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諏訪説明員 本日は、先輩の三人の先生方と御一緒にこの席にお招きいただいて、非常に光栄に存じます。特に私は、
気象庁地
震課長というような現職にありますけれ
ども、きょうはその地
震課長というようなポストではなくて、
専門とするところの火山問題について、広い立場から皆さんに私の
意見を聞いていただく、そういった機会を得ましたことを非常に幸いと存じます。
従来、この
地震問題は確かに大きい問題に違いありませんけれ
ども、
地震問題はいろいろの場において取り上げていただいたのですが、総合的な火山
対策というようなことを
国会において取り上げていただいたのは、今回が初めてだと思います。そういう意味において、
気象庁というような立場だけではなくて、
日本の火山学界を代表した意味でも、非常に記念すべき機会だと思います。
日本は、御存じのように
地震国であると同時に火山国でありまして、今後とも噴火のおそれがある山というのが、いま施政権が及んでいる
地域だけでも大体六十二、三火山であります。そのほかに、昔ドイツの軍艦が
日本の近海を通って海底噴火を発見した。しかし、どうも信憑性ははっきりしませんけれ
ども、そういったものがあるものですから、それを足しますと、現在施政権がある
地域だけでも六十五、六の火山があることになります。こういうような火山は、結果的には将来噴火しないで済む山も幾つかはあるかもしれませんけれ
ども、そういうようなところで
地震が群発したり、あるいは噴気活動が活発化したり、その他の火山性の異常
現象というような
現象が起こりまして、
国民の立場から見ますと、さてどうなることか、大爆発をしやしないか、こういうような人心不安、動揺ということで、仕事が手につかないというようなことを起こすおそれが多いわけで、
日本全体としまして、いま申し上げたような火山をマークしていく必要があると思います。そして、近く沖繩が
日本に返還されますと、また二つそういった山がふえることになっています。そのうち有史以後、噴火の
記録がはっきりしている山は大体五十二ぐらいあります。沖繩を入れますと五十四ぐらいになります。
ごく最近の戦後――お手元にお配りしました表を見ていただくとわかりますように、戦後に噴火した山は二十一火山でありまして、そのほかに
地震群発とかあるいは噴気が活発化したとか、そういった異常
現象の起こった山が十六火山ありますから、全体として三十七火山が問題を起こしてきた。そしてこれを年々という点から見ますと、全国どこかの山が選手交代して七火山ぐらいずつ噴火をした。そしてそのほかに、いま申し上げたような異常
現象を起こしたのが四火山ぐらいずつあった。結局、毎年十一火山前後の山が社会的に問題にされてきている。そして、その表の中で黒く塗りつぶしたマルがありますが、大体
平均すると、年に一回ぐらいは人命、財産に相当の
被害を出す噴火があった。これは現実の問題でございます。
そのほか、火山問題というのは、実は
地震と違いまして、火山があるために
日本は恵まれているという面があるわけです。しかし、その恵みが大きいだけに、その恵みを活用しようと思えば思うほど人が寄りつき、
施設をつくるものですから、一たび活動すると、昔考えられなかったような
災害が出てくるということがあります。たとえば、
日本の山紫水明の風光といいますけれ
ども、そういったものは大体火山の織りなしたものだ。大体国立、国定公園の七割は活火山を主体にしておりますし、逆に、いま申し上げたような広い意味の活火山の七割は国立、国定公園になっており、ほかのものも道立公園あるいは県立公園というようなことになっています。
それからまた、たとえば温泉な
ども、現在熱海だとか伊香保だとかいうような温泉場が千六百カ所ぐらいありまして、現在使われている源泉だけでも一万二千カ所以上もお湯が出ているわけです。これは、自噴とか動力採取とか両方含めてそういうことになりますけれ
ども、その結果、年間には六億数千万トンのお湯が出てきている。こういう意味で、
国民の体位向上あるいは保健衛生、医療というような面においても、火山の恵みが非常に大きいわけです。
