運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1969-07-14 第61回国会 衆議院 文教委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十四年七月十四日(月曜日)     午前十時十四分開議  出席委員    委員長 大坪 保雄君    理事 久保田円次君 理事 河野 洋平君    理事 高見 三郎君 理事 谷川 和穗君    理事 西岡 武夫君 理事 唐橋  東君    理事 長谷川正三君 理事 鈴木  一君       稻葉  修君    臼井 莊一君       坂本三十次君    櫻内 義雄君       広川シズエ君    藤波 孝生君       増田甲子七君    松澤 雄藏君       八木 徹雄君    井上 普方君       川崎 寛治君    川村 継義君       小林 信一君    斉藤 正男君       帆足  計君    山中 吾郎君       岡沢 完治君    有島 重武君       石田幸四郎君  出席国務大臣         文 部 大 臣 坂田 道太君  出席政府委員         文部政務次官  久保田藤麿君         文部大臣官房長 安嶋  彌君         文部省大学学術         局長      村山 松雄君  出席公述人         全国高等学校P         ・T・A協議会         副会長     鈴木 弥七君         東京大学学長  加藤 一郎君         横浜国立大学教         授       長洲 一二君         毎日新聞社論説         副委員長    高橋 武彦君         京都大学教授  杉村 敏正君         慶應義塾大学教         授       石川 忠雄君         和光大学助教授 生越  忠君         十全綜合病院院         長       赤木 五郎君  委員外出席者         専  門  員 田中  彰君     ————————————— 七月十一日  委員広川シズエ辞任につき、その補欠として  葉梨信行君が議長指名委員に選任された。 同日  委員葉梨信行辞任につき、その補欠として広  川シズエ君が議長指名委員に選任された。 同月十四日  委員加藤勘十君辞任につき、その補欠として井  上普方君が議長指名委員に選任された。 同日  委員井上普方辞任につき、その補欠として加  藤勘十君が議長指名委員に選任された。     ————————————— 本日の公聴会意見を聞いた案件  大学運営に関する臨時措置法案内閣提出第  一一一号)      ————◇—————
  2. 大坪保雄

    大坪委員長 これより会議を開きます。  これより文教委員会公聴会を開きます。  大学運営に関する臨時措置法案につきまして、公聴会に入ります。  本日午前中に御出席を願いました公述人は、全国高等学校PTA協議会会長鈴木弥七君、東京大学学長加藤一郎君、横浜国立大学教授長洲一二君、毎日新聞社論説委員長高橋武彦君、以上四名の方でございます。  開会にあたりまして、御出席公述人各位にごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙中のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。  申すまでもなく、本公聴会を開きますのは、目下本委員会におきまして審査中の、大学運営に関する臨時措置法案につきまして、公述人各位の御意見をお聞きいたしまして、本法案審査参考にいたしたいと存じますので、それぞれの立場から忌憚のない御意見をお述べ願います。  なお、公述人各位には、順次お一人約十五分程度御意見をお述べいただいたあとで、委員質疑があればこれにお答えをいただきたいと存じます。  なお、念のため申し上げますが、衆議院規則の定めるところによりまして、発言の際は委員長の許可を受けてから行なうことになっております。また、公述人委員に対しまして質疑をすることができないことになっておりますので、この点あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  なお、委員各位に申し上げますが、公述人各位に対し御質疑のある方は、あらかじめ委員長にお申し出くださるようお願いいたします。  それでは、まず鈴木公述人よりお願いいたします。
  3. 鈴木弥七

    鈴木公述人 私は、大学運営に関する臨時措置法案に全く賛成するものであります。  その賛成理由といたしまして、長期間にわたる多くの大学紛争影響は、大学だけでとどまらず、高等学校中学校の生徒にまでも波及をしており、教育全般に及ぼす悪影響は、国家の大本である教育としての現況からまことに憂慮にたえない次第であります。  暴力学生等は、最初の、大学機能運営改善要望から離れ、暴力的要求に変わり、教育施設設備破壊をし、貴重な研究資料参考品等、巨額の国有財産灰じんに帰したのであります。日を経るに従って暴力学生は、政治的活動を多く含み、大学構内のみでなく、学園外の街頭においても、公共施設や民家の破壊にまで及び、乱暴ろうぜきを繰り返し、一般国民に大きな迷惑をかけております。今後ますます拍車をかける勢いを示しておるので、国民は戦々恐々としており、公害でも最も大きな悪質な公害であると思うのであります。  この状態に対して、大学側は、何らの手を打つことなく、学生と話し合いの場をつくるだけで、その成果もなく、一般国民にかけた大きな迷惑に対して何らの申し開きもなく、ただただ大学は、籠城的な学園孤立治外法権のみを提唱するだけであって、なすところなく長期にわたり、今日に至っても解決せずにおる事態に対して、まことに責任重大であると思うのであります。大学国民から孤立化する状態は、国民の私ども子供教育に預かる大学が、国民から遊離した措置のみを考えているようでは、解決の道はあり得ません。  しかも、暴力学生ばかりでなく、教授の中に扇動する者が多くいると聞いては、暴力学生を増長させ、激しさを加えるのみであって、なおさらに紛争解決方法が遠のくばかりであります。この状態が続く限り、私ども子供たちが受験を容易に受けられず、たとえ入学しても暴力学生等が教室の占拠または封鎖によって授業放棄もやむを得ない状況であるのであります。ただいま自宅待機におかれておる新入生約二万一千名、うち国立一万一千五百名、その他九千五百名、授業を受けられないでいる学生数は約二十一万二千名、うち国立七万二千名、その他十四万名と称されております。  右のような憂慮すべき現況に対して、大学側は何をしておられるのか、私どもは歯がゆいばかりであります。  大学の多くは暴力学生に引きずり回されてなすところなく、一般国民から遊離した大学像のみの措置考えておられ、学園の自由を叫んでおるが、紛争はその反対に、今日の学園暴力学生らの団体の力のもとに、一般学生教授も自由を失い束縛をされておる現況ではありますまいか。  かつて終戦前、治安維持法があったころ、マルクス、レーニンの弁証法等学園内だけは自由に勉強も研究もでき、全く治外法権として認められておったようでありますが、終戦後、学園内の暴力的行為治外法権として認められたことを私は聞いておりません。学生暴力行為があっても、学園内の治外法権をたてに警察官の立ち入りや導入を拒み、暴力学生のなすがままで傍観し、規制する警察官大学側批判を加えたりすることによって、暴力学生が力を得たごとくに思い、暴力の増長を来たすだけで、全く慨嘆にたえないのであります。   〔発言する者あり〕
  4. 大坪保雄

    大坪委員長 静粛に願います。
  5. 鈴木弥七

    鈴木公述人 私たちPTAは、次代をになう青少年たち教育に対し、鋭意日夜努力をし、多くの私財を投じ、学校増改築学校施設設備改善に大きな後援をしてまいりましたのに、今日の教育界全般破壊的混乱に大いに憂慮心痛をいたしております。  私たちは、教育に対しては、社会的に未熟な青少年でありますので、正常な学問だけが望ましく必要でありますゆえ、なお一そう正常な教育の確立のため、PTA活動にも政治的色彩を帯びぬよう、全国の会員とともに尽くしてまいりたいと思っております。  この大学紛争には尋常の手段では解決がつかないと思います。根本的に考えるなら、教育全般にわたり、学制そのものから教師のあり方までも改革せねばならないが、一朝一夕の問題ではないので、今後わが国教育の百年の大計を立てて、後年悔いのないりっぱな法案を作成していただきたい。それには相当な時日を要するのは必然で、今日の事態に間に合わせることは至難でありますので、この際、一時的にも紛争を静める措置を、責任ある各大学が共同で御提案があるかと心待ちにいたしてまいりましたが、今日現在まで、大学側よりも、各政党からも、この大紛争解決に役立つような試案は私ども国民に示されておりません。高等学校中学校に及ぼす影響を考慮するとき、事態は一日も猶予することはできません。  このたび、政府案として御提出臨時措置法案こそ、今日の紛争処理でき得る最良の案として賛成いたしますが、本臨時措置法案内容の本則十四条及び附則六項の条文だけでは、暴力学生全面暴力の抑止には条文が足りないと思います。根本的な紛争暴力解決には、学園秩序を乱す学生行為に対し、適切な懲戒を行なう規定がなければ、学長としても暴力の鎮圧はできないと思う。  幸い七月十二日、毎日新聞社掲載による自民党提出修正案による第三条の四項とし、追加案として、「大学学長、その他学生懲戒に関し権限を有する機関は前条(注=施設占拠または封鎖など)に規定する正常でない行為にあたる暴力的行為、その他大学秩序を乱す行為で政令で定めるものをした学生について適切な懲戒を行なうようしなければならない。」、以上の条文追加案は、私は当然認めるべきであると思います。  高等学校の場合は、相当きびしい罰則の規制があり、ある目的のため学校施設設備破壊とか、公共に害を加えたりいたした場合は、停学あるいは退学させられるのであります。法治国家でありながら、最近若い人たち法律規制を軽く無視する傾向にあり、最も多くあらわれているのは自動車事故であります。大学生の場合は法則をわきまえておるのであるから、学園内外暴力には相当きびしい取り締まりが必要かと存じます。  以上で私の賛成理由を終わりたいと思いますが、この機会に政党の諸先生方にお願いいたしたいのであります。総選挙に立候補なされた当時に思いをいたしていただき、私たちの公僕としてぜひこの教育問題だけは政争の具になさらないでもらいたいのであります。わが国次代をになう青少年のよりよき教育環境改善発展に、安んじて勉学のできるよう党派を超越した御審議を鋭意尽くしていただき、一日も早く正常な教育に戻るよう御協力を特にお願いを申しまして、終わりといたします。(拍手)
  6. 大坪保雄

    大坪委員長 次に、加藤公述人にお願いいたします。
  7. 加藤一郎

    加藤公述人 東京大学加藤でございます。  私は、東京大学での紛争全学的に解決するように努力をしてまいりましたが、必ずしも十分な平和的解決が得られなかったことに大きな社会的責任を感じております。しかし、今回の法案は、紛争の真の解決を妨げるばかりでなく、わが国大学の将来を誤るものと考えますので、紛争自主的解決のために苦闘をしてまいりました経験の中から、あえて反対意見を申し述べなければならないと思い、公聴会の公募に応じた次第でございます。  なお、東京大学現状を申しますと、十学部のうち文学部を除く九学部で正常な研究教育機能が回復されてきておりまして、法案が万一通った場合でも適用のおそれは少ないと思われますが、事はわが国大学全体の運命にかかわる問題でございますので、反対理由をこれから申し述べさしていただきます。  法案の個別的な内容に入ります前に、私は、まず法案の基本的な発想ないしは構想そのものに、大学の基本的なあり方あるいは大学紛争の性格についての誤った認識があるということを指摘したいと思います。  まず第一に、法案は、大学が当然なすべき努力を怠っているという大学への不信から出発して、上からの圧力研究教育停止、あるいは廃校という一種のおどかしをかけることによりまして、大学紛争を表面的に収拾しようとしているわけであります。  確かに、大学紛争に対する対処のしかたには適切でない点があったことは否定できませんし、われわれもそれを反省しているわけでございますが、しかし、東京大学の例を申しますと、全学をあげて紛争解決のための努力を続けてきておりまして、上からの圧力やおどかしが解決に役立つことは考えられない。そればかりでなくて、かえってそれは反発を招き、それに水をさすことになるといわなければなりません。私は、大学自治能力を決して失っているわけではなくて、このような法案がなくても紛争解決していくことはできますし、また、そうしていかなければならないというように信じております。  次に第二に、大学行政機関や会社とはその組織、構造が基本的に異なっております。かつての大学管理法以来、今回の法案におきましても、文部大臣から学長へという線で権限強化いたしまして、学長をいわば中間管理者的な立場に置いて大学を管理していこう、そういう発想もとになっております。これはそのこと自体が自由な研究教育目的とする大学の本来のあり方に反することでありまして、文部大臣大学学長の上からの勧告、指示あるいは命令ということによって大学教官が活動する、そしてそれを通じて大学機能を発揮するというようになるとお考えになるのは大きな誤りであるというように思うのであります。  ただ、私としても、国立大学設置者である国あるいは文部大臣協力していかなければならないことは当然と思いますが、問題はその協力のしかたでございまして、文部大臣大学立場を尊重しつつ、これに助言と支援を与えるという形で両者が協力していくべきものと考えます。これに対して、かりに万一この法案大学に適用されるとした場合には、学長文部省大学との間にはさまれる形になりまして、文部省に対して抵抗するか、あるいは原則を捨てて妥協による収拾をはかるか、あるいは廃校のやむなきに至るということになっていくほかはない。そういう状況もとでは、学長引き受け手はおそらくなくなるということで、大学は荒廃し、壊滅していくということになるおそれが十分にあると思われます。  さらに第三に、現在の大学紛争には、共通の深いあるいは広い根があると思われますが、それとともに、紛争の直接の原因とか経過は、あるいはこれに対する対処のしかたというものは、大学によってきわめて多様でございます。また、学生集団の中で深刻な対立があるということがわが国大学紛争に特殊な様相を与えておりまして、問題の解決を困難にしているわけでございますが、その学生間の対立状況についても、大学によって非常に大きな差がある実情であります。  このような状況もとでは、一方において紛争の深い根源にさかのぼりまして、紛争の真の解決への展望を持たなければならない。それなしに当面の表面的な収拾をはかるということも困難であるというように思うわけであります。それとともに、他方におきまして現在のような多様性を持った、また流動的な紛争状況に対しましては、紛争解決あるいは収拾のための正しい一つ答えというものを用意することは不可能といっていい状態であります。現状においては、さまざまの動きの中で模索を続け、あるいは試行錯誤を通じて大学の新しい姿を求めていくほかはないと思います。そのためには、画一的なあるいは拙速な立法によってではなくて、大学の真に自主的な努力によってねばり強く解決を求めていかなければならないというように考えます。  また第四に、政府の側には、立法とか予算などの面から紛争大学を締めつけていくことによりまして紛争を抑圧しようという態度が見受けられるように思われます。極端にいえば、不始末をしでかした大学に対してはお家断絶というような処置をとろうという一種の懲罰的な態度法案の底を流れているように思われます。そこには大学紛争根源にある社会あるいは従来の教育政策という要因について、大学とともに悩みかつこれと協力していこうという行き方がとられていないように思われます。このような態度は、紛争解決を妨げ、大学解体というような結果をもたらすことにもなりかねないというように思われるのでありまして、そのようにして大学わが国学問が取りつぶされていくことに対して、私としてはまことに憂慮にたえない次第でございます。  もっとも、大学紛争現状は放置できない、これに対して何かしなければならないというせっぱ詰まった考え方というものがあることは私もよく承知しております。しかし、現在の大学紛争の根は深く、かつ世界的な規模にも及んでいるのでありまして、だれが処理に当たるにしても、あるいはまた、それを力で押えつけようとしても、そう簡単に解決のできる問題ではございません。大学研究教育機能停止あるいは廃校によって紛争収拾しようとする法案は、諸外国にも例のないものでありまして、外国専門家と話をいたしますと、きわめて奇異な感じに打たれるようでございます。  つまり、大学紛争を何とかしなければならないという国民気持ちと、それから今回の法案がいわゆる収拾に役立つかということとは、一応別個の問題でございまして、法案賛成する方々が何とかしなければならないという切迫感からこの法案賛成されるというお気持ちがあると思いますけれども、それは賛成理由にはならないわけであります。私は、この法案をつくられた方あるいは賛成者方々が、この法案のはらむ危険性を真に認識しておられるかどうか、また、これによって効果的な収拾がほんとうにできるとお考えになっておられるのかという点に重大な疑念を感じるものでございます。  以上で一般論を終わりまして、次に、この法案内容について個別的な問題点を指摘したいと思います。この点につきましては資料をお配りしてございまして、その中に逐条的に問題点をあげた文書がございますので、詳しいことはそれをごらんいただくことといたしまして、ここでは主要な問題点だけ触れることにいたします。(「資料ないじゃないか」と呼ぶ者あり)そうですか。どうも失礼いたしました。資料を配ることをお許し願いたいと思います。  法案の第六条におきましては、学長補佐機関設置あるいは学長への権限集中などの措置を定めておりまして、これは東大方式を例にしたものともいわれております。しかし、法案規定では、従来大学内部で自由にできたことを文部大臣との協議を要するものとしておりまして、かえって自主性柔軟性を失わせることになります。また東大では、昨年秋に紛争解決のために内部からの盛り上がりと支援によりまして、それに近い方法をとったわけでございますが、この学長非常権限というものを特に行使した例はないといっていいのであります。ただ、これは全学をあげて解決に取組むという気持ちの上の統一をはかることには大いに役立ったというように考えております。しかし、このような方法にしましても、内部の十分な支援なしに法案によって上からそれを試みようとしましても決して成功するものではなく、かえって内部の分裂を招く危険があるというように思われます。  次に、第二点といたしまして、法案の第七条第一項で一種休校措置を定めておりまして、これは上智大学方式によるものともいわれております。東大でもかつて休校の是非について議論したことがございますが、いろいろ動いている中で解決をはかるのが本筋であって、休校にすれば学生は出てこなくなり、かえって解決がおくれるということを考えまして、その方法はとらないことにいたしました。もっとも、大学によってはそういう一種冷却期間を置くことによりまして役立つこともあると思われますが、これも大学が自主的にできることで法律を要するものではございません。  第三に、法案の第八条でございますが、文部大臣による停校、研究教育停止措置の効果として、紛争処理に特に必要な者などを除いて、一般教職員休職にする、そしてその給与は七割以内にするということをきめております。これはいわば大学管理者ないしは執行部及びそれに協力する者と他の一般教職員とを区別して取り扱おうとするものでございますが、東大の場合には、大多数の教職員大学を愛し、自発的にみずからの責任を感じて、紛争解決のために日夜努力したことの積み重ねによって、ともかく解決の方向を見出すことができるというようになっていたわけでございまして、法案のような休職措置によっては紛争解決の妨げになるばかりではないかと思われます。  第四に、このようにして一たん停校措置のとられました大学は、廃校の道を進むことになりそうであります。いわば大学立法成って大学滅ぶということになりかねません。このような停校、廃校が続出した場合には、紛争大学とともに消滅することはあるいはあるかもしれませんが、消滅した大学でもその学生が一体どうなるのか、この法案では明らかになっておりません。このような結果はわが国大学研究教育を根底から破壊することになるおそれがあるわけでありまして、このように大学学問を取りつぶしたことの責任政府が負い切れるかどうかについて、やはり深い疑念を抱かざるを得ないのであります。  なお、終わりにつけ加えたいことが二、三ございます。  第一に、大学法案反対するばかりで対案を持たないという批判がございます。しかし、法案自体がこれは手続をきめているだけで内容的な対策は別に持っているわけではございませんし、先ほど申しましたように、紛争解決について一つの正しい答えを出すということは、現状ではおそらく不可能だというように思われます。ただ、この点について私としては、一方では内外意見に耳を傾けながら、大学自主的改革を推し進めるということが必要だと思いますし、他方では暴力的な人身への加害あるいは破壊活動に対しては、大学としての防止の手段を尽くしながら、これを許さないという明確な立場対処をしてきておりますし、これからもそうしていくつもりであります。  第二、若干の調査などをもとにしまして、大学学長の本心は必ずしもこの法案反対でない、あるいは賛成の人がかなりいるんだということが一部で伝えられております。これは一つには、国立教育研究所で行なわれましたアンケート調査もとになっているようでございますが、この調査を私よく読んだのですが、百九十七人の学長が回答しておられまして、その中で項目別に個別的な意見もとにして大体二、三十人くらいの学長意見を書いておられる。たとえば学長権限強化などについては、約二百人のうち十六人の方が意見を書いて、その中には賛成もあり反対もあり、賛成のほうが多いのですが、しかし、それだからといって大学学長学長権限強化賛成ということにはならない。その一部の学長が特に書き出した意見が大きく報道されたものでございまして、それが大学学長意見の大勢であるというように受け取るのは大きな誤りでございます。私は、この法案に関心を持つほとんどの学長あるいは教官方々は、この法案反対であるというように信じております。  最後に、この法案わが国の将来の大学学問運命を左右する危険性をはらんだ法案でございまして、私としては強くこれに反対するものであります。この法案が立案の過程から審議に至るまで政治のただ中で論議され、政治動きとともにその取り扱いがゆれ動いているということを見ますと、私は心からわが国大学政策の将来について憂慮せざるを得ないのであります。そして私は、国会において、私の申し上げましたような問題点疑念について、党派的な利害を越えて今後十分に審議が行なわれ、その結果として後世に悔いを残さないように法案が廃案となることを強く望んでやまない次第でございます。  どうもありがとうございました。(拍手)
  8. 大坪保雄

