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1976-06-09 第77回国会 衆議院 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十一年六月九日(水曜日)     午前十時二分開議  出席委員    委員長 田中伊三次君    理事 大橋 武夫君 理事 亀岡 高夫君    理事 中村 弘海君 理事 松永  光君    理事 田中 武夫君 理事 横路 孝弘君    理事 松本 善明君 理事 坂井 弘一君       宇都宮徳馬君    上村千一郎君       内海 英男君    小山 長規君       佐藤 文生君    菅波  茂君       瀬戸山三男君    古屋  亨君       箕輪  登君    渡部 恒三君       稲葉 誠一君    大出  俊君       斉藤 正男君    楢崎弥之助君       松浦 利尚君    野間 友一君       三浦  久君    鈴切 康雄君       河村  勝君    永末 英一君  委員外出席者         証     人         (三井物産株式         会社顧問)   石黒 規一君         証     人         (日本航空株式         会社代表取締役         社長)     朝田 静夫君         ロッキード問題         に関する調査特         別委員会調査室         長       中里  煥君     ————————————— 委員の異動 六月九日  辞任         補欠選任   庄司 幸助君     野間 友一君 同日  辞任         補欠選任   野間 友一君     庄司 幸助君     ————————————— 本日の会議に付した案件  ロッキード問題に関する件      ————◇—————
  2. 田中伊三次

    田中委員長 それでは、これより会議を開きます。  ロッキード問題に関する件について石黒規一君より証言を求めることにいたします。  証言を求める前に証人に一言申し上げておきます。  昭和二十二年法律第二百二十五号、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によって、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならないことになっております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、まず証言が、証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係の過去にあった者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するときであります。また医師歯科医師、薬剤師、薬種商、助産婦、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者またはこれらの職にあった者がその職務上知った事実であって黙秘すべきものについて尋問を受けたときも証言を拒むことができることになっております。  そうして、この証人が正当な理由なくして宣誓または証言を拒んだときは一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは三月以上十年以下の懲役に処せられることになっておるのであります。  一応このことをよく御承知おきになっていただきますようにお願いを申し上げます。  それでは、法律の定めるところによりまして、これから証人宣誓を求めます。全員起立。     〔総員起立
  3. 田中伊三次

    田中委員長 石黒君、宣誓書を朗読してください。
  4. 石黒規一

    石黒証人      宣誓書  良心に従って、真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います   昭和五十一年六月九日                 石黒規一
  5. 田中伊三次

    田中委員長 宣誓書署名を願います。     〔証人宣誓書署名捺印
  6. 田中伊三次

    田中委員長 御着席を願います。  それでは、これから証言を求めることになっておりますが、証人は、証言を求められた範囲を越えないように願います。また御発言の際は、その都度委員長許可を得て発言をされるようにお願いします。  なお、こちらから質問をするときはあなたは御着席になっておってよろしいのでありますが、お答えになるときは必ず起立をして御発言になるように願います。  それから、申し上げるまでもないことですが、委員各位にこの際申し上げておきます。本日は、申し合わせの時間内でロッキード問題に関する重要問題について証言を求めるのでありますから、不規則発言、それから議事の進行を妨げるような言動はすべてないように、篤と御協力をお願い申し上げます。  これより証人に対して証言を求めることにいたします。  まず、委員長から所要の事項について一言お尋ねをしておきます。その後委員各位の御発言を願うことにいたします。  まず、証人、あなたは石黒規一君ですね。
  7. 石黒規一

    石黒証人 そうであります。
  8. 田中伊三次

    田中委員長 これは「きいち」と読みますね。
  9. 石黒規一

    石黒証人 はい。
  10. 田中伊三次

    田中委員長 それから御住所職業、生年月日、その三つを答えてください。
  11. 石黒規一

    石黒証人 住所東京都大田区田園調布一−一八一八職業三井物産顧問、その次、生年月月は明治四十三年十二月十三日生まれでございます。
  12. 田中伊三次

    田中委員長 そこで、職業の点ですが、顧問というのは、いま常任ですか。現在顧問職務内容は大体どんなことをしていらっしゃいますか。
  13. 石黒規一

    石黒証人 お答えいたします。  顧問常任とか常勤とか非常勤という区別はございません。顧問という名称一本でございます。  会社へ毎日必ずしも出てこなくてもよろしいのですが、私は大体毎日会社へ出ております。私が過去において関係しておった仕事で、まだ私の後任者が十分なれていない面についていろいろ手伝ってやらなければならないこともある。そういった意味で、一応二年くらい顧問ということで手伝いましょうというようなことで、顧問になっておるわけでございます。
  14. 田中伊三次

    田中委員長 仕事内容はこれということはありませんか。
  15. 石黒規一

    石黒証人 仕事内容は、私が会社へ入ってから退任するまで、終始機械仕事担当しておりましたので、そちらの方面に一応限定されております。
  16. 田中伊三次

    田中委員長 はい、ありがとう。  次に、発言申し出がありますので、順次これを許します。松永光君。
  17. 松永光

    松永委員 あなたが三井物産株式会社に入社されてから今日までの三井物産におけるポストを概略申していただきたい。特に昭和四十三年以降のあなたの地位、経歴を簡単にひとつ御説明願いたい。
  18. 石黒規一

    石黒証人 四十三年五月常務取締役、四十六年五月副社長、それから五十年五月顧問、こういうことでございます。
  19. 松永光

    松永委員 四十三年五月から常務取締役だそうですが、担当は何でございましたでしょう。
  20. 石黒規一

    石黒証人 担当は、機械部門仕事の半分を担当いたしておりまして、後の半分はもう一人の常務でございました。
  21. 松永光

    松永委員 三井物産株式会社はアメリカの航空機製造会社であるマクダネル・ダグラス社との間に、ダグラス社製造する飛行機日本国内への売り込みに関する代理店契約を締結しておられますか。締結しておられるとするならば、いつ締結されたか。そして、その契約内容、これをおおよそ説明してください。
  22. 石黒規一

    石黒証人 これは取引先別に分かれておりまして、一番最初に代理権を認めてもらったのは全日空向けでございまして、その代理店契約ができましたのは、昭和四十四年の七月でございます。その次は日本国内航空で、四十五年の三月です。その次が東亜航空でございまして、四十五年の七月でございます。  それから扱う品目について、東亜航空日本国内航空の場合はDC9に限定されておりました。それから東亜航空日本国内航空とが合併いたしました後に、昭和四十八年の二月に東亜国内航空としてもう一度代理店契約を結び直してもらいまして、そのときの扱い品目DC9とDC10と両方含まれております。  それから日本航空との代理店契約は、同じく四十八年の二月に締結できました。  それから日本政府に対しても同様、飛行機を買っていただくチャンスがあるということで、代理店契約ダグラスからもらいました。この場合もDC9とDC10に限定されております。  以上でございます。
  23. 松永光

    松永委員 四十四年七月に全日空向け飛行機売り込みについて代理店契約をしたということですが、その機種は特定されておったのでしょうか。
  24. 石黒規一

    石黒証人 DC10だけだったと思いますが、その後四十八年の二月にDC9もDC10もあわせてもう一度代理店契約を結び直したように、正確ではないですけれども、多分そういうことだったと思います。
  25. 松永光

    松永委員 昭和四十四年の七月にダグラス社との間に代理店契約を結んで、そのときは全日空向け売り込みに関する事項についての代理店契約だ、こうおっしゃいましたね。で、日本航空との間の、日本航空向け売り込みについては四十八年の二月、こうおっしゃいましたが、当初の四十四年七月のダグラス社との契約のときに、日本航空に対する売り込みについては代理店契約内容からはずされておった、それはどういうわけなんですか。そして、四十八年二月になってから日本航空向け売り込みについても代理店契約内容に入ってきた、そのいきさつ、どういうわけでそうなったのか。
  26. 石黒規一

    石黒証人 日本航空ダグラスの間の取引は非常に古くから直接行われておりまして、両社はお互いに熟知の間柄である、そして日本航空語学が達者な方がそろっておられて、何ら手伝い人がなくてもスムーズにできておったということで、当時は物産としては代理権が欲しかったのですが、いただけなかったという状態で、全日空代理権をもらったのは、全日空はもともと三井物産の子会社であった、非常に親しいという両社関係を考慮して、また日本航空ほど全日空は海外のメーカーとの交渉になれておらないという点もあって、語学の達者な三井物産がそこで手伝う必要があるということもあって、代理権がいただけたわけでございます。  それで、四十八年になって日本航空代理権をもらったのは、三井物産の熱意に動かされて、東亜国内航空注文もとれたし、この際物産に顔を立ててやろうというダグラス側の好意でございます。  以上でございます。
  27. 松永光

    松永委員 三井物産は、古い時代にはロッキード社との間に代理店契約を結んでおったんではありませんか。
  28. 石黒規一

    石黒証人 ございました。昭和三十年の秋か暮れごろに代理をもらいまして、最後両社がけんか別れして代理権を失ったのが昭和三十三年の夏ごろでございます。
  29. 松永光

    松永委員 昭和三十三年の夏にロッキード社との間の代理店契約をなくした、これはロッキード社から代理店契約の解除の申し込みがあって、それで代理店契約が解消された、こういうことですか。
  30. 石黒規一

    石黒証人 ロッキード当社の間で話し合って、向こうもやめてもらいたいと言うし、われわれもやめさしてもらいたいという両社の合意で、解消いたしたわけでございます。
  31. 松永光

    松永委員 ロッキード社との間の代理店契約が解消されるに至った理由ですね、どういうわけで解消されたのか、それを簡単に説明してください。
  32. 石黒規一

    石黒証人 仕事やり方ロッキード当社では違う。ちょうどグラマンに内定いたしました直後、ロッキード・インターナショナルのハル社長がやってまいりまして、三井物産政府高官に対するアプローチが非常に弱い、それからまた、アンダーテーブルのようなこともできない、それでは大きな注文がとれない、どうしてもやってもらわなければ困るという、かなり命令的な要求がございまして、最終的には当社の幹部も話し相手になられて大分口論になりましたけれども、過去においてロッキード代理いたしまして練習機のT33とかあるいは対潜哨戒機のP2V7というようなものは全部正攻法で、まともなやり方注文をもらっている、そういう物産の過去の実績も信用してもらって、物産の流儀でやらしてもらうならばやりたいということで論議いたしましたが、結局、向こうの希望には合わないので、それは無理だからやめてもらおうじゃないか、またわれわれの方も、ロッキードの言うやり方商売やれと言われても、当社としてはやれないからやめさせてもらうということで、決裂したわけでございます。
  33. 松永光

    松永委員 そうすると、昭和三十三年に、そのロッキード社商売の仕方ですね。三井は不公正な金まで使っての商売はできない。ところが、ロッキードの方は、アンダーテーブルを使っての売り込みなどはできない、それをやれということですか。アンダーテーブルというのは、不公正な金を使う、まあ、そでの下を使うという意味ですね。要するに、不公正な金を使ってまで売り込みをどんどんやれというのがロッキード社三井に対する要求三井はそういうことはできないということから、口論になったわけですか、重ねて聞いておきます。
  34. 石黒規一

    石黒証人 そのとおりでございます。
  35. 松永光

    松永委員 ところで、昭和四十四年前後ごろ、四十四年か四十五年ごろ、日本航空ダグラス社製造に係るダグラスDC10という飛行機について、日本航空DC10を買うということについての何らかの契約が、四十四年または四十五年ごろなされたかどうか、そういうこと御存じですか。
  36. 石黒規一

    石黒証人 当時日本航空向けは、物産代理店でございませんでしたので、そういうことについて話を聞く機会はなかったのでございます。したがって、存じませんでした。
  37. 松永光

    松永委員 昭和四十四年あるいは四十五年ごろ、日本航空ダグラス社との間に、DC10についてこれを購入するという契約あるいは仮契約、あるいはもっと弱い意味であってもいいですが、何らかの契約、そういったものがあったかどうか、あなたにはわからぬ、こういうことなんですか。
  38. 石黒規一

    石黒証人 それは、その後に全日空オプションをやりたいという話が出てきましたときに、関連いたしまして、日本航空向けダグラス売り込みをやっておったということは聞いております。
  39. 松永光

    松永委員 ダグラス売り込みをやっておったということは聞いておるが、どういうところまでいったか、そういう点についてはどうですか。
  40. 石黒規一

    石黒証人 聞いた話でございますから、どこまで正確かわかりませんが、当時日本航空は、エアバスクラス航空機を購入しようということで、ダグラスを含め各社に引き合いを出しておった。そして四十四年の七月二十五日に、いずれを採用するか機種を決定したいということで、最後の大詰めを迎えたわけで、ダグラスマクゴーウェンという社長も当時来日して待機しておったわけでございます。結局、日本航空の購入しようと計画しておったエアバスクラス航空機の購入は突然無期延期になりまして、それから全日空大庭さんから、全日空オプションしたいという話が持ち上がったのでございます。
  41. 松永光

    松永委員 そうすると、全日空ダグラス社との間にDC10についてのオプションがあったかどうか、この点はどうですか。
  42. 石黒規一

    石黒証人 全日空自身ダグラス注文したというか、契約をした……
  43. 松永光

    松永委員 いや、日本航空
  44. 石黒規一

    石黒証人 日本航空でございますか。
  45. 松永光

    松永委員 日本航空ダグラスとの間にオプションをしたかどうか、その点は……。
  46. 石黒規一

    石黒証人 それはなかったようでございます。
  47. 松永光

    松永委員 ところで三井は、ダグラス社との間の代理店契約に基づいて、全日空に対してDC10を売り込むためのいろいろな折衝をされたと思うのですが、先ほどのあなたのお話で出てきました、全日空大庭社長オプションをしたいということで三井物産に話を持ってこられた、こうあなたは先ほど証言されましたが、それはいつごろ、どこでお会いになってそういう話が出たんでしょうか。
  48. 石黒規一

    石黒証人 先ほど申し上げたように、日本航空機種を決定するという四十四年の七月二十五日に一応決定が無期延期になった。その直後、全日空大庭さんから御連絡がございまして、日本航空が買うのをやめたので、その一番早い納期のものを実は全日空として押さえたいんだ、ついては、ダグラス責任者と会見できるようなアレンジをしてもらいたいということで、結局、七月の二十九日に三井物産社長室で会見のアレンジができたわけです。そのときにいまのオプション的な話が始まったわけでございます。
  49. 松永光

    松永委員 七月二十九日のその三井物産社長室での会議の結論、これを簡単におっしゃってください。なお、その社長室会議に出席した人はだれとだれであったか。
  50. 石黒規一

    石黒証人 全日空の方は、大庭社長お一人でございました。それから三井物産の方は、若杉社長航空機の方の担当者が一人、それからダグラスの方は、ダグラス社社長マクゴーウェンと重役のヨースという人と、それからあと東京駐在のボガートという人とこの三人、合計で六人でございました。  そして、大庭さんが押さえたいという飛行機について、実はダグラスの方がすっかり書類の準備をしてまいりまして、その書類というのは、日本航空引き合い中であったときに日本航空に出しておったプロポーザル、それを全日空向けに焼き直したものと、それから製作手配を進めるときに必要な書類としてレターオブインデント、つまり注文内示書のようなものを用意してまいりまして、それにサインをしてもらえば仕事は進められるということで、本来ならば大庭社長サインしていただける筋のものと思いますが、物産の方でかわりにやっておいてくれということで、うちの若杉社長サインをされたということでございます。
  51. 松永光

    松永委員 大庭社長サインしなかった、こういうことですね。
  52. 石黒規一

    石黒証人 はい。
  53. 松永光

    松永委員 若杉三井物産社長サインをされたということですが、そうなると、そのレターオブインデント、これは発注内示と訳すのですか。そうすると、大庭さんがサインせずに、三井物産社長三井物産社長としてサインしたということになれば、買い主といいますか発注者は、全日空になるのですか、三井物産になるのですか。
  54. 石黒規一

    石黒証人 もう少し説明を加えさしていただきますが、航空機注文をする場合に、ただ予約的な話であれば、これはだれでも当事者になってどんどん進められると思うのですが、後ほど申し上げますように、このレターオブインデント署名した後にある期間がたてば、前金を幾らか払わなければいけないということで、だんだん契約実施に入っていくわけです。そういう段階になりますと、全日空がその当事者になることは非常に厄介なことになるだろうと思うのです。航空局の許可を得ておかなければいけない、あるいは通産省の輸入許可もとっておかなくてはいけない、あるいは外貨を払うという意味で大蔵の外貨割り当ても取らなくてはいけない。そういったいろいろな手続を完了しないで、外貨支払いを伴うような契約全日空が履行していくということは、まだ時期早尚であるということでありまして、そのかわりを頼まれた三井物産にしても同様のことが言えるわけです。  それで、三井物産当事者になることはやめまして、これは米国三井物産がこの仕事を引き受けてやってくれるならば、合法的にやれる。万一全日空が買ってくれなくても、第三国向け米国三井物産が転売することも自由であるというようなことから、この会談が終わった直後に、米国三井物産三井物産社長若杉さんとが打ち合わせをされて、そういう体制でこの仕事を処理するということを決められたわけでございます。そういう意味合いにおいて、とりあえず若杉さんがレターオブインデントサインされましたが、契約実施米国三井物産に移したわけでございます。
  55. 松永光

    松永委員 そうすると、いま証人証言されたような事情があってのことではあるが、発注者あるいは買い受け主、これは全日空ではなくして三井物産、特に米国三井物産である、こういうふうに理解してよろしいんですか。
  56. 石黒規一

    石黒証人 契約上はそういうことになります。
  57. 松永光

    松永委員 そのように発注をされたDC10は何機なんですか。確定発注、それからいわゆるオプションですか、何機になりますか。
  58. 石黒規一

    石黒証人 七月二十九日の大庭さんからの御要望では、確定注文三機、それからオプションが四機、合計七機でございます。
  59. 松永光

    松永委員 そういうふうに大庭さんの依頼に基づいて発注はなされたわけですが、三井物産全日空との間には大庭さんの依頼があったというだけで、ほかに全日空三井物産との間に書類の交換あるいは書類サインするとか、そういう文書に基づく何らかの取り決めがあったんでしょうか、どうでしょうか。
  60. 石黒規一

    石黒証人 文書によるものは一切ございません。
  61. 松永光

    松永委員 その三井物産の方で手配した飛行機は、結局全日空に売り込むことができれば一番いいが、よそに転売してもいいというふうな気持ちもあってという先ほどの証言ですが、結局はその飛行機日本向け製造されつつあったんじゃないでしょうか。
  62. 石黒規一

    石黒証人 飛行機は大部分が共通のスペックでつくられますけれども、製造が進んでいく過程において、だんだんとエアライン会社が決めてくださらなくちゃならない仕様がございまして、たとえば内装をどうするとかあるいは無線機はどこのものを積むとか、事細かくいきますと、一応つくられる飛行機はどこどこ会社向けと、それに適した飛行機というものになっていくわけでございます。
  63. 松永光

    松永委員 七月二十九日付の仮発注は、確定が三機、それからオプションが四機ということでしたが、終局的にはその飛行機がもう少しふえたんじゃないでしょうか。最終的にはどうなったのでしょうか。
  64. 石黒規一

    石黒証人 四十四年の九月になりまして、大庭さんから確定注文三機を一機ふやして四機にしてくれ、それからオプションの四機は二機ふやして六機にしてくれという御要請がありまして、そのようにいたしました。それから、その翌年四十五年の十月に、これは大庭さんがすでにおやめになりまして若狭さんが社長におなりになってからのことでございますが、三井物産判断——三井物産三井物産と申し上げますが、これは米国三井物産を含めて申し上げておりますので、使い分けはときどき混合いたしますけれども、お許しいただきたいと思います。三井物産判断でファーム、確定注文を六機に、それからオプションを四機に変更いたしております。
  65. 松永光

    松永委員 その四十四年九月に大庭さんが確定発注を三機を四機にし、オプションを四機を六機にするについて、これも口頭申し出で、文書か何かは全日空三井との間に交わされたか何かしたのでしょうか。どうです。この点は。
  66. 石黒規一

    石黒証人 そのときも文書は一切ございません。
  67. 松永光

    松永委員 当時の全日空大庭社長さんと三井との間には、文書はないが、口頭でどういう約束がなされておったのですか。概要をおっしゃってください。
  68. 石黒規一

    石黒証人 口頭では、大庭さんに頼まれて、かわり三井物産が手配している、そういった意味打ち合わせでございます。それで、レターオブインデントに調印するときも、大庭さんには全部その内容を御説明して御同意を得ておる。それから、三井物産というか米国三井物産ですが、三井物産の名前でいつまでも仮発注の形では困るということで、ダグラスの方から正式注文書に、購買書にしてくれという要請がありまして、四十五年の二月に正式のコントラクトをしておりますが、そのときも大庭さんにお話しして御了解を得ている。それからまた、前金を払う都度、幾ら払いますよということで、それも御報告して御了解を得ているということで、その四機を六機にふやしたときはもう大庭さん関係ございませんが、大庭さん在任中の間はわれわれが勝手なことを一つもしないで、ことごとく大庭さんにあらかじめ御連絡をとって、御同意を得てやっておるという状態でございました。
  69. 松永光

    松永委員 念のため聞いておきますが、四十五年十月に確定発注機数を六機にしたと、これは米国三井物産の独自の判断でやっているのであって、全日空からの要請とか依頼とかというのはなかったんですね。
  70. 石黒規一

    石黒証人 全日空要請はございませんが、全日空長期計画によりますと、初年度に必要とするDC10の機数は六機になっております。これは実務レベルでしょっちゅう行き来しておりますので、計画程度のことは当社も熟知しておるわけでございますが、せっかく全日空のためにリザーブしておる飛行機が数が足りなくて中途半端では、最後に買っていただくときにお買いになる全日空の方がお困りになるであろうということで、ただしこれは、全日空に責任を持ってもらって、六機にしますからよろしゅうございますねというような、確かめるようなことはもちろんできないわけです。大庭さんが御在任中だったらできたかもしれませんけれども。そういうことで三井物産の独自の判断でやりました。
  71. 松永光

    松永委員 大庭社長さんが全日空をやめられた後、若狭さんが社長になったその直後に、四十五年七月ごろと思われるのですが、若狭社長三井若杉社長、それにあなたがお会いになって、全日空の若狭社長から、DC10を全日空が購入するかどうかについて法的な責任、道義的な責任はあるのでしょうか、ないのでしょうかという確かめがあったことがございますか。
  72. 石黒規一

    石黒証人 ございました。
  73. 松永光

    松永委員 その際、三井物産側は全日空の若狭社長に対してどういう御返事をなさったのでしょうか。
  74. 石黒規一

    石黒証人 全日空には責任がございませんという返事をされました。
  75. 松永光

    松永委員 その際、全日空関係者あるいは大庭社長三井との間に文書こそないけれども、先ほど証人証言されたようないきさつで、飛行機は押さえてある、確定発注三井物産の責任においてしてある、だから何とか全日空ではこのDC10を買ってもらえないだろうかと、いきさつを説明してそういうことの要請はなさらなかったのですか。なさらなかったならば、なぜそういう要請をなさらずに、何の法的な道義的な責任もありませんという回答をなさったのか。そのことを簡単に説明してください、時間がありませんから。
  76. 石黒規一

    石黒証人 私が全日空へ参ったのはそのとき初めてでございまして、社長若杉のお供をして参って、実は新しく社長に就任された若狭さんに表敬の意味ダグラスを買っていただく話を、まあ、ぽつぽつと申し上げようという魂胆で行ったはずだと思うのですが、突然若狭さんの方から、何かあったようだけれどもと、そういう言葉をお使いになったかどうか記憶しておりませんが、全日空は法的にも道義的にも責任はないのでしょうねという非常にどぎつい御質問をされて、とっさに若杉社長がそれを否定しないで、ございませんと返事をされた。そのこと自身が私も非常にわかりにくかったわけです。いままでの前後の事情を私、十分承知しないで若杉さんのお供をして行ったものですから、そういうことで私自身も戸惑ったわけでございますが、ともかくそういう返事をされました。
  77. 松永光

    松永委員 では、次の質問者に譲ります。
  78. 田中伊三次

    田中委員長 渡部恒三君。
  79. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 時間がなくなってしまったので、質問を先にはしょって申し上げます。  いま松永君からずっと経過あったのですけれども、専門的なことでなくて、素朴な国民の立場を考えますと、いまのあなたの経過をずっと聞いておりますと、とにかく全日空大庭社長といろいろな連絡をとって、製造番号まで押さえてダグラス社全日空に納めるための飛行機をつくらせて、納める準備をしてきたということですね。そうして、それがオプションがあったかないかということになってくるのですが、ところが、今度最後には、全日空の若狭社長担当者のあなたを前にして、これはここで証言しているのですけれども、全日空三井物産に対して道義的、法律的一切の責任がないということを確認しましたと言って、同席しておる皆さん方は了解しましたということですね。  われわれ素人で考えると、これはわれわれ一万円か二万円の買い物でも、あなたのところから買うからと言われて、それをつくっていたのに、急に取りやめたなんということになったら、簡単におさまるはずがないわけですが、何百億の買い物を、そんなにずっと準備しておって、今度は急にやめたよと、そして責任はないというようなことでは、ちょっと納得できないのですけれども、この点お答えいただきたい。
  80. 石黒規一