そのほか、最近では地熱の利用が非常に多角的になってきまして、いろいろの点に使われているのですが、地熱発電というようなことも、現実に岩手県の松川とか大分県の大岳というようなところで実現し、もっとこれが広まっていく傾向にあります。
そういったわけで、古いものになりますと硼酸だとか湯の花だとか石材だとかいうもののほかに、
日本で見られるような金、銀、銅の鉱床というようなものも、広い意味の火山活動のたまものですけれ
ども、特に近年においては、観光開発というようなものが非常に進んできたわけです。そのために、戦前は木こりか山伏しぐらいしか登らなかったような山に、現在では活動火口の付近まで一日に三万人、四万人登り、たむろするというような山ができてきています。したがって、もとは山のふもとまで石が降ってくるとか溶岩流が流れてくるとかいうようなことがなければ、まあ山の木が燃えるという
程度で済むはずだった噴火に対して、現在では、時と場所によっては、一つの爆発でわずか千メートル石を飛ばすような爆発でも、数千人から二、三万人の死傷者が出るという
状態があらわれてきています。
それでは、それに対しまして、火山活動の実態を究明し、そして防災に役立てていく、こういうような
研究なり観測なりというものが、
日本としてどういうように行なわれてきているかといいますと、
地震学と同様に、明治以来過去百年間ぐらいの歴史しかありませんが、特に
日本人自身が火山の脅威というようなものを感じて、その実態の究明につとめるようになりましたのは、一八八八年、明治二十一年の磐梯山の大爆発があります。そういったものを契機にし、さらに今世紀の初頭、一九〇二年、明治三十五年の伊豆鳥島の爆発のときに、わずか百二十五名ですけれ
ども、あの島に住んでいた全
住民が全滅したことがあります。したがって、その爆発の惨禍を語る人はだれも残らなかったというような事件があったわけです。
そんなことが非常な契機になって、学界も
政府も非常に力を入れてくださって、一九一〇年の北海道有珠の明治新山の噴火のときに、大森房吉先生が、火山に
地震計を持っていって観測した。それから、その年のうちに浅間山にも
地震計を移して観測した。こういうのが世界でも
日本でも――要するに火山に聴診器を当てたという最初の機会になっています。そして、翌年の一九一一年に
震災予防
調査会と長野測候所、いまの長野地方
気象台ですが、そこの協力で浅間山に火山観測所ができた。これが
日本とすれば最初の火山観測所ですし、また世界的に見ても、ベスビアスの火山観測所というのが古いのですが、これはまあ博物館的というようなものだったものですから、診療所的な意味の、実際に観測をやって山を監視していくというような意味の面からは、世界でも草分け的な立場になったわけです。
しかし、最初にできた浅間の観測所というのは、当時のことで非常に不便だったという点もありますが、山腹にあったために一年じゅうは観測はできない。それで半年くらいしか観測ができなかったわけです。しかし、こういうような観測は、
地震観測の場合も同じですけれ
ども、やっぱり連続的に長年こつこつとデータを積み上げていって、そうしますと、これが平熱であるのか微熱であるのか、また、そういう観測を続けることによって、その山の氏素性、体質も明らかにされる。どのくらいどこがおかしいのかというような
資料がだんだん積み上がってくるわけですが、そういった浅間の最初の観測所では、一年間通じて観測するということができなかった。それに対しまして、
関東大
震災の前年の一九二二年、
大正十一年に、いまの軽井沢測候所の位置に長野測候所の支所ができて、これが三百六十五日二十四時間、山の脈をとっていくという最切の
施設になったわけです。その後、この浅間山につきましては、たしか
昭和八年になると思いますけれ
ども、東大の
地震研究所の観測
施設、
研究施設もできました。それから同時に、西
日本では、阿蘇山に
昭和の初めに京都大学の
研究施設と、
気象庁のいまの阿蘇山測候所ができて、観測あるいは
研究というようなことが、
気象庁と大学の手を携えたような形で、両方の山で、始められたわけです。そういう意味でこの山は世界的に見ても火山観測、あるいは特に噴火予知の
研究のゆりかごの地ということができます。
それから、そういった間に、
日本火山学会というようなものが、
