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1974-05-09 第72回国会 参議院 文教委員会 第12号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十九年五月九日(木曜日)    午前十時四十四分開会     —————————————    委員の異動  五月八日     辞任         補欠選任      黒住 忠行君     田中 茂穂君      竹内 藤男君     二木 謙吾君  五月九日     辞任         補欠選任      田中 茂穂君     岡本  悟君     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         世耕 政隆君     理 事                 斎藤 十朗君                 内藤誉三郎君                 片岡 勝治君                 小林  武君     委 員                 今泉 正二君                 岡本  悟君                 梶木 又三君                 金井 元彦君                 志村 愛子君                 中村 禎二君                 中村 登美君                 二木 謙吾君                 鈴木美枝子君                 宮之原貞光君                 矢追 秀彦君                 松下 正寿君                 加藤  進君        発  議  者  宮之原貞光君    国務大臣        文 部 大 臣  奥野 誠亮君    政府委員        文部政務次官   藤波 孝生君        文部大臣官房長  井内慶次郎君        文部省初等中等        教育局長     岩間英太郎君    事務局側        常任委員会専門        員        渡辺  猛君    説明員        厚生省児童家庭        局障害福祉課長  北郷 勲夫君        労働省職業安定        局業務指導課長  加藤  孝君     —————————————   本日の会議に付した案件学校教育法の一部を改正する法律案(第七十一  回国会松永忠二君外二名発議)(継続案件) ○公立障害児教育学校学級編制及び教職員定  数の標準に関する法律案(第七十一回国会安永  英雄君外二名発議)(継続案件) ○公立障害児教育学校に係る経費国庫負担に  関する法律案(第七十一回国会安永英雄君外二  名発議)(継続案件) ○学校教育法の一部を改正する法律案(第七十一  回国会内閣提出、第七十二回国会衆議院送付)     —————————————
  2. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  学校教育法の一部を改正する法律案(第七十一回国会参第五号)、公立障害児教育学校学級編制及び教職員定数標準に関する法律案(第七十一回国会参第六号)及び公立障害児教育学校に係る経費国庫負担に関する法律案(第七十一回国会参第七号)、以上三案を便宜一括して議題といたします。  前回に引き続き、三案に対する質疑を行ないます。  質疑のある方は、順次御発言を願います。
  3. 小林武

    小林武君 宮之原さんに前回質問をいたしました。また、提案のいろいろな御意見を承りまして、文部省考え方とはやっぱり開きがあるという感じを非常に強く持ちました。何といいますか、その一番大きなものは、人間として生まれてきた場合、日本の場合においては、憲法第二十六条、もちろんこれにかかわって、教育基本法第三条が定めているように、すべての人間が、心身障害を有しているとか有してないとかという問題は別として、そうして教育を施すというたてまえに対して、文部省のほうは、教育を施しても、まあ端的なことばで言えば、むだだというようなそういうものが頭の中にあって、どんな心身障害児にも教育を施さなければならないというきびしい一つのものの考え方に立っていないということが明らかになったわけでございますが、この点について、文部省のほうに最初にお伺いいたしますが、こういうふうに、前回質問で私が感じたことについては、間違いがありますかどうか。
  4. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 御指摘になりました憲法の第二十六条あるいは教育基本法の第三条の規定の解釈につきまして、そういうふうに受け取るべきかどうかという問題は、別にいたしまして、基本的な考え方は、小林先生考え方と私ども考え方とは変わっておらないというふうに考えておる次第でございます。  ただ、現実に、私ども学校あるいは教員というものにつきましても、やはりその立場というものを考えなければならないということでございまして、現在、やはり医学的な限界あるいは教育限界というものを考えました場合に、学校として、あるいは教師としてお預かりできるやはり限界があるのじゃないかということを申し上げたわけでございます。現段階における医学あるいは教育の現状におきまして、やはり能力限界、そういうものは認めざるを得ない。それ以上に、全部子供を何が何でも学校のほうで引き受けろというふうなことを私どもの口から言うのは、これは学校あるいは先生方に対して酷な場合があるのじゃないかということを申し上げたわけでございまして、私どものほうは、あくまでも基本的な考え方先生と同じでございます。現実的な処理といたしましては、いま申し上げましたようなことも考えていかなければいけないということを申し上げたわけでございます。
  5. 小林武

    小林武君 これ、宮之原さん、どうでしょうか、その点については、あなたの考え方との開きがあるように思うのですが、その点についてお答え願いたい。
  6. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 提案者考え方は、先般来申し上げておるとおりであるわけでありますが、私は、実際の面で、それは重症の度合いで直ちに教育機関に云々というようなことの実際面であるかないかという問題では、なかなか判断がむずかしいところがあるかと思いますけれども、しかし、従来の教育が可能な者は教育機関へ、あるいは訓練可能なる者は福祉施設へ、重症者医療施設へと、こういう割り切ったものの考え方ですね。言うならば、教育効用論と申しますか、そういうことでこの障害児の問題を扱うべきではない。したがって、現実の問題として非常に困難な場合があるとすれば、それを同じような一つ機関の中で扱うような処置を講ずればいいんであって、だから、これはまさに教育一つ限界があるから、これは別の機関でどうぞというものの考え方は、私ども提案者としては考えておらない、これだけははっきり申し上げておきたいと思います。
  7. 小林武

    小林武君 私も、同意見なんでありますが、なぜこういうことを——これは文部省に特に申し上げたいのですが、なぜこういうことを言うかといいますと、教育に対してものを論ずる場合には、教師というものが、常にどうあるべきかということを、これは親の立場からも、それぞれ出てくるわけです。最近では、特にもう文部省なんというのは、いささか口ぎたなくやっているようにさえ思われるほど教師のあり方についてさまざまな意見を出してきているんです。この点、間違いないでしょう、あなたは文部省の中にいる人ですから。口の悪い人は、極端なことを言えば、教育界の諸悪の根源は日教組だなんていうようなことを公開の席上で堂々と発表される人もあるわけですから。私は、これはいまそういうことをここで議論するというのではありませんけれども、私は、教育というものに対する仕事の重みから、教師に対してさまざまな期待を持つということは、これは当然あってよろしいのです。教師もまた、私は、自分仕事というのは人間教育するということ、ですから、非常に責任の重い仕事だと、こう考えるということはこれまた当然のことだと思う。  そこで、私は、そうなるというと、教育の中で、どれがむずかしいとかやさしいとかいうことは言えませんけれども、かりに私がそのどれを選ぶか、たとえば、心身障害子供教育を選ぶかどうかというようなことをもしだれかにすすめられた場合、私は、相当のやはり覚悟をするほどよく考えなきゃいかぬという慎重な態度になると思うのです。およそ、こういう心身障害児童教育というものをひとつやってみましょうかということになるというと、これはもうたいへんな決意が必要なんです。その際に、教師意欲をわかせるかどうかということについては、教育の諸条件、それから教育を論ずるいろんな議論の中から、心身障害児童であるならば、一体教育というものはどこまであれするのか、憲法の上に明示されたようなやり方で徹底的にやるのか、まあやれるだけのことをやっておきなさいという程度のものなのかということは、これは重大な問題だと思うのですよ。心身障害児童教育に携わっている人たちのうちにも、あるいはその一つの仕組みの中にもいろんな形があります。しかし、われわれの知っている中には、もう一生をとにかく心身障害児童教育に投入しようという、そういう人があるわけでありますから、その教員心がまえの問題、これがありますから、私は、文部省態度というのはいささかそういうようなあいまいな態度では困るという気持ちがするんです。何も私は、あなたのいま答弁されたようなことの実態を認めないとかなんとかということじゃない。さまざま困難な条件があることはあなたたちよりかよけい見ておるかもしらぬ。しかし、それがどんな困難であっても教育の世界から捨てられないという、そういうものがなければ、私は教育に入っていって、ほんとうに一生の自分のあれを、人間としての働きの意義をそこへ求めようというような意欲はわいてこないと思うんです。とにかく、行きどころがないから障害児教育にでも行こうかなんというような考え方障害児教育をやられたのじゃたまらないわけです。それで私は質問するわけです。  あなたのほうで調査やったんでしょう、かつて。あなたのほうじゃないですか。文部省としてやったのか、どこでやったのか知りませんけれども、そういう調査があるはずですね。一九五五年ですから昭和三十年ですね。その場合の調査対象は、これは全部にやったわけじゃありませんが、精神薄弱児とその当時呼ばれておった特殊学級というものを担任している教師に対して調査をやった。この調査はやられておって、どんなことであったか、ひとつ話してもらいたいんです。
  8. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) たいへん恐縮でございますが、私、その調査をやったこと、それからその内容等につきまして、ただいま知識を持ち合わしておりませんので、たいへん恐縮でございます。
  9. 小林武

    小林武君 文部省知らないとは言わせぬよ、そんなこと。それはどこの調査がやったか何かは別として、文部省知りませんなんというようなことじゃだめですよ。私さえもそういう資料を持っているのに、あんたが持っていないなんということ、それはだめですよ。
  10. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) いま、ちょっと取り寄せておりますので、しばらくお待ちをいただきたいと思います。
  11. 小林武

    小林武君 また、これ、厚生省でそういう調査をやったというあれではないでしょうね。
  12. 北郷勲夫

    説明員北郷勲夫君) 私どもところじゃないと思います。
  13. 小林武

    小林武君 文部省が全然知らぬというはずがないと私は思うんですがね。これは一九五五年の調べで、小中合計をして、第一のあれとしては特殊学級担任した動機、それから精神薄弱児教育に対する考え方、これは担任する教員に対してどうだということを聞いているんです。それに対して、ちゃんと答え方が、どんな答え方が出ているかということが出ているんです。私は、そういう調査がやられたのは一九五五年ですからその後——これは昭和三十年ですから戦後十年たったわけです。それから第三の教育改革というようなことをあなたたちおっしゃって、少なくもやったんだが、その後の一体、この種の調査というのはやっていないですか。これは、私の持っているのは、一九五五年のでです。その後のあれはどうです。
  14. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 特殊教育関係につきましては、たびたび調査をやっておりますけれども、たとえば最近では就学猶予、免除を受けた子供調査、それから四十八年度には未就学児童生徒調査というふうなことをやっております。それからその前にも、いわゆる特殊教育対象となるべき児童生徒の悉皆調査、そういうものもやっております。まだ未開拓の分野でございますから、いろんな角度からいろんな調査をやっているわけでございますけれども、ただいま先生が御指摘になりましたのは、特殊学級における教員意識調査と申しますか、教員意見を聞くような調査でございましたら、その後にはそういうような教員意識調査するというふうなことはやっておりません。
  15. 小林武

    小林武君 まあ、私に言わせれば、こういう調査があれば、少なくとも、その調査はあなたたちも見ておって、特殊教育はどうあるべきかと、私はさっきこの提案者宮之原委員提案説明を聞いてみて、結局特殊教育に対する考え方というのは、これはもうあなたたち、そんなこと説明するまでもないでしょうけれども特殊教育に非常に力点が入ってくるということは、世の中進歩とこれ一緒に行くわけです。余裕のない時代には特殊教育に目を向けるあれがないというようなことはある。戦前であるならば、役にも立たぬ者は教育する必要はないという考え方さえある。兵隊に行けないような者をつくったら一体学校教師はだめだぞというようなことをわれわれ言われた。徴兵検査のときに、およそとにかく徴兵検査をする軍部から来た者は、こんな一体けしからぬ成績で、小学校教師は何やっておるかというようなことを、こう言われる。そういう形でやってこられたことは、あなたたちは知らないのかな。そういう時代には、特殊教育というようなものは置き去りにされてるんですよ。いわば、その国の文化的なレベルといいますか、文明的なレベルというようなものを特殊教育というものは、そのまま今度はじかに出してきているわけですよ。だから、これ知らぬというのは、私はこれはおかしいと思う。これもおそらく、私はどこかの研究している人のあれから見たんですから、これはしかし、あなたのほうであるはずですよ。まあ、さがしに行ったんですか。
  16. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) はい。
  17. 小林武

    小林武君 じゃ、さがして来るまで宮之原さんにお尋ねいたしますです。  私は、この身体障害教育ほんとうに大事にされてきたということは、何といっても、この戦後の日本のこの平和憲法ができてから人権を尊重する、その人権を尊重する原動力となる教育、その教育の革新へのこの情熱というようなものが、私は特殊教育というものを非常に発展さしてきたと思ってるんですが、この点については宮之原さんはどうお考えですか。
  18. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私は、やはり先ほど来質問者からも指摘がありますように、戦後のこの憲法の中におけるところ国民権利意識の目ざめ、さらには、やはり教育というもの、特に教育というものは、国民一人一人が持っておるところ権利だと、こういう意識がやはり全般的に広まってきた。同時に、私は、やはり教師教育に対するところ心がまえというのも相当障害児教育の面には大きく影響しておる。言うならば、やはり先ほど来いろいろ議論がありますように、教師仕事というのは、やはり子供可能性に生きるというものでなければ、これは情熱はわかないわけです。したがって、やはりどういう子供でも必ず何かいいものがある、それを伸ばしてやるのがやはり教師仕事だというこの気持ちが私は先ほど申し上げたところ国民教育に対するところ権利意識の芽ばえ、そういうものと相まって私はやはり大きくこの障害児教育というものが浮かび上がってきた、こう見ておるわけです。したがって、一番やはり根底の子供たち可能性に生きるという、これがなければ、この問題は、私は取り組むところの姿勢というものは、もし先ほど来答弁があるように一つ教育限界があるという線を引くとするならば、こういうものの考え方の中からはかってのヘレンケラー女史も出てまいりませんでしょうし、あるいは戦後の山下画伯も私は出てこないと思う。それはやっぱりあれだけ三重苦の障害に悩まされながら、その中からやっぱり可能性を引き出していったという教育の中で、私はヘレンケラー女史というものは出てきたんだ、そう思うだけに、これはきわめてやはり根本的な問題としては大事なことだし、そのまた教育基本にかかわるところの、私はこの問題は問題だという考え方を持っておりますし、それを私どもとしては、この提案の中ではさらに発展をさせたい、また、それにもこたえたいと、こういうまあ気持ちから三つの法案を提示をいたしておるわけでございます。
  19. 小林武

    小林武君 これ、いつまでも待っておってもしょうがない、さがせないんでしょう結局。局長さん、こういう特殊学級担任した動機というものを、一九五五年の調べでは、小学校中学校でやってるんです。研究への興味というのは、小学校教師調査した二十二人の者が研究への興味ということでやっておる。中学の場合は、十九人やっておる。パーセンテージでいえば、小学校のほうが一二%が研究への興味だ、中学校の場合は二〇%、また学業不振児、結局、成績のあんまりよくない子供を指導していたことから、そこから今度その問題を考えて、そして小学校先生は、その調査した者の一六%が、そこから担任をしてみようということになった、中学校では一二%の調査対象になった先生が、特殊学級担任をするということの動機になっている。それからまあ同情心というのもありますね。同情心の場合、小学校は一五%、それから中学校が一五%、それから本を読んだり見学などで関心を持ったというのが三〇%小学校で、中学では二六%、同僚にすすめられたというような者が小学校で一二%で、中学では一三%、教育委員会や校長におまえさんやれと、こう言われて、指名されてやったのが小学校一五%、それから中学校が八%、私こうやってみると、指名というのはわりあいに少ないと思うんです。研究興味とか、学業不振の子供をやってるうちにこれは特殊な教育というようなものの研究をして見なきゃだめだ、また、指導してみたいという、そういう気持ちを起こした、同情心を持って子供たちのためにやってやろうという、まあ教師らしい気持ち、それから目でじかに確かめて、本でこれを確かめて、そしてやる人が三〇%、こういうものを考えますと、人にすすめられたというのは二十何%だし、七〇%以上の者はどうかというと、やはり一つ動機を持ってやってるわけですね。それから特にあなたに申し上げたいのは、その次の第二表の調査に、精神薄弱児に対する考え方調べの中では、この子供たちに対してどんな人が期待を持って担任を引き受けたかというと、身辺の処理ができることが最も大切だと思うこれのできるところまでという目標を置いてやった人が百十人で二八%。子供能力に応じたものならどんな仕事にでもつけてやりたいと、この子たちを。どんな仕事にでも、とにかく仕事というもの、職業というものにつけてやりたいというのが、これが八十八人で二二%。その次は、この特殊教育の特色は、いろいろな教科生活と結びつけて与えることだと、いわゆる抽象的な、何かこの知識丸暗記をさせるというようなことではなくて、これは特殊教育でなくたって、それはあたりまえのことなんですけれども、特に教科生活を結びつけることにしてやりたいと、こういう希望で七十三人、一八%。それから四番目は、この子たちに対して、二十四時間教育生活指導をしたいという、こういう考え方が六十一人で一五%。五番目が社会に出てどうにか生活できるようになれば、もう読み書きなど問題でないと。社会に出て生活できるようにしてやりたいという考え方の人は、十一人で三%。七番目は、特殊教育といっても、一定の教育課程を持った目標を達成させねばならないという、こういうきちょうめんな考え方の人が九人で二%。それから八番目は、できるだけ普通児童に追いついていかせるようにつとめるという考え、とにかく、普通の子供に追いつかせないかぬという、こういう考え方の人がやっぱり八人いて二%。十番目は、この特殊学級児童生徒用教科書ができればそれにたよってやればいいんだからという、やればよいというのは比較的、何といいますか、教科書を非常に考えているから、これはちょっと三人で一%。見ますというと、もうほとんどの人が、この教育的なあれからいえば、いかにも教師らしいと、文部省とは考えがやっぱり違う立場でやっているように思うんですが、このいまの私の解釈というのは、この調査の上から、先ほど宮之原委員から出た可能性を見つめて最大の努力をすると。その努力をする目標というようなものは、どこにあるかということをやっぱりつかまえていると思うんです、その担任をするときのその動機として。私は、そういう状況に対して、文部省態度はどことなくやっぱり冷たいという感じがするんですがね。これはどうですか。こんな用に立たぬような教育とそこまであなたはおっしゃらなかったけどね。まあ読み書きなんかはどうでもいいんだ、読み書きができりゃなおいいけど、できなくても世の中へ出て働くところまで何とかしてやりたいというその気持ち、そういうところにもう視点を置いてがんばっている人もある。まあだんだんこれ人数が少なくなる。最後のほうへくると、やっぱり特殊教育にはいささかこの人まだまだほんとうの苦労がなさっておらないなというような感じする人もありますけれども、こういう考え方に対して、私はもう五十五年というと、それからもう二十四年たっているわけですからね。文部省がその間に何を考えたのか、ということなんですよ。あなたの答弁聞いているというと、何らやっぱり、何というか、進歩ない。日本経済力というようなものが、まあいまちょっとなかなかむずかしい状態にありますけれども、とにかく飛躍的な発展したと田中さんも言っている。そういうこの状況の中で、この種の教育に対する考え方というものが非常に低いと、私は、まあ宮城まり子さんから直接聞いたわけじゃないけども、まあ、その切り抜き等から見たりいろいろな例を見ますと、やっぱり、たいへんなことだと、一女優の一体これやれることかどうかということにそういう不安感さえ持っているあれもある。この間伴淳さんが何か、「あゆみの箱」のことについて何かに書いてあったんだが、私、読んだんですけども、その中でも、あの伴淳さんがもうほんとうに真剣に子供たちのためにこう考えている。それに比べると、われわれも含めてです。その中で、国の立場でやってやることを議論することに対しては、まだまだやはり演劇や何かやっている人たちよりかもっとおくれた立場にあるのじゃないかというふうに感ずるのですが、これは文部省としては、いま私が言うような批判というようなものを率直に認める気はありませんか。どうですか。
  20. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) まあ、このごろ私ども特殊教育につきましては、やはり教育という面だけを担当しているということでの一種のその限界というようなものも感ずるわけでございますが、教育に関する限りは、ただいま先生が御指摘になりましたような方向で、私ども従来からも進んでまいったつもりでございます。まあ、この前申し上げましたが、何といっても社会復帰ができる、世の中に出て一人前に生活ができるというふうなことが一番望ましいわけでございますけども、そこまでいかない方々につきましては、少なくとも、生きがいのある生活を送っていただくようにできないものだろうか。たとえば、まあ重度の精薄重複障害を持っておられる方につきまして、字を書かせるとこの程度までいくのだというふうな例が国会でもお示しいただいたことがございましたけれども、まあ、その書いた字そのものは商品的な価値がない、したがって、社会的な価値の中では意味がないかもしれませんけども、この個人としてはやはり生きがいと申しますか、そこに喜びを見出すというふうな意味合いがあると思いますが、少なくとも、生活に生きがいを感じていただけるようなところまで何か持っていけないものかということでございます。しかしながら、障害者の方々の一生の問題を考えますと、私どもでお預りするのは、いまのところは高等部までということでございまして、それから先どのようにして世の中で過ごしていかれるのか、そういう問題を考えますと、やはりこれは各省のいろいろな担当を越えて、そういう方々に対しては一体一生どういうふうな生活をしていただくのが望ましいのか。そこまで考えて、その中で教育がどの部分を受け持つのかということを考えていくというふうなことを、つまり総合的に判断をしていかないとなかなかこの問題は解決しないのじゃないかというふうなこと、つまり教育限界というものを近ごろやや感じ始めたというふうなことでございます。
  21. 小林武

    小林武君 まあ、あなたもう文部大臣じゃないから、ある限界でものを言っておると思うけれども。しかし、あなたは文部大臣と違ってやたらやめたりなんかするあれじゃないですな。一年や半年でやめたりするわけじゃない。まだまだあなたはこれから先にずっとやるわけですから、文部省で。そうすると、やっぱりその立場でのものの考え方ね。やっぱりあれですよ、戦後、敗戦によって大打撃を受けたあの中から逆に人間を尊重しなきゃならぬ。人間の尊厳というものを、新しい日本をつくるときに、あらためて従来のような考え方が、飛躍的なあれやらなきゃならないという考え方教育の中にあった。そういうことが、先ほど宮之原委員提案者としての意見の中にもあったように、権利意識としてとにかく教育を受けさせようと主張しようと、そういうふうになってきたと、私は外部が燃えて、私はほんとうにこのごろ見ていて、心身障害子供さんたちを持っている親たちの嘆き、その嘆きの中からも、何とかして自分子供教育を受けさせなきゃならぬというような意欲がもうわき立っているということを、これは新聞を見ても、雑誌を見てもどこにも出てくることなんですね。私もわりあいにたんねんにそういうものを切り抜いておるほうですけれども、そういうわき立ちに対してあなたたちところは水をぶっかけるというやり方です、正直に言って文部省態度というのは。それを受けとめてやるという考え方、いろいろな制約があってなかなかいかないけれども、心としては、そうだというようなことがいまあなたはなけりゃならぬのにね。文部省というのは、そういうあれがどうもないように思う。この点はどうですか、あなたそう思いませんか。責任の問題とか、何とかいうことを言ったらだめですよ、そんなことは言わぬでいいんだ、何もあなたの責任追及するとか、何とかということじゃないんですから。ものの考え方として、教育条件をつくるということが最大の使命である文部省として、教育をどうしてやる、心身障害子供たちに対する教育というようなものは、あるいは一生ベッドの上にいて社会的活動ができないというような子供があったところで、その生きているうち彼らがやっぱり学校先生が来ると、介護の先生なんか来ると非常に喜ぶというようなことを新聞の記事なんかで見るのですが、ものを覚えるというようなことを喜ぶ、そういう伸びようとする気持ちにこたえるようなやり方は、それは、その場の計算ではなくて、絶対人間として必要なんだ、その人間の欲求を充足させるという責任が文部省にあるんだというような、そういうたてまえに文部省は立てませんか。限界限界といつまでもそう言っているのだがね、そうあるべきでしょう、どうですあなた、どうなんですか、そこのところは。
  22. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) そうあるべきであるということにつきましては、別に私は否定をするものではございませんけれども、しかし、私どもは行政官でございますから、これは実際に私がそういうお子さん方をお預かりして、そして教育をするという立場にないわけでございます。多くの先生方にそういうことをお願いしなきゃいかぬ。先ほど先生から御指摘になりました多くの先生方ほんとうに私どもありがたいというふうな気持ちで一ぱいでございますけれども、そういう方々にお願いしなければならない。それから数多くの学校もつくっていく、まあ数多くの教職員を確保していくということになりますと、やはり非常に熱心に二十四時間教育までやっていただけるというような先生方ばかりを期待するわけにはいかない。どうしても、その平均的な先生というものを頭の中において行政をやらないと行政自体が間違ってしまうということになるわけでございます。そういう意味では、行政官というのは、ある程度非常に冷静と申しますか、先生方から見れば、薄情というふうな表現になる場合もあるかと思いまするけれども、こういうすべての先生方に二十四時間のお世話をお願いするというようなことはできないわけでございますから、そういう意味の計算をする、それに対するいろんな手当てをするというふうな立場にあるわけでございまして、そういう立場が冷たいとおっしゃられれば、そういうこともあるかもしれませんけれども、私は、先生が先ほどお述べになりましたような気持ちでやはりやっていくと、しかし、やっていること自体が、そういうふうに思われても、これはある意味ではしかたがないというふうに考えるわけでございます。
  23. 小林武

