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1973-07-17 第71回国会 衆議院 法務委員会刑法改正に関する小委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十八年七月十七日(火曜日)     午前十時三分開議  出席小委員    小委員長 中垣 國男君       大竹 太郎君    小島 徹三君       福永 健司君    古屋  亨君       稲葉 誠一君    横山 利秋君       青柳 盛雄君    沖本 泰幸君  出席政府委員         法務政務次官  野呂 恭一君         法務大臣官房長 香川 保一君  小委員外出席者         参  考  人         (一橋大学名誉         教授)     植松  正君         参  考  人         (弁 護 士) 鍛冶千鶴子君         参  考  人         (一橋大学教授福田  平君         参  考  人         (早稲田大学教         授)      河竹登志夫君         法務委員会調査         室長      松本 卓矣君     ————————————— 本日の会議に付した案件  刑法改正に関する件      ————◇—————
  2. 中垣國男

    中垣委員長 これより会議を開きます。  刑法改正に関する件について調査を進めます。  本日は、参考人として一橋大学名誉教授植松正君、弁護士鍛冶千鶴子君、一橋大学教授福田平君、早稲田大学教授河竹登志夫君が御出席になっております。  一言ごあいさつ申し上げます。  参考人各位には御多用中のところ御出席をいただき、ありがとうございます。  去る四月四日最高裁判所において尊属殺に関する刑法第二百条は違憲との判決があり、自来当法務委員会におきましては刑法改正について慎重なる討議を重ねてまいったのでありますが、問題の重大性にかんがみ、今回特に本小委員会を設け、検討を行なっておる次第であります。  尊属殺人罪につきましては法律道徳教育等の面から多くの問題点を含んでおりますので、参考人各位におかれましては何とぞそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただくようお願い申し上げます。  では、まず参考人各位から御意見をお述べいただきます。その後に小委員の質疑にお答えいただくことにいたします。  なお、時間の都合上御意見の開陳はお一人十五分以内にお願いいたします。  では、まず植松参考人にお願いいたします。
  3. 植松正

    植松参考人 私は、きょう特にここに呼ばれました理由として、法務省の担当官から伺いましたら、私のような尊属殺人に関する規定に関しまして、憲法違反ではないけれども削除したほうがよいという意見を持っている者があまり目立たない、実はほかにも何人もあるんですけれども、目立たないから、それでおまえに出てほしい、こういうことでございました。そこで、その意味では私はむしろ憲法違反ではないと考えるというところを言うほうが特徴があるわけなんでありますが、それは今日の主題ではないようでありまして、それを前提としてやはり尊属殺人殺人ばかりじゃありませんが、尊属を敬重するための特別規定を全部削除するのがいいかどうかという点に関する意見を申し上げるということにいたしたいと思います。ただ立場は、ただいま申しましたように、現行法解釈としては憲法違反とは考えない。しかしながら立法の機会においてこれを削除してしまうほうがよい、こう考えておるという意味で、削除を可とする理由を若干拾い上げて御参考に供することにいたします。  まず第一に、これはもうすでに御承知のごとく尊属殺人事件、これは殺人事件だけであります。ほかの事件、たとえば尊属傷害致死、これもざっと当たってみますと全く同様であります。尊属遺棄致死のほうは若干様相が違うように思いますが、これは資料不足であまりはっきりしたことを申し上げられません。尊属殺人事件に関しましては終戦直後の資料について、全国的な材料を集めまして若干の調査をいたしました。その結果当時到達した結論は、どうも加害者のほうに責むべき事情が比較的少なくて被害者のほうに責むべき事情の多いものが多数いる、こういうことから、当時の私の集めた裁判例、三十数例でございますが、いずれもほとんど酌量減刑をされておる。終戦前後においてすでにそういう状況でありました。その後尊属に関する事件実態がいろいろ明らかになってきたところによりましても、今回の判決がまさに直面したあの栃木県の事件が、極端な例でありますけれども、およそこの種の事件実態調査の結果に徴すると尊属が横暴であるという悪風もかなり多く存在するというところで、現行法規定では刑の下限、下の限界が重きに失してまかない切れない、これが尊属殺についてはあらわに出てきたところであります。ほかの、傷害致死についてもただいま申しましたように、正確な調査はいたしておりませんが、おおよそ似たような状況である等にかんがみまして、どうもこのような差別をそのまま存置することは適当でないということが第一に考えられたことであります。もちろん、そこでこれを削除するのも一案でありますし、あるいは国会でそういう御意見もあると伺っておりますが、法定刑上限なり下限なりを引き下げるというのもそれは一案でございましょう。しかし、むしろ削除するほうが適当であると考えるわけであります。  なぜ適当かという理由は、こまかい技術的なことはさておきまして、以下諸点を理由として申したいと存じます。  第二に考えられますことは、尊属に対する特別罪規定削除いたしましても、これも私がいまあらためて申すまでもなく皆さま御承知のように、一般人に対する罪に関する規定がありますから、犯情の悪いものについてはそれで十分まかなうことができると考えられるのであります。ただこの点に関しましては、二つの点に注意することを要するかと存じます。  第一は、量刑でこれを考慮することができるかという問題であります。この間の判決でも、六人の裁判官少数意見によりますと、これは二百条そのものが憲法違反である。他の二百五条等についても同様の見解でありますので、この論理を推し進めますと、量刑考慮することもできない、こういうことに当然なると思うのであります。しかし多数説の考え方、八人説、それに下田裁判官の一人説も同様に入ると思いますが、したがって十五人中九人の裁判官のお考えということに結局なると思いますが、その考え前提といたしますならば、量刑考慮することは少しも差しつかえないということになると思います。  なお少数説のほうでも、各裁判官個人的な意見の中を読んでみますと、存外尊属敬重規定を置くことは倫理的にはいいことである、こういうふうに考えているようであります。     〔小委員長退席大竹委員長代理着席〕 その点については異論らしきものは出ておりません。したがって、その点からいうと、量刑考慮してもよさそうな気分もあるようでありますが、論理的に追い詰めると、その少数説からは量刑上も考慮はできないのが私は筋が通っていると思います。したがって、ただ私がいま申しますのは量刑上の考慮によってまかなうことができるというのは多数説を前提としての意見でございます。  次にもう一点は、二百五条を削除いたしますと、尊属傷害致死一般人に対する傷害致死上限をこえて重く罰し得なくなるということになるわけであります。これがぜひ存置したいというほうの御意見からいうと、一般人傷害致死最高十五年という法定刑になっていて、尊属傷害致死現行法では無期までいけることになっているのに、それが廃止されますとやはり十五年になる、尊属を敬重する意味でもう少し重くする規定を置きたいという御意見があるように伺っておりますが、これは十五年をこえて罰することはできなくなるわけであります。できなくなりますけれども、それでは尊属傷害致死の現実に起こってくる事件に対する処罰の方法としてまかなえないだろうかということを考えてみますと、やはりまかなえるのではないかと私は思います。と申しますのは、これはあらゆる犯罪を通じて、ただし交通事犯をちょっと除きますが、多くの犯罪につきまして量刑は非常に軽くなりつつあります。一般寛刑主義と申しましょうか、そういうような傾向が最近は、もう十数年前から強くあらわれておりますので、普通の傷害致死上限をこえて重く量刑しなければならないようなケースはほとんど考えられないのではないか、こう思う。そういう意味で、これも削除したからといって、相当の刑を盛ることができないという事態にはならないであろうと考えます。  遺棄致死についてはもちろん同様であります。結局、傷害の罪に比較して重きに従うということになりますので、これは同様になると考えます。  次に大きな意味の第三でございますが、違憲疑いということがこの尊属に関する規定については持たれております。違憲だという説もあり、違憲でないという説もあることはよく御承知のとおりでございますが、少なくとも違憲説が相当有力に存在しているということは違憲疑いがあるということと、これは明白であります。そのことが長く論ぜられてきておるわけでありますので、この疑いがあるとされているような規定をどうしても置かなければならないというほどの事情がないならば削除するにしかず、こう考えるわけであります。  それで御承知のごとく法制審議会におきまして、刑法全面改正立案に際しまして、今回の判決よりもはるかに前に、すでに削除の案を決定しておりますのも、そういう気持ちがそこにあらわれているわけであります。もちろんこれに賛成する審議会委員の中には、違憲だからこれは削除すべしというふうにお考えの方もありましたろうし、違憲とは思わぬけれども、私がいま申しているような趣旨においてやはり削除するのがいいと考えた人もありましょう。ともかくそういうことで、非常に多数の人がこれに賛成することによって削除する全面改正案規定ができたわけでございます。その後、この二百条に関しまして先般の違憲判決が出たということは、一そうこの削除を可とする外部的事情が明確になったと言えるのではないかと思います。  次に、国民一般思想の変遷を見ますというと、過去の尊属敬重が過度であった、過度なために尊属をして横暴な行為をなさしめるに至ったという社会の実態に対する反省が起こっております。そうして尊属を敬重するという考え方にその反省が反映しておりますので、この規定をどうしても存在させなければならないというふうには現今では考えられないのではないか。二十年、三十年前とは、やはり親孝行思想は残っておりますけれども、しかしその重みはぐっと違ってきておる、こう言えるのではないかと思うのであります。規定の存在は違憲ではないけれども、立法論としましてはこれを削除するのがいい、違憲でないから必ず置いておかなければならないという理由はないのでありまして、違憲ではないけれども存在しないほうがいいという規定はいろいろあるわけであります。その一つになることと考えます。  それから今回の判決に伴う、この判決があってから後の刑法の一部改正につきまして法制審議会削除意見を出していること、御承知のとおりであります。高度の専門家が多数寄ってそういう意見に到達したということは尊重に値するものであると考えます。  その次に、削除意見につきまして誤解があるといけないので申し添えたいと思いますが、これを削除するということは、いわば先般の判決における六人の少数意見、これに従うように一見見える。裁判所が多数意見、九人の裁判官の一致した意見として出ているものに対し、六人のほうを尊重して、違憲でないとしている九人のほうを尊重しないというように見えると、これはいかにもおかしいのであります。しかし、そういう趣旨ではないと思います。いままで述べましたように、すでにこの削除することは、御承知刑法改正準備会以来考えられていたくらいでありまして、決して今度の判決が出たから削除しようというのではありませんので、六人の少数説に従って削除しようということではないと思うのであります。その意味で、多数説を捨てて、判決判決事項となっている意見を捨てまして少数説を尊重するという意味にはならないと考えるのであります。その意味で、これを削除することがおかしいというようなことにはならぬと思います。  なお、道徳と法との関係についても、いろいろこれを維持しようというほうには、道徳を低下せしめるのではないかというような御心配があるようでありますが、これはもちろん法は道徳の裏づけであります。はなはだしき不道徳に対しては刑罰をもって臨むことが当然でありますけれども、その点につきまして、たやすく道徳にゆだねればいいと私は考えるわけではございません。しかしながら、これを削りましても、尊属殺が無罪になるとか、尊属に対する傷害致死無罪になる、こういうものではないのであって、りっぱに普通人に対する刑罰でまかなうことができるという意味で、決して道徳にそむくという結果になるわけではないと考えますので、若干はそれは親孝行道徳に対してはマイナス点になるかもしれませんが、そのような心配するほどのことはない、かように考えます。(拍手)
  4. 大竹太郎