昭和の八年かなんかにできました。それで、火山学会がそれから数年間いろいろ
研究を印刷したり発行したりして
日本の推進力になったことがあるのですが、しかしその当時、さっき申し上げたように、まだ火山活動を究明し、その恵みを生かして害を除くというような社会的な必要性が乏しかったことと、山の上でずうっと観測するというようなことが実際上できなかった。それは、一つには測器が、機械類が進歩しなくて、なかなか山と取り組むということに困難があったわけです。現実に、そういうわけなものですから、観測
調査研究費というようなものも与えられなかった。まあ言ってみれば、いわばさいの川原の石積みみたいなもので、ちょこちょこちょこちょこやっては、個人
研究的なことで終わってしまう。こういうような
状態が戦前まで続いたわけです。そこへもっていって戦争があったものですから、そこで途絶えた。しかし、私は最初に申し上げましたように、
地震の
研究、観測にしろ、この火山の問題にしましても、じみにこつこつこつこつとやっていかなければ
資料は集まらない。と同時に、きょう観測していなければ、きのうまでは普通でも、きょうから異常が出てきた場合には、きょうの観測がなければわからないわけです。そういうようなわけで、観測を絶えずやるということと、それから観測されたデータを刻々
解析していくという、そういう体制までとられなければ、火山にしろ
地震にしろ、監視も予知もできないことだと思います。
それで、そんなようなことがあったのですが、終戦後火山開発というようなことも、いま申し上げたように非常に急速に発達してきました。特に近年は観光開発というようなものが盛んになり、たとえば観光の面でいいますと、四十三年に全国の国立、国定公園の来遊者、利用者の数は、四億一千万人余りだという厚生省の統計が出ております。そういうようなわけで、老若男女が年に四回は国立、国定公園へ行く。その大部分は、ほとんどは活火山を主体にしている。こういうふうな
状態になったわけです。
それと同時に、また一般
住民の立場から見ましても、桜島の
大正三年の噴火のようなものがあれば、いまはあの付近の危険区域の人口というものは三、四十万人にもなっている。また北のほうに目を転ずれば、北海道十勝岳においては、
大正十五年に爆発のほかに大泥流が
発生して、二十キロも先まで、あっという間に
住民が泥に埋まって、百数十人の人がなくなりましたけれ
ども、いまは人口はどんどんふえてきておるわけですから、いまそういう
現象が野放しにされていたら、やはり数千人の
被害を出すというようなことが起こり得ると思います。それから冨士山などにしましても、宝永四年、一七〇七年の噴火の、たとえば灰というようなことを考えてみますと、川崎、横浜付近でさえも四、五センチメートルも灰が降る。もう富士宮だとかあの辺、小山だとかああいうところでしたら一メートル、二メートル灰が積もるというようなものですから、もしこういう山が爆発したら、
関東震災ほどでないにしても、
日本の中枢は致命的な打撃を受けるだろうと思うわけです。それから、草津白根とか阿蘇山のごときは、先ほ
ども申しましたように、一日に四万人くらい来ることがあります。これはもう近年において急にそういう
状態になってきたわけです。
それで、戦後においては、そういった
経験がもとにありまして、しかも火山観測とか噴火予知の学問の進まなかったあれは、大体火山
現象を実態をきわめるというようなことになりますと、物理的なメスの入れ方、ものの考え方、地質岩石学的なものの考え方、メスの入れ方、あるいは化学的なガスの分析、あるいは地理的なものの考え方、こういうようなものを総合してこそ初めて火山の実態なりが究明され、また予知も十分にできるようになる。ちょうどお医者さんが血沈を調べ、便を調べ、体温を調べ、レントゲンの写真をとる、こういうようなかっこうで初めて予知というようなことにも結びついていくわけですが、
日本の教育制度が大体物理学科、地質学科、化学科と、こういうような分け方で明治以来やってきているものですから、そういうのがばらばらにしか行なわれなかったというようなことも弊害があったと思います。
そういうようなことから、戦後
昭和二十七年に明神礁の噴火のありましたころ、いま引退されました、