    小林武君 相当あなたは頭がかたいね。私は、あなたの頭のかたさというのはちょっと理解できないんですよ。私は、いま直ちにあなたにやれなんということを言っているんじゃないですよ。あなたは、いま何かお話の中に、教員みんなに要求してもだめだとかということ、やってくれるかどうかというようなことがあったようですが、違いますか。そんなことは言いませんか。——言わない。あなたのほうでやれることは、教員としては、特殊教育とあなたたちが言っている教育、われわれから言えば、心身障害児教育というものをやる場合には、それが心身障害児の重度であるとか軽いあれであるとかということは抜きにして、どんな子供にも教育を与えてやらなければならぬという考え方に立つということは、これは少なくとも、心身障害児童教育の発展の足跡の中にはっきり出ているわけですね。その点は、あなたも長いこと文部省にいるんですからおわかりだと思う。そういうまた一つの発展のしかたをしているんですから、文部省のほうとしては、文部省の中にいて少なくともその企画に当たる、与党であるとか、政府であるとかというものに対してあなたたちはある程度の発言をいろいろしているんでしょう。そういう中で、あなたたちの心の中にそういう原則がきちんとしておれば、それは国会もあることだし、予算の問題にも関連あるだろうし、政府部内のいろいろな問題もあるわけだから、思うようにはいかないにしろ、心身障害児童教育に対しては、こういう観点に立つべきだという、制限のないところのどの子供に対しても、それがどんなに社会のあれからいって効果の薄いように一見見えるようなことでも、その人間人間としての尊厳性を認める意味で、その子供に最大の努力を払ってやるというその行き方をあなたたち肯定しないとしたら、特殊教育というものは、もうこれであなたたちの手で枯らされます。そのことを直ちに予算化してどうしていかなかったとか何とかなんということを追及されると思っていろいろあなた予防線を張っているのか知らないけれども、原則としてのその考え方に立って進めていくという、それは当然のことだと思っているかどうか、それだけ聞かせてもらいましょう。
  24. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) そうしてやりたいという気持ちでやっております。
  25. 小林武

    小林武君 それをさっきから言えばいいじゃないか。たとえば、そういうことであるならば、宮之原委員提案と一緒です。しかし、宮之原氏の提案は、一つの理想を述べて、あなたたちのほうは、一つ文部省という役所の中にあっていろいろなからみ合いからなかなか一挙にしてそこまで到達できないという悩みがあっても、その発展の当然到達する目標に対しては共通の考えであるということだけは言っておかぬというと、これはだめだと思うんです。きょう、そこに厚生省の方も、それから労働省の方も来ていらっしゃるけれども、これはもうあれだと思いますね。文部省のほうが率先そういう考え方に立っているということを言わなかったら、この三省の連関のもとにやってもらわないと、障害児教育対象になっている人たちにそれは非常な不幸が来るわけですから、その点はっきりしておいてください。こんなことで長々とやらなければならぬというのはどうもおかしな話だけれども、この前から、三日がかりでようやくそこまで、限界限界で、その限界をはずすの容易じゃない。  限界がありますから、限界限界というんですけれども、「特殊教育」というものを書いている学校教育法の第六章の問題でございますけれども宮之原提案の中に、「特殊教育」というそのことばを改めなければならぬという主張があるわけです。この点は、特殊教育ということの響きがどうも普通教育の対比の中で考えた場合おかしいというが、心身障害児教育といった場合にはこれはどうですか、特段あれですか、普通教育といったものと対比して提案者としてはすとんと胸に納得するという説明、それをちょっと聞かしてもらいたいんです。わかりませんか。
  26. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 もう一回、すみませんおっしゃってください。
  27. 小林武

    小林武君 この改正する法律案の中に、特殊教育というそういうあれを使ってくれ、こういうわけでしょう。それで、これを「特殊教育」ということばを使っているのを、それを「心身障害児教育」と、こういうふうにしなければならないというその考え方は、特に大きな意味がありますか。
  28. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 正確に言いますと、私どものこの法案は心身が抜けて「障害児教育」というそのものずばりで出しておるわけです。もちろん、その中身としては心身を含むわけです。しかし、その意味というのは、先ほど来質問者がいろいろただしておられるそこにも基本を踏まえておるわけです。少なくとも、やはり国民である以上、人間である以上は、だれでも憲法の二十六条の言う教育を受けるところ権利があり、また、教育基本法三条の教育の機会均等がある。したがって、やはりどういう子供でも教育の面から見ればやはり可能性のあるそれを育てていく、引き出していくのが教育仕事なんだ。そういう立場に立てば、小学校教育中学校教育、高等学校教育、幼稚園教育ということのほかに、特殊教育という、「特殊」ということばがすでにそれは差別の観念を持ち出しておるんじゃないか。むしろそれよりは、そういう特殊視するよりは心身障害のあるところ子供に対してどういう教育をするんだという障害児教育というのがまさに憲法二十六条の示すところ教育の方針に合致するんだというのがこの提案のものの基本的な考え方なんです。ただ、この間も議論があったわけでありますけれども、本来ならば、障害児教育教育のあり方も普通教育のなか、小学校教育中学校教育、高等学校教育の中で行なわれなきゃならぬけれども、重度のやはり心身障害という子供がそういう小、中学校の中で一緒に勉強するということには非常に問題点があるとするならば、そこを盲学校なり、ろう学校なり、養護学校で十分やはり学習をさせていく、子供教育権を育てていくというその中身がいわゆる障害児教育なんだ、こういうものの考え方ですから、特殊教育というものの考え方障害児教育というものの考え方は先ほど来あなたがおっしゃったようないわゆる文部省考え方教育限界論というものがやはりこれに私はからんでおるんじゃないかと率直に思うんです。したがって、このことばを取り除いてもらいたい、「障害児教育」にしてもらいたいという声は、ここ三、四年来衆、参の文教委員会で多くの委員の方から指摘されている。与党の皆さんからも指摘されている。そのつど文部省の答えとしては検討させてくださいという形でずっといままできた。その一番もとは、私はやはり先ほど質問者がしつこくただされておるところ教育限界論、そこらあたりがあるからじゃないだろうか。そうすればするほど、これはやっぱり教育のあり方という基本に立ち返るとするならば、特殊の壁を取っ払って、障害児教育そのもので教育をするという方針こそが、いまさっきようやく認めたところの理想像に近づくところ、あるいはそれを達成するところの私は教育のあり方としては正しいんだ、したがって、きわめてこの表現は、単に文字の表現でなくて本質的なやはり障害児教育のあり方の体をあらわすものだと、こういうふうに、私は見ておるわけです。したがって、提案者としては、ここは何が何でも障害児教育ということでやってもらわなければ困ります、こういう考えです。
  29. 小林武

    小林武君 局長にお尋ねしますが、障害児教育に直したって金がかかるわけでもないんだし、これは検討、検討といってずいぶん長いこと検討しておって、結論出ないのはどういうわけですか。特殊教育ということをどうしても守っていかなければならぬという理由があったらひとつ述べてもらいます。
  30. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 名称の問題でございますが、名称の問題、非常に重要ではございます。重要ではございますが、やはり個人、個人によりまして感じ方が違う、教育ということばが非常に耳ざわりだというふうな御意見もございましょうし、それから障害児教育、これは英語でいいますとハンディキャップド・ピープルといいますか、そういうふうなことであろうと思いますけれども、先回も片岡先生の御質問のときにちょっと申し上げましたが、たとえば、ろう学校ということばはもう改めてほしいというような御意見があるわけでございまして、それをどういうふうに変えるかと申しますと聴覚障害児教育、そういうふうに普通でございましたらなるわけでございます。それから盲学校のほうは視覚障害児教育、それから養護学校のほうがどういうふうな形になりますか、まあいろんな関連が出てくるわけでございます。それからまた、「障害児教育」ということばも、これがいまのところは新しいことばとして広く使われるようになっておりますけれども、十年、二十年あるいは三十年たちましてやはり同じような感覚で受け取られるかどうかという、その当時はまあ耳新しいことばでございますけれども、それがまたやはり内容は同じなわけでございますが、また、それがことばとして適当じゃないというふうなことになりはしないかということも心配しておるわけでございます。いずれにしましても、こういう問題は、広く国民の方々がこちらのほうがいいんだというふうなそういう大多数の御判断でおきめいただいて私はけっこうなことじゃないか。そういう意味で、国会国民の代表の方々がおそろいなわけでございますから、国会でこうしようということできめたら、そのことは私たいへんけっこうなことじゃないかというふうに考えております。
  31. 小林武

    小林武君 これはあれですか、「障害児教育」というほうが「特殊教育」よりもいいということは、これはもう与野党の中でも大体一致した見解だということは提案者が言っておる。文部省がそれについていろいろ検討してみましょうと、こう言って検討した。どんなところへはかって、どういう一体検討をなさったのか。たとえば、実際に障害児教育をやっている人たち、そこで苦労なさっている方々、そういう人たちの意向というようなものもくみ入れて、そうして十分討論した末に出した結論だとおっしゃれますか。あなた言い切れますか、どうですか。
  32. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 私どもは、検討と申しますと、やはりそういうふうな学校の校長先生のお集まりの機関があるわけでございますから、そういうところの御意見も承っているわけでございます。それからまた、私どものほうでも、内部でいろいろ意見を交換しているわけでございますが、これは事柄をどちらのほうが正確に表現をしているかというふうな問題とちょっと別なような感じもするわけでございまして、いわゆる語感と申しますか、そういうふうなものも入るわけでございますが、したがって、純粋に、理論的にこちらがいい、こちらが悪いというふうな割り切り方のできにくい問題でございますので、ある程度定着をして、そして障害児教育と言えば、皆さんもうこういう子供さんの教育だというふうなことがすべての方に理解できるように、ある程度社会的な共通な素地というものも私どもは必要じゃないか。どの程度定着するかということも一つの必要な要件じゃないか、そんなことをいろいろ検討しているわけでございますけれども、純粋に、理論的に割り切れないという面で私どもの内部にもいろいろ意見がございます。それをさらに考えているところでございます。こちらがいい、こちらが悪いというところまで、まだいっていないというふうなところでございます。
  33. 小林武

    小林武君 このあなたのお話し聞いていると、校長さんに聞いたとか、あるいはいろいろな意見聞きましたというけれども、あまり、組織的にこの問題について出された議論をひとつよく検討いたしますと言ったその答えについての、回答の手続ということから言うと、さっぱりあまり中身がなかったように思うのです。私は、やっぱりこういう問題については、何といっても一番有力な意見になるのは、実際に子供を預かっている者ですよ。先ほどちょっと長々と調査のことについて申し上げましたけれども障害児教育をひとつやってみようというような気持ちでそこへ入り込んでいった人たちで、すぐ変わるなら別ですけれども、ほとんど一生そこの中でやっていくような人がなければ障害児教育なんというのはできるわけないんです。あなたのほうでも、もう専門的な教師というものを非常にほしがっているのでしょう。そういうものがなければだめだということよくおわかりなんだ。そういう専門的な教師の養成というようなことは、結局片っ方においては、このことにひとつ自分教師生活というようなものをかけてみようというようなそういう意欲のない人からは出てこないんですよ。だから、私はもっとその点についてはあなたのほうで、まあ何というか、国会で言ったことなんて片っ方の耳から聞いて片っ方のほうから出してやればいいというふうな式のものでなくやってもらいたいのですよ。そういう約束してもらえますか。今度はやっぱりそういうことについて、みんながだめだということになったら提案者が何と言ったって、それはみんなが、大多数の人間がいややっぱり特殊教育がいいなんというようなことであるならば、提案者の側のほうは、間違った把握をしていたということになるかもわからない。しかしながら、そういう手続を経ないで、しかも、第一線で一番苦労している者の意見というようなのをくみ入れないで、まあまあなれているからというようなこと——あなたのほうだけなれているんであってね、現場のほうではさっぱりそのことについて障害児教育に一生懸命やろうなんていうような意欲わいてこないわけですから、私は、それについては今度はしっかりやってもらいたいと思うのですよ。はなはだ悪口ですけれども文部省がいろいろな審議会だとか委員会とかやるとほんとう議論するようなやり方やっているのですか。私は、何度か、何か文部省人たちが主宰する団体のあれに一、二度出たことありますけれども、びっくりしたことは、まあ各種そのほかのあれでもそうですが、いわゆる学識経験者とかなんとかという方がいらっしゃる。それからわれわれも尊敬するような方もいらっしゃる、そういう方々が活発な意見を展開するというようなことがあまりないように思うのですよ。ここらでおっしゃったらどうだろうなと思うところでさっぱりおっしゃってない。私は、はなはだ第一回目に出たような席でそういうことを言ってたいへん皆さんに失礼だとは思ったけれども、私は、これは言わなきゃいかぬと思った。文部省の役人の持ってきたものを見て、大体原案に賛成していりゃいいんだというような考え方なら、一体、学識経験者も何も要らないわけです。ということを、これはもっとも一回か二回出た私の観測ですから、これは当たっているかどうかわからぬけれども、私は、その活発な議論の聞けるような、そういうやり方をひとつ検討する必要があると思うのです。そう思いますが、どうですか。そういうお約束していただけますか、いまの名称の問題ね。これは名称別に金かからぬわけですからね。
  34. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 ちょっと、文部省が答える前に、私は先ほど与野党間でやはりこの問題は意向が大体同じ方向にあると、こう申し上げているのは、やはり国会におけるところ議論の、質疑、答弁の中から、やはりそういうことを確信を持って申し上げておるんです。  それだけちょっと若干披露いたしますと、これ昭和四十四年の四月二日ですよ、五年前です。これ衆議院の文教委員会で、やはりこの名称の問題が議論をされておるのです。その議事録によりますと、いわゆる憲法「二十六条の教育権は、障害の有無によって差別されることのない厳粛な国民権利であり、」、したがって特殊教育、いわゆるスペシャル・エデュケーションではなく、エデュケーション・オブ・ハンディキャップの意味で、名は体をあらわすというが、この用語は適切でないと思われるが、どうかという質問があった。これに対して当時の文部大臣の坂田さんは、ヘレンケラー女史の母校のパーキンス盲学校の卒業生のミスター・スミスダスの例をあげながら、人間可能性の偉大さをとうとうと述べておられると同時に、この質問の趣旨に全面的に賛意を表して、ことばというものは、いろいろ誤解を招いたり、あるいは適切でなかったりしますので、今後十分検討したい旨答弁をしておるわけです。四十四年ですね。  それから六十五国会で、これは参議院の内閣委員会で、これは当時のたしか上田哲君からの質問に対して、政務次官の西岡さんですね、これはいま自民党の文教部長ですけれども、その当時でありますが、当時の坂田さんも病気で、秋田文相が代理であったときでありますが、そのときに、代理の文相の答弁も、これはそのことについて賛意を表しておられるのですよ、そのことについて。そして、むしろこれは「障害児教育」ということばが適切じゃないだろうかと思いますという答弁を秋田さんもやっておられる。このころから文部省は前向きに検討します、検討しますということばでずっと来ておる。  なお、四十七年の五月三十日、本院の文教委員会で、私がこの間も同じ説明いたしましたように、私の質問に対しても、初中局長のほうからは、検討さしてくださいと、こう言っております。そうしたら、一番私の質問の最後のところに、与党の楠正俊君から——当時の理事、いま通産政務次官ですね、彼から、「いま宮之原委員の御質問でございますが、先ほどの用語——ことばのことですね、それは文部省のほうでも研究をするというお話でございましたが、それに関連いたしまして、ああいう欠陥を持たれた御両親の気持ちというのは非常にデリケートなものがございまして、養護学校というならまだいいんですけれども学校の場合は養護と使っておいて、学級となるとわざわざ特殊学級と、こう言っているんですね。一般の普通教育とまざって特殊学級というところに入れていられる御両親なんか、どうも、気がひけるというか、肩身が狭い」と、こう言っておられる。したがって、この特殊学級ということばも含めて、この問題についてやはり検討し直してもらわなきゃ困るという、賛成の意見が出ておるのであります。したがって、こういう私は、やはり国会のこの問題に関するところのいろいろなやりとりの中から、すでに少なくとも、事この問題については、大かたのやはり意向というものは固まりつつあると思う。その点が、文部省がまだ検討します、検討しますというのは、いろいろなまた審議機関にかけられるかどうか知りませんけれども、私は、やっぱり率直に言って、一体こういう時期の中で、もう踏み切る段階であるだけに、踏み切るという意向でもって各層の皆さんの意見を聞く態度を持つものかどうか、そこの積極的な姿勢があるのかどうかというところに私はかかっているんじゃないかと思うのですよ、このことは。先ほど十年後、二十年後になれば、また、いま指摘されたとおり、障害児教育ということもどうなるかわからぬと、こういう向きの話があったんですけれどもね。少なくとも特殊学級と、特殊教育ということよりもいいということは明白なんですから、それを改めて、二十年、三十年後にまたことばが悪いというならば、その時世のまた国民の要求に沿って改めるのには、これは何らかまわぬと思う。そのことによって私はお役所の権威が落ちるものとはさらさら思わない。それだけにこの問題は、先ほど来申し上げるように、この障害児教育基本にかかるところの問題だけに、単に名前だけの問題じゃないと、こう申し上げておるわけです。
  35. 小林武

    小林武君 いまの宮之原委員説明で、局長はっきりしたでしょう。与野党みんなだれもが常識的に考えても、これは子を持つ親の立場になって考えれば、そっちのほうがよろしいということになっている。あなたはどこの校長さんの話を聞いたのかわからぬが、あなたは校長さんがそう言ったとかなんとか言ってますが、私はやはりいま聞いてもう文部省はあまりこだわることはないんじゃないか。つまらぬところにこだわるのが文部省の特徴みたいに誤解されるおそれがありますからね。こんなけちな考え方でいるなんていうようなことを日本文部省が宣伝されるのもどうかと思うから。今度はどうなんですか、あなたたちのほうの省議だとか、あるいは何とかいろいろあるでしょう、そういうところではっきりこの問題についてケリつけましょうという、そういうようなことは一体どうなんですか、約束できるでしょう。文部大臣が二人も三人も答弁に出て、そのほうがいいですなんと言っておいてできないというのは、これはもうやっぱりあなたたちのような局長とか次官とかいうえらいのがみなじゃましているからだというふうに理解されそうですからね。そういうことになりますよ。与党のほうでもなかなかはっきりしたことをおっしゃってくださった方もある。決着つけなきゃならぬときだと思いますけれども、そのことについて、きょうは大臣はここへ出てこないわけだけれども、あなた、それについてどうですか、大臣にもあなたから話をして、この問題のやはりケリはもう今国会でつけるべきだと、これからあなたのほうから何かここへ出るときには、障害児教育ということで出してくると、こういうふうになるようにはからうというあなたの答弁聞きたいんですが、どうですか。
  36. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) ただいまここに法案が提出されているわけでございますから、これについての国会の御意思をきめていただければ私はそれでも済むんじゃないかと思います。ただ、障害児教育といった場合に、先ほど申し上げましたように、まだいろんな種類があるわけでございまして、重なってまいりますと、六十種類ぐらいの障害の種類があるわけでございます。そういうものをどういうふうに考えていくのかという問題もあろうと思います。それからもう一つは、たとえばろう学校というものを聴覚障害児学校とかりに改めます場合には、いままで一字で済んだものが五字になるわけでございます。たいへんむずかしい漢字を使うわけでございますから、そういうふうなものが一般の国民生活と申しますとちょっと大げさでございますけれども、という場合にどうなるかと、いろんなまだ御意見があろうと思います。そういうものを御判断の上で、国会の御意思としておきめになるということにつきまして、私ども、別に反対をするというふうな筋合いのものではないというふうに考えるわけでございます。
  37. 小林武

    小林武君 重ねていまのことを申し上げますと、あなたこだわっているようだから、こだわることないですよ。たとえば盲学校、ろう学校ということだって、もしかりにそれが障害児教育となったっていいじゃないですか。皆さんどうですか。あなたたちは上品に育っているからそういう経験ないか知らぬけれども、私らならば目の見えない人に対して何と一体言うか、ものを言えない者に対して、そういう悲しい運命を背負ってきた子供に対してどんな一体、何というか、ひやかしことばというか、悪罵を加えるようなことは相当ことばとしてあるわけだ。そのことをそのまま書いたような私は名前だと思うんですよ、盲学校、ろう学校。しかしこれは、教育として、学校としてやってきているからあのことばはまたそういうような悪罵を加えるようなあれにはないけれども、そういう最も具体的な形で出しているような名前というのが私はあまりいいとは思っておらぬのですよ、これは。だからそんな心配なんかあまりしなくてもいいところまで皆さんの大体発言できているんじゃないか。しかしながら、こういうことというものは、いろんな角度から検討しなけりゃならぬということだけはそれはわかります。人間気持ちにかかわる問題ですし、実際の当事者が一体どんな受けとめ方をするかということがあるわけですから、私は、慎重を期してやるべきだと思うけれども、いつまでたっても一体それについて結論を出さないなんていうやり方はだめですよ、それは。どうぞ、そういう点でお考えを願いたい。それで早急にやってくださいよ。  次に、文部省——労働省からもおいてくださっているし、それから厚生省からもおいでくださっているから、ちょっとやはりいつまでも待ってもらうのも申しわけないと思います。ちょっと順序を変えますがね。文部省に先にお尋ねするんです。文部省はいわゆる障害児教育、われわれでいえば。特殊教育というものを非常に長いことやっている。長いことって、そのことをまあ条件を満たすために、いろいろ教育条件を満たすために努力されているけれども、そしてだんだん文部省よりかもむしろ子を持つ親というか、日本社会の中にそういう声が出てきた、強くなってきたと、私はこのごろほんとうに驚いているんです。昔ならば、とにかく自分のうちにある障害を持った子供なんかいると隠そうというような考え方のほうが強かったけれども、人目に触れさせまいという考え方がもう持てるものならば一そうそういう気持ちがあった。それがいまでは教育してもらいたいというあれに変わっているということは、これはわれわれ受けとめなきゃならぬところだと思うのです。そしてまた、教育を受けるというようなことは、教育から隔離されているような形になっている子供たちから見れば、ものすごく喜ぶということを、この間もちょっと新聞の記事を見たら、巡回の先生が行ったらとても喜んだということを、そういう時代に変わってきたんですがね。同時に、先ほどの担任を引き受けたという、担任をやろうかといった動機の中に、社会に出て何とか社会の中で暮らしていきたいと、こう言うている、そういうふうにしてやりたいという願いね。これはまた子供生徒でも同じだと思うのです。  そこで、文部省一体社会復帰に対してどのぐらい熱意を持っているかということをよくあらわすのは、文部省とか厚生省とかというところを、労働省もそうでしょうけれども、労働省とかというところはいろいろな角度から考えて率先してやらなきゃならぬことがあると思うのですよ。たとえば文部省あたりならば、心身障害を持っておってもりっぱに働きができるというような者は文部省の職員の中に採用するとか、文部省が少なくとも、その教育についてのある意味での中心だということであるならば、車いすに乗った人が何か意見を述べに来ることがあって行ったならば、その車いすが通れるような配慮をするとか、そういうことを率先してやらなきゃだめだと思うのですね。そういう意図っていうものは文部省にあるんですか、どうなんですかね。私は文部省というところはなかなかそういうことはないと思うのですよ。学歴偏重の世の中けしからぬとか、われもわれもと大学に行かなきゃならぬとは思わぬとかいうようなことを言うから、文部大臣に私がそれでは文部省では学歴偏重というような弊害を第一に文部省からひとつ排除したらどうですかと言ったら、なかなかどうも採用条件がいろいろあってそうはできないというようなことの答弁が返ってくる。それでもほかの省よりかも少しは民主的ですと、この間、文部大臣が言っておったけれども、どのぐらい民主的なのかよくわからぬけれどもね。そういう考え方を直ちに実行に移すというような考え方はないですかね。どうですか。たとえば厚生省のようなところとか労働省のようなところは、たとえば身障者の中でもやたらみんな全部身障者にするわけにもいかぬでしょうけれども、やはり役所としてそういう人たちを職場の中に迎え入れてやるという、そういうあれは文部省、どうですか、やる気ありませんか。どうです。
  38. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 職場に心身障害者の方を受け入れることにつきましては、これは労働者のほうで一定の基準がございまして、その基準に達するように私どもとしても努力をしているつもりでございます。また、文部省においでになればおわかりになりますように、心身障害のある方がかなりおります。現在、課長でも一人おります。そういうことで、職場に適当な方は私どもも積極的にお迎えする、こういうふうな態度でおるわけでございます。ただ、文部省の中には、本省だけではございませんで、国立学校、それから公立学校等も職場の中にあるわけでございますが、現実問題としまして、学校ども全体として考えました場合に、どの程度お迎えできるか、これは、特殊教育小学校におきましてはかなりお迎えしているわけでございますけれども、一般の小中学校あるいは高等学校でお迎えしている率というのは、これはなかなか私どもの理想どおりにはいっていないと思います。しかしながら、労働省のほうでそういうふうな、そういうことをすすめるようなたしか法律があったと思いますけれども、基準があるわけでございますから、そういう方向で努力をしたいということでございます。それから、特殊教育小学校におきまして職場復帰の問題があるわけでございまして、たとえば盲学校、ろう学校でいろいろ職業の開拓等も行なっております。しかし、これはなかなかむずかしゅうございます。世の中がどんどん変わってまいりますと、職業の分野も変わってまいるわけでございまして、せっかく学校で教えたことがそのまま世の中で通っていかない、あるいは変わってくるという場合がございまして、これは非常に私どもの頭の痛い問題でございます。できましたらこれは個人的な見解でございますけれども、そういう方々を専門に受け入れて、ほかの方々が入れないような職場というものができないものかどうかということも考えておるわけでございまして、この問題は、今後の非常に大きな課題であるということでございます。
  39. 小林武

