○
都留参考人 ただいま
委員長から御紹介がありました
一橋大学の
都留重人でございます。
去る三月九日から十四日まで、
国際社会科学評議会という国際的な
学術機関の中にあります
公害問題常置委員会、その
常置委員会の主催で、
東京で、
社会科学者中心の
公害問題の
シンポジウムを開催いたしました。
この
国際社会科学評議会という組織がどういうものであるか、ごく簡単に申し上げておきますが、これは学問の
幾つかの
分野ごとに国際的な
学会があることは御
承知だと思いますけれ
ども、そうした国際的な
学会の中で、
社会科学に
関連のある
国際学会をお世話をするための
一種の
世話役の
国際機関でございまして、財政的にはユネスコの支援を得て、戦後に設立されました。
これに対応いたします
日本での
機関は、
日本学術会議の第二部と第三部でございます。たまたま私がこの
国際社会科学評議会の
常任理事をいたしておりまして、一昨年の
常任理事会で、この
評議会の中に
公害問題に関する
常置委員会を設立することが望ましいという議が出まして、それを設けることに
意見一致いたしたのでありますが、その
機会に、必ずしも私は
公害問題の
専門家ではございませんでしたが、ひとつ
委員長になれということで、一昨年以来
委員長の任にございます。たまたま私がその
委員長をいたしております
関係もございまして、
公害問題についての
社会科学者の
国際シンポジウムを
日本で開くということになりまして、昨年の夏ごろから準備をいたしまして、今回の開会に至ったわけでございます。
従来まで
公害問題というのは、
自然科学者の方が非常に長い間にわたってじみちな
研究、
調査を続けてきておられまして、
大気汚染の問題、
水質汚濁の
問題等に関しましては、数多くの業績が現に存在いたしております。
国際的に見ましても、ヨーロッパの諸国は陸地続きでありますために、どうしても
水質汚濁の問題に関しましては一国だけで簡単に処理できないような
事情がございます。一本の川が
幾つかの国を通して流れる
状況でありますために、他国の迷惑を顧みずして
DDTを使うということさえむずかしいという
事情が早くからございまして、
水質汚濁の件に関しましては、かなり以前から国際的な
協力体制もできておりました。しかし、
公害問題に関しまして、従来までの
自然科学者の
努力と比べてみますというと、
社会科学者のほうはわりあいに怠慢と申しますか、十分の
努力を重ねてこなかったといわれてもやむを得ない
状況であります。
わが国では、申すまでもございませんけれ
ども、
公害対策基本法というのが三年ほど前に成立いたしまして、それに基づいてのいろいろな
法律なり、あるいは
都道府県の
公害防止計画なりが着着と進められておりますけれ
ども、やはり
法律学者や、
経済学者、あるいは
社会学者の
努力というのは不十分である。不十分でありますけれ
ども、よく考えてみますと、
公害問題というのはどうしても
社会科学の
分野の
人たちがしばしばきめ手を握っておるのであります。
自然科学者の方がどんなに綿密な
研究を
大気汚染や
水質汚濁に関してなされておりましても、いざそれを実施するとなりますというと、あるいは
法律、あるいは
条例、あるいは
経済の面からいろいろな
刺激を与えたり、
課徴金を課したり、
補助金を与えたりというような
方法で、あめとむちとよく申しますけれ
ども、そういう手段を使って
企業に対し
公害防止をするように働きかける、そういうメカニズムが
社会科学者の
研究対象となるのであります。そういう
観点から申しますと、
社会科学者の
研究はいままでまことに不十分でありました。今回の
国際シンポジウムを
機会に、どうしてもわれわれの
責任が大きいということを、
外国の
学者一同と痛感したわけであります。
公害という
概念に関しましては、
公害対策基本法でかなり具体的に、
大気汚染と
水質汚濁と、
騒音と、悪臭と、
地盤沈下というふうに規定されておりますが、国際的な
討議の
舞台では、必ずしもこの
公害に該当する
ことばがございませんで、私
どもが今回集まりまして
