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安達政府委員 「ころも」のあるのないの、いろいろございまして、たいへんおわかりにくいのは申しわけないと思いますが、現在
著作権法におきましては、一応まず第一前提といたしまして「ころも」のあるのとないのとを区別いたしております。「ころも」のあるのはメーカーである。いまお述べになりました例でいえば、大映株式
会社がメーカーというようにいたしておるわけでございます。
一方、十六条のほうに「制作、
監督、演出、撮影、美術」というのがございますが、この「制作」はプロデューシング、「
監督」はディレクティングということで、この十六条のほうでは
行為をいっておるわけでございます。したがいまして、そういう
行為を担当して、「
映画の
著作物の全体的形成に
創作的に寄与した者」、これが
映画の
著作者であるということでございます。
いまお述べになりました「羅生門」の場合におきまして、永田雅一さんが「ころも」があったのかなかったのかちょっと明らかにいたしませんけれ
ども、私は「ころも」がどうもなかったのじゃないかと思っております。その場合におきましては、そういう永田雅一個人がプロデューシングを担当してその
映画の全体的形成に
創作的に寄与したと認められる限りは
映画の
著作者になるというのがこの
解釈でございます。ただし、その
映画の
著作権は永田雅一氏個人ではなくて、大映株式
会社に
帰属するというのが第二十九条の
意味でございます。
そこで、
条約におきまして、プリンシパルディレクターというものを
日本文では「主たる制作者」——これは制作ではございません、「制作者」というふうに訳してございます。この
意味は、おそらくプリンシパルディレクターといいまして、いわゆる
監督といった場合には、テレビ
映画の場合におきましては
監督ということばは使わなくて演出ということばを使っております。そこで、かりにここで主たる
監督ということばを使います場合は、
二つの面の
誤解を生じます。
一つは、
監督というのは、
著作権法では
行為を書いてあるわけでございますけれ
ども、ここでは人をいっているわけでございます。それで、その間の差が
一つ必要である。第二の点は、演出というのがございます。これも
条約にいうところのいわゆるプリンシパルディレクターに該当するものであるけれ
ども、それを
監督だけ書いて演出を書かないと、その辺での手抜かりがあるのじゃなかろうか、こういうことが考えられるわけでございます。
したがいまして、この
条約の
日本語訳といたしましては、通常
映画の場合におきましては、「主たる制作者」はやはり
監督と称せられる人であろう。テレビの場合には「主たる制作者」というのは演出家であろうということになります。あるいは特異な場合におきましていわゆるプロデューサーがなることもあり得るかもしれませんけれ
ども、通常の場合は
監督者ないし演出者であろうということになるわけでございまして、そこのところを、いろいろなことばがございますので、
一種の精神的な
創造者であるということで「主たる制作者」ということばをお使いになったということでございます。
しかし、いまこのことばが最善であるとは私も思いませんし、次善、三善、あるいは四善くらいかもしれませんけれ
ども、どうもいいことばがない、したがって、今後
条約集などを私のほうで
発行する場合には、この中には
映画の
監督、テレビの演出等が含まれるのだというような注釈をつけまして、この
意味を明らかにしてまいりたい、かように考えております。