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堂森芳夫君 ただいま
議長から御
報告のありましたとおり、本
院議員坂田英一君は、去る七月二十二日逝去されました。まことに
哀悼にたえません。(
拍手)
私
たちの
郷里は、
坂田君が
石川、私が福井と分かれてはおりますが、互いに県境に近く、隣接しておりまして、また
坂田君は、旧制第四
高等学校における私の先輩という関係もありまして、私が初めて本院に
議席を得ました
昭和二十一年に、当時
農林省に
在職中の君とお会いして以来、公私にわたり、党派を越えて親交を重ねてまいりました。その
坂田君が、昨年十一月、突然病を得られて御静養中と承り、御回復の一日も早からんことを心からお祈りしていたのでありますが、不幸にも御本復を見るに至らなかったのでありまして、いまここに
諸君の御同意を得、
議員一同を代表して
追悼の
ことばを述べますことは、私にとりましてまことに感慨無量であり、痛恨の念にたえないのであります。(
拍手)
坂田君は、明治三十年三月、
石川県加賀市にお生まれになり、生家は豪農として近在に聞こえておりました。
父君は豪放らいらく、きわめて
義侠心に富んだ方で、
生活困窮者や
災害に苦しめられました
農民に対して惜しみなく私財を投じられましたので、
坂田君九歳のおり、一家はついに
郷里を捨てて転居を余儀なくされました。
君は、このような
家庭環境にはぐくまれ、長じて第四
高等学校を経、
東京帝国大学農学部に進まれました。大正九年卒業後、
父君は帰郷をすすめましたが、
学生時代から
石黒忠篤氏に心酔していた君は、氏を慕って
農商務省に勤務されたのであります。
時あたかも
小作争議はいよいよ激しさを増し、大きな社会問題となっており、
小作制度の改革は当面最大の課題でありました。このときにあたり、
小作官として小作問題を担当した君は、
小作立法をはじめとする
農地政策に真剣に取り組むとともに、
争議の現場にもおもむき、その解決のために献身されました。
零細農民を救おうとする君の旺盛な
熱意は、立場を異にする
農民運動家の心にも通じ、互いに助け合い、励まし合ったのでありまして、この
小作官時代は、後年の
坂田君を築く上にまことに意義深い時期であったと申せましょう。(
拍手)
昭和十三年から
昭和二十一年の
終戦直後に至るまで
特産課長でありました君は、当初、
食糧として重きを置かれなかったサツマ
イモやジャガ
イモの
緊急食糧としての効用に着目し、その大
増産計画を樹立し、これを
国民運動にまで盛り上げました。そして、みずからも
イモづくりに魂を打ち込み、ときには
冷害から守るために
イモ苗を抱いて寝られたとのことでありまして、いつしか
イモの神さま、
イモ博士の異名を奉られたのも、君の
熱意のいかに盛んであったかを雄弁に物語っているのであります。(
拍手)
食糧事情がどん底におちいった戦中戦後のあの大窮乏時に、貴重な
食糧源を確保する上に大きな原動力となられた君の業績は、高く評価されなければなりません。(
拍手)
その後も、
農林省食品局長、
経済安定本部生活物資局長、
食料品配給公団総裁の
要職を歴任され、
終戦直後の疲弊と混乱の中で、衣食住の
生活物資全般にわたる
配給調整に当たり、民生の安定につとめられました。
昭和二十四年、君は、年来の抱負と高邁な識見とを
政治に具現させるべく、第二十四回
衆議院議員総選挙に
石川県第一区から勇躍立候補し、
みごと当選の栄をになわれたのであります。(
拍手)
本院に
議席を得るや、間もなく
物価政務次官に就任し、
米価審議会の設置、
公定価格の撤廃など、
物価行政に尽力し、その後は、
予算、
外務、商工その他の各
委員会に幅広く活躍されたのであります。
しかしながら、君の本領はあくまでも
農政にあり、有数の
農政通としてその
手腕力量は
自他ともに許すところでありました。農村は
国づくりの基礎であり、明るく楽しい
村づくりこそ
農政の目標だよ、
坂田君はこう言って
農業の
重要性を強調するとともに、
農業の
近代化を推進する上で、
経済合理性の追求のみでは解決できぬ
わが国農業の
複雑性と
特異性を指摘してこられました。そして、
農政の根本は
農民に
愛情をもって接することだと断言し、国が
農民に対して、より積極的にあたたかい手を差し伸べるべきであると主張し続けられました。そこには、
農民の苦しみと悩みをはだで感じ取っておられた
坂田君の
農民に対する
愛情がはっきりとうかがわれるのであり、この
愛情農政論こそ、
