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土橋委員 この問題は非常に複雑な内容を持っておりまして、すでに本
委員会においてもお話があったと思いますが、
昭和二十五年の七月、財団法人日本文化住宅協会が設立をしましたときの名簿をちょっと参考までに申し上げたいと思います。
敬称を略しまして、
理事長は岩沢忠恭、参議院議員でございました。この方は御
承知のように建設省
事務次官をしておりました。
理事として、愛知揆一、これは当時、前の銀行
局長として参議院に入っておったかどうか、ちょっとそこははっきりしませんが、現在の大蔵大臣愛知揆一さんです。
中村重喜、これは大和建設の取締役副社長でございます。松前重義、これは元逓信院総裁で、ついせんだってまで衆議院議員をしておられた方です。小林秀彌さん、この方は元経済安定本部建築
課長さんをやっておりました。同じく
理事の山沢真龍さん、これは前建設大臣秘書官をしている方であります。それから林文爾さん、この方は前北国産業取締役社長、元内閣情報局情報官、これが
理事の方々であります。監事は、塚越虎男、日本銀行監事でございます。それから甲田勝博さん、こういう方が監事として、いま申し上げますように、二十五年の七月十日に設立の内容をいたしております。これは
東京都知事の認可が当時必要でございまして、認可も公益法人として受けておるのであります。
現在の
理事はいろいろかわりまして、いまは岩沢忠恭さんがなくなられまして、益谷秀次さんが
理事長です。専務
理事が林文爾さん、それから同じく山沢真龍さん、それから秋葉好雄、宮本愛
三郎、小田拓三、山内勝、小林秀彌、小鍛冶芳二、この方は三井不動産総務部付の方であります。この方々が常務
理事でございます。そして
理事として、益谷充、松前重義、相川久雄、細川勇五郎、高橋政知、原平助、監事は原昭邦という方がやっております。途中いろいろかわったと思いますが、この新聞にも出ておりますように、私は非常に乱脈な限りを尽くしておるということをまず冒頭申し上げたいと思うのでございます。
そしてこれが調査経過としましては、御
承知のように経過の内容について申し上げたほうがいいと存じますので、時間もそうたくさんございませんが、かいつまんで私の記憶のあるところを、この訴訟の資料によって証人の尋問などから推察をいたしましてお話し申し上げますと、大まかに申しますと、
昭和二十四年ごろ林文爾さんが金沢の三竹旅館というところで、中島飛行機会社の後身である富士産業の取締役をしておった小口さんという方とたまたま旅館で一緒になった。そこで、いま物納の問題で富士産業は約四億数千万円の物納をしなければならぬ、それは戦時臨時的な税制の規定によってさようなことがきた、何とかならぬものだろうか。ところが中島飛行機工場のあとは御
承知のとおり富士産業が受けておりますけれ
ども、いわゆるじゅうたん爆撃を受けまして、そしてたいへんな状態で、とてもじゃないが関東財務局はそれを物納の対象にすることはできないということをいわれて非常に困っておるのだという話が出まして、林文爾さんが、それじゃ私が骨を折ってあげましょうというようなことで、大体二十四年の暮れごろから御本人もいろいろ鹿島組の
幹部とか、あるいは建築の専門家とか、いろいろな人を帯同してそこを調査いたしました。そしてこれは大体いけるというふうに価格を踏まれたようでございます。つまり当時の、これはあとでわかったことですが、三井不動産の江戸英雄さんの
関係の豊さんという三井不動産の
幹部級の方が、当時の証言によりますと、大体原価が土地が約二万三千坪ばかり、それから建物は四万とか五万という高いものでございましたので、坪数はそれよりずっと多くなっております。価格は大体五億円か六億円するだろうということを値を踏んでおられました。したがって林文爾さんは、そういうことを十分いろいろ研究され、世間のことについては非常に詳しい方でございますので、いろいろの角度から研究されたと思います。そこで、その調査を終わりまして、当時ポツダム宣言の規定によるいわゆる日本の機械類あるいは軍需工場にあるものなんかは御