    大竹委員長代理 ありがとうございました。  次に、鍛冶参考人にお願いをいたします。
  5. 鍛冶千鶴子

    鍛冶参考人 ただいま刑法二百条の規定をめぐってどう対処すべきかについての議論がなされておりまして、国会でも御調査中とのことでございますが、本日はそれに関連して意見を述べるようにという御要請でございますので私の見解を述べさせていただきます。  まず結論から先に申し述べますと、尊属重罰規定した刑法二百条及びその関連条文憲法に違反し、早急に削除されるべきものだというふうに私は考えます。これは今回の最高裁判決が出る前からの私の考え方でございまして、その理由については最後に述べるといたしまして、さしあたり今日の段階、つまり最高裁が四月四日に言い渡した判決刑法二百条が憲法に違反して効力のないものであると宣言したこの段階でこれにどう対処すべきかという形式論的なことから検討してみたいと思います。  刑法二百条という規定は現在実に奇妙な位置に置かれていると考えます。最高裁によって違憲無効な規定だと宣言されながら、そして最高裁自体尊属殺について二百条を適用しないで百九十九条の普通殺人罪を適用して判決を言い渡しておりますし、実務上も検察当局は二百条を適用しないで百九十九条の一般殺人事件として公訴を提起しておりますし、また下級審裁判所最高裁判決趣旨に沿った判決をなすというような実務上の状況があるにもかかわらず、刑法二百条は依然として形式的には存続しているというその事態でございます。このような状況はやはり異常な状態というほかないわけでございまして、これによって法秩序あるいは法的安定性というものが害されていることは言うまでもなかろうと考えます。  で、最高裁判決によって提起されている形式的、手続的な問題点は、結局無効と宣言された規定を形骸化しておくということになるわけでございまして、これは立法司法の調整の問題として考えるべき事柄であろうと思います。このまま放置しておけば結果的には最高裁を軽視するということにもなりかねませんし、立法司法の対立あるいは摩擦を招くという意味で好ましくないことでございますし、さらに主権者である国民立場から考えましても、現に形式的に残っている法律が実際にはこの法律を守らなければならない公務員実務運用においてはそれが避けられて百九十九条が適用されるというような法律に対するこういった公務員のとっている状況、そういったものに対して国民法律に対する信頼感というものを失い疑惑を深めることになりはしないかという現実的な心配もあるわけでございます。  最高裁判所憲法によって付託された違憲立法審査権に基づいて二百条を審査し、その効力を否定しているわけでございまして、この裁判所と同様に憲法を尊重し擁護する義務を負う立法府におきましても、やはりこの結論が出された以上は、それを尊重しその結論に沿った規定削除という作業が早急に行なわれるべきではないかと考えるわけでございます。  確かに現行憲法上の解釈といたしましては、最高裁違憲立法審査権効力はその当該具体的なケースに限られると解するほかないかもしれませんけれども、しかしそうだとすれば、その判決に対応して立法府はその規定削除し、行政府はこれを適用しないということでなければ、そしてそれが憲法上当然に予定されているのでなければ、憲法秩序というものは維持されないことになるわけでございまして、やはりこれは憲法立法府要請された、善後措置としての立法府に課せられた政治上の責務ではなかろうか、このように考えるわけでございます。  で、問題となりますのは最高裁判決の中で八名の裁判官が、法定刑尊属殺においては極端に重いところが不合理な差別的取り扱いになるというような理論づけを根拠にして、法定刑を変えることだけで済むのではないかというようなただいま植松参考人の御指摘のような意見もございますけれども、私は最高裁外部的意思表示は結局判決理由の中に示された結論部分、つまり刑法二百条が効力を有しない無効のものであるとしたところにあるのではないかと考えます。ですから主文自体には原判決を破棄するというような一般判決主文と同じように出ているわけで、主文自体憲法判断は出ていないわけでございますが、百九十九条を最高裁が適用してその主文を導き出しております以上は、その判断結論的な部分は十四対一という形で外部的に意思表示されていると見るべきであって、理由の中の理屈づけの部分は判例的な拘束力も持たないのではないかと考えるわけでございます。で、その理由結論部分には最高裁は具体的に法定刑をどうすべきであるというようなことをいっているわけではありませんし、またそのようなことを司法府がいうべき事柄でもないと考えますが、そうだとすれば、二百条をいまのまま存続させあるいは法定刑を変えて存続させるということはできないはずでございまして、純然たる形式論的に申しますと、まず同条、二百条を削除することが前提であって、法定刑を変えるかどうかというようなことは、その後の新たな立法論の問題であるというように考えるわけでございます。  したがいまして、私は、それではそのような新たな立法が一体適当なものであるかどうかというような点について、その当否について考えてみたいと思います。  立法権は国権の最高機関である国会に属するものでございますけれども、国会議員は前に述べましたように憲法を尊重し擁護する憲法上の義務を負っているわけでございますから、立法府である国会法律を制定、改正するにあたりましては、その内容憲法に適合するように制定されなければならないわけでございまして、それは憲法上の要請でございますし、憲法に反するような内容法律がもしかりに立法されたといたしましても、憲法九十八条で、国の最高法規である憲法の条規に反する法律、命令は効力を有しないというふうに規定されているわけでございますから、そのような立法はあり得ない、なし得ないということになろうかと存じます。  そこでいま問題になっております尊属殺等重罰規定を置くことの適否についても、やはりこの憲法精神、その基本理念中心に据え、これを唯一の基準として結論が出されるべきではないかと考えるわけでございます。  現行憲法精神、その憲法がよって立つところのものは言うまでもなく民主主義であり、そしてその民主主義根本理念は、すべての国民個人として尊重され、個人尊厳人格価値の平等が保障されるということ、これが基本であろうと思います。これをさらに家族生活に限って見てみましても、憲法二十四条で個人尊厳と男女の平等の確立という基本的な考え方となってこれがあらわれているということができます。  尊属重罰規定が設けられました背景には、かつての家族制度のもとにおける尊属卑属の間の権威服従支配関係、縦の身分制度等々を維持し、そしてその思想を基盤にして封建的な縦の政治支配体制確立し、維持していこうとする考え方があることは沿革的に見ても明らかなところであろうと思いますが、今回の最高裁判決においてもこれは指摘されているところでございます。これを逆に申しますと、歴史的に見ましても徳川時代封建体制を維持していくためには、やはり幕府に絶対的に従順な人間が必要でありましたし、そのような人間になるためには、家族内において対等の人間として協力していくというような関係ではなく、親の権威に絶対服従する人間をつくっていく必要があるということから、子の親に対する一方的義務としての法の道徳をその中心に据えて、これが制度化され、法律化されたということができると思います。このような思想明治政府によっても受け継がれたわけでございまして、家族国家理念確立強化のためには、そのような家父長制の家族制度を維持する必要があり、さらに権威による家族秩序維持の手段としての家族制度民法の中に法律制度化して、刑法の中にもさらに尊属重罰規定を置くことを制度化したものであろうと考えます。  ここで見のがしてならないのは、いまの刑法の前の明治十三年の旧刑法では、尊属殺の規定対象は祖父母、父母に限られていたのでございますけれども、これを受け継いだ明治四十年の現行刑法では、配偶者直系尊属までをも尊属殺の対象に含めたということでございます。当時の政府現行刑法立案理由書の中で、この配偶者尊属、つまり嫁がしゅうとめを殺すというような実例の場合に、なぜそういう範囲を広げるかという理由として、「わが国の家族制度に於て特殊の必要を存すればなり」というふうに説明されておりますけれども、この説明の中に尊属重罰規定を設けた思想的背景が如実に表現されているのではないかと考えます。たとえば嫁のしゅうとしゅうとめ殺し、これは実際に尊属殺人として処罰されているものの中で非常に多くの部分を占めるのではないかと考えますけれども、そういった嫁のしゅうとしゅうとめ殺し尊属殺の対象として繰り入れたということは全く世界に類を見ないものではないか、日本独自のものではないかと考えますが、家族制度を廃止した今日、なおこのような制度が存続しているということ自体、まさに奇異なものというほかないだろうと考えます。  尊属重罰規定がいま述べましたような身分制家族制度を基礎として、尊属卑属の間だけでなく、しゅうとしゅうとめとの間にも身分的な差別を設けて家族秩序を維持していこう、そういった背景に立つものであります以上は、さきに見ましたように、憲法個人尊厳人格価値の平等の保障という精神にまっこうから対立するものでございまして、そのような憲法に抵触する規定立法が許されないのは言うまでもないところだろうと考えます。現行憲法の施行に伴ってそれに抵触する家族制度をささえる法律上の諸制度は、民法親族法全面改正によって一切廃止されたわけでございましたが、それと深いかかわりを持つあるいは不可分の関係を持つといってもいい、この尊続殺重罰規定が手をつけられてないままに今日残っているということは、まさに矛盾というほかないと思うわけでございます。ただいま植松先生が御指摘なさいましたように、刑法の全面的な改正作業に取り組んでいる法制審議会が昨年発表しました改正刑法草案でも、尊属重罰規定は廃止されておりますし、今回の違憲判決の結果、刑法全面改正に先立って、政府部分改正の諮問に対しても、法制審議会は同様の結論を出しているということで、このような歴史の流れに沿ってそういう結論が出てきたということは当然のことであろうと思います。  最後につけ加えたいことは、親を大切にする風習は美しいものであるということ、これはだれでも肯定するところでありますが、それと同じように子を大事にすることも大切だし、美しいことであって、なぜその親を大切にする美しい風習を維持するために重罰規定を置く必要があろうかということでございます。美しい風習は重罰規定によって維持されるものではございませんし、また重罰の威嚇によってしか維持されないような風習は決して風習として美しいものではなかろうと考えるわけでございます。それと同時に、日本では親を大切にすると同時に子を大切にする風習もありましょうし、また夫婦、親戚、きょうだい姉妹、そして隣人もまた助け合い、大切にし合う社会こそがほんとうに望ましいところであるわけでございまして、刑法というものが一つの体系的なものであります以上は、親を大切にすることを強制するための規定だけを置いて、その他を体系的な法律の中に置いていないということは、結果的にあるいは相対的に子を大切にすることを軽視するということにならざるを得ませんし、また他人の生命軽視をも結果的に意味することにもなりかねないと思うわけでございます。加害者である卑属の行為の反道徳性に重きを置くというような議論がございますけれども、そのようなことで法定刑の軽重を設けることは、やがて被害者の生命の軽重を認めることを是認すべきことにもなりかねないわけでございまして、憲法基本理念というものが、個人尊厳人格の平等を保障するものであり、不合理な一切の差別を排除しております以上、親も子も、夫も妻も、兄弟姉妹も、そして他人もひとしくその生命、身体が尊重され、被害者加害者の身分関係によって、行為の反道徳性あるいは反社会性に一般的、制度的な差別を設けないことが憲法に適合するゆえんであろうと考えるわけでございます。  以上申し述べましたように、普通殺のほかに尊属重罰規定を設けることに対しては、結論的に私は反対せざるを得ないわけでございますが、しかし当面の、さしあたっての問題といたしましては、最高裁刑法二百条を無効としたことに対応して、その善後措置として、刑法二百条が形式的に存続しているという異常な事態に終止符を打つために、関連条文削除されることが望ましいことでございますし、これを行なうことが、憲法秩序に破綻を来たさないための政治上の立法府に課せられた責務ではなかろうか、このように考えるわけでございます。(拍手)
  6. 大竹太郎

