○河竹
参考人 ただいま三人の先生からいろいろお話がございました。それぞれ
法律の専門の先生方でございましたが、私一人全くのしろうとでございまして、何だかタイやヒラメの網にシコイワシが一匹まじっている、あまり魚の例は適切でないかもしれませんけれども、そんなわけで、どうも
法律、
政治には全くしろうとで、いまお話を伺っておりましても、術語が出てまいりますと何のことかさっぱりわかりません。また、先生方の御
意見がどうであるのかも、何も予備知識もなしにまかり出ましたわけでございます。もちろん、言うまでもなく政党には何の
関係もございませんので、あらかじめ申し上げておきます。
そういうずぶのしろうとが何でここに出てきたかということについて、出てきたというか、お招きを受けたのかということが御疑問であろうかと思いますので申し上げますが、実は、よせばいいのに、六月九日付のサンケイ新聞の夕刊でございますが、「直言」という欄に「
尊属殺人の
重罰是非」などという変な、柄にもないことを書きました。たまたま前日か前々日かに、この問題につきましていろいろもめておられるということを聞きまして、新聞に書かれていることくらいしか頭にございませんで、ただ私のかってな
意見を書いたわけでございます。そうしましたら、不幸にもお目にとまりまして、どうもそういうことが実情らしいのであります。こんなところへどうも、こんなところと言っては失礼でございますが、この
国会議事堂というのは実は生まれて初めて入るわけでございまして、早く着き過ぎて、あちこち見学してまいりましたのでございますが、そういうわけでございますので、無責任な、また飛躍の多い見当違いのことばかり申し上げるかと存じます。
大体伺っておりますと、しろうとながら、先生方がお話しくださったことで、何だか全部安心してしまったような気がするのでありますけれども、ただ、六月九日付の、まかり出たきっかけにされましたところの記事を最初にちょっと読ませていただきまして、それを補足させていただくということにしたいと存じますので、お許しいただきたいと思います。私の商売が芝居の研究とか、芝居について教えたり読んだり書いたり見たり、そういうはなはだどうもけしからぬ商売でございます。そういうことに関連して書いてございますので、その点は御質問があれば補足させていただきます。六月九日付でございます。
「そろそろ夏芝居のシーズンだ——となると、まず浮かぶのは「夏祭浪花鑑」の、けんらんたる殺し場である。団七九郎兵衛が舅(
しゅうと)の義平次を、本水をつかった様式美ゆたかな立回りのすえに惨殺する、いわば
尊属殺人劇だ。」この芝居は、実は現在たまたま歌舞伎座で中村勘三郎氏がやっておりますので、御興味のある方はごらんいただければけっこうと思います。一幕見は安うございます。「が、このばあい観客は、殺した団七に同情こそすれ、だれひとり親殺しめと非難はしないだろう。義平次は殺されて当然な性悪強欲の因業おやじで、団七はさんざん彼にののしられ、踏んだり蹴ったりされたあげく、たしなめるつもりが手もと狂って、やむなく殺すハメに追いこまれたにすぎないからである。ところで最近の報道によると、
尊属殺人の
重罰規定を
削除しようという法務省の
刑法改正案が、某党の反対で
国会提出をあやぶまれているという。」この辺、私つまびらかでございません。おしかりがあるかと存じますが、「
親孝行の美徳がすたれるからだそうだ。とんでもないはなしだとおもう。孝行ということ
自体はいいにきまっている。だが、それは自然に発露すべきもの。重刑がこわくてしぶしぶするなんて、そんな情けない孝行は、美徳でもなんでもありはしない。それに世の中には親を親ともおもわない子もあるが、子を子ともおもわない親もたくさんいる。義平次……いやもっと古く「今昔物語」には、年老いて鬼となり、息子をとって食おうとした老婆のはなしもみえる。義平次のせりふではないが、「親じゃぞよ」の一言で娘を売り、子を食いものにする親にいたっては無数だ。平気で子を殺す親はあとを断たない。判例によると
尊属殺人では、「夏祭」のように、
被害者のほうがわるい場合が多いというではないか。だいたい
尊属とか直系血統の優遇主義は、太古の首長族長制社会のなごりである。
尊属殺人重罰規定は、裏をかえせば、自分の親だけは大事にすべきだが、ひとの
尊属はかまわぬ、他人は殺しても罪はかるいという、たいへんな危険
思想をふくんでいる。この観念は起爆剤さえあればたちまち戦争ともなって火をふくであろう。人の生命は血縁
関係や民族を問わず、平等に尊く、おかすべからざるものでなくてはなるまい。いっそ
尊属殺人をかるくするより、正当防衛以外の
