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1971-02-19 第65回国会 衆議院 文教委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十六年二月十九日(金曜日)     午前十時十二分開議  出席委員    委員長 八木 徹雄君    理事 久野 忠治君 理事 久保田円次君    理事 河野 洋平君 理事 櫻内 義雄君    理事 谷川 和穗君 理事 山中 吾郎君    理事 正木 良明君       有田 喜一君    稻葉  修君       小沢 一郎君    塩崎  潤君       高見 三郎君    床次 徳二君       野中 英二君    羽田  孜君       古内 広雄君    松永  光君       森  喜朗君    吉田  実君       渡部 恒三君    川村 継義君       木島喜兵衞君    小林 信一君       有島 重武君    多田 時子君       山原健二郎君  出席国務大臣         文 部 大 臣 坂田 道太君  出席政府委員         文部政務次官  西岡 武夫君         文部大臣官房長 安嶋  彌君         文部大臣官房審         議官      西田亀久夫君         文部大臣官房会         計課長     須田 八郎君         文部省初等中等         教育局長    宮地  茂君         文部省大学学術         局長      村山 松雄君         文部省社会教育         局長      今村 武俊君         文部省管理局長 岩間英太郎君  委員外出席者         大蔵省主計局主         計官      原   徹君         文教委員会調査         室長      田中  彰君     ————————————— 委員の異動 二月十九日  辞任         補欠選任   野中 英二君     羽田  孜君   堀田 政孝君     古内 広雄君   吉田  実君     地崎宇三郎君 同日  辞任         補欠選任   羽田  孜君     野中 英二君   古内 広雄君     堀田 政孝君     ————————————— 二月十七日  各種学校制度確立に関する請願受田新吉君  紹介)(第六五九号)  同(佐々木秀世紹介)(第六六〇号)  同(前田正男紹介)(第六六一号)  同(金子一平紹介)(第七五一号)  同(笹山茂太郎紹介)(第七五二号)  同(櫻内義雄紹介)(第七五三号)  同(古井喜實紹介)(第七五四号)  同(長谷川四郎紹介)(第八一三号)  同(松本十郎紹介)(第八一四号)  国立養護教諭養成所国立大学の四年課程に改  正に関する請願川村継義紹介)(第六六二  号)  同(正木良明紹介)(第六六三号)  同(三木喜夫紹介)(第六六四号)  同(川村継義紹介)(第七五五号)  同外四件(木島喜兵衞紹介)(第七五六号)  同(正木良明紹介)(第七五七号)  同(三木喜夫紹介)(第七五八号)  同(山中吾郎紹介)(第七五九号)  同(川村継義紹介)(第八一〇号)  同(三木喜夫紹介)(第八一一号)  同(山中吾郎紹介)(第八一一号) は本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  国立学校設置法の一部を改正する法律案(内閣  提出第二五号)  文教行政基本施策に関する件      ————◇—————
  2. 八木徹雄

    八木委員長 これより会議を開きます。  文教行政基本施策に関する件について調査を行ないます。  質疑の申し出がありますので、これを許します。川村継義君。
  3. 川村継義

    川村委員 先般文部大臣から文教行政についての所信を承りましたので、それに関連をして二、三お尋ねをしたいと思います。  私がきょうお尋ねしたいと思いますことは、大臣所信について、直接いろいろとあらためて大臣のお考えをお聞きしておきたいということが第一点でございます。第二点は、この前の木島委員質問を受けまして、教育財政のあり方についてお伺いしたい。第三点は、先般の臨時国会のときにお尋ねをいたしました沖繩教育の諸問題についてあらためてお聞きをしておきたい、こう考えております。時間の都合もございますから、あるいは全部お聞きすることができないかもしれませんが、そのときには委員長のお許しをいただいて、あらためてまたいずれかの機会にお聞きをする、そういうつもりでお尋ねをしてまいります。  大臣所信表明は、大臣教育政策教育行政に取り組む非常に力強い決意をお述べいただいて、あと八項目ばかりの問題に触れておられます。私、これを全部お聞きするわけにまいりませんが、体育、スポーツの問題あるいは私立学校振興の問題、大学制度改革の問題、文化等の問題は、これまたいずれ法案等に関係してお尋ねすることができると思いますから、その次にまた質疑を申し上げることにいたします。  そこで私は、まず大臣所信にお述べいただきました問題についてお尋ねをしてまいりたいと思いますが、これまで、前回の委員会でも大臣は、所信にもございますように、学校教育制度の問題にいたしましても中教審答申を待っていろいろと施策を進めてまいる、その場合に長期教育計画を策定することも構想しておる、こういうようなお話もございました。なるほど大臣のいまのお立場としては、そのお考え、その構想といういうものがもちろん大事でありましょうし、それをお持ちであると思います。しかし、私たちは、そのような新しい立場教育政策に取り組んでいかれようとしておる文教行政文教政策が、ただ単に中教審答申を待って長期教育計画を立ててやっていくのだというようなそれだけでは、この七〇年代、八〇年代の日本教育考える場合には、何か一つ落ちているものがあるのじゃないかと心配をしているわけです。と申し上げますことは、それはやはり新しい教育の方向を見出すについては、今日まで進めてきた文教政策についての一つ反省検討というものがなければならぬ。それを踏まえていくことが大事ではないか。先ほど出されました中教審答申にいたしましてもいろいろ大事なことが述べられておりますけれども、その中教審答申を受けた世論の中には、今日までの教育反省がないではないかというような批判等中教審答申にはなされておったわけであります。  いずれにいたしましても、この後新しい教育政策を進めていかれるについて、もちろん憲法、教育基本法というものを踏まえて新しい長期教育計画を構想してくださると思うのだけれども、いまなすべきこと、正しいところの教育行政がいま行なわれているかどうか、これをやはり踏まえながら反省をし、検討を加えながら今後向かうべき教育政策というものがなければならぬのではないか、こういう点を気にかけているわけであります。私はそういう意味で、文部大臣文教政策あるいはその改革について推進していただく上において、非常に大きな英知勇断を実は期待したいものでございます。  そこで、これから二、三具体的にお聞きをしてまいりますが、大臣所信表明でお述べになりました全文について、あらためて大臣のお考えを再度お聞きをしてまいりたい。  これを全部読むことをお許しいただきますが、「このような新しい時代への一大転換期とも申すべきときにあたり、わが国世界進運に伍し、未来を切り開きつつ、一そうの飛躍発展を遂げるためには、今日までの成果に安住することなく、教育普及充実と刷新に一段と努力を傾注しなければなりません。そして、新しい時代教育目標とするところは、来たるべき社会に真の生きがいを見出し、豊かな人間性創造的英知を備え、かつ広い国際的視野を持った人間育成をはかることでなければなりません。また、」云々と、決意のほどをお述べになっておりました。  そこで、この大臣決意に基づいてもう少し大臣のお考えを明らかにお聞きしておきたいと思いますが、このことばの中に「来たるべき社会に真の生きがいを見出し、豊かな人間性創造的英知を備え、」とお述べになっておりますが、この目標を達成するにはどのような教育でなければならないのか、いままでの教育、いま行なっておる教育あるいは方針、そういうものに転換すべきものがあるのかどうなのか、転換するとなると、どういう点を切りかえていかねばならぬのか、いまの教育にどのような欠陥があるのかどうなのか、この辺のところのお考えを、新しい時代教育目標とするところはかくかくのようなものでなければならぬとお述べになっておりますが、その辺のところを、大臣ひとつまずお聞かせおきいただきたいと思います。
  4. 坂田道太

    坂田国務大臣 教育というものは、常に反省の上に立つと私は思います。同時に、われわれが考えました教育制度それ自身にしましても、常に反省を加えなければならない。しかし、それを制度として改革をする場合には、非常に慎重でなければならない。できるだけ国民大多数の、各界、各層のコンセンサスを求めつつ改革をやらなければならない。しかも改革にあたっては、やはり場合によっては反対する人もございましょうけれども、しかし、大多数のコンセンサスを得られるという確信があるならば、また勇断をもってこれを断行する、こういうことでなければ教育制度改革というものは行なわれない、かように考えるわけでございます。  私ども文部省としましても、いままでやってきた教育行政が完全であったかどうか、それについては常に私は就任以来反省をしておるわけでございまして、実は国会にこうやって臨み、文教委員会に臨み、各党の皆さま方からいろいろのことを御指摘いただきますことそれ自身が、一つのわれわれの足らざるところを指摘しておられることもあるわけでございまして、その上に立って教育行政を前向きに考えていかなければならぬと常に心しておるわけでございます。  今回の四十二年に諮問されましたわが国教育制度の総点検にいたしましても、一つはその反省に立って、現在の六・三・三・四制度というものを一体どう評価したらいいのか、プラスの点、マイナスの点、そしてまた、来たるべき社会に対応できるかどうかという点に立って中教審検討が行なわれておる、これはひとつ御了解を願いたいと思うわけでございます。そしてそれが中間報告も出され、そしてこの五月にはようやく最終答申がなされようとしておる。こういうことでございますが、中教審それ自身にいたしましても、単に六・三・三・四制度が果たしてきた役割りというものを総点検するばかりでなくて、中教審においては未来社会、つまり来たるべき新しい時代人間育成というものはどう考えたらいいのか、また、そのための制度はどうなければならないか。ともすると、経済成長あるいは技術革新という手段によって私たち生活は物質的には豊かになってきた、しかし、豊かにはなってきたが、そこから生まれてきますところの人間の経済的なあるいは時間的な余裕、たとえば労働時間でもおそらく四十八時間からだんだんこれは少なくなっていくと私は思います。レジャーを楽しむ余裕が出てくると思います。しかし、そのレジャーをどのように使うか。単に目先の享楽のために使うという方法もございましょう。しかし、人間はそれだけで満足するか。満足しないのじゃないか。むしろ何か生きがいのある使い方というものがあるのじゃないか。こういうようなふうに世の中は進んでいくのじゃないか。そういう高度に技術化し、大衆化した社会の中では、ともいたしますと豊かな人間性というものがなかなか得られにくくなって、あるいは自主的、建設的な努力を続ける創造的な英知というものが、むしろ生まれないような状況が出てきておるのじゃないか。何か管理社会的な、画一的な没個性的なそういう外部的要因が非常に出てくるんじゃないか。これを突破しまして、ほんとう創造性のある英知、それから個性ある人間能力を多種多様に発展させるための制度は、一体どうなければならないかというのが私たちの課題だと思うわけでございます。  また、そういう個性ある、あるいは日本人としての個性を十分に発揮するという人間育成考えますと同時に、今日、世界の中の日本人として偏狭な日本人であってはいけないので、過去の経験によりましていわば島国根性と申しますか、国際社会の中の一員としての日本人としては、私は未熟である、これからはそういう未熟な日本人であってはならないので、国際的に見ましても、りっぱな日本人として貢献できるような、そういう人間育成考えていかなければならぬのじゃないか。そのための制度をどうやっていくかということをただいま検討しておる。中教審についてお考えを願っておるということは、私ども自身考えておりますけれども、私たち自身考えておることが万能ではないのだ。やはり相当の経験、あるいは教育に理解のある方々にお集まりいただいて、そしていろいろの御議論をなしていただき、あるいは国民世論を聞きつつ、それを吸収しつつ一つの案を出していただく。その上で私たち反省すべきところは反省し、あるいは吸収すべきところは吸収してわれわれの具体的な長期教育計画を立ててまいりたい、あるいは新しい制度を打ち立てていきたい、こういうふうに考えるわけでございます。  こまかいいろいろの具体的な問題については、また御質問に応じましてお答え申し上げたいと思っております。
  5. 川村継義

    川村委員 ただいまお話しいただきました大臣教育理念には、たいへん共鳴するところが多いと私どもは受け取りました。もちろん、お話しのように制度改革する必要もございましょう。また、教育指導理念と申しますか、あるいは指導方針と申しますか、そういうものに大きなメスを加えていかねばならぬこともございましょう。この方針のおことばにありますように、社会に真に生きがいを見出す、一体これがためにはどのような教育がなされねばならないか。これは制度などというようなことだけでは、解決できないものがあると私は思うわけです。真に社会生きがいを見出すところの教育というものが、一体どうなければならないか、あるいは豊かな人間性創造的英知を養うには、どういう教育が行なわれねばならないか。これは六・三・三であるとかいうような制度が、必ずしもそれを生かすというふうに私は受け取らないわけであります。しかし、制度改革も必要でございましょう。そういう点を考えてまいりますと、この点についても大臣の御所見をあらためてお聞きしておきますが、私は当初申し上げましたように、いろいろこれから制度改革であるとか御構想なさっておられますけれども、いまなすべきこと、いや、引き続いて正しいところの教育行政というものがあるはずなんだ。それを見捨ておってはならないのではないか、そういう意味で実は初めお尋ねをしたことばを申し上げたわけでありますが、真に社会生きがいを見出すところの教育というものはどうなければならないか、どういう教育でなければならないか、豊かな人間性創造的英知を養うにはどのような教育が行なわれねばならないか、これが非常に大事であって、それを忘れてただ制度いじりだけでは、なかなかそれは目的を達するものではない。むしろ私が文部省行政で非常に注意してもらいたいと思っておりますことは、せっかく大臣のこのような御決意があるけれども、あるいはそれをつぶしておるのが今日の文部行政の中にありはしないか、それをやはり大きくつかみ出し、反省をしなければと、私はこう思うわけであります。  もっと言わせていただきますならば、この大臣決意の中に「新しい時代教育目標とするところは、」云々とお述べになっておりますけれども、私は、社会に真に生きがいを見出すとか、豊かな人間性を養わねばならぬとか、創造的な英知を与えねばならぬとか、あるいは国際的視野を持ったところの人間育成せよということは、これは何も新しい時代に向うところの目標ではなくて、今日でも目標とされてきたものであるし、また今日でも目標とせなければならぬ問題なんだ。新しい時代に向かうから、こういうような教育目標考えられるというものではないではないか。そうなると、これは今日でも非常に重要視すべきものであるし、へたすると、ややもするとこういうような教育目標をどこかで阻害しているところに今日の文教行政がありはしないか。それを一体十分突き詰めて検討反省を加えられておるかどうか、この辺が実は心配になっておりますから、大臣にもお尋ねをしているわけであります。大臣、もう一言お考えをお聞きいたします。
  6. 坂田道太

    坂田国務大臣 川村さん御指摘のとおりと私は思うのです。あるいはちょっと違うところもあるかと思いますけれども、と申しますのは、人間生きがいを持つか持たぬかということは、制度とかあるいはわれわれが、文部省が与えるものではない。究極的に申し上げますと、個人が獲得すべきものであると私は思うのです。しかし、個人が獲得する場合に、獲得でき得やすいようにする、あるいはできやすいような教育をやっていくということはまたわれわれのつとめである。あるいは、それを阻害しておるものは行政的にも反省をし、それを直していくというようなことは常に考えていかなければならない。これは新しい時代だとか古い時代ではなくて、ここに述べております「真の生きがいを見出し、豊かな人間性創造的英知を備え、かつ広い国際的視野を持った人間育成」ということが、いつの時代でも考えておかなければならなかった問題だ、こう私は実は思うわけです。その点は、私は全く同感でございます。しかしながらそうはいうものの、理想はそうなんですけれども戦前においては日本人は、ナショナリズムは非常に旺盛だったんだけれども、はたして国際的に見て、国際社会からほんとう日本人はといって賞揚されるようなものであったかどうかということについては、やはりわれわれはいろいろ反省をしてみなくちゃならない、あるいは教育制度自体についても反省がなされなければならない、そういうような教育内容等についても反省をしなくちゃならないということで、戦後は六・三・三・四というものが出発をした。そして六・三・三・四というものが、やはりそれなりにそれを改善する意味を持ってきたというふうに私は思うわけでございます。  それからもう一つは、戦前でございますと、非常に日本は貧乏であった。国際的に見ても貧乏であった。そして貧富の差が非常にはなはだしかった。しかし、教育はやはり平等に行なわれなければならない。経済的理由あるいは身分的な制約によってその人の才能を伸ばすことができないというような制度であってはいけないということで、戦後民主主義的ないろいろの制度が変革が行なわれた。教育制度についてもそのとおり。そして、その成果というものは、やはり私は出てきておると思う。非常に自由な、人間性をつちかうような社会というものが生まれてきた。そして、そのときの考え方は、貧乏であるならば、いろいろ精神的なことを言ってみても、あるいは人間性云々というようなことを言ってみてもだめなんだ、生活を豊かにしないことには、最低限の生活保障というか、そういうものを十分にしないことには幾ら精神主義を言ってみたって、それはだめなんだというのが戦後の風潮だったと私は思うのです。そこで、われわれはまず第一に衣食住というその問題に——とにかく物をふやさなければならないということで、ようやく豊かになってきた。しかし、豊かにはなってきたんだけれども、豊かさ、あるいは便利さ、あるいは文明といわれるそういう世の中になってきたら、そのまま人間性豊かになってきたかというと、さらに今度は公害だ、都市集中だ、あるいはまた交通戦争だということで、あるいは原子力の結果多数の人が殺戮をされるというような危険さえも出てきた。あるいは人間の生命、生存そのものが脅かされ脅迫を受ける、そして人間が生き得るための一番大事な自然そのもの人間の知恵によってむしろ逆に破壊をしてきておる、こういう世の中になってきた。こういうときにおいては、新たにもう一ぺん声を大にして、その自然破壊に対して人間性回復を叫ぶ、あるいは公害危険性というものを叫ぶということが教育の中においても出てこなければならぬという意味合いにおいて、こういうような気持ちを前文の中に私は書いておるわけでございます。  おっしゃるとおりに、文教行政の中で、そういう創造的英知をはぐくんだりあるいは人間性を育てなければならぬというのにそれを抑圧するようなことが間々あるというようなことは、私も反省をいたしておりまするが、さらにそれを乗り越えて、それを是正していかなければ私としての責任が全うできない、かように考えておるわけでございます。
  7. 川村継義