承知のように賠償的な機械として当時の賠償庁、これが
東京都知事と一緒になって管理をするという形をとっておったわけであります。ところが、これはアメリカのいわゆる民政部、
東京、神奈川方面の民政部の指導のもとにそれらが行なわれておるという事情でございました。ですから林さんはここに賠償の機械が約四千台近くあるということは十分御
承知でございました。またこれがその当時の二十四年ごろでは移転ができるかどうかというようなことについてもかなり研究をされておったと推定ができるわけであります。そして林さんという方は、たいへん器用な方でございまして、一内閣の情報官であったにもかかわりませず、これがいわゆる興業銀行の部屋で富士産業の社長の野口さんという方と会見をしまして、そうしてそこで、私が
責任を持って物納させましょうということで、野口社長も手に余っておったのです。それは三鷹工場、それから田無工場、それから浅川工場などの問題があったわけで、一つの問題は、三鷹工場のうしろにいま国際基督教大学ができておりますが、そういうような機械を集めたり分散したり、いろいろなことを大体知っておられたと推定ができるわけであります。この林文爾さんを中心に山沢さんという人、これは当時益谷建設大臣の秘書官をしておられまして、これは新日本製鉄の要するに業
務部長をしておった男でございます。この方が中心になって、いま読み上げたような方々、いわゆる愛知さんだとか
中村さんだとか松前さんだとか、あるいは岩沢参議院議員、これらを要するに
幹部として財団を発足させて、一方においては関東財務局にいろいろ交渉されました。その中に、ふしぎなことには、当時たしか大蔵大臣をしておられました池田勇人氏のいわゆる秘書官というので大平正芳という人がおります。この人に相談を持ちかけたところ、それは気の毒だ、そうして千二百世帯の六千人の住宅をつくることはいまわが国の政策としては非常に正しいことだ、大いにやりなさい、私も骨を折ってあげましょうというようなことで、いろいろ骨を折られたといわれておるわけであります。ここにおいて秘書官というものが池田さんにもお話しになったようでございますが、いずれにしても行為が一体国家のどういう官職の地位としての
行政行為であるのか、この点が非常に疑問であるわけです。そこで、この林さんと山沢さんを中心にいたしまして、そうして秘書官をしておられた大平正芳さんが人選をやったわけです。それは建設省
関係と大蔵省
関係の
人材をここに入れようということで、
最初、このいただいた資料にはございませんが、これは意識的に落としておるわけですが、この中には山際元日銀総裁が官職で何もしておられないので山際さんを入れておられる。これは建設省は私に間違った報告をしておるわけでございますけれ
ども、この中に山際さんが入っておるわけです。山際さんは御
承知の有名な日銀総裁にあとでなられた方です。そういう方、及び建設省からは当時
事務次官をしておって、そうして参議院に出られた岩沢忠恭さんが入っておられるわけです。それから同じく建設大臣の秘書官をしておられた山沢真龍さん、それから大蔵省
関係は銀行
局長をしておりました愛知揆一さん、この方々が入って、そうして非常に多彩な
幹部を中心に、これがいま申し上げましたような定款の規定やいろいろなものによって文化住宅を建設するのだというので発足いたしまして、そうして片一方においては、林さんと山沢さんの御奮闘によりまして、ついにこれが物納ができるようになったわけです。それで大体二十四年の終わりから二十五年の当初にこれが物納が成功いたしまして、価格は大体いま申し上げるように六億程度の価格のものであったといわれておりますが、これが大体約八千万の価格前後で物納のカタに大蔵省の関財に入ったわけであります。ところが続いて、この物納を払い下げをしてもらうということで、林さんをはじめとして愛知さんや、あるいはその他松前さんとか岩沢さん、これは建設省の元
幹部でございますが、こういう方がいろいろ奔走いたしまして、そうしてたしか二十五年の秋口ごろにこれが払い下げになったわけです。そのときの条件は、これはまた奇怪なことでございますが、調べた内容をいろいろ見ますと、大体一億一千万円くらいで払い下げしようということを当時大蔵省並びに関財は考えておったのですけれ