    石黒証人 あとは私の憶測によって御返事するより仕方がないと思うのですが、若杉さんがもう亡くなられましたので。  昭和四十七年になって、このでき上がってくる飛行機を処分する段階になりまして、社内の代表取締役会で若杉さんが経過報告をされたその一端に言われたことは、本件については全日空と法廷で争う余地なしとせぬが、長年友好関係を保ってきた全日空と法廷で争うよりも、友好関係を保った形で最終的にダグラスを買っていただくという最善の努力をすべきであるという立場において、責任がないという返事をされたということを述べておられます。  それと、私も考えますのに、仮に大庭さんが注文したいとおっしゃっても、正式の注文は、先ほど申し上げましたように、所管庁の許可をとらなければ正式にはならない。私ども貿易会社は輸出とか輸入の仕事を扱う上において、注文書を仮にもらっても、すぐには手配しないのです。輸出の場合はたとえば通産省の輸出承認ELというものをもらわなければ絶対に製造手配しない、輸入の場合もインポートライセンスをもらわなければ輸入の手配をしない、これが原則でございます。  全日空飛行機の輸入の問題も、一流の商社であれば、そういう依頼依頼としてあるけれども、これを実行に移すのはやはり所管庁のお墨つきが出るまではできないのだということは百も承知しておるわけです。そのあたりのことが恐らく一部絡んでおって、まだお役所の許可も得ないのに、うちが頼まれたからといって手配したんだから、さあこれを全日空に、おまえ責任持てと言えるかどうかというようなことも、ずいぶん思案されたあげくのことではないかと思うのです。
  81. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 急いで申し上げます。  世上の問題はオプションがあったかなかったかということなんですが、いまの証人の話を聞くと、二つに考えられるんですね。片方の面で考えれば、あなたの方で全日空とのいろいろなオプション契約が完全に完備してなかったために取りやめられても文句が言えなかったという考え方、いまもう一つは、何かいろいろな長く商売していくための、やはりここではいろいろ文句は不服はあるけれども、しかしここで文句を言うよりは、長い先の商売やあるいはお役所のいろんな二とを考えれば、泣き寝入りをした方がいいんだということであきらめたという、これはどっちにも憶測できますね。  だから、あなた方ずっととにかく何年かの経過、売り込み商売をしておったことは間違いないのですから、それを断念するに至った理由は、一体どういうことなんですか。
  82. 石黒規一

    石黒証人 当初は究極的には絶対にダグラスを買ってもらえるとまず九九・九%確信を持っておったわけです。ロッキードがおしまいになってきて大変な競争相手になってあらわれてきましたが、当時は全然そういうことが予測されるような状態でなかった。したがって、お客さんを怒らせて、最悪の場合に法廷で争うというようなことになって、弁償金をもらってもこれはつまらない、やはりダグラスDC10を買ってもらわなければ意味がないんだ、それにはなごやかな雰囲気でやらなければならない、そういうところからきていると思います。
  83. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 最後にもう一問。  そうすると、全日空が、世上よく言われるロッキードの逆転ということで、トライスター購入に決まったのが四十七年の秋だというふうに言われておりますね。ところが、あなたの方で製造番号を押さえてダグラスさんにつくらせておる飛行機が、トルコ航空それから英国航空、これにもうすでに四十七年十月ごろ売り込みに成功しているのですね。これはさすがは三井物産、ぱっといった。しかし、飛行機が一日か二日で、きのう断念したからあした別なところにすぐ売り込むというようなふうには考えられないので、少なくとも、四十七年の秋にトルコ航空に売り込みが成功していたとすると、四十七年の三月とか四月、そのころからすでにもう何かの感じで、あなたの方はこれは全日空の方はだめだという何かがなければ、こんなにうまく転売できないと想像するのですが、特にこの問題の重要なのは、世上では四十七年の八月三十一日、九月一日、ハワイで田中・ニクソン会談が行われた、それからすぐに逆転したというので、それが何か関係があるがごとく揣摩憶測が行われたんですが、それよりもはるかに早くあなたの方ではトルコ航空とイギリス航空に対する売り込みをして成功しているのですね。その辺のところをぜひ正確にお聞かせいただきたいと思います。
  84. 石黒規一

    石黒証人 全日空向けにはもう無理だということを判断してから売り込みにかかったのは、大体昭和四十六年の五月ごろであります。そのときに、全日空ダグラスを買わないだろうというような予測はしておりませんでした。ダグラスを買ってくれるかもしれぬ、が、いずれにしてもわれわれの用意している飛行機の納期が非常に早い。それで導入がだんだんとおくれてきて、四十九年になる。そうすれば四十七年にできる飛行機を持っておっても、四十九年でなければ要らない会社がそれを使うわけがない。二年もその間にギャップがあるわけです。そういうわけですから、もし早過ぎるのならばどこかほかの会社へリースするというようなことも考えて、お買いになりませんかという意味の手紙を私が出したわけです。それに対して、機種決定しておらないから買うわけにはいきませんよという返事をいただいたわけです。したがって、その納期の早い飛行機はいずれにしても全日空は買っていただけないということがはっきりいたしましたので、四十六年の五月から売り込みにかかりまして、その中で比較的経営状態のいい会社とかいろんな条件を煮詰めて、最終的にこのレーカーとトルコ航空に決めたわけですが、これも大部分ダグラスの協力を得てやったわけでございます。
  85. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 終わります。
  86. 田中伊三次

    田中委員長 斉藤正男君。
  87. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 お尋ねをいたします。  今日時点までに検察、警察関係者から三井物産関係者に事情聴取をされたことがあるかないか。
  88. 石黒規一

    石黒証人 検察庁の方へは当社関係者が呼び出されていろいろ事情の聴取をさせられております。警視庁の方はときどきお見えになっていろいろ事情をお調べになっておったようでございます。
  89. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 検察庁関係は出かけていって事情聴取を受けた、警視庁関係者は来社をされて事情を聴取された。あなたはそのいずれかに入っておりますか。
  90. 石黒規一

    石黒証人 私は検察庁の方へは七回くらい伺っています。延べで約四十時間くらいと思っております。  それから警視庁の方は、お見えになりましたけれども、細かい話の御質問はなく、当初のごあいさつ程度で、あとは実際の担当の方へ行かれて調べておられたようでございます。
  91. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 検察庁へ出向かれて、前後七回、時間数にして四十時間、大変御苦労なことでございまして、その筋もすでにかなりな線までは調べが済んでいるというように思いますけれども、当委員会の設置の目的等もこれあり、同僚議員がただいま質問いたしましたけれども、なお続けて重複を避けてお尋ねをいたしたいと思いますが、その前に、人数で結構でございますから、三井物産関係者が検察庁へお出かけになって事情聴取を受けたという方は何人、それから社内で、警視庁関係者が出かけてきて事情聴取を受けた人数は何人、おわかりになったらお答えください。
  92. 石黒規一

    石黒証人 検察庁の方へは、正確な人数はわかりませんが、多分十名前後だと思います。それから警視庁の方は一人一人でなくて、部単位に何人かの人間を一緒にしてということもあったと思いますので、これは恐らく関係者ほとんどみんな顔を合わしておるのじゃないかと思います。人数の点ははっきりいたしません。
  93. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 あなたが前後七回検察庁にお出かけになって事情をお述べになりましたけれども、そのやりとりというのは、ここで言える範囲のことはどういうことでございましたか。
  94. 石黒規一

    石黒証人 やはり全日空オプションというものがあったかどうかということから始まっております。一通り、売れなくなって飛行機を処分するに至るまでの経過について——お聞きになる方が全部お聞きになるわけでなくて、最初の検事は自分で聞きたいと思うことをお聞きになる、それから二番目の検事はまた別のことをということで、検事さんは三人おかわりになりました。
  95. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 先ほどの質問で、日本航空との関係が、特にダグラス10の購入売り込みについて明らかになりましたけれども、ただ一点、四十四年七月に日本航空機種選定中断をした、したがってDC10の購入については中止をするという話が日航からあったと思いますけれども、ただそのDC10の採用を中止をするというだけでなくて、どういう理由日本航空DC10の採用を中止しなければならなくなったのかというような話があったはずだと思うのですけれども、その点はいかがでございますか。
  96. 石黒規一

    石黒証人 それは物産当事者ではございませんし、もちろん話はございませんでした。  それから、航空機メーカーのダグラスとかその他にそういった事情は御説明なかったようでございます。
  97. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 ただ何となく社内の事情で採用を中止する、一時中止をするというようなことで、その理由については詳細な話はなかったというように理解してよろしいか。
  98. 石黒規一

    石黒証人 そのとおりでございます。
  99. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 先ほどの証言で明らかでありますけれども、全日空大庭社長からこのDC10の予約と言っていいのですか、採用予定について最初に申し入れがあった日時、場所は御記憶でございますか。
  100. 石黒規一

    石黒証人 大庭社長から——大庭社長とおっしゃいましたか。——それは四十四年の七月二十九日でございます。最初の会見は。それで三井物産社長室でございます。
  101. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 それが、先ほど同僚議員の質問に答えられた四十四年の七月二十九日三井物産社長室でという証言と同じということですか。
  102. 石黒規一

    石黒証人 そのとおりでございます。
  103. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 先ほども少し触れられましたけれども、ここに余り鮮明ではないのですけれども、三井物産側と全日空側が交換した文書がございます。写しでございまして不鮮明ですが、先ほど同僚議員の質問に答えて、要請文書でした、それに対する断りの文書全日空から来たということを言われました。文書らしきものはこれだけだというように言われたようにも思いますし、そのように私どもも聞いておりますけれども、いまちょっと差し上げますので、きわめて不鮮明ですけれども、ごらんをいただきたいと思います。——委員長、よろしいか。
  104. 田中伊三次

    田中委員長 いいです。
  105. 石黒規一

    石黒証人 いまちょうだいいたしましたこの書類は、私、承知しております。交換した文書というのはこれ以外にございません。
  106. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 きわめて不鮮明でございますけれども、判読を含めて私が読み上げますので、原本をごらんいただきたいと思います。  「昭和四六年五月」残念ながら日付はありません。五月というだけです。     全日本空輸株式会社      取締役社長 若狭得治殿        東京都港区西新橋一−二−九          三井物産株式会社          代表取締役 石黒規一マル印     ダグラスDC−10型旅客機のこと  拝啓 貴社益々御隆昌の段御慶び申し上げます。   首頭の件につきましては御多忙中の処再三参上致しまして早期採用方御願申し上げて参りました。   先般昭和四七年中に導入することは、極めて難かしいとの御意向を承りましたが、旅客の延びも順調に進展しており、空港諸設備も次第に拡張整備されている折から、我国航空界の動きは可成り前進的と拝察されます。   一方、ダグラス社の生産ラインから既に日本向けとして御薦め申し上げておりますDC−10機は価格が低廉である上に各コンフィギュレイションを出来る限り貴社向け使用に便なる様に取計らってありますので、海外他社用に転用致しますよりは、矢張り貴社御使用の機体として御採用賜わり、貴社が正式に採用される時期が到来する迄適宜海外他社にリースする等の方法を以て、流動性のある適用を御高配方願申上度く、本件に係る諸事万端に関し、何なりとも御申付され度御願申上げます。   尚、ダグラス社の納期は、下記の通りであります。     昭和四七年 三月・五月・六月・八月       四八年 一月・二月       四九年 三月・四月・五月・六月   先は御願まで申上度、                   敬具             三井物産株式会社  これはあなたの御印も押してございますけれども、間違いございませんか。
  107. 石黒規一

    石黒証人 間違いございません。
  108. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 これに対して、「昭和四六年七月」これも日付が入っておりませんけれども、     三井物産株式会社      代表取締役石黒規一殿         全日本空輸株式会社           代表取締役 渡辺尚次     ダグラスDC−10型旅客機の件  拝啓 貴社益々ご隆昌の段お慶び申し上げます。  さて、標記に関する貴簡拝読いたしました。大型ジェット機の採用につきましては、検討を重ねておりますが、未だ機種決定に至っておりません。  したがいまして、お申し越しの件につきましては、貴意に副いえませんので、此段ご諒承賜わりたくご連絡申し上げます。                   敬具  このような文書、間違いございませんか。
  109. 石黒規一

    石黒証人 間違いございません。
  110. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 先ほどからの御証言に明らかなように、全日空側あるいは大庭社長との間に文書によるやりとりというのは全くなくて、三井物産もしくはアメリカ三井物産の営業政策といいますか、売り込み政策といいますか、そのために全責任をもって三井物産並びにアメリカ三井物産ダグラス社との話し合いを進めてきたただ唯一と言っていい文書は、この願い上げのあなたの文書とこれに対する全日空渡辺副社長の回答書というもの以外にないように私どもも調査の結果明らかにしているわけでありますけれども、これ以外には全く全日空三井物産あるいはアメリカ三井物産との間に文書でのやりとりはありませんか。
  111. 石黒規一

    石黒証人 そのとおりでございます。
  112. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 この文書に明らかなように、三井物産側としては、DC10について「ダグラス社の生産ラインから既に日本向けとして御薦め申し上げておりますDC10機は価格が低廉である上に出来る限り貴社の使用に便なる様に取計らってありますので、海外他社用に転用致しますよりは、矢張り貴社御使用の機体として御採用賜り」たいというようなことで、もうこの段階で三井物産並びにアメリカ三井物産は、この製造過程にあるDC10は、全日空にどうしても使ってもらわなければならぬし、またもらえるものだという確信を、四十六年五月の文書発送当時までは持っていたというように思うのですが、いかがでございますか。
  113. 石黒規一

    石黒証人 最後まで確信を持っておったわけでございます。
  114. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 ここに書いてあります飛行機の納期、四十七年の三月、五月、六月、八月、四十八年の一月、二月、四十九年の三月、四月、五月、六月、この十機につきましては機体ナンバーはおわかりでございましたか。
  115. 石黒規一

    石黒証人 正確に記憶はしていませんが、多分一番最初のやつが二九号、その次が三三号、それから四七号、それから五〇号、それからあとが八三号に八七号だったか、それから先はちょっと……。いまの、あるいはちょっと間違いがあるかもしれませんが……。
  116. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 かなり正確に、いま書類も何も見ずにお答えできるような状態ですから、ナンバーまで明確に押さえ、しかも納入年月日まで押さえて進められておった事実は明瞭であります。  そこで、お尋ねいたしますけれども、ダ社のチーフデザイナーの話によると、ダ社は四十五年十月中旬、全日空三井物産を通じオプションしていたDC10六機の内装を決めるために、E氏をキャップに五人のデザイン技術者を東京に派遣した。これに対し全日空側は営業担当役員、それに企画、調達、運送サービスの各部門の幹部五、六人が会議に出席した。席上、ダ社のチーフデザイナーが示した機内装飾のサンプルをもとに、客室パネルや座席、カーテン、カーペット類のデザイン、色調などを検討したという。この会議で検討したデータに基づいて全日空が採用するDC10の機内デザインが決まったというように言われておるわけですけれども、この事実を三井物産側は御承知でございますか。
  117. 石黒規一

    石黒証人 承知しております。それは、うちの担当者もそれに全部同席しております。
  118. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 その会議は、いつ、どこで行われたか御存じでございますか。
  119. 石黒規一

    石黒証人 霞が関ビルの全日空の本社で行われた場合と、それから羽田の事務所で行われた場合とあるようでございます。  日にちは、どうも夏ごろということで、何月何日というのがとうとううちの連中が調べ切れなくて、大体夏ごろだったと言っておりますが……。
  120. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 私どもの調べでは、四十五年十月中旬というように把握をしておるのですけれども、夏から秋へかけてというようなことも言われておりますけれども、これはいろいろその後も石黒さんとしては、社内の関係者から事情を聴取しても記録その他が明らかでないということでございましょうか。
  121. 石黒規一

    石黒証人 私も再三念を入れて何月であるか正確に調べろと言ったんですが、ついにわからなかったのでございます。
  122. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 私は、四十五年十月と、こう言っているのですが、四十五年は間違いありませんか。
  123. 石黒規一

    石黒証人 四十五年は間違いないと思います。
  124. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 同じ四十五年の十一月五日に、全日空は輸送サービス部門の幹部をアメリカのロングビーチのダグラス本社に派遣して、内装の仕様をダグラス社に伝えるとともに、最後の詰めをした。このためダグラス社DC10機を全日空仕様に仕上げる内装作業をスタートさせた。こういうことになっておりますけれども、この事実について三井物産側も御承知でございますか。
  125. 石黒規一

    石黒証人 承知しております。
  126. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 これはダ社の代表が数名、チーフを筆頭に来日をし、霞が関ビルと言えば全日空の本社かと思います。さらに羽田といえば羽田の全日空営業所か何かだと思いますけれども、そこで詳細な打ち合わせを行い、その上さらに全日空の代表がダグラス社の本社に出向いて最後全日空仕様の仕上げを打ち合わせをしたということになりますれば、これはなるほど文書はその一そろいしかないとはいうものの、まさに三井物産もあるいはダグラス社全日空に採用はもう決定的だ、先ほどいみじくも証言にありましたけれども、九九・九%間違いないと判断してあたりまえだと思うのですけれども、どうしてそこまで行ったのがだめになったのでございましょう。率直に——これは国民が知りたいのですよ。私だけではないと思う。お答えください。
  127. 石黒規一

    石黒証人 私は何回も全日空を訪問いたしまして、例の注文が決定する四十七年の十月にも若狭さんにお会いしていろいろお話を聞いております。見込みがないのかどうか、絶対そういうことはない、両方とも一長一短あるけれども、最終的になかなか決めかねているんだということで、実はその十月というのは、私の目から見れば、非常に状況が悪くなってきておった時期なんでございます。ということは、四十七年の五月、六月、七月でしたか、ダグラスが続けて事故を起こしまして、エンジンがすっ飛んだり貨物機のドアが飛んで人が吸い出されたりというようなことがあって、かなり問題にされました。こういう大きな事故がなければ、恐らくダグラスを採用しないという理由はつかないんじゃないかと思うくらいにいろんな面で確実だと思っておったのですが、その事故が起きてから非常に形勢が悪くなりまして、メーカーを呼んだりいろんなことをして、対策の説明をさせたり、いろんなことをしましたけれども、当時ロッキードの方には余り落ち度がなかったということで、最終的にロッキード採用になった大きな原因がそこにあったんじゃないかとも考えておるわけですが、その事故が起こるまではもう確実に大丈夫だと思っておったのです。
  128. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 DC10にも事故がありましたけれども、トライスターも全く無事故であったというわけではないのでありまして、この点はかなり良心的に解釈をされているようでございます。私どももまた牽強付会に物事を曲げて三井物産側の考えを聞く意思もありません。  ただ、ロッキードが競争相手として出てきたのはいつでございましょうか。これは来たな、ロッキードはすごいなとお思いになった最初はいつごろでございますか。
  129. 石黒規一

    石黒証人 私がはっきり競争意識を感じたのは、デモフライトにロッキードがやってきた。それまでは多少話を聞いておっても、あんまり切実感を感じていませんでした。
  130. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 デモフライトはトライスターもDC10も時期は同じであって、おたくとしてはDC10のデモフライトは当然だけれども、まさかロッキードのデモフライトはあるまいというように思っていたんでしょうか。
  131. 石黒規一

    石黒証人 そこまでは考えておりませんでしたが、デモフライトに来るということを聞いて、初めてこれは大変だという感じはしました。
  132. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 話が飛びますけれども、そういうことがあって、これは全日空はあかぬということで、急遽おたくの組織を動員して、あるいはイギリスにあるいはトルコに転売することになるわけでありますけれども、これはいつごろどういう方法でおやりになったのでございますか。
  133. 石黒規一

    石黒証人 ロッキードがデモフライトに来たのはもう大分後のことで、四十七年に入ってからでございますが、私の方が転売を始めたのは四十六年の五月からでございます。ということは、ダグラスが売れないということではなくて、三井物産で手配しておった納期の早いものは全日空には早過ぎるから、それは少なくとも他へ転売しなくちゃならぬということで、納期の早いものの転売を考えて四十六年の五月から運動を開始したわけでございまして、大部分はダグラスの方の情報に基づいて、どことどことどこに引き合いがある、あそこに行ってみようじゃないか、ほとんど全部ダグラスが主体になって、うちの方がニューヨークから人がついていく、あるいはときに東京からも行きましたけれども、大部分の交渉はダグラスがやってくれております。
  134. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 もう一つの全日空売り込みをあきらめた理由として、昭和四十六年十月、ANAアメリカ、全日空の子会社でありますけれども、米国カリフォルニアのロッキード本社の近くに実は全日空が子会社をつくりました。この事実を知ったときも、これはという感じをお持ちになりましたか。
  135. 石黒規一

    石黒証人 はなはだ恥ずかしい話ですが、それは私、聞き損なってしまったんです。気がつかなかったんです。検察庁で同じ御質問がありまして、実は知らなかったということでございます。
  136. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 神ならぬ身の全部を知っているわけもございませんので、そういう事実もあって、この当時すでに全日空はトライスターへ急傾斜していったというように私どもは考えているわけであります。  そこで、三井物産が所有しておりました全日空の株を東急電鉄へ売却になりましたね。その時期はいつで、何株でございますか。
  137. 石黒規一

    石黒証人 これも実は余り正確ではないのですけれども、四十八年の夏ごろから始まったんじゃないかと思っております。何月何日ということはちょっと覚えておりません。それで、何回かにわたりまして、きょう現在までに当時物産が持っておった持ち株の約半分くらい、ですから千六百万か千五百万株くらいを売っているんじゃないかと思います。
  138. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 詳細なことは後ほどまた承りますけれども、そのかわりというと何でございますけれども、阪急電鉄が所有しておりました東亜国内の株を三井物産は取得をされておりますね。その年月日と株数はどのくらいですか。
  139. 石黒規一

    石黒証人 これもいつごろであるかということは正確でないのですが、ちょうど最初に全日空の株を東急に渡したのと交換に東亜国内航空の株を取得しております。  それで、株数も余り正確じゃございませんが、お互いにお金を出し合わないで、現物で交換してちょうど金がパーになる程度の金額にしようということで、東亜国内航空の株が当時まあ一株千二百円と判定しましたか、それでその株数が百万か百十万株ぐらいじゃなかったかと思うのですが、それに見合いのものを全日空の株を東急に渡したというような、非常にうろ覚でございますけれども。
  140. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 私の調査では、昭和五十年三月期の有価証券報告書に基づくものでございます。その報告書によりますと、これは五十円株、五百円株等の関係で、株数についてはつまびらかではないのでありますけれども、五十年三月期に全日空の株千百八十七万七千株、金額にして十四億六千五百九十万円、東亜国内の株、阪急電鉄所有の百二十一万六千四百七十株、金額にして十四億五千八百万円、まさにほぼ等価でございますが、これをまあ交換するような形で株券が往来いたしております。  冒頭陳述にもございましたように、全日空はもともと三井物産の子会社であったというようなことから、三井物産全日空の大株主であることは承知いたしておりましたけれども、どういう理由物産全日空の株をかなりの株数手放す気持ちになったのか、そしてまたその身がわりと言ってもいいと思いますけれども、東亜国内の株を取得されるお気持ちになったのか、いかがでございますか。
  141. 石黒規一

    石黒証人 もともと全日空の株を売るという考えは当初はなかったのでございますが、東急の五島社長昭和四十八年の一月に若杉社長を訪ねてこられた。当時若杉さんは三井記念病院に入院しておられまして、病院での会談に私が立ち会ったわけでございますが、ちょうど東亜国内航空から引き合い中のDC9がほぼ採用になるという線が出てきたころでございますが、東亜国内航空の一番の大株主は御承知のように東急でございまして、五島さんはこの会社の経営状態が余りよろしくないし、資金的な負担が大分かかるということで気にしておられましたが、もしダグラス注文が行くのなら、代理をやっているのは三井物産だから、三井物産に何がしかの資金援助を頼めないだろうかということが五島さんの一番の関心事だったと思いますが、そのことを最初に若杉社長に言われまして、それはできる範囲において物産としても協力いたしましょうという返事を若杉社長がされましたけれども、第二番目に、ついては、いずれ行く行く物産は東亜国内の株主になっていただいて、その会社の経理内容、経営状態を把握しておかれることがやはり必要ではないかと思う、ついては東亜国内航空の株はそうやたらに売り物はないけれども、もし物産が株主になりたいというときには、自分の方で東急グループで持っている株もあるし、いろいろなチャンスにおいて物産に株をごあっせんする用意がありますという話がありまして、それからもう一つ、ついでに出た話として、大変自分は全日空について執着があるのだ、東亜国内航空の株をごあっせん申し上げるが、それと交換条件という意味じゃないけれども、できたらば三井物産の持っている全日空の株を許される範囲でひとつ譲ってもらえないだろうかというような話がありまして、それもすぐに確定的な御返事をする必要はなかったわけですが、一応三つの問題をひっくるめまして前向きに考えてみましょうという返事を若杉社長はされました。それがきっかけでございます。
  142. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 五島昇氏と若杉さんとのやりとりであって、これに第三者が介入して株の往来が実現をしたという事実はありませんか。
  143. 石黒規一

