○大石参考人 大石でございます。
私は、母が六年半前に
スモンにかかりまして、それ付来入院、退院、通院を繰り返し、そしていままで治療の限りを尽くしましたけれども、まだ依然として痛み、しびれ、それから歩行障害、それに視力の障害に悩まされ続けておりますその家族の一員であります。
きょうは、私は家族の立場からということで申し上げたいと思うのですけれども、家族の立場から、改めてこの
スモンという私どもにとって非常に宿命的なものを振り返ってみた場合に、幾つかの特徴を整理することができると思うのです。
そのまず第一点は、
スモンは本人の健康と精神を徹底的に破壊するとともに、家族全員を総ぐるみで破壊していっている。
たとえば手っ取り早い話、患者本人がちょっと歯が痛い、歯医者に行きたい――一人で行けませんので、休みをとって、担ぐようにして、医者の入り口の階段を背負うようにして、そして医者に連れていかなければならない。本人が新聞を読みたいと言えば、ちょっと手仕事をやめて、新聞を声を出して読んでやらなければならない。本人がふろに入りたいと言えば、二、三人がかりでみんなでもってその病人の重たい体を担ぎ上げてふろおけの中につけ、そしてまた出して背中を洗わなければいけない。夜中に痛くて眠れないと言えば、さすってやらなければとても眠れないのです。また湯たんぽでもつくって体を温めてやらないと、どうしてもおさまらない。患者が苦痛でうめき声を上げていれば、やはりうちじゅう全員が目を覚ましてしまう。こういうような状態で、家族のうちのだれかが、あるいは家族のうちの全員が交代で、あるいはときには複数が、そして家族全員が絶えず、変な話ですけれども、患者と一緒に犠牲になっていかなければやっていけないのです。これが私どもの家族の現状でございます。
私の母のそばに父がついておりますけれども、父は非常に頑健な体でございます。樺太から引き揚げてまいりました。引き揚げてきたときには弱音一つ吐かなかったのですけれども、今度ばかりは本当に音を上げてしまって、すっかりまいったかっこうでございます。それは結局今度ばかりは非常に長いし、何しろ寝ても覚めてもですし、昼も夜もですし、金はめっちゃくちゃにかかるし、ちょっとした暇は全部その
スモンの介護のためにとられる。どこまでいったら休めるというめどは全然ないわけであります。恐らくは残念ながら一生死ぬまでつき合わなければならない。その精神的な苦痛で腰が曲がり、すっかりしらがになり、病気一つしたことがない私の父が最近はよく寝込むようになりました。
私自身、身内にこういう被
害者がおりますので、自分でよくその苦痛がわかります。三年半ほど前に静岡県内に患者の組織ができました当初からお手伝いをしてまいりました。いまでも静岡県内の
スモンの患者諸君と一緒に、いろんな
救済実現の行動とかあるいは訴訟関係の業務のお手伝いを続けております。
私はしょっちゅう愚者のうちをいろいろ訪問してお話を伺うのですけれども、いろいろ実態を調査をしたりお話を伺っているうちに、私は、私のうちで味わったその苦痛よりもはるかに実は深刻な事態がひそかにあちらこちらで行われており、そしてごろごろ実はあちらこちらに散在しているという事実に気がついて、非常にびっくりしたのであります。いまなお、甲野先生が先ほどおっしゃったように、全員が痛み、しびれ、苦痛に悩んでおります。失明に悩んでおる者、そして排尿排便に困っている者、一年のうちの半分以上寝て過ごしている者、ここ六年間、八年間一歩も表に出たことのない者、いっぱいおります。数えてみれば私どものグループの中で大体四〇%以上は寝たっきりで、布団も干してもらえず、うちの片すみで、冷たい布団にくるまってひっそりと涙を流して、ただ耐えることだけを毎日の
生活にして、ひそかに涙を流して暮らしている、これが
スモン患者の実態でございます。
日本式のふろおけですと、非常に丈が高いものですから、持ち上げるにしてもなかなか入らない。それでついに何とか工面をしてふろを改造したところの
スモンの患者はいまふろに入れますけれども、その改造の資金がないところでは、あきらめてふろにも入れてもらえない。この四年間、五年間全然ふろに入ったことのない患者はいっぱいおります。私の周りにも、ちょっと数えただけで三人、四人とすぐ出てまいります。数年間全然ふろにも入らないというのが、これが一体文化国家の国民の姿でありましょうか。
