○小嶋
参考人 実は答え方がちょっとむずかしいのです。というのは、憲法八十七条の予備費という規定が一体どういう
趣旨のものかということは、これは御承知のような事情で憲法ができましたために、当初日本側に余りわかってなかったんだということが、だんだん後で資料が明らかになりますとともにわかってまいります。総司令部部内で草案を練りましたときには、たとえば
予算が成立しないようなときにも使えるようなリザーブファンドなんだというつもりでああいう予備費の規定を入れたのだということが、これは占領末期にわかっておりましたし、その後、起案者のメモなどが持ってこられまして、だんだんわかってまいりました。しかし、当時日本の
財政法をつくりましたときには、そういう司令部部内の事情というものがわかりませんものですから、明治憲法六十九条の予備費と同じ性格のものだろうというような気持ちで、恐らくいまの
財政法二十四条になったのだろうと思うのです。問題は、
年度開始のときに
予算が成立しないときに使えるというのですから、本当は
歳入歳出予算の中に規定するなんということは、全然性格の別のものでございます。したがって、現在予備費と言われているものが本当に総司令部が考えたような予備費なのかどうかということも、これはもうそうでないということはわかっておりますが、ただ、そうしますと、憲法の解釈というのは一体何だということになってしまいまして、一応現在のところはこういうふうに考えるのが妥当なんじゃないのか。八十七条では「國會の議決に基いて豫備費を設け、」というふうに書いてございます。この「國會の議決に基いて」というのはいろいろな形の議決があるだろう。
予算外に法律でつくるということもあり得るし、
歳入歳出予算の中に入れるという予備費もあり得るだろう。これは一種類じゃなくて二種類あっても構わぬだろうというふうに私は考えております。
そういう立場で私は物を書いておりますが、そうしますと、いまの
財政法二十四条の予備費というのは、憲法八十七条の予備費というのをそのまま制度化したものじゃなくて、その一部を制度化したものであるというふうに私は
理解しております。特にあそこでは内閣の責任で支出することができるなんて書いてあるのですね。これは非常に物々しい使い方でございまして、その辺に総司令部内の考え方が私は出ているのだと思うのです。憲法の関係はそういうふうに一応整理して御了承願ったことにしまして……。
二番目に公共
事業等予備費の問題でございますが、実は私などのように書斎におりますと、日本のいままでの
財政制度及びそれに与えられた
運営というのは非常に古臭いものじゃないかという印象を持っているのです。と申しますのは、これは御存じだと思うのですが、日本の
予算の法的効力に関する、あるいは効果に関する考え方というのは、明治九年ごろの会計法とちっとも変わらないのです。何といいますか、国家はなるべく金を使わぬ方がいいんだ、したがって
予算の拘束力というのは定められた金額をオーバーしてはいけないのだというような、そんな考え方で
運営されているように私は思うのです。しかし、先般来そこで私拝聴しておりますと、現在の
財政なんというものは決してそういうふうにチープガバメントがいいなんということは考えていないので、積極的に経済に対して干渉していくという機能を大いに発揮しなければいけない。そういたしますと、昔のように金を余せばいいという思想での制度及びその
運営というようなものは、やはりやめなければいけない。
これは
一つの観点は、国
会議決主義ということを考えますと、ある項目はなるほど金を余す方がいいだろう、しかし、ある項目はむしろ全部使い切ることの方が国会の意思を尊重するゆえんじゃないのだろうか。これをアメリカではミアオーソライゼーションとマンデトリーオーダ一というふうなことを言っております。日本ではそういう項目の区別も実はまだやっておりません。国
会議決主義というようなことは項目としてはよく聞くのですけれ
ども、それはやっておりません。
それから他方でもう
一つは、
予算というものは余せばいいんだ、上限だけを決めておくというやり方をいたしますと困ることは、こういうことになるのですね。たとえば
政府が
景気政策などをやろうとするときには、あらかじめ余分に取っておきまして、そして要らなければ余してしまうのだというような組み方をせざるを得ない。そうしますと、そういうことは、一方では税金をよけい取る、あるいは
国債をよけい出すというようなやり方になってくるわけで、そういたしますと、増税するとかあるいは
国債をよけい発行を認めてもらうということは決していいことではありません。
私、余り外国のことは知らないのですが、二十年ぐらい前にフランスのことをやりましたときに、あそこの制度は非常にうまくできておると思いましたのは、あそこでは、日本のように余せばいいという項目もあります、しかしその項目を超えて支出してもいいという項目もあるのです。たとえば裁判官の給料みたいなものは、足らぬからといって支出しないというわけにいかないし、あるいは民事上の裁判による賠償の支払いのごときも、
予算がないからというようなことで支出しなくていいという性質のものじゃありません。そういうものは、日本語で暫定的
経費あるいは暫定的支出許容と私は翻訳したのですけれ
ども、フランス語ではクレディエバリュアティフというふうに言うのですが、そういうものもある。他方で今度、日本のようなものとの中間に、この金額を超えても構わない——先ほど言いました裁判官なんかの場合には、国会にかけましても別段審議もただ形式的にやるようなものでございますね。そうでなくて、もう少しポリティカルな
決定になるのですけれ
ども、必要があればこの項目は景気調整等のために使っていいという、そういうものがあります。これを予測的支出許容と私は訳したのですが、フランス語ではクレディプロビジョネルというふうに申します。そういう予測的というものは、フランスでは、じゃそれを超えたらどこから取っていくのだろうといいますと、ちゃんと予備費の中に、予備費というものを二分しまして、一方では色のつかない予備費、他方ではそういうときに使うべき
財源の予備費というような形で使うのです。今回の公共
事業等予備費というものを拝見いたしまして、日本も少しフランスのそういうやり方に近くなったわい。昔のやり方で何かレッセフェールみたいな
財政制度及びその
運営ということを実はちょっと感じたのです、正直に言いまして。
じゃ、従来の日本のやり方が、いまの
財政法の二十四条から、これは全くあれしか固定的に許せない制度であるかというと、あそこには憲法と同じように「予見し難い
予算の不足に充てるため、」と書いてあります。そういういわば弾力的
運営を与える余地というもの、そういうものがあそこにはあり得るわけで、現代的な
財政に対して期待された機能にこたえ得る条文だろうと私は思うのです。そういうことは、一方では恐らく国会の議決権を制限することになるだろうと思うのですけれ
ども、国会の議決権よりも、もう少し日本の
財政制度及びその
運営を現代国家が要請されておる方向に近づけて
運営する、そういうことは私は可能だと思いますし、むしろ何といいますか、外国では二十年も前にやっていたことをやっとここまでという印象を私は持っております。