討議いたしましたときにも、なかなかこの
概念の統一というのが困難でありました。
日本の
公害という
ことばは明治の
時代にすでに
法律の中に
ことばとしては出てまいっております。現在では
世上ジャーナリズムの
社会では、何もかも
公害と呼ぶならわしさえございまして、
物価騰貴も
公害である、あるいは
交通事故も
公害であるというふうになってまいりますと、少し
公害の
概念がばく然とし過ぎて、
対策を立てる上でも必ずしも焦点のはっきりと明らかにされた形の
対策がとれないおそれがありますので、なるべく
公害という
概念をはっきりさせるということが必要であるというふうに私
どもも
感じております。
日本で生じておりますいわゆる
公害というのは、現在裁判になっております
水俣病、
イタイイタイ病、あるいは
四日市公害などに典型的にあらわれておりますように、人命に対する
危害、健康に対する
危害というのが非常に重要な内容をなしております。ところが、
外国で
公害と申します場合には、どちらかといえば
環境の
破壊、
生活環境の
破壊というふうに広くとっておりまして、たとえて申しますと、
水俣病のような
公害は、これは
産業公害としては
産業革命時代の
一種の犯罪に類するものであるというようなコメントさえ
外国の
学者からございました。
で、
環境の
破壊ということになりますと、
自然保護という問題、さらにはもっと大きく
舞台を広げますと、この地球上に住んでおる人類全体にとって不可欠な要素である
酸素がだんだん少なくなっていくというような
事柄、それまでがいわゆる
環境破壊の一側面としてとらえられるようになっております。
ジェット機が太平洋を一度飛びますと、大体四十五トンぐらいの
酸素を燃焼いたしますが、現在何千機、何万機という
ジェット機が
世界じゅうを飛んでおります過程で失われつつある
酸素は、たいへんな量に達しております。それを補給する源はどこにあるかと申しますと、たとえば
アフリカの大
原始林の植物、あるいは
海中にあります緑のモなどが
酸素を補給するのでありますが、たまたま
アフリカの
原始林も、
開発という名のもとに伐採されつつありますし、
海中のモな
ども、
DDTによって死滅する
度合いが強くなりました。したがって、
酸素の補給は減るが、
酸素の燃焼する量はふえるというので、
大気中の
酸素のバランスが次第に失われつつあって、その結果、
大気の温度が上がって、北洋の
氷山が早く解けて、あまりこの
度合いが強くなりますと、結局は
氷山が解ける
度合いが早くなることによって、たとえば
東京湾の水位は十二メートルぐらい上がる見込みだという計算さえあるのであります。そうした
ジェット機を飛ばすことと、
大気中の
酸素が減っていくことの
関係な
ども、
外国では現在
公害の
一種として、
環境破壊の
一種として考えられるようになっております。したがって、
産業公害というふうに限定いたします
考え方をさらに広げて、
環境をそこなう、
環境を
破壊するという形でまとめられつつあるのが、現在の国際的な動向であると私は考えております。ことに国連が一九七二年に、スウェーデンのストックホルムで、人間とその
環境という主題のもとに
国際会議を開催する予定にいたしておりますが、そのときの
考え方も、やはり広い
意味の
環境破壊、
日本で申します
公害を含めた広い
意味の
環境破壊の問題になると思います。
そこで、一口に
公害と申しますが、一体その
特徴がどこにあるかということを考えてみますと、古くから言いならされた
ことばでございますが、やはり量の質への
転化という点が一番の大きな
特徴ではないかと思います。
隅田川に十条
製紙が
一つだけ位置しておりましたときは、十条
製紙が流します
廃液程度では
隅田川はそうよごれないで済んだのでありますが、その後だんだん数多くの
工場が沿岸に位置するようになりますと、どうしても川の水の持っておりまする
機能が発揮できないところまで汚濁されてしまうという
状況になりました。
大気汚染の問題でも、
四日市の中に万古焼きの小さなかまどが百や二百ある程度では、