先ほどお話がございましたけれども、身動き、身じろぎ一つできないという患者もいるわけです。三十分たちます、寝ておりましても寝返りぐらいは打たないと人間というのは寝ていられない。それで声をかけて夫を起こし、ちょっと寝返りをさせてくれ――、夫は起きてちょっと姿勢を変えてやる、また一時間たつと声がかかる、また夫も起きて姿勢を変えてやる。そういう病人の奥さんを抱えた老人もおります。雨の日などは朝から頭がびりびり、じんじん、がんがん痛む、耳が痛む、目が痛む、腰が痛む、おなかが痛む、ありとあらゆるところが痛い。痛い、痛い、痛いと言って泣いている。私はイタイイタイ病というのは知りませんけれども、恐らく症状は非常によく似ているんじゃないかと思うのですけれども、とにかくその苦痛においては何ら違いはございません。ただ泣きわめいている患者をおろおろおろおろとながめているだけが、そしてそうっとこわごわ背中をさすってやったり腰をさすってやったりするだけが、私ども家族のなすことなんです。
このように家族のだれかが、あるいは家族全員が、いつでも絶えず一緒になって犠牲にならなければならない、こういう点が私どもの家族の宿命であります。家族全員が肉体的にも精神的にも破壊されている、これが現在の私どもの状況でございます。
第二の特徴としまして、弱り目にたたり目と申しますけれども、悪いことというのは幾らでも悪循環を繰り返してくる。たとえば
病院に入院いたしますと、大体二十五万とか三十万とか取られます。安くても五万とか十万とか取られます。治療をあきらめてうちへ帰る。足腰が冷える。夏でも電気ごたつでも入れてあげないと困る。ところが、夏電気ごたつをつけておりますと電気代がどんどんどんどんかさんでくるのです。私の同年輩の患者が、静岡の患者ですけれども、こう言っておりました。実はきのううちの子供が私にか
みついた、父さんが電気を使い過ぎるから、今月はまた大変な赤字だと母さんこぼしていた、学校のノートを買いに行く金をもらいに行ったら、きょうはやれないと言った。これは二年ほど前に私が直接聞いた言葉であります。金がないからうちへ帰ってくる。家へ帰ってくると冷えるから電気を使う。電気を使うとうちの中にけんかが起こる。つまり貧しさが貧窮の窮に通じ、そして家庭の中のとげとげしい言葉のやりとりに通じて、家庭の不和に通じていく。あるいはある家庭では、姉さんが、おまえのところの妹は奇病になって
病院に入ったそうだな、伝染病だそうだ、何か遺伝があるんじゃないか。ついに離縁されましてうちに帰ってまいりました。おまえのおかげで離縁されたんだということで、またそこでけんかが起こるわけであります。多かれ少なかれ
スモンの患者の家族は、精神的にも肉体的にも経済的にも病み切って、いま疲れ切っております。これが第二の点であります。
第三の点として、私どもの苦しみをいやが上にも増している、いやが上にもふやそうとする、致命的にしようとする悪意とすら私どもは言いたいと思うのですが、悪意があるということであります。
その一つはウイルス説でありました。先ほど甲野先生がちょっとおっしゃいましたが、このウイルス説が出たおかげで私どもはどんな苦しい、どんな恥ずかしい、どんなにみっともない思いを続けて世の中をひっそり過ごしてきたか。私自身も、家族に
スモンの患者がいるということはぴたりと黙っておりました。絶対に言えないことだと秘密にしておりました。こういう体験は
スモンの患者が全員非常に苦しい思いを続けてくぐり抜けた期間があるわけです。その間に次々と自殺をしていった患者がありました。一番ひどかったのは昭和四十三年、四十四年、四十五年ごろであります。新聞が
スモンの患者が自殺したと言うと、ラジオがそれを報じ、テレビが報ずると、その明くる日にはまた必ずどこかで出てくるのです。新聞の記事を私いまでも持っております。そういうウイルス説で私どもがどれほど苦しんだか。いまでも
スモンの患者の会に入りたがらない人がいる。なぜ入りたがらないか。
スモンは伝染病だという人がいるからいやだと言う。私どもはその会報を印刷して封筒に入れて送るのです。そうすると、もうこの手紙はよこさないでくれ、もしよこすのだったら後ろの差出人の判こをやめてくれ、そこに静岡県
スモン友の会と書いてある、
スモンという字を削してくれ、それでないと私は会社で首になってしまう、こういう御
婦人がおります。これと同じようなことを言った男の方がおります。決してまだ単数ではないのです。非常に大ぜいの方々を数えております。まだ恐らく厚生省の方に報告されていない被
害者も一ぱいいるだろうと私は思うのです。現実に富士、富士宮地区というごく狭い地区でありますけれども、厚生省が握っている数字というのはたった五人なんです。ところが実際に私どもが調べてみると、何とその地区で死亡者だけで十一人もいるのです。恐らく二十三人ぐらい患者がおります。実際に行政機関がつかんでいるのはたった五人という数字なんです。そういう実態からしましても、恐らくこれは二万人からの中毒患者が
