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1976-05-14 第77回国会 衆議院 文教委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十一年五月十四日(金曜日)     午前十時三十分開議  出席委員    委員長 登坂重次郎君    理事 河野 洋平君 理事 西岡 武夫君    理事 藤波 孝生君 理事 松永  光君    理事 三塚  博君 理事 木島喜兵衞君    理事 山原健二郎君       上田 茂行君    臼井 莊一君       久保田円次君    床次 徳二君       楢橋  進君    羽生田 進君       深谷 隆司君    辻原 弘市君       長谷川正三君    栗田  翠君       有島 重武君    高橋  繁君       受田 新吉君  出席国務大臣         文 部 大 臣 永井 道雄君  出席政府委員         文部大臣官房長 井内慶次郎君         文部大臣官房会         計課長     宮地 貫一君         文部省初等中等         教育局長    諸沢 正道君         文部省大学局長 佐野文一郎君         文部省学術国際         局長      木田  宏君         文部省社会教育         局長      吉里 邦夫君         文部省体育局長 安養寺重夫君         文部省管理局長 清水 成之君  委員外出席者         文教委員会調査         室長      石田 幸男君     ————————————— 委員の異動 五月十三日  辞任         補欠選任   上田 茂行君     濱野 清吾君   楢橋  進君     早川  崇君   羽生田 進君     松浦周太郎君 同日  辞任         補欠選任   濱野 清吾君     上田 茂行君   早川  崇君     楢橋  進君   松浦周太郎君     羽生田 進君 同月十四日  辞任         補欠選任   安里積千代君     受田 新吉君 同日  辞任         補欠選任   受田 新吉君     安里積千代君     ————————————— 五月十四日  学校教育法の一部を改正する法律案(第七十五  回国会閣法第五一号)(参議院送付) は本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  文教行政基本施策に関する件      ————◇—————
  2. 登坂重次郎

    ○登坂委員長 これより会議を開きます。  文教行政基本施策に関する件について調査を進めます。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。有島重武君。
  3. 有島重武

    有島委員 第七十七回通常国会における文部大臣所信に対する質問をさせていただきます。  これはすでに、本年二月の十三日に大臣からもお話があったわけでございまして、これを文教各般の審議をする前にさしていただくのが順当であったと思うのですけれども、きょう五月の半ばになりました。これは申すまでもなく、ロッキード問題が国会を揺るがすような問題になってしまって、それの取り扱いについて意見がいろいろ対立したというような事情があったと思うのです。ですから、ロッキード問題についての文部大臣のお考えについて最初にちょっと承っておくのが順当であろうかと思いますので、二、三伺います。  このロッキード問題が単なる偶発的な事件ではなしに構造的な汚職問題であると言われている、したがって、このことをうやむやにすることは今後の政治全般に対する不信につながるであろうというふうに私たちは思っているわけです。それで、これは学校の現場におきましても、これだけ世間が騒いでおりますから、生徒さんの間にもいろいろな話が起こっておるし、それに対して教員の方々は何らかの対応を示さなければならないというような羽目にもなっていらっしゃいますね。文部大臣としてのお考えを承っておきたいと思うわけです。
  4. 永井道雄

    永井国務大臣 ロッキード問題に対する政治的なないしは司法的な対応の問題は、直接文部省としてかかわることではないと思います。しかしながら、内閣の一員といたしましては当然にこの問題に対して十分配慮いたすべきことでございますが、総理大臣ロッキード問題につきましてはその究明に努めるという立場を表明されておられますし、またそういう角度からの努力が続けられておりますので、私はこれを支持するものであります。  なお、文部省として教育の場においてこうした問題をどのように扱っていくかということにつきましては、これはいわば時事問題的側面を持つと思いますが、この種の問題の検討に当たりましては、やはり事実に即してそして論理的に解明をされていく、これは学校でやるのではなく、政治司法において行われるわけでありますが、児童、生徒発達段階に応じましてこうした時事問題を慎重に、また冷静に学習していくことは必要であるというふうに考えております。
  5. 有島重武

    有島委員 時事問題として学校の中でも扱わざるを得ない、扱っていくということだと思います。  それで、ロッキード遊びなどということもはやっていたり、あるいは全く存じませんであるとか忘れましたとか記憶にございませんとかいう言葉がはやったり、そういったような表面的なこともございましたし、現にまだそういったことがあるようですし、それからそれに対応して教師が戸惑ってしまう場合もあるということも直接聞いています。それからもう一つは、日本語の論理の問題として、そのときにトライスターの問題が出たかと言ったらば、出ませんでしたといったような話があって、それが数時間を出ないときに、いや、相手方からはその話が出なかったということで、私の方からはその話を出したのだというようなこともございました。こういうことについて先生が問われる。日本語の言い回しということについて、どっちもうそではなかったのだと思うべきなのか、これはやっぱり片方はうそだったのですかとか、そういうことを教師が聞かれたということもあるわけですね。いまの問題なんかについては大臣はどうお思いになりますか。
  6. 永井道雄

    永井国務大臣 学校先生といたしましても、この問題をどういうふうに教室でこなしていくかということは、実に多量な情報新聞に出ておりますから、大変な御労苦であると考えます。しかしながら、たとえば、知りません、存じませんというような報道もございますが、他方において、国会においても与党野党を通してこの問題に対して深い関心を示しておられるがためにいろいろな御努力があり、そのことも新聞に報道されているわけでありますから、先生方としても、そうしたまだ究明以前の段階において、いろいろな角度から、これは司法の手において片づけるべきことは片づける、また国会もいろいろ御努力になっておるというようなことを、仮に時事問題として論じなければならないときには、知らぬ存ぜぬということはそういうこともありましたが、いろいろな努力というものがわが国社会の指導的な立場人たちの中でも行われているということを、これもやはり年齢に応じてでございましょうけれども、教えていく。ただ、全部そうした事柄が整理されておりませんから、先生方としても相当時間を割きませんとこの種の問題を取り上げる上で御労苦だと思います。しかし、でき得るならばいまのような形で少しでも、先生も一人の市民として関心をお持ちでございましょうから、いろいろな角度から行われている努力とともに、いまのような知らぬ存ぜぬ遊びといいますか、そういうものもあるでしょうが、そればかりではないということを十分に話していくことも必要であろうかと考えております。
  7. 有島重武

    有島委員 後段の方の全日空の若狭さんの答弁のことについて、これは一つ日本話の使い方といいますか、虚偽であるというふうに判定していいのかどうかというようなことをある教師が問われて本当に困ったというようなこともございました。これは大臣、個人的なお話で結構ですが、大臣はどうお思いになりますか。
  8. 永井道雄

    永井国務大臣 私はどう思っているかと申し上げますと、若狭社長の問題は、確かに一つの問答としてむずかしい面を持っておりますけれども、この問題については、私でしたならば、国会においても与野党議員方々議論をされている、そうした事柄がある。また、捜査当局においても、これはアメリカ合衆国からの資料にとどまらず、わが国自体捜査当局として非常に努力をして、解明のために努めているので、この段階において虚偽である、あるいはどうであるということを断定することはなかなかできない。そういうふうに、問題というものはいろいろな角度から現憲法下においては究明されていかなければならないものである、かように私はこの問題について考えておりますし、仮に授業を担当する立場になりますれば、やはりそのように話すであろうと思います。
  9. 有島重武

    有島委員 これは後でまた触れたいと思うのでありますけれども、ここには一つ重要な問題として、言葉の上でもって切り抜けていってしまえばそれでいいのだというようなことが含まれているわけです。それで、それが道義的に問われるかというような問題ですね。それから学校教育で、このことが生徒さんから言われて、教師側は、実は試験に対して、試験をどうにか切り抜けていかなければならないというような問題がある。また切り抜けさせなければならないというような問題がある。だから、その実態の上ではどうでもいいから、こういうふうに書かなければ、こういうふうに言えば切り抜けられるのだというような、平素からそのような勉学をさしていることに多少ひけ目を感じているというような先生もいるわけです。受験戦争という一つ現象の中でそういうことが起こっているわけです。そういうことが一つあると思うのです。ですから、いまの文部大臣お話だと、まだ結論がちょっとよくわからない、慎重にやっていかなければならないみたいなお話であると思うのですけれども、いまの、言葉で切り抜ければいいのかという問題が一つと、それからもう一つは、構造的な汚職であるというふうに言われております。それは永井文部大臣は認められたけれども、そうなりますと、現在の法体系、現在の制度をそのまま運用してといいますか、その運用の仕方によっては永久にわからなくなってしまう、永久にあいまいになってしまうということ、構造的ということは、そういうことが是認されるような構造であり、まかり通ってしまうような構造になっているのだ。だから、その構造の中でそれをつかまえていこうとするということは、どだいそれは無理なのではないだろうかというようなことを、これは高校生がそういった疑問を教師にぶつけたという例があったと聞きました。それは、いまの受験の問題で高校生が悩んでいる。それも一つの大きな構造の中に閉じ込められていて、これはやむを得ないからやっているんだけれども、これがいいとは思っていない。というのは、そういうような自分たち学校生活上の悩みとこれがちょうどダブった形でもって教師にぶつけられている。そういうことがあるようです。こういうことについて大臣はどんなふうにお考えになっているか。
  10. 永井道雄

    永井国務大臣 試験に当たりまして、やはり自分の心にもないことを適当に書きまして先生のごきげんを取って採点をよくするというような、試験中心主義の風潮がわが国にあるということは私も十分に承知をいたしておりますが、まずそれはそれとして改めていかなければいけない。試験というものはやはり教育をりっぱに達成していくための本来手段であるべきものでありますから、これは各学校のそれぞれのテストというものをよくしていくこと、あるいは入学時に当たっての試験というふうなものもそうした点に配慮いたしていくことが大事であるかと思います。それは試験の問題であります。  他方、このロッキード事件のようなものをめぐりまして、言葉のあやで切り抜けられるというようなことがあってはならないわけでありまして、言葉実態を伴わなければいけない。したがって、この問題をめぐって国会においても異なった立場から政府ないしは与党野党、いろいろな形の御討議が進められているということを当然教えるべきである。しかし、たとえば野党のある議員のお立場の中には、そういうことをやっても、わが国には構造的な問題があるから、したがって言葉で言い抜けられるようなことになっているという、そういう考え方々もある。そうしたことも含めまして、学校教育というものは非常に公平に、政治司法の責任ある立場において活動している人たちの言動というものを、人間成長発達段階に応じて適切に理解せしめるよう、政治的に、社会に一種の混乱が見られますだけに、教育界においては努力しなければならないと思います。
  11. 有島重武

    有島委員 それでは、所信のこのお話について順を追って質問させていただきたいと思います。  大体最初基本姿勢のことがあって、各局にわたってのお話があるようですけれども、これは全部やっていると切りがありませんので、基本姿勢それからその次に初中局関係問題体育の問題、それから大学学術についての問題、この辺に大体しぼってやっていきたいと思います。  それで、最初基本姿勢のところでもって、戦後三十年の高度経済成長時代への反省というようなことがあろうかと思うのです。「経済はもとより現代文明社会の本質的なあり方にまで省察の目が向けられ」なければならぬ、こういうことでございます。これはまことにそのとおりだと思うのですけれども、これがどのような反省をしていらっしゃるのかということについて、これは後の方を見ますと、「これからの教育は、すべての国民が世界人類との連帯のもとで、豊かな人間性未来を創造する英知をみずからのものとし、来るべき社会において真の生きがいを見出し得るような素地を養うものでなければならない」とおっしゃるわけですけれども、こういったことを裏返して申しますと、いままでの教育というものがやや非国際的であったということ、それからやや非人間的であった、非人間的というのはどういうことになるか、人間をわりあいと機械のように扱わせたというようなこともあるかもしれないし、この辺のことどういった意味を込めて言っていらっしゃるか。  それから、もう一つは「未来」という言葉がありますけれども、非未来的であるという言葉が妥当かどうか知らないけれども、わりあいとその場主義であったということの御反省がおありなのか、それから「英知」とか「生きがい」とかという言葉も出ておりますけれども、知識それ自体と、それからそれを導いていく何か、知識に対しての知恵と申しますか、あるいは価値観というか、そういうようなことが抜けていたというようなことがこの反省の中に強く込められているのではなかろうかというふうに私は察するわけでございますけれども、大臣その辺を少し明確にひとつお教えいただきたい。
  12. 永井道雄

    永井国務大臣 まず、人間というものが十分に尊重されていなかったかどうかということでございますが、戦後わが国経済的な一つの大変な窮乏状況というものから出発いたしまして、そして経済復興、しかしさらにそれから進んで高度経済成長ということになってまいります過程におきまして、経済的な、経済社会における競争というものもきわめて激化いたしましたが、学校教育というものがそうした過程におきまして、いわば経済社会において成功していくための手段というような角度からとらえられがちになった、そういうことがいわば学歴偏重というようなことでございますが、それではやはり教育というものはそれ自体目的を持つということにならない。したがって、当然教育というものは職業社会産業社会関連はいたしておりますけれども、やはり人間としての完成を目指していくものでございますから、その点が第一点でございます。  第二に、わが国が十分に国際的であったかどうかということでございますが、これはすでに今日各方面において議論が進んでおりますように、わが国が敗戦直後におきましてはほとんど海外との関係もなく活動してまいりましたが、今日並びに今後におきましては、経済的な意味合いにおいてもそうであります、また文化的な意味合いにおいても諸外国との相互交流依存関係なくしては存立し得ないわけでございますから、そうした意味おける将来ないしは現在の要求というものを考えますと、わが国教育が十分に国際性を持っているとは言えない。  三番目に、知識ということだけで足りないということを申しておりますのは、知識、本当の知育というよりは、むしろ情報の詰め込みという側面が強かったと思いますが、それではいけないので、真の知育というものも大事でありますが、さらに徳育、情操あるいは体育というようなものにも配慮をいたしまして、そしてやはり人間として完成していくという中でいろいろな情報を獲得していく学習を行っていかなければいけない、そういう点で足りなかったという反省を込めているわけでございます。
  13. 有島重武

    有島委員 PHPという雑誌がございまして、この六月万に特別インタビュー、「学校信仰にひそむ危険」という対談がございまして、それを私読ましていただきました。この中で永井文部大臣は、いまの教育過熱ともいうべき現象は、わが国工業化と密接な関係があると思う、農業中心社会であるならば、両親の勤労状態に絶えず触れている、あるいは父祖伝来の田地、田畑というものを受け継いでいかなければならないというような自覚を持っている、そういうものに反して、今度工業化というものは、そういうような基盤を失わせてしまったというところにあるのではないかというようなことを言っていらっしゃいますね。工業化に対して農業というような問題をここに対立した考え方として持っていらっしゃる。非常に私は興味深いことであったし、私も同感する面が多いわけです。それでいまのここにあらわれておるお話では、非人間と、いきなり人間というところへ来ておりますが、その人間考え方の中に、確かに工業的な物の考え方、運び方と、それから農業的な物の運び方、また考え方というような二面があるというようなことを私はかねがね思っていたのですけれども、ここの対談の中で言っていらっしゃる御趣旨、そのように受け取ってもよろしゅうございますか。
  14. 永井道雄

    永井国務大臣 私は、農業人口が多い社会におきましては、そもそも農業の場合には職住分離ということがございませんで、職住一体でございますから、したがって、幼少時から父親母親産業活動というものも子供が見ておりますし、そうした産業活動、そうして社会的活動家庭教育というものがいわば一貫して行われているということであろうと思います。そうした中で、いわばしつけとかあるいは伝統の継承というものが行われるのでありますが、急速な工業化が起こってまいります場合には、離村現象が起こってまいりますし、そうして工業社会においては職住分離という形をとるのは普通であり、たとえば、父親がいろいろ働いておりましても、相当高学年になりませんと父親仕事が何であるかというようなことを子供が理解することもできない。他方母親は団地のようなところで主婦という仕事をしているわけでございますけれども、しかし、職業活動に参加しないという形でございますから、大変工業社会と違ったいろいろな問題を生じてくる、そういう意味合いでやはり工業化、特にそれが急速に起こりました場合においては、いろいろな習俗の断絶であるとか、またそのことから起こってまいります混乱というものが起こりますし、また、今後社会家庭教育学校と連関せしめて強力にしていくことには相当の困難をはらんでいるという意味合いでいまのことを申して、そうしてどうも学校信仰に傾きやすいということも申しているわけでございます。
  15. 有島重武

    有島委員 そうすると、工業とそれから農業というような二つの事象の生活形態の違い、それから生活形態から影響された生活態度といいますか、そういうような関連についてここでは触れていらっしゃるわけですね。  それで、私はもう一つこういうことを言いたいわけです。と言いますのは、工業での物の考え方というのは物を分解してそれをまた組み立てていく、それから一つの基礎を積んでおいてその上に次の物を乗っけていく、そういうような考え方がある。それから農業の方の物の考え方というのは、植物を相手にするわけですから、植物には目に見える生えている部分と土の下にある根の部分、目に見えない部分とあって、目に見えない部分でも大切にしてあげないと育っていかない。それからこれは一つ植物についてだけに言うのではなしに、時間的に延ばしても大変な苦労を込めておいて、よそから見れば大変むだだと思われるようなことでもやっておく。そうした準備の上に次の植えつけがあり、それで収穫があるというような、それて多少でも手を抜けばたちまちに——たちまちにはあらわれない場合でもそれが長い時間かかってみると必ずしっぺ返しを食うというような物の見方、感じ方、それから生活態度が身についてくるというようなことが一つあろうかと思うのです。そこにいきますと、工業化社会子供たち態度というのは、水というものは栓をひねれば出るものである、お店に行けば何でも売っているものである、カブトムシはデパートで買うものである、動かなくなったらお母ちゃん電池を取りかえてちょうだい、これは極端ですけれども、現実に起こっていることでございまして、そこに使い捨てというようなことが非常に起こっておる、そういうようなことかあると思うのですね。  もう一つ、昔は士農工商と言っていましたから、工業化ということの反省と同時に、商業主義的な反省ということもあってしかるべきじゃないかと思うのです。たとえばさっきちょっと申しましたように、お金さえ払えばその場がまかり通る、これは点数に何でも換算していきましょうというようなことも一般化していることがあるのです。  そういう問題はさておきまして、それではこれはちょっと体育局の方に入るかと思うのですけれども、私は学園緑化ということについて申し上げたことがございました。それで、いまの特に都会の子供たちはほとんど植物に触れていない。私はさっき大臣が指摘なさったように工業化社会の中に一つの欠陥といいますか、その面で非人間的な感じ方、生き方の芽生えが生じ、それが学校教育をひずましておるというようなことは大変鋭い指摘だと思うのですけれども、それでは工業社会を昔の農業社会に引き戻すということはいまはできないのではないか。その中で、それではせめて人間の持っているような可能性の一面の中で特に忘れられている農業的な物の考え方というものを子供の身近なところで、そうして実感としてそういうものを培っていくことが非常に大切ではないかというところから私は学園緑化ということを提唱したわけです。ところが現在行われている学園緑化というのはどういう趣旨目的でもって進められているか、やや見当外れではなかろうかというのを私は心配するのだけれども、これについて体育局長からお話しをいただきたい。
  16. 永井道雄

    永井国務大臣 私からお答えしまして、詳細体育局長からお答えを申し上げます。  学校緑化の問題につきましては幾つかの角度から考えてやっているわけでありますが、少なくも三つぐらいの角度が必要であろうということで文部省はこれに対処をいたしております。  まず第一点というのは、ただいま工業化の中で都市化が並行して起こってまいりますと、学校環境というものも著しく悪化してまいりますから、こういう都市が含んでいる大気汚染あるいは環境の汚濁というような問題についての学習を十分に行わせることでございます。  第二点は、しかしそれは単なる知育にとどまりますから、それだけでなく、子供自身緑化というものに取り組んでいくということは決して大規模なことではございませんけれども、たとえば学校の中におきまして栽培をいたしてまいりますとか、あるいは動物を育てるようなことをやってまいりますとか、そうしたことを具体的に行うことが相当進行いたしているわけでございます。  第三番目には、学校環境緑化ということは非常にそれ自体必要である。つまりまず学校に相当木を植えたりあるいは学校環境というものに自然的な要素を十分に持たせるように工夫をする。  そういう角度から文部省におきましては一方では初中局、他方におきましては体育局、両方にまたがると思いますが、学校教育の中での緑化というものを考えているわけでありまして、体育局で特に進めております点につきまして体育局長から御答弁申し上げます。
  17. 有島重武

    有島委員 いま大臣がおっしゃったような方向で、これは私昭和四十六年の十二月に緑化の提案をいたしました。それから続いて四十七年の三月にも文教委員会でもって緑化の問題をいたしました。それでそのときに予算がついて学園緑化ということをやり出していただいた、大変ありがたく思っているのですけれども、現実にタッチしてやってみますと大変むずかしい問題がたくさんあるわけです。これがどの程度進捗しておるか、どのくらい予算をつけてやっているか、それの見通しはどういうふうになっているか、その辺を体育局長から御説明いただきたいと思います。
  18. 安養寺重夫

    ○安養寺政府委員 現在体育局で具体的にやっております事業は、大気汚染地域並びに人口三万以上の市街地域に所在する学校に対しまして、四十八年度から学校環境緑化促進事業、これを進めておるわけでございます。それにつきまして国が補助金を出す、当該市町村がその事業を推進をするということになっておりますが、とりわけ、先ほど大臣からも申し上げましたように、児童生徒がみずから学校の問題としていろいろな教科なり道徳なり特別教育活動等々いろいろな場合に、自分で勉強する以外に労作といいますか、自分で働くというような点も十分実際的に行われるように計画をしてもらいたい、そういうようなことを主眼としてやっておるわけでございます。  なお、これとの関連におきまして、具体的にどのような方法を用いてその仕事が遂行されるかという手引きにいたしますために「学校環境緑化の手びき」、こういうものですが毎年出しておりまして、関係者の方にお配りをしております。なお、このような関係の会合にもこの資料をお使いいただくようにお勤めもし、お願いもしておるということでございます。  ちなみに五十一年度の学校環境緑化促進事業の補助金の概要につきまして申し上げますと、総額が三億一千万円強でございます。大体学校七百校を対象にいたしましてこの仕事を進めたい。またこれは大気汚染地域と市街地域同じ規模で事業を進めるということになっております。  ちなみに、四十八年度から四十九年度、五十年度にかけまして、予算の積算上は三千八百校というものを取り上げたわけでございますが、若干落ちこぼれもございまして、九四%強の三千六百校弱という学校がこの仕事をやっていただいておる、かような概況になっております。
  19. 有島重武

