がことしの二月からてんやわんや騒ぎをしておるときに、なおその張本人であり、しかも贈収賄で起訴されておる人物の発言をもとにして、鋭意まだ社会教育審議会審議をしておるなどということは正常ではありません。これは当然国民の前に、この諮問は一度引っ込めまして、改めて、青少年の徳性に関する涵養が必要であるならば、新たな立場で諮問をするというのが至当なやり方で、それは文部当局として国民に対する大事な仕事だと思うのです。そんなものをずるずる引っ張っているから間違ったことを、幾ら弁明したって弁明になりません、もともと根はそこから来ているのですから。ここは文部大臣としてきっぱりとした態度をとってもらって、そうしてこういう腐敗政治といいますか、賄賂政治とは文部省は縁を切るのだ、だから改めて答申をするならする、こういう姿勢を私はとっていただきたいと思うのです。  ロッキード事件は他の委員会でずいぶん論議されていますけれども、しかしこれは文教行政と関係のないことではないのです。だから文教行政としては、そういう面についてはきれいに掃除をして、そうして出直していく、こういう立場をとっていただきたいと思うのです。これはどうしても文部大臣の決意を伺いまして、そうして改めて諮問をするなら諮問をする、その立場はこういう観点だということをはっきりさす態度をとってもらいたいと思いますが、この点いかがでしょうか。
  93. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいまの御質疑に対しては、次のように申し上げたいと思います。  まず、この御質疑をいただいたことを機会に私の見解を述べることができることはきわめて幸いでございます。と申しますのは、まさに御指摘のようなふうにあの検討が続くことは望ましくないというふうに考えましたので、私は審議会の会長に、すでにいわゆる五切十省との関連で生じてきたけれども、そうしたものとの関連においてあの審議を続けていただくということは望ましくない、しからば青少年の徳性の涵養というテーマそれ自体について考えるとどうかというと、これは非常に重要なものである、いま審議会においていろいろ考えておられますから、詳細に立ち入ることはできませんが、先ほど申し上げましたように、たとえば徳目主義的なものを並べるのではない、あるいは実証的研究を行うというのはその一端にすぎませんけれども、私は明確に審議会の会長に、その初めとの切れ目を明確にして、そしてテーマそれ自体を尊重して、そうした切れ目をはっきりさせますというと、まずテーマの問題も非常に明確になりますから、そうしたものとして取り上げていただきたい。  また知恵太り徳やせというような言葉も当時ございましたが、これについては繰り返して申すまでもなく、私は、今日わが国知育がおくれているということを就任以来何回も言っておりますし、この点も審議会に伝えておりますから、決して知恵太り徳やせというような角度から御審議を願っているのではない、ただ、私は文部大臣として要望いたして審議会にそうしたことをはっきりさせましたが、審議会では当然審議会の独自性というものがありますから、その上に立っていろいろな研究方法考えられながら私の意見を生かしていただけるもの、かように考えております。御質疑をいただいたことを機に、いまの点、初めと切り離すということを申していることをこの際明確に申し上げておきたいと思います。
  94. 山原健二郎

    ○山原委員 道徳問題などにつきましては、私どもの党も党の市民的道徳の問題についての見解を発表しております。しかし、私たちはこれを行政的に押しつけるなどという考えは持っておりません。私たちはこう考えるという立場ですね、そういうものは政党として出すのはあたりまえでありますし、私の方のこういう考え方はどうでしょうかということによって、市民的道徳の高揚あるいは子供たちが最低の公衆道徳を身につけるというようなことは当然必要なことでして、それは政党としても活動していくべきものだと考えているのです。しかし、一人の政治家が発言をすればそれをぱっと取り上げて、そしてそれを審議会にかけて答申を出さすというようなやり方ですね。これに対して当時批判があったにもかかわらずそれをやって、そして、その当の政治家そのものが大変な疑惑と国民的な指弾を受けている。しかも国会もこんなふうに混乱をしている状態をつくり出した張本人であるというようなことを考えますと、いま大臣もおっしゃったようにやはりきっぱりとした態度をとりまして、改めて今度審議会が開かれるときには文部大臣みずから出ていって、いままでの審議の過程から見てこういう点があったかもしれないが、これはすっぱりと断ち切ってこういう立場でやってくださいと言うなら話はわかると思うのです。そういうことをされるといまおっしゃったと思うのです。この会長の有光次郎さん、私の中学校の先輩でしてしょちゅう会っているわけでありますけれども、本当にこの辺を明確にして、いわば出発をし直すというぐらいの決意でやっていただきたいと思いますが、その点もう一回決意のほどを伺っておきたいのであります。
  95. 永井道雄