    小林武君 いろいろお話があったけれどもね。文部省一体、そういう者を採用するべきだと思うのですよ。あなたたち教育という問題をやっているのですよ。教育の問題をやっておいて、そして、その目標の中に社会復帰というようなことを言っている。特にあなたたちのほうの学校教育法なんかを見ると、明らかにその中に限界線を引いたような法律の条文になっている。だから、私は、そういうあれを抜け切るためにも、それは、採用の人数なんというものはおのずからそれは機能の上から見て十分配慮しながらやらなければならぬけれども、身障者を特に採用するというようなやり方はいままでやってないでしょう。私は、文部省という役所で、そういうことをやるということは非常な大きな意味があると思うのですが、そういう方向に行くべきだとあなたは思いませんか。どうですか。
  40. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは、労働省のほうでそういうことも進めているわけでございますから、その精神に沿いまして、身障者の方々が中央官庁におきましても一定の率が確保され、また、さらに必要があれば、それを上回るというふうなことは私は必要であろうというふうに考えております。
  41. 小林武

    小林武君 まあ、ひとつ歯切れよく返事をしてもらいたいのです。採用することですよ。文部省がやはり、たとえ数は少なくとも、このポストには身障者をひとつ新たに採用してやろう、そういうことによって、心身障害を持った人たちに勇気を与えるというような、そういうことも含めた立場に立って、文部省——それは数たくさん入れなければならぬことはないですよ。少なく入れてくれということを言っているのではないですよ。数の問題じゃなくて、そういう精神をやっぱり文部省というような役所で先にやってもらいたいということです。これはどうなんでしょう、厚生省とか、労働省なんていうのは、そういう省の職員の採用ということについては、そういうあれは特別に考えておらないわけですか。
  42. 加藤孝

    説明員加藤孝君) 現在、身体障害者雇用促進法というのがございまして、その法律によりましては、官公庁では従業員のうち一・七%、それから現業の官公庁では一・六%の身体障害者を雇用するようにつとめなければならぬことになっておるわけでございます。民間につきましては一・三%と、こういうことになっておるわけでございますが、その雇用率の達成状況について申し上げてみますと、官公庁は一・七%に対しまして、かろうじて全体としては一・七一%と、こういう状況でございます。しかし、それは官公庁全体でございまして、各省別に見ますと、まだ未達成のところもあるわけでございます。それからまた、民間につきましても、一・三%の雇用率に対しまして、全体としては一・二九%と、かつかつのところにきておりますが、しかし、個別の事業場ごとについて見ますと、一・三%未達成のところがなお三六%ございます。今後、こういう福祉優先の政治を、あるいは行政を展開していく中で、私どもとしては、何よりもまず心身障害者の雇用促進をはかることがきわめて重要である、こういう観点で取り組んでおるわけでございまして、先般、三月の十四日であったと存じますが、政府レベルにおきましても、こういう民間に対して身障者を雇用してくださいということを呼びかける前に、まず、官公庁が率先してやはり雇用していかなければならぬ、こういう姿勢を明らかにする必要があるということで、政務次官会議におきまして、各省庁が、たとえ雇用率を達成しておろうと、おらないところはもちろんでございますが、雇用率を達成しておるところといえども、さらに、心身障害者を積極的にひとつ雇用していくようにということで、政府レベルでの申し合わせが行なわれまして、各省に対して再度その旨を強く要望しておる段階でございます。各省別の数字を申し上げるのは何でございますが、全体として一・七一%と申し上げましたが、労働省といたしましても、それについて積極的にやはり範を示す必要があるということで努力をしておるわけでございまして、ただ、数字としましては、一・九六%、こういうような現状でございますが、これはもう、さらに今後とも雇用を進めていきたい、こういうふうに考えております。なお、ちなみに厚生省につきましては、二・九二%、こういうことで、法定雇用率一・七%に対しまして、どの省よりも最も多く雇用されておる、こういうふうな現状にございます。
  43. 小林武

    小林武君 文部省は、一体どのくらいになっておりますか。
  44. 加藤孝

    説明員加藤孝君) 文部省は一・七三%ということでございます。八百九十二名を雇用しておられる、こういうデータをいただいております。
  45. 小林武

    小林武君 もう一ぺん労働省の方にお尋ねをいたしたいのですが、一番やはり、どうなんですか、省庁のうちで、一番採用の少ないというのはどういうところですか。平均までいかないというのは。
  46. 加藤孝

    説明員加藤孝君) 実は、各省で熱心なところと不熱心なところがあるということで、衆議院のほうの社会労働委員会でもその点が問題にされまして、実は郵政省が未達成であるということで、衆議院の社会労働委員会におきまして、なぜ未達成なのか、今後どういうふうにして達成していくかということが鋭くやはり追及があったところでございます。そのほか公安調査庁がやはり達成率が悪いということで、いま郵政省、公安調査庁に対しまして、雇用率達成のための特別ないろいろの相談をいたしておるという段階でございます。
  47. 小林武

    小林武君 労働省にお尋ねいたしますが、具体的に、これは何というのですか、職場の改革といいますか、これについての労働行政の中ではどういう手続でやっているわけですか。手続というか、やり方が、何とか就職先を拡大するというようなやり方ですか、どんなやり方やっているんですか。
  48. 加藤孝

    説明員加藤孝君) まず基本的には、その心身障害者の雇用について国民的な理解といいますか、特に事業主が心身障害者の雇用促進についての深い理解を持っていただかなければならぬわけでございます。で、そういう意味でのまず啓蒙活動といたしまして、たとえば毎年九月を、これはヘレンケラー女史が来日をいたしましたのを記念いたしまして毎年やっておりますが、九月を雇用促進月間というふうなことでPRにつとめると、あるいはまた事業主の団体に自主的なこの啓蒙活動をさせるということで障害者雇用促進協会というものを現在各都道府県につくるべく進めておる、それを通じて事業主の自主的な啓蒙をはかっていくというようなことをしておるわけでございますが、具体的な事務といたしましては、そういう理解を深めるための運動を背景といたしまして、公共職業安定所に求人者が求人を申し込んできます。その場合に、おたくの会社では、たとえば若い人を十人ほしいと、こういうふうな求人申し込みがございます場合に、あたくの現在心身障害者の雇用状況はどうなっておるかという、その辺の事情を一緒にその採用申し込みと同時にその辺の状況を聞きまして、そうして十人のうち何人かはひとつ身体障害者を雇ってくださいというような形での指導をいたしまして、率直に申しまして、最初から身体障害者を雇いたいというふうに言ってきます事業所は、残念ながらまだきわめて少のうございます。したがいまして、一般の求人を申し込んできましたときに、せめてその雇用率達成までひとつ採用してくれということの指導をしておりまして、そのほか、そういう求人申し込みを受けない事業所につきましても、法律によりまして身体障害者雇い入れ計画の作成命令と、こういうのがございますので、特に身体障害者の雇用について不熱心な事業所については、そういう雇い入れ計画作成命令を出すことによりまして身障者の雇用を進めると、こういうような事務手続をいたしておるところでございます。
  49. 小林武

    小林武君 これは文部省にお尋ねいたしますが、学校教育法の七十一条、「幼稚園、小学校中学校又は高等学校に準ずる教育を施し、あわせてその欠陥を補うために、必要な知識技能を授けることを目的とする。」とあるのですが、特殊教育研究いろいろいままであったわけですけれども、相当私は特殊教育というのは進歩していると思うんですがね、この「準ずる」というようなことでは、何か小学校のようなことをやっぱりやらなきゃならぬというような、そういう考え方になって、心身障害児教育の何といいますか、特異性といいますか、生徒児童そのものに対して密着したその発想がこの中から出てこないよう思うんですが、この「準ずる」ということは、どういう解釈したらいいんですか。
  50. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これはまあそのものずばりではございませんけれども、幼稚園とか小学校中学校、高等学校教育をやはり基本にいたしまして、特殊教育の特殊性を加味した教育を行なうという意味であろうと思います。ただ、先生指摘になりましたように、この「準ずる」という、準ずる教育という点につきましても、これは改めるべきじゃないかというふうな御意見があったことはたしかでございまして、それだけ特殊教育の内容というものは変わってきている。最近も養護訓練というふうな新しい分野を加えましたけれども、どんどん進歩していくのではないか、そういう面があるわけでございます。この規定そのものが適当であるかどうかという点はいろいろ議論のあるところであります。ただ、いまのところ資格と申しますか、という点から申しますと、やはり特殊教育学校の高等部を卒業すれば高等学校を卒業したのと同じだというふうな扱い、それから中学部を卒業しますと中学校を卒業したのと同じなんだという扱い、これは必要であろうと。その必要の範囲におきましては、やはり中学部を卒業して普通の高等学校に進学される方もあるわけでございますから、そういうふうな道を閉ざさないという意味では、やはり小学校中学校、高等学校に準ずる教育をするんだというたてまえは、私は、いまのところ意義があるんじゃないかというふうに考えます。
  51. 小林武

    小林武君 この法律案提案者にもお尋ねいたしたいんでありますが、私は、やっぱりこの七十一条の「準ずる」云々は、やはり文部省の言う特殊教育障害児教育進歩の過程、進歩している現状、また非常に何といいますか、子供を持つ親たちの関心というようなものが深まってきている現状からいえば、適切ではないと。障害を持った子供たち一体ほんとうに直接効果を及ぼすような教育というのが考えられていいんだと思うんですね。その点、文部省はやっぱり何か理屈をつけて改めることにちゅうちょしているようですが、それほどがんばらなければならない理由、もうそろそろこれについて検討に入っているというぐらいは言わなければ申しわけないような気がするんですけれども、それがどうかということです。それからこの「準ずる」云々のことについて、宮之原委員からのひとつ意見を承りたい。
  52. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 これは、一昨日も片岡委員質問にも答弁をいたしたわけでございますが、確かにこれは私は「準ずる」という問題、ひっかかるんですよ。したがって、四十七年の五月三十日の本委員会においても、この問題について、「準ずる」ということばはどうも適切でないからこれは手直ししたらどうかと、こういうことをただしたことがある。しかしまた、これは六十五国会でも、実は参議院の内閣委員会で、この問題は問題になったんです。当時の初中局長の宮地さんはそれに対して、適切なことばがあれば訂正するにやぶさかでないという答弁を六十五国会ではやっておられる。それから当時の西岡政務次官も同趣旨のことを言われておるんです。その問題引き合いに出しながら、二年前の五月三十日の本委員会で、これは私は、この問題も先ほど申し上げたところのいわゆる特殊教育云々という問題同様に改めたらどうか。やはり障害児教育は、障害児教育として独自のカリキュラムやいろんなもの、教育内容の問題についてあるんだから、それを打ち出すという意味においても、この「準ずる」ということばを手直ししたらどうかということを申し上げたんでありますが、当時のやはり岩間さん答えて、「今度は私も中心になりましてこういう問題について一応検討してみたいというふうに考えます。」と、これで終わっておるわけであります。これまた二年がかりの検討のようでございますが、その後の様子は聞いてないんですけれども、いずれにしても、私は「準ずる」という方式じゃなくて、障害児教育障害児教育の独得のやはりいろんな問題があるわけですから、独自のものをやはり学校教育法の中でも、施行規則の中でも打ち出していくと、こういう方向をやはり明示すべきじゃないかと、このように考えております。
  53. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 先ほども申し上げましたが、いまの学制では一番いい点と申しますのは、袋小路がないということがよく言われているわけであります。そういう意味で、特殊教育につきましては全然別の教育を必要とする部面もあるわけでございますが、小学校中学校、高等学校等ほぼ同じような教育をして差しつかえない部面もあるわけでございます。特殊教育の中には特殊学級も入るといたしますと、これは多少の配慮を加えて普通の子供と同じように扱う、あるいは普通の子供と一緒にやるということも効果があるんだということも言われておりますように、私が心配しておりますのは、そのために、特殊教育というものが袋小路になってしまうんじゃないかという点を一番心配しているわけでございます。そういう意味で、たてまえとしては小学校中学校、高等学校教育に準ずる、またできればなるべくそれに近いものにするというふうな考え方、この考え方は私は残してもよろしいんじゃないか。現在の小学校中学校、高等学校教育内容がいいか悪いか、これは別問題としまして、やはりそれを改良すると同時にそれに準じていくということ、そのたてまえは私はくずさないほうがよろしいんじゃないかというふうな感じがいまのところしているわけでございます。
  54. 小林武

    小林武君 やっぱり何か文部省というところは、私は、一つのやはり非常にかたい一面あると思うんですよ。全体の日本教育に対して、おれのほうではこうこうせいというような発言力を持ってるんだというような意識がついて回ってんですね。これね、教員やったものならそんなことについてはもうあなたのようなこだわり方しません。たとえば何の指導をやるにしたって、子供にやる場合には、その子供自身ですよ、子供を見ないでやるわけにいかぬです。一学級の定数を減らしてくれということは、一斉授業やって同じようなことをみなにやるということが教育の上では非常にマイナスなんだと、数を減らすということはとにかく一人一人の子供の持てるものに沿うた教育をやりたいんだということです。そうでしょう。そういうたてまえに立ったら、これは準ずるなんというものを、準ずるんだと、欠陥を持ってるんだから準ずるんだというような、そういう考え方に立ったら、これは話にも何もならぬということになる。これはどこまでもあれじゃないですか、その子供たち一つのそういう運命を背負ってきた。彼らはそういう運命のもとにいるわけですから、その子供自体をどうして一体最大限に伸ばしてやるとか、教育の喜びを味あわしてやるとかという角度でものをきめないんですか。私が、やっぱりそこらはこれ学校先生やったものならみんなそう思いますね。これは体育やったって同じですよ。かりに何か体育のうちの競技だな、陸上競技でもよろしいし、何競技でもよろしいが、りっぱな選手をつくろうということになると、そういうことで目の色変えてやっていらっしゃる方もそれぞれいる。そういう場合でも、一体その持ってる素質とか、その持ってる精神とかなんとかというようなものを見ないで同じようなことをやるなんというコーチがいたら、これはよほどどうかしているコーチだと私は思う。私はきのう何か新聞みたら、南海の野村という監督のあれを見て、いかにかれがチームの中の選手の持てる素質というようなもの、持てる性格というようなもの、そういうものをどういうふうに技術の向上とか試合に臨むファイトとかいうものに結びつけるかということに努力しているかということを見てね、これはすばらしい教育者だと実は思ったですよ。そのことが先に立っていないから私はこんなことにいつまでもこだわるんだと思うんですよ。答弁するときは、ごもっともだとか検討いたしますとか言って同じことを何べんも繰り返している。これだってさっきのことと同じですからね、いまあなたが持っている考え方というのは文部省でどうしてもあれですか、「準ずる」式のやり方をやらなきゃ気が済まぬということになっているんですか。改めたらいいじゃないですか。検討すると、あなたはおっしゃったらしいが、検討の結果どうなりましたという報告もこれはしたこともないんだと思うんです。これは不届きですよ、私に言わせれば。委員会の中でとにかくさんざん議論さしておいて、いや、あなたのおっしゃることに反対です。私は全然立場が違いますということでも言うならともかく、皆さんの意見が大体一致したような形で進行していってだね、責任のある政務次官だとか、何とか大臣とか、それについてごもっともだなんということを言うた場合には、私は検討したら、その検討した結果というものは、その委員会の中において検討の結果、こういう結論が出ましたということを言うのがこれは責任のある態度だと思うんですよ。それをほほかぶりしておいて、いつまでたっても内容を改めないというのはおかしいですよ。あなたのほうでいまのようなことをずっと持続していくというような気持ちであるならば、もっと前に報告しなければいかぬですよ。これは絶対そういうことで文部省内では統一した見解としてがんばるというわけですか、この教育について。「準ずる」というようなことをがんばるわけですか、どうですか。
  55. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 具体的な教育につきましては、先ほど申し上げましたように、日々進行しているわけでございますから、いろんな形の本人の障害に応ずるような、それを克服するような教育いうもの、これが開拓されていく、したがって、教育の実際の内容は個々の子供にとりまして適切な方法が講じられていくというふうにすること、その点についての先生の御意見について、別段私は異議を申し上げているわけではございません。そうすべきことであると思います。しかし、法律上のたてまえとしまして、こういうふうな特殊教育学校というのが小学校中学校、高等学校に準じて行なわれていくというふうなたてまえ、したがって、小学部を終わって普通の中学校に入れるというものにつきましては、中学校に入ったら私はよろしいんじゃないかと思います。そういうふうな制度上の仕組みとして、どういうふうな考え方でいくかといった場合に、「準ずる」ということば、これは内容から申しまして不適当の点があるということは先生指摘のとおりでございます。何も否定することではございません。しかし、たてまえとして、こういうふうな表現をとっておるということ自体そう非難されるべきことではない。やはり単線型の教育——袋小路にしないという意味を込めてここにおそらく表現をしているんじゃないかということでございますから、そのことはそのこととして、制度は制度としてお認め願っても少しも差しつかえないことじゃないかというふうに考えております。
  56. 小林武

    小林武君 あなたがんばるから聞きますが、この「準ずる」というのは、具体的に言えば、幼稚園、小学校中学校、高等学校教育のどういう具体的な問題に準ずるわけですか、それを言うてみてください。
  57. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 普通の場合でございましたら、各教科、それから道徳、それから特別活動というふうな領域に分けて、まあどの程度の時間数をやっていくかというふうなこと、その教育の進め方につきましては、これは小学校中学校、高等学校に準じてやる。ただ、内容につきまして具体的にその障害に応ずるようなやり方で教育が進められていくということはこれは必要であると思います。しかし、教育基本法の第一条に書いてございますように、その教育の目的というのは、人格の完成ということでございますから、一人の子供の全体の人間としての人格というものが、円満に発達できるようにするというその目標自体についても変わりがないわけでございます。考え方、たてまえ、そういうものは私は同じような方向で、あるいは仕組み、そういうものは、大体同じようなやり方でやっていけるんじゃないかというふうに考えております。
  58. 小林武

    小林武君 大体おかしいと思うね。私はここに三十六条、学校教育法見ると、これは一例ですけれども、「中学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。」といって一、二、三と書いてある。あなたのほうでは、特殊教育だと、こう言っている。しかも、その特殊教育という名前をあなたのほうでつけるについては、子供たちがきわめて人生にとって重大な運命を背負ってきているわけです。そうするならば、何も準ずるなんということを言わなくて、書きようは幾らでもあるでしょう。法律といたしましてはなんていうことを先ほど言ったけれども、どうなんですか。あなたのほうで言う特殊教育という教育障害児教育というものを特にあげて教育しなきゃならぬということになると、それにはどういう教育をやるかというのは三十六条のような書き方で何も幾らでも書けるんじゃないですか。それが準ずるということがなかったらどうしてだめだという理由は一つもないじゃないですか。あなたのほうのあれは、何か準ずるにとらわれるという理由が別にあるように思うんです。あるあれからいえば準ずるなんと言ったってなかなか準じようのないこともありますわね。準ずるというのはどういうことか。これはまあ国語の辞典か何か引いても、大体準ずるというのはどんなことかというようなことをたくさん書いていますけれどもね。あんまり具体性がないんだよ、あなたたちのほうの書く場合ね。はっきりここでどうだということを、準ずるなんて言わずに書けそうですな。私は書けると思う。いわゆる障害児教育、いわゆるあなたたちのいう特殊教育というものを具体的にそのとらえた書き方というものはあるはずですよ。それを書けないというのは、私は、それはよほどどうかしていると思いますよ。あなたたちはくふうがないんですよ。早手回しにあんまりよそから突っ込まれても文句の出ないようなやり方でやっておこうなんと思って書いたけれども、いまや特殊教育というものはどんどん進歩していくから、そんな時代でなくなったんだから、こんな古くさい書き方をしたってだめだということなんです。まともに研究した人はみんなそういう立場に立っていますよ。だからもう大体これは世論の大勢はどっちに傾いているかということを考えられるから、政務次官にしろ大臣にしろ、みんなそれについてやはり検討の時期がきたということを言っているんじゃないですか。あなたの答弁は答弁にならぬですよ。そう思いませんか。
  59. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは法律上の何というか、たてまえを書いたと申しますか、特殊教育というのは、こういうものであるというふうなたてまえを書いたわけでございます。別に意図があって書いたということではございません。これは初めからこういうふうな規定になっているわけでございまして、現在の学習指導要領におきましても、小学部においては、学校教育法第十八条各号に掲げる教育目標中学部においては学校教育法三十六条各号に掲げる教育目標の達成につとめると、同時に小学部及び中学部を通じていろいろな障害を克服するための知識、技能、態度、習慣を養うというふうなことでございまして、これが原則だと思います。今後、養護学校の義務制度というふうなことも、五年後に実施を控えているわけでございまして、特殊教育につきましては、先ほど来用語の問題その他につきましてもいろいろ御指摘がございました。新しくどんどん進んでいる分野でございますから、それからまた残された唯一の分野といってもいいわけでございますので、いろいろな問題があることは承知しておりますけれども、そういう問題はまあ義務制の施行と関連をいたしまして、さらに検討を要すると思います。私は、いまこの準ずるでどうしてもなければならないのかということで、がんばっているわけではもちろんございません。準ずるというのは、袋小路にしないための配慮としては、私は適切じゃないかという感じもするわけでございまして、そのことを率直に申し上げているだけでございます。
  60. 小林武

    小林武君 これ、さっき中学のことを言いましたけれども小学校では、「小学校は、心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする。」と書いてある。私は心身の発達の上において普通の子供はそういうやり方をやるとしたら、悲しいかな非常に大きな運命的な心身の問題のあれが出てきたそういう子供なんです。なぜ一体それについてはもっと具体的な、血の通ったような文章で書けないという理由はないでしょうに、そう感じたから、与野党越えたような意見として、これは改めなければいけませんなということを言ったんですよ。準ずるなんていうことを何でがんばるのですか、そんなものを。その当時は簡単にそんなふうに、まあ気持ちとしてはわからぬこともない。これ書いたもっとそれ以前、せめて小学校のあれならば、小学校並みのことを少しでも教育してやりたいというような気持ちはわかるけれども、いまやそういう時代ではないです、そういうものの考え方が。何がほんとうであって、特殊というのは一段下がったとか何とかということじゃないんだ、そういうものの考え方をしたらだめなんだよ。心身の欠陥という、そういう運命を背負ってきているけれども、その子供を決して下に見下したりなんかすることじゃないんだ。その子供たちのために、最良の教育をやってやるということを書かなければいかぬのですよ。なぜそう書けないかということだよ。だからお役所と教員との考え方の違いはそこへ出てくるんですよ。改めなさいよ、改めるといえばやめます。
  61. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 準ずるというのは、下に見下したというような意味は私は全然ないと思います。  それから「準ずる」と書いてございますのは、現在特殊教育学校におきましては、小学部、中学部、高等部と幼稚部と、こういうふうに分けてございますから、その分け方自体もいいか悪いか、発達に応じて非常におそい人は小学部で習ったっていいじゃないかとか、中学部が高等部と一緒になったっていいじゃないかとか、いろいろな考え方はあると思いますけれども、たてまえとしまして、小学部、中学部、高等部というふうに分けて教育をしているわけでございまして、そのほうが効果があるということでやってきたと思います。その場合に、小学部は小学校教育に大体基本を置いて、それからそれぞれの子供障害に応ずるような教育をしていくんだというふうな、これはたてまえを書いているわけでございますから、それが悪いというふうなことには私はならないんじゃないか。いままではこういうことできたんだと、小学部、中学部、高等部、幼稚部を置くというふうな仕組みできているわけでございます。でございますから、その仕組みが悪い、仕組みが適当でない、障害児教育についてはさらにいい仕組みがあるということでございましたら、また、それに応ずるやり方というものがあってしかるべきじゃないか。いまのところ特殊教育につきましてはまだ未開拓の分野がたくさんございます。なお、これから発展すべき問題がたくさんあるわけでございますから、決していまのものでがんばるというふうな気持ちはさらさら持っておりません。
  62. 小林武

