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参考人(
河合義和君) 私は、公法学、つまり憲法及び
行政法を専攻しておりまして、憲法というのは
理念的政策的なものに対して、
行政法というのは非常に
技術的なものであるということが言われているわけですが、
わが国の
行政法というのはかなり立ちおくれているということが、われわれの
研究の仲間で言われているわけです。私はここ十数年来、
公害の法律
制度を内外の問題についていろいろ
研究してきた結果も、その問題は確かにそのとおりだと言うことができるわけです。
当面の
公害対策についてという問題でございますが、わかりやすくお話ししますと、
わが国の現在の
公害対策の処方箋という問題については、
行政の次元でこれをどういうふうに受けとめていくかということを考えるについて、あまりにも荷が重過ぎる。つまり問題は非常に政策的
政治的な問題であって、
行政として非常に大きな総合的な
考え方の転換というものがどうしても必要である、こういうことが結論として出るわけでございます。
それは言うまでもなく、非常に無理な、長年に続く一〇%をこえた高度成長政策というものを、この狭い国土の中で、しかも国際的にダーティ・インダストリーと言われるような非常に
公害型の
産業を全国的に無理に行なっていく、こういうことからいえば、どうしても
公害がひどくなったということはあたりまえのことでありますけれ
ども、それというのもまた、財政の問題について、地方財政というものを非常に貧困な形で置いておく、そして、地方財政というのは地方がそれぞれ自分の手で努力して財源を持ってくる、こういうのがあたりまえの
考え方だと、こういうことをかつて柴田自治事務次官あるいは林法制局長官とかが、またそのほか、一般的に
わが国の
行政府の特に経済官庁あたりの
考え方が、そういうような地方公共団体の行なう仕事に対してあるいは財源に対して、一般的に予算を認めていく場合に収入の上がるような仕事にだけ起債を認めるとか、こういうふうな
考え方を持ってきていたために、財源のない地方公共団体では、どうしても無理して財源になるような企業を誘致しなければならない、こういうようなことからいろんな問題が出てくるわけである、こういうふうに考えるわけです。
そして国際的に見た場合に、日本では一般的に、非常に一方では経済感覚がするどい、こういうのに対して、文化的な
考え方に対する国民の常識水準というものが非常に低いということがわかるわけですが、これは全国総合
開発計画というものが行なわれ、それに次いでさらに新全総が行なわれておるわけですが、さらにそれを全国の非常に大きな大規模プロジェクトというものによって、辺地において資源型の大規模
産業をまだ増加して行なおうとする。こういうことで、むつ小川原あるいは志布志その他において、
地域の住民との間にいろいろの摩擦が起きておりますし、あるいはごく最近、先月以来全国的に漁民の暴動的な、つまり
産業に対する直接行動というような形で補償要求をやっている、こういうことが見られるわけです。こういうふうな問題をどういうふうに見ていくかということが、われわれ公法学者にとって大きな課題であるわけです。
これはいま急に起きたことではないわけで、すでに昭和三十三年、つまり十数年前に起きているわけです。江戸川の本州製紙と下流の浦安の漁民との間につかみ合いのたいへんな騒動があって、その結果、戦後日本における最初の
公害法といわれるところの
水質二法、つまり公共用水域の
水質の
保全に関する法律と工場排水等の
規制に関する法律、この
二つの法律が同年の末につくられたわけですけれ
ども、この法律は非常に消極的な
考え方、つまり
産業協和、農業あるいは漁業、こういうふうな一次
産業と工業、こういったものを両立させればいいと、こういうふうな
考え方で、一般公衆あるいは国土資源、こういう問題に対する配慮が非常に微弱なものであった、こういうふうに認められるわけです。
このような
考え方は、そのしばらく
あとにつくられたばい煙
規制法についても同じでありまして、先ほど来ほかの
参考人の方が述べられたとおり、現在
総量規制というのは当然のことでありますけれ
ども、すでにこのばい煙
規制法の制定のときに私も参議院に招かれまして話しましたのですが、その当時、現在もいらっしゃいます公衆衛生院の鈴木さんあたりも主張されていたとおり、
総量規制が必要なことは当然のことであったにもかかわらず、当時の公衆衛生院長すらも公の当局から圧力をかけられて、そういうことを言わないほうがいい、こんなことを言われて言わなかったそうでございますけれ