    大坪委員長 次に、長洲公述人にお願いいたします。
  9. 長洲一二

    長洲公述人 私は、次の三点からこの法案反対でございます。  第一に、問題の認識において誤りがあります。第二に、大学の理念について危険だと思います。第三に、紛争対策としても実効がないと考えられます。  まず第一点、この法案は、今日の大学問題の認識と理解の上で根本的に間違った発想に基づくものと私は考えざるを得ません。今日の大学問題、特に学生運動の激化の原因が非常に多面的であり、かつ、現代社会の構造に深く根ざすものであることは、すでに世界的に広く認められているところでございます。  フランスの大学改革を試みたフォール元文相は、大学の危機は社会の危機、政治の危機、そして文明の危機だと語ったと聞いております。またことしの二月に、ローマ法皇パウロ六世も、若者たちが激しい暴力で否定しようとする問題の多くが真に問題であるという事実は否定できないのだと述べております。その数日後に国連は、青年に関する調査報告書を発表しまして、若者たちの要求は、変革のための触媒であり、改善のための刺激剤であると述べ、若者のエネルギーと創造力を社会の進歩と改革のために生かすよう訴えております。学生たちが現在の秩序に対して反抗しておりますが、それはしばしば展望なき反抗と評されております。確かにその点は私もそのとおりと思います。しかし、展望もないのに反抗を続け、それが一向にやまないところに、実は青年たちの焦燥や不安の深さ、問題の大きさを私たちは感じ取らねばなりません。私たち考えるべきことは、彼らが何をやっているかではなくて、むしろ彼らが何を感じているのかであります。答えはわからないにせよ、彼らはとにかく問いを出しております。しかも、それはかなり原理的な重大な問いだと思います。大学を含め、政治社会あり方に、これでいいのかと問うているのであります。答えがはっきりしないからといって問いを否定することはできません。この問いに答えを出すのが、おとなの責任、特に政治の役目だと思います。  学生反乱の根底に高度工業社会に付随する息詰まるような人間疎外感がある、こうすでに内外で広く論じられております。それは一部の、いわゆる一部の学生だけのことではございません。また、私の思うに、問題は単純な心理的疎外感だけでもないと思います。私の身近で知る限り、も一つと直接的に大きな原因は、政治状況への不満、不信であるように思います。たとえば沖繩やベトナム、核兵器やEC121と抱き合わせになった平和や繁栄ということの奇妙さ、異常さ、これに彼らは一様に疑いを持ち、それを偽善と感じているように見受けられます。そこにあるのは、いわば国家政治に対する深いクレジビリティ・ギャップ、信頼の断絶であります。  こうしたところから、ある日突然に学生たちが一斉に、王様は裸ではないかと呼び出した、こう感ぜられます。私は、学生の問いのすべて、行動のすべてが正しいなどとは申しません。しかし、国連報告のいいますように、大体において若者は潔癖な理想家であり、他の世代より変動をおそれない。多少の危険はあっても、生きがいのある新しい秩序を求めていると信じております。だからこそ彼らは問いを発するのであります。この法案には、こうした問いに答えようとする姿勢が見受けられないと思います。反対に、若者たちの問いに当惑し、驚愕し、動揺し、恐怖し、力の威嚇によって問いそのものを退けようとする。改革への触媒としての青年のエネルギーをかえって押え込み、改革の芽をつむような姿勢があると感ぜられます。少し言い過ぎかもしれませんが、いわば安政の大獄的発想に通ずるものがあるように感ぜられます。  第二に、この法案は、大学あり方についての理念と方向性の点できわめて問題であると思います。  もともと大学は、いかなる政府であっても、時の政治権力から自由でなければならない。これは学問研究教育ということの内在的な要求だと思います。こうして大学自治の理念は数百年にわたる世界史の苦闘と教訓に基づいて、憲法二十三条でわが国でも制度化され、さらに教育基本法その他で保障されるに至ったものだと考えます。この点で、この法案は何か憲法と歴史に挑戦するかのように感ぜられてなりません。  この法案条文を見ますと、第一に、著しく中央集権的、第二に、画一的で強権的、そうして第三に、その内容があまりに包括的であると感ぜられます。学内では教授会、評議会などの権限が次第に取り上げられて、学長権限のみが一方的に集中強化され、教職員全体がこれに協力する義務だけが課されております。しかし、何より目立ちますのは、文部大臣への無制限な権限の集中であると思います。学長文部大臣に報告義務を持ち、新しい運営機関設置や、入試、卒業等について文部大臣との事前協議の義務を負うなど、がんじがらめに学長も縛られております。文部大臣は、「必要に応じ、」という形で大学内部のすべての状況措置について報告を求めることが可能になります。(必要な勧告)をする権限を持ち、このことは文部省設置法の第五条が、大学について高校と違って、「勧告」を除いて「指導、助言」に限ったことの重大な修正だと思いますが、大学はこの勧告を尊重し、その実施に努力する義務を課されております。  こうして、学部教授会等の意に反してでも、文部大臣の判断によって学部等の停止の行政処分、さらには廃校措置も可能になってまいります。もちろん、国立学校設置法の改正ということで国会でのチェックが可能のように見えますけれども、しかし、たとえば学部に置く学科、課程などは省令で改廃可能のように思われます。第九条の「その他必要な措置」というのは、それをさしているのではないかと考えられます。  以上は、幾つかの例にすぎませんが、とにかく文部大臣は、大学を一たび紛争大学と認められるや、大学の管理運営もとより、いわば生殺与奪の権を一手に掌握するといえると思います。しかも、その権限は非常に画一的、強権的で、すべての大学にわたりますし、その上に無制限に拡大が可能であるように思われます。何か大学戒厳令的非常大権が文部大臣に集中するかのように感ぜられます。条文規定そのものが無限定、非常に包括的であります。「収拾が困難であると認められるとき」とか「学部等の設置目的を達成することができないと認められるとき」とか、こうして「その他必要な」といったようなきわめてあいまいな表現で幾らでも拡張解釈が可能になるのではないでしょうか。また第二条の紛争の定義にいたしましても、一切の「正常でない行為」というのが入り、また「教育研究」のみならず、「その他の運営が阻害」されればたちまちその程度も示されないままに紛争という定義の中に入れられてしまいます。そのほか「その他必要な措置」等たといった抽象的で包括的なことばが至るところに出ております。  一言で私の感じを申しますならば、第一条の「自主的な収拾」を助けるという目的とはうらはらに、二条以下の実体は非常に権力的な収拾であり、大学自治の強化よりは、政府の力によるその縮小の方向に向かっているように感ぜられます。臨時時限立法であると申しましても、私はこの方向性が問題であるのではないかと考えます。  今日、御承知のように、ようやく私どもも微力でございますけれども、各大学でそれぞれその大学の実情に即した数女の改革案が出始めております。それは現場の自治に基づく試行錯誤の必死の実験でございます。今日問題になっておりますのは、まさに新しい時代にふさわしい大学改革であり、紛争はそのための生みの苦しみでございます。しかるにこの法案は、それらを無視して、何か自治と自主を圧縮することによって、かえって改革の芽をつむ方向に向かっているのではないか、こういうふうに私には感ぜられてなりません。  第三点として、この法案大学紛争への対策としても実際の効果がなく、かえって逆効果しかもたらさないと私は考えます。  この法案を読みまして、私が感じますものは何か。率直に申しまして、学生が不信をぶつけた、その学生への不信を投げ返してこれに対処する。学生がゲバルトを使う、だからもっと大きなゲバルトで対抗する。いわば学問教育には最もなじまない目には目をという論理、力による威嚇の姿勢のように感ぜられます。これでは問題の基本的解決もとより、その外見的収拾すら不可能でございましょう。現に、この法案の公表とともに、新たな紛争が多くの大学で激増し、いままでの紛争は一そう激化しております。それは決して、よくいわれるいわゆる一部学生のことだけではございません。対立するさまざまなセクトも、ノンセクトの学生も、一般学生も、すべて巻き込みつつあります。また、いわゆる一部学生に苦しめられ、それに批判的な教授たちでも、この法案には一斉に反対の声をあげ始めているように私には感ぜられます。  そもそも、この法案のように、いわば力による威嚇には反発と抵抗しか生まれないと思います。権威への問いを権力で押えることはできないと思います。これでは断絶を埋めるよりはそれを広げる働きをするのではないでしょうか。これで威嚇され、問いを発することをやめ、おとなしく黙って引き下がるような青年を次代の日本の国民として望んでいるのでしょうか。月給のカットとか休職でおびえるような教師に、期待される教師像を求めているのではないと思います。それは政治の自殺行為ではないかと私には感ぜられます。なまいきのようですが、匹夫もその志を奪うことはできないといわれます。まして大学人はしかりでございます。  今日同世代の青年の四分の一が大学生でございます。彼らはすでに一個の巨大な階層を形成し、将来の一大知識人層を形成いたします。彼らを信頼せず、彼らの問いに正面から誠実に答えず、それを押え、いわば治安対策的な考え方でそれに対処しようとするところに、私は日本の未来があるとは考えられません。その意味では、いま思うべきは紛争収拾よりはやはり大きな大学改革であろうと思います。その方向に沿った臨時措置であるのかないのか、その点で私は根本的な疑問を感じます。  私ども学生も、率直にいって、社会に大きな責任を感じ、かつ恥を感じながら苦しんでおります。いましばらく私どもの自主的な努力国民の皆さんが励ましてくださるようお願いいたします。そして特にお願いしたいのは、大学の関係者として政治の権威の再建でございます。  以上、この法案は根本的な姿勢や方向性において問題があると私にはどうしても考えられます。どうぞ議員の皆さん方、慎重御審議の上、私としては、この法案が廃案にされることを切に望んでおります。  御清聴ありがとうございました。(拍手)
  10. 大坪保雄

    大坪委員長 次に、高橋公述人にお願いいたします。
  11. 高橋武彦

    高橋公述人 私は、直接大学紛争そのものに関係ないが、しかし、今日の大学状態をたいへん憂慮しておる国民の一人として、この大学立法に関して私の考え方を申し述べたいと思います。  いまの大学紛争は、御承知のように、その発生にはそれぞれ大学固有の紛争原因があったと思います。しかし、それが長引くにつれまして学生のいわゆる共通の告発理由というのが出てまいりました。そして今日に至っております。これは、結局はいまの大学そのものに対する批判であり、新しい大学を求める声だと思います。したがって、今日大学当局においても、また各方面でも、新しい大学はいかにあるべきかということが検討をされておることは十分承知いたしておりますが、これがどういうものになるかということについては、私らもまだはっきりしたものをつかんでおりません。しかし、この大学学生が共通の告発理由として提起しておる問題については、私は、新しい大学制度というものをつくらない限り解決できないものだと思います。その意味で国民の一人として、新しい大学制度をつくることをぜひ急いでもらいたいと強く念願するものであります。  しかし、そうした新しい大学制度ができるまでにはまだかなりの時間がかかるということはやむを得ないと思います。したがって、いま提起されておりますこの大学運営に関する臨時措置法案というものは、新しい大学ができるまでの一つの臨時的な措置として私は考えたいと思うのであります。したがって、今日の大学紛争状況ということについてどう考えているかということから申し述べませんと、この大学立法に対する考え方もおわかりいただけないかと思います。  先ほどからの加藤学長、あるいは長洲さんのお話の中で、非常に力強く、大学は自主的な解決の自信を持っている、こういうふうに言われました。私たちもそれを信じたいのでございます。しかし、自信というのは本人が持っているだけでは私はどうにもならないと思います。やはり、私たち国民が客観的に見て、はたしてその自信が実を結ぶものであるか、具体性を持っているかどうかということが問題であろうかと思います。  今日の学生紛争を見ておりますと、何をどうするかということについて各セクトごとにいろいろな違いはございますが、しかし、いまや教育闘争ではなくて政治闘争であるということをはっきり言っているセクトもございます。また、反大学あるいは大学破壊、解体ということばを唱えているセクトもいるようでございます。そういう学生を相手に、はたして大学が自主的に話し合いというものを通じていまの紛争解決できるだろうかという疑問を持たざるを得ないわけであります。自主的な解決ということを言っている間にも、学生は入学はしたが肝心な勉強のできない者もおります。そのために卒業のおくれるという学生も出ております。現に東大は、ことしの七月になって卒業をいたした学生がかなりおります。そのためにいろいろなはね返りが出ていることは御承知のとおりでございます。たとえば司法修習生の取り扱いにつきまして弁護士会などから反対が出て、最高裁判所などがたいへん混乱をいたしていることも御承知のとおりでございます。大学のこうした紛争が直接社会へのいろいろなはね返りをいたしております。また、本人は勉強したい、また三月には卒業できると思っておったものが卒業できない、そのために本人はもちろんのこと、家族の人たちがどんなに苦しんでいるかということは想像にかたくないことでございます。  そういう意味で、今日の大学紛争をただ大学にまかせてほしいということだけでは国民が安心できなくなっているというのが実情だろうと思います。もちろん、学問の自由は憲法の保障する権利でございます。学問の自由を確保するためには、大学の自治ということが必要でございます。したがって、外部権力による大学自治への侵害は絶対に避けなければなりません。しかし、いまの大学を見ますと、外部権力による大学自治の介入ということよりは、大学そのものの中に大学の自治を崩壊し、学問の自由を阻害する大きないろいろな動きがあるということは否定できないと思います。そういうものを取り除くことは、これは教育そのものも、広い意味の政治の一環であるとするならば、私は、政治責任であろうかと思います。そういう意味で、今回この国会で大学運営に関する臨時措置法という一つ学問の自由、大学の自治を確保するための力添えといいますか、外部からの力添え、政治の力添えの法案が出されたということについては、私は検討に値することだ、こういうふうに思っております。  ただし、私は、この大学運営に関するということばには若干の抵抗を感じております。むしろ、大学の正常化に関する臨時措置法とか、あるいは大学秩序維持に関する臨時措置法というような形であってほしかったと思います。  それから、法案内容につきましても、若干の疑問をもちろん持っております。たとえば第五条でございますが、文相の措置勧告に対して、大学側が、自主的努力を助けるよりも逆に阻害をするとして反対をしたら、一体その場合はどういうふうになるのだろうかという疑問が残ります。あるいは第七条で、紛争期間の区切りは何を根拠にしているか、区切り自体に融通性は必要ではないのだろうかというような疑問も持ちます。同条の二項でもしも廃校になった場合の在籍している学生は一体どうなるのだろうか、こういうような疑問も持つわけでございます。また、八条につきましても、一律に過ぎて不公平を生む懸念がないだろうか。しかもそれは紛争打開への努力と逆の効果を生じはしないだろうか。  こういうふうに、個々の条文の問題につきましては若干の疑念を抱いておりますが、しかし、頭から今日の大学紛争解決について、大学の正常化に関して、一切の立法措置は要らないという考え方にはくみし得ないのであります。そういう意味で、私は一人の国民として皆さま方にお願いを申し上げたいことは、やはりこの際、何らかの形で大学自主性を取り戻す、完全な自治能力を持つまでに、学問の自由と自治能力確保のために、国会が何らかの手助けをしてほしいということでございます。  それから同時に、これはあくまで臨時的な措置である。したがって、大学制度そのものの根本的な抜本的な解決を、ひとつ区切りをつけてつくってほしい。たとえば三年以内にそういうものをつくるということを、この国会において、この法案審議にあたって附帯決議というような形でつけることはできないのだろうか。したがって、この臨時措置法の有効期限を五年ということではなくて三年というようなことで、そうして大学の根本的な改革に国会が与野党を問わず一致して取り組むという姿勢を、この国会でお示し願えないだろうかということをお願い申し上げまして、私の公述を終わります。(拍手)
  12. 大坪保雄

    大坪委員長 この際、鈴木公述人より発言を求められておりますので、これを許します。鈴木公述人
  13. 鈴木弥七

    鈴木公述人 先ほど私が申し述べました中に、政党の諸先生方にお願いしておきます個所において、「私たちの公僕として」という個所を、「私たちの代表として」と御訂正を願いたいと思います。たいへん失礼しました。     —————————————
  14. 大坪保雄

    大坪委員長 これより公述人に対する質疑に入ります。谷川和穗君。
  15. 谷川和穗

    ○谷川委員 たいへんにお忙しい中を公述人の諸先生方には、私どもが本委員会でただいま審議をいたしておりまする国民最大の関心事でございます立法につきまして、私ども審議の上に大きな示唆あるいは有益な御公述をいただきまして、たいへんありがとうございました。  なお、同僚委員が数多くおいでになりますので、二、三点ずつ概略簡単に御質問させていただきまして、さらに私ども審議の上にプラスになるような御判断をいただきたい、こういう気持ちでお伺いをいたしたいと思います。  最初に、横浜国立大学長洲先生にお伺いをいたしたいと存じます。  率直に申し上げまして、私ども大学先生方、関係者が、それこそまことに必死になって、現在のこの紛争解決のために努力をなさっておいでになりますその努力は、まことにたいへんなことであろうというふうに感じておるわけでございます。私どもは現場に直接関係がないわけでございまして、外から見ているわけでございますが、直接教育の現場を担当しておられて、この大きな波のような中におられる先生方、たいへんに日夜御辛苦のことだと存じておるわけでございます。ただ、私どもは、先ほど先生御指摘になられました大学の自治と関連いたしまして、一点感じますことは、これは高橋先生のお口からもちょっと出たように感ずるわけでございますが、むしろ、大学の自治は外から侵されておるというより、中から侵されているのではなかろうかという感じさえいたしておるのでございます。  具体的にお伺いをいたしますと、最近、横浜国立大学で何かずいぶん数多く原因不明の火事が起こっておるというようなことを報道で拝見をいたしておるわけでございます。やはり自治というものは、少なくともその中の建物管理も含めて、秩序というものが保たれていなければ、自治という一番崇高な目的というものはなかなか達せないと思うのですが、その点につきまして、こういった原因不審の失火が、大学という最も国民教育を中心にして関心を持っている場所で数多く出ておるというこの現実、そしてその不審火が一体どういう原因で、そしてそれがどういうことでそういうものが起こってきているのか、さらにはそれが起こった場合には、警察その他が行って原因を調べておるということが今日行なわれておるのかどうか、この辺を一点お伺いいたしておきたいと存じております。
  16. 長洲一二

    長洲公述人 ただいま御質疑を受けましたように、私ども大学でたびたび火災を起こしておりますことは、私、社会に対してまことに申しわけないと感じております。  このことにつきましては、原因究明に私どもなりに努力しているつもりでございます。警察の検証につきましても、大学としては検証を受け入れる方針で学生に説得をしておりますが、学生のなかなか理解を得られない点は残念に思いますが、検証は毎回やっております。  いろいろ今日の状況の中で思うにまかせないことは事実でございますけれども大学の自治の内部がいろいろ問題のあることは御指摘のとおりでございますが、それだけに私どもとしては、何とか内部解決をしていきたい、こんなような方針でがんばっているつもりでございます。  十分なお答えになりませんが、一言おわびを兼ねながら御質問にお答えいたしました。
  17. 谷川和穗

    ○谷川委員 建物が国立大学の建物でございますし、特に教育機関でございますので、ひとつその点国民の心配があるということを御認識していただきまして、なお一そう御努力をお願い申し上げたいと存じます。  続きまして、加藤先生にお伺いいたしたいと存じます。  きわめて素朴な質問で恐縮なんでございますが、教育というものは、やはり一種の年輪があるのじゃないか。入学があって卒業がある。つまり、やはり一年というのが一つのサークルといいますか、けじめじゃないかという感じがいたしております。したがって、自主的解決を待つということで学生に対して、しんぼう強く学生との間の信頼を取り戻し、あるいは学生の反省と自覚を求めるという態度、これもやはり、早く学生教育してりっぱな社会人として社会へ送り出すということ、あるいは大学へ入って勉強したいという学生を受け入れるという仕事、こういった大学の持つ社会的な立場からすると、やはり当然おのずから時間には制限があるというふうに考えるべきかどうか、その点についてどうお考えになっておるか、ひとつ教えていただきたいと思います。
  18. 加藤一郎

    加藤公述人 ただいま御質問いただきましたが、これは大学としてはやはり研究教育機能を完全に回復する。そのために問題の正面からの解決をはかるということが一番大切であると考えます。もちろん時間的にそれをあまり長く延ばすということは問題がございますが、私どもの例を申しますと、ことしの三月に出るべき卒業生が、三月、四月、五月と順に、学部によって違いがございますが、出まして、六月までにほとんどが卒業したというような状況でございます。それによって社会に御迷惑をかけている点があることは申しわけないと思っておりますが、しかし、問題の根本は、やはり表面的な収拾ではなくて問題の真の解決である。そのためにはある程度の時間をかけても、それからまた、これは大学によっていろいろ実情が違いますので、それぞれの大学の実情に応じて最も適切な方法考えていくということが大切であろうというように存じております。
  19. 谷川和穗

    ○谷川委員 なるたけ多くの委員の方にも御質問いただきたいと思いますが、私はあと二点だけお伺いいたしたいと存じます。  まず最初の一点は、来年の入学試験に関係してでございます。特に東大の入試は、その他の国立一期校をはじめ多くの学校に非常に大きな影響がございます。そこで、来年の入試が可能か不可能かということが非常な関心事でございますが、その見通しと、さらに一つ入試と警官出動に関連しての問題でございます。けさの新聞でも、東大は文学部授業再開に警官の出動を要請をいたしたというような形の報道がございますが、いままで私どもが理解いたしておる限りにおいては、東大では警官出動にあたっては三つの原則があったようにお伺いしておりまするが、この原則を越えて入試のような問題でも、文学部授業再開のための警官出動あるいは解剖学科の授業再開のための警官出勤のようなことがあり得るのかどうか、その点については学長としてどうお考えになっておられるか。このお答えをいただきたいことが一点。  それからもう一点、続けてお伺いしてしまいます。学生自治会についてどうお考えになっておられるかという問題でございます。むしろ、現在の自治会のあり方大学紛争に大きな影響を与えておるのじゃないか。これは私が申し上げているわけではございませんで、東大学部の確認書に関する問題点の文書の中にもあったように記憶をいたしております。特に学生自治会を無制限に認めた場合には、ちょうど羽田デモ事件のときに東大の教養学部がいわば一種の拠点になってしまったということも、これもまた法学部の確認書に関する問題点で指摘をされているところでございます。私のお聞きしたいことは、大河内総長が辞任のときにも学生の道義的責任を問うておられまするし、さらには加藤先生が代行になられた直後に提案をなさったときにも、学生の反省、学生の行動としてはおのずから分限がある、規律がなければいかぬという意味の反省を求めておる文書があったように記憶いたしておりまするが、しかし、その後、特にことしの一月以降は、学生教授の集団を、言うならば対等の権利義務の関係で割り切ろうとしておられるような努力が見られるように感ずるのですが、この学生自治会についてどうお考えになっており、それを将来どう持っていくことが一番いいというようにお考えになっておられるか、この二点をお伺いいたしまして、あとは同僚議員におまかせをいたしたいと思います。
  20. 加藤一郎

    加藤公述人 まず第一に、入学試験の問題でございますが、これはまだ来年どうするかということは近いうちにきめるつもりでございますが、現在の実情を申しますと、教養学部にいま、ことしの四月に本郷に進学すべき学生がまだ残っているわけでございます。これはストなどのためにおくれているわけでございますが、いまの予定では、ことしの十一月一ぱいに前期の二年の課程を終わりまして、十二月に本郷に進学する予定でございます。そういたしますと、駒場は一年しか残らないことになりますので、その物理的状態からすれば入学試験は可能であり、当然やらなければならないということになるわけですが、ただ一年間休みをいたしましたので、どうするかということを今後検討して決定をしていきたいというふうに思っております。  なお、それに関連して警察力の行使についての御質問がございましたが、私は三つの場合、つまり人体への、生命、身体への重大な危険、あるいは人権の重大な侵害、それから緊急の必要という三つがおもな場合であるということを申しておりますが、別にその三つに限るという趣旨ではございません。しかしこれは、警察をどういう場合に要請するかということは非常に慎重に考えなければならない問題でございまして、大学としては、いままで安田の事件以後本郷で七回、駒場で二回出動を要請しておりますが、そのたびごとに非常に苦慮をしながら要請をしておるという実情でございます。御質問は、入学試験のために警察を入れるつもりがあるかどうかということでございますが、これは私は、事情によるとは思いますけれども、場合によっては緊急の必要があるということで、あるいは衝突が起これば生命、身体の危険があるということで、警察力の出動を要請することもあり得るというように思います。  それからいまの御質問の第二の点といたしまして、学生自治会への考え方がございましたが、これは学生自治会はそもそも強制加入にするか任意加入にするかという問題もございますけれども、現在は一応強制加入というたてまえでできている。そういたしますと、それについての行動上の制約というものも考えなければなりませんし、その定足数というものがどの程度のものを、つまり大学立場として公式に会員を拘束するものとして認めていくかという問題がございまして、現在私どもも検討中でございます。ただ、学生教官とが対等の権利義務であるというように言われましたが、これは私は、学生教官とはそれぞれ固有の権利を持っているというように思いますが、ただこれは大学社会の中における構成員としての固有の権利ということでございまして、それぞれの立場が異なることは当然である。その立場の違いから、いろいろな大学運営に関する発言のしかたなどについてもおのずから違いはあるということは当然であるというように考えております。  十分なお答えになりましたかどうかわかりませんが、一応お答えといたします。
  21. 大坪保雄

    大坪委員長 稻葉修君。
  22. 稻葉修

    ○稻葉委員 加藤大学長に二、三お尋ねを申し上げます。  なお、長洲教授の公述の中で、将来の大学改革に関する具体的な構想が打ち出されなければならないのに、この法案はきわめてどうかつ的というか、そういうような内容を持っておる、気に食わないというお話がありまして、私どもも、この立法でどれだけの効果があるか、私自身がまことに杞憂にたえない点もあるのでありまして、そういう意味から、むしろ法案とは離れますけれども大学の本来の使命にかんがみ、大学本来の任務は、基本的な理念、理論の研究、その教授ということにあるのだろうと思いますので、そのことは決して現実的な政治問題から背を向けていろ、要らぬことを言うなということを言うのではありません。その現実的な政治問題等の取り組み方は、あくまでも学問的で、政治団体的であってはならない、こういうふうに思うのであります。したがって、大学人は、政治の実践への参加は慎まれたい、構成員は教授をも含めて。ことに最近の学生自治会においては、どうも大学の改革ということを言ってはおりますけれども、あまりにも政治的な実践への参加が主眼になって、学生自治会が政治団体的な性格に転落しつつあるということは、大学本来の使命にかんがみて、厳に戒められなければならないことであると思うのでありますが、そういう点を知ってか知らずしてか、学問の自由、大学の自治ということを私どもは大いに尊重し、大学人の自治におまかせしておったところが、だんだんだんだんそういう傾向が強くなってくるようでございますが、そういう点につきましては、学問的にこれを説得して、本来の使命に立て直すという自信がおありですか。
  23. 大坪保雄