    大竹委員長代理 ありがとうございました。  次に、福田参考人にお願いをいたします。
  7. 福田平

    福田参考人 去る四月四日に最高裁判所が十四対一をもちまして、刑法二百条の尊属殺人罪規定憲法十四条一項に違反するということを明らかにしたということは、すでに先刻御承知のことと存じます。この点につきまして、私はすでに尊属殺人罪規定違憲であるという旨を私のかつての教科書におきましても明らかにいたしております。また今回の最高裁判所に係属いたしました三事件に関する小論におきましても、昨年すでに、ただ尊属であるがゆえに加重刑を規定いたしますことは合理的でない差別を認めたものとして、法のもとの平等を規定いたします憲法十四条に違反するという旨をすでに私は述べております。そしてこの私の見解は、今回の最高裁の多数意見のうち、いわゆる六裁判官見解と一致するものでございます。  そこで、その理由につきましては、ここであらためて申し述べるまでもなく、委員の皆さま方におかれましては、その理由づけに賛成かいなかは別といたしまして、その理由づけ自体につきましては十分御承知のことと思います。  そこで、私は以下におきまして、八裁判官、すなわち多数意見のうちの八裁判官意見に関連いたしまして、若干の所見を述べさせていただきたいと思います。  この八裁判官意見は、憲法十四条一項の禁ずるのは不合理な差別である、そこで普通殺人罪のほかに尊属殺人罪規定を設け、その刑を加重すること自体違憲とはいえないが、刑法二百条は尊属殺人法定刑を死刑または無期懲役に限っているという点において、百九十九条の普通殺人罪法定刑に比し、著しく不合理な差別的取り扱いをするもの、これは憲法十四条に違反して無効である、こういたしておるわけであります。  そしてこの多数意見が、尊属殺人罪として加重刑を設けること自体違憲でないとする理由は、「尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理」を維持尊重するためである、こういたしておるわけでありまして、八裁判官が主観的に古い家族制度的倫理感を肯定して、ここからその理由を基礎づけようとしている意図がないということは明らかであると思います。  しかしながら、八裁判官意見も認められておりますように、現行二百条の規定が、その理由とする尊属に対する敬愛、報恩という自然的な情愛ないしは普遍的倫理の維持尊重、こういう観点からは納得できないほどの不合理な差別をしている、こういたしておりますことは、尊属殺人罪に対する法定刑を死刑、無期の両者に限っている現行法二百条の規定が、実は古い家族制度に基づく家族倫理の維持を目的としていたということは、これは現行刑法立法当時の沿革的資料から認められるところでございます。  そこで、八裁判官意見によりますと、尊属に対する敬愛、報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点から見て、肯定し得る程度の法定刑差別であれば、尊属殺加重規定違憲ではないというようになるように見えますけれども、はたしてこの理由づけからいたしましてそういえるかどうかということは、私はかなり疑問であると存じます。  と申しますことは、こうした自然的な情愛ということを理由といたしますならば、すなわち古い家族制度の維持尊重を目的とするのでなく、自然的情愛ということを理由といたしますならば、尊属殺人の加重処罰だけでなく、親の子に対するモラルを尊重して、その自然的情愛を尊重して、卑属殺人をも加重処罰の対象といたさなければ、片手落ちとなるわけであります。  そうして、そうした規定を設けますと、それ以外にも数多くの加重殺人類型ということを予想せざるを得ないわけであります。たとえば現在法制審議会で審議中の改正刑法草案の作成過程におきましても、実はいろいろの殺人加重規定の検討がなされておりまして、たとえば、あらかじめ熟慮して計画的に人を殺した場合、あるいは財産上の利益をはかり、性欲を満足せしむる目的で人を殺したとか、あるいは爆発物を使ってあるいは交通機関を破壊して大ぜいの人間を殺すとか、あるいは犯行の態様が著しく残忍である、こういった加重理由をあげまして加重殺人罪の規定を設けることが検討されたのでありますが、結局において、具体的場合に特に情状の軽い場合もあるから、むしろやはりこうした加重規定を設けることなく、現行刑法と同じくすべての殺人を一つの類型にまとめ、法定刑も死刑、無期または三年以上の有期懲役という非常に幅の広いものとして、具体的犯行における情状に応じた量刑を期待いたしておるようになっております。  こうした事情というものを前提といたしますと、ただ尊属であるというだけのもとに尊属殺という一つの加重類型を求めるということは、やはり八裁判官理由とする自然的情愛の尊重という観点からいたしましても、なお合理的な差別をしたといえない、やはり不合理な差別といわざるを得ないわけであります。  また、今回の事件でも明らかなように、これは植松先生も御説明ございましたけれども、最近における尊属殺人罪事件におきましては、親のほうに非があり、犯人の子供のほうに同情せざるを得ないというような事件が多いわけであります。  したがいまして、法定刑下限を引き上げる、すなわち現在殺人罪の規定は、普通殺人罪の死刑という最高刑がありますので、法定刑上限差別するということではない、こう思いますので、加重刑の規定となりますと下限をいじるということになりますが、この法定刑下限を普通殺人に比べて引き上げて規定するということの合理的な理由はないかと存じます。もちろん、何ら責任のない尊属を利己的な動機から殺害するといった犯情の重い尊属殺人もあるかと存じます。しかしながらこれは尊属加重規定がなくとも、百九十九条の普通殺人罪法定刑上限は死刑でございますので、その重い犯情に応じた刑を科すということは、十分この規定で可能となるわけであります。  また、わが国におきます家族構成の推移を見ますと、いわゆる核家族化という現象が著しい、特にその場合、都市部においては農村部においてよりもその傾向が著しいということがいわれております。といたしますと、尊属殺人罪規定というものは、結局核家族化の弱い地域、言いかえれば農村地区に多く適用されるという事態を招く可能性があるのではないか。     〔大竹委員長代理退席、小委員長着席〕 すなわち、両親、夫の両親と一緒に生活をするという可能性の強い地域に適用される、これまた合理的なものではないのではないかと存ずるわけであります。  以上の理由からいたしまして、詳しい違憲理由につきましては、あとで御質問があれば述べますけれども、十分御承知かと思いますので、いわゆる最高裁判所判決前提として、八裁判官見解に立てば、あるいは尊属殺人罪下限をいじって、若干の差別を置くことが可能であるかのように考えられております点につきまして、私は、それは何ら合理的理由がないのである、したがいまして、この際尊属殺人罪並びに尊属に関する関連加重規定削除をするということが、おそらく立法を担当される方々の英知に属することではないか、このように考えております。  簡単でありますが、私の意見といたします。(拍手)
  8. 中垣國男