四日市の
大気はそれほどよごれないで済んだのでありますが、現在のように第一
コンビナート、第二
コンビナート、さらには第三
コンビナートができるようになってまいりますと、量がふえることによって質的な変化をもたらしまして、その結果、人体に対する悪影響を及ぼすという事態が生じました。この量の質への
転化というのがおそらく
公害現象の一番
特徴的なことではないかと思います。
そういたしますと、ここに
一つの困難が生ずるわけで、どうしても
公害現象をわれわれが追及する場合に、だれかの
責任を問いたいわけですが、
因果関係を明らかにすることがむずかしいのであります。量の質への
転化でございますので、百ある、二百ある
工場のうちのだれに
責任があるのか。全部に
責任があるといわれますと、なるほどそうに違いありませんが、どれか特定の
企業に
責任を負わせるということが非常に困難である。つまり、
因果関係の
立証が決してやさしくはないのであります。
水俣病のような、新
日本窒素——当時新
日本窒素と称しました
会社が、
有機水銀を川に流して、その結果、何人かの人が
水俣病になったというような、比較的
因果関係追及のやさしいと思われる
事件でさえ、御
承知のように十何年の年月を要して、ほぼ確実だと思われることを科学的に
立証するまでには非常な困難をいたしました。神通川の
イタイイタイ病に関しましても、
一体三井金属鉱業神岡鉱業所が
原因なのか、これも厳格に申しますと、どこまではっきりした
立証ができるかということは、そう簡単ではないのであります。
阿賀野川事件になりますと、なおさらむずかしいいろいろな複合的な要因があって、いまだに確実なことが言えないということな
ども御
承知のとおりであります。
そういうふうに、一
企業が
関連する
公害でさえ、われわれは
因果関係の
立証に苦労をいたすのでありますから、ましてや
四日市のように、複合的な
幾つかの
コンビナートで、またお互いの
現象の間に
相乗作用が起こるようなところで
——相乗作用と申しますのは、たまたまある型の
物質が空中に出まして、それともう
一つの種類の
物質が相乗的に重なり合ったとき、より大きな
被害が生ずるということ、あるいは
大気の
状況いかんによってたまたまの天候が悪い影響を及ぼしたということ、そういうようなことを考えますと、
因果関係の
立証が困難である。数年前に
四日市で六十一歳になる老人が
閉塞性気管支炎でなくなりましたが、このなくなりました
被害者に対して、彼が
公害の
犠牲者であるのかどうかということをいざ
立証しようといたしますと、そう簡単ではないのであります。こういう
因果関係の
立証が困難であるというところに、
公害現象の
特徴がございますので、どうしてもこれに対する
対策といたしましては、それになかった
ワク組みを私
どもはつくらなければならぬというふうに考えております。
そこで、
対策上の
問題点を二、三、今回の
国際会議で出ました
議論も含めて申し上げたいと思います。
第一には、
基本的な
考え方でありますが、御
承知の
公害対策基本法では、
生活環境を良好な
状態に保つことをねらいといたしておりますけれ
ども、その
生活環境を良好な
状態に保つことが、
経済の健全な
発展と
調和した形で行なわれなければならぬという文句が二度出てまいります。この
法律は、私
どもの現在の感覚から申しますと、
経済の健全な
発展と
調和するということを、あたかも
生活環境を守ることと
矛盾する
可能性があるかのごとく解しておられるという点で、やや理解に苦しむのであります。
生活環境を良好な
状態に維持するということは、これすなわち
経済の健全な
発展との
調和そのものではないでしょうか。そういう
感じを現在では私
ども持つのでありますが、おそらくそんたくいたしまするに、当時の立法の際の
起案では、
経済の健全な
発展というのは、
成長率をある高さで維持するというふうに解されておったのではないかと思います。
経済成長率をある高さで維持することは、確かにわれわれ
国民生活にとっていい面があるにきまっておるわけで、それをあまり阻害しないという配慮がこの
