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永井国務大臣 山中吾郎議員は私が
文部大臣に就任いたします前から存じ上げておりまして、とりわけ議員として
教育のために御活動になっているということに敬意を抱いておりました。今回立候補をされないことを御決意になり、ただいま質問をいただきますことは、私にとってまことに光栄であります。また、過去十八年と記憶いたしておりますが、議員生活を通して公正なる立場で
教育に臨もうと御
努力になった御業績に対して、心から敬意を表する次第であります。
選挙も間もなくありますが、そして私に選挙に立候補してはどうかということをおすすめいただいた方々の数はきわめて多いのでありますが、就任以来今日に至るまで、立候補を
考えたことはございません。それは何であるかといいますと、立候補することは容易でありますけれども、
わが国の
教育を守ってまいりますためには、いまだにわが政界におきましては
教育を政争の中にともすれば巻き込む勢いもありますから、私は微力でありますけれども、就任のときに総理
大臣がその
方針のもとに私を採用され、私も約束をいたしました事柄を守って、立候補をいたさないわけでございます。さような立場にある者として御答弁申し上げます。まず、就任以来幾つかのことを
考えましたが、
一つの問題は、なるほど終戦直後の
日本に戻せということでありましょうが、しかし大事な問題は、終戦直後の
日本というものはいろいろな形の民主的
教育、そうしたものが生まれてきたわけでありますが、率直にわれわれが認めなければならないのは、
日本人自身の力によって築いたのではない、そうでない部分が多々あるということであります。そして、やがて冷戦
状況というものに入りまして、
わが国の政治は、ときには過度にこの冷戦
状況を反映し、これが
教育界に投影いたしました。他方、社会がいわゆる管理社会的
方向に向かっていくにつれて、管理
強化、管理反対という、そうした事柄も
教育界にきわめて大きな影を投げたと
考えております。それが、おおよそ
教育というものが政争に巻き込まれやすくなった重要な理由であると
考えます。
過去二カ年を顧みまして、私は満足をいたしておるかと申しますと満足はいたしておりません。つまり私の仕事に満足をいたしておらないのでございます。しかし、他面歴史の形成というものは長い年月を要するものであり、
文部大臣の仕事というものも、いわば長距離レースを駅伝競走のごとく走っていく
人間が、確実に次にバトンを渡していく、そうした仕事であると理解せざるを得ないのであります。
御
指摘のごとく、主任の問題につきましては相当の衝突がありました。そうした結果に相なったことは決して私の望むところではありませんでした。これも初めにお約束申し上げましたように、私は、そうした際に野党を攻撃いたしません、むしろ、みずからの力の足りないことを反省いたすでありましょうと申し上げましたが、今日その言葉を繰り返すことにいたします。
しかし、OECDの報告書も
指摘いたしておりますように、
わが国の社会における集団の閉鎖性というのは、単に自民党、日教組、社会党などにとどまるものではないように
考えます。たとえば
大学教授と
学生の間、あるいは
大学と
文部省との間、これらも例示されているところでありますが、いろいろな
意味での集団的閉鎖性、これが政治的
状況に助けられて、政治的でない率直な応答というものが集団を越えて行われにくい社会であるということを認めざるを得ないわけであります。
それにしてはこの二年間、主任制の衝突はございましたけれども、たとえばこの国会においていろいろ率直なる御批判を賜って また私はそれに対して答弁を申し上げました。そして意見の対立というものはきわめて大事であります。この
委員会において行われたがごとき討論というものがもっと広く社会において行われることができたのであればなおよかった、かように
考えておりますから、そうした
意味合いにおいては、主任制の問題というものも、あるところへついていく一里塚としての争いであった、かように
考えている次第でございます。
さらに、実は主任制も何をねらったかと言えば、私は、管理
強化と管理反対ということではなくて、この方は四、五日前に亡くなった東京都三鷹市立四中の
先生であった遠藤さんという方でありますが、「出会いの
教育」というものを停年の後に書かれて亡くなりました。
先生は校長になられても、後、ともすれば管理職に傾斜しやすいが、校長は引き続き
教育指導をしていくものだ、そして
自分はそれをやり続けてきたことは満足であるということを書かれて、そして私はお返事を差し上、けたのですが、奥様から亡くなったというお知らせがありました。
私は、主任というものが
教育指導に当たっていく、そのことから、きっかけに望んでおりますのは、校長、教頭も管理は大事でございますが、同時に、
教育者としての
指導者、そうしたものにもう一度一層の活力を生かしていただきたい、かように
考えたわけでございます まあ衝突以来しばしの時日を経ます間に、いろいろな議論がゆっくりと起こってきているようでございますから、私はまだ一里塚にいるという感を持っておりますので、この問題については、この職にあると去るとにかかわらず
努力を続けたいと
考えております。
ただ、主任の問題というものも、帰するところ、
わが国の教員養成というものを
考えた場合に、いまのもので十分か、もっと現職
教育というものを十分にやっていくべきではなかろうかという問題と関連をいたしております。つまり教師の力量を高めていくということと関連をいたしております。そしてそのことは、恐らく
わが国の
教育界の最大問題であるいわゆる試験地獄と関係しているというのが、この二年間私が痛感をいたしてまいったことであります。
したがいまして、この二年間、最も
努力をいたしましたことは幾つかありますが、その
一つ、重要なのは試験地獄の解消ということでございました。解消というよりは緩和であります。そして、四頭立ての馬車という言葉を創案いたしましたが、幸いにこの二年間に、
大学入試制度は五十四年から発足することと相なり、また
大学の形態というものも、国公私、財政的な
政策の変化に伴って相当の構造変化というものを予想し得る
政策をつくり上げる
段階に到達することができたのは、もちろん私個人の力によるよりも、議員の方々また役所の人々の協力によるところきわめて大であると感謝をいたしている次第でございます。
さらに第三番目の馬は
教育課程、しかしこの
教育課程も、先ほど
三塚先生に申し上げましたように課程だけ変わり、
教科書が変わればよくなるというものではございませんから、やはり
先生方の
教育指導そして
教育、さらにまた
教育評価がどう変わっていくかというようなことに関連する大きな問題でありますから、こうした
政策はまだ足りないものがあって、一層進めていかなければならないと思いますが、まず過去二年を顧みて、やっとこの四頭立ての馬車の三頭の馬を並べることができる
段階に到達することができた、あとはこれが走ってくれれば相当の変化は起こり得る。ただし、明年からどうなる、明後年からどうなるというほど簡単ではないと思います。
わが国の民主主義を建設いたしてまいりますのは、いまや占領軍ではなくわれわれでございますから、われわれが連帯し、力を合わせていかない限りできないものと思います。そしてその
基本的な前提としては、政党はたくさんあるわけでございますから、意見が異なり鋭く対立するということはきわめて当然であると私は
考えます。しかし、でき得る限りそうした対立というものも、
教育の現場における問題に即して対立していくということで進んでまいりますならば、私はむしろ対立から実りのある成果が生まれてくるはずであるというふうに
考えておりますし、そうした
意味において過去の二年間というものは、私にとって顧みて空白なる感があるというのではなく、やはりこうした歴史の動きの中で、私
程度の力を持つ
人間というものが体験し得るものを体験した、しかし、主観的には、私としては
国民の
教育にお役に立ちたいと
考えながら生きてきた、なお不満なる点は多々残っている、これが偽らざる心境でございます。