○
山村政府委員 最初に、私としましては、当
委員会から命ぜられました、まず第一に人命の安全というものを確保していけ、この任務を与えられました。この任務を無事に果たすことができまして、
皆さま方の前にこうして出てきて御報告できることを、私は
ほんとうにうれしく思います。
皆さま方に
ほんとうに御心温いただきまして、
韓国、出先まで電報そのほかをいただきまして、
ほんとうに心強く、はっきり申しますと、みっともないことをしないで帰ってこられましたのも、ひとえにこれ
皆さま方のおかげでございます。
ほんとうにありがとうございました。
御報告いたします。
この
委員会から
福岡行を命ぜられたわけでございます。そしてすぐ羽田へ飛びました。羽田には
特別機が用意してありました。その
特別機をもちまして
福岡へ向かいました。ところが、その
福岡へ着く前に、もう
日航機は
北鮮に向かって出てしまったという報告を機上で受けたわけでございます。
しかしまあ、このようなハイジャック問題というものを二度と起こさないためにも、できるだけの調査をして帰ろうということで
——いろいろのこまかいことを
向こうで調べておりました。
日本航空関係者、また
福岡の
空港長、そして
福岡県警、これらを通じましていろいろこまかいことを調べておりました。
そこへ今度は
大臣から命令がございました。
大臣の代理としてすぐ
韓国へ飛ぶように
——もちろん、この
大臣の命令があります前に、
北朝鮮へ向かって着陸すると思った
飛行機が、これが
韓国の
金浦空港へ入ったという報告は聞いております。そして
大臣から、すぐ
韓国へ向かうようにということを命ぜられました。ところが、この
韓国へ向かいます場合に、その当時、
金浦空港は
閉鎖状況でございます。そこで、近くの
軍用空港へおりるということで、三十一日に私は東京を出発したわけでございますが、一日の朝早く、まだまっ暗なうちに着きました。時間は三時半か四時ごろだったと思います。そして、
あと金浦空港へ回ることにしまして、
大使の公邸へ参りました。
大使の公邸で
金山大使とこまかく
打ち合わせをしまして、
金浦空港へ向かい、そしてこの乗っ取り事件の
対策本部がございますところへ向かったわけでございます。この
対策本部のございますところは、
金浦空港内のいわゆる軍の基地内でございまして、これはおそらく
韓国政府として、
マスコミそのほかのいろいろな取材というものが今度のこの対策に妨げになるんじゃないかということで、
ほんとうの
関係者以外はだれも入れないという配慮からそのようなことを行なってくれたと思います。
まず、私は参りまして、
金山大使からいろいろな事情を聞いたわけでございますが、そのとき
金山大使が申しますのには、私が行きましたときには、もういろいろ
韓国側と
交渉済みでございました。そして
韓国側から、
乗客を全員おろせば
犯人の好きなところへ行かせてやるという条件を出しまして、
犯人と
交渉しておったわけでございます。われわれ
日本人として聞いてみますと、きわめて当然なことじゃないかと思うわけでございますが、ところが、この
金浦空港のすぐわきは、これは私がもうくどくど申し上げるまでもございませんが、いわゆる
北朝鮮、そしてその停
線ラインをはさんで
北朝鮮との
国交状態というのは、現在休戦はしておるけれども、
ほんとうに険悪な、
日本としてはとても考えられないような険悪な
状況であります。この
韓国がよくこれまで、はっきり言って譲歩してくれた。これは
金山大使が申すことでございますが、しかしまた、私は、一般の
韓国の方、そして
韓国の
新聞記者等と話しましても、
韓国がなぜこれまで折れたのか、これを疑問に思っておったようでございました。そしてまた、私は、
金山大使と参りまして、この
対策本部では当時の
最高責任者といってもいいかと思いますが、
国防部長官とお会いしました。
国防部長官は、もうきのうから全然寝ていないということでございます。それで、
国防部長官と会いましたのが五時か六時だったと思いますが、
国防部長官が言うのには、何はともかく、これは
韓国のほうでできる
最大譲歩の線である、これ以上はできないんだ、ひとつ考えてもらいたいということでございました。それはまた情勢の変化というものもある、いろいろな点はまだあるが、とりあえず現
状況ではこれでひとつ
交渉してくれということでございました。そこで、いろいろ
金山大使を通じて
交渉さしておったわけでございますが、全然進展はございません。
その
交渉はどのようにして行なわれたかと申しますと、
コントロールタワーの一番上の階へ参りまして、そして無線をもって
飛行機内と対話をしたということでございます。