    有島委員 大臣、お聞きのとおりですけれども、その緑化をされているという学校を訪ねて見てみますと、何か花壇に毛が生えたような、そういうものが多いんですね。ということは、植物を植えてあるところ、これは子供がそこへ入って荒らしてはいけないからというので、かきねをつくってしまう。それで当番の子供たちだけがそこへ入って何か手入れをする場合もあるしそれから余り子供たちにはそういうことをさせないでいるようなところもあるようです。植物に本当に触れていくというような姿勢が現場では余り徹底していないという例を、私は五つか六っつですけれども、ときどきいろんな学校へ寄ってみて校長さんや教頭さんやあるいはそっちを担当していらっしゃるという先生に伺ったり何かして聞いてみますと、まだまだその趣旨が徹底していないということを私は痛感しております。  それで、これをさらに趣旨徹底するように指導しなければならない。ということは、実は大人の側にまだ問題かあると思うのです。その大人の側ということは、年配の方々はもと農村出身の方といいますか、一代、二代前には農村から出てきて都会に来た。で、都会化するということが文明開化であるというような根強い、何か常識の中に育っているわけですね。それで、ぼくたちが今度はいまの子供たちがどんなに——われわれか育ったときにはごくあたりまえであったということがもうすでに失われてしまって、コンクリートの中に本当に閉ざされっぱなしの中、そういった環境の中に生まれてきて育っているのだ。だから、ぼくたちが気づかないところでもって大変欠落しているところがあるのだというような危機感を大人の側が余り感じていないのではないのかということを私は思うわけです。  次にまたいろいろな問題を順を追ってやりますけれども、その中にこれがまたときどき顔を出して、いまの問題が考え直されなければならないのじゃないかというふうに私は思います。  次の問題にいきますけれども、この間「我が国の教育水準」という御報告がございました。大変教育水準というものが上がっておる。それで、教育水準と言われるものは一体なんだろうかと思うのですけれども、初等、中等あるいは就学前教育というそういうものの水準が非常に上がっている。あるいは高等学校の水準といいますか——水準という言葉は、私その言葉から受ける印象は、何といいますか、水平に、平均されたというような印象を受けるので、ぼくは余りぴんと来ないのだけれども、どういう点でこの水準が本当に上がったのか。それから、それに反して学力というものが下がっているというような報告もございます。どうも水準は上がって学力が下がるというようなことがあるのだけれども、その辺について大臣はどういうようにお考えになっていらっしゃるのか、大ざっぱに先に聞いておきます。
  20. 永井道雄

    永井国務大臣 水準ということを申します場合には、計量しやすいものを取り上げて調べることが普通でございますから、たとえば進学率であるとかあるいは学校学習している人の人口であるとか、あるいは教員の数の増加とか、そうしたものを従来取り上げてきているのが、わが国だけでなくて世界的な傾向であろうかと思います。そういう点から見ますと、学校教育学習者が二千五百万人、そして幼稚園から大学院までの教員の数が百五十六万人と記憶いたしておりますが、水準は上がった。しかし、御指摘のようにさらにそういう学校教育が拡大いたしました中で事実学力が上がったかというようなことも全国教育研究所連盟等においてすでに調査を行い、進んできていることでございますし、そうしたものに対する配慮も必要になってきております。さらにまた、体育関連して申せば、体位の比較研究というものは戦前、戦後を通してございますが、体力というようなことは、新しい課題となってまいりまして、データの上では必ずしも戦前と戦後の比較が容易に行われない。しかし、そうしたものは、今後水準というものを考える上では非常に重要になってきていると思います。
  21. 有島重武

    有島委員 教育水準は上がっているんだけれども、学力の点ではむしろ問題があるということについて、どのようにお考えになっていらっしゃいますか。
  22. 永井道雄

    永井国務大臣 学力の点、これはもちろん一般的に申しますれば、獲得いたしました情報の量というようなものは、学校の拡大に伴いまして従来よりも上がっているというふうに見るのが普通だと思います。  いま問題になっておりますのは、そういう場合に、中等段階においてある一学年というものをとらえた場合に、果たしてどのぐらいそこにいます生徒たちにあまねく学習が行き届いているか。そういう意味で、理解度という点から言って、十分に学校教育がその実を上げているか。ですから、全体的に見れば確かに学力は上がったのでしょうが、しかし、学校に入ってきているすべての子供ということを考えますと、いろいろなでこぼこ、ひずみがあるというようなことがきわめて重要な問題点だと思います。
  23. 有島重武

    有島委員 先ほどの問題にちょっと戻るのですけれども、計量化されている部分と計量化しやすい部分を相はかって水準として表示する、これはどちらかというと工業的な考え方に近い方ではないかと思うのですね。したがって、その中で行われている成績の評価というものも、これは計量化しやすいものに関して言うわけでしょう。そうなってくると、子供たち全体をいわゆる大人の側が工業的に相はかっておる、教育全体をそういった立場から見ている。  大臣学校教育がこうなってきたのは工業化ということが影響があるだろうとおっしゃったけれども、もう少し引いてみて、こっちの側もわりあいとそういうことの中に巻き込まれてしまって、学校教育をこうして表示する場合にもそういうことが避けられない。それから、表示する場合には避けられないとしても、それを受け取る側がやはりまたこの数字を見て、こんな数字があったからどうだというようなことになってみたり、あるいはそういった表示における学力、本当の学力というのは一体何なのかということをもう一遍考え直してみなければならないような時代になっているのではないだろうか。最初大臣所信表明のいろいろな反省の中にそういうようなことも入っているかどうか、ちょっと伺いたいのです。
  24. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいまの点は入っております。といいますのは、学力というものを教科書を中心にした教科というものから見ました場合の評定というものだけに限らない、その場合にも、情報をたくさん持っているだけでなく、十分考える力があるか。これは教育課程審議会におきましても、たとえば国語の教育につきまして、今後は表現力というような、読みだけでなく書くという点を重視しなければいけないという、中間まとめにおける発表がすでにございますし、私も同感でございます。しかし、そういう教科以外、それは御承知のように現在、評価、評定されておりますが、学校におきましては、教育評価の書類において、所見という部分がありまして、そこでは道徳的な側面あるいは子供の他の人々との協力や性格などについて記述することになっております。  そこで、この春先以来、初中局において偏差値問題等を含めまして、教育評価というものをどのように考えていくべきかということについて、目下研究を進めておりまして、その教育評価という場合には、考えるということは、従来比較的単純にとらえられてまいりました学力というものをもう少し包括的に、人間に知、徳、体という側面があるわけでございますから、そういう角度からどのように考えるべきかということで、いまそうしたものの検討に入って進めている次第でございます。
  25. 有島重武

    有島委員 いまの教育評価そのものについて考え直す、そういった操作をどこでお始めになっていて、いつごろそういった結論が出ることを期待されているのでしょうか。
  26. 永井道雄

    永井国務大臣 考え直して結論を出すということはまた——そのいつ出せるかということは問題でございますが、さしあたっていま偏差値問題、それから教育評価については、初中局の中で資料を集めて検討しているところでございます。
  27. 有島重武

    有島委員 私たち教育の評価について検討し直せということをかねがね言って、一つの提案もしたことがございます。ここでは長くなるから言わないけれども、そういったことはぜひとも盛んにやっていただいて、それこそ中間発表を出して、それをまた討議してもらってというようなルールをひとつ開いた方がいいのではないかと思うのですけれども、それは初中局の中だけでなさるわけですか、それとも大きな問題であるから一つの審議会をつくるというような御用意もおありになるわけですか。
  28. 永井道雄

    永井国務大臣 現在初中局でと申し上げましたが、これは大きな問題でございますから、結論を得るということが必要になります場合には、文部省考え方だけによって結論を得て他に押しつけるようなことがあってはなりませんから、当然学識経験者の御意見を伺うべきでございます。  実は、昨年の春先にも、教育評価の専門家の方たちとの懇談会を開きましたが、必要に応じまして、初中局での資料がある程度整うということになりますれば、その後の進め方を考えなければならないと思います。
  29. 有島重武

    有島委員 これは学校内の教育評価と進学のための試験ということにもかかわってくることでございますから、それこそ精力的に進めていただきたいと思います。  それで、いまお話が出ました教育課程審議会の中間まとめということについて少し承っておきたいと思いますが、この中間まとめを受けて、今後文部省はどのように反応を示していらっしゃるのか。最終答申は今年の暮れというふうに承っていますけれども、これを受けて今度はどういうふうにしていくことになりますか。
  30. 永井道雄

    永井国務大臣 教育課程審議会はすでに中間まとめを発表され、また最近、重ねて高村会長が教育課程審議会の御意見をまとめて御発表になりました。これはさらに進んでまいりまして、ただいま御指摘のように今年度中に御答申を得るということになりますと、その後に学習指導要領をこれに基づいて変える、さらにそれに基づいて教科書というものが変わっていくという、そうした三段階を経て変化が起こってくるわけでございます。ただ、その間に相当の年月を要することになりますから、小学校段階では教科書は昭和五十五年に変化をするということを現在考えておりますが、それだけでは余りにも年月を要するということがございますので、昭和五十三年の段階から、現在の指導要領に基づきましても部分的な課程の変化というものを行い得るということを、少なくとも中等教育段階においては配慮できるように進めているところでございます。
  31. 有島重武

    有島委員 今度指導要領を変える、それから教科書を変えるということが教育課程審議会としての目的なのかもしれないけれども、これは実は、さっき大臣からいろいろお話を承ったような過去の教育に対する反省を十分踏まえて行われている審議会ではないわけです。と申しますと、これは昭和四十八年に諮問されたものでございまして、いま冒頭に大臣が、いままでの教育のあり方について大きく反省しなければならない、あるいは大きな時代の転換期だというようなことを自覚しなければならぬと言っていらっしゃるわけだけれども、そういう意識のもとに行われてはいないのではないか。それが一つの問題点です。だから、いま指導要領を変えて教科書を変えていけば学校はいささかよくなるのじゃないかというようなことは、これはごくごく一部分のことであるわけですね。それで、現在の状態でもどんどん変えるべきものは変えて構わぬのだとおっしゃいましたけれども、むしろそういうことの方がまだ大切なのではないだろうか。この答申の扱い方も、これは実は過去の意識から始まっているものであるから、それなりに役に立つ立て方をさせないとまずいのではないか。これが一つです。それからもう一つは、この審議会に対して大臣のいま本当に感じていらっしゃるところがこの審議会に新たに十分反映していくようになさらなければならないのではないだろうか。これがもう一つの点です。このことはまた後で触れるかと思いますが、この中で用語の問題をちょっと承っておきたいのだけれども、教育の区分といたしまして、従来は初等教育、中等教育、それから高等教育と言っていたと思うのですけれどもね。それで、いわゆる高校は後期中等教育、特に中教審の答申などの場合にはずっとそういうふうに言われておりました。今度この中には後期中等教育という言葉は出てきませんで、高等学校教育という言葉が出てきておりますね。これは何か根拠がおありになるのか、意味がおありになるのか承っておきたい。
  32. 永井道雄

    永井国務大臣 まず第一に、教育課程審議会は私か考えているようなことを反映していない、全く違うものではないかということでございますが、私も高村象平会長と何回もお目にかかりましたが、高村先生は、私が先ほどから申しているようなことを非常に御配慮になっているものと理解いたしております。また、私の考え教育課程審議会に反映すべきだということでございますが、私は、私自身自分考え方を大事とは思っておりますけれども、他方において、一つ考え方ということでは独善的になるおそれがありますためにまさに教育課程審議会があり、そして教育界の長年にわたり経験を積まれた多数の方々が集まっているわけでございますから、私は会長に希望は申しあげますけれども、しかし、教育課程審議会の御審議は会長のもとに、教育の専門家の方々によって衆知を集めて決められていくべきものと考えます。  次に、教科書が変わっただけでは教育は変わらないではないか、それは全くそのとおりでございまして、したがいまして、そのためにこそ第一に教育評価という問題を考えておりますし、さらに教育のやり方というものを検討いたしてまいりますために、宮城教育大学には授業分析センターというものがすでに設けられておりますが、本年度から東京学芸大学におきまして、いわゆる大学の教官出身の人ではなく、現場出身の人を教授、助教授に迎えまして、教育実習を検討するセンターというものを本年度予算から設けたわけでございます。それがまた現場における教育指導とどのように関連していくかということは、これもまた諸大学において考えたものを現場との関連で工夫していくという次の課題になるかと思います。  最後に、後期中等教育と言わず高等教育と言っていることについての論拠は、私はいま必ずしも明らかにお答えできないと思いますが、ただ、奥野文部大臣の諮問の中に、この高等学校の拡大の中で、高等学校というものが一つの重要な完成教育になってきているということで、その点の検討を要望しておられる部分がありますから、そうした意味において、高等学校というものを非常に重視しているところから高等教育という表現があるのではなかろうかと考えております。
  33. 有島重武

    有島委員 いまのお答えの中で最初お話はわかりました。それから第二番目の、大臣のお考えがこの審議会の中に反映するようにというような言い方をしたのですが、私、誤解を生むような言い方といいますか、あるいはちょっと言い方がまずかったと思っております。と申しますのは、この審議会でもって、恐らくこれは、現行の学校教育法に定める学校教育の枠内のごく狭い部分といいますか、そういったようなところでの審議しかできないわけですね。ところが、その審議をやっている段階でそれをはみ出るような、教育全体をもう一遍考え直さなければならないというようなところにぶつかるはずだと思うのです。ところが、これはどこの審議会でもそうですけれども、大体大ぜいでもって審議をして中間答申が出て、それからそれが次の段階に移ると、もうたたき台ができている、そこにまた審議する方を集めて次のことに入っていくわけですけれども、そういうふうになったときに、さかのぼってそういうような大きいけたの議論はもうできなくなってしまうというようなことが起こっているようであります。それで、ますます、何か多分に技術的な問題の審議会だと思いますけれども、その基盤がどうしても昔からの惰性の上に行われることが避けられない、一つの狭い幅の中に追い込まれてきたというようなことがないように、そう申し上げたいわけです。ちょっと抽象的な言い方でもって、余り具体的に名前を挙げて、この人はこう言っておったからこうだというようにいかないから大ざっぱな言い方ですけれども、そういうような意味です。ですから、審議をやっていらっしゃる方がもっと伸び伸びと審議ができるようにということです。  それから最後の問題ですけれども、これは言葉の問題だけではなしに、初等教育、中等教育、高等教育、後期中等教育イコール高校というような印象を受ける、認識を持たしてしまうということに危険があるのだろうと私は思っているわけです。それで考えてみますと、初等教育といっても、これは主に小学校で行われているのであります。だが、実際にはその学習というものは家庭でも行われているわけです。家庭学校との協力の中に初等教育というのは行われているのではないだろうか。だから、初等教育がイコール小学校であるということは、そういった考えになってしまうと、いわゆる学校イコール教育みたいなそういうわながあると思うのです。現実にお母さんたちはついそういうふうに思ってしまいがちである。それを、そうではないのですよということを、いま一生懸命巻き返していくということが、教育行政の上であるいは教育者の方でもそういう努力がなされているところではないかと思います。特に後期中等教育の一部門として高等学校教育が位置づけられるのだ、そういうようなしっかりとした意識がぼくは必要ではないかと思うわけですが、大臣どういうふうにお思いになりますか。
  34. 永井道雄

    永井国務大臣 まず第一に、教育課程審議会における御審議というものが小さい枠の中にとらわれてしまって教育全体のことを見ないようになりがちではないかということでございますが、これは文部省関連で申しますと、いわば包括的なことは、たとえば文明問題懇談会というようなところで議論をしておりまして、そうしたものの内容、議事録一切が公刊されるのも旬日であろうと思いますから、そうしたことはまた教育課程審議会においてもお考えになると思います。     〔委員長退席、河野委員長代理着席〕 しかし、他方教育課程審議会の場合には、いろいろ教育の全般を考えるのも結構ですけれども、具体的な課程の問題をやはり考えていただきませんと、観念論に陥るおそれがございますから、そうした意味において、小さい枠というのではなくて、具体的な御提案に進んでいかれるというのはやはり妥当なる側面があるということは申し上げておくべきだと思います。  しかし、第二点と、いたしまして、そういう場合に、初等教育ということを言った場合に、イコール小学校ということではなく、家庭もあるではないか、あるいは幼小の連絡というふうなこともあるではないかというような御疑問であると思いますが、それはまさにそのとおりでありまして、そうしたものは、今後もう少し包括的にどう考えていくか、工夫をこらすべきであると思います。ただ、幼小の連関等につきましては、本年度初めて、制度を変えるわけではございませんが、全国に二十校、国立十校、公立十校、従来の枠にとらわれない実験に入っていくということでございますから、そういう形で、必ずしも初等といえば小学校という固定観念にとらわれない研究が本年度から実際に即して行われるというふうに御了解願いたいと思います。そのことは同様に中等学校前期、後期についても言えることでございまして、これは、御指摘の点は今後十分留意して私どもは取り組んでまいりたいと思います。
  35. 有島重武

    有島委員 いま二つお答えいただいたわけですか、それは関連し合っているわけてすね。後期中等教育というのが高等学校ですべて賄われなければならないというふうな考え方をいたしますと、教科書も、それならばこれも入れなければいけない、これも入れなければならないということになるわけですね。そういたしますと、この審議会で時間数を少なくしよう、そういうような御趣旨もっとゆとりを持たせましょうというようなことがございます。もっと精選いたしましょうというような話がございますね。それがとにかく高校だけでもってやらなければならないというような前提の上に立っていたしますと、御専門御専門の立場では、どれもネグってはならないということで、審議をするたびにかえってふくらんでしまうということで、逆現象が起こらざるを得ない、これは大臣もお聞きになっていらっしゃると思うわけです。ですから、後期中等教育ということ、これをもっと広げて考えて、高校はその中の一つなのだというような位置づけをはっきりしておかないと、審議会の方も大変やりにくくなるのではないかというように思うわけです。  それで、いま、その中に幼稚園のお話も出ましたので承っておきます。  就学前教育という言葉がございますね。就学前教育というのもわが国教育水準、文部省から出ておりますこの報告を拝見いたしますと、この中に幼稚園と保育所がある、こういうことになっております。これは、就学前教育は幼稚園と保育所と連携でやるんだというように、そういうふうに考えていらっしゃるのかどうか、就学前教育の中に幼稚園と保育園、こういうふうにある、それでよろしいのか。
  36. 永井道雄

    永井国務大臣 現在統計をとります上では、就学前教育は幼稚園だけではなくて、保育所というものも含めてとっておりますが、しかしながら幼稚園と保育所というのは、これはその役割りが異なっている面があることは明らかでございます。幼稚園の場合は幼児の教育というもの、これに力点が置かれておりますし、保育所の場合にはむしろ保護者の委託を受けて保育するという意味合いにおいて児童福祉施設的な役割りが主眼となっております。しかしながら、その間に当然類似性もございますから、文部省の現在の考え方、また今後進めてまいりたいと思っておりますことは、たまたま保育所は厚生省の所管になっておりますから、厚生省のそうした問題についての審議会の方と、文部省のその関係委員の方たちとの間の連絡というものは必要である、そしてまた、すでに保育所の方におきましても次第に教育という側面というものを充実して考えていこうという考え方が強く出ておりますから、そうしたものを尊重いたしまして、やはりわが国の就学前教育というものを全体的にとらえていくことは大事であると考えております。
  37. 有島重武

    有島委員 五十年の十一月に行政管理庁から幼児の保育及び教育に関する勧告というのがあって、それに対して文部大臣が回答をしていらっしゃるわけですね。それでこの関係審議会の委員等で構成する協議会の場を設ける、これについては厚生省と十分協議して準備を進めたい、こう言っていらしゃいますけれども、この厚生省との協議というのは、協議の場をちゃんと設定してお始めになりましたか。
  38. 永井道雄

    永井国務大臣 協議の場を設けることについて賛成であるということについて二月十日に回答いたしまして、現段階ではその協議の検討資料を得るために全市町村を対象といたしました幼稚園だけではなく、保育所を含めた整備計画等の調査を実施することにいたしておりまして、厚生省と協力してそのための準備を進めている、つまり話し合いを進めていく下敷きになります調査というものを協力、実施していくという段階にあるわけでございます。
  39. 有島重武

    有島委員 その準備をお始めになって審議をするための資料をつくる、資料をつくるための準備を始める、そういった段階にいまいらっしゃるわけですね。それで、そうなると今年度じゅうにかかれるかどうか、年度内にやりますか。
  40. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 私どもの方としてはできるだけ早く両省協議の場を設けたいということで、厚生省といま意見の交換をしておるわけでございますが、一つには、いま申しましたような資料の準備ということがございますし、また厚生省の方でも従来の児童福祉審議会等の審議会がございまして、そこでもう少し検討したいというような意向もあるようでございますので、それらをにらみ合わせながらできるだけ早い機会に両省の協議の場が持てるようにということでいま検討しておる、こういう段階でございます。
  41. 有島重武

    有島委員 今年度じゅうにできますか。
  42. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 いまのところはっきり今年度じゅうにできるというふうにはまだ申し上げられない段階でございます。
  43. 有島重武

    有島委員 そのために予算がどのくらいついているか、大臣御存じですか。
  44. 永井道雄

    永井国務大臣 調査に要する経費は五百四十四万円ついております。
  45. 有島重武

    有島委員 五百四十四万円ですか。六十五万円と聞いておりますが。本当ですか。大分ふえた。それなら結構です。
  46. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 両省の協議に要するものだけに限りますと、六十五万円でございます。
  47. 有島重武

    有島委員 予算の額だけでもって云々はできないかもしれないけれども、何か熱の入れ方がちょっとお粗末なのではないかという印象を受けます。ですから、これは本腰でもってやっていただきたいと思うわけであります。  それで幼稚園の振興費として五十一年度の全体の予算が百七十億である。厚生省の方は、保育所助成予算というのが二千三百億円あるわけですね。現在保育所というのは一万七千個所です。これに対して幼稚園が一万三千個所です。これは三歳児から五歳児二百三十万人を預かっておる。厚生省の保育所という方は一歳児から五歳児、これは百六十七万人を預かっておるわけです。予算の面から見ますと、幼稚園の方は保育所に比べて十分の一くらいしかないわけで、人数にすると約一・四倍あるわけです。それでこれは性質が違いますから、違うのだと言えばそれまでですけれども、就学前教育としてやっているわけなので、こんなことでいいのか、こういった点をもう少し考え直すべきではないかと思います。     〔河野委員長代理退席、委員長着席〕 それで、こういった就学前教育というのは一体どういうことなのか、そのことについて、これは将来また審議会をつくって、来年あたりからそういうことを審議するのだと言われてしまえばそれまでだけれども、現段階における大臣所信表明の中にも「幼稚園教育の普及充実について、」は云々と特に出ておりますから、それを兼ねて承っておきたいと思います。
  48. 永井道雄

    永井国務大臣 就学前教育というのは、古くは家庭で大体においては行ってきたわけでございますが、なかなかそういうふうにはいかないようになってきたということと、また家庭以外の教育が必要になってきたということだと思います。  具体的に申しますと、核家族化が進行いたしまして、そういう中で就学前の子供が他の子供たちとの間の社会的な生活を営みながら人間関係についての基本的なしつけというようなものがなかなかできにくい、そういうことも家庭外に幼稚園教育というのが非常に必要である。また、私の理解しますところでは、心理学者などが申しますのでは、早期に価値観あるいは物の思考力というようなものも十分につけた方がよいということが一致して指摘されておりますから、次第にそうした意味において就学前教育というものが重要視されるようになってきていると思います。  また、保育所関係につきましては、現在男女平等の原則のもとに、女性もまた社会的活動をされる方が多いわけでございますから、そうした角度から保育所というものの拡充ということが必須の条件になってまいったわけでございますが、しかしその保育所におきましても、ただ預かるということだけではなく、やはり就学前の子供たちでございますから、そこで教育というものに配慮していくべきだという点で、幼稚園が行っている問題というものにも取り組む重要性が出てきている、こう考えております。
  49. 有島重武