    中垣委員長 次に河竹参考人にお願いいたします。
  9. 河竹登志夫

    ○河竹参考人 ただいま三人の先生からいろいろお話がございました。それぞれ法律の専門の先生方でございましたが、私一人全くのしろうとでございまして、何だかタイやヒラメの網にシコイワシが一匹まじっている、あまり魚の例は適切でないかもしれませんけれども、そんなわけで、どうも法律政治には全くしろうとで、いまお話を伺っておりましても、術語が出てまいりますと何のことかさっぱりわかりません。また、先生方の御意見がどうであるのかも、何も予備知識もなしにまかり出ましたわけでございます。もちろん、言うまでもなく政党には何の関係もございませんので、あらかじめ申し上げておきます。  そういうずぶのしろうとが何でここに出てきたかということについて、出てきたというか、お招きを受けたのかということが御疑問であろうかと思いますので申し上げますが、実は、よせばいいのに、六月九日付のサンケイ新聞の夕刊でございますが、「直言」という欄に「尊属殺人重罰是非」などという変な、柄にもないことを書きました。たまたま前日か前々日かに、この問題につきましていろいろもめておられるということを聞きまして、新聞に書かれていることくらいしか頭にございませんで、ただ私のかってな意見を書いたわけでございます。そうしましたら、不幸にもお目にとまりまして、どうもそういうことが実情らしいのであります。こんなところへどうも、こんなところと言っては失礼でございますが、この国会議事堂というのは実は生まれて初めて入るわけでございまして、早く着き過ぎて、あちこち見学してまいりましたのでございますが、そういうわけでございますので、無責任な、また飛躍の多い見当違いのことばかり申し上げるかと存じます。  大体伺っておりますと、しろうとながら、先生方がお話しくださったことで、何だか全部安心してしまったような気がするのでありますけれども、ただ、六月九日付の、まかり出たきっかけにされましたところの記事を最初にちょっと読ませていただきまして、それを補足させていただくということにしたいと存じますので、お許しいただきたいと思います。私の商売が芝居の研究とか、芝居について教えたり読んだり書いたり見たり、そういうはなはだどうもけしからぬ商売でございます。そういうことに関連して書いてございますので、その点は御質問があれば補足させていただきます。六月九日付でございます。  「そろそろ夏芝居のシーズンだ——となると、まず浮かぶのは「夏祭浪花鑑」の、けんらんたる殺し場である。団七九郎兵衛が舅(しゅうと)の義平次を、本水をつかった様式美ゆたかな立回りのすえに惨殺する、いわば尊属殺人劇だ。」この芝居は、実は現在たまたま歌舞伎座で中村勘三郎氏がやっておりますので、御興味のある方はごらんいただければけっこうと思います。一幕見は安うございます。「が、このばあい観客は、殺した団七に同情こそすれ、だれひとり親殺しめと非難はしないだろう。義平次は殺されて当然な性悪強欲の因業おやじで、団七はさんざん彼にののしられ、踏んだり蹴ったりされたあげく、たしなめるつもりが手もと狂って、やむなく殺すハメに追いこまれたにすぎないからである。ところで最近の報道によると、尊属殺人重罰規定削除しようという法務省の刑法改正案が、某党の反対で国会提出をあやぶまれているという。」この辺、私つまびらかでございません。おしかりがあるかと存じますが、「親孝行の美徳がすたれるからだそうだ。とんでもないはなしだとおもう。孝行ということ自体はいいにきまっている。だが、それは自然に発露すべきもの。重刑がこわくてしぶしぶするなんて、そんな情けない孝行は、美徳でもなんでもありはしない。それに世の中には親を親ともおもわない子もあるが、子を子ともおもわない親もたくさんいる。義平次……いやもっと古く「今昔物語」には、年老いて鬼となり、息子をとって食おうとした老婆のはなしもみえる。義平次のせりふではないが、「親じゃぞよ」の一言で娘を売り、子を食いものにする親にいたっては無数だ。平気で子を殺す親はあとを断たない。判例によると尊属殺人では、「夏祭」のように、被害者のほうがわるい場合が多いというではないか。だいたい尊属とか直系血統の優遇主義は、太古の首長族長制社会のなごりである。尊属殺人重罰規定は、裏をかえせば、自分の親だけは大事にすべきだが、ひとの尊属はかまわぬ、他人は殺しても罪はかるいという、たいへんな危険思想をふくんでいる。この観念は起爆剤さえあればたちまち戦争ともなって火をふくであろう。人の生命は血縁関係や民族を問わず、平等に尊く、おかすべからざるものでなくてはなるまい。いっそ尊属殺人をかるくするより、正当防衛以外の一般殺人尊属なみに、平等に重くしたらどうか。」これが私の六月九日付の記事であります。結論はいまここで読みましたとおりで、特に補足することはございませんが、要するに法の平等という——法律はよくわかりません。違憲かどうか何もわかりませんけれども、ただ、人間の生命の尊厳ということは平等であるべきであるということで、そのためにはこのような規定は必要ない、むしろ害ではないかというのが私の結論でございます。  それからまた、先ほど先生方のお話の中に、法律道徳の裏づけであるというお話がございました。これはよくわかりますわけでございますけれども、特に親孝行というようなことは、これは言い方はおかしいのですけれども、むしろ生物学的な血統におのずから存在していることであって、それこそ自然に発露すべきものである。したがってこれを法律規定して、法律的に無理じいするということはいかがなものかというのが一つの理由でございます。  やや具体的にその理由を申しますと、ただいま読みましたように、親孝行が美徳である、そうしてこれを人間として尊重すべきものだということ、それにつきましては、何も私は異論はございません。これを肯定するのにやぶさかではございません。もちろん私自身戦前の教育を受けておりますし、是々非々ではありますけれども、孝行ということにつきましては、これを是とするものでございます。ちなみに、たいへん私ごとになって恐縮でございますが、私の曽祖父が黙阿弥という芝居の作者でございました。白浪物という、どろぼうばかり出るはなはだ非道徳的な芝居を書いたのでございますが、ただ、結論としましては勧善懲悪でありまして、親孝行を大いに推奨した芝居でございます。その流れでございますので、当然孝行ということは、私自身も及ばずながら実践しているつもりでございます。その点親孝行を必要でないとして反対するものではございませんので、誤解のないようにひとつお願いしたいと存じます。  ただ、いま申しましたように、それは法律をもって強制さるべきものではございませんで、あくまでも日常の道徳として、たとえば兄弟に友に朋友相信じということばがかつてございました。それと同じように、親孝行というものも日常道徳として教育さるべきものである、そういう意味で教育されるべきものだ、あるいはすすめられるべきものだというふうに考えます。適当な言い方ではないかと存じますけれども、むしろ親孝行ということに関して言えば、これはやはり文部省の管轄であって、法務省の管轄ではないのではないか、変な言い方でございますが、そんなふうに私は考えるわけでございます。ぜひともこれはひとつ文部省で勇気をもって親孝行をおすすめになったらどうかというふうに考えます。それはどうも思わしくない、反対がありそうだというようなことはないでしょうけれども、それだから法務省が、いままでの憲法がそうであったかどうかわかりませんけれども、少なくともより大きな比重において文部省が教育としてやるべきことではないかと思います。  第二でございますが、第一はただいま申しました親孝行の問題です。第二は親子の平等性。人間の平等と申しますと二つに分けまして親子の平等、これも先生方のお話に出たことでございますが、親は親だというそういうたいへん古めかしい道徳を思わせる法理だと存じます。人間の生命の尊厳というものはやはり親子ということに特にどちらがどうという差があるべきものではないと考えます。従来の判例存じませんけれども、親にあるまじき悪徳の者を不当に庇護し、また子を不当に重罰におとしいれていたということがなかっただろうかということを考えるわけでございます。これにつきまして「夏祭」という芝居のことを申しましたけれども、外国にもそのようなさまざまな例があるのでございまして、たとえば二千五百年前のギリシャ劇のたとえばアガメムノンという芝居を見てみましても、将軍アガメムノンのきさきは夫の出征中いとこの男と姦通し、夫の凱旋を待って姦夫と共謀して夫を殺害します。その娘エレクトラと息子オレステスは父殺しのかたきとして実母とおじを殺しますが、この場合の「母殺し」は「良心の苛責」を経た後に許される。理性の神アポロは、実母でも悪徳のきわみであることを理由とした母殺しを是認するのであります。  とにかく今日の状況に照らしてみまして、せっかく自分が責任を持って産んだ——責任を持って産んだというか、産んだ以上は責任があるはずの子供を平気で殺したりあるいは捨てる親が多過ぎるように思います。どちらも責任と義務を感ずべきであるというのが私のこの点についての考え方でございます。もちろん親の心子知らずと申しますし、それからまた幕末の志士だれそれが「親を思う心にまさる親心」といったような歌も残しております。そういうことも存じておりますけれども、しかしそれぞれ対等に親と子はお互いに同じような愛情を持って向かうべきものだ、そういうふうに考えます。  それからその次の点でございますが、これは親子に限りません。人間一般の生命の平等性ということから、やはり尊属規定というのは常套でないというふうに考えます。これはどういうことかと申しますと、要するに先ほどのことですが、自分の尊属だけを大事にすればいいというふうに誤解されがちであると思います。自分の尊属のみを大事にするという思想、これは先ほど封建時代のお話ございましたけれども、あるいはもっと古く、はるかに古い血族意識あるいは家夫長意識、首長意識というものに基づくものでございます。要するにもっと積極的に言うならば、他人の尊属あるいは尊属のみならず他人、要するにひっくるめて他人でございますが、そういうものは殺しても軽く済むのだ、そういう逆効果と申しますか、副次的な効果と申しますか、積極的に悪い効果をもたらす可能性がある。元来殺人をするような人間はどっちみちどうも単純でそういうふうに思いやすいのではないかという気がいたしますので、そうしますとどうも他人ならばよろしいのではないか、そういうようなこともあってむしろ殺人を助長するようなことになりはしないかというようなおそれを抱くわけでございます。実際にそうであるかどうかは存じませんが。そういう危険性をはらんでいるとするならば、これはたいへん危険ではないか。結局それを推し進めてまいりますと自己本位である、あるいは自分の一家だけが大事である、自分の部族、これはやくざ一家も含めまして、要するに自分に引きつけた自分の利益と申しますか自分だけの集団というもののみの繁栄を祈るということにつながっていくおそれがないだろうか。もっとひどくいいますなれば、人種差別、自分の民族だけよければいい、あるいは自分の国だけよければいい。国が繁栄することは最も望ましいのでありますけれども、それならばほかの民族ほかの国もどうあってもいいのかということに極端に言いますとなる可能性があるのではないか。戦争につながりはしないかということを申しましたのは、そういう危険性を私が感じたからにほかなりません。池に投げ込んだ小石の描く波紋のように、小さな人間一対一の関係というものが、いつの間にかそういう大きな意識となって波及するということは十分考えられると思いますので、そういうふうに考えるわけでございます。  でございますので、結論は先ほどのとおりですけれども、もう一度取りまとめて申しますならば、尊属の問題を偏重するというふうに感じますわけで、これを法的規定から、強制的な規定というものから除きまして、そして孝行道徳はあくまでも教育、ほんとうの情的教育の問題として進めるべきであると思います。そうしてその親子の情愛道徳というものは、結局実際問題としましては個々の殺人判決のプロセスの中にあるいはその動機とかいろいろあるのだと存じます。よくそれはわかりません。しかしいずれにしましても、なぜ殺したのか、それにはどういうふうなファクターがかかっておったのかということが分析されるのだろうと存じます。そのときに親子の情愛というものも、普通の人間殺人の場合と同じようなウエートによってそうしたつまり良心の問題とか殺意の分析の場合に、つまり全く同じ次元で親子の情愛というものもそこに含めて考えるべきであろうというふうに考えるわけでございます。  ただ、尊属殺人重罰をぜひとも軽くしろということを私は主張しているのではございません。むしろ逆に現在あまりにも人間の命が軽視され過ぎて、事故の場合にしろ、公害問題にいたしましても、人間一個の生命があまりにも軽く、どうもちょっと肩が触れたぐらいですぐ人を殺す。昔からそういうこともあったんでしょうけれども、特に人が多くなればなるほど付和雷同いたしまして、学生問題を含めまして非常にどうも危険な、へたをするとニューヨークのようなことになりかねないように思います。むしろそういうものを押えるためにはこれはやむを得ない。それこそ法律の裏づけ、どちらが裏づけですか、法律をもって重罰を与える以外にはやむを得ないのではないか。したがって、生命軽視の風潮というものの現状に照らしました場合に、むしろこれは永久にということではございませんけれども、一般殺人をもっときびしくしたらどうか。尊属殺人を引き下げるよりも、そのくらいに私は生命を尊重したい。そういうふうに考えております。  どうも失礼をいたしました。(拍手)
  10. 中垣國男