    川村委員 教育理念と申しますか、その点につきましては、大臣のお考えになっておることと私たちが、ふつつかですけれども考えておることと、非常に一致するものが多いと思います。先ほど大臣のおことばにありましたように、豊かな人間性をつちかうというような観点からしても、管理社会に埋没させるようなことがあってはならぬというおことばがあったのでございますが、さらに、時代進運に伴って労働時間の短縮等も行なわれる。その場合のレジャー使い方等についても、これはよほどそこに考えなければならぬ問題が出てくる。なるほど、これは文教行政のワクを越えて、一つ社会の大きな力として押し寄せてくるものが多いように思います。そうなると、これはやはり文部行政としても、ただ教育という狭い学校教育なら学校教育、そういうような狭いところで閉じこもっておっては、なかなかその目的は達せられないであろうことも考えられるわけであります。  それはそれといたしまして、そこで一つ、二つ具体的にお聞きをいたしますが、きのうですか、おとといですか、京浜共闘学生とかいうものがとんでもない事件を起こしておる。ああいう状態を見ると、これはだれでもが身ぶるいをするわけであります。前途有為若者たちが、どうしてああいう行動に出るのであろうか。全く判断力を欠いてしまっている。判断力もないではないか。理性も全く見受けられぬではないか。おそろしい気持ちさえいたします。しかし、教育という立場から見ると、ああいう青年がどうして生まれてきたのだろうか。これは学校教育なら学校教育そのものに、大きな罪を着せるわけにはいかないと私は思います。これは社会全体の一つの構造的なものから来ているかと思いますが、ただ私がいま心配しておるのは、テスト教育受験教育については文部省も苦心いただいて、いろいろ大学入試方法等について改善に手をつけていただいておるようでありますが、いま行なわれておるところの入試の問題、テスト教育、これについて非常に私はまだ心配をしているわけです。全国一斉学力テスト文部省勇断をもって廃止なさった。ところが、まだまだそういうようなものが残っておる。これは何とかしなければならないのではないか。その悪弊が残っておるところには、せっかく大臣教育指針に、決意にありますようなものは生み出すわけにいかぬのではないか、こういうことを心配いたしております。  これは宮地局長にお聞きいたしますが、テスト教育、あるいはいま一つ続けて申し上げますと、中学校における教科課程におけるところの選別的な教育、こういうものが一体子供にどのような影響を与えておるか、お考えになっていると思いますが、その辺のお考えをちょっと局長からお聞きしておきたい。
  8. 宮地茂

    宮地政府委員 先ほど大臣もお話しございましたが、私ども戦後の教育反省するにあたりましてよく言われますのは、戦後、これは占領軍影響もあったと思いますが、いわゆるマルバツ教育ということばで言われますそういうテストがございまして、この弊につきましてはそれなりに、いい面もございましたでしょうが、さらにテストマルバツだけで書くその答案で採点がされる、はたしてそれが、教育を受けた成果がそのマルバツで真に試し得るか、いろいろ反省もございまして、漸次そういう弊につきましては是正をいたしておるところでございます。入学試験の問題等につきましても、高等学校、大学——マルバツといったようなものが一時相当行なわれまして、しかし入学試験におきましても漸次そういう弊を改めておりますが、さらに高等学校等におきましては、いわゆる平素の子供たち教育効果をあらゆる角度から見て、高等学校のほうの入学選抜の方法として取り入れるべき面は、いわゆる調査書、内申書といったようなものの重視、こういったようなことで漸次行なっておるところでございます。  さらにもう一点、お尋ねの選別、差別教育といったお話がございました。これにつきましてはいろいろ見方もございますが、あるいは中には誤解をされている向きもございます。たとえば、できる子供とできない子供を選別するあるいは差別をするといったようなことがよく言われるのでございますが、小学校、中学校、高等学校を通じまして、十年ばかり前につくりました学習指導要領、これにつきましてはいろいろな反省から学習指導要領の改定をいたしまして、来年から小学校の新しい学習指導要領が実施されます。さらに一年おきまして中学校、次に高等学校、こういうふうになっていきますが、その場合小、中、高を通じまして子供の能力、適性に応じた教育をしていく、さらに特性を伸ばしていくような教育といったようなことが学習指導要領にもございます。その点につきまして、能力適性に応ずるあるいは高等学校の多様化、これはすべて選別し差別をするものであるといったような見方でおっしゃる方がございますが、これはそうではございませんで、あらゆる角度から教育をしているわけでございますが、子供を一クラスに入れまして、四十人、四十五人の子供を全く画一的に教育をしていくということの弊にかんがみまして、それぞれの子供の個性を伸ばしていく。ただクラスとしての平均というよりも、それぞれの一人一人の子供たちの能力、適性、特性を伸ばしていく、それこそが教育であって、一クラス四十五人だから、平均してまあまあというところならよいといったような一括した平均的なものではないといったような意味でございます。さらに多様化等と申しますと、すぐ普通科と職業科に分けて選別するんだというようなことを言われるのですが、そうでございませんで、多様化にいたしましても、能力、適性、特性に応じまして、たとえばこれは高等学校の学習指導要領で、今度教育課程を直しましたところに著しくあらわれておるのでございますが、従来の教科科目にプラスいたしまして、高等学校では基礎理科、数学一般、こういう科目をつくりました。これは数一、数二、数三といったような非常に程度の高いものに移行していく。そういたしますと、高等学校は御承知のように、今日八〇%の子供が入ってきております。それらの子供の中には、非常にバラエティーに富んでおりまして、それを画一的に数一をやったら数二だ、次は数三だといいましても、現実には数一をこなしてなくて数二に入っていく、数二もよくわからないで数三に飛んでいくということが、はたしてその子供のしあわせなりあるいは子供のためにほんとう教育であろうかということから、数学一般といったようなもの、さらに物理、化学、生物、地学というふうにとっていくわけですが、そういったようなものを総合しまして基礎理科といったようなものをするほうが、物理をやり、化学をやり、地学をやりといったとり方よりもふさわしいような子供もいるというようなことから、全部のものに物理、化学、生物、地学ととらせるのじゃなくて、子供によっては基礎理科といったようなもののほうが、理科教育についてはその子供の能力、適性を伸ばすのにもいいであろうという観点からいろいろいたしております。しかし、これを、それはできる子とできない子を選別し、さらに差別していくんだ、こういうことばで、ただ形だけを見て批判される方があるのでございますが、その点は意のあるところをぜひおくみいただきたい、こういうような考えでおります。  なお、川村先生のおっしゃいました点、私どもも心から反省もいたしておりますし、いま私が申し上げただけで十分なお答えにならないと思いますが、気持ちはそういうことで、決して差別、選別をしてする教育をやっていって、できる子供だけは大いに伸ばし、できない子供はほっておくといったような意図では毛頭ないことを御了承いただきたいと思います。
  9. 川村継義

    川村委員 それはよくわかりますし、指導要領等のねらうところもそうだと思います。ところが、残念ながら実際はなかなか皆さん方の考え方が生かされない。ということは、やはり学習指導要領で教育を進めていこうとするには、その目的を達する条件というものを整備してやらなければいかぬと思うのですよ。いま局長たいへんりっぱなお話でありましたが、それはねらいはそのとおり、何も異議は差しはさみません。ただ、それを実際に行なっていくにはその条件の整備がなければならない。たとえば高等学校における、あるいは中学校における教師の定数の問題等々がなければならない。教具、教材の整備等が整わなければならない。ところが、そういう点に、まだまだ今日のわれわれの学校というものは大きな落ち度を持っておる。この辺をやはり見詰めていただかなければならぬ。差別、選別に、ことばを返すわけではありませんが、たいへん批判があるとおっしゃるけれども、やはり批判を受けなければならぬところの状態がある。  たとえば、中学校の一つの例でありますけれども、高等学校に進学する子供はいまなおやはり、これは先生の親心でありましょう、また両親の願いでもありましょう、おそくまで受験のための課外指導等が行なわれる。ところが高校に行かない者は、もう授業が終わったら帰れと言われる。そういうところに子供というものは非常に屈辱感を受けつつある。それが、学校から帰れと帰されたところの子供たちの行動が、ややともすると犯罪につながっていくということなどが現実問題として起こるわけです。その辺のところがよほど、皆さんがそういう指導方針を持っておられるなら、それが生きるような手だてをやはり講じてくださらないと、それを忘れておっては、どんなりっぱなことを指導要領に書いて指導して、こんなことをやっておりますと言うても生かされないのではないか。また、私当初のことばに返りますが、せっかく大臣のその熱意、方針にこたえるためには、いまやるべきことを忘れておってはこれはなかなかうまくいかぬ、こういうことで実は申し上げておるわけであります。テスト教育はだんだんなくなったと言いますけれども、まだまだその弊害が多いと思います。  局長、ちょっと前に坐ってくれませんか。たいへん失礼なことですけれども、私が小学校一年生のテストを出しますから、局長、答えてください。  ここに絵があると見てください。これはテスト用紙です。非常に交通繁華な町の、自動車が往き来をしておる絵がある。向こう側にも、道路を渡ろう渡ろうと待機している何人かの人がいる。こちらのほうには、おまわりさんがその繁華な交通をずっと見ておる。その隣にはそこの八百屋のおっさんが道路交通を見ておる。おかあさんが買いものかごを下げてそこを見ておる。さあ、自動車がばんばんいっておる。なかなか向こうからこちらのほうにおばあさんも子供も渡れそうにない、こういう絵がある。これは東京にあったテスト用紙ですよ。  さて、問題。だれが一番交通を心配しているでしょう。マルバツをつけなさい。落第しないようにひとつ答えてください。あなただったらどれをつけますか。
  10. 宮地茂

    宮地政府委員 それには、たとえばおまわりさん、あるいは本人、あるいは見ておるよそのおかあさん、とかいった式の答えが五つ、六つあるわけでございましょうか。何もなくて、答えるということでございましょうか。
  11. 川村継義

    川村委員 マルバツですよ。あなたは、だれが一番心配しているというので、どれにマルをつけますか。
  12. 宮地茂

    宮地政府委員 五つ、六つ答えがあるわけですね。
  13. 川村継義

    川村委員 いま申し上げましたでしょう。だれが一番交通を心配しているか、あなたはだれにマルをつける……。
  14. 宮地茂

    宮地政府委員 まことに答えにくいのですが、まあこれは一般には「おまわりさん」と答える子供が多いと思います。しかし、私は、答えになりますかどうですか、やはり自分が一番自分のからだを心配していると思いますから、本人自身が一番心配していると——おとなの答えになるかもしれませんが、私なら私個人マルをつけたいと思います。
  15. 川村継義

    川村委員 まあ、さすがに落第ではないかもしれませんね。しかし、おかあさんにマルをつけたものはだめなんですよ。八百屋のおっさんにマルをつけたらだめなんです。おまわりさんにマルをつけなければだめなんです。よろしいですか。それがマルバツだ。あなたも「おまわりさん」とちょっと言ったが、おまわりさんにマルをつけなければだめなんだ。ところが、一年生の子供なんですよ。おまわりさんにマルをつけなければだめだというのが一体正しいか。あなたも注釈しましたけれども、子供によっては、おかあさんが一番心配していますと、マルをつけるかもしれない。それはいいじゃありませんか。しょっちゅう道路交通のひんぱんなのを見ている、そしてきのうも事故があったのを見ている八百屋のおっさんが、一番心配していますとマルをつけてもいいじゃありませんか。子供の立場に立って考えると、幾つか正しいマルがあるわけです。それを、おまわりさんにマルをつけなければ正しい答えではありません。これが点数をもらう。ほかにマルをつけたものは全部バツなんですよ。こういうテストがありますか。こういうテストはないはずです。そういうようなテスト教育を積み重ねてくる。そういうテスト教育をやらせた一番の張本人は文部省。何年かやった。そういう、もう縦に割り切ってしまうような、ほんとうに正しい社会現象やらいろいろなものを判断していく力というものをなくしてしまう。そういうものが、私は、きのうのようなああいう学生を生み出した原因ではないかと実は心配してみたことです。  そこで、もうこれだけは、七〇年、八〇年代になろうといつであろうと、こういう弊害をなくするようにぜひ努力を願わなければならぬ問題であると思うのです。
  16. 坂田道太

    坂田国務大臣 川村さんの御指摘、私も同感なんですよ。これはまた、そういう試験をもしやったとすれば、それは先生自身もどうかしているのじゃないか、私はそう思うのです。ですから、いまお述べになったことを——というのは、この間私は、あるテレビで二十歳になる人たちと、論争といいますかディスカッションをやった。そうしましたら、テレビの人が、あなた方はいままで教育を受けてきた、この制度がいいと思いますか悪いと思いますか、いいと思った人はマル、このベルを押しなさい、それから悪いと思った者はこのベルを押しなさい。たったったと出るのですね。それで私は申し上げたのです。そういうことは、一つの何かの統計のあれとしては必要かもしれない、しかし、そういうことがえてして誤る。というのは、本人たちが、複雑なあれなんで、イエスと言ったけれどもこうこうこういうわけでイエスだ、私は反対だと言ったけれどもこうこうこういうわけで反対だ、私の反対の意味というものを考えないで、ただおとなたちは、すぐ右だ左だとかあるいはマルだとかバツだとか、そういうふうに判断するといって、その二十歳になった子供たちがわれわれに対して反発をした。私は全く同感なんです。そういうようなやり方では教育はいけないのじゃないか。ある面についてそういうようなことも必要でしょう。ワン・ノブ・ゼムとしてそういう試験方法もいいかもしれないけれども、もう少しやはり個人の適性、能力を伸ばすような判定のやり方というものを考えていかないといけない。しかし、これは口ではそう言いますけれども非常にむずかしい問題で、よほどみんながやはり努力をして、あるいは知恵を出し合って、また実際に行なって、そして試行錯誤のうちにいい制度をつくっていかなければならないということで、いま文部省としても、せっかく入学試験制度の問題については根本的にメスを入れて検討いたしております。
  17. 川村継義

    川村委員 いま大臣お話しのように、そういうワークブック、テスト用紙を使ってテストをするなどという先生のやり方、それも私は非常に残念に思う。しかし、そういうワークブックやらテスト用紙を使用する、また使用させる、そういうものの販売等を認めていく、そういう教育委員会あるいは業者やあるいは文部省一つの指導というところに、全く責任がないとはいえない、私はこう思うのですね。  そこで、こういう例はたくさんあるのですよ。時間がありませんから、もうあと二つ、三つ実はテストするといいのですけれども、もうこれはやめますが、こういうことに、非常に今日全力をあげてやはり注意をしてもらわなければならぬと思います。やはり、そういうようなことやらいろいろなことを考えてみると、大体若者というのは、まだまだ未熟なところもありましょうから反抗的になる場合がありますね。それらがやっぱり犯罪などというものを引き起こす。で、若い者の願いや希望を、ただ権力や権威で押えつけていくというようなことは、これは非常に慎まなければならぬことは当然でありますが、その辺に教育のむずかしさ、また大事さというものがあると思うのです。  これは大臣も御承知でございますけれどもわが国の青少年の人口は昭和四十四年一千九百八十八万人、そのうちの一千九十三万人、五五%は労働人口なんですね。これは日本の全労働者の二一・四%を占めておる。その労働人口のうちの一千九十三万人が仕事についておる。これは十五歳から二十四歳までの青少年です。こういう働いておる青少年の教育を一体どうするか、これも考えなければならぬでしょう。  そこで、高校教育考えるについても、やはり働きながら勉強するところの定時制の問題であるとか、これはいままでより以上に重視していかなければ、大臣方針というものも達成できないじゃないか。生きがいを感ずる、豊かな人間性を養成するとかいっても、私はこういうところの問題が出てくると思うのですね。しかも、定時制高校を出たら就職のときでも差別をされるような社会体制などは、これは文教の力で排除していくような社会システムというものをやはり考えていくことも大事だと思います。  青少年白書等にあらわれております、この警察庁の発表によりましても、四十五年、昨年度は青少年犯罪の検挙数が非常に多い。これはもう実に驚くほど増加をしているわけです。その中で、申し上げるまでもないことですけれども、警察庁はこれらを分析して、青少年犯罪の検挙されたものの中から考えてみると、犯罪が低年層化しておる、それから非行が非常に多様化しておる、特に高校生には広域型の犯罪が出てきた、それから学校教育の進学の問題が大きな影響を与えておる、悪の温床である社会環境が大きな影響を与えておる、商業主義、レジャー産業の毒々しい世界、性と暴力の刺激、出版、映画、演劇、週刊誌、こういうようなものが青少年に与えるところの影響を指摘しております。それから暴力団の存在、各種社会におけるところの汚職、こういうものが青少年犯罪の大きな原因だと指摘をしておる。これは、われわれ教育考える者が最も重視しなければならぬ問題を警察庁も指摘をしておるわけであります。こういう点を考えると、この青少年犯罪の実態からしましても、また現在どこかに手抜かりがあったのではないかと思われるような、そういう教育の取り組みということについてもいまなおざりにしておいたら、大臣がせっかく所信で述べられた決意などという先の一つの青写真というよりも、いまのことが大事ではないか、こう私は文部当局の取り組みを実は祈っておるわけであります。  次に、第二の問題としてお聞きを申し上げますが、大臣所信表明の三ページの終わり方に、「教職員に適材を得るかいなか、その熱意と努力を期待できるかいなかは、教育成果をあげる上に最も重要であり、そのためには、教職員の処遇の改善と資質の向上をはかる必要があります。」云々とお述べになっております。私これに別に異議があるわけではありませんが、この前、木島委員がいろいろとお尋ねした中に、大臣は、教育界に人材を得るには待遇改善の必要がある。これは、おそらく大臣も、これ一つだという考えでお述べになったのではなかったと思いますけれども、待遇改善の必要を強調なさいました。そこで私は、一口に大臣が人材とおっしゃったところにちょっと抵抗を感じたわけであります。この所信表明にあります「適材を得る」、このことばが私は妥当ではないかと見ておるのです。  まあそういうせんさくは別にいたしますけれども、この前、木島委員は、教育学部を卒業した学生が教育界に入るのが非常に少ないというようなことで幾つかの学校の例をあげられましたが、私は同じような心配で、学校の先生をした、学校長などをしたところの子供さんがなかなか先生になりたがらない。これは一体どうしたことだろうと、しょっちゅう実は頭を痛めてながめておる事象なんです。どうして先生の子供がストレートに教育学部なんかに進学したがらないのか、これは一体なぜだろうというととであります。そこで、待遇改善の必要があることはもちろんそのとおりでございましょうけれども、それだけでほんとうにわれわれれが期待するところの先生、適材が教育界に得られるだろうかどうかという一つの疑問が出てまいります。大臣は、おことばの中に「その熱意と努力を期待できるかいなかは、」云々と、こういうことばも使っておられますが、大臣、御所見を伺いたいのでありますけれども、一体待遇改善というその旗じるしだけで教育界の先生となられる適材が、人材が得られるだろうか、もう少しその辺のところを、ひとつ大臣考えをお聞かせいただきたいと思います。
  18. 坂田道太