    永井国務大臣 実は、これからするというのでなく、有光会長にすでに申し上げてあるわけです。過去のことでございます。有光会長もその線でお考えになっていただいておりますが、なお審議会全体の方々に対して明確にいたします必要を有光会長、それから平塚副会長でありますが、御判断になるというような場合には再度一層明確にするという準備はございます。
  96. 山原健二郎

    ○山原委員 ちょっと細かいことになりますけれども、朝日新聞の七月三十一日を見ますと、何でも、「永井文相ら同省幹部がホスト役となり、自民党の文教関係者を都内の料理屋に招いたのだが、集まったのは十人たらず。」などという記事が出ておりましたが、こんなのは本当ですか。
  97. 永井道雄

    永井国務大臣 ちょっといまのは何の記事ですかよくわからないので、ちょっと御説明を。
  98. 山原健二郎

    ○山原委員 これは朝日新聞の七月三十一日に出ておりますが、どこの料亭か知りませんよ。文部省予算の「文部省が例年にない静けさにつつまれている。」という文章の中で、「来年度予算案の編成めがけて自民党筋からの陳情やら圧力が盛んなはずなのだが、今夏は肩すかしだ。」と書いて、「つい先日の会合にしてもそうだった。永井文相ら同省幹部がホスト役となり、自民党の文教関係者を都内の料理屋に招いたのだが、集まったのは十人たらず。」などという記事が出ているわけでありますが、そういうようなことは例年やっているのでしょうか。
  99. 永井道雄

    永井国務大臣 私の理解いたしますところでは、例年予算の説明会があったときに夕食会がある。それが行われてきているというので、私がそれを行ったことは事実でございます。
  100. 山原健二郎

    ○山原委員 細かいことのようですけれども、この時期がちょうど三木おろしの旋風の吹いているときでもありますし、田中逮捕の直後でもあります。またそういうことに対する国民の批判も多いときであります。しかも問題は文部省であります。そういう点では、もしそういう説明が各党に対して必要であるとかいうような場合には、公的な機関を使ってやるということが少なくとも文部省の場合は必要だと私は思うのです。そういう記事が出ないような立場を貫いていただきたいという意味でいま申し上げたわけでございますので、この点についてはどうでしょうかね。こういうことが書かれるような状態ではよくないと思いますので、文部大臣の意見を聞いておきたいのです。
  101. 永井道雄

    永井国務大臣 お答え申し上げます。  別に怪しい夕食会を開いたわけではないのですけれども、私は実は就任しましてから、別に自民党の方ということだけではなく、学者の方や何かをお呼びする会もなるべく安い、と言うと変なんですけれども、金のかからないところでやりましょうという方針で参ってきておりますが、しかし安くても畳のあるところでごちそうしたりしてお話を承ったり申し上げたりしているということはございます。これは事実ですからそのとおりでございます。なお簡素にした方がよろしいということを感じておりますが、そう思いまして、畳のないところで、たとえばある場所は銀座のよく背の高いビルがありますが、そういうところの九階ぐらいに腰かけてやるところがあるものですから、さようなところの利用というものも頻度をふやすようにして、いま少しずつ国費の節減に努めているわけでございますが、私の趣味から申しますと、もう少しあっさりした方向にやったらなおよろしいと思っております。その点完全に理想的とも申しませんが、しかし方向としてはだんだんにそうしたものは一層簡素にすることは望ましいと考えております。
  102. 山原健二郎

    ○山原委員 十月八日の読売新聞に「文教予算も大幅削減 教科書、一部有料に 育英資金返済に利子」というのが出まして、ちょっと教育関係者はショックを受けておるようでありますが、大蔵省お見えくださっておると思いますが、こういう決定なのでしょうか。
  103. 佐藤徳太郎

    ○佐藤説明員 先生御承知のとおり、ただいまわれわれは文部省から概算要求の提出を受けまして御説明を受け、それから経過の御説明等を受けながら私の手元でいろいろ検討している最中でございまして、伝えられるように何らかの方針を決めたというような事態には現在ございません。
  104. 山原健二郎

