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宮崎正義君 これは私は奥さんから伺ったんですが、いまの報告と少し違っているような点があるんですが、その時刻等については大体同じようでございますが、この勤務中に気分が悪くなってうつぶせになった。それで、そばにいた同僚の人が隣の部屋に連れていって休ました。そしてさらに医務室というのが百メーター近くあるところにかかえながら階段をおりて連れていった。ところが医務官が不在だった。それで救急車で運んだということで、それをすぐに奥さんが聞いて病院にかけつけたときにはもう意識不明であった。そのままの状態で二十三時四十分ごろなくなったということが――奥さんかその居合わせた隊の方に聞いたわけなんだ。その報告を大隊長に、畑中さんが倒れたということを言ったら、ちょうど大隊長は演習に行く寸前であって、公務にしてやれよということばを残して出発をしたということは、その付き添った人
たちが聞いていたわけです。その話は聞いていたわけです。これがさらに、もう少し話を進めていきますと、このなくなったのは二十七日で、もう間もなく一周忌が来ます。いまの奥さんや子供の気持ちは、これはたいへんなことだと思うんです。
で、なくなったその翌月の二十八日の晩に親戚会議をやって、今後どうするかというところに大隊長も見えたそうです。そして公務か非公務かという話が出たときに、私が濁音に行く出発のまぎわだったから、公務にしなさいということを言うて出発をしたぐらいですからという話があった。ところが実際は非公務であった。なかなか非公務であるということを言わなかった。奥さんが言ってから、どうなったんかと思って心配しながら尋ねたところが、その実情がわかってきた。非公務であるということがわかった。そのときの公務災害として認められないという書類が手に入ったわけです。その
内容等を見てみますと、奥さんが現実にその場に居合わせた人に聞いた話とズレがある。こういうふうなことが、先ほど教育
局長の御
答弁によりますと、私が申し上げたような詳細のものと違っているんじゃないかと思うんです。これはまだ
訴訟も起こしていませんし、異議の申し立ても何もしておりません。で、これをやるとは奥さんは言っておりました。それで私のところへ言ってきたわけです。で、これなんか読んでみましょうか。あとでごらんになればいいと思いますけれ
ども、非常に何か感情的なものが伏在されているように思えてならないんです。この脳卒中ですか、脳卒中としてなくなったということで決断を下されておられますけれ
ども、実際上いま公務の仕事をやっていながら、やっているそのところで倒れている。しかも倒れていて隣の部屋まで移したときに、かりに脳卒中であるならばなおさら動かしてはいけないということはこれは常識だと思う。だから、隣の部屋に移した時点で医務官を呼ぶなり、医務官がいるかいないかを確かめもしないで医務官のところへ連れていった。それはいなかった。そこから今度は救急車を呼んで連れていった。動かしてはならない病人であるとすれば、それを階段までおろして、そしてまたさらにかかえながら歩かしていった。もう意識不明だった。そういうふうな取り扱い方をして、これ、ほんとうに人道的なことからいって許される問題かどうか。これはすなおに私は聞いた上の
判断ですよ。これが事実言われたとおりのものであるかどうかわかりませんけれ
ども、いずれにしろ事務をとっていながらそこで倒れた、そしてかかえられて歩かされた。それですでに救急車が来て連れていったときにはもう意識不明で、奥さんが行ったときには何もわからなかった。これが非公務になっている。
そして、しかもこの奥さんは全部これ書きとめてあるんですよ。実際書きとめてありますよ。
防衛庁から退職手当として百四十八万四千三百六十円いただいたと、
防衛共済会から弔慰金として百万円いただいたと、あとは自分のかけた
生命保険のことだけしかない、ほんとうの退職手当は百四十八万四千円。先ほどの工藤さんという二十七歳の青年は八十万円。これ、ずっと見てみましょうか。山口幸徳さんという人は一時金七十一万八千円、それでこの人が損害賠償を起こしまして四百十六万の和解で済んだ。倉持正治さんという人はいま年金を十七万四千三十二円、葬祭料として六万七千三百二十円、小計が二十四万一千三百五十二円、この方も
訴訟を起こして自八十万の損害賠償額を得ている。これは
防衛庁のほうからいただいた資料なんですから。これは
長官、御存じでございましょうか。お読みになりましたですか。これをごらんになりましたですか。これを見ていきますと、この年金のない一時金の人が七十一万八千円、森山さんという人は七十七万六千円。高安久男さんという人は九十二万三千円、塩川さんという人は九十二万六千円、川島さんという人は七十八万三千円、このように、まだほかにもございますけれ
ども、省略しますけれ
ども、それであと全部和解をされて、そしてそのそれぞれの賠償額ということになりますか、その示談のお金はきまっているわけです。これもこのいただいた資料から私は言っているのですから、これは間違いないと思うのです。そして勝訴した者も、
