○中路
委員 だから、私も言っていますのは、いま言いましたように、軍属の中で事実上兵隊と同じ扱いを身分の上でも受けている従軍看護婦、そういう現状にあったのじゃないか。その点では、傭人であるとかあるいはその前に公務員でなかったからということではなくて、実際、当時恐らく今日のような
事態を
考えていろいろ規定が決められていたということはないと思うのですね。従軍看護婦の方が動員される場合に、その後の問題ですね、あなた
たちの身分はどういう身分なんだということについて、その後の
恩給の
関連だとかそういうことについての規定も、そういう
事態を予想してされていなかった。また動員される看護婦さんも、もっぱら国のためだということで行って、自分
たちの身分がどういう身分だったのかということもはっきり確認をしないまま、恐らく戦地に動員されていったというのが私は現状だと思うのですね。だから、当時そういう規定がなかったとか、まだはっきりしないとか、あいまいな面があるということだけで、この問題を取り上げないというごとは実情に合わない。どういう現状のもとで当時動員をされ、また兵隊と同じ、ある場合には兵隊以上の困難な仕事も戦地でやってきたという実態をよく見て、どう救済するかということを
考えなければいけないところにいま来ているのじゃないかと思うのです。
いま日赤の社令や陸軍
大臣通達を取り上げましたけれ
ども、先ほど取り上げました、最近出ました「従軍看護婦」ですね、この本を見ますと、動員された従軍看護婦の皆さんが戦地でどういう現状だったのか。これは四年間にわたって――千田夏光さんというのは非常にまじめな作家だと思いますね、会ったことはありませんけれ
ども。ずっと全国を歩いて当時の状態を収録されている。全部
紹介できませんけれ
ども、それを読んでみますと、こういうこともこの中にずっと書かれています。特に戦争の末期になりますと、死に方ももう皆兵隊と同じですね。この本の終わりには戦死をした、事実上戦地で病死をした従軍看護婦のわかっている名簿が全部収録されていますね。二百十九ページから二百八十一ページにわたって名前が全部収録されていますけれ
ども、その人
たちの現状がこの本に出ています。
それを見ますと全く兵隊と変わらないですね。たとえばフィリピンの話が出ていますが、栄養失調症になって餓死で半数が死亡しているという班もありますし、ビルマでは機銃の掃射を浴びて半数以上が戦闘死しているという班もあります。あるいはもう九割までが戦後栄養失調になって、大体二年から四年ぐらいいろいろ後遺症にかかっているということも出ていますし、それから満州、いまの中国東北地方では、御存じのように戦後抑留をされて、これは全く抑留された軍隊と同じ状態。その中で、たとえば徹底抗戦派の関東軍の部隊の中にいた看護婦さんは、二十三人が一緒に集団射殺されているという仲間の報告もこの中に出ています。
こういうことを見ますと、兵隊と同じ、時としては女性であるというために兵隊以上の苦労をなめ尽くしてきたというのが実際の状態じゃないかということを思うわけです。
まあその点で、私のところに、去年この問題を取り上げましてから、全国の
関係の看護婦さんがいま連絡をとり合って、
国会にも要請したいと運動をされていますが、その皆さんからたくさん手紙をいただいています。みんな
紹介するわけにはいかないのですが、いまの現状を知っていただく
意味で、きょう二、三持ってきたのをちょっと
紹介させていただきたいのですが、これが実際どうだったのかということを私はよく示していると思うのですね。
これは全国から来ていますけれ
ども、北海道の苫小牧の西野さんという方の手紙ですが、それぞれ一部分だけちょっと、
紹介してもいいいところだけ、私信ですから、読ましていただきますと、これはさっきの陸軍
大臣通達や日赤の社令の
関係で理解していただきたいのですが、この西野さんの手紙の一部ですが、
昭和十九年戦時召集令を受け、陸軍病院に配属になり、野戦病院勤務中終戦となり、
軍人とともに俘虜収容所に収容されて長期に抑留され、
昭和三十三年に日本に帰り、召集解除になりました。聞くところによると、日赤救護看護婦は、召集令を受けても自分の意思で拒否することができたはずだから、戦地に行ったのは自由意思であるから軍属でもなく
恩給の対象にはならないとのことを言われているように伺いましたが、私
たちは召集を受ければ自由意思で拒否することはできませんでした。日赤卒業者には、十二年間はいかなることがあっても召集に応じる義務が定められていました。ある人は乳幼児を残して戦地に赴いたと聞いております。日赤の看護婦に来た召集令状は
軍人のものと何ら変わることはないと思います。
これは私がきょう持ってきているこの赤紙ですね。全く何ら変わらない、そのとおりだ。ただ召集者が日赤になっているというだけですね。
自由意思で任地を決めることもできませんでしたし、召集後は一切
軍人と同じく軍の命令によって動かされました。
これも、さっきの陸軍
大臣通達でここのところは明確にされているわけですね。
終戦後は従軍看護婦は
軍人と同じく、俘虜収容所に強制的に収容されました。
ということで、その後俘虜収容所でどんな困難があったかということを書いています。
同じ条件のもとで働いてきた日赤の婦長、書記、陸軍看護婦は
恩給の対象とされ、また
軍人も外国の戦地に行っていた人は一年が三年に
加算され
恩給を
支給されておりますが、私
たち救護看護婦のみが