地震研究所におられた水上武先生と私は語らって、電話で呼び寄せられる
程度の人を糾合して、毎月いろいろの角度の人を集めて談話会をやるというようなことを、
昭和二十七年に始めたわけです。そういうようなことがだんだん発展して、
昭和三十一年のいまころになって初めて
日本火山学会というものができたわけですが、名前の点では戦前にあった火山学会の名を踏襲していますけれ
ども、質的にはかなり違ったものが新しく生まれてきたわけです。
しかし、いま申し上げたように、社会の必要性は増大し、またかゆいところに手の届くような測器が出てきたというようなこともありまして、近年においては急速に進歩して、火山
専門とまでもいわれないかもしれないけれ
ども、火山学会の会員というのはいま四百数十人に達しています。そういうような過程において、そこの表を見ていただけばわかりますように、
日本火山学会が再興されて、そして
昭和三十七年には、
日本学術
会議と国際測地学・地球物理学連合の共催で、
日本で噴火予知に関する国際
会議をやった。これが世界的に見ても非常に成功をおさめたわけです。
いま申し上げたようなわけで、私は大学の仲間と手を携えてそういった学問的な進展とほとんど軌を一にして、
気象庁の組織的な観測を打ち立てるということを
努力したわけで、たとえば
日本火山学会ができたと同じ年に、
気象庁が初めて火山観測という名の予算をいただいた。それまでは、いろいろ共通経費というような中から捻出するという
程度のことしかやっていなかったわけです。それから国際火山学
会議をやったというときに、初めて文字どおり全国をカバーするような形の組織的な観測体制をつくるということがスタートしたわけで、大体五年間にわたって、初めて合わせて二億円余りの観測
研究の
施設が整備されたわけです。その前は非常に微々たるもので、三十一年に初めてついたのですけれ
ども、全国の山に対する
調査経費は百五十万くらいしかなかった。ここにおいて初めて、国家
事業らしい体系ができ上がってきつつあるわけです。
どういうやり方かということは
あとにしますけれ
ども、この表を見ていただくとわかりますように、偶然ですけれ
ども、そういった整備に
関連して、四十年から火山情報というものを業務的に各官署、測候所、
気象台が出すようにした。火山の実況を公表して、今後当分は山に登ってはいけないとかいうようなことを発表するように業務化されたわけです。これによって、それまで黒いまるが幾つかありますけれ
ども、その業務化された時点からここ数年間、要するに黒いまるがなくなっているということが、これは二億円の投資にしては非常に効果があったんではないかと、私は自画自賛しています。もちろん、実はこの期間は大きな火山活動というものがなかった、まあ
専門的な立場から見てそういうことはいえます。しかし、さっきから申し上げているように、阿蘇の火口に三万人、四万人来ているときにばかんとやれば、大きな活動はなくても、
被害は従来出ているわけですから、こういった整備の効果というものは、これである
程度実証されているんではないかと思います。しかし、いま申し上げたように、これだけの火山国で、初めはわずか年間百五十万だった。
あと、いよいよ本格的だと称して五年間で二億円投じたのが、国として本格的に火山
対策として投じられたものです。そういうような意味において、もちろんこれでは十分ではないわけです。
それで、それでは内容的にどういう観測を進めていけば、山のおこもりができ、十分に恵みを生かしながら害を除くことができるかということを考えたいわけですが、その場合に、結局噴火の前兆
現象をつかまえるということが、
地震と同じことになると思います。それで、大体
萩原先生の御
説明のようないろいろの
現象が考えられるわけですが、火山におきましては、特に火山性の
地震微動の観測とか、あるいは地形変化、
地盤変動の観測、あるいは土地が伸び縮みするとか、傾斜するとか、上がり下がりする、あるいは非常に局所的ですけれ
ども、火口の深さが浅くなったり深くなったりする、こういった地形の変化を追跡していく。それから、電磁気学的な立場から地磁気とか地電流、そういったものの異常な変化を追っていく。あるいは熱学的な立場から地温、噴気温などの温度をはかっていく。あるいは化学的な立場から火山ガスや温泉の量とか成分などの変化を追っていく。こういうようないろいろの方法がありますし、また同時に過去の噴火の