犯人のほうは、ただこれはもう直ちにわれわれを出せ、その一点ばりでございました。そして
一つの一番大きな山場と申しますのは、一日の朝の九時でございます。その時点に返事がないと、われわれはどのような
行動を起こすかもわからないぞというのが
犯人側の言い分でございました。しかし、その間、
金山大使、またこの
対策本部長、これらの方々の
ほんとうに必死の説得と申しますより、呼びかけに対しまして、
犯人側も九時の
行動を起こすということはやめたわけでございます。それでわれわれはまず一安心したわけでございます。
そうすると、これは少し長期になるかもしれない、ここで少しいろいろ
犯人側の心境の変化というものを待ってわれわれは対策を練るほかはないのだということでございます。初めは
犯人側へ御飯も差し入れまして
——これは
韓国側のほうでやってくれたようでございます。御飯も
犯人のほうは取る。ところが、それが一日だと思いますが、九時に出さないという
あとでございましたと思いますが、もう御飯は要らないのだということで、結局
飛行機のわきへ積んであっても取らないというような
状況でございまして、私ども心配したわけでございます。しかし、いろいろわれわれが得た情報では、これは副
操縦士がおもに
向こう側の
犯人の意向を伝えたというようなことで、いろいろこっちへ話してきたのですが、すぐ出してもらわなければ困るというようないろんな案は出しましたが、しかし、われわれはそれに対しまして案外安心をしておった。というのは、実はその副
操縦士の場合、脅迫をされながらやっておったということがあるわけでございます。そして
日本の国内で、もう狂人が出るとか、
機内の空気が険悪化して一触即発だ、どういうふうなことになるかわからないというような、
日本の国内の
マスコミ関係を通じてのいろんな推測で、
皆さんを御心配させたようでございますが、少なくとも私が私の案を出す少し前までは、そのような空気はわれわれは感じられませんでした。
そこで、いろいろ
日本の国内の
新聞等も取りまして、その
状況を見ておったわけでございますが、ただわれわれといたしましては、何はともあれ、はっきり申しますれば、自分のうちの家族がけんかを隣の家の中に行ってやっているようなものでございます。それを仲裁にいった人間が、今度は隣の家にこっちの言うとおりすべてやれということは、これはできません。また、これは
韓国の
国内事情というものもあると思います。しかし、私が知る範囲では、
韓国の場合は、
ほんとうに
日本の言うとおりというほど、
韓国におきましては実はこういうようなこともございました。あんまり
日本の言うとおりになっていて、
韓国政府は一体何をしておるのだというような、
政府を国民がそれこそしかりつけるというような一場面もあった。それくらい
政府は協力してやっていただきました。
そして、われわれとしてはもうここで決断する以外にはないというときが、私が
人質のことを申し上げた段階でございます。私は、その前にも、
宇田先生ただいまおっしゃいましたように、
人質ということを頭に入れてということでしたが、事実頭には入っておりまして、二へん私は
大臣には申し入れたのでございます。ところが、
大臣は、初めのときは、まだまだそういうようなことをする時期ではない、時間があるから、ひとつそれは頭には入れておくが、するべきではない、わかっておるからということでございます。ところが、次の
日本の
新聞を取ってみますと、はっきり申しますれば、なぜ北へやらないのだ、北へやらないのは
政府が
——これは
韓国にはなはだ御迷惑をかけたと思うのでございますが、
韓国の言うとおりに
ただ手をこまねいているからこんなことになるのだ、もっと
政府がしっかりして、早く北へ送ってやれというような論調の
新聞がぽつぽつ出始めておりました。そこで、私が
大臣に申し上げたわけですが、実は
大臣と口論をするという一場面もございました。
大臣は、絶対やらない。しかし私は、ここでというようなこともございましたが、最後は、
大臣はおれだ、おれが命令を下すまで君は動いちゃいかぬということでございますので、それは下がりましたが、それでついに私が申し入れたときというのは、実は
大臣が、
山村君、これが限度じゃないか、済まないけれどもと言われまして、私は、はいわかりましたというところで、いわゆる
人質となることを引き受けたわけでございます。
しかし、
人質を引き受けるということを申し入れたら、すぐ今度は
向こうのほうから、これは
向こうのほうで言うのは、本物のおまえだという証明は何にもできない、だから、これは私の尊敬する
社会党の
阿部代議士を呼んできてもらいたいということでございました。そこで、私のほうは、急遽これを連絡をとりまして、そして