    ○山原委員 方針を決めたのではないというお話でございますが、確かにそうだと思うのです。しかし大蔵省、財政困難の中でずっとこういう方向に進んでいるのではないかという予想はできるわけですね。しかもそれが教科書の有料化という問題などが出てまいりますと、これはまさに今日の教育の逆行だと思います。そういう意味で、私ども戦後教科書をただにせよという運動、これは憲法に基づいた義務教育無償の精神からやるべきだということで相当大きな運動を展開し、その中でようやく教科書無償という問題も出てきたわけです。問題はないわけではありません。教科書無償と引きかえのように、教科書に対する検定の強化とかあるいは広域採択制などというものが出てまいりますから、その点はいまこの時間では問題にしようとは思っておりません。しかしながらこれは大変なことですよ。そういう意味文部省はこれに対してどういうお考えを持っておるか、伺いたいのであります。  それからさらにここに出ておりますのは、教科書の問題、育英制度の問題ですね。ただいま言いましたように利子をつけるとかそういった問題、幾つか出ているわけです。額の引き上げ、対応人員の増加が出ていますけれども、これらについては文部省はどういう見解を持っておりますか。これは各局長の見解を伺っておきたいのです。最初に、教科書の問題については文部大臣の御意見を承っておきたいのです。
  105. 永井道雄

    永井国務大臣 新聞報道にありましたのはなかなか多岐にわたっておりますが、それではお言葉のとおり、私は教科書の問題について申し上げさせていただきたいと思います。  教科書が現在無償で用いられているというのは、これは義務教育の水準を保持する上で教科書というものは非常に重要な教材であるということから起こっているわけでございますし、そしてまたその根拠は、憲法二十六条にある義務教育無償の精神というものを広く実現しようとするものであります。その精神に基づいて、昭和三十八年から全額国庫負担による無償給与というものを実施して今日に至っているものでありますから、この教科書無償を社会保障的なものであるとか、あるいは就学奨励的な目的のものであるというふうに考えるべきではないと考えております。施行後すでに十数年を経まして、この制度はもはや国民の中に十分に定着いたしたものでございますから、学校教育における教科書というものの重要性にかんがみまして、文部省といたしましてはこの制度を変えるということはいささかも考えていない次第でございます。
  106. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 高等教育への進学率が四〇%近くになってきているわけでございますから、そういう状況のもとでわが国の奨学制度というものを今後どのように整えていくか。ことに奨学事業のその規模、給与の水準あるいはその原資について、一般会計のほかにその他の原資を導入すべきであるかどうか、そういった問題を含めて根本的に検討すべき課題が多いと私どもは考えております。  有利子化の問題もそうした根本的な課題の検討の一環として検討されるべきものであるというふうに考えておりますが、当面、育英会の奨学金についての有利子化ということをにわかに考えるわけにはいかないというふうに考えております。
  107. 山原健二郎

    ○山原委員 授業料の問題も出ておりますが、その点についてはどうですか。
  108. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 授業料について、学部によってかかる経費が違いますので、それに応じて授業料の額も変えてはどうかというふうなことが伝えられております。私どもは、もちろん学部によってかかる経費は違いますけれども、医学部なり教員養成関係の学部なり、それぞれ担っている役割りが違うわけでありますから、かかる経費が違うからといって直ちに学部ごとに授業料が変わっていいものだというふうには考えておりません。この点については慎重な検討を要するというふうに考えております。
  109. 犬丸直

    ○犬丸(直)政府委員 私学の経常費助成につきましては、この記事では「経常費助成は人件費の増大を極力切り詰め、今年度並みに抑制する」というような記事になっておりますけれども、私学経常費助成の一番重点は人件費でございます。したがいまして、人件費の拡充と申しますか、人件費助成充実中心といたしまして、既定方針どおり強く要求してまいりたいと思っております。     〔藤波委員長代理退席、三塚委員長代理     着席〕
  110. 山原健二郎

    ○山原委員 文部行政の中で一番重要な部分である教科書の問題、授業料あるいは育英制度の問題あるいは私学の経常費の問題、こういう問題にずばり焦点が当てられた新聞記事になっておりまして、大蔵省の決定ではないとはいいながら、こういう方向で寄り寄り話がなされておるのではないかと思うわけです。これに対して文部大臣を初め各局長とも、教科書等についてはいささかも考えを変える意思はない、あるいは慎重な審議が必要である、あるいはそういう考えは持っていないとそれぞれお話しになりましたが、しかし事が大蔵省との関係になってまいりますと、そういう決意は持ちながらも押し切られるという状態がいままでもないわけではありません。これは相当の決意をもってかからなければならない問題だと思います。しかも、日本教育の最重要部分に対するこういう声が財政を預かる省から出ておるということはきわめて大事な問題でありまして、これについては、恐らく文部省としては絶対容認できないという立場で予算要求をされていくことと思います。そのあたりの決意を伺いまして、この問題については質問を終わりたいと思いますが、文部大臣の御意見を承りたいのであります。
  111. 永井道雄