    小林武君 まあこれもう、ここらでひとつそのことはやめましょうかな。しかし、あなた謙虚になって考えたほうがいいですよ。何といったって心身の発達というようなことは、小学校の場合を言っているわけだね、それに応じた教育をしなければならぬということを言っている。ところ心身障害を持った人というのは、その立場でものを考えなければいかぬ。あれのまねさせるななんということではだめなんですよ。その人の持てる生まれつきの、その上に立って、非常に大きな彼らは欠陥を持っているわけだから、それをどうして一体どんなあれでもって彼らのあれを最大限に伸ばしてやろうかという文章を書かなかったら、これにせものなんだよ。だから私は言うんだ。これだけはあなた、単なる役所の文書でなく、血の通った考え方を目的にしたほうがよろしいと思いますね。私、戦後、北海道の帯広というところ学校ができたんですよ、盲学校、ろう学校が。そのときそこの校長さんになった人は、戦前から個人的にやっておったんですよ。御自身も目が見えない方で、夫婦が非常に協力してそうしてまるで私塾的なあれだったでしょうね、そういうふうに私ら見ておったんです。それが学校になった。いろいろその経過の中で、目の見えない人が校長さんだということは不自由なんだね。だれか、奥さんが手をつかんでいかなければなかなか思うように活動もできないというようなことがある。見ているというと、目明きのほうから見ると能率があがらぬというような感じを持つんだね。そういう声が出た。やはり盲学校だって、目の見えた校長のほうがいいじゃないかというような話が出たわけです。しかし、私は初めそんなことを言われたとき、そうかなと思った。しかし、いろいろその当時はそのぐらいのことしかあまり考えなかった。積極的にそんなことを主張するなんという気持ちはありませんでしたけれども、なるほどそうかなと、やっぱり不自由なんだろうねというぐらいだった。しかし、実際、一体それじゃ目の見えない子供というのは、あるいはおとなでも何でも、目の見えない人というのは、われわれのような正眼者の心境とほんとうに、何というか、いる世界がもう違うぐらいのことなんでしょう。私は、やっぱり目の見えない子供に、目の見えないいわゆる共通の世界の中に住んでいる人がこの子たちに対して教育をしてやるというその考え方がわからなかった。しかし、たくさんの特殊教育をやる人たちに接触を私もこっちへ来て持つようになって、そしてほんとうによくそのときああいうばかなことを言って——いまでも北道道では目の見えない校長さんなんというのはないんじゃないかと私は思うんだけれども、私は間違いだと思うんですよ。ほんとうにその人の気持ちになれるというのはやっぱりそれだと思うな。だから私は、われわれの単なる便宜とか、それから理屈の上から立ってやるということでは、ほんとう障害児教育というのはできないと、こういうふうに考えます。だから、あなた、やっぱりこの問題については、検討がお好きなようだから、いつでも検討いたしますということになるんでしょうけれども、単なる検討ではなくて、そんな話を少し——私が言ったんじゃなかなか信用しないだろうから、どういうものかひとつ、めしいの人、そういう人が——学校一つの例をとりましたけれども、身体の不自由な人、そういう人たち一体どういう心境にあるかということに立ち至らないで、単なる第三者的な立場からこれは筋が立っているとか立たぬとか言っているのはこれはだめだということをはっきりしてもらいたいと思うんです。そういう意味でひとつ、今度は本気になって検討していただきたいと思いますね。  次に、宮之原委員にお尋ねいたしますが、寄宿舎及び寮母の重要性について、「必要欠くべからざる施設であります。」と、こう書いておりますし、「寮母の重要性はきわめて大きい」とも書いてある。この問題について、これ寄宿舎の重要性、それから寮母の重要性について、もう少し何といいますか、詳しいひとつ説明をしていただきたい。
  63. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 詳しい説明になるかどうか別ですが、この間も、各県におけるところの養護学校の設置状況を見ますれば、たとえば、多い県は十幾つもありながら、あるいは一つしかないというようなことになってまいりますと、養護学校へ入るところ子供たちもきわめて狭き門にならざるを得ない。そのこと自体に非常に大きな問題があるわけなんですけれども、少なくとも、その場合には、親元を離れてこれは寄宿舎に入らざるを得なくなるわけです。そうした場合に、いわゆる、まともなからだでないということを考えてみれば、寄宿舎を必ず置かなきゃならないということと、その中におけるところの寮母の任務というものは私は非常に大きいものじゃないかと思うんです。この点、午後から審議されますところ学校教育法の政府提案の中にも、寄宿舎の必置と寮母の問題が出ておるんです。この点は、全くその重要性の認識ということは私は一致していると思うんですが、ただ、残念ながら、寄宿舎の必置の問題もただし書きがやっぱりあるんですよ。必置しなきゃならないと言いながら、政府案にはただし書きがあって、特殊な事情があるときには当分置かぬでもいい云々と、こういうふうなかっこうになっておるという一つの問題点がある。これは、ただし書きが、学校教育の中でどれだけ、当分の間というものがずっとそのまま据え置かれてきておるということは、普通の小中学校の事務職員とか養護教諭のものを見れば同じなんです。みんな、本法には書かれながら、そのただし書きのために四分の一世紀にわたってまだ置かれてないというところがあるわけです。そういう点を考えてみますれば、特に盲・ろう学校、養護学校におけるところのいわゆる寄宿舎というものは、これは当分の間では済まされない。ただし書きは必要ないんです。必ず置かなきゃならぬ、こういうものの考え方ですね。  それともう一つは、寮母の仕事は何かという点でも違うんですよ。いわゆる政府案は、寮母の仕事は「養育に従事する。」と、こうある。私どもはあえて「教育に従事する。」と、こういうふうに出しておる。そこに一つの大きな問題の違いがある。言うならば、これは政府にも尋ねてみなきゃなりませんけれども、いわゆる寮母というもの、「養育に従事する。」という、「養育」とは何ぞやということが一つの問題点です。私どもは「教育に従事する。」と、言うならば、この寄宿舎を設置をし、そこにおけるところの寮母さんも、これは二十四時間、子供たちといろいろな面で接触するわけですから、すべて、やはり教育的な立場から寮母さんはこの問題に当たるべきだということで、いわゆる学校であるだけに教育ということを主体にして寮母というものを置きなさいと。政府の原案はそうでない。そこに違いがあるんですが、少なくとも、この問題は、言うならば、寮母の任務はいかにあるべきかという問題に帰着すると思いますけれども、私は、教育という分野から考えて、寮母さんにも教育的な立場でこの障害児子供たちに当たってもらうと。また、場合によっては、寄宿舎の中でそういう教育的な、やはりやらなきゃならぬところ生活指導の面というものも相当あるんじゃないかと、こう考えますだけに、きわめて大事な要素だと、こういうふうに私は提案者として考えております。
  64. 小林武

    小林武君 宮之原委員、これ、もし、普通の何というか、うちから通学できるというようなことになれば、寄宿舎というのは、それよりかも寄宿舎のほうがどうしてもうちから通えるような状況にあってもいいのだということではないでしょうね。その点はどうですか。  私も何度か見にいっているけれども、何だかあわれを催すのだ。親の手元から離れてきている子供たちやっぱり大きい子は小さい子を世話していますよ。そういうものを見ていますと、あわれを催すのだが、本来これが盲学校、ろう学校というものとか、精神障害児等の教育というものが、自分の自宅から通えるような状況にあれば、それが最善だということになるのでしょう。
  65. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 全くそのとおりなんです。ですから、養護学校は先ほど例をあげましたように、一つしか県にないというような、そういう場合でも、好むと好まざるとにかかわらず、寄宿舎というものは重要視されざるを得ない。しかし、本来ならば、子供の、先ほど私ども提案者の一貫して流れておるところの、ひとしく教育を受けるところ権利があるというこの立場、したがって、就学猶予という問題も法律上はありながら、実際は行きたくても行けないでされておるという面から見れば、うんとやっぱり学校をふやしていくというような立場に立つとすれば、本来から言えば、理想的な姿から言えば、これは寄宿舎なんて私は要らないのが当然だと思っています。
  66. 小林武

    小林武君 そこで、文部省にお尋ねいたしますが、私はこれについては若干、小学校の数ほど、うちから、自宅から通うというような形のこれはどうですか、不可能でしょう、何ぼ将来それに金を投資するというようなことになっても。どういうものですか、いまの特殊教育のたてまえから言って、どうしてもやっぱり寄宿舎というものは、障害児教育の場合には必要欠くべからざるものになるでしょうな。私も、それについてはそんなような気もするのですが、どうですか。
  67. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 先ほどのお尋ねのように、自宅から通えれば私はそれが一番いいというふうな感じでございますが、そのために、スクールバスの補助金なども出しております。しかし、小学校のように、各小学校区に一つずつ置くということ、これはまあ御指摘もございましたが、少なくとも、いまのところは不可能だと申し上げたほうが正確じゃないかと、ただ、寄宿舎のいい点と申しますか、かりにそういう点があるとすれば、これは家庭の手がそれだけ軽くなるというふうな点はあろうかと思います。御主人の世話をしなければいかぬ、それからほかの兄弟の世話をしなければいかぬというふうな中で、障害児の世話もするということは、これはたいへんなことだろうと思いますので、そういう場合に、寄宿舎でお預かりをして、寮母が責任を持って養育に当たるということ、これはその意味では効果があるというふうに考えるわけでございます。しかし、原則としましては、家庭から通えれば、私は、それが一番いいというふうな感じがいたします。
  68. 小林武

    小林武君 これはなかなか口で言っても、私も考えてみて、家庭から通えるというようなことが原則になるようなやり方というのはなかなか不可能じゃないか、やっぱり財政の問題とからみますから。そこで私は、やっぱり寮母というものの重要性というものをこれは考えにゃいかぬと思うのですよ。非常に重いあれなんですね。だから、療母という人たちは、単なる傍にいてやっている女中さんでも何でもそんな性格のものじゃない。りっぱな教育者であり、おかあさんであり、非常なもう一番最高むずかしいことの点じゃないかと思う。だから、それに対して、どういう一体寮母さんになる人たちをこれからもどうしていくのかということ、これはここらお二人に聞きたいのだけれども、単なるあれではだめだし、それとこの労働条件というものを十分考えてやらないというと、これまた献身的なんということばだけのことではだめだ。人間である以上、付き切り、そこにのべつにあれするというようなことであるならば、若い人だったら結婚はできないし、結婚している人であったならばもうそれは結婚生活がこわれるということになるでしょう。さまざまな角度から考えて、労働条件をどうするか。それから寮母といわれるような人たちは、何というか、普通の企業の寮あたりにつとめているような種類のあれではないというようなことになれば、それに対する考え方はどんなものか、これは厚生省のほうからも私はお聞きしたいのですが、そういう点について、一体、いまは十分ではないけれども考え方としてはここまで考えているのだというようなことがあったら、ひとつ厚生省あたりも述べていただきたいのですが、これはお三人にひとつ伺います。
  69. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 今度の国会にもいわゆる標準法の改正につきまして御提案を申し上げているわけでございますけれども、その際に、寮母の人数の確保という意味で、寮母の数をふやすような御提案を申し上げているわけでございます。最低八人は寄宿舎で確保できるというふうなことが中心でございまして、それから寮母の待遇につきましては、これは御案内のとおり、高等学校先生の、助教諭の俸給と同じような扱いをする。それと同時に、特殊教育学校の特殊勤務手当といいますか、手当もそれに加えるというふうなこともやっているわけでございます。それから資格につきましては、これは現在制限をしておりません。  結論を申し上げますと、私は、ほんとうに熱心にやっていただける方がおられるならば、私は資格に制限をつけないで、どういう方でも資格、年齢に関係なくお世話をしていただけるような方にお願いをしたい。それと同時に、待遇の改善もできるだけはかってまいりたい。それから、さらに、その人数につきましても、今度の改正で四交代制がとれるようにしたわけでございますけれども、そういうふうな人員の確保につきましても努力する、そういうふうに総合的に寮母の方に安んじて子供さん方のお世話に集中できるような、そういう体制をつくっていくということが必要であろうというふうに考えております。
  70. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私は、この寮母の問題は、資格の問題と、いま一つはやはり労働条件の問題に大別されると見ておるのです。問題が、この資格のところが、いわゆる先ほど申し上げましたように、寮母というのを、教育ということをウエートを置いたいわゆる教育的な面で従事をさせるのか、それとも政府提案のように、「養育」ですか、そういう面に力点を置くかで私は違ってくる。したがって私は、少なくとも、あるやっぱり条件、寮母たるべきところ条件というものをやっぱり明確にして、だれでもいいからやりたい人があるならばというようなことではだめだ。それだけに、この労働条件のほうも待遇も、いわゆる高等学校の助教諭並みとしないで、よりこの仕事の重要性から見て、いろいろな本俸以外に手当の面で相当やっぱり優遇して、だれもが来やすいような、来ることの可能性のあるひとつやっぱり職種にしていくと、そういう二つの面で、この問題を考えなければならない、こう考えております。ただ、具体的にどういう資格を与えなきゃならないか、どういう条件というところまで実はまだここで明確には御答弁申し上げることができないのはお許しいただきたいと思います。ものの考え方だけを申し上げます。
  71. 北郷勲夫