ども、林文爾さんの奮闘によって、これが約七千九百何十万、八千万足らずで払い下げになっておるわけです。このこと自身が大蔵省にとって一関東財務
局長だけの権限で、一億一千万に見積もったものが八千万とかあるいは七千万というそんな膨大な金を下げて一体えてかってにできるものかどうか。当時私は国
会議員でございまして、給料は二万八千円でございました。当時
一般の
給与体系なんか大体六千円ベース前後でございました。したがいまして、当時の金としてこの八千万円近い金を集めるということは容易なわざじゃございません。ところが、この文化住宅という財団は資金がたった百二万円しかないわけですよ。それで岩沢忠恭さんを
理事長としてこれはやっているわけですね、いま申し上げるように。大蔵省へ返す金約八千万近くあるわけです。そしてその第一期分を二十六年の二月二十日に納入する、これは約二千万ばかりです。次の一千万は同じ二十六年の三月三十一日に納める、あと残りは二十七年あるいは二十八年の三月三十一日にそれぞれ大体約二千五百万ずつ納める、こういうことで約八千万ばかりの金の決済をつけるということになっておったようでございます。これは文書で明確でございます。ところがこの財団法人は、いま申し上げたように公益法人でありながら資金はたった百万円。そして当時この
人たちが考えておったことは、住宅金融公庫ができたから、そこで大体八割くらい借りていこう、あとの大体二千万前後は寄付によっていきましょう、こういう目算を一応立てておられたようでございます、いろいろの証言から見ますと。ところが賠償の機械がそこにすわっておった。これは動かすことがなかなか困難だということで、資金繰りがつかなくなってきた。千葉銀行、帝国銀行その他の信用
組合など多方面にわたって金策をしたけれ
ども、金は一向集まらない。したがって、二十六年の二月二十日にも第一回分の約二千万円の金を払うことができない。続いて三月三十一日にも一千万円の第二期分の金を払うことができない。じんぜんとして日を暮らして、結論としては、大体二十六年の十月ごろになって、やいのやいの催促をしたけれ
ども、金が集まってこない。そこで、この
人たちはどういうことをおやりになったかというと、再びまた大平正芳さんのところへ泣き込んで、信用のできる資本家は大体江戸英雄さんだ、当時井上義海という方が関財
局長をしておりましたが、これに会ってもらって少し延期してもらおうじゃないかということで、山沢専務
理事と林文爾専務
理事、そして大平正芳さんがくっついて江戸英雄さんのところへ行って面通しをしたわけです。そして、ひとつたいへん困っておるから何とか融資をしていただきたい、こういうことがやはり記録にはっきりしておるわけですね。これは大体二十六年の十月前後であったと思います。
そこで井上関財
局長は、あなたが保証してくださるなら私たちは少しお待ちしましょうということで、十一月ごろまで待ったわけであります。一向金を払いそうにない。納入していない。そこで業を煮やして、御
承知のようにいろいろ催促もやったわけです。それでこの書類を見ますと、この
人たちは二十数回延期方を申し入れて、関財局へ、あるいは大平正芳さんやその他の
幹部に接触をしておるわけです。しかし依然として金は集まらない。どうか待っていただきたいということでやってきたわけです。ところが、江戸英雄さんがこつ然としてあらわれましてから、ある程度関財はこれを認めまして、たしか期限を十一月の二十日ころであったと記憶しておりますが、そこまで待ったわけだ。それでもまだ金ができてこない。江戸さんは御
承知のように三井不動産の
幹部でございました。この人のあとの証言から見ると、当時三井不動産はそんな金を出す余裕はなかったのだ、特にアパートを建てるとかそういう建築をやることについて、三井不動産はそんな金を出すことはできない、こういうことをあとの証言において言われているわけだ。にもかかわらず、江戸英雄さんは、いま申し上げたように大平正芳氏のあっせんによって、林文爾さんと山沢それがしに面接をして、わざわざ関東財務局の井上義海さんのところへ行っておるわけです。そして払う気はないけれ