阿部先生においでいただいたわけでございます。それで、
阿部先生とともにその晩
大使の公邸で綿密な
打ち合わせをいたしまして、次の日の
犯人との会談に臨んだわけでございます。そして、私には、少なくとも尊敬する
阿部先生ということでございますから、これで何らかもう少し
交渉ができるんじゃないかという淡い期待があったわけでございます。
それで、
飛行機のわきへタラップをつけました。これは
操縦席の窓のところにつけたわけでございます。そして、
阿部先生が、いま間違いなく
山村新治郎がそこに来ているということで
交渉をしまして、私が手をあげたら
山村君すぐ来てくれということで、私は
飛行機からずっと離れたところで待っておったわけでございます。そうしたら、手があがりましたから参りました。そうしたら、
犯人のほうから、
政務次官か、そうだ、それではとりあえずおまえさんここに乗りなさい、それでわれわれは全部おろすから、いや、それは困る、私のほうは、全部おろしてから私が乗り込む、そういう約束事しか考えてないということで、
犯人のほうとぶつかってしまいました。そこで、
阿部先生を尊敬しているということを私は言ったわけですが、実は私には一面識もないんだということでございました。そういうようなぐあいに少し議論が沸騰して、
犯人との
やりとりが激しくなってきたので、
阿部先生がまあま
あと言ったら、うるさい、おまえは黙っておれ、おれは
政府代表と話しているんだと言う。これはちょっと常識では考えられない
犯人の
行動じゃないか。わざわざ
日本から証人として呼びまして、そして証明してくれたその人が仲裁に入ったら、うるさい、おまえには用はないんだと言われて、
阿部先生もかなり憤慨された。私も
阿部先生には申しわけなく思っておりますが、何しろ相手は
気違いでございます。おそらく
社会党の
皆さんは、
阿部先生ということで、そんなに
阿部先生と関係があるのかというようなことで、ずいぶん心配されたことだろうと思いますが、全然そういうことはございません。これは
犯人が
阿部先生を呼び出すための
一つの敬語みたいなもので、尊敬する、こうつけたと思っていただければいいと思います。
阿部先生がそこで完全におこるのも無理ございませんで、それきり
あとは話はなくなってしまいました。
それから、
犯人とのいろいろな
交渉の結果、
乗客を半分おろせ、そうすれば私が乗り込もう、そして私が乗り込んで、
あとの
乗客を半分おろすということで、
韓国を離れ
北鮮へ行くのを認めようじゃないかという
交渉が成り立ったわけでございます。これが三日の日の夕刻でございます。
あとはいろいろ
新聞紙上で
皆さま御存じのような経過を経まして、経過を経ましてというのは、
犯人との
交渉がその途中にもいろいろございました。いわゆる取りかえっこと申しますか、
犯人側からも
人質を出させまして、私が入り込んで、
あとの
乗客を全部おろしてから、そこで
犯人を乗り込ませるというようなことをやりまして、平壌へ向かったわけでございます。
ただ、その
犯人たちの心境というのは、ただいま申しましたように
気違いですから、心境というものはないのかもしれませんが、
機内におきましても、私の場合は、初めに
犯人側から
うそつきということを指摘されたわけです。
うそつきというのは、私が半分ずつということで約束して、半分おろした段階で、また条件を出して、そこで
交渉する、これは
うそつきじゃないか。これは私も率直にあやまりました。しかし、これは全然私の関与していないところでございます。私はその
飛行機の下におりまして、それは本部と
犯人との
やりとりでございます。私はそこで生命の危機を感じたわけでございます。
犯人側からすれば、これははっきり言えば、
ペテンにかかっておれ
たちの仲間を出したというようなことでございますし、それと同時に、私が生命の危機を感じたというのは、その前に
北鮮側から回答が来たわけでございます。
これは
停戦委員会を通じてこちら側から申し込みまして、そして
北鮮側からの回答を得たわけですが、その場合に、空路の安全を保障しよう、それと、
乗客に対しては
人道的立場に立って取り扱う、機体は返還する。そして最後に、これは
新聞紙上に出ておりませんが、ただしと書いてありまして、
機内において起こった事故はわれわれは責任を持たない、これが書いてあるわけです。そこで、
大使も心配しまして、これはきっと機長のことをさすのではないか、機長が実は平壌へ行くと言いながら、
金浦空港、京城のほうへ着いてしまった。そこで、これは完全におこっておる。これはそのことをさすのだろう。ここで最後まで
搭乗員の乗りかえば
交渉しよう、そうでなければ機長は殺されてしまう、これが大体集まった人間の一致した意見でございます。