    大坪委員長 長洲公述人に対する御質問ですね。
  24. 稻葉修

    ○稻葉委員 いえ、加藤学長にお尋ねしたいと思います。
  25. 加藤一郎

    加藤公述人 いま、大学における政治活動についての御質問と思いますが、教官についてと学生についてと両方あったように存じます。  政治教育ということは、これは教育基本法でも認めないということになっておりまして、私どもも、もちろん大学において政治の宣伝をすべきものではない。しかし、学問を通じていろいろな政治なりあるいはイデオロギーなりを論じることは、これはもちろん自由であるというように考えております。これは教官についてでございます。  学生の場合について、どこまで政治的活動を認めるかということは、これはむずかしい問題でございまして、基本的に二つ対立する考え方があると思います。一つは、学生もすでに成年者が大部分でございますから、その政治活動は、一般市民と同じように学園内においても許されるべきである。これは、たとえば諸外国の例を見ましても、大学の中に政党支部などが置かれているというような状況で、むしろ、そういういろいろな政治的主張を学生がすることによって、大学政治的中立性というものが保たれる、そういう考え方が一方にございます。それから他方では、大学においてはそういう政治活動は一切すべきでない。そういう両極の考え方がございまして、この問題も、私ども検討中ではございますが、いままでよりは、任意加入団体の政治活動はもっと認めてもいいのではないか。ただ、学生自治会が政治活動をして、これが全員に拘束力を持つということは適当ではないというように、私としては考えております。  いまの御質問の最後に、そういうふうに大学が本来の形になっていく自信があるかと言われますが、これは、大学が昔のような形での平静な状態に戻ることは、なかなか期待できないと私自身も思っているわけです。現在いろいろなところで激動といいますか、動いている時代でございまして、その動いている中で、動きながらいろいろな考え方が戦わされながら、大学大学としてその使命を果たしていくという方向になっていくのではないか。はなはだ抽象的なことでございますが、つまり静止的な意味での大学ではなくて、やはり動的に動いていく中での大学あり方というものを考えていきたいと思っているわけでございます。そういう意味では、大学として将来も十分に活動していく、機能を続けていくという自信は持っております。
  26. 大坪保雄

    大坪委員長 稻葉君にちょっと申し上げますが、各党の申し合わせがございまして、自民党の申し合わせの時間は、もうそうございませんから、この一問に限るようにひとつ……。
  27. 稻葉修

    ○稻葉委員 自信がおありのようですが、これは自信があると言われても、客観的に世人を信用せしめるだけの実績がなければいかぬと思っているわけであります。あなたにおまかせしておきましたら、だんだんだんだん変になって、そうして……(笑声)いや、これは笑いごとではありませんで、初め一切政治が介入しないで入学試験をやれるのかと思っておりましたが、ついに機動隊の導入を要請されなければならなかった。それならもう少し早く要請されたら、もっと早く今日の状態を、半年くらいは早められたのではないかと思っておりますが、そういう実績があるものですから、将来も私ども非常に心配なんです。  もう一つ、その他の大学についても同様ですが、東大について心配なのは、やはり真理というものは相対性、研究多様性があるもの、したがって、具体的に異なる思想、学説、理論、それはあくまでも共存されて尊重さるべきものであるが、現在の大学の様子を見ておりますと、民主的な学問の自由は、特定の不可謬論的な心情と相いれないはずであるにもかかわらず、そういう不可謬論的な心情的学説が政治的に動いて、対立する学説をナンセンスときめつけたり、あるいはそういう学説を持つ学者が大学から放逐されていくような心配がある。具体的にも二、三例がございますね。それではわが国学問の進歩がとまるのではないかと危惧される点があるわけです。わが国においては、学問の自由、大学の自治と並列されておりますけれども、イギリスと違って、大陸的な伝統を受けたわが国大学自治は、学問の自由が先で、学問の自由の担保的な手段としての大学の自治だと思うのであります。したがって、大学においては、学問の自由ということは、学問をする自由、信教の自由——信仰を持たない自由もありますけれども学問の自由というのは学問をしない自由というものはない。一年間も学問研究をせず、教育をしないで、そうしてその手段である大学の自治が価値が転倒して、あたかも目的になって、先頭に立って自治、自治、こういうことを言われているように思うのでありまして、学問の自由に大切なことは、思索の自由、静かなる環境、したがって喧騒こそは学問の自由に対する最大の敵ですね。暴力こそは学問の自由に対する最大の敵です。大学人は、学園内にその学問の自由の最大の敵が片りんでもあらわれたならば直ちにこれを排除する。排除する力を持つ必要はありませんのですから、力は一一〇番にあるわけでありますから、直ちに環境整備の二義的な仕事をする政治権力にこれをゆだねて、あるいはそれを要請して、いい環境で学問をする。そういう使命感、おれは真理の追求者であるという使命感が大学人に失われているように思うのは、はなはだ残念ですが、今後はだいじょうぶでしょうかね、心配でしょうがない。
  28. 加藤一郎

    加藤公述人 第一には、警察力をもっと早く使っていたらよかったのではないかという御質問だったと思いますが、私が引き受けました昨年の十一月では、すでに全学ストライキでございまして、その時点で警察力を入れること、使うこと、お願いすることは、全学的な紛糾をさらに拡大することになり、大学としては存亡の事態に立ち至るであろうというように私は判断をいたしました。学生の要求にやはり正面からこたえることによって問題を平和的に解決したい、そうでなければ安田講堂の事件のようなものが起こるであろうということは当然予想されるところでございましたので、私としてはそういう事態をできるだけ避けるために、正面から問題を解決しようと思って、学生諸君と全面的に話し合いをしたわけでございます。最後の段階で、不幸にしていわゆる共闘系の諸君とは話がつきませんで、ボイコットをしたままで、全学集会にかわる七学部集会というのを開かざるを得なかった。これは私としては力の及ばなかったところでございまして、はなはだ残念でございますが、そういう状態でございます。それで、大多数の学生諸君が私どもと方針が一致するということで、まあ支持が得られたということ。それから他方では、一月十四日の夜から破壊活動が始まりまして、また人命の危険が著しく増大したというように判断されましたので、その時点で一月十六日に警察力の出動を要請いたしました。結果から見ますと、いろいろ御批判もあるかと思いますが、私としては、当時として最善を尽くしたつもりでございます。  それから、学問の自由あるいは大学自治の問題でございますが、私は、大学自治というのを決して観念的に主張しているわけでもございませんし、もちろん治外法権というようなことは全く考えておりません。しかし、大学の自治というものが機能的に考えて、ファンクショナルに考えまして、非常に重要な役割りを果たすものであるということは、古今東西の歴史の示すところでございます。そういう歴史の結晶としての大学の自治というものは、われわれはやはり尊重していかなければならない。それから他方において、学問の自由についてはわれわれとしてもできるだけそれを守るべく努力をしているわけでございまして、先ほど教官大学を去るという点の御懸念がございましたが、私は今回の法案がかりに通る、あるいは適用されるような事態になれば、良心的な教官大学を去ることは、相当多くの教官が去るのではないかという点で、非常に危惧を持っているわけでございます。
  29. 大坪保雄

    大坪委員長 稻葉君、もうこれ一問にしてください。
  30. 稻葉修

    ○稻葉委員 大学人の自主的解決にゆだね、それを尊重してやってきた結果が、いつまでも解決しないものですから、何らかの政治的なお手伝いは、やはり学問人の研究の自由な環境を整備する責任を持っておりますから、必要であろうと思うのです。内容がいい悪いということはしばらくおくとしても、何らかの立法がこの際必要であるということについては、どうなんでしょうか。全然そういう点の公述はなくて、ただ単に、いまの大学立法はけしからぬ、けしからぬというようなお話のようでしたが、自分だけの力で十分やれるというふうに主観的に思われても国民は信用しておりませんものですから、国民の代表たるわれわれは、国民の圧倒的多数の、学問をしたい、研究をしたい、教授を受けたい、勉強をしたいという学生研究の自由、教育を受ける基本的な権利の回復ということのために、こうやってはどうか、ああやってはどうかと、真理探求者のいい環境をお手伝いをしてつくる責任のある立場でわれわれなりに考えておるわけですが、そういうことは一切、おせっかいなことはやめろ、こういうようなお考えでしょうか。
  31. 加藤一郎

    加藤公述人 現在の大学紛争を何らかの形で解決をしていきたいという熱意においては、これはだれしも同じことであろうというように私は思います。そのためにわれわれとしては全力をあげているつもりでございますが、ただ問題は、いかにしてそれを解決するか、どういう方法解決するかということでございまして、先ほど稻葉委員も、いまの法案が効果的かどうかは疑問もあるがというお話もございましたように、私としては、やはり現在の形の法案についてはマイナスのほうがはるかに大きいということで反対しているわけでございます。どんな形の法案にも反対かといわれますと、これはその内容を見なければ何とも言えないわけでございますが、私は、先ほど申しましたように、現在の紛争は非常に多様化し、また根が深い、かつ流動的であるというようなところで、また、大学としては自主的な大学改革のためにいま非常に努力をしている、そのやり方は各大学によっていろいろでございますが、私はまたおのずからにして落ちつくところへ落ちついていくのではないか、現在見ると、非常にばらばらにいろいろな案が出ているように見受けられますけれども、やはりおのずから行く先というものは歴史の流れに沿って定まっていくものだというように思っておりますので、私はいましばらく大学努力にまつようにお願いをしたいというように存じております。
  32. 稻葉修

    ○稻葉委員 時間がありませんそうですから、たくさん聞きたいことがあるのですけれども……。
  33. 大坪保雄

    大坪委員長 山中吾郎君。
  34. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 諸先生から非常に貴重な御意見をいただきましたが、割り当てられた時間が短いので、お聞きをいたしました先生の順序で、私のなお確かめたいことだけをお聞きいたしたいと思います。   〔委員長退席、谷川委員長代理着席〕  まず、鈴木弥七先生にお聞きいたしますが、お話の中で、大学問題に非常に御心配をなさっておられることについて同感でございますが、そのお話の中で、未熟な青少年の問題があるというようにお話しになっておるのですが、それは小学校中学校高等学校の生徒と大学の問題とあまり区別をされないでお考えになっておるのではないか。大学の場合については、すでに十八歳から二十五、六歳の、もうすでに社会的に責任と自由を自覚した若きおとなであるので、明治初年においても二十五、六歳が日本の明治維新を背負って立った。そういう対象であるということを確認をしたあとで、この大学問題を解決するには未熟なる青少年ということから立法をお考えになると非常に間違いを起こしてくるのである。それでわれわれが非常に悩みながらこの問題を論議をいたしておるのであります。  そういう意味においては、やはり学生諸君の自覚——権力で押える解決でなくて、教授学生が自主的に解決するという行き方でないと、大学という教育社会解決しない。そういうことからいって、私たち立法に疑問を持っておるわけであります。教育社会というのは全員が参加することで一様に人間形成ができるので、新制中学においても、級長というのは教育課程としては直接選挙で選ばせている。その中で、未熟な少年でも人間形成ができる。おとなになった学生諸君というものを権利の外に出して、権力あるいはおとなだけで解決しようとすることがますます混乱せしめていく、それを私は非常に心配をいたしておるのであります。お話しになった中で一番頭から消えなかったのは、未成年の青少年問題としてお話しになっていることで、その点については、やはりもう少し大学という問題についての特殊性を考えてこの問題を論議をしないと大きなあやまちをおかすと思いますので、お聞きしておきたいと思うのです。   〔谷川委員長代理退席、委員長着席〕
  35. 鈴木弥七

    鈴木公述人 私は、先ほど述べました意見の中に青少年の未熟性を申し上げましたが、私の肩書きの示すとおり、私は高等学校PTAの仕事をしておりますので、いわゆる高等学校の生徒にいろいろな悪影響があることを非常に心配しまして、それでこの教育が正常化することを望んで私が申し上げたわけでございます。決して大学学生の未熟性を申し上げたわけでございません。御了承願います。
  36. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 わかりました。  次に、加藤先生にお伺いいたしたいと思いますが、すでに大学におきましては非常に御苦心をなされまして、創意をこらし、東京大学の歴史と伝統というものの中から新しい解決の方途を見出しておられるように新聞紙上その他で拝見いたしまして、敬意を表し、その紛争の中からお考えになっている解決案を最大限に尊重して解決することがわれわれ政治家の任務だと実は考えておるわけであります。それにつきまして、御体験の中で、東大といわず、現在紛争を起こしておる日本の大学について、法律の力によらないで一定の時間、ある程度長い短いはあると思いますが、その中で大学人が苦心をして前向きの解決ができるかどうか、その点について、東大の経験を通じて、最大の紛争大学でありますから、加藤先生の御意見を聞いておきたいと思います。この法案によらなければ大学紛争解決しないのか、あるいはこの法案はかえって紛争を起こし、解決したとたんに大学の自治がもうすでにつぶれておる、解決したときに大学が死んでおってはたいへんである。権力で解決した場合は大学は死ぬと私は思っておるので、東大における解決状況を通じて、もう一度加藤先生からその辺の自主解決についての確信を聞いておきたいと思います。  次に、この自主解決について、権力を上に集中することによって解決しようとする発想がこの法案にあるのであります。私は、教育社会という特殊性からいいまして、紛争というものは、大学の場合、教育社会の場合については権力を下に下げることによって解決できる、そういう特殊性を持っておるというふうに考える。その意味において、この法案は権力を上に吸い上げていく方向で解決しようとする、その発想に非常な誤りがあるのではないかと思いますので、体験を通じて御意見を承りたいと思います。  それから次に、時間がありませんので続いて加藤先生にお聞きします。入試を中止をされた経験がおありであると思いますが、私は研究教育を継続しながら改革できるものであると思っておるのでありまして、その意味において、入試を中止したことによって解決が早まったのか、入試を続けることがやはり正しかったのではないかどうかということについて御意見をお聞きしておきたいと思います。その場合、入試を中止されたときには、加藤代行御自身の意思によったのか、あるいは外からの強制によって行なわれたかということについても、お答え願えればお答え願っておきたいと思います。何となれば、この法案は入試を中止をする、教育研究停止をするということで解決しようという発想なんです。それでなくて教育というものを継続する中でこそむしろ解決ができるのではないかと私は考えるのでありまして、そういう経験をお持ちでございますので、加藤先生からお聞きしておきたいと思うのであります。
  37. 加藤一郎

    加藤公述人 まず第一点の大学の改革問題でございます。現在東京大学としましては、大学改革準備調査会というのを確認書のできる前から準備のために設けまして、いろいろな案を発表しておりますが、これは実は検討のためのたたき台と申しますか、まだ試みの段階でございまして、今後正式の大学改革委員会というものを設けて公式の見解にしていくつもりでございます。私どもは、そういう努力をいろいろしまして、それによって紛争の真の解決へ進みたいと思っているわけでございます。  いまの御質問は、他大学のほうはどうかというように承ったわけでございます。私は東大の体験からいたしまして、東大としてできたことは他大学でもできるはずであり、また、やっていただきたいというように思うわけでございますが、これは他大学のことでございますから、自信を持ってお答えするということは必ずしもできないかもしれません。ただ、大学としては、大学内部の力によって解決しなければやはり真の解決は得られないということは、これは共通にいえることでございまして、もし内部からの盛り上がりによって解決が困難であるというような大学であれば、この法案がかりに適用されたとしても解決は困難である、あるいはかえって困難になるかもしれないというように私としては思うのでありまして、この法案によって解決が促進されるということは期待できないというように思うわけでございます。大多数の大学においては、これは大学という社会の性質上こういう非常事態に適応するような体質でないことは、これは私どもも自分みずから反省をしているわけでございますが、そのために意思決定などに時間がかかるということは事実ですけれども、やはりある程度の時間の中で、大学としてどうしてもこれでやらなければいけないというように、最後には意見の一致が得られて解決の方向へ進むものだというように私としては信じているわけでございます。  第二点でございますが、権力集中の問題でございます。これも東大の例などがよく引かれるのですが、先ほども申しましたように、東大としては決して——形としては権限集中というような形をとりました一これは内容的には緊急の場合、それから意見内部で分かれた場合に、今回の紛争に限って学長責任をまかせるという形で評議会で信任投票を得てやったわけでございます。しかし、これは事柄は非常に限定されておりますし、もともと形としては一応非常の場合に備えてそういう形をとっておくけれども、やり方はいままでどおり評議会、教授会の議を十分経てやっていくということ、つまり、内容はあくまでいままでのルールを尊重しながらやるということでございまして、実際にはそれで進んできたわけでございます。現在四月に正規の学長になりましてからは、もうその権限集中というのはなくして運営をしております。それで私は、やはり大学というのはほかの社会と違って、上から下への管理体制というものではなくて、各人が同等の責任を持つような形での管理というものが必要であろう。もちろん権限が不明確な点は、ある程度権限をそれぞれ明確にしていくというような必要はあるかと思いますけれども、しかし、やはり基本は教授会自治というものがなければならない。私も、教授会自治がすなわち大学自治であるという教授会自治万能ということは適当でない、やはり大学構成員全員の協力がなければ大学というものはやっていけないというように思うわけでございますが、しかし、教授会自治が大学の自治の基本的な地位にあるということは、これは否定できないし、また、否定してはいけないというように思っているわけでございまして、やはり基本は教授会、評議会という積み上げ方式というのが大学としての本来のあり方であろうというように思うわけでございます。  それから第三点の入学試験の問題でございますが、私どもは、研究教育をあの非常事態の中でも継続することによって、むしろ真の大学の問題の解決をはかっていきたいというように考えましたし、また、教職員あるいは学生気持ち考えましても、入試を中止することは相当あるいは非常にマイナスであるというように思いまして、むしろ積極的に入学試験をやりたいという気持ちでございました。それで文部省との協議ということになったわけでございますが、私は、坂田文部大臣大学自主性を尊重し、かつ、柔軟な態度で問題に処していこうとされる態度にはかねがね敬服をしていたわけでございますが、この問題については不幸にして意見が分かれまして、文部省といいますか、あるいは政府と申しますかの立場としては、現状では入試をすることは不適当である、認められないということになりまして、両者の意見が一致しないために入試は事実上実施が不可能になったというのが事実でございます。私としては、現在でもやはりあの時点で入試をやっておくことが大学としては正当な行き方であったというように思っております。
  38. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 ありがとうございました。  長洲先生にお聞きいたします。  大学の理念を中心として御意見をお聞きいたしたのでありますが、確かに私は、現代の大学紛争問題は学問あり方を問うておるのであると思います。そういう意味において一片の法律では解決はできない深い根のあるものであるということについては御同感でございます。それについてお聞きいたしたいと思います。  政治運動について是非論も稻葉委員から御意見があったようでございますが、この点については、社会の矛盾に比例をして、大学が静かな学問研究あるいは騒がしい政治に対する学問の成果から政治への表現が出てくると私は思うのであります。最近、そういう意味で見ますと、家庭的に非常に豊かな家庭の子弟も、もちろんその学生運動の渦中においては第一線に立っておる子弟が非常に多い。現在の閣僚の子供さんもそうであります。こういうことを考えて、大学というものに、だからといって法的規制で押えるという考え方は、大学の理念及び大学あり方の問題として私は非常に疑問がある。大学制度というのは、人類が考えた人類民族の進歩の最大の窓としてこれくらい知恵をしぼった制度はないと思っておるのでありまして、この点について、政治への表現の自由という立場から、大学における政治活動について権力的に抑制していくということは、憲法上の問題からいっても、大学の本質からいっても、私は非常に疑問がある。この点について御意見をもう一度お聞きいたしたいと思うのであります。  それから学生の参加のことについてお聞きしたいと思うのですが、私は、いままで学生学生の本分という姿でいわゆる無権力、全然権力を与えられない立場、無権力だからそこに暴力化というものが出てくるので、権力を持った者から、いわゆる発言の自由を持った者は暴力は必要でない。したがって、むしろ、この大学紛争解決には、学生の位置というものを、いわゆる大学社会の構成員として正当に認めるというその中でこそ問題は平和的に解決すると思いますが、その意味における学生の地位について御意見を承りたいと思うのであります。
  39. 長洲一二

    長洲公述人 お答えいたします。  十分なお答えはできないかと思いますが、まず第一点の学生のあるいは大学の中での政治活動でございますが、私は、教育基本法等でいわれております政治活動の禁止というのは、大学それ自体として学校全体が一定の政治立場に立って政治活動をやることは禁止されておりますし、また、間違いであるというふうに考えます。ただ、そのメンバーであります教授あるいは学生は、それぞれ学問をやっておりますと、当然政治の問題にぶつからざるを得ません。その限りで、政治的な関心が高まりあるいは政治的な意見を表現する、こういうことは当然行なわれてよろしいことだと考えております。問題は、それを機関として大学全体として一定の政治的主張をする、政治的行動をするというところに問題があるのでありまして、その個々のメンバーはそれぞれ一個の市民として、ことに学問の徒としては、政治関心が高まり、政治的な表現をするということは私は当然のことだろうと考えております。したがいまして、そういう点で、さまざまな政治意見政治的発言が大学の中であることは、何ら不自然でないのみならず、むしろ喜ぶべきことだろうと考えます。その点で、何か画一的な措置によってそうした政治的表現の活動を排除しようとするような力による動きがありますならば、かえって学問の自由は死ぬだろうというふうに考えております。現在、私は学生諸君をただ弁護するつもりではございませんけれども、先ほど公述の際に申し上げましたように、若い諸君の間には、決して一部の学生ではなくて、かなり政治的な問題について高い関心と場合によっては深刻な疑問を持っている者がたいへん多いのでございます。こうしたいわゆるクレジビリティ・ギャップの問題が実は根底にあるのでありまして、それをそのままにしておいて、政治活動はけしからぬという議論は、私は本末転倒であろうというふうに考えます。これが第一点でございます。  第二点の御質問は、学生の参加の問題でございますが、これはすでに私どもなりにも反省をしております。教授会が何か万能であるかのごとき幻想を私ども自身も多少持っておりました。そういう反省を最近の大学紛争の中から私どもも苦しみながら学び取ったつもりでございます。事実学生が何かの形で参加したほうがいいということは、いわば今日では世界の大勢になっております。この学生紛争は、さまざまな問題を投げかけ、さまざまな困ったことも生じましたけれども、しかし、この二、三年以前には思っても見なかったようなことが、すでに世界的に常識になりかかっております。今日では、学生の参加是か非かという議論ではなくて、いかなる参加が正しいかというところまでこの一、二年の間に急激に進んだということは、私どもは歴史の教訓として学ばなければいけないと思います。  そういう点で私は、先ほど加藤学長のおっしゃいましたように、学生教授、それから職員、それぞれ固有の立場機能を持っております。その立場機能の相違を認めた上で、なおかつそれぞれ固有の権利はある。そういう形での新しい共同体のあり方考えていくことが、大学問題を根本的に解決する道でございまして、そうした問題に手を触れない形で、ただ紛争だけをおきめようとするような形では、かえって問題は紛糾する一方であろう、こんなふうに感じているわけでございます。  不十分でございますが、お答えいたしました。
  40. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 高橋先生にお聞きしたいと思います。  高橋先生も、この法案の中身について疑問をお出しになられたようでありまして、特に、この表題の大学運営に関する臨時措置法そのものに疑義があるという御意見も承ったので、その点について、法案のことについてお聞きいたしたいと思います。  私自身は、大学管理という発想法律をつくることは、これはどうも大学の自治、憲法の立場からいっても間違いではないか。もし立法するなら、大学自治法という構想の中で、国と社会大学の関係を制度的に定着すべきだというのが私の考えでありますので、その点において、この現実の法案は、どうも大学に対して角をためて牛を殺す法案になる、日本の社会国家のために非常に憂えておるわけであります。  そこでお聞きいたしたいと思いますが、この法案は、権力を上に集中するということから発想しておるということが一つと、学生を敵とみなしておるような発想がある。そこにこの法構成全体に非常に疑問がございます。国立関係の先生方ばかりお聞きいたしましたので、その一例として、民間で新聞界に長くおられた高橋先生でありますので、お聞きしたいと思いますが、この法案の中で、国立大学における学長に権力を集中し、専決事項をたくさん持つ事項を、私学において設置者に読み変えておるわけであります。したがいまして、たとえば日大のように、設置者に汚職その他の問題があって、それに対して学生が憤激をしておる。こういう運動の場合に、その汚職を背負っておる設置者に権力が集中されてくる。そうして休止をすることとし、また文部大臣協議して停止することができるというふうな行き方は、これは一体どういう発想なのかということが非常に疑問になってくる。むしろ、その設置者そのものからこの大学紛争解決すべきであるのに、汚職の疑いを持つ設置者に権力を集中する発想になってしまっている。こういうことがこの法案の体質の中にあるので、私はまことに遺憾だと思っておるのであります。  それから、五年の期限というものも、五年もこういう状態に置けば、これは大学の自治の精神はなくなってしまう。三年というお話がありましたが、一年、二年ということの発想ならばある程度のことはわかりそうでありますが、五年の期限というふうなところにまた問題があるのであります。  また、高橋先生言われたように、政治責任、何らかの責任をとるべきだということについては−戦後、府県の師範学校−中等学校一種と見なされた師範学校まで大学に昇格したのであります。そうして二十数年、大学予算というものがそのままになって、教授養成計画もない、研究設備の計画もないままにきて、その矛盾が極限に達して大学紛争になっておるので、この場合、教授養成計画、研究計画を十分の予算で補うということが政治の最大の責任だ。法律の力で解決するということは間違いであると思うのであります。そういうことを含んで、この法案全体について、高橋先生の御意見をお聞きしておきたいと思います。
  41. 高橋武彦