    石黒証人 全然ございません。
  144. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 本日の新聞報道によりますと、三井物産ダグラス10の契約破棄についてダグラス社に四億五千万円にも上る違約金を取られたという報道がされております。これは事実でございますか。
  145. 石黒規一

    石黒証人 新聞記事は非常に間違いが多いので困るわけです。オプションというものについての御説明がまだ済んでおりませんけれども、確定注文を何機、それからオプション機何機という注文をする場合に、そのオプション機はある時期になったらば確定注文に切りかえるか、あるいは全く要らないということのいずれかを決めなくちゃいけないわけです。確定注文になった場合にはチャージは一文もかからないのですが、もしオプション機を全然買わないということになった場合には、キャンセレーションチャージというものを払うという仕組みになっておるわけです。それが飛行機の価格の〇・五%チャージとして払う。それは全日空の方もオプションを含めてダグラスに手配をされるときにそういうものがかかるということは百も承知しておられたわけで、結局転嫁できないまま三井物産でそれを負担したということでございますが、違約金とは違うわけでございますから、新聞にお書きになるときにはそういう用語について十分御注意をしていただきたいと思います。
  146. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 内容は何にせよ、とにかくおたくがもうけたわけじゃない、損失の意味の金が出ていると思うのですけれども、金額は幾らでございますか。
  147. 石黒規一

    石黒証人 六機全部処分いたしまして、最終的のそろばん勘定では約二百八十万ドルくらいの損になると考えております。
  148. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 商取引、特に航空機関係取引についての常識的なものがあって、そういう種類のものであって、違約金ではないけれども、しかしかなり多額な出費をこのことによって三井物産はしたという事実は間違いないことが明らかであります。  最後に、全日空ダグラス10の採用をあきらめた背景に、いまは亡き若杉社長があなたに、ひそかにでもいいし、公然とでもいいけれども、どうして全日空はこういうことをやったのかというような話はありませんでしたか。
  149. 石黒規一

    石黒証人 いまの御質問の後半がちょっとわかりにくいのですが、若杉社長はどういうことを言われたかということ……。
  150. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 DC10をおたくが中心になってあそこまで進めておいたのに、全日空ロッキードに決めたわけですね。その背景にはいろいろなことがあったと思う。事故のこともあった、価額のこともあった、納入の条件のこともあった。しかし、そのほかに何かあなたにひそかにお漏らしになったり、あるいは特にお漏らしになったことはありませんでしたかということです。
  151. 石黒規一

    石黒証人 ございませんでした。
  152. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 終わります。
  153. 田中伊三次

  154. 野間友一

    野間委員 じゃ、お尋ねいたします。  四十四年の七月ごろから大庭氏から頼まれてダグラス社DC10の飛行機確定発注ないしはオプションをやられた。最終的には確定発注大庭氏からの四機プラス三井物産のリスクで二機、あと四機のオプション、これは間違いございませんね。
  155. 石黒規一

    石黒証人 間違いございません。
  156. 野間友一

    野間委員 先ほどの証言の中で、その後スペック、これは内装の仕様も含めて実務担当者との間で話を詰めて、全日空の方からダグラス社にも出かけるし、ダグラス社からも日本に出かけて話を詰めるということもやられておった。しかもこの交渉は若狭社長になった後もやっておられたわけですね。
  157. 石黒規一

    石黒証人 そのとおりでございます。
  158. 野間友一

    野間委員 この六機の確定発注と四機のオプション、これに関連してとりわけ確定発注については手付金ですね、これは一度にはなかったと思いますけれども、二〇%の手付をお支払いになった。間違いございませんね。
  159. 石黒規一

    石黒証人 一番最初が二・五%から始まりまして、出来高に応じて逐次払っていって、飛行機を受け取るときには一〇〇%の支払いになるわけでございます。
  160. 野間友一

    野間委員 お伺いしたいのは、二〇%の手付をお支払いになった、これは間違いないかどうか、この点。
  161. 石黒規一

    石黒証人 いま申し上げましたように、二〇%まとめて払ったということではございません。何カ月たてば次の二・五%払え、何カ月たてばあと幾ら払えということで、製作に従って逐次払っていって、最終的に飛行機が完成するころまでには大体一〇〇%払うような結果になるわけでございます。
  162. 野間友一

    野間委員 それじゃ、幾らお支払いになりましたか、現金として。
  163. 石黒規一

    石黒証人 六機で約一億ドルでございましたかな。だから、それに近い金額を払っていると……。恐らく、私も実はちょっと正確な数字を覚えていないですが、予備品だとか、いろいろなものを除いて機体本体の値段で言うと、もうちょっと安いかもしれませんので、そんなに多くはないかもしれませんけれども、数千万ドルということになっております。
  164. 野間友一

    野間委員 若狭さんが大庭さんにかわって社長になられた、これは四十五年の六月のことでありますけれども、そうしてその後、表敬訪問を兼ねてというお話がありましたけれども、要するに、あなたと若杉社長が若狭さんのところに行かれた、こういうことですね。そうしてこのときの話の内容ですけれども、法的あるいは道義的に責任があるのかないのかということが若狭社長の方から出された、こういうお話でありますけれども、その前に、先ほどからずっと証言が続いておりますけれども、その大庭社長当時のこのDC10の注文あるいはその後の経過、これらについてはあなた方が若狭社長に会われたときには、すでにそれらの経過、内容については若狭さんは知っておったというふうに思うのですけれども、いかがですか。
  165. 石黒規一

    石黒証人 何も知らなかったらそういう質問が出ないと思いますが、正確に御存じだったら、またそういう質問も出なかったのじゃないかと思います。
  166. 野間友一

    野間委員 あなた方がお会いになる前に、当時の航空機部の参与で灘波清一さんという方がおられるわけですけれども、この方が若狭さんにお会いになって、そして大庭社長当時の先ほどから証言された経緯を話された。これに対して若狭社長は、いまさら古い話を持ち出すなら、ダグラス社DC10を機種選定の対象にしてやらないぞ、こういうことで若狭社長が灘波氏に応答したということは間違いございませんね。
  167. 石黒規一

    石黒証人 灘波君と若狭さんの間でどういう話がされたかというのは、実はいろいろ取りざたされておりまして、私も地検で聞かされたわけです。それで本人を呼びまして、どういう話をしたか、正確に君ぼくに話してくれと言うて、聞きましたのがきわめて最近の話でございますが、彼は部長ではなかったから、売り込みということは考えてなくて、技術担当ということで、全日空がいつスペックを決めてくださいますかということだけを若狭さんに話した。そのときに、大庭さんは六月までにはスペック決めると言っておられましたよということを一言つけ加えたので、若狭さん非常にごきげんを悪くして、大庭さんのことこれから二度と言わぬでくれ、というようなことだったそうでございます。
  168. 野間友一

    野間委員 それはあなたはお隠しになっておる。灘波氏がその経緯をすべてしゃべって、それに対していま私が申し上げたことを若狭さんが応答した。灘波氏も五、六時間検察庁で調べられて、これらの点の詳細についてはしゃべっておるはずです。あなたも灘波氏からそのしゃべった内容については報告を受けておるはずです。いかがですか。
  169. 石黒規一

    石黒証人 最後ちょっとはしょりましたけれども、非常に憤慨されて、大庭さんのことを言わぬでくれ、そういうことを言うと機種選定から外さざるを得ないよということは言われました。
  170. 野間友一

    野間委員 これもまたいろいろ問題があります。あなたとしては非常にお隠しになってここでしゃべっておられる、これは事実ですけれども、少なくとも若狭氏はそれらの経緯については知っておったから若狭氏がそういう話を出してきた。これはもう当然の話ですね。
  171. 石黒規一

    石黒証人 私はいま申し忘れたことを除いて、何か隠して話しているというように言われましたけれども、それは一切ございません。  それから、灘波君が若狭さんに言われたことは、全日空のために飛行機をうちはリザーブしてますなんということは一言も言ってないわけです。機種選定ということに絡んで早くスペックを決めてもらわなければ、新しく売り込むという場合においても、ダグラスはどういうスペックのものをお買いになるんですかということで事務レベルではしょっちゅう連絡はしておったわけで、たまたま若狭社長に会ったときに、灘波君がスペックはいつ決めてくださるんですかという話をしたわけで、これは新しく飛行機をお買いになるという話について質問しているわけで、前に買われた飛行機というものに一切触れておらないわけです。
  172. 野間友一

    野間委員 いや、大庭氏があなたが先ほど証言されたようなことを——いやいや大庭氏のころです。そのことを灘波氏が若狭氏に言って、若狭氏からいま私が申し上げたような返事があった、これは間違いない事実です。  それじゃ続けますけれども、結局トルコ航空あるいはレーカー社に転売をされて、それから手付の支払いからあるいは手数料、金利等々、差し引き差損金が二百八十万ドル、こういうことですね。
  173. 石黒規一

    石黒証人 損益計算の中身は非常に複雑でございますが、きわめて簡単に言いますと、結局、前金前金を払っていったその金利負担がかなりになっている。そのために締めてみたら赤字である。口銭は結構もらっておりましたが、トルコ航空の場合は非常に買いたたかれました。それから日本向けにつくられた仕様を一部トルコ向けに、あるいはレーカーの場合もそうですけれども、改装するために費用がかかっているというような点が皆採算に影響しております。
  174. 野間友一

    野間委員 この最初の大庭氏との話し合いについて、証人は、大庭氏が日本航空の早い納期のものを押さえたい、こういう申し入れがあったのだという証言がありましたけれども、これはどういうことでしょうか。
  175. 石黒規一

    石黒証人 言葉じりは多少違うかもしれませんけれども、恐らく日本航空で押さえておられた四十七年三月、五月、六月というやつがあの当時日本向けとして手に入る一番早いものでなかったかと思うのですが、それをそっくり自分の方でいただきたいという意味発言だったと思います。
  176. 野間友一

    野間委員 そうしますと、四十四年の七月に大庭氏との話し合いを始められたわけですから、その以前に日本航空が押さえておったということになるわけですね。
  177. 石黒規一

    石黒証人 押さえておったというよりも、引き合いをもらって見積もりを出して、一号機は何年何月に完成するものを納めますという意味のプロポーザルを出しておった、それでございます。
  178. 野間友一

    野間委員 どうなんでしょうか。四十四年七月以前に日本航空DC10を発注注文しておったという事実をいまの時点で御存じでしょうか、いかがですか。
  179. 石黒規一

    石黒証人 事実はなかったというぐあいに私は信じております。
  180. 野間友一

    野間委員 信じられるのはいいんですけれども、あなたの方としてそういう事実を知っておられるかどうか。いかがでしょうか。
  181. 石黒規一

    石黒証人 そういうことはなかったというぐあいに考えております。
  182. 野間友一

    野間委員 それはあなたの考えということでしょうね。——それじゃ、いきます。  飛行機にはいろいろと番号がございますね。一番最初につく飛行機の番号はシリアルナンバー、こういうわけですけれども、これはいわゆる生産計画の段階で運航会社より確定ないしは仮注文を受けたときにつける番号、これがシリアルナンバー、これは間違いございませんね。
  183. 石黒規一

    石黒証人 そういうことだろうと思います。
  184. 野間友一

    野間委員 したがって、このシリアルナンバーというものは、後から注文して番号をさかのぼるということはできないものですね。
  185. 石黒規一

    石黒証人 多分そうだろうと思います。
  186. 野間友一

    野間委員 そのほかにフューズレージナンバーというのがございますね。これは工場サイドで製造するときに機体につける番号というものでございますね。
  187. 石黒規一

    石黒証人 いま何とおっしゃいましたか。
  188. 野間友一

    野間委員 フューズレージナンバー。
  189. 石黒規一

    石黒証人 それは存じておりません。
  190. 野間友一

    野間委員 それではお聞きしますけれども、四十八年の十二月に日本航空が社内で決定して、DC10六機を発注しております。これは正式な契約調印は四十九年の六月になっておりますけれども、これは御存じですね。
  191. 石黒規一

    石黒証人 十月に決定したかもう少し後だったか、私は十二月と聞いておりますが(野間委員「十二月です」と呼ぶ)それは聞いております
  192. 野間友一

    野間委員 この六機のシリアルナンバーは御存じでしょう。
  193. 石黒規一

    石黒証人 存じておりません。
  194. 野間友一

    野間委員 日本航空の中での文書、これを私、取り寄せておりますけれども、これによりますとこのシリアルナンバー、これが四六六六〇から四六六六二まで、六〇、六一、六二、この一つのグループと、それから四六九一三、四六九二〇、四六九二三と、ざっと分けますと二つのグループに分かれておるわけですね。そして番号の早いのと遅いのとあるわけですけれども、これは先ほどもあなたも認められましたけれども、シリアルナンバーですね、これは注文した時点で番号をさかのぼることはできないという性格のものですから、あなたの方として、当時はすでに代理店契約を結んでおられるわけですから、このシリアルナンバー、これからしてさきの四六六六〇から二、これはずっと以前に発注しておったということが当然ここから出てくるわけですけれども、間違いございませんね。
  195. 石黒規一

    石黒証人 いまの理論は全然私には理解できません。
  196. 野間友一

    野間委員 理解できないということは、どういうことでしょうか。
  197. 石黒規一

    石黒証人 私自身がそのシリアルナンバーがどういうぐあいにつけられるかということも知らないし、いま野間さんの御説明もよくはわからないのです。
  198. 野間友一

    野間委員 先ほどあなたは私の質問に対しまして、シリアルナンバーはそのとおりだ、ただしフューズレージナンバーというのは自分はよくわからない、こういうお答えでしたね。ですから、私が申し上げておるのは、シリアルナンバー、これについてお聞きしておるわけです。これはあなたの方で、三井物産代理店でこれに関係しておられますから、この番号は生まれて死ぬまで飛行機の番号として変わらないわけですね。これをごらんになれば、これはいつごろ発注したということがこれで明らかになるわけでしょう。
  199. 石黒規一

    石黒証人 いまおっしゃいましたシリアルナンバーは何けたか非常にたくさんのけたになっておりますが、私たちが聞いておるのは、そんな大きなけたの番号はいまだ耳にしたことはございませんで、いま恐らく全部で受注している数量は二百六十何機ぐらいのところで、オプションを除いても二百三、四十機だろうと思うのです。その二百三、四十機の受注に対してどういうようなシリアルナンバーがついているかということもいま初めて伺ったわけでして、私が知っているのは、全日空向けの二九番、三三番というような番号は知っておりますけれども、日本航空が四けたも五けたもするシリアルナンバーを持った飛行機が出てきているというのは、きょう初めて伺うので、よくわからないわけでございます。
  200. 野間友一

    野間委員 これは航空業界の常識なんですけれども、耐空証明をとるときにつけるナンバーがこのシリアルナンバーですね。これは運輸省にも確認しておるわけです。  それで、例の米国三井物産を介して注文された六機、これの番号も調べてみますと四六七〇四、七〇五、七二七、それから四六九〇五、九〇六、九〇七、この六機になっておる。これはシリアルナンバーですね。ところが、四十八年の十二月に決定されて注文された日本航空DC10、これについてはいま私が申し上げた番号よりも古い番号ですね。四六六六〇から一、二というのがあるわけですね。そうしますと、当然米国三井を介してやられたこのときよりも以前に日本航空が三機については注文しておったということが、このシリアルナンバーからうかがわれるわけですけれども、石黒さんもずっと常務としてまた航空機担当で長いわけですから、こういう事実については御存じのはずだと思うのですけれども、いかがですか。
  201. 石黒規一

    石黒証人 残念ながら全く存じておりませんでした。
  202. 野間友一

    野間委員 ダグラス社からことしの二月一日に出したイラストレーテッド・パーツカタログというのがありますけれども、これを見ましても、全部いま申し上げたシリアルナンバーがずっとつけられておる。しかもこれが注文した順序に応じて並べられておるわけですね。これは三井のものもありますし、日本航空のものもあります。トルコに転売されたらそれはそのまま同じシリアルナンバーがこれに登載されております。ですから、これは証人が御存じないというのはどうも私は解せないわけですけれども、いかがですか。
  203. 石黒規一

    石黒証人 最初に御質問を受けたときに申し上げておりますように、当時代理店でなかった、だからそういうものを知る立場でなかった。後で全日空大庭さんがオプションをやるときに、ダグラス社が用意してきた資料がちょうど日本航空引き合い中のもので、出しておったものを焼き直して、名前を入れかえて持ってきたのだという説明を私は信じておるわけでございますが、この問題については私たちよりも日本航空なりダグラス社をお調べになる以外にないのだと思います。
  204. 野間友一

    野間委員 私はこれらの経緯、つまり日本航空注文あるいは米国三井物産の問題については証人もしゃべられましたけれども、日本航空の問題について、水上さんというようなトップレベルの人だけでなくて、当然常務あるいは副社長を経歴された石黒さんならば、もう十分その事情は御存じのはずだというふうに考えておるわけです。  そしてお聞きしたいのは、一つは六機の確定発注を含めて四十四年の七月から四十五年にかけてやられた。これが一時にやられたものであるか、あるいは数回に分けてダグラス社注文されたものであるかということ、これはどっちかということが一つ。  それから、いろいろな経緯の中で結局三井物産が差損金——損害を受けた。ところが、これらについてはどうも社内で責任問題が追及されていない、そういうふうに思うのです。これはどうも不自然じゃないか、何かあるのじゃないかというふうに思えて仕方がないのですけれども、いかがですか。その二点。
  205. 石黒規一

    石黒証人 何回かに分けてということは、全日空のことでございますね。それは大庭さんが最初に三機プラス四機で始まって、二カ月たってから四機プラス六機になって、それから翌年の十月で六機プラス四機に変わった。その変わったたびごとに新しくファームになった航空機に対して前金の二・五%は支払われていった、そういうスタートでございます。  それから最終的にかなりの赤字が出た。それで社内的にそういう失敗をした人の責任が追及されていないというお話でございますが、私どもはこれは不可抗力的な問題ではないかと考えております。もともとこれは担当者レベルで勝手にやったということよりも、最高首脳部がともどもこの仕事にはインボルブされて、すべて社長の御判断も仰ぎながらやっておったということもございまして、現在はお亡くなりになっておるわけでございますが、責任の追及は不適当な問題じゃなかったかと思います。
  206. 野間友一

    野間委員 もう時間がそうありませんけれども、四十七年の十月二十四日に若杉社長が当時の田中総理、ここを訪問されておる。これはその前に、同じ日の時間の少し前に若狭社長が首相官邸を訪ねて田中総理と会っておるわけですけれども、若杉社長田中総理を官邸に訪ねたということ、これはもう当時の新聞記事にも首相官邸のハコ版のところに出ておりますし、御存じのはずだと思うのでございますけれども、これはどういうような話し合いがなされたか、ちょっとお聞きしたいと思うのです。
  207. 石黒規一

    石黒証人 それは私も若杉さんにお供して行ったわけでございますが、九月に訪中ミッション、若杉さんを大将にして私も、あと副社長が二人に常務が一人に取締役その他全部で八名で中国に参ったわけですが、その九月に訪中するに先立ちまして、総理が遠からず訪中されるという話も伺っておったので、若杉社長は総理にごあいさつかたがた何か御注意とか伺っておくことはございませんかという意味で表敬されております。それで、帰ってからまた同じような意味で総理に向こうの事情をお話ししたり多少ことづけ的なこともあったようでございますが、それをしに参られた。たまたまそのときに全日空のお二人が私たちの前で——それで大抵普通だったらすぐ会えるんでしょうけれども、大分待たされたんです。で、お二人がおられたということを聞いたわけでございます。
  208. 野間友一

    野間委員 どうも私の疑問は、全日空に対するそれだけの作業を進捗をしながら、これが売り込みが失敗した。しかもリスクですね、損害が、差損金ですけれども、差し引きしますとかなり損害を受けられた。二百八十万、大変な額だと思うのですね。しかもこれらが、トップレベルだということで言われましたけれども、表ざたにされていない。しかも責任がとらされていない。特に石黒さんはその後に副社長になっておられるし、それから当時の灘波さんも部長待遇参与に昇格されておるわけですね。よう考えてみますと、その後に東亜国内航空DC9が入れられておる。さらにDC10、これは日本航空に先ほどの四十八年の十二月以降入っておるということから、何でも商社とそれから航空三社ですね、これらの間に利害の調整がなされた、そしてそのことが一連の田中総理との会談で話し合いをされたのでなかろうかという強い疑惑を私は持つものなんです。しかも檜山丸紅社長も八月と十二月にやはり首相官邸で会っておられるわけですね。これらの点については恐らく水上さんでなくても、ぼくは石黒さん御存じだろうと思ってお聞きしたわけですけれども、これらの点についてはぜひ理事会で、さらにトップの水上さん等も証人としてひとつお調べ願いたいということを申し入れまして、一応終わりたいと思います。
  209. 田中伊三次

    田中委員長 坂井弘一君。お待たせしました。
  210. 坂井弘一

    ○坂井委員 日本航空ダグラスの間ではオプションはなかったようだとあなたは先ほど証言されたのでありますが、なかったようだと証言されるその根拠は何でしょうか。
  211. 石黒規一

    石黒証人 なかったようだという言葉は申し上げないように私、記憶しておりますが、もっと詳しく当時の事情を御説明したはずでございます。
  212. 坂井弘一

    ○坂井委員 結論から申しますと、知らなかったということですか。あったかなかったかについてはあなたは全然御存じないということでしょうか。
  213. 石黒規一

    石黒証人 日本航空でございますね、いまの御質問は。——私いま先ほど申し上げたのは、全日空と間違えましたから、失礼いたします。日本航空のことは全く関係がなかったので、知らなかったのでございます。
  214. 坂井弘一

    ○坂井委員 四十四年の初めにダグラス社日本航空に対しまして条件提示をしたというようなことが伝えられるわけでございますが、そのようなことにつきましても三井物産としては何ら知らなかったということでしょうか。
  215. 石黒規一

    石黒証人 いまのも日本航空でございますね。——全然存じませんでした。
  216. 坂井弘一

    ○坂井委員 それでは、これまた先ほどあなたの証言によりますと、四十四年の七月の二十五日に日本航空DC10を断念をしたその直後、大庭氏からの要請で、ダグラス社の紹介の要請があったという証言でございますが、三井物産から、日本航空が押さえていたこのDC10がだめになったので全日空の方で買わないかというような話を、全日空の方に持ちかけられたというようなことはございませんか。
  217. 石黒規一

    石黒証人 私の方から持ちかけたという話は聞いておりません。なかったと思います。
  218. 坂井弘一

    ○坂井委員 ダグラス社の方から、日本航空がだめになったので三井物産から全日空に働きかけてくれというような要請もございませんか。
  219. 石黒規一

    石黒証人 そのこともなかったように思います。
  220. 坂井弘一

    ○坂井委員 では、伺いますが、先ほどの経緯を伺っておりますと、四十四年の七月の二十九日に確定発注が三機、オプションが四機、計七機ということで決まるわけでございますが、この場合の確定発注三機分につきまして頭金の問題はどうだったでしょうか、ないし手付金。
  221. 石黒規一

    石黒証人 頭金はレターオブインデントに、契約調印してから十日以内に払えという条件がそのレターオブインデントに書いてありますので、八月の上旬に米国三井物産はこの三機分の頭金を払っております。二・五%ずつ。
  222. 坂井弘一

    ○坂井委員 つまりその場合に、米国三井物産をして頭金を支払わせたということは、外為法の関係がある、外貨割り当て関係がある。こういうことでもって米国三井に頭金の支払いを三井本社が命じて行わせた、こういうことでしょうか。
  223. 石黒規一

    石黒証人 先ほど御説明申し上げましたように、大庭さんの話をすぐ若杉さんが米国三井物産に電話して相談されて、米国三井物産当事者となって飛行機の買い付けをするかどうか、結局それは非常に売れているし、引っ張りだこの飛行機であるからということで、米国三井物産は自分の責任においてやりたいということで、米国三井物産が取り上げてこの仕事をやったわけでございます。
  224. 坂井弘一

    ○坂井委員 その場合に、大庭氏から特に、これは外貨割り当ての問題があるから三井物産本社ということではぐあいが悪い、そこでとりあえずは米国三井店とダグラス社の間においてこの契約を行ってもらいたい、全日空としては、四十五年にはこのDC10を導入したい、もしそれができなければ一年間リースしてでも、四十六年まで待ってでも、外貨割り当てが四十六年ということに仮になった場合ですね、リースをしてでもつないでもらいたい、なおそれでもだめな場合には他の航空会社に転売をするというような方法もあるのではなかろうかというような強い要請大庭氏からなされたかどうかについて、あなたは御存じと思いますが、いかがでしょうか。
  225. 石黒規一