ところが、それともう
一つ、実は私にとりましてははなはだ
気持ちの悪いいろいろな
状況が
——状況というよりも、いままでの経過が出てきたわけです。というのは、前の
韓国のいわゆるハイジャック、乗っ取り事件のときに、北側へ連れていかれた人間がまだ十二人帰ってきていない。どうなってしまったか、全然
音信不通、殺されたんだかどうかも全然わからないということでございます。それで、その帰されない人というのは
搭乗員と
マスコミ関係。ましてや、これは
韓国側の言うことですが、
政務次官、あなたが行ったとなったら、これは一番大きな、
向こうにとっては重要な人間ということになるから、これはだめだということを回を重ねて言うわけでございますが、私としては、これは
気持ちのいいことではございませんでした。
そういうようなことを頭に入れてあったわけですが、その上に
犯人をおこらしてしまった。もうこのときは完全に私は覚悟していたわけです。そうしまして、私は、
乗りぎわに、
大使、こんなことをやってもらっては困る、ひとつ約束だけは守ってもらいたいということで乗り込んだわけですが、そうしましたら、私が思っていたとおり、
犯人はかんかんでございました。おまえは
うそつきだというようなことでございました。ところが、私が入っていったときに、残っていた五十人の方々が、よっぽどお待ちいただいたと思いますが、
ほんとうによく来てくれたというような意味で、ぱちぱちっと拍手がわっと出まして、その瞬間、
犯人との
やりとりはなくなったわけであります。それで、
皆さんおそくなって申しわけありませんでしたとあいさつしていましたら、いきなり
うしろから向きを変えられて、手をぐるぐるっと縛られて、一番前の席へすわらされてしまった。それで、
あと五十人近い残りの方がおりまして、その
あと一番緊迫した状態で、ちょっとおかしな空気でございました。そこへ
大使から、
政務次官を出してもらいたいということで
電話がかかってきたわけです。
政務次官、おまえ
電話だ。そして、前に行けということで行ったわけですが、行ったら
——電話は
機内に二つあります。私がとる
電話は機長のところにございます。もう
一つは、
うしろの、外からは見えないところにございました。それを
犯人側がとって、全部
やりとりを聞く。そのときに、まず
大使から、ただいまの
政務次官から言われましたことを伝えました、今後は絶対にこのようなうそはつかないということを確約いたしております、これをまずお伝えいたしますということが出たわけでございます。それで
あと、いま整備をしておりますとか、いろいろなことを
やりとりをしておりましたが、そこで
電話を切りましたら、
犯人側は、いままでおまえと言っていたのが、今度は
先生となったわけでございます。
先生、あなたはうそをつかないと思っていましたよと。
これからは、
皆さまにずいぶん御心配していただいたわけですが、私にとりましては緊迫した空気というのは
一つもございませんでした。
あとはいろいろ
犯人たちと
やりとりをしながら行ったわけですが、
機内においてはみんな確かにドス、いわゆる短刀、それからもう少し長いわきざし程度のもの、そういうものをみんなそれぞれ持っておりました。それと爆弾を持っていました。その爆弾というのは、鉄の管を
両方鉄のせんでとめたようなものでしたが、その連中も私をばかに信用してくれまして、私のわきにその爆弾を置いていく始末なんです。それで私、これいいのかいと言ったら、ああ、それはだいじょうぶなんです、こっちに持っているこれを入れなければ爆発しないんです。どうなんだと言ったら、中に入っているのはダイナマイトだ、しかし、こっちに持っているのは硫酸だ
——硫酸が試験管のようなものに入っていまして、そのふたをあけてそこに入れて、それでたたきつけると爆発する。
飛行機が吹っ飛ぶというようなものではないらしいのですが、少なくともその破片で
飛行機がぶつぶつ穴があいてしまうことは間違いないようでございます。連中はそれを十数本用意してあったようでございます。
犯人は九人でございます。それで、その十数本の爆薬というものを考えましたときに、私は
ほんとうにぞっとしたのですが、彼らは
ほんとうに狂人といいますか、
阿部先生を呼び出してあんな失礼なことを言った彼らにしてみれば、これは当然というか、あたりまえのことで、そんなことまで気をつかう必要はないということなんです。
そこで、私は、この
犯人たちといろいろ
やりとりをしました。平壌に着くまで一時間、それから平壌に着いてから二時間少々の時間、約三時間をこえる
間犯人たちと
やりとりをしました。私の
電話が終わった段階では、完全に私の手を縛った綱から何から全部取ってしまいました。それで、
先生、