    高橋公述人 第一の、この法案の名称の点でございますが、山中先生は大学自治法というようなことをお考えのようでございますけれども、私は、あくまで臨時措置法ということで、自治法というようなことで固定する性質のものとは違う角度からこの法案を見ておる。したがって、私、先ほど秩序維持とかいうような名前を申し上げたのですが、むしろ正常化に関する、あくまで臨時的な措置として何らかの立法考えていただいたらどうか、こういうふうに考えております。  それから、私立大学の場合、学長設置者にかわる、そして汚職云々ということが言われましたが、これは法律以前の、大学そのものに関する問題であって、そういう設置者といいますか、理事者そのものが、大学という教育の府で教育をあずかっていること自体が、私はまず先に問題になるのではなかろうかというふうに考えております。  それから、期限を申し上げましたのは、実は私らは、こういう紛争が一刻も早く解決をしてほしい、そのためには、新しい大学というものの方向をはっきり一日も早くきめてほしい。いろいろな問題がございますけれども、先ほどからいろいろお話が出ておりますが、大学における学生の参加というような問題も出ております。しかし、学生の実態を見た場合に、何らかのことにどの程度の参加ということをきめましても、一体どの学生がどういう形で参加するのかということになると、現実の大学では、その代表すらも選べないのが実態ではなかろうかと思うのです。しかも、その議論を聞いておりますと、大学そのものを否定をするという学生がかなりいるわけで、そういう人たち大学当局、学長方々が、この大学をどうするかというようなことで幾らお話し合いになろうとしても、そこでは何らの実りはあり得ないのではなかろうか。そういう意味で、そのためにはやはり新しい大学像というものを一刻も早く出してもらって、そして何年後にはこういう大学に切りかえていくのだという夢と希望を若い人たちに与えてほしい。そうすることによって、若い人たち学生を安心させるといいますか、希望を持たせることによって、大学紛争解決一つの糸口がつかめるのではなかろうか。ただ、五年の臨時立法というようなことですと、何かこの五年間は何もできないというような印象を与えますので、私は、新しい大学づくりを急ぐ、それには何かの政治的な、国会の責任においてその締め切りをつけて国民の前に示してくれるのだ、そういうことを皆さま方にお願いしたかったわけでございます。
  42. 大坪保雄

    大坪委員 斉藤正男君。
  43. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 時間がございませんので、自席で失礼ですけれども伺いたいと思います。  加藤先生に伺いたいわけでございますが、東大紛争の発端は、いろいろ原因はあったと思いますけれども、私どもが承知しておる限り、直接的には医学部における処分の問題から発生をした、火がついたというように把握をいたしておるわけでございますが、東大当局として鋭意再建の方途を講じられている中で、学生処分についてどのような方向をお考えになっているのか。大学生といえども何をやってもいいというわけではない。おのずから規制があり、規律ある大学でなければならぬというように考えておるわけでありますけれども東大改革路線の中で、学生処分をどのように位置づけ、どのようにお考えになっておられるのか、これが第一点であります。  同じく加藤先生に第二点として、今日の大学紛争の特徴点として、学生諸君が問題を起こしていることは当然でありまして、どこの大学でもいわゆる学生紛争という形で出ておるわけでありますが、私は注目すべきは、たとえば院生だとか、あるいは講師だとか、あるいは助教授だとかいう、大学に中間層というようなものがあるかどうか、これまた考えなければなりませんけれども学生教授といった区分でなくて、もしその間に院生とかあるいは助手とか講師とかといったようなものがあるとするならば、これらの人たちの今日の大学運営に関する、あるいは大学制度に関する、あるいは学問研究といったようなものに関する不満は非常に大きいというように考えておるわけでありますけれども、これらの言うなれば中間層の皆さん方の大学に対する要求、あるいは大学行政に対する要求といったようなものの原因は、一体どこから出てきているのか、こういう点について伺いたいと思うわけであります。  さしあたり以上二点について、加藤先生からお答えをいただきたい。
  44. 加藤一郎

    加藤公述人 第一に、処分制度を将来どう考えるかという御質問だったと思いますが、御承知のように、東大紛争は医学部処分が発端になっております。従来は、教授会がいわば一方的に事実認定をいたしまして、それを評議会がそのまま認めるというやり方でやっていたところに問題が生じてきたわけであります。そこで、これは処分問題については、手続的にどうするかという問題と、その実体法と申しますか、どういう場合に処分をするかというその実体法と、両方の面の問題があると思うのですが、私としては、いまの手続面の問題、つまり教官が一方的に処分をするというところにやはり基本的な問題があるのではないか。やはり大学内の秩序維持ということは、大学構成員全員が納得した上でやっていくべきだというような考え方。それからまた、学生処分について申しますと、学生の身分というものは、それぞれの学部学生の身分というよりも、全学的な意味での学生の身分が問題になっている。そういう意味で、改革準備調査会では、大学法廷という全学的な法廷を設けて、そこには学生も陪審員というような形で加える、そういう一つ考え方を検討の材料として提示をしております。これはまだ全学的に公式の見解というのはこれからやるところでございまして、そういう方向が検討されつつあるというところでございます。  それから、実体法的な問題にいたしますと、いわゆる教育的処分という考え方、これはかぎカッコつきの教育的処分といったほうがいいと思うのですが、教育的処分ということばもはなはだ多義的でありまして、いままでの処分は、どういう場合に処分するかということも、非常にばく然たる、学生の本分に反するというような表現がとられている。そのこと自体がやはり問題でありまして、ことばは適当でございませんが、もっと罪刑法定主義的な、こういう場合には処分されるけれども、こういう場合には処分されないというそのけじめを、もう少し実体法としてもはっきりさせる必要があるのではないか。そういう意味で、何か将来教育効果をあげるために非をただしていくという発想自体にやはり一つの問題がある。そういう意味で、大学でやる処分ですから、どうせ全体として見れば、高い立場からの教育的見地というものは当然残ると思いますが、もっと狭い意味での何か善導思想のような、そういう意味でのかぎカッコつきの教育的処分という考え方は反省すべきではないだろうかというように考えているわけでございまして、この点も現在検討中でございます。処分制度をやめてしまうというようなことはもちろん考えておりませんし、大学としては、規律維持のために、むしろ全構成員がそういう覚悟で大学の規律を維持していくことが必要だ、そういうふうに考えているわけでございます。  それから、第二点のいわゆる中間層の問題でございますが、おっしゃいました中で、講師、助教授というのをおあげになりましたが、ここら辺はむしろ教授会メンバーに入っているところがかなりございまして、本来の中間層ともいうべきものは、助手、それから医学部あたりになりますと無給助手、昔でいう副手というようなもの、それから近ごろでは大学学生というものが非常に数がふえてまいりまして、これも一種の中間層と言っていいかと思います。この点につきましては、大学院について、特に従来新制大学院ができますときに、予算的に全く措置がなされていないという状況で、予算もなければ人員もない、設備もないという状況で発足をしたわけでございます。これは、そういうのを引き受けた大学側責任があるかもしれませんが、私は、やはりこれは政府の側に、政府大学院政策に責任があったのではないかというように思っているわけでございまして、この点は十分将来御考慮を願いたい重要点の一つでございます。  それから助手につきましては、これは助手制度自体が非常に多様な内容を含んでおりますので、非常に問題がむずかしいのでございますが、一つには、やはり給与とかそういう制度的な面からの不満というものがあり、これは教育政策の、あるいは政府の問題だと思いますが、それから他方では、大学内部で助手をどう遇してきたかという、助手に対する権利があまり認められていないという状況があった。これは大学内部の問題だと思いますが、その両方の問題から、助手の問題というのは、やはり重要な問題として考えていかなければならないというように思っております。
  45. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 長洲先生に一言伺いたいのですけれども、いわゆる全学集会ということばがございまして、全学生大学当局が話し合うということについて世論まちまちであります。学生集団はいわゆる使用者と労働者といったような形のものではない。したがって、全学集会というような形での集団交渉といったようなものは誤りだというような意見もあるわけでありますけれども大学生を大学構成の欠くことのできない要素だというように考えましたときに、私ども全学集会の必要性もまた痛感をいたしておるわけでありますけれども、法的にあるいは概念的に、こういう全学集会といったようなものに対して、長洲先生はどのようにお考えになっておられるのか、伺いたいと思います。
  46. 長洲一二

    長洲公述人 全学集会は、よく学生は大衆団交というふうに言っております。団交ということばと大衆ということばとは実はなじまないわけでございまして、法概念的に申しますならばおかしな概念だと思いますけれども、しかし、そこで意味しておりますことは、単なる代表同士の話し合いではなくて、一人一人の学生大学との話し合いに参加する、こういう意味では、いわばよくいわれます直接民主主義の要求だろうと思うのです。  この直接民主主義の問題というのは、実はひとり大学だけではございませんで、これもまた、世界的にも、日本の国内でも、いろいろな形でそういう要求は高まってきているかと思います。私自身の考えでは、やはり大きな社会的な組織秩序をやっていくためには、どうしても間接民主主義が必要だろうと思いますけれども、しかし、間接民主主義というものが、とかく一たび選びますと、すべて白紙委任状のような形になりまして、一般の選んだ大衆自身が、その民主主義的な決定機構そのものから次第に遠ざかり、場合によっては排除されていく。こういうところに間接民主主義が持っているいわば根本的な矛盾もあるかと思います。そういう点で、学生たちがよく言っております、いわば議会制民主主義に対する不信の声というようなことも背景に置きまして、私は、間接民主主義にもっと生き生きと血を通わせる、そういう意味では、何かの形での直接民主主義的な場というものを持つことが、むしろ民主主義をほんとうに生きたものにしていくポジティブな意味を持っているだろうというふうに考えております。  私どもも、大ぜいの学生と会うことを私なんかはむしろ望んでおります。ごく小人数の学生と、代表だけで会うよりは——そういう必要ももちろんときによってございますけれども、大ぜいの学生とじかに会ってなまの声も聞く、じかにこちらも肉声で語りかける、こういう機会があったほうが学内の民主主義ははるかにじょうずにいくだろう。そういう意味で、私自身は、この積極的な意味を積極的に認めたいと考えております。ただし、もちろんそれには一定のルールをお互いに守るというようなことが必要でございましょう。しかし、多少過渡的に、時間が長くなったり多少のやじが飛んだりといったようなことは、訓練の過程の中でございますから、お互いにがまんをしながら、正しい形での直接民主主義的な大衆的話し合いの場をむしろ積極的に今後育てていく、こういうほうが大学の今後のあり方としては適切だろうというふうに私個人は考えております。
  47. 斉藤正男

    ○斉藤(正)委員 ありがとうございました。終わります。
  48. 大坪保雄

    大坪委員長 川崎寛治君。
  49. 川崎寛治

    ○川崎(寛)委員 たいへん時間が制約をされておりますので、簡単にお尋ねをいたしたいと思います。  公述人の諸先生がお忙しい中においでいただきましたことに、心から感謝をいたしたいと思います。特に、公聴会というのが単なる形式としてではなくて、公述いただいたことに対して、本委員会がどう先生方の御意見を受けていくかということがわれわれの任務だと思います。従来こうした公聴会には、総理大臣あるいは関係大臣がほとんど出席したことはないのでありますけれども、本日は坂田文部大臣出席をされておりますし、私は、慎重に扱っていくという姿勢であることを読み取れますし、そういう立場でわれわれの責任を果たすために努力をしていきたい、こういうふうに思うわけであります。特に、賛成をされました高橋公述人も、五条、七条、八条について、いろいろと疑問の点を御指摘になっておられるわけでありますし、それだけに、この法案がいかに慎重に扱わなければならない法案であるかということを痛感をするわけであります。  そこで、まず加藤学長にお尋ねをいたしたいのでありますが、法案の第一条の「目的」に、「社会的責務」というのが書かれておりますし、それを受けまして開かれた大学論というのが展開をされておるわけでありますが、学長の御見解を伺いたいと思います。
  50. 加藤一郎

    加藤公述人 大学社会的責務ということと開かれた大学というお話でございましたが、中教審は開かれた大学ということを言っておられますが、私はその前に、開かれた自治ということを申したことがございます。  大学の任務といたしましては、研究教育という内部のことのほかに、やはり社会との結びつき、社会への研究教育の成果の還元といいますか、そういうことを当然考えなければならない。そのためには新しい形での社会との結びつきを考えていく必要があるというように、私自身思っているわけでございます。先ほども大学自治を観念的に主張しているのではないということの中には、やはり内部ばかりでなくて外の意見にも十分に耳を傾けていきたい、それをわれわれの参考としながらやはり改革を進めたいという気持ちがあるわけでございます。ただ、たとえば外部の方が大学の執行面に直接タッチするのがいいかといいますと、この点はやはり相当問題があるわけでありまして、どういうほかの官庁にしろ、あるいは会社にしろ、やはり直接の責任を持つのはそこの内部人たちでございまして、外の意見をどういう形で取り入れるかは、それぞれまたくふうをしていかなければならないというように思っております。  それからまた、社会的責務の中には、将来の問題として、たとえば再教育と申しますか、こういう技術の非常な進歩の中においては、一たん社会に出た人たちがまた大学に何らかの形で戻ってくるというようなことも考える必要があるのではないか、そういういろいろな形での結びつきをわれわれとしては考えていきたい。そういうことをごく抽象的に考えておりますが、それに関連して、たとえば産学協同というような問題がございまして、産学協同は東大は否定したのだというようにだいぶおしかりを受けたわけでございますが、私ども考えておりますのは、産学協同と申します中でも、資本とか、あるいは特に個別企業からいろいろ資金をもらうことによって、大学としての研究教育ということが曲げられてはならない。大学自主性を持った研究教育ということがまずあって、それに対して、それが資本の利益、資本の役に立つから資金を出すということであれば、これはあまり問題がないのではないか。そういうように、つまり資本の利益に奉仕する形で大学研究教育がゆがめられるということに対して、われわれとしてはやはりきびしい態度をとっていきたい、そういう気持ちでございます。  ちょっと抽象的なお答えになりましたが、以上でございますが、なおついでにちょっとお断わり申し上げたい点がございます。  先ほど稻葉委員の御質疑にお答えしました中で、政治教育ということが教育基本法で禁止されているというようなことを申しましたが、私の申し違いでございまして、「政治教育」と申しましたのは、「大学としての政治活動」が教育基本法で禁止されているということでございましたので、その点訂正さしていただきたいと存じます。
  51. 大坪保雄

    大坪委員長 川崎君、かねて申し合わせの時間が来ましたから、一問だけにしていただきたい。
  52. 川崎寛治

    ○川崎(寛)委員 それでは、もう少し加藤学長にもお尋ねしたかったのでありますが、次は長洲先生にお尋ねしたいと思います。  先ほど、憲法、それから教育基本法、文部省設置法というものに反する、現行の法体系に反する法律であることを御指摘になっておられるわけでありますが、文部省の本来の使命というのは、大学に対しては指導、助言というものになっておるわけでありますし、教育の条件整備というのが最も使命だろう、こういうふうに思います。今日までの政府教育の長期政策というもの、これは全くないと思うのでありますが、高度成長政策の中で安易な人づくり政策というもののみが進められてきておるということが、今日の大学紛争一つの根本的な原因でもあろうか、こういうふうに思うわけであります。で、経済学者としてこれらの点について造詣深い先生の御意見を伺いたいと思います。
  53. 長洲一二

    長洲公述人 御質問は二つの点に関連するかと思いますが、いろいろな既存の法体系とこの法案が矛盾するのではないかという点が第一点かと思います。  先ほど公述の際に申しましたとおり、私はかなり矛盾する心配があると考えております。ことに、この法案を拝見いたしました限りでは、解釈のしようによっては幾らでも広げて解釈できる部分がございます。ことに、これは一般に行政問題すべてそうだと思いますが、省令等々の、法律以外のいわば下位の法律でもって処理できる部分が、これにもかなりございます。私は、ごく一般的な不満でございますけれども、憲法、教育基本法といったような上位の法律ほど、何か次第に神だなに上げられて影が薄くなりまして、実際の運営は全部下位の法律、ことに国会を通らないような形で処理できるような省令とか政令とか、いろいろなような形で処理されていくという点は、非常に法体系上問題でないかと考えておりますが、そうした点でやはり今回の法案も同様に大きな問題を感じております。  二番目の御指摘は、教育政策の問題だと存じますが、私は、教育政策全般については別に専門家ではございませんが、経済学を勉強している者として特に感じますことは、経済の実体から申しましても、今後の非常に大規模な科学技術革命の時期を日本も迎えるかと思いますが、そういう時代に一番大事なことは、むしろ設備とか物とか金とかいうことよりは、人間というものになってきたということは、実社会でもそうでございますし、私どもも痛切に感じているわけでございます。ことに創造的な、自主的な活動ができるクリエーティブな頭を持った人間が非常に必要になってきている。にもかかわらず、残念ながら、これは私ども自身も反省いたしますけれども、文教政策その他全体を含めまして、日本の教育はひたすら自主性、創造性を殺すような方法でいろいろなことが行なわれているように考えられてなりません。入試の問題もしかりでございますし、学生のさまざまな要求、さまざまな問いに対しましても、何かいままでの秩序がこわされるという観点からのみ、それをもと秩序に戻そうという、そういう画一的な教育に対する見方が行なわれている限り、私は新しい二十一世紀へたくましく日本の運命を切り開いていけるような創造的な人間は生まれにくいと思います。いろいろ問題を起こしながらも、今日の学生は、私の感じでは、きわめて彼らなりに自主的に創造的な人間になってきていると私は感じております。そういう方向を進めるということこそ、私は経済学者として考えましても、日本の経済発展の大きな一番大事な方針であろう、そういうことでぜひ教育の長期政策についてもお考え願いたいと思います。  なお、経済学者として言うのはおかしいのでございますが、経済学者の立場から見ますと、あまりに経済に即して教育というものを論じられますと、私どもはかえってありがた迷惑でございます。そういったような人間ではほんとうの経済発展をになし得る人間はできないと存じます。不十分でございますが……。
  54. 大坪保雄

    大坪委員長 鈴木一君。
  55. 鈴木一

    鈴木(一)委員 最初に加藤先生にお伺いしたいと思いますが、先ほど処分のことについて同僚の議員から触れておりましたが、端的に例をあげてお尋ねしますが、当時文学部長でありました林教授が、長時間にわたって軟禁と申しますか、監禁と申しますか、一般しゃばでは考えられないような状態があったと思うわけでありますが、ああいうような場合は、学長としては、処分の対象になると思うのか、ならないと思うのか、その点をお伺いしたいと思います。
  56. 加藤一郎

    加藤公述人 私は、普通の状況もとでは、処分の対象になるものと考えます。ただ、あの場合には、まあ一時的に監禁の状態にはあった場合もあるんですが、ある場合にはまた、話し合いをある程度なごやかにやっておられた場合もありまして、法律的に一体監禁罪になるのかどうかという問題は若干微妙な点があるわけでございます。まあしかし、あのようなことは普通には認められないことでございまして、原則として処分の対象にはなるというように考えておりますが、これはしかし、先ほど申しました処分の手続の問題、それから処分の実体の問題を考えまして、新しい処分の制度ができたときに取り上げるということを私どもとしては申しているわけでございます。
  57. 鈴木一

    鈴木(一)委員 多少私たちと感覚上のズレがあると思うのでありますが、何か談笑裏に話をしておったというふうなことも言われまして、一般の軟禁状態、監禁状態と違うようなふうなお話でございましたが、私は、たとえ中間にそういうことがあったとしても、人権尊重という面からあり得ない状態だと思うんです。ですから、これは原則と申しますか、原則はそうだが、例外もあるというふうなものではないと私思います。もう一回お伺いしたいと思います。
  58. 加藤一郎

    加藤公述人 東大紛争は、あの当時最高潮に達しておりまして、非常に異常な状況もとにあった。そこで、私が原則としてと申しますのは、通常の状況もとでならば、当然処分の対象になると現在考えておりますが、ただ、あの紛争の過程における処分をどうするかという問題は、これは全体として、やはりもとにさかのぼって考えなければならない問題である。私の確認書の解説の中にもその点は書いておいたのでありますが、私が十一月、安田講堂に二度ほど入って長時間討議をいたしました際に、ここまで学生諸君をああいう状態にまで持ってきたことについては、大学としてやはり重大な責任があるのではないか。それで、先ほど教育的処分というお話が出ましたが、こういう状況もとで行なわれた学生諸君の行動に対して、処分という形で処理をするのがはたして適切なのかどうかという点について、私自身としては疑いを持ったわけでございまして、その点が私の提案の中にも含まれております。  そういう意味で、これは、一般のそれまでの事件と林先生の事件とは性質が違うということで、新制度のもとで取り上げるということは私も申しておりますが、ただ、そういう状況もとで行なわれた事件である。それから、当時警察関係の方とも打ち合わせはいたしましたが、その点、監禁罪の成立についてはいろいろ疑問があるので、そう簡単には出動することはできないというようなお話もあったのでありまして、その点についてはまた御了承を願いたいと存じます。
  59. 鈴木一

    鈴木(一)委員 大学の自治を認められておることも、結局は真理の探求のためだと思います。そのためには、妥協とかそういうことはなく、まっすぐ道を貫いてもらいたいと思います。  それから、長洲さんにお伺いしたいと思いますが……(加藤公述人「ちょっといまの点、私もしもう一言お答えできれば……」と呼ぶ)もういいです。長洲さんにお伺いしたいと思いますが、先ほど、学生が問いを投げかけておるという御説明がるるございましたが、私も、非常にあなたの高度な、たくみな表現には感心して聞きました。私も大体同じような発想に立っておるものでございます。私のほうの大学基本法案も、動機としては同じような気持ちに立っておるわけでございますが、そういうふうな点からすると、ここでもう一歩学者の皆さんたちが踏み込んで——まあ、それは政治に関与している私たち責任もあるわけでございますが、やはり一般社会が学者に期待しておるのは、ああいう発想からさらにどうすればいいか、どういうふうに将来、二十一世紀に向かって日本並びに世界は進めばいいかというふうな一つの哲学と申しますか、また、それにちなんだ社会秩序あるいはまた経済体制というもの、皆さんのほうからそういうものが出ることを一般社会は期待しておると思うわけでございます。そのためにこそ、学問の自由、研究の自由が大学人に認められておると思うわけでありますが、どうも私たち十分な認識がないのかもしれませんけれども、そこまでいかずに、ただもう現状に対する批判にだけ終わっておる学者あるいは大学人が多いような感じがするわけでございます。  先般、月の軌道を回ってきましたアポロ八号のボーマン船長ですか、私、名前はちょっと忘れましたが、これは単なる一介の武人だと思うのですけれども、月から地球をながめて、月はまことに殺伐とした殺風景なところだ、ここから見る地球というものは青々として実にいいというふうな感想を直接アポロ衛星船から述べておるわけでありますが、私はこれは非常に示唆に富んだいいことばだと思います。庶民はみなそれを期待しておると思うのですね。この地球をもう少しよくしたい、争いをなくし、みなが栄えていきたい、そういう気持ちをみな持っておると思うのですね。ですから、これからの学者、もちろんこれは政治家も含めてですが、指導的な立場にある者の使命というものは、自由というものと平等というものをどういうふうに実現していくか、あるいはまた、ナショナルなものとインターナショナルなものをどうするか、あるいはまた、国家的なものと市民社会的なものをどういうふうに融合していくか、というところに今後の課題があると私は思うわけでありますが、そういう点についてあなたの、相当な学者のようでございますから、ひとつ巧みな表現でお聞かせ願いたいと思います。
  60. 長洲一二