    石黒証人 そういう細かいことは大庭さんはおっしゃらなかった。非常に大庭さんは単純な方でございましてね、ともかくつばつけて押さえてくれ、外貨割り当てがどうのこうのというようなことまで気の回る方じゃなかったわけです。大庭さんの言うとおりにしようと思っても、合法的にはできない、だから米国三井物産が自分の意思でもって買い持ちをするのならばこれは合法的にやれるということで相談して、米国三井物産がやるということで初めて私の方が引き受けたような形になっているわけでございます。
  226. 坂井弘一

    ○坂井委員 さて、次の段階では、四十四年九月に大庭氏からの要請確定三を一ふやしまして四つ、それからオプションの四つの分につきましては二つふやしてこれを六つにする、これは大庭氏からの要請であった。そこで四十五年の十月には、つまり若狭氏が社長就任後でありますが、この時点でさらに確定を六にいたしましてオプションを四にした、ただしこれは三井物産判断である、この三井物産判断は少なくとも米国三井物産との間における判断であった、こういう証言であります。  その問題に入ります前に、実はこの中間、つまり四十五年の三月段階があります。これはさきの大庭氏の証言によりますいわゆるオプションがあった、同時に若狭氏はなかった、この場におきまして真っ二つにオプションの有無をめぐって対立をいたしましたことはあなたもよく御存じのところであります。  そこで、この四十五年三月のオプションの問題について伺いたいのでありますが、この四十五年三月、一体なされた場所はどこでしょうか。
  227. 石黒規一

    石黒証人 大庭さんが飛行機を押さえてくれと言われまして、いわゆるオプション契約をしたというのですが、実際にはレターオブインデントダグラス三井物産サインして渡したということは、四十五年ではなくて四十四年の七月でございまして、四十五年の三月とか四月というのは、その後全日空の方の正式注文書がなかなか出てこないので、ダグラスの方も気をもんで、政府の許可はどうでしょうか、注文書はいつごろいただけるのでしょうかという意味で、ダグラス社長が来日したときにもう一度首脳部会談をやったわけでございます。それが四十五年の三月か四月でございますが、そのときに全日空の方は大庭さん、それから三井物産の方は若杉さんともう一人の担当者、それから、それと担当常務、井上常務が同席だったのじゃないかと思いますが、あとはダグラスの方のマクゴーウェン社長外全部で八名くらいで、霞が関の月曜会クラブで会っております。そのときは、だからオプションをやったのじゃなくて、正式の注文書はいつごろになりますかという督促を兼ねてダグラスが来て大庭さんに会った。大庭さんはそのときに、四十五年の九月ごろにはお役所の承認もとれるだろうし、とれ次第注文書を出しますよ、まあそう心配なさるな、確実にそういったことはうまく進むでしょうというようなお話のようでございました。
  228. 坂井弘一

    ○坂井委員 あなたはその席には同席をされましたですか。
  229. 石黒規一

    石黒証人 私はまだダグラス商売関係を持っておらなかったのでございまして、大庭さんが退陣して若狭さんが社長になってから私が実務を担当するようになりました。
  230. 坂井弘一

    ○坂井委員 難波氏は同席されておりますか。
  231. 石黒規一

    石黒証人 難波君は同席しておるはずです。
  232. 坂井弘一

    ○坂井委員 この席上で契約書のごときものは交わされておりませんか。
  233. 石黒規一

    石黒証人 それはいつの席上ですか。四十五年の話ですか。
  234. 坂井弘一

    ○坂井委員 三月。三井から……。
  235. 石黒規一

    石黒証人 霞が関ビルでは契約的なものは一切なく、いつごろ注文書が出ますか、いつごろ日本政府の輸入の手続が済みますかというような談合が、話し合いが行われただけでございまして、書類的なものは一切ございません。
  236. 坂井弘一

    ○坂井委員 四十五年十月、この際の確定発注の六機、それからオプションの四機、これの製造番号、正確に御記憶にはございませんか。
  237. 石黒規一

    石黒証人 確定注文の六機は、二九番、三三番それから四七番それから五〇番、八三番、八七番でしたか、なかなか正確に覚え切れないので困っておるのですが、ええと、それで数、合いますかしら、六機。
  238. 坂井弘一

    ○坂井委員 あと四機、オプション分。
  239. 石黒規一

    石黒証人 オプションの四機は覚えておりません。
  240. 坂井弘一

    ○坂井委員 十まで数えたら、十機なんです。それぐらいのことは御用意して御出席されておるだろうと私は思ってお聞きしているわけであります。
  241. 石黒規一

    石黒証人 オプションの番号はいまだかつて私、耳にしておらないのですが、番号がついておったかどうかも実は存じないのでございます。
  242. 坂井弘一

    ○坂井委員 原則的な、一般的なことをお聞きしますけれども、オプションの場合にはすでに製造番号、これは押さえるのじゃありませんか。
  243. 石黒規一

    石黒証人 何月積みということはもちろんはっきりいたしますけれども、製造にはまだ入っておりませんので、製造番号はつかないかもしれないと思います。
  244. 坂井弘一

    ○坂井委員 では、東京地検の方に提出をされましたいわゆる物産レポート、この中では四十五年の二月にDC10四機をこれは確定発注で、六機がオプション、つまりあなたが先ほど証言されましたその後四十五年の十月にはこれは三井物産判断でもって六機を確定発注にして四機をオプションに変更されておる。こういうことが物産レポートの中で明らかであると伝えられるわけでございますが、これは事実ですか。
  245. 石黒規一

    石黒証人 二機確定注文をふやして六機にしたのは、物産判断でございます。
  246. 坂井弘一

    ○坂井委員 その判断の根拠になったものは、全日空側から何らかの購入意思の表示があなたの方になされたのか、それともそうではなくて、全く三井物産が、恐らくや全日空DC10についての購入は間違いないと、いわゆる先を見込んでこうお決めになったのか、いずれでしょうか。
  247. 石黒規一

    石黒証人 全日空発注するというようなことは一度もおっしゃいませんでした。ただ、認知されてないまま三井物産全日空のために確定注文何機それからオプション何機を持っているということは、全日空の方々は知っておられました。したがって、責任は持たないけれども、全日空のために三井物産がいろいろ便宜を図ってくれていることは好ましいことと判断しておられましたし、自分の方で初年度に買う飛行機は何機だよというような情報くらいはいつでも提供していただいておるわけでございます。
  248. 坂井弘一

    ○坂井委員 六機につきまして、トルコ航空、レーカー航空それぞれ三機ずつ転売いたしますけれども、これが転売の契約が成立した日それから実際に転売の行われた日、これはそれぞれいつでしょうか。
  249. 石黒規一

    石黒証人 レーカーの方が二機と一機と分かれておりまして、最初に決定したのが四十七年の六月に二機決定して、それから最後の三機目は四十九年の一月であったと存じます。  それからトルコ航空の方は三機とも一緒に四十七年の九月であったと思います。  正式契約は、契約書的なものは若干それからずれておると思います。
  250. 坂井弘一

    ○坂井委員 トルコ航空が大変な赤字になったということですが、理由は何ですか。
  251. 石黒規一

    石黒証人 トルコ航空が赤字……
  252. 坂井弘一

    ○坂井委員 への転売分。
  253. 石黒規一

    石黒証人 それは非常に値段をたたかれまして、余り口銭がいただけなかった。したがって、長いこと前金を払ってきて、その金利がかさんでいるために、金利を計算するとかなりの赤字になりました。
  254. 坂井弘一

    ○坂井委員 レーカーの分は相当な利益が出たのでしょうか。
  255. 石黒規一

    石黒証人 レーカーの方はトルコ航空ほど悪くはなかったようでございますが、余り私は細かくは存じませんが、両方一緒にしての計算書を見ておりますけれども、レーカーもそうもうかったというほどではないと思います。赤ではなかったという感じがします。
  256. 坂井弘一

    ○坂井委員 私の手元にも例のあなたから全日空に対して出されました、いわゆる四十六年五月の「ダグラスDC−10型旅客機のこと」という文書がございます。ここで「矢張り」とおっしゃっていますね。この意味は何ですか、真意は。
  257. 石黒規一

    石黒証人 はい。いま発見いたしました。  これはこういう飛行機当社がリザーブしている、これは全日空さんに一番いいんだから買ってくださいよというようなことは日常何回もお話ししておるので、話は向こうでよく知っておる。だからそれを強調して、やはりおたくが買ってくださるのが一番いいんですよという意味でつけ加えただけで、特に意味はないと思います。
  258. 坂井弘一

    ○坂井委員 これは私は意味があると思いますよ、やはり。やはりですよ。やはり買ってもらわなければいかぬ。まあ、いいでしょう、この議論は。  ところが、この後、役員会は開かれましたか。同時に若杉社長のこれに対する対応はどうでしたか。
  259. 石黒規一

    石黒証人 処分をする時点において役員会でいままでのを全部一括して報告しております。
  260. 坂井弘一

    ○坂井委員 役員会で出た意見、これはどうでしょうか。たとえば法廷に持ち出してまでもというような強硬な意見もあったんではないでしょうか。
  261. 石黒規一

    石黒証人 若杉さんがどのような言葉をお使いになったかわかりませんが、その役員会の議事録というものは私も先日見たんですが、若杉さんの概況説明の中に、本件は法廷で争う余地なしとせぬが、というような書き方なんです。しかし、それよりも友好的に解決した方がいいんだ、結論はそういう意味でお話が出ておると思います。
  262. 坂井弘一

    ○坂井委員 時間が参っておりますので終わりますけれども、この際の役員会の議論というものが私は非常に大きな意味合いを持つと思いますので、この際、役員会の議事録を当委員会に提出をしていただくことができないでしょうか。お願いをしたいと思います。
  263. 田中伊三次

    田中委員長 ちょっとお待ちください。それは委員長が取り扱います。議事録、出せますか。
  264. 石黒規一

    石黒証人 全部地検に出してございますので、いま手元にはございません。
  265. 田中伊三次

    田中委員長 それでは、地検から戻った段階で、必要あれば出すことにいたします。
  266. 坂井弘一

    ○坂井委員 その件につきましては後刻理事会で計らっていただきたい。特に地検に提出をした、あるいは押収分もあるかもしれませんが、そうした資料等につきましては、やはり当委員会のこの審議の用に役立てるためにそれを解除してもらうといような手続をとって、委員会に提出できる分については、これは提出の方法があろうかと思いますから、別途理事会において協議をしていただきたいことを要請いたしまして、終わります。
  267. 田中伊三次

    田中委員長 はい。  河村勝君。
  268. 河村勝

    ○河村委員 あなたのこれまでの証言によりましてわれわれが疑問としているところの大筋がわれわれにもよくわかりました。なお疑問の点を二、三お尋ねをいたします。  先般の国会における証言の際に大庭全日空の前社長は、四十五年の三月に自分はダグラス社に対してオプションを行った、それから、そのときには自分がそれをやったのであって三井物産の人は通訳として立ち会った、それと同時に、その場所は全日空社長室である、こういう証言をされておりますが、あなたの証言によれば、それは大庭氏の記憶違いであって、実際に行われたのは四十四年の七月である。それで、そのオプションの主体はこれは全日空ではなくて三井物産である。それから、大庭氏は同時に、ダグラス社とのオプションに自分がサインをした、こう言っているわけですけれども、それも事実ではなくて、その実際のサイン三井物産若杉氏がされたと、そういうことでございますね。
  269. 石黒規一

    石黒証人 いまおっしゃったとおりでございます。
  270. 河村勝

    ○河村委員 そこで、このダグラス社との最初のオプションの行われたのが、正確に言えば、ファームオーダーとオプションが行われたのは、これが四十四年七月の二十九日だと、そういう証言でございましたね。そうしますと、日本航空DC10に関して、エアバス導入に関して選定作業を中止したというのが七月の二十五日でありますね。で、あなたは先ほどの御説明で、三井物産全日空との間、全日空向けDC10の代理店契約ダグラス社との間に結んだのは七月だというお話でありましたが、これは七月の何日であったかは記憶しておられますか。
  271. 石黒規一

    石黒証人 二十九日の会談が済んであわてて契約書の調印をした。つまり三十日かあるいは八月へ入ってからか、ごくそのあたりだと思います。前から代理店代理権は上げますよ、いずれ契約しましょう、ついてはいまから商業活動をやってくださいと言われて、すでに活動はしておりましたわけです。
  272. 河村勝

    ○河村委員 そうしますと、七月二十九日の際には、まだ正式の代理店になっていないにもかかわらず、その代理店としての——代理店としての行動と言ったらどうか、ちょっと言葉は別としまして、このサインをした場合には代理店ではなかったわけですね。
  273. 石黒規一

    石黒証人 契約書はできておらないけれども、もう代理店のつもりでやってくださいという依頼は受けておりましたから、実質的には代理店の扱いになっておったんじゃないかと思います。
  274. 河村勝

    ○河村委員 日本航空が選定作業を中止したのが二十五日ですね。それでこの契約が結ばれた、ダグラス社との間にオプション契約が結ばれたのは、これが二十九日。わずか四日後ですね。それでまだ代理店契約もできないうちにこういう契約ができた。日にちが余りにも接近をし過ぎているんですね。そうでありますというと、大庭氏が、全日空が、もう選定作業を中止した、すぐDC10のオプションを始めるようになった。これは偶然の一致にしては余りに日にちが近過ぎますね。そうであれば、常識的に考えて、やはり日本航空の松尾氏から大庭氏に対して何らかの依頼があって、それでこういうことができた、そう考えるのが私は常識じゃないかと思うのですが、あなたも当時のそういう方のオーソリティーであるわけですから、そうした関係は相当一般的にも熟知をしているはずであります。でありますから、何かその辺の経過というものをお聞きにならないという方が私は不思議だと思いますが、その点はいかがですか。
  275. 石黒規一

    石黒証人 大庭さんは日本航空出身でございますし、非常にいろいろな面で連絡はよかったと思います。したがって、二十五日に決めるべき注文決定が延期になったというニュースは当然大庭さんはキャッチしておられる。何も朝田さんからことさらに大庭さんに連絡はなくとも、大庭さんはそのくらいのニュースは日本航空のだれからでも聞いておられるはずでございます。それで、それならうちの方で早いやつを押さえようかということで、大庭さんが自分の意思で動かれたんじゃないかと思うわけでして、私の方では、裏があるかないか、そういったことについては一切わからなかったわけで、ただとっさに大庭さんが、急に、もうオプションをやりたいとおっしゃったので、たなぼたみたいに喜んで、早速当時日本に滞在しておったダグラスの首脳を集めて会談のアレンジをいたしたわけでございます。
  276. 河村勝

    ○河村委員 ですが、そのときはまだ三井物産代理店ではないわけですね。それにもかかわらず、大庭さんはあなたの方にダグラス社とのあっせんを頼んだわけですか。
  277. 石黒規一

    石黒証人 全日空向けダグラス社代理契約をしてもらえる約束ができておって、すでに営業活動をしてもらって結構だと言われて、全日空へ出入りをしておりますから、お客様の方も御承知でございます。
  278. 河村勝

    ○河村委員 余りにも日時が接近をし過ぎて、ただニュースを聞いて、戦争のような場合には別といたしまして、二十五日に選定中止のニュースを聞いた、それからダグラスとのあっせんをあなたにお頼みになった。これはしかし二十九日が会見の日ですからね。ですから、アメリカに相手はおるわけですね。そうしますと、二十五日に選定作業は中止した。それ以前にもうすでにあなたとの、三井物産全日空との相談があって、それがダグラス社に伝わって、それでダグラス社が来日をする。どう考えても、七月二十五日のJALの選定中止以前にこの話というものは持ち上がっていなければならない。そうではないのですか。
  279. 石黒規一

    石黒証人 私たちが全日空に対して活動を開始したのは、七月とか何かそんな差し迫った時期になってからではなくて、もう何カ月も前から、いずれダグラスの方から代理権をもらえることになっておる。それはたまたまあるきっかけが出てきたときに正式に契約をするということで、口頭ではもう了解を得て、大いに商業活動をやってもらいたいということで、恐らくその前の年ぐらいからもう出入りしておったと思います。  それから、ダグラスの幹部がたまたま日本にいたということは、全日空オプションしてくれるだろうという予測でいたわけじゃなくて、先ほど申し上げましたように、日本航空は七月二十五日に注文するかしないか機種決定をするというので、それの結果を待って各航空機会社の幹部はみな東京に来ておったと思います。それで、当分買わないよ、無期延期だよということで流れた。流れて、すぐにその流れた話を大庭さんがキャッチされて、それじゃおれの方でつばをつけておきたいから、ダグラスのやつに会いたい。たまたまもう東京にいますからということで会見が手際よくアレンジができたわけで、何も全日空がすぐにそういったことをやってくれるということはわれわれ予測しておったわけじゃない。たまたまそうなったということだと思います。
  280. 河村勝

    ○河村委員 先ほどのあなたのお話のように、大庭さんというのは大変単純な人で、ちょっとこれ困るからつばつけておいてくれ、そういうお話であったそうですが、そうであれば、恐らく大庭さんから、ただちょっとつばをつけてくれではなしに、日航の方が壊れて松尾さんから頼まれて困っているから、ちょっとまとめてくれというような話があったのではありませんか。
  281. 石黒規一

    石黒証人 日本航空の話はもう一切大庭さんから出ておりません。それで、日本航空の方がだめになったから全日空が買うんだというのは、また筋としておかしいと思います。会社は全然別でございますし、何も日本航空のために全日空が何とかしてやらなくちゃいけないなんということも通らない筋でございますし、恐らく日本航空が早いやつを押さえようとしておったのが、それをやめになったから、気楽に今度は自分の方でそれが押さえられるようになったというようなことではないかと私は想像しております。
  282. 河村勝

    ○河村委員 どうもその間の日時が余りに接近をしていまして、偶然と言うには少し無理があるように思いますが、あなたの証言でありますから、それ以上は申し上げません。  そこで、若狭氏が一その就任前のことで一つ伺っておきます。  四十五年の夏か秋ごろにダグラス社の技術者が日本に来て、DC10の内装について全日空のかなりの幹部その他と打ち合わせをやった、三井物産もそこに立ち会われたということでありますが、こうした種類の相談というものは、確定的な契約があった場合にのみ行われるのでしょうか、それともそうでなくとも行われるものでしょうか、どっちでしょうか。
  283. 石黒規一

    石黒証人 本来ならば、確定注文があったときにのみ行われるはずでございますが、物産全日空のために、まことに珍しいケースとして、認知されないで飛行機をリザーブしておったという特別な状態において、やはりスペックを打ち合わせないと、あれは流れ作業で製造が進んでいきますから、ある段階に来てスペックを決めないとここで立ち往生してしまう、ほかの飛行機がこれを追い越していくわけにいかないというようなことがあって、流れ生産をやっているものはともかくスペックを決めてやらなくちゃいけないという事情があるわけで、そういうことになったと思います。
  284. 河村勝

    ○河村委員 四十五年七月の末ですね。若狭氏が社長に就任をして以後、先ほどもお話しのように、若狭氏と三井物産若杉社長、それからあなたとの会談が持たれて、そこでこのオプションの有無についての議論が交わされたわけでありますね。そこで若狭氏の証言でありますと、この会談は、二回にわたって確かめておりますという証言でありますから、二回にわたって会談が行われたかどうかということまでははっきり書いてございませんが、これは一回だけですか、二回会談を持たれたのですか。
  285. 石黒規一

    石黒証人 三井物産と二回にわたってという意味でございますか。
  286. 河村勝

    ○河村委員 はい。
  287. 石黒規一

    石黒証人 私はそのことは記憶しておりませんでしたが、私の存じている限りにおいては、若杉さんと私が若狭さんに会ってそういった話をしたのは、たった一回のように考えております。
  288. 河村勝

    ○河村委員 それは七月の末だというふうに聞いておりますが、その際に若狭氏の証言、そのポイントのところを読んでみますと、「当時同席しました副社長及び担当常務」「三井物産社長以下副社長及び担当常務」「を呼んで、過去にいろいろなことを言われておりますけれども、全日空について何か責任はありましょうか、法律的な責任はありますか、いや、それはありません、それでは道義的な責任はありますか、いや、それももちろんありませんということを確かめております。」こういう証言がございます。  そこで、法律的な責任ということになりますと、先ほどの証言のように、文書の取り交わしというものが大庭氏とあなた方との間には一切ないようでありますから、これは問題があろうと思います。しかし、道義的な責任はありますか、というわざわざ確認をしたというのに対して、全くございません、というのは、ちょっと私どもには腑に落ちないのでありますけれども、なぜ道義的な責任ということについてもノーと言われたのか、その点はどういうことでございますか。
  289. 石黒規一

    石黒証人 その発言物産の中でも一応問題になっている発言でございまして、たとえば、私が返事を求められた場合に、若杉さんと同じ返事をしたかどうかは違うかもしれぬと思うのですが、若杉さんは若杉さんなりにいろんなことを考えて、無難にこの場をまとめた方がいいという考えで言われたんじゃないかという感じがしますけれども、現在、もうお聞きすることはできないのが残念でございます。
  290. 河村勝

    ○河村委員 先ほどから議論になっております四十六年五月の「ダグラスDC−10型旅客機のこと」という三井物産から全日空あての手紙でございますが、これは常時あなた方と全日空とは接触をしておられると思いますが、この時期にわざわざこういう文書をもって全日空にこういう要請をしたというのは、何か特別な理由がありますか。
  291. 石黒規一

    石黒証人 私は、若狭さんにずいぶん何回もお会いしておりますが、常に口頭でいろいろお話し合いをして、文書で物を書いたことはございません。この手紙はたまたま仕事担当している者が書いて持ってまいりまして、私に判を押してくれ、これは社長あてに出すけれども、事務レベルで相談すれば済む問題であるから、事務レベルでこれはアテンドしますから、ただ書類に判だけいただけば結構ですと言われて、書いてある内容は特にハームになるようなものもないので、私は判を押したわけでございます。
  292. 河村勝

    ○河村委員 この時期が、あなた先ほど、DC10を全日空に売り込むことをあきらめて、トルコ航空あるいはイギリスにファームオーダーしておった六機、これを転売することを決意されたのが大体五月だというお話でございましたが、この五月の手紙に対する返事というのは、これは七月ですね。実際にはどうやらその返事というのは八月ごろになっているようであります。そうしますと、もう売り込みを断念をしてこの五月に転売を計画したというのはちょっと早過ぎるように思いますが、その辺は一体どういう経過で断念をされたのですか、その点を最後に伺います。
  293. 石黒規一

    石黒証人 この手紙で、一応書類ではっきりとした意思表示をとっておこうというのは、うちの事務担当のレベルだと思いますけれども、それ以外にすでにいろんな話を伺っておりまして、渡辺副社長さんからはやっぱり導入は四十九年に延びる、延びざるを得なくなりましたよという話も聞いておるし、それからたまたま新聞にも何回か出ておりますが、四十六年の二月には運輸省として導入を延期した方がいいと思うという意味の記事が出て、四月になってからは導入は四十九年にするというような記事も出ておりますし、恐らく公知の事実のような形になっておる。したがって将来永久にダグラスを買ってもらえないという意味ではないけれども、早い納期のものはもう御用済みになってしまうから、これは処分せざるを得ないなということで、念のためぶつけた手紙だということでございます。
  294. 河村勝

    ○河村委員 終わります。
  295. 田中伊三次

    田中委員長 これで証人に対する発言は終了いたしました。  この際、委員会を代表して一言ごあいさつを申し上げます。  石黒さん、ありがとうございました。  それで一時三十分まで休憩をいたします。     午後零時四十六分休憩      ————◇—————     午後一時三十三分開議
  296. 田中伊三次

    田中委員長 それでは、休憩前に引き続いて会議を開きます。  ロッキード問題に関する件について朝田静夫君より証言を求めることといたします。  証言を求める前に証人に一言申し上げます。  昭和二十二年法律第二百二十五号、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならないことになっております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、二つの場合がございます。まず証言が、証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係にあった者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するときとなっております。また、医師歯科医師、薬剤師、薬種商、助産婦、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者またはこれらの職にあった者がその職務上知った事実であって黙秘すべきものについて尋問を受けたときにも証言を拒むことができることになっております。  しかし、証人が正当な理由なくして宣誓または証言を拒んだときは一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられることになり、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときには三カ月以上十年以下の懲役に処せられることになっております。  一応このことを御承知になっていただきたいと存じます。  それでは、法律の定めるところによりまして、証人宣誓を求めます。全員御起立を願います。     〔総員起立
  297. 田中伊三次

    田中委員長 朝田静夫君、宣誓書を朗読してください。
  298. 朝田静夫

    ○朝田証人      宣誓書  良心に従って、真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います   昭和五十一年六月九日                  朝田静夫
  299. 田中伊三次