法律にあったと思います。しかし、よく考えてみますと、
経済の健全な
発展と
調和ということは、もっと幅広く考えまして、それこそ
生活環境の維持ということもその中に含むべきであり、また
経済の健全なる
発展という中には、たとえて申しますと、
日本の
経済社会の中で、
中小企業の持っておる
役割りを十分に
機能を発揮させるような
発展というふうに解することもできるわけで、あまりにも当時の
起案の際の
考え方は、
成長率にこだわっておられたのではないかという
感じがいたします。すなわちこの
公害対策基本法の中に出てまいります「
経済の健全な
発展との
調和」という
ことばは、解釈のしようで、現在ならばもっとほかの
意味にもとれることでありますが、私は
生活環境を良好に維持するということこれ
自体が、
経済の健全な
発展との
調和というふうに解したいと思うのであります。
さて、
対策上の
問題点について三つほど申し上げたいと思いますが、第一は法制上の問題であります。
国の
法律と
地方公共団体の
条例との間の
関連が、
世界じゅうどこでも、
公害対策では問題になっております。国の
法律である
基準をきめた場合、その
基準よりもきびしいことを
都道府県の
条例できめることができるかどうかという問題であります。たとえて申しますと、
東京都の
公害防止条例は国の
法律よりもきびしくなっております。国の
法律では、たとえて申しますと
公害の
原因をもたらす
発生源でありますが、
発生源工場から報告を求めることができるという形になっておるのに対しまして、
東京都の
条例では三年に一度
企業者は報告しなければならない、しなければならないというふうに、よりきびしくなっております。また、
東京都の
条例では、上水道中の
事業用水や、あるいは
工業用水の
供給停止を行なうことができるという、かなりきびしい条項が入っております。また、
硫黄分の低い
燃料使用の勧告ができるというようなことも
東京の場合には入っておりますし、また、自動車の排ガスに関する
規制も
東京では考えております。
このように、国がまだ十分のことをしていないとか、国できめておる大
ワクよりもきびしい
事柄を
都道府県の
条例がきめて、それを実施することができるのかどうかという問題は、この
法体系上の
問題点として今度の
会議でも問題になりました。
諸
外国の例で申しますと、
アメリカなどでは、
騒音規制という問題が非常にやかましくなっておりますが、
連邦政府の
法律では、
空港などの
騒音に関してまだ十分の大
ワクの
規制法さえできていない、部分的なものしかない
状況でありますので、おのずから州の
法律あるいは州の
条例が、かなりきびしい
騒音規制の
条例を出しましても、現在のところは
矛盾を来たしません。しかしながら、現に
連邦政府の
法律あるいは法令と、州の
法律ないしは
条例とが
矛盾する
状態が生じまして、カルフォルニアでは、カリフォルニア州の
検事総長が
一つの
意見を最近発表いたしておりますが、それなどを見ますと、もしも
空港そのものが
州政府の所有である場合には、その
空港に関して
州政府が行なう
騒音規制が、
連邦政府の
法律とたとえ
矛盾しても、コンフリクトしても、
州政府の
法律は妥当であるという
意見を述べております。
このように、それぞれの国の
政治体系、
法律体系、
事情等によりまして、いろいろ
意見は異なってくると思いますけれ
ども、今後ますます、国の
法律と
地方公共団体の
条例との
関係というのは
日本でも大きな問題になると思われますので、ぜひ御検討いただきたいと思うわけであります。
また、現在のところ、
アメリカで申しますと、
司法府が、
つまり裁判所が、非常に重要な
役割りを果たしております。これは、考えによっては多少
矛盾でございまして、三権のうちの
司法府というのは、
国民による裁判官の審査の制度はございますけれ
ども、民主的に選ばれる形をとっておりません。もっとも、考えようによっては、
国民の民主的な
選択から離れた形で選ばれるこの
司法官が、