    長洲公述人 私どもも、現状でいいというふうには毛頭思っておりません。そういう点で、先ほども申しましたように、大学あり方、それからさらに広くは私どもの勉強、学問あり方まで含めまして、私たち自身の反省を込めながらいま改革案を、いろいろ私ども大学でも東京大学と同じように委員会をつくってやっております。いろいろな大学で現在、先ほど申しました問いに何とか前向きにこたえようということで努力中でございます。問題がたいへんむずかしゅうございまして、なかなかすっきりした答えが出ないのが申しわけないのでございますが、そういう努力は今後も必死に続けたいと考えております。そういう点で、大学の者は、決して大学自治というのを何か特権的なものというふうには考えてはならないと、みずからに言い聞かしております。  その点で、先ほども開かれた大学といったようなことばがございましたが、私も、このことばそのものとしては、これからの大学は、そういう意味で広く社会に開かれて、意見を聞いて、それをまじめに反省の素材としながらやっていかなければならないと考えております。そういう点で、政治家の皆さん方とも、私どもは率直に私ども気持ちも訴え、考えていることを申し上げ、御意見も伺って、フランクな話し合いはぜひいたしたいと考えております。いろいろ御教示もいただきたいと思います。  ただ、こだわるようでございますけれども、開かれた大学というのが今度の法案の提案理由にもございますけれども、何か開かれたというドアが、もっぱら政府と権力のほうにだけ開かれているような感じがする点が私どもは残念でございまして、もっと多様な方々との話し合いの中で、大学社会的な存在としていままでとは違った形にしていきたいという意欲は十分持っております。なおその間で、きょうもいろいろ議員の先生方のお話を伺いながら私なりに考えるところもございます。こうしたかなり広い社会的な討論の場を、もっといろいろお力添えをいただいてつくっていただけるとありがたいと思いますが、どうも討論が十分いきませんで、これは学生諸君にも言いたいことでございますが、何かある主張を力で通そうという空気が、学生の中にも一部にはあることも事実でございましょう。私どもはそうであってはならないと思いますが、同時に、少し言い過ぎかもしれませんが、どうも社会全体、日本の政治、世界の政治、いろいろ見ましても、学生のみならず、全体的に、何か力の信仰がだんだん育ってきておりまして、むしろ若い人自身に力の信仰を植えつけるような状況がかなり広がっているのが現実だと思います。そうしたことを一緒に考えながらでございませんと、大学の問題、学生運動の問題はなかなか解決が困難である、それだけ根が深くむずかしい、こんなふうに考えております。
  61. 鈴木一

    鈴木(一)委員 あなたのようなすぐれた学者が、つまらない一つまらないと言うと語弊がありますけれども、管理運営なんかで時間をとることなしに、鋭意そういった、いま私が御注文申し上げましたようなことで研究を進めてもらいたいと思うわけでありますが、そういうふうな観点からしますと、結局、いまの大学というものは、昔の少数エリートを養成したときの管理方式をそのまま大衆大学の中に持ち込んできている。大衆大学ということばは気に食わないかもしれませんが、持ち込んできているというところに、私は大きな問題があると思うのですね。しかし、それに対して、皆さんたちのほうで、政府の干渉がなくてもやるのだというふうなことでいろいろ陳情なんかもされておるようでありますが、いつやるかさっぱりわからない。何年もかかるかもしれませんが、やはりこれは現実ですから、しかも入学試験その他いろいろな問題を控え、あるいはまた早く卒業して就職したいという学生もたくさんおるわけでありますから、なるべくその時間を短縮する努力というものはしていただかないと、やはり浮き世離れした人たちだというふうな感じをわれわれ受けるわけです。ここにあります「ジュリスト」の先月号に、宮沢俊義さんが、いや、大学なんていうのは結局尼寺だよ、こういうふうなことを言われておりますが、これも私、いまの大学の実態、右往左往している実態をよくあらわしていると思うのですね。しかし、こういう刺激があってこそ、管理者である皆さんたちもまた筋金も入ると思うわけでありますが、ただその期間をなるべく短縮するような、口だけじゃなくて、からだで、実績でそういう対案をどんどん示していただきたい、こういうふうに希望申し上げておきます。  それから、加藤さんにもう一問だけお伺いしたいのでありますが、あの安田講堂の騒動のあと、佐藤総理と坂田さんが大学を見たわけですね。あのときに私は、どういうことになるかと思って非常に注目しておりました。もしあのときに、佐藤さんなり坂田さんなりがあの現状——あの現状といっても私は見ないのです。断わられたので見なかったのでありますが、どんな暴力にも屈することなく、国としては、設置者としては、あらゆる援助をするから、入学試験でも何でもどんどんやるように勇往邁進しろ、こわれた安田講堂なら突貫工事でもやってこれを修理するぞ、というふうな激励があったとすれば、どういうことになりましたか。
  62. 加藤一郎

    加藤公述人 私は、あのとき佐藤首相がどういう気持で来られたかと思って見ていたのですが、結局、結果は残念ながら入学試験の中止ということになってしまいまして、あのときそういう激励をいただいたら、大学の復興と申しますか、再建ということはもっと容易であっただろうというように思っております。
  63. 鈴木一

    鈴木(一)委員 やはり私は、日本のいまの政治にそういう生きた政治がないと思うのですね。ここに文部省のおえら方もおりますけれども、官僚組織というか、そういうものに災いされて、そのときそのときの場所に、随所にわれを立てるというか、そういう気持ちで手を打たないというところに私は問題があると思います。坂田さんもここにおられますが、ひとつよく肝に銘じてもらいたいと思います。  なお最後に、ここで私はうっぷん晴らししようなんて一つも思っておりませんが、われわれもあの事態を憂えて現場を見に行ったわけであります。その私たち気持ちは、先ほど私が申し上げたように、もし総理がこう言ったらどうするかと  いう気持ちで私は行った。しかし、どこへどうやって行っていいかわかりませんし、大体本富士署の管理下みたいな形にありましたので、まず本富士署に行って、電話でぜひひとつ見せていただきたいということをお願いしたわけでありますが、一時間近くあそこで電話でいろいろ本部と交渉しましたけれども、とうとう断わられて、世に門前払いというのがありますけれども、門前より前で私たち断わられてきたわけでありますが、やはり私たちも文教政策をあずかり、それからまた、あれだけの国有財産破壊されたということに対しては、責任国民に対して感じておるわけですね。そうした善意で行ったわれわれに対して、とうとう入れないということはどういうことなんですか。
  64. 加藤一郎

    加藤公述人 このことはたいへん申しわけないと思っておりますが、私どもは、一応外部の方全部お断わりするという方針で、ああいう非常事態でございましたので、それで全部にそういうことで指示をしておりまして、いまから思えば、もう少し弾力的な取り扱いをすべきであったというように思って反省をしております。
  65. 鈴木一

    鈴木(一)委員 それじゃ聞きますが、マスコミはどうして入れたのですか。外部でしょう。これもやはり新聞には大学も弱いのですか。
  66. 加藤一郎

    加藤公述人 これは大体そういう慣例になっておりまして、新聞記者は断わらないということでございますので、それは認めるということをとったわけですが、そのほか、どこの範囲の方まで入れるかということについては十分事前に検討しておりませんでしたので、たいへん申しわけないことになったと思っております。
  67. 鈴木一

    鈴木(一)委員 そこに大学のズレがあるのですよ。  終わります。
  68. 大坪保雄

    大坪委員長 岡沢完治君。
  69. 岡沢完治

    ○岡沢委員 最初に、加藤先生と長洲先生にお尋ねといいますか、お聞かせいただきたいと思います。  非常に歯に衣を着せない言い方をさせていただきますと、私自身もそうでございますし、国民も、いまの大学先生方が非常に憶病で、ひきょうで、無責任だ。これは東京工業大学の桶谷先生が公言をなさいましたし、率直な気持ちはそういう感じがございます。ところで、きょう、お忙しい加藤先生と長洲先生が、進んで公述人に御出席いただいたということ自体、非常に勇気ある行動として、これは非常にうれしい、責任感にあふれる行動として高く評価させていただきたい。最初に、そういう率直な感じでございます。  大学というところは、申し上げるまでもないことでございますけれども、知性や理性あるいは良識、常識が支配すべきところで、むしろ社会をそういう意味でリードしていただくべき立場にございます。ところが現状は、御承知のとおりの、暴力があたかも常態化した姿でございます。戦前の滝川事件あるいは森戸事件、これは確かに国家権力が学問の自由あるいは大学の自治に干渉したきらいがございました。しかし現実は、むしろ学内における少数暴力——先ほど谷川委員からも指摘がありましたけれども、学内における少数暴力こそが、大学の自治、学問の自由を否定しているのではないか。むしろ、学者の方々の思想の自由、表現の自由が、少数暴力によって曲げられているのではないか。東京工業大学の例を見ましても、あるいは特に最近の立教大学の文学部教授方々が三十数名自己批判書を出されました姿を見ましても、むしろ、暴力こそ自由の否定であり、あるいは民主主義の敵であり、大学の自治の破壊ではないかと感ずるわけでございますけれども、この点について両先生の御意見をまずお聞かせいただきたいと思います。
  70. 加藤一郎

    加藤公述人 私どもも、学内の暴力に対しては、これをはっきり否定するという態度をいままでもとってきておりましたし、これからもとっていくつもりでございます。ただ、大学の中では、これはやはりできるだけ話し合い、あるいは説得、あるいは言論、理性的討議によって問題を解決するという態度をとっていくことが基本でございますので、できるだけそういう意味での手段は尽くしたい。しかし、先ほども申しましたような、人身への加害あるいは侵害あるいは破壊活動というものに対しては、これは大学としては実力を持たないわけですから、私どもとしては、警察力の出動を要請して、そういう直接の暴力に対しては、はっきりした態度をとるということにいたしております。
  71. 長洲一二

    長洲公述人 ただいまの御指摘あるいはおしかりは、私ども大学にいる者として十分お受けして反省したいと思います。ただ、私ども、たいへんむずかしいと思いますことは、大学の中ではやはり力には力でというふうに簡単にいかないわけでございます。そこに外の皆さんから見れば、非常にまだるっこしいというお感じもあるかと思いますけれども、力に力でというコースを一たび歩き始めますと、無限の悪循環におちいる。その場合には、単なる少数暴力といったような問題ではなくて、多くの学生との間にますます信頼関係が失われていく、そういう悩みを持っております。そのためになかなかうまくいきませんで、もたもたしておりますことは、おわびしなければなりませんけれども、どうぞそういう点でお励ましを願いたいと思います。  なお、おことばにありましたように、私どももできるだけ背骨をしゃんと立てまして、憶病、ひきょう、無責任ということは返上したい決心でございます。たいへん不十分でございますが……。
  72. 岡沢完治

    ○岡沢委員 最初に加藤先生、暴力にははっきりした態度で臨みたいとおっしゃいましたが、現実には、東京大学だけではございませんけれども暴力行為があっても、物がこわされても、人が傷つけられても処分がないわけですね。どろぼうは悪い、人を殺すのは悪いといっても、それに対する処罰が全くないといったような場合に、はたして社会的な秩序が保たれるかということをわれわれは心配するわけです。なすべきことをなさない、また、なしてはいけないことをなした者を放任するということは、結局近代社会における法秩序破壊を放任することになるのではないかということをおそれるわけでございます。  それから長洲先生の、力に対する力、私は学生の力、暴力は許されないと思います。しかし、やはり力といっても、国家権力——非常にきびしい響きは持ちますけれども、戦前の国家権力と戦後の国家権力とは全く違う。主権在民のもとにおいて、国民から選ばれた国会がつくる法律、これはやはり国民の意思だと考えていただいていいと思いますし、これと対等に、ゲバ棒対ゲバ棒だというような考え方から、力の対決という論理は間違いではないか。やはり力の支配から法の支配、その法は理性に基いた、国会が正規の手続によって成立させた法律ということであれば、法の支配のもとで、法権力の行使として暴力に対する制裁がなされるのは当然なんで、これを力対力の対決だというおとらえ方は、少し戦前、戦後の姿をはき違えておられるのではないかという感じが私にはするわけでございます。  それから、申し上げるまでもないことでございますけれども、自由というものには責任が伴います。また、自治というものは自治能力があるものに与えられるべきではないかと思います。先ほど加藤学長は、大学には自治能力が失われていないと思うという御発言がございました。しかし、現実に東京大学の場合、入学試験が行なわれなかった。あるいは、先ほど来指摘をしたように、暴力学生に対する処分も実際に行なわれない。あるいはまた、最近の姿では、文学部教育することを拒否する教官がおられる。安田講堂の攻防戦だけを見ましても、国有財産が四億五千万にのぼる被害を受けましても、これに対する処分もなされない。あるいは管理者として責任を果たさなかった者に対する制裁もない。これではたしてほんとうに自治能力、管理能力が、国民から見て、われわれから見て、客観的にあると言い切れるかどうかということを心配するわけでございます。もちろん、私たちも、政治家としてはたして責任を果たしておるかという点については、十分自責の念にかられるわけでございますけれども、それはそれとしまして、やはり大学方々の自主的な御努力を御主張なさるのであれば、それに伴う責任能力もぜひお考えいただくべきではないか。  それにつきましては、私は必ずしも、桶谷先生のおっしゃるように、全部の方々が無責任だという考え方はとりません。もちろん、りっぱな責任感の旺盛な勇気ある先生方もおられることも承知いたしております。しかし、一般的に集団無責任体制ではないかという最近の大学教授方々に対する批判は、必ずしも当たっていないと言い切れないものがあると思います。現に、先ほど鈴木先輩の質問に出ました、佐藤総理が東大を御視察になった直後の発言を見ますと、東京大学には一人の責任者もおらないということを公表しておられます。現にあの直後の状態からいえばそうではなかったか。ところが、東京大学は、国有財産だけでも六百五十億をこえるものを持っていただいておる、一年間の予算が二百三十億をこえるというような姿の場合、そしてまた教職員を合わせますと二万人に及ぶ方々がおられる。それが文学部に限って申し上げますならば、一年間授業も全く行なわれない。そして教授方々はりっぱに給料もお取りなるし、ボーナスもおもらいになるし、昇給もなされる。それで破壊された国有財産については一切の責任が問われない。これでは国民として、ほんとうに大学責任能力、自治能力を持っていただいているかどうかということについて、疑問を持つほうが当然だという感じが私はするわけであります。  私は、もうあと一問しか質問したらいかぬということで、ふれが回ってまいりました。それに従いたいと思います。  カリフォルニア大学のアーサー・ターナー教授が、教授があるのは教えるためだ、管理者があるのは管理するためだ、学生があるのは学ぶためだ。これは、端的にこう言い切れるかどうかは別としまして、私はやはり一つの真理だろうと思うのです。学ばない学生、教えない教授、管理責任を果たさない管理者、これで大学社会の指導者として、あるいは国民の高い税金を使って、社会的にはたして責任を果たしていただくことができるだろうかということを心配するのは、私だけではないと思うのであります。そういう意味から、いまのアーサー・ターナー教授の見解について加藤先生と長洲先生と両方に御意見をお願いいたしたい。  それからもう一つ、お二人とも、これはまあ幸か不幸か国立大学先生方でございます。紛争の実態を見ますと、国立大学の場合は、これは警察庁の最近の調査でございますが、七十五校中五十七校が紛争校、パーセンテージで七六%、それから公立の場合は三十四校中十一校が紛争校、パーセンテージで三二%、私学の場合は二百七十校のうちの四十四校が紛争校、一六%の紛争率であります。授業料、あるいは先生方の数、あるいは設備その他からいいますと、国立のほうがはるかに恵まれた立場にあると思いますが、紛争がむしろその恵まれた立場の国立に多いということについては、国立大学学長として、あるいは教授として、どういうふうなところに原因があるとお考えになるか。  それからもう一点、いわゆるスト権についてどういうふうな御見解をお持ちになるか、お尋ねをして私の質問を終わります。
  73. 加藤一郎

    加藤公述人 私は先ほど、大学自治能力が失われていないと申しましたのは、そのとおりにいまでも思っておりますが、一つは処分をしていないではないかというお話がございましたが、処分につきましては、これはいままでの制度自体に、これは手続上も実体法上も非常に問題がある、それを現在急いで検討中であるということでございます。全く処分をしないというふうに言っているわけではございません。  それから、国有財産の管理につきましては、これは大学国有財産はやはり研究教育目的にささげられているのでありまして、大学といたしましては、研究教育機能を回復することをまず第一に考えているわけでございます。それで、国有財産管理の責任ももちろん感じておりますが、教育研究目的が優先するということを考え、そのために平和的に問題を解決しようと思って懸命の努力をしたわけでございますが、それが実を結ばず、安田講堂その他に多大の損害が生じましたことについては、私として社会的な責任を感じておるわけでございます。しかし、これは法的な責任という問題はまた別でございまして、法的には、御承知のように会計検査院法で、故意または重大な過失があったときに管理者責任が問われるということでございまして、私としては全力を尽くしたつもりでございますが。それからまた、先ほども申しましたように、一月十四日の夜から破壊活動が始まりまして、それまでの状況は、建物封鎖などありましても内部現状は維持するということで、損害はあまり生じていなかったという実情でございます。その点も誤解がございませんようにお願いしたいと思いますが、一月十四日に、これは入試中止ということと、それから徹底的な抵抗ということのために、バリケードを築いたりあるいは武器をつくったりするために破壊活動が行なわれた。そしてその時点で要請をしたということでございまして、その点について、私としては、故意、重過失ということはなかった、そういう意味で法的責任ということはないというように信じております。  それから、国立大学紛争が多いという点については、これはいろいろな見方があると思いますが、私が一つだけ申したいのは、国立大学教官が怠慢であるとか熱心でないから国立大学紛争が多いということでは全くない。私立大学以上に努力をしていると言えば言い過ぎかもしれませんが、私立大学に少なくとも劣らず国立大学教官は全員が努力をしているというように私は思っております。  それからスト権につきましては、これはどういう時限でスト権を問題にするかによりまして問題が違うわけでございますが、私どもは従来は、ストライキを提案したり、あるいはそれを議長が取り上げたりすれば、それは直ちに処分の対象になるといたしまして、無期停学の処分をしていたのが実情であります。しかし、それは、私、いまの考え方では不適当であろう。つまりストライキをやるかやらないかを議論することは、これは当然——当然といいますか、大学学生にもなればあっていいことであって、それを全く議論してはいかぬ、議論すれば処罰する、処分するということは、やはり行き過ぎではないだろうか。学生自身にそのストライキの問題を真剣に考えさせる、問題を学生の自治に投げ返して考えてもらうということがむしろ正しい教育あり方ではないか、そういうふうに思っているわけでございます。  それから、もう一つの時限としては、ストライキ決議がかりに成立した場合にどうするかという問題がございまして、この点については、それでも断固授業をやるべきだという考え方と、ストライキ決議をして学生がそういう抗議の意思を表明したならば、その問題は学生自身の不利益においてなされたものであるから、学生自身が決議をしたということで、こちらも講義をしないといって学生にやはり問題を投げ返すという考え方、二つが現在ございまして、これは将来の問題として検討中でございます。
  74. 長洲一二

    長洲公述人 加藤さんのお話である程度尽きていると思いますが、二、三ポイントを分けてお答えしたいと思います。  初めに自治能力の点でございますが、私どもは、おしかりを受けますように、一〇〇%いま自治能力を発揮しているとはもちろん考えておりません。そういう点での社会的、道義的責任は感じております。したがいまして、何とか改革をしようと努力中でございます。また、先ほど来、口で言うだけではだめだというおことばもありますけれども、私どもは、何としてでも自分たちの手でやりたいし、できるという信念でやっております。それができなければ大学の自治という大原則がくずれるわけでございまして、そういう点で必死の努力を傾けているつもりでございます。  ただ、自治能力という、この自治ということのあり方につきましては、私どももとの姿に戻るということはあり得ないだろうというふうに考えております。何かの形での制度的、機能的な修正や改善を行なわなければならない。これは先生方もよく御存じのとおり、いわば世界的な風潮でございます。大きな流れでございまして、そうした大きな流れの中での生みの苦しみを私どもはやっているつもりでございますので、どうぞそういう意味で育ててほしいと思います。自治能力が一〇〇%でないから自治能力をやめてしまえというふうにはいかないのが大学だという信念でやっておるわけでございます。  それから、国立大学に特に紛争が多いのはけしからぬというお話でございましたでしょうか。その点は、私にも十分まだ分析といいますか、よく理解できておりません。ただ、先ほど加藤さんもおっしゃいましたとおり、私どもも、国立大学の者が特別おくれておった、特別なまけておった、無責任であるというふうには考えておりません。いろいろ病気で倒れる人が出てくるところまで、ある程度のことは努力中でございます。足りないところは今後も一生懸命やるつもりでございます。  それからもう一つ、最後の御質問のスト権ということでございますが、これはスト権という形で、権利として制度的に認めるのかどうかというようなことにつきましては、私自身も、また私ども大学でも、まだ明確な考えはございませんけれども、しかし、先ほど加藤さんのお話にございましたように、すぐストがそのまま処分に直結するというような考え方だけではやっていけないのではないか、間違いではないかという考え方を持っております。私どものほうは、大学改革をいろいろやりまして、学生の参加がございましても、研究教育の基本的な決定事項については、決定権は大学側にあると考えております。  ただ、そういうことにつきまして、学生にも、またこれは広く一般に人間に本来的に備わっているものと思いますが、ノーと言う権利は本来的にやはり私はあるだろと思います。こういうノーと言う権利を、学生の総意が反映されるような形で、学生の全体の意思と考えられるような形でノーと言うような場合には、何か大学側の決定なり何なりに問題があるのであろうというふうに理解したいと思います。したがって、ノーと言うことから、すぐけしからぬという発想はとりたくない。むしろ学生の大ぜいの意見がノーと言わせるような問題は何であるか、こういうことについて、その問題の究明と除去にむしろ努力をするというのが、これからの新しい大学あり方ではないかというふうに考えております。簡単でございますが……。
  75. 大坪保雄