    説明員北郷勲夫君) 寄宿舎に置かれます寮母さんについてどういう資格要件をつくられるのか、私、文部省のほうから伺っておりませんのでわかりまませんが、社会福祉施設、収容施設におきましては二十四時間の治療訓練というような角度から保母さんあるいは児童指導員というような資格要件を設けてやっていただいているわけでございますけれども、養護学校などに行かれるお子さんの場合に、どちらかと申しますと、学校教育対象としてなりやすいようなお子さんが多いかとも思われますので、その辺の寮母さんの資格の問題あるいは労働条件の問題、こういった問題につきましては、まあ入ってくるお子さんの障害程度、そういったものと比較、よく御考慮いただきまして文部省でお考えいただくということではなかろうかと思っております。
  72. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 三案に対する質疑は、本日はこの程度にとどめます。  午後二時、再開することとし、暫時休憩いたします。    午後一時二分休憩      —————・—————    午後二時十三分開会
  73. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) ただいまから文教委員会を再開いたします。  学校教育法の一部を改正する法律案(第七十一回国会閣法第一一二号)を議題といたします。  前回に引き続き、本案に対する質疑を行ないます。  質疑ある方は順次御発言を願います。
  74. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 この法案は、別名、教頭法案と称されるものでございますけれども、案文の条項は、きわめて少ないわけでございますけれども、私は、少ない条項とは逆にきわめて重要な問題を含んでおると思っておるのであります。言うならば、学校教育のあり方の問題、あるいはまた教育とはどういうものかという問題、さらには、学校運営のあり方の基本の問題ともからむ内容のものだと見ておるのであります。一部には、この法律案は、教頭というものが実質あるんだからそれをただ法文化しただけなんだという説をなす人もおりますけれども、決してそうでないものだと見ております。それだけに私は、これから相当長時間これらの問題について、いま申し上げたところの諸点について文部大臣なり、あるいはまた、事務当局のお考え方をただしてまいりたいと、このように考えておるところであります。  そこで、まずお尋ねをいたしたいことでありますが、文部大臣は、「教育」とはどういうものだというふうに、その教育に対するところ基本的な考えをお持ちか、まず、お聞かせを願いたいと思います。
  75. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 「教育」とは何ぞやというあらたまったお尋ねをいただきますと、教育基本法の第一条に、たしか教育の目的を掲げておったと思うわけでございます。それには「教育は、人格の完成をめざし、」云々と、こう規定されておるわけでございます。そういうあらたまったことは別にいたしまして、幼、小、中、高、大学、学校教育を取り上げましてもそういう差がございますし、教育はまた何も学校教育だけの問題じゃないんじゃないかと、家庭教育しかり、社会教育もあるじゃないかと、たいへん幅の広いお尋ねになってくるんじゃないだろうかと、こう考えるわけでございます。しかし、教頭職に関連してのことでございますので、学校教育についての教育でございましょうし、同時にまた、教育ということは、基本的には人づくりでございましょうし、また、人それぞれ個性を持っているわけでございますので、いかにして人それぞれが持っている能力、適性を引き伸ばしていくかと、それを助けていくかと、それが教育者の一番努力をしていかなければならない眼目になるんじゃないだろうか、こういうことも申し上げることができるんじゃないかと思います。
  76. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私、この「教育」とは何ぞやという問題は、確かにいろんな角度から、あるいはまた、ものの言い方がいろいろあると思うのですけれども、少なくとも、私は、この教育というのは、人類の持続と社会進歩にかかわる人間社会基本的な機能で、かつ、子供たちの持っておるところの無限の可能性というものの開花を促し、助けていく一つの営みであると考えておるのであります。そういう意味では、可能性の開花を助ける、それに力をかすということでありますから、きわめて理想の高い、理想主義的な一つの営みだとも考えておるわけでありますが、その点、大臣どうお考えでしょうか。
  77. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私もいまちょっと触れましたように、個人個人が持っている能力、適性を引き伸ばしていかなければならない、それが教育の重要なポイントになる、こう思っておるわけでございます。それには、それだけ引き伸ばしていけるだけに教える側の者が能力も持っていなければなりませんし、また、使命感にあふれて情熱を燃やさなければ、そのようなことが可能にはならない、こう考えるわけでございます。非常に重要な仕事だと考えておるわけでございます。
  78. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それだけに、この一人一人が持っておるところ可能性というものを引き出すということになってまいりますと、私は、やはり教育というものは、既存の社会への同化ということだけではなくて、子供たちの中にひそむところ可能性をやはり開花するわけでございますから、さらに、既存の社会を越えていくという要素というものが相当やはり期待をされなければならない。したがって、そのためには、一定の価値観というものをあらかじめつくっておいて、こうなければならないと教え込むというこのあり方には非常に問題点があると考えておるわけでございますが、その点、大臣いかがお考えでしょうか。
  79. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) やはり、この社会の一員として育っていくわけでございますし、この社会の充実発展即おのれの充実発展にもつながると考えるわけでございます。したがいまして、それに適合できるようなものの考え方も必要だと思いますし、反面また、おっしゃいますように、新しい未来を築き上げていく一員にもなっていくわけでございますので、それなりに創意くふうを働かせる人間にも育っていかなければならない、かように考えるわけでございます。
  80. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 まあ、次の世代を切り開いていくとしても、確かにそれは現代の社会に住んでおるわけですから、一応その社会の規範と申しますか、一つのものの考え方の中で生きていくということを教えることも大事だと思いますが、だからといって、一つ価値観というもので押えつけるというこのやり方は、私は非常に問題があると思うだけに、むしろ、多様な価値観への寛容さということは教育の中ではより重要じゃないだろうかと、このように考えておるわけでございますが、その点に対して大臣としてはどういうお考えでしょうか。
  81. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 今日、価値観が多様化してきていると、こう言われているわけでございまして、それはそのとおりで、それが不適当だとは少しも思っておりません。むしろ、価値観が多様化しているということよりも、価値観が混乱しているというところに私は問題があるんじゃないかという感じがいたします。何が価値あるものであり、何が価値ないものであるかということも必要だと思いますし、また、価値観の多様なものが求められても何らふしぎではない、こう思います。
  82. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私は、その点、価値観の混乱ということと多様性という問題、だいぶ概念が違うような気がするんです。混乱というならば、自分で何か一つのものを持っておって、それにいろいろなさまざまの価値観がある、だから行政なら行政の立場から見れば、自分たち考えておるところ価値観に反するものは、それは価値観が混乱しておるんだと、こうものを見がちな傾向があるんです。そうじゃなくて、私はやはり教育をし、その教育の中で学問をしていくとなると、いろいろなものの見方というものも多種多様が出てきている。その多様性ということは、教育の中では相当やはり尊重されなければならないんじゃないだろうか、教育論の本質から見れば。そう思うんです。その点から私はやはり考えるのは、最近、どの程度文相なり総理が考えていらっしゃるかどうか知りませんけれども、いわゆる修身科を復活をさせなければならぬ。これは総理の、いわゆる東南アジアへ行ってきた場合に、修身科はないのかと聞かれてどきっとしたというようなものの発想の中で、何らか実質的な修身科の復活というものを考えておられるような気もするし、あるいはいわれておるところの徳育の強化論というのは、いわゆる一定の価値観というものを持ってその価値観を教え込むことが徳育なんだと、こういうものの考え方をしておるというような気がしてならないんです。あるいはまた、そのことが、たとえば私、新聞を見た限りでは、「日の丸」、「君が代」の法制化の問題について、文部大臣が参議院の予算委員会では、法制化というものは検討しなければならない時期に来ておるんじゃないかという答弁をされておったわけでございます。事ほどさように、価値観にかかわるところのそういうものについて国で一定のものを一つつくって、それで一つ教育の中にそれを盛っていくというものの考え方をいま持っておられるのかどうか、そこらあたりをまずお聞かせ願いたい。
  83. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) いまも申し上げましたように、この点については、意見の食い違いはなかったようでございますが、価値観の混乱と価値観の多様性とは違うということでございます。何が価値あるものであり何が価値がないものであるか、このけじめははっきりつけていく必要があるだろう。また、それを児童生徒が身につける必要が多分にある。しかし、価値観が多様化してきている。そのことも踏まえて、そういう教育に当たっていかなきゃならないだろう。これも、そう考えるわけでございます。
  84. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それで、後段のほうはどうですか。  最近の一連の——いずれが真意かわかりませんけれども、マスコミに報道されておることは、あたかも政府なり、あるいは直接その担当の文部省あたりで、一定の価値観なるものを徳育の強化という形で、今後強化しなければならないという方針のように、大臣なり総理の発言を断片的にとらえてみると、そういうような意図のようにも感じられるんですが、そこの真意というものは、そういう真意なのかどうかということもあわせてお聞きしておきたいわけです。
  85. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 戦前の修身——徳目を掲げて、その徳目を覚え込ませていくというようなあり方が、戦後、道徳の授業が設けられた、そうして、いろんな体験を通じながらものの考え方、動作、そういうことをみずから自覚させ、身につけさせるというようなことに努力が向けられてきているわけでございますが、これは、それなりに、そういういき方をなお充実させていかなきゃならない、そう考えておるわけでございます。ただ、現在の道徳の時間を見ておりますと、必ずしも全体にわたって十分に運営されているとは見られない面があるわけでございます。道徳の時間のあり方をもっとくふうしていきたいものだと、そうして、そういうことが子供さんたちにみなもっと身についた姿になるように努力したいものだなと、こう思うわけでございます。一定の徳目を網羅いたしまして、それを覚え込ませるという式の修身のあり方、これは私はいいとは思っておりません。いまの道徳の時間の充実、これはぜひ努力をしていきたいものだと、こう考えるわけでございます。私は、たびたび、混乱などと言いましたけれども、まあ非常に極端な話ですけれども、また、現実にあることでございます。親を大切にするということは国を愛する心につながるんだ、国を愛する心は戦争につながるんだ、だから親を愛するとは言わないんだ、こんなことを言われる先生もあることは事実なんです。ですから、そういうあまりはなはだしいことは、これはやっぱり少し自覚をしていただきまして、それはそれなりに身につけさせる努力、それはもう特定のことを押しつけるからけしからぬというんじゃなくて、それはやっぱりしっかり身につけさせるくふうはあってしかるべきだ、こう思うわけでございます。
  86. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 いま、大臣はだいぶ大事なことを言われたんですが、親を大切にする必要はないと言っておる先生がおるという話ですが、それは、どこの学校の、どういう先生ですか。何かはっきりわかっておったら教えてくださいよ。これは、そういううわさがあるでは済まされぬことだと思うのですよ。そういう非常識な先生は私はおらぬと思うのですが、どこですか、それは。
  87. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) これは、事実、国旗でありますとか、「君が代」でありますとかいう問題につきましても、どうしても、こういうことが国中心につながっていく、戦争につながっていくという一連の考え方を持っている方があるわけでございまして、具体的の何のだれがしということは覚えておりませんけれども、そんな話をときに耳にするわけであります。でありますから、また、これは極端なことを言う人でありますけれどもと、こう申し上げておるわけでございます。こんなことが一般的であったら、これはたいへんなことであります。しかし、例外的にそういうことがあるのは事実でございますだけに、できる限りいまの道徳の時間のあり方につきましても、できる限り充実したものにするように努力はしていかなきゃならないだろうと、こう思っておるわけであります。
  88. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 一般的に、だれも一般的にそういう非常識なことがやられておるとは思いませんよ。けれども、大臣が事実だというお話しをされたので、これはきわめて重要な問題ですから、事実ならば、何県のどこの学校で、そういう教え方をして、何のたれがしの先生がそういうことをやって問題になっているのか、そこをはっきり教えていただきたいと思うんです。でなければ、耳にするとか、あるいは話をした人がおるということでは、私、この問題は済まされぬと思うんですよ。その点どうなんですか。はっきりおっしゃってくださいよ。きわめて大事な問題ですから。
  89. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) そういう話を聞いているということで申し上げたわけでございますので、ここで何のだれかしと申し上げる知識は持っていないわけでございます。
  90. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それならば、あまりに軽卒だと思いますよ。そういう話の、話と言うんならいざ知らず、事実がありますということでは、話と事実とは私はだいぶ違うから、少なくとも、やっぱり大臣がこういう記録に残るところ委員会で発言されることには、そのことのやっぱり事実に踏まえて私は言ってもらわなければ困ると思いますよ。その点はほんとうに事実なんですか、どうですか。もう一回聞きますけれども、事実でなければ、そういううわさを耳にしておる程度なら、その程度だとはっきりおっしゃってくださいよ、これは。
  91. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) いまも申し上げましたように、そういう話を聞かされたことがあるわけなものでございますから、そういう意味で申し上げたわけであります。しかし、何のだれかしということで聞かされたわけではございません。
  92. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 どうも、大臣は政治的に答弁されておるかもしれませんけれども、国を云々ということと親とみんな結びつけて、親孝行もせぬでいいとか、そういうことまで云々とか、ちょっと私は極端にためにするところのものの言い方だと思いますよ。それは、率直に申し上げれば。それは先ほど来私が言っているように、ものの価値判断、価値観というのはいろいろな相違がありますよ。しかしながら、まあ、普通ノーマルな常識的なことというのはやはり大体共通するものですよね。しかしながら、私は先ほど大臣に尋ねたのは、昔のようなあの徳目式のものを並べて、これを教え込むということで徳育が盛んになるということぐらい私は間違いはないと思っているんです。なるほどそれは親に孝行しなければならない、正直でなければならないというその知識は頭に入るでしょう。しかし、知識ではほんとうの私はいわゆる徳育にはならぬと思う。言うならば、やっぱり子供たち生活の中を通してものの是非の判断を教えていくというこの態度学校生活なら学校生活生活指導全体の中で、そういう徳育的なところを教えていくという意味の道徳だと言うならわかりますけれども、しかしながら私は、やはり私どもは、この時間特設という問題にしても、ほんとう学校の授業時間全体を通して、学校生活を通して、その子供のしつけの面を数えていくのがほんとうの徳育だというものの考え方は変わっていないんです。したがって、時間特設ということでさえも非常に問題があるんですけれども、しかしながら、私は、先ほど来聞いておるのは、いまそれぞれ大臣なりあるいは総理が言われているところのもの、世の中に伝わっているのはそうじゃなくて、それ以上に、この問題について強化をしなければならないということを非常に大きく出されておるだけに、その中身は何ですかと、こういうことを聞いておるんですよ。その中身がどういうものかというのがあったらひとつ教えていただきたい。
  93. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) いま、そういうつもりで申し上げたわけでございますが、たとえて申し上げますと、家の中ではきれいにしておっても、一歩外へ出るとたいへんきたない姿に平気でしてしまうというようなことがありましたり、昔ならお年寄りを大切にしたのが、案外若い人たちが席も譲らないでおったりするじゃないかという式の議論もかなり多いわけでございます。そういうようなことから、現在の児童生徒教育についても、もう少し道徳的な素養を身につけさせる努力をする必要があるんじゃないかと。これは私一般的にも言われていると思うのでございます。また、そういう意味では、それなりにみんな配慮していく必要があるんじゃないだろうかと、こういう意味で考えているわけでございます。ことに、小学校時代において、そういうことを特に身につけることに努力をする必要がある。ものを覚え込むよりも、どちらかというと徳性を養う時期ではないだろうか、こうも言われておるわけでございまして、そういうことから、教育課程のあり方についても考えてもよい面があるんじゃないだろうか、こういうわけでございます。  同時にまた、社会のあり方もずいぶん変わってまいってきておりまして、昔ならおじいさん、おばあさん、子供さん一緒に生活しているし、また、子供さんもたくさんあったわけだから、家の中にも子供社会があって、おのずから、それぞれ社会人としてのあり方を覚え込んでいくというような姿もあったけれども、いまは、そういう家庭の中の子供社会という式のものがなくなっているわけだから、学校においては、特にそういうことが身につくようなくふう、努力があってしかるべきだと、こういう社会の変化からも言われている面が多分にある、こう思うわけでございます。いろいろな意味において、そういうしつけと言いましょうか、あるいは道徳的な素養といいましょうか、そういうようなものが身につくような配慮、これはさらに一そう加わってしかるべきものじゃなかろうかと、こう思っておるところでございます。
  94. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 道徳論争がここで私は本旨じゃありませんので、次に移りますけれども、少なくとも、大臣のいまのお答えは、いわゆる道徳と言おうか、しつけと言おうか、その面をより生活体験の中で十分ならしめるようにしていきたいと、言われておるところのいわゆる修身科とかいう、そういうものをまたぞろ復活させるという意味のこの徳育強化論じゃないんだと、こういうふうに理解しておいてよろしゅうございますか。
  95. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 人によって考え方はいろいろだろうと思いますけれども、いつか、一年ぐらい前でございましたでしょうか、私は、参議院の予算委員会で、修身科復活の考え方を持っているのかと、これんなお尋ねを受けたことがございます。そういうような考え方は持っておりません、こうお答えをしたことがございます。いまも、別にそういう気持ちには変わりございません。徳目を列挙して、これを押しつけてただ記憶させる、そういう式の道徳の時間のあり方は適当でない、やはり、いろいろな体験を通じていろいろなことを身につけさせていく、自覚さしていくというような努力を積み重ねていく必要が多分にあるだろう、こう思っております。
  96. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 総理は、テレビの対談の中で、中国に何か、毛語録じゃないですけれども、七カ条か何かあるらしいんですね。私もようわかりませんけれども。それにヒントを得たのか、十ぐらいの何かぴしゃっとしたものをつくって、それだけはこうするんだという、きちんと教育の中に位置づけるんだというようなことを、テレビの放映ですから、それはある程度時間の制限もありますから真意はわかりませんけれども、受けるところの印象というのは、その十科目なら十科目の徳目をきちんと並べて、それを修身科みたいにして教えさせていくんだと、これが、あの人の言うところの徳育の強化論だというふうに理解さざるを得なかったわけなんですが、大臣のいまの御答弁を聞いているとそうでもないような気がする。大臣としては、先ほどの答弁と間違いないと、こういうふうに理解してよろしゅうございますか。
  97. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 総理と直接この問題について突っ込んだ話はしておりませんけれども、たとえば、共産国で学校守則といったようなものがある。日本でそういうものをみんながつくったらいいじゃないかと言われる場合に、私はそれはけしからぬという気持ちはございません。基本的なもの、これを国民の皆さんが学校守則的に何かつくろうじゃないかと、こういう空気が出てきたとときに、そんなことは不穏当だという気持ちはございません。しかし、私は、いま、道徳の時間のあり方、これを充実したいという気持ちで一ぱいでございまして、どうやれば道徳の時間が有効に働いてくるか。もちろん、宮之原さんおっしゃったように、道徳の時間だけじゃなしに、学校活動全体を通じてそういう素養を身につけるような配慮、これは基本的にそうだと思いますが、道徳の時間につきましても、より充実したような方向に持っていく努力は、これはなお、私としては果たしていかなきゃならないだろうと、これを基本考えております。
  98. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 この論議はやめますけれども、私の考え方は、しつけと申しますか、道徳というものは、これは、やはり学校教育教育活動全体の中で、そのとき、そのときに触れながらきちんと教えていくのが一番効果的だというものの考え方です。したがって、時間をわざわざ設けて、やあ、人に親切にするにはこうでなければならない、こういういわゆるお説教方式の中ではほんとうに身についたものは出てこぬ、こう考えておるということだけは申し上げられる。  そこで、さっきの教育論議のところに返りますけれども、私は、先ほど申し上げたところ立場に立つだけに、政治なるものは、数の力によるところの説得とか、物理力の直接行使によって他者に自己を認めさせるという行動が多分に出てまいりますね、政治というものの中には。けれども、事教育はそういうものじゃなくて、理性の力、人間みずからを判断をさせるところの自覚と申しますか、そういうものがやっぱり一番基本に踏まえなきゃならない。したがって教育は、その人間自身の自覚あるいは目覚めに対するところの援助をしていく。あるいはまた、子供たちの自己変革へ一緒になって探求をし、その方向性を見つけていくという一つの営みでもあるのではないだろうか、こう考えておるところなんです。そこらあたりは、ほんとうに政治というものと教育というものと非常に大きい、さい然として違うところだと、こう見ておるんですけれども、その点は大臣、どうお考えでありましょう。
  99. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 政治と教育と同じ立場に置いての議論はあまり適当でないかもしれませんが、しいてそういう立場議論をいたしますと、教育の場合には、いろいろな考え方を理解させるところであって、特定の考え方を押しつけるところではない、こう思っております。政治の社会では、どうしても意見が対立して片がつかない、そういう場合には、最後には、われわれの社会では、多数がいずれであるかということで決着をつけざるを得ない、こういう姿だろうと思います。そういう意味合いにおいては、まさしく両者には大きな違いがあると思います。
  100. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私は、教育というもののあり方が、先ほど私は、私の見解を申し上げてきたんですけれども、しかし、大臣は、そのこと自体についてはさして大きな違いはない、こういうように私は感じとったわけであります。そういう点から見れば、私は、その教育を動かすところの、実際、学校教育なら学校教育をやるところ教育行政というのも、やはり、この教育の本質というものを十二分に踏まえたものでなきゃならぬと思うんです。そういう意味では、画一的に、統一的に何でも一つのものをはめて押しつけるという教育行政というものがあるとするならば、それは、教育の本質から見て、私は好ましくない、このように考えておるんですが、その点いかがでしょう。
  101. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 教育行政は、教育がその成果を十分に発揚できるように条件を整えていくというところにあろうと思います。先生それぞれが創意くふうを十分に尽くして、情熱教育に傾けられるような環境をつくっていく、それが教育行政の基本的な問題だろうと、こう思っております。
  102. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 ときに文部大臣は、教育基本法ですね、この基本理念をどういうものだというふうに御理解いただいておりますか、お聞かせを願いたい。教育基本法の、言うならば基本原則と申しますか、基本理念はどこなんだというふうに理解されておりますか、お聞かせ願いたいと思います。
  103. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 教育基本法の前文に、憲法の精神を具現するのは教育の力にまたざるを得ないんだという式のことを書いてあったように思うんですが、それを受けて教育基本法がつくられているんだというように存じておるわけでございます。そういうことで、一条には、教育の目的が掲げられ、第二条には教育の方針が掲げられておるわけでございまして、この辺に基本的な教育基本法考え方が出ている、こう思っております。
  104. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 この教育基本法の前文ですね、この前文こそ、私はこの教育基本法の流れておるところ基本理念だと理解いたしておるのでありますが、文相は、その点いかがお考えですか。
  105. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 前文が教育基本法をつくっておる基本的な精神を述べているんだ、こう思っております。
  106. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私は、この教育基本法を見まして、非常にこの中にはきわめて大事なことが書いてある。言うならば、本来ならば憲法の条項の中に入れてもいいくらいの基本的な条項もあるのではないだろうか。言うならば、準憲法的な性格を持っておるくらいのものだ、こう見ておるわけですが、ただ、これに対して、この教育基本法は非常にコスモポリタン的過ぎる、日本の体質に合わない。こういう意味が与党の皆さんの中にはあるようでございますし、さらにまた、総理のいろいろな発言を聞いてみますと、教育改革の問題と関連をしてしきりに六・三制教育は、あるいは戦後教育の方針は、あれは占領軍から押しつけられたものだ、だから日本の体質に合わすように思い切った改革をしなければならない、こういうようなことを言っておられるようであります。ちょうどそれは現在の憲法が押しつけられたところ憲法であるから、自主憲法にせよという議論と似ているようでございますが、そういう教育基本法に対するところの批判、意見、そういうものに対して、文部行政の責任者としての大臣、どのようにお考えですか。まず、その基本法に対するところの大臣のものの考え方と申しますか、率直にひとつお聞かせ願いたいと思います。
  107. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私は、教育基本法は非常に大切なものだと考えております。教育に関することを勉強する場合に、これだけで十分かということになりますと、これはまたいろいろ見方もあろうと思いますし、もっともっと追加したほうがいいのじゃないかということもあろう、こう思います。  教育基本法にいたしましても、憲法にいたしましても、当時占領下でございまして、国民の意思が自由にそういう問題の上にあらわすことができなかったことは、これは事実であろう、こう考えるわけでございます。しかし、今日のこの教育基本本法は、非常に貴重なものだと、私は考えております。
  108. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私も、憲法なり教育基本法が定められたところの客観的な情勢、政治的な力関係ということはこれはわかる。問題は、その内容で聞いているわけですから。そうすると、大臣は、内容については異論がないのだ、こういうふうな御理解だと理解してよろしゅうございましょうか。特に与党の皆さんの中には、どうもこの教育基本法ではもの足りない、先ほどもちょっと申し上げましたけれども、非常にコスモポリタン過ぎる、こういう批判がだいぶあるように承っているんですが、その点はどういうふうに大臣お考えになりますか。
  109. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 先ほども申し上げましたように、教育基本法は貴重なものだ、こう考えておるわけでございます。しかし、もっとこれを充実したものにくふうしたらいいじゃないかと言われるなら、そういうくふうの道を考えることは決して悪いこととは思いませんが、この中のどの条文をやめるとかという考え方は持っておりません。たとえば、コスモポリタンというお話が出ましたが、憲法にいたしましても、教育基本法にいたしましても、家族のことについては一つも出てきていない。やっぱり何か家族の問題がどこかに出てきていいのじゃないかという感じがするわけでございます。それ式の感じを若干持っているわけでございますけれども、この教育基本法のこの条文がけしからぬという考え方は全然ございません。
  110. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 日本国ということも、あまり強く打ち出されておらないという意見を言う人がおりますが、その点は、大臣どう見ておられますか。
  111. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 第一条に教育の目的を掲げてあるわけですが、そこでは「平和的な国家及び社会の形成者として、——国民の育成を期さなけりゃならない」、こう書いてあるわけでございます。しかし戦後、国家とか社会ということば、そのものが私はタブー視されてきたきらいが非常にあると思うんです。教育基本法を正しく理解して、そしてその精神にのっとって教育が十分進められるような努力、これはしていかなきゃならない。いろんな占領当時の経緯もあったからだろうと思いますし、あるいは戦前の超国家主義的なあり方が、羹にこりてなますを吹くたぐいであったようなこともあろうかと思います。教育基本法そのとおりが深く実践されなくて、多少いま申し上げましたようなきらいがあったということは私も感じているわけでございます。
  112. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、この基本法は日本国と申しますか、国というもの、あるいは社会というものに対するところの強調のしかたが足りないんだと、こういうことですか、いま大臣のおっしゃった中身だと。そういうところ一つの問題点として批判されている要素があるんじゃないだろうかと、こういうものの言い方ですか、大臣。
  113. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 教育基本法にはちゃんと明確に規定されているにかかわらず、ことさらに、国家、社会というようなことに言及することをタブー視するような社会的な風潮があったと。だから社会的風潮に問題があると。教育基本法そのものに問題がいま申されましたような点についてあるとは考えていないということでございます。
  114. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 終戦直後のやっぱり社会の情勢の中では、確かに私は、そういう風潮の中ではそういう面があると思いますけれども、しかし少なくとも、私は、やっぱりこの教育基本法のこの理念というのは、国家、社会というものを踏まえたところの「平和的な国家及び社会の形成者として、」の、こういうことを涵養するんだということがきちんと私はもう打ち出されていると、私はこう見ておるんです。そのことがややもすれば言われないで、あれはコスモポリタンだどか、どうだとかという当たらない批判というものが相当有力な政治家の中にあるだけに、私は、やはり大臣にこれ確かめておるわけです。私も、そういう点でほんとうにそうなのか、この成立当時はどうなのかと、こう思いまして、やっぱり国会の議事録も調べてみました。だから、昭和二十二年の第九十二帝国議会ですか、これが成立されたのは。その中のやはり当時の貴族院でこれが議論をされておるわけですね。これは佐々木惣一博士からその問題が出て、それに対して当時の高橋文相からやはりその点はこうなんだという明確な答弁があったのが記録なんです。ですから、そういう点から見れば、その点が私はやはり見落とされておる、あるいは必要以上にその点が薄められておるところでものを言うところの傾向がある。私から見れば、それは政治的にそこに意図があったと思うんですけれども、その点は、大臣の先ほどの私は御答弁はそうじゃないんだという考えですからそれは一致するわけです。それが一致するとするならば、私はやはりこの教育基本法の問題に直接かかわっているところ文部省としても、その点は、やはりきちんと私はしかるべきときにはしておく必要があるんじゃないだろうかと、こう思っておるんですが、その点はいかがでしょうか。
  115. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 先ほど来たびたび申し上げておりますように、教育基本法を貴重なものとして将来とも続けていきたい。これに付加すべきもの、いろいろ議論が出てきた場合には、それはそれなりに傾聴して、さらに、充実したものにする方向には何らやぶさかではございません。反対するものではございません。
  116. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 その最後のあれはどうですか、反対するものじゃない、というのは、あとから意見が出てきたら反対するものじゃないという意味ですか。
  117. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) これにいろいろなものをさらに付け加えようという意見がある場合、それにまで反対するものじゃございません。現在の教育基本法の内容、それはそれなりに貴重なものである、これは尊重していかなければならない、かように考えているということでございます。これで一〇〇%、いささかも加えてはいけないのだという考え方はないわけであります。ただ、これを尊重して、これを基本にして教育を進めていくべきだという点については貴重なものだ、かように考えているわけです。
  118. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 大臣の基本的な考えはわかりましたですが、それならば、補強すべき点があるとするならば、大臣個人としては、どういう点だと  いうふうにお考えになっていますか。
  119. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) いまここで、具体的に申し上げるだけの準備を持っておりませんけれども、そういう点について、意見が出てくることまで排撃する意思はないと、こう言っておるわけであります。
  120. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 あれですか、何かさっき文部省は何か調べておったけれども、九十二帝国議会できめられたというのは違うんですか。
  121. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) いま見ておりましたのは、前の資料を見ておったわけでございまして、ただいま先生が御指摘になりましたような点につきましては、第九十二帝国議会の貴族院の本会議で澤田牛麿議員が反対の演説をやっておりまして、その中に、人間には一個人としての資格と国会社会の組織の一員としての資格と二つあるのであるが、この案には「主として個人完成と云ふことに重きを置かれて居るやうであつて、國家社會の一員としての義務心掛と云ふ點に付ては甚だ觸れて居る所が少い」ことについて反対の御意見を持っておるというふうな点がございましたので、それをただ見ておっただけでございます。
  122. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それで、いまの教育基本法とも関連をしながら、さらに、質問を続けてまいりたいと思いますが、それとのかかわりのある憲法二十六条ですね、いわゆる教育を受ける権利の問題です。これをどのように理解をされておるか、私は、少なくとも、この条項というのは、いわゆる教育権の根源的な主体というのは国民にあるのだ、こういう理解に立っておるのでございますが、この点、どういう御見解でしょうか。
  123. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) すべて国民は、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。ということを明確にしまして、政治の面において、受けられるような各般の施設を整えていかなきゃならないという趣旨をあらわしているものだと、こう私は理解をしておるわけであります。
  124. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そういうことは、私は、ことばをかえて言うならば、教育権と申しますか、そういうものの基本的な主体はやはり国民なんだ、こういうふうに、この条文の中から受け取っておるのですが、その点はどういう御見解でしょうか。
  125. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) ここに書いてありますように、「教育を受ける権利を有する。」と、こう書いてありますから、そのとおり間違いないわけであります。このようなことを明確にすることによって、それに対応するような施策が行なわれなければならない、反面的にそういうことを指しているものだと、かように存じているわけであります。
  126. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 これと実は学界の中でもさまざまな意見があるようでございますが、逆に教育権というのはそうじゃないのだ、国にあるのだ、こういう主張があるのですがね、それは大臣、どういうようにお考えになりますか。
  127. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) いま私がちょっと申し上げましたように、教育を受ける権利国民が持っているわけですから、それに対応するような施策を政治の面で行なっていかなければならない、それを行なうのが国でございますので、国としては、そういう責務を負っているということだと、こう思います。ことばの使いようによって感じ方は違うわけでございますけれども、趣旨は私はそういうものだろう、こう思っております。
  128. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、大臣のいまの御答弁は、いわゆる国民に主体的なやっぱり教育を受けるところ権利があるからして、国はそれに対応するように、いわゆるいろいろな施設あるいはいろいろなものをやっていくところの対応させるところの責務があるのだ、こういうことであって、いわゆる教育権は国にあるんだということはこれは違いますね、その説とは。
  129. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) そう考え方は違わないのじゃないかと思うのですが、いまも申しましたように、国民教育を受ける権利を国は積極的に保障する責務を負っているのだ、その責務を果たすために、国民の合意としての国会の制定する法律に基づいて教育内容を定め、施設、設備を整備し、教員を確保するなどの施策を実施していくと、こういうふうに考えているわけであります。
  130. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 ですから、私が尋ねておるのは、その責務ということと、いわゆる権利があるのだということとは違うんでしょう、これは当然。
  131. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 責務ということは、責任・義務ということでございましょう。
  132. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 よくこのことについて——いわゆるあの教科書裁判の杉本判決でも、この問題が、大臣も御承知のように、一つの問題点になっておったわけなんですが、しかし、これはやっぱり杉本判決も、大臣がおっしゃったように、これはやっぱり責務と、こういう表現を使っておるわけですね。その点、私は、田中耕太郎さんの憲法二十六条の解釈論を見ますと、二十六条二項のほうにすべての国民は普通教育を受けさせるところの義務を負うているというものがあるから、その半面からして、国家に教育権があるのだというものの考え方を言っていますけれども、これは、私はほんとうはおかしいと思うのです。言うならば、第一項の教育をひとしく受けるところ権利ということを実効的に保障するところの責務を政府は背負っておるんだ、国は背負っておるんだと、こう理解するのが、大臣がさっきからおっしゃるところの責務ということを意味するのだと、こういうふうに、私は思うのですが、その点は、大臣のいままでのお話からしても間違いないと思いますが、それでよろしゅうございますね。
  133. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私はそのとおりだと思いますが。一項では「権利を有する」ということを書き、二項では「義務を負ふ」というところで国がいろんな施策を行なっていく、それについての教育を受けさせる義務を負っているのだということになってくるのだと、こう思います。同時に、また、日本憲法の前文の最初のところが大事なことだと思うのです。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」、そして、「ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。」と、わが国のいう国民主権というものは、議会制民主政治の基盤に立った国民主権だということを明確にしておるわけでございますので、この点には留意をしておきたい、こう思います。
  134. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そういたしますと、これはどういうことになるんですか。私は、先ほどの大臣の答弁は、すなおにこれを、こうずっと見解を表明をされたと、こう思っておるんですよ。それで、私もまた、そのとおりだと思うのですが、ただ、あとから答弁になったから、だから、国会に負託をされておるのだから、政治、いわゆる行政権力ですね、政府ですから、国会の多数を占めているのが政府をつくるわけですから、政府のほうに、じゃ、そんなら今度はまた別に権利があるんだ、権利というのは二つあるのだというふうにもあとからのものから考えると、どうもそこをまた大臣おっしゃりたかったみたいにも受け取れるんですがね。どうなんです。
  135. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 国として責務を負っている、その責務を負って教育施策を講じていく、その結果生れてくる教育に、二項では子弟に教育を受けさせる義務を負っているということになっているのだというかかわり合いを憲法の前文を引いてお話をさしていただいたわけであります。
  136. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 だから、大臣のいままでの御答弁からいたしますと、言うならば、国民の持っているところ権利としての教育権、それを国としては、裏返せばそれをやっぱり十分果たさせるところの責務があるんだ、その責務を行なうところの主体がいわゆる国民の投票によって選ばれたところの政府がその責務を背負うておるんだと、こういう意味に大臣がおっしゃっておるんだというふうに理解しておいてよろしゅうございましょうか。
  137. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) そのとおりに考えております。
  138. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 実は、これは若干古いあれなんですけれども、四十六年——三年前ですね、当時の坂田文相と東大の小林直樹教授がやはり教育云々という問題をめぐっていろいろ公開討論があるんですね。たしか世界八月号から九月号にかけてあるんでございますけれども、この中でこういう論争があるんです。それで若干紹介をして、大臣のまた所見をお伺いしたいと思うんですがね。坂田さんは、「教育は、国家という」——これはつづめて私申し上げておるわけですけれども、大体の論文の中から。「国家という現実の政治体制の中に生きている個人の尊厳を追求しなければならない、そしてまた古い伝統的価値を栄養素として新しい創造力を育てるものであり、他律的な指導を媒介として自律性を養うもので、これらは互いに教育の中では深く結合している」、こういうふうに教育というものを論じながら、続いて具体的に、教育権とは、一般的には教育を受ける権利教育に関する行政上の権利、人を教育する権利をいうけれども、特に自分としては教育に関する行政の権利ということが一番教育権の中では一つの重要なところなんだ、これが一番のポイントなんだ、したがって、公教育の外的事項ばかりでなく内的事項についても当然政府は、この問題についていろいろやるところ権利があるというようなことを言っておられるんですが、その点、大臣は、私が申し上げたところが正確に坂田さんの論文を紹介しておるかどうかは別にして、聞く限りにおいては、大体おわかりだと思いますけれども、それに対して、大臣、どうお考えになりますか。
  139. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 教育権ということばは、いろいろに使えるわけでしょうから、教育権論争する場合には、まず教育権ということばの定義からきめてかからなきゃ正確な論争にはならないんじゃないかなあという気持ちをいまのお話を伺いながら感じさせていただきました。同時に、また、教育基本法教育条件の整備をうたっているわけでございます。教育条件の整備と言う場合には、外的だ、内的だと別に分けておりませんので、外的な条件あるいは内的な条件、いずれも整備する責務を国としては負っているんだと、こう言うべきだろうと、かように考えております。
  140. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 いまの話からすると、大体、ここらあたりになると、今度は坂田さんと大体ものの考え方同じだということはわかりました、大臣のものの考え方はね。最初のところはとてもやっぱりすっきりして割り切っておられた。ここらあたりへ来るとまたもとに返ったような気がしますが、それは別にして、私は、教育に関するところの行政上の権利というものが行政府にあるということは認めますよ、これは。言うならば、権利というものは裏を返せば責務なんですよね、何と申しましても。その責務の実はあり方の問題だと思う。これが、この教育基本法の十条のやはり問題と関連をしていくのじゃないだろうかと、こう思うわけなんです。いまの大臣の答弁では、教育条件の整備だから、これは外的のやつだけでなくて内的のやつでもそうなんだと、こういう御答弁でございますけれども、これは私は、少なくとも十条の一項、二項の関連性からすれば、外的な事項というのは教育行政の任務だと、こう思っている。しかし、それはひとつまた後ほど私から問題を提起しますから、それは議論したいと、こう思うんですが、いずれにいたしましても、今日一番大事なことは、先ほど申し上げたところ教育権とは何ぞやという定義をしなきゃならないと、こうおっしゃったけれども、少なくとも、大別すれば三つに分けられることは事実ですよ。教育を受けるところ権利と、あるいはまあ教育に関する行政上の権利と申しますか、裏返せば責務、それと人を教育するところ権利と分けられますが、一番私はやはりこの教育基本法のいう、あるいは憲法二十六条のいうところの大事なポイントというのは、教育を受けるところ権利、言うならば、国民の学ぶところ権利を積極的に助長していくということこそが行政府の責務じゃないだろうかと、こう思うんですが、その点はいかがでしょう。
  141. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 二十六条の一項に関しましては、「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」というわけでございますから、それが十分に達っせられるように、充実した施策を行なっていくことは非常に重要なことだと思います。
  142. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そういう観点から、今日の教育の面を考えてみた場合に、教育行政上いわゆる国民の受けるところ権利ということを十二分にやはり発揚させるようにしていかなきゃならないということになると、一番どういうことが緊急の課題として必要だと、大臣はお考えになっておられますか。
  143. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) この二十六条の一項に関しましては、私は機会均等という表現で言われていることば、それを私は強調しているんだと、こう理解をしているわけでございまして、それを受けて教育基本法の三条にその具体化が掲げられておると、こういうふうに判断をしているわけでございます。
  144. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 抽象的には、それはそういう答弁かもしれないけれども、施策の面で具体的に、ではいまおっしゃったように、教育の機会均等というようなことの立場から今日の教育の実情をお考えになって、まず、どういう点を先に手をつけなきゃならないと、こう考えていらっしゃいますか。
  145. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) できる限り父母負担を少なくする、言いかえれば、経済的な差によって、能力があるにもかかわらず、十分な教育が受けられないというような事態を防いでいくということではないだろうかと、憲法二十六条の一項に関しまする限りにおいては、そういう点が重点だと、こう思っております。   〔委員長退席、理事斎藤十朗君着席〕
  146. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 きわめてそつのない答弁でございますけれども、これはそれならば、いま政府の文教施策の面で、いま大臣がおっしゃったような点がほんとうに浮き彫りにされているかどうかとなると、率直に申し上げて疑問を表せざるを得ない。実は午前中も、この教育の機会均等ともからんで、二十六条ともからんで、障害児教育の問題をだいぶ議論をしてまいったんですよ。言うならば、やはり憲法二十六条の言うところ教育を受けるところ権利というのは、いわゆる心身障害を持っておるところ子供であろうと、ひとしくやはり教育を受けなきゃならない。しかしながら、現実の部面としては、その面が一般教育と対比して特殊教育という名のもとに、何か特殊の教育みたいな位置づけがされておって、それでしかも、施設の面でも不十分だと、養護学校にしてもまだ一県しかない。したがって、まあ就学猶予ということも、結局行政の指導の中でしかたなく猶予届けを出して、その心身障害子供が家におるという状態、これはいま大臣のおっしゃったところ教育の機会均等ということから見れば、きわめてやはりこれは大きな問題なんですよ。そういうことをずっと討議し合ってきたんですが、そういう点から見れば、少なくとも、やっぱり障害児教育を刷新をする、充実をするという点においては、これはきわめて重要なことだと思うんですがね。その点、大臣はそれは午前の討論をお聞きでないですからわかりかねないでしょうけれども、いま私の質問する限りにおいてはいかがでございましょうか。
  147. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 全く同感でございます。だからこそまた、養護教育の義務制実施に踏み切らせていただいたわけでございます。五十四年からではございますけれども、それを目途に早く施設を整備してもらおうということで、地方団体に具体的な計画の提示も求めておるわけでございます。また、対応して国としての財政的な援助も厚くするという努力をしているわけでございます。
  148. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 まあ、そのときに非常に問題になったところ一つは、大体、教育の機会均等、あるいは先ほど来大臣からも答弁のあった憲法二十六条の国民教育権、教育を受けるところ権利というところから見ると、どうも文部省は、なるほど大臣はいま五十四年から義務制化するんだと、こういうお話だったけれども、名は体をあらわすという例もあるように、やはり一般教育特殊教育というものの表現自体がおかしいじゃないかという議論が出たんです。これは何もこの文教委員会で初めて出たところの問題でなくて、昭和四十四年以来出ておるところの問題なんです。この問題は、四十四年以来、坂田さん時代から。それで歴代の文部大臣はそれに対して、そう言われればそうなんで、これはあまり用語が適切でないんで、この問題については、早急に改めるようにひとつ検討しますと、こういう話が、そのつどそのつど大臣からは答弁がある。事務当局からは検討しますという話で、今日まで何もしないで——何もしないでというと初中局長あたり異議があるかもしれませんけれども、結果的には表面にあらわれていませんからね、これは客観的には。そういうかっこうになっているので、それを早急にいま結論を出してもらいたいという強い要求が出たわけなんですけれども、これなどは非常に一つの、先ほど来議論してまいりましたところの問題とも関連をするところの問題ですけれども、きわめて重要な私はものの考え方基本だと思いますけれども、その点、大臣いかがでしょう。
  149. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私も、文部大臣になりましてから、特殊学級とか特殊教育とか、ああいう特殊ということばは差別的なにおいがするんで変えてもらいたいという意見をたびたび耳にしているわけであります。しかし、はたしてどういう表現ならどこからも異論が出ないんだろうかなあと思いながら今日に至っているわけであります。障害児教育ということばもあるそうでございますけれども、また、それはそれなりにどこかからか反論が出てくるんじゃないかなという心配があったりするわけでございまして、どこからも異論は出てこないという定着した意見になってきますと、文部省としてもやりやすいなと、こう考えておるところでございます。
  150. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 その障害児教育というのに異論が出てきておるところがあるんですか。それの異論の出ておるところの根拠というのは何ですか。それをまず聞いておきたい。
  151. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 障害児ということばで言われるといやな感じを受けるというような子供さんの話も耳にしたことがあるものでございますので、どういうことばがいいもんだろうかなあと、こう思い続けてきているわけであります。それで差しつかえないのだということに一般的になりましたら、文部省としても安心して踏み切れるわけであります。変えればまた問題が出てくるのだということになると、かえって混乱を起こさせるものでございますので、今後もなお全体を見定めながら早く結論を得るようにしたいものだと、こう思っております。
  152. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 まあ、午前は私が最初そこへすわっておったものですから、攻守ところを変えるみたいなやりとりになりますけれども、私は少なくとも、特殊教育という、聞いただけでもやっぱり差別感のような気のする名称よりは、これは障害児といったほうが、これはますますすっきりしておると思うんですよ。しかも、まあ私はそのときにも議事録を紹介しましたけれども、坂田さんも、あるいは坂田さんのかわりにちょっと出られたところの秋田さんも、あるいは高木文相も、そのことには賛意を表され、あるいは与党の皆さんからも特殊教育、特に特殊学級などというのはおかしいという話まで出たところのいわくつきなもんなんですよ。それは満点という、完ぺきというものが何かあるか、世の中にあるかどうかわかりませんけれども、少なくとも、いま言われたところ特殊教育といわゆる称されるところのことばよりは、私はきわめて普遍性のあるところのことばだと、こう思うんですよ。だから、私はもうここでノー、イエスをお聞きしようとは思いませんけれども、これは若干問題が外にそれた感はいたしますけれども、いわゆる先ほど来議論をしてまいりますところ教育権の問題からしても、心身障害児子供たちにとってはきわめて大事な問題で、ただでさえもひがみやすいところ条件を持っているわけですからね。その点もやっぱり考慮されて、これは大臣の在任中に一つの方向性を出していただきたいと思いますがね。その点、早急に検討される用意はありましょうか、どうでしょうか。
  153. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) たいへん大切なことだと思いますので、いろんなことばをさがし求める努力、アンケート調査などやってみることを検討したいと思います。
  154. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 また、本論に返りますが、大臣は、福祉国家とか、いろいろ言われているところの福祉国家論というのを御存じですね。その中におけるところ教育のあり方という位置づけをどういうふうに理解をされていらっしゃいますか。
  155. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 福祉国家論から直接教育のあり方がどうこうというつながりがどうあるんだか私は承知いたしません。福祉国家論を言う人たち考えで、教育については、こうするんだということできまってくるだけのことじゃないだろうかと、かように考えているわけでございます。  いずれにいたしましても、教育を受けるために経済的な負担がかかる、そういう面はできるだけ配慮しなきゃなりませんし、また、障害を持っているために教育を受けにくい、そういう場合には、教育を受けやすいように特別な配慮をしていかなきゃならない、こう思うわけでございます。世の中が明るくなってくるということが基本でございましょうから、障害をかかえているために教育も受けられないような子供さんが家にいる、そのために家庭が暗い、これはもう何といいましても、優先的にそういう暗さを排除できるような対応策をとっていくことがきわめて大切なことじゃないだろうか、こう考えるわけであります。国家が福祉的な施策を積極的にやっていく、暗さがあるものを積極的に取り払っていく、教育の面についても変わりはないんだということではないだろうかと、こう思っております。
  156. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 まあ、私の質問があるいは的確じゃなくって御理解があれでしたかと思いますが、私は、憲法のいう、先ほど大臣の表明された憲法二十六条のこのものの考え方から言うと、それよりは公共の福祉というのが優先をするんだと、そういう国民の受けるところ権利よりもですね。そういう議論は、私はいただけないと思うんですけどもね。その点はいかがでしょう。
  157. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 福祉国家という場合には、私は、国家の役割りを福祉施策に重点を置いていくという意味で使われているんじゃないだろうかと、こう考えておるわけでございまして、いまおっしゃいましたような、公共の福祉を優先させるとかさせないとかいう問題とは別な範疇に属する用語ではないだろうかと、こう考えるわけでございます。個人の充実も大切であれば、公共の福祉も大切だと、こう考えるわけでございます。福祉国家論からは直ちにそのいずれであるかというような結論になってくる性格のものではない、かように思っております。
  158. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 これは、大臣が福祉国家というのをどういうふうに理解をされておるかのその概念の置き方によっても私は違っていくと思いますが、少なくとも、歴史的に見た場合、たとえばヨーロッパ諸国におけるところの福祉国家と国民教育の成立との過程を歴史的にこう見てみても、かつてヨーロッパでは、二十世紀以前は、国民と区別されたところの市民ということばがだいぶ強く言われておったのは御存じですね。言うならば、その市民ということばが基本的であって、その市民の公民性というものは、その市民性よりもうしろのほうに置かれておったという一つ時代がある。それが、二十世紀になり、ヨーロッパ諸国の中で、それぞれやっぱり古典的な市民社会というものから脱皮をして福祉国家論というものが生まれてきた過程がある、ヨーロッパのあの政治的な歴史を見ればね。そういう中で、教育も個々の市民の個性を充実をするということよりも、国民というか、公民の形成ということに教育の面が重点が置かれていたところの経緯というのがあるんです。ヨーロッパ社会におけるところのものを見ますとね。私は、そのままのものが日本にそのまますべり込んできたとはいえませんけれども、少なくとも、このものの考え方というものが、日本の近代化の中でも進んできた。で、それが、まあ戦争中は、逆に国家主義とか、そういうものの中にも災いされてまいりましたけれども、また、その戦後のものをこう見てみますと、戦後一時的に非常に強調されていたところの個人の権限、個人の尊厳というこの教育の面で大事なところの面が、だんだん時勢の進展とともに公共性ということが非常に教育の面でも強調され始めてきた。そういうことになると、教育基本法の前文にいう、この「個人の尊厳を重んじ、」教育云々というこの条項というものが、非常に影が薄くなってきておるんじゃないだろうか、こういう気がしてなりません。それだけに、言われておるところの福祉国家論という中で、もし、教育をそのように理解をするとするならば、これは問題があるのではないだろうかと、こう思いまして、いま大臣にその点を確かめておるところなんです。いかがでしょう。
  159. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私は、福祉国家とかいうようなことばは、警察国家というように、国民障害になるものを排除することに国家の使命の重点を置いていくというところから、積極的に国民の福祉を増長していかなきゃならない、そういう積極的な役割りを国家に求めていくというようなところから、福祉国家というようなことばを使われ出したりしている経過もあるもんですから、先ほどのようなお答えをしたわけでございます。いずれにいたしましても、社会が充実するためには、個人が充実しなければそのことは達成されませんので、個人の尊厳、個人の充実、それと社会の充実、うらはらをなすものだと、かように考えておるわけでございます。自由社会基本的な考え方は、何といいましても、個人の尊厳を基本にしなきゃならないことだと、こう存じております。     —————————————
  160. 斎藤十朗