ども、これは非常におかしなことで、一体、法律は何のためにあるのかということが疑問でして、たとえばばい煙
規制法に違反しているかどうかということを調べるのにも、
一つの違反を調べるのに機械を据えつけて数日間もかけなければわからない。こういうばかげたことでありまして、一体この法律がどれだけの実効をあげるかということは、非常に疑問であったわけです。こういうことから、この法律が施行されて二、三年たった
あとの昭和四十年の時点で、四日市の
公害問題について衆議院で特別
委員会が
調査したことがありますが、そのときにもわかったように、四日市では
公害はますますひどくなるけれ
ども、これは法律に違反しているのではなくて、
基準を守っている。つまり、法律を守れば守るほど
汚染して国民の健康が
被害にあう、こういうことが明らかになって、そこに法律と実際の
対策の目標ということのちぐはぐということが明らかになったわけです。
こういう問題は、その後も
公害防止事業団法とかいうような通産省を中心とした法律ができて、徐々にいろいろな
対策ができましたけれ
ども、水俣病そのほか全国的に非常に急性の、ばたばた人が倒れるような非常にひどい
被害の出る事件が相次いで、国民の間にも騒然たる
公害に対する非難の声が巻き起こったわけです。こういうことに対して、
公害対策について抜本的に立法
措置を講じなければならないということで、
公害対策基本法をつくらなければならないということが国民的な世論になったわけで、いま申し上げたような、ばい煙
対策あるいは
水質保全対策というものが実際の目的にちっとも沿わない、非常に消極的な法律であるということで、まず
基本法をつくって、それに基づいて徐々にあるべき
公害対策というものを法律
制度として設ける、こういう趣旨であったわけですが、この
公害対策基本法の中にも、
わが国の伝統的な
行政法あるいは
産業政策というようなものについての消極的な
考え方がとられて、経済の発展と
生活環境の維持というものを両立するような形で考えなければならないということが
基本法の初めの中に出ておりまして、すでに
公害対策基本法というような
公害対策の憲法ともいうような法律の中に、そういうような消極的な要因、つまり、どうしても積極的な
公害対策を講じようと思うならば経済
対策と両立する範囲内でしか行なえない、こういう限界をつくっていたために、実際にどういうふうな形で立法
行政を行なうかということには、おのずから限界が出てきてしまったわけです。
この問題は、たとえば一九一九年のドイツのワイマール憲法を見てみましても、経済活動というものは決してそういうような無際限なものではないし、また、
基本的人権としての生存権というものを侵害するような経済活動は認めない、経済活動というのは
人間の生命というものを侵害しない、そういう範囲内において自由が認められるということは当然のことであったわけですけれ
ども、
わが国の一般的な常識というのはそうではなくて、そういうふうな生存権、
人間の生きるか死ぬかというような問題についても、背に腹はかえられない、こういうような
考え方を持ち出す、そういうところに
基本的な違いがあったわけで、これを清算しなければどうしても積極的な
行政というのは不可能である、こういうことになったわけです。
ところで、昭和四十五年に、四月にはアメリカにアース・デーという行事があって、各国の国民も寄り集まって大きな
環境運動を行なったわけですけれ
ども、それに次いで東京で牛込の鉛
公害の事件が起こった、あるいは立正高校の
光化学スモッグが起こる、こういうことで、急激な国民の
公害対策に対する世論が高まって、政府でも、従来の態度からいいますと非常に急速な対応をして、また、
産業界も、いまお話しした
公害対策基本法におけるところの経済との両立というような
考え方は当然やめるべきであるということをあっさり認めて、つまり国民的な世論というものがそこまで進んできているということを見て、これに対して反対を唱えるということはかえってマイナスである、こういうことを明らかに知ったわけです。政府もまた、そういうふうな国民世論に対して抵抗するということは決して得策ではない、こういうふうな判断に基づいたものだと考えるわけですけれ
ども、第六十四臨時国会で、たくさんの法律が改正されたり新設されたわけです。
これは確かに従来の
考え方からいいますと、たいへんな進歩であったには違いないわけですけれ
ども、それでもなお幾つかの大きな
問題点があって、それは結局、一たん
公害対策基本法にあったところの経済と両立する、こういうふうな
