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山中(吾)委員 御心境よくわかりました。そこで、たとえば学識経験者あるいは社会人で国会に籍のある者が運営に入りますと、私はプラスよりマイナスが出るというふうに心配をするので、これはお互いに吟味してみたいと思う。
なお、この問題について私の問題と思うのは、大学の構成者、現在の大学の自治は教授会自治になっておる。したがってほんとうの大学の自治でない。教授会の封建的な人間
関係あるいは学者の非常に狭い社会的認識というふうなものが弊害をつくっておるので、大学の構成員全体が参加するということがまず第一に開かれた大学の方向ではないか。それで大学の構成というのは、教授、
職員、学生三者の構成というものが全部参加できるような中で、正当なる大学の自治を確立していくことが先決ではないかと私は思うのです。
そこで私は、大体一般論を言えば、権力を与えられない者、無権力者というものは暴力に訴えるしか自分の目的、希望を達成する道がないから、権力を与えられない者にとっては暴力でも正当化が出てくる。そこで、すでに成人に達し一般の教養を持っておる学生が無権力の地位に置かれるから、その権利に基づいて訴える道がないので暴力に訴えざるを得ないという現象が出る、逆説的に言えば。権力を持った者は暴力で主張する必要がない。権力があればその筋で意見を述べ、参加をし、承認を求めることができる。だから私は、現代の大学の自治の混乱の中に、無権力の地位に置かれた学生、その学生が非合法的な訴えしかできない、権利がないので、そこに
一つの大きな問題があるんじゃないかという分析をしておる。そこで、管理運営の場合には、まず大学を構成しておる学生の地位、それに一定の権利を与える、それから管理の
職員に対する地位も与える、そして単なる教授会の自治を、教授、学生、
職員全体の自治の方向に持っていく、そのあとに第三者が参加すべきかどうかということが順序ではないかと思うものであって、これはお互いに今後吟味していきたいと思います。
そこで、こういう構成員を全部大学の運営に参加させるというふうな思想を立てているときには、一体大学観というものをどう持つか。やはり大学を
一つの学問、学術を研究する社会として見て、その社会の構成員である教授、学生、
職員が参加、承認することによって運営していくという
考え方は、われわれが
大学基本法の中で
考えるときには、その大学に対する
考え方はやはり社会観でなければならぬのじゃないか。ところが、文部省の伝統的な
考え方は、依然として大学営造物観である。そこで、大学問題のときに、私の
質問に対して大学営造物観を固執して一歩もあとに譲らなかった大学
局長がおるんだが、そういう営造物観の
立場に立つと、博物館、図書館の入場者と同じようにお客さんである。営造物規則に従うだけが与えられた地位であって、その博物館、図書館の運営に参加する権利はない。無権利者だ。その無権利に置かれた学生が、ああいうふうな暴力に訴えざるを得ない。無権利者の表現の
方途としてはそれしかないんだというところに出ておると見ておるので、そのときに営造物観というものを変革しないと学生の地位も出てこない。
そこで、
鈴木さんの
提案されておる
大学基本法の奥の大学観は、少なくとも文部省の伝統的な
考え方の営造物観を克服した大学社会観であろうと思う。それでなければ発展はないと思うのですが、いかがでしょう。