○上田哲君 そこへ持っていかれちゃ、やっぱりそれはことばとしては、誠意が足りないですよ。やっぱりそこは
政府の姿勢としても、あまりすなおな、きれいな姿勢ではないということをひとつはっきり申し上げておきましょう。
きょう、私は、中心的に議論をしたいのは、必要最小限ということです。
政府は、いままで自衛隊の
あり方、あるいは専守防衛という概念の御
説明に対しても必要最小限ということばを使っておられた。私は、前国会でも、今国会の冒頭でも、防衛力の限界論争というのはかなりにぎやかでありましたけれども、防衛力の限界論争ということにあんまり興味を持ちません。防衛力の限界というような提起をわれわれがしたことは一ぺんもないわけでありまして、田中総理が就任早々に、防衛力の平和時における限界を設定したらどうかという発言があったようで、そのことをとらえて、そういう
ものができるのかどうか、私は、当時の議事録でも明らかですが、そういう
ものはできないだろう、防衛力という
ものは元来歯どめのできない、つまり軍事力という
ものは歯どめができないところに危険な実質があるのであって、そういうことができるんならおもしろいけれども、できると思うかという逆
提案に対して、ひとつやってみなければなるまいというような御
答弁があり、議論がありました。もとより、これについては中曾根元
防衛庁長官時代にもかなり議論があったところですけれども、いずれにしても、私は、防衛力の限界設定論争というのはたいへんそもそも限界論争でありまして、まあ必要悪論争といいますか、そういう意味ではあまり意味を持たないと思います。で、私は、われわれのよって立つ原則を踏まえながら、その意味では、
政府が使っておられる必要最小限ということについて、いろんな側面から議論をしてみたいと思います。
もちろん、結論を先に申し上げれば、私は必要最小限という
——四次防は、あるいはそれから先を望まれる姿というのは必要最小限というような
ものではないという
立場に立っていますし、そして必要最小限という概念規定の
あり方というのも間違いだというふうに思っています。思っていますが、
政府が有権解釈として使われるこの必要最小限という概念を、ことばだけの問題じゃなくて、できるならひとつ実体論議としてぜひ深めていく、あるいはそれを国会の場で明らかにできるなら、してみたい。どこまでできるか、ほとんど自信はありませんけれども、ぜひひとつ、いどんでみたいと思うんです。
そこで、まあいまは特別国会ですから、去年の十一月十三日の
——解散された、あのときの国会で、解散当日、いわゆる戦力とは何かという戦力論争を行ないまして、
政府見解が明らかにされたところで紫のふくさということになっておりまして、それ以後
防衛庁長官とこういう議論をすることがない。ぜひそうした議論をしましょうという締めくくりになっておりますから、そこのところに一ぺんひとつ戻してみたいと私は思う。
で、昨年の十一月十三日に
政府から示された戦力についての見解という
ものは、実は従来の
政府見解を踏襲してるんだという
説明に大まかになってしまっておりますけれども、そうではないと私は思います。で、元来、この設問は、五二年当時
政府が持っていた、戦力とは近代戦遂行能力という定義のしかた、これを変えて必要最小限論になった。しかし、そうなった経緯というのは、当時未熟な一次防、二次防段階では
説明できたグレードが、三次防から四次防に至って明らかに
説明のつかない
状態まで高まってきたので、そのために近代戦遂行能力論を突破してしまったというところから、必要最小限論という違った次元の論理設定になったと。こういう
立場から、明らかに、五二年段階の
政府定義に戻るならば、現在の四次防という
ものは、近代戦遂行能力すなわち戦力に、憲法九条に規定する戦力に入ってしまっているではないか、という
ものでありました。で、そういう設問に対して、そういう討議に対して、
政府側がこれを、原則的には必要最小限論をとり、そして近代戦遂行能力論という
ものをはずして進んだというふうになっておるんですが、当日
政府側が文章を読み上げる形で表明をした統一見解をきちんと取り上げてみますと、非常に重要な違いがはっきりいたします。お持ちであるかどうか、読みましょうか。
戦力とは近代戦遂行に役立つ程度の装備編制を備える
ものという定義は吉田
内閣当時の
説明だが、近代戦争は現代、攻守両面にわたって最新の兵器及びあらゆる手段方法を用いて遂行される
ものをさすと解した上で、そのような戦争を独自で遂行できる総体としての実力をいうと解した
ものと考えられる。
政府は、二十九年十二月以来、憲法九条二項の戦力を定義して、自衛の必要最小限度を越える
ものと
答弁し、近代戦遂行能力という言い方をやめたのは、次の
理由による。
第一は、憲法解釈の方法として、戦力についても、わが国が保持を禁じられている実力をさすという意味合いを踏まえて定義するほうがよりよい。近代戦遂行能力という定義は、戦力ということばを単に言いかえたにすぎない面もあり、必ずしも妥当とは言えない。
——これは
政府の言ってることです。
第二に、近代戦遂行能力という表現が具体的に実力の程度をあらわす
もので、結局は抽象的表現にとどまっている。
第三に、憲法九条一項で自衛権は否定されていない。その自衛権行使の裏づけとして、自衛のため必要最小限度の実力を備えることは許されると解されるので、その最小限度を越える
ものが憲法九条二項の戦力と解することが論理的ではないかと、うこと
そこでです。これから矛盾点が出てくるわけですが、では、現時点で戦力を近代戦遂行能力と定義することが間違いかとなると、今日どういう意味で用いられるか、まず定めなければ、是非を判定する
立場にはない。しかし、戦力の字義から言えば、近代戦を遂行する能力というのも戦力の
一つの定義とは思う。結局、
政府は二十九年十二月以前近代戦遂行能力ということばを用いた意味を述べたが、その意味であれば言い回し方は違うとしても、一がいに間違いではないと思う。
これがこの臨時国会の解散当日の冒頭、
政府が発表した統一見解でありまして、これは必要最小限論というタイトルにはなっておりますけれども、これまでの必要最小限論とは全く違う
ものであります。大きくこれは
政府の戦力見解という
ものを変えた
ものだということを私はしっかりしておかなければならぬと思います。これは当日の朝の
閣議の中でもかなり議論があって、たとえば、戦力とは素朴に言って戦う力という、素朴をとるとか、いろいろなことがあったということが後に聞かれております。こういう点からひとつ議論をしていきたいのですが、さっき申し上げたように、私はきょうはできるだけ
法律解釈とか条文解釈というところに問題を持っていきたいというのではないのです。実体的にこれを掘り下げる時期に来ていると思いますから、できればひとつ実体的な議論に入りたいと思うのだが、その前提として、さしかけになっているこの問題をそのままにしておくことはできません。
そこで、なるべく簡単にひとつお伺いをしたいのは、
政府見解としては必要最小限論をおとりになっておられます。しかし、これまで全くなかった
説明がここに出ているのは、五四年当時の
——ここにもちゃんと出ておりますように、近代戦遂行能力と認めていたときの
政府見解に戻っている、一がいには間違いとは言えないという表現でありますけれども。やっぱり自衛隊の四次防をもって達成されている現時点の実力ですね、実力というのは、言うところの近代戦遂行能力という客観的なレベルには達しているのだ。しかし、それはあくまでも日本国防衛論という
立場からするならば、必要最小限の
ものであるから、われわれはそれを日本の防衛構想からする戦力とは考えない、こういう意味合いだというふうに理解をすればいいのかどうか。そこのところだけはしっかりしておきたいと思うんです。