恩給の対象から除外されていることには納得できません。十五年間外地に抑留され、現在五十歳を過ぎようとしており、老後の不安でいっぱいです。どうか私
たち従軍看護婦にも
恩給を
支給していただけるようお願いいたします。
という
趣旨の手紙が来ていますが、この手紙とさっきの私が読みました日赤社令あるいは陸軍
大臣通達というのは全くこの現状そのとおりだと思うのです。
また、これは高知の上野さんという方の手紙、これも一部だけちょっといまの現状を知っていただく上で読ましていただきますと「敗戦を知るよしもなく、牡丹江を出発以来ハルビン到着まで幾日もやけに降り続いた雨」とともに飢えを忍んで行ってきた、この人はこういうことを書いているのです。もう一緒に連れていっている
傷病兵を看護する救護の医薬品も何もなくなった、自分が持っているガーゼ一枚を当てて上げるのがやっとだったということですね。そして歯を食いしばって看護をしていた、そこへハルビンの駅で出合った貨車が入ってきた。「くすんだ赤の十字のマーク入りの荷物」、貨車が入ってきたのでこれは赤十字の薬品が入っている、手当てができるということで力を振りしぼって運んで、あけて見たらどうか、それは敗走する日本の軍隊の上官の家族の私物が入っていたというので、私一人ではありません、じだんだ踏んでまたも歯を食いしばって、裏切られたと大きな叫びとともに全身がナメクジのように崩れてしまったということで、その後抑留生活でどんな苦労をしたかということを書いていますけれ
ども、これは軍隊の全部じゃないけれ
ども、本当の、一部にあったことだと私は思いますよ。しかし、このように自分の家族の敗走するときに私物を赤十字のマークをつけて運んでいる
軍人、その上官に、いまここで私はわかっているけれ
ども、誓っているけれ
ども、多額の
恩給が
支給されている、しかし、自分
たちは全く
恩給の対象にされないということ、こういうことが本当に正義として許されるだろうかということを後に書いておるわけですね。こういう問題も私はよく
考えてみなければならないのじゃないかというふうに思うわけです。抑留生活の苦労というのは、この後手紙で詳しく書いてありますけれ
ども、やはり婦人だからということによる非常な苦労が人一倍あったというような現状も書かれております。
時間もありませんからもう一通だけ御
紹介しますけれ
ども、これは香川県の木村さんという方ですが、
救護看護婦として召集を受けることは、女子としてお国のためになることと信じて疑わなかった当時の世相と教育でございましたことは、三十数年前の軍国一色に塗りつぶされた日本を思い出していただければ容易に御理解していただけると思います。軍の必要に応じて召集され、それを断るということは、妊娠中あるいは分娩間もないとか、子供が小さくて身動きできないとか、病弱のため任務に耐えられないという者を除いて絶対に許されないことであったし、そのようなことは
考えることもしなかったものです。
また、召集されていく先の病院の名前も聞かされず、自分で選ぶこともできず、軍の必要に応じて配属され、陸海空軍病院の軍属として軍規に従って傷ついた病人や将兵の看護の任に当たったのでございます。いやだからとて病院をかわることもやめることも許されないことでございました。
終戦と同時に捕虜となり、看護婦なるがゆえに長期抑留の身となりました。私
たちはいつも帰りたいと夢にまで見る故国でありましたが、帰してくださいと言う自由もなかったのです。召集するとき、日本赤十字社は、また
政府は、このようになることを予想されていたのでしょうか。私
たちはわからなかったことでございました。あくまで国のためと信じていたのでございます。
召集は二年間という約束でございましたし、長期に帰れないということは想像もしていなかったと思うのです。そのために
恩給等ということは
考えられなかったことかと思います。私も、捕虜として帰れなかった期間を通算して十五年という歳月を異国で過ごしてきたのですが、帰ってみると就職も思うに任せず、国立、公立の病院にも全員に窓が開かれていたわけでもありませんでしたが、戦前の日本しか知らない者が全く一変した日本に帰ってきて、不案内の私
たちにだれが就職の手も差し伸べてくれたというのでしょうか。
ということで、公務員としても年限が十七年必要ですね。公務員の年数の足りない分はこの期間が
加算されている。
軍人恩給をもらっている人
たちは
加算されておりますが、それもない。俘虜の期間についてもないということで、この方も老後の不安でいっぱいだということをやはり書いておるわけですが、ほとんどが五十歳、六十歳になる皆さんですね。全国で恐らく三万余りだろうと言われております。
私はいま一、二の手紙を
紹介しましたけれ
ども、この手紙の中身、それから千田さんが非常に詳しく書いておりますが、この本を読ましていただいても、先ほど私が取り上げました日赤の社令や陸軍
大臣通達に基づいて動員をされ、それで戦地でそういう兵隊と同じような勤務をしてきたということは全く事実だと思うのですね。そういう点で、この問題が
委員会の
附帯決議にもなっているわけですから、私はぜひともこの救済の問題、
恩給支給の問題についてもっとひとつ前向きの検討をやっていただいて、早急にこの問題が解決できる、救済できる処置をとるべきじゃないかと思うのですが、
長官のひとつ――幾つか私実例でお話ししましたけれ
ども、御
意見を伺いたいと思います。