一般殺人を
尊属なみに、平等に重くしたらどうか。」これが私の六月九日付の記事であります。
結論はいまここで読みましたとおりで、特に補足することはございませんが、要するに法の平等という——
法律はよくわかりません。
違憲かどうか何もわかりませんけれども、ただ、
人間の生命の
尊厳ということは平等であるべきであるということで、そのためにはこのような
規定は必要ない、むしろ害ではないかというのが私の
結論でございます。
それからまた、先ほど先生方のお話の中に、
法律は
道徳の裏づけであるというお話がございました。これはよくわかりますわけでございますけれども、特に
親孝行というようなことは、これは言い方はおかしいのですけれども、むしろ生物学的な血統におのずから存在していることであって、それこそ自然に発露すべきものである。したがってこれを
法律で
規定して、
法律的に無理じいするということはいかがなものかというのが一つの
理由でございます。
やや具体的にその
理由を申しますと、ただいま読みましたように、
親孝行が美徳である、そうしてこれを
人間として尊重すべきものだということ、それにつきましては、何も私は異論はございません。これを肯定するのにやぶさかではございません。もちろん私自身戦前の教育を受けておりますし、是々非々ではありますけれども、孝行ということにつきましては、これを是とするものでございます。ちなみに、たいへん私ごとになって恐縮でございますが、私の曽祖父が黙阿弥という芝居の作者でございました。白浪物という、どろぼうばかり出るはなはだ非
道徳的な芝居を書いたのでございますが、ただ、
結論としましては勧善懲悪でありまして、
親孝行を大いに推奨した芝居でございます。その流れでございますので、当然孝行ということは、私自身も及ばずながら実践しているつもりでございます。その点
親孝行を必要でないとして反対するものではございませんので、誤解のないようにひとつお願いしたいと存じます。
ただ、いま申しましたように、それは
法律をもって強制さるべきものではございませんで、あくまでも日常の
道徳として、たとえば兄弟に友に朋友相信じということばがかつてございました。それと同じように、
親孝行というものも日常
道徳として教育さるべきものである、そういう
意味で教育されるべきものだ、あるいはすすめられるべきものだというふうに
考えます。適当な言い方ではないかと存じますけれども、むしろ
親孝行ということに関して言えば、これはやはり文部省の管轄であって、法務省の管轄ではないのではないか、変な言い方でございますが、そんなふうに私は
考えるわけでございます。ぜひともこれはひとつ文部省で勇気をもって
親孝行をおすすめになったらどうかというふうに
考えます。それはどうも思わしくない、反対がありそうだというようなことはないでしょうけれども、それだから法務省が、いままでの
憲法がそうであったかどうかわかりませんけれども、少なくともより大きな比重において文部省が教育としてやるべきことではないかと思います。
第二でございますが、第一はただいま申しました
親孝行の問題です。第二は親子の平等性。
人間の平等と申しますと二つに分けまして親子の平等、これも先生方のお話に出たことでございますが、親は親だというそういうたいへん古めかしい
道徳を思わせる法理だと存じます。
人間の生命の
尊厳というものはやはり親子ということに特にどちらがどうという差があるべきものではないと
考えます。従来の判例存じませんけれども、親にあるまじき悪徳の者を不当に庇護し、また子を不当に
重罰におとしいれていたということがなかっただろうかということを
考えるわけでございます。これにつきまして「夏祭」という芝居のことを申しましたけれども、外国にもそのようなさまざまな例があるのでございまして、たとえば二千五百年前のギリシャ劇のたとえばアガメムノンという芝居を見てみましても、将軍アガメムノンのきさきは夫の出征中いとこの男と姦通し、夫の凱旋を待って姦夫と共謀して夫を殺害します。その娘エレクトラと息子オレステスは父殺しのかたきとして実母とおじを殺しますが、この場合の「母殺し」は「良心の苛責」を経た後に許される。理性の神アポロは、実母でも悪徳のきわみであることを
理由とした母殺しを是認するのであります。
とにかく今日の
状況に照らしてみまして、せっかく自分が責任を持って産んだ——責任を持って産んだというか、産んだ以上は責任があるはずの子供を平気で殺したりあるいは捨てる親が多過ぎるように思います。どちらも責任と
義務を感ずべきであるというのが私のこの点についての