考え方を取った。そして通産省も自己批判、つまり新聞にも載っておりましたけれ
ども、従来の
産業政策というものは反省しなければならない、こういうことを通産省が声明として出した。こういうことからも言えることでありますけれ
ども、それが完全には払拭していないということは、初めにお話ししましたように、全国総合
開発計画というものを昭和四十四年、四十年代の半ば近くになって改定したにもかかわらず、その時点において、当然ことばの中にはこの
公害対策ということは書いてありますけれ
ども、これが決して十分なものでないということは、大規模プロジェクトというものを大々的にやって、石油というものがいつなくなるかというような時点において、日本のこの狭い領土の中で現在ある工場の十倍ぐらいの大きなものを、自然の豊富な、白鳥の来るようなところに無理やりにつくろうとする。こういうふうなことでもわかるわけで、こういうふうな無理なことをすれば、どんなふうに
行政の対応あるいは
技術の対応をしたところで、現在の
環境はもちろん、全国の国土というものが荒廃していくということは明らかなわけです。
その先例というのは、たとえば東京湾という
一つの
地域が、初め神奈川県の川崎、横浜、東京都、こういうところで
開発されたのに次いで、戦後三十年代後半になって千葉県でも、いつまでも自分のところだけ農業県で低所得のまま置かれたのではかなわない、こういうことで東京湾全部を工業化してしまう、こういうばかげたことをやらざるを得ない。そして東京湾一帯に住むところの庶民は、いまのレジャー時代といわれるような時代に、どこまで行けば海水浴ができるかというわけで、東京湾の海浜というものは、横浜の革新市長の
もとでも、金沢八景のような唯一の自然の海岸線を持っているところを埋め立ててしまう。それは、
公害対策の名前において横浜市内におけるところの中小の企業をそこに誘致させる、こういうことでありますけれ
ども、これはどう考えても、私のように東京に生まれ東京に育って、たまたまここ二年ぐらい前に静岡に来ておりますけれ
ども、静岡のようなところへ行っていいだろうというふうに言われますけれ
ども、これは決してそうではなくて、静岡でも御
承知のとおり、田子の浦あたりでは特にひどいわけですけれ
ども、こういうところばかりじゃなくて、静岡の市内でも相当の
環境汚染というのが進んでいるわけです。
これはいまお話ししたとおり、結局法律の
考え方から申しますと、日本の
行政法規についても、
公害問題については従来明治時代の民法の
考え方が非常に強いわけで、法律というものを損害賠償を中心に考える。つまり、日本の
公害法制を見てみてもわかりますけれ
ども、
行政法というのは本来は予防が大切なことであるわけですけれ
ども、予防ではなくて、実際にばたばた死ぬ
人間について、それを補償するのにどういうふうな金をどこからひねり出すか、こういうようなこと、あるいは病気にかかった者についてその病人に要する費用をどこから出して、その判決が出るまでどこから支出してどういうようにするかと、こういうふうないわば対症療法的な、あまりにも目先にとらわれた
考え方でやらざるを得ない。またこれは、実際に日本の
公害の現状から見ればこういうことをやらなければならないということは明らかでありますけれ
ども、いつまでこういうことをやっていなくてはならないか。こういうふうなことは、つまり大規模な
開発をやったり、あるいは無理な高層化をして大
都市を無限に拡大をする、こういうようなことをすれば、どんな手を講じてもこれはもう不可避のことであるわけですけれ
ども、こういうふうな三歳の子供でもわかるようなあたりまえのことについて決断をしないということが、
わが国の法制について一番大きな
問題点がある、こういうふうに考えるわけです。
公害に対する予防
措置という問題について、
技術的には先ほど来お話しのあったとおりいろいろな
問題点があるわけですけれ
ども、法律的な
問題点としては、従来
公害についての法律と条例という問題がいろいろ争われてきているわけです。これは
公害対策基本法の制定された後においてもあらわれているわけで、つまり、ますます
公害現象というのは強くなってくる。それに対して国の法制では、法律自体が経済調和条項に対応するような消極的な干渉原理、つまり徹底的な
規制をやらない。こういうふうなことで、問題が起きて損失を補償するというようなことになりがちであるわけですけれ
ども、そういうようなことでは、たとえば国の事務を地方公共団体が