ども、
自分が顔を出しておけば何とか延ばしてくれるだろうという甘い考えを持っておったと推定ができるのであります。ところが十二月になっても金を払わない。井上関財
局長は、再三の催促をしたけれ
ども金を払わないというので、いわゆる民法の五百四十条及び四十一条の規定によって契約解除の通知を発したわけです。この通知は十二月二十五日に出しておるわけです。ところが、二十五日をこえまして、この法人の
事務所を移転しておったわけです。山沢さんという人は、どこか江戸川の方面に
事務所を移転しておったけれ
ども、肝心かなめの関財局や大蔵当局に
事務所移転の通知を出してなかった。それまでは銀座のほうで営業しておった形をとっておったわけです。ところがこの郵便物は、いろいろ回ってまいりまして、結局返ってしまった。関財局に一月八日の日に返りました。名あて人がわからないということで返ってしまった。そこでまた関財局は、あわててそれをさらに封筒に入れて、今度は岩沢忠恭参議院議員の官舎に送ったわけです。つまり議員会館に送ったわけです。ところがここに赤尾という秘書がいて、それを見たけれ
ども、これはおれのほうに
関係はないと考えたらしくて、そのまままた山沢氏のところに転送してしまった。転送しててんでんばらばらになって、翌年の二月八日にわかったということを言っておるわけであります。当時私は全逓の
委員長として、郵便物が通常送達でどういう状態にあったかよく知っておるのであります。これが一月八日に参議院に行っている。この点はあとで清瀬大先生とか岡村玄治先生とか本間喜一郎先生などの弁護人を立てて、高裁において、これは正当な契約解除の到達主義がとれないという判決を下しておるわけです。これは法務省の方にも聞いていただきたいのだが、こういうことが一体まかり通るのかどうか。これが第一点であります。
次の点は、二十七年の一月二十日から国会は開かれておったわけです。そうして岩沢参議院議員は二十日、二十一日、二十二日、二十三日、二月一日、二日、三日、九日まで参議院の中で議員活動をしておったことは証明されておるわけです。ところが、いまお話をしますように、岩沢さんが見たというのは実は二月の八日であったというふうに言っておるわけです。ところが御本人はあとの証言では、私は九日、十日ごろはいなかったのだ、広島に行っておったのだ、こういう証言をしておる個所もあるわけです。ところが三井不動産は二月の七日に融資をしておるわけだ。つまり一月の八日にこれが関財局に返っていって、それをまた再び今度参議院会館に送ったところが、その赤尾という秘書が、これは参議院議員の岩沢
理事長の受けるものではないと思って山沢さんのところに送った。それが日にちから推定いたしまして、十四、五日ごろ山沢さんのところに行ったと推定できる。山沢さんたちは、それまでは関財局に毎日のように出入りしておった人なんです。したがって、この郵便物を見たときに、これはたいへんだ、契約解除だといってあわてなければならない人が、二月の八日になって岩沢参議院議員が来て、実は契約解除になったのだ、帝国銀行には七日に約二千万の金を入れたのだ、こういうことが問題の中心になっているわけですよ。こんな見え透いたことが——しかもあとで参議院議員の岩沢さんは、読んでみると、私は九日、十日は旅行しておったということをあるところで証言しておられるわけです。こういうことについて当時の関財の皆さん、大蔵省は知っておったかどうか。私が申し上げるように、
裁判では、これは到達主義をとれないという高裁や最高裁の判決が出ておるわけだ。それで国会のキーを預かるところのカウンター
事務の人とか、そういう人を証人にあげて喚問しておるのですが、そういうことについてはいわゆる国会法上の公務じゃないからして、個人の、千葉かどこかに住んでおられた岩沢さんの家に届けなければ正当な郵便物の送達にはならないというような解釈を下しておるのであります。いま大体申し上げたような点について関財局どうです。私の記憶違いもあるけれ
ども、大まかに言ってこういう事実を認めるかどうか。簡単にイエスかノーか答えていただきたい。