    有島委員 幼児教育について二つの流れがある。一つは、まあほうっておいても後から自然に覚えてしまうような知識というのがいいのだから、まず遊ばせましょう、あるいは仲間たちといろいろそこでもって遊んだりいじめられたり、いわゆる幼児社会、いまは兄弟の数も少ないんだからお互いにもみ合うとかそういうようなことが必要であるという親と子の自然環境的な、何というかわりあいと自然の流れに沿うというような方向と、それから積極的に意欲的に、大脳の発達の、一歳から三歳まで、それから四歳から六歳までというような一つの発達の段階に応じて、その間にある教育を施せば非常に効果的にいくというようなことを土台にして、積極的に何か物を教えた方がいいのではないか。二つの流れがあって、これからもそれは大変に問題になるのではないかというふうに思います。いま大臣は、その両方を兼ね合わせて承認して重んじるというようなことらしいけれども、現場ではその二つの流れがなかなか折り合いがついてない。そこにどういう現象が起こるかといいますと、受験準備というものが昔は高校生が大学に入るためのものであったのが、いまや中学生が高校に入るための受験準備があり、それから、いい中学に入るためにというので小学校の五年生ごろからの準備があり、しかもそれがまた幼稚園にまで及んでいるというような実態がございまして、名門というのか有名というのか知りませんが、そういった小学校に入るためにはこうだというような、従来の幼稚園のあり方と、それから今度はわりあいと新進気鋭にいろいろなことを教えてくれる幼稚園というような競争状態に入っておるとか、そういうような現象がいまどんどん出てきているわけです。それで、この問題についても幼児教育全般、内容に関してもっと突っ込んで考えていかなければならないときが来ているのではないだろうかと思うわけです。ですから、実態調査というものの中に、計量しやすいわが国の就学前教育の水準とかなんとかいうようなそんなことに終わらない一つ調査の仕方といいますかそういうことをやや工夫しないと、これも数の上では確かに希望者全入という状態にはなったけれども、幼児教育そのものが大変乱れてきたということが起こったら大変だというように私は思うわけです。  それからもう一面には、さっき大臣がおっしゃったように、昔は幼児の就学前教育というものは家庭教育であったのがノーマルですね。ところが、いまの家庭と昔の家庭と条件は非常に違っているわけです。特に都会のアパート住まいのいわゆる核家族と言われているような家庭環境とそれから昔ながらの二代、三代一緒にいるような家庭と併存しているわけです。それからもう一つは、地域性ということも、都会から離れているところにおいても小さな家族状況が起こっていたりするわけです。そういうような状況の中で幼児が持っているいろいろな可能性を本当に発揮させる、発育させるということは大変重要な問題であろうかと思います。ことし始められればいいけれども、来年度早々始めるのでしょうが、そういった本当の質に関しても十分な配慮ができるような審議会をどうしてもつくってもらいたいと思いますし、それからそのための準備としてはさっきの六十五万円はちょっとお粗末に過ぎる、それから、いままでの予算措置についてもややお粗末過ぎるのではないかと私は申し上げたいわけだけれども、いかがでございますか。
  50. 永井道雄

    永井国務大臣 学校教育外で塾というものが試験勉強をやるようになって、それが幼稚園にも累を及ぼしているということは先ほど御指摘がございましたが、一般に塾の問題というのは、先年この国会においても非常に深刻ではないかという御指摘がございましたので、私どもは本年度の予算の中に塾に関連する事項の調査を含めているわけでございます。  なお、幼稚園教育が何を行っていくべきかということについて二つの説をお挙げになりまして、一つが遊戯と学習というそうした立場に立っているのに対して、もう一つが早期からの知育あるいは早期からの情操教育というものを重視しておって、必ずしも幼稚園教育というものについての統一的な考えがないということは、御指摘の点十分理解いたしましたし、これは今後私たちとしても研究をいたすべきことであると考えております。
  51. 有島重武

    有島委員 教育課程審議会の中間まとめにまた戻っていきますけれども、「ゆとりのあるしかも充実した学校生活が送れるようにすること」というようなことが一番の重点、ねらいになっているように思いますが、学校というものが教育の中にどのような機能を果たすかということもやはり考えるのだというように書いてあるのです。書いてあるのだけれども、それがどのように議論されたのか、これがちょっとよくわかっていない。それがさっきも後期中等教育と高等学校教育というような形で申し上げましたけれども、昔、明治時代なら明治時代の学校の機能、それから戦前の学校の機能、それから戦後、今日まで大体三十年間における学校の機能、それから今後における学校の機能というものはやはり多少違いがある、多少ではなくて基本的な違いがあるのではなかろうかと私は思います。その点、どうお考えになりますか。
  52. 永井道雄

    永井国務大臣 いま三つに分けて御指摘になりましたが、非常に違うと思います。つまり、たとえばテレビというものが入ってきたり、あるいは核家族化というものが進行する以前におきましては、また工業化の進行以前においては、家庭というものは非常に重要な教育の単位でございました。戦前はおしなべてそのように見ることができると思います。したがって、家庭学校というような形があったわけですが、戦後は、先ほどから申し上げましたように、そうした中で、家庭というものの中にすでにテレビが入ってきているとか、あるいは核家族化というふうな現象もございますから、家庭教育というものの幅が従来よりも恐らくそれ自体としては小さくなってきてまいっておると思います。それが他方学校の重視から過信というものにも傾いてきている面がございますし、それに受験競争というものが加わりましたから、一層深刻な事態を生じていると思います。これからはそれをどういうふうに解決していかなければならないかという次の段階に入っていくという先生の御指摘は、その通りと思います。
  53. 有島重武

    有島委員 それだけでしょうか。まだ何か基本的な違いというのがあるのではないかと私は思うのですけれども。うんと昔の話になってしまいますと、明治以前に、学校という名前はなかったわけですけれども、そこではいわゆる実用的なことを集中的にその場でもって教えてくれるという機能があったかと思います。それが坊さんの学校だとか、いわゆる塾でありますね、そういうのから始まりました。明治の学校というのは一般教育と申しますか、普通教育というのが行われたわけですよね。その普通教育という幅の中でもっていままでずっと来ておる。ところが普通教育という中にも学校知識というものがわりあいと集中されておって、そこに行けばいろいろな知識や何かが得られる。だから学校先生はその点では尊敬されておったということがあったでしょう。ところが現在では、学校の外側の方が情報が非常に多いわけでしょうね。そういたしますと、学校の機能というものが、情報をそこでもって与えていくという機能と、それから非常に過剰にある情報をむしろ整理してそれを基礎づけてあげる、それから、それこそ自分たちの生活とどのように結びつけていくかというようなこと、それが中心課題になりつつあるのではなかろうか、今後その方向にますます向かうのではなかろうかと思いますけれども、いかがですか。
  54. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいま御指摘の点は、私は先ほど申し述べなかったことでございますが、確かにそのとおりであって、そこで、テレビということを申し上げましたが、テレビに限らない、あるいはとどまらない情報というものが非常に拡大してきておりますし、今後もそうなるであろう。そうすると、情報の処理、そしゃくの能力というものが非常に大事になってまいりますから、学校というのは、ただ学校で教えた情報で完結するということではなくて、基本的にそういう情報処理、そしゃくの能力というものを涵養するような教育を行わなければならないということは、まさにそのとおりであると思います。今回、教育課程審議会におきまして、時間にゆとりを持たせたり、あるいは精選という方向を考えておられますのも、学校だけが完結した情報授与の機関ではない、いわゆる詰め込みということではかえって不消化現象を起こすという認識に基づいておられるものであると私も理解しております。むしろ学校で本格的に事を理解し得る理知的な教育が行われるように、そういう意味において、体育のほかに特に国語、算数というものは時間削減の中でも重視をしていくということを教育課程審議会は指摘しておられる。国語も算数も基本的な論理でございますから、重視されているものと考えております。
  55. 有島重武

    有島委員 学校の機能が変質しつつある、そういった認識がぼくは大切なのだ、必要なのだと思います。その点では大臣もそう思っていらっしゃると私も理解いたします。  ところで、この教育課程審議会の中間答申の「教育課程の基準の改善の基本方向」の中で、(1)(2)(3)あるわけでございますが、その中で、「国民として共通に必要とされる基礎的・基本的な内容を重視するとともに児童生徒の個性や能力に応じた教育が行われるようにすること」、この中でもって、「基礎的・基本的な内容を共通に履修」というようなことと、それから「個人の能力・適性に応じて選択履修」ということがあるわけですね。これは初等教育段階からそういったことが多々あるのでしょうけれども、特に私は後期中等教育という段階ではこの選択ということが大切になると思いますし、この審議会の方でもそんなふうに考えていらっしゃるように思います。その選択の幅が広がってきますと、ますます共通履修、基礎的になるものはしっかりしてこなければならない。いま大臣お話しになったように、国語だとか数学だとかいうものは基本になるのですけれども、基本というものの考え方に私はさっきの工業的なものの考え方と、それから農業的な植物的なものの考え方と二つあろうかと思うのです。それで、結論的に言いますと、ややもすると基本といい根本といい、そういった言葉を使っていながら、一つの土台をつくる、一つの算術なら算術を教える、その上に次のものを乗っける、それをやった上で次をやる。これは次のものをやっていく場合の準備段階と言われるものでしょう。そういったような基本もあるわけです。数学なんかはそういった教え方をしていく。それでいいと思うのですね。植物で言うならば、いろいろな枝が分かれて、そこに葉かできて花が咲いて実になる。そのためには幹が相当しっかりしていないとバランスが崩れるということがあります。その幹を支えるためには根がしっかりしていなければならないということがあるわけですね。その根の部分、根をしっかりさせるためには、根ばかりしっかりはさせられないので、かなり葉っぱが茂っていかないと、葉っぱが茂らないと根も育たぬという現象があるわけですよ。これは工業考え方と違うわけなんです。家なんかを建てたり何かする場合には、土台は据えたら据えっ放しで動かないわけですね。だから、あれは教えてしまったのだからといってその上に建てていっていいわけですね、そういったことが教育の上でもって許されるならば。現在の指導要領とか教科書のつくり方とか、そういうものは多分に工業能率という考えが基本にある。それがいまの子供たちの学力といいますか、何か学習態度が大人が思っているほど余りはかばかしくいかない、おぜん立てを整えれば整えるほどうまくいかないということがある。それを今度はもっと時間をうんとふやせば教師も十分にみんなに行き渡るから、その場では理解させることができるのだと先生方はおっしゃる。だけれども、その場では幾ら理解させても、先ほどの工業的な積み上げ的な考え方だけでいくならば、本当の実力といいますか、いざというときに創意工夫をしていくということにならないようになっているのではないだろうか。そこにさっき緑化の問題なども申しましたけれども、自分で緑を育ててみるとか、そういうことが非常に重要なことになるのではないか。先生の側にも重要なことになるのではないか。いまの先生方も実は余り土なんかいじらないで工業能率を標榜する社会の中でもって育てられてしまったという大人たちがいるわけです。そういう基本、基礎という考えの中にそういう植物的な基本の考え、根本の考えを強く意識させなければならないと私は思うわけです。いかがでございましょう。
  56. 永井道雄

    永井国務大臣 有島委員がただいま何が非常に重要なことを言っておられるのだと私は思います。ただ私として、言われていることを正解しておりますかどうか、幾分不安がありますが、私なりに理解させていただいて考えますのに、確かにこの工業的な社会になりましてから、人間の全体的な発達ということよりも、やはり専門家の養成というようなことが眼目になりまして、そういうことを前提にした上で基礎から積み上げていくということになりますと、事実社会で暮らしを立ててまいります場合にも、結局、いわばきわめて大きなメカニズムの一部分にとどまってしまいますから、そうした意味で人間全体としての幅を持って創造的になっていくということは少ないのではないか。先ほどお話しになりました一例としては、たとえば水を飲むときに水道の栓をひねりますと水が飲めるということだけの教育にとどまってはいけないというお言葉がございました。私もそのとおりで、水を飲んで源を思えということを申しますが、油を使って源を考えるということが乏しかったことは、これは否めない国民教育上の弱点であったというふうに強く感じますので、そうした意味におきましては、小学校段階からの教育というものは、確かにただ専門家を養成するというふうなものに傾斜せずに、もう少し全体的なバランスを考える。  教育課程審議会の答申との関連で申しますと、つくる作業そして行動というものが重要である、そういうものを織り込んでいきたいということがございますが、こうしたことが大事なのではないか。また自然観察それから自然との接触、これもうたわれていることでございますが、そうしたことが恐らく有島委員が御指摘になっている問題に接近していく一つの方法なのではないだろうか。ただ、この種の非常に重要な問題は、新しい教育課程ができる、あるいは教科書が出てきたというだけで解決がつかず、これから教育に当たられる先生方がりっぱに養成される、あるいは現場において御活動になるという上でいろいろ研究的に考えながら進んでいかれる条件というものが必要であろうかと思いますので、そうした面からわれわれは配慮をしなければならないのではないか。先ほどからのお話を承って、あるいは正解でないかもしれませんが、私なりに理解いたしますとそのように考えているわけでございます。
  57. 有島重武

    有島委員 この先の方に「現在の小学校、中学校及び高等学校教育課程をみた場合、小学校及び中学校についてはおおむね基礎的・基本的な内容を共通に履修させる段階として位置づけられており、また、高等学校については一般的には個人の能力・適性等に応じ選択履修を重視する段階として位置づけられている。」というふうになっています。  これはこのとおりであると思うのですけれども、この場合に、この基礎というのが小学校、中学校とこれだけやった、だから高校では本当は選択履修を重視しなければいけないということになっている。言葉の上ではそうなんですけれども、言葉の上だけとしても、それはいままでも言われているし、それからたてまえの上では高校では選択をうんと幅を広げるということになっているけれども現実にはいまできないということですね。どうやって解決したらいいのか、そこに考えの上でもって何か基本的におかしなところがあるのではなかろうかと思って、それをいまでも私も考え方が熟さないというか、こうやってすらすらとうまく言えないような状態でいるんですけれども、基礎的な、基本的な内容をまず身につけさせる、それから選択、必修に向かうというようなそういうような割り切り方をしていくとしますと、その基礎的、基本的なものは時代に応じてますますその量が多くなる。だから小学校、中学校九カ年では足りなくて、高校一年のところまでを基本的なものを延ばすというような、そういうような考えに陥ってしまうわけです。その考え方は実はぼくは危険だと思うわけです。そうすれば、それはやがて高校一年では足りないから二年まで延ばしましょう そういうことになっていくわけですね。それはさっき言いましたように枝を伸ばし、葉っぱを茂らし、それによって根が深くなるというような考え方を、すでに大学の方では教養課程と専門課程を大学で二年、二年と画然とするのではなくて、初めからもう専門課程もやらしたらいいのではないか。それから教養課程というのを四年間続けてもいいのではないか。ああいったやり方をお始めになったもとにはそういうふうな御反省があったと思うのです。今度は枝葉の問題で選択科目というものがほとんど高校でもって現実的には不可能である。それは受験ということを控えてということもございますけれども、いまの体制ではどんなふうに教育課程を変えてみたところで高校の持っている能力、容量というものの中でもって、これほど人数も多くなって多様化してしまった高校段階人たち、高校年齢の人たちの選択をしていきたいという者の要求を十分に果たすことは、恐らく閉ざされた高校の中では無理なのではなかろうかと私はかねがね申し上げている。それで、たとえば語学にいたしましても、一つ語学を突っ込んで、英語なら英語を本当にマスターしようというなら、これは各種学校に行った方がよろしいわけですね。それから中国語なり東南アジアの言葉を日本人が余りよく知らないで英語を通じてだけ東南アジアの人たち、隣国の人たちと話さなければならないなどということは非常に不幸なことだということはみんなが思っているわけだけれども、それではその語学をマスターするのはいつなんだということになりますと、それは二十前がちょうどいいわけですね。小さければ小さいほどいいという説もございますけれども、あながちそうでもないらしい。大体二十前後のところでもってその頭のやわらかいときとか記憶力が非常にいいときやるべきだ。そんなことはわかっているのだけれども、現実にはそれは行われないわけです。高校の中に閉ざされている限り、そういった選択要求があったとしてもそれに応じることがちょっとできないわけでしょう。それからテレビのこともおっしゃった。テレビでもってかなりそういったいまの枝葉に値するようなこと、専門的なことについて、修得しょうと思うならばある程度のことは相当できる、わかるのだけれども、それも現在の組み方ではできない。となりますと、私は、後期中等教育というものは選択学習、個別な学習というものを本当に重視すると言うならば、これは高等学校という閉ざされた学校の中だけにそれを押し込めるのではなしに、他の学校以外の教育機関というものをもっと活用していくということ、そういった道を開かなければならないのではないだろうかと申し上げたいわけです。  それでは学校の中でやるべきことは何かと言えば、それは各個別学習と言っても非常に多様にわたることになる。で、各学生さんのいわゆる点数の上であらわれた能力というのも、中学校段階でもってすでに何にもわからなくなってしまったような方もいらっしゃいますし、それからどんどん先に進めるような人もいる。そういうような、学力という言葉は余り使いたくないけれども、非常に多様化された力、多様化された分野のものに開いてしまっている。それでもってあと高校における共通履修、学校というものは大体共通履修をするのに便利なふうにつくられているというふうに私は思うわけです。そこで行われるべき教科内容はどのようなものでなければならないかというようなこと、そういうことを今後審議しなければならないのではないかと私は申し上げたいわけだ。おわかりになるだろうか。
  58. 永井道雄

    永井国務大臣 学校というものをクローズドシステムにしないでオープンシステムにした方がいいのではないか、それを高校の段階から考えたらどうかということと承ったわけでございます。実は同じ考え方に立ちまして、大学についてはいまかなりその考え方を進めつつあるわけでございます。ですから、専修学校として認められたもので高等学校卒業者が入りますものは数といたしましておおよそ八百、現在ございます。これをたとえばいま語学の学習ということをおっしゃいましたが、そういう語学の学習が大学の語学の課程よりもよく行われる場合がございますから、そこで、そういう専修学校を経ましてある種のある外国語を修得いたしまして、たとえば検定を取った場合、それを大学の中の単位として認めるという形で専修学校と大学の構成というものをモザイク的に考えていくということは可能性として考えられているわけでございます。これは今後の検討課題と思います。高等教育懇談会等においても、かなりそういう意味では先生の言われるオープンシステム的な考え方があるわけでございます。  さて、高校段階でそれをやってはどうかという御指摘と承ったわけでございますが、これは現段階におきましては、確かにとうていそういう状況から遠い。そこで今度の教育課程審議会が指摘しておられる点は、まず第一年次において共通必修というものをしっかりとやる、しかし、第二、第三、つまり中高学年におきましては選択的な方向を強化していくということを言っているわけでございます。ですから、確かにクローズドシステムであるという点においては従来と変わらないのですが、そのクローズドシステムの中で選択という方向を中高学年で強化することによって、先ほどから先生が御指摘になっているような問題にこたえようとしているのが、今回の検討されている中間まとめあるいはそれ以後の討議の過程考えております。  先ほど先生が言われましたように、高校を直ちにオープンシステムにするというような方向ということを考えますと、果して高校段階にちょうど適切な程度のいろいろな学校が十分に準備されているかどうか、相当の検討を要することになるのではないかというふうに考えているわけでございます。
  59. 有島重武

    有島委員 大学をオープンシステムにすべきである、他大学と単位を互いに交換させて、そして卒業要件の中に入れてあげなさいというようなことを私たちつとに提唱してまいっておりましたけれども、ではそれがどの程度いま行われているかと申しますと、これはまた後で問題にしてもよろしいわけですけれども、まだまだ非常にそれが進捗しないわけです。それで、それは高校段階からまずそういった癖をつけないといけないのではなかろうかと思うわけです。高校のときまではずっとまるで小学校と同じなんですね。いま大臣は、一年次までは共通履修にするけれども、選択学習の方向にそのクローズドシステムの中でしますとおっしゃいますけれども、それは本当にできますか。それではいままでもそういうことはやらないつもりできたのか。それができないのは、経済的にできないわけです、人材的にできないわけです。そういうような事情でまいったわけですね。それでは、これから一つの高校内でもっていろいろな語学なら語学一つにしても、私は中国語をやりたい、私は東南アジアをやりたいと出てきたとする。先生は一人もいない。それでは雇えるかといったら雇えませんでしょう。幾ら人材確保法を強化したってできないです。それから、ある学生さんは、もっと高等数学をしっかりやりたい。ある学生さんは、まだ中学校のときの数学がよくわからぬ、それだから大体平均的なこともいいけれども、そういうような授業も開いてもらいたい、こういうふうにやられても、現実的にはできないわけです。だから結局、平均的なことを大体無難な線でやりましょう。選択というのはそれでは、絵にするか、木工にするか、あるいはお裁縫にするか、お料理にするか、その程度のことでもっていままで来たわけですけれども、いままでの選択が、二つ三つの選択が七つ八つにふえたところで本質的には、いまの高校生の適時性といいますか、年代の持っている一つのバイタリティーに本当にこたえていくことができるかといいますと、それは私は疑問であろうと思うのです。  だから、大臣がおっしゃったように、ではいますぐやれといっても、そこには受け入れ態勢があるとは限らないからというようなことがあった。イタチごっこという言葉がございますけれども、さっきの、そういうようなクローズドシステムに高校を置いておくから、なかなか外部のいろいろな機関ができないのであって、発達していかないのであって、そういった方向を示しますよと言いさえすれば、ちょうど後期中等教育に相当たるようないろいろな教育機関というものが、どんどんできる可能性はいまこの世の中にあると思うのですね。こんなクローズドにしておいているにもかかわらず、塾がたくさんできております。予備校もできています。それで学生さんたちは、学校を終わってからその塾に通ったり予備校に通ったりしているわけですね。そういった現象は実はもうあらわれている。これは全国的に見ますと、たとえば大都会のない県なんかにおきましても、そういったことは、学校以外のちょうど後期中等教育に当たるような十分な教育機関というものがまだまだないという現状ではございますけれども、そういった方向をいまの段階で、とにかく将来はこういうふうにするというようなことはお示しになってよろしいのではなかろうか、また、お示しにならなければならないのではないかと私は思うわけです。いかがでございますか。
  60. 永井道雄