    永井国務大臣 文部省といたしましては、来年度については、長い時間をかけてつくり上げてまいりました概算要求に盛り込まれております考え方がわれわれの考え方でございますので、これを大蔵省に説明してまいりましたけれども、ぜひこれを理解していただくべく今後も努力をいたしたいと思っております。そこで出てまいりました四つの問題につきましては、私並びに他の二局長が申し上げましたことが現在、文部省考え方であり、これは現在そうであるばかりでなく、きわめて重要なものでありますから、この考え方をもって概算要求を進めていきたいと考えております。
  112. 山原健二郎

    ○山原委員 体育局長にお伺いしたいのですが、スポーツの問題であります。  日本のスポーツの問題全体についての大きな問題がオリンピックを契機としたりしまして起こっているわけでありますが、いま青年、少年たちの間におきますスポーツの問題というのは、これは青少年だけでなく非常に要求が高いわけです。ところが、実際にスポーツをやろうとしてもやる場所がない、施設がない、こういう全く劣悪な状態に置かれております。私の県などでは、高知市の場合、たとえば朝の野球をやろうとしましても、一年半も前から申し込まなければその場所を確保することができないというような状態があるわけでございますが、この点についてお伺いをいたしたいと思います。  一つは、一九六一年に制定されましたスポーツ振興法は、その第四条で、スポーツの振興に関する基本計画を策定するようになっておるのでありますが、十五年経過しました現在もなお定められていないのはどういう理由でありましょうか、策定の用意はあるのか、この点を最初に伺いたいのであります。
  113. 安養寺重夫

    安養寺政府委員 昭和四十三年の九月に体育・スポーツの普及振興に関する基本方策ということにつきまして、文部大臣から保健体育審議会に諮問をいたしまして、四十七年の十二月に答申が出てまいったわけでございます。これに基づきまして、四十九年度以降国の施設費補助の基本的な計画を立ててまいりまして、逐年それなりに、公共施設の新増設その他の整備に鋭意努力をいたしている次第でございます。  なお、その後五十年に体育施設の悉皆調査をいたしました。これは学校施設を含めまして、公共施設、民間の非営利もしくは営利企業による施設等々の悉皆調査をいたしたわけでございます。その結果をもとにいたしまして、かつていただきました保健体育審議会基準的なお考えと実態がどのように動いているかというようなことを点検し、今後の方策をまとめたいという意味合いもございまして、日常生活におけるスポーツの推進について調査研究のための協力者にお集まりをいただきまして現在具体的な今後の取り組み方について御検討を煩わしておりまして、この結果を得て、私どもとしましては、現在求められております今後のスポーツ振興の諸般の施策の基本的な考え方まとめてみたい、かように見通しを立てておるわけでございます。
  114. 山原健二郎

    ○山原委員 ただいまおっしゃった協力者というのは、一九七二年に保健体育審議会答申した「日常生活圏域における体育・スポーツ施設の整備基準」に基づくスポーツ施設の建設の問題のことでしょうか。
  115. 安養寺重夫

    安養寺政府委員 さようでございます。
  116. 山原健二郎

    ○山原委員 公共スポーツ施設整備への国の補助率は、スポーツ振興法第二十条で三分の一と決められていますが、実際は十分の一程度に落ち込んでいると聞いております。施設整備推進のために国の補助を二分の一に引き上げるべきだという意見が出ておるのでありますが、これは実態はいかがでしょうか。そしてそのような意思があるか伺っておきたいのであります。
  117. 安養寺重夫

    安養寺政府委員 現在私どもの方でお預かりしております補助金には対象の物件がいろいろございます。総合国民体育館、総合屋内水泳プール、一般的な水泳プール、屋内外、あるいは小型の体育館、運動場等々、これは幾つも種類がございまして、私どもとしましては、それぞれにいろいろな諸経費の単価の充実を高めてまいりたい。ただいま十分の一というようなお話がございましたが、ものによりましては九割、八割、七割といろいろございまして、私どもとしましては、なるべく実勢に近いように努力をしてまいったわけでございます。今後もそのような努力を引き続いていたさねばなるまい、かように決心をしておるわけでございます。そういうような状況でございまして、傍ら施設の数もまだまだ必ずしも多くないというようなことでもございますので、補助率の方は当面二の話といたしまして、私どもとしては、いいものを建てやすくというような観点から、単価のアップにつきまして関係者の御理解をいただきたい、かように考えておる次第でございます。
  118. 山原健二郎