坂田君の
農政に対するゆるぎない信条であったのであります。(
拍手)
君は、
農林水産委員会において終始熱心に
審議に当たってまいりましたが、ことに、
昭和二十七年には
農林委員長、三十五年には
農林水産委員長の重職に選ばれ、
わが国農政の一時期を画すべき
段階において、よくその職責を全うされたのであります。
そして、
昭和四十年六月には、嘱望されて第一次
佐藤内閣の
農林大臣に就任されました。時に、北海道、
東北地方は、天明以来といわれる
冷害に悩まされていたのでありますが、君は直ちに
技術陣を総動員して適切果断な
対策を進め、ついに平年作にこぎつけるまでに至りました。世上、お天気に
技術が勝ったと言わしめたのも、
農業に精通した
坂田君あったればこそと断定しても決して過言ではありません。(
拍手)
また、
農林大臣に御在任中、
日韓国会における専管水域問題をはじめ、
幾多の重要問題に直面されましたが、この間、君は、終始真摯にして率直な態度と巧まざるユーモアをもってこれに当たられたのでありまして、問題の所在は別にして、与野党から好感をもって迎えられたことは、いまなお記憶に新たなところであります。(
拍手)
君は、自由民主党におきましても、総務あるいは
政務調査会の
農産物価格対策特別委員長、
総合農政調査会副
会長について活躍されるとともに、また、
内閣の
積雪寒冷単作地帯振興対策審議会会長をはじめ、
米価審議会などの
委員として長年のうんちくを傾けられ、終始一貫、
農業の
振興発展と
農民の
福祉向上に寄与されたのであります。ことに、米価問題に取り組んだときの君からは、
農民を限りなく思う至情があふれ、周囲の
人たちすべてに頭の下がる思いを抱かせたのであります。(
拍手)かくて、
坂田君は、本
院議員に当選すること前後七回、
在職十七年三カ月に及び、この間、国政に残された
功績はまことに偉大なものがあります。
思うに、
坂田君は、文字どおり天衣無縫と申すべく、素朴にして少しも辺幅を飾らず、
てんたんとして一点の曇りもなかったのであります。また、みずからの信ずるところに向かっては、何ものをも顧みずばく進してやまない、まさに
イノシシ武者のごとき気概がありました。
学生時代には武道に励み、
柔道着を着れば、根性の
柔道として
黒帯仲間にその名をとどろかせ、竹刀をとれば、
坂田の
剛剣としておそれられたとのことでありますが、その
精神力と人一倍の
研さん努力によって築き上げられました透徹した
理論こそ、
政治家坂田英一君の真骨頂でありました。
坂田君が一たび沈黙を破って議論を始めるや、白髪を振り乱し、
口角あわを飛ばしてとどまるところを知らず、その圧するがごとき激しい
理論の展開は、聞く者に強い共感を与えずにはおかなかったのであります。
君は、好んで「
春風人に接す」と揮毫されました。その風貌は一見
望洋たるものがありましたが、余暇には尺八を奏し、墨絵の筆をとられるという豊かな趣味の持ち主であり、その
人間性はあくまでも純粋で、しかも、あたたかい
愛情にあふれていたのであります。君は、かねて、
政治は深い愛が情熱となって発するものであると、愛の
政治を標榜していたのでありまして、君の真情に触れた者は、
ひとり農民のみならず、すべての人が慈父のごとく敬慕してやまなかったのも、けだし当然のことでありましょう。(
拍手)
坂田君、七十二歳。官界、政界を通じ、その生涯をただ一筋に
農政にささげ、
わが国農業の歩みの上に不滅の足跡を印して、ついに生命の灯を閉じてゆかれたのであります。
いまや、
わが国の
農業は重大な
段階に直面し、体質の強化と
農業人口の確保など、
幾多の困難な問題が山積しております。これらの問題を解決し、
農業の
発展と
農民の
生活の
安定向上をはかるためには、
坂田君のごとき豊かな経験と透徹した
理論を有する
政治家に期待するところがはなはだ多いのであります。このときにあたり、君のごとき
練達たんのうな
指導者を失いましたことは、
国家国民にとってまことに大きな損失であり、惜しみても余りあることと申さねばなりません。(
拍手)
ここに、
坂田君の生前の御
功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りしまして、
追悼の
ことばといたします。(
拍手)
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請願日程 世界連邦建設に関する
請願外十八
請願
元満鉄職員であった
公務員等の
恩給等通算に関する
請願外三千四百九十四
請願