全国には確実に出て、五百人ぐらいが自殺あるいは病死という死に追いやられた一大傷害致死事件であったという悲しい確信を私は持たざるを得ません。このようにウイルス説というものがいかに私どもを破壊したか。これはひとつ皆様ぜひ御理解をいただき、歴史にはっきりと明記をしていただきたいと思うのです。私どもの苦痛は実にそこからいよいよいやが上にも増して致命的になってまいりました。
もう一つは、私どもがやむなく起こした
スモン訴訟で、裁判の引き延ばしを徹底的にやろうとしている被告の態度であります。御承知のとおり、サリドマイド訴訟は四十九年の十月二十六日和解が成立いたしました。これに先立って、四十九年の十月十三日に、和解に伴う確認書が
全国サリドマイド訴訟統一原告団と厚生大臣、それから被告の大日本製薬株式会社の間で調印をされました。これによりますと、厚生大臣と大日本製薬株式会社は、因果関係とその責任を認める、サリドマイドの製造から回収に至る一連の過程で安全確認、レンツ博士の警告後の処置についても落ち度があった、それにもかかわらず、十年余にわたって因果関係と責任を争い、この間被害児と家族に対して何ら格別の
救済措置を講じなかったことを深く反省し、原告に対し衷心より遺憾の意を表する――この遺憾というのは申しわけないということなんだそうでありますけれども、遺憾の意を表する、厚生大臣は本確認書成立に伴い、国民の健康を積極的に増進し、
心身障害者の福祉向上に尽力する基本的な使命と任務を改めて自覚し、今後サリドマイド事件に見られたような悲惨な薬害が再び生じないよう最善の努力をすることを確約する。厚生大臣はこう言って判こを押したのであります。これが先ほど申し上げましたように四十九年の十月十三日のことであります。
ところが、どういうわけか
スモンについては厚生大臣は何ともおっしゃらない。因果関係と責任を認めて、新薬を承認するときの安全性確認の義務に落ち度があった、それからまた、発売後もその安全性を確認する義務が厚生大臣としてあったにもかかわらず、その落ち度があった、それは全面的に認めます、今後はそういう愚かなことはいたしません、被
害者を相手に十年も争うような醜いことはいたしませんと言って判こを押しておきながら、一方では
スモンにおいて何と言っているか。法廷で、
スモンについてはキノホルム説という説があるけれども、それを甲野先生たちから報告を受けたけれども、科学的には若干の不明な点もある、ないわけでもない、だからしたがって争う、判断は裁判所にお任せをする、これが国の態度であります。
たとえば、結核というのが結核菌から起こるということについては、これはだれしも疑う余地はございません。ところが、結核菌は恐らくこの部屋の中にも一ぱいうようよしていると思うのですが、結核患者は恐らくいないと思います。結核菌がいるのになぜ大部分が発生しないのか。それについての科学的な究明というのはまだできていないわけです。結核菌がどうやって結核患者をつくるかという病理については、恐らくまだわかってないことが一ぱいあると思うのです。そういう科学的に不明な部分があるがゆえに、それが究明されるまでは国は争うのだ、これは国の非常に妙ちきりんな論理であります。いわんや被告の武田、田辺、チバという卑劣な製薬会社は科学論争をいどみ、わけのわからぬ議論だけを吹っかけ、そして全然日本の
スモンについて何の知識もない外人を証人に引っ張り出して、横文字で証言をさせようとしている。横文字で証言いたしますから翻訳もしなければならない。通訳もしなければならない。裁判は徹底的に延びてまいります。金もかかります。一人採用すると、文献調査あるいはその翻訳、そしてそれを検討することから始まって、数百万から一千万ぐらいかかっちゃうのです。こういう裁判の引き延ばしをやられますと、私どもとしては本当に苦しいのです。
裁判というのは大体金がめちゃくちゃにかかります。静岡だけでもすでに五千万から六千万、恐らく一億円を超すぐらいの金がかかっているでしょう。その大部分が弁護士の献身的な、金は一銭も取らぬという方式でやってこられましたので、私どもはやっといままでやってくることができた。しかしそれでは申しわけないというので、私ども必死になって組織を回ってお願いをし、頭を下げ、署名をいただき、カンパをいただき、そして街頭に出て一生懸命繰り返し繰り返し、今月も三回立っております。日曜日ごとに街頭に立っては大ぜいの方々に頭を下げてお恵みをいただいているわけであります。被