考え方でございます。もちろん親の心子知らずと申しますし、それからまた幕末の志士だれそれが「親を思う心にまさる親心」といったような歌も残しております。そういうことも存じておりますけれども、しかしそれぞれ対等に親と子はお互いに同じような愛情を持って向かうべきものだ、そういうふうに
考えます。
それからその次の点でございますが、これは親子に限りません。
人間一般の生命の平等性ということから、やはり
尊属規定というのは常套でないというふうに
考えます。これはどういうことかと申しますと、要するに先ほどのことですが、自分の
尊属だけを大事にすればいいというふうに誤解されがちであると思います。自分の
尊属のみを大事にするという
思想、これは先ほど封建時代のお話ございましたけれども、あるいはもっと古く、はるかに古い血族意識あるいは家夫長意識、首長意識というものに基づくものでございます。要するにもっと積極的に言うならば、他人の
尊属あるいは
尊属のみならず他人、要するにひっくるめて他人でございますが、そういうものは殺しても軽く済むのだ、そういう逆効果と申しますか、副次的な効果と申しますか、積極的に悪い効果をもたらす可能性がある。元来
殺人をするような
人間はどっちみちどうも単純でそういうふうに思いやすいのではないかという気がいたしますので、そうしますとどうも他人ならばよろしいのではないか、そういうようなこともあってむしろ
殺人を助長するようなことになりはしないかというようなおそれを抱くわけでございます。実際にそうであるかどうかは存じませんが。そういう危険性をはらんでいるとするならば、これはたいへん危険ではないか。結局それを推し進めてまいりますと自己本位である、あるいは自分の一家だけが大事である、自分の部族、これはやくざ一家も含めまして、要するに自分に引きつけた自分の利益と申しますか自分だけの集団というもののみの繁栄を祈るということにつながっていくおそれがないだろうか。もっとひどくいいますなれば、人種
差別、自分の民族だけよければいい、あるいは自分の国だけよければいい。国が繁栄することは最も望ましいのでありますけれども、それならばほかの民族ほかの国もどうあってもいいのかということに極端に言いますとなる可能性があるのではないか。戦争につながりはしないかということを申しましたのは、そういう危険性を私が感じたからにほかなりません。池に投げ込んだ小石の描く波紋のように、小さな
人間一対一の
関係というものが、いつの間にかそういう大きな意識となって波及するということは十分
考えられると思いますので、そういうふうに
考えるわけでございます。
でございますので、
結論は先ほどのとおりですけれども、もう一度取りまとめて申しますならば、
尊属の問題を偏重するというふうに感じますわけで、これを法的
規定から、強制的な
規定というものから除きまして、そして孝行
道徳はあくまでも教育、ほんとうの情的教育の問題として進めるべきであると思います。そうしてその親子の情愛
道徳というものは、結局実際問題としましては個々の
殺人判決のプロセスの中にあるいはその動機とかいろいろあるのだと存じます。よくそれはわかりません。しかしいずれにしましても、なぜ殺したのか、それにはどういうふうなファクターがかかっておったのかということが分析されるのだろうと存じます。そのときに親子の情愛というものも、普通の
人間の
殺人の場合と同じようなウエートによってそうしたつまり良心の問題とか殺意の分析の場合に、つまり全く同じ次元で親子の情愛というものもそこに含めて
考えるべきであろうというふうに
考えるわけでございます。
ただ、
尊属殺人の
重罰をぜひとも軽くしろということを私は主張しているのではございません。むしろ逆に現在あまりにも
人間の命が軽視され過ぎて、事故の場合にしろ、公害問題にいたしましても、
人間一個の生命があまりにも軽く、どうもちょっと肩が触れたぐらいですぐ人を殺す。昔からそういうこともあったんでしょうけれども、特に人が多くなればなるほど付和雷同いたしまして、学生問題を含めまして非常にどうも危険な、へたをするとニューヨークのようなことになりかねないように思います。むしろそういうものを押えるためにはこれはやむを得ない。それこそ
法律の裏づけ、どちらが裏づけですか、
法律をもって
重罰を与える以外にはやむを得ないのではないか。したがって、生命軽視の風潮というものの現状に照らしました場合に、むしろこれは永久にということではございませんけれども、
一般の
殺人をもっときびしくしたらどうか。
尊属殺人を引き下げるよりも、そのくらいに私は生命を尊重したい。そういうふうに
考えております。
どうも失礼をいたしました。(拍手)