    坂田国務大臣 私が申し上げましたことは、先般の委員会におきましても言いましたように、とにかく教育というのは、もちろん教育環境というものも大切だけれども、しかし、やはり先生というのが一番大事だということを申し上げたわけでございます。そういうほんとう教育生きがいを感じ、子供の教育を天職と考えるような、そのような先生が多数確保できるということがやはり大事だ。そのために——どうも最近の産業界があまりにも急に発展をいたしまして、そしてどんどんそちらのほうへ人材が流れていくということは事実でございます。そういう人材をなるたけ教育界に確保するというためにはどういうような方法があるか。いろいろありますけれども、その中の重要な問題の一つとしては、やはり教員の待遇というものを、一般の民間の産業界、非常にはなやかな産業界と均衡のとれるような待遇をしなければいかぬのじゃないかということが一つあります。  それからもう一つは、先生という役目がいかに大事な役目であるかという自覚が先生方の間に高まり、そしてその影響社会的に認められ、そして社会的地位が確立をするという前提なくしては、なかなか今後は若い人が先生になろうという気にならないのじゃないか。だから、先生自身がみずからを落としていくというような、社会的地位を落としていくようなことは慎まなければ、実を言うと人材あるいは適材の先生方を定着させ、確保することはできないんだと私は思う。その意味において、今度は、一面において先生方自身の資質の向上ということは非常に大事であるし、自主研修はもとより、県の研修であろうと県教育委員会主催の研修であろうと、あるいは文部省主催による中央研修であろうと、あるいは県外研修であろうと、日々の反省と研修なくしてはそのとうとい使命というものは果たされないんだ、こういうように私は思うのです。その意味において非常に専門的な職業であり、とうとい職業であり、自分たちの一挙手一投足というものが、将来のその子供たち人間性形成に影響を与える、そういう仕事である。そういうことであるがゆえに、世の中では先生ということばを実は使ってきておると私は思うのでございます。その意味合いにおきまして、これは単に待遇改善だけじゃなくて、教師みずからもそういうような気持ちになって、社会的地位を確立するように努力していただくということを、文部大臣としては期待をするわけでございます。
  19. 川村継義

    川村委員 では、河野先生からちょっと御注意をいただきまして急ぎますが、大臣お話しいただきましたが、先生たちに高い者が訓示的なことではもうだめだ。これはもう申し上げるまでもなく、大臣御理解をいただいておる。やはり先生方には教育生きがいを感ずる。もちろんその先生方も、大学の先生、高校の先生、中学校の先生、小学校の先生と、これはそれぞれ先生方の適材というものが、資格というものがある点で差異があると思いますね。小さい子供を扱う場合、ちょっと大きな子供を扱う場合、大学生を扱う場合。これは大学の教授のえらい先生を小学校の先生に持っていってもだめなことも多いですね。  そこで、いろいろありましょうけれども、いま大臣の最後のほうのおことばにございましたように、先生方がやっぱり教育に、まあ小学校でも中学校でも義務制を考えますとほんとう生きがいを感ずる、そういう職場、熱意を打ち込めるような条件というものがなければならぬと思うのですよ。これは待遇云々の問題よりもっと根本的な問題かもしれません。まあ学校の先生をしながらのこのこ政界に出てくるような者は、実はだめなんですね。また、文部省の役人にのし上がっていこうとするような、こんな先生もほんとうはだめなんです。ほんとうに小学校なり中学校に熱意を持って、子供と一緒になって生活をする、勉強をする、こういうような先生方が実は大事なんであります。そうなると、待遇という前にやはりそういう問題がある。そうなると、これはやっぱり文部省行政からしても、その辺のところに眼を向けていただかなければ、先生方は生きがいを感じないと思うのです。  そこで、私が一つ例をあげまして、これは局長からお答えいただきます。小学校五年生の担任の先生、熊本の水俣であった話です。遠足のコースに水俣病患者上村智子さん、これは大臣も御承知の患者です。上村智子さん激励訪問を予定して、学校長それから地域の指導主事に話をした。遠足をする、帰りに智子さんをちょっと激励してきます。ところが適当でない、やめろと言われた。先生はそれでも計画したんだから智子さんという病人を訪問した。病気して寝室に寝ている子供を訪問して、元気でがんばれよ、こうして励まして、子供たちもそのことを、水俣病がおそろしいということを作文に書いた。ところが、校長さんや指導主事はたいへんごきげんが悪いということで、先生は非常に苦しい立場に立たされたという事例があります。これは局長、一体いけないことですかね、どうなんですか。
  20. 宮地茂

    宮地政府委員 いま先生がおっしゃいました限りにおきましては、まあ私どもお聞きいたしておりまして、別に何がゆえにとめるのか、理由の発見に苦しむわけです。したがいまして、いまお話しになられました範囲内だけでお答えするといたしますれば、いい悪いよりももっと、なぜそれをいけないとかしかったりするのか、そのことがちょっと私にはよくわかりませんが、ただ察しまするに、先生がおっしゃいました限りであれば、それを非常識にいけないとかしかったりということはないと思いますが、やはりもう少し背景になっておりますもの、いろいろな点が具体的な問題としてあった、事実とすればもっと背景があるのではないかというような気がいたします。たとえば、話をそらすようで恐縮でございますが、平和ということばにつきましても、平和ということばは非常にいいことですけれども、しかし平和ということばだけでなくて、それがいいとか悪いとかいわれるのは、いろいろな背景がありましていわれるところの平和とか、そういう意味でいろいろ判断したときに、その意見が分かれると思います。先生がおっしゃいました限りにおきましては、訪問、激励をして差しつかえないというふうに私は考えます。
  21. 川村継義

    川村委員 私もそう思うのです。しかし、やはりそこには、あとの高等学校の場合も出てきますけれども、会社側からの電話で子供たちの展覧会を差しとめた、それを修正をしたという例もあります。いまのもやはり、どうもそんなのは指導要領でないじゃないかとか、そういう管理職にある人たち心配をするというようなことが一つの原因になっているようです。  そこで、私は先ほど申し上げましたように、これは大臣が予算委員会で、公害教育のことについて御答弁があっておりましたが、こういうことまでほんとうに自発的に、自主的にこういう計画くらいは、そういう指導くらいは認めてやって、チェックするような体制というものをなくするということが、先生方に、ほんとう教育生きがいを感じさせる一つ方法だと思うのですよ。私はその例で申し上げている。そういうようなことを考えてこれからひとつやってもらわなければならぬ。でないと何もかも縛りつけていく——私は指導要領を無視しろなんてこの場所で言いたくありません。しかし、指導要領というものはもちろん柱に据えても、先生方の自主的な、自発的な、ほんとうに自分の子供に即したあるいは地域に即したカリキュラムというようなもので指導する場合には、これをやはりちゃんと認めていくというようなあれがないと、教育に対する熱意なんてわいてこないのではないか、こういうことなんですね。こういう点をやはりいまの教育行政の中に——時間がありませんから二つ、三つ例をあげるわけにはいきませんけれども、そういう点を教育行政の中に生かしてもらわなければならぬと私は思っているわけです。やはり先生方というのは、ほんとうに自分が自主的、自発的あるいは創造的に、各種各様の個性を持っている子供を相手にして指導をしていこうというときに、そういう創造的な指導方法でやっていくというような自由がないと、教師というものは生きがいを感じないのじゃないか。  先ほどの問題に触れますけれども、どうも時間がありませんから、自分一人でおしゃべりして申しわけないのですけれども、学校の先生方の方供、校長さんあたりの子供は、あとを継いで、とうとい教育の仕事に携わる教育学部になかなか行きたがらないのはなぜか。残念ながらいまは夫婦共かせぎの先生方が非常に多い。そうすると、家庭における子供の存在はどうなるのかということを考えると、子供心にでも、おとうさん、おかあさんは学校へ行っておられる、帰られてからもいろいろな仕事がある、そういうものを骨身にしみて体験をしているから、一つには、学校の先生よりも上の学校に行って会社づとめをしたほうがいいのではないか、そういうようなことを彼らは知っているのではなかろうか、そんなことを感じているのではなかろうか、こういう気がするのです。これは当たっているかどうかわかりませんけれども、私はそういうような気がするのです。そういうことから考えると、やはりこれはもっともっと、大臣のおことばにありましたように、待遇改善を根本的にやって先生方がほんとう生活の不安のないようにする、そしておかあさんは、できるだけ子供を家庭でめんどうを見ていただけるような時間がとれるようにする。これは勤務時間等の問題も出てくる。そういうようなねらいを持ってやっていかなければ、いわゆる人材というものは得られないのではないか。何も東大を一番で出たから学校の先生がいいとは私は思いません。いま私が考えているのは、そういう先生でなければならぬと思いますし、そういう先生にやはり学校に来ていただくためには、もっと職場を——もう一ぺん繰り返して申し上げますと、教育そのものに生きがいを感ずるそういう条件、あるいはそういうような職場というものをつくっていかねばならぬと思います。そういう意味で、今回大臣が提案されておりますところの超勤手当等々のこの問題についても、私はいろいろ論議しなければなりませんが、一つの前進の方向が出てきている、そういうように見ているわけであります。新聞のこれまでのいろいろな論説を見ましても、やはり今日の人間形成の教育人間尊重の教育、豊かな人間性を養うにはどうするかというような新聞論説がたくさん出ましたね、実はそれを一々ここで読み上げておりますとまた時間がありませんから、これを読み上げて御意見を聞き、指摘をすることは差し控えたいと思いますけれども、それらの新聞論説あるいは世論、こういうものを考えましても、ずいぶんといま文部行政に対する批判的な考え方が出ておるようでありますが、その辺のところを虚心たんかいに受けとめて、皆さん方が行政の正すべきは正すという決意に立っていただくことを私は祈っておるわけであります。でなければ、大臣所信にありますような一つの大きな人間教育目標というものが生きないのではないか、そういう点をきょうはまず第一に指摘をし、所信をお聞きして、御努力を願いたいと思います。  約束の時間が過ぎて、あと山中先生の御質問があるそうでありますが、委員長、まことに申しわけございませんけれども、私は次に大事な教育財政の問題、それからこの前、臨時国会からちょっと宿題になっております沖繩教育の問題を実はお聞きしようと思っておりましたが、いまので時間をとり過ぎたようでありますから、いずれまた別の機会に教育財政あるいは沖繩教育について質問を申し上げ、御所見を賜わる機会をぜひお与えいただくことをお願いして、私のきょうの質問はこれで終わり、あとは保留させていただきたいと思います。
  22. 八木徹雄

  23. 山中吾郎

    山中(吾)委員 大臣所信表明が単なる作文に終わるものでないと思いますので、その所信と、今後の教育政策の関係を、読んだだけでは不明な点を具体的にお聞きして、今後の法案の審議の参考にしたいと思いますのでお聞きいたします。  大体、今度の国会における佐藤総理大臣をはじめとして、教育を重視するということはたびたび述べられておるのでありまして、それを聞いておりますと、七〇年代という今後の十カ年ということを頭に置いて教育改革しなければならない、これが総理大臣並びに文部大臣所信表明の柱になっておると思いますが、私もこの七〇年代は、よく世間でいうように、経済優先から生活環境優先、教育優先の政治転換をすべきときだと思うのでありますが、これは大臣も同じでしょうか。
  24. 坂田道太

    坂田国務大臣 私もそう思います。
  25. 山中吾郎

    山中(吾)委員 そこで、政策を立てるときに一番考えたいのでありますが、政治と教育の関係ですね、どういうふうに位置づけるかということがやはり日本の現在の国会において非常に大事な問題だ、この辺があいまいもことしておるままに、いろいろのよけいな不信感あるいは混乱もあると思うのでありますが、政治と教育について、坂田文部大臣は、簡明にいってどうお考えになるか。
  26. 坂田道太

    坂田国務大臣 これは非常にむずかしい問題で、即答はできないかと思うのですけれども、大きい意味におきましては、政治の中における重要な問題が教育なんだ、特にいま御指摘になりました、一九六〇年までは経済というような問題が優先した形で出てきておったわけでございますが、むしろ七〇年代からを考えますと、先ほど川村先生にもお答えをしましたように、人間の存在そのものがあるいは脅かされておる。人間が存在し生き続けていくためには、どうしても大自然との共存なくしてはいかれないわけですね。ところがその危機というもの、危険というものを、いままではある一部の人たちだけは感じておったけれども、大部分の人は考えていなかった。しかし、いまはもう大部分の人が考えざるを得なくなってきた。したがって、政治の課題として、大自然破壊という問題に対して人間が謙虚になると申しますか、あるいはそれを保護するといいますか、あるいは自然環境を守るということを政治家自身として真剣に考えなければ、人類社会の個々の幸福であるとか福祉だとかいろんなことをいってももうだめなんだ、私はそういう意味において、一九七〇年代における政治的課題の最大のものは教育問題であるというふうに考え意味において政治を考えておるわけです。
  27. 山中吾郎

    山中(吾)委員 少し御答弁が教育課程の再検討のようなかっこうになったので、私お聞きするのと少しずれたのですが、それはあとでまたいろいろお聞きしたいと思います。  どうも国民全体の国民目標というものを国民の合意に基づいて設定するのが政治であって、それがいわゆる一番大教育目的というのか国民形成の——全体として日本の国を構成しておる構成員としての国民人間形成の大目標はやはり政治目標であるが、それは同時に大教育目標なんだ、そしてここに、教育の本質観からいってその素質を引き上げるという立場に立って、人間の持っておる素質を一〇〇%発揮せしめるというのが具体的な教育目標だ、そういうふうに私は私なりに考えておるわけであります。  そこで、どうも現在混乱をしておるのは、そういう意味における国民形成の大目標である国民目標が定まっていないのじゃないか、これは政治の責任ではないか、日本国民のうちに日本の進む方向は一体明らかになっているかどうかという質問をしたときに、日本の進む方向は明らかになっておりますと答えられる国民は何%あると思いますか、文部大臣
  28. 坂田道太

    坂田国務大臣 ちょっとパーセントではお答えできないと思います。
  29. 山中吾郎

    山中(吾)委員 昨年ですか、読売新聞の政治意識調査をした発表を私見て驚いたのですが、いまの日本の進む道を政治は明示しておるかどうかという質問に対して、していないと思うのとわからないというのが七八%という新聞の記事があった。これでは大学生も混乱すれば、教師も教育のエネルギーは出ない、使命感を持てといっても持てもしない、一般青年諸君だって、一体日本列島の中に生まれて育った者が、胸を張って誇りを持って、われわれはこういう国をつくるのだ、この中で自分はこういう生きがいを求めるのだというものが出るはずがないのだ。だから私は、現代の混乱の責任はやはり国にあるのじゃないか、政治にあるのじゃないか、ことに政権をとっておる自民党にあるのじゃないかということを、党的立場じゃなくて、日本の政治家として思うのです。だから政治における教育の位置づけというのか、政治と教育というものを、選挙対策とかあるいは感情的なものを除いて、やはり明確にする責任があるのだ、そういうふうに私は思いますが、国民目標というものを教育政策立場でわれわれが真剣にまず立てるということが七〇年代の教育改革の前提だ。それでなければ、文部大臣がこういう所信を表明しても、あるいは総理大臣が本会議において教育を一番重視するというふうなことを言っても、それは作文に終わる。坂田文部大臣がこういうふうに言われてもこのままで終わるのならば、私は坂田美学に終わるのだと思うのです。だから、やはり教育というものの原点として、世界に胸を張って誇れるような、昔の軍国主義を克服した国民目標を立てなければならぬ。これはやはり教育政策の原点ではないだろうか、教育問題ではないだろうかと思うが、いかがですか。
  30. 坂田道太

    坂田国務大臣 目標とおっしゃいますけれども、その目標の意義、あるいはこれをどう考えるかということなんで、その辺がはっきりしませんと、また非常に危険な面もあるというふうに思うのです。ですから、先生も率直に、おれはこういうふうに考えているのだけれども文部省はどうだとか文部大臣はどうだとかというふうに、端的にお聞きいただいたほうが私としてはお答えしやすいと思います。
  31. 山中吾郎

    山中(吾)委員 私は、超国家主義と誤解されてはいかぬので、国家目標と言わないで国民目標と言ったわけです。私は、具体的にいろいろの評価があるけれども、現代の憲法の精神というものは、前文にあるように人類の普遍的原理に基づくという確信をうたっておる。この精神が国民目標として合意を求める道であろう。そういう憲法をもう少し教育立場に立って、国民目標を憲法を媒介として確定をして、その下に教育基本法ができておるのであるから、憲法の評価をもっと真剣に論議をして、なるたけ憲法の空文化をはかるとか、あるいは憲法をなるたけ国民のものにしないように、憲法を中心とした教育政策をなるたけ軽視するようなことでなしに、国民形成の原点として憲法を高く評価して、その中から国民目標を求め、国民の合意を求めてはどうかというのが私の考えです。いかがでしょう。
  32. 坂田道太

    坂田国務大臣 それは当然過ぎるほど当然のことだと思いますし、新憲法の主権在民あるいはまた基本的人権を尊重する、それから平和主義、この三つの柱に基づいて教育基本法もできておりましょう。そして、その教育基本法に基づいてわれわれの教育行政というものが展開されていかなければならぬ、かように思うわけで、結局同じじゃないかと思います。
  33. 山中吾郎