国民の
生活環境を守る上で一番積極的な
役割りを果たしているのは、まことに皮肉なことであるということを
アメリカの
法律学者が今回も申しておりましたけれ
ども、
アメリカの場合には、昔から、法に訴えて自分の個人的な権利を守るという風習が
国民の間にも強うございますので、そういうこともあるのでございましょう。
司法府
つまり裁判所が訴えを受けて
国民の
生活環境を守るために、いろいろな判例を残しておるという点は注目すべきだと思います。
経済面に関しまして、
対策上の
問題点を申し上げますと、やはり一番の重要な点は
公害の
防除にあると思います。
病気の場合でも、事前の
防止と、
病気になった場合の
治療——治療の前に
診断がございますが、
診断と
治療、それから
病気がよくなったときの
予後措置と、四つに分けて考えるのが普通でございます。しかしながら、
防止のことに携わる
公衆衛生の
分野に入っていくお医者さんというのが比較的少なかったり、あるいは優秀な人が入らなかったりというのが、
世界じゅうどこでも
共通の
現象でございますが、今回でも、
医学系統の
社会学者の方が、どうしても今後の
医学に関しては、
予防医学の
分野に力を入れなければならぬということを主張され、同時に、
公害に関しても
防除が一番大事であるということを力説されました。
そこで、
経済の
観点から申しますと、
公害の
防除をできるだけやりやすくするためには、どのような形の
誘導措置が好ましいかという
議論がございました。普通の場合には
防除のほうが安くつくわけなのでございますが、たまたま
公害現象の場合は、
公害が起こってしまったときに、それに対する賠償の
措置あるいは市民、
住民が受けた
被害を償う
措置というものが十分に行なわれないのが通例でありますために、
たれ流しをしたことの結果の
被害がたとえ多くても、それを
負担するものは結局
住民そのものであって、
企業の側では、妨除のために金をかけるよりも、むしろ許されるならば
たれ流しの
状況でなるべく
費用を少なくしたい、そういう
刺激が働くわけであります。
そこで、どうしても、
経済の
観点から申しますと、
公害現象の結果生ずる
被害を計算いたしまして、計数的に測定いたしまして、これだけの
被害があるのだから、これくらいの
防除費用を
負担するのは当然であるという形の、計数的な比較をすることが大事であろう。どのようにこの
公害の
被害を計数的にはかるかという問題に関しては、なかなか、まだ一致した
方法論ができておりませんけれ
ども、
考え方といたしましては、生ずるであろう、現に生じておる
被害と見合って、これくらいの
防除費用は当然であるという形で、
防除費用を
企業の
負担とするという
考え方が、国際的な
学者の
討議の中でも多数を占めております。
企業の
負担とするということは、これは現在の
日本での
考え方よりはどちらかといえばきびしいわけでありまして、
日本の場合には、
公害対策基本法でも、第二十四条をごらんになりますと、「
事業者に対する
助成」という項目があります。
事業者に対する
助成というのは、助ける、つまり
事業者が
公害のために
防除施設をする場合には、国は金融上、税法上の
援助をする、助けるということが
法律にうたわれておるわけでありますけれ
ども、私
ども経済学者の
立場から申しますと、そのような
援助をする必要はない。むしろ
企業自体が
負担をして、そして
防除施設を
企業が取り入れた場合、おのずからその
企業の
製品の価格は上がります。ちょうど
製紙会社が、
廃液で川の水がよごれるのを防ぐために、大体流します水一トンにつき十五円とか二十円の
費用を
負担して現在流している例が多いのでございますが、そうしますと、おのずから紙の値段は上がります。われわれ
経済学者の
立場から申しますと、上がってやむを得ないのだ、
原因者負担であると同時に、これは
消費者に転嫁されるという形でよく批判されるのでありますけれ
ども、
消費者にある程度は転嫁されるのが当然であって、それだけの
被害を及ぼすのを避けるためにこれだけ高くつくというものであるならば、高くつくというかっこうで
