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参考人(
伊達秋雄君) ただいまの御
質問ですが、私は、ただいま法政大学の教授で、学問を主にいたしておりまして、実は、あまり
政治的なことには
関係いたしておりませんので、
政治的な判断は、ここで申し上げることは、その任にもありませんので差し控えたいと思うのであります。ただ最初に、これから御
質問があると思いますので、最初に私の立場を申し上げて、その上でいろいろな御判断をお願いしたいというふうに思いますので、貴重な時間ではありますが、しばらく私の立場の釈明をお許しを願いたいと思うのであります。
私は、三十年間、正確には二十九年間でありまするが、裁判官をいたしておりました。言うまでもありませんが、裁判官として一党一派に偏せずに、ただこれ憲法及び
法律に従って公正な客観的な判断をするということに日夜精進をしてまいりました。裁判官の生きがいというものは、そこにしかないと私は考えて二十九年間つとめてまいりました。したがいまして、御
承知のように、砂川
事件の判決におきましても、私は
政治的な立場を極力払拭して、ただこれ、憲法の精神に従うという立場において、公正に、自己の良心に従って、自己の利害を顧みず私は判決をしたつもりであります。今日、裁判所をやめまして在野の身になりましたけれども、
長年の習性抜きがたく、いまだに、
政治的なことについては、まことにうといのでありまして、そういう点につきましては、皆さま方の御満足のいただける為答えができるかどうかということは非常に疑わしいのであります。私は、実は、
法律的な問題について御
質問を承るのであろうと思ってまいりましたので、その点でしたら、あるいは自信を持って、私なりの自信を持って申し上げることはできるかもしれませんが、
政治的にかかわる問題については、私はまことにふえてでございます。そういうことを前置きいたしまして、ただいまの御
質問に答えるわけでありますので、これは全く私の専門外のしろうと的な、いわば一
国民としての感覚、しかしこれは、あくまでも、私は共産党員でもなければ社会党員でもありません。自民党員でもありませんし、いかなる政党にも属しておりません。ただ今日は、一市民として、一学究としてその日を送っております。そういう立場で申し上げたいと思うのです。
私ども、今日の民主社会においては、われわれが国会議員を選び、その国会において
政府を選ぶわけでありまして、いわば原理的に申しますと、また形式的に申しますれば、
政府というものは
国民の代表である、またあらねばならぬということを私はかたく信じております。したがいまして、
政府の言うことは、
国民を代表して、
国民の意に即しておやりくださって、やるんだということの信念、確信、信頼、そういうものを基礎としなければならぬと私は思っています。これこそ、民主主義の社会であり、民主
政治であろうと思います。しかしながら、これはあくまでも原則でありまして、また、われわれの希望でありまして、願望であるちう点もまた否定できないのであります。ただ、現実においては、私どもがあの四年間にあるいは三年間に、一票を投じてわれわれの代表を選ぶ、そうすれば、すべてを白紙委任状にまかして、そしてそれに全部をおまかせする——おまかせしたいのでありまするが、必ずしもそれがすべて
国民の意思に沿うということが言い得るかどうかということは、必ずしも、原理的には認められても、現実においては認められない場合があるのではないかというふうに考えるのです。そういたしますれば、
政府のなす行動——はなはだ私は口はばったいことを申し上げて恐縮でありますが、
政府の行動については、やはり時々刻々、その問題、その問題について批判をし、検討を加えなければならないというように考えておるのであります。しかし、私は、原則として、あくまでも
政府というものを信頼し、
政府は
国民の代表であるという、この厳然たる事実を大
前提として考えなければならないというふうに私は思っておる。
そこで、たとえば、
政府が、沖繩の返還に関する協定について何ら秘密協定はない、裏協定というものはないということを公言いたしました場合、私どもはこれを信じたいのであります。しかし、私どもは、何と申しましても、あの暗い戦時中の時代を過ぎております。そうして、戦争が終わった後に、どういうことがわれわれの前に明らかにされたか、実はいまだから語るというようなことが常にはんらんいたしておるのであります。われわれは、常に、過ぎ去った後において、あのときはああだったということを——数多くの秘密、われわれに隠された
政治の現実、歴史というものを知らされております。そういう現実を踏まえて考えてみた場合、私どもは、
政府のしたことが、真実をすべて語っておるということは必ずしも言えなかったのじゃないかという危惧を抱かざるを得ないのであります。したがって、
政府といたしましては、これは単に私一人の考えではなく、多くの
国民の中に、意識的に
政府に反対しょうと、反対せんがための反対という立場をとれば、これは論外でありますが、そうではなくて、
政府を信頼したいという立場に立ちましても、なおかつ疑問を抱かざるを得ない場合があり得るのではないかというふうに思います。で、
政府は、そういうことに対しては、片りん、そういうものはないということに、
国民に信頼を与えるような
政治をなさなければならないのじゃないかというように考えています。いやしくも、
国民に対して疑惑を与えるような行動、態度を示すということは、絶対に避けるべきことであります。これこそ、民主主義
政治の
政府の側のあり方としての基本的な立場であろうかと思うのであります。そういう観点から見ますと、今回の国会の論争を通じて見ました場合に、私どもは何かあるのではないか、その裏に何かがあるのではないかという疑問を抱かずにはおられません。不幸にして、それは何となく私どもは全部が解明されたとは思い得ないような感じを受けるのであります。真相をもとより知るべくもありません。しかしながら、何かそういう疑惑を私どもは持たざるを得ないような感じが今日いたしておるのは、まことに遺憾と思うのであります。おそらく、こういう考え方は、私一人にとどまらず、
一般に多くの人々がお持ちになっておるんではなかろうかという私は推測をいたすのでありまして、今回の問題も、そういう疑惑ということを
前提とする、そうして考えなければならない。その上に立って、知る権利という問題もここに強く強調しなければならないという背景というものがあるのではなかろうか、かように私は考えておるのでありまして、それ以上、具体的にどのようなことがひそまれているかということについて、私は何ら知らないのであります。