害者が悲惨な体で――きょうここにおいでになった患者さん、実は軽い患者さんで、もっともっとひどい人は車いすに乗っかり、松葉づえにやっとすがって、街頭に立ってこじきをしている。こんな姿を一体いつまで許しておいていいのでしょうか。そういう事態をいつまでも放置して、そういう弱い、痛めつけられ切った患者を相手に国がのうのうといつまでも争うという姿勢に対して、徹底的に私は告発をしたい。どうぞ先生方のお力添えをいただきたいと思うのです。
裁判が進行するに従って、幾つかの事実がわかってまいりました。キノホルムというのは実は劇薬に指定されております。ここにございますが、昭和十一年七月三日金曜日、官報第二千八百五十号に、劇薬の指定の中にキノホルムは入っているのであります。大体キノホルムという薬は、性格からして絶対に劇薬に指定されているのでありますけれども、その致死量から推定しても非常に危険な薬であるということがもともとわかっている。それにもかかわらず、なぜかこれが昭和十四年十一月九日に劇薬の指定を解除されてしまった。それどころか、戦後になって製薬会社はこれを安全な薬だと称して能書きに書きまくった。私きょう実はそのキノホルム剤の薬を実際に持っています。その薬の能書きを見ますと、老、幼小児あたりに長期に与えても安全であると書いてある。そういうインチキな表示をして、武田、田辺、チバは売りに売りまくってぼろもうけをしまくった。その実態については裁判の席で明白に立証されております。
それから、この薬はこういう病気にも、こういう病気にも効きます、これだけ飲めばもっと効きますというふうに、あるいは健康な人も飲んでおけば病気にかかりませんというように、どんどんどんどん適用量と適用症状を拡大していった。そしてめちゃくちゃに販売をふやしていった。そして実はこの薬を発売するに当たって、何にも安全性を確認しなかった。おととい行われた東京の裁判で私見ておりましたが、被告の証人になって出てきた人間が問い詰められてがたがたふるえながら、実は何にもやってなかったということを自白せざるを得なかった。実際に製薬会社も国も何にも安全確認をやっていない。劇薬であると指定されていたものを、外国でも劇薬とされているものを安全な薬だとして売りまくって、飲ませまくったら病人が出るに決まっている。その被
害者の本当に氷山の一角がいまここに、この部屋に来ているわけであります。
家族の一員として、被
害者の立場として、最後に私はお願いを申し上げたいと思っております。
まず第一に、サリドマイドの例もございます、因果関係は明白であります。これについてはもう疑う余地がないことを甲野先生もおっしゃっております。日本じゅうの優秀な学者が究明し、そして裁判の場でもすでにこれは明白になっております。因果関係が明らかな以上、潔く国が責任をとってその非を認めていただきたい。
そして被
害者に対して謝罪をし、損害を完全に補償していただきたい。
第三に全力を挙げて治療法の開発に努力をしていただきたい。国としては非常に珍しく
スモン研究協議会、大量の金と大量の知識を集めて究明したら、やはりわかったのです。日本には優秀な学者が一ぱいいらっしゃいます。どうか日本の学者を、原因がわかったからといって分解させないで、もう一度全力を挙げて治療法の開発に力を入れていただきたい。患者の最終的な願いは体を戻せということなんです。金じゃないのです。その体を戻すために、治療法の開発に最大限の努力をしていただきたい。
それから、被
害者のめんどうを一生、死ぬまで見ていただきたい。私のところには十二歳の子供がおります。これが原告です。この子供が一体どうなるか、親は朝な夕な非常に悩んでおります。私が生きている間はいい、私が動ける間はいい、死んじゃったらどうするんだということが非常に困るのです。一生めんどうを見ていただきたい。
それからもう一つ、公害被
害者救済法というふうな考え方ではなくて、本当に被
害者の立場に立った被
害者救済の道を、方策を講じていただきたい。いままで何か薬害被
害者救済法というふうな動きがあるのだそうでありますが、不思議なことにこれに被
害者も家族も全然入っていない。被
害者、家族が推薦する先生も入っていない。全然公開しないでやっているのです。公開の席で被
害者、被
害者の推薦する学者も入れて、そこできっちりと一番見合った
救済の方法を実現していただきたい。これをぜひ速やかにとりかかっていただきたいと思うのです。そして、二万人以上という戦後最大の中毒事件を起こしたこの恥ずべき薬害事件の歴史に、そしてまたその事件にふたをかけて患者を相手に訴訟をしたという醜い薬事行政にピリオドを打っていただきたいと思います。家族の一員として強く要望いたします。
終わります。(拍手)