消費者の
選択にまかせたほうがいいのだ、こういう
考え方の上に立つわけであります。
公害被害の中には、国ないしは
地方公共団体の
負担で償わなければならぬ面が多々あることは明らかでありますけれ
ども、
企業が行なう
妨除施設については、まず第一に
防除の
技術開発については、国がいろいろな形で
研究者の方に
援助されるのは当然だと思いますが、
防除施設を
企業が取り入れます場合のその
費用は
企業の
負担とすべきである、それだけものが高くなる、高くなったらそういうものはあまり買われなくなる、それだけ買う
刺激が弱くなる、それだけ
公害を起こすような
製品の普及がおくれる。おくれるだけ
公害現象は少なくなる。こういう
因果関係をねらっているわけであります。
同時にもう
一つ重要な
因果関係は、
公害防除のためにそれだけの金を使わなければならぬということになると、
企業としては
製品が高くなるので、売れ行きが減っては困りますから、何とかして
公害を起こさぬようなものを
開発しようという
開発意欲が生じます。これは非常に重要な点でありまして、新しい技術を
開発する際に、少しでも
公害を起こさぬような技術を
開発しようという意欲が
企業の中におのずから出てまいりますならば、これはまさにわれわれのねらうところでありまして、やはり
企業が
負担をして、
負担の分だけ高くなる。高くなると物が売れない。売れないのでは困るから、
公害の出ないようなものを
開発しようという
努力をする。同時に、
公害を起こすようなものについては、売れなくなるだけそれだけけっこうだという
考え方がその背後にあるわけであります。
この
経済の側面について一番重要だと思います論点はこの点でございまして、いままで私
どもの
議論が、
原因者負担とか
消費者への転嫁ということを何か二者択一のように考えておりましたけれ
ども、そういう
考え方の成り立つ場合も当然あるとは思いますものの、
原因者に
負担させることが同時に
消費者の
負担ともなる。それがかえって望ましいのだという
考え方をぜひひとつ御検討いただきたいと思うのであります。
対策上の
問題点としての第三は、やはり地域
社会における世論の
役割りであります。これはピッツバーグにおける
公害克服の事態と、
四日市における
公害対策の事態とを比べますと一番明瞭でございますが、ピッツバーグの場合は、あそこに位置いたしました
幾つかの大
企業、鉄鋼その他の大
企業の本社も
工場もあのピッツバーグの町に存在し、重役もそこに住んでおって、そしてピッツバーグはわれわれの町だという
感じでもっておったわけです。それが一九三〇年代の中ごろには非常によごれた。ばい煙でよごれ、川も汚濁し、どうにもならない町になって、あのピッツバーグにあるような
会社だったら自分は行かないといって、大学を出たばかりの優秀なる若い青年たちがピッツバーグの
会社を避けるようになった。これではピッツバーグに位置しておる
会社は伸びる見込みがないというので、ピッツバーグの市内にありました
会社の
企業者、
住民、労働組合等が、あげて
公害対策に一致協力した結果、現在のようにピッツバーグは
公害を克服した町として、きれいな町になったのであります。
ところが
四日市の場合はどうかと申しますと、ほとんどの大
企業は分割法人であります。
四日市の
コンビナートにあります大
企業のほとんど全部が、本社を
東京か名古屋に持っております。そういう
会社の重役の方は、たまたま
四日市に滞在されましても、短期間だけそこに駐在されるわけで、
四日市の勤務御苦労であったというので、何年か後には名古屋なり
東京なりに戻していただけるわけです。そういう
状態でありますので、この
四日市にある
企業の指導的地位にある人が、
四日市の町を庶民のためによくしょうという意欲がなかなか出てこない。地域
社会としての統一性に欠いておるところがございます。そういう
状況が、
四日市における
公害克服を非常に困難にしたのではないかと私には考えられます。
この地域
社会における