    ○理事(斎藤十朗君) この際、委員の異動について御報告いたします。  ただいま田中茂穂君が委員辞任され、その補欠として岡本悟君が選任されました。     —————————————
  161. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私は、大臣がおっしゃっておるのは、いわゆる言われておるところの学問上の福祉国家論じゃなくて、福祉政策の重視とか、そういう一つの政策面の立場からではないだろうかと、で、私は、いわゆる学問的な福祉国家論といわゆる教育との関係はどうなんだという立場からいろいろお聞きしておったわけですけどね。まあそこらになると、どうも食い違いがあるわけですけれどもね。少なくとも、やはりこの問題は、国がすべてその国民の権限を持っておるのだから、おまえたちに施してやるのがあたりまえなんだというものの考え方から、教育も国がやるならば、国ですべて命令すれば当然なんだと、こういうものの考え方が実は福祉国家論の中に歴史的なやっぱり底流としてあるだけに、きわめて重要な問題だと思って提起をしておるわけですけれども、しかし、大臣のいわゆる福祉政策の強化という面からいって、それとこの教育というものとの別の角度での、教育というものは、あくまでも教育基本法のいう個人の尊厳を重視をしていくというこのものの考え方であるならば、この議論はここでやめて次に移りたいと思います。  続いて、お聞きいたしますが、先ほどちょっと触れかけてやめた教育基本法の十条の問題ですね。これどのような解釈をされておるか、これをお伺いしたいと思います。
  162. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 教育基本法の十条の一項ですか、二項ですか。
  163. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 この全体をどういうように考えられておるかです。
  164. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 第十条一項の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」という基本的な問題は、教育も例外でなく国会統制のもとに服しているんだという精神をうたったんだと、こう私は理解をしているわけでございまして、同時に、二項の教育行政は、国会統制に服しているわけでございますので、したがってまた、国民全体に責任を負っているものでございます。そういう自覚のもとに必要な諸条件でございますから、内的だ、外的だと分けて言っているわけじゃない、すべての条件の整備確立を目標にして進めていくんだと、かように理解しているわけであります。
  165. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 その第一項の「不当な支配に服することなく」云々とありますね。これは具体的にどういうことを意味するんだというふうに、大臣は考えておられますか。
  166. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) これは、たいへん経過を率直に申し上げて恐縮でございますけれども、占領軍の筆先によってこういう表現が使われたという経過を聞いておるものでございますので、先ほどのようなことを申し上げたわけでございます。同時にまた、戦前のわが国の教育はすべて大権命令に属しておったわけであります。勅令によって全部きめられておった。そういう経緯もございますので、やはり教育も例外なしに国会統制のもとにあるんだという趣旨でこのような規定が置かれたんだと。たしか田中耕太郎文部大臣ですか、そのときに、教育というものは別だという感覚で、どういう表現を使われたか知りませんが、第四権とでも言いましょうか、そういう考え方を持っておられたということを伺っているわけであります。それに対して、いや教育といえども例外じゃないんだというようなことでこんな表現が入ったと、こう聞いておるわけであります。しかし、こういうように成文になってまいったわけでございますから、「不当な支配に服することなく」というのは、いろんな特別な団体、国民全体を代表するということの言えないようないろんな団体の支配に服しないんだと。そして、やはり国民全体に直接責任を負って行なうんだという表現がとられている、こういう理解をしているわけでございます。
  167. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、これはきわめて大臣は重大なことを言っておられるんですが、大臣のものの考え方では、政府はあるいは市町村の行政は、これは国民全体の委託を受けておるんだからこれに入らない。いわゆる特別な団体ですね、国民全体でない。そういう団体から不当な支配云々というのを守るためなんだと、こういうように理解されておるんですか。いまの大臣の答弁からは、そのようにしか理解できませんが、そうですか。
  168. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 率直にこの条文の生まれてきた経過を申し上げたわけでございまして、経過がそういうことでございますので、そういうことを背景にこの文章を理解していきたい。不当な支配とは何だと言われますと、国民全体を代表するものでないものが不当な支配になるんだと、かように存じておるわけでございます。市町村であろうと、政府であろうと、国会統制に服しない、国会できめられたものからはみ出たような行動をとります場合には、やはり不当な支配に私は入らざるを得ないんだろうと、こう思います。
  169. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 大臣の言うのは、国会できめられたものは、これは不当な支配にはずれるけれども、しかしながら、それ以外のものは、みんなこれは不当な支配の一応対象になると、こういうお考えですね。そうすると、国会できめられたというのは、一つ国会できめられた法律なら法律のことを意味するのか、その法律を実際やるところの行政府のことを指さすのか、どっちなんですか。
  170. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 基本的には、私は先ほど来申し上げますようにいろんな団体が、宗教団体でありますとか、あるいは労働組合でありますとか、いろんな団体があろうと思うのであります。そういうようないろんな団体、国民全体を代表するようなものがそれに介入していくことは避けるべきだという意味でうたっている。その経過はなぜかといえば、従来は教育は勅令統制のもとに置かれておった。しかし、国民主権のもとにおいては教育といえども例外ではないんだ。あくまでも国会の統制のもとに服していかなければならないのだという性格でこれがつくられたのだ。そういう経過からたどっていきますと、国会で定められておる方向と違ったような行動をとっていく場合には、そういうものを広く不当な支配と呼べるんじゃないだろうかと、こうお答えをしているわけでございます。
  171. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 先ほど来からいわゆる国会での討論を踏まえて云々と、この問題ができたところの経緯に踏まえて云々と、こうおっしゃって、田中耕太郎さんの話を引き出したんですが、しかしこの法案の趣旨は、いわゆる戦前の勅令主義によって教育が行なわれてきた、必要以上に国家権力が教育に介入をしてきたという、この戦前の忌まわしいあの事態に対して、いわゆる国民全体に対して直接責任を負うということばが出たんじゃないでしょうかね。それだからこそ、先ほど大臣の言われたところ田中耕太郎さんは、その著書の「教育基本法の理論」ですね。その八六二ページでこんなことを言っておられるんですよ。「不当な支配というのは何を意味するであろうか。この規定に「教育行政」という表題がついている以上は、これは国及び地方公共団体という教育についての公の権力を行使する権限をもっているものが対象となることは疑いない」と、このように文部大臣を経験されたところ田中耕太郎さんは自分の著書で表明されておるんですよ。そうすると、これは大臣の先ほどの答弁とは全く違った話ですね。少なくとも、やはり戦前の教育に対するところのきびしい反省の中からこう出てくる。したがって、田中耕太郎さんもこういうように指摘をしておる。大臣のいままでの答弁はいやそうじゃないんだと、国会できめさえすればいいんだなどと、こういうのでは私はだいぶ違うと思うんですよ。それはどうなんです。
  172. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 別に、角度の違った議論じゃないかと、こういうような感じがいたします。国会におきましてきめましたことを執行していきますものは中央政府があり、府県政府があり、市町村政府があり、あるいは教育委員会——地方教育委員会と申し上げたほうがよいかもしれませんけれども、そういうものが執行の任に当たっていくわけでございます。でありますだけに、それ以外のものが介入してくるという場合には、おおむね不当な支配に入ってくるということになるのじゃなかろうかと、かように思うわけでございます。いずれにしましても、沿革的には国会統制に教育も服するんだという趣旨から発してこういう表現になってきておるわけでございます。教育行政というものは、国会においてきめられているわけでございますので、その教育機関によって遂行されていかなきゃならない。それ以外の勢力が介入してくるということは不当な勢力と呼ばれるものになりやすいんじゃないだろうかと、こう思います。
  173. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、この田中さんの見解、これは間違いだという判断ですね。先ほど田中さんの問題をあげられてあなた言われておったのだけれども、この田中耕太郎の著書、よく知っているでしょうが、文部省だって。「教育基本法の理論」というのがあるでしょう。
  174. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私はよく知らないんですが、いま事務当局から伺ってまいりますと、  〔理事斎藤十朗君退席、理事内藤誉三郎君着席〕 戦前は国会統制に服しないで、国の行政機関が直接教育行政を担当しておった、そういうあり方を否定しているんだ、新憲法の後においては、国会統制のもとにいろんな行政機関が設けられて、そして国会できめたことの遂行に当たっている。それを田中先生は否定していられるわけじゃないんだ、新憲法以前のあり方を否定しておられるんだ、こういうふうにいま言っているところでございます。私、それをよく、どういう論文になっているのか承知しないものですから、正確じゃございませんけれども、そういう点も御理解いただけますと、あるいはお話理解していただけるんじゃないかと思います。
  175. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 これはしかし戦後でしょうが、この教育基本法ができたのは。この田中さんの著書、その戦後できたところ教育基本法を踏まえて、この理論的な解説をしておられるんですよ。それを、あれは戦前の話だというのも、それは戦前と断わって書いてあるんですか、それなら。わざわざあんた「(教育行政)」とカッコ書きまでされているでしょう、この十条の条項に一々見出しをつけておるでしょう。十条の見出しは「(教育行政)」と、こういう「(教育行政)」という見出しをつける以上は云々ということを書いていっておられるんですよ。それを戦前のことを言っておられるんじゃないか——それは大臣わざとそうとぼけてそうおっしゃるんじゃないですか、おかしいですよ。
  176. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 教育基本法ができましたのは昭和二十二年三月でございますから、新憲法と同時ぐらいでございます。そのときに書かれたものでございますから、行政機関をあげて言っておられるといたしますれば、当然、私はいま申し上げたようなことが予測されるんじゃないだろうか、こう考えるわけであります。田中先生に聞いてみないとわかりませんけれども、私はまだそれを読んでいないものですから、なかなか御理解いただきにくいお話になっているかもしれません。しかしいずれにいたしましても、戦前の教育は勅令事項であったことには違いないわけでございますし、また府県などにつきましても、地方官官制などで定められておったりしたわけでございますので、そういうことを通じて、そういうお説が出てきているんじゃないだろうかと、こう予想するわけであります。しかしいずれにしましても、本人に伺わなければいかぬことでございますし、また、論文そのものもよく読んでおりませんので、全体を読んでおりませんので、私には正確なお答えをしかねるところでございます。
  177. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それは、私は理由にならぬと思うんですよ。それは事やはり教育の一番基本を書かれたところの条項でしょう。しかも、先ほど来大臣にただしてまいりますと、教育基本法は非常にりっぱだ、何回も何回も言っておられるぐらいね。けれども、その解説のところそれは見てないんだということでは、私は答弁にならぬと思うんです。何かやっぱり大臣の頭の中には、いまのものになぞらえてそれはそのとおりだと、こういうとぐあいが悪いという頭が先立っておるから、そうおっしゃっておるんじゃないですか。どうなんですか。私は、やっぱり大臣に答えてもらいたいね、責任持っておられるんだから。
  178. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) その前に、九十二帝国議会の速記録がございますので、その部分を読んでみたいと思いますが、「第十条の不当な支配に服することなくというのは、これは教育国民の公正な意思に応じて行なわれなければならないことは当然でございますが、従来官僚とか一部の政党とかその他不当な外部的な干渉と申しますか、容喙と申しますかによって教育の内容がずいぶんゆがめられたことがあることは申し上げるまでもないことであります。そこで、こういうふうな単なる官僚とかあるいは一部の政党とかいうふうなことのみでなく、一般に不当な支配に教育が服してはならないのでありまして、ここでは教育権の独立と申しますか、教権の独立ということについてその精神をあらわしたものであります。」というふうな高橋誠一郎文部大臣からの御答弁がございます。  なお、仙台高裁の判決の中に、「教育の自主性を侵害する如き「不当な支配」の主体としては、国民の一般意思を代表するものとはいえない社会的諸勢力、例えば、特定の政党、労働組合、ジャーナリズム、宗教団体、さらには個人も考えられるが、戦前の教育行政が内務行政と密着して教育を国家の統制下に置き、これを支配して来た何人も否定できない歴史的事実に鑑みれば、国家権力もまた多分に「不当な支配」の主体たり得るものといわなければならない。しかし、それが国民の総意を反映した国会において正当に制定された法律を根拠とする行政的支配である限り、これを「不当な支配」であるということはできない。」、そういうふうな考え方を私どももしておるわけでございます。
  179. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、政府がやることは何でもいいということですか。いまのあなたの答弁を聞いておると、政府がこうだと判断したことは何でもできるのだと、こういう解釈ですね、それなら。
  180. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 判決にもございますように、「それが国民の総意を反映した国会において正当に制定された法律を根拠とする行政的支配である限り、これを「不当な支配」であるということはできない。」、ただ、戦前の教育行政が、教育を国家の統制下に置いてきたことは否定できない歴史的事実である、したがって「国家権力もまた多分に「不当な支配」の主体たり得るものといわなければならない。」、権限を逸脱した行為はやはり不当な支配だということもあわせて述べられているわけでございます。
  181. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 とにかく、あなたがいまこう読んだものをすなおに受け取ってみても、いわゆる戦前の教育あるいは戦後の教育も含めて一つの官僚の独善的な、あるいは一部の政党だけで牛耳るということもこれはやはり不当云々だと、この範疇に入る、あるいはまた国家権力の場合にしても、その正当でない場合には入るというこのものの考え方でしょう。そうすると、少なくとも、今日の教育行政をあずかっておるところ文部省のやっておることはすべて正しいんだというものの言い方はこれはできませんね。いわゆる国会で法律ができた、その法律を執行するところの行政府は法律できまったことをやっているだけだから政府の、行政府のやっていることはすべて正しいんだということも高裁でお墨つきをもらったというわけにはまいらないでしょう。それはどうですか。
  182. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 私どもは、現在やっておりますことはすべて正しいことをやっているというふうに確信をいたしておりますけれども、これは最終的には、裁判所等で判断するような場合もあるわけでございます。
  183. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そこに、非常に私は問題があると思うんですよ。教育あるいは自分の行政に対するところの反省も謙虚さも一つもない、言うならば、自分たちのやっておることがすべて是で、満点で、それに従わないようなやつがばかみたいな、けしからぬみたいなあんたものの考えでしょう。そこに非常に私はやはりこの問題、問題があると思うんです。これは後ほど具体的に触れますけれどもね。言うなら、今日の政治の実態見てごらんなさいよ。立法府でできたものを行政府が拡大解釈をしてどんどんやっているというのが実態じゃありませんか。それぐらい行政がいわゆる立法府でもコントロールがきかないという事態の、具体的な事例もたくさん出てくるぐらいに問題が出てきておる中で、自分たちの官僚行政がやっておるところは云々というこの思い上がったところ考えこそ、私は非常にこの問題があると思うんですよ。しかも、そのあなたが言われたところの仙台高裁でさえもこれは「正当」なとわざわざつけなきゃならないという、まくらことばをつけなければならないその意味がわかるでしょう、これ当然。そういうことへの反省なしにそれをぽかっとやられても困る。まあ質問続けますけれども、少なくとも、やはりこの第一項の「不当な支配」云々というのは、当初も大臣がおっしゃっておったように、他の団体ばかりでない、他の国民の代表の団体ばかりでないということは、これは明らかになったということは明白で、それはいいでしょう、その点は。その点はお認めでしょう。どうですか。いや大臣ですよ、あなたの答弁あったんだから。
  184. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 政府も国会における授権の範囲において行政を執行していかなきゃならない、そう考えます。したがいまして、授権を踏みはずというような場合には、これは不当な支配になってくると、こう思います。
  185. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすなおに言っていただけば話は早いのですよ。自分たちのやっていることは寸毫も間違いないと、こういうことを言う。だからそこから踏みはずした場合には、これはやっぱり不当な支配に入るということは、これははっきりしておるのです。そこにやっぱり田中さんのおっしゃらんとするところの行政権力、公権力を行使するものも含まれなきゃならないというところのみそはそこなんです。そこをまず申し上げておきます。  次に、もう一つお尋ねしますが、第二項の「必要な諸条件の整備」という問題ですね、この第二項のですね。これ先ほど大臣は内的事項も外的事項も両方なんだと、こういう御答弁をされておりましたですがね。どうですか、そのとおりですか。
  186. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) そのとおりに思っております。
  187. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 これは予想どおりの答弁ですけれどもね。これ、しかしながら、前はそうじゃなかったんですよね、大臣。これは昭和二十二年、これができた当時ですがね。これは文部省内の教育法令研究会が編集した「教育基本法の解説」というのがあるんです。これは後ほど局長にまでいった辻田さんと最高裁の判事になられた田中二郎さんですか、この二人が監修をされて書かれておるんですがね。そのときには、こういう解釈をされておったんですよ。「教育行政の特殊性からして、それは教育内容に介入すべきものではなく、教育の外にあって、教育を守り育てるための諸条件を整えることにその目標を置くべきだ」と、こう述べておられるのですよ。少なくとも、先ほど申し上げたところの立法府がきめたところの直後の行政府のものの解釈は。ところが、その後の木田宏さんですかあいまの大学局長ですね。彼の「教育行政法」にはいま大臣が述べられたのと全く同じことを言われているのですね。いまのあんた方の答弁は、それは木田さんのものだ。最近その後一貫しておるみたいだけれども、前は少なくともそう述べられておる、あなた方が、文部省のそれぞれの責任者が。そうなりますと、先ほどの「不当な支配」云々じゃありませんけれども、こういういま大臣の答弁なされたところ解釈というのは、行政府が与えられたところの法律を拡大解釈をされて皆さんやっておるという証拠じゃありませんか。そうじゃないと言い切れますか、それなら。どうなんです、そこは。
  188. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私は、この法律を正確に読んでお答えをしているつもりでございます。この法律には「諸条件」と書いてありますけれども、別に外的条件だ、内的条件だというようなことは書いていないわけでございますから、包括的「諸条件」とこう書いてあるんだ、こう見ておるわけであります。   〔理事内藤誉三郎君退席、委員長着席〕  同時に「教育行政は、この自覚のもとに、」とこう書いて一項を受けているわけでございます。一項はあくまでも先ほど来たびたび申し上げますように国会統制に教育も服しているのだと、こういうことでございますから、それを踏みはずした行き方で諸条件の整備に当たれないことは言うまでもない、それは外的条件であろうと内的条件であろうと同じことだろうと、こう判断いたしております。
  189. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 これは、あんた、法文を読んでも、この「教育行政は、この自覚のもとに、」というのは、やっぱりこの「不当な」云々という問題からの一連のものなんですよ。それで先ほどこの「不当な支配」というものの解釈の中で私は触れた。しかも、法律ができて直後の皆さんの文部省解釈は、私が読み上げたとおりに解釈しておるのですよ。立法の趣旨から見てそうなんだと。それならば、それが一貫して貫かれてこそ、立法府できめられたところの法律をそのとおりやるという行政の姿勢じゃありませんか。それをその後変革したというところ自体にこれはやはり立法府がきめたものを御自分たちの都合のいいように広げたんだと、こう言われてもしかたないじゃありませんか。なんなら、この問題の前段の二十二年の解釈というのはあれは間違いなんだという形で国会でみんなに認められておるんですか。法律改正でもされたんですか、それはどうなんですか。
  190. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 文部省にもたくさんな人間がおるわけでございまして、この法律の起草に当たった人間もたくさんいることだと思います。その中のだれかが書いておるものを指摘しておっしゃっているんだろうと思うんでございますけれども、私たちは、この成文を正確に読んで、判断をしていけばよろしいんじゃないか、こう思います。同時にまた、当時の国会の論議においてどのようなことが言われておったのか。そうなってまいりますと、その論議と違ったことを申し上げてまいりますと政治的な責任問題が起こってくるかと、こう思いますけれども、個々の担当者のいろんな解釈、これはもう実際問題としてたくさん出ておりますし、また、人によって筆の運びが違っている場合もたくさんあるわけでございますので、その辺はぜひ御理解をいただきたいと思います。
  191. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それは理解せいというのが無理じゃないですか。それは大臣、あなたはいま大臣になっておられるから、その立法当時のことは御存じないでしょう。しかしながら、立法府というのは、立法をしたところの段階の中でいろいろ議論をし、それを行政府の皆さんも聞いておって、この立法の精神というものはこうで、解釈はこうなんですと出すのがあたりまえでしょう。したがって、その当時は、いま私が読み上げたような解釈されておるということは間違いないんですよ。あなたいまごろになって、それは文部省の中にもそれぞれその立場立場によってというけれども文部省が、人と人とによって正反対の解釈をする人はおらぬはずですよ、それは。しかも、あなた、辻田さんは後の調査局長になった人でしょう。田中二郎さんは、最高裁の判事までやっている人でしょう。当時のおそらく課長クラスですよ。その担当の皆さんがそういう解釈をされておるのを、いまごろになって、あれは何人かの人がそれは違った考えの人がおるかもしれないというのは、あまりにもこれは身がって過ぎませんか。皆さんがあのときおって、そういう議論があった、これはこういう議論もあったと言うんならいざ知らず、いまからあれは間違いだと。ここに私は先ほどちょっと申し上げたけれども、行政府が、いまや行政のほうが立法府よりも先ばしって、だんだんだんだん自分たちの縄ばりを広げていくというかっこうのものの一つだと言われたってしかたがないじゃありませんか。それをさっきは初中局長はそんなことは一歩も踏みはずさないでやっておりましたって、いまのことはどうしても解明つかないんじゃないですか、そのことでは。
  192. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 「教育基本法の解説」で御指摘になりましたものの序の中に、田中二郎先生は、「これは文部省の公定解釋でないことはもちろん、われわれ有志の一致した解釋でもない。」というふうなことも書いてございます。おそらく、当時教育基本法をつくりましたとき、あるいは学校教育法をつくりましたときに、御案内のとおり、学校教育法の二十条に「小学校教科に関する事項は、——監督庁が、これを定める。」と、附則の百六条で、この「第二十条——の監督庁は、当分の間、これを文部大臣とする。」というふうになっておりますから、その当時の考え方一つとしまして、教育課程につきましては、これは文部省じゃなくて、都道府県の教育委員会が監督庁になるということもあるいは考えておったのかもしれません。そういうふうないきさつでございますから、おそらく、そういうふうな解釈が出ていたのじゃないかと、そういうふうに考えるわけでございます。それからなお、仙台高裁の判決それから一昨日の東京高裁の判決、いずれも、教育内容は文部省の権限の中に入るということが判示されております。
  193. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 だってあなた、最高裁でも二、三年するとくるっと百八十度変わるんだからね。少なくとも、立法当時のものの考え方と違っておるということは、これは明らかですよ。それをあなた方がいま強引に合理化しようと言って一生懸命答弁しておる。何もあなたのことばじりをとらえるわけじゃないけれども、当時はまだ教育委員会はできてないんですよ。学務課というのがちゃんとまだ当時あったんです。そういう時代のこのものの解釈、しかもあなた方、それはなるほど文部省の統一されたところの見解ならそれは文部省編になるでしょうけれども、しかしながら、少なくとも、文部省編でない限りそれは文部省解釈でないにしても、文部省の指導に当たっておるところの人がそう書いて地方を指導しておったということはこれは事実でしょう。  そんなら大臣お尋ねしますが、文部省内で文部省の方針と違って課長なり局長なりが書くのはもう自由かってだと、こういうわけにまいらないわけでしょう。直接間接の影響力はあるんだから、そういうわけにまいらないでしょう、官僚の皆さんというのは。行政の姿勢としてどうですか。
  194. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 文部省の事務当局がいろんな雑誌に寄稿いたしましたり、また、書物を出したりいたしております。できる限り間違いを来たさないように問題のところは各方面に当たって執筆せなきゃならないことは当然でございますけれども、しかし、結果としては間違いをおかすということはあり得るわけでございます。
  195. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうするといまの大臣の話は、これは当時の者が間違った解釈をして文部省の一部の解釈だったと、こういうことなんですか。
  196. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) いま事務当局が読み上げましたように、その本を書くにあたって名前を連ねておられます東京大学の田中二郎さんがわざわざ序文で、そういう心配を持って断わっておられるわけであります。「これは文部省の公定解釋でないことはもちろん、われわれ有志の一致した解釋でもない。」ですから田中二郎さんもすべてについて私が責任を負っておりません、こうまで言っておられるわけでございますので、これを金科玉条にされますことはちょっと私どもは困るなあと、かように考えるわけでございます。あくまでも実定法を基礎にして解釈をきわめていきたい、こういうふうに思います。
  197. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、初中局長聞きますがね、じゃ、私はそういう解釈はとりませんというまた別の著書でもあるんですか、その当時。われわれは、こういう解釈をとりますという何か文部省の役人のありますか。それとも文部省あれは間違っておるぞという解釈の何か取り消しでもやられておるんでしょうか、その当時。そういう措置がなされていますか。ちょっとノーかイエスだけをおっしゃってください。
  198. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) そういうことは、別段なされてないと思います。
  199. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それなら、それはあなた、一般の地方の行政官あるいは学校先生方文部省のそれぞれの責任あるところ立場に立ったところの人が、文部省の見解でない人も、文部省の役人の肩書きをもらい、しかも文部省内の教育法令研究会編なんですね、これ少なくとも。それに盛られたのをいまごろこれは困ったから、あれは違うのだ、違うのだと、こう言ったって、これは違うということがおかしいんであって、それはあなた、行政当局のその後の情勢の推移の中で間口を広げてかってに解釈していると言われたってしようがないじゃありませんか。それなら、それはあくまで固執されるということになると、私は非常にもうおかしいと思う。それこそ三百代言的な云々だと、こう言われたって私はしようがないと思いますよ。  それでもう一つお聞きしますが、これは大臣に聞きますが、憲法九条の戦力の放棄、これは一切の陸、海、空の武力が禁止されておると私は思う。したがって、そういう意味では、自衛隊というものは、これはまさに違憲だと、こう思っておるんですが、その点、大臣はどうお考えになりますか。
  200. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私は、日本憲法というものは、日本国の存立を維持していくに必要なものを定めておると、こう考えておるわけでございますので、日本国の存立を危うくする場合に備えることを否定しておるものではない、かように考えております。
  201. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、この九条の戦力の放棄、いわゆる戦力の不保持というのですね、その戦力じゃないんですか、大臣の見解では。
  202. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) この表現以上に、日本憲法は何を目ざしておるのかと、憲法以前の問題じゃないだろうかと、自衛を憲法が否定することは考えられないと私は考えておるわけであります。将来の独立国として維持していく場合に、どういう生き方をしていくかということを書いておるわけでございまして、その国の安全が脅やかされる場合に、それに対して国を守っていくんだということまで否定しておるわけではない。たまたま九条に「戦力は、これを保持しない。」と、こう書いてあるわけでございますので、したがって、その戦力というものは、他国を攻撃するために保持しようとするような戦力は持たないんだという趣旨をあらわしておるのだと、かように理解しておるわけであります。
  203. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私は、これは大臣とここでこの憲法九条の戦力論を長時間やろうとは思わないけれども、先ほどのやはり問題と関連あるから私はお尋ねしておるんですよ。この憲法が制定されたところの当時のものの考え方はどうだったんですか。じゃ、学校教育でこれはやはりあの当時の憲法論議を踏まえて、これは戦力を持っておるから自衛隊というのはおかしいと、こう教えたら、また偏向教育だといって皆さんはすぐチョンにするでしょう。しませんか。どうですか。これは裁判でも非常に議論のあるところなんですけれども、しませんか。偏向教育だとすぐきめつけるでしょう、あなた方。いまの自衛隊はこの憲法のいう戦力云々から見ておかしい、疑問があると、こうかりに教えたとします。問題だと指摘したとします。それは偏向教育、偏向教育だと騒がれるでしょう、皆さんは。それとも、そう言っていいんですか、教壇の上で。
  204. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 自衛隊は国会において正規に認められておる存在でございますので、これを否定するような教育は適当でないと、こう思います。しかし、現に違憲だという議論があるわけでございますので、議論があるということを教えていけないという問題はないと、かように考えます。
  205. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 なるほど、それは自衛隊は多数の中できめられておるでしょう。しかし、それ以前に一番根本を規定しておるところ憲法の論議をしておるときの過程の中では、そういう議論で大体意思統一されておったでしょう。それを時代が移り変わる中で自衛権はあるんだ、あるんだというかっこうに変わってきておるんでしょう、実際の国会の政治の転換の中では。そうじゃありませんか。どうですか。
  206. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 私は、日本憲法というものは、占領下に置かれておった時代の産物であることは間違いないと思うのであります。本来なら独立したときに、私はもう一ぺんこの憲法を見直してしかるべきだった、こんな考え方を持っております。しかし、見直すことについては、国民のいろいろな議論があったわけでございますから、独立国になった暁においてこの憲法をどう解釈、運用していくかという判断が国民の間に当然持たれてしかるべきだったと、また、そういう前提のもとに国会において自衛隊法等が制定されてまいったと、かように考えておるのであります。
  207. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それはあなた、いまごろになって言う話であって、あの憲法制定時代解釈というのはだからといって変わっておったはずはないでしょう。その後、あなたがおっしゃったようないろいろな意見も出て、その後の論争の中で、政府の見解の中で次々変わって、合憲だ、合憲だというかっこうで押し通してきておるんでしょうが。だから、恵庭事件みたいに、おかしいと、違反だと、こういうあれが出てくるんでしょう。したがって、言うならば、私は、あなた方が先ほど言ったように、不当な支配云々と言いながら、自分たちの行政府というものは、国会できめられたことから一歩もはずれないようにやっています、やっていますと言いながら、いろいろな政治情勢の移り変わりの中で、幾らでもこうさせておるというところに問題があるからこの点を指摘しておるんですよ、現に、先ほどは文部省のあれは編集じゃないとこう言っておられましたけれども、これはまさしく文部省の編集なんですよ、「あたらしい憲法のはなし」というのは。これは文部省編ですよ、逃げもかくれもしない。その文部省の「あたらしい憲法のはなし」の「六 戦争の放棄」の中にこう書いてあるんですよ。「そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。」、こう言っておるんですよ。これは文部省編ですよ。それさえも、学校先生がその当時きめられたところのこれに沿って教えたら、あなたはこれはけしからぬと、こういうことになると、こうおっしゃっているんです。ここに私は、やはり、もろもろの法律を制定しておりながら、いろいろなものをきめながら、時の移り変わりの中で、行政府が、あるいは政治勢力と行政とが結んで、政治権力と行政とが結んで一つ解釈を押しつける、そういうことにならないように、教育基本法十条の「不当な支配」云々ということは、そういうことも含んでおるんだということを言っておるんですよ。それは絶対そうじゃないと片一方は言う。現にあなた、このとおり教えたらいかぬのでしょうが、もう。あなた方は困ると、こう言うんでしょうが。けれどもこれは文部省編なんだ。さっきは文部省内の何か編集者がつくったといって逃げられましたけれども、これはもう逃げも隠れもしない皆さんの本なんですからね。ほんとうなら、それを教えるのが当然なんでしょう。これでも困るんですか、それなら。どうですか、大臣。
  208. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) おそらく占領下に出された資料じゃないかと思います。やはり日本が独立した場合には、独立国家としてどう進むべきかということを国会で明示されるべきで、明示されたところに従って教育も進められていかなきゃならないと、かように思っておるわけであります。
  209. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 だから言うんですよ。二言目には、都合が悪いときには占領下、占領下だと、こう言いながら、今度は利用しようと思えば、いやあれは一部の者の解釈なんだからと、こういうことで、とにかく自分たちの、皆さんがやられると、合理化、合理化しようとされておるでしょう。これが一体教育基本法のあの十条の問題と照らしてどうかという一つの、これは大きなやっぱり問題点なんだ。時間もありませんからそれほど多くを申しませんが、続いて関連して申し上げましょう。  それならばやっぱり関連をして、もう一つお聞をきしたいんですが、これはこの間の文教委員会でも質問が出ておったわけでありますけれども、地行法——地方教育行政の組織及び運営に関する法律の三十八条の内申権の問題です。この内申がなくても、大臣は県費負担教職員の任免権はできるんだという解釈にやっていきたいというようなことをこの間だいぶ言っておられたんですが、そういうように広められるんですか、どうですか。
  210. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 広げるんじゃなくて、その法文を私はそう解釈をせざるを得ないと、こう判断しているわけでございます。内申をまって都道府県が人事権を行使していく、そのように、市町村教育委員会と都道府県教育委員会とが一体となって事を処していこう、そこに妙味を見出そうと、こう考えておるわけでございます。ところが、そういう式にはいかないんだ、幾ら督促をしても何らの内申もよこさない、そういう場合には、人事権は行使できないか——そんなことは私は法律は考えていないと思うんであります。そこで、先刻来申し上げているような私なりの解釈を御説明申し上げてきているわけでございまして、私の解釈には間違いはない、こう判断をしているわけでございますし、また、法制局長官も、そういう趣旨の御答弁を申し上げてまいったわけでございます。
  211. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 しかし、重ねて聞きますけれども、これあなた昭和三十一年九月十日の、初中局長は、この通達でこう言っているのですよ。「市町村委員会の内申に対し、都道府県委員会はその内容にすべて拘束されるものではないが、都道府県委員会は市町村委員会の内申をまたずに県費負担教職員の任免その他の進退を行うことはできない」と、こういう解釈をしておるのですよ。これは初中局長、否定はしないな、当時は通達をしておるのですから。さらに、翌年の三十二年四月二十五日に、また同じ初中局長名で、「府県委員会が、その内申どおりに発令しないことは異例のこととしてあり得ることは納得できるが、内申の対象となっていない教職員について、府県教委が一方的に転補を発令することは、違法行為である」云々と、こうも言い切っておるのですよ。そういう行政指導をやりながら、今度、いまの文部大臣の発言は、いや、趣旨から見ればそうじゃないのだ、何かどうしてもできない場合には、内申またぬでも、県の教育委員会は、何か権限があるのだというふうに自分は思うというものの解釈は、これはおかしいじゃありませんか。そうすると、これは文部省のいままでの方針の変更なんですね、どうなんですか。
  212. 奥野誠亮