    田中委員長 それでは、それに署名を願います。     〔証人宣誓書署名捺印
  300. 田中伊三次

    田中委員長 皆さん、御着席を願います。  では、これより証言を求めますが、証人は、証言を求められた範囲を越えないこと、また、御発言の際は、その都度委員長許可を得て発言をされるようにあらかじめお願いをいたします。  なお、こちらの質問をしておるときは着席のままで結構でございますが、お答えになる際は必ず起立をしていただきたいと存じます。  これより証人に対し証言を求めます。  まず、委員長より所要の事項についてお尋ねいたしまして、その後、委員各位の御発言を願うことにいたします。  まず、あなたは朝田静夫君と仰せになりますか。
  301. 朝田静夫

    ○朝田証人 さようでございます。
  302. 田中伊三次

    田中委員長 それでは続いて、御住所、お住まいの場所、職業、お生まれになった年月日をお述べください。
  303. 朝田静夫

    ○朝田証人 住所は横浜市保土ケ谷区常盤台一の四十五でございまして、職業日本航空株式会社取締役社長、生年月日は明治四十四年十月十三日でございます。
  304. 田中伊三次

    田中委員長 日本航空社長におなりになったのは、何年何月何日ですか。
  305. 朝田静夫

    ○朝田証人 昭和四十六年五月二十九日であったと記憶いたしております。
  306. 田中伊三次

    田中委員長 発言申し出がありますので、順次これを許します。渡部恒三君。
  307. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 証人に最初にお尋ねしますが、昭和四十四年の一月、証人日本航空においてどういう地位にあられ、あるいはどういう職務担当しておられたか。その後、四十六年社長に就任されるまでの担当職務、地位をお教えいただきたいと思います。
  308. 朝田静夫

    ○朝田証人 昭和四十一年当時は専務取締役でございます。その後、昭和四十四年に、たしか二月だったと記憶いたしておりますが、副社長になりまして、昭和四十六年に社長に就任をいたしました。
  309. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 昭和四十四年一月専務取締役、その後副社長社長ということですから、昭和四十四年一月当時から日本航空における重要な問題はあなたは御承知しておるものというふうに考えてお尋ねをしたいと思います。  昭和四十四年の一月、日本航空はエアバス導入の検討を開始したと伝えられておりますが、この当時考えられておった機種は何であったか、お答えいただきます。
  310. 朝田静夫

    ○朝田証人 昭和四十三年の暮れから航空機メーカーからプロポーザルがございましたので、昭和四十三年当時から選定作業を含めて検討をいたしておりました。その以前にいろいろな構想が出ておりましたけれども、それは具体的なプロポーザルではございませんです。
  311. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 ずばり核心に触れる御質問をしますが、あなたは児玉譽士夫を知っておりますか。
  312. 朝田静夫

    ○朝田証人 存じております。
  313. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 昭和四十四年一月に児玉譽士夫がロッキード社との間において秘密コンサルトの契約を結んだということ、この事実を知っておりますか。
  314. 朝田静夫

    ○朝田証人 その当時、私は面識がございません。面識があったのは、昭和四十九年ごろからだと記憶いたしております。したがいまして、松尾前社長が亡くなられた後、面識があったということでございます。当時はそういう事実は存じませんでございました。
  315. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 昭和四十四年の当初から児玉氏が松尾前社長のもとに足しげく通ってきたということ、これはもうあらゆる新聞が報道しておるのですね。そのころあなたは専務あるいは副社長として松尾社長と一体であったと思うのですが、そのころ知らなかったということは考えられないのですが……。
  316. 朝田静夫

    ○朝田証人 児玉氏が足しげく通っておったということは、正確に申し上げますと、一、二度会社にお見えになったということは私は間接的に聞いて知っております。
  317. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 昭和四十四年、これは七月とも言われておるのですけれども、月ははっきりしませんが、当時の松尾社長DC10を二機、製造番号二九、三二番機をオプションした、これは新聞が報道しておるのですけれども、事実ですか。また、このオプションについて、いきさつで知っている点があったら、親切にお教えいただきたい。
  318. 朝田静夫

    ○朝田証人 当時、日本航空DC10についてオプションをしたという事実はございません。
  319. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 これは非常に重要なことになるのですけれども、二月四日だったですか、ロッキード問題が突如として起こって、この真相を解明するということが国民に対するわれわれ国会議員の職務ともなって、いままでいろいろな委員会等を通じて質疑を重ね、それからまた報道関係者は、国民に真実を知らせる、本当のことを知らせるということで、一生懸命取材活動をしていろいろな報道をされておるのですけれども、たとえば、これは読売の五月八日ですか、「DC10オプション 日航も圧力で断念」ということで、これは松尾社長DC10オプションをしておったのを、その後児玉のいろいろな圧力があって、いや気を差してしまってやめて、自分の子分の大庭社長に引き継いだというような種類のこと、これはあらゆる新聞が、「児玉、日航にも黒い手」「DC10、三機オプション後 圧力で取消させる 故松尾社長「やられた」と話す」とか、これはいまや、ロッキード問題で議論をするときに、日航にオプション契約があって、これが周囲の圧力でやめたということは、ほとんど常識化されるくらいになっておるのですね。これを全面的にあなたは否定される自信があるのですか。
  320. 朝田静夫

    ○朝田証人 全面的に否定をいたします。
  321. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 そうすると、日航のDC10オプション機が全日空に引き継がれた、これは新聞の報道じゃなくて、予算委員会の証人喚問で、何人も真実を申し述べる、虚偽のことは申し述べませんと言って宣誓した、そこで大庭社長が言っているのですね。これも事実でなかったということですか。DC10を日航でオプションしているということ。
  322. 朝田静夫

    ○朝田証人 DC10のオプションをしたという事実はございません。松尾さんと大庭さんの間にどういう話があったかは私は存じませんが、日本航空に関する限り、DC10に関するオプションはございません。
  323. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 いまの質問、ちょっと調整したいと思います。これは大庭さんが言っているということでなくて、巷間、日航のDC10オプション機が全日空に引き継がれた、これが予算委員会の四十五年三月にオプションしたという大庭証言と合致しているということが信憑性になっているのですね。これは調整いたします。  それで、話を変えて、今度はエアバスの導入延期の問題、これも非常にこの問題に何か暗い影があるということの問題としてずいぶんと言われておるので、聞いていきたいと思うのです。  昭和四十四年の一月から日本航空常務会においてエアバスに関する調査指示がされました。まず、エアバス導入の調査が必要となった当時の背景、なお、その検討は運輸省の指示によるものか、また日航独自の計画によるものか、検討の根拠となった理由等もあわせて述べてほしいと思います。
  324. 朝田静夫

    ○朝田証人 先ほど申し上げましたように、昭和四十三年の暮れからダグラスロッキード航空機メーカーからプロポーザル、条件提示がございまして、それに基づいて私どもは選定作業に移っておりました。ただいまお尋ねの件につきましては、運輸省の指示に基づいて選定をいたしたものではございません。私どもの独自の事業計画に基づいて選定をいたしておったわけでございます。  その背景といたしまして、世界じゅうにこういう大量輸送時代というものが到来をいたしまして、新しい機種のワイドボデージェットというものが出現をいたしてまいりまして、私どももそういう新機種に取り組んでいかなければならぬ、将来の長期計画からいっても、日本の空港事情からいいましても、非常に過密状態にございますので、そういう新しい機種と取り組んでいかなければならぬ、こういうことで、四十四年の当初から検討をいたしておりました。  四十四年の七月だったと記憶いたしますが、これがいわゆる白紙還元ということで中止をいたしました。その背景といたしましては、ちょうどロッキード一〇一一とDC10というものがプロポーザルに出てまいりました。その後六月に至りまして、ボーイングのSR−ショートレンジ、こういう機種が新しく登場をしてプロポーザルが七月にありました。たしかそういうふうに記憶いたしておりますが、六月ごろに説明がありまして、七月ごろに、間際になってそういうものがあらわれてまいりました。私どもは乗員の養成計画からいっても、あるいは空港の過密状態からいってもなるべく大きなキャパシティーを持った航空機を導入してまいらなければならない。乗員の養成も一朝一夕にはまいりませんので、そういう意味からして、ことにそういう機種を選定する場合におきましても、安全性、技術性、経済性、そういったものはもちろんでありますけれども、わが社が運営いたしておりまする路線構造に従ってそういうものを考えていかなければならない。したがって私どもは、国内線と同様に国際線を運営しておるわけでございますから、国際線と国内線とが併用できるような長距離型の航空機を選定する必要がある。そこで、先ほど申し上げましたように、ボーイングのSRという、これはジャンボジェットと俗称されておりますところのボーイング747のショートレンジのタイプでございますが、全く同じ飛行機と考えてよろしいのでありまして、国内用に使います場合には離発着回数が非常に多くなりますから足回りを強化する、あるいは翼のつけ根を強化する、こういうことで、機体本体はジャンボジェット747と同様のものでございますが、こういうものがあらわれてまいりました。これはなかなか私どもも魅力のある機種である。ところが、プロポーザルの有効期限を一月延ばし一月延ばしをしておりましたのでございますが、これはメーカーにむしろこちらが頼んで延ばしてもらっておった。ところが、こういうものが出現してまいりますと、いろいろ問題がございます。乗員の養成の問題もございますし、また運営しておる路線に適格する機材の選定というようなことが短期間に決められない。こういうようなことで、私どもはもっと時間をかけてやるべきだ。四十四年でございますから、当初は四十七年に導入を考えておりましたが、四十四年の四月ごろに、四十八年に延ばそう、四十八年にしますと時間的に余裕もございますし、急いで決める必要もない。その当時の状況はいま申し上げたとおりでございますが、そこに松尾社長が、いまこういうものを決めるのは妥当な時期ではない、白紙還元をして、有効期限を一寸刻みに延ばしておったのをここでピリオドを打つということで、理由はおっしゃらなかったのでございますが、一応次の機会に追って指示あるまでこれは白紙還元する、こういうことを常務会で指示をされまして、私ども役員もそれを了承した、こういうことが経緯でございます。
  325. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 ところが、四十六年に至り、エアバス導入についてさらに一年間延期しようとする行政指導が運輸省から行われ、たとえば日航の社内メモによっても、「航空局は、四十六年二月頃より四十七年度における導入をとりやめるよう要請しはじめ当社としては、これを逐次反論してきた」という資料が公表されておるのですね。一体この間の経過はどういうふうになっているのか。あなたの知る限りの具体的な事実をお教えいただきたい。
  326. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十五年になりまして、たしか十一月と記憶いたしておりますが、私どもは四十七年に大型機を導入する。これは四十五年の当時、閣議了解というものがございまして、その中にジェット化、大型化を促進するというようなことが書かれておるわけであります。したがいまして、私どもは四十五年の十一月にボーイング747の一三号機から一六号機、四機の取得認可を運輸省に申請をして、取得認可を得ております。これを購入するということの計画を運輸省に説明をいたしましたところが、そのときの説明には、大型化が促進されなければならないので、先ほども申し上げておりますように、空港の過密状態、特に四十五年の夏は厚木の飛行場まで使わなければならない、羽田の飛行場というものは非常にふくそういたしておりまして、私どもといたしましては、羽田における発着便数の調整まで行われたような時代でございますので、その秋から暮れにかけて四十七年に手持ちのジャンボ、ボーイング747を国内線に三機投入いたしまして、そのかわりに四機新しく747を購入したい、こういうことで運輸省に申請をいたしましたところが、その取得認可は認可がおりたのでございます。  ところが、四十六年に至りまして、二月ごろからいわゆる行政指導というものが始まり、口頭で最初の——行政指導と言えますかどうですか、それはまだ行政指導というような形にはなっていないのでありますが、質問の形で、国内にジャンボジェットを転用するということに日本航空の計画としてはなっているけれども、もしこれを延ばせばどういう影響があるか、どういうことになるか、こういうことの御質問が運輸省からございまして、いろいろ需要予測、あるいは占有率、あるいはロードファクター、そういった細かい数字の詰めをしておったのが初期の段階でございます。  それでは国内線の三機を、国際で使っておる手持ちのジャンボジェットを入れるということをやめて、どうしてもそれを延ばして、あるいはそれに対する対策としては、DC8−61という飛行機がございますが、これを投入すれば間に合うじゃないか、こういうような議論がありました。その運輸省の基礎になった数字に対して、実績の数値から、あるいは考え方から、そういう手法というものについて承服できないということで反論を続けてまいりました。  どうしても入れたいというのなら、六月に至って、全日空と話し合いをしてもらいたいということで、全日空とも話し合いをいたしましたが、これは合意なり了承といったものは得られなかったということが実情でございます。
  327. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 そうすると、四十六年の六月に四十七年度幹線用機材について、国際線のジャンボを国内線に導入しようとしたが、この行政指導によって延期されたということは間違いありませんね。
  328. 朝田静夫

    ○朝田証人 そのとおりでございます。
  329. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 私がこういうことを聞きますのは、今度の問題が起こって、何回か運輸省の行政指導で導入延期が行われたということが、最終的に全日空のトライスター購入を有利にしているような客観条件がつくられているということに疑惑が集中しているわけで、それでこういうことをお聞きしているのです。  なお、これは全日空の若狭社長証言でもあったのですが、運輸省が同時導入、同一機種、これは機種統一の行政指導を行っておりますね。これは日航に対してはいつの時期にどういう指導で行われているのか。  この機種統一には運輸省の指導で全日空との間に合同委員会が設けられて話し合いが続けられてきたということが言われているのですね。そこで、この合同委員会には日航からどなたが出て、あるいは全日空からだれが代表に出ているか、また、運輸省からだれか来ておったのか。  また、この運輸省の同時導入とか同一機種の選定とか、そういうものの行政指導が皆さんの会社機種選定をされる場合どれだけの拘束力を持っているのか。これは非常に大事なポイントですので、親切にお答えいただきたいと思います。
  330. 朝田静夫

    ○朝田証人 機種統一をすることができれば望ましいという当時の航空局長から発言がありましたのは、私の記憶によりますと、四十五年当時じゃなかったかと思います。それはその程度の発言でございまして、特にいま御指摘のような委員会に運輸省の関係官が出席をするとか、そういうことはございませんでした。最初に、四十五年の何月かは忘れましたが、エアバスについて両社話し合いをするということは、運輸省がやってみたらどうかということであったと記憶いたしております。  そこで出席をいたしましたのは、私どもの方では稲益専務、当時の布施経営管理室長だと記憶いたしております。それから全日空は渡辺、当時は専務だったと私は記憶いたしておりますが、現在の副社長、それから藤原企画室長だと記憶いたしております。  それから、その後四十七年の三月ごろに至りまして、これもひとつ機種選定あるいは開発状況の情報交換というようなことを行っております。ただし、運輸省はどの機種を選定するが好ましいというようなことは一切発言はいたしておりません。機種を選定いたしますことは航空会社の悪くすれば命取りになるわけでございますから、そういう、どの機種がいいというようなことについては何らのその介入はございません。したがいまして、両社連絡会といいますか、そういう情報交換あるいは当時から私どもが研究をいたしました開発状況、性能、そういったものの資料を伝達するというような会合が行われておったことは事実でございます。
  331. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 後に松永議員が控えておりますから、最後、集約してお尋ねします。  一つは、いまあなたの話を聞いておりますと、児玉が日航の導入延期であるとか機種選定とか、そういうものに介在された余地がないようなふうに承るお話をされたのですが、チャーチ委員会のコーチャン証言がこの委員会で、トライスター売り込みに当たっては最初に日本航空を対象としてやったということを言っておるのですね。だから、かなりの働きかけが最初に日航にあったのじゃないかということは、この問題の今日までの各過程の中でかなり常識的なことになっているのですね。これについてもう一遍あなたのその感想を承りたいのです。  それからもう一つは、導入延期がしばしばなされたわけですね。そうすると、ある意味では私は、きょう朝田さんに来ていただいたのはむしろ気の毒な立場で、いわゆる日航は被害者みたいな、もしも仮に、世上言われるように、全日空のトライスターに合わせるために行政当局でいろいろな行政指導やなんかしてあるとすれば、いまいろいろな計画をあなた方でせっかくしているのに、行政介入で導入延期を二度も受けたり、またいろいろな機種の問題について干渉を受けたり、あるいはその後航空機——これは時間がありませんから詳しく聞けないのは残念ですが、航空再編成、この問題についても、何か全日空に有利で日航に不利なような、あなた方に不利なようないろいろな再編成が行われたというようなことも言われているわけですね。ですから、これは正直に、だれをかばうとかかばわないとか、あなたの証言がだれに迷惑するとかいうことでなくてこれはお答えいただきたいと思うのですけれども、日航の航空機、あなたの会社のその後の再編の問題なり導入延期なりに至って、あなた方は行政的な非常な干渉を受けたというふうにお考えですか。
  332. 朝田静夫

    ○朝田証人 先ほど申し上げましたように、ジャンボジェットの国際線に使用いたしておりました三機を国内線に転用するということにつきましては、四十五年の十一月に取得認可を得ておりますが、それも受け渡しを延ばしたらどうか、あるいは国際線に使って転用をやめたらどうかというようなことを言われたことは事実でございます。これが行政指導と世上言われておることであるならば、それは事実でございます。ただ、運輸省としては、これら日航の計画は計画としてそうであっても、全日空の事業計画を取り寄せてみると、双方の、両社の計画をあわせて見ると、大変なオーバーキャパシティーになる、こういうことが根拠であったように存じております。しかし、事実としてはそういうことがございました。  再編成の問題についてもいろいろございますが、四十七年の七月の大臣通達事項というものが紆余曲折の末まとまりまして、私ども三社の社長が運輸大臣に呼ばれまして、それを了承して、この線に従ってこれからやってまいりますということを申し上げて了承をいたしておりますが、その間紆余曲折はございましたけれども、最後に出た大臣通達というものについてはそういうふうに私どもも了承して、今日までその線に従って努力をいたしておるわけでございます。
  333. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 さっきの私が申し上げたチャーチ委員会のコーチャン証言で、最初に日航を対象としてロッキード社はトライスターの売り込みに全力を上げることになってきた、こういう証言がある。それに対して、またあなたの前の社長さんが、たびたびそういう児玉なりある種のいろいろな圧力があって何か機種選定のことがもういやになっちゃって延ばしちゃったのだ、こういう常識があるわけですね。ところが、あなたはその場合、四十一年に専務ですから、専務というのは、松尾社長と亭主と女房みたいなものですね。それから副社長社長という立場にあるのですから、そういうことを松尾社長に対して行われたにしても、専務であり、副社長であり、女房であるあなたが、そういうことが、事実があったら感じられなかったことはないと思うのですが、もう一遍、しつこいようですが、そういうことについてあなたの四十一年から四十七年まで感じられたことをお教えいただきたいと思います。
  334. 朝田静夫

    ○朝田証人 最初の御質問の項目でございますが、コーチャン証言の、当初は日本航空を目当てにして売り込みたいということでありましたが、私はそれはそうだろうと思います。これはロッキードのそういう考えであっただろうと思います。これは私はそうであったろうと思います。  と言いますことは、東南アジアでも、日本のナショナルキャリアであります日航というものがどういうものを選定するかということは注目をいたしておりましょうし、世界で現在はIATAのランキング第五位でございますから、メジャーキャリアとしての動向というものはそれはわりあい影響するだろう。したがって当然メーカーとしてはそういうものにねらいをつけて販売合戦をやる、これは私は自然だと思います。したがって、そう向こうは考えておられたことは、素直にそうであったろうと私は思うのでございます。  ただ、第二番目の点につきましては、松尾社長のそばにおってそういう児玉氏から圧力があったかどうかということにつきましては、私は聞いたことはございません。ただ、私はそばにおりまして、松尾社長が、販売合戦がメーカー、商社合わせて大変激しいことは事実でございましたから、本当にうるさくて困るという述懐をされたことは私は聞いております。ただ、どの筋からどういうことが行われたかということの具体的なことは、私は一切開いておりませんでした。
  335. 渡部恒三

    ○渡部(恒)委員 松永議員に譲って、私の質問を終わります。
  336. 田中伊三次

  337. 松永光

    松永委員 日本航空株式会社の社内メモによってはっきりしておるのですけれども、運輸省の航空局が四十六年二月からエアバスの国内線への投入を延期するよう行政指導した、こういうことなんですが、その行政指導は運輸省航空局のどなたからなされたのか、その行政指導を受けた人は日本航空のどなたであったか、その点おわかりになるならば説明してください。
  338. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十六年の二月ごろから先ほど申し上げましたように……〈松永委員「だれからだれへと、その点だけでいいです」と呼ぶ)DC8の先ほど申し上げました国内転用を延ばしたらどうかとかというような問題につきましては、当時の航空局の監督課から私どもの経営管理室の事務方に話がございました。
  339. 松永光

    松永委員 先ほど、四十三年の末にロッキード社及びダグラス社からエアバスについてのプロポーザルが日本航空にあった。その後四十四年の六月にボーイング社からボーイング747SRのプロポーザルがあった。それに対する回答を四十四年七月になさった、こういうことでございますね。四十四年の七月末に回答なさったということですが、そうすると、ロッキード社ダグラス社とボーイング社と、プロポーザルがあったすべての会社に選定は中止する、プロポーザルに対するお断りの回答をプロポーザルのあった三社すべてになさったのですか。
  340. 朝田静夫

    ○朝田証人 三社に正式に担当役員から通告をいたしました。
  341. 松永光

    松永委員 したがって、DC10についてのオプションなどはなかったのだ、こういうことにもなりますし、またそういう証言をされたのですが、その当時の社長である松尾社長さんが個人の立場でDC10についてだけオプションをする、こういった状況があり得るような状況があったでしょうか。会社としては正式にプロポーザルのあった三社に対してそれぞれお断りの回答をした。しかし、その前後ごろ松尾社長が単独でDC10についてオプションをする、こういった状況があったでしょうか、また、あり得たでしょうか。
  342. 朝田静夫

    ○朝田証人 そういうことは、私どもの会社仕事の運営あるいは組織、そういったものから、あるいは従来からの慣例、そういうものからはそういうことを、松尾さんといえども個人としてそういうことはできる立場にないし、そういう仕組みではなかったということを申し上げておきます。
  343. 松永光

    松永委員 日本航空は当初は四十七年度に国内線にエアバスを投入する、こういう計画であったわけですね。それが当時の新聞の記事等によりますと、四十六年の二月になって松尾社長がエアバス導入計画を少なくとも向こう一年間延期する、こういう意向を発表しておるようですが、この日本航空の国内線へのエアバス投入を当初の計画から少なくとも一年間延ばすという、そういう決定をされたについてはどういういきさつによるのか。先ほど申し上げました運輸省の国内線エアバス導入延期という行政指導があったから、その行政指導に基づいての延期なのか、あるいはそれ以外の外部的な働きかけとか圧力があったから導入が少なくとも一年延期ということになったのか。その導入が少なくとも一年延期された背景を簡単におっしゃっていただきたい。
  344. 朝田静夫

    ○朝田証人 松尾社長がそういうことを言われたのは、新聞記者会見だと私は記憶いたします。  一つは、大阪の記者会見でおっしゃったことが一つと、東京東京新聞に出た記事だと私は了解をいたしますが、大阪で記者会見をされたのは、ただ日本経済一紙だったと記憶しておりますが、大阪は、御承知のように、大変公害、環境問題の深刻なところでございますから、そういうことの配慮があったのではないかという気がした、私は後の推測でございますが、そういうふうに考えますのと、エアバスを導入することは一年延期した方がいい、とてもそれは相当大きな設備投資にもなりますし、乗員の問題というようなことも考えて延ばした方がいいということと、米国の経済が後退をいたしまして、またエアバスのリードタイムがそう長くなくて売り手市場からだんだん買い手市場になっていくのではないかというようなことも考えられたと、私はいまになって推測をいたすわけであります。  そこで、ここでよく混同して言われますことで非常に私どもはよく御理解をいただきたいと思いますことは、大型化とエアバスとを混同してよく言っておられる。私どもは、先ほど申し上げますように、国際線に使用しております三機を国内線に投入する、これは大型化でございまして、それと同時にエアバスというものを将来考えていかねばならぬ。しかし、全日空さんの方にとりましては大型化もエアバス化も同じことでございます。当時は大型機は持っておられませんので。したがって、大型化というものは四十五年の閣議了解からして私は促進しなければならぬ。したがって、エアバスは延ばしても大型機を国際線から転用して、過密状態にある空港と増大する航空輸送需要に対処していかなければならぬというのが、私どもの考え方であったわけでございます。
  345. 松永光

    松永委員 いや、私が聞くのは、エアバス導入計画を少なくとも向こう一年間繰り延べる意向を当時の松尾社長が明らかにしておられるわけですよ、昭和四十六年二月に。そういうふうな意向になったその背景は、外部の圧力とか働きかけがあってそういう意思決定がなされたのか。いや、実はそうではなくして、運輸省の行政指導があったからなされたのか、あるいはそれ以外の理由があるのか。それを簡単に結論だけおっしゃっていただきたい。
  346. 朝田静夫