    山中(吾)委員 本音とたてまえは一つの答弁であると信じてお聞きしておきます。  そこで、それなら具体的に七〇年代の教育改革考え教育人間像を考える場合に、憲法というものを中心に教育改革考えるときに、具体的にどういう人間形成ということを訴えねばならぬかというと、第一はやはり主権者教育ではないですか。国民が主権者である、これはもう一〇〇%国民が主人公である、これはいかがですか。
  34. 坂田道太

    坂田国務大臣 それはそのとおりだろうと思います。
  35. 山中吾郎

    山中(吾)委員 そのことは、文部省の指導あるいは教育課程あるいはその他に文部大臣の御意見によって水増しをするようなことはおそらくないと思いますから、その立場に立って今後御批判をしていきたいと思います。そのときに、憲法第一条に——私はみなが触れない問題に触れたいと思うのですが、象徴としての天皇制と国民主権の関係を教育政策の原点として考える。文部大臣はどうお考えになりますか。
  36. 坂田道太

    坂田国務大臣 私も法律的な問題は非常に弱いもので、あるいは誤っておれば御訂正をいただきたいと思いますけれども、私としては、やはり憲法第一条の天皇の地位というものは、日本古来の伝統を踏まえた上においてできた第一条であって、やはり国民統合の象徴として私は非常に大事な条項であるというふうに思います。
  37. 山中吾郎

    山中(吾)委員 私のお聞きしておるのは、天皇制、象徴という憲法第一条の規定によって国民主権は水増しになっていないかどうか。国民は一〇〇%主権者であるということは間違いないですか。
  38. 坂田道太

    坂田国務大臣 どういう意味かわかりませんけれども、天皇のいろいろの国事行為も国民主権に基づくところの多数党内閣の助言と承認によって行なわれるわけでございます。とにかくその承認のもとにおいて行なわれるわけでございますから、明らかにこれは、主権は在民だということはもうはっきりしておるわけでございます。
  39. 山中吾郎

    山中(吾)委員 ここに憲法の権威者の稻葉さんがいらっしゃる。また稻葉さんといろいろ論議をしたいと思うのですが、国民主権は一〇〇%第一条に規定している。これを確認しないと教育政策は成り立たないと思っているものですから、やはりこういう機会に記録に残しておきたいと思うのです。私は、天皇象徴制という憲法の精神は、旧憲法においては主権者として規定しておった天皇の非政治化だと思うのです。政治に悪用されたために戦争を起こしたという反省の中から日本の天皇は完全に非政治化したのだ、そこに象徴という立法があるので、国民主権というものに水増しはないのだ。別なことばでいえば、天皇制は日本の歴史の中における無形文化財である。最高の無形文化財を憲法が保障したのだと解釈しております。私は私なりに大胆に申します。そして国民主権というものを徹底することによって、国民がわれわれの国をよくするという一〇〇%の責任感を持つという教育がなければ、私はどんなにいろいろなことを言ったところで七〇年代の教育優先という性格は出ないのだ、そういうふうに私は私なりで解釈をして、国民主権というものを徹底的に教育国民形成の原点とすべきである、こういうふうに思っておるので、これは申し上げておきます。  それから第九条の平和というものは、これも教育改革国民形成としては文教委員会において私は明確に論議すべき問題だと思うのですが、戦争は絶対にしないのだ、第二項において、その保障をする手段として戦力は持たないほうがいいかどうかという規定があるので、戦争は絶対にしない国であるという国是を確立したのだ。間違いないですか。
  40. 坂田道太

    坂田国務大臣 そのとおり、憲法に書いておるとおりだと私は理解しております。
  41. 山中吾郎

    山中(吾)委員 そうするならば、国民教育の原理として、これを国家目標として規定したこのものを教育原理として持ってくるときには、国民の平和の哲学として、平和主義というものを国民のものにするような、いわゆる明確なる文部省教育に対する基本的な精神が確立されなければならぬと思うのです。それはいかがです。
  42. 坂田道太

    坂田国務大臣 先生のおことばの裏に何かあるなら別ですけれども、そのことばどおりとすれば、そのとおりじゃないでしょうか。
  43. 山中吾郎

    山中(吾)委員 人の質問に裏があるように思うからで、裏も表もないのです。私は還暦で六十歳ですから本音でいくつもりですから、うそも掛け値もありません。文部大臣はその辺を明確にしなければ、私は教育なんというものは成り立たないと思うのです。そういうことでないと作文にすぎないと思うので、お聞きしておきたいと思うのであります。私はこういう意味において、文部大臣がここでいろいろと論議するばかりでなくて、あれだけ施政演説で教育を重視しておるのだから、文教委員会に総理大臣がやってきてこういう論議をすべきだ。委員長、必要によっては総理大臣をこちらに呼ぶくらいのことをやるべきだと思うのですが、御意思はいかがですか。
  44. 八木徹雄

    八木委員長 理事会でよく相談をいたします。
  45. 山中吾郎

    山中(吾)委員 そういうことにして文教委員会をもう少し権威あるものにして——予算委員会において私は文教問題だけで代表質問をしようと思っても、なかなか数字にあらわれない問題であるから、教育問題が一番大事であるのに、予算委員会においては問題としてクローズアップしない。まことに遺憾である。総理大臣があれだけ施政演説で重視をし、四回目の総裁選挙に当選した直後の記者会見で、教育を一番重視すると言っている。一番軽視をされるのは文教委員会ではないのか。まことに遺憾であるので、その辺は堂々と総理大臣を呼ぶくらいの気概をもって、聰明なる八木委員長の善処を要望したいと思います。  そこで、私その点について政策に関連したものだけに関連してお聞きしますが、先ほど川村委員からも御質問がございました。七〇年代というものを前提として、自然的、文化的環境が破壊されておるこの時代坂田文部大臣は認識されておる。そうして現代文明の本質的なあり方から政策というものを考えていきたい。現代文明の本質的なあり方という一つ考え方のもとに、これからの政策を発展させようという決意をここに表明されたと私は見ておるのですが、そうすると現代文明と人間形成の関係をどうお考えになっておられますか。現代文明と人間形成、国民形成をどういうふうにお考えになっておりますか。
  46. 坂田道太

    坂田国務大臣 先ほど川村先生の御質問にもお答えしたかと思いますけれども、現代文明と一口に言うけれども、見方によっては物中心の文明じゃないか。そしてそのことによって、元来は自然科学につきましても、科学技術にしましても、産業構造にしましても、よりよき社会あるいはよりよき福祉、よりよき人間性回復のためにいろいろの英知がしぼられて、そして文明というものが形成されてきたはずであった。ところが結果としては、その人間の、人類の発展のためにと思ったいろいろの便利なものであるとか、あるいはエネルギーにしましてもいろいろなエネルギーが出てきた、あるいは早さにおきましてもジェットの飛行機ができるようになった、そしてもう外国にでも数時間で行けるようになったというふうになって、もう何でもかんでもいいことだ、いいことだとちょっと思った。ところが、静かに、少し人間界を離れて地球の上から人間がどうやって生きておるかということを見、あるいはまた都市集中の一部屋に何人か一緒になって生活しておるその実態を経験してみると、一体これでいいのかということを人間は気づき始めた。そこに文明文明というけれども、物が豊かになって心が貧しくなった、精神が乏しくなった、人間性が失われてきたという現象がまさに出てきた。これをわれわれがまた人間英知によって克服しなければならない課題がやはり出てきたんじゃないか。あるいはその中において、なおかつ創造的な人間あるいは人間性豊かな人間というものをどうやって確保し、育てていくかという問題が、やはり一九七〇年代の課題なんです。こういうふうに私は一応考えるわけでございます。
  47. 山中吾郎

    山中(吾)委員 物質文明と精神文明が分けられて発想されるので、どうもぴったりこないのですが、ここの文章を見ますと「自然的文化的環境の破壊を抑止する必要が痛感され、現代文明の本質的なあり方」とあなたが言われておるんだから、いまの公害問題と関連して、単なる生産技術を中心とした文明はかえって人類を滅ぼすんだ。だから、人間人間同士の関係より人間と自然、人間と植物、人間と動物の関係を生態学的に考えていかないと、教育政策は間違いを起こすんだというふうに私は解釈しているのですが、ちょっと伺います。
  48. 坂田道太

    坂田国務大臣 先ほどもそのことに触れたと思うのです。あなたの御質問に対しましてもう触れましたから当然わかっていただいておる、こう思ったんで、つけ加えなかったわけであります。そして、その前提となる導入部分だけをお答えいたしたわけで、私が言わんとすることは前に申し上げたそのことでございます。生態学的に人間を動物の中の一つとしてものを見ていくということなくしては、そしてその大自然の中に植物というものがあって、この生物というものが存在をしておる、ここまで考えないことには考えられない世の中になってきたということです。
  49. 山中吾郎

    山中(吾)委員 そういう考え方に立ちますと、どうもいままでの日本教育課程においては物理、化学主義だ、歴史や生態学主義で考え検討すべきものがあるんじゃないか、そういう意味教育課程の改定を見ておりますと、その着目が一つもないように思うのです。だから、七〇年代の教育改革考える中の一つの政策として、日本教育政策における教育課程というものが、物質文明、精神文明という関連論からではなくて、いままでのような無機物を中心としての物質科学主義の教育課程から歴史学、生物学的な立場で改定すべきじゃないか、検討する場合に。
  50. 坂田道太

    坂田国務大臣 私はまさにそのとおりだと思うのです。そして戦後二十五年の理科教育というもの、理科教育振興法も皆さん方の御協力を得て成立したわけでございますけれども、そのとき、いまおっしゃるように生命あるものと、たとえば植物、動物、あるいは人間も含めましてその方面が、過去の日本教育のやり方よりも非常にへんぱになってしまったんじゃないか。むしろ物質そのものが中心になり過ぎている。生きておるものに対する教育というものが、小さいときからあまり考えられていない。したがって、たとえば最近の都会の子供がデパートに行ってカブト虫を買ってくる。そうすると、その同じおもちゃ屋にあります自動車、物質でつくったおもちゃ、それを取りこわすような同じような気持ちで取りこわしちゃって、二百円出せばまたあしたデパートからカブト虫が買えるんだという、こういう思考方法になりがちだ。これは非常に危険なんだというのが私の感覚でございまして、こういうような、たとえばアサガオを、自分たちが水をやったりなんかすることによって育てるとか、あるいは鳥を飼うとか、そういう愛情を示すことによって育つという生命現象に対する謙虚なあるいは尊厳に対する十分な気持ちを持たないことには、人間関係における人間性の回復ができないというのが私の基本的な考え方です。そういうようなことで、もう一ぺん小学校から高等学校までの教育課程についても見直していく必要があるんじゃないかというふうに私は考えております。
  51. 山中吾郎

    山中(吾)委員 よくお聞きしておきます。局長文部大臣の精神に従って教育課程が改正されていくまでは、これから厳正にながめておりますから……。この考え方と教育課程の改定が少しも関係ないとぼくは見ておるものですから、今後文部省文教政策をその点から批判したいと思うので、いま文部大臣が答えたことを覚えておいてください。  次に、期待される人間像ですね。これもどうも十八世紀の古い構想で七〇年代の教育改革、われわれの論議、この所信からいって、天皇愛即愛国心というふうなそういうことの面から人間像を考えていくのでは、もう人間形成はできないのではないか。あくまでも国民主権意識というものの中から、またいま言った文部大臣教育観というようなものの中からこれは再検討しなければならぬのじゃないか、いまの論議からいえば。期待される人間像が出たけれども、これは再検討しないとこれからの、ここにあるような「来たるべき社会に真の生きがい」とか何かの、文部大臣所信とは無関係になってしまう。再検討される御意思ありますか。
  52. 坂田道太

    坂田国務大臣 期待される人間像というものがああいう形でまとめられた、そしてああいうものをやはり出さなければならなかった一つ社会的な必然性というものを私は感ずるわけです。しかし、ああいうやり方がすべてよかったかというと、必ずしも私はそうも思わない。そうして、私はそのときにも申し上げたわけです。いろいろの委員の方々から御意見があって、そしてそれをまとめて一つ人間をおつくりになりますけれども、その人間というようなものがはたしてこの世の中におるのかどうなのか。それよりも各委員の方々が——これは、私はなくなられた高坂先生にも率直に申し上げたのですよ。むしろこれだけのエキスパートの先生がお集まりになっておるものならば、むしろ高坂としてはこういう人間になってほしいという一つ人間像を、先生がお述べになるほうがかえっていいんじゃないか。あるAの先生は、自分の人間像をお示しになるということがまた意味があるんじゃないだろうか。しかし、先生方がせっかくこうやってお集めになったこのことばそれなり意味を持つ、こういうふうに申し上げたわけです。私自身のものの考え方というものは、人間はいまは一応ちゃんとしておると自分自身が思っておっても、あしたかあさっては悪人と称せられるようなものになるかもしれない、あるいは罪を犯すような、そういうあやまちを犯す可能性を持った人間であるというふうに自分を見なければならない。したがって、いろいろの人物評価あるいは人間像といった場合において、ある程度欠点を持った人が努力をしながらその欠点を補いつつ生き抜いたという、そういう人物伝ですか、そういうものが非常に青少年のためには意味があるのじゃないかというふうに私は思うのです。完ぺきな神さまみたいな人間というものが一体この世の中に存在するか、それに近い人たち世界のいろいろな歴史上の聖人君子といわれる人でしょうけれども、しかし、一般はそうじゃない。むしろいついかなるときにあやまちを犯すかもしれない人間だというふうに自分自身考えるような人間、そういう人間ほんとう人間じゃなかろうかというような、自分自身一つ考え方を私は持っております。しかし、やはり子供たちに対しましては、そのりっぱな世の中の指標となられたような歴史的な人物という人たちの伝記等を紹介するとか、あるいはその方がいろいろ苦心惨たんして人間形成をやられた、そういうようなものがどんどん価値をあらわして子供たちに読んでいただくということが、また子供たちも発奮興起するのじゃなかろうかというふうに私は考えます。
  53. 山中吾郎

    山中(吾)委員 期待される人間像というものについて文部大臣が批判を持っておられるということを明確にされたので、私はそれは正しいと思うのです。あれは人間形成に何の影響も与えるようなしろものではない。やはりもう一度こういうものを検討して、ほんとう国民の心をとらえるような問題、ここに書いておる所信に合うような人間像にされることを期待いたします。同じようなことをしていると、ほんとう文部省廃止論が出ますよ。局長以下もう少し考え直さないと、何かこういうものが出ておると時代と全然無関係な政策が別に出るように思うので、申し上げておきます。  次に、学校教育制度、これは政策の原点としてお聞きしたいものだけをお聞きします。  「現代文明の本質的なあり方」ということが一番の前提となっていると所信にも表明されておられますが、この学校制度一つ中教審の方向もここにうたっておるようでありますけれども、第一の政策の改革の原点として文部大臣にお聞きしておきたいのは、現在のような高次の文明社会において、国が人間形成に責任を持つ場合には、一体満十五歳までの義務教育で責任が持てるかどうか、義務教育の年限を、ここまでの文明社会まで人間を引き上げていくのには満十五歳で足りるかどうか。相当の高い教養を与えなければならぬとすれば、義務教育年齢の下限よりも、五歳か六歳か何歳かというよりも、終着年齢が十七歳か十八歳かということに一番重要な考慮を払って、これだけの専門性と教養性を持たすのには、何歳くらいまでの発達段階まで、すべての国民教育の機会を与えなければならぬという全員就学制度、無償にすれば一番いいのですが、それはそれとして、そういう意味の義務制を考えるべきではないかということが教育制度改革の一番大事な問題であると思うのですが、坂田文部大臣は、この義務教育年齢の上限を一体どの辺が正しいとお思いになっているのか、この程度くらいのことは、この所信を表明された中に一つの見解を持つべきであると思うので、お聞きしたい。
  54. 坂田道太

    坂田国務大臣 現存、高等学校に学びます学生生徒というものがもう八〇%をこえておる、都会においては九〇%をこえておる、こういう状況でございますから、準義務教育考えてもいいというふうに私は思うのです。しからば制度としてこれをどうするか、これはやはり今日の段階で、中教審でもこれを一つの課題として考えるべきものではある、検討すべき課題である、かように考えております。すぐやるということではございませんが、非常に検討すべき課題である、こういうふうに御理解を願いたいと思います。
  55. 山中吾郎

    山中(吾)委員 次に、中等教育ですね。これも現実的なものです。中等教育を前期中等教育と後期中等教育と二段階に分ける。中等教育というのは、戦前一つの学校だったのです。二つに分けるというのはどうも人間形成という立場からいって不適当だと思うのですが、それはいかがですか。
  56. 坂田道太

    坂田国務大臣 私も、そこまでになりますと、ちょっと専門になりますのでお答えができないのでございますけれども、国際的に見るとちょっと違うように思うのでございます。
  57. 西田亀久夫

    ○西田政府委員 中教審が現在の制度の批判として、中等教育が三年ずつに細分化されていることが青年期の、特に内面的な人間的成熟をはかる上に問題があるのではないかという問題提起をいたしております。しかしながら、はたして義務教育の終期と、それから後期中等教育というところに学校の区切りをつけておることが、個人の能力、適性に応じた教育をやっていく上に、それを連続的なものにした場合にどういう問題が起こるか、それをいまのようにしていることによる欠陥はいいろ指摘されております。したがって、これは基本構想の中で、中等教育を一貫した教育制度としてやってみた場合のやり方を、一つのいわゆる先導的試行としてやることを提案いたしております。
  58. 山中吾郎