公害問題というのは、どうしてもそこに位置しておる
企業が、その
住民の意識というものを真剣になって反映させる意欲を持つことが大事であり、そのために
住民に対する
公害現象についての啓蒙活動等も重要である。そういうことを考えますと、なるほど
法律も大事であり、
経済も大事だけれ
ども、結局のきめ手は世論ではないだろうか。
日本の場合でも、やはり世論が大きな
役割りを果たすのではないだろうか。たまたま世論が行き過ぎることはあるとしても、それを立法府で受けとめられて、ここまできておるのか、ここまで
住民が反対しておるのか、実態はどうなのかということを立法府などで気づかれる
一つの手がかりは、やはり世論の盛り上がりであるというような認識を私
ども持つわけでありまして、世論というものが
公害対策の上で果たす
役割りの大きいことはいまさらながらに痛感するのであります。
ところが、この世論の場合に一番大事なことは、私
感じまするに、ものごとが起こってしまってから初めて気づくという場合が多いのであります。ひどくなって初めて世論はわき立つのでありまして、ひどくなる前に、こういうことをすればこうなりますよという形で事前にいろんな情報を明らかにして、
住民の意識を問うということは、いままであまりなされておりません。いま問題になっております富士市でもそうでございますし、
四日市市の場合も、
四日市市が最初に第一
コンビナートの
開発をいたしますときには、太陽と緑の大工業都市ができるんだという非常にうたい文句のりっぱなパンフレットができまして、市民はそれを期待したのであります。ととろが、できた結果はああいうことになったというように、やはり現在の
産業公害というものがどういう帰結をもたらすかということについて、事前にそれを明らかにするという仕事は、今後ますます重要になると思います。一例を申し上げますならば、
空港騒音の問題などは、まさにどうしても事前に事態を明らかにして
住民の
意見を反映させながら航空輸送
開発をしなければならぬ問題になっておると私には思われます。現に先進諸国におきましては、たとえばロンドンの第三
空港が
住民の反対でつくれなくなったということ、フロリダのマイアミの近くの国際
空港が、やはり
自然保護の
観点から設立中止になったという事例に見えますとおり、
空港の問題に関しましては今後ますます
一種の
公害としてやかましくなるでありましょうが、現在の
日本の
可能性を考えてみますと、航空輸送に対する需要の伸びは昭和六十年度、あと十五年間くらいの間に、国内航空は十五、六倍、国際航空は約二十倍、国際貨物航空輸送はおそらく現在の三十倍くらいの規模に伸びることが運輸省などの
調査によっても現在予定されております。それだけの伸びがあるといたしますと、この
東京を
中心といたしました
空港は、現在つくりつつあります成田と羽田で足りないことはもとより、横田が返ってまいりましても、その三つを全部合わせても足りないのであります。昭和六十年にはすでに足りないのであります。だといたしますと、一体どこに
空港をつくるのか、
騒音ということを考えながらどういうふうに
空港の位置づけをするのか、そのアクセスはどうするのか、そういう問題は現在すでに考えていなければならぬ問題であります。
そのときに
住民に対して、こうなりそうなんだが一体どう思うかという問いかけは、
事柄が起こる前にしなければならないことで、
公害に関しましてはこの一例でもわかりますように、
住民の意思、
住民の意向というものは、事が起こる前に、悪くなる前に情報を明らかにしてその
意見を反映させるということがいかに重要であるかということを痛感するのであります。
本日とりあえず申し上げましたことは、
公害の
概念の
特徴と、それが量から質への
転化を含むために
因果関係のきめつけが困難であるということ、それから
対策上の
問題点といたしまして、
基本的な
考え方に
対策基本法の中には多少ズレがあったのではないかという点、それから
法律の面、
経済の面、それから世論の面、この三つに分けまして簡単に私の
意見を申し上げた次第でございます。(拍手)
—————————————