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参考人(高見豊治君) 福島の
東北開発株式会社の福島工場、これはカーバイドを生産しておる工場でございますが、これを四十三年度末に福島製鋼株式会社に営業譲渡いたしましたが、この経緯について簡単に御
説明いたしたいと思います。
この福島工場は、
東北開発株式会社の前身でございます
東北興業株式会社
時代に
昭和二十二年につくられました工場でございまして、主として肥料でございます石灰窒素と、その原料になりますカーバイドを生産いたしておる工場でございます。ところが、
昭和三十二年以降、
東北開発株式会社がこの工場を引き継ぎまして、当時はまだ直営工場としては、このカーバイド工場は
東北開発株式会社の基幹工場でございましたけれ
ども、三十年度の後半に至りますと、この福島工場で生産いたしますカーバイドは、当時の技術革新によりまして、
石油精製品によりましてこれが非常に市場を圧迫されまして、産業といたしましては、将来のない工場であると判断されまして、当時毎年営業損が、このカーバイドを生産し、販売するだけで一億を上回る赤字を出すに至っておりました。しかも業績といたしまして、
石油精製品に押されまして、カーバイド工場といたしましては自家発電を持っている工場、もしくはそれを有機精製部門にカーバイドを直ちに自分のところで利用できる会社は、カーバイドを生産しても営業的に成り立ちますけれ
ども、当社のように電気は買電でございますし、しかも、カーバイドは全量売るというような場合におきましては、企業的に毎年一億の赤字を出すというふうに、企業的に成り立たないという判断から
昭和三十九年に当社が再建に入ったわけでありますけれ
ども、その再建にあたりましては、すみやかにこの福島工場を
整理するようにという、
計画においてお示しがございました。それで当社といたしましては、これをどう
整理するかということに種々努力いたしましたけれ
ども、なかなかこの
整理はむずかしい問題でございまして、当初
考えましたのは、会社の中でこのカーバイドを業種転換いたしたい。たとえばフェロアロイであるとか、塩化ビニールであるとか、酢酸ビニールであるとかいう
ものの生産に業種転換いたしたいということで、種々努力いたしましたけれ
ども、当時の経済下の状況で、どうしてもこれがうまくまいらないということで、会社内における業種転換は断念するに至りまして、これをやはり外に営業譲渡しなければならないというように
考えた次第でございます。
それで、まず最初にカーバイドの同業の業種と申しますと、
昭和電工さん、
日本カーバイドさん、電気化学工業さんであるとかいうのが同業でございますけれ
ども、そこに引き取っていただけないかということの
交渉を種々いたしましたけれ
ども、当時カーバイドその
ものが斜陽化いたしておりましたので、
昭和電工さん自身もすでに自社のカーバイド工場を少し減ずるというときでございますし、いろいろございましたが、当時
最後に相手になっていただきましたのが電気化学工業さんでございます。当時これの
折衝をいたしましたところ、電化工業さんの条件は、当時の工場の簿価は大体固定資産は約四億二千万くらいの
ものでございまして、従業員が二百七十人おりましたけれ
ども、その電化工業さんの条件提示は、その固定資産の簿価四億二千万の
ものを五千万、そして従業員二百七十人を百人引き取るという非常に苛烈な条件でございます。種々
折衝いたしました結果、その固定資産五千万を一億五千万、従業員百人を二百人というような条件にまで条件がまとまってまいりましたところ、当時電化工業さんの上層部に交代等がございまして、この話は破談になった次第でございます。しかも、
昭和四十三年度が当社の再建
計画の五年目でございまして、最終年度になっておりました。しかも、この工場は化工事業をやっておりますことによって、毎年一億数千万円の営業損が重なってまいりますし、しかも、この
整理によります従業員の退職金は一年おくれるごとに一億円を上回っていく状況でございましたので、当社といたしましては、この再建の終わります四十三年度末までに、ぜひこの工場を何とかして合理化により営業譲渡を実現いたしたいというように
考えておった次第でございます。ところが、ちょうど電気化学工業さんの話が破談になりました直後、地元の福島製鋼株式会社、これは鋳鋼の生産工場でございます。主として日野ディーゼルに鋳鋼を納めておる会社でございますが、自動車産業の拡大に伴う設備拡張のために、当社福島工場の土地を譲っていただけないかという話が内々まいりましたので、会社といたしましては、これは福島の化工工場を営業譲渡いたしますのに
最後のチャンスであるというように
考えた次第でございます。それで、当時やはり有力銀行筋等のいろいろな情報によりますと、もう当社自体が同業各社に営業譲渡いたしますときに、電化さんのような非常に苛烈な条件でしか買っていただけないような状態、そうして同業各社のいろいろな例を聞いてみますと、富山県のある企業におきましては、土地が三億数千万の
ものを二億で譲渡されているというような実例もございます。それで当社といたしましては、簿価約四億二千万でございますが、そのうち固定資産の土地が簿価では約二千数百万でございますけれ
ども、当時これを
日本不動産研究所等に鑑定評価していただきますと、約二億二、三千万の評価がございました。それで当社といたしましては、この営業譲渡をやる場合、当然二百七十名をこえる従業員を全部職を失うことなく引き取っていただくということが一つの条件でございましたし、そしていま申しますように、この事業を継続することによって累積する赤字の増大を防ぎたいという気持ちもございましたので、
最後のチャンスであるということで、簿価を割ってもやはりこれは四十三年度末までに営業譲渡を実施いたしたいというふうに決心した次第でございます。そのときに福島製鋼に譲ります
——これはやはり評価その他を参考といたしまして、当社として決心いたしましたのは、土地のさら地価格の評価額約二億三千万を下がらない価格で営業譲渡いたしたいという決心をいたしまして、種々福島製鋼と
交渉いたしました結果、固定資産につきましては二億七千五百万、それから流動資産は、これは簿価でお譲りいたしたわけでございますが、一億九千六百万をもってこの福島製鋼に対する営業譲渡を実施いたしたわけでございます。当然そのときにおきましては、当社におります二百七十名の従業員は、わずか三名、これは家庭の
都合によりまして福島製鋼に参りませんでしたけれ
ども、あとの二百七十一名はすべて当社におるときの労働条件を下回らない条件で引き取っていただくということで、この営業譲渡を
昭和四十四年三月三十一日に正式契約いたしまして実施いたしました次第でございます。簡単でございますが……。