機関委任事務のような形で負うというような場合についても、地方公共団体は国の言うとおりにやったのでは、国民の世論というものはそれほど立ちおくれていないわけで、また事実が非常に深刻になるにつれて、国の言うようなことばかりやっていたのでは突き上げられてどうにもならない。こういうことで、全国ではどうしても
公害防止条例というものを国の水準よりも強いものとしてつくらざるを得ない。これは実際の
地域住民との対応の中で出てきたわけで、それから
公害防止協定という名前で一括視されているものも、多かれ少なかれそのような形の意味を持っているわけですが、こういうふうなからめ手の
方法において、法律あるいは
行政の手段として全国的にいろんな施策をしなければならない。
こういうことは、
わが国の国の法律
制度というものが非常に中央集権的な
考え方であり、
規制水準というものを国が中央において押えてしまう、こういうふうな
考え方であるけれ
ども、しかしそういうふうなやり方では、
現実にあまりにも
被害がひど過ぎて住民として黙っていられない、こういう
現実から発しているものでありまして、最近の漁民の問題などは、これはかつての時代で言うならば刑法の犯罪、いろいろな罪名があるでしょうけれ
ども、そういうふうな刑事犯として逮捕されて処罰される、こういうことが当然であるにもかかわらず、たとえば最近の、きょうあたりも報道にありましたような宇部湾についての漁民の封鎖問題についても、これは海上保安庁の制止も聞かないで封鎖している。こういう問題は、たとえば静岡県でもありまして、火力発電所に対する反対運動で、地方議会が、非常な脱法的な行為であちこちわからないところで夜中に臨時的に議会を開く、こういうことをやって無理やり議決しようとしたのに対して、反対住民がそれに対して暴力的になぐり込んだ。こういうことで、結果としては刑事罰を科することになったわけですけれ
ども、こういうのが従来の
考え方ですけれ
ども、現在になってみれば、これは宇部問題だけではなくて、九州にもそのほかにも、かなりの
地域でもって頻発していることは御
承知のとおりであります。
これに対して海上保安庁そのほか、刑事当局も手をくだせないでいるということは、これは相当広範囲において、しかもそういう刑事的な、つまり結果刑法としての刑事罰だけを加えて済む問題ではなくて、国家、地方公共団体というものの立法
行政の施策というものがあまりにも立ちおくれていて、農民、漁民というような一次
産業の生業を奪っている、こういう国民的な事実に対して当事者としても駄っていられない、こういうことだと思います。
こういうふうに、
わが国の一般的な
基本的人権というものに対する
考え方が、具体的な
行政法規の中にきわめて消極的にしか考えられていない、こういう問題については、これは全般的に反省して、少なくとも国際的な水準に、たとえば科学者の良心ということで言うならば、先ほど
吉田参考人からお話があったわけですけれ
ども、こういうふうな条例について法律よりも強いことをやるということは、むしろアメリカにもいろいろ例があるわけで、これは科学者の良心ということはあくまでも慎重にならざるを得ないわけですけれ
ども、慎重になったのでは人命がばたばた倒れていく。水俣病のような例は国際的にないわけで、これは日本国民の恥であるということは言うまでもないわけです。また、静岡県におけるところのヘドロ事件などということも、これはもうあたりまえのことで、未処理の排水で、沈澱というような最も初歩的な処理すらもしないで海に
排出する。そして、どろどろになって腐敗したものになってはじめて気がついて、船も動かないような
状態になる。こういうふうなことは全くお話にならないわけですけれ
ども、その後の処理もまたお話にならないわけで、これを当事者は、富士の山ろくにトラックでもって運んでばらまいてくるとか、あるいは途中で破れるようなパイプで運んで
河川敷でもって干すとか、こんないかにも幼稚なことをやっているということは、
わが国の
行政水準というものを
一つのサンプルとして提出するものだと思います。
われわれは、こういうような立法
行政の現状というものに対して徹底的な検討を行なって、外国の法制、たとえばアメリカの
マスキー法というものは、その後若干ブレーキがかけられましたけれ
ども、現在の
技術で解決できない、そして何年か
あとに解決できるかどうかということは必ずしも予測できない、そういうようなことで
もとにかく立法化する。これはどうしてもやはりアメリカ国民のほうがよほど良心的であるということを言わざるを得ないわけで、われわれはこの教訓に学ばなければならないのではないか、こういうふうに考えるわけです。
以上です。