あとはどこへでも自由なところへ行ってくれ。
あとは自由ということで、私がすわっているところに、
先生、コーヒーがいいですか、紅茶がいいですかと言ってくるようなぐあいでございます。
ただ、そこで、今回のこの
乗客の一部、ほんの一部の
皆さんですけれども、テレビなどへ出まして、また
新聞記者会見で、あんないい
青年たちはないというような意味の発言をしておられる方が二、三あるわけでございます。おそらくその
人たちは、私
たちに
一つも危害を加えないでくれた、そして最後には、聞くところによると、お
別れパーティなどを開いたそうです。これはちょっと私どもには理解できないところなんですが、やはりその時期の
機内のお客さんというのは少し異常心理になっているのじゃないか。
それと、彼らの指導格である田宮というのが実は私と一番話をするのが長かったのですが、
犯人田宮が言いますのは、もう私は
日本へは永遠に帰らない、そこで、せっかく
先生と一緒になったんだから種あかししていくよというようなことでございます。それで私も、今後のことがございますので、いろいろ聞きました。聞きましたら、まず第一に、今回の
飛行機乗っ取り事件で何が成功したと思うかという、私に対する
向こうからの問いでございます。私は、こっちはわからないな、何なんだいということで聞きましたら、まず第一に、
乗客の心理というものを完全にこっちにつかまえてしまった。
一つの例をあげれば、まず最初に自分
たちが乗り込んで
乗客が言うことを聞いた段階で、すぐ
うしろ手に縛りあげて
乗客を恐怖のどん底へおとしいれた、これが第一番の成功のもとだ。そして
乗客の恐怖感というのを徐々に除いていきながら、結局ハイジャックという問題、この凶悪な犯罪をも完全に別のものにしてしまった。この凶悪な犯罪を犯した
犯人はおまえ
たちだという考えを
乗客の頭からなくしてしまう。そして言うことさえ聞いていれば、もう何もしないんだ、この
人たちはいい
人たちなんだというようなことを思わせる。たとえば御飯が出てくる。ぱっと
乗客に配ってしまう。自分
たちは
あとで食べる。そしてまた、いろいろ
乗客が持っているもの、たとえばあめを持っている人間は出せ、食いものを持っている人間は食いものを全部出せ、たばこを持っている人間は全部たばこを出せ、お客のほうは何てひどいやつだと思う。ところが、それを、たばこのほしい人、はいと手をあげる、では何本ずつとぱっと配る。あめのほしい人、はいと配る。これは
ほんとうに
犯人の巧妙なところかもしれませんが、そのようなことをやっています。やつらの言うのは、それははっきり言うと、ハイジャックを成功させるための
一つの手なんだ、まずお客の心理状態を完全にこっちのものにしてしまわなければだめだということでございます。
そして、私は、実はゆうべもテレビに出演させられましたときに言ったのですが、私が乗り込みましてから、
犯人の一人が、コーヒーにしますか紅茶にしますかと言いながら、
先生、これ弁当ですと、もう
一つ弁当を持ってくる。
先生、これは毒は入っていませんからということです。何言っているんだ、毒入れるわけないじゃないか、いや、そうはいかない、おれ
たちはあくまでも慎重の上にも慎重、いや、さっきおりていった連中に全部毒味させたということです。聞いてみますと、これは
乗客のほんのわずかの方々ですが、御飯だって先に食べたといって、彼らをほめております。これはモルモットにされていたことが全然わからない。そして彼らは、
乗客が御飯を食べて三時間たって何でもないということを見てからでなければ食べなかったわけです。全部のものがそうです。これくらい彼らとしては慎重に事を運んでいた。ところが、その反面、われわれでは考えがつかないくらいルーズなところがございます。
阿部先生の問題がそうでございました。
もう
一つ、彼らは
北鮮と何の連絡もありません。実は
北鮮へ着く直前ですが、若い
ほんとうに子供みたいな青年が私のわきにすわっていまして、
先生、
北鮮へ行ったらおれ
たちどうなるんだろう。そんなばかな、おれを誘拐して
人質にとっておいて、おれ
たちはどうなるんだなんて。(笑声)ところが、彼らは真剣なんです。何もないのか、行ったらどうするんだ、どうするかわからない、出たとこ勝負だ
——これは私の心境と一緒かもしれませんが、彼らの場合は、あくまでも計画もあれば、意思の通せるところがありながら、出たとこ勝負、関係なしというような、そんなところに平気で飛び込んでいっている。
そして、いろいろ彼らとの
やりとりもございましたが、あまり時間も長くなりますので、飛ばしまして、それで平壌の付近に行ったわけです。そのころはもうだんだん暗くなってきた。そして、平壌の空港じゃないかなというのがあったのですが、ちょっとどうも違うようだ、じゃもう少し先に行ってさがそうかと言ったときに、完全に