    ○朝田証人 運輸省の指導とか外部からの圧力があってそういうことを言われたものではないと思います。
  347. 松永光

    松永委員 そのロッキード社ダグラス社あるいはボーイング社のプロポーザルに対してお断りの返事をする、その意思決定をするための常務会というものがあったという先ほどの話でしたね。     〔委員長退席、大橋(武)委員長代理着席〕 そこで、白紙還元の決定ということがその常務会で決められたそうですが、その常務会の会議の模様その他から、そういう意思を、すなわち白紙還元の意思を松尾社長が固められるについて、何らかの外部の働きかけあるいは不愉快な運動、圧力、そういったものがあったような様子がありましたでしょうか、どうでしょうか、その常務会の決定の際に。
  348. 朝田静夫

    ○朝田証人 常務会の席上で私は特にそういうことの印象は私自身は持ちませんです。
  349. 松永光

    松永委員 このロッキード問題についてのいろいろな論議をしておる過程で、どうもやや明確を欠く用語にオプションという言葉があるわけですね。オプションというのは、日本航空あるいは航空業界では通常どういったような法律行為をオプションというのでしょうか。また、そのオプションの効果はどういう効果があるか。通常使われる用語はどうなのか。それを簡単に説明していただきたい。
  350. 朝田静夫

    ○朝田証人 オプションということの定義を明確にするということははなはだ困難だと私は思いますが、一般に航空界で使われておりますオプションといいますのは、オプションするということと、オプション航空機ということの二通りあると思うわけでございます。  オプションするというのは、いわゆる開発過程にあります。長い間かかっていつできるか、ちょっと相当八年も十年もかかるというようなときに、受け渡し時期と価格とを押さえるという意味オプションするというオプション契約というのがございます。  いま一つは、プロポーザルがメーカー側からございまして、それに対する契約として確定契約五機、オプション契約を引き続き増機、増加して購入するという場合に、オプション航空機五機、確定航空機——ファームオーダーのものが五機、オプション航空機が引き続いて同じ値段で同じような条件で手に入るならば、オプションというものは五機。このときのオプション航空機といいますのは、ファームオーダーの確定契約に付随した契約であります。それは単独に分離して行われるものではございません。  この二通りあると私は考えるわけでございますが、日本航空での購入契約その他のやり方を申し上げますと、私どもは最初に申し上げましたオプションするという、デリバリーポジションを押さえて価格を押さえるというようなことを一方的にやりましたのは、いま問題になっております英仏共同開発のコンコルドの契約をしたときに、これはオプション契約というのをやったことがございます。もう一つは、私が日本航空に入りました当初でありますが、アメリカのFAAのSST、これは超音速機のオプションをするという、この二つしかやっておりません。したがって、メーカーから一般のプロポーザルの条件提示が出てまいりまして、そして、ただ製造番号を押さえるというようなオプションはやっておりません。そういうものは日本航空ではやったことはございませんし、普通私どもがオプションと申し上げておるのは、ファームオーダー、確定契約五機、続いてそれに付随してオプション五機というようなことはやっておりますが、先ほど申し上げました、ただ製造番号を押さえるとか、あるいは価格を押さえるというようなことだけでやりますことは、一般の航空機ではやっておりませんし、コンコルドとFAAのSSTのみでございます。
  351. 松永光

    松永委員 時間が参ったようですから、終わります。
  352. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員長代理 それでは、松浦利尚君。
  353. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 朝田社長さんにぜひお願いをしたいのですが、先ほども同僚委員から御指摘がありましたが、むしろ日航の方はわれわれの調査では被害者の立場に立っておるようでありますが、しかし、日航の皆さん方の証言を得なければ真相に行き当たりませんので、ぜひ御協力をいただきたいと思うのです。  まず最初に、同僚委員が指摘しましたが、日航はDC10のオプションはしておらなかった、こういうふうに先ほど御答弁なさいましたが、当時日航に対してロッキード社とそれからダグラス社の両方から相当な働きかけがあったはずでありますが、日航の計画に従った四十七年度にエアバスを導入するとすれば、いずれの会社機種が選択されるか、四十七年度に限定した場合に。その点はおのずからはっきりしておったと思うのですが、その点についてはどうですか。
  354. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十七年度に導入をするという選定作業をやりましたのは、四十四年の当初から四月ごろまででございます。そして四月以降、四月ごろにこれは四十八年に延期するということをやっております。したがいまして、引き続き有効期限がその都度延ばされておりまして、なかなか決定しかねるというようなことで、先ほど申し上げましたように、昭和四十四年七月に白紙還元をした、こういうことでございますので、その当時は、選定するとすれば、おのずからこういう機種だったろうという御指摘でございますが、そういうことを決めておりませんので、公平にあらゆる観点から選定作業を進めておったということで、そういうことはございません。
  355. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 四十四年一月から三月の間に議論をされた際、四十七年度に導入する場合はどの機種になりますか。
  356. 朝田静夫

    ○朝田証人 公平にそのロッキードダグラスの選定作業をやっておりましたから、そういう仮の結論も、暫定的な結論も出してはおりません。
  357. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 ロッキードは入っておりますか。
  358. 朝田静夫

    ○朝田証人 入っております。
  359. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 ロッキードが入っておるとすれば、ロッキード一〇一一は四十七年度に導入できるという見通しはありましたか。
  360. 朝田静夫

    ○朝田証人 私の記憶によりますと、四十七年導入は可能であったと存じております。
  361. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 その点は少し、証人、記憶違いじゃないかと思うのですが、おたくの議論の中で、四十七年度に導入するとすればもうDC10しかないということに大体なっておった、しかもDC8はもう皆さん方すでに国際線に使用済みで、非常に安定した世界有数の航空機、そういう状態であったので、当時としては、もう作業過程としてはDC10というものに気持ちとしては動いておった、四十七年導入に限定をすれば。そういうことではなかったのですか。
  362. 朝田静夫

    ○朝田証人 私の記憶によりますと、そういうことに傾いておったということはございません。四十三年の暮れから両社ともにプロポーザルが出てまいりまして、その条件提示を検討しておったわけでございますから、その点についてはDC10に傾いておったということはございません。
  363. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 それでは、ダグラス社の方から、四十四年三月までにオプションしてくれれば四十七年度の導入に間に合う、四十四年七月までに契約してくれれば足の長いDC一〇三〇、今度日航が導入しましたDC一〇三〇ですね、これに間に合うということで、おたくの方は検討したことがありますか。
  364. 朝田静夫

    ○朝田証人 そのことは検討したことはございます。
  365. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 これはおたくの資料でいただいたのですが、日本航空に「おおぞら」という社内報がありますですね。その「おおぞら」を先般資料としておたくの方からいただいたのでありますが、これですね。——これは間違いありませんか。
  366. 朝田静夫

    ○朝田証人 間違いございません。
  367. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 これに関連しまして、午前中に三井物産石黒さんが証人として来られまして、各委員への証言で、おたくは最終的に、四十四年七月二十五日に最終的な機種決定をするという、そういうお考え方に立っておられたことは事実でございますか。
  368. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十四年の七月十五日に決めるということは私は記憶にございません。有効期限がたしか七月末日であったと存じておりますので、あるいはその時期に決めなければならぬというような時期であったかもしれませんが、そういうことは、必ず決めるということを決めておったということは私には記憶がございません。
  369. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 四十四年七月二十五日というふうに言っておられましたがね、三井物産石黒さんは。記憶にありませんか。
  370. 朝田静夫

    ○朝田証人 有効期限がですか。
  371. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 いいえ、最終決定をする日にちですね。
  372. 朝田静夫

    ○朝田証人 私の記憶しておるところでは、有効期限、プロポーザルの有効期限は七月末日だったと記憶いたしておりますが、決めるというようなことを正式に言ったかどうかということは私は記憶にはございません。
  373. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 先ほどの同僚委員の質問で、松尾社長と児玉譽士夫が一、二度会った、こういうふうに、四十四年当時会ったと言っておられましたが、いつごろだというふうに記憶しておられますか。
  374. 朝田静夫

    ○朝田証人 その当時会ったということを申し上げたのではございませんで、長い間の間に日本航空に見えたとかいうようなことは聞いておりますが、そういう時期についての私は記憶はございません。
  375. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 白紙にしたというこの日航の「おおぞら」でありますが、この中に「ロッキード1011などの一部機種の検討に入っていたが、導入がジャンボよりかなり遅く」なるというふうに書いてあるのですが、四十七年度に導入するということで検討して、かなり遅くなるというふうに判断をしておられるのですが、DC10は四十七年度に導入可能であります。四十四年当時もう世界各国に百四十機近くオファーされておるわけですから、四十七年導入可能であります。そうすると、この文章でいきますと、導入がジャンボよりかなりおくれるという言葉で表現してありますが、これはロッキードがおくれる、DC10はおくれないのでありますから、あと一つのロッキードがおくれる、こういうふうに理解する以外に方法がないのですが、そういうふうに理解してよろしいですか。
  376. 朝田静夫

    ○朝田証人 そういうふうに御理解をいただいていいと思いますが、その中でロッキードがおくれるといいますのは、私、先ほど申し上げましたように、四十四年の四月ごろまでは短距離型を検討しておった。ところが、われわれが運営しております路線は国際線も国内線も併用できるような長距離型を検討しなければならぬというので、四月以降七月白紙還元までの間そういう検討にも移っておった。そこに書いてあります。ロッキードがかなりおくれるというのは、ロッキードの長距離型というのは出てこない、いまだに現在においても長距離型というものはロッキードはありません、ペーパープランに終わっておるわけでございますから、そのことを言っておるものと私は解釈をいたしております。     〔大橋(武)委員長代理退席、委員長着席
  377. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 先ほどの同僚委員の質問にもお答えになっておりましたが、四十四年当時に四十七年度にエアバスを導入するという方針を立てて作業に入っておったが、いかなる形でも、運輸省あるいは児玉あるいは有力政治家、こういった人たちからは絶対に日航に対して何らかの働きかけはなかったとここで断言できますか。
  378. 朝田静夫

    ○朝田証人 私自身そういう圧力を受けたことはございませんが、松尾さんは、先ほど申し上げましたように、販売合戦が激しくなっておるのでうるさくて困るということを述懐をしておられたということを私は聞いたと、これは事実を申し上げておるのでありまして、そのときにどういう筋からあるいはどういうところからがやかましくて困るかということをせんさくして聞くことはいたしておりませんので、私の知っております限り、圧力はかかったということはございません。
  379. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 何度かの指導はなかったでしょうかね。松尾さん亡くなられて、死人に口なしで、なかなかここでいろいろ言うことはむずかしいと思うのですが、当時専務副社長という地位にあられまして、やはり何らかのそういった指導とか、まあ、圧力という言葉が悪ければ指導とか、そういったものはあなた自身は感じ取られませんでしたか。
  380. 朝田静夫

    ○朝田証人 私はそういうことを感じておりません。また松尾さんからも具体的にそういうことを伺ったことはございません。
  381. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 それでは、この白紙還元に従っておたくの方は手続をとられましたね。それはこの白紙還元に従って、ここでは「一部機種の検討に入っていたが、導入がジャンボよりかなり遅くなってからであり、その間はDC−8−61を国内線に使い、それでも足りなくなった場合にはジャンボを投入すればよい」、こういうふうに言っておられるのですが、あなたは、この四十四年十月の「おおぞら」に書いてあるとおりの手続をされて、四十五年の十一月に運輸省に対して、国際線の国内線転用を含めて新規購入についての許可を受けられましたね。それはいつでしたか。何月何日と記憶しておられますか。
  382. 朝田静夫

    ○朝田証人 四機の取得認可を得ましたのは、私の記憶によりますと、昭和四十五年の十一月の、二十七日か終わりごろになってからだと思います。多分二十七日だと記憶しております。
  383. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 申請なさったのはいつですか、申請書を出されたのは。
  384. 朝田静夫

    ○朝田証人 申請を出しましたのは、それより少し前であったと記憶いたしております。
  385. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 申請を出されたのは、四十五年十一月でしたか、その前でしたか。
  386. 朝田静夫

    ○朝田証人 そのはっきりした記憶はございません。十月か十一月ごろでなかったかという気がいたしますが……。
  387. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 四十五年十一月二十七日に申請なさって、四十五年の十一月三十日に認可がおりておるのです。非常に認可のペースが早いわけですよね。申請して三日たってすぐぽっとおたくの方に認可がおりておるのです。そのことは、逆に言うと、事前に相当長期にわたって運輸省との間にこの問題について話し合いがあったのではありませんか。日航と運輸省との間に話し合いはありませんでしたか。
  388. 朝田静夫

    ○朝田証人 その申請をした時期は御指摘のとおりであるかもしれません。確かにその前にずいぶんいろいろな交渉がございまして、手続として出てきましたのはそういう事実だと記憶しております。その前にいろいろ運輸省と、事業計画、長期計画を説明をいたしまして、三機の国際線に使っておるジャンボを国内線に転用する、そのときに運輸省は大蔵省と協議をせなければならぬことになっておりますので、大蔵省の意向も当時ございまして、国内線を三機入れるんなら東京−大阪に投入をしないでもらいたい、あるいは便数を、東京−大阪の便数をふやさないでもらいたいというようなこともございましたし、四機の取得認可については政府出資やあるいは政府保証債を発行するようなことを言われては困る、あるいはEXIM、アメリカの輸出入銀行の借款がうまくいかなくても政府には迷惑をかけない、私の記憶をいたしておりますのは、この三条件を付して大蔵省は、これならば認めてもいいということを運輸省に言われたと私どもは聞いております。私どもは、それに対して、異存はございませんという返答をいたしまして、ただいま御指摘のように手続をして認可を得た、こういうことでございます。
  389. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 それじゃ、相当事前に運輸省、大蔵省との間の打ち合わせをした上で、ほぼ見通しが立ったから国際線の新規機材購入についての許可を受けた。そのことについて、もう一遍確認の意味でお聞きしておきますが、間違いありませんね。
  390. 朝田静夫

    ○朝田証人 そのとおりだと思います。
  391. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 それに対しまして、これは全日空の渡辺さんが、四十六年六月十日、経営システム開発本部長として、第六回経営システム講座を開かれたときの、全日空の集約された冊子なんですけれども、その中にこういうことが実は書いてあるのです。先ほど委員の質問にもありましたが、「実は昨年」これは四十五年「のことであるが、全日空と日航に運輸省から話しがあり、大型機を競い合って入れるというのはまずいではないか、入れる時期については両社で充分に相談し合い、できれば同じ時期に入れるのが望ましい。機種については運輸省は干渉しないが、できれば同一機種がベターである。これらのことをよく話し合えということであった。両社長ともよく相談しますということで、全日空では私が窓口になり、」渡辺さんが窓口になり、「日航でも窓口担当者が松尾前社長から指名をうけて、何回か話し合ってきました。」この人はだれでございますか、日航側の代表は。
  392. 朝田静夫

    ○朝田証人 私どもの方は稲益専務だと記憶いたしております。
  393. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 さらに渡辺さんは続けて「率直に言えば機体そのものの調査は両社とも下調べが終っていて問題はないが、ただどういう機種に決定するかは機材導入時期とも関連してくるので社長同志がよく話し合う」ようにということで、トップ会談を申し入れたが、日航は応じてくれなかった。こういうふうに言っておられるのですが、もうその段階では、これは四十五年、この段階ではどういう機種を導入するかということについての調べは日航は終わっておったのでございますか。
  394. 朝田静夫

    ○朝田証人 お尋ねをいたします。  それは四十五年でございますか、渡辺社長の講話は。
  395. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 四十五年ですよ。この講話は四十五年ということになっておりますが、あるいは四十四年のミスではないかというふうにも思うのですけれども、どうですか、記憶ありますか。
  396. 朝田静夫

    ○朝田証人 私はその講話を読んだことはございませんので、ちょっと見当がつきません。
  397. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 さらに、おたくのジャンボの国内線転用について反対であるという申し入れを日航に対して全日空は行った、こういうふうに記載されておるわけでありますが、全日空のだれからおたくに反対の申し入れがありましたか。
  398. 朝田静夫

    ○朝田証人 そこで四十五年かというお尋ねを私が申し上げたのは、ジャンボの転用というのは、先ほど御指摘のございましたように、四十五年の十一月でございますから、その後それが決まって、反対であるというのは四十五年以降でなければならないような気がいたすのでございます。  そこで、私どもはジャンボの国際線用の三機を転用をしたいということを再三申し入れて、そのときに日航だけが大型機を国内に投入するということは身勝手じゃないかというようなことの考え方もございますので、私どもはその当時、たしか四十六年の六月ごろだと思いますが、行政指導で数次の論争をやった末、全日空と話し合えば国内に三機転用してもいいということでございましたので、その当時話し合いをしたことがございます。それで、いま申し上げましたように、共同運航でひとつやろうではないか、全日空さんがワイドボディジェット、エアバスを投入されるまでの間、公衆の利便のために、あるいは空港過密の解消のために大型機を導入して、マークを二つつけましょう、これは私の発案でございますが、日航のマークも全日空のマークもつけて、収入も利益も折半をしましょう、私どもが身勝手なことを言っておるのじゃございません、これでひとつ協力関係をつくっていこうじゃありませんか、それでもし御不満ならば日航の一機なりをリースをされて、それで全日空飛行機として運用されたらいかがですかというような提案もしたのは四十六年六月でございます。それは賛成を得られませんでした。
  399. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 それは運輸省の指導があって全日空と話し合った四十六年六月のことで、その前には日航に対して全日空から反対の意思表示はなかったということですね。そのことをお聞きしておるのです。
  400. 朝田静夫

    ○朝田証人 大型機を導入することについての反対は、あるいはそれ以前からあったと思います。
  401. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 その以前からあったというのは、いつごろでございますか。
  402. 朝田静夫

    ○朝田証人 先ほど申し上げましたように、四十五年に国内線用に三機転用するというところぐらいから始まっているのじゃないかと、いまの時点で私は想像をするわけでございます。
  403. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 それではさきに戻りますが、四十四年の七月にエアバスの導入を打ち切ったときに、運輸省の方から、この「おおぞら」に書いてあるように、四十七年にエアバスを導入すればいいではないか、だからエアバスの導入についてはこの際見合わしたらどうか、そのかわり、いま言ったように、四十七年度からはこの「おおぞら」に書いてあるようなエアバスを国内線に導入していったらどうかというような指導があってこういう手続を踏んだという過程はありませんね。ありましたか。
  404. 朝田静夫

    ○朝田証人 そういう指導はございません。
  405. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 絶対なかったですね。
  406. 朝田静夫

    ○朝田証人 私どもは四十七年を四十八年に延ばすということは自発的に決めたと記憶いたしております。
  407. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 朝田さん、私がお聞きしているのは、そうじゃないのです。四十四年に、四十七年からエアバスを導入するということで、先ほどからお話があるように、日航は議論をしてきたけれども、四十四年七月に白紙にしていますね。白紙にした理由としては、ここに書いてあるように、そういう場合にはジャンボなりDC8を国内線に使えばいいとおたくは書いているのです。それと同じことを四十五年の十一月に政府に申請をして、十一月の末に認可をもらわれるわけですね。そういう一連の関連について、そういうふうにすればいいではないかということが事前に運輸省から話し合いはなかったか、こう聞いているのです。
  408. 朝田静夫

    ○朝田証人 そういうことの、そうすればいいじゃないかという指導はございませんでした。
  409. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 おたくは大体運輸省のどなたと話し合いされますか。
  410. 朝田静夫

    ○朝田証人 問題によって違いますが、そういう事業計画とかあるいは機材の購入計画の問題については、運輸省の監理部の監督課を中心に話をいたしております。
  411. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 監督課長ですか。
  412. 朝田静夫

    ○朝田証人 事務当局の話は、監督課長あるいは課長補佐、そういう者と私どもの経営管理室を中心に話し合いが進められております。
  413. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 そうすると、その認可がおりた翌年の四十六年二月、口頭でおたくに対して、この際国内線へのジャンボ転用は見合わしたらどうかという指導があった、こういうのですが、運輸省のだれが日航のだれにそういうふうに言ってこられたのですか。
  414. 朝田静夫

    ○朝田証人 先ほどお答えをいたしましたように、四十六年二月ごろから、当初の話は、国際線の国内への転用を見合わせて61を入れてきたらいいじゃないかというのは、四十六年の二月からそういう指導が始まって、そうすると問題点としてどういうことが起こってくるかという作業を事務方の方でやっております。それから後引き続きまして、私どもはもうすでに取得認可を前年の十一月に取得しておるわけでございますから、これじゃ困る、これでは機材の手当ても済んでしまっておるし、いまさら61を買い足したりしますと、乗員の組数が非常に大きいものになりますから、乗員の養成に支障を来す、ことにまたそういうものを、国際線に使います。三号機−一六号機をデリバリーを延ばすというようなことになると多額の支払いをメーカー側にしなければならぬ、こういうようなことでいろいろ反対の意向を表明してまいりましたが、六月一日メモというのがございまして、これは、それに従ってまたいろいろな検討をし、反論をいたしておったのでございます。これは局長の意向だということで、事務方がそういうメモをもらってきておるという事実はございます。
  415. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 いまの指導は、四十六年二月から六月にかけてそういう指導が何回ぐらいあって、何回ぐらいおたくとのやりとりがありましたか。
  416. 朝田静夫

    ○朝田証人 回数は、私、いま覚えておりません。
  417. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 その当時ロッキードが搭載をしておるエンジンの、英国のロールス・ロイス社が倒産をした、四十六年二月四日ですか、そのことは当時もう航空業界に知れわたっておることですから、社長さんは御存じでしたか。
  418. 朝田静夫

    ○朝田証人 倒産をした事実は知っております。
  419. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 四十五年の末にジャンボの国内線転用を認めておって、そして二カ月たたないうちに逆にそれを見合わせろという指導がある。いま、日航としては反論をなさった、こういうことでありますが、その当時これは行政のあり方として非常におかしいのじゃないか、そういうふうに日航の皆さん方は思われたということを聞き及んでおるのですが、そのときに、これはどうもおかしいぞというふうに考えておられましたか。
  420. 朝田静夫

    ○朝田証人 私、率直に申し上げますと、おかしい、これは行政指導としても、取得認可をおろしておきながら、後でそういうことが起こるということは少し理解しにくい、こういうふうに考えております。
  421. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 その当時日航に対して特定の政治家がいろいろアドバイスあるいは意見を言ったというようなことはありましたか。
  422. 朝田静夫

    ○朝田証人 この問題についてはございません。
  423. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 運輸省の指導は、主として日航が運輸省に呼ばれて行われたのですか。それとも、運輸省の方が日航の方に出向いて指導するという場合はありましたか。どちらが多かったですか。
  424. 朝田静夫

    ○朝田証人 私どもの方から出向いて説明をしていたと思います。
  425. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 さらに、自民党の航空対策特別委員会というのが設置されておることは社長さん御存じですか。
  426. 朝田静夫

    ○朝田証人 存じておりました。
  427. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 航空三社の社長さんが当時再三そこに呼ばれたということを聞き及んでおるのですが、呼ばれていろいろ意見を言われたことがありますか。
  428. 朝田静夫

    ○朝田証人 たびたびといって、そう回数は多くないと思いますが、航空対策特別委員会に出席をして意見を述べたことはございます。
  429. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 社長さんは、四十七年六月二十六日に自足党航空対策特別委員長の福永一臣さんの名前で当時の運輸大臣に対して「航空企業の運営体制に関する件」という試案が出されたということを当時聞かれましたか。
  430. 朝田静夫

    ○朝田証人 当時そういうことを間接的に聞いたことはございます。
  431. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 その内容についても聞かされましたか。
  432. 朝田静夫

    ○朝田証人 その内容についても間接的に伺って承知をいたしております。
  433. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 この自民党航空対策特別委員会が運輸大臣に提出した文書が日航にもある、日航の当時の資料ファイルに公式文書として挿入をされておるということを私は聞いておるわけでありますが、そういう事実がありますか。
  434. 朝田静夫

    ○朝田証人 これは公式文書として受領したものではございません。間接的に知っておりますというのは、どういう経路で入ってきたかわかりませんが、私どもの手元にあるということでございます。
  435. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 この運輸大臣あての文書がなぜ日航の皆さんの手元にあるのか、そういう点についてはお調べになってみましたか。
  436. 朝田静夫

    ○朝田証人 その点を、どういう入手経路であるかということを私は調べたことはございません。
  437. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 お読みになりましたか。
  438. 朝田静夫

    ○朝田証人 当時読みました。いま詳細に記憶はいたしておりませんが、その当時は読みました。
  439. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 その前文に、日航に対して非常に厳しい前文が——これは本委員会に資料として出されたものですが、これをお読みいただいて結構です。——それを見ますと、日航に対して非常に厳しい案文に前文はなっておりますね。その前文について当時——当時は知らなかったのだそうですが、見られてどういうふうに思われますか。
  440. 朝田静夫

