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参考人(
佐藤正雄君) ただいまはたいへん塩釜のためにあたたかい
お話をちょうだいいたしまして、私、議長といたしまして感激一ぱいでございます。
きょうは私のほかに、現在の産業常任
委員長であります鈴木甚三郎、並びに当時加工団地の
理事といたしましてこの問題と現実に取り組んだ人、そして今度新たに議員になりました加藤豊吉議員が来ております。それに前回の、この問題を取り上げるために相当また議員の
立場で苦しみました前産業
委員長の瀬戸盛雄議員が来ております。なお財政問題につきまして担当しております総務教育の
委員長早坂鉄郎議員が来ております。と申しますことは、この問題は塩釜の消長浮沈にかかわる重大問題であるから、そのような態勢で諸先生方に
お願い申し上げろという激励を昨日ちょうだいいたしたわけでございます。ほんとうにこのような機会を与えていただきまして、われわれ末端の議員といたしましてほんとうにありがたく、ありがたく、言うならば一面恋人に会うような気持ちでございます。また半面かぜを引いたカラスのような心境でもございます。これをよく皆さま、われわれの心中をお察しくださいまして、私がただいまかいつまんで申し上げますことをお聞き取り願えれば幸いと思うのでございます。
かいつまんで申し上げます。まずもって、加工団地組合を組織するまでの
経過でございます。いまから申し上げますことは、いろいろ揣摩憶測、またデマ宣伝をとられておりますので、はっきりとこの場所において真実を申し上げたいと思うのでございます。
市内に散在するおよそ二百六十余の水産業者を一カ所に集めまして、これから排出される汚水を共同処理し、そして宮城県で定めております公害防止条例の水質基準、すなわちBOD一〇〇PPM以下にして放流をして、公害をなくしよう。そして塩釜湾内の水質保全と浅海漁場の保護を目的といたしまして、この団地を建設しようという計画が
昭和四十二年当初からあったわけでございます。しかし、市内の水産加工業者は中小零細業者であるために、工場の移転及び公害防止施設の建設には、財政負担能力から見てきわめて消極的であったわけでございます。しかし、われわれ議会といたしましても、やがてくる公害問題を踏まえまして、その前提に立ちまして、市とともにこの水産業界の発展のためにも、どうしたらこれが解決できるのかということで、よく業界と
話し合いまして、そして国のほうの御
指導を願い、
公害防止事業団の御
指導を願い、県の御
指導を願い、水産加工業の団地化に踏み切ったのでございます。そしてこれを実現させるために、加工業界の代表者を集めまして、塩釜水産物加工団地事業促進協議会を四十二年九月に
発足させまして、さらに十二月の十四日に、水協法に基づく塩釜市の団地水産加工業協同組合の
発足を見たわけでございます。資金といたしまして六千六百万、組合員といたしましては二百六十四名であったわけでございます。
しかし、いろいろ財政問題にも悩んでおりました
関係上、市におきましても、四十四年度から四十六年度まで、公害防止のためにやるものであるから、とりあえず一千万ずつ毎年助けてやろうじゃないかということを議決いたしました。県に対しましても、やはり県は安閑としてはいられないではないかということを申し上げまして、知事さんから四十四年度に一千万をちょうだいいたしたわけでございます。しかし、浄化槽の機能の不全のため、全く困ってしまいまして、次のような対策を立てました。
昭和四十四年一月以降の最盛期は、
関係各機関との間で協議を重ねまして、機能不全についていろいろ物理的に化学的にその原因を探求し、そしてりっぱなものにしようじゃないかということをここで話し合ったわけでございます。また、機能不全の応急対策といたしまして、ラグーンという、すなわち汚水を入れる池を四十四年の七月から九月までに何とかつくってほしいということを
お願い申したわけでございます。しかし、
昭和四十五年の一月以降の最盛期は、このラグーンを設置したにもかかわらず、これが飽和
状態になりまして、また、機能が思うように回転しないために、この不純物として出てまいりましたベト処理には全く困りまして、十二月の末から一月の初めまでには相当の量が出ますので、どうしてもこれを処理することに苦慮したわけでございます。しかし、このベトと申しますものは、学者に聞きますというと、原初にはベトというものはなかったそうでございます。しかし、われわれといたしましては、ベトが出るということをこれは前もって——ベトというものはあるのでございますから、そう言われましてもわれわれはこの処理を考えてつくったのじゃないかということで、まあいろいろ協議をしたのでございますけれ
ども、あいまいであったわけでございます。
このような
状態が続きましたので、困ってしまいまして、市から職員を二名派遣いたしまして、とにかくこのベト処理に全力を尽くせということで、一生懸命苦労したのでございますけれ
ども、あまり出るので、とにかく何ともかんとも処置ができない。こういうことに要した費用というものは相当ばく大なものであったわけでございます。しかし、議会もこの問題を等閑視できませんので、ベトの捨て場を、市内のある百姓の方にみんなで行って頭を下げまして、そのたんぼを譲っていただきまして、そのたんぼにいまは一応ごみとまぜましてごまかして焼いているのが現状でございます。ところが、その