    山中(吾)委員 大体考え方が一致しているように思うのです。中等教育を、学校を二つに分けるということが決して理想的なものではない。やはり戦前のように、五カ年の中等教育があったのですが、中等教育というのはもう一段階でいいのだ、そうでないものだから、いまのようないろいろな教育効率のむだな、同じ繰り返しも出る。だから、おそらくなぜしたのだろうか、十五歳まで義務教育にして、あとはしないためにという財政的な立場からあったような感じしかないので、それはよくわかりました。  それから、逆に高等教育というのは、大学と一段階にしたのだが、前期高等教育と後期高等教育に分けて、後期高等教育教育研究をかねたほんとうの大学、前期高等教育はいわゆる高次の専門教育という、むしろ学校が二つあればいまのような大学ならざる大学、そうしていろいろの内容が、旧制高等学校、旧制専門学校と同じようなものも一緒になってしまって、あらゆるものが混乱をしていると思うのですが、高等教育というものは一段階にしなければならぬ理由はないと思うので、これも根本的なものですから、大臣が差しつかえあれば専門家がおるから、一言だけお聞きしておきたい。
  59. 坂田道太

    坂田国務大臣 日本で高専とか、あるいは短大とか、あるいは大学とか、あるいは大学院大学とかいうようなことばでなくて、むしろ英語で言うハイヤーエデュケーションという意味の高等教育機関という形で呼んだほうが適切だというふうに思います。
  60. 西田亀久夫

    ○西田政府委員 中教審で高等教育の体制の再検討の際に、今後ますます高等教育の大衆化というものを前提に考えます場合に、現在の学校、大学の体制をそのまま維持することについては問題がある。したがって、高等教育機関を第一種から五種までに種別化いたしまして、それを全国的、地域的に考えて計画的に整備をする。それによってて広く大衆的に国民に高等教育の機会を提供するとともに、その中から必要に応じてより高度の勉学をする者をそれと区別をして考えていく、かような考え方です。
  61. 山中吾郎

    山中(吾)委員 まあこれは意見がだいぶ違うので、雑然と六種類、七種類つくってしたところで整理がつかないので、やっぱり前期高等教育機関と後期高等教育機関というふうな姿で、民主的な単線型というものを考えながら多様化をはかるのでなければ整理はつかぬと思うのですが、一応現在、文部省の意見と違うようであります。違うことだけ確認しておきたい。  それから、制度のところで、「総合的長期的な教育改革の計画を策定」ということを明言されておる。私は確かに、日本教育制度に計画性が足らない、人間形成の計画なんというのは、少なくとも最低十カ年以上、二十年計画くらいのものでなければ人間形成に対する計画は成らない、遠慮しないで明確に計画を立てるべきであると思うのです。しかし、計画することが権力で教育を支配することではないので、私学については援助して支配せずということがわれわれの常識として論議されてきたのですが、計画して支配せずということはできると思うのですね。学校配置計画だとか、その辺を明確にされないものだから、計画ということば即コントロールという判断があると思うので、その点坂田文部大臣に、私はもっと教育計画を出すべきであるが、計画をして支配せずという原則でいくべきであると思うが、その点御意見を、ここの公の席上でお聞きしておきたい。
  62. 坂田道太

    坂田国務大臣 私たちは、教育の改善、充実というものは、やはり当事者の自主性と自発性というものを尊重するということが非常に大事なことだというふうにまず考えます。それから、しかし、公教育制度の整備充実という点については、制度的なワク組みをつくったり、あるいは条件の整備をする、あるいは必要な資源を効果的に配分する、あるいは行政上、財政上長期にわたる見通しに立った計画がなければいかぬ。その点がまた、どうも戦後の二十四、五年を考えますと、まあ小、中、高の段階においてはかなりそれなりの計画もあったように思いますけれども、高等教育機関については、特に国立、公立との日本列島における配置その他、あるいはどれくらい高等教育機関に学ぶ学生を想定したらいいんだというようなことがなかったことは、やはり問題であったのじゃなかろうか。そういう意味合いにおきまして、この長期教育計画ということばを実は使っておるわけでございます。また同時に、文部大臣はそういう長期教育計画ということばばかり言ったって、それは夢物語なんだ、やはり財政というものが伴わなければ、措置というものが伴わなければだめだ。そうすると、向こう十年間に大体国民所得に対する何%ぐらいずつは、この日本の現状からいうと見識があるならば取れるんだ、可能性があるんだということで、大体そういうことで一体どれくらいの大学を考えたらいいとか、高等教育機関をしたらいいとか、あるいは条件整備をやったらいいとか、そういうことをやるということが一番大事だ、その前提としての教育計画だというふうにお考えをいただきたいと思います。
  63. 山中吾郎

    山中(吾)委員 それをひとつ実行してもらいたいと思います。  財源的にお聞きしておきたいと思うのですが、教育の効果というのは二十年、三十年後にあらわれてくるのであるから、こういう場合こそ国債を財源にして、教育施設というものは国民の税金によらなくて国債によるという論理は成り立つのではないかと思うのですが、いかがですか。
  64. 坂田道太

    坂田国務大臣 まあ山中先生の御意見は御意見として承っておきたいと思いますが、私どもとしましては、ただいまそういうことは考えておりません。そして大体現在の経済成長の伸びから考えれば、国民所得に対して相当の予算を獲得できる、実現は可能だ、不可能ではないんだというような感じがいたしております。
  65. 山中吾郎

    山中(吾)委員 教育財源というのは国税から一番出にくいから、私は言ったのであります。政治家は頭で教育を重視するけれども心では重視しない、したがって、財源的にはいつもあと回しになる、これは大蔵省の主計官もおるのだが……。だから国税ということを頭に置けば、なかなか教育の機会均等の拡大はできない。原敬が総理大臣になって一番最初に着手したのは、旧制高等学校を倍加した、財源は皇室財源を二千万取ってやったというなにがあるのですが、なかなか税金ではできない、検討すべき問題だと思います。これは所見だけ申し上げます。  次に、公害のことについて一言だけ、教科書問題で、ある程度修正されたことについては一歩前進だと私も評価をいたします。ただし、どこかまだ経済と公害の調和という概念を完全に卒業していない。私はこれはまだ遺憾に思うので、教育政策としては、経営者になる者、実業界を志す者も、公害を発生するような企業の経営者には私は絶対にならないという人間形成が公害問題だと思うのである。また、大学の卒業生は、サラリーは高くとも公害企業には私は就職いたしませんというような決意のできる人間形成、これが公害教育だと思うのである。一体この日本列島における空気をきたなくし、水をきたなくするようなことは、金もうけを優先さすべきでないというそういう哲学を持った人間をつくるのが公害教育であろうと思う、それを経済政策と間違っておるのじゃないか。企業と教育の調和を考えるとか、そういうことが宮地局長あたりの思想の中にあるようだ。教育政策であるから、青少年を教育するときに、一体人間を病気に追いやるような、あるいは遺伝質まで影響して子孫に影響するような、そういう公害教育政策として取り上げるときには、経済と教育の調和という教育政策ではならないのである。将来実業界に志す者も、公害を発生するような企業の経営者には私はならないんだという人生哲学を形成するのが公害教育であると思うが、その点は、文部省においてはそういう考え一つもない。経済政策なんだ。経済政策に生活環境を顧慮した、経済政策の中で企業優先でなくて生活環境優先に切りかえるならわかる。教育政策についての考え方は完全に認識不足であると思うのであって、そういうふうななまぬるいことで何が人間形成ができるか、まことに私は遺憾に思うのでありますが、文部大臣、これも所信だけ聞いて次に移ります。
  66. 坂田道太

    坂田国務大臣 従来までのところはいろいろ問題はあったかと思いますけれども、昨年の公害国会以来、われわれはほんとうにこの公害という問題に対して新たな観点に立ってこの指導要領なども考え直しておるわけでございますし、ただいま本委員会におきまして山中さんに冒頭に申し上げましたような気持ちで、自然を破壊から守ろう、そして人間の存在というものはむしろその自然をいたわる、育てるということなくしてはだめなんだ、こういう認識でございますし、同時にいろいろな、単に初中局だけのことではなくて、体育局その他社会教育局等におきましても、子供たちを自然に親しませるあるいは連れていって教育を行なうというような諸施策も、まだ芽が出た程度ではございますけれども、そういう意欲的な試みを実は考えておるわけでございますから、しばらくわれわれのやりますことを監視していただいて、また御助言をいただきたいと思います。
  67. 山中吾郎

    山中(吾)委員 聞くこと多く時間少なしで省きますが、ひとつ大蔵省の主計官がおいでになっているので、施設設備の点についてお聞きしたいと思うのです。  小学校、中学校は同じ義務教育であるから、施設設備に対する国の責任は同一である、補助に差別をする理由はないと思うのですが、この点まず文部大臣から……。
  68. 坂田道太

    坂田国務大臣 これはいろいろの経緯があろうかと思います。
  69. 山中吾郎

    山中(吾)委員 主計官、あなた予算を査定される立場ですが、義務教育で小中学校に軽重はないと思うのですが、その点についての財政的立場から……。
  70. 原徹

    ○原説明員 現在小学校の補助率が三分の一、中学校が二分の一になっております。これはまあいろいろの経緯がございましたが、従来三分の一であったのを、中学校の急増対策ということで二分の一にしたということでございます。したがって、まあ合わせろということであるならば、急増対策は大体終わりになっているわけでございますから三分の一ということになるのであろうと思いますが、なかなかそういうわけにもまいらないような財源上の理由その他、この問題は非常に多くの国と地方との財源配分の問題に帰着いたします。ですから、合わせろとおっしゃるなら三分の一でございますけれども、やはり財源配分との問題もございますから、いままでそういう経緯で現在に至っておる、こういう事情でございます。
  71. 山中吾郎

    山中(吾)委員 あなたは文部大臣でもなければ大蔵大臣でもないのだから、三分の一にするか三分の二にするかは高次の政策だと思う。小中という義務教育制度として差別はすべきであるかどうかということは、少なくとも文教政策そのものに責任はなくても、財政的立場において差別すべきであるかどうかということぐらいは、あなたが一つの識見を持っていなければならないのだと思って聞いているのですよ。三分の一が妥当だ、三分の二が妥当だということを聞いておるのじゃない。義務教育が施行されてすでに二十数年たっているのですよ。行きがかりなどはもう二十数年たっておればないはずです。義務教育として、国は施設設備に少なくとも差別なく対処すべきだということぐらいの原則はなければ、小学校が少なくていい、中学校はという差別が国の立場においてどこに出てくるのか、出てこないと思うから、それを聞いている。
  72. 原徹

    ○原説明員 確かに義務教育でございますから、そういう意味で特別に何も事情がない場合でございましたら、それは区別する理由はないわけでございます。従来もずっと三分の一であったわけです。特別の事情というのはいろいろ政策上の理由から、たとえば過疎の統合の場合に三分の二にするというようなことはございますが、特別の事情がなければ差別をする理由は全くない、こういうふうに考えております。
  73. 山中吾郎

    山中(吾)委員 施設設備について、これは基本的なものですから、もう一つ聞いておきます。  過疎地域については、現在義務教育の卒業生はほとんど京浜地方に出ておるので、過疎地域の市町村の教育はその地域の人材養成にはなっていないのです。卒業生の大部分は京浜地方に出ておる。したがって、京浜地域のために学校経営、教育費を出しておる立場からいいますと、国においては国全体として国税の再配分の思想に立って、過疎地域の教育については全面的に国がめんどうを見るというのが補助政策として合理的ではないだろうか、そういうふうに思うのですが、それはどうでしょう。これは専門的なものですから、主計官。
  74. 原徹

    ○原説明員 原則論として申しますならば、やはりこれは財源配分の問題でございます。確かに過疎地域の人たちが京浜に多く出るということはございますが、そのために過疎地域の市町村は財政上非常に立ちおくれるというようなことがございますわけで、それを一体どうやって調整するかというための現在の制度はやはり交付税制度でございますので、そういうところは基準財政需要は一般並みに見る、しかし、収入のほうは自然相対的に小さくなりますものですから、それでやはり調整するというのが現在の制度であり、それでやるのが一番いいのではないかというふうに私は考えます。
  75. 山中吾郎

    山中(吾)委員 答弁にはなっていない。それならまた次の機会にしましょう。いろいろと政策の原点になることを、文部大臣所信の中からお聞きしたいことがまだたくさんあるのですが、次に譲りたいと思います。いずれにしても作文に終わらないように、その精神がその具体的政策に矛盾なく出てくることを切望いたしまして、また出るか出ないかを今後見ながら監視をする立場でいきたいと思いますので、申し上げて質疑を終わります。
  76. 八木徹雄

    八木委員長 本会議散会後再開することとし、この際暫時休憩いたします。    午後零時二十七分休憩      ————◇—————    午後一時五十七分開議
  77. 八木徹雄

    八木委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  国立学校設置法の一部を改正する法律案を議題とし、審査を進めます。  質疑の申し出がありますので、これを許します。森喜朗君。
  78. 森喜朗

    ○森(喜)委員 国立学校設置法の一部を改正する法律案が提案されておりますので、自由民主党を代表しまして、高等教育あるいは大学校育に関しまして、若干の質疑をいたしたいと思います。  私は国会に議席を持たしていただきましてから一年三カ月ぐらい、ごくわずかでありますが、質疑経験もさしていただきましたけれども、どうも大臣以下、各政府委員のお話を伺っていますと、大臣はともかくとしましても、特に局長さん方のお話というのは非常にわかりにくい。特に法律があっち出たりこっち出たりします。私ども国民を代表してここに来ておりますので、私がこれから御質問申し上げますのは、世の中の私どもと同じような人たちだとか、あるいは世の中の子供を持つおとうさん、おかあさん方、あるいは学生たちが素朴な気持ちで、どういうことになっておるんだろうかというようにおそらくみんな疑問を抱いておる点を、私はそういうつもりで御質問いたしたいと思います。率直にお答えをいただきまして、国民の皆さん方に御所見を賜わりたいというように思っております。  戦後の学制改革の柱といいますのは、やはり国立大学を全国に多く広げたことだろうと思っております。特に旧制大学、帝大、それから専門学校、これは新制大学にして大学教育を機会均等に広げていったということが、私は非常によかったと思うのですが、大学の数がだんだんふえていくことによってやはりその中に格差が出てきた。同時に、その中にも昔の旧制七帝大に対するものの考え方、世の中の評価のしかたは、やはり私は大きかった、その中におのずと格差が出てきたんじゃないかというふうに思います。したがって、大学なんというものも、どうしても世間が気にする旧帝大を意識した結果にだんだんになってくる。その中で大学自体が、大学の中での格づけというか位置づけというか、そういうことをどうも意識しているような気がするんです。その中でわれわれが感ぜられるのは、まず学部、学科の新設をどんどん広げていって、文字どおり総合的な大学にしていこうというやり方がまず第一。それから続いて出てきたのが、いま問題になっている大学院の新設というふうに私どもは感じられます。こういうふうにどんどんどんどん大きくしていって、ただ大学の地位を、自分たちの位置づけだけをよくしようという、何か学校のていさいだけの評価を高めよう、こういう考えが私どもは読み取れるわけでありますが、そこでこれは局長にお伺いしたいのでありますが、大学院がどんどんふえていくわけでありますけれども、最近の傾向、そしてまた今度二大学、二つでしょうか、ふえてまいりますけれども、今後文部省はこういうことをどんどんやみくもにふやしていかれるのか、その点をまず伺ってから質疑を進めていきたいと思うのです。
  79. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 大学の格差の問題の御指摘がございましたけれども、率直に申し上げますと、御指摘のように終戦後の大学の改革によりまして、従来の大学、高等学校、専門学校、師範学校というようなものを一県一大学というような形で所在のものを統合いたしまして、大学にいたしたわけでございます。したがいまして、格差というものは実は当初から存在いたしておったわけでありまして、私どもなりに大学のそれぞれ格差を埋めるように努力をしてまいったわけでありますが、その努力が足らない、あるいは場合によっては御指摘のようにやや見当が違うというようなことにもなっておるわけでありまして、これを今後さらに埋めていきたいと思っております。  そこで、御指摘の大学院の問題でありますが、戦後の大学は、旧制の大学とは違いまして、高等教育を広く普及するということで新制大学をつくったわけでありまして、その結果、学部のレベルでは、率直に申しまして、旧制の大学の学部のレベルまで専門的には場合によっては行かないというふうなこともあり得たわけでありまして、そこで国の最高の教育研究機関としての大学のレベルの維持のためには大学院を整備しなければならない。しかし、戦後広くつくりました大学のすべてにその大学院をつくるということは、何と申しますか、またそれだけの能力が一時に備わるわけでもありませんので、できるだけ整備された大学に重点的に大学院を置いて、大学院によって学問の水準が落ちないように、むしろ上がるようにという配慮をいたしたわけであります。  そこで国立大学について申し上げれば、旧制の大学を基盤とした大学学部の上に大学院を置くという方針をとってまいりまして、高等学校や専門学校を基盤とした学部の上には大学院は置かないということで戦後十数年やってまいりました。ところが、だんだん大学も整備されてまいりましたし、それから学問も進歩してまいりましたし、社会的な要請も、従来の旧制の大学を基盤とした大学院だけではまかない切れない状況になってまいりました。  そこで、前回の中央教育審議会の御答申、これは昭和三十八年に出てまいっておりますけれども、そこで大学院を二つに分けて、博士課程のほうは依然として学問の最高水準を維持向上させるというような趣旨であまり広げるべきではない、重点的に置いて、もっぱら高く、深く、充実するように、しかし、修士課程のほうは、大学が充実し、あるいは高度の知識、教養のある専門職業人の社会的な要請があるというような場合には、これは新しい学部の基礎の上にもつくってしかるべきではないかという答申があったわけであります。その答申の線に沿いまして、大学の充実度あるいは御希望、それから社会的需要——社会的需要は、率直に申しましてどちらかと言うと理工系に強く、社会科学あるいは人文系にはさほどでもなかったわけでありますけれども、そういうことも勘案いたしまして、理工系等を中心に、漸次修士課程をつくってまいったわけであります。今後も、さしあたりはこういう方針でまいりたいと思います。博士課程も含めました大学院の根本的な将来計画につきましては、現在審議中の中教審答申の推移などを見まして、あらためて考えたいと思っております。
  80. 森喜朗