    永井国務大臣 先生のお考えというのは、だんだん私もよくわかってまいった感がするのでありますが、大学と高校とちょっと違うと思います。     〔委員長退席、河野委員長代理着席〕 といいますのは、大学の場合は、進学率がいま三七%、そして高等教育懇談会の今後の五カ年間の成長というものについての予測は、従来よりスピードダウンすることになりますから、五年間におおよそいままでの一年程度の伸びという考えになっているわけですから、さほど伸びない。ところが、大学の段階におきましては、そういうふうに大学進学人口というものは、大きくはなっているけれども限定されているという事態に対応いたしまして、恐らく各種学校の中で専修学校として認められるものも非常に発達してきたというふうに考えます。それの数が、先ほど申し上げましたように八百校あるわけでございますから、これはまだその八百校でなく、従来の高等学校卒業者が入る各種学校の人口を十五万人という統計に基づいて考えますと、現段階においてすでに高等教育人口がおおよそ四九%ということになって、それがオープンシステムになっているわけでございます。  それから高校の場合は、九一・九%が進学しているというのが現在の段階でありまして、それでもなおかつ、中学を卒業をした各種学校というものもいろいろあるわけでございますけれども、しかし、それを専修学校として認めていきます場合にも、直ちにそれとの単位互換関係というふうなもので後期中等教育の体系をつくり得るかというと、なかなか具体的にはむずかしい問題があるのではないかと思います。具体的に申しますと、たとえば朝鮮語の学習という言葉が先ほど出ましたが、これは需要に対応いたしますと非常に供給がおくれているというのが事実であって、そして本年度も私学で朝鮮語を教えている学校は特別補助をするということで、桃山大学等いろいろそういうところにいたしましたけれども、しかし、そういう学校から承っているところによりますと、朝鮮語学科を開けるんですけれども、実を言うとその先生がなかなか得られないという問題があるので、かなりスピードは落ちるであろう。現在の大学においてもそうです。また語学の各種学校においてもそうです。また、大阪外語大学が中心になりまして朝鮮語、日本語の字引の編さんが行われております。その場合にも、字引の売り部数との関連で定価を決めなければなりませんが、売り部数が相当大きくなれば普及しやすいのですが、現在計算しているところではさほど大きい売り部数にできにくい。それはこなす人が少ないからだそうでございます。そうしますと、たとえば朝鮮語の学習というものを自由に行える機会が高校段階にあった方がよろしいという先生の御意見で、私はある段階においてそういうふうになってくれば非常にいいと思いますけれども、いま具体的な話を申し上げているのは一例として申し上げているのですが、朝鮮語をとりますといまのようなことでございますから、現実にはやはり高等教育段階においてまずそういうものをオープンシステムでこなしていくという方向を考え、その次の段階として考えざるを得ないのである。そしてまたそれは高校進学率九一・九%というのにも見合った現象ではなかろうかというふうに考えております。しかしお考えのほどはよくわかりましたから、これは長期的に学校体系というものを考えていく上でまた十分検討いたすべきことと思います。
  61. 有島重武

    有島委員 長期的に考えていく上でもって高校のオープンシステムといいますか、そういったことを考えなければならないとおっしゃっていただいたわけですけれども、実はいま長期的に物を考えなければならないという出発点にいるというような御覚悟であるらしいから、だから特にこれを申し上げたいわけなんです。  それからもう一つ、後期中等教育学習ということですけれども、たとえばこれは極論を申しますけれども、どこかでアルバイトとして働く、これはいまのところ学習とは認めないわけです。だけれども、さっきの根があり幹があり枝があり葉がありということ、それでもってある枝には幾ら葉があってもまだ花が咲かなかった、こっちは花が咲いたけれども、実がならなかった、こっちには実がなっているものもある、いろいろあって、それが同時にとにかくじわじわ育っていくというようなモデルでもって物を考えるということも私は一面に必要だと思っているから、そういった面が欠けておると思うから言うのだけれども、いま定時制と言われて働きながら勉強しておる、この働いている部分も単位にしてあげてもいいのだというようなシステムもすでに開かれています。     〔河野委員長代理退席、委員長着席〕 それは産業側がエゴでもって若年労働者を使って、適当にお茶を濁す程度で高校卒業資格を取らしてやろうというふうに活用されているのだという批判もないわけではないけれども、子供たちが本当に力をつけていく、ちょうど十六歳から十九歳あたりの持っている能力、可能性を引き出していく、それがまたさらに次の時代の土台となっていくということから考えますと、あの後期中等教育段階をまるまる勤労に費やしてしまって、ついにその先の生涯教育的なこともやらずに終わってしまうという人が出ることは、今後はとても許されないことであると思うのです。だから働きながらというのも、その働くことが一つの生涯教育の中に組み込まれた学習であるという受けとめ方もさせることが、ぼくは後期中等教育の中で非常に大切なことではないかと思うのです。職業教育なんということもございますけれども、何かやすりの削り方だ、旋盤のかけ方だということを小手先で教える、こんなことが職場に行って役に立つわけはないのです。それから勤労の重要性ないしはとうといことを教えましょうなんと言っても、そんなことは昔の徒弟制度かなんかでなかったらなかなか体に入ってこないような問題でございまして、いまの職業教育と言われているものは非常に不徹底なわけですね。ですからもっと広げるならさらに広げていって、特定の資格を授けられた専修学校における授業ならばわが校の単位の中に入れてあげましょうとかなんとか、そういうようなオープンシステムをいま大臣もお考えになっていらっしゃるらしい。それは大学においては、まさにそういったオープンシステムをモデルとして考えましたし、いまその方向に進んでいらっしゃるようだけれども、後期中等教育段階においてはもっとそれを幅広く、私は映画監督になりたいからというので毎日映画を見に行っても、それは毎日行かせるのではなくて、高校で生涯教育を支えていくに足りる本当の基礎になる共通履修は厳格にさせることを前提にして、そういったような可能性を将来開く。いま語学の問題だけ言いましたけれども、たとえば国語などでも、これはまた別な項目でやりたいのだけれども、国語を語学として学んでいく国語と文学としてのものと、多少いま混乱があるわけですね。そういうことが言われているようです。それで特に国語の先生が、本当は小説家になりたかったのだけれども、なれなかったから国語の先生になりましたというような先生のところに参りますと、どうも授業の内容が文学的なものになっていくというような傾向が相当あるようです。そういうような場合に本当の日本語の特質といいますか、そういったものをよくこなせることがいまのどの段階で、まあ小学校でも中学校でも高校でもそれはやっているわけだけれども、いまの学校ないしは過去の学校——私なども国語というのはしょっちゅう使っているはずですけれども、いざとなると非常に言葉の選択に迷いながらこうやってお話をしているわけで、非常に不自由を感じながらやっているわけです。そういうような問題は、本当の基本ですから高校の中でしっかりやる。だけれども、文学を志すような者は図書館などに行ってもらって、あるいは本屋の立ち読みでもいいから、これは極論でございますけれども、そのくらいの幅を持たせてもいいのではないか。そういうことになりますと、これは、高校の卒業のための単位数を五十時間から六十時間くらいに圧縮してもよろしいのではないかと思うわけです。そういった方向をもっと大胆にお考えになり、示唆することが現時点で必要なのではないだろうか、そういうふうに御提案申し上げたいわけです。
  62. 永井道雄

    永井国務大臣 先ほどからずっと承っておりまして、私は、先生のお考えの中核といいますか、そういう点は非常によくわかるのです。ただ、ちょっと先生と私と考え方が違うかなと思いますことを先に申し上げた方がいいのじゃないかと思います。  それは、どこが違うかといいますと、先生は非常に思想に飛躍力があります。そこで、たとえば現在の九一・九%の高等学校がありますが、そこに実は生徒だけでなく先生もおられるわけですから、それを一遍にぱっと小さくして、全く新たにというお考えのようです。私が考えておりますのは、そこまで飛躍力がないのですが、長期的に考えていまのようなたとえば勤労体験というものは非常に大事であると考える。そこで、現行の制度の中で、やはり、長期的に考えると同時に個別的に考えながら、一つ一つれんがを積み上げるようにして、その間に間違いも犯しますから、そういうものは修正しながら、いまのような考え方、あるいはそのほかの考え方もありましょうから、次第に学校体系を整えていくということであると思います。  そこで、いま御指摘の勤労体験の問題でございますが、これは、教育課程審議会でも、従来の普通科の学生というのは勤労体験というのがございませんでしたから、そこで勤労体験というものを学習させるような方向というものを考えなければいけないというのが、第三番目の項目として出ております。ただし、先生のお立場からいうとこれは恐らくご不満だ。こういうのではなくて、本当に社会に出て勤労するというようなことをやれというお考えだと思いますが、それに当たりますのは、技術科学大学の工場実習の半カ年という御意見を調査会の方から出しておられますが、その場合にも、決して工場や会社に労務提供をするというのではなくて、やはり教官が大学の基本的な考え方に基づいて半カ年にわたって指導する。しかし、従来のような工学部に比べると、はるかにそうしたいわゆる工場における実習というものを学習の重要な単位と認めていくという考え方でございます。それを発足するわけでございますし、それはまた大学でも、小規模ながら、まずそういう考え方が出てくる。その場合に、やはり従来から考えられてまいりました大学の自治なりあるいは構造なりというものを重んじていかなければいけないのですから、ちょっと私は、先生がお考えになっているように、直ちにいまの学校教育を縮小いたしまして、そうして散らばらせるということになりますと、いろいろな問題を生じてくる、それでは教育の基本的な責任を持っていく主体はどこにあるかというような問題がやはり出てまいります。たとえば、先ほど、毎日映画館に行ったらよろしいではないかというお話でございまして、それも大変卓抜な識見と考えますけれども、しかし、やはり映画の見方ということを考えませんといけませんから、そういう場合に、学校教育、指導との関連がどうなるかというようなことを考えますと、直ちに単位を減らして、映画を見る人は映画を見る人、小説を書く人は書く人というような、まだ社会的な教育機関というものもできていないわけでございますから、ちょっとその辺が、私の歩み方に比べますと有島委員はカメとウサギほど違うような感じがいたします点は御理解願いたいと思います。
  63. 有島重武

    有島委員 私は極論を申しましたけれども、現実に学校の教科目の中に、きょうの新聞が入ってきてもいいし一けさのテレビが入ってもいいんだし、そういったことが話題になってもかまわないわけですね。それは必ずしも同じことを見てきたからというのじゃなくて、ぼくはこれを見てきた、ぼくはこうだった、別々な新聞だ、そういったことが教室でこなされるような状態というものがいま望まれていると思うのですね。大臣もそう考えていらっしゃると思う。それを少し広げていったわけです。それで、そういった必修科目というものは校内でやれる、それから選択科目というものは学校以外の機関でもすることができるようになるのだというような方向性を将来お示しになる——ならなければならないだろうと言っていらっしゃる。これは、それでいいですね。  それから、ぼくはその先まで行ってしまったのだけれども、その選択科目ということについてはどこで責任を持つのか。それは、責任を持つと言うと、それを採点評価して何か書類に書き込まなければいけないという話とは別だと思うのですね。どこで責任を持つか。それは基本的には、それこそ後期中等教育というのは何かというと、個人の自覚を持ち、個人に責任を持てるような人間になっていくかいかないかというようなことが一つ重要なこととしてあると思うのですね。本人が本当に責任を持つということが一つあると思うのですね。責任通念——お役人さんたちはすぐ、みんな、自分が後で責められると大変だからというふうに責任通念であれする。教育の上でもって、まずそういったことが基本的にあると思うのですね。だから、家庭にもいまいろいろな型があるかもしれないけれども、家庭としても責任を持たなければならないし、そして学校の方でもこれだけ多様なところにみんな多様な選択をしている。それをやはり基礎的なものと結びつけていくということについては、これは教員の方が本当に真剣に責任を持ってやっていただかなければならないことであると思います。  それから、いきなり学校を縮小したら教師があぶれて困るであろうというような意味合いかと思いますけれども、いきなりそんなことでもって首を切ってしまう、そういうことではありません。現在の教科をもっと減らして、むしろ先生方にうんと勉強する時間を与えていくということが、教育全体をよくするにはどうしても必要なことではないでしょうか。そういった意味を申し上げたいわけです。  これは時間が大変かかってしまって、私の方がカメのようなことでもって、なかなか進めないで弱っているわけですけれども、どうしましょうかね。ちょっと相談しますから……。(「休憩いたしましょう」と呼ぶ者あり)
  64. 登坂重次郎

    ○登坂委員長 それでは、暫時休憩いたします。     午後一時十二分休憩      ————◇—————     午後一時四十五分開議
  65. 登坂重次郎

    ○登坂委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  文教行政基本施策に関する件について質疑を続行いたします。有島重武君。
  66. 有島重武

    有島委員 大臣所信表明の冒頭に、「時代の転機に当たり、わが国が世界史の新しい展開の中で一層の飛躍発展を遂げるために」というお話もございますし、それからその根幹をなす教育の重要性についての認識を新たにする、一段と努力を傾注するというようなお言葉でございましたもので、私は先ほど一連の質問をいたし、また、御提案も申し上げたわけであります。ですから、この問題、またほかの問題にもみんな関連してくるのではないかと思いますので、先に進んでいきます。  体育局長いらっしゃいますから、私は現在の児童の今度は体育の問題といいますか、最近の御報告によりますと、児童生徒の体位はこの二十年間に大変向上しておる。向上しておるというか、背の高さから言うと二十年間でもって十センチ平均が伸びておるというようなことがありました。  ただし、ここでもってどういったところにその欠陥があるのか、具体的に御報告の中で見ますと、第一番に虫歯でございますが、虫歯が児童生徒の間では九〇%を超すということになっておりますね。虫歯の予防対策についてどんなことをやっていらっしゃるか、承っておきたいと思います。
  67. 安養寺重夫

    ○安養寺政府委員 昭和五十年度の児童、生徒の齲歯、これは小学校で九四・四三%、中学校で九三六八%、高等学校で九四・九四%、かような高い比率で、現在では学校でのトップの疾患ということになっております。しかもこの傾向が引き続いておるというようなことでございまして、文部省におきましても、学校教育全体でいろいろその対策を講じてまいっておるわけでございます。  具体的に申し上げますと、現在、体育というものは保健教育を含むという内容になっておりまして、小学校の教科でございます体育の中で、また中学校の教科の保健体育という中におきましていろいろと関連の指導をし、かつ教科の学習以外にも、特別活動におきまして保健指導をいろいろとしておるわけでございます。  教科の授業につきましてはいろんな教科書もございますし、また特別活動の実際の保健指導には、文部省におきましてすでに小学校の保健指導の手引きを作成いたしておりまして、その中で関連の事項を指摘いたしております。中学校の保健指導の手引きは、現在、作成をしようという作業の途中でございます。  どういうことをやるべきかということでございますが、いろいろ栄養の問題体質の問題原因は区々で、また広うございまして、われわれといたしましては、歯の健全であることの必要性を認識をさせるというところから、予防のいろいろな手段を講ずるということをしておるわけでございます。  文部省におきましても、いろいろな機会に指導の手引きを、簡単なものをつくって、先生方関係の指導者に差し上げまして、歯の予防などの御研究を願っておるわけでございますが、格別、日本学校保健会に対しまして、歯の関係委員会を中につくっていただきまして、研究協力校を当会が全国的に委嘱をして、鶴歯の予防対策の具体的な検討を取り上げていただきたい、かように、いろいろと自分でできないことも専門家にお願いするというようなことをしているわけでございます。  以上概観でございますが、大体そのような構え方でこれに取り組んでおるという状況でございます。
  68. 有島重武

    有島委員 大臣、私はここにも考え方の問題が一つあるのではないかというふうに思うのです。と申しますのは、いま体育局長からお話があったけれども、体育局長が歯の衛生の実施についての通知なんか毎年出していらっしゃるようですけれども、ここでは、歯をよくみがきなさいということ、それから、歯の診断を受けろ、それで、よくかめというのがある。よい歯で、よくかみ、よい体といって、結構なことですけれども、こういった歯をみがけという指導は、去年やおととしのことではございません、昔からその指導があるわけであります。最近に至って歯をみがく子供が少なくなってきたなどということなどはないわけです。  ところで、体育局長に承るけれども、昭和二十五年のころには、小学校では四二%台、中学校では四〇%台、これは男女別々になっておりますので、詳しく言うと、中学校の男子が四〇・二二、女子で四三・九一、それから高校の段階では、男子が五九・八八、女子が六六・三四、そんなふうです。それが三十五年になりますと、小学校が八〇%台になりました、中学校が七〇%台、それから高校も七〇%台になりました。そして今度は昭和四十四年になりますと、小学校で九二%、それから中学校で八九%、高校で九〇%、ですから九〇%を超えてしまったわけです。それで、いま御報告があったように、四十九年からは九四%、そして現在に至っているわけです。何かこれは虫歯の予防についてちょっと考えが違うのではないか。幾ら歯をみがいても、そのことでもって虫歯を防ぐことはできないのではないかと考えるべきではないでしょうか。いかがですか。
  69. 安養寺重夫

    ○安養寺政府委員 どの病気もそうかと思いますけれども、歯の予防というのは大変根気の要ることだと思います。悪くなって初めて歯が意識されるということが多うございますし、ちょうど小学校の二年生ぐらいで乳歯から永久歯に生え変わるということもございまして、これはほんのわれわれに対するクレームの一つですから、全部が全部じゃございませんけれども、乳歯が悪くなったら、どうせそれは抜ける歯だからそんなのはいいのだというような、治療上の問題点もありましたりしまして、これはいろいろ学校一つ一つの場所で適切な対策をとっていただいて、ともかく歯を悪くしないことに、予防に注意していただくということしかございません。われわれも歯をみがいているつもりですけれども、専門家に言わせますと、みんな歯のみがき方が正確でない。歯茎の方から歯の先の方へローリングという方法でやらなければ、歯をみがいたことにはならないというような御指導もわれわれいただいておるわけでありまして、一つとってもそういうようないろいろ根気の要る、しかも適当な指導を受けなければ徹底しないというような実情もございますし、また食生活、いろいろ砂糖をたくさん食べるとどうだとか、その砂糖も歯の面にくっつくような甘いものがいけないのであって、ただの砂糖だったら構わないとか、いろいろなことがございましたりしまして、いろいろと歯の知識を普及するということ自分自身が大切にするということが最大の予防策でないか。文部省なり教育委員会がそういう意味でのいろいろPRなり指導を申し上げたいというように考えておるわけでございます。
  70. 有島重武

    有島委員 大臣、お聞きのとおりであります。ですから、歯のみがき方が不徹底であって、正しいみがき方をしていない、ローリングでやらないといけないと言うんですけれども、ですから、昭和二十五年にはそのローリングが徹底しておったということになります。昭和二十五年には、まだ鶴歯が四〇%台であった。そのころには歯のみがき方が皆さんが大変正確にみがいていたから予防できてこのようであったのか、そうではないのではないですかね。ですから、その歯のみがきぐあいでもって防げるとか防げないとかいうことは間違いだ、やはりそこに見きわめをつけて対策に踏み出さなければならないときが来ているのではないか。時代の転換というほど大げさには申しませんけれども、もう九五%になろうとしているのですから、これは大臣が、考え方が少し違うのではないかということを示唆なさるべきであろう。いかがでございますか。
  71. 永井道雄

    永井国務大臣 先ほどの昭和二十五年、三十五年の統計は非常に重要でございまして、恐らく食生活の変化というものも非常に重要な要因であるということも推理されますから、これはほとんど小史局全部九〇%を超えている段階ですから、どういうふうにすべきか。先ほどのような推理にも基づいて方向を考えるべきであると考えます。
  72. 有島重武

    有島委員 いま体育局長からもお話がございました砂糖の問題であります。ぼくは、昔から砂糖を食い過ぎると虫歯になるよということを言われておりましたけれども、その関係をちょっと調べてみたわけです。そういったことが文部省などでも行われているかどうか、ぼくはなさった方がいいのではなかろうかと思っているわけですけれどもね。  砂糖の年間摂取量というものを、これは砂糖の総消費量を人口で割ったものでもって見たわけですね。そうすると、これは必ずしも妥当かどうか知らないけれども、一つの指標にはなろうかと思いますが、これは砂糖と砂糖類というのがございまして、砂糖というのはそれこそ買ってくるお砂糖をそのままの形でもってコーヒー、紅茶に入れるとかなどして使う。砂糖類ということになりますと、あめに入っているだとかつくだ煮の中にまじっているだとか、そういうことでございますね。そういった統計を見ますと、昭和二十五年のときに砂糖類というのが年間三・二三キログラム。それから三十五年になりますと、それが十五・〇五キログラム、五倍にふえております。それから昭和四十四年のところではそれが二十四・一九キログラムで、まず六貫目ということになりますかね、昔流に言いますと。それから最近に至っては、それが二十八キログラムとか二十七キログラムとか、これは砂糖類であります。それから砂糖そのもののとり方も、昭和三十五年からこれは出ているんですけれども、年間四キログラムということに相なっていますね。それがやはりだんだんふえておりまして、昭和四十九年では五キログラムを超えておる。砂糖として消費しているのが年間五キログラム、それから砂糖類としては二十七キログラムなんということが昭和四十九年で出ているわけですね。こんなに大量にお砂糖をわれわれはとっているのかと驚くわけでございますけれども、甘党、辛党の人がいるわけです。それで、大人はむしろ余りお砂糖は好んでとらない、男はとらないということがありますでしょう。そういたしますと、児童、生徒が年間に摂取する砂糖というのは、この平均をまた上回るのではないかと私は思うわけです。こういう砂糖の摂取量とそれから虫歯との関係というようなことに着目して、そして積極的に研究せよというふうにさせてもよろしいのじゃないかと思うのですね。これは厚生省の仕事だからとおっしゃらないで、あるいは科学技術庁の方だなんておっしゃらないで、児童、生徒かこれだけ被害をこうむってきたのだから、それで、いままでの考え方、いままでの医学、医学と言っては申しわけないけれども、その考え方すれば、ますます予防などで、いい薬も出てきたので、ブラシもいろいろと工夫されているのだし、よくなるはずなのに、それがますますよくないということは、これは考え方かおかしい、見当が違っておる。もう見切りをつけて、新しく実証的にそれを詰めていかなければならない。それはだれがやるかということですね。それはやらしていただきたい、児童を守るためにそういうことをやらしていただきたいと私はお願いしたい。大臣いかがでございますか。
  73. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいまの方向での検討もございますので、体育局長から御答弁いたします。
  74. 安養寺重夫

    ○安養寺政府委員 悪くなりましてからの全治ということは歯にないそうでございますので、これはあくまで予防ということに徹することが最高の一番いい道ではないかと思います。  いま先生から大変学校保健の立場を考慮しての御示唆がございまして、まことにそのとおりだと思います。ちなみに、われわれの方も外国の文献等も分析をいたしまして、いま砂糖のことに関する限りで申し上げますと、いろいろ間食のとり方、糖分が多いということでなくて、歯の面に糖分が腐食しやすいようなものを食べ、またそれがそのままになっておるということがいけないということで、一日三回等々の歯みがきの奨励等の資料も配っておりまして、研究につきましては、学校保健会にいまいろいろなことを具体的にやっていただくというようなことをしておりますので、全部が全部文部省体育局で完備いたしますというわけにはまいりませんですが、いろいろと努力をしたいと思います。
  75. 有島重武