    ○国務大臣(奥野誠亮君) 先刻来たびたびお答えをしてまいったことで、同じことを申し上げるわけでございますけれども、私はその文部省の姿勢、それでいいと思うのであります。あくまでもそういう姿勢で当たっていくべきだと、こう考えるわけでございます。そういう姿勢で当たっていくが、法が予想しないような事態が出てくる、市町村教育委員会が幾ら督促をされても内申書を出さない、そうすると、都道府県教育委員会は人事権について手をこまねいていなければならないのか、内申があっても、内申と違った人事権を行使できるにかかわらず、内申なかったら何もできないということは、私は法の考えているところじゃない、こう考えるわけでございます。したがいまして、あくまでも督促をして、なおかつ出て来ない場合には、内申をしない内申があったものとして処理せざるを得ないじゃありませんかと、こう答えているわけでございます。また、具体の例を申し上げた場合に、いろいろな事情でどうしても内申をしてくれない、そうすると、いつまでたっても教員の配置ができないのか、私は、そういうことじゃない、都道府県は人事の責任を負っているわけでありますから、市町村は内申がない場合でも、合理的な期間を待っても、どうしても内申がない場合には、私は人事の発令をして違法だとは考えない、それは内申をしないという内申があったものとして人事の案件処理せざるを得ないのじゃないだろうか、そして、都道府県教育委員会が人事上の責任を果たせる、それまで違法とは私は言い切れない、かように考えているわけであります。
  213. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それは、最もおかしな考え方ですよ。それからいうなら、先ほど来論じておるように、行政府の解釈はどんどんどんどん広がっておるということですよ。これは内申云々というのは、この教育委員会のあの議論をしたときの一番のかなめだったのですよ、これは。この内申問題というのは。これはあなたも御承知でしょう。これは昭和三十一年の通常国会でやられましたね。いわゆる乱闘国会だといわれた。国会へ警察権力が介入までして強引にこれは押し切ったところの法律でしたけれども、そのときの審議の過程の中で、一番指摘されたのは、公選制の教育委員会から任命制の教育委員会に法改正をするということは、とりもなおさず任命制度というかっこうの中で、いわゆる行政権力あるいは政治権力というものは介入してくることが非常に強い、介入のおそれがある、したがって、それはたいへんなことだということをわれわれは主張してきた。そのときに、それに対するところの当時の文部大臣は、清瀬さんです。あの人はそのときには、いや、そういうことはないんだと、三十八条の内申権がある限り絶対だいじょうぶだと答弁されておったんです。言うならば、幾ら上から押しつけてきても、内申権というものがあってそれによって抵抗できるんだから、これは絶対だいじょうぶなんだという強弁をされておったんですよ。そういういろんなものの討論を踏まえて、先ほど紹介されたところの三十一年九月あるいは三十二年の初中局長の通達というのは、この内申権の問題であったわけです。いま大臣の答弁を聞きますと、それは尊重するけれども、どうしてもできないときにはやることも違法じゃないというならば、これはまさにたいへんなことじゃないですか。これならば、これは立法府の過程できめて、立法府がきめたことを行政府がかってにやっておるということになるんですよ、拡張して。ここに私が言うところのいわゆる立法府の行政府に対するところのコントロールというのがいまや空洞化されている、こう言わざるを得ないじゃありませんか。そのことは、いまのこのことだけじゃない。先ほどの憲法の問題にしてもそうじゃないですか。その前の話にしてもそうなんです。それをそのときそのときの行政府が一つの政治権力をバックにしてこれもできるんだ、これもできるんだというものの解釈をするというならば、私は、これはたいへんなことだと思う。こういう論法でやったら、幾らここでたとえば教頭法の問題を議論してみたって、さて、その法案が通過したあとは、あんた方のかってに解釈が何でもできる。こういう論法にもつながるのです。これは委員長、重大な問題だと思うのですよ。これをこのままおいでおいで私は質問を続けろと言っても続けませんよ。立法府が議論をし、当時いろんないきさつの中からきめたものでさえも、自分たちの行政府でさえも七、八年前、五、六年前まではそういう通達を出しておいて、いま大臣がかわって宗旨が変わったからといって、それは違法でないというものの解釈をするとするならば、これはたいへんな問題だと思う。これは立法府に対するところの侮辱だと言われてもしかたがない。私は、この問題については、これは早急に理事会開いてもらってその中できちんとしたひとつ結論を出してもらいたい。それまでは私は質問しません。理事会の開会を要求します。
  214. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) 速記をやめてください。   〔午後四時二十三分速記中止〕   〔午後五時二十八分速記開始〕
  215. 世耕政隆