    ○朝田証人 当時、私どもは、こういう案が出ましたことに対して、まことに困るということで反対の意見の表明を後ほどいたしておりますので、この文書に対しては、私どもは承服しがたいという考えでおります。
  441. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 その文書と、それから四十七年七月一日運輸大臣の指導文書として出された——これは公文書がおたくにいっておると思うのでありますが、それとの相違点が、いまそこで見られておわかりになりますか。
  442. 朝田静夫

    ○朝田証人 いまの先生の御指摘のもう一つの案というのは、七月一日の大臣通達のことでございますか。(松浦(利)委員「そうです」と呼ぶ)四十七年の七月の大臣通達との相違点は、ただいま拝見をいたしまして、的確に指摘を申し上げられませんが、そういう点はわかります。
  443. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 前文だけが大臣通達と違っておって、それ以外の内容についてはほぼ同じというふうに理解をされますか。
  444. 朝田静夫

    ○朝田証人 前文はもちろんのことでありますが、細部の具体的な「事業分野」以下各項目についても違っておると私は解釈いたしております。
  445. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 ここに全日空が運輸省に陳情した文書の前文があるのです。これはここでお見せいたしませんが、当時運輸業界に、どうもそこにあるその前文は全日空が運輸省に陳情した前文と同じだというようなうわさが当時日航関係者の間に出ておったということを私お聞きして、ここにその陳情の前文を打っておるわけですが、これはあなたにお示しする必要はありませんので。そういううわさがすでに流れておったということを私は最近お聞きをしたわけですが、社長さん、そういうお話は承っておりましたか。
  446. 朝田静夫

    ○朝田証人 全く同じであるということは、私は確認いたしておりませんが、そういううわさは聞いたことはございます。
  447. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 さらにお尋ねをいたしますが、この七月一日の運輸大臣の通達が出されて以降、全日空とエアバスの導入について話し合いを持たれておるわけでありますが、何回ぐらい全日空と話し合いを持たれておりますか。
  448. 朝田静夫

    ○朝田証人 この通達が出されまして以後話し合いをいたしましたのは、これはともかくといたしまして、大臣通達に、四十七年から沖繩線だけジャンボを投入する。沖繩本土復帰後の需要増大、急増に対してどうしても私どもは大型機を入れたい。当時、復帰まは国際線で私どもが運営をいたしておりましたので、当時からジャンボという大型機を投入したいということを言っておりましたので、四十七年の七月一日の大臣通達には、沖繩線のみ認めるということであるけれども、全日空と協議をして、その便数、時期等について協議をしなさい、こういうことが大臣通達にありまして、その間の話し合いをいたしました結果、福岡−沖繩という路線については十分協議をしてもらいたいとか、あるいはその他の国内幹線についての導入というのは四十九年にしてもらいたいというような話し合いをいたしました結果、そういうことの了承を得て、たしか八月一日から沖繩へ就航したと記憶いたしております。
  449. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 最終的に四十七年十月八日、日航はジャンボ、四十七年十月三十日、全日空ロッキードを導入する、一〇一一を導入するということが最終的に決まるわけでありますが、お互いにどの機種を選定するかということについて、当初、同一機種、同一機材という運輸省の指導から外れるわけでありますから、その点について最終の詰めを全日空と日航でやられたのはいつでございますか。
  450. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十五年当時、機種統一が望ましいという程度でございまして、その後、機種の問題については行政指導はなかったと私は信じております。したがって、全日空打ち合わせをいたしておりましたが、機種の問題については、結局同一機種でなくてもいい。といいますことは、この飛行機がよくてこの飛行機が悪いんだというような問題ではございませんで、私どもの航空機を選定する場合に当たって、その航空会社が運営している路線構造によってやはり決まってこなければなりませんので、私どもも長距離の国際線を運営いたしておりますので、長距離にも併用できるということにならざるを得ない。全日空さんは国内だけ、あるいは近回りのチャーターをやっておられますが、そういう程度でいい、こういうことで、どうしてもその航空会社の運営しておる路線構造によって決まるというので、必ずしも統一をする必要はないという結論になったように聞いております。
  451. 松浦利尚

    ○松浦(利)委員 時間も来ましたが、最後に、「タイム」の四十七年十一月十三日の中に、トライスター購入を決めた全日空に関して、日本航空副ゼネラルマネレジャー、この人は、うちの方でいろいろ調査をしましたが、これは経営管理室の次長さんですね。福西徹さんが、「私はこの選択に幾分驚いている。」ということを「タイム」のハーマン・ニッケル支局長に電話で言っておられるのです。ということは、日航としては当時、日本航空全日空も同一機種、同一機材ということであれば当然ダグラスに行くものだ、全日空ダグラスに行くのじゃないだろうかというふうに日航側は考えておった、いろいろな行政指導はあったけれども、機種選定についてどうせい、ああせいということはなかったけれども、いまずっとお話ししておるけれども。しかし、実際には、この方の「タイム」の言葉を引用さしていただければ、当時やっぱりダグラスが日航も全日空も採用されるものというふうに思っておったのに、全日空がトライスターを発表したのは非常に意外だというふうにコメントしておられるのですが、それが日航として当時の偽らざる空気だったんじゃありませんか。
  452. 朝田静夫

    ○朝田証人 福西次長が「タイム」の取材においてそういうことを発言したのか、どういうバックグラウンドであったか、私は存じませんが、日航としても、ロッキード一〇一一を全日空さんがお選びになるよりもDC10がよかったのだという考えは持っておりませんでした。私が先ほど申し上げますとおりに、その航空会社の運営している路線構造によって違ってまいりますから、私はそれはそれでいいんだろう。福西次長のは公式見解ではございません。
  453. 田中伊三次

    田中委員長 それでは、三浦久君。お待たせしました。
  454. 三浦久

    ○三浦委員 証人にお尋ねしますが、あなたは昭和四十三年から四十四年の七月まで、機種選定を中止するまでの間、ロッキード一〇一一とDC10を同じように扱ってきた、平等に機種選定の対象にして検討を続けてきた、こういうふうに言われましたね。ところが、どうも言葉どおりに受け取れないような事情というものがたくさんあるのです。  それでお聞きしますが、ここに「エコノミスト」の昭和四十一年九月六日号があります。四十一年の九月六日号です。それで、当時の日本航空社長の松尾さんがいろいろ「エコノミスト」の記者のインタビューに答えております。「この人と一時間」という記事ですね。その中に「東京−大阪間にごく短距離のジャンボを入れる。ジェットの大きいやつで、とにかく二五〇人から三〇〇人ぐらいのもの。それは長距離飛べなくてもいい。ごく短距離のものが、世界的に非常に要求されているんです。僕も、もちろんアメリカのダグラス要求してある。」こういうふうにはっきり述べているのですね。それから一年たった昭和四十二年八月十五日号です。同じく「エコノミスト」です。そして「この人と一時間」という記事です。一年前と同じ形式なんですね。ここの中でやはり「二五〇人から三〇〇人、いまの飛行機の二倍から二倍半ぐらいの客席を作るわけです。そうすると、いまの新幹線の二等運賃ぐらいで、東京−大阪をいわばエア・バスという形式でやる方法があるんですよ。」こう言っているのですね。そして「長距離のジャンボー・ジェットはボーイングでできたけれども、今度はごく短距離のジャンボー・ジェット。航続距離は一〇〇〇マイルぐらいでよろしい。それで三〇〇人ぐらい乗れる。こういうものが欧州でもやはり必要なわけですよ。」日本だけじゃなくて、欧州でも必要だ、こう言っているのですね。だから、このときはボーイングはもう除外しているわけですよ。二百五十人から三百人ぐらいのエアバスが欲しいんだ、それでぼくはダグラス要求してある、こう言っている。そうすると、これは全く白紙状態だったとか色がついてなかったということが言えないのじゃないかと思うのですけれどもね。あなたは、この松尾さんがダグラス要求してある、三百人乗りのエアバスを要求してあるということは、知っておりましたか。
  455. 朝田静夫

    ○朝田証人 ただいまお話しの点につきましては、四十一年から四十二年にかけてでございますから、その時代にはまだそのエアバスというものが具体化しない、ユーザー側からの、いわゆるエアラインからのいろいろな要求というものは出されておる、そういう非常に公式的なものではなかったと私は思います。したがって、いろいろなユーザー側がいろいろなりクワイアメントを出すということで、四十一、二年の当時そういうことをおっしゃったんだろう、今日においてそう推測をいたしております。
  456. 三浦久

    ○三浦委員 そうすると、四十一年の九月当時は、ダグラスDC10の生産計画は立てていなかったということになるのですか。
  457. 朝田静夫

    ○朝田証人 その点については、私、事実としてはっきりいたしません。
  458. 三浦久

    ○三浦委員 当時もう生産計画がスタートしているのです。四十一年の四月にスタートしています。ですから、生産計画がスタートしている段階でダグラス社要求しているということは、結局どういうことを意味するのですか。あなたは当時専務でしょう。すると、専務であるわけですから、松尾さん自身がダグラス社要求しているということであれば、当然あなたも知っているはずだと思うのです。さっきのあなたの証言では、松尾さん個人がオプションをしたり、勝手気ままな行動はうちの社の組織としてはできないようになっている、こうおっしゃっているわけですから、要求しているということは、要するに、あなたの日航用の仕様でこういう飛行機をつくってくれというふうに要求しているという意味なのか、一般的にDC10をつくってくれという要求なのか、あなたはそれを御存じだと思うのですが、いかがですか。
  459. 朝田静夫

    ○朝田証人 私は、日航用のDC10あるいはエアバス、そういうようなものをこういう性能でつくってくれということを正式に言われたことではないと思うのです。あるいはメーカーあたりが表敬訪問に来たときに、将来はこういうものも必要ではないかというような、そういうことを言っておられるんじゃないかと私は思っております。
  460. 三浦久

    ○三浦委員 そうすると、少なくともこういう公の雑誌、エコノミストでもってダグラス製造要求しているんだと言っていくながら——実際にこれは要求していると思うのですよ。要求しておきながら、DC10かロッキード一〇一一か全く白紙だ、そういう状況ではないと思うのですね。四十三年の暮れから始めているわけでしょう、それで四十四年もずっと機種選定しているわけですからね。ですから、私は、全く白紙だった、色がついていなかったということは言えないのではないかというふうに思うのです。  それでお尋ねしますが、この昭和四十四年七月に機種選定を中止する以前に、DC10について、日航は、オプションを含めて、発注は全然しておりませんか。さっきはオプションというふうに聞かれましたから、オプションはしておりません、こういう答えなんですが、オプションを含めて、あらゆる発注行為というのはしておりませんか。
  461. 朝田静夫

    ○朝田証人 オプション発注行為もいたしておりません。  ちょっとつけ加えさせていただきたいと思いますのは、四月の初めごろからそういうことが新聞に報道されて、私どもはなはだ迷惑をいたしておったわけでありまして、松尾さんも亡くなられたことでもありますので、念のためにダグラス社の本社にその事実の確認を行っております。四月十二日付であったか、これは日付はあるいは間違いかもしれませんが、その付近にダグラス社から文書を受領いたしております。四十三年、四十四年ごろからのオファーを日本航空ダグラス社として出しました、しかしこのオファーは受諾されませんでした、故松尾会長からも何らの言質も約束も得られませんでした、なお三井物産との間にも日航のためにする契約というものも約束もありませんでした、したがって、昭和四十三年、四十四年ごろからオファーを出したDC10について、昭和四十八年十二月、DC10−40を購入通知を受けるまで何らの形式による約束も契約もありませんでした、という文書の確認を得ております。
  462. 三浦久

    ○三浦委員 ちょっと文書を示したいと思います。
  463. 田中伊三次

    田中委員長 はい、どうぞ。
  464. 三浦久

    ○三浦委員 これはおたくの部内資料なんですけれども、——ここに四十八年十二月に仮発注して、四十九年六月に正式契約をしたDC10の六機の番号が書いてあるのです。これがシリアルナンバーですね。たくさん番号がありますけれども、一応シリアルナンバーだけ見てください。その番号は間違いないでしょうか。
  465. 朝田静夫

    ○朝田証人 私、いま手元に資料がございませんので、間違いがないかと確認を求められましても、しっかりした答えができませんが……。
  466. 三浦久

    ○三浦委員 それは航空局にも確かめてある。
  467. 朝田静夫

    ○朝田証人 それなら、間違いがないと思います。
  468. 三浦久

    ○三浦委員 それはいま私がお話ししましたように、昭和四十八年十二月にあなたの方の会社で正式に発注するということを決めて、そして仮発注されて、それで正式な契約は四十九年の六月でしょう。そうですね。そのDC10六機であるということは間違いないですね。  午前中の石黒三井物産顧問のお話によりますと、三井物産は、昭和四十四年七月から四十五年十月までの間に全日空向けDC10を六機発注した、こう言われているのです。そのシリアルナンバーを見てみますと、この日航のシリアルナンバーよりも後から設定されているのです。ちょっと参考までに資料をお見せいたします。——その書面によりますと、おたくの、四十八年に仮発注して四十九年六月に確定発注したDC10の六機は、二つのグループにシリアルナンバーが分かれているのです。それは製造番号とも言いますね。シリアルナンバーというのは、耐空証明書、それから登録証明書に必ず記載しなければならない番号ですね。それが二つのグループに分かれています。そしてその二つのグループが三井物産確定発注した六機の前後に三機ずつ分かれているのです。そういうことになりますね。  番号を読んでみますと、三井物産のシリアルナンバーというのは、一番若いのが四六七〇四なんです。それよりも日本航空の三機は若いのです。四六六〇〇から四六六〇二まであるのですね。後の三機は三井物産の一番最後の番号の四六九〇七、これよりも少し下がって四六九一三から続いているのですね。そうしますと、四十九年六月に契約したものが四十四年七月に発注したものよりも時間的にもっと先のナンバーがついているということなんです。これはどうしてそういうふうになったのでしょうか。
  469. 朝田静夫

    ○朝田証人 非常に専門的な御質問で私も十分お答えできないかもしれませんが、製造番号というものと機体番号というものがございます。私ども購入契約をいたします場合に、私が部内から報告を受けたり説明を聞いたりしているところによってお答えをするのでございますけれども、機体番号と製造番号というのがございますが、これは購入契約をするときに航空会社に知らされていない番号なんでございます。私どもの必要とするのは、受け渡し期日、デリバリーの期日だけを守ってもらえばいいので、確定契約をいたします場合にもこういう番号は入ってこないのです。ですから、どうしてそういう番号をつけたかということは、メーカーの中の製造管理、生産管理の上で便宜的につけるものもございましょうし、それが受け渡し時期というものと関連があるのかないのか、私どもは承知いたしておらないのでございます。
  470. 三浦久

    ○三浦委員 それは私は真実を述べている態度じゃないと思いますよ。私、素人です。調べてみました。DC10がいままで販売されているのは約二百五十機ぐらいです。ちょっとダブっているのもあります。ダブっているというのは、リースされたり何かしていますから。そうすると、二百五十機以上あるのですよ。それを私、全部シリアルナンバーを調べてみました。そうすると、大体契約された順序にずらっと並んでいるのです。十機一緒に契約すれば、十機ずらり並んでいます。  それで、私はあなたがそう言われるだろうと思って、あなたの方でもうすでに手に入れておられるボーイング747の製造番号、シリアル番号、これも全部調べてみました。ごらんになってください。——これをごらんになると、全部、三機発注していれば三機連番です。五機発注したら五機全部連番です。そして、先に発注したものほど若い番号になっているのです。これは法則ですよ。  それから東亜国内航空DC9も調べてみました。これはダグラスですが、そうすると、やはり四十八年の六月と四十九年の七月と二回に分けて発注されていますけれども、一グループごとに全部連番です。そして早く発注したものほど若い番号がついているのです。これがシリアルナンバーの法則だと思うのですね。  そうすると、私は三非物産DC10を確定発注したその前後に、あなたの方で今度六機新たに発注したもののシリアル番号が分かれているということは、少なくとも四十四年の七月以前に三機、四十五年の十月ごろに三機、あなたの方で発注しておったという疑いが非常に強いと思うのですが、この点についてはあなたはどういうふうに思われますか。
  471. 朝田静夫

    ○朝田証人 ここに製造番号と機体番号と両方ございますが、機体番号は、大体そのデリバリーの時期はそういう順番で行われるということを私は聞いておるのです。機体の組み立ての番号でございますから、時にはオプションがキャンセルになったとかいうことで繰り上がったり繰り下がったりすることはございましょうけれども、組み立ての順位に従って機体番号というものは、そのデリバリーが行われるということは、私は大体の通則じゃないかと思っておりますが、製造番号というのは、先ほど先生御指摘のように、アイデンティファイする、登録番号だ。これはメーカーが生産管理の上で勝手につける番号でございますから、これは余りデリバリーの時期と関係ないということを私は聞いておるのでございまして、それは飛び番があったり、あるいはキャンセルしてその間へ突っ込んだりするような、機体番号と製造番号と——製造番号というのは全くわれわれに知らされていない、機体番号もそうでございます。確定契約をいたしましてから後に知らされる番号であるということでございます。  そこで、いま問題にされておりますが、必ずそういうのがあったのじゃないかということでございますけれども、先ほど御説明をいたしましたように、昭和四十四年から四十八年十二月二十八日、日本航空DC10の40を購入通知を受けるまで、何らの形式においても実際のコミットメントもアグリーメントもありませんということを確認をいたしておるようなわけでございます。
  472. 三浦久

    ○三浦委員 だから、あなたの証言を確かめる意味で私は聞いているのですよ。ほかには全然例がない。DC8も調べてみました。みんな注文の順序に一連番号です。そして注文が早いほど番号が若いのです。それなのに、なぜ今回のDC10の六機の発注についてだけ、そういうように三井物産発注した、それよりももっと以前にぽんと番号が飛ぶ、それをどういうふうにあなたは合理的に説明されるのですか。あなたは、勝手にメーカーがつけるのでよくわからないなんと言いながらも、いろいろ説明されていますけれども、合理的な説明ができないじゃないですか、どうなんですか。それじゃ、どういうふうに説明されるのですか。四十九年の六月に正式発注したものが四十四年の七月に契約したDC10よりももっと古いナンバーがついているというのは、どういうことなんですか。そうなれば、四十四年の七月以前に契約をしておった、それをあなたたちは隠しておったという以外に推論のしようがないじゃありませんか。どうですか。
  473. 朝田静夫

    ○朝田証人 三井物産との関係では、これは製造番号ということになっておりますから、これは機体番号じゃございませんので、私は、先ほど申し上げました機体番号というのは、大体デリバリーの時期と一致する。それは製造番号じゃないのでございます。(三浦委員「そんなことはないですよ、シリアルナンバーですよ全部」と呼ぶ)これは生産管理の上でメーカーが自由につけられる番号だと私は聞いておるわけでございます。
  474. 三浦久

    ○三浦委員 自由にと言っても、たとえば、ことし発注したものを五年も六年もさかのぼって番号をつける、そんなことはあり得ないのですよ。そういうことが現実に行われているから、私は質問しているのです。  もう時間が終了したのですけれども、私はあなたが、児玉やその他の政治家の圧力で、DC10に決まっていたものをボーイング747SRに変えた、そういうことを隠すためにあなたは真実を述べていないのではないかなという疑いを持つのです。もうちょっとシリアルナンバーというものについて研究をして、そして真実を申し述べていただきたいと思います。  委員長、私、わずか二十分の時間だったわけです。まだまだたくさん質問することがあるわけなんですね。たとえばまず機種選定が四十四年の七月に突如として中止された理由。さっき聞いておりましたけれども、私はあれは全然人を説得できない理由だと思います。反論もあります。それからまたボーイング747SRを選定した理由、それがさらにDC10に変わっていく理由、行政指導の問題、いろいろあります。しかし、わずか二十分の時間では、私はこの全部を解明することはできないのです。この委員会は特に真実を解明するというのが任務なんですから、どうかそういう事情を勘案の上、朝田証人を再び喚問されるようにお願いを申し上げて、私の質問を終わりたいと思います。
  475. 田中伊三次

    田中委員長 鈴切康雄君。
  476. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 このロッキード問題が起こりまして、すでに地検の方もかなり捜査が進んでいるようであります。百八十人からの参考人並びに被疑者を調べたということでございます。午前中の三井物産においてもすでに六人が調べられたということでございますが、当然日航等についても地検において事情を聞かれたと思いますけれども、まず、関係者はだれが参考人として呼ばれましたか。それについてお伺いします。
  477. 朝田静夫

    ○朝田証人 具体的に名前を申し上げなければいけませんでしょうか。
  478. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 やはりこの問題は重要であり、日航については参考人として調べられていると私は思っておりますので、そういう意味において、どういうポジションの方が参考人として呼ばれたか。
  479. 朝田静夫

    ○朝田証人 関係役員……
  480. 田中伊三次

    田中委員長 証人にちょっと申し上げますが、具体的姓名でなしに、頭数でどうでしょう。
  481. 朝田静夫

    ○朝田証人 それでは委員長の御指示に従って、私、勘定したことがないのでございますけれども、少なくとも……
  482. 田中伊三次

    田中委員長 どういう地位の人が頭数どれだけ呼ばれたか、具体的姓名は遠慮する、こういうことでどうでしょう。
  483. 朝田静夫

    ○朝田証人 役員及び当時関係をいたしておりました役員、それから当時計画等あるいは調達関係をしておりました者、数にして約十人前後かと存じております。
  484. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 それから、地検の方にやはり日航としてお出しになった資料等がおありと思いますけれども、どういう内容の資料をお出しになりましたか。
  485. 朝田静夫

    ○朝田証人 私、いまここに詳細に記憶をいたしておりません。
  486. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 そういう方々が呼ばれて、どういう内容をお聞きになられたのでしょうか。
  487. 朝田静夫

    ○朝田証人 この問題は捜査の関係もございますので、私が直接事情聴取されたわけでございませんので、内容をちょっと申し上げかねると思います。
  488. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 このことについては当然社長であるあなたが聞いておられないわけはないわけでありますけれども、私はそれでは申し上げますが、地検で聞かれる内容についてはこういう問題が聞かれることが大体想像できるのですけれども、それについて御答弁を願いたいわけであります。  まず、機種選定委員会のメンバー並びに機種選定の経緯、それから第二番目は、昭和四十四年六月の常務会の内容あるいはDC10が白紙になった経緯、それから日航と関係のあった政治家、児玉との関係あるいはオプション契約の有無について、こういう内容が主たるものではないかというように想像されますけれども、それについて御報告は社長である以上はお聞きになっているはずでありますから、それ以上のことを私は聞こうと申し上げるわけではありません。
  489. 朝田静夫

    ○朝田証人 いろいろの資料提出も求められておりますし、それに対する説明、いま言われましたことも含まっておりますが、これが全部であるとも私ども考えておりませんし、もっとほかにもあるか、あるいはいま御指摘になった事項の中でも聞かれなかったことがあるかということは、いまちょっと明確にはできません。
  490. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 あなたは四十九年まで児玉さんとは面識はなかった、先ほどそのように御証言なさいましたけれども、もう一度その点については、それ以前に面識は全くなかったのかどうか。
  491. 朝田静夫

    ○朝田証人 全くございませんでした。
  492. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 四十九年以降において児玉さんとのおつき合いは、どういうおつき合いですか。
  493. 朝田静夫

    ○朝田証人 二回ばかり会った記憶がございますが、一回は私どもの方の職員が、男子職員と女子職員とが、児玉さんの知人の御子息でございまして、媒酌をだれかやってもらえぬかということが一つと、あとは私どもの方におりました人の退職後もよろしく、こういう程度のことでございます。
  494. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 あなたが児玉さんとかなり親しいと、いう関係は周知の事実だというふうにうわさに上っておりますから、あなたが御証言なさったことは必ずや後でそういう問題が出てこようと思いますが、それはさておいて、いまや航空業界というものはかなり大型、そしてまたスピードが要求されているわけでありますけれども、それに伴ってやはり人命の安全というものは重大な問題ではないかと思うのです。その点について日航の社長としては、人命を安全にするということ、これは重要な問題であるというふうにお考えになっておられるかどうか。
  495. 朝田静夫