    有島委員 大臣いかがでしょうか。きょうは所信表明ということを中心にしてやっていますから 本当は発想が変わるということをぼくは眼目にしてやっているわけです。いまの体育局長お話をこっぴどく、言い過ぎてしまうかもしれないけれども、まるで砂糧屋から頼まれて言いわけしているみたいに聞く人がいても無理ないような言い方だと思うのですよ。じゃなかったら、歯みがき屋さんの広告の片棒を担いでいるとか、そんなこと言いたくないけれども、みんな歯がよくなったら困る人がいるわけですよ。いまの体育局長お話では、昭和二十五年のデータというものについて余り考慮がない。そういう物の考え方が一これはいま一般的になってしまったわけです。工業考え方とかなんとか言うけれども、いつか大臣と私は東洋医学と西洋医学なんということをお話し合ったことがありましたが、これはだれか踏み切らなければならないけれども、いまの局長立場からいけば踏み切れないですよ。はっきりいまのお答えの中では新しい方向には踏み切れないようなお立場にいらっしゃるようにしか思えません。だから大臣に頼んでいるのですよ。  それから、こういうことだそうであります。歯の回りに残る砂糖が分解されて乳酸になるんですね。ただし歯にはエナメル質があるから容易には侵されないことになっているはずです。ところがそのエナメルの保護膜が、これはカルシウムが十分とられていればいつでも後から後から分泌して形成されるはずになっておる、そこら辺の機能が体の上で弱まっているのではないかということが言われているようであります。私も素人だからわかりませんけれども、そういうことが言われているようです。  それから、これは緑化の問題のときにやはり御注意申し上げたかと思うのですけれども、最近子供たちのけがが骨折が多いんですね。昔は捻挫が多かったけれども、このごろは骨折が多いわけなんです。子供の骨というのはにかわ質が多いというのですか、粘り気がありまして、捻挫は多いのだけれども骨折というのはわりあいとまれであったはずですね。それからもう一つは、骨折いたしましてもわりときれいに骨折いたしまして治りが速いということがわれわれの子供のときの常識でありました。現在はそうではありませんで、複雑骨折が多いわけです。それからお年寄りの骨折の仕方と非常によく似ているのですね。ちょっとしたことでもって折れてしまうというようなことがありまして、これは一つの危険信号であるということを、私はそれはしっかりした統計をもとにしてではなかったのですけれども、お医者様のお話、それから町の骨接ぎ屋さんなんかのお話学校先生からのお話でもって、それを御注意申し上げた。それと緑化関係かあったのです、そのときには。それからまた、都会の中では運動場をコンクリートにしておりましたけれども、それをはがしてやはり土にしなければいけない。それから運動の仕方、それから空気というような問題と皆連関があるということで、そのとき申し上げたわけですけれども……。  今度は、いまのカルシウムのとり方ですね、このことについて調べてみますと、昭和二十五年が九十八・五グラムという一つの指標が出ているわけなんですね。これが三十五年のところでふえておりまして百四十二グラム。昭和四十四年で百九十六グラムにふえています。それから四十九年のところが百九十七・一グラム、そういった指標になっています。そういうふうにカルシウムの摂取量も、とにかくふえていることはふえている。だが、それがバランスしないというか、うまく機能していないということになりますね。それで、そういったことをもっと究明していただくこともお命じになると同時に、これは砂糖の摂取量とこんなふうに強い関係があるのだということは御発表いただいて、そうすると大概御家庭ではお母さんたちがもっとお考えになると思うのですね。それは砂糖屋さんには大変お気の毒なことになるのじゃないかと思うのですけれども、いわゆる工業主義というのは生産能率をよくしてどんどん物をつくる、物をつくるから売るようにしなければならない、そのためにはいろいろな宣伝をして、その宣伝は大概科学的な様相あるいは文化的な様相を伴いながら消費させてしまうというようなことがあったということは御反省あると思うのですが、ですから、これは一つの警告を発するというか、この実態は発表なさるということがよろしいのではないかと思いますけれども、いかがでございますか。
  76. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいまの齲歯、それから砂糖の摂取、さらにカルシウムの問題、これは重要な問題の御指摘と思います。その相互の連関というものはどういうことになっているか。大体の数字から重要な問題の御提起がございましたが、文部省では専門家の方々にこれはやはり実証的にはっきりしていただくということは重要でございますから、まずそういう点を十分に詰めまして、その上ではっきりしたデータというものを検討いたしました上で、発表する場合には発表するという方向で、確かに深刻化している齲歯の問題というものに対して対策を立てなければならぬ、そして政策的に取り組むことが必要であると考えております。
  77. 有島重武

    有島委員 御専門家の方々を私はないがしろにするようなことはしないつもりですけれども、御専門家の方々は昔からいらっしゃったわけだ、その方々がいらっしゃったにもかかわらずこういうような、冒頭申し上げたような結果が起こり、順次それが進行しつつあるということを、これは重々深刻に考えていただきたい。そうでないと、あと何遍、時間のある限り伺っても体育局長お話ししている限りは、いや予防が大切だと思います、そうおっしゃるに違いないでしょう。何遍聞いてもきっとそうおっしゃる。ということでございますので、それはよろしく念を押しておきます。  それで、もう一つは近視眼がふえている、このことについては体育局長どのような状況になっていますか。
  78. 安養寺重夫

    ○安養寺政府委員 昭和五十年度の児童生徒の近視の状況を申し上げますと、これは平均的に申し上げるわけでございますが、小学生で一二・三九%、中学生で二七・五六%、高校生では四四・四九%が近視であるという実態調査を得ております。
  79. 有島重武

    有島委員 その中でもって先天性の近視眼といいますか、奇形的に機能しないとか、それから近視とは別に目の疾患、そういったような目の疾患の部類、そういった数字は近視の中に含まれておりますか、含まれてはいないのですか。
  80. 安養寺重夫

    ○安養寺政府委員 いま近視を申し上げましたが、視力一未満の者というのが別途にございまして、そうしてその中で、矯正視力という中の一つが近視、そのほかにいわゆる統計的には弱視でございますとか遠視、乱視、それから色覚の異常、こういうものもとってございます。いろいろその中に程度はあるかと思いますが、統計的な表でいま資料持っておりますので、その詳細はちょっとわかりません。
  81. 有島重武

    有島委員 実はこの問題につきましては、昭和五十年二月二十六日の予算委員会の分科会でもって「永井国務大臣」と書いてございますが、申し上げたわけです。それで高校生の四四・四%が近視眼、めがねをかけていなければならぬ。大学になればこれまたふえるであろうということが類推できます。では大学以上の方々の成人についての統計はありますかと言ったらば、それはないのです。文部省の方にもないし、厚生省の方にもないそうです。でも大変大勢いらっしゃるということは経験的にはわかるわけですけれども、このことについて、近視眼の予防ないしは近視眼を回復するというような手だてはないものなのかということですね。そうしたならば、これは十分研究するというお話なのですよ。何か、有効な方法というものを考えるようにしなければならないと思いますというふうに大臣は答えていらっしゃるわけですね。それではどんなふうにお考えになったのか、どんなふうに手を打っていらっしゃるのか、研究していらっしゃるのか、それをやはりお聞きしなければならないと思うわけであります。
  82. 安養寺重夫

    ○安養寺政府委員 先ほども虫歯の方で御紹介いたしましたが、財団法人の日本学校保健会の方へこの近視の問題につきましてもいまいろいろと相談をいたしておる最中でございます。どのようなことをやっていただくかも向こうの方でひとつチェックをしていただきたいというお願いだけをいたしておりまして、必要とあれば明年度以降このための国からの必要なお金の措置もせざるを得まい、かように考え実態的に相談をしておる最中でございます。
  83. 有島重武

    有島委員 そうすると、大臣の指示によってその対策を考える、そういうことをしているわけですか。
  84. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいまお願いを申し上げておるのは、近視が多いわけですけれども、これはどういう理由によってそういう近視がふえているのか、その対策ということになりますと、まずそういう原因というものが明らかにならないといけないということで、そういうことについての問い合わせをしてお調べをいただいておるわけです。
  85. 有島重武

    有島委員 その場合に出てくるお答えは大体わかっているわけですよ。それはテレビの見過ぎであるとかそれから余り光線のよろしくないところで本を読むからであるとか、それから悪い姿勢で読むからであるとか、そういうことが従来とも言われておりました。それではそういったことを予防するためには、姿勢をよくしなさいとか、テレビを見る時間を制限しなさいとか、そういうことになろうかと思うのです。これも一つ考え方を転換しなければならないときではないかと思います。考え方が転換するときにはいままでの専門家の方々、いわゆる専門家としていらした方々考え方、ちょっと飛躍と言っては悪いけれども、角度を変えたところからやらなければならないというふうに思うのです。これは経済の話ですと、独占禁止法をもう一遍考え直しましょうなんというときに、それを財界にお願いしてもできないわけですよ。それからさっきは一番最初ロッキード問題を申しました。これは構造的な汚職の問題であるとそのときに言いましたね。それを直していくためには一体どうしたらいいのだろうということを大臣もお考えになっていらっしゃると思います。それはいつかきちんと踏み切らなければならないと思うわけです。私はいま目の話、歯の話をやっているようですけれども、これは文部行政全般にわたる姿勢の問題であるというふうに私はとらえたいわけですよ。近視ということについても、この前私が申し上げた、私は小学校のときから学校のときはずっとめがねをかけておりますけれども、治ってしまったという体験を持っております。私の知人、お医者さんのお子さんの方ですけれども、学校でもって近視眼になったと注意を受けた。そのお医者さんは内科ですけれども、視力というものは一週間のうちを見ても、毎日多少ずつ違うのだ、それから季節によっても多少違うのだ、一日のうちにおいても視力というのはいろいろ違うのだ、背の高さだって朝と晩とは違うわけですね。固定しているものではない。だから近視眼と言われたならばそのことに対してちょっと凝視訓練をやってごらんなさい、自分で心がけてごらんなさいということで、難なくそれは治ってしまったと言いますか、その次のときには注意を受けないで終わってしまったというような話を聞きました。いままでの考え方といいますと、いままで戦前の考え方から申しますと、戦前の考えは兵隊検査に行くんだから目をよくしなければならぬという要請がございまして、そのために目医者さんもその方向でもって相努めたという経緯がございました。それで近視眼はこのように治るのだというようなこと、どうして近視眼になるかというのは、目とそれから脳みその連合が一時サボっているところがあるからだ、それをうまく円滑に機能させるようにちょっと訓練すれば治ってしまうのだというような、そういうような一つの学説が流れとしてあるそうですね。それから戦後になりまして今度は目を検査する、検査して悪ければ早手回しにめがねをかけなければいけない。めがねをかけるということはその悪かった状況を固定することになるわけですね。そうすると、また一年たってはかってみるとまた視力が落ちているからというので、また買いかえている、そういうような行き方がいまは一般的になっているようであります。そういったことをひとつお考えいただいて、これも子供を守るためですから、この前私は予算委員会の中で議論した問題ですから重ねてはもう詳しいことは言いませんけれども、いま大臣がとっていらっしゃる処置というのは何だかいささかなまぬるいな、この所信表明でおっしゃっていることとはどうも余りつながりがない、つながらぬというか、率直に申しておかしいというか、そういった印象を受けざるを得ないような気がするのですけれども、どうぞしっかりやっていただきたい、いかがでございますか。
  86. 永井道雄

    永井国務大臣 齲歯の問題それから近視の問題、せいぜい努力いたしたいと思います。
  87. 有島重武

    有島委員 体育局の問題ですからもう一つスポーツ施設の問題を言っておきますけれども、四十九年度に経済企画庁が中心となって行いました調査で、週一回のスポーツをやっているという人が百人中二六・三です。それから条件が整えばやりたいのだけれどもという人が百人中四二・一です。それで、その条件といたしましては身近なところに施設がほしい、施設がないものだからできない、それからもう一つは人の問題、一緒にやる人がほしいということですね。いずれにいたしましても市民のスポーツ熱というのですか、運動したいという欲求は非常に多いわけです。それで社会体育施設の実態調査によりますと、学校開放はかなり進んでいるようでありますが、お聞きいたしたいのは、昨年の十一月の決算委員会でわが党の坂井弘一議員大臣に、国立大学の施設の開放についてお聞きしたはずなんです。これは前向きで考えますというお話でございました。その前向きにお考えいただくことはいいのですが、その後の進捗状態はいかがでございますか。
  88. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいま申されましたように、昨年の十一月の決算委員会で前向きで考えると申しました。そこであのときには特定の学校の話も坂井委員から出ましたので、地元の市町村あるいは教育委員会等、責任のある立場の方から申し出があったときにどうするかということにつきまして、教育研究上、管理上支障のない限り積極的に便宜を図るようにという指導をいたしております。さらに昨年十一月に開催されました国立大学協会の総会の場合に、各国立大学の学長に対しまして、各大学の体育施設というものは、教育研究あるいは管理上支障がない限り地域住民の利用に供する方策について各大学で積極的に検討していただきたいというふうにお願いをした次第でございます。今後とも機会をとらえて指導いたす考えでございますが、昨年来問題になりました東京学芸大学、東京農工大学につきましては、その後十一月九日、さらに本年に入りまして三月、さらに一月、これは小金井の分校、付属養護学校、農学部、工学部等において、学校体育施設というものが校外の人々によって用いられる状況になったわけでございます。
  89. 有島重武

    有島委員 日本体育施設協会の調べによりますと、公共の体育施設というのを全く持ってない市町村が全国でもって三割、約一千市町村あるというふうに聞いております。これらの市町村に対しての対策というものを持っていらっしゃるかどうか。
  90. 安養寺重夫

    ○安養寺政府委員 先ほど私どもの方で昭和五十年度に実施をいたしました社会体育実態調査の結果を発表したわけでございますが、前回四十四年度に同じような調査をいたしまして、総量といたしまして約四万施設体育施設が増設されておる、この六年間に四万施設ふえたというような結果を得ておりまして、そのうち学校体育施設では約二万施設、公共の自治体がつくっておりますスポーツ施設は前回の約二倍というように大変ふえてはおるわけでございます。人口規模別にこの五十年度の最新の状況を申し上げますと、市町村の施設保有数を見ますと、公共スポーツ施設、学校体育施設などを含めて全部でございますけれども、人口一万未満で約二十カ所、一万ないし二万未満の市町村で約三十ほどいろいろな体育施設を持っておるというようなことになっております。たまたま日本体育施設協会はこれより一年ちょっと前の資料でございまして、当時と比べれば大分ふえておるという結果が得られたわけでございますが、なお体育局としましては、いまお示しのような日常身近でスポーツをしたい、そのための条件がいろいろ施設面、指導者の面、利用する組織の面等々まだ充実を要する向きも多々ございますので、そういう点につきまして行政的にも財政的にもいろいろと必要な措置を講じてまいりたいと考えておるわけでございます。
  91. 有島重武

    有島委員 大学関係の問題をまだ残しましたので、今度また次に時間をとっていただくことをお願いしてこの辺でやめますけれども、いまの体育のことでございますが、結論的に申しますと、目の話も歯の話も、体を総合的に考えていかなければどうにもならない問題であります。  それから、さっき緑化の問題を申しましたけれども、一時から考えますと、私たちが一日のうちに歩行する時間というのは非常に減っているのではないかと思います。これは生活の仕方がそういうふうになってしまったというせいもございますけれども、街路樹も非常に関係があるということがほぼ明らかになりました。全く街路樹のない道を歩くのと、それから街路樹のある道を歩くのと感じが違いまして、歩いてみようという気になるのと歩く気がしないというのとがあるわけですね。ではどうして街路樹が少ないのかというようなことでありますが、これは根元に水がいかないような植え方をしているんだ。建設省のお役人さんたち植物の植え方をまるでさし木と同じように見てくればかりを考えて、根を大切にするようなことを怠っていて、それにだれも何十年も気がつかなかったというようなことが判明したという経過もございます。植え方が大分変わってまいりました。だけれども、それをまた推進していく上でも、今度は子供たち緑化意識、緑を大切にする意識、そういうものが総合的に進んでいかなければだめだと思うのです。そこで私は学園緑化ということを大きな市街緑化、国土緑化の一環として申し上げたこともあるわけです。ですからいまの体育の問題も、新しい時代の一つの転換期にいるという自覚をお持ちになっている永井文部大臣に期待するところが非常に大きいので、しっかりと新しい角度から推進していただきたいということをお願い申し上げまして、きょうの質疑を一応打ち切らしていただきます。どうもありがとうございました。
  92. 登坂重次郎

    ○登坂委員長 受田新吉君。
  93. 受田新吉

    受田委員 大臣お疲れでしょうが、しばらくごしんぼうを願いたい。  文部大臣御就任以来一年六カ月になんなんとされるわけでございますが、私、歴代文部大臣の中では比較的長期勤務の文部大臣と申し上げることができると思うのです。と同時に、永井先生の場合は、どこかにクリーン文部大臣の印象を与えておる。そしてまた新鮮な感覚で教育改革にも乗っかってくれるという期待もある。その期待を裏切らざるべく一年半御奮闘されたと思うのです。しかしながら施策の上では、遅々としてなかなか思うように御所信の断行ができないということで、御自身で焦られるお気持ちもおありだと思います。  そこで、私は祖国日本の文教政策の基本に触れる問題をまずお尋ねしたい。  長い日本の歴史の中で、近代史は幕府から明治親政、そして大東亜戦争の敗戦の後は民主主義の国家へという道のりを歩んできたわけです。その中で、先年日本を訪問したOECDの教育調査団がくしくも指摘している言葉は、われわれ大いに耳をかさなければならぬ。御存じのように、日本の国には出生によるところの階級差別というものはないが、満十八歳で大学入試が行われることによって差別が生ずるというこの教育調査団の報告は、確かにわれわれの胸に響くものがあるわけです。つまり民主主義国家としてせっかく新生したお国でありますが、戦後の日本の歩んだ道の中に、大臣御就任の前に頂点を見ました経済至上主義、出世至上主義、そういうものを目指して日本の教育が行われ、またそれぞれの個人の能力に応じたすぐれた教育というよりも、試験のための準備高等学校であり、また大学においては出世のためのエリート教育であるというようなところで、本当の人間性教育というところに欠けたところができたわけです。そこで、いま日本の本当の国づくりの人間教育するという意味で、あなたの政府も歴代いろいろと検討をされてこられたし、また先生御自身もことしの正月には助け合い教育などというキャッチフレーズをお出しになられて、いままでのどこか偏り過ぎた教育の柱を真っすぐの方向へ持っていきたいという配慮もされております。  そういう時点に立って、いまから日本の教育をどう扱ったらいいかをお尋ねしたいのでございますが、いかがでしょう冒頭にお尋ねしたいことは、文部省という役所は少なくとも正直な役所で、国民にうそをつかない役所、これはどのお役所よりもそこに基本を置かなければならない。臨時という言葉は、これは永久的でないあるいは長期でない、短期という意味に解してよろしいかどうか、文部大臣
  94. 永井道雄

    永井国務大臣 臨時というのは、長期的でないという意味合いを含んでいると思います。
  95. 受田新吉

    受田委員 ちょっと初めに景物的なお尋ねをしたいのでございますが、昭和二十九年に義務教育学校における教育政治的中立の確保に関する臨時措置法、二十二年前にこういう法律ができた。臨時措置法が二十年以上残っていることは臨時的かあるいは長期的なものかということでございまして、臨時的でなければ何とか言葉をかえなければならぬ。うそをつかないきれいな文部省となれば、臨時の用語を悪用してはいけない。悪用してはならないのが文部省です。お答えを願いたい。
  96. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 多少形式的な議論になるかと思うのですけれども、法律の件名としては、このほかにも文部省所管の法律で臨時措置法あるいは臨時の何々に関する法律というようなものはあるわけでございまして、立法当初の意図としては決してこれは恒久的なものではない、ある特定の事態に対処するためにつくる法律である、そういうような意図でつくられるものでございますが、その後の状況の推移等を見ました場合に、当初予定をしておったよりもなおその法律を必要とするという状態が長期に継続いたしますれば、その臨時というものも相当常識的な意味において長く使われるということはあり得るわけであります。しかしそれはあくまでも一般の法律が恒久的な法律であるというたてまえからいたしますれば、たてまえとしてはいつかはその必要とする事態が消滅すればこれは廃止される、こういうことのように私は理解するわけでございます。
  97. 受田新吉

    受田委員 臨時と思うてスタートしたが、どうもぐあいが悪いのでそのまま引き続いて長期法になったというこの口実をいま申されたわけです。  大学の運営に関する臨時措置法は昭和四十四年にできて、五年後にはこれが廃止するものとするとおしまいにうたってある。にもかかわらず、「廃止するものとする。」というのを廃止していない。うそをついておる。法律に忠実でない。立法の精神にもとっておる。五年後には廃止するものとするとはっきり法律にうたっておきながら、それを廃止しないのは法律に忠実でないと解釈できるが、いかがですか。
  98. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 御指摘のとおり、附則五項に規定があって、施行の日から五年をたった場合には廃止するものとすると規定されておるわけでございますから、私どもとしてはその規定にかんがみて何らかの法的措置をとるべく努力を続けてきているわけでございます。結果的に法律を提案するに至っていないということはまことに遺憾なことだと考えております。
  99. 受田新吉

    受田委員 文部省うそをつく役所であってはならないのです。五年後に廃止できないような見通しがあれば、五年というのをなぜ書くか。国民の目をごまかすために、その場しのぎで五年という期限を付した。そのときになってみれば、大学の運営はいま平穏になっておるのに、この法律が五年で廃止するということになっておるのを、廃止するとまだ何か起るかもしれぬというような常に国民を疑い、常に学生を疑い、世間を疑って、文部省という一番正直な役所一人を信頼しなければならない役所が、人はうそをつくものという前提で法律を立案して、そして期限が来たら、まだ相手か怪しいから法律を残しておくなどという疑心暗鬼、不信、そういう殿堂が文部省かどうかです。そんなくだらぬ役所というのは、私残念です。文部大臣、いかがでしょう。事務当局の答弁は不愉快だ。
  100. 永井道雄

    永井国務大臣 私は文部省に参りまして一年余になりますけれども、文部省におりまして、私もそのつもりでございますが、文部省という役所が国民を疑い、教育者を疑い、学生を疑いという考え仕事をいたしているとは思いません。ただ、具体の例を御指摘になりました、法律に臨時という名前を冠しておりますものが期待されるところと違うような形で進んできているという問題については遺憾に思います。
  101. 受田新吉

    受田委員 事実うそをついているわけです。五年で廃止するものとするという法律をやっておらぬのだから、うそをついている。お答えしてください。事実うそをついているでしょう。法律にうそをついている。
  102. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 五項の規定に反する状態にございます。
  103. 受田新吉

    受田委員 つまり文部省はこの法律に関してうそつきをやっている。つまり不信感があるのです。不信を払拭しなければならない。信頼することですべて物を解決するというこうした高い道義国家の文部省であってほしいのです。臨時でスタートした二十九年の法律が二十数年たってなお臨時ではない、非常に危険な要素をはらんでいるからこれが生きておるんだという御答弁。文部大臣、大学の運営に関する臨時措置法など、せっかく五年で廃止するとうたってあるこの法律をいま廃止して何か不安があるのでしょうか。私は、いまそれぞれの大学の当事者におきましてもまた学生においても、特に永井文部大臣などが出現をしておられるなどということに対しては、文部行政に対する信頼感などもわいているのに、この臨時措置法のようなものが廃止するものとしていてさらに二年も残っておるなどというような異常な状態の文部省立場というのは残念ですね。いま遺憾と仰せられましたが、これは遺憾を乗り越えておりますよ。  この大学運営臨時措置法について文教委員長に質問を申し上げる筋合いであるのですが、自民党の中から出られた委員長であるので御質問申し上げたいところでありますが、きょうは文部省に対する質問でございますので、事務当局にまず聞いておきたいのです。これは二年前に廃止してもいいかどうかの議論があったときには、廃止の法律を出さなければ生きておるのだからというので置いておったようですが、いまの時点ではこの大学運営臨時措置法などはもう任務完了じゃないでしょうか。
  104. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 御指摘のとおり、四十九年の八月に附則五項所定の期限を迎えます際に、その処置について苦慮をしたわけでございます。いろいろな事情がございまして、結果的には所要の措置を定めた法律を提出することができませんでしたために、この法律は形式的にはなお残っているわけでございます。法律として存続をいたしておりますが、御指摘のとおりすでに二年を経過をしているという事情がございますので、今日仮に学園において大規模な紛争が起こりました場合におきましても、直ちにこの法律の規定をもってそれに当たれるかどうかということについては、私どもは同法の所定の大臣の権限を行使するについては慎重であるべきであるというふうに考えております。
  105. 受田新吉