記録、文献を調べること、あるいはいろいろの山の地質構造あるいは地形、岩石の種類とか、こういうようなものを調べて、いわば火山の氏素姓、体質をそれぞれについて調べて、そして今後噴火が起こるとすれば、どういったたぐいの噴火がこの山では起こりやすいかということも調べておく必要があるわけです。
そういうようなことをやるわけですが、まあ私の考え方としては、六十幾つの山をのべつまくなしに観測していくというわけにはいかないわけですから、活動性と、それからその
地域でもし噴火が起こった場合に人命の損失というようなことを考えて、危険区域の中にどのくらい人が立ち入っていたり住んでいるかというようなことを考えまして、活動性と社会性から、各火山の活動の監視の必要度の大小を評価する。そうして大きいほうにはAクラスと名づけ、順次B、Cクラスと名づけて、Aクラスにはいわば総合病院をつくる。それからBクラスには診療所
程度のものをつくる。そしてそれによって無医村を解消していく。そしてCクラスは、まあもよりの
気象官署で、特に火山の
専門という人は平生はいないわけですけれ
ども、異常
現象の発見につとめるというわけですが、それだとB、Cの山については非常に不備になるものですから、これは機動観測班、いわば移動病院をつくっておいて、全国の約半数の各火山について、定期巡回精密健康診断式に機動観測を繰り返していく。数年に一回はよく調べておく。それから同時に、何か異変が起きたときに、それから経費を捻出するとかかんとかいって手間がかからないで、即刻立ち上がって事務が展開できるように、緊急
調査をすみやかにできるようなことをする。そういう意味で機動観測班を全国的な
対象としてつくる。こういうようなことを、
昭和三十七年以後の展開で始めたわけです。
しかし、それによって常時観測の体制ができましたのは、Aクラスのそこにありますような四火山とBクラスの十数火山に限られています。しかも、その観測の種目やいろいろも、一度にできないものですから、主として振動観測に限られている。それから振動観測の点も、ある
程度まだ乏し過ぎるというようなことがあります。したがって、機動観測も同時にできたわけですが、形、骨組みはできたけれ
ども、これから肉づけをしないと実際の火山活動監視の
要望にはこたえ切れない。要するに、ちょっと
地震ががたがたあっても、あるいは何かうわさがあっても、しょっちゅう赤ランプをつけて、安全率をかけて赤ランプをつけっぱなしということでは、火山の恵みを生かすことにはならないわけですから、いろいろ問題があるわけで、必要なときに必要な情報なり予報なりを出す、必要でないときは早く解除する、こういうようなことがだんだんできていかないとだめなわけですが、いまの点ではそういうことが十分にはできない、十分というか、ほとんどできていないわけです。ただ青天のへきれき式の噴火はなくなったけれ
ども、赤ランプのつけっぱなしという
状態があるわけで、それをやるためには、総合的な
調査と観測網を早く整備する必要があると思います。これについては、何しろ山の数が限られているものですから、
地震対策と違って、まあ私は、せいぜい十五億円もかければ、
日本の山から噴火による人命の損失というようなことは追放できていくのではないかと思っています。
それに
関連して、要するに
日本の火山
地域が開発されていく場合に、いろいろの観光
施設ができて、山の上まで汗をかかないで行くようなところが一ぱいあるわけですけれ
ども、あまりいろいろのロープウエーができ自動車道ができるということで、せっかく精密な観測をやろうとしても、自動車の衝撃がじゃまになって観測ができないというような山が一ぱい出てきています。今後早くこういう
施設を整備して、そういったところにはあまり自動車など近づかせないというようなことをやらないと、将来、実際にもっと観測の必要度が出てきたときでも、もう観測すべきいい場所は、観測所をつくるいい場所はなくなっているというようなことにもなるのではないかと思います。
非常にざっぱくで、あれこれ雑然と、長々と申し上げて恐縮に存じますけれ
ども、これで私の御
説明を終わらせていただきたいと思います。(拍手)