    ○森(喜)委員 局長のお話を伺ってまいりますと、よけいに将来、収拾が何かつかなくなってくるのではないかという感じが私どもはするのです。何か世の中の需要に応じて研究所をつくっていく、あるいは共同研究所のような形になっていく。もちろん付置研究所のほうもあるでしょう。また新しい構想の大学も必要になってくる、放送大学も必要だ、どんどんそういうふうな形が出てくる。大学そのものも、どうもいまの四年制の大学だけでは世の中で受け入れられない。ひとつその上にもう一つ大学をつくらなければならぬような気がする。また、大学院も修士と博士に分けたほうがいい。博士はいまのままでいいが、修士のほうはふやしていこう、そういうことでだんだん総花的なものがどんどんでき上がってきて、国民はいよいよ惑いを感ずるような気がするのです。局長に対して御質問を申し上げるのは、もう少しこまかなところに進んでからにしたいと思います。  そこで、いま大学院の問題が出てまいりましたので大臣にお伺いしたいのですが、この間の中教審の中間でも、やはり大学院大学の必要性ということを盛られておるようでありますが、大学院大学というものに対して、大臣、ひとつ御所見を一度承っておきたいと思います。
  81. 坂田道太

    坂田国務大臣 今日の大学は、いろいろな形で変貌してまいりました。一つには、量的な拡大というものがございます。その量的な拡大を満たすために、相当程度の能力のある方には、大学はその門戸を開くという一面があろうかと思います。しかし同時に、大学の役割りは、研究を深めるという役割りがあると思うのでございます。特に基礎研究を充実していく、そうしてその学問の発展を維持させる、あるいは新たな価値創造を行なう、そういうことで世界の学問水準の発展に寄与させるという働きがある。そのいわゆる学問研究の部面が、ともいたしますと見失われがちになってきているのではなかろうか。戦前のいわば大学というものは、その大学そのものがむしろ選ばれた人たちのための大学であって、一般大衆といいますか、いま入っておるような能力の程度の人たちをもうシャットアウトしておったわけでございます。ところが、そのようなことはよろしくないので、そういうような人たちに対しても門戸を開けという形が出てきた。そのことによって、肝心かなめの大学としての本質であります研究部面というものがないがしろにされてきたということもいなめないわけでございまして、これをやはり充実するということは非常に大事なことである。言うならば、一般大衆の大学としましても、いま大学局長から御説明申し上げましたように、修士課程くらいまではやはり考えていかなければならない。そうだとすると、真の意味の学問のうんのうをきわめる新たな価値を創造する、そういう部面の研究というのはやはり大学院ではなかろうか。これはまた研究所とは違うわけで、教育というものをやりながら研究を進めていく。そのことによってかえって新たな価値の創造というものが生まれてくるという一つ考え方だと私は思います。その意味合いにおきまして、中教審におきましても研究院大学といいますか、そういうような構想を打ち出しておるわけでございますが、まさにそういうようなことを考えてのことだと私は理解しております。
  82. 森喜朗

    ○森(喜)委員 そういたしますと、大臣個人のお考え方として、やはりこれからの日本教育ほんとうに中身のあるものにしていくためには、研究院というふうにここに書いておりますけれども、大学院大学といいましょうか、こういう方向をつくられたほうがよろしい、こういうお考えに立っておられるわけですか。
  83. 坂田道太

    坂田国務大臣 私は、どうしたって大学改革の  一つは、やはりその方向にいかなければならない、しかし、それにもっていく行き方は、これはいろいろな行き方がありますというふうに考えております。
  84. 森喜朗

    ○森(喜)委員 まだ詳しいデータを私調べてないのですが、ことしもやはり旧帝国大学に受験生がかなり集中しておる傾向だそうでございます。どうも日本の大学、特にこれは文部省考え方じゃないかというような感じもするのですが、東大と京大にちょっとウエートをかけ過ぎて、それと同時に旧帝大にそういう力がどうしても集中する。私は、この考え方をもうここらで一ぺん切りかえていただかなければいかぬのじゃないかと思うのです。アメリカでも、ハーバード大学は最近ではかなり評価がむしろ落ちたというよりも、カリフォルニア州立大学の格が上がってきたという、いい意味での競争がされているというふうに聞いております。日本国立大学の予算面をあれしてみましても、どうも東京大学と京都大学で大体予算配分の三〇%ぐらいを占めているんじゃないか、あとの残りを各国立大学へ分散しているんじゃないかというような感じもするのです。特に名前をあげてはいかぬわけですが、東大勝沼内科なんという講座制を持っておられる大学なんかは、それに対する研究費がかなり大きなものです。それに対して、表向きは平等になっていますが、どうも実際には中身はきわめて不均衡、不平等だという感じがいたします。そういたしますと、どうしても文部省の旧帝大意識といいますか、そういうふうに予算面での偏重があるんじゃないかというような気がいたしますが、局長、まずひとつ予算面の配分で私が申し上げたようなことがあるのかどうか、また、そういうような偏重をどうしてもしていかなければならないのはなぜなのかというようなことを、ちょっと簡単にお答えをいただきたいと思います。
  85. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 予算といたしましては、大別いたしまして人件費、物件費、それから態様で経常費、臨時費ということになるわけであります。  この人件費は、これは人数によりまして給与の原則に従って積算するわけでありますから、これは人数の多いところは総額も多くなる。しかし、これは扱いとしてどこかを厚くするというようなことではなく、ちょっとことばは悪いですが、機械的に配分をされます。  それから物件費は、大学では、経常的なものといたしましては御指摘の講座費、学生経費あるいは旅費といったような積算になるわけでありまして、これもたとえば一講座当たり幾ら、あるいは学生一人当たり幾らという単価とその員数との積で配分するわけであります。したがいまして、規模の大きくまた学生数が多い大学は、配分される予算も多いという結果になるわけであります。  それから臨時費といたしましては、施設の経費あるいは設備費などがございます。これは、施設にしましても設備にいたしましても基準があります。その基準と現状と照らし合わせまして、足りないものを補うというような形で積算もし、配分もされます。また、新規事業がありますと、それに対しまして、定められた単価で積算された施設費、設備費が配分されるわけであります。したがって、この点非常に基準に対して現状が不足のところや、それから新規事業の多いところは多くいく、そういう事柄のないところにはあまりいかないという差異が出てまいります。  そういうことで、若干機械的に、若干計画的に積算した結果が、大体俗に東京大学は一割程度、京都はだいぶ少ないようでありますけれども、そういうことで、全大学の中の率としてはかなり高い率を占めているのは事実でございます。それはことさらにどうということでは必ずしもない。長年の間にかなり規模が大きくなっておる。それからまた、特殊な現象としては、その二つの大学は、どちらかといえば学問水準も高かったというようなことで、研究所でありますとかあるいは研究施設というようなものをつくる際には、どうしてもそういう大学に片寄りがちであったということもそれに拍車をかけているようなことがございます。そういうことにかんがみまして、文部省では押えるというわけじゃありませんけれども、大規模大挙につきましては今後これ以上拡大することはなるべく、でき得るならば避けてもらって、地方大学のほうを育成するというようなことで対処してまいりたいと思います。研究所なども、学者の研究の利便などということからいたしますと東京や関西ということにどうも片寄りがちでありますが、これをできるだけ分散いたしたい、そういうようなことで計画を立てたいと思っております。今度御提案しております高エネルギー物理学研究所のごときも、従来の考え方からいけば、東京大学や京都大学というようなところにつけるということをまずもって考えるのがむしろ自然であるのかもしれませんけれども、関係者の意見もあり、私どももその協議に応じまして、特定の大学につけることはあまり望ましくないのじゃないかということで、新しい形の共同利用を検討して設置を試みるというようなこともその一端でございます。そういうことで、御指摘のような点につきまして直ちに抜本的にならすというようなことはむずかしいわけでありますけれども、十分体してこれから対処してまいりたいと思っております。
  86. 森喜朗

    ○森(喜)委員 どうもこのあたりの御答弁になるとちょっとわかりにくくなりまして、 いままであったものに対してこうする、結局屋上屋を重ねていくというような感じがするのです。それで、当然最初のいきさつが大きいわけですから、どんどん広がっていくのはわかるわけです。  そこで、私はいま東大、京大の悪口を言ったり、旧帝大がいかぬというような悪口は言いたくないし、そんな議論はしたくないと思っておりますが、そういうことからして、日本国立大学、私立大学も含めて、どうも日本の大学を一ぺん整理してみるという時期が来ているのじゃないかと思うのです。特に、文部大臣ほんとう文部行政に熱意ある方と私どもは御尊敬を申し上げておるわけです。  これは私のくにの新聞ですが、金沢大学法文科の百八人の卒業生のうち約三分の一の三十八人が、卒業論文を提出しないで留年となったという記事が出ておるのです。何か紛争でリズムが狂うというようなことを学校側では言っておるのですが、「卒業なんてゼンゼン晴れがましいものじゃないよ」と言ったり、それからこれに対して教官は「四年間で卒業しなくてもよい。しかし、提出された卒業論文は薄っぺらになったし、学力も低下している。留年もやむをえないでしょう」という先生のお話も出ておるわけです。もう大学生がいまの新制大学で四年間勉強しても、そうたいしたものは身についてないのだというふうに自分たちも見ておるし、先生方も見ておる。私もいま自分の会館におりまして就職の相談に来る学生に聞くと、ある会社に入りたいと思うが何とかなりませんか、だめだ、じゃ単位一つ残して学校に残りますと言うのがいまの学生の口ぐせなんです。その点で、いまの大学というものは四年間ではほんとうに間に合わないのだということを、教授も学生もみんな認めてしまっておる、そんな感じを私は非常に感ずるわけです。大臣もいま御答弁の中で、いま入っておる人は大体昔の大学に入れなかったのだという御答弁をなさった。ということは、いまの大学は昔の大学という感覚が全然ないのだというように伺いたいと思うのです。そういうことから考えてみますと、どうも明治以来百年間にわたって東大だけが大体最重点という、こんな国は日本の国だけだそうであります。一つの大学がずっと一世紀にわたって有名大学、最高大学で押していくということも珍しいことで、先ほど申されたような局長の予算のお答えがありましたけれども、そんなことも、たいへん恐縮な言い方ですけれども、官僚的な発想だなという感じがしてなりません。  これはひとつ大臣どうですか、こういうふうにいまの大学自体が、教官も学生も大学として認めていない。そこで、いま地方の大学は、学部をどんどん広げて学科をつくり、大学院をつくって、おれのところもいい大学なんだ、大学院もあるんだぞというゼスチュアを示している。その裏には、いま大臣もお答えになったように、大学院大学というものが目の前に来ておる。そうすると、一体どこを大学院大学にしておくんだろうか、おれのところは残されないと、これはかっこうがつかぬようになる。いまでも一期校、二期校の差がある。これは受験の差だけれども世の中の評価は一期と二期の中身の差というように理解しておると思うのです。ですから、大学院大学になれない大学ということになったらたいへんだというのが、各地方大学の深刻な悩みじゃないかという感じがします。そういうふうに大学院をつくりたがっている風潮があるような気もするわけです。  私、いままで長々申し上げましたが、どうですか大臣、思い切って日本の大学をもう一ぺん再検討していただきたいし、同時に、旧帝大なら帝大、局長がおっしゃったようにいままでのものが残っているわけですから、偏重だ偏重だと私どもに言われることも当然だろうと思うのですが、何かこのあたりで旧帝大を思い切って大学院大学にするんだと——佐藤さんも、蛮勇をふるってこれから教育をやらなければいかぬということをおっしゃったわけですから、教育に最も熱心な坂田文部大臣の手でひとつ大学院大学はこういうふうにつくるんだ、旧帝大を大学院大学にするんだということを、むしろこの際思い切って発表されたら、ただ大学院大学をつくろうとして学部だけ広げていこうという無意味な競争みたいなものは起こらないのじゃないかと私は思うのです。  長々と申し上げましたが、以上の点をおくみ取りくださいまして、大臣の思い切った発言を私は期待したいと思うのです。
  87. 坂田道太

    坂田国務大臣 先ほど大学局長が申し上げましたように、新制大学になりましたときのおい立ちは、確かに旧制高等学校、師範学校、そして普通の大学、これが一緒になったわけです。入ってくる生徒の能力というものも、昔ならばA、Bクラスぐらいの人たちまでしか大学に入れなかった。しかし今日ではA、B、C、Dくらいの人たちでも入ってくる。このことが一面において大学が変貌した原因でございますし、それはそれなり意味を持っておる、こういうふうに私は考えるものでございますが、実態はそうだ。ところが、学生のほうだけを考えますとそうでございますが、今度は、それを受けとめておる大学の先生のほうはどうだといいますと、やはり移り変わりのときに、師範学校の先生が二段上がって大学の教授になっておりますし、旧制高校の先生が大学の教授になってきておるわけでございまして、昔ならば、A、B、Cというふうに言うならば、おそらくAプラスAの上という人しか大学の教授でなかったんじゃないかというふうに思います。そうすると、今日では、むしろA、BあるいはCというような人でも大学の教授になっておる、こう見なければならない。  そこで、そういう一つの現実を踏まえて、そしてこれからの大学というものをどういうふうに再編成するかという大仕事に取り組まなければならないわけでございます。その意味合いにおいて、局長が予算配分について申しましたのも、それはそれなりほんとうだと私は思います。  しかし、これはまた、OECDあたりがこの間参りまして指摘しておりますし、先生御指摘のとおりに、何だか日本の大学というのは、まず国立大学と私立大学の格差があまりにもはなはだし過ぎる。もう一つは、同じ国立大学でも東京と京都だけがヒエラルキーな形になっておって、ほかの大学というのは無視されておるのじゃないかという大まかな指摘がありますけれども、大まかであるがゆえに常識的な一つの判断だと私は思います。これはやはり耳を傾ける事柄であり、先生の御指摘になったことは一番大事なことだと思います。  したがいまして、今後新しい大学を編成する場合に、どういう中教審最終答申が出ますか、そしてそれを踏まえてわれわれは具体的にどういうふうにするかでございますが、現在の既存の大学の実力というものを一応評価しながらも、何か重点を置いて考えていくならば、やはり地方の大学を充実する。地方の人がわざわざ東京、大阪に出てこないでも、過密都市に出てこないでも地方の大学で、まだ自然の残された教育環境のいいところで相当高い大学教育が受けられる、あるいは研究ができる、そういう姿に持っていくべきじゃないか。大きい方向としては、私はそういうふうに考えております。いま一種、二種、三種、四種、五種とかいうような、一般の方々には非常にわかりにくい中教審中間報告もございますけれども、しかし方向は、いま先生が御指摘になったような、また私がいま申し上げましたような方向で仕組みを変えていかなければならぬのじゃないか。外国では、イギリスやフランスやドイツを去年二週間ばかりざっと回ってきただけではございますけれども、従来の学部制、講座制にとらわれない新たな教育研究のやり方を考えておる、あるいは管理運営のやり方をやっておる。そういうことは今度の大学改革の中に十分取り入れていくべきことであるというふうに考えておるわけでございます。
  88. 森喜朗

    ○森(喜)委員 週刊誌だったと思いましたが、何か国民投票みたいなことをやりまして、だれが文部大臣に一番適しているかというのをやりましたら、たしか一番が坂田道太さんだったと私は記憶しております。二番目が、いまおられませんが、河野洋平さんだったような気がいたします。これはわれわれの中でも異議があるような気もいたしますが、それはともかくとして、私はいなかの選挙区では青年会議所のメンバーなんです。文教施策について政治家の中でだれのお話が一番聞きたいかというと、やはり大臣の名前が一番よく出ます。いまお話を伺いました。これ以上この問題でやっておりますと時間が来てしまいますので……。もちろん現実を踏まえなければなりませんけれども教育もすべて先取りだと思っております。特に政治家は、口を開けば教育だ、生涯教育だと言っているが、実際にはなかなか具体化しない。文部省の予算も、何だかんだ言っておきながら、教育予算は大蔵省で前年の大体二五%でとめるんだという。大蔵省は来ていませんが、それではほんとう教育施策にはなりません。ですから、大臣、これからもほんとうに大学を再編成するんだというような気持で、ぜひとも大臣の手で、五月ごろ答申が出るんじゃないかと思いますが、それに基づいて大きな方向づけを示していただくようにお願いをしたいと思っております。  ちょうど大学の話に入りましたので、もうそろそろ入試の時期になってくるわけですが、入試の問題でちょっとお聞きしたいと思う。  私は、いまの世の中で問題なのは、物価、公害も含めて、いろいろありますが、もう一つはやはり受験生の問題であり、それをかかえている親の悩みだというふうに解釈するのです。入試方法というものはどういうふうにきめられてきたのか私もわかりませんが、毎年二月、三月にはこういうやり方をやるわけですが、一体いつごろからこういうふうになってきたのか、これを変える方法はないんだろうか、もっと受験生、おとうさん、おかあさんが悩んでおられるような点を解決する方法はないだろうか、文部省自身でそういうことを考えてみられたことがあるのかどうか、それをひとつお伺いしておきたいと思います。
  89. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 この入学者選抜の問題は、学校に定員があり、志願者が定員を上回る以上はどうしても選抜をしなければならぬということに相なります。そこで、そのやり方の問題でありますが、これは旧制時代から別段法律等できめられた基準というのはございません。理念といたしまして、学校の入学者の選抜でありますから、その学校に入るにふさわしい能力を適正に検査すべきであるというのが第一点であります。第二は公平でなければならぬ。第三は下級の学校、大学についていえば高等学校でありますが、下級の学校の教育を試験によって妨げてはいけない。こういう三つの原則と申しますか、これは大げさに申せば戦前から今日まで、関係者がその理念を実現するにはどうしたらいいかということでくふうしておるわけでございます。  そこで文部省では、この選抜方法の研究のために、大学関係者、高等学校関係者、それにその他の学識経験者をまじえまして、大学入学者選抜方法の改善に関する会議というのを持っております。これは別に法制上の審議会ではございません、事実上の会議体であります。これは、名称は若干違いますが、戦後ずうっとそのようなところで相談しながら方針を出しておるわけであります。そこで出ておりますやり方としては、能力をためすためにはやはり学力検査をやらなければいけない。その他、公平を期するために、学力検査というのがどうしてもマルバツ式になる、そこでさらにペーパーテストでわからないような能力を調べるために、まず本人が下級の学校で何年間か履習した結果というのは一日や二日の試験よりは参考になるだろうということで調査書というものを出させまして、これを要素としております。その他若干の、面接でありますとか、あるいは場合によっては小論文を課するとか、あるいは下級学校の推薦というようなものを要素にするとか、そういうことを組み合わせましてできるだけ適正に選抜するという方針を立てまして、これを文部省から通達で関係者に流しまして実施しておるわけでございます。なお、国立大学につきましては、そのほかに選抜期日を一期、二期に分けて一定しておるというのもその通達の内容でございます。  結果におきましては、それにもかかわらず大体選抜要素として一番ウエートが高いのが学力検査で、軽重の差はありますけれども、中にはまあ学力検査一点張りという実情でございまして、またこの学力検査問題が適正であれば、これは適正なる学力選抜に備えて準備するということはそれなりに意義のあることでございますけれども、短時日にたくさんのものを選抜するという条件に制約されて、下級学校で履習した結果を正しく調べるというようなまともな問題だけではなくて、単に落とすだけ、記憶力をためすだけのような問題が出る。ここで入学試験の弊害というのが一番先鋭にあらわれるわけであります。  そこで、この改善会議あるいは中教審等でも、入学者選抜方法の改善ということは、これは学校教育の成否のかぎであるというような認識のもとに検討いたしましたが、今日までの結論では、何か一つ方法で弊害がなく、先ほど申しました大学入学者選抜の理念に照らして適正な方法というものはむしろあり得ない、いろいろな方法を組み合わせてやることが現時点では妥当であるということであります。具体的に申しますと、学力検査一辺倒というものをやめて、学力検査は存続するといたしましても、従来以上に必要な改正を加えた上で調査書を重視する。それから面接でありますとか小論文というようなものを一そう重視するようにする。それからなお、調査書については信憑性の問題がございます。そこで信憑性というようなこと、あるいは学校間の格差といったようなものを調整するような意味合いにおきまして、高等学校段階で統一試験をやったらどうかというような提案がなされております。こういう提案を基礎といたしまして大学や高等学校でも検討しておりますし、文部省でもその改善会議において引き続き検討しております。中教審答申を得、それから改善会議の作業目標としては、ことしの秋ごろまでに大学入学者選抜方法につきましてはかなり基本的な問題まで検討して、将来のあり方を打ち出して改善をはかりたい、かように考えております。
  90. 森喜朗