    受田委員 これは、時限立法の精神に基づいてできた法律で、五年たったら廃止するものとするとうたってあるんです。それがいまお話を承ると、この法律が、いま何か起こってこれを発動するというのには問題があるというようなお気持ちなどがあるのなら、あっさりもう、この八月で二年たつのですから、八月をもって廃止の法律などをこの国会にお出しになればよかったのです。文部大臣、もし大学の紛争などが起こってけしからぬことが起これば、学校教育法第十三条によって廃止できる、そういう規定も別々にあるんです。他の法律である。わざわざこの法律を適用しなくても済む。いま比較的平穏な状態です。他の法規によってこの臨時措置法の精神が生かされる道がそれぞれある、あるとするならば、形骸化したこの法律の廃止手続をされるのは、私は当然だと思うのですがね。(「まだまだ与党と調整がつかない。間もなく保革逆転しますから、そのときお願いします」と呼ぶ者あり)あなたのような不謹慎な発言をされる与党の最高幹部がおられることは大変残念でございまして、藤波先生は御発言を控えていただきたいと思います。これは与党と調節がつかないという藤波先生お話でございますが、この文教の委員会はできるだけ党派を超えて祖国の教育に深い愛情を持って当たろうという委員会です。そういう精神から言えば、せっかくいま藤波先生の御発言でありますか、与党との調整——近く保革逆転ということになれば、自民党が野党に下って革新が政権をとるという御期待があるようでございますか、そのときを待つまでもなく——いま、先生、保革逆転となると、われわれの野党が優位になるという意味でございますか。まあ、それは余談として、またこの席では文部大臣に、ひとつ大臣の御心境からいって、臨時的なものが残っておることは遺憾であるということはもう余り大臣にお尋ねしない方がいいか、あるいは大いに聞いてもらいたいかですよ。(笑声)御答弁願います。
  106. 永井道雄

    永井国務大臣 私は、国会を尊重する立場でございますから、全く国会の御討議は国会議員の方のお考えに従って、文部大臣が望む、望まないとに関係なく御発言いただく、それに対して私は行政の人間としてお答え申すべき筋合いのものと考えます。
  107. 受田新吉

    受田委員 そういう御決意に感動して質問を続けます。  事務当局、私、事務当局は少し大臣に対する補佐責任にかたくなである感じがすると思うのです。事務当局として、この法律の廃止は時期尚早だと思われるかどうか、官房長及び大学局長よりお答え願いたい。
  108. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 率直に申し上げまして、私は、単純に廃止をして果たして私どもの責任を全うすることができるかどうかという点について疑問を感じているわけでございます。やはり、現在の学園の状況は、臨時措置法立法当時とは全く様相を異にはいたしておりますけれども、いわゆる過激派の間における暴力事件等はなお続いておりますし、学園の秩序というものを維持するための立法というものが直ちになくなってしまっていいものかどうか、むしろそれにかわる何らかの措置を考えるということも検討しなければならないのではないかというふうなことも事務当局としては考えざるを得ないわけでございます。その点の検討が大変おくれている点は申しわけないわけでございますけれども、私はそのように考えております。
  109. 受田新吉

    受田委員 そうしますと、この五年の時限立法の臨時措置法は、一体いつの時点で、これから何年の時点を目標にして廃止しようとされるのか、当分廃止する見通しは立たぬほど現在の情勢は依然深刻なのかどうか、お答えいただきます。
  110. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 先ほど来申し上げておりますように、同法附則五項の規定に反した状況にあります。このことはまことに遺憾なことでございますので、できるだけ早い機会に附則五項の規定を勘案したしかるべき法的措置が講ぜられるように努力をする、最近の機会にということを常に考え努力をすべきであるというふうに思っております。
  111. 受田新吉

    受田委員 附則五項を勘案したというのは、見方によれば、いまのお言葉は、この五年というのを廃止して、五年でやめるというのの五年を削っていくというような逆の腹案があるかもしれぬという危険分子が御発言の中にひそんでおるように思うのですが、どうですか。
  112. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 臨時措置法の処理については、もちろんそのまま廃止をするという措置もございますし、あるいは附則五項の規定に修正を加えて期限を延長するという措置もございますし、あるいは廃止をしてさらにかわるべき何らかの法的措置を考えるという方法もあるわけでございます。そういった諸点が四十九年の段階議論をされて遂に結論を得ることができなかったわけでございます。その点を申し上げたわけでございます。
  113. 受田新吉

    受田委員 自来二年たっておるのです。じんぜん日月をけみする筋ではない。政治は生きておる。そして国民に対する信頼、大学教育に対する信頼、その信頼が葬られるときに、厳しいむちで、覇力、覇権の力で教育の世界を牛耳る、そういう剣を持って教育の世界を支配しておるというこの法律が、文部大臣、いま生きているわけです。これは、この剣を解いて徳をもって化する、王覇の弁の王道を行くのが文教行政と言えると私は思うのです。大臣の決意を御表明願いたいのです。
  114. 永井道雄

    永井国務大臣 文教行政の根本は信頼的な関係になければならないと考えております。この法律が発生いたしました時期というのは、教育の場におきまして暴力が遺憾ながらふるわれるという、そうした状況において成り立ったわけでございますので、通常の教育行政が展開される時期とは異なっておる。しかしながら、文教行政が目指していくところは、まさに信頼的な関係というものに向かっていかなければならないことは、私は申すまでもないことであろうかと考えております。
  115. 受田新吉

    受田委員 政治的中立確保の法律、これも臨時の言葉が用いてあるが、これは二十数年になるのだ、けれども、今日もなお不安である、政治的中立確保を侵す危険があると御判断されるのですか。
  116. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 この法律は一条の目的にもありますように、政治的中立を確保して義務教育学校教職員の自主性を擁護することを目的とするということでございまして、現在の客観情勢が立法当時と同じということではもちろんないと思います。しかし、この法律があることによって、やはり自主性が保たれる、政治的中立が保たれるということのための一種の抑止力として、私は現段階でもこの法律が存在した方がよろしいのではないか、こういうふうに考えるわけであります。
  117. 受田新吉

    受田委員 教育基本法においても、すでに政治教育において中立性は十分要求されておることだし、それからもう一つ、この法律の侵犯者で刑罰を受けたものが何人おるか、文部省で調べた答えを。
  118. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 現実にこの法律によって処罰を受けたものはないと思います。
  119. 受田新吉

    受田委員 二十余年間、法律をつくったけれども、この法律の適用を受けた者、罰則適用を受けた者はない、そうすると隠然たる抑止力ということで、しかし、これがなければどういうことが起こるかもしれないのだ、学校先生方政治的中立を侵して暴れ回る危険もあるとお認めになるわけですね。
  120. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 この法律は、学校先生政治的中立、その自主性を擁護するわけでありまして、要するに外部から中立を侵すような行為がないようにと、こういうためにつくられた立法でございますから、ただいま先生が御指摘の点も含めまして、要するに学校の内外において学校の中立性が必ず維持されるような抑止力として働くという力を持っておるわけでございます。
  121. 受田新吉

    受田委員 本論に入ります。  文部大臣、私、先ほど来申し上げましたような、いまの日本の戦後の足取りを顧みるときに、物質中心主義に偏り過ぎておる。経済至上主義、権力依存主義、こういうような形に教育がゆがめられようとしておる。そこで、大学の入学試験のむずかしいものが持ち出されて、それに耐え得る人だけが残って、しかも学歴社会としてその修得を得た者だけが社会で用いられるというような、こういう社会にいまなっておるわけです。     〔委員長退席、藤波委員長代理着席〕  私、非常にさびしい数字を指摘しなければならないのですが、最近における小学校、中学校、特に中学校子供の自殺が多いのです。この二月、三月、また高等学校入学試験に失敗した、いや試験を受けない前からノイローゼにかかって死んだ、お父さん、お母さん済まぬと言って死んでおる、つまり親を恨んでいるわけではない、自分は死んでいかなければならないのだ、お父さん、お母さん済まぬなという、こういう書き置きなどをしておる、本当に哀れですね。哀れさを催す可憐なる子供たちが百名の数字を大体数えているのです。受験地獄の犠牲者、教育ママあるいは厳しいつまり学歴偏重社会の影響力というものもその中に幾つか入っておるでしょう。これをどうしてなくしたらよいか。私はこの際学歴偏重社会の是正をする必要がある。入学試験制度の根本的改革をする必要がある。同時に、教育という仕事学校にのみ依存しようとする傾向のある社会を是正して、教育学校だけではないのだ、社会家庭、三位一体のものでなければならない。さらに、知育、徳育、体育、この三つが一体となって人間形成の基本要素が整っていなければならない。大臣の文教政策のごあいさつの中にもそれを一応私拝見しておるのです。その文教政策の基本の御方針の説明に対するきょうは質問でございますから、基本的な問題をまず取り上げておるわけです。いかがでしょう。この矛盾をどう解決するか。  大臣は、年頭に当たって助け合いの教育を提唱された。それは学校社会家庭、三位一体を含むものと私は判断をします。そういう意味から、基本的な問題として教育課程の問題が出てくると思うのです。現に教育課程審議会がこの秋までに答申を出すように準備を進めておられるようですが、教育課程審議会が中学の体育の時間を減らすというので、いつか共産党の議員さんからも三月か四月かにお尋ねがあったようですが、私あえてこれを取り上げたい。体育の時間を減らすなどという中間的な報告が事実あったのかどうか。
  122. 永井道雄

    永井国務大臣 具体的に体育について申し上げますと、教育課程審議会の御発表について若干誤解を招くような経緯がありました。そこで、高村会長が再度その趣旨とするところを御説明になりましたが、大要次のようなことでございます。  まず教育課程審議会はすべての学科を通して授業の削減を行う。したがいまして、その数はおおよそ一〇%程度であるけれども、各学科に及ぶことでございます。小中高そういう形で進めていくということであります。したがって、その限りにおいては、体育も例外ではなく、体育の場合には中学の保健体育のところがいわゆる授業時間数のどころでは減る。それでは減る場合に、いろいろ異なった学科がございますが、それは従来の比率と比べてどの学科が比率を高め、どの学科が比率を低めるかということにならざるを得ません、全般的に減らすのでありますから。  そこで、高村会長が言われます第二点は、比率をふやす学科としては、国語、算数、体育があるということで、従来に比べまして授業時間が中等段階で減りますが、比率の上では削減された新しい時間数の中で体育はふえることになります。  第三点といたしまして、しかし、体育というのは、学校の授業時間中だけで考えるべきではなく、そのほかにおいても全校的に取り組んでいくべきである。したがって、授業と授業の間の業間体操というものを行うようにする。それから学校のクラブ活動において現在も体育が行われておりますけれども、一層これを盛んにするようにする。  したがいまして、以上三点を抱括してみますと、学校教育の中におきまして体育を強化するという方向でございますが、しかし、授業の点だけを取り上げて現行のものと比較いたしますと、体育の授業が中等段階において、保健体育でございますが、減りますために、そこだけを取り上げて体育軽視というふうな解釈が生まれました。そこで、高村会長は再度、意のあるところはそこではないということで、以上申し上げた三点を述べられまして、実質的には体育強化の方向であるということを言われておりますが、これは教育課程審議会の方針ですけれども、私も、こういう方針であるならば、体育は新しく全体の授業が減った中で尊重されていくものと考えております。
  123. 受田新吉

    受田委員 発言の内容、体育の時間を減らすという発言の出所、それはだれから出た言葉でございましょう。委員の人から出たのですか。
  124. 諸沢正道

    ○諸沢政府委員 これは審議会内部のことでございますので、どなたからというよりも、昨年の秋発表がございました中間まとめにおきまして、審議会の全体の御意向として、小中学校の各教科等の年間総授業数については現行より削減の方向でさらに具体的に検討する、こういう御意見をまとめられたのでございまして、したがいまして、委員方々の中にそういう御意見があって、それで全体としてもそういう結論でいこう、こういうふうになったように了解しております。
  125. 受田新吉

    受田委員 私、別に意見をどんどん述べることに異論をはさむものではないのですが、しかし、その結果は効果のあるものをねらったという形でなければならない、こういう趣旨でございます。  そこで、文部大臣、いまの日本の子供たちの世界においてもとかく軽視されているのは、教育課程の中にどこかに道徳的な要素、往年の、戦前の、国が徳目を決めて押しつけるという道徳の強要でなくして、おのずから自然に社会で生まれて育ってきている高い道義感、これは私教育課程の中へ織り込むべきではないかと思うのです。ある意味の宗教心も適切だと思うのです。特定の宗教という意味でなくして、祖先を大事にする。国民の祝日には、春分の日、秋分の日は祖先を大事にする日とうたわれている。祖先をとうとび親を大事にすること、これも道義の根源です。核家族社会になっても親を大事にするということは人倫の基本である。そして教師に対する敬愛の情、これも当然であって、ただ先輩、後輩という意味ではなくして、教えられる立場の者は教えを与えてくれる人に対して教師としての敬愛をささげる。また教えを与える方にしても、おれは与えるという意味ではなくて、自分は先達としてこれをやっているのだという謙虚な気持ちを持つ。自然に師弟の関係の愛、強制的な師弟の関係でなくて、自然発生的にそこに愛情、道義が生まれてきます。美しい友情、友だちのために奉仕の精神に徹しよう、この青年のためにおれは一役買おう。美しいですね。子供が一人つまずいて転んだ、みんなが行って支えてやる。通学のときの美しい風景です。恵まれざる家庭子供にみんなが力を与えてやる。身体障害者の子供のためにみんなが掃除その他の仕事を免除してやる。美しい友情、奉仕、感謝、そういう道義が学園の中に生まれ、また社会に生まれ、家庭にも生まれてくる。そこにも教育過程の中に、別に強制という意味の問題でなくして、そうした道義的な徳目を何らかの形でうたっていくということも必要だと思うのです。これがいま非常に干からびた社会に大事なことだと思うのです。それは往年の、戦時中の、戦前のあの徳目の強要という意味でなくして、いまの社会に自然に守り育てなければならない天の声であると思うのです。これは教育過程の中にどう織り込むべきか、ある意味において、押しつける徳目でない、しかし道徳、宗教、別に特定の宗教を強要する意味ではない、いずれの宗教を信じようともいい。しかし宗教の中に共通するもの、祖先を大事にすることなどということは共通の宗教心ですね。こういうものを小さい子供のときからほのかに自然発生的にそれが育つような教育環境をつくる必要があるのではないかと思う。どうぞ。
  126. 永井道雄

    永井国務大臣 私は、基本的な点におきまして、ただいま受田委員が言われた諸点につきまして、まことに重要であると考えております。  学校教育におきましては、道徳の時間に道徳を考えるという一面がございますが、それは全く一面にとどまるものと考えます。実は学校教育全体が、いろいろな意味合いにおいて道徳というものをいわば体得していく場面になっていくことが望ましいのであると考えております。  例を幾多挙げられましたが、たとえば小学校からまさに大学に至るまで、心身障害の人があります場合に、級友や先生が手をかすとか、そしてまたその障害の人がりっぱな学業の成績を上げられて、かえって他の人々に対してよい影響を与えるということを先般ある大学の例について伺いましたが、そうしたことは別に道徳の時間において教えることではございませんけれども、学校教育全体の雰囲気の中においておのずから人々はそれによって教えられるものであると考えます。  さらに、家庭社会等におきまして、私は、わが国が敗戦を経験いたしました、そのことから新しい道に向かって幾多よい道も開けたと思いますけれども、他方において、文化の伝統というものに対する自信を過度に喪失した面もやはりあったように思います。たとえば日本人というものが生きてまいります場合には、いかようの変化がありましょうとも、日本語を使っていくということは間違いないことでございますが、そうした日本語というものを正しく用い、正しく表現し、また人の見解というものを日本語を媒介として十分に理解していくということも、単なる国語教育でなく一つの道徳教育であるというふうに考えますが、この点は今回の教育課程審議会も指摘いたしておりますように、戦後においては国語教育において表現力に足りないところがあったと言っているのはまさに事実であろうかと思いますから、そうしたものは改めなければいけません。また、核家族が形成されますと、従来の拡大家族のいわゆる家父長的な制度というものは変化をいたした、さように思いますが、そのことは親子の間の愛情の関係というものを否定するということではございませんけれども、しかし間々そういうふうな解釈というものも戦争直後に過って行われたことはございます。  そうしたことが今日まで、ごく小部分ではございましょうが続いているということから起こる不幸な関係というものもありますから、私は核家族になりましょうとも一親子、きょうだいというものはやはり家族に固有な愛情によって結合している。こうしたことは学校教育においても説くべきでありましょうけれども、家庭において、そうしたわが国の伝統というものとの関連において、従来国民が受け継いでまいりましたものの中で、新しい社会にふさわしいものは積極的にこれを継承していくという自信ある国民的な態度というものが必要であろうと考えております。
  127. 受田新吉

    受田委員 大臣のその精神にのっとった教育課程審議というものも、審議会がある程度盛り込んでほしいと私も思います。  同時に、いまくしくも大臣が指摘された国語ということは、国語を通じてその国を愛するのです。愛国心、この愛国心を曲がってとる層の人がおったらとる方が悪いのであるが、お国を愛する気持ち、それはそのお国の中で自然に育った言葉から、国語から生まれなければならない。ところが最近ことさらに外国語を言葉の中に入れて、いかにも文化人らしいような発言をする人がおります。日本の言葉で適切な言葉があるのをわざわざ——日本語化された外国語としてきわめて明白なものは別ですよ。日本語化されてだれもが知っているなら別だが、大半の人は何という言葉かと耳を傾ける言葉を平然と用いて談話を発表したり文章を書いたりする人もある。日本語としての独得のよさを文章に生かす、それはやはり小学校から中学校過程において日本国語の生き生きとした脈絡を生かしていく。愛国心、美しい国づくりです。それは教育課程の上にも大切で、その意味では一年生からの国語、漢字もやはり歴史の上でこなされた漢字はこれを生かして、当用、常用漢字などで制限をざれたとはいえ、その言葉がもう小学校のころから、大体小学校で満ち足りるぐらいに教えられる。従来、われわれの小学校時代は漢字を千三百字教えてもらったわけですが、いまごろ中学校子供にこの漢字はどう読むかというようなことで、非常に能率の上がらぬ答えが出ている。読めない子供が大変おるという状態ですね。どこかに教育の欠陥があるわけです。漢字の数が少なくなったのにそれを覚えておらぬ。だから国語教育、愛国心を養うためにはその国の歴史の上に築かれた国語を小学校の一年から大事に扱う。漢字もたくさん教えてやる。それから算数なども、ひとつ小学校のときからそうした数学的な基礎を固めていく。こういうようなところは教育課程で十分検討して、戦前に及ばないような力しかないということではなくて、近代的な、時代が進むほど子供が前進的に進歩していくということにしなければならぬ。後退してはいけないのです。  その意味で、最近日本国語としてはむずかしい言葉をことさらに使用する形があることについて、日本語のよさを生かす面から私はこれを考えなければならぬと思いますが、一般社会の風潮の中で日本国語がいささか軽視されつつあることを大臣考えではございませんか。
  128. 永井道雄

    永井国務大臣 日本の国語が軽視されている風潮があると思います。不必要に外来語をかたかな表示をいたしまして、実は物によっては読もうといたしましても文意不明であるというような場合もございます。ただ、私考えますのに、日本語というのは他方において相当の柔軟性を持っている国語でありますから、そうした日本語の特色というものは生かしていくべきである。と申しますのは、今日は西欧の言葉がかたかなで紹介されますけれども、そして日本語の中に取り入れられますが、元来徳川時代までは漢字かなまじりの文を書くというような形で、漢字をわが国に取り入れまして国語の中でそれをみごとに消化したという柔軟性も持っておりますから、したがいまして、大変排他的な意味合いにおいて国語を固定化して全くこれを新しい時代の変化に対応させないというようなかたくななものであってはならないと考えます。しかしながら、それが非常に極端に走りまして言葉が持っている正しさあるいは美しさというようなものが失われ、また国語の中に秘められておりますところの文化の伝統というようなものが喪失されるようなことがあってはならないと考えます。
  129. 受田新吉

    受田委員 同時に、小中の義務教育を終えて高等学校へ行く段階になって考えなければならぬ問題が一つあるわけです。それはその人の進路に適応した、個性と能力に応じた教育が行われなければならない。にもかかわらず、ある程度押しつけ的な進路によって——すでに調査の結果も明らかです。職業高校で学んだ子供にあなたは自分の目標の高等学校に入っているかと言うと、四五%までは目標のところに行っているが五五%は目標のところでないという答えが出ている。そういう意味で、多様化された後期中等教育を受けた皆さんが大学へ行くと完全な袋小路の中に入り、人生の芽を摘まれるわけです。私はその意味ではむしろ大学を多様な大学にして、そしていろいろと自分の目標に近いところへできるだけ希望に沿うて進路か開けるように——いまのあれは国立も公立も私立も大学が画一教育です。あれをもっと大学に多様性を持たして、個性と能力に応じた進路、そしてそれが社会に出てすぐ社会に役立つようにすべきではないか。たとえば社会事業大学という目標を持っている、これは早速その方へ行ける、それから芸術学部などを出た者も大体その方へ行けるが、他の法律とか経済とか商学とか文学とかいうようなものは、もう画一教育であるからどこでも受けるけれども、しかしその人の個性と能力に応じた教育を受けておるわけではない。大学の多様性、そして進路をできるだけ本人の個性と能力に応じた生き生きとした将来を開く教育、それが好ましいことではないかと思うのです。いかがでしょう。
  130. 永井道雄

    永井国務大臣 私は、今日までのわが国教育というのが学校教育の水準、また、わが国における国民の学力の一般的水準の向上に努めてまいったということから、適性ないしは能力というものを十分に生かすという方向よりも、むしろ全体的水準に力点が置かれてきたということは否めない事実であると考えております。  そこで、大学について御指摘になりましたが、大学の場合、本来は私立大学というのは建学の精神を持ちまして特色を持った教育をやることを念願として発足するものでございますが、しかしながらそれがいろいろ経済的にむずかしい状況に追い込まれましたためにマンモス化するとか、いろいろやっかいな事情を内包いたしましたために、私立大学本来の役割りを果たしにくいという状況にあるのが今日の現状であろうかと思います。そこで私学振興助成という法律に基づきまして最も目指すべきことは、そうした私立大学というものが財政的な逼迫状況から一日も早く解放されまして、それぞれ国立が果たし得ないような特色のあるはつらつとした大学の使命を果たして多様化への方向というものを切り開くことであろうかと思います。そういたしますと国立というものもそれに対応いたしまして、従来は旧七帝大中心主義の傾向がきわめて強かったわけでありますが、これは高等教育懇談会も指摘しているところでありますが、地域的に大都市に偏在して、大都市を模範とするがごとき傾向がある。むしろそうした地域の偏在を排して、それぞれの地域が必要としているものも考えながら国立大学をつくっていくようにということでありますが、私学の組成と相まちまして、時間を要すると思いますけれども、国立もまたそうした方向で多様化という方向を実現いたしますならば、個性、適性能力に応じた教育というものは高等教育で期待されるようになる。そうしたことに根気よく進んでいかなければならないと思っております。
  131. 受田新吉

