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国務大臣(竹下登君) まず第一点からお
答えいたします。
野々山委員御指摘のとおり、昭和四十年四月十五日、私が内閣官房副長官の際であります。これが両院のそれぞれの
委員会で取り上げられました。そのときの
趣旨は、率直に申し上げまして、大体昭和二十八年四月三十日の次官会議申し合わせに基づいて各省は
秘密文書等の取り扱規程をつくっておる。それが
機密、
極秘、秘、部外秘というようなことに、四
種類の区分をしてなされておるが、今日、
先ほど加瀬
委員の発言の御
趣旨と同じように、言うなれば、秘
文書というものが非常に便宜的に取り扱われ、それなりに数が多くなり過ぎて、いわゆる秘というものに対するある種の何と申しましょうか、まあ秘になれっこになってしまっているという背景で、実は四十年の事務次官申し合わせというものは、いかにしてそういうものを少なくするかという
趣旨で実はつくったわけであります。したがいまして、今日御議論をい
ただいておるような背景とはその点は若干背景を異にいたしておるわけであります。そこでその二十八年四月三十日の次官会議申し合わせを踏まえながら、それを廃止して新たに、
ただいま
野々山委員御指摘のように、これを申し合わせとしてきめまして、内閣
官房長官名をもって各省事務次官宛にこれを通達いたしたわけであります。
その
あとこれにつきまして、お手元におそらく
資料としてお出し申し上げていると思うのでありますが、これそのものをそれなりに最近になって読み返してみますと、この取り
扱いについてしかもそれに基づいて各省がそれぞれに行なっておるわけでありますが、いうなれば追跡
——ことばは適当でございませんが
——追跡
調査がきわめて欠けておったと、こういうことであろうと思います。もっとも最近できました環境庁の
文書取り
扱い規定が、昭和二十八年のその廃止された分の
基準に基づいてできておる、こういう残念な事実も確かにございます。
したがいましてこのたび行ないましたのは、もう一度この四十年の事務次官申し合わせの線に返って各省においてこれを整理検討して、少なくとも
一つのアベレージをそろえてもらいたいと、こういうことであります。とは申しますものの、いままで御議論なすっておりますように、
外務省、
防衛庁と他省とはかなり秘
文書そのものの扱う件数とかあるいは接触の
度合いというのが、いろいろ、たいへんな相違がございます。普通私どもが
指定秘であると同時にまさに
実質秘であるという社会通念上から考えられるものに、たとえば入学試験問題でありますとか、あるいは入札以前におきますところの設計単価、入札の予定価格でありますとか、またいわゆる人事案件にいたしましても、本人に通知するまでの間、すなわち公表までの秘ということは、私はそれなりに常識的に洗い直してみたら、なるほどな、ある種の
基準だと御認識をい
ただけるものがあるんじゃないか。しかし、それすらいままできちっとしているわけでありませんので、これは私は早急に整理することができると、このように思っておるわけであります。
そこで、
先ほど来御議論にありますいわゆる特に
外務省とか
防衛庁とかその他繊維交渉の過程における通産省とかそういうものも例外としてはもとよりあるわけでありますが、非常に多い
外務省、
防衛庁等におきますところの
極秘、これは抽象的には「
秘密保全の必要が高く、その漏洩が国の安全、利益に損害を与えるおそれのあるもの。」とこういうふうに記されておりますが、これが私が最近いろいろ御議論をしておりますところの
秘密とは、国益とは、こういう議論になるわけであります。
ことばの足りない点がありますればのちほど御
質疑をい
ただくことにいたしまして、私が申しておりますのは、
極秘とか秘とかいうものが非常に国益をそこなう場合、あるいは加瀬
委員も御指摘の、そこなうおそれのある場合、というようにそういう判断が新しいこの
基準になれば、さすれば国益とは何であるかという、こういう議論になります。国益とは、これも一般的社会通念上の
ことばといたしましては、国家国民の利益あるいは国家の安全に関する事項と、こういうことに一応統一されると思いますが、その国益とは、たとえば国益を阻害するおそれがあるという判断はだれがするかという御議論にもなるわけであります。これは私は最終的には国民がするものであると、基本的には国民がきめるものであると申しております。それからそれが犯罪を構成するかどうかという争いになった場合には、これは
裁判所がきめる。これは国益とは当然憲法というものが大
前提になりますだけに、そこには最高
裁判所の違憲審査会と、こういうところが争いになった場合に考え方としては成り立つと思うわけであります。
そこで一般的な国益につきましては、私はそれを決定するものは国民である。しかしその国民の、主権者たる国民の代議制のもとに選ばれた
国会というものがある。そうして、その
国会が行政権の最高
責任者を指名をする。そうすれば、行政権の存在する限りにおいては、すなわち行政上の取り
扱いとしての秘というものはいわゆる内閣がきめると、まあこういう論理は一応の原理として成り立ち得るんじゃないか。しかし、そういうことで最も危険なことは、さようしからばそれが、国益ということが、そのそれぞれの分類によって、官房長、局長ないしはこれに準ずるもの、また秘
扱いの
文書は課長、こういうことになりますと、いわばそこの非常に主観が働いてそれらのものが決定されていく場合、いわば議会制民主主議の中においてよく議論される、多数を取ったものが与えられた任期の間、言うなれば、かってなことをやればいいじゃないか、こういう最も危険な論理にこれは結びつく危険性がある。そこでこれをチェックするものは、そこに
国会というものが、問題によっては
国会の承認を受けなければならないとか、そういうことで
国会というものがそれをチェックする大きな国民の代表
機関としてになっておる。そうしてまた
一つのテーマによっては、国益の存するところ国民自体に直接これを問うと、すなわち総選挙とか各種の選挙というものがある。だから、行政上の取り
扱いとしては、国益をそこなうおそれのあるなしの判断は
政府の
責任においてやるわけであるが、それはそのような
国会、そうしてまた最終的にはたび重なる選挙というようなところで国民次元の中に返っていくものであるだけに、さらに最近の動向からいたしまして、そこに知る権利を持つ国民と、言うなれば主権者たる国民に対し知らせる
義務がある
政府との間に存在する厳正なる報道
機関というものが媒体活動をなして、絶えず世論を背景にこれを監視しておる、さようしからばおのずから社会通念上の良識というものが働いて、それが大きな混乱、大きな間違いを生ずることはなかろうではないかと、まあこういう一応の私の主張でございます。
ただし、それに対してはまず
国会というものが国権の最高
機関であり、そして国政
審議権をお持ちになっているだけに
国会が監視い
ただける、また報道
機関が世論を背景にこれを監視していけるだけの、できるだけの常識の素材というものは提供するという最大限の努力というものは、これは行
政府そのものが絶えず持ち続けていかなければならない、いわゆる民主国家における鉄則であると、このようなことを申し上げておるわけであります。