    中垣委員長 以上で参考人意見の開陳は終わりました。     —————————————
  11. 中垣國男

    中垣委員長 質疑の申出がありますのでこれを許します。大竹太郎君。
  12. 大竹太郎

    大竹委員長代理 御発言の順序でお伺いをいたしたいと思います。  まず、植松先生にお伺いをいたしたいと思います。植松先生刑法の専攻でいらっしゃるのでありますけれども、どうもこの問題はやはり違憲判決そのものが相当考えてみるべき点があるのではないかということで、どの先生にお伺いしていいかわかりませんので、植松先生にお伺いをいたしたいと思うのでありますが、この違憲判決効力というものは一体どういうものか。たとえば立法府に対して一体どういう効力があるのか。常識的に考えればその趣旨に沿った立法立法府とすればやるべき責任といいますか、義務といいますかがあるべきもののように考えられるわけでありますが、われわれ委員の中では立法府立法権というものがある以上、たとえば非常に反動的な判決をしたようなものをそのままのむ必要はないじゃないかというような意見すらあるわけでありますし、また、行政府、たとえば法務省、検察庁に対して一体どういう効力があるか。たとえば判決が出たとたんに二百条を排除して公訴、起訴については百九十九条をもって処置しろという指令を法務省が、指令と申しますか、検事総長の名前で出したというふうに聞いておりますけれども、これは少し行き過ぎなんじゃないか。いまのような話で立法府がどういう法律をつくるかわからないし、立法府立法の処置を待ってやればいいことであって、そんな行き過ぎてやる必要はないじゃないかという意見もあるようでございます。そういうような、この二点について立法府と行政府についての違憲判決効力ということでお伺いをいたしたいと思います。
  13. 植松正

    植松参考人 いまの問題は先ほど鍛冶参考人から要点をお話し申し上げたと思います。  われわれも同じように考えておりまして、当該事件だけについて判決拘束力がある、これは筋としてはそうだと思います。これは裁判所法の定めによるわけでございますが、しかしながら、判決が出た後、立法府なり行政府がどうするかという問題ですが、行政府とすれば、もちろん原則的には裁判所判決を尊重すべきである。ことに、最高裁判所判決したんでありますから、その意味でも尊重しなければならぬものと思います。  しかし、かりに行政府が、あの判決ははなはだ不当であるという強い反発を感じておるんであったら、行政権は行政府、おのおの独立でありますから、ただいまの法務省なら法務省が全国に指令を1指令というのもおかしいんですが、通牒か何かでしょうと思いますが、そういうものを発するという考え方をとるのは、その判決に順応しようという場合ですし、順応したくないという反発があれば、それは逆にむしろ、判例をひつくり返すほうに努力しようじゃないか、こう考えてもいいものだと私は思います。ただ、調和的にいくためには、いやしくも最高裁判所判決したんですから、それを尊重した方向にいくというのは当然だと思います。しかしそれに関連しましては、大法廷の判決がすでにこの尊属関係でも一回変更になったわけであります。そういうことで、判例変更ということもございますし、ことに小法廷であれば、大法廷が控えておって変更する。実は、ちょっと余談かもしれませんが、小法廷の判決を変更するよりも、大法廷を変更するほうが容易なような面もあるわけです、数字からいいますと一人多くなればいいのですから。これは私は制度としてはあまり賛成でないのですが、現実はそうでございます。  したがって、判例が変更になるのを行政府が待つという気持ちがあれば、またそれに反するような態度に出てもこれはいたしかたないんじゃないか。ただ、国政としては、行政府司法府とがたいへん違った行き方をするので、法的安定を害することは言うまでもございませんが、理屈としてはそうだと思います。  同様に、立法府も独立でございますから、最高裁判所判決が出たからそのとおりに立法しなければならぬというものではなくて、それに反するように立法をなさろうと、あるいはそのままほっておかれようと、これはやはりそれぞれ独立の権限を持っている。しかし、調和的にということを考えれば、それがはなはだ不当でないならば、できるだけその線に沿った処置を立法府もなさることが望ましい、こう考えます。
  14. 大竹太郎

    大竹委員長代理 次に、鍛冶先生にお伺いしたいと思います。  八人の多数意見からいたしますと、たとえば立法府におきまして、無期懲役、死刑だけのものを、有期懲役の最低刑をつけまして  あの判決によりますと、いかに情状酌量をしても執行猶予できないような刑は非常に極端な差別であるという趣旨でございますので、まあ六年から四年くらいの最低刑をつけまして、たとえば二百条を改正したといたしましたならば、最高裁は重ねて違憲判決をその二百条についてするとお考えになるでありましょうか、それともしないでありましょうか。
  15. 鍛冶千鶴子

    鍛冶参考人 たいへんむずかしい御質問でございまして、それまでにまた裁判官の構成が変わるかもしれませんし、いまのままの段階で推測することはたいへんむずかしいと考えますが、まあ下限を六年にしようと四年にしようと、次の機会に議論を重ねられた結果は、やはり憲法違反という判断結論に到達されるのではないかと思います。  つまり、客観的な、今回の憲法違反判決をするまでの、かつての昭和二十五年から二十三年間に判例も非常に動揺したと申しますか、それが外部から推測できるような判決が次々に、非常に無理な解釈と申しましょうか、そういった形で、歴史的に見ますとこの二十三年間に当然出るべくして出た十四人の結論であろうと考えますので、さらに法制審議会刑法全面改正に取り組んでおられるところでもそういう結論が出ておりますし、学界も、そして国民の間にも、そういった考え方が次第に定着してきているという実情を考えますと、やはりその段階で四年ないし六年ということであっても、それが不合理な差別だという結論に到達されるのではないかというふうに推測いたします。  たいへんむずかしい御質問でございますので、そのようにお答えいたします。
  16. 大竹太郎

    大竹委員長代理 次に、福田先生に一つだけお聞きをいたしたいと思います。  先ほどお聞きしておりますと、先生ももちろんそうでございましたし、植松先生も鍛冶先生等も、刑法の中でいわゆる親族とかあるいは家族とかというものを取り入れるということは憲法十四条等で適当でないのじゃないかという御趣旨に承ったわけであります。ところが、生命に対する規定ではございませんが、現在でも御承知のように親族相盗、二百四十四条の規定がございます。そして刑法改正案を見ますとこれがやはり存続をいたしておりますことは御承知のとおりでございまして、ただ、いままで御承知のように刑の免除をしていたものを親告罪に取り上げ、そして直系尊属並びに配偶者の間においては刑を免除できるというような、まあ考えようによっては一歩進めた、また考えようによっては非常に妥協した形で存続させているというふうに私は思うわけでございまして、傷害致死その他も全部削除するという立場からいたしますと、私は、この条文なんかも、もちろん法制審議会においては相当議論になった結果やはり残されたものだろうと思いますが、そういうようなことからいたしますと、この二百条も直系尊属というようなことで、嫁しゅうとというものはどうか知りませんが、直系血族、いわゆるほんとうの親殺しというようなものは、ある意味においては一つの段階として残すというものの考え方があってもいいのではないかというふうにも私は考えるわけでありますが、それらの点についてのお考え方を承っておきたい。
  17. 福田平

    福田参考人 お答えいたします。  まず、先ほどもちょっと申しましたけれども、この多数意見の八人の裁判官考えられていることは、決して旧来の家族制度に立脚するところの封建的な縦の関係を維持しょうというところから出ているのではなくて、親子間の自然の情愛というところを法律に出そうということだ。といたしますと、親だけ加重処罰を規定する、子供の場合は普通だというのは、先ほど申したように片手落ちじゃないか。すなわち私は先ほどから申しておりますように、ただ親であるが理由で加重する理由は不合理な差別であろうと申しております。  先生御指摘の親族相盗例あるいは犯人蔵匿などにおける親族特例、こういうものは親族というものが一体この犯罪についてどういう意味を持っているだろうか。いわゆる法律的なことばで申しますと、期待可能性の見地といったようなものからこの点についての特別扱いをすることが妥当であろうということから出ておりますので、これはいわば裁判所のことばで言えば合理的な差別なんだ。要するに、差別というもの一般違憲ではない、合理的か非合理的であるか、これは今回の裁判例も認めておる。そういった合理的か非合理的かというところに両者の差があるのではないか、私はこのように考えております。
  18. 大竹太郎

    大竹委員長代理 まだいろいろお聞きしたいことがありますけれ、ども、時間がございませんから最後に河竹先生にお聞きをいたしたいと思います。  先ほどいろいろ芝居の例をあげて芝居ではどうも不都合なむすこが多いようだというお話もございましたが、結論としてはやはり孝行というものは、法律の世界ではないかもしれないけれども、大いに重んじなければならない。そしてまた人命尊重の意味からいって、むしろ百九十九条の一般死刑での刑をかえってこういう事件には重くしてもいいじゃないかというような御意見だったと思います。なるほどこの世の中には非常に不都合な親、ことに最近は子殺しなんという事件がばかに新聞に出ておりますので、非常に親のほうが不都合な案件が多いと思いますが、しかしまた一般からしますとまあ殺人までいかないけれども、どうも最近の若い者は親を大事にしない。最近は断絶なんということばをもってそれを表現しておりますが、むすこが親を親とも思わぬ若い者のふえてきていることも私は事実ではないかというふうに思います。  そういうような面からいたしますと、法律的にいわゆるこの親の子殺しというものをこれはどう取り扱わなければならないかというようなことをもちろん私は考えなければならないと思いますが、同時に、現にあるいわゆる親殺しの規定というものを一括ここでなくするということは一体世道、人心に対してどういう影響を持つであろうか。これはもちろん私は親子の関係というものは法律によって強められたり何かするものだとは実は思いたくないのでありますけれども、いまここでいままであったものをここでなくするということは現在のような世相の中にあって一体どういう影響を及ぼすのか、これを私は相当考えなければならないと思います。現にこの殺人ばかりでありませんけれども、死刑の存続ということが非常に問題になりながらやはり死刑というものを残しておくというようなことからいたしましても、いままであったものをなくするということは、一体世の中にどういう影響を及ぼすだろうかということをどうお考えになられましょうか。
  19. 河竹登志夫