    受田委員 的確な指針をお持ちです。賛成します。私そういう意味から、先ほどから申し上げる高等学校子供は将来の自分の生涯の運命を決める仕事も見つけなければならぬ子供でございますから、進路指導は非常に大事なこと。そこで高等学校に進路指導主事というのがある。その進路指導主事というものは、そうした個性及び能力に適応すると同時に、社会経済関係その他の的確な把握力も持っていなければならないという意味で、進路指導主事の育成ということになるならば、今度神戸その他で考えられる大学院等におきまして進路指導主事の教育というものを、これは人生を決める、高等学校、大学それぞれ的確な将来へ指針を与える指導主事、これの特別の教育機関が必要ではないかと思います。
  132. 永井道雄

    永井国務大臣 進路指導主事につきましては、私はいま御指摘になりましたような角度でやはり検討していくことが大事であると思います。今日におきましても進路指導の先生方はいろいろ御苦労を積んでおられます。ただ、その場合に進路指導主事の養成やあるいは教育だけで解決がつかない一つの問題といたしましては、たとえば高校の段階において普通課程といわゆる職業課程の別というのは、本来は多様化的なものであるべきものでありますのに、あたかも普通科が上で、そして職業課程の方が下であるというふうな形になっておりますのは、これは学校教育があえてその道を選んでいるというよりは、社会に出ましてからの社会的な活動の中で、たとえば農業従事者の収入が都市に住む者よりきわめて少ない、あるいはまたブルーカラーというものはホワイトカラーより恵まれなかったというような事情も反映していると思いますから、それはいわば先ほど御指摘のような学歴偏重社会というものは次第に是正されていく中で、やはり進路指導主事は本来果たすべき役割りを一層果たしやすくなっていくはずである。他方、進路指導主事がそうした社会の変化に対応しながら、適性と能力を発見してそれを伸ばしていくというための養成が大事でございますが、しかし一般に教員の養成は進路指導主事に限らず、私は実は今後非常に重視すべきものであると考えております。  その理由を申し上げますと、今日行われておりますように教育課程審議会の検討が進んでおりますが、これが実現いたしますと、具体的にはたとえば教科書というものもいまよりは薄くしたいということが高村会長ほか先生方の御意向であります。そういたしますと、教科書に頼り切るというよりは、それぞれの学校の教員が自主性をもって子供を教えていくということでありますから、そうなりますと、これからの教員養成というのは自分の判断で子供の適性能力を見つけながらそれを伸ばしていく、そうした教員を養成しなければならないのでありますから、私はこれから教育課程問題だけではなく、養成問題あるいは再教育問題というものにも取り組んでいかなければならないと考えております。
  133. 受田新吉

    受田委員 教員養成はまた別途お尋ねしようと思っておったのですが、いませっかく御発言がありました。教師は進路指導主事だけでなく、私はうちの党の大学基本法におきましても、大学院大学を出た者をもって充てる。特に教師目的の大学院大学というもので養成していくという方針を持っておるわけでございますが、いかがでしょうか、そうした本当に個人の個性と能力に応じて生き生きと、伸び伸びと将来が開けるような環境をつくるために。  もう一つの問題は入学試験制度。知育体育、徳育三つ、知情意のそれぞれの人格要件が整ったりっぱな人を社会に送り出す。そして大学を卒業してもなお生涯教育の大目標に協力して進んでいくと、こういうふうにしなければならぬわけですけれども、入学試験の中で一番厄介なのが大学。これは高等学校の場合は九三%を超えておりますから、大半の者が目標を達し得るわけでございますが、大学の場合は、中央に集中している大学を受験するときに、大学の先生たちの出題というものの中にはちょっと風変わりな問題を出して、高等学校時代には学んだこともないような問題がひょっこり出る危険がある。大学の入学試験は共通テストを採用するという方向、その方向の中に大学の先生だけで問題を出すとちょっと変わった問題が出る危険もあるから、高等学校先生もそれに参加して、高等学校先生の側から見た、教育を担当した先生の側から見た試験問題も一緒に考えていくような共通テスト方式を採用するということはどうであろうか。お答えをいただきます。
  134. 永井道雄

    永井国務大臣 大学のための共通学力テストの問題につきましては、第一点といたしまして、いま風変わりなというお言葉でございましたか、従来確かに相当脚注を見ていないとなかなか通らないような難問というものもございまして、そうしたものは共通学力テストで除去されて、むしろ正課の教科書を正しく勉強している者か受験しやすいという形になることが期待できると思います。  なお、出題に当たりまして高等学校先生が出題してはという御意見でございますが、現状国立大学協会において準備を進められている方向は、これは国立大学協会の自主性に基づいて新しい共通学力テストの方向を考えていこうということでありますから、まずその自主性というものを私どもは尊重いたすべきであると考えております。その中で、どのような考えであるかというと、これまでの二次にわたります予備調査におきましては、大学の教官が問題を準備、出題しておられます。ただしその過程におきまして高校の先生方と意見を交換して行われているという実情でございますので、ただいま御指摘のような方向というものはまた私どもも国立大学協会にお取り次ぎをするようにいたしますし、国立大学協会でも恐らくそうした方向で高校との連絡というものを重視されながら進んでいかれるであろう。ただし、出題者それ自体は現段階においては国立大学の教官が当たられるという方向で二次予備調査をやってこられましたので、あるいはそうした方向が続くのではないかと私は推測をいたしております。
  135. 受田新吉

    受田委員 この大学共通テストというものは非常に貴重な革命的なものであって、戦後幾つか試験制度の変遷がありましたが、今度は、アチーブメントなどの過去の事例なども参考にしながら、これが最上の道だという答えが出るように文部省の御指導をいただきたい。これはもう国立大学協会がやられることでありますが、同時に、それはやはり文教行政一つの夢をそれに託するわけでもある。つまり学歴社会是正、学校差の是正、そういうようなものも含めていく上においては大変大事な事業だと思います。  そこで、いかがでしょう。学歴社会学校差の問題でございますが、国立、公立、私立、もう大学の教育を受けた者は、別にその卒業した学校によって格差があって人生が決まるということでなくして、その人の持つ高度の人間性、それが高く評価されて、知識一点ばりでなくて、その人の持つ徳操その他のよい条件が生かされるようにこれを受け入れる社会を築いていく。それはやはり文部省の大きなお仕事だと思うのです。そのために社会教育という面におきましても、私、特に取り上げてみたいのでございますが、一万以上の人口のある町村には社会教育主事を置く、公民館には専門の館長を置くとなっているにかかわらず、事実は社会教育主事が置かれてないところが多いし、公民館の館長はまだ四分の一程度しか専任がおらぬ。大学を出て社会に出る、高校を出て社会に出る人々を受け入れる受けざらの社会において、常に生涯教育の基礎になる担当者である社会教育の担当者がはなはだ不十分な陣をしいておるということでは、しかも文部省の予算を見ると、純粋な意味の社会教育費などというのは文部予算の一%にも達していないというような数字ですね。これは社会教育軽視もはなはだしいことであるのですが、これは局長さん御答弁いただいて結構ですが、この学歴社会学校差をなくする、生涯教育、そういうものを大きく受け入れる社会教育の担当者は一体どういうふうにこれを育てていったらいいのでございましょうか。どういう受けざらにしたらいいのでございましょうか。
  136. 吉里邦夫

    ○吉里政府委員 ただいま御質問の中にございました社会教育関係の、たとえば公民館長あるいは社会教育主事、現状は実は私ども指導をいたしておりますが、まだまだ足りないところがございます。たとえば先ほどの学歴社会の是正であるとかいうことでも、やはり学校教育社会教育が相互補完をし合って、役割りを分担しながら補完し合うということが大事だろうと思いますし、先ほどから御質問の中にありましたように、学校教育も変わってこなければいけませんけれども、その反面、社会の受けざらが、社会教育の方の受けざらが充実しなければいけないと思っております。そういう観点から指導者の養成、施設の充実、特にその指導者が、あるいは担当する主事が資質の向上をするというようなことを今後十分な努力をしなくてはいかぬだろうと存じております。
  137. 受田新吉

    受田委員 社会教育主事が、学校先生がちょっとそこへ腰かけで出て、そしてまた帰っていくというような腰かけ主義でやっているところもちょいちょいある。あるいは役場の古い顔役がちょっとそこへ顔をのぞけて、もういすへ座っているだけでへたばるような社会教育主事もおる、こういうようなことで、生き生きとした社会教育はできないのです。本当に社会教育に精魂を打ち込むような社会教育主事を養成をしなければならぬ。その養成する養成機関が一体どこにあるかということです。そういう養成教育文部省がひとつ全国的にやるべきである。  私、いま文部省へちょっと承っておきたいことがあるのですが、学歴社会学校差というような問題に関連するのですが、せっかく文教の府である文部省は学歴差を余りうたわないように、学校差を余り言わないようにするために、ただ単に試験だけで文部省のお役人が採用されて運命か決まっておるだけでなく、適宜、人材が文部省の人材として局長、課長クラスにどんどん採用している役所、これは他の役所とは違うものがあると思うのです。たとえば東大閥で握りつぶされたような役所ではない、東大の人材もおって結構、おってしかるべきであり、他の国立大学も、また私立大学からの人材も、あるいは地方の教育行政の担当者、一般行政者の中で文教行政に熱意を持つ者などが集中的にこの国の文教行政を担当する、活気あふるる文部省でなければならぬと思うのですが、この点、文部省のせめて課長以上のポストにある皆さんの、この学校差、学歴社会に対する批判にこたえるための陣のしき方がいかがであるかということを、文部大臣文部省はなかなかいいバランスのとれた布陣がしてあるよということになりますか。お手本になる役所ですから、現状についてお答えを願いたいです。
  138. 永井道雄

    永井国務大臣 現状を見ますと、これは私立大学よりは国立大学の卒業生に偏っているということは否定できません。また、国立大学の中でも他の大学の方々もおられますが、まあ年配のところには確かに東京大学の人が多いということは否定できないわけでございます。  しかし、それでは東大主義あるいは国立大学主義で採用したからそうなったかというと、そうではなくて、これは公務員試験というのは公平な基準をもって行われるわけでありますから、受験段階から実は国立大学の卒業生はそもそも公務員試験をねらう人が多いということにも関連をいたしていると思います。したがいまして、私は今日までそうしたいわばえこひいき的なことでいまのような布陣になっているとは理解をいたしておらないわけでございますが、こいねがわくば、将来、そもそも公務員試験はこうした形のものでございますから、国立におきましても、各地の大学の人材がこれを受けて、また受験に通りまして合格する。あるいは私立の方々もそういうふうな方がふえてくるという状況が生まれますならば、相当の変化を生じ得るのではないであろうか。ただ、一昨年の採用について見ますと、文部省が各省庁の中で、たまたまその年は、どうしたことか、最も東大に偏っていない役所であったという数字は出ております。
  139. 受田新吉

    受田委員 やはり文教行政はそうした発想をする役所であり、また実績を示す役所であるべきだと思いますので、その点、多様な人材が文部省に集中されて、日本の教育の行政の大本山であってしかるべきだ、その方向へ前進をしてほしいと思います。  五十分から予鈴で、すぐ予鈴が鳴るようでございますから、あそこへ行かれる時間を計算して、これで質問を一応中断をして、これが終わりましてあと三十分ばかり残った時間をやらしてもらいます。  では、一応予鈴が鳴る時間になりましたので、おきます。
  140. 藤波孝生

    ○藤波委員長代理 本会議散会後再開することとし、この際、休憩いたします。     午後三時四十九分休憩      ————◇—————     午前四時四十五分開議
  141. 登坂重次郎

    ○登坂委員長 休憩前に引き続き、会議を開きます。  文教行政基本施策に関する件について、質疑を続行いたします。受田新吉君。
  142. 受田新吉

    受田委員 先ほどの質問の続きでございますが、教育過程の中に勤労体験というものが非常に大事な要素になっていると思うのです。その勤労体験の上に築かれる勉学というものは生き生きとしたものであるという意味で、この勤労体験を教育過程にどう重視するかという問題、大臣お取り上げを考えておられますかどうか。
  143. 永井道雄

    永井国務大臣 今回の中間答申におきましても指摘されておりますことは、従来、高等学校まで進学いたした場合、普通課程の方では勤労的なものはなく、職業課程の方が、勤労といいますか、労働的経験をするわけでございますが、特に今回は、高等学校に進みましても勤労体験というものを行うことができるように配慮することということが指摘されておりますから、普通課程でそういうことが行われることになるのだと思います。  なお、勤労というのは高校の段階で出ておりますか、小学校、中学校段階におきましても、みずからつくる活動というものか重要であるということでございますから、体を動かして、積極的に自然に接したり、物をつくったりということは、高等学校に進む前の段階から重要であるという御指摘が教育課程審議会から行われているわけでございます。
  144. 受田新吉

    受田委員 クラブ活動のような非常に幅の広い、ゆとりのある面が、実際は学校教育の上ではおろそかにされて、学習に精魂を打ち込んでくるという傾向があるわけです。したがって、教育課程におきまして、教育学習の単位をどんどんふやすというよりも、むしろそうしたクラブ活動などに一つのゆとりを持たせるような緩和策がやはり教育学習の上に心要だと思うのですが、非常に豊かな子供、伸び伸び教育の基礎はやはりクラブ活動などに力を入れるというところをどう配慮されるか、大臣、お答えをいただきましょう。
  145. 永井道雄

    永井国務大臣 特別教育活動、いわゆる各教科以外の教育活動につきまして指摘されたことは、三点でございます。  まず第一に、小中高校を通じまして教師と児童生徒の接触を深め、また学校の創意を生かした活動を効果的に行うように、それぞれの学校考えていくということでございます。  第二点、先ほど申し上げました勤労観を養うための活動の充実あるいはその他の部活動というもののあり方に配慮して、これも小中学校を通じて内容の構成を検討すること。  それから、高等学校では、自由研究的な内容等の新しい内容を設けることを検討する、つまり、教科以外に自由研究的なものをつくっていくようにということでございます。
  146. 受田新吉

    受田委員 この自由研究は非常に重要なことで、体育の尊重とかクラブ活動とかいう問題は、そういう自由研究などと一緒にして伸び伸びとした子供をつくるわけです。単位をどんどんふやすよりも、そうした面に力を入れるということ。それから、いろいろな世論調査で答えも出ているわけですが、いまの例を高等学校に置きます。高等学校学習についていけないという子供が大体半分、ついていけるというのが半分。これは大体文部省でも把握しておられる数字だと思うのですが、ついていけない子供をどう扱っていくか。つまり残される子供、これらは今度大学へ行っても入学試験からへたばる子供になるわけですが、私が先ほどから申し上げる個性と能力ということを考えていくと、教育学習でついていけない子供は別途、人間的に伸ばしていく道があると思うのです。したがいまして、教育学習万能主義でなくして、人間尊重の教育という点に、ついていけない子供たちに希望を持たせる教育が要ると思うのでございます。
  147. 永井道雄

    永井国務大臣 いわゆるついていけない子供の問題につきましては、これは四年ぐらい前になったかと思いますが、全国教育研究所連盟の調査がございまして、非常にいろいろ問題があるということが提起されました。また最近には、日教組の調査というものがございました。他方、三番目に、文部省もこの問題を重視いたしておりますので、昨年来国立教育研究所と話し合いまして調査を進めてきておりますから、この秋までには調査結果が出てくることを予定いたしておるわけでございます。  いずれにせよ、現段階でやはり授業についていけない子供があるという問題は、実は高校だけではなくて、中学段階あるいは小学段階にありますので、この点は、教育課定審議会も非常に注意をしておられるところでありまして、でありますからこそ、内容の精選ということを言われるわけであります。内容を削減、精選して、そのかわりよく消化させるということであろうと思います。ただその場合に、先ほど申し上げましたように、そうなりますれば、それだけ学校の教員の方々教育力あるいは教育能力と申しましょうか、そうしたものが一層期待されることに相なりますから、私はそういう点におきまして、再教育や養成のことか大事であるということは、先ほど申し上げたとおりでございます。これに対して一層配慮を加えなければなりません。  なお、御質疑は高校に関連しておりますが、高校についてこの問題を解いていくカリキュラム上の配慮といたしましては、高校第一年次におきまして共通必修というものを設けて、従来のように初めから分かれていくということではなく、共通必修で十分にすべて、いま九〇%を超えましたから、従来とは違う配慮をして、そして、高校に来た人がやはり学習に十分ついていけるように工夫をしていくということはあると考えております。さらにその先は、中高学年、いわゆる二、三年次は選択にしてなるべく多様化するということでございます。
  148. 受田新吉

    受田委員 この世に生をうけた子供たち教育の世界で、できれば学校教育におきまして充実したものを与える、そして、家庭社会がこれを守っていく、非常な大局から、この世に生をうけたとうとい生命に、その人生を守ってあげるということですね。そのためにもう一つ問題があるのは、身体障害児、心身障害児というのが大体六十万近くある。その中で、三〇%ちょっとぐらいしか教育を受けていない。あるいは貧困で行けないとか、こういうようないろいろと問題を抱えている子供さんがおるのですが、この世に生をうけた以上は、すべての人が受ける教育の機会を与えていくということで、五十四年から養護学校というものが完成するわけです。一歩前進しました。さらに大学においても、ひとつそうした身体障害者に門戸が十分開かれるように、筑波大学の論議のときに特にこの主張をしたのでございますか、教育の機会均等のその道を閉ざしてはならないという意味で、養護学校が実を結ぶと同時に、大学への進学について、身障なるがゆえに道が閉ざされることがないように、少々金がかかろうと設備が厄介であろうと、少数のために大量の国家資金を使ってもいいと私は思うのです。どうぞ。
  149. 永井道雄

    永井国務大臣 大学において障害者の人たち教育を行うということは重要でありますから、昭和四十九年度から国立大学につきまして、一部でございますが、心身障害者の方々学習を容易ならしめるための予算措置が行われております。東北大学などに設備上、他よりも便を図るようなものがあるというふうに私も理解いたしております。  なお、私立大学につきましては、日本福祉大学のように障害者を受け入れている数の多い大学、これは、昭和五十年度の私学助成の中から特別補助という形で発足をいたしまして、配分を終わりましたばかりでございます。つまりそれは、日本福祉大学に限らず、一定数以上の障害者の教育をやっておられるところに予算の手当てをするということでございます。  現段階でそうした要求に応じ得ていないのは、公立大学にはまだそうした財政上の裏づけというものを持っておりませんが、国立、私立は四十九年、五十年という形で進んできたわけであります。
  150. 受田新吉

    受田委員 筑波大学が誕生した際に、特に東京教育大学には付属の盲学校等もあることであるし、また、開かれた大学として身障者に門戸を開くというお約束であったわけです。これはどういうふうになったか、御答弁願います。
  151. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 いま手元に具体的な数字を持っておりませんけれども、もちろん受験をさしておりますし、また受け入れております。
  152. 受田新吉

    受田委員 その数はごくりょうりょうたるものということになるとまた問題があるわけで、せめて国立大学——こうした身障者の教育の門戸を開くとすれば、金のかかることですから、私立大学ではなかなかできないのです。やはり国立でめんどうを見てあげて、身障者といえどもがんばれば道が開けるという希望を持っていただかねばならぬと思うのです。それにはやはり私立ではだめなのです。国でめんどうを見なくてはいけない。  私あわせてここで、開かれた大学ということで筑波大学が誕生したわけですが、ちょっと関連してお尋ねしておきたいのです。あの制度、つまり筑波大学の制度において、学群、学系、学類というこの新様式を学ぶ学校が期待されたはずでございまするが、どこかそうした制度的なこれを範として、ひとつうちもやってみようがなんというようなのがあらわれてきましたか、全然なかったかお答えをいただきましょう。
  153. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 現在のところは、筑波大学においてとりましたような学部にかわる教育研究上の組織を制度的に採用している大学はございません。
  154. 受田新吉

    受田委員 ついでに関連してお尋ねしたいのですが、今度技術大学について、先生たちの任期を考える制度を大学の自治に任せられるとおっしゃられたですね。筑波大学には参与会というのがある。つまり一般の方々を広く網羅した機関があります。任期制につきまして、大学の自治の際に、単に教授だけでなくして、そういう参与会のようなものがあって、そこで一般の人がこれに参画して任期をどうするかを考えるというのなら、これは自治の性格がもっとはっきりすると思うのですが、ただ先生たち、教授だけで大学で決めるというのは任期制のような大問題においてはちょっと問題があると私は思うのです。参与会のようなものを設けてここで任期制度を検討するとかいうことであれば、一般の人が参加するのですから味がある。私、この間から論議されて、この問題は社会党の先生からもすでにお尋ねになったことと思いますが、私から改めて、任期制を採用しようとするならばもっと幅の広い意見を聞かないと、大学の自主的な回答にまってやると、ちょっと大臣は逃げておられるけれども、逃げておられるだけでは片づかぬ問題が一つあると思うのです。国民参加ということですから。
  155. 永井道雄

    永井国務大臣 筑波大学の場合には参与会というものもあり、また人事上他の大学と違います組織というものもつくられたわけでありますが、一つの新しい形をどのように今後運営していくかということは重要な課題であろうかと思います。今度の大学、技術科学大学の場合には法令上学校教育法の五十二条と六十五条に基づいてできるわけでございますので、そうした意味合いにおきましては、従来の大学管理機関というものが教授会に置かれるという形をとりまして発足をするわけでございます。なるほど先生が言われますように外部の人の意見を聞いて人事を考えるというのも一つ考えでございましょう。が、今度の大学の場合には自治という形で教授会を中心にそこでどういうふうにいままでの人事のやり方を改めていくか、私は、逃げるということではなく、やはり大学紛争が起きまして以来、方々の国立大学におきまして教授会でもやはり相互に審査をするというような形を試みるべきではないかという多数の文書も出ているわけでございます。そこで、これは発足いたします大学においてお集まりになる方々が最終的に決められるべきことでございますけれども、それだけ大学の内部において強い声でございますから、やはりそこでのお考えによって十分考え得る段階に来ているのではないかと考えているわけでございます。
  156. 受田新吉

    受田委員 お話を本論に戻します。ことし大学を卒業するべき者が就職ができないというのでそのまま学校に卒業をしないで残っている学生が相当数あると私、聞いておりますが、文部省はその実数を把握しておりますかどうですか。
  157. 佐野文一郎