    大坪委員長 有島重武君。
  76. 有島重武

    ○有島委員 だいぶ時間が延びてしまいましたので、私、問題を二つにしぼりまして、二点だけ問題にしたいと思います。  初めに、こうしてここでもって公述人に来ていただきまして、公聴会を開いております。これは大学紛争の基本的な認識について、若い世代の人たちが何を感じて何を訴えておるのか、こういったことについてやはりピントを合わせて、それで、それじゃ一体われわれは何をしていったらいいのか、そういう問題に発展していくべき一つのかなめにするためにきょうはやっているのじゃないかと思います。それで、そういった問題が明らかになった上で、今度は政治立場からはどうするか、教育立場からはどうするか、また、社会一般的にはどうするか、そういうふうに問題が開いていくのじゃないかと思いますが、そういった問題がかみ合わないでもって終わりますと、非常に不経済になるのじゃないか。私はこの公聴会を見てそんなふうに思いました。  最初に、いまの若い人たちが一体何を感じて何を訴えておるのか、これは加藤先生と、それから高橋さんから伺っておきたいと思います。個人的見解でもけっこうでございますが、率直的な御意見を聞いておきたい。  それから長洲教授からは、先ほどその点につきまして、彼らは一体何をしているのかじゃなくて、彼らが何を感じて何を問うているのか、答えがわからないからといって問いを否定はできない、特に政治状況への不信感があるのだ、そういうようなかなり具体的なお話がございましたけれども、そこで長洲先生からは、その点については、中教審の答申の中に「大学紛争の根底にあるさまざまな要因」というのがございました。この中で、「世代よる価値観の相違」であるとか、それから「権利意識の高揚と責任感の軽視」であるとか、あるいは大学の多元性と多面性が時代の進展にマッチしていかないとか、そういったことがあげられておりますけれども、こうした中教審の答申について、長洲教授はどのように批判され、どのように評価されておるか、そういった基本問題について最初に伺っておきたいと思います。
  77. 大坪保雄

    大坪委員長 最初に長洲公述人にということですか。御三人にということですか。
  78. 有島重武

    ○有島委員 加藤先生から……。
  79. 加藤一郎

    加藤公述人 ただいま、学生は何を訴えているのかという御質問だったと思いますが、これは学生が大きな不満を持っておることは確かである。しかし、それが要求という具体的な形で出てきたときには、必ずしもその不満と要求とが、私は一致していない面があるように思うのです。つまり、何か訴えなければならない不満を持っているのだけれども、それを具体的な形でなかなか言いあらわしにくい。それがたとえば、項目はのんでものみ方の論理が問題だから、これでは問題の解決にはならない、あるいは大学は正面から学生の要求にこたえていないというような共闘系の諸君の言い方が出てくるのは、そこに原因があるのじゃないか。私は、それを言いかえてみますと、学生は何を訴えているのかというのは、大学紛争の原因としてわれわれはどういうものを考えるかということにも言い直せるのではないかというように思うのですが、そういう点は、ごく簡単に私の考えだけを申しますと、日本における大学紛争というのは、いわば、これは後進国型、先進国型と分ければ、先進国型ではないか。つまり現代社会における文明、あるいは経済、社会の中における疎外感ということが根底にはひそんでいる。つまり巨大な現代社会の歯車の中に巻き込まれることによって人間性が失われる。そこで、ニヒリズム的あるいはアナーキズム的な傾向というものが世界的にも出てきているわけでございます。それから他方で、先ほど長洲さんが言われましたように、自分が主体的な決定に加わりたいという、直接民主制的な要求というものがいろいろ出てきております。これもやはり疎外感とうらはらになっているわけでございまして、主体的に何か加わることによって、自分の人間性を回復する。まあゲバ棒の論理などということもいわれますけれども、そういうことの中にも、やはり自分自身で何か言いたい、それが場合によってはゲバ棒という暴力的な形をとることもあれば、あるいは大衆団交の要求ということにもなってあらわれてくる。それから第三には、おとなの政治社会に対する不信感。まあ、これは世代の相違ということもございましょうが、やはり激動している世の中で、おとなあるいは老人たちによって自分たち若者の運命をきめられては困るという、そういう切実な気持ちのあることも確かではないか。  まあ、これは事柄のよしあしは別として、そういうことが不満の根底にひそんでいるということは、事実としてやはり認めなければならないのではないかというように思います。これが社会あるいは政治の問題ということにもなるわけでございますが、そのほかに、やはり大学自体の古さの問題、戦後のいわゆる大学改革、新制大学ができたときの前期、後期という昔の高等学校と継ぎ合わせました便宜的なやり方そのもの、それから、そのときの予算あるいは定員の不足というような問題が表面化してきている。研究教育に対する不満という形であらわれる。あるいは大学の閉鎖性、独善性というようなことも、これも問題があるわけでございます。それから、大学としても学生教育の客体としてのみ見ていた、学生の主体性ということを尊重してこなかったというような、いろいろ反省すべき点があると思います。  それからさらに、教育制度一般の問題もあると思うのです。つまり大学に入るまでの教育、これは、いわゆるマル・バツ式教育などということばもございますが、文部大臣が前から言っておられるのに、私もその点は賛成なんでございます。つまり白か黒か必ず答えが出るものだ。要求にしても、これはのむかのまないかだというような形で問題が提起される。しかし、学問の世界では、白か黒か答えが出るのはもう問題が片づいているわけで、白とも黒ともつかない灰色のところにほんとうの学問をすべき分野があるわけです。そういう意味から申しまして、マル・バツ的な教育の欠陥というものがある。これは入試制度にもつながるわけでございまして、われわれとしては、入試制度においても、できるだけ記述的な問題を今後は重視していくべきだという考えを持っておりますが、そういう点で、大学に入るまでのところにかなりの問題がある。あるいは、先ほどから申しました政府のいろいろな教育政策、予算の面。ことに大学について申しますと、大学院あるいは教養課程についての予算、人員の不足ということが問題である。それからさらに、日本独自の問題としましては、先ほど申しました学生間のセクトによる対立というような問題もございまして、そういうことがいろいろからみあって大学紛争となっている。それが学生の要求、訴えという形では必ずしも全面的には表明されていないけれども、われわれとしては、そういう問題があるのだということは、事実として認識してかかっていかなければならないというように思っているわけでございます。  お答えになりましたか、どうですか、一応これで終わらせていただきます。
  80. 高橋武彦

    高橋公述人 若い人たちが何を求めているのかということについて私がどう考えているかということでございますが、私は、いまの若い人たちが一番迷っているのは、新しい価値とは一体何なんだろうかということ、今日の科学社会の中においてそのために非常に迷いを感じているということに大きな原因があるのではなかろうかと思います。したがって、いま私たちが憲法のもとで貫いております民主主義そのものにつきましても、直接民主主義ということばがあらわれて、今日の民主主義そのものに対しての疑問を持ち始めております。また、民主主義とは一体手段なんだろうか、目的なんだろうかということについても、私は疑問を持っているのではなかろうかと思います。さらにまた、今日の大衆社会において、民主主義といいながら、その中でリーダーシップというものは一体必要なんだろうかどうなのかということについても、やはり新しい価値を求める一つの悩みとして学生が取り組んでいるのではないか。そこで、そういう新しい価値をつかみ得ない今日においては、学生は、みずから決定しみずから行動をするということ以外に自分の行く道がないという段階にいまいるのではないかと思います。  これは、私たちおとなの社会にも非常に責任のあることでございまして、私たちは、他に対しては非常に力強く声を大にして改革を求めますが、しかし、自分に向けられた改革の要求というものについては拒みがちでございます。やはりそういうことが若い人にも影響しているのじゃないか。大学の場合もその例外ではない。大学に対して、学生の側からも、また大学の外からも改革を叫ぶ、求める。そうすると、それに対しては改革を拒否するという一つの体質を持っている。大学自身は、政治その他の社会についてはいろいろな改革を求めるけれども、自分のものについての改革は拒否する。これは単に大学だけではございません。われわれの社会のあらゆる分野にそういうものがあるのではないか。そういうことが、やはり学生の若い気持ち——学生というか、すべての若い人たちに、やはりおとなの社会というものに対して一つの拒否反応といいますか、疎外感といいますか、そういうものを持って、みずから決定しみずから行動する以外にはないのだ、それがいまわれわれがっくり得る最大の価値であるというふうに考えている。そこに私はいまの若い人たち一つの迷いがあるという気がいたします。したがって、おとなの責任としては、他に改革を叫ぶと同時に、われわれはわれわれ自身に向けられた改革をも受け入れるという寛容さを持って若い者にこたえるということが、いま最も必要なときではなかろうか、こういうふうに考えております。
  81. 長洲一二

    長洲公述人 御質問はたいへんむずかしいと存じますが、私へは、中教審答申についてどう思うかという御質問だったと存じます。  実はいま手元にちょっと準備がございませんので、こまかいことはお答えできかねるのでございますが、まず第一点は、率直に申しまして、私どもも、最近の中教審答申にはあまり賛成ではございません。私自身、あるいは私の身の回りの同僚たち、あるいは学生たちのフランクな意見を聞きましても、ポイントは二つあるように存じます。  ごく一般的なことでございますが、一つは、中教審というものが何か公正中立であるということに対する深い疑いがあることは事実でございます。これはやはり政府任命というところで、ことばは悪いのですけれども、大体そういう方々が選ばれやすいのではないかということについて深い疑いがございます。この点は審議会について、いろいろそうした点で今後考えていただきたいように存じます。  それからもう一つは、中教審の答申全体にあることでございますが、いろいろ、世代の価値観の相違とか、新しい多元的な社会とかいうような御指摘もございますけれども、しかし、どちらかといえば、私どもの印象では、何かいやおうなしに変わりいくこの社会の文明あるいは歴史の中で、できるだけあまり変えまいというような方向でいろいろお考えになっている面が強いのではないか。いろいろ新しい社会といったような御指摘もありますけれども、しかし、具体的な規定の中身の点になりますと、いわば改革というよりは、既存の秩序をできるだけ維持しようという方向に傾斜しているお考えが、全体として貫いているように存じます。  この点は、いま高橋さんその他の方々もおっしゃったわけでございますが、私は、少し大げさかもしれませんし、書生論議かもしれませんけれども、今日の大学問題の背景には、いわば大きな歴史的な過渡期といいますか、変革期のようなものが横たわっていると思います。人によっては、よく古代から中世へ、中世から近世へのあの壮大な過渡期に似ているということをよくいわれます。私は、似ているのみならず、それは非常に時間的に圧縮された形で、しかもグローバルな規模で展開しているという点で、もっと激しくドラマティックであるように感じております。しかも、この現代の社会の中では、先ほどの高橋さんあるいは加藤さんの御説明にございましたように、非常なテンポで科学技術文明が進んでおります。これに背中を向けることはできません。しかし同時に、その中で一体人間というのはどうなっていくのかということに対する強い不安や焦燥感が、私どもにもございますし、特に敏感な若い人たちをとらえているかと思います。いわば人間と科学技術文明との分裂といったようなことで、統一的な生きる人生観とか世界観、価値観というようなものが、目の前であれよあれよという間に崩壊しているのが現実ではないかと考えられます。しかも、いろいろ、デモクラシーとか、あるいは社会主義とか等々、何か私どもの人生というようなものについて、たとえば、戦後の若い人たちをとらえておりましたアメリカンデモクラシーとか、あるいはソビエトコミュニズムとかいったような、立場こそ違えある一つの統一的な権威ある世界観があったわけでございますが、それがたとえば、片方ではベトナムの問題であるとか、片方ではチェコスロバキアの問題であるとか、中ソ対立の問題であるとかということで、国際的にもそうした権威が崩壊しております。若い人たちがたよるべき価値観、権威がくずれております。そのことは、日本の中にも私は反映していると思います。しかも他方で若い人たちが感じておりますことは、権威はだんだん低下しているにもかかわらず、権力はますます大きくなっていく。こういう権威の低下と権力の強化というアンバランスな状況に対して非常ないら立ちを感じているのが現代の大きな問題ではないかというふうに私どもは感じます。  そうした点で、この人々を励まし得るような新しい権威、新しい価値観をどうやってつくり上げていくのか。それには、いままでの考えからかなりめがねを取りかえ、頭を切りかえて歴史の新しい局面を見ていく、こういう姿勢がなければならないかと感じております。そういう点で、私どもも微力で、まだ明確に、何が新しい価値観であるか、青年たちの魂を引きつけるような、インスパイアするような新しい価値観を提起できないことを残念に思い、努力中でございますが、この中教審答申等につきましても、そうした面での前向きの姿勢が私自身は乏しいというふうに感じております。非常に一般的なお話で恐縮でございますが、一応お答えにさせていただきます。
  82. 有島重武

    ○有島委員 三人のお話を伺いまして共通していえることは、ここに大きい時代の変換の中に、人間性ということ、人間とは何かということ、新しい価値を求める、そういうような問題がいまここでもって問われている、そういった点ではお三人とも一致していたように思うのですけれども、私は、それじゃそういった問題にどのように取っ組んでいくか、それがたいへんむずかしい問題だと思います。特に、新しい価値が問われておる、あるいは人間の問題である、こうしたことを大学大学なりにこれに突き進んでいく、取っ組んでいく、そういったことが現在それじゃなされておるかというと、むしろそういった新しい哲学体系をつくっていくというようなかまえよりも、やはり大学自体も、まだ現状をどのように制度的に処理していくかというところに低迷しているのじゃないか。これは、さっき書生論的にと長洲先生おっしゃいましたけれども、そういったような哲学の問題がやはり真正面から取っ組まれておる、それから制度的な問題も取っ組まれておる、財政的な面も大いにそこに充足されていかなければならぬ、そういうふうなことが今後必要なんじゃないか、そういうふうに私は思います。  第二番目の問題でございますけれども、これは具体的な問題ですけれども学生参加の態様と限度について伺っておきたいのです。  先ほど、全学集会、大衆団交の問題が出ておりました。それから、代議制にしなければならないけれども、代表の選び方の問題、こういったことも具体的には非常に困難なことじゃないかと思うわけであります。  私たち、昨年の十二月に公明党の大学高校問題特別委員会から提言を出しまして、教授、助教授以下の教官、職員、学生、あるいは大学院生、おのおのの立場から直接選挙をもって構成する学園民主協議会というものを制度化してはどうか、学園民主協議会と同じように直接選挙でもってつくった学部での民主協議会、そういった二段階のテーブル方式を提案したわけでございます。先ほどからお話伺っておりまして、大体その方向というのが妥当なんじゃないかというように認めていただいているのじゃないかというふうに私受け取ったわけでございますが、今度は、現実の問題といたしますと、そういったことはいいに違いないのだけれども、それが言うべくして行なわれない、いろいろな困難があってできないのだ。学生さんなんかの御意見でもそうであります。伺っておきたいのは、現場にそうやって問題と取っ組んでいらっしゃるお立場から、そういうようなテーブル方式をつくっていく上にどうしても克服しなければならない課題といいますか、困難というか、それはどの辺にあるのであろうか、そういうことを伺っておきたいと思います。これは加藤先生と長洲先生とお二人から伺いたいと思います。
  83. 加藤一郎

    加藤公述人 学生参加の問題はたいへんむずかしい問題でございまして、私どももまだ結論が出ないところでいろいろ問題点は検討している段階でございます。  問題としては、参加の内容の問題と、その手続、形式の問題と両面あると思いますが、内容については、どこまでどういう形で参加を認めるかということがございます。たとえば個々の教官の人事について学生が参加するということは、これは考えるべきでないというように私個人としては思っております。それから財政面についても、学生参加ということは問題がかなり限定されるであろう。あるいは全然認めないという考え方もございます。しかし、学生自身の生活に関する問題については、いろいろな形で学生の参加を認める、広い意味での参加を認める必要があるだろう。それから教官の人事の中でも、まあ学長選挙などについては、一橋でやっておられるような拒否権方式とか、そういうやり方を考えることはできるのではないかというような意見があるわけでございます。問題としてありますのは、そういういまの参加の範囲の問題。  それからもう一つ、非常にむずかしいのは学生代表の選び方の問題でありまして、つまり学生自治会の多数派が全部それをとるというようなことになると、あまり適当ではないのではないか。やはり本来ならば、学生の中でそれぞれの問題についての専門家といいますか、専門的な意見を持った人が出てくることが望ましいと思うのですが、それがなかなかむずかしい。学生代表をどうやって選ぶのか、学部別なのか、あるいは全学一緒なのかというような選び方の点で、いま特に学生の組織がいろいろ分裂しておりますものですから、代表の選び方が非常にむずかしい。  参加の方式としては、大ざっぱに申しますと、メンバーシップ方式といいますか、一つの共通の委員会をつくるという行き方と、それに対して、それぞれが拒否権的な参加といいますか、お互いに相手の決定に対して拒否をするというような行き方と、まあそのほかいろいろございますけれども、そういう問題があるわけです。メンバーシップ方式は、これはお互いに共通の地盤に立っている問題については考えられると思うのですが、ただその場合に、それじゃ委員の構成をどういうふうにするのか、教官学生の数をそれぞれどうするか、中間層はどうするか、職員はどうするかということになりますと、数の割り振りが非常にむずかしい問題になります。  先ほど学内規律の問題ちょっと触れましたが、たとえば学内規律についての規則をつくるというようなのは、これは大学の全構成員にやはりかかわる。全構成員が、これは教官といえども服しなければならない規律である、学生も職員も服するということであれば、そこには共通点ということが考えられるので、それで私どものほうの改革準備調査会では、そういう意味での学内規則をつくる立法委員会みたいなところではメンバーシップ方式ということが考えられるのではないかという一つの検討材料を出しているわけでございます。これに対して、同じ問題でも利害が直接対立するような問題については、メンバーシップ方式というのはなかなか困難がございまして、むしろ拒否権的な方式のほうがいいのではないかというようなところをいろいろ議論している段階でございまして、私どもはこの秋から本格的な検討をやって、できるものから改革をしていきたいというふうに考えているわけでございます。  お答えが適切であったかどうかわかりませんが、一応終わらせていただきます。
  84. 大坪保雄

  85. 石田幸四郎

    ○石田(幸)委員 時間がなくなりましたので、私は一点だけ加藤先生にお伺いをいたしたいと思います。  今日の大学紛争が大きな社会的な現象でございます。この現象面にとらわれて、その根底にある本質問題についての問題が十分に究明されていないのじゃないか、あるいはまた現象面と本質面において私は非常に多くの混乱があるように感ずるわけでございます。  私がお伺いをいたしたいのは、この本法案が、いわゆる大学の自治に関する、あるいは学問の自由に関する基本的な問題、本質的な問題に非常に欠けているところがある、こういうふうに思っておるのでございますが、その問題についてでございます。と申しますのは、第六条におきましては、紛争時において補佐機関審議機関、執行機関、この三つの機関設置することがあげられておるのでございます。そして補佐機関、執行機関等につきましては、第六条の三項にありますように、「第一号に掲げる機関又はその構成員の任命は、学長の申出に基づき、文部大臣が行なうものとする。」このように言われておるわけでございます。これは、学長の申し出に対して文部省が承服できなければ文部大臣が拒否権を発動する、こういうような可能性もあると私は思うわけでございます。憲法上、大学の自治に関する明文はないわけでございますけれども、これは当然、憲法第二十三条の学問の自由が保障される最大の必要条件として今日まで慣習的に認められてきたものだ、このように思うわけでございます。その大学の自治を保持するために一番大事なのは人的構成ではないか、私はこのように思うわけでございます。その大学の自治を保持するためには、それに参加する人々が自分の意思を自由に表現し、そしてそれが全学の意思になっていかなければ大学全体の一つの決定とはなり得ない、こういうふうに思うわけでございます。そこで、もし紛争中に特定の首脳陣に対して文部大臣が、そういうようなメンバーでは困る、全部入れかえをしてもらいたい、こういうふうなことを言ったとすれば、そういうこともこの文章からいけば可能なわけです。こうなりますと、私は、大学のいわゆる諸問題を決定するための意思の反映が非常に片寄ったものになるのではないか、こういう意味で大学自治に対する権力の介入ではないか、このように感じておるわけでございます。  もう一点は、第七条における「教育等の休止及び停止」の問題でございますが、教育の休止も望ましいことではありませんが、特に研究の休止もしくは停止については非常に大きな問題を含んでいるのだ、このように思うわけでございます。たとえば医学関係の場合、ガンの研究というものはなかなか早急に結論が出るような問題ではございませんけれども、しかしながら、今日の大きな社会問題化している現状を見れば、一日でも早く何らかの結論を出さなければならない問題だと思うわけでございます。こういうものまでが研究を休止されるということは人道上許さるべき問題ではない、こう私は思うわけでございます。そして、その研究の休止もしくは停止をする場合に一体だれが判断をするんだ、このようになりますと、私は、専門家以外はこれを判断することは非常にむずかしいんじゃないか、このように思うわけでございます。そういう意味におきまして、たとえば学長が、あるいは文部大臣研究停止を命ずるとすれば、それ自体学問研究への権力の介入であり、自由の侵害であるんじゃないか、このような疑点を持っているのでございますが、加藤先生のお答えをいただきたいと思います。
  86. 加藤一郎

    加藤公述人 まず第一点の、六条における補佐機関その他の機関の任命でございますが、私どももこれについては深い懸念を持っております。東京大学の実例を申しますと、現在イの「副学長その他これに準ずる学長を補佐する機関」として特別補佐二名、補佐四名をお願いしているわけでございますが、現状ではこれは大学の中で自由に選べるわけでございます。それからロにあたるものとしては「大学運営改善に関する事項について審議する機関」、直接これに当たるかどうかわかりませんが、先ほどから申しております大学改革準備調査会というところで数十人の委員に委嘱をして審議をしているわけでございます。これも大学内部でやっているわけでございますが、それについて、この三項で文部大臣が任命をするということになり、そこで拒否権が生ずるということになれば、今までよりも大学の自主的処理ということが困難になる。これは一条の目的と反することになるのではないか。あるいは副学長の給与はよくするから文部大臣が直接任命するという形式をとる必要があるという、形式で優遇をしようというお考えかもしれないのですが、拒否権がないということならそれでもけっこうですが、ここら辺の機関は、むしろ学長と一体となって、いわばそのブレーンとなり、あるいは学長の執行を助けるという機関でございますから、これについて拒否権があるということであれば大学の自主的な運営は阻害されるということで、問題のある規定だというように思っております。  それから第二点の、七条の研究教育の休止及び停止でございますが、これも問題点でございまして、休止については、ここでは一項で学長が、それから停止については文部大臣がということになっておりますけれども、先ほどから申しておりますように、教育停止することによってかえって紛争解決は阻害されるという問題のほかに、休止、停止によって研究がとめられる。どういう研究をとめるかということは、実際に機能の麻痺した部分をとめるということなのかもしれませんが、それならば別に何もしなくてもとまっているわけですし、現在動いているものをとめるということになれば、これはやはり研究の自由に対する実質的な侵害という面が生じてくる、そういう意味でやはり非常に問題のある規定であるというように思っております。
  87. 石田幸四郎

    ○石田(幸)委員 終わります。
  88. 大坪保雄

    大坪委員長 以上をもちまして、四公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人各位におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとう存じました。厚く御礼を申し上げます。  この際、休憩いたします。午後の部は午後二時に公述人出席されますが、午後二時三十分公聴会を再開いたすことにいたしたいと存じますので、さよう御了承願います。    午後一時五十八分休憩      ————◇—————    午後二時四十分開議
  89. 大坪保雄

    大坪委員長 休憩前に引き続き、公聴会を再開いたします。  大学運営に関する臨時措置法案についての公聴会を続行いたします。  本日午後は、京都大学教授杉村敏正君、慶応義塾大学教授石川忠雄君、和光大学助教授生越忠君、十全綜合病院院長赤木五郎君、以上四名の公述人から御意見を承ることといたします。  再開にあたりまして、御出席公述人各位にごあいさつを申し上げます。  お待たせいたしまして恐縮に存じます。本日は御多用中のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。  申すまでもなく、本公聴会を開きますのは、目下本委員会におきまして審査中の大学運営に関する臨時措置法案につきまして、公述人各位の御意見をお聞きいたしまして、本法案審査参考にいたしたいと存じますので、それぞれの立場から忌憚のない御意見をお述べ願います。  なお、御意見を承る順序といたしまして、まず杉村公述人、次に石川公述人、次に生越公述人、次に赤木公述人の順に、お一人約十五分程度で一通り御意見をお述べ願いまして、しかる後、委員質疑があればこれにお答えいただきたいと存じます。  なお、念のため申し上げますが、衆議院規則の定めるところによりまして、発言の際は委員長の許可を受けてから行なうことになっております。また、公述人委員に対して質疑をすることができないことになっておりますので、この点あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  それでは、まず杉村公述人よりお願いいたします。
  90. 杉村敏正

