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和田(貞)
委員 そこで、この法ができた経緯というものをたどってみますと、終戦によって
在外公館と本国
政府との間に連絡もとれない、送金もできない、そういうことで、在留邦人をそれぞれ引き揚げさせていく、本国へ連れ戻していくための費用が非常に必要であるために、在留邦人の中から、余裕のある者というか、借りることができる、そういうような人
たちからかなり金を借りて、その費用に充てていった。そして終戦後、この
法律のもとに最高五万円、最低五百円の金額の返済をしているわけですね。一般的にそのようなことでこれを処理してしまっておる。
先ほども御確認いただいたように、そういうものがあっても、この
法律によってもう返済する必要がないのだ、こういうたてまえをあなた方はとっておられる。
ある大阪の人でありますが、上海に六年間住んでおられて終戦を迎えるわけですが、当時四十歳であって現在七十一歳というこの人が、死ぬにも死に切れないということで私の方に訴えてきているわけなんですが、いま申し上げましたように、この法によって処理をされたということ。御多分に漏れずこの人も、法によって五万円返済してもらっておるのです。しかしその人は、そのような引き揚げその他に付随する費用のために貸した金は、いま申し上げましたように、当然返済を受けておるわけなんですが、終戦と同時に、当時の中国
政府との
関係で、いわば表面に出せない金も
在外公館としては必要であった。たとえば大使館、領事館の職員の給料さえも支払うことができない、こういうことで、普通借用証あるいは預かり証というような形で
在外公館が預かった、借りたということを証明しているわけなんです。この人は、それ以外に裏金として、
在外公館が必要だからひとつ何とかしてくれ、当時の上海総領事の豊田薫という人ですが、この人から裏金を貸してくれということで、借用証を渡さないで、これが
一つの印や、帰ったら必ず返すからというので、いわば法で処理をした以外の金を裏金として、いわゆる別枠として
在外公館が借りておるわけです。
本人は、
昭和二十一年の四月に、家族四人とともに大阪に帰ってこられています。そしてさっそく外務省に行って、借用証でもない
一つの番号札、何の印かわからない番号札をもらって、実はこうこうこうだったということで、帰って以来、二十二年の五月まで実に一年一カ月の間外務省に通っている。この番号札というものは、何物であるかということを外務省が確認できないために、それが借用証だ、あるいは預かり証だというようなこともなかなか確認してもらえなかったのですが、ようやく二十二年五月に当時の
管理局長の大野さんから、確かに現地の領事館が裏金として預かったという確認のための証明書としてもらっているわけです。しかし証明書をもらったけれども、予算がないからもうちょっと待ってくれ、もうちょっと待ってくれということで引き延ばされていっている。本人としては、当然表金といいますか、表金、裏金という言葉を使ったら一番なにですが、表金については、この法に基づきまして申請をし、
先ほど申し上げましたように、五万円を受け取っておるわけですが、借用証じゃなくて
一つの番号札をもらってきたいわゆる裏金、当時の金額で現地では一億元、それが後に平価切り下げて五十万元ということになっているわけですが、今日の邦貨に換算すれば相当な金額になるわけです。それを、終戦だということ、お国のためだということで貸した。それがすでに
法律で打ち切られておるからということで、その裏金はうやむやにされてしまっておる。
杉本さんという人ですが、当時四十歳だったのが七十歳になって、もう余命幾ばくもない、死ぬにも死に切れないということで、いまもなお、あなたの方に足しげく通っているはずだ。金額が、もらった五万円が少ないからけしからぬということを言っているのじゃない。こういう事情をあなたの方はどういうように思っておりますか。