    ○佐野(文)政府委員 御指摘のように、私どもは今年度就職の事情が非常に厳しいということが事前にわかっておりましたので、経過的にことしの三月の卒業予定者の就職状況について調査をいたしてきたわけでございます。三月末の時点におきまして、大学の就職希望者の八四%、短大の場合には八〇%、高専についてはほとんどの学生が就職の内定ないしは決定をしているという状況にございます。もちろん、就職先につきましては従来よりも大企業への就職が減るというふうな実態の変化はあるようでございますけれども、一応就職を希望している者についてはほぼ就職先が決定をしているという状況であるというふうに考えております。その点は労働省も同様の見解でございます。ただ、新聞に報道されておりますように、ことしの場合に、就職先が必らずしも自分の納得のいくものでないということがあって、むしろ留年をして来年を期するという者の数が従来よりも多いということは御指摘のとおりでございます。その実数がどの程度になっているかということについてはまだつまびらかにはいたしておりません。
  158. 受田新吉

    受田委員 普通落第して四年生に残るという学生もおるわけで、それがわざと落第したのかあるいは本当に単位をよう取らないで落第したのかがわからぬ。文部省はそれはやはり調べた方がいいですよね。つまり日ごろと比べてことし卒業しなかったのがどのくらいあるかを見れば、この分はことしの就職状況が悪いので卒業しなかったなという数字が、大体平均からはじき出せるわけです。それはやはりその作業をされる方がいいです。こういうことはやはり文部省としては、こうした不況の年の就職状況は困難である、それが卒業を延期するという挙に出たのがどれだけおるかということの大まかな比率ぐらいは見当をつけてしかるべきである、こう思います。  そこで、さっきのお話に皆つながるわけですが、大学で、公立も私立もまた国立も、大体法学部とか経済学部とかいう一律的な教育を受けてきた皆さんが社会へ出ていくのには、その向き向きに対しては個性と能力に適応しないようなところへも行かざるを得ぬということに関連するのですが、各種学校という、今度の専修学校、これなどは本当に生き生きとした、実社会につながるわけです。教育したものが実社会につながらなければならぬ。私はある意味において、産学協同というものは、いい意味においてこれは意義があると思うのです。産学協同、これは全部悪と判断を——同僚の先生たちとちょっと私そこが見解が違うのです。産学協同を悪であると判断をすべきものではなくして、産学協同というものは、つまり学んだこととそして働くこととがつながってくる、生き生きとした、学んだことが職場に生きるのだ、こういう意味の教育という意味では私、筋が通ると思うのです。大臣、産学協同についてどう思いますか。
  159. 永井道雄

    永井国務大臣 医学におきまして基礎医学、病理学、臨床というものが相互に関連することはかえって基礎医学をも強めるというふうに申しますから、臨床というものを知らなければいけないということに相なります。それと同じような意味合いにおきまして、工学におきましても基礎的研究というものとそれから工業の技術的な実際を学習するということはかえって基礎的な研究というものを強めるということもあります。そういう意味合いにおきまして、ただいまの御指摘の産学協同というものがいま私が申し上げたような方法で行われるならば、学問が向上していく上でもきわめて望ましいものと私は思います。これは技術科学大学でもそういう方向で考えているわけでございます。ただしその場合に、たとえば産業界の実習を受けます場合に、実習指導の主体というものはあくまでも大学の先生が実習指導をされて、そうしてそれを評価し、したがって大学の基本的な方針に基づいて行っていく、そういうふうにいたしませんと、学生をただ産業界に送るということにいたしますと、学生は自分が二つに引き裂かれたような形になって、一方では学校で勉強し他方では会社の上司の命令を受けるというようなことに相なりますから、そうしたことは避けなければならないと思いますが、先ほど申し上げたような意味において勤労体験あるいは実習と理論との相互的な関係考えながら行っていくのは、教育的だけではなく研究的にも非常に意義があると思います。
  160. 受田新吉

    受田委員 ただ大企業が自己の企業で優秀な社員を養成するために利己主義で産学協同を考えるというエゴは捨てなければならない。国家のために国民のためにうちの企業は優秀な学生を応援するというところへ割り切っていけば産学協同というのは味があるのです。現に自治医科大学、防衛医科大学、どっちも校がついています。これは文部省のお世話になっていないわけですね。お世話になっていないけれども、これはいわば産学協同のかっこうが一応あるように思いますが、これはどうお考えですか。
  161. 永井道雄

    永井国務大臣 自治医科大学の場合は大学校でなく自治医科大学となっております。なお防衛医科大学の場合には大学でなく大学校となっております。そこで自治医科大学の場合には私学ということでございますから、設置形態としてそうなっておるわけです。そういうものとして大学の基本的な立場をとるというふうに考えております。防衛大学校並びに防衛医科大学校の場合には、これは行政目的というものがありますところに設置されました学校でございますから、経験と学習の接合という点におきまして、先ほど私が申し上げました技術科学大学の場合とはいささかケースが違うというふうに理解いたしております。
  162. 受田新吉

    受田委員 卒業してからどこへ勤務しなければならぬという一応の制約を持って学んでいる、そのかわり防衛医科大学もまた自治医科大学もちゃんとお手当が出るのですね。自治医科大学は金額は少ないがお手当が出る。こういうものはある意味では特定の職場を予想して勉強する、そこの受け入れができておる。これは産学協同とまではいかないが、その変形であるという判断は成り立ちませんか。
  163. 永井道雄

    永井国務大臣 どうも役所めいて聞こえるかもしれませんか、いまの種類の防衛医科大学校というのは文部省の所管でないわけです。そこで産学協同といいますか、産学というより官学協同だと思います。そういう形だと思います。文部省の所管の大学におきまして体験と学習を結びつけていきます場合には、大いにそれを推進することは結構と思いますが、あくまでも大学の主体性において、その教育指導下において行っていくというようにならなければならないものだというふうに解しております。
  164. 受田新吉

    受田委員 質問を進めてまいりますが、文部大臣が助け合い教育を提唱されておる、それは学校教育、もう一度繰り返しますが、家庭教育社会教育、それはみんなが助け合ってよい子供をつくり、よい社会人にしよう、これは非常にいい趣旨でございます。と同時に、これは努力目標であって法律で規定するわけでもない。それだけに実効を上げることは、一般社会人及び一般家庭人また学校の当事者がそれに理解と協力を惜しまないように、大臣はちょいちょい理解をしますと言いますけれども、協力をしてくれないと成果が上がらないとお考えではないですか。
  165. 永井道雄

    永井国務大臣 まさにそうだと思います。私、助け合いということを申しましたのは、これは助け合いということを文部省が決めまして、どの領域においては助け合い、どういう原則に従って助け合いというようなことを考えたのではなく、事実わが国において、学校においてもまた社会においても助け合い教育が行われているという実態があると思いますが、むしろそうしたものに光を当てることによりまして、今日までの競争第一主義的な風潮を廃したいと考えたわけでございます。したがって、助け合いのためにお集まりいただきました視学委員方々、これは体育と芸術の領域の方々が多いのでございますか、こういう方々にもただ御意見をいただくだけではなく、各地に回っていただきまして助言もしていただきますが、実技上非常にすぐれた方が多いので、実技も学校あるいは地域社会の要望に応じて示していただく。すでに体育の方はこの月の十一日から、そうした実際的なことを、バレーボールにおいてある地方の地域社会において視学委員に始めていただいておりますが、この場合にも地域の自主性を生かすということでございます。
  166. 受田新吉

    受田委員 大臣の助け合い教育の中に、主任制度がだんだん進んできたわけですが、主任制度が進んできて、そうして校長、教頭、主任、先生たちというような関係で、助け合い教育には主任制度の進展は非常に貢献するとお考えでございますか。
  167. 永井道雄

    永井国務大臣 実は私は助け合いということを申しましたときに、一方で助け合い教育ということを言いながら、主任制度をつくる人間は頭の中で思考が矛盾しているのではないかという御指摘が各方面にございましたのを読みました。というのは、助け合いというのは平等的関係であって、主任というのは幾らか上下の関係を教員の中につくるのではないかということでございました。私は助け合いというのは対等な立場の人の間にもあり、また校長と教員の間にもあり、主任はこれは別に地位が上がるということではなくて、教諭でございますが、しかし主任として教育指導をしていかれる。しかし指導は命令というような関係ではございませんから、主任とほかの普通の先生方との間に助け合いは、やはり行われていくものと考えております。
  168. 受田新吉

    受田委員 その点は私も理解できます。これは学校の現場で、反目でなくして理解ということがなければいけない。それぞれの立場先生たちがそれぞれお互いを理解し合う。ただそこに理解に阻害を与える存在が新しく出るということでなくて、一たび決まってくればそれに順応していくのがお互いの人生でございまして、いまわれわれも主任制度については屋上屋を重ねる問題として、これに抵抗を感じてきておるわけですけれども、現実にいま主任制度はどういう進行をしておるのですか。全国で主任制度は大半が設置される方向に来ておるかどうかです。
  169. 永井道雄

    永井国務大臣 現段階におきましては、四十七都道府県中、教育委員会の規則が決められましたものが四十県でございます。
  170. 受田新吉

    受田委員 文部大臣がせっかく企図されたものは、現にこれが大半の府県において採用されておる。反対勢力があっても現実にはスムーズにこれが進行した、こう理解してよろしゅうございますか。
  171. 永井道雄

    永井国務大臣 部分的にあつれきを生じた場所もございますが、大局的に申しますと、教育委員会の御努力、また教員の方々の御理解と協力を得て、全般的には今日までのところ比較的激しい状況なくでき上がってきたのではないかというふうに考えております。
  172. 受田新吉

    受田委員 その現実というものを踏まえていまの助け合いということが展開をされることを文部大臣は期待しておられると思います。一たびそういう形になった以上は、その形の上で成果が上がることがわれわれとしては民主主義の原則でございます。あえてこの問題を取り上げたわけです。  もう質問を終わらざるを得ない時刻が来ておるのですが、最後に一、二ほど取り上げてみたいことがある。  いまのような本当に美しい教育社会を、つまり教育学校だけでなくして、三位一体の教育社会を築いていく上に高学歴社会が現に実現されつつある。それは国勢調査の結果でもはっきりしておるので、専門職とか技術職、そういう部位の方々がふえて、そうして農林、水産、技能、生産工程の従事者というような方の数が減ってきておる、これはまさに高学歴社会になってきておる。その中で父親の果たす役割りはどうか。これも世論調査で出ておることでございますが、父親と話し合いをやっているという子供が少なくて、母親と話し合いをやっているという子供が多い。そうすると、父親は働いて月給を取って、経済を助けるというところに重点を置いて、教育の点では母親よりもはるかに低い影響力しかないということになるわけです。この点非常に大事なことで、父親家庭教育においてどういう地位に置き、社会教育においてどういう地位に置き、そして学校教育においてもどういう地位に置くべきか。これは高学歴社会がだんだんと進むに従って、父親教育における地位というものを文部省としては考えていただかなければならぬと思うのです。文部大臣父親でいらっしゃる、われわれもそうです。ひとつ本当にすばらしい国家社会に貢献する子供をつくるためにおやじは何をしたらいいか、文部大臣の、文教の大本山としてのお答えをいただきます。
  173. 永井道雄

    永井国務大臣 私は、現在の社会は次第に職住分離の方向に向かってきておりまして、特に巨大な組織で働きます父親の場合には一層職住分離という形で、父親は休暇以外は長時間家にいないという形でございますから、ただいまの御指摘の点は非常に重要であろうかと考えております。  そこで、そういう問題の打開のためにいろいろな努力があると思いますが、たとえばPTAというようなものの場合にも、本来は両親ということでございましょうが、事実上は母親中心の組織になりやすいということで、私の理解しておりますところではかなり多くの学校父親を呼ぶPTAの会を催しております。こうしたことは大変望ましいことでありまして、私は昨年もそういう会に出まして父親の役割りについてお話をしたことがございます。私自身もなるべく学校父親の会というものには出席するようにいたしております。さらに、実は家庭というところ、これは時間が減ってはきておりますものの、やはり父親は家に帰ってくるわけであるばかりか休暇というものもございますから、そういう時期において父親子供が接触をする、あるいは十分に話し合うということは特に必要であり、また思春期以上の男子また女子の場合に一層必要になってくるものだということも指摘をされておりますから、こうした点において、いまの自然の勢いに任せますと父親子供との接触を失いがちになりますから、相当の努力をいたしまして、学校への参加また家庭への復帰ということに努力をしなければならないものと考えております。
  174. 受田新吉

    受田委員 父親教育への参加は大変大事な時期と思うのです。そして文部省もそうした父親教育参加のために、お母さんに任せきりという家庭をなくするためにも、社会教育父親教育、成人教育、それから生涯教育というようなところでその機会がしばしば持たれるように、思い切って社会教育的な予算の計上、家庭教育などは家庭で御自身の認識にまつ以外にはないのでございますが、そういう風潮、雰囲気をつくるのにはやはり文部省自身が父親教育と言ってはおかしいけれども、父親にそうした意味の生涯教育の一環を含めた父親社会教育の機会をうんとつくる用意をされる必要がある。要望いたしておきます。  最後に、私、眼を国外に転じてみたいのでございますが、きのうは海外日系人大会で約五百人の——海外に日本人が出かけて今日ブルジル及び南米諸国、中北米、アジアにも少数、合計百五十万人海外に日系人が行っております。そうしてその地域において日系人ここにありと、なかなかりっぱな成果を上げている。アメリカの海軍兵学校、ワシントン郊外の海軍兵学校の最近のトップの卒業生はハワイ生まれの二世だということであります。またウェストポイントという陸軍士官学校などに学ぶ学生も日系人が常に優位にある。南米のパラグアイではパラグアイの士官学校を日系人がトップで卒業しておるというふうに、それぞれ日系人はその素質のよさ、そうして勤勉という点で非常な評価を得ておるのです。やはりその意味では、世界の多くの人種の中で日本人というものは最も知的にまた勤勉的に最上位にある民族と私は思っておるのです。大変誇り高き民族だ。それが海外で露骨に出ておる。つまりほかの民族と競争して全部優位に立っておるのを見れば、これはすぐ比較できるわけです。そういうときに日本はひとつ考えていかなければならぬことは、世界の多くの国々が競争している中で日本人が知的にすぐれておる、もう軍国主義じゃない、知的にすぐれておる、情的にも、そうして勤勉においてもすぐれておるということを大いに育てるために、文部省は海外におる日系人の子弟の教育に、ひとつ日本語を大事にするために日本語先生をどんどん送り出す、こういう努力が要ると思うのです。きのうの要望などにも日系人のために日本語教育、母国の国語を二世、三世は知らぬのだ、そうすると、母国との交流がとだえる、どうかひとつ日本語先生をどんどん送ってください、山奥で生徒の人数が少なくても派遣してください。そういう要望です。そのために財政的な支援も願いたい。  私はこの席で申し上げるのは大変どうかと思うのですけれども、現実の事実を披瀝したいのですが、私、昭和二十二年に初めて議員になったときに、尾崎行雄先生のグループにおったのです。無所属の第一議員倶楽部、尾崎先生が会長で、そのときに十七人おった。そのときに尾崎先生が冗談という意味ではありましたが、非常にいい着想の発言があったのです。いまでも記憶に残っている。それはいま日本は戦いに負けたけれども、負けた国が勝った国に料理されるということではいけないのだ、もう二度と戦争を起こさないためには、勝敗を度外視して被害を多く受けた国に被害の少ない国から補償を出すという平和条約をやろうじゃないかと、非常にしっかりした案を出した。私それをGHQに持っていってけられたことがあります。  もう一つ、尾崎先生は、こうなればもう日本はアメリカの四十九番目の州になろう、そうすれば今度はアメリカのどこへでも行けるのだ、ところがこの一億という人間は優秀だから、各州で信頼が高まって、日系人が各州で国会議員にもなり、重立った人々にもなってくる、最後には大統領も日系人がなるという時点がきっと何十年か後にくるのだ、そのときに国の名を日本と変える憲法をつくれば、労せずしてアメリカ全部が日本になるではないか。これは、尾崎先生の昭和二十二年の発言を、二十九年前の話でございますが、私、まざまざといまよみがえらせている。きのう、海外日系人が五百名来ている。各地で、ブラジルなどは国務大臣国会議員もばんばん出ているし、アメリカでもハワイだけでなくてカリフォルニアから国会議員が誕生しておる。こんなのを見ると、本当に平和的にこれから世界に貢献するわれわれの民族の優秀さというものを感ずるのです。文部省はそういう意味で海外における日系人にうんとこれからすばらしい国づくりをしてもらい、それぞれの国で貢献してもらうと同時に、母国も終始思うために、母国の国語を忘れない海外日系人の教育というものに文部省は貢献してもらいたい。いまや海外における日系人の学校へは、地方公務員の身分をそのままにして教師に出られるようになりました。非常に前進した。以前はやめていかなければいけなかった。そういう時期がきたわけでございますが、勇気を持って日本人の教育者を海外に派遣して日系人の日本語教育に当たらしめる、この方策をお答え願いたい。
  175. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいまの御指摘にいろいろな問題が含まれていると思いますけれども、敗戦のときに当たって、尾崎行雄氏が考えられた事柄の当否は別といたしましても、その気概は大いに私たちは高く評価しなければならないものと思います。  なお、海外の日系人の方々が非常に努力をされまして、特に移民で行かれました場合には、親御さんがぜひ自分子供教育によってりっぱに仕上げようという本当に涙ぐましい努力がありましたために、北米だけではなく、南米におきましても、日系人の方々が目覚ましい活動をされているということは、われわれ同じ民族から発したものといたしまして、非常に注目しなければならないことと思います。  なお、その方々日本語を教えたらどうかということでございますが、これは二通りあると思います。私が理解いたしますところでは、大体移民の子孫というのは、二代目のときには自分が移住いたしました国の言葉を習得することに非常に力を注ぐ傾向がありますが、三代目になりますと、一代目の国の言葉というものを学習しようという要求が自然に強くなってくる。そういうことで、いまアメリカの各地の大学の日本語学習コースで三世の方々学習をしておって、かなりよくできるということを聞いております。ですから、これはわれわれが手をかさないでできているケースでございます。  他方わが国先生方を海外に派遣いたしまして日本語学校をつくっている場合、これは詳細が必要でございますれば学術国際局長が御説明申し上げますが、その場合は、主たる対象は、海外において活動しております日本国籍の日本人の子弟というものに日本語を教えることを眼目といたしておりますが、しかし、私が知っているケースでも、そういう日本語学校をつくっておりますところへ現地の日系人の御子弟が来られて勉強されている場合もある。ただ、その場合には副次的である。いま力を注がなければならないのは、海外の日本国籍の子弟にせめて日本語を確実に習得させるということ、これがまだおくれておりまして、おおよそ三割程度が日本人学校ないしは日本語学校のいずれにも行っていないという現状でございますので、その点に力を注いでいるのが現状でございます。
  176. 受田新吉

    受田委員 商社とか在外公館の子弟、純粋な日本の出先機関の子弟、これは国内に今度帰ってこられて、子供さんを連れていかれた場合に、教育が十分でないので、国内で弱るわけです。これに道を開くこと、これが第一義的なもの、それから第二義的なものがいまの日系人の子弟の教育に貢献する、そういう順序でひとつ貢献してもらう。  と同時に、もう一つ、海外から日本へ勉強に来る学生、これはひとつ先進国になった日本は、アフリカなどの開発途上国の皆さんの子供さんたちもどうぞひとつ思い切って惜しみなく日本へお招きして、そうして、ホームビジットでも何でもいいから、下宿などにも十分便宜を図って、日本で学んでよかった、日本の留学に生涯の光栄を感ずるようにして帰ってもらう。その数をしっかりふやす。あのオイルショックのとき、大臣お聞きになったと思いますが、フランスとかイギリスとかいう国がオイルで余り攻められなかったのです。それはフランスやイギリスへ中近東の諸国から留学した。そのイギリスあるいはフランスの大学で学んだのが中近東へ戻って一国の指導者になっている。そして、かつて学んだ留学先の国に油を抑えていこうなどという——オランダなとはいじめられたのですが、フランス、イギリスなどはその点日本ほどいじめられなかった。つまり、イギリスやフランスで学んだ、その自分教育をしてくれた留学先に敬意を表するという指導者が中近東におったからです。その意味でも、日本はひとつ世界に、平和を愛し、そして日本との友好に貢献をし そしてみずからも自分の国の発展に大いに役立とうとする日本留学の多くの国々の学生を思い切ってひとつ経済援助その他の方式で、何でもいいから日本へ招いて、日本において世界の指導者を養成する、全世界の平和への貢献の偉大なる指導者が日本留学生から輩出するという雄大な成果を上げるために、文部大臣、骨を折ってくださいませんか。
  177. 永井道雄

    永井国務大臣 ただいまのフランスないしイギリスのような国は、長期にわたりまして世界の帝国として君臨をいたしました。そして、いわゆる宗主国、植民地という関係もありましたが、その間において、両国ともに教育を重視する伝統をもっておりますために、留学生の交換というようなことも長く行ってまいりましたから、現段階におきまして比率を見ますと、フランスも、またイギリスはコモンウェルスを含めますと、圧倒的に数が多く、また、そういう数だけではなく、留学生の処遇に当たりましても、英語やフランス語というものが比較的広く国際的に用いられている言語でありますために、いろいろ教育上も魅力を持っているというのは、否定することができない事実でございます。これに反しまして、わが国の場合には、日本語というものが広く用いられている言語ではなく、また、帝国として長く君臨するというような伝統があったわけでもなく、また、留学生交換の経験も浅いので、事実上は非常に未経験な領域でございますが、過去十カ年ほどの統計をとりますと、わが国の学生が急増いたしましたのとほぼ並行して留学生の数がふえておりまして、十カ年間におおよそ二・五倍の増加になっているというふうに私は記憶をいたしております。ただ数の増加のみでは問題は解決をいたしませんで、実はそういう方々が日本に来られましても、日本の受け入れの仕方あるいは学習を助ける方法というようなものにも幾多の問題がありますために、日本に対して批判的になって、いわば反日的な気持を持って帰られる方が多いということもまた忘れてはならない事実であるかと考えます。したがいまして、われわれといたしましては数のことも十分に注意をいたしてまいりますとともに、わが国における教育を充実するのと並行いたしまして、留学生の方々に対する処遇、教育というものを広く人間的な立場に立ちまして行うことによって、日本が世界において評価され得るような教育を持つ国となることを理想として、相当の困難があることを覚悟の上、根気よく進まなければならないと考えております。
  178. 受田新吉

    受田委員 学術国際局長から御答弁をいただくまでもない。いま大臣から基本的な御答弁をいただきましたが、木田先生よろしゅうございますか。また資料をたくさんいただきたいと思います。  私、これで終わります。文部大臣、二時間の質問を通じて、私は、教育の機会均等、そしてすべての国民が伸び伸びと優秀な国民として育つように教育行政をしてほしいという要望をしたわけです。永井先生の場合は従来の文部大臣と変わった角度で、何人にもとらわれない、ただ自民党内閣の文部大臣ではいらっしゃるが、新鮮な感覚で文部行政のできる大臣でいらっしゃるわけです。したがって、御在任中はどうぞひとつ歴史に残る文教行政、清新な、歴代の文部大臣の中では最も政治的なにおいにおいて清潔な感じが実績の上にあらわれたりっぱな文部大臣として、後世の歴史に残る人として御活躍あらんことを祈りまして、質問を終わります。御苦労でございました。
  179. 登坂重次郎

    ○登坂委員長 次回は、来る十九日開会することといたし、本日は、これにて散会いたします。     午後五時四十三分散会