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加瀬完君 そこが若干見解の相違するところでね。管理というもので
教育が
運営されるということ自体が
教育効果を阻害することになると、私は自分の体験から思うので、
大臣の言う管理というのは管理ではなくて、
教育運営の教師と校長の一体感、あるいは教師と児童の一体感、こういう、
一つの
教育目的に向かって同一の感情で
運営を進めていくという、こういう心組みですよ。そういう心組みができるかできないかで
学校が進みもすれば退きもするわけです。それを校長、教頭という管理体制で指示命令をすれば、そういうふうに動くというものでは、
教育はないはずです。あとでこれは具体的な例を申し上げますが、
教育というものは、教師自身が積極的に活動しない限りは進歩はありませんよ、進行はありませんよ。頭から何かかぶせられるような、手足を縛られるような、それも校長なり教頭なりあるいは
教育委員会の
考え方だけで
一つのレールに乗せようということでは、レールに乗るかもしれませんけれどね、みずからの力で走るという、そういう速力、スピードは出てこないのですよ、
教育というものは。先ほどおっしゃるように、創造性なり自発性なりというものでなければ
教育は進展しないのですから。動きがないですから。レールをはめたりいろいろの規則、規約で制限をする条件の中で、能動的に精神作用が働くということは、これはあり得ないでしょう。ですからあなた方の教頭法の
説明を承っておりましても、一体これで
教育を進めることになるのかどうなのか。教頭さん自身、校長さん自身のほんとうの
意味での
教育管理をこういうきめ方で効率化することになるのかどうか、こういう私は疑問を持つわけです。教頭法に賛成とか反対とか、こういう
立場を私はとっておりません。ほんとうの
教育運営というものを考えるときに、私の体験では、こういうきめ方では、おっしゃるような方向には進まないと思うので、伺っているわけであります。
一歩譲って、管理体制が
教育を進める体制にないからといって、その
責任が管理側には全然なくて、管理される
教員の側だけにあるという、先ほ
どもおっしゃいました一部に混乱がある、あるいは教頭法なんかの制定に反対している向きがある。これはけしからぬ。けしからぬところがあるかもしれません。しかし、広い
意味での
教育運営が円滑を欠いているとするならば、これは管理体制に批判をする者だけの、
教員側の責めという断定が下せますか。下していらっしゃるようですがね、どうして下せるのですか。と申しますのは、校長なり教頭なりは、そういう部下職員を十分指導をし、啓発をしていかなければならない
義務があるでしょう。ほんとうの
教育者であるならば、その
教育者の識見というものに敬意を表しない
教員が一人でもおりますか。
教育者の識見ではなくて、
教育者のものの見方や
考え方ではなくて、管理職という
立場だけを形式的に強要してくるから、まじめな教師から反発をされる場面だってあるわけですよ。そういうことを全然抜きにして、命令に従えない者はけしからぬということでは、それでは——職員会議の例が出ましたが、これはあとで申し上げます。ほんとうのいい教師の
意見というものはどこで取り上げるか。だれが取り上げるか。また、校長、教頭の
意見がいつでもそのことに関して最高の
教育的識見だという保証はどこにもないですよ。かりにそうであっても、そうありたいわけですけれ
ども、ほんとうの校長なり教頭なり指導者であるなら、もっといい
意見はないかということで職員の
意見聞くでしょう。職員に問題を投げかけて考えさせるでしょう。それを集約するコントロールの役割りを校長、教頭がすればいい。そういう役割りというものを果たすのに、何でこの教頭法が必要ですか。ワクではない。教頭なり校長なりの人間性が問題なんだ。
教育者としての識見のあるかないかが問題である。ここでは、教頭法をどのように御
説明なさろうと、教頭の
教育的識見が非常に高くなる、そういう裏づけが別にあるわけじゃないでしょう。これをどうして問題にしないのですか。高い
教育的識見の者を教頭に据え、校長に据えるという方法は、どうすればできるという
考え方をどうしてお持ちにならないのですか。ここに、私は、ほんとうの教師を遇する道というものをあなた方は知っておらないと、どうも失礼な申し条でございますが、考えざるを得ない。いかがですか。