    ○河竹参考人 こまかいことから一つ申し上げますと、芝居の中でたいへんけしからぬことが多いが、結論としては云々ということでございますが、これは私のお話しのしかたが悪かったのかと存じますけれども、芝居の中では大体におきまして親を殺すケースがたくさんありますけれども、どうもやむを得ず殺した、たいへん良心の苛責に責められながら殺さざるを得ないというケースが芝居になっております。これは見物が見ましてもっともだというふうに感じるのが芝居でございまして、芝居というものは現実にはあるいはそうでないかもしれませんけれども、そうあるべきものだということで、それで観客が同感し、浄化されるのが芝居でございます。日本の芝居には少なくともそういう親孝行ということはずっと含まれてきていると存じます。  じゃあ、その次の今度は一番根本なことといたしまして、現在あるものをなくすということがますます親不孝者をふやすのではないか、そういう御質問だと存じます。これはもちろんそういう危険性もあるかもしれないのでございますが、しかしたとえば子供が親をどうも尊重しない、さんざん育ててもらっただけで、あとほったらかして、年をとったらばば抜き云々というような、そういうことになって、これも事実でございます。こういう風潮は、私はたいへんけしからぬと思いますわけで、これはやはり親もそれに相当する親でなければならないし、そういう場合には子供もそれに対して報いるだけの心がなければならない、そう思うわけです。ただ、これは先ほど申しましたように、結論的には法律をもって規定すべきものでなくて、いやいやどうもやらなければならぬ親孝行というものであってはならないということを教える意味で、むしろないほうがいいのではないか、そういうことも考えられるわけではございませんでしょうか。先ほど申しましたように、むしろ積極的なマイナスの面のほうが多いように、私、感じますものでございますから、いずれかというならば、よりよいほうをとって、そうしてこれはこういう意味でなくすのだということを十分に徹底させることが必要だ、そういうふうに考えます。
  20. 大竹太郎

    大竹委員長代理 終わります。
  21. 中垣國男

    中垣委員長 次に横山利秋君。
  22. 横山利秋

    ○横山小委員 私ども軽いかっこうでおりますので、どうぞ参考人の皆さんも上着をおとりください。  最初はやっぱりお芝居に関連して河竹さんにお伺いしたいのですが、たとえば先代萩で政岡がわが子が毒殺されるのを見て、三千世界に子を持った親の心はただ一つ、現在のわが子に死ねという親がどこのちまたにあろうかと言って嘆くわけですね。現代において政岡は存在するかといいますと、私はそういう政岡は現在においては存在しないのではないか、こう思います。  それから私も兵隊に行ったのですが、母一人、子一人の私が兵隊に行くときに、やっぱり人さまの前ですから、勝たずば生きて帰らじと、つまり死んで帰れと言うて、歌を一緒に歌って励ましてくれたのですが、どこの母親でも朝な夕な仏さまや神さまにお灯明をあげて、どう、ぞ達者で生きて帰ってくれるようにと言うたのが、私は実際の世の父親、母親ではなかったであろうか、こう思うのであります。  つまり、二つの側面というものは、人さまの前で親子の情愛というものを率直に語ることができない。そういうことを言うと非国民、主に不忠というような条件下にあった社会なんであります。いまはきわめてフリーに、きわめて自由に親に対する意見も言う、子に多少の遠慮はあるかもしれぬけれども、きわめて自由な社会ということになっています。しかし、自由な社会ではありながら、いささか逆説めいた言い方になるかもしれませんが、親殺しがあとを断たない。ただ、ほかの方からもお話があったように、親殺しというのは、主として農村型であるということに特徴を置かなければならぬと思う。  それから、この間の新聞で、ロッカーに入れた母親、ごみ捨て場に子供を捨てた母親、それから捨て子と偽って自分の子供を警察に届け出た母親というヶ−スがございました。この子殺しのヶ−スというものは、親殺しが農村型とするならば、子殺しのヶ−スはどういう母親であるかということを考えてみますと、何かやはり子を育てていくのに社会生活の上で不便がある、不便と言っては語弊がありますが、不自由な問題があるということが考えられるわけです。  近代社会においてそういう不自由というものがあること、農村において、個人の人権、親の人権なり子の人権というものはなかなか守りがたいという社会環境というものがあるということに、目を向けなければならぬのではあるまいか。四人の参考人のお説のように、強制をもってこれを、親殺し、子殺しなり、まあ最近では母子相姦だとか一親子相姦だとかいうような問題も潜在的にあるよ−一うでありますが、そういうことが法律をもってど一うしても強制することのできない社会現象である−一というところに目を向けなければいかぬのではないか。  その意味において、社会環境の改善ということについてどういうことが考えられるでありましょうか。御自由な御意見でよろしゅうございますから、ひとつ河竹さんからお考えをいただきたい。それに関連して、もしほかの参考人におかれましても、この点について御意見がありましたらお伺いをいたしたい。
  23. 河竹登志夫

    ○河竹参考人 芝居にたいへんお詳しいようでございまして、私ども席を逆にしたほうがいいのじゃないかと思います。  おっしゃるとおり、先代萩の例、まことに適切な御引用だと存じますので。そのことから、これは感想でございまして、お答えというわけじゃご、ざいません。  先代萩の母あるいはまた寺小屋における松王の立場、同じような点だと存じます。これは、もうただいま御指摘のとおり、あの当時におきましても、自分の子供を犠牲にするということはきわめてまれであったと存じます。ただ、ああいう状況に置かれた場合には、あれよりほかに生きる道がないというためにああいう芝居が書かれたわけでありまして、したがって、それは決して忠のためには肉親を軽く見てもよろしいということを奨励したのではなくて、もしそういうものであった場合、江戸の庶民、一般民衆の芝居としては成り立つはずはないわけでございまして、むしろそうせざるを得ない肉親の悲しみというものが書かれておるわけでございます。ですから、文楽にいたしましても、歌舞伎にいたしましても、先代萩にしろ、あるいは熊谷陣屋、寺小屋にいたしましても、歴史に題材をとっておりますが、実は歴史劇ではなくて、家族の間の別離の情愛を描いたものであるというふうに私はとらえているわけであります。そういう意味におきまして、全くただいまの御指摘のとおりだと存じます。  それから、あとのほうのことばでございますが、そうせざるを得ない状況というものが社会の中にあるのではないか、そういうことだと存じます。これはもうおっしゃるとおりでございまして、これを改善するということがどうしたって必要なわけで、それには、これまたたらい回しになるようなことを申し上げますけれども、厚生省はじめ皆さ琳が大いに福祉国家としての分を十分に伸ばすということが大事だと思います。  ただ、まあ私どもの感じとしましては、これは世界の各国の福祉施設を見てまいりましても感じるわけでございますけれども、たとえば一例、適切でないかもしれませんが、ソ連の場合に、いわゆる芸術家ホームというものがございまして、これを見てまいりました。大体まあ女優さんの年をとって実際に舞台ではあまり売れなくなった人たちの老人ホーム、そういう人たちにできるだけ昔の経験を生かした、たとえば中学、小学校あたりの演劇的遊戯でございますね、そういうものを指導させるとか、そういう意味で生きがいというものを持たせるようになっているわけです。ただその場合に、やはり身寄りがなくて、私の感じではしいてそういうふうに気を浮き立たせている。もしここに子供があるいは孫がおればもっと豊かな生活ができたのではないかということは、非常に感じるわけです。  ですからそうしたいわゆるいま現在ある福祉国家の福祉施設だけがいいとは私は決して思いませんので、物質的に恵まれることだけが親の福祉であるとは思っておりません。それをどうしたらいいかということにつきましては、どうも具体的に現在それではどこをどうしたらいいのかというほどの具体案が浮かびませんけれども、ただ親子の感情というものはあくまでも、さきに申しましたように、一つの生物的な血のつながりの持っている自然のものでありますので、それを何とか生かしながら、しかし共同生活するということ、たとえば農村型の一家族主義の中でいろいろこうやって複、雑な関係が生まれるような、つまり親と子が同時に住んでいなければならぬ、それが親孝行だというそういう観念はもはや全く成り立たないと私は思います。むしろ親は親なりに自分の世界を持ちながら、そうしてつかず離れず、というのはおかしいのですけれども、親と子が摩擦なく情が通えるような形態の生活というものを自分たちでっくらなければならぬのではないか。社会のせいだけにするわけにもまいりません。これは自分たちでそういうことを考える、それがおのずから発露するところの孝行というものではないだろうか。  お答えになってないかもしれません、そんなふうに考えます。
  24. 横山利秋

    ○横山小委員 どなたかほかにもし御意見がありましたら……。
  25. 鍛冶千鶴子

    鍛冶参考人 尊属殺は農村型、親殺しは農村型というような御指摘でございましたが、一昨年でございますか、私、山形刑務所に参りましたときに、そこで伺った話では、尊属殺は東北地方が最も多く、そして山形刑務所には収容されているその加害者がたくさんいるというようなお話でございまして、その節私は尊属殺の規定というものが、そういうふうに封建的な家族関係の中で追い詰められ、そして逃げ場のないところで犯す犯行が非常に多いのではないかということを痛感した経験がございますので、ちょっとつけ加えておきたいと思いました。  それからもう一つ、私が尊属重罰規定の廃止という結論を申しましたことによって、あるいは私が親子の間に道徳あるいは法というようなものが必要ないというような考えを持っているというふうに誤解されては困りますので、その点については私は親子の間に道徳が必要なのはもちろんこれを肯定いたしますが、それと同じように夫婦の間にもきょうだいの間にも、そして隣人との間にもそういった普遍の道徳が必要だということでございます。  親子の道徳が特に自然関係に基づく自然法だというような考え方を基礎にされる向きも、そういう議論もあるかと聞いておりますけれども、しかし私が親子の間の道徳が必要だと申しますのは、これは抽象的にはともかく、具体的な実践道徳としては、時代が移り、社会が変われば中身は変わっていくものであって、やはり封建的な親子の道徳民主主義的な親子の道徳というようなものが存在し得るはずだし、そうでなければならないのじゃないかというふうに考えるわけです。  特に、私がまあ多少専門にしております家族法の立場から申しますと、親子の関係は自然の関係なんだというふうに一般に言われますけれども、これは自然の関係というのは生物学上のあるいは動物的な意味での自然の関係ということは言えるかもしれませんけれども、法制度としての親子関係というものはこれはやはり人為的な関係であって、そうでなければ民法上、家族法上、親から生まれた子供に区別があってはならないのに、嫡出子と非嫡出子、そしてその非嫡出子の中には認知された子と認知されていない子というような区別があって法律上の効果として区別を設けているというようなところから見ましても、これは決して生物学的な意味ではなく法律的な立場からすればこれは人為的な関係といえるだろうと思います。一養親子関係もそうでございますし、最近のような人工授精子というような子供は法律上は夫婦の間のその父親の子として届け出られて記載されていても生物学的にはその提供者の子であるということになるわけでして、法律上はやはり人為的な関係だというふうに見なければならないんじゃないかというふうに考えます。
  26. 横山利秋