周辺の百姓並びに民家から、むさいような煙を出してよごして何しているんだというふうに、今度は逆に煙のほうから文句を受けまして、全くほとほともうしようのないような
状態でいるわけでございます。
さらに、この団地組合は、施設
改善のためにいろいろな工事をいたしました。その工事は、大体三千万もまた
自分の金を出している。そしてこの第四期の決算には六千万に及ぶ赤字が出ているというような始末でございます。このようなことがあったために、せっかく水産加工団地をつくりまして、先ほど申されました集約をして、そして公害を防止しようとした問題も一応挫折をしてしまったわけでございます。しかし、嘆いてはおられません。御存じのとおり、隣に観光地松島がございまするので、これがなにになったならば、今度は松島から文句が来、また七カ浜から文句が来、また多賀城の一部から文句が来、四面楚歌の
状態におきまして、議長も議会も苦しんでいるのが実態でございます。これは偽らざる真実でございます。
そのような
状態に立って、しからば一体、いま塩釜の事情は財政的にどうなっているのか、これをつくるときはどうしたのかという疑問があると思いますから、はっきり申し上げます。この工事をするときの経費は四億九千六百万、これは
公害防止事業団から、金でなく施設で譲り受けたものでございます。これは二年間据え置きで二十年、年利六分で返さねばなりませんから、二十年後には約九億の金を返すということになるわけでございます。そしてこの事業の目的といたしましては、一日三百二十トンの魚を、すなわち、われわれはスケソウと称しまして、さつまあげ、かまぼこをつくる北海の幸スケソウでございます。この三百二十トンを六百八十トンの水で処理して、そして二、一三〇PPMのよごれを一〇〇PPMにするんだという施設で譲り受けたわけでございます。ところが、そのあと何と二、一三〇PPMどころか、一〇、〇〇〇から二〇、〇〇〇、施設によっては三〇、〇〇〇をこすというデータが出てまいったわけでございます。さあ困ったもんだ。二、一三〇といったのが何年もたたないうちに一〇、〇〇〇から二〇、〇〇〇、ひどいときは三〇、〇〇〇、それではどうすればいいんだということでいろいろ苦慮したのでございますけれ
ども、せっかく国のほうでも出してくれた金であるから何とか直らないか、これを直す
方向に前進しようということで、四十三年から四十六年まで、これを直すために市民の血税を七千万ほど入れているわけでございます。先ほど申しました一千万ずつのほかに、約四千万の金をたたき込んで、これを直そうじゃないかという
努力をしてまいったわけでございます。これは具体的に明細を出せというなら、四十三年から四十六年まで、どういう金を出したか、ここで
説明をしてもよろしいけれ
ども、これは末節論でございますから、とにかく四億九千六百万の事業費のうちに市が七千万の金、血税を出して立て直そうとした
努力、これだけは買っていただきたいと私思うのでございます。そうしているうちに四十六年の九月の二十日、この日に元金が千四百万ほど、利息が千六百万ほどを払わなくちゃならないのでございますけれ
ども、六月の二十六日に市長あてに、とても払えないから一千四百万の元金は伸ばしてくれ、それから千六百万の利子はまけてくれろという書類を市長のほうに出したということでございます。私らもびっくりしたわけでございます。私は払うものは払う、やるものはやってやれと、こう言っていたのだけれ
ども、何ともかんともかっこうがとれないからということで
お願いにきたということでございます。
それで、今度四十四年から四十六年まで一体塩釜をだれが見にきたかということを調べましたら、この間に三百三十三カ所からこの加工団地を見にきております。外国といたしましてはベネズエラ、それからタイ国、中華民国の台湾省、それから北は
北海道から南は鹿児島の果てまで、あまりにも有名になったのでわんさわんさと三百三十三カ所から来ておるわけでございます。この人々に対する
説明にうんと苦しんだわけでございます。どうして
説明したらいいのか
説明のしようがない。市長はどんな気持ちかわかりませんが、ある次長さんには、とても成功いたしましたと。ほんとうにこれは成功いたしましたから皆さんも喜んで見てください。ところが新聞には大騒動のようにあがっておりますので、その次長さんは私のところに来まして、新聞ではずいぶん失敗したと書いているのに、市長さんが成功しましたというのはどういうことですかということを私、聞かれました。で、私も困ってしまいまして、市長の言うのは、
日本全国のそのような都市に塩釜のような加工団地をつくるなということで成功したんだと。私は成功したと思わない。こういうものを奨励したならば都市もみな貧乏する。だからそれは私は失敗だという。だから、失敗なものをつくったから今度つくるなということで成功したというなら話はわかる。わしはこういうふうに
説明したら、なるほどねと、こういうことを私に言ってくれたわけでございます。それで、これを裏づけることといたしまして、
昭和四十一年の九月に水質検査をしてくださいました。これは県とそれから市とそれから事業団の方がおいでくださいまして、市内の工場三カ所、湾内三カ所、そういうものを検査してくれまして、県の資料とあわせて、先ほど申しました二、二二〇PPMにきめたということでございます。
そのあとございますけれ
ども、皆さまのいろいろな御意見もあると思いますから、大体この辺で、私、やめるんでなくて一応休憩をするということで御
理解を願いたいと思います。