    ○杉村公述人 現在、国立、公立、私立の区別なく、教室、研究室、事務室の占拠封鎖授業放棄などで、異常な状態大学に起こっております。そのような占拠封鎖授業放棄自体が問題であることはもちろんでありますが、それらの行為が行なわれます際に、またこれらの行為を排除いたします際に生じます学生教職員、あるいは機動隊などの間の紛争は、われわれ大学関係者のまさに心痛しているところであります。  直接大学に対しまして、学生諸君はいろんな方法で抗議をいたします。その場合に、いま申し上げましたような占拠封鎖というふうな激しい形態にも及んでおります。私は、そのような方法は、一教員として不当であると思いますが、しかし、現に大学で学んでおり、そして国民社会のある一つの有力な集団としての学生諸君が提起いたしましたその問題は、真剣に考える必要があろうと思います。  紛争の直接の原因は、あるいは寮の問題、あるいは教室の問題あるいは授業料の問題、いろいろ違っております。しかし、そのほかに基本的に、現在の文教政策、あるいは科学政策に対する批判があるということが考えられます。また、大学自体が、従来の慣行をあまりに固守し過ぎておる、それに対する批判もございます。あるいはさらに、現在大学で行なわれている研究自体教育自体がいかなる価値を持つかということを問題にしております。  学生諸君が出します問題が、その学生諸君がどのような立場のものでありましょうと、そのような基礎的な問題が含まれておりますから、この問題を解決するということは、はなはだ困難であります。その際、大学といたしましては、単にその場の紛争処理というだけ、あるいは表面的に紛争処理するというだけでは問題は解決されないと考えております。その点からいえば、大学教職員は、大学の従来からの管理運営あり方、これをみずから検討する必要があろうと思います。また、自分たちの行なっている、あるいは関係している教育研究自体をもう一度考え直す必要があろうと思います。そういうふうにすることがこの大学紛争を真に解決する方法であり、大学教職員として、公教育を行なうものとして国民にこたえる道だろうと思っております。  現在、いろいろな大学大学段階、あるいは学部段階で、制度改革検討の組織がつくられております。たとえば京都大学の場合でも、大学大学問題検討委員会ができております。また、私が所属いたします学部でも、学部制度検討準備会ができております。私は、そのような努力が成果を得て初めて大学問題が、また大学紛争が真に解決されると思います。  私は、学術会議の一会員でありますので、学術会議が大学紛争解決の基本的な姿勢としてとりました三つの原則を申し述べたいと思います。  一つは、各大学における問題の自主的解決であります。二つは、大学における管理運営の民主化であります。三つは、全大学の連携及び国民諸階層との意見交流であります。  ところで、いま出されております法案につきまして、やや法技術的な観点もまじえて私の意見を申し上げます。  この第一条は、「大学紛争が生じている大学によるその自主的な収拾のための努力をたすけることを主眼」としてこの法案が制定されたことを示されております。  そこで、この法案は、文部大臣あるいは学長に各種の権限を与えておりますが、その場合に、まず文部大臣が持つ非権力的な関与方式といたしましては、勧告の権限が重要であろうと思います。そして第五条の第二項によりますと、この文部大臣の勧告は、いま申しましたようにまさに「当該大学による自主的な大学紛争収拾及び当該大学運営改善のための努力をたすけるようなものでなければならない。」、こうされております。そして現在どの大学におきましても、大学紛争収拾するための、また大学運営改善するための方策を検討しております。その場合に、文部大臣の勧告の措置が、当該大学で検討しておる収拾措置、あるいは改善措置と矛盾する場合にどのようなことが起こるかが問題であろうと思います。第三項で「第一項の勧告を受けた紛争大学学長及び当該大学のその他の機関は、その勧告を尊重し、勧告に係る措置の実施に努めなければならない。」ということ、勧告尊重義務、これはもし意味を持つといたしますれば、実は文部大臣の勧告にかかる措置と、大学が自主的に判断する措置とが食い違う場合にあるわけであります。そうするならば、この第三項の規定よりいたしましても、実はそれは大学の自主的な紛争解決措置をふさぐものではないかというふうに考えられるわけであります。  この法案の最も重要な規定が、文部大臣による学部等の研究教育停止、及び文部大臣による国立学校設置法の改正その他の措置規定であることは明らかであります。教育等の停止につきましては、これは文部大臣が自己の認定によってされるわけでありますから、したがって、ある大学のある学部で、研究教育を継続しながら紛争解決する、その措置をとろうといたします場合に、文部大臣の判断によってその研究教育が阻止されるということになります。それは、一つ大学が自主的に紛争解決をするということに矛盾いたしますし、また文部大臣の判断によって当該学部等の研究教育停止されるということになりますれば、それは研究の、また教育の自由の制限になると思われます。  また、この停止の場合に、一部の教職員を除きましては、任命権者によって休職になるわけでありますが、それは大学の全構成員によって民主的に大学紛争解決をはかろうという立場に矛盾するものであります。  また、国立学校設置法などの改正の措置、これは国立大学に限りますけれども、このような廃学、あるいは廃学部措置というものは、直接に紛争解決、自主的な紛争解決努力を助けるものということとは無関係であることは明らかであります。  そこで、そういう点からこの第一条でうたわれておる、真にこの法案大学紛争の自主的収拾を助けるものであるかどうか、ここに疑点があります。  さらに、この法案を見ました場合に、いわゆる多義的な不確定概念が多く用いられております。それは大学紛争の定義にしても同様であります。大学紛争の定義は、この法案のすべてにかかる重要な定義規定であります。私といたしましては、できる限り大学紛争を例示するか、少なくとも大学紛争だと判断し得る最低限を示していただきたいというふうに思っております。また、たとえば学長は、紛争収拾のために必要だと判断する場合には教育等の休止をすることができますが、その場合の要件が、必要と認める場合というだけになっております。また、文部大臣教育等の停止権限を行使いたしますその要件といたしましては、一定の期間の経過とともに、大学紛争収拾が困難な場合となっております。国立学校設置法の改正等の措置をとります場合には、その他の規定のほかに、大学紛争収拾が著しく困難な場合となっております。これはいずれも裁量的な権限を与えます。もし要件の規定立法技術的に困難でありますならば、その裁量権が乱用されないような手続的な措置が必要だろうと思います。と申しますのは、学長の休止の権限の場合に、この法案では少なくとも明示的には学長がどの機関にはかるのかということに関する規定がございません。また文部大臣が、いま申し上げました学部等の教育等の停止権限を行使する、あるいは国立学校設置法の改正の措置をとる、その権限を行使いたします。その要件規定が不明確であるならば、その権限が適正に行使されるような、同様な手続的な保証が必要だろうと思います。その場合に、学長意見は聞かれるだけであります。  臨時大学問題審議会の構成につきましては、私は少なくともその任命に際して国会の同意を得るか、あるいはさらに進めば、一例でございますが、国立大学協会というものもあります。そういうふうなこの構成者を任命し得る範囲を、幾つかの団体に限定する、そのような措置がとれないかというふうにも考えます。と申しますのは、この法案における臨時大学問題審議会の委員の構成につきましては、その独立性、あるいは第三者性、公正性を保証するという点において不十分ではなかろうかと思うわけであります。  そのほかに、要件に関する規定ではございませんが、教育等の停止措置をとりました場合に、この法案では「この場合においては、当該大学学長に対し所要の措置をとるように指示するものとする。」こうなっております。また、国立学校設置法の改正の措置のほかに「その他必要な措置が講ぜられなければならない。」となっております。こういうところも法案の場合には可能な限り内容を明確にすることが立法者としての任務であろうとも思います。  そういたしますと、このような点を少なくとも例示的なものをあげるか、一応この法案を読みました場合に、そこでとられる文部大臣措置について、一般的に判断できるような形にしていただきたい。こういうふうに思っております。それがこの法案自体について私の批判的な見解でございます。  最後に、初めに申し上げましたように、大学紛争解決は、大学の全構成員が従来の大学における研究教育につきまして、真剣に反省、検討を加えまして、またその上に、国民各層と十分に意見を交流し、是正すべきものはすみやかに是正するということによってのみ得られると思います。それが文部大臣による権力的な措置によって解決せられ得ないことは、現在大学の関係者の多くの人が認めているところであります。また、それだけではなくして、この法案が出されましたために大学紛争が激化したということも事実であります。あるいは現在は法案法律化されていないから激化されているので、この法律が実施されればそれが解決される、あるいは収拾されるというふうにお考えになるかもしれませんが、この大学紛争の原因をさきに申し上げましたように考えますれば、そのようには参りがたいと考えております。  そこで、そういうふうな事情であるにもかかわらず、この法案提出されております。全く私の個人の見解でありますが、この点はたとえば日本の高等普通教育以下に対して、昭和三十一年以後、文部省からの統制が強まっていると考えております。また昭和三十七年の中教審の大学の管理運営に関する改善案もございましたが、この改善案でも文部大臣学長大学の人事に関する権限強化というものが考えられております。これはこの法案では学長権限強化、これと結びついて考えられます。   〔委員長退席、西岡委員長代理着席〕 また、最近の文部次官通達「大学内における正常な秩序の維持について」、このことや、あるいはよく問題となっております九州大学学長事務取り扱い発令拒否事件などに、やはり現在の文部省一つ教育行政の考え方が出ていると思います。  そのような観点で考えますと、この法案は、現在大学大学紛争のために非常に苦労をしておる、ある意味からいうならば困っておるということは事実であります。努力はしておりますが、やはり現在は困っておるわけです。この場合に、かりに限時法でありましても、文部省大学に対する関与、この権限強化される意図があるんではなかろうか、というふうに思います。それは、結局教育統制は国民の思想統制につながってまいります。私は、やはり最初申し上げましたように、この大学紛争というものは、大学自体が自主的、民主的に検討し、その紛争の原因を、大学のできる範囲においては大学みずからするということしか解決方法はないと思っております。そういう意味からこの法案については反対でございます。  以上でございます。(拍手)
  91. 西岡武夫

    ○西岡委員長代理 次に、石川公述人にお願いいたします。
  92. 石川忠雄

    ○石川公述人 私は、法律家ではありませんので、今回のこの大学運営に関する臨時措置法案というものについての内容には、実はあまり入りたくはないのでありますけれども、ただ、この法案を拝見いたしまして私が感じましたことを、三つだけ申し上げておきたいと思います。  第一点は、実は、現在の時点においてこの法案立法化するその意味と申しますか、そういうものについての考えであります。  現在大学では非常に多くの紛争がある。そしてその紛争内容を検討してみますと、それは確かに大学の古い制度、つまり、いままで存続してきた制度に対する反対というような意味合いももちろん中に入っております。しかしながら、それと同時に私は、大学の中にいるいわゆる教員でありますが、その人たち研究とか教育に対するあり方、そういうものを問題にしている、そういうものを問うているというところも、私はあると思うのであります。確かに、大学の制度を変革する、改革するということは、それなりに重要な意味を持っていることは、申すまでもありません。しかしながら、それならば大学の制度が変わればそれで大学紛争の問題は片づくのだろうかというふうに考えてみますと、私は、決してそうではないというふうに思うのであります。むしろ、大学の制度そのものも大切でありますけれども、それ以上に、実は大学を構成しているところの教員、学生、そういうものの内容あり方というものが、実は一番問題なのではないだろうかというような気が私はいたすわけであります。  そういう意味で、実は、大学紛争が起こって、確かにわれわれは研究についても教育についても非常に困惑しておる、これは間違いがありません。それから大学の中で、こういう状態ではいけない、したがって、われわれは新しい時代に適応できるような、そういうような大学の制度の改革も考えなければならない、こういうことは確かに言っておりますし、またその中でわれわれも努力はいたしておるわけであります。しかしながら、ほんとうにいまの大学紛争の中で、非常な苦しみというものを、大学を構成する人々全部が一体ほんとうに味わっているだろうか。私は、苦しみの中から、あるいは悩みの中から実は新しい大学というものが生まれてくると思うわけでありまして、その意味で、一体大学自体が、学生も、教員も、みずからのあり方について、ほんとうにそれを反省し、あるいはほんとうに何か新しいものをつくり出すということの努力を、いま十分にやっているということがいえるだろうか。逆のほうから申しますと、私の考えではむしろそうではなくて、その苦しむ度合いというようなものは、新しい大学を生み出すためにはまだ不十分なのではないだろうかというような気すら私はするのであります。そういう意味で、私は、大学はもっと苦しんだほうがいい、そしてその苦しみの中から自分たち考える新しい大学をつくり出す、そういうような努力をしたほうがいいのではないかというような気がいたしております。もちろん、その状況大学によって違うでありましょうけれども、しかし、全体として私はそういう感じを現在抱いておるわけであります。  この大学運営に関する臨時措置法案というものは、あるいは大学紛争そのものを解決するということに役立つかもしれません。しかしながら、大学の中にいる学生も教員も、ほんとうに大学あり方について、苦しみ悩んで、そこから生まれて出てくる新しい大学というものを考えるのに、こういう大学運営に関する臨時措置法案というようなものが、むしろその途中でそういうような状況を救ってしまう、そのことがはたして日本の将来の大学にとってどれだけ意味があるだろうか、むしろ私は、大学はみずから苦しんだほうがいいという感じがいたします。その点で、もし大学の中でそういう苦しみの中から立ち上がる大学があるならば、それは大学として十分今後の発展を期待されるわけであります。しかしながら、もしその重荷にたえかねて、みずからそれを救う道を自分で発見できないような大学というものがあるならば、私は、その大学大学たることをやめたほうがよろしいというふうに考えるわけでありまして、その点で、何か中途はんぱなところで救いの手を差し伸べるということが、はたしていかがなものかというふうに私は考えるわけであります。  それから第二点でありますが、これは大学の制度の変革一般の問題であります。御承知のように、大学には学問の自由、思想の自由というものがなければならないということがいわれております。私も全くそのとおりであると思います。大学における思想の自由というものは、当然これは学問の進歩を促すものでありまして、また学問の進歩によって、実は人類の福祉の発展ということも期待されるわけであります。しかしながら、そういう意味で、実は大学の中には現在の体制にくみする思想があってもいいし、また現在の体制を越えるものの考え方というものがあってもよろしい、またあるべきである。そしてそれがお互いに討論あるいは研究の、その交換の過程を通じて学問を進歩させていくということであろうと思います。そのためには、実は大学の中には、いわば理性の原理というようなものが貫いていなければならないのでありまして、力の原理が大学の中に入ってくるということは、こういう学問研究あるいは思想の自由というようなものを阻害することになると私は思います。したがって、いかなる理由があるにしても、この大学の中における理性の原理というものは実はどうしてもなくしてはならないものでありまして、その意味で私は、現在の大学紛争の中における暴力の存在というものは、何としても否定しなければならないというふうに考えております。  ところで、そういうような暴力というものを否定する、あるいに排除するということについて、大学が一体どういうことが考えられるのかと申しますと、大きく申しまして私は二つの道があると思います。  その一つの道は、言うまでもなく大学自体は力を持つわけではありませんから、したがって、警察力を使うにしても何にしても、暴力を排除する方法というものは、これは考えられるわけであります。  それからもう一つは、やはり大学が現在の社会の、新しい社会というものに適応できるような、柔軟性を持った大学をつくるということであります。それはただ単に社会におもねるということではないのでありまして、先ほども申しましたように、体制を越えるものの考え方が大学にあっても一向に差しつかえないし、あるべきである。したがって、そういうふうに考えてまいりますと、つまり大学を構成する学生諸君の中にも、実は新しい時代、新しい社会というものの中に、何か自分の生き方と対比して新しいものを求めてくる、新しい問題を提起してくるという側面があるわけでありますから、そういうものを含めて、大学の機構全体がもっと柔軟にならなければならない。これは先ほども申されましたけれども、やはり大学の制度改革の問題につながると思うのであります。そうすることによって、大学自身がそういう柔軟性を持てば、暴力によって実は大学の中を麻痺状態におとしいれるというような力というものは、だんだんと局限化されてくるわけであります。したがって、それが局限化されればされるほど大学は安定を取り戻し、理性の原理が大学を支配する、そういう形になってくるのであろうと思います。  そういう意味で、実は紛争の当面の解決ということだけを目的にして、いろいろな立法をするということよりは、むしろ、大学あり方というものの全体のワクの中でこの問題を考えたほうがよろしいのではないか。先ほども申しましたけれども大学自身が現在、先ほど申したような意味でほんとうに苦しんでいるのか、全構成員がそうなのかというと、その点にやはりそうでないようなものを私は感じますので、あえてこういうことを申し上げたいということであります。  それから第三の点は、この大学運営に関する臨時措置法案の中で、たとえば学長権限が強まってくるということがあります。こういうようなことは、実は大学の問題を解決する場合に、ただ学長権限が強まるということだけで大学の問題が解決されるかというと、私はむしろそうではないのだというふうに申し上げたいのであります。   〔西岡委員長代理退席、委員長着席〕 言いかえますと、大学というところは、いろいろなものの考え方が存在しているところでありまして、大学学長は、そういういろいろなものの考え方の存在の中で、やはり大学を構成する教員、そういう人々の協力をじみちに積み上げることによって大学を動かしていく、本来そういう性格を持っているところであります。したがいまして、もし学長権限強化されたということで、学長大学の構成員の意思から離れていくというようなことが起こりますと、実はこのことはかえって紛争を大きくする原因になりかねないというような気がいたします。確かに現在、学長が指導性を発揮するということについては不便なところがたくさんあります。しかしながら、指導性というのは、やはり大学の構成員全体と結びついているところにほんとうの指導性が出てまいるわけでありまして、そういう点から申しますと、この学長に関する権限の集中というような点、権限強化という点については、こういう規定が必ずしもなくてもいいのではないか。むしろ、こういうような規定がなくても、現在の体制の中でも、大学の構成員と密着しながらそれをやっていこうとすれば、それは必ずしもできないことではないのではないだろうかというような感じがいたしております。  それからこの法案の中にある廃校の問題でありますが、この問題につきましては、これは私の法律に対する無知からかもしれませんが、大学運営に関するこの臨時措置法案の中で、なぜこれをこう詳細にきめなければならないのかということが、実はよく理解できないのであります。言いかえますと、現在ありますたとえば学校教育法、あるいは私立学校法というような中にも、実は廃校の問題というものはあるのであります。したがいまして、こういう詳細な期間をきめて問題を考えるというよりは、やはりその場合には適正な判断を求める機関を別に設けて、そしてそこでもってその監督官庁なり何なりが、その廃校の問題というものを決定していかれたらよろしいのではないだろうか。どうもそういう点で、現行法のワクの中でもそういう問題は可能なのではないだろうかというような気がいたしております。  それから最後に、これは杉村先生も申されましたけれども、臨時大学問題審議会であります。この臨時大学問題審議会の委員の任命のしかたについて、やはりこういう形だけでいいのだろうか。私は、現在私立大学に属しておりますけれども、ああいう形で選考された委員が、たとえば非常にいろいろな特色を持つ私立大学に対して、ほんとうに適切な勧告ができるのだろうか。やはりこの審議会の構成という問題については、もう少し考えていただいたほうがいいのではないだろうか、こういう感じがいたします。  どうもありがとうございました。(拍手)
  93. 大坪保雄