    ○横山小委員 植松参考人に少し役所のとった措置について御意見を伺いたいと思います。  四月四日が判決です。翌日四月五日最高検が通達を出しまして二百条で起訴しているものはすべて起訴の適用条文の変更をして一般殺人とするように指示をいたしました。四月十六日に規則十四条によって最高裁判所判決の正本を政府並びに国会にも送付をいたしました。要するに四月十五日に判決が確定をしたわけであります。したがって御質問をいたします焦点は、翌日すぐに最高検が通達を出したことについての是非論なんであり一まず。四月十五日までは不確定要素をはらんでおる。したがって十六日に初めて最高裁が正本を政府及び国会に出した。今回の問題は人権擁護に関一する問題でございますから一がいに最高検の通達一を非難するわけにはまいりません。しかしまだ論理的に不確定要素をはらむ最高裁判決を、即座に起訴適用条文の変更をさせ、直ちにそれが全国的に実施をされたということは適当、適法であるか。私は一がいに非難しているわけではありません。ただ何らかの仮処分的方法があったのではな一かろうかという疑問を持っておるわけでありま−す。この点について御意見ございましょうか。
  27. 植松正

    植松参考人 確かに御指摘のごとく仮処分的方法があったのではないかと私も思います。したがってよりよい方法としては何らか仮の措置をしておいて次に確定を待って出すというほうがよかったんではないかと私も感じます。ただいまそのことを初めて伺うのでありますが、しかし何ぶん最高裁判所判決ですからまず確定することは間違いない、できるだけ早くやろうということでおそらくやったのであろうと想像いたします。
  28. 横山利秋

    ○横山小委員 福田参考人に伺います。  御存じのように第一段階判決現行法、第二段階は通達があって一般殺人とするように指示し、このとおりすでに東京高裁でしたかこの間一般殺人によって判決が行なわれた例がございます。このたび第三段階、自由民主党から五年以上という修正案が国会に提出される模様であります。私は法律専門家でもございません、単なる労働者出身でございますが、素朴に見てこの三段階に分けられることによって法律上の不公平というものは生じないであろうか。二段階についてはこれはいたし方がない、けれども、あえてさらに三段階、死刑ないし無期懲役の段階、それから一般殺人段階、それから五年以上という段階、この三段階にすることが一体適当でありかつ法施行の公平をそれで確保できるものであるかどうか、また世間に対する説得力のある方法であるかどうか、こういう点についてはどういうことになるでありましょうか。
  29. 福田平

    福田参考人 いまの問題は確かに一つの問題であると私は考えております。で、先ほども鍛冶参考人が申されたように最高裁判決自身は主文自体でございますので、もし下級審が最高裁判決に従うといたしますれば現在の段階では普通殺で処罰する以外に手はないわけでございますね。そうしたところが、また最高裁の多数意見がそうであろうということを推測して下限に有期の懲役を設けて普通殺と区別した幾らかの加重刑を、まあ新しい法律ができるといたしますと今度はその形で裁判が行なわれることになろうかと思います。しかし結論的にはそれがまた違憲論争を呼ぶ、こう思いまして、先ほども申しましたように八人の裁判官意見というものがさほど理由のあるものと私は考えておりませんので、おそらくこの点でまた違憲の問題が起こると思いますけれども、その最高裁判決がきまるまでは、もし改正が通過いたし五年以上とかあるいは四年以上の有期懲役を含めた尊属殺加重規定改正規定として成立いたしますればおっしゃるような不公平な問題が起こってくる、こう考えております。  そこで、私はこの機会に尊属殺の規定削除される。まあいろいろな御意見もあるが、たとえば植松先生のように違憲ではないけれども不合理であろう、この機会に排除したほうがいいという意見もかなりございます。そういたしますと、この機会に立法府としてはそうした不合理さを排除するという意味でも尊属殺の加重規定並びに尊属に関する加重規定一般削除することが立法を担当される方々の英知に属することではないかということを先ほども申し上げた次第でございます。
  30. 横山利秋

    ○横山小委員 いま植松さんその点についての発言をされるようでありましたから、もし御発言がありましたらお願いすると同時に、植松参考人にもう一つお伺いしたいのは、最高裁判決についてその条文は尊属殺人についても普通殺人規定である同法「百九十九条を適用するのほかはない。」、「ほかはない」ということばを使っておるわけであります。これは一体どういうふうに解釈するのかというて政府に聞きましたら、個人意見ではありますがという前提を置いて、それは適用することが適当であるというふうに私は理解いたしますという政府解釈がございました。しかし、私はこの「適用するのほかはない。」ということをすなおに読みますと、いやいやながらという感じがしないでもない。あるいはまた何とかまん中のことを、修正的なことを考えたらどうかという暗示をしているとも思われる。しかしもう一つの解釈としては、現行法でいえば二百条は違憲無効であるからあとに残っているものは百九十九条だけだよ、こういうふうに解釈できないこともない、その点についてどうお考えでございましょうか。
  31. 植松正

    植松参考人 ただいまの百九十九条を適用するよりほかはないという点ですが、ただいまの御発言の最後にございましたように、私は現行法では二百条を否定する以上百九十九条を適用するよりほかに方法はないという意味で、別にいやいやということでもないだろうと思うのです。まあ現実に形式論理の必然の結果としてほかに条文がないのですから、これによるよりほかはない、こういっている趣旨に理解いたします。  それから先ほどの件ですが、公平という問題ですね。これは確かに立法の過渡期におきまして、ことに立法だけではなくて、いまの最高検察庁からの通達などのことも間に入っております関係上、前後を比較いたしますと不公平なことが起こる。それは今度の判決によって百九十九条適用によって軽くしてもらった被告人と同じような事情にある、全く同じではないのですけれども、百九十九条を適用してやれば相当悪い人間でももっと軽くなり得る、そういう種類の尊属殺の被告人も過去においてたくさんあったわけであります。それとの関係考えればもちろん不公平ということになるわけで、再審すべきかどうかといったようなことも法務省当局が考えたように伝聞しておりますが、そういうことで、立法の過渡期でありますから不公平なことが起こりましてもこれはやむを得ない。あとは刑の重過ぎたと考えられるものについては仮出獄、恩赦等の制度を活用いたしまして、これはできるだけ公平にやるように行政当局は措置すべきだと思いますが、それよりも不公平にならないように、なるべく不公平が少ないようにやるほうがいいという趣旨で、ただいまの三段階はよくない、二段階はしかたがないけれども、とおっしゃるんだと思いますから、その意味ではそれはなるべく不公平が少ないように処置するほうがいいとは考えます。しかしある程度の不公平が起こることは過渡期においてはやむを得ないし、そのやむを得ざる不公平についての措置としては、先ほど申しました仮出獄、恩赦等の方法で救うべきであると考えます。
  32. 横山利秋

    ○横山小委員 終わります。
  33. 中垣國男

    中垣委員長 次に青柳盛雄君。
  34. 青柳盛雄

    ○青柳小委員 時間がありませんので簡単にお尋ねいたしますけれども、植松先生のお考えは、大体尊属に対する特殊な犯罪類型は、立法論としては全面的に削除したほうがよろしいということだと思いますが、そこで削除したあとに、たとえば自民党の一部の方々、あるいは全面的にそうなのかもしれませんが、考えているような中間的な条文をつくり上げる、そういうようなことは立法論として妥当であるかどうかということについてはどうですか。
  35. 植松正

    植松参考人 私は、ほかの尊属に関する特別規定をも含めまして一括して削除するほうがベターだ、こういう意味では最初から申し上げているとおりでございます。しかしいま伺いますと、二百条に死刑、無期とあるのを、最低を五年以上というふうにしたらどうであろうか、こういう御案が  一部におありだということでありますが、最高裁判所判決趣旨に最小限度合うようにするということでしたら、それも一つの方法としては考えられると思います。しかしながら百九十九条が三年以上でありまして、片方が五年以上というわずかな差を設けることが何の意味があるだろうかということに疑いを持つわけであります。その程度のことは裁判官量刑で十分まかない得ることであると考えるわけであります。そしてほかの参考人からも同趣旨意見が出ておりますように、そのような規定を置くと、またその規定について違憲論争というものが当然予想される。予想されてもかまわないからやろうということであれば、それも一つの方法でございますが、当然それについてまた違憲ではないかということで紛糾が起こるであろうと思う。すでに法制審議会等の案が判決より前にできておることを考慮いたしますと、こ一の際全部について削除しておくほうが紛争のもと一を断つ、そうして結果は、しかく不相当な結果になるとは考えられませんので、そのほうがベターである、かように考えます。
  36. 青柳盛雄

    ○青柳小委員 立法論としての先生の御見解はよくわかりましたが、ただ私ども気になるのは、先生の持論としてはこの尊属に関する特別罪というものが憲法の十四条その他の規定には抵触しないというお考えでございます。どうもその点私どもとちょっと見解が違うのでありまして非常に困るのですけれども、尊属とか卑属とかいう関係は、(「困るか」と呼ぶ者あり)それは先生と意見が違うから、だから進んでお尋ねするわけですけれども、尊属とか卑属とかいう関係は、何か法律概念として家族制度そのものとも違うのですが、結局突き詰めていくと血のつながりということが基本にある。それ以外のものはちょっと考えられないわけです。そうしますと、血のつながりで上位にある者が尊属であって下位にある者は卑属配偶者尊属卑属の場合も同じだと思いますが、そうしますと、これは社会的な関係というよりもむしろ生物学的関係で事を処理するということにならざるを得ないと思います。私はよく考えるのですけれども、産みつ。はなしで捨て子にして全然育てなかった親というものに対して、子が報恩の情、敬愛の情を持つだろうかということになりますと、おそらくそういうものを強制することを道徳としてだれも要求しないだろうと思うのですね。したがって道義的なものではなくて全く生物学的な関係で、上位にある者を殺すということは背徳的であるとかあるいは非常に孝行でないことであってけしからぬのだといって非難する、そういうことが刑法の中にどういう意味を持つのか。これが私にはよく理解できないのです。違憲だというのは、まさに血統だけを唯一のものにして、そうして上下の差別を設け、そして下の者は上の者より血の関係だけで、上の者に何か犯罪的な行為を行なった場合には重く罰するという類型ですね。これは量刑の問題ではなくてもう類型の問題だと思うのです。量刑で間に合うとか間に合わないとかいう議論の以前の問題で、尊属卑属関係刑法の中に持ち込んできて、そうして尊属に対する犯罪一般犯罪より重くするという合理性があるだろうか。最高裁の多数意見は何か合理性がある、ただはなはだ極端な場合には合理性がなくなってくるんだ、不合理な差別だ、こういう考え方というものに、一体科学的な批判にたえるだけの根拠があるだろうかと思うのですが、この点いかがでありましょうか。
  37. 植松正