    ○森(喜)委員 宮地局長、ちょっとお伺いしたいのですが、いま大学局長は公平であること、適正な評価をすること、その他下級学校云々ということで、三つの柱ということでございました。私のところへ自分の選挙区の人あるいはどなたでも、いろいろ後輩たち、おとうさんたちが受験の相談に来られます。私はそのときにいつも言うのです。おやじさんには関係ないから本人をよこしてくれ。いろいろ話をいたします。そうすると、高等学校はいつ終わるんだと言うと、ある時期に終わる。それじゃ内申書を五、六通持って東京へ来い、それから君の学力と君の精神的な態度とか、そういうものを見て、おれと一緒に相談をして受けようじゃないか。そういうことを言いますと、内申書はそんなに簡単にもらえないというのですね。私はこれを申し上げると、私のくには石川県でございますから、学校の名前を出すと非常にまずいですから申し上げませんが、おそらくそういうことはどこにもあるのじゃないかと思うのです。そして学校の指導の先生が、あなたはこの大学を受ける資格があるというふうに見ないと内申書を出さないというのです。ですから、高校生がすでに高等学校の中で、もう自分の受けたい学校を受けられないようなかっこうに最近はなってしまっておるようです。これは事実です。だんだんそれが激しくなってきている。私なんか二、三年前そういうことがあったときに、そんなことはない、高等学校の先生にもらってこいというふうに言いますと、そう言うと先生は出すというのです。しかし、言わない限りは、学校を通して出すので、絶対独自で出してはならない。別に内規も何もないのだと私は思うのです。ですから、結局それを見ておりますと、何々高校の中で模擬テストをいろいろやって、何番目ならば早稲田へ入れるとか、あるいは東大へ入れる、あるいは慶応へ入れる。学校の先生のほうでランクをつけてしまう。おやじが相談に行っても、お子さんは慶応は無理でしょう、初めからそう言ってしまう。だから、本人が受けたくても内申書を出さない。学校から出してくれないというのが最近の傾向のようなんです。こういうことは、大学局長のおっしゃるような公平、適正な評価云々からいうと、全く逆の方向へいっているような気がするのです。こういうことを御存じですか。
  91. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 調査書につきましては、先ほど申し上げた文部省の指導通達で様式をきめましてこれを高等学校にも流し、高等学校で記入をして大学に提出するということになっておりますが、乱用があってもならぬということで、本人が志願をきめてどこの大学へ行きたいという段階で発行するようでありまして、その目的なしにただ調査書だけを発行してくれといっても、高等学校では出していないようでございます。  なお、調査書以前に本人の志望を学校がいろいろ言うというのは、一面において本人の希望に沿ってやらないという点もあろうかと思いますけれども、また他面において、現実にその選抜によって、ある程度の能力がないと入れないというのも事実でありますので、能力に応じた進学をしてむだなエネルギーを浪費しないというような意味合いにおきまして、高等学校では本人の能力も考えた進路指導をやっておるようでありますので、あなたはその学校は無理だというようなことも言っておることは事実だろうと思います。ただ、それがあまり行き過ぎてその希望を曲げるというようなことにつきましては問題があろうかと思いますけれども、健全な意味での進路指導ということであれば、それはやってさしつかえないことではないかと思っております。
  92. 森喜朗

    ○森(喜)委員 そういうふうに答えられるとしようがない。大体役所的な答えなんですよ。しかし、高校生というものは非常に精神的にさみしいのです、孤独感で。もう先生しかたよれない。高校の先生がだめだと言ったら、だめです。たまたまわれわれのところに相談に来られれば、われわれが、そんなことはない、もらってこいよと言えば、先生は出すのです、これは別に禁止してないから。なぜ私がこんなことを言うかというと、たとえば私は早稲田です。それで早稲田を受けたいとよく相談に来る。本人は二年浪人して、おやじさんはこれ以上浪人させたくない。本人は早稲田へ行きたい。そこで、あそこも受けなさい、ここも受けなさい、慶応も受けなさい、中央も受けなさい。そのうち大体点数がわかってきます。これはどう見たって無理だ。そこで、おとうさん、浪人させるのかと言うと、いや、これ以上させたくない。本人もそうしたくない。それでは、こういうことを言うと関係者がおると悪いのですが、たとえば早稲田大学に社会学部というのがあります。これは村井新総長によれば、将来は昼夜開講制にして幅広いものにしたいという理想を持っておられるようですが、いまは夜間です。しかし、そういう意味で、おまえ、早稲田に行きたいならもう二部も一部もないじゃないか、ほんとうに早稲田へ入りたいのだったら、どうだ、社会学部をいまから受けてみなさい。まだ間に合う。ほかの政経とか法科は間に合わないわけです。しかし、そういうことを実際にやらせようとすると、本人は内申書がないと言う。もらってこいと言うと、学校では余分なやつはくれない。いつもこういうことになってしようがないから、われわれが電話をかけてやって、先生、送ってやってくれというと、送ってくれる。たまたまこんなのは千人の中の一人か二人くらいです、われわれのところに相談できるものは。そういう人たちによって、ほんとうに高校の中でも機会均等——これは宮地局長やどなたがきれいごとを言われても、はっきり、いまの高等学校の先生はみんなをどこへ入れてやりたいということよりも、受験のパーセンテージをよくするということにもう一生懸命なんじゃないかと私は思っておるのです。ですから、そういう中で高等学校の生徒たちに指導している方法に、やはり私は安心感で見られないことがよくございます。特にいまの高等学校の教育、受験指導あたりをしておる先生方というのは、概して国立大学教育学部を出られた方が大体多いと思います。そういう方々が、どうしても私学に対する偏見も多少ございます。同時に、受ける勉強の中身は一生懸命教えておられるけれども、受ける技術的指導というのをやっていない。だから中身の社会だとか数学だとか英語だとかそういうことは一生懸命教えておられるけれども、テクニックみたいなものが案外おろそかになっているような気がする。その中で、ただ模擬試験ばかりやっておる。  私のことを言ってはなんですが、私が受けましたのは昭和二十一年に入ったのですが、そのころは、私どもの学校は石川県では受験校としてかなりいいほうでした。しかし、ずっと模擬テストをやると、われわれの仲間でも二十人のうちいつもベストテンから二十位までに入っていた者が、当時早稲田には一人も入らなかった。そうして運動部におる者が、私はラグビーをやっておったのですが、いつも模擬試験では先生からどやされた連中がほとんど入っているのです。これはさっき大臣もおっしゃった大学は昔といまと違うんだ、こういうことになるわけでしょうが、私立大学というのは、昔は、東大や高等学校に行けなくなってしようがないから慶応でも行け、早稲田でも行けといって、少なくともそういうところだったと思うのですよ。ところが、いまは私立は逆なんですね。そうなってくると、学校の模擬テストなんというのは一体とこまで——確かに能力を検査し、はかることにはいいのですが、問題はそれを配分してやる、あるいはテクニックとしてどれだけの効果があるか。高等学校の先生方にはそれだけの余力もないし、そういう能力も私はないと思うのです。  特にひどいのは、名前は絶対に申し上げられませんが、今度私立大学を受けてだめだったというそのおやじが来て、先生が銭をとってくれぬからと言われた、だれがそんなこと言ったんだと聞いたら、高校の先生が言った、私立のことを相談するなら銭を持っていかなければだめだよ、こういうことを言う高等学校の先生がかなり多いのです。現実におられるわけで、先生だから私は名前を知っておるけれども申し上げません。だから、私がこういう具体例を申し上げて、局長さんもこんなことをおそらく調べておられぬでしょう。局長さん方は、近所の方や御親戚の方で、大学に入るのだが頼みますという相談を受けられますと、点数次第だとか言って聞いてやっておられるのだと思います。それはそれでいいのです。しかし、ほんとうに受験生に対して悩みを聞いたり、そこまで指導されておるかというと、私はまずノーだろうと思っております。一ぺんそういうことをお調べになったらどうですか。そして、やはりこれは何か適正な受験指導を、もっとほんとうに現実に即した、高等学校の先生たちに生徒の気持ちを自由にまかせて、また自分の受けたいところを受けさせればいいじゃないですか、評価が悪くても。おれはひとつ東大を受けたい、おれは力がないかもしれぬがしっかりやれば——あるいはその日の朝読んでおいた源氏物語がばんと出るかもしれないんですよ。私も大学を受けた経験でそういうことがありました。その日に頭にふっと思いついて見ていったものが試験に出ることだってあるのです。ですから、そういうようなことを考えて、もっと子供たちに対して自由に伸び伸びと好きなことをやらせるような方向づけで、これは宮地局長、何か前向きにひとつぜひ考えていただきたいし、いまちょっと私が申し上げましたようなこと、疑問もあろうかと思いますが、ひとつお考えをぜひ伺いたいと思います。また、それから前向きの策もぜひひとつお答えを願いたい。
  93. 宮地茂

    宮地政府委員 いま先生のおっしゃいますこと、私ども受験生から先生ほど親身になって相談を受けるということもあるいはないかとも思いますが、ある程度の状況は把握しております。そういうようなことで、実は高等学校から大学に入る場合もそうですが、中学から高等学校に行く場合も、いわゆる就職するかあるいは進学するかといったようなことで、子供の進路指導ということにつきましては従来からも問題になっております。またその進路指導につきまして、場合によりましては、それぞれの先生がなさる指導が、私ども考えてもそういう指導ではたしてよいのであろうかといったようなことも聞いたりもいたします。そういうようなことから、今回学習指導要領の改定にあたりましては、特に教師がいろいろ配慮しなければならない一つの大きな点といたしまして、進路指導を学習指導要領の総則の中で、十分子供たちの能力、適性を教師はしっかり把握してその伸長をはかり、さらに適切な進路指導を行なうようにと、大体そういった趣旨の進路指導についての注意をいたしましたのも、その一つのあらわれでございます。  で、一例として先生がおあげになられました内申書のことでございますが、まあ一般に、先ほども大学局長も答えましたが、子どもの中には特に、私どもも相談を受けますが、いなかから上京してきて早稲田、慶応、法政、明治、日大とか、こう一人で、はたしてそれだけ受けられるのであろうかと思われるくらい、一日おきの試験をちゃんと書いて持ってきて相談されるような場合がございます。しかし、先生がおっしゃいますように、どこを受けるかわからぬが五つか十ぐらい内申書を持つということは、大学局長も申し上げましたが、乱に流れるおそれもございますので、でございますので、そういう場合に先生がどこの大学を受けるのだということであれば、学校は拒まないと思います。ただ、どこを受けるかはわからないが、ともかく上京してえらい人に聞いてみるから十通ぐらい内申書をくれというようなことですと、ちょっと学校としても困りますので、先生のほうでそういう場合、こことここだということで学校にかけ合うようにと教えてやっていただけば、それをしも拒む学校はなかろうかと思いますが、それにしましても、私どもこまかい点に思いの及ばない点もございますし、また、教師の中にはともかく子供を大学に入れてやりたいという気持ちがあります。そういう点から、あるいは子供なり父兄の意思と違って、ともかく大学にこの子供を入れてやりたい、こうなりますと、子供は早稲田に入りたいと思っても、早稲田は無理だから君はこっちのほうを受けなさいという指導もあるいはなされると思います。その場合、どうも本人の意思を無視してまで絶対に早稲田への願書は出させないということではございませんが、そういう指導を受けた子供にしてみると、学校から自分の自由を束縛されたという印象を持つこともあるいはあろうかと思います。しかし、多くの先生はそういうことではない、真意はそうではないと思いますが、今後御趣旨の点にも十分注意いたしまして、機会あるごとにそういうようなことのないように、今後十分進路指導につきましては注意を促していきたいと思います。
  94. 森喜朗

    ○森(喜)委員 もう時間が、あまり延ばしてもいかぬということですから、これ以上この問題はいたしませんが、いま宮地さんの答弁の中で、総則の中に伸長を期して、適性をはかって、こういう文章を織り込まれるというお話がありましたが、こういう文章が悩みなんです。こういう文章が入ると、先生は、それではというので具体的にはいまみたいなことになる。私はいま一つの事例を言っているのじゃないのです。ぼくは国会議員になってからは一年ですが、その前は国会議員の秘書を長いことやっておりました。ですから、ずいぶん——昔から国会議員になろうと思っておりましたから、どんなにしても受験したい人には私は必ず相談に乗ってきた。その長年の動向が、去年まではそう言うと、学校に言っていけばもらえるのだというふうにわかっていたものが、ことしあたりになってくると人も変わっております、変わっておりますが、そういう傾向があるということだけを私は申し上げておるのです。ことしあたりの学生になりますと、自分で出してはいけない、学校を通して受験志望を出しなさいというふうになっております。前の答えがそれくらい変わってきておるわけです、ここ何年間かずっと。ですから、そういう具体的なことを、適性をはかるとか伸長を期するとか、そんなややこしい文章は先生方もわからないですよ。もっとはっきり自由に子供にそういうものを受けさせる。もちろん適性や能力に応じてしなければならぬけれども、少なくともあとがきには生徒の受けたいところを自由に受けさせてやる。それから内申書がほしかったら——大体内申書なんというものは現実に大学では見ていない、積み上げているだけだと私は見ておるのですが、そういう内申書に対しても、早稲田に行きたいというなら本人に自由に出してやるようにしなければならぬということを、やはりあとがきにでもつけていただかないと、先生方というのは、そこまでしないと私は言うことを聞かぬと思っております。お答えはけっこうでございますが、そういうことをやはりぜひやっていただかないと、いまの傾向を見ておるとそういう方向にだんだん行くのだ、そのうちにいつの間にか——さっき村山さんも、大学の受験期というのはいつの間にか昔からずっと三月にやるようになったのだ、これは取りきめでも何でもない、昔からの歴史的事実の積み重ねだと言われたが、それと同じみたいなことにぼくはきっとなると思うのです。まあ十年ぐらいたったら、坂田文部大臣は大学の再編成に大いに熱意を上げてくれるそうですから、大学は変わってくると思いますが、少なくとも現行のままで進んでいったら、受験の場合は高校を通じてなんというふうにおそらくいつの間にか内規みたいになって、それが不文律みたいになる時代が来るのじゃないかという気がいたします。その辺が最も大事なことではないかと思います。特にいまの高等学校は予備校化しておりますから、大学受験のための高校みたいなものですし、私どもは認めたくないのですが、現実はそうだとすればそこまで注意して、こまやかな御指導をぜひいただきたいというふうに要望をいたしておきます。  時間がどんどん過ぎてしまいますので本論に入りますが、今度の三つの電波学校ですね。今度この法律が通って高校が高専になるわけです。ところで、ことしこの三つの電波高等学校の受験生徒募集というものは、いまどういうふうになっておるのでしょうか。
  95. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 学校を新設する、あるいは改組する際に学生募集をいかにするかということと、予算や法律がいつ成立するかということは、私ども並びに学校関係者の悩みの種でありますが、できるだけ志願したい学生に便宜を与えたいということで、許される限りの便法と申しますか、できるだけ入れるような措置を講じております。御指摘の電波工業高等専門学校の場合は、これは現在の電波高等学校でありましたのを改組いたしまして工業高等専門学校にするわけであります。したがいまして、予算並びに法律が成立すれば工業高等専門学校になるぞという注意書きを付しまして、電波高校として生徒を募集することにいたしております。これによりまして、受験の期日としては同じレベルの子供でありますから変わりございませんので、特段の支障はないと思っております。
  96. 森喜朗