訴訟を起こして、和解じゃなく勝訴した案件もこんなにもありますよ。こんなにもある。これ、一々一々やっていきますと、あしたの朝になってしまいますから、だから私やめますけれ
ども、いずれにいたしましても、これは問題です。私はこれは問題だと思うのです。この方も何にも知らないわけです。しかも家族会議の、親族会議のお通夜の日に大隊長が来て、家族の人、奥さんの御両親、なくなった主人のおかあさん、にいさん
たち、三人も四人もおいでになったその席上ではっきり言われていながら、そして日がたってふたをあけてみたら非公務だという
決定を受けた。その
内容はどうか、この
内容を見ていきましても、まことに何か一方的な
考えだけでずっと詰めていって、あなたは非公務だと、こう
決定をしている
内容ですよ。これは私は明らかに閉ざされた、閉鎖的な姿の一面だと思うのです。開放的なことじゃないと思う。こういう点も私は事例として申し上げているわけです。ですから、これを公務にしなさいとか、非公務でいいという問題は別なんですから、全然私はそういうことは触れていないのです。ただ勤務中に倒れた。いまは通勤途上でも
国家公務員の災害を出そうと、この間やったばかりですよ。これは
人事院総裁はおいでになりますから、これはもうはっきりしていることじゃございませんか。
ここで
問題点を取り上げてみましょう。私はこれは申し上げることはございませんですけれ
ども、一応御
参考に申し上げていきますと、「
国家公務員災害補償法の取扱について」というこれは規定がございます。その規定の中に、第一条のことはもちろんのこと、「別紙」「公務上の災害の認定基準」というものがございます。これは時間の問題もありますけれ
ども、読みます。
「公務上の災害の認定基準」 「公務とは、職員に遂行すべきものとして割当てられた仕事のことであり、公務上の災害とは、公務に起因し、又は公務と相当因果関係をもって発生したものをいい、公務上の災害の認定基準は次による。」、先ほど御
答弁の中に因果関係ということをおっしゃいましたね、非公務に対する因果関係。密接な因果関係があるという御
答弁が教育
局長からありました。この因果関係というのは、ここにも出ております。
「1 負傷の場合
負傷については、その負傷の原因である事故が公務上であるかどうかによって認定する。次に掲げるような場合は、原則として公務上とする。
(1) 自己の職務遂行中に事故が発生した場合一但し、天災地変による場合を除く。) (2) 担当外の職務遂行中の事故は、公務達成のため善意の行為であることが確認された場合 (3) 通勤途上の事故では、次に掲げる場合
(イ) 職員のみに利用されている交通機関によって通勤する場合において、所属官署の責に帰すべき事由によりその往復途上において事故が発生した場合 (ロ) 業務管理上の必要により、特定の交通機関によつて通勤することを所属官署かち強制されている場合にその往復途上において事故が発生した場合」、これはずっと私読んでもいいのですが、さらに、これはあとのところ省略しまして、「規則第十条に掲げる職業病について」、という、こういうことで、「公務上の負傷による疾病については、次の各号のいずれかに該当する場合の疾病 (イ)負傷した当時、全く健康であって何等疾病の素因を有していなかった者が、その負傷によつて発病した場合 (ロ) 負傷した当時、疾病の素因はあったが発病する程度でなかったものが、その負傷によりその素因が刺戟されて発病した場合 (ハ) 負傷した当時、疾病の素因がありしかも早晩発病する程度であったものが、その負傷により発病の時期を著しく促進した場合 (ニ) 負傷した当時、既に発病していたものが、その負傷によりその疾病を著しく増悪した場合」――ずっとあります。
なぜ私はこれを読み上げますかといいますと、次に市川一佐の問題があるわけです。これはもう大きな問題です。この市川一佐という方は――ついでに言いましょう。ここに「殉死者顕彰録」というのが
防衛庁から出されておられます。この中で市川一佐のことがこのようにうたわれております。
市川正七
明治四十五年七月十日生
本籍地高知県高知市ずっとありますが、「職務従事中の殉職」という欄だけ読んでみましょう。
故人は、
昭和九年六月二十九日陸軍士官学校を卒業。陸軍少佐に累進し、
昭和十九年十二月陸軍大学を卒業。比島一四方面軍司令部付、第一〇五師団参謀を歴任。この間の功績により、従六位及び勲五等に叙され瑞宝章を授与された。
昭和二十六年十月一日
警察予備隊員として久里浜駐とん部隊に入隊。二等警察正に任命され、第九連隊大隊長、幹部学校教官等を歴任し、
昭和三十年八月十六日富士学校所属。
この間、高邁な人格と卓越した統率力をもって部隊訓練の発展をもたらし、また幹部教育に任じて、周密適切な指導と旺盛な責任感は、学生の均しく尊敬するところであった。
たまたま、
昭和三十一年一月五日職務中の事故にたおれ、手厚い看護の甲斐なく、同年十二月二十二日ついに、その職に殉じたものである。
なお、故人は、生前の功績により、殉職の日にさかのぼり、従五位に叙されるとともに、一等陸佐に特別昇任した。
こうなっています。この辺にも問題があるんです。これは間違いない記録なんでございましょうか。まずひとつこの点だけちょっと伺っておきたいんですが、このことだけでいいです。