    植松参考人 合理的な差別かどうかという問題をお答えすればよろしいかと思いますが、この合理的というのを形式論理的と考えますと、必ずしも形式論理的な意味で、子供だけが親を尊重し、親は子供を特別尊重しなくとも罰せられないというような関係は、合理的ということにはならないと思います。憲法十四条の解釈としては、合理的な根拠があれば差別をしてもよろしいということはもう一般に認められるところでありまして、ただこの尊属敬重が一体合理的かどうかということになると、これは形式的に上下ひとしいという意味ではなくて、情操的なものだと思うのです。情操的ということを言いかえれば、尊属敬重の倫理というものが長い伝統として存在する。もちろん封建制度がこれを利用したとかいろいろあると思います。悪い歴史があるからこそ、私も最後にはもう廃止したほうがよかろう、こういうふうに言うわけでありますが、ちょうど本日の御発言を見ましても、皆さんが孝行は美しい道徳であって保存したいようにおっしゃる。最高裁判所判決における六人の裁判官意見の中にも、自分は孝の道徳を非難するわけではないのだというふうにおっしゃる。ということは、情操的にはやはり子が親を大切にするという倫理、秩序というものを尊重する感情が底を流れているのだと思います。古い判決がいわゆる人類普遍の原理といって、私も実は人類普遍の原理かなあということは当時から疑問に思っておりましたが、いろいろ違ったことがあるとしても、大局的に見ればやはりそういえるのではないか。というのは、われわれの国ではもとより儒教の影響が顕著でありますので、親孝行道徳ということが特別尊重されてきたわけであります。もちろん今日ではたいへん薄れましたけれども。そういう倫理的情操というものが国民の間に存在する。外国では、たとえばキリスト教国ではモーゼの十戒の中に、なんじの父母を敬うべしということがあって、儒教ほどではないかもしらぬけれども、やはり尊重するという倫理がある。この倫理の発達のもとは実は封建よりももっと古く、原始民族が秩序を維持するためのタブーとして考えたのが始まりかと思います。しかしそれが現在まで存続してきている。弱くはなったが存続してきている。その意味でこれを、差別を現に置いておる刑法規定違憲とは考えない、こういうことであります。しかし、よりベターなのはどうだといったら、もう薄れてもきておるし、先ほど述べたいろいろの理由によって、この差別刑法上からも除去するほうがよいであろう。しかし判決をするという段階現行法解釈になるならば、私は、その差別は、倫理、秩序というものが背景にあるという意味で、情操的な合理的根拠があると考えるわけであります。変な例をちょっと引き合いに出してみますと、わが国の刑法でいえば墓所ですね。これに不敬の行為が一あると罰せられるとか、死体を損壊したり、遺棄したりすると罰せられるというような規定がございますが、墓場などというのは、いわゆるドルメン文化時代に、霊魂が出てきて生きている者に恨みを晴らすというか、あだをするということではこわいからというので石を乗っけたというようなことが、その起源の一つとして想像されます。これは昔のことですから、いろいろそれと違った考え方もありましょうが、とにかく墓の石におじぎをするということに特別の意味を感じない。私などは全く感じませんので、自分の家の墓に、もの心づいてからおじぎをせぬという方針にしておる。よそのはゼスチュアとしておじぎをいたしますけれども。しかしそのものが刑法に存在しておるということは、それが国民の多数によっては美しいことなんだと感ぜられている。私はそうも思わなくなって、もっとドライに、人間死んだら血液をしぼって輸血に使って、あと骨やその他のものは臓器移植に大いに利用したらいいじゃないかというふうに考えているわけです。ですけれども、それは私個人の趣味でありまして、法というものは国民一般が持っておる考えを反映していかなければなりませんから、その意味では墓所に対する不敬罪とか死体の損壊罪というものがあることはそれなりの、それこそ情操的な意味があるんだと思うのであります。国民一般が私のようにドライになってくればまた変わるでありましょう。  その意味で、尊属に関する関係のこの倫理というものは、いままさにその動揺期にあって、価値の多様化時代に、いや、こんなものは全く意味がないんだという人もあるでありましょう。けれども、今日の御発言を見ても、最高裁判所の六人意見を見ても、一般にはやつ。はり、これは美しいもので何とか保存したいと、こういう。実は、親を尊重するということは、生物学的には、私はそう存在しないと思うのです。長幼の序というようなものはサルの世界にも相当あるようでありまして、私は犬を始終飼っておりますが、犬にもあるようであります。サルのほうの研究は専門の学者がそういい出しておりますが、そういうものがありますけれども、どうも、老いぼれた親を大事にするというのは、カラスの反哺の孝のようなものはないようであります。ですから生物学的には、むしろ年取ったら捨てちまうほうが合理的なのかもしれません。しかしそうなると人類の社会が索漠として、かわいそうな老人も一ぱいできてくるだろうというようなことがおそらく中国に孝の道徳というものを発達させる動機をなしたのではないか、中国人の知恵ではないか、こう思うのです。そういう意味の情操的秩序というものが昔から存在し、最高裁判所の古い判例と今度の判例とで人数が違ってきたということは、それだけ、約三十年足らずの年月にも変遷がある。今後はもっとこれが弱くなるかもしれないとは思いますが、一応現在においてそういうものが存在するというふうに考えますので、単に形式論理的には平等ではないかもしれぬけれども、情操的な意味の合理的根拠がある、こういうふうに考えるので、憲法違反とは思わない、こういうことなのでございます。
  38. 青柳盛雄

    ○青柳小委員 たいへん長くお話しになられたんで御趣旨はわかったような気もしますけれども、私の質問に対してはお答えになっていらっしゃらない。私は、法律概念として尊属卑属関係というのは、突き詰めてみれば血のつながりだけのことである。そこで孝養が入るとかあるいは愛情が入るとかいうようなことは全然問題にならないですね。愛情のない親子の間で、そして子が親を殺したという場合には尊属殺人ということになる。また、先ほども言いましたけれども、全然子どもに対して親としての責任を果たさない、したがって尊敬もできないし、またこれに報恩の情も出てこない、ただ産んでくれたということだけしか客観的にはない、それでも尊属殺人になるわけです。したがいましてここへ親子の情とか儒教とか、いろいろなものを持ち込んできて、そして親孝行は美徳であると、だからそれを背景尊属犯罪というものを認めてもあまりおかしくはない、憲法にも違反しないんだ、こういうふうな——間違った議論と私は思うのですね。要するに前提が間違っておるんですから。親孝行のためにできた尊属卑属関係ではないんですね。非常にドライな話ですけれども、生物学的な、血のつながりだけなんです、法律的には。こういうものをいまの憲法のもとに残しておくということがどういう合理性があるのか。それと道徳の問題をからめて、いや合理性があるんだと、はなはだしい場合には不合理だ、こういう欺瞞的な議論というものはとてもいただけないのですけれども、この点はいかがでしょうか。
  39. 植松正

    植松参考人 欺瞞的であるとかないとかいう議論をしても、これはいたしかたないと思いますが、ただ血のつながりだけで、むしろちっとも愛情をお互いに感じてないというような生活形態が前提となって起こってくる尊属に対する罪も確かにあるのでありまして、現にあったからこそ最高裁判所の今回の判決になったのでありますから、そのようなケースのときに、この規定を廃止することが可だというのは、まさにそういう場合に、廃止しておれば、なおさら軽い処理をする方法がいろいろ出てくるからよろしい、こういうことで甘あります。私が倫理ということを申しますのは、要するに法をつくる背景に合理的な差別の根拠があるかどうかということを考えるときに、ただAとBとは同じく人間だから平等だという考え方だけで考えなくともいい。それは長い伝統の中にそういう秩序が残っておれば、その残っている秩序に基づいて差別を設ける規定というのを、まさにこれは明治四十年からあるのですけれども、終戦後の改正の際にもそのまま残してあるという、その背景になっている国民感情、それを代表して立法をなされたわけでありますから、そういうものがあるから、その意味で合理的ということがいえるのじゃないか。しかし、それは弱まりつつあるということを申しておるわけでございます。
  40. 青柳盛雄

    ○青柳小委員 もう時間がありませんから、ただ、先生とだけの論争になってしまいそうなんですけれども、私は最後にもう一点だけやはり申し上げておきたいのは、歴史的な経過からいえば、尊属に関する規定というのは、まさに封建的な時代の遺物として、それが社会秩序を維持する上において、また、政治的な支配を行なう上において、非常に便利なものであるというところから存在の合理的根拠を見出したと思うのですけれども、したがって、そこには親子の情愛というようなものが基礎にあるわけではなくて、むしろ大体そういう一般論としてはそういうものはあるのでしょうけれども、結局は突き詰めていけば、情愛とか報恩とかいうことではなしに、強制、犠牲的なものであって、結局は上下の服従関係というものが基礎になっていると思うのです。そういう上下の服従関係というようなものをいまの憲法のもとで何かまことしやかな道義的な背景があるように思って残しておくということが私は欺瞞だというわけなんです。  だから、これは私の意見だけで、もうほかの先生方の御意見もお聞きする時間が全然ありませんでして非常に残念ですけれども、時間が来てしまいましたから、これで質問は終わります。
  41. 中垣國男

    中垣委員長 これにて、参考人に対する質疑は終了いたしましたっ  各参考人各位には、長時間にわたり貴重なる御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。厚くお礼申し上げます。  この際、暫時休憩いたします。     午後零時十三分休憩〔休憩後は会議を開くに至らなかった〕