あと五分か十分で終わりだ
——終わりというのは、暗くなって有視飛行ができなくなってしまう。有視飛行ができなければ、
向こうからレーダーそのほかで誘導してもらったらどうだといいますが、誘導というものが
一つもないわけです。これは完全に機長、副
操縦士の二人の、それこそいままでの勘と技術によってそこまで行ったわけです。そして、いまからおります、ベルトをきつく縛ってください、しっかり座席につかまっていただきたいという放送があったわけです。それで、私はぎゅってベルトを締めて、そして
皆さん御存じのように、からだを前に傾けた。これが一番ショックを受けない方法だ。そうしたら、そのわきにおりましたのが、
先生何やっているんです、何言っているんだ、こうするのが一番ショックが少ないんだよ、はあ、私は初めて
飛行機に乗ったのでわかりませんでした、ほんとにそんなようなメンバーです。それで私はすわってぎゅっと締めた。そしておりたわけですが、私はいままで百数十回
飛行機に乗っております。しかし、はっきり言うと、このときの衝撃くらいものすごい衝撃は受けたことがございません。だだだだっと、ほんとにからだが飛び上がりました。
一つの例を申し上げますと、彼ら
犯人たちが爆薬の
一つのあれとして持っておりました硫酸というのは、みんなワイシャツのポケットに入れていたわけです。それがあふれ出て、彼らのワイシャツが焦げたというようなことがあるくらいすごい振動だったのです。それとまた、
皆さん御承知のとまる寸前の逆噴射です。これも、私は逆噴射というのはよく経験しておりますが、あれほどひどい逆噴射は初めてです。そしておりてみて
——ちょっと窓の外から私のぞこうと思ったんですが、私のほうは
うしろで、機長のほうが先でのぞけなかったんですが、
あとで機長、副
操縦士に聞いてみたところが、もう滑走路が幾らもなかった。やっぱりあれをやらなければだめだったということでございます。
それで、ちょっとこの問題について申し上げますが、
あとで、
機内から出まして、
向こうへ着いてホテルへ行って御飯を食べるというときに、満票縦士が私のわきにすわったわけですが、そのときに副
操縦士の言うのには、
先生申しわけありませんでした。何だと言ったら、実は
先生、私らと一緒に死んでもらうつもりだったんです。というのは、百に
一つのかけをした
——私は、これは、機長と副
操縦士はどれほど表彰しても、ほめても、それほどほめ過ぎではないと言えると思うのですが、彼らが言いますのには、百に
一つのかけ、誘導装置は何もない、有視界飛行の着陸の最終段階だ。それで乗っている人間は、私、
政務次官と
搭乗員が三人、そして
気違いがここに九人
あと乗っているわけです。そこで、機長と副
操縦士が相談しまして、ここでもしやらなければ、
韓国へは帰れないわけです。というのは、
韓国を出発するときに、もう今後は
韓国領内へは絶対入れませんよという約束がついているわけです。それを承知して出てきている。ところが悪いことに、東京まで帰ってくる燃料があるわけです。もしあれがあのまま帰っていったらどうなっていたでしょう。おそらくこれはまたそのまま、今度はもっと大きな問題として東京で騒ぎが起きる。
日本国じゅうが騒ぐという問題になる。そこで、機長、副
操縦士と二人で決断して、
政務次官には申しわけないけれども、間違ったら死んでもらおう、機長、副
操縦士のほうは、まあおれ
たちは職務だ、これを遂行する、
あと乗っているやつは九人の
気違いだ、鬼畜だ、畜生だ、こういうようなやつを道連れならかまわないじゃないか、
政務次官も
あとで死んでからでもかんべんしてくれるだろうという
気持ちで突っ込んだそうです。
ほんとうに
先生、申しわけありませんでしたということが、副
操縦士から私に言ったことでした。それで、どれほど副
操縦士、機長が一生懸命やってくれたかと申しますと、副
操縦士は、
飛行機に乗りましてから
北鮮の空港へおりるまでの間、全部すわり切りです、トイレへ行く以外は。ところが、普通の
乗客と違いまして、操縦者の席というのは、いすがいわゆるリクライニングシートといいますか、横になったりなんかできないわけです。ですから、ほとんど圧力のかかるところは全部しりの骨二つということになるわけです。だから、御飯食べているときに、
先生、こんなところできたない話をして申しわけないですが、実はパンツの両方のしりが二つ穴があいてしまった、いや、私も驚きました、なんていうことを言っておりましたが、そのくらい彼らは一生懸命やってくれました。私は、今度の彼らのとってくれたその
行動というのが、今回の問題を一番大きく片付けたと思うのです。