    ○山原委員 スポーツ振興法の第二十条によりますと、スポーツ振興を目的とする団体が有意義な事業を行う場合には補助を行うと書かれておるのでございますが、これはそういう補助が適切に行われているのでしょうか。
  119. 安養寺重夫

    安養寺政府委員 ただいま国の、団体活動のための助成の補助金の交付というのは限られた数のものでございます。スポーツ振興のために国、公共団体、さらには各種の民間の組織がいろいろ特色ある御活動をいただける、そのために国が援助すべきである、好ましいということにつきましては仰せのとおりでございます。しかしながら現下の財政事情にかんがみまして補助金の整理、統合、あるいは有効利用ということについてまず第一義的に努力をすべき段階でもありますので、私どもはそういう観点からこの補助金の制度を充実してまいりたい、かように考えておるわけでございます。
  120. 山原健二郎

    ○山原委員 スポーツの問題はこの委員会でも余り取り上げられていない問題になっていますが、皆この問題については注意をし、関心を持っていることは事実です。またスポーツ人口というのは大変多いわけでして、しかもその要求がわが国においてはほとんどかなえられないような状態にあるわけです。この問題はかなり論議をしまして、スポーツの振興国民がどこでもいつでもスポーツに親しみ、体力を増進していくことができるという状態をつくるということは大変重要なことでありますので、そういう意味で、いま私は幾つかの問題について出されておりますこれらの団体の要求を読み上げて御質問を申し上げたわけですが、こういう振興、ただオリンピックで金メダルを取るなどということだけに集中をして、一方では国民の体位が大変貧弱になっていくとか、スポーツ人口そのものが大事にされて、そういう体制が崩れていくとかいうようなことは大変よくないことでありますから、文部大臣におきましてもこの問題については大きな関心を持っていただきたいということを要請しまして、この問題についてはおきたいと思うのです。  最後の質問は、この間私は日本青年団協議会、日青協の人たちとお目にかかったのでありますが、そのときに、国立青年の家などの運営につきましていろいろな要請を受けたのであります。それは、非常に窮屈であるということ、そして管理運営について非常に民主的でないというような意見が出ておったわけでございます。  これは改善をしてもらいたいという立場で私は申し上げたいのでありますが、国立青年の家の管理運営についての条項を見ますと、七項目のところに国立青年の家は、青年の希望、国家及び社会の要請にこたえ、運営しなければならぬと書かれているわけであります。したがって青年の希望に沿って行われるということは非常に大事な運営上の問題だと思っています。ところが青年たちが集まりますと、時間については、たとえば青年たちが懇談をする場合に夜遅くなったりいたします。夜明けになって鶏が鳴くころ気持ちがほぐれ合うというようなこともあるわけでして、実際に青年団活動などをやっていますとそういう状態に直面をするわけでありますが、なかなかそういうことがうまくいかないという硬直した運営がなされておるのではないかというのが第一点であります。これはなるべく調査をしていただいて、改善をしていただきたい。  もう一つは少年自然の家の問題でありますが、これは高知県の室戸に全国で初めて少年自然の家が設立をされました。先日も私はこの自然の家に参りまして、見せていただいたのでございますが、りっぱな施設でもありますし、またここへ勤めておる文部省の出先機関の人たちもまじめに一生懸命家族も含めて赴任をして努力をしておる姿を見ました。その点、大変よいことだと思っておるわけであります。また利用度も高いと聞いております。  ところが先日こういうことがあったのです。これは高知市の土佐教会と申しましてキリスト教の教会でありますが、そこの方たちが一泊して子供たちのレクリエーションのためにこの少年自然の家をお借りすることになったわけです。ところがその中で、一つは賛美歌の問題が出てくるわけです。賛美歌を歌いたいというふうに希望を出しておるのですが、これはその真偽はどうかわかりませんが、建物の中では歌わないで屋外でやるという意向で賛美歌の問題を出されたそうであります。ところが、これはいけない、歌ってもらっては困ると言われているのであります。それからさらにもう一つの問題は、少年自然の家の方から国旗掲揚の行事に参加せよというふうに来ておるわけであります。そこで、この牧師さんは吉田さんとおっしゃる方でございますが、大変信頼の厚い、まじめな牧師さんでございますけれども、この国旗掲揚については少年自然の家がやられる分については私どもはとやかくは申しませんけれども、その儀式に全生徒を参加さすことを義務づけることについては、私の方は見解の違いがございます、こう述べておられるのでございます。そこでうまくいかなくなりまして、せっかく借りることが受理されておりましたけれども、賛美歌の問題と国旗掲揚の問題とでついに借りることができなかったという状態があるわけです。  そこで、国旗掲揚の問題についてでありますが、もちろん国旗掲揚についてはいろいろの見解があります。また、日の丸という国旗について、戦時中から戦後にかけての経過からするならば、いろいろな考えを持っている人が国民の中にあるのもまた事実でありますから、これを強制するわけにはいかないと思います。そういう点で、少年自然の家あるいは国立青年の家を利用する者には必ずこれを義務づけをしてやらす、こういう立場は私は正しくないと思うのです。団体や個人によりまして見解の違いもあれば、またその旗に対する気持ちの動きというものもあるわけですね。それを、ここへ来れば必ずそれをやらすのだということは、まさに国家の押しつけであるというふうに考えるわけです。まして宗教上の立場からそういう点についてまだ疑問を持っておる人たちに対して押しつけるというようなことも、正しい運営の方法ではないと考えています。この人はこうおっしゃるわけです。先ほど言いましたように、この少年自然の家が国旗を掲げたり、あるいは君が代を歌ったりすること、それを私たちはとやかく言っているわけではありません、しかしここでレクリエーションをやる場合には必ずそれを義務づけて、その儀式に参加しなければ使ってもらっては困るという態度は正しくないと私は思います、こう宗教上の信念から彼ははっきりおっしゃっているわけでございます。こういう運営の方法については当然柔軟なあるいはもっと改善された立場をとる必要があるのではないかというふうに考えますが、これらの点について文部大臣の見解あるいは関係局長の御意見を承っておきたいのであります。
  121. 吉里邦夫