    ○森(喜)委員 そういたしますと、もしこの法案が通らなかったらその人たちは高等学校、こういうことになるわけです。ですから、私どもは与党でありますから、受験生の心理を考えると、三年になるのが高専になると五年になるわけですから、五年になるのかということで親も本人も真剣だろうと私は思いますし、その点については、この法律をなるたけすみやかに通すようにしなければならぬと思っておりますが、もし通った場合、あるいは通らなかった場合、そういう面での切りかえ業務といいますか、この辺についても御指導されておられますか。そういう点はすみやかにスムーズになるように、また、もしだめな場合にはその辺の混乱が起こらないように、そういう指導をされておられますでしょうか。
  97. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 昇格事務まで含めまして生徒募集のやり方、それから万が一不幸にして支障が起こった場合の措置などにつきましても十分打ち合わせてやっております。
  98. 森喜朗

    ○森(喜)委員 これも老婆心ながら、ほんとうに受験生の心理というものを考えて、ひとつスムーズな方向に行くように行政指導をされますようにお願いをしておきたいと思います。  そこで、今度提案されます教職員の給与法案になってくるわけでありますが、この第二条の「学校教育法に規定する小学校、中学校、高等学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部及び高等部をいう」ということになってまいりますと、高専の先生方は入っておりませんですね。
  99. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 入ってまいりません。
  100. 森喜朗

    ○森(喜)委員 そうなりますと、高校の先生と高専の先生と給与面でどのくらいいま差があるのか。
  101. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 高等専門学校は、御案内のように高等部、専門部という形ではなしに、レベルからいきますと高等学校年齢から短期大学年齢までの五年の一貫した教育であります。したがいまして、教員につきましても、下級の段階では高等学校に似たような教育はいたしますが、もちろん高等学校の先生ではないわけであります。給与表も高等学校とは別になっております。しかし、大体同一の学歴、同一経験年数の人であれば、ほぼ高等学校と似たような給与額になっております。
  102. 森喜朗

    ○森(喜)委員 そうなりますと、似たようなものですね。私が聞いたのでは、多少高専のほうが高いということを聞いているわけですが、そうすると、これは三つの電波高校の先生がそのままなるわけでしょう。そうなると、今度のこの給与法が通ると高校の先生の給与が上がりますね。高専の先生方は、そのままの高等学校の先生であれば上がったのに、高専になったおかげで給与が上がらないということになるわけでしょう。おかしいですね。そうすると、この三つの学校の先生方は上らぬ。給与はかなり違ってまいりますから、これはいまのままのほうがいいのじゃないかということになるのじゃないですか。
  103. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 電波高等学校が高専になります場合は、年次計画によりまして初年度から切りかえてまいります。それからまた、たてまえといたしましては高等学校の先生が自動的に電波工業高専の先生になるのではなくて、あらためて高専の教員の基準によりまして合格する者を任用するという形になります。そういうことでございますので、さしあたりの問題としては、工業高専のほうに採用になった者は今度の特別措置の恩典には均てんしない。それから経過的に電波高等学校に残っておる者につきましては、特別措置が発動されれば適用があるという形になります。
  104. 森喜朗

    ○森(喜)委員 そういたしますと、当然高専についてもやはり特別措置が適用されるような方向にしなければならぬと私どもは思うわけですが、この辺大臣、そういう方向にひとつお進めになるようなお考えはあるでしょうか。
  105. 坂田道太

    坂田国務大臣 この点につきましては、やはり前向きに考えていかなければならないと思っております。
  106. 森喜朗

    ○森(喜)委員 いま村山局長のお話を伺えば、だいじょうぶだろう、初年度は問題ないのだということになるのでしょうが、これは先生方にとっても、そういうことを相当の疑問点を持って心配されておる点もあると思います。
  107. 谷川和穗

    ○谷川委員 関連して。たいへんこの次の法案の審議に重要な影響があると思いますので、関連してお伺いしておきたいと思いますが、これはこういうふうに了解してよろしゅうございますか。今回国会に提案される義務教育諸学校等の教員の給与に関する特別措置法案は、法案の中にあるような学校の先生方を対象にしておる。それ以外の学校の先生方についてはこの法案ではどうにもしようがないのだけれども、いずれごく近いうちに何らかの是正といいますか、手当てがされるであろう、こういうふうに了解してよろしゅうございますか。どちらの局長でもよろしゅうございますが、伺います。
  108. 宮地茂

    宮地政府委員 お答えいたします。  その点につきましては、実はこれは人事院の意見の申し出並びにそれについての説明が国会、政府のほうへ出ておりますが、それを見ましても、その他の学校については別途検討課題とするということで、この問題につきましては、たとえば幼稚園さらに高専、ここが小学校から高等学校との間のボーダーラインの辺の一番近接する学校でございまして、これは私どもは人事院の意見が出ます前からいろいろ陳情等もしておりましたが、その意見書にもそう書いてありますし、また私ども人事院にお聞きしたところでも、このままで小学校から高等学校だけということではない、別途検討するのだということでございまして、それにつきまして文部省気持ちとしましては、先ほど大臣がお答えになられたとおりでございます。
  109. 谷川和穗

    ○谷川委員 特に森委員は、いま審議されております国立学校の中の電波高等学校が電波高専に昇格する、その一つの学校の中で生ずる問題をとらえて御論議になったと思うのでありまして、特にこの問題は、同じ一つの学校の中にそういう二つの学校の先生方が生まれるということでは、なおのことである。できるだけ早い機会に人事院と協議して、人事院からしかるべき方向で問題を解決するようにしていただきたい、こう考えております。
  110. 森喜朗

    ○森(喜)委員 谷川先生からすべて言い尽くされたような感じがいたしますが、要は学校の先生方の給与がどんどんよくなって、待遇がよくなって、ほんとう教育に安心して精を出せるようにしていただくということが私どもの願いであります。しかし、当然いまのような問題が出てまいります。と同時に、わが党の部会でも出てきたのは、こうした国公立が上がっていくということで、一体私立の学校はどうなるのだという心配もやはりしておられます。そういうようなことがこれからどんどん派生して出てくると思います。大臣も、前向きなお答えをいただきましたけれども、どうぞひとつこの問題は、あまり間を置かずにどんどん進めていただきたい。また、検討いただくようにお願いをしておきたいと思います。  それでもう一つは、この高専の評価というのは非常にいいわけです。それからいまのような大学教育、高等教育、どうもあまり中身が濃くないというような感じがいたしますから、高専というのはかなり評価が高まってまいっております。電波高校もこれに伍して高専になるわけです。それで、どうですか、今後たとえば商業学校だとか工業高校だとか農業高校なんかもいろいろあるようですが、こういうところも将来、みな高専というようなことになるようなことがあり得るのでしょうか、また、そういうようなお考え文部省としてはお持ちなんでしょうか。
  111. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 高等専門学校の制度は、いろんないきさつがありまして、最初工業に限定してスタートし、次に商船が加わり、それから今回は電波、ちょっと異色でありますけれども、これは工業の分野の範囲内ということで措置をいたしたわけであります。それで、さらにその他の分野まで拡大すべきではないかという御意見は各方面から承っております。文部省でも高専に審議会がございますし、また部外者の協力を得た会も持っておりまして検討を願っておりますが、工業ほど明確に五年の一貫教育が適するというような方向がほかの分野ではそれほど出てまいりませんので、なお検討中でございます。工業につきましては、若いうちから技術と知識と一貫してやることの必要性というのがきわめて強調されて制度化されたわけでありますが、現在、その他農業でありますとか商業でありますとかいう分野からも御希望はありますけれども、工業ほど明快にその辺が推察されないような点もありまして、なお検討中でございます。
  112. 森喜朗

    ○森(喜)委員 それではちょうど一時間になってしまいましたので、ちょっとあと少し一、二点だけございますので……。  やはりこの法案の中に盛られておりますもう一つの高エネルギー物理学研究所についてでありますが、いろいろお尋ねしたいことはたくさんありますが時間がございませんので、ひとつこの基本的な性格、特に教職員の定員、あるいはこれが総定員法の中の適用を受けているのか、あるいは運営管理は一体だれがその責任をもっておるのか、そういう問題等について、局長考えておられますことをひとつお話しいただきたいと思います。
  113. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 高エネルギー物理学研究所と申しますのは、簡単に申し上げますと、陽子シンクロトロンという加速器を使いまして素粒子の研究をする、つまり物質の究極の構造並びにその性質を探求するという目的で設立されるものでありまして、この設立につきましては多年学界の要望であり、学術審議会の検討も経ましたその結果に基づきまして物的な準備をすでにやっておりますし、今回組織並びに建設費の予算を計上いたしまして発足をお願いしておるわけであります。  それで、これの組織といたしましては、究極的には人が二百八十人程度、そのための建設費八十数億円ということで計画しておるわけでありまして、それの初年度の人間が約五十数名、予算といたしまして十数億のものが計上されたわけであります。これの組織なり運営は、形といたしましては文部大臣所轄の国立の研究所という形になります。この種のものは従来もあるわけでありますが、従来のものと変わっておりますのは、これを国立大学その他のものの共同利用の研究所といたしまして、国立学校設置法の中で措置をするという点が従来の直轄の研究所とは違っております。しかし、国立学校設置法で措置をいたしますが、特定の大学には付置しないという点におきまして、従来の大学付置の研究所とも違っております。この運営といたしましては、これは所轄機関でありますので、所長以下教授、助教授といったような職員を置き、所長がその責任者となり文部大臣に直轄するわけでありますけれども国立大学その他の共同利用研究者の意向も反映するために、この研究所には評議員会でありますとか運営協議会とか、そういう組織をつけまして、研究所内外の意向を徴しながら所長が取りまとめて、文部大臣に対して責任を持つという形に相なります。特にその人事管理につきましては、これは他の直轄研究所の例に従いまして、教育公務員特例法の準用をいたすつもりであります。ただ、大学とは違いますので、大学でありますと教育公務員特例法が全面適用になるわけでありますけれども、この研究所の場合は、教育公務員特例法の適用関係は、現在あります文部省所轄の国立研究所並みの準用をいたすということを考えております。
  114. 森喜朗

    ○森(喜)委員 どうもこの共同研究所、いま十数億円、この間の秋田大学医学部も人だけでも千五百人、どんどん技術革新時代ですから技術研究所をつくられたり、それは私は大いにけっこうなことだと思うのです。外国に負けてはなりません。しかし、逆な反面、何も使われていないものやら案外遊んでおるものもあるのじゃないかというふうな感じもいたします。私もちょっと、これは質問の指名をいただきまして、時間がありませんから調べてないのですけれども、いままでいろいろ聞いたところでは、どうもほんとうに、特に付置研究所ですね、遊んでおるようなものがたくさんあったり、むだづかいがかなりあるような気がするのです。それを何か文部省のほうでも遠慮して、これはもう使ってないのはやめなさい、ほかへ切りかえなさいという指導ができるのか、また、おそらくやられていないのじゃないかという感じがいたしますが、その辺、局長いかがですか。
  115. 村山松雄

    ○村山(松)政府委員 先ほど申し落としましたが、この高エネルギー物理学研究所、研究所の定員は総定員法の範囲内で措置をいたしております。  それから、ただいま御指摘の既設の研究所で研究目的の達成あるいは転換といったような事態があるのではないかということでありますが、研究所は大学と違いまして、やはり包括的と特定との違いは多少ございますけれども、何か研究目標を立てて組織されるわけでありますので、その研究目標が達成されるということはあり得るわけでありまして、そういうことで研究所のあり方をよく検討して目的を達成したものはやめるとか、あるいは新しいものに転換をするとか、そういうことは観念的には必要でございます。ただ、研究機関のことでありますから、文部省としては、行政的な指導をいたす前に学術審議会などにおはかりをいたしまして、その御意見なども聞きながら措置をしております。従来におきまして、古い話でありますが、東京大学の輻射線化学研究所でありますとか、それから東北大学のガラス研究所でありますとか、そういう研究所は、研究目標の転換等からいたしまして、ほかの研究所に統合したというような例があります。それからまた、東京大学の伝染病研究所は、伝染病というのが医学の進歩でだんだん少なくなってまいりましたので、これをむしろガンあたりに主たる目標を置いた医科学研究所といったような形に改組いたしました。今回もお願いしておりますが、京都大学の工学研究所は、原子エネルギー研究に焦点を合わせまして、内部的には部門の転換などもほぼ済んでおりますので、この際原子エネルギー研究所というぐあいに改組をお願いしてございます。そういうことで、研究所のあり方は当該研究者あるいは学術審議会の御意見なども聞きながら、文部省としては、時代の要請に適するがごとく再編あるいは転換などもはかってまいりたいと思っております。
  116. 森喜朗

    ○森(喜)委員 大臣局長とのやりとりの中でお答えをいただいたのですが、私は、お医者さんの世界でも技術者の世界でも、どうしてもセクト主義といいますか、学閥が非常に強い世界だというふうに伺っております。この共同研究所も、従来の大学の研究所の付置ではなくて、新しい、文部大臣の直轄の中でこれだけのものができ上がる。しかし、たとえば国立病院が一つできる、国立小児科病院ができる、そこの院長に慶応を持ってくるのか東大を持ってくるのか、それによってほかの大学は協力するとかしないとか、先生方が行くとか行かないというような、これもよく聞く問題なんです。今度の場合も、これだけのものをやらなければならない。日本人というのは科学とか技術に非常に弱い。私もそうです。こういうものをつくると、やらなければいかぬように思う。反対するとあいつは時代おくれじゃないか、こうなる。そこで、こういうものを、何にも考えないで盲目的に、いいよいいよということになる傾向があるのですが、実際にやってみると、東大の医者を呼んでくるのか京大の医者を呼んでくるのか、この辺がほんとうにスムーズに、数十億もかけているから純粋に日本のための共同研究ができる、それだけの研究所になるのかどうかということを私は心配しておる一人であります。これは大臣の直属の研究所になるわけですが、その辺についての御抱負といいましょうか、そういう指導理念といいましょうか、そういうものも最後にお聞きをしておきたいと思います。  それともう一つは、ついでに、いま申し上げましたように、局長、いろいろ転換し編成をされておられると言っておりますが、こういうふうにされておるなら、前例がどんどんあるわけですから、私はもう一ぺん調べていただいて、だいぶむだなものがあるんじゃないかという感じもいたします。こういうものを——たださっき、一番先に冒頭に大学のことをずっと申し上げました。何でもかんでも総花的に新構想だ、筑波山だ、放送大学だ、どんどんどんどん広げていって研究所だ、総合だ、付置だという形で、ばっと広げていって収拾がつかなくなる。それと大学の再編成と同じように、こうしたものについても屋上屋を重ねてはいけないのだ。大臣は思い切ってこういうことに蛮勇をふるっていただきたい。ぜひこういう整理統合というものに、ひとつ前向きの考えをお伺いしておきたいと思います。
  117. 坂田道太

    坂田国務大臣 森先生おっしゃるとおりに私も考えておるわけでございまして、先ほどお尋ねの大学院というもののあり方、と同時に、たとえば大学の付置研究所の研究のあり方をどうするかという問題、それからまた文部省直轄の研究所、この三者がそれぞれ違った使命を持っておるのですけれども、その人事の交流といいますか、それがある程度オープンに、しかもガラス張りで、そして一つの、一定のルールのもとに行なわれて、いやしくも学者の人たちがやれ慶応閥でござれ、やれ東大閥でござれというようなことで、真の学問、研究がそこなわれておるということも、ないわけではないと私は思うのです。この辺について、私は大学が国民のために開かれなければならぬということばで言っている意味はそこにあるわけなんで、ともいたしますると、専門性が高いだけに非常に閉鎖的になりがちである。そして一般国民気持ちとは遊離してしまっておるという欠陥があるんじゃないかと思います。われわれも純粋な気持ちでこのような改革をやりたいと思いますが、また同時に、研究所の方々も、また大学の先生方も、虚心たんかいに、ほんとう日本の学問を進めていくためにはどうあるべきかということについて、それぞれひとつ意見も出し合っていただきたい。そういうことによって、私どもはそれをまた吸収するのにやぶさかでない、かように考えておる次第でございます。
  118. 森喜朗

    ○森(喜)委員 約束の延長の十五分になってしまいましたので質問を終わりたいと思いますが、私は、高等教育というものは、個人にとってはすばらしい経験で、すばらしい実りの多いものであってほしいと思うのです。世の中では、大学出というものに対してそうあまり価値観をつくることのないほうが私はいいんじゃないかということを、特に最近の大学というもののいろいろな問題から考えるわけでありますが、昨年ちょうど私韓国へ行きました。韓国では外国へ留学をしておられるのですが、アメリカとドイツに非常にたくさん留学されておりまして、たしかアメリカには七千名ぐらいだったと思います。ところが日本へは、いわゆる国から出しているのがたしか五百人に満たない数字だったように私は記憶しております。谷川先生も行かれたんじゃないかと思いますが、私そのとき御質問したのです。なぜ日本の大学に留学しないのだと言うと、技術系とか医者の大学というのはまあまあとしても、文科系の大学に行って何を学ぶのだ、日本に来て何にも学ぶものはないんだ、何だか平均的サラリーマン養成のような気がするので、そういうのは、国の費用で留学して帰ってきても役に立たないんだということを向こうの文教部長官が言っておられましたが、ちょっとさびしい感じがいたしました。外国から日本の大学がそんなふうに見られてしまうということ自体が、私はえらいことだなという感じもいたします。あの文武、とにかく昔から日本の伝統であった教育が、ごくお隣の国からそういうふうに見られるようになってしまったということに対して非常に責任を感じますし、さびしさを感ずるわけであります。高等教育というのは、単にそういう形式的なものではなくなった。先ほどから大臣のお答えをいただきましたけれども、どうぞひとつ世の中のためにも、そして将来の日本のためにも、ほんとうに実のある高等教育機関でありますように、各局長さん方も、現状のものだけを何とか前進していくんだということじゃなくて、ひとつ御自分の在籍中にこれだけのものをやるんだという、せっかく熱意ある大臣がおられますから、これだけはやっていくんだということをぜひお示しをいただくことをお願いいたしまして、質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。
  119. 八木徹雄

    八木委員長 次回は公報をもってお知らせすることとし、本日はこれにて散会いたします。    午後三時十六分散会