    委員長世耕政隆君) それでは速記を起こしてください。  先ほど宮之原委員質問に関する大臣の御答弁は、また後刻よく練り上げていただきまして、御答弁いただくことにして、委員長がお預かりさせていただきます。  それで、宮之原君の質疑を続けていただきたいと思います。
  216. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 非常に、いまのことにつきましては、私は、先ほどの経過から申し上げまして、非常に不満ですけれども、せっかくの委員長の裁定でございますから一応服しまして、質問を続けましょう。  次は、この法案の各条項について、一応文部省の、提案者側の解釈なるものを、見解なるものを承って、これをもとにまた、後刻、次の機会に質問いたしたいと、こう思います。  まず第一点として、お尋ねしたいことは、学校教育法の第七条です。これは「学校には、校長及び相当数の教員を置かなければならない。」と、こう出ておる。同じく八条には、その校長、教員の資格について書いてあるわけでありますが、今度の改正法案は、この点については全然触れてないんです。それでいて、提案理由を拝見をいたしますと、教頭とは別に独立の職として法律上明確にしたんだと、こういうことで、二十八条の中でのみ校長、教頭、教諭という教頭の置き方をしておるわけでございますが、それでお尋ねをしたいのは、教頭は独立の職だというならば、教頭は七条、八条の「校長」、「教員」という概念の中のどこに入るのか、その点、まずお尋ねをいたします。
  217. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 学校教育法の第七条は、これは第一章の総則の中の規定でございまして、学校全般に通ずる規定でございます。そこで、「学校には、校長及び相当数の教員を置かなければならない。」という規定を設けて、それから二十八条は、これは、第二章小学校の中の規定でございまして、これは具体的にさらにどういう職員が置かれるものというふうな規定をしたわけでございます。したがいまして、第七条の中におきまして、教頭というのは、これは当然相当数の教員を置かなければならない教員の中に入るということでございます。それから第二十八条は、その教員につきまして、そこに書いてございますように「教諭」とか、「養護教諭」とか、具体的な規定があるわけでございます。
  218. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、この学校教育法の八条、七条にいう「校長及び教員」という中では、教員の範疇の中にこの教頭は入るんだと、こういうように理解しておってよろしいんですね。
  219. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) そのとおりでございます。
  220. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それでいて、この独立の職で、しかも管理職なんだ、特に改正法では、修正条項では、非常に管理職という条項が強く出ているんですが、管理職だという規定のしかた、これは一体どうなんですか。校長と教頭、校長というのは大体常識的に管理職だと考えられるけれども、これはあとからまた議論しますけれども。教頭は教員の部類だけれども管理職だ、こういう法体系ですね、規定ですね。これは一体どういうことになるんですか。何かまん中の宙ぶらりんの役割りなんだ、こういうことですか。
  221. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 管理職と申しますのは、別の法律の体系で管理職であるかどうかは定められておるわけでございます。私どものような一般の公務員でも、たとえば、機密をつかさどる職員、これは管理職の中に入っております。でございますからその法律のたてまえと申しますか、そういうものによって規定のしかたが違うわけでございます。私ども、今回の改正案につきまして教頭が管理職であるというふうなことを特に強調するというようなことではございません。管理職というのは、管理職として別に規定があるわけでございます。ただ、学校一つの組織体として住民にサービスをするという、そういう機関でございますから、その組織体としての校長は、全体を監督して校務をつかさどるような職員として位置づけされておるわけでございます。  このたびの私どもの改正案では、教頭はその頂点に立っております校長を助けまして、教員との間に円滑な関係が保たれるようにと、また、学校の運営が円滑にまいりますような職務を行なうことによりまして、学校が組織体として最も効率的に住民に教育というサービスをすると、そういうふうな仕組みを明らかにしているわけでございます。
  222. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 だってあなた、別の法律云々と言うけど、わざわざ「教頭は、校長を助け、校務を整理し、」というのを御丁寧にその修正をしてですね、「必要に応じ児童教育をつかさどる。」というなら、これは、文部省の最初の原案よりは管理職だという規定づけを明確にしておる証拠でしょうが。校長を助けて校務を整理するというんだからね。学校の中では教員という教育をつかさどるものと校務を見るのと二つしかないんだから、こういう改正案でいけば、その教育をつかさどるというのは副次的に扱われておるんだ、これは少なくとも。これは民社の修正案をあなた方のんでおるんだから。その体系からいけば校長のワクの中に入るのが当然じゃありませんか。それを教員のワクに入るという解釈づけはどういう意味ですか、そんなら。おかしいじゃないですか。(「そうだ」と呼ぶ者あり)与党の皆さんもそうだと言っておる。
  223. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 教頭は校長ではございませんから、当然校長とは別になるわけでございます。学校教育法の中で校長に専属の権限がございます。たとえば入学でございますとか、退学でございますとか、そういうふうな専属の権限は、これは校長に属する。ただまあその職務代理ができるというような関係でございまして、校長とそれから教頭とは、これは別の存在でございます。  それから管理職というのは、地方公務員法の五十二条に職員団体の規定がございますが、その中で「管理職員等の範囲は、人事委員会規則又は公平委員会規則で定める。」というふうに、これが別の観点から管理職ということが規定をされているわけでございます。教頭は管理職であるということは、管理職手当が人事院規則でも明らかにされております。それから管理職手当が支給をされておりますけれども、それは法の体系が別になっておりますから、ここでは管理職であるとか、管理職でないとか、そういうふうな規定とはやや違った角度から学校の組織体としてのサービス機関と申しますか、そういう意味からのどういうふうな組織がよろしいかという観点から規定が設けられているということでございます。
  224. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 何かそれは詭弁だと思うんですよ。この間は内藤委員質問で、いや管理職手当もある、それから組合に入っていかないという人事院規則の解釈もある、それからもう戦前からもちょっとあったんだからもう条件はできておるんだから、ただ名前を法律の中に入れるだけで管理職であるということは、これはもういままでのあれでもはっきりしておると、ただ、それを法律に入れただけでしょうと言ったら、あんた方、そうですと答弁しておる。いま今度逆にさかさに聞くと、それは別な法律にあるからそうでありませんと、あまりにもこれは御都合主義ですよ。これは、あんた管理職とここに書いてないからといって、ほかの別の法体系ですと言ってみたって、学校の構成というのは、校長と教員しかないわけなんだから、二つ分けたら。そうすると、これは校長の変形にしかならぬでしょうが。何も私は先ほどから校長と同じ権限だと言ってないですよ。しかし、職務権限の中身から言えば、与えられたものは児童教育をつかさどるわけじゃないんですから、これは。特例として児童教育をつかさどるというんだから、あれは学校教育法の二十八条の第四項ですか、わざわざ「教諭は、児童教育を掌る。」と、そのつかさどるところの任務を、これは教頭の場合はきわめて副次的に書いているんだから、片一方の学校の校務をつかさどるですか、そこの中に入るのが当然じゃありませんか、これは常識論で。どうなんですか。おそらく皆さんは最初はそういうつもりじゃなかったけれども、まあ通すために、民社の修正案のんだからこういうちぐはぐな形できておるんじゃないですか。
  225. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) そういうことではございませんで、まあ校長が学校という組織体の唯一の責任者として専属の権限を持っておるわけです。そういう方が二人おられるというふうなことでは、やはり組織体は維持できないわけでございます。たとえば、文部省でございますと、文部大臣がおられる、それから事務次官以下の大臣を補佐する職員がおる。事務次官は大臣を助け、省務を整理するというふうな規定になっているわけでございます。しかし、当然事務次官というのは、これは管理職に入る。しかし、管理職であるから、そういうふうな規定をやるというふうなことではございません。そういう職員が当然管理職に入るという意味では、教頭は当然管理職に入るということが言えると思います。管理職だからというふうな、そういうふうな発想から、ここに教頭の規定を置くというふうなことではないわけでございまして、あくまでも学校という組織体、そういうものを円滑に運営するための必要な職として教頭というものを考えるというふうなことでございます。
  226. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 これ、二十八条をすなおに読んでごらんなさいよ。二十八条の第三項が、「校長は、校務を掌り、所属職員を監督する。」次は、「教諭は、児童教育を掌る。」でしょう。言うならば、これは教員ですな、ことばをかえて言えば。だって、その教員云々の規定づけは、教育公務員特例法の二条の中にもあるわけなんですから。しかし、そういうことからいって、今度の示されたところのおたくの修正案を含めたのを見れば、「教頭は、校長を助け、校務を整理し、」というのを、前は「及び児童教育をつかさどる。」で半々のかっこうに、あんたが答弁しやすいようにできておったんだ。けれども、それは、「及び」は、「必要に応じ児童教育をつかさどる。」というからね。これは何といっても校長の手助けをする役割りですよと、これが主体なんでしょう。そうすれば、学校教育法の二十八条の四項の部類にはこれはどうしても入らぬのですよ、「教諭は」と。校長のワクの中に入らなきゃならないということしか考えられぬ、あえて二つワクを当てればですね。それを教員のワクに入りますというのは、これは苦しまぎれの答弁にしかすぎないじゃありませんかと聞いておるんです。正直なところおっしゃいなさい。修正するから、こういうかっこうになっているんだよ、ほんとうは。
  227. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 例を引いて恐縮でございますが、文部省の場合でも、文部大臣と、それから事務次官以下というのは、これは違っております。事務次官は官職でございまして、大臣を助けて私どもを監督しているわけでございますけども、どちらに入るかと申しますと、これは文部事務官、私どものほうの側に入るわけでございます。二つに分ければ、文部大臣とそれから文部事務官、二つに分かれるわけでございます。その中に事務次官が入っておっても一つも差しつかえないと思います。
  228. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それは文部省設置法からどういう規定づけしていますか、そんなら。大臣の権限はこうだと、皆さんの権限はこうだと、どういうふうに書いてありますかね、設置法の中に。
  229. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 文部省でおあずかりいたしております権限を執行されますのは、これは大臣でございます。私どもは、事務次官以下これは補佐役でございます。
  230. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 だから、どう規定しておるんですかと聞いておるんですよ。これを正確に読みなさいよ、あなた。
  231. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 国家行政組織法の第五条には、「総理府及び各省の長は、それぞれ内閣総理大臣及び各省大臣とし、内閣法にいう主任の大臣として、それぞれ行政事務を分担管理する。」、こういうふうな規定でございます。
  232. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 だから、私が言うでしょう。あなたは、文部省設置法の、その文部省の役人という例をたとえに引き出しているけれどもね。これは明らかにこの学校教育法の二十八条によれば、校長はこういう権限ですと、教諭はこういう仕事ですと、職務権限、職務は明確にしておるわけでしょう。そうすると、先ほど来言うように、教頭の仕事児童教育をつかさどるというならば、これはあなたがおっしゃるように、それは教員の中に入るということも理解できるんですよ。しかし、修正をして持ってきたものは、校長の校務を整理するというのが主体なんでしょう、これ。で、必要に応じてと、ちょびっと教育のほうを出しておる。必要に応じてというのは、いろいろな議事録を見ますれば、きわめて小規模学校とか云々と、こういっておるわけでしょう。それならば、常識的には、これは学校教育法教員と校長と分ければ、校長の範疇に、オール校長だと言いませんよ。それはもちろん権限違うんだから。入るのが常識なんでしょう。それをあなたらは教員の中に入る、入ると言うから、おかしいじゃありませんかと聞いておるんですよ、この条文の解釈からいえば。
  233. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは、まあ行政組織の考え方でございますけれども、私ども考えておりますのは、それは大臣あるいはその校長というものとそれを補佐するもの、あるいはその監督に服しておる所属籍職員というのは、これはもう画然と差がございます。校長の職務につきましては、ここに規定がございますけれども、そのほかに学校教育法の中では、入学の許可でございますとか、そういうような権限が専属的に規定をされておるわけです。
  234. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 代行するんだからね、今度の法改正の中には代理権もあるんだからね。
  235. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 教頭の場合は、もちろん校長が欠けた場合の代理権はございますけれども、校長に専属するような権限というのは、これはないわけでございます。ですから行政組織としましては、これがまあ当然、二つに分ければ教頭は教員の中に入るということでございまして、おかしいことではないというふうに思います。
  236. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 これはだれが考えても無理な話ですよ。これはおたくの最初の原案ならその答弁で、これは半々だから、わかるんです。しかし、御丁寧に校長の校務をつかさどるのを、助けるのが主体ですよと、おまけに教頭は、校長に事故あるときにはその職務を代理するんですよと。これならば、教育をつかさどるところ教員の中に入りますと言うのは、常識で考えたって入りますという私は答弁できないと思いますよ。それをまああえてだいぶこうがんばっておられるようですけどね、どうもそれはもう矛盾だらけですよ。それでまあそれだけこうやると時間ありませんから言いませんがね。そうすると、これは教頭は独立のあれですから、この任命行為も教頭には行なうんだと、こういうことになっておりますですね、そうですか。
  237. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) このたびの改正法案が成立いたしました場合には、教頭は独立の職になるわけでございますから、当然任命行為というのがあるわけでございます。
  238. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、教諭とは別に独立の職として任命行為もやるとするならば、教頭の資格条件というものは、明確にやはりされなければおかしいと思うんです、独立の職を与えるんだと。それならば、教頭の資格条件というのは法律のどこに明記されておるんですか。
  239. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 教頭の資格要件につきましては、学校教育法の施行規則で規定をするつもりでございます。これは校長と同じような規定のしかたになると思いますけれども、教頭の場合には、おそらく教諭の基礎資格の上に勤続年数等が加味されるというふうなことになろうと思います。
  240. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そこをはっきりしてくださいよ。文部省の現在のものの考え方が、資格条件はこういうつもりで施行規則の中に盛り込むつもりなら盛り込むつもりだと、こう言ってもらわにゃ、何か法律が通ってから三カ月ひまがあるからその間にやるんじゃ、一体あなた方は、教頭を管理職化した場合に一体どういう資格を与えるのかということも、これは審議の上ではきわめて重要な要素ですよ。それを明らかにせぬ限りは私は質問しませんとは言いませんから、いまそこで答えてください。
  241. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 現在、学校教育法の施行規則の「第二節校長の資格」というのがございまして、第八条に校長の資格がございます。基礎資格は、「教育職員免許法による教諭の一級普通免許状を有し、かつ、五年以上、次の各号に掲げる職にあったこととする。」ということで、「一 学校教育法第一条に規定する学校の校長の職」……。
  242. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 校長のほうはわかっておるんですよ。だから教頭はどうしますか。これはもうあなた、法文に書いてあるんだから、規則の中に。教頭はどうするんですかと、そのものの考えがあったら、これと対比してはっきりおっしゃいと、こう言っているんですよ。
  243. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) いま申し上げましたように、校長の資格の規定がございますが、これとほぼ同様にする考えでございます。
  244. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 しかし、それはおかしいじゃないですか。さっきは校長というのは上御一人みたいなことを言っておいて、これは大臣も何も絶対ほかの者が侵すことはできないんだと言って、校長と同じことにするんだというのはちょっとこれ納得できませんよ。もう少しやっぱり校長は校長として、教頭は教頭としての資格条件というものはやっぱり具体的にしなければ、それはあなた苦しまぎれにほぼ同じにするものですと、こう言ったって、片一方では校長というものはえらいもので、校長と教頭は比ぶべくもありませんとさっき一生懸命答弁しておったでしょうが。この資格条件だけほぼ同じにすると、こういうことですか。どうも矛盾する話ですよ。どうするんですか。
  245. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは、その職についてどういう権限を与えるかということと、その人の資格がどういうことであるかというのは、これはまた別の問題でございます。たとえば文部省で課長、局長、次官、それぞれ権限の違った者がおりますけれども、基礎的な資格は大体同じでございます。でございますから、別にそれはおかしいことじゃないと、それから、教頭の場合にも、校長の場合にも、学校の規模にかなり差がございまして、大きな規模の学校の教頭先生は小さな学校の規模の校長先生と同等、同じぐらいの責任の量と申しますか、質、量、そういうものを持っておられる。ただ、権限は小さな学校でございましょうと、大きな学校でございましょうと、校長先生は校長先生としての権限を持っておられる。幾ら大規模の教頭先生でございましても、小さな規模の校長先生と同じ権限を持っているということではございません。
  246. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 これまた、なかなかすなおには理解できない話ですがね。一応きょうは皆さんの見解を聞くにとどめますから、次に進みます。  もう一つは、二十八条第一項に関して、政府原案では、最初では、小学校には校長の下に教頭を加えて云々と、こうあって、「ただし、特別の事情のあるときは、教頭若しくは事務職員を置かず、」云々と、こうあったわけですね、原案は。ところが衆整院の修正案は、「ただし、特別の事情のあるときは、教頭又は事務職員を置かない」と、この「若しくは」というのを「又は」と、こう改めたこの理由は、違いはこれは何ですか。
  247. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは、衆議院の法制局のほうで、こういうふうに直されたわけでございまして、これは立法技術上の問題でございます。
  248. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 その立法技術上どういう理由で、あなた方も法案を出すときには、立法技術上規定を内閣法制局できちんとやって出すのでしょう。それを衆議院の法制局で改められた。何か理由がなければ改められぬでしょうが、その理由をはっきり聞かしてくださいよ。
  249. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 前の案は、「教頭若しくは事務職員を置かず、又は教諭に代えて」と、「又は」「若しくは」と申しますのは、「又は」という場合には大カッコになるわけでございます。それから「若しくは」のときには小カッコになるという、これは立法技術上の約束がございます。「及び」と「並びに」というのも、「並びに」が大カッコで、「及び」が小カッコ、そういうような一つの立法上の約束がございます。このたび条文の整理をいたしましたものですから、いままでの「若しくは」が「又は」になったと、そういうふうな立法技術上の問題でございます。
  250. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 どうもそれもあやふやなんですが、一応きょうは聞くだけにしておきますから。その「特別の事情のあるときは」云々というその「特別の事情」というものの条件は何ですか。
  251. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 一応学校の規模ということを考えているわけでございます。小規模学校につきましては、御案内のとおり、教員の増加を計画した法案も提出をいたしております。その際にまた、それに加えまして、教頭あるいは事務職員というものを置くかどうか、これは今後の課題ではございますけれども、一応現状では小規模学校には事務職員などを置くよりは教員を配置したほうがよろしいのではないか、それから小規模の学校では、教頭は置かなくてもよろしいのではないか、そういうふうな考え方があるわけでございます。一応、そういう考え方を想定しているわけであります。
  252. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 具体的には何学級ですか。
  253. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) いままでは、小学校の場合には六学級、中学校の場合には三学級というふうなことも考えておりましたけれども、先般申し上げましたように、たとえば、北海道あたりはまあ校長先生が出かける場合も相当日数がかかるというふうなことで、校長先生が不在になる期間が多い、あるいは隣の学校との距離も遠くて連絡もつかないというふうなこともございますものですから、そういう地域の特殊性というものは、やはり考えていかなければならないんじゃないかというふうに考えるわけでございます。
  254. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そうすると、一昨日は内藤さんからの質問あるいは意見では、いわゆる定数法も改正されて、教頭がこんなによけいふえるのだから、週五日制にしようと、一生懸命こう言われておる。そうすると、与党の皆さんの理解では、これは教頭職を置いたことによってたくさん教員がふえるんだと。もうすぐ直ちにでも週五日制ができるような立場から質問をされて、だいぶんそれと同じような答弁をされておったようですけれども、いまのお話だと、小規模学校には、これは教頭は特別配置はしないというものの考えですね、そうすると。どうなんですか。その点は、はっきりおっしゃっておいてくださいよ。
  255. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) ここで、まあ「特別の事情のあるときには、」と言っているその「特別の事情」として想定されるような事態はどういうものかというお尋ねでございましたから、ただいま申し上げましたように、学校の規模などというようなものが「特別の事情」に当たるのじゃないかということを申し上げたわけでございます。まあ、教職員の定数の配置上、どういうふうなやり方をとっていくかということは、今後の課題ではございますけれども、いまのところは、ある程度その規模で制限をせざるを得ないのじゃないかということを考えております。
  256. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それも、だいぶん違うようですがね、この間の答弁と。まあいいでしょう、一応見解聞くだけですから。  先ほどちょっと触れましたね。この「必要に応じ」云々と、この修正がされたところの、意義ですか、これはどういうことになりますか。この教頭案云々の「及び」が消えて、衆議院で修正されたところの、少なくともこれはすなおに読めば、これは教頭さんは管理職で、校長さん一辺倒のところにいくんだと、こういうものの考え方に当初の皆さんの考え方から移ったと理解できるのですが。こう変わったところの意義と、政府の最初の原案とどういう違いがありますか、そこをちょっと説明してください。
  257. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) ここに規定がございますのは、これは教頭のまあ本来どういうふうにあるべきかというふうなことを規定しているわけでございます。   〔委員長退席、理事内藤誉三郎君着席〕  前の私どもが提出いたしました原案では、「校長を助け、校務を整理」するというお仕事と、それから「児童教育をつかさどる」というお仕事がまあ同じウエートと申しますか、大体半分半分くらいのことになるであろうということでございますが、このたびまあ必要があるときはというふうに児童教育をつかさどるということになりますと、校長を助け、校務を整理するのがこれが本来の職務で、必要がある場合には、児童教育をつかさどるという、これはたてまえであろうと思います。ただどの程度が、何時間持つのが必要があるかというふうな問題、これにつきましては、そのときどきの定員の配置でございますとか、あるいはいままでの実績でございますとか、そういうものによりましてかなり変わってくるということはあり得ると思います。
  258. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それだから、私が先ほど言ったように、あなたがあえて教員の部類に入るというのはおかしいと、こう言っているんです。少なくとも、この修正によって校長のところに近づいておるんだから、これは。だから、そこに問題点があるということだけとりあえず指摘しておきます。  時間がありませんので、あと一、二問やりますが、もう一つ、この間、これまた、ここの委員会の質問の中で、教頭の任命は、法制定後は任命権の所在が市町村から県に移ることになるという答弁があったと思うんですが、これはどういう意味ですか。
  259. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) これは先ほど先生が御指摘になりましたように、教頭が新しい職になるわけでございますから、その任命行為になりますと、これは都道府県の教育委員会ということになるわけであります。これは教員の任免権が都道府県の教育委員会にあるということと同じでございます。ただ、現在の教頭は、これは職務命令によって命ぜられておるわけでございまして、その職務命令によって命ずる場合には、これは現在市町村の教育委員会が命ずると、そういうことになっておるわけであります。
  260. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 いまは、実質的にいろんな新聞辞令見るとみんな教頭と県で発表しますよ。けれども、このことによって名実ともに県教委が任命できるのだということになって、教頭という位置づけというものは非常に強化されていくんだと、こういうものの考え方ですね、このものの考え方は。
  261. 岩間英太郎

    政府委員岩間英太郎君) 職としてはっきりするということでございまして、その意味では、先生の御意見それはそのとおりであろうと思います。しかし、実際の任免につきまして、現在都道府県の教育委員会で教頭の試験というふうな、公平な、公正な選考ということがございまして、実質的に都道府県の教育委員会が教頭の任免に関与してきたというふうな事実がございます。そういう意味では、いままでどおりといえばいままでどおりということもいえるわけでございます。特に職として確定をしたというところに意味があることは仰せのとおりでございます。
  262. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 きょうは、これだけにしておきます。
  263. 内藤誉三郎

    ○理事(内藤誉三郎君) 本案に対する質疑は、本日はこの程度にとどめ、これにて散会いたします。    午後六時三分散会