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村上(弘)
委員 連合赤軍と浅間山荘で銃撃戦をやったときの警官の
動員が、新聞報道ですが、実
動員大体千二百人ですね。これは十一名逮捕。
最初は四名です。四名逮捕するのに五千人を
動員しておるのですよ。いかに凶悪犯であったかということです。
私は、この暴行や集団リンチがどのように行なわれたかということを、ごく簡潔に
最初に述べておきたいと思うのですが、路上の場面で
最初暴行をふるった。次は学校の中で三カ所。第二体育館に
最初全員を連れ込む。そこで話し合いに応じようということで、話し合いをさせるための暴力。それから次は、話し合いだと称して、本館の
会議室や解放研のクラブの部屋、部室に連れていく。これが学校の中の第二現場なんです。第三回目は、第一体育館というところに連れていって、ここで全部を糾弾し尽くして、それで勝利式みたいなセレモニーをやっているわけなんです。
こういうことになるわけですが、路上の模様について、きょうは現地の方も来ておられますが、簡単に申してみますと、稲津先生という先生が告訴状の供述書に次のようなことを書いております。これは校門から約三百メートルの、商店街の幅四メートルの三叉路なんですね。ここで丸尾らにはさみ打ちになるわけですが、そこでは、「スクラムに対して、左右の腕を力一ぱい数回けり、こぶしで頭を数回なぐり、くつでからだのあちこちをける。ショルダーバッグはちぎれ、防水ジャンパーは脱がされ、めがねはどこかへ、バンドも同様、運動ぐつも脱がされ、くつ下も取られ、はだしだ。このころ頭はぼうっとしていた。両手足を持たれ、付近を通りかかったトラックの荷台にほうり込まれる。そのときトラックにはすでに数人の教職員がおって、井上先生は鼻血を流した。私は苦しくてうつぶせになっていた。そのトラックの運転手は病院に運ぶものと勘違いしたらしく、学校を通り過ぎて走る。そうすると、運転手の窓ガラスがこわされて、丸尾らが運転手をなぐる。そして運転手はおろされ、荷台にやはりほうり上げられた」、こういうようなことが起こっておるのですね。通りかかったトラックがこういうことのために使われ、運転手までがリンチにあっている。
そういうふうにして、第二体育館に全員が連れ込まれるわけですが、ここの状況について藤村先生の供述書ではこういうふうになっていますね。「一人ずつバラバラにされ、私は一〇人位の、顔を見たこともない男達に取り囲まれ、「お前らなんで解放研と話をしないか」「差別教育をするのか」等と目の前でどなったり、耳の横で携帯マイクのスピーカーで大声を出され、更に、後から髪をつかまれ、「上を向け」と言いながら、坐ったままの私の顔を無理に上に向けさせ、横から手拳で殴ったり、皮グツで蹴られたりしました。」飛ばしますが、「黙っていると一層ひどく殴る、蹴る。誰かが「水をくんで来い」と言い、私は着ていたコートとブレザーを脱がされ、バケツの水を後頭部から背中にかけて、シャツの中にかけられ、更にくり返し殴る、蹴る、水をかける等をされ、結局三回もバケツの水をかけられ、痛みと寒さで気が遠くなりそうでした。」こういうふうに言っております。
それから、この校内の第二現場の状況について、片山先生の供述を見ますと、この先生は教員組合の支
部長さんで、最も残忍なリンチを受けたわけですが、三時までは第二体育館で糾弾され、それから解放研の部室に連れてこられたわけです。「椅子に坐らせ」このガキ、しぶとい野郎だ」とどなりながら顔面を手拳で往復ビンタのように数十回殴りつづけ、さらにみぞおちを三回位立て続けに蹴とばしたため嘔吐し、気を失いそうになった。この暴力を振った男はプロの暴力団のような強力なパンチの持主であった。」「その後、タバコの灰の入ったぞうきんバケツの汚水を無理矢理口に注ぎこみ、その上鼻にもバケツで水を注ぎこみ、呼吸を著しく困難にした。「お前は片山か」「お前みたいなものは死んでしまえ」「しぶとい野郎だ」などと罵声を浴びせた。さらにメリケンサックを手拳にはめた男が、その手拳で十数回顔面を殴りつけた。このような
状態は同夜九時すぎまで続いた。」十時過ぎから――もうすでに晩の九時になっておるが、その後さらに
会議室に連れ込んで、「同和教育について自己批判し、「確認書」を書くように強要したが、同告訴人がこの要求を拒否したところ、傍にいた男が同告訴人の手の指を反対側にねじり、鉄のバールで脇腹を数回にわたり突いた。」さらに休養室に連れていって、「被告訴人らは、殆ど意識を失いかけている同告訴人を休養室に連れ込み、着がえさせるという名目で裸にし、扇風機をかけて、冷風を直接濡れた身体に吹きつけた。同夜十時頃、それでも屈しないでかすかに生き長らえている同告訴人に対して最後の止めをさす目的で、同告訴人の腰部に対して集中的に力一杯蹴りあげてきた。この為、同人はついに力尽き、全ての抵抗力を失って意識朦朧となった。」こういうふうに供述しているわけです。
私はお断わりをしておきますけれども、このとき、この学校に
動員されていた部落の人たちが、みんなそういう人たちであったんじゃないということです。もうやるなと涙を流してとめておった人もあるということですね、先生などの供述では。それからけんかをしているのですね。つまり、やってはいかぬという人に対して、やるべきだといって、この幹部たちが押しつけるわけですね。それで内部でけんか
状態が起こっているということも、先生方はそのとき話をしています。
それで、糾弾し尽くして最後の場面になるのですが、この模様について、米田先生という方が次のように言っています。ここの場面は、最後の勝利の祝賀会みたいなものであって、十六ミリのフィルムを丸尾らはとっておるわけですね。ここの場面を特に一番クローズアップしているのですが、「丸尾支
部長が「今から糾弾会を行う」と言って、教員を二列に並ばせ、同盟員数百名が並びました。その上で、一人一人に職名と名前を言わされ、丸尾が「自己批判書」を片山に示し、「これは君が書いたものだな」と言っておりました。又、丸尾は、「八鹿高校の職員室へ入って来たら、お茶の一杯も出してくれるやろな」。これはもうほんとうにファシストの態度ですね。やっつけて瀕死の
状態の者に対して、今度職員室へ来たら、わしにお茶の一ぱいも飲ましてくれるやろうなと、こういうことを言うておるわけです。そうして、そのもう倒れかかっておる先生方の前をハンストの生徒が行進したということになっている。「そして、「糾弾会」が終わり、その後、全員職員室へ連れて行かれ、後から校長も入って来ました。」というふうに言われております。
そこで、そのときの負傷の
状態がいかにひどかったかということを片山先生の写真で――これもまあ相当
あとの写真であるわけですが、この写真を見ていただくとわかりますように、この先生は細面の方なんです。こちらの写真が現在の
状態で、まあどちらかというと細面ですね。ところがこのときはもうまさにフットボールみたいに顔がふくれ上がっておるというような
状態であるわけです。リンチの
状態がいろいろな写真でとられておって、そのときの直後の
状態ではありませんけれども、これはまあ皆さんのほうに、事実を知っていただくためにちょっと回して見ていただきたいと思うのです。
そこで私は、以上の事実に立って、文部大臣に
最初にお尋ねしたいと思うわけですが、このような暴行や集団リンチで、話し合いだとか確認会だとか糾弾会とそれを呼んでおるわけですが、そういうことをやるために学校を使用しているわけですね。校長は使用さしておるわけです。このことはよいことか悪いことか、どうですか。