ほんとうに沈着、冷静と言ってもいいと思います。
実は、きのうちょうど彼らに対して
大臣表彰がありまして、私もそこへ立ち会いました。その
あとで歓談ということになったときに、機長に聞いたわけです。機長、あれ、もしあそこで
乗客が全員乗っていたとしたらどうする。完全に全員即死だそうです。そしてただ
一つ機長がつけ加えました。私はその場合は東京へ帰りました
——しかし、私はぞっとするんですが、あのとき
乗客を全員乗せてあの空港へ来ておりることになって、そしておりられないということになって、東京へあのままの
状況で、結局板付にあった、そして金浦にあった
状況をそのまま東京へ持ち帰るわけです。考えただけでも私はぞっといたします。しかし、その際の
搭乗員のとってくれた措置というものに対して、私は
ほんとうに心からもう感謝、これ感謝をするという以外に何ものもございませんでした。
しかし、そういうようなぐあいにしながら
北鮮へ着いたわけでございますが、着いてからの彼らの
行動でございますが、これはもう
気違いというに私はひとしいと思います。
気違いというより私どもには想像できないわけです。善悪は別にしまして、彼らは命がけの仕事をしたわけです。ところが、
新聞紙上で、着いたからっていって喜んで、から手のまねをしてどうこうといいますが、それはそうじゃございませんで、私と中で話をしておって、くたびれたから、こうやっておりてきたというところだと思います。それをそういうぐあいに
——普通の神経の持ち主なら、喜んでわあっとやっておりてくるのが当然ですから、ああ、喜んでやっていると、そうとって
新聞の発表になったと思いますが、実はそれははっきり言いますと全然違います。冷静そのもの、着いた瞬間でも、喜びもしなければ、悲しみもしないのです。私は、その瞬間、ぞうっと全身鳥はだが立ちました。私はこれほどこわいことはないと思うのです。これだけの凶悪な犯罪を犯して、そしてそれを顔色も変えずにやってのけているわけです。私はそのときに考えたのは、やはり時間がかかっていろいろな批判は受けましたが、しかし、彼らをいわゆる武力をもって何とか制圧しようとしてかからなかったというのは、
ほんとうに幸いであった。もしそれを行なった場合は、彼らは完全にその爆弾とともに自爆をしております。同時に、
乗客もその道連れにされております。それを考えましたとき、今回のこの措置というものは、少なくとも、ベストとは言えないまでも、いい方法じゃなかったか、そういうぐあいに私は考えるものでございます。
そこで、
北鮮へ着きまして、いろいろ
北鮮での取り調べ等ございました。そして確かに人道的に取り扱っていただきました。ただ、人道的とはいいますが、ちょっと私どもが理解できないのは、これは私ども四人すわらされたわけです。そしていろいろ取り調べ、無罪を言い渡される寸前ですが、そのとき、二人は退席していった。これは副
操縦士と航空機関士、江崎さんという方と相原という方ですが、この二人は退席させられて、私と機長が残ったわけですが、そして
新聞記者から非常に責められました。しかし、その責められた結論は、おまえ
たちは
北鮮の法を犯したんだ、これは有罪と認めるか、認めた場合にはどんな判決が下ろうと文句言わないでそれに服するんだな、これの連続でございました。そしてその記者会見の最後、
あとで、今度はばっと
——新聞社だそうでございます。これが、
政府の委任を受けて来た、そこでみんなに伝えるということで、私のほうは通訳がつくわけですが、通訳を聞きますと、四人は全員無罪である
——無罪であるとは言いませんでしたが、全員わが領内を本日午後出ていくことを認める、退去することを認める
——私も、はっきり言って、これはうれしかったです。しかし、それならなぜその二人が行くときに
——私は、二人がどうしたのかと思って、実は処罰されるんじゃないかと思って心配したのです。ところが、
あとで聞きましたら、すぐ飛行場へ行けということで、車に乗せて連れていかれた。それならなぜその段階で私
たちに聞かしてくれないのか、おまえは有罪だ、有罪だとさんざんいじめておいて。これはかなり、私にしてみれば、はっきり言えば
気持ちいいことじゃございません。有罪だ、有罪だといじめておいて、そのすぐ
あとで、ほい、おまえ
たちは無罪だ、出ていけ
——これは
一つの、やはり今後
北鮮側に一考していただきたい問題じゃないかと私は思います。
それと、もう二つあります。といいますのは、われわれが参りましてまず困りましたのは、彼らは大歓待のつもりで、すばらしいホテル