    ○吉里政府委員 幾つかの点にお答えいたします。  まず、青年の家の運営につきまして関係者、利用者からのいろいろな御意見は絶えず聞いて運営の改善をいたしているところでございまして、運営委員会をつくっていろいろな御意見を吸い上げ、また私どもの担当局といたしましても、たとえば先生指摘の青年団協議会のメンバー等にも会っております。ただ問題は、青年の家の宿泊団体訓練という目的におきます最低限の、たとえば朝何時に起き、夕方何時に休んでいただく、というようなこと等は、最低の秩序として守っていただいておるわけでございます。ただ、その団体の性格あるいはリーダーの統率力等々を判断いたしまして、各種の立場で、もう一つは施設の立場で、場合によっては、ある団体で夜就寝時間を若干延ばして議論をしたいというようなときに所長の判断でその都度善処をいたしておりますので、この点は絶えず意見を聞きながら、また運営の改善をしていくということで努めたいと存じております。  なお、少年自然の家の問題でございますが、実は御指摘の点寡聞にして私事実問題を聞いておりませんので、調査はいたします。ただ、私ども青年の家、少年自然の家におきましては、朝夕の活動の一つの区切りといたしまして、君が代の演奏のもとに日の丸と所旗を上げまして、皆さんのヒューマンリレーションあるいはその翌日の活動へのいざないというようなことをやらせておりますので、これは私どもとしてもいいのではないかというふうに思っておりますが、いま具体的な御指摘の点につきましては、具体的な調査をしてできるだけ御希望にも沿いたいと存じております。
  122. 山原健二郎

    ○山原委員 こういう施設ですから、すべての規律をこわせなどということを要求しておるのではなくして、当然団体訓練をやる場合の規律も必要でありましょうし、またこの施設としての規律もあると思います。それに対して非常に硬直した立場をとらないということが必要でありまして、それぞれの団体の性格に応じて、本当をいえば本当に自由に使ってください、それに対して一定のサービスもしていくというようなことが必要だろうと思うのですが、国のものだから国のはやはりかたいなというような感じでなくして、規律は規律で守っていくけれども、しかしそれなりの柔軟な姿勢も今後の発展のために必要だと思いますので、そういう意味で申し上げたわけですから、よろしくお願い申し上げる次第であります。  以上で私の質問を終わりたいと思います。
  123. 三塚博

    三塚委員長代理 次回は、来る二十日開会することとし、本日は、これにて散会をいたします。     午後三時四十七分散会