    ○朝田証人 航空会社の絶対至上命令というのは、安全性の確保であるということは申すまでもないのでございまして、私どもも四十七年に連続事故を起こしまして、それ以後大変な安全対策と取り組んでまいり、日夜安全運航ということに全社員、役職員挙げて取り組んでおる問題はこの問題でございます。経営の当然の根本問題であり、むしろ絶対命題だというふうに心得ております。
  496. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 確かに日航においては、昭和四十七年においてかなりの事故を起こしておりますね。ニューデリー、そしてジェフあるいはモスクワ事故等を起こしておるわけでありますけれども、通例人命事故を起こした場合においては社長が引責辞任をする、これが常識なんですけれども、その当時、当時の運輸大臣も朝田さんに辞任をしてもらうのだということを言っておったわけでありますが、あなたが昨年さらに留任を認められました。このことは航空業界では大変に不思議な一つでありますけれども、そのいきさつと理由についてお伺いします。
  497. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十七年にお話しのように連続事故を起こしまして、私も最高責任者として深く責任を感じております。国会でも、運輸委員会でその話も、御質問もございまして、私は参考人として出席をいたして、当時も私の考えを述べております。  当時、私は実はやめさせていただきたいということを、まだ御存命中でありました松尾会長に申し出たのでありますが、それはあなたがやめてすぐ事故というものがなくなるわけじゃない、むしろ今後再びそういう事故を起こすことのないようにあらゆる安全対策をやってくれ、こういうことでありましたし、私自身もやめて責任が解除されるとは思っておりませんし、当時私はいろいろな人の意見を聞きまして、ぜひやめさせてもらいたい、私は責任をとる上においてどうしてもやめさせてもらいたいといろいろな方面にも申し上げたわけでございますが、運輸大臣初め私どもの会社の相談役、いろいろな方にもそういうことを申し上げておったわけでございますけれども、安全対策をまず徹底的にやって、二度と再びこういう事故が起こらないようにするということの方が責任を果たすゆえんじゃないかという多くの方の意見に従って、私がもう一度留任をさせていただき、その安全対策を、八十八項目にわたります対策を全部総合安全推進本部で決定をいたしまして、これを全部実施に移しております。当時私はモスクワから、現場から帰国をいたしまして、直ちに総合安全推進本部を設けまして、その本部長にみずからなって、ことごとくこの安全対策の各事項を決定をいたして、今日まで努力をいたしておるわけでございます。  そういう意味において、私は責任は痛感いたしておりますが、多くの皆さんの方の、各方面の意見とあわせて判断をいたしまして、今日まで留任をさせていただいておるような次第でございます。
  498. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 さらに、非常勤取締役は日航においては大体二年でかわることになっておりますけれども、これは慣例になっておりますね。ところが、小佐野氏、五島氏はその慣例を破ってあなたと同様に留任をされておるわけでありますけれども、その点どういう理由ですか。
  499. 朝田静夫

    ○朝田証人 いわゆるローテーションシステムと申しまして、持ち回りでやっておりました慣例もございますが、もう少し前の時期においては、二期続けて非常勤取締役も在任しておられたこともございます。  そこで、当時まあいろいろ、これは事故後ではございませんで、昨年五十年に再任をされておるわけでございますが、これはそのときに四十八年暮れ、四十九年当時からのオイルショックで私どもの経営環境が厳しくなりまして、深刻な影響を受けて、しかも台湾問題をぶち切られるというような政治外交的な問題もこうむりまして、大変な大赤字を出したわけでございますが、そういった経営の実態をよく認識をしてもらって、そしてその経営危機を乗り越えていくのに、できるだけ現体制をそのままにして乗り切ってまいりたい、私はこういうふうに考えて、御留任をいただいたような次第でございます。
  500. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 四十四年三月当時、決定しかけていたDC10を白紙に戻されたわけでありますけれども、さらに四十七年の十月のエアバス導入でDC10を拒否された。そして、ボーイング747SRを選択されたわけでありますけれども、しかし、四十八年の十二月に、一度白紙還元をしてそしてボーイング747SRのその機種をお使いになったのを、なぜもう一度ここでDC10を導入することになったのでしょうか。
  501. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十四年当時白紙還元をいたしましたDC10、四月ごろまでに検討をいたしておりましたのは、DC10−10というタイプでございます。四十八年の十二月に採用を決定いたしましたのはDC10−40というタイプでございまして、これは全く航続距離も違いますし、別個の飛行機と言ってもいいくらいのものでございます。DC10−10から比べますと、航続距離も五十何%長い足を持っております。  私どもはなぜこういうようなものを選定をしたかと言いますと、いま御指摘になりましたモスクワ事故、連続事故以来安全対策を考えてまいりまして、将来機種構成も長期の安全対策を講じていかなければならぬ。DC8の後継機を選定いたしまして、現在国内は、いまお話しの747SRとDC8−61でやっておるわけでございますが、この機体構成でなかなかやっていけない。61というものはだんだん退役をさせていかなければならぬ。長期の安全対策と深刻化する環境問題に対処するためにも、ノイズレベルの低いものにかえていかなければならぬ。こういうことと、DC10−40というのは、国際線でもジャンボでは大き過ぎる、それよりも中くらいのいわゆる需要の規模に対応する路線に適合する、DC8−61の後継機と同時に、国際線用としてはそういう中規模の需要規模に適合する機材として選んだわけでございまして、また、乗員養成、機長養成の上からいっても、このDC10−40というものを通じて行うことがきわめて容易である、比較的やさしい、こういう観点から選定をいたしたものでございます。
  502. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 本来、航空機会社は同一機材をできるだけ導入するということは、これはもう当然のあれなんですね。そして今度併用ということになりますれば、当然それに対する乗務員の訓練とかあるいは設備とかいうことで二垣のむだ遣いになるわけですね。それは考えられない理由ですよ、実際には。しかも、日航としてはボーイング747SP、これについてすでに八月、九月ごろにはもう決定するという段階になっておったというふうに日航の方々は言っているわけでありますけれども、それが急にこういうふうになったということについては、大変に疑惑が実はあるわけでありますけれども、実際に日航がボーイング747SPに決まるということで、三井物産としては物すごく、言うならばこれの巻き返しを図ったわけです。そしてしかも、山梨県人グループ、これを山申会というんですけれども、山申会を通じて、その人脈を通じて、そして小佐野氏の方に働きかけた、そして小佐野氏を通じてさらにある人を頼んだというような、そういううわさがあるわけであります。ですから、小佐野氏あるいはそれに関連する、頼まれた方に対する働きかけあるいは工作があったかどうか。それによってDC10が決まったというふうに言われているわけでありますけれども、その点についてはどうなんでしょうか。
  503. 朝田静夫

    ○朝田証人 小佐野氏からの働きかけということによってそういうことが行われたということはございません。
  504. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 このDC10のいわゆる購入価格を私、調査しましたけれども、外国機に比べてかなり高い値段でお買いになっているようですが、これはどういうわけでしょうか。
  505. 朝田静夫

    ○朝田証人 エンジンそのものが、DC10−40で今度つけておりますエンジンというものは非常に出力の高いエンジンであります。将来ジャンボもこのエンジンを使えるだろうというようなこともありまして、プラット・アンド・ホイットニーのエンジンをつけております。大体DC10というのはGEのエンジンあるいはプラット・ホイットニーのエンジンでもこれよりも出力の非常に低い、そういうエンジンをつけておるわけでございまして、私どもの航続距離も、DC10−40というものとDC10と同じように考えていただくとはなはだ困るわけでございますが、10の10と40というものとは全然別個の飛行機だというふうにもお考えいただいて差し支えないと思うわけであります。
  506. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 私はDCl0−40ということで大体申し上げているわけでありますけれども、これはまた後で何かの機会にお聞きをするということにいたします。  先ほどプロポーザルの有効期限を一寸刻みに延ばしてきたとあなたはおっしゃったですね。その一寸刻みに延ばされてきたというのですけれども、やはりプロポーザルというのは有効期限があるのでしょうか。
  507. 朝田静夫

    ○朝田証人 その条件提示には有効期限がございます。
  508. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 そうしますと、ダグラス社ロッキード社にプロポーザルをされてあるわけでありますけれども、それはいつおやりになって、どういう内容であったかということをちょっとお伺いします。
  509. 朝田静夫

    ○朝田証人 プロポーザルはメーカーの方から提示をしてくるわけでございます。
  510. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 だから、メーカーの方から四十四年の二月と六月に恐らく日航の方に来ていると思うのです。ダグラス社は四十七年末には十機渡せるという返事が来ていると思うのです。ロッキード社は四十六年、四十七年には渡せる機材はない、こういうふうに日航の方に条件提示の返事が来ていると思うのですが、その点はどうなんでしょうか。
  511. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十三年暮れから四十四年にかけてプロポーザルがございまして、ロッキード一〇一一は、四十七年に渡せる飛行機はないということはございます。プロポーザルがあったのですから、一月初頭から検討いたしておったわけでございます。したがいまして、四十七年用として四月ごろまで検討いたしておったわけでございます。  それから長距離用のエアバスというものを考えなければいかぬということで、七月白紙還元に至るまでその選定作業をやっておった。長距離用については、ロッキードというのは、先ほどお答え申し上げましたように、出てまいりませんでした。今日に至るまでロッキード一〇一一の長距離型というものは出ておりませんのですから、それは間に合わないということはそういうことで言われておるのじゃないかと私は想像いたします。
  512. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 最後でありますけれども、いわゆる長距離用について、ロッキード社はプランだけであって、実際には出ていないわけですね。ですから、エアバスの問題について、四十七年度においては当然渡せる機材はない、こういうふうに日航に条件提示をしてきているわけです。しかも片一方のダグラスの方は四十七年には十機渡せるということであれば、当然これはもうDC10の方が日航の方では先行しているし、そういう意味から言うならば、DC10について国策会社である日航でそのような状態を明示をするということ自体、そういう意思表示をある程度するあるいは話し合いをしていること自体が、もうすでにオプション契約につながっていくような状態になってくるわけであります。すでにダグラス社は、いろいろと日航に対してオプション契約の機体番号も押さえ、——二九、三〇ですか、それをやったということは言われているわけで、そういう点について、時間がございませんので、まだまだ内容的に解明できない点もありますけれども、やはり証人として呼ばれた以上は明確に、そして正確に質問に答えていただかないといけないのじゃないかと思います。  以上です。
  513. 田中伊三次

    田中委員長 河村勝君。
  514. 河村勝

    ○河村委員 最初に、先ほどの証言の中で、四十四年七月に機種選定作業を中止をしたその理由として二つを挙げられたと思います。一つは、四十四年の四月ごろに、それまで四十七年にエアバス導入の予定であったものを四十八年に延期をした、だからそう急ぐ必要はないということ。もう一つは、七月ごろにボーイング747SRという、日本航空としては非常に魅力のある航空機のプロポーザルがあった、そういう理由があったので、ダグラス並びにロッキードからのプロポーザルが七月末で期限が切れるから、その時期に中止を決定したのだ、そういう説明であったと思いますが、それでよろしゅうございますか。
  515. 朝田静夫

    ○朝田証人 そのとおりでございます。
  516. 河村勝

    ○河村委員 この四十四年の四月に、四十七年導入を四十八年に延期をしたのは、どういう理由ですか。
  517. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十七年に導入をいたしますと、当時、四十五年からジャンボという大きな飛行機が入ってくるわけでございますから、エアバスというようなものよりもさらに大きな飛行機が就航をするわけでございます。四十四年当時、もう一年すればボーイング747が就航をする。それから二年たって四十七年に至りまして新しい機種、エアバスを導入いたしますと、これは整備体制にも無理がいく。先ほど安全性の問題がございましたが、整備工場あるいは整備体制全体に非常にロードがかかって無理だという意見が当時整備本部の現場からも出てまいっております。そういうこととあわせて考えて、長距離の、先ほどから申し上げておりますように、国内線、国際線両方やり得る一つの機種飛行機でそういうものを運営してまいらなければなりません。これはいろいろな問題を包蔵いたしておりますので、ゆっくり検討する必要があるということでございます。
  518. 河村勝

    ○河村委員 四十五年にジャンボ就航を決定したのはいつですか。
  519. 朝田静夫

    ○朝田証人 私の記憶によりますと、多分四十五年の七月だったと記憶いたしております。
  520. 河村勝

    ○河村委員 ちょっと、四十五年導入を、四十五年七月はおかしいですね。ジャンボの導入を決めた時期ですよ。
  521. 朝田静夫

    ○朝田証人 決めましたのは昭和四十一年でございます。
  522. 河村勝

    ○河村委員 そうしますと、これは何も七月に限ったことではなくて、もうすでに四十三年末にダグラスロッキードからプロポーザルのある以前から決まっていたことですね。ですから、そのことはもう初めからわかっておったので、新しくできた理由ではありませんね。
  523. 朝田静夫

    ○朝田証人 四十一年にジャンボの導入を決定いたしまして、四十五年に就航いたしております。そこで、新しいエアバスを考える場合に、別な機種飛行機が入ってまいりますと、整備体制ではなはだ無理がいく。ということは、四十五年に就航いたしてまだ二年でございますから、二年でまた新しい飛行機をやるということは、多数の部品の管理あるいは整備、マニュアルからいっても、それを和訳して日本語に直すのに大変なロードがかかるということであったのでございます。新しい飛行機の導入についての無理が生ずるということでございます。
  524. 河村勝

    ○河村委員 ですから、747のジャンボは四十一年に決まっておったわけですね。そうすればもう四十三年末のプロポーザルを検討するまでもなく、747でなければならぬということになってしまうわけですね。そうじゃありませんか。
  525. 朝田静夫

    ○朝田証人 747の導入というのは、初めから国際線に就航を予定していた。パンアメリカンが四十七年の一月ごろに導入しておりますから、国際競争の激しい中でそれに太刀打ちしてまいります上においてどうしても初期に投入しなければならぬ。これは国内のエアバスとは関係なしに、すでに国際線として導入を決定していたわけでございますから、SRというのは、同じジャンボでございますけれども、これを国内線用にデザインされた新しいエアバスの一種、こういうふうに考えておるわけでございます。
  526. 河村勝

    ○河村委員 その747SRのプロポーザルにしましても、あなたの発言では四十七年七月になっておりますね。そうすると、七月にもう選定作業を中止したわけですね。747SRが出てきた途端にもう選定作業を中止したという非常に奇妙なことになって、いまの問題とともにどうも理由が不足のように思われるのですけれども、本当の理由はほかにあったのじゃないでしょうか。  先ほどからオプションというものの存在を否定されますが、しかし、日航とダグラスというのは特別な関係がございます。ダグラスDC7、8、長い間のつき合いですね。ですから、あるいはあなたが御存じない場合であっても、しかし、当時の松尾社長がいろいろな事情でデリバリーポジションとそれから価格を一応押さえるというようなことは、格別のオブリゲーション、もしそれが取り消されても別段日航の被害なしに約束ができる、私はそういう状態であったと思うので、周辺の事情から言うと、やはり一般に報道されておりますように、一応そうしたものがあったと考える方がむしろ常識的ではないかと私は考えるのですが、そういうことをお考えになりませんか。
  527. 朝田静夫

    ○朝田証人 そういうことが報道されておりましたし、いま御指摘のように、松尾前社長ダグラスとの特別の関係でそういうことが、製造番号だけを押さえるということがあったのじゃなかろうかということでございますが、先ほどオプションの定義といいますか、御質問の際にも申し上げましたように、私どもはそういうものはやったことはございません。やったのは、製造番号と価格あたりを押さえるというオプションをやったのはコンコルドとアメリカのSSTだけでございますということを申し上げておるわけでありまして、伝統的にそういうオプションをやったことはございませんし、特に松尾社長がそれじゃ単独におやりになるというようなことは、いままで長い間そういうことをやっておるのに、やれるような体制でないということは、そういうことを申し上げておるわけでございます。したがいまして、亡くなられておりますので、四月の十日過ぎにこの事実の有無を確認いたしております。ダグラス社も、四十三、四年のオファーは受領されなかった、日航との間にいかなる契約も約束も合意もなかったということを明確に文書でもって確認をいたしておるようなわけでございます。私どもは、あったのじゃなかろうかということで大変迷惑をいたしておりますが、これは事実無根でございます。
  528. 河村勝

    ○河村委員 ですから私は、格別なオブリゲーションなしにその約束ができる立場にあったんではなかったか、そういうことを申し上げたわけです。しかし、それ以上申し上げても仕方がないでしょう。  そこで、この中止をされたときの常務会ですね、これは七月の月末であったか、二十五日であったかというところで何かちょっと意見が分かれているようでしたが、あなたは月末だとおっしゃっているのですか。
  529. 朝田静夫

    ○朝田証人 私の記憶によりますると、七月の三十日だったと記憶いたしております。
  530. 河村勝

    ○河村委員 これは実は重大な問題なんです。これはあなたに申し上げても仕方がないのかもしれないけれども、七月の二十九日に全日空三井物産依頼をして、それでダグラス社DC10の契約を結んでいるわけですね、ファームオーダーとオプションを。そうすると、あなたの常務会でキャンセルが決まったのが三十日、その前日にすでにこれが行われている。それでその中身というものは、ダグラス社が日航に対してプロポーザルをした、その中身をそのまま振りかえた、そういう内容なんですよ。そうしますと、その三十日の常務会の前にそれができてしまったということは、何らかの事情で日本航空責任者から、もうDC10はやめたよ、だから頼むよと言って全日空依頼をした、そういうことにしかならないのですね。もしプロポーザルが日本航空との間につないであれば、まだそれが正式に常務会で決まらぬ前に全日空ダグラスと、この場合正式には三井物産ですけれども、これがダグラス社との間に日本航空の分を分捕って契約ができるはずがないのですね。ですから、どうしてもそこに何かがなければならない。いかがですか。
  531. 朝田静夫

    ○朝田証人 私は、その常務会が七月三十日という記憶は私の記憶の中にあるのでございますが、いま明確に資料を持っておりませんので、七月三十日と、私の記憶をしておるところによると、そういうことになっておるのでございます。  それから、日航用に考えておったというのは、メーカーなり三井物産の方の関係でございますから、私はよく存じませんが、それはメーカーがそういうふう考えておった、こちらは何らの意思表示もしないでそういうふうに予定しておったということじゃなかろうかと私は推測をいたすわけでございます。それが証拠に、四月に明確に、そういう事実の有無の確認をいたしておるわけでございますから、何らのコミットメントもアグリーメントも、約束も言質を与えたこともありません。こういうことを申し上げておきたいと思うのでございます。
  532. 河村勝

    ○河村委員 それはダグラス社とすれば、その後に確認をされれば、この場合、そう言わざるを得ないことになるのです。いま申し上げたような経過でなっておるのだから。だから、この点は、いまあなたは三十日が常務会であったと記憶をされている。きょうこれ以上議論をしても結論を出すことはできませんが、そこに大問題があるのだということを承知の上で、もう一遍検討してください。これはもし逆であれば、非常に不可解なんです。  それから次に、先ほどから議論になっております行政指導の問題ですね。先ほどから聞いておりますと、何か運輸省と日航との間に折衝がある、それは監理部の監督課の人間であるというようなことでありますが、一たん認可されたものを、それを短時日の間にひっくり返すということですね、この行政指導は。単なる行政指導ではなくて、一回認可をしたものを二カ月足らず、二カ月の間に格別の事情の変更もないのにそれをひっくり返そう——実際日航としてはそれによってかなりの損失を受けるわけですね。そうした重大なことを、それをあなたの言によると、監理部の監督課の職員とそれからおたくの方の経営管理室の職員と、この間の打ち合わせでやっておるということでありますが、しかし、それほど重大な問題が平素そういうような形で相談がされているのですか。
  533. 朝田静夫

    ○朝田証人 当初、延ばせばどうなるかというような質問がございまして——延ばせばというのは、正確に表現しますと、国内線に転用しないということになるとどうなるか、あるいは61を入れたら間に合うじゃないか、国際線から引き揚げてきてやれば間に合うじゃないか、あるいはまた一三号機から一六号機の購入契約をしたものを受け渡しを延ばしたらどういうことになるか、デリバリーを延ばしたらどうなるかというような質問の形で、そういうものの影響なりふぐあいさを検討するというときに申し上げた言葉でございまして、監督課と私の方の経営管理室がやっておる。後ほどやはり上の方に行きまして、監理部長なり局長なりというようなところの折衝はもちろん後ほどあったわけでございます。初期の段階においてはそういうことから始まったということを申し上げたつもりでございまして、あるいは言葉が足りないかもしれませんけれども、後ほどの問題としてはやはり局長なり部長、こういう段階で話し合いをしておったということでございます。
  534. 河村勝

    ○河村委員 先ほどあなたは、こういう、一たん認可したものが急激に変わってしまう、それを自分としてもおかしいと思った、そう発言をされましたが、一体おかしいと思ったその理由がどこにあるというふうに判断をされましたか。
  535. 朝田静夫

    ○朝田証人 先ほど少し申し上げましたように、私どもの方の計画と全日空の事業計画を取り寄せてみて、突き合わせてみますと、非常にオーバーキャパシティになる。そういうことと同時に、日航だけが国内線に三機ジャンボを投入するということが両社の競争上非常に好ましくないということ、ひいてはやはり安全性の問題にもかかわってまいってはいけないというような配慮からだ、というふうに私は承知いたしております。
  536. 河村勝

    ○河村委員 それは後から考えた理由だろうと思います。私はそのときの、こういう話があったときの感想を実は伺いたかったのです。  そこで、先ほど六月一日メモというものがございますね。これについて、JALの供給力の不足はDC8の61で補えばいいというような指導があって、これは非常に当を得ないものだと思うという話のときに、これを説明に来た人間が、これは局長の意向である、そういう説明であったというふうに伺いましたが、それでよろしゅうございますか。
  537. 朝田静夫

    ○朝田証人 私は、そのメモについてそういうふうに社内から報告を受けておるわけでございます。
  538. 河村勝

    ○河村委員 それから、これは別の問題になりますが、日航は長く代理店を使わずに航空機発注をやっておりましたね。それが四十八年の二月になって三井物産代理店として相手にするようになったわけですね。これはどういう理由でしょうか。
  539. 朝田静夫

    ○朝田証人 私どもは、三井物産というものを代理店として介入をさせるようなことはいたしておりません。私どもは伝統的に、恐らく私の記憶によりますと、昭和二十九年当時からだと思うわけでございますが、日本航空はメーカーと直接購入契約を結ぶわけでございまして、代理店というものあるいは商社というものを介入はさせておらないのでございます。したがって、三井物産ダグラス代理店であろうがなかろうが、私どもはそういう必要はないのでございまして、直接契約をいたしておるわけでございます。  技術の情報あるいは外国各社の激しい国際競争でどういうふうな機材を購入して出てくるかというような情報というものは、私どもは商社の情報よりも詳しいわけでございますから、技術情報にいたしましても技術のレベルからいたしましても、そういう助けを借りなくて済むわけでございますから、伝統的に日本航空代理店、商社というものを介入させてはおらないのでございます。
  540. 河村勝

    ○河村委員 実は、これは先ほど三井物産石黒氏の証言の中に、四十八年の二月にダグラスとの間で日航向けDC10の代理店契約を結んだ、こういう証言があったのです。ですけれども、じゃ、代理店契約は結んだけれども日航はそれを相手にしておらぬ、だから四十八年の十二月以降のDC10の40のオプションあるいはその後の契約はすべて直接やっているということでございますか。
  541. 朝田静夫

    ○朝田証人 直接やっておるということでございます。
  542. 河村勝

    ○河村委員 そこで、このDC10の40の長距離用であるという性格は伺いました。そこで、これはDC8の代替であるというふうに聞いておりますが、これは、DC8は四十機か五十機あると思いますが、そのうち六機ですね、これから先このDC8の代替にDC10の40というものをお使いになることになっているのですか。
  543. 朝田静夫

    ○朝田証人 この問題については、これからの事業計画というものを、どういうテンポでDC8をリタイアさせていくか、そしてDC10をその補充に考えていくかという問題、SRと併用してどの程度にバランスをとっていくかという問題がございます。これからの事業計画、需要動向、成田がいまだに開港されておりませんので、私どもは国際線でどうしてもそういうむずかしい問題に逢着するわけでございます。大阪に対しても大型機が乗り入れできませんので、これが国際関係に影響をして、日英航空関係にも非常にむずかしい問題をいままでに経験をいたしておりますので、将来そういうものとのにらみ合いあるいは動向いかんによってこれをリプレースしてまいりたい、こういうふうに考えております。
  544. 河村勝

    ○河村委員 先ほど、DC10の40を採用されたのは、ジャンボ、747SRでは非常に大きいので、中規模の需要に対応するためというお話でありましたが、ただそれだけの理由では少し根拠が薄いように思うので、やはり機種統一という話がさっきから出ておりますが、そういうものとのメリット、デメリットを比較して、それだけではどうも理由が薄いように思いますが、ほかに特に理由はないのですか。
  545. 朝田静夫

    ○朝田証人 DC8の61の後継機をどうしても考えなければならぬということで、それに対応するDC10、しかしDC8の61というのは近距離国際線と国内とをやっておるわけでございますけれども、私どもは、いま申し上げました中規模程度の需要のあるところにDC10を考えていく、長距離であってもそういうことを考えていくということと同時に、それを一時国内線に使いまして逐次また国際線へ出していく、あるいは国内線で乗員養成その他について、三発の飛行機でございますから養成にも容易である、こういうようなことを考えて、DC8の製作というものはすでに中止をされておりますから、それの後継機をどうしても考えていかなければならぬ。先ほど申し上げました長期の安全対策ということと環境対策ということもあわせて考えてこれをその後継機に選んでいきたい、こういう考えでおります。
  546. 田中伊三次

    田中委員長 それでは、これにて証人に対する発言は終わりました。  この際、証人に一言ごあいさつを申し上げます。  朝田さん、ありがとうございました。  次回は、明十日午前十時委員会を開くことといたします。  本日は、これにて散会をいたします。     午後四時十八分散会