——日本のホテルからいえば、備品そのほかはずいぶん怖いものです。しかし、部屋というのはたいへんなものです。まず私ども入りますと、これくらい大きな応接室、そして次が私の書斎、そして次がやっぱりこれくらいの寝室、その大きなのが私一人に与えられるわけです。それで、出てくるごちそうというのは、十品近くのものが、朝昼晩ニンニクとトウガラシのごってりとしたものでございます。そのごってりとしたニンニクとトウガラシを私ども五回食べさせられたわけです。初めのうち、一晩のうまかったこと、私も朝鮮料理好きなほうですから、ぺろっとやっちゃった。ところが、その次の朝になったら、また十品ばさっと来るのです。それでもけっこうやりながらやってきましたが、最後の晩はさすがに鼻についちゃって、半分ぐらい食べて残しました。
そうしたら、その晩の十一時半になりまして、私どもが呼ばれたわけです。あしたの朝早く帰るという晩の十一時半です。午後帰るということでしたが、
飛行機の整備のほうで、どうしても機械その他がそろわないから、それを
向こうでそろえてくれるから、あしたの朝早く出られるということでございます。そうしますと、普通の常識ならばたいがい、機長も副
操縦士も
搭乗員はくたびれているから、早く寝ろ、あした事故が起きないようにしろというのが常識じゃないかと思うのです。ところが、せっかく来たんだから、わが国の映画を見ていってくれ、そこまではけっこうです。私もおつき合いのつもりですから見にいきました。ところが、これがいつまでたっても終わらない。一体いつまでかかるのかと聞いたら、いや二時に終わるんだ。十一時半に始まって、二時に終わる、二時間半見せられたわけです。私のほうは政治家という立場もありまして、はっきり言うと、
北鮮の国内の工業はこうなっている、商業はこういうぐあいにやっている、教育はこうだということは、関心もあるわけですから、私はおもしろく見ている。ところが、私がこっくりすることがありました。そうすると、通訳がつついてまた話し出すわけです。機長と副
操縦士に聞いてみると、つらいといったらない、目がくっついちゃう。目がくっつくと、またすぐやる。
人道的立場というけれども、これは
人道的立場じゃない。私はそういうぐあいに感じました。
それとまたもう
一つ。翌朝五時に起こされたわけです。二時に一応映画は終わったわけですが、私どもそうかといって、映画を見てどうこうというと目がさえますから、寝るのは二時半か三時ということになる。そして朝五時に起こされ、またがばっとニンニクの十品が出るわけです。それで私は、絶対それは食べられない。私は腹が痛い、絶対だめだということで断わりました。そうしたら、私のほうへは、それじゃこれを食べないから、
飛行機が立てなくなっても、おまえの責任だ。おれは腹が痛いんだからしようがない、ああそうかと言って、すぐ医者を呼んできまして、医者が診断して、あなた肝臓が少し悪くないかと言うから、
日本ではよく飲み過ぎをやるからと言うと、薬をくれた。それですぐ済んだ。ところが、
あとで聞きますと、副
操縦士は、おまえが食べなければ
飛行機は立たせないというので、命がけで半分食べたということを言っていました。
しかし、これは彼らも誤解をしてやっていたようでございます。というのは、
あとで帰りに、今度の滞在についてあなたに何か特別の意見があったら言ってもらいたい、また感想なり何かあったら言ってもらいたいというので、とりあえず二つ言わせてもらいたい。めしをあんなに強要するのは絶対やめなさい、はなはだ迷惑だ。それから映画のことも考えてもらいたい。私どもは朝早いんだ。それをどんないい映画を見せられたって、あれではだめになってしまいますよ。めしと映画のことは申し上げておきたい。それはわかったということで、おそらく今度
北鮮へ行かれたら
——もちろん今度はこんなハイジャックじゃなくして、
社会党の
皆さんは去年も行かれましたが、今度行かれた場合は、おそらく映画とめしの責め苦はのがれられると思います。(笑声)
そういうようなわけで、私ども帰ってきた結果から見ますと、とても人道的に取り扱っていただいたことは事実でございます。
それで、私は、特に今回のこの問題についてここで申し上げたいのでありますが、この
委員会を通じ、そしてまた、この
委員会がまず第一番に立ち上がっていただきまして、
日本の世論、そして世界の世論となった。それが
韓国、そして
北朝鮮というものを動かして、ここまでの解決を見たのじゃないか。特に私は、全員乗せて空港に行った場合には、もしおりれば全滅だった。だめであった場合はもう一ぺん東京に帰ってきたということを考えますと、あの狂人と一緒にもう一ぺん東京に帰ってきたらどのような惨事が起きたかを思いますと、
ほんとうに今回
皆さま方にいろいろ御心配をおかけして申しわけございませんでしたが、いろいろ私のとりました立場も御了解いただきまして、お許しいただけますれば幸いと思います。
これをもちましてあいさつといたします。(拍手)