    大坪委員長 次に、生越公述人にお願いいたします。
  94. 生越忠

    ○生越公述人 和光大学の生越でございます。  お二人の公述人の申されましたことの中には、私が共感する点がたくさんございます。それで両公述人が申されなかったことを、別の観点からいろいろと申し上げてみたいと思います。  まず、私は本席におきまして六つの点について私の見解を申し上げたいと思います。  まず第一点は、本日の午前中に私と同じく社会党の推薦としていろいろ意見を申されました東京大学加藤学長とどこが違うか。いろいろと表現は似ているかもしれませんけれども加藤学長と私の考えとの間には千里の隔たりがございますので、その点をまず明らかにしておきたいと思います。二番目には、現在の大学闘争、あるいは大学紛争、これをどうとらえるかという点についての私の見解を申し上げます。三番目に、この法案がいかに実行性のないものであるかという点につきまして、私の見解を申し上げます。四番目には、先ほどお二人の両公述人がこの法案の不当性をいろいろと述べられましたけれども、私なりにこの法案の不当性を一つだけ、特に私が感じました点を申し上げたいと思います。五番目には、大学紛争、これを根本的に解決するためには、学生の真剣な問いかけに対して、大学人は真剣にこたえるべきである、その点を申し上げたいと思います。第六番目、本委員会への要望を最後に申し上げまして、私の見解をまとめたいと思います。  まず、第一点でございますけれども、現在の多くの大学教授たちは、閉鎖的な象牙の塔的な大学社会の中におきまして、権威の座に安住しているといわれております。私はそれは事実であると思います。それで私は何もそういう大学教授たちのカッコつきの学問の自由、あるいはカッコつきの大学の自治、そういうものを守るためにこの法案反対しているのではございません。私は、現在の大学にはほんとうの意味での自治はないと思っております。それから学問の自由も存在していないと思っております。学問の自由、あるいは大学の自治、そういうものはこれから私たち努力によって新しくつくっていかなければならないものであると思っております。そのためには、大学人、それから大学を取り巻いている社会のいろいろな人たち、そういう人たちが、それぞれさまざまな努力をする必要があると思いますけれども、そういう多くの人たち努力によって新しい大学づくりを進めていく上に、こういう立法、いわゆる大学立法という、こういう法案が出てまいりますと、そういう運動が阻害されます。そういう観点から私はこの法案反対するものでございます。したがいまして、現在曲がりなりにも日本の大学には自治がある、それから学問の自由がある、そういうことを前提といたしまして、大学の自治あるいは学問の自由に対する政府の介入を招くおそれがあるから、したがって、この法案には反対なのだという加藤学長の見解と私の見解とは、全く異なるということをまず申し上げておきたいと思います。  次に、大学紛争をどうとらえるかという点でございますが、最近の大学紛争は、世界の先進工業国で一斉に起こっているものでございます。いわば先進国における現代社会のさまざまな矛盾を反映したものであるということでございます。四月三十日に出ました中教審の答申でさえもその第一章でこのように書いてございます。「もとより、今日の事態は、その背後に個々の大学を越えて既存の社会秩序の変革をめざす運動があり、単に大学問題としてとらえるだけではふじゅうぶんであるが、」こういうふうに書いてございます。さらにそのあとで、「大学紛争が学内の問題にとどまらず政治的、社会的な問題と密接に関連していることは、わが国もとより殴米諸国でも共通に見られる現象である。」こういうふうに書いてございます。「しかもそのことが、経済的には高い水準にあり高等教育についても長い伝統と高い普及率をもつ国々で顕著になってきたことは、注目に値する。このことは、今日の世界における大学紛争が現代という時代の特有な性格に基因していることを示している。たとえば、既成のいろいろな政治的・社会的体制への不信、経済的には豊かな社会における精神的な空白、高度に技術化された社会における人間疎外など、さまざまな要因が多くの論者によって指摘されている。」と述べられております。私はこの指摘は正しいと思います。  大学紛争は、こういう現代社会の矛盾を背景として、個別大学におけるさまざまな矛盾や不合理な点、そういうものが原因となって起こってまいりました。  それで、初めは個別大学内部のいろいろな矛盾、それから不合理な点、それを是正するということで始められた闘争が全国的な規模に拡大するに至ったのは、やはり日本の社会全体にいろいろな矛盾があるということ、それから、その社会の中にある大学のこれまでの制度自身の中にも根本的な矛盾、それから不合理な点があるということ、それから、明治以来の長年にわたってつちかわれてまいりました日本の大学の古い体質が、依然として改められていない、そういうことがあると思います。  さらには、日本の大学のよって立つ基盤に根源的な問題があるんだ、あるいは日本の大学並びに大学人に見られる共通的、一般的、普遍的な姿勢、あり方、その中にやはり根本的に問われる問題があるということ、あるいはさらに、日本の大学並びに大学人は、一体何のために、だれのために研究教育をしておるのか、そういう研究教育がだれのために寄与しておるのかということについて、多くの学生たちが疑問を抱いている。こういうことが、個別大学に起こりました学園紛争全国的な規模に拡大するに至った理由であると思います。  特に最後に申し上げましたことは、たとえば東大についていいますならば、医学部であるとか、工学部の都市工学科であるとか、現代社会に住んでおりますわれわれの人間の生活にとりまして、一番密接な関係を有する学部あるいは学科の中で、非常に激しい闘争が起こっておるということからも立証されるのではないかと思います。  そういうことから、政府大学政策を含めた文教政策、そういうものと全面的に対決する、あるいは大学を取り巻いている社会の矛盾を是正するという、そういう闘争を起こすことなしには、個別大学の問題さえも根本的には解決できない。こういうふうに多くの学生考えるに至りましたがゆえに、全国大学紛争のあらしが吹きまくっておるのである、こういうふうに私は思います。  三番目、この法案がいかに実効性のないものであるかということでございますが、このように考えますれば、現在各地の大学に発生している紛争を、一つ法律で画一的に規制するということ、そういうことをいかにいたしましても、実効があがるわけがございませんでしょう。そればかりか、そのような法律紛争解決しようとするそういう考え方、あるいは姿勢こそ、国家権力による大学の全一的な支配を正当化する考え方でございます。そして闘争あるいは紛争を場当たり的に収拾させるだけで、問題の所在を隠蔽し、問題の解決をさらにあとに持ち越させてしまう結果になるだけであると思います。そして、このような法律がもし成立いたしますならば、大学現状を改革しようとしているまじめな学生、まじめな教職員たちを萎縮させ、学外へ排除させられる結果をもたらすでありましょう。そして大学の中には、いわばもの言わぬ教職員、もの言わぬ学生、そういう人たちだけを大学の中に残すことになって、大学の中から現在の大学の矛盾を是正する、あるいは大学を取り巻いている社会を改革していく、そういう運動の根を完全に圧殺してくることになると思います。そういうことは、将来到達すべき大学の姿、あるいは本来の大学の姿、そういうものとはおよそかけ離れた大学ならぬ大学に現在の多くの大学をしてしまう結果になる、そういうふうに思うわけでございます。  四番目、現在紛争が起こっております大学は、百をこえておるといわれておりますけれども紛争大学のうちの少なからぬものは、大学の管理当局者による大学の独裁的運営紛争の原因になっていることは、皆さまの御承知のとおりであると思います。したがって、紛争を防ぐためには、もとより先ほど申しましたような社会の矛盾の是正、あるいは社会の改革が必要であるにいたしましても、さしあたっては大学運営制度の抜本的な改革をはかること、また大学人——これは学生も含めてでございますけれども大学人の学問あるいは研究教育に対する姿勢を正す、このことが大事であると思います。特に管理運営制度の抜本的改革のためには、管理当局者に集中されておる強大な権限を末端に分散する、このことが大事であると思います。私立大学で申しますならば、理事者、教員、事務職員、学生、それぞれの固有の自立的な権限を認める、そして理事者の独裁を防ぐ、あるいは学長の独裁を防ぐ、あるいは教授会による独裁を防ぐ、このことが紛争が未然に防止される最も大事なことでございます。  しかるにこの法案では、紛争解決のためということで、権限を上部へ上部へと集中強化させております。最終的には文部大臣が絶対的な権限をふるえることになっております。権限が上部に集中していることが原因となって起こっている紛争を、権限をさらに上部に集中させることによって、何で紛争解決ができるでございましょうか。これでは一時的に紛争収拾されることはございましても、根本的な紛争解決はとうてい望み得ないでございましょう。そのようにしてかりに一時的に紛争収拾されたといたしましても、場合によっては機動隊が常駐する、あるいは機動隊が有事駐留する、そういう大学になってしまって、大学という名の営造物はございましても、そこでは大学という教育機関、あるいは研究機関に値する教育あるいは研究は、一切できなくなってしまうと思います。  五番目に、紛争の抜本的な解決策は、学生が問いかけている問題に対しておとなが真剣に答えるべきである、そのことについて若干私の考えを申し述べたいと思います。  もしこの法案が成立いたしまして、大学紛争が治安対策的に処理されるようなことになったら、一体どういう事態が訪れるでございましょうか。このことについて学生は真剣に心配いたしております。彼らは、すなわち学生たちは、大学はどうなるかということとあわせて、日本がどうなるかということを心配しております。一つの見解を持っている学生は、このように考えております。日本の資本主義は一九六五年ごろから急速に変貌した、いまや帝国主義的段階に到達してきた、高度経済成長の矛盾、破綻を、海外の市場競争に乗り出すことによって解決しようとしておる。そのために政府は、大学を含めた全教育制度の改編に乗り出そうとしている。そうした改編をやりやすくするために、大学紛争を利用して大学立法を出してきたのだ、こういうふうに考えております。  こういう考え方を裏づけるかのように、たとえば岡潔といったような先生方がどういうことを言っておられるか。たとえば、日本民族はいまや絶滅のがけのふちに立っておる、貿易の自由化によって、日本は激しい国際競争の舞台に乗り出そうとしている、これは容易ならぬ難関である。こういう難関を切り抜けるためには、大多数の人を幾ら教育させても何にもならない。すぐれた天分を持っている少数者を選び出して、その人たちに徹底した英才教育をやるほかはこの難関を切り抜ける道はないのだ、こういったような考え方を述べておられます。こういう考え方に基づいて、いわゆる少数の特定のエリートに対する徹底した英才教育の必要性を強調する。それによって、現在ですらございますところの東大を頂点とした大学のピラミッド型の秩序体系、これをより近代的に補強する、こういうことの必要性を説いておられます。  やはり、こういう考え方に基づいて日本が現在大きく変わろうとしておる、この問題について学生はやはり心配しておるわけでございます。かつて日本が歩んできた道を再び歩むのではないか、そういうことに対して、大学当局者はもちろん、政府・与党は少しも答えておりません。野党も十分に答えておりません。したがって、学生は孤立する、あせる、現在の政治に失望する、議会民主主義さえも否定してしまう、そういう風潮をもたらしております。学生のいわゆる暴力を非難しておる人は多いわけでございますけれども、そういう学生の行動を生み出しているのは、ほかならぬおとなの姿勢ではないのか、私はこういうふうに考えます。もちろん私は、いかなる理由がございましても、暴力は一切否定する立場に立つものでございます。しかし、現在の学生の行動を、おとなの反省なしに、ただ一方的に非難するだけでは学生暴力解決できません。幾ら力で押えたところで問題は全然解決いたさないと思います。  第六番目、最後でございますが、私は、本席に、大学運営に関する臨時措置法案審査参考に資するためという理由で発言の機会を与えられました。したがって、私を含めた八人の公述人意見を十分参考にされまして、これまでの審査に加えて、さらに審査を慎重に重ねていただきたいと思います。いままでの審議だけで政府・与党が強行採決の腹をすでにきめ、ただ、かっこうをつけるためだけにわれわれ公述人を呼んだとかりにいたしますならば、それは私たち公述人に対する大きな侮辱であると思います。それこそ議会制民主主義の空洞化、形骸化を示す以外の何ものでもございません。新聞紙上によりますと、公聴会の終了後に、早ければ本日中にも文教委員会での強行採決もあり得るかもしれぬということが書いてございますけれども、万々一にもそういうことのないようにお願いいたしたいと思います。私どもの述べました意見参考にされて、さらに慎重な審議を重ねていただく、これが議会制民主主義を守る唯一の道であるかと思います。万一そういうことがなくて、強行採決のようなことが行なわれるようなことがございましたら、議会制民主主義は、これを一つのきっかけとして、音を立ててくずれるだろうということを私は心配しております。  以上でございます。(拍手)
  95. 大坪保雄

    大坪委員長 次に、赤木公述人
  96. 赤木五郎

    ○赤木公述人 私は、本法案賛成立場に立って公述いたしたいと存じます。これからその理由をもっぱら私の体験をもとにして申し上げたいと存じます。  私は、昭和三十九年の五月から今年の五月まで、満五年間学長として岡山大学に勤務いたしておりました。今年の一月に、突如としてわれわれの学園にも紛争が起こりまして、私は誠心誠意、学生の良識と知性に訴えて、何とかこれを解決したいと日夜努力してまいったのでございます。しかしながら、その結果は次第に悪化の一路をたどるのみでございまして、ついに私は、現在の大学の機構や学則のもとでは、学長がいかに努力してもとうていこれを解決することはできないということを、身をもって体験いたしました。この間の事情は、本日パンフレートを——私、学生に訴えるためにいろいろと出して、学生大学立場、私の考え方、いろいろ訴えたものがございまして、実は四種類持ってまいったのですが、部数が足りませんで一部だけ「全学の皆さんに訴える」というのをゼロックスにとりましてお回ししておりますので、その間の事情をこのパンフレットによっておくみ取りいただきたいと思います。  そこで、私はこれ以上学長の職にとどまっても全く意味のないことである、またそのために社会的に非常な大きな御迷惑をかけるということを感じまして、本年の五月にその職を辞したものでございます。  岡大紛争の経過につきましては、もとより時間がございませんので詳しいことは申し上げられませんが、概略は、学生二名がデモに参りまして、その帰りに大学の構内にあります道路上で公務執行妨害、それから傷害罪とで警官に逮捕されました。それを口火としまして抗議集会、あるいは全学集会、大衆団交、さらにはバリケードによる建物封鎖といった公式的な、定型的な経過をたどって、ついに全学ストにまで発展して今日に及んでおるものでございます。  紛争の原因につきましては、いろいろ論議され、ただいまも公述人から申されたとおりでございます。高度に発展する、あるいは高度に技術化された社会に対する人間疎外の問題、あるいは平和に対する過度の危機感、あるいは現在の政治体制、あるいは社会組織に対する不信、こういったような政治的あるいは社会的背景はもとよりのこと、大学自身におきましても、大学の構造上の欠陥とか、あるいは大学の近代化の立ちおくれということが今日の学生騒動、学園紛争一つの大きな要因となっておること、私はこれを否定するものではございません。それゆえにこそ私は、学長といたしまして、大学ででき得る限りの改善、改革、あるいは教育環境の整備等につきまして、自分としては最大の努力もし、また学生たちとも接触いたしまして、学生たちのもろもろの要求のうちで、正しい、正当であると思われることは、誠意をもってこの実現をはかってきたつもりでございます。しかしながら、現在の学園紛争は、私が体験した限りにおきまして、大学がどのように努力し、どのように説得し、どのように学生と話し合っても、決して解決するものではないということを知ったのであります。  それは私どもが交渉するところの窓口でありますところの全共闘、これを支配しておるところの三派系の学生が目ざしておるものは、その究極の目的は、大学改善ではなくて、大学の解体にあるからであります。彼らは、大学をいかに改善してみても、大学はやはり現体制に奉仕する機関である、そこで、これを解体して自分たちで管理運営する、いわゆる人民大学をつくり、さらにこれをとりでとして、足場として、社会の変革を行なうのが究極の目的であるということをしばしば公言しております。ここに幾つかの、彼らが出したパンフレット、あるいはビラを持ってまいりましたが、いずれもそのようにはっきり書いております。そうしてこの目的を貫徹するためには、われわれは妥協のない永続的な闘争を戦い続けなければならない、そうしてそのためには、武装によって力の対決をしなければならない、こういうふうに言っております。  こういう考えに基づいた、現在の体制を根底から否定しようとする諸君と、そうして私どものように体制の上に立って、できるだけこれを改善していこうとする者との間に、幾ら話し合っても交差する点、あるいは妥協点を見出すことはできないのでございます。当然それは交差するはずもないのでございます。全く、私の四カ月の努力は、いまにして思えばむなしい努力というほかはありません。それのみか、大学は自衛力を持っておりません。この自衛力を持ってない職員が、暴力の強圧のもとに話し合いを続けるということは、非常に苦しいことでもあり、また、言うような話し合いの場で正しい結論が出るわけもなく、会議を重ねれば重ねるほど、事態は悪化していくというのが現在の大学紛争現状であります。  そこで、もしも大学が独自の力によって紛争解決しようとするならば、私の体験する限り、三つの方法きり残されておりません。  その一つは、彼らの要求を全面的に取り入れる、受け入れるということでございます。これならば、おそらく直ちに解決するだろうと思います。  第二は、学内のいま一つの大きな組織でありますところの民青系の学生協力を得て、一般学生をたてとして、力によって対決する方法でございます。しかし、たとえこれによって一応紛争解決したといたしましても、私はこれは見かけ上の解決であって、決して真の解決ではないと信じております。  いま一つは、話し合いを続けることによって根比べをする。そうして学生たちの興奮がさめてくる、あるいは理性を取り戻す、あるいは疲れてしまうのを待つという方法であろうかと思います。しかし、これを行なうのにはあまりにも社会の犠牲が大き過ぎ、学生、あるいは大学を目ざして日夜勉強しておる諸君に対して、大学責任者としてこういうことはとうていできないものでございます。  こういう三つの方法考えられるのでございますが、私どもといたしましては、いずれもこれらの方法はとるべきでない。たとえこれによって解決し得たとしても、これが大学が自主的に解決したとして世間に顔向けできるものではないということをかたく自分で信じておるものでございます。  そこで私は、以上の苦しい経験からして、大学紛争をほんとうに解決するためには、一般学生と私どもの間の話し合いを、力によって妨害しておる、障害をつくっておるところの暴力を排除して、そして冷静に理性的に話し合いの場をつくるということが何よりも基本的な条件であるということに思いをいたしたのであります。それが第一条件であると私は考えたのであります。そのためにたとえ一時的な混乱があったとしても、物理力によって自分の主張を通そうとする暴力をすべて学園から排除して、学内の秩序を回復したならば、ほんとうに学生と真剣に大学の再建について、大学改善について話し合い、そうして根本的な解決が得られる。このように私は考え、そのためにたとえ警察の力を借りたとしても、それは大学の自治を侵すものでないという判断に至ったのでございます。  しかしながら、私のこのような考え方は、個々の教授教官に相談した場合は、いずれもほとんど九九%まで賛成してもらえたのでございますが、公の場、教授会あるいは評議会の席では、皆さんの賛成を得ることができなかったのでございます。しかしながら、この賛成が得られないままにこういうことを遂行する、強行するということは、現行の学則や機構のもとではとうてい不可能なことでございます。  そこで、私は重大なる決意をもちまして、紛争処理に関してだけ私に大幅な権限をゆだねてもらいたいということを、評議会に要求いたしました。それによりまして、もしもゆだねられるとしたならば、私は自分の責任において自分の周囲にこの補佐機関を設け、その人たちの知恵を借りながら根本的な紛争解決をはかってみたい、このように考えたのでございます。しかしながら、この私の申し出は、残念ながら一学部を除いて五つの学部から反対されました。もはや私は万策尽きて、これ以上学長の職にとどまっても、自分が節を曲げない限り紛争解決を見る自信がなく、社会的な重大な責任もあると考えまして、私は職を辞したのでございます。  以上が私の体験でございますが、おそらく他の大学でも御事情は大同小異であろうかと思います。  ただいま私申し上げましたように、現在の学園紛争解決するためには、この大学学生との間に話し合いの障壁となっておりますところの暴力を、まず学園から追放することこそ基本条件であります。そうした上で学生の言い分を聞き、大学の案を示し、大学が逐次この改革を進めること、これが遠いようでも最も近い道であろうと思うのであります。  しかし、こうするのには、ただいま申し上げましたように、現行の学則、あるいは大学の機構ではとうてい不可能であります。その不可能な理由は、教官の中には全く無関心な人たちがおる。あるいは中には、学生に迎合して、教官会議の内容をすぐ学生に漏らしてしまうような人も、中にはみずから革命を目ざしておるような、非常に多種多様の教官をかかえている教授会で、一々この教授会にはかっておったのではとうてい賛成が得られないというのが私の偽らざる体験でございます。  そこで、今回出されました法案でございますが、これによって直ちに学園紛争が終結するものとは私はもとより考えておりません。ほんとうの解決をするためには、どうしてもいまの大学教育制度の抜本的な改革をしなければならないということは、言うまでもないのでございますが、いま申し上げましたように、実際に大学紛争を取り扱っておる者の体験といたしまして、正しい解決の結論を得るためには、何をおいてもまず学園から暴力を追放するということがその基本的な条件でございます。その意味におきまして、この法案の中身についてはいろいろと私もまだ十分満足できない点も多くありますが、その趣旨には全面的に賛成いたしたいと存じます。  以上で終わります。(拍手)
  97. 大坪保雄

    大坪委員長 これより公述人に対する質疑に入ります。坂本三十次君。
  98. 坂本三十次

    ○坂本委員 参考人各位、御苦労さまでございます。  ただいま赤木先生のお話を承りまして、私どもは、常日ごろこの大学問題に関して、国民が、何をしておるんだ、われわれの気持ちをどうしてくんでくれて解決に歩み出さないんだと、しょっちゅう国民の皆さんから御批判を受け、おしかりを受けておるところでございます。そういう常日ごろ考えておりますることにつきまして、赤木先生の体験からにじみ出られました解決のための努力、その第一歩、その指針につきましては、まことに敬意を表する次第でございます。節を曲げずに辞職をせられた。その反面、ここに、新聞に出ておりまするが、節を曲げて、立教大学学部教官三十六名自己批判書を出すなんというのも出ております。こういう中にありまして、節を曲げぬということがいかにむずかしいことであるかということを、私どもも推測をいたすわけでございまするけれども、ここで赤木先生にお尋ねをいたしたいのは、もし先生が、その教授会なり評議会に、紛争解決の面に限っておれにひとつまかしてくれないかと言いましたときに、こういう法律案ができておりましたならば、ああこれは国民の声だ、世論だと思って、教官の皆さんがすなおに先生に協力をしたでございましょうか。それとも、かえって反発をいたしたでございましょうか。先生は法案賛成をせられると申されまするが、ほんとうのお気持ちはいかがでございますか。
  99. 赤木五郎

    ○赤木公述人 私の考えでは、私、いきなりそういうことを申したのではなくて、個々の教官に大体相談いたしました。そして、そうする以外にはなかろうという賛成を得ながらも、教授会の決議では反対のが出ておる。それは一に教官が、学生の突き上げをおそれたことによるものであろうかと思います。もしもこういう法案が出ておるならば、その法案に従ったということで、悪いことばでいえば教官の逃げ場ができる。そういう点でおそらくは賛成して、私に全責任をまかしてくれたであろう。私はこのように信じております。
  100. 坂本三十次

    ○坂本委員 ただいま私が公述人と言うべきところを、参考人と申しました。公述人誤りでありましたので、申しわけございません。訂正をいたします。  そこで、次は杉村先生、それから生越先生にお尋ねをいたしたいと思うのでございまするが、先生方のお話を聞いておりますると、この大学問題、大学紛争の原因は非常に根が深い、広い。政治的にも、経済的にも、教育的にも、もとより非常に深い原因、背景がある。こういうことを申しておられまして、そうしてまず大学の改革に成功しなかったならば、この大学問題は解決しない、こういうふうにおっしゃっておられたように思います。  そこで、一番最初に承りました杉村先生のお話の中に、現在の大学紛争の中で、暴力大学の自治をじゃましておる、学問の自由を封殺をしておるというようなお話を、私は一言も聞かなかったわけでございます。異常状態があったとか、表面的の紛争というようなおことばはございましたけれども……。私は先生のお話をちょっと聞いただけでございますけれども、異常な、表面的だとかいうその現象面、暴力はその現象面にすぎない。しかし、真の問題解決の原因は、その根底にある非常に広範多岐な問題である。広範多岐な問題を解決せずんば、この紛争はおさまらないというようなことで、私は結論が非常にあいまいに聞えたのでございます。私は、やはりこの紛争の原因の暴力と、それからその暴力以外のいろいろな社会的、文明史的、政治的原因がございましょうけれども、これを同じ次元に並べて、かかる紛争がたくさんあるから暴力の発生は当然である、こういうようなお考えは納得しかねるわけでございます。  生越先生のおことばの中にも、私は暴力を否定しますとおっしゃいますけれども暴力を生み出しておるのはおとなの行動であるということになりますると、おとなの行動が暴力を生み出してもやむを得ないじゃないかというふうにちょっと聞えたのでございます。で、私の考えは、やはり暴力というものは一番大敵である、こういうふうに考えております。  それで、大学の自主的努力にまかせろというお気持ちはよくわかりますけれども国民の、その辺の素朴なおじいさんやおかあさんや、そういう方々にお聞きをしますと、あんな偉い大学の先生が何をしておるのだ、もっと勉強をしてくれぬか、もっとりっぱな授業をしてくれぬかと、ほんとうに真剣になって訴えるのでございます。やはりあの暴力だけはなくさにゃと、一番素朴な人の一番先の指摘は暴力でございます。ですから、私はこの暴力に対してもっとやはりきびしい認識を、おわかりになったら態度で示そうよと、こういうことが私は必要じゃないかと思うのでございまするが、これはいかがでございましょうか。暴力肯定ということになりますると、これはやはり三派全学連の暴力肯定理論に相通じている心配がございますので、暴力についての基本的認識が承れれば、あとはりっぱな大学の先生でございまするから、自主的解決もどんどん進んでいくものと私は思うのでございます。暴力について一言、それについては何にもございませんでしたから、杉村先生から一言、次は生越先生に承りたいと思います。
  101. 杉村敏正

    ○杉村公述人 私は最初に、現在いろいろな大学占拠封鎖、あるいは授業放棄というものが行なわれていて、それは異常な状態であると申しました。それに続きまして、特に占拠封鎖を取り上げまして、私としてはそれは不当な手段であるというふうに申しました。私がここでおもに申しましたのは、そういう暴力をふるう学生、あるいは同じ主張をいたします場合に、同じ問題点を持ち出す学生でありましても、暴力手段にしないという者もあります。また同じ主張をします場合に、集団として主張する学生もあれば、個人として意見を述べる人もあると思います。私が申しますのは、暴力手段とする学生は、私は否定します。しかしながら、その人たちが持ち出しておる問題を考慮するという点では、暴力を用いない学生集団が主張する場合と同一でなければいけないということだけを言っているわけでございます。  そしてまた私は、大学の教員といたしましては、従来の大学の管理運営について具体的に反省すべき点はないか、あるならばそれはすみやかに率直に変えるべきである、こう申しました。  また私は、学生諸君の不満のうちに、現在の大学の各種の施設、ことに大学院生の場合には、施設に対する不満というものが非常に大きいものがございます。そういう点からいえば、財政的にも文部省のほうで十分に考慮していただきたいと思います。  また、私は最後に、いろいろな事例をあげまして、現在文部省のお考えになっておるような教育政策については、私としては疑点があるということを申しました。その点は、その立場責任の方でもう一度考慮していただきたいと思うわけです。  まず、このような大学自体が、あるいは文部省自体処理し得る問題もございますでしょう。しかし、そのほかに学生の取り上げています問題には、それが学問教育の意義、研究の意義のほかに、先ほど話もございましたけれども、現在の政治あるいは自分の人間、人生一般ということもやはり考えているわけでございます。これは、私の年代でございますし、十分に彼らと話をしたわけではございませんけれども、私としては理解しがたいような各種の要求を持っているわけです。そういう点は、大学国民のものでありますから、すべての立場の人が考えていかなければいけないと思います。私は決して暴力を容認いたしません。
  102. 生越忠

    ○生越公述人 ただいま坂本先生から、私が暴力のことについては否定するとは言いながら、あまりそのことは重要視しないで、大学人の自主的解決にまかせろ、そういった意味のことを申した、そういうふうに言われましたけれども、私は自主的な努力だけにまかせろということは言ったことはございません。やはり個別大学の自治を守るというふうな問題ではなくて——個別大学の個別大学人による大学東大のことは東大人にまかせろ、大学のことは大学人の手で、考はそういうふうに思っておりません。大学はやはり社会の中にある存在でございますから、大学人とともに社会人がやはり努力して、悪い大学をいい大学にしていくということで、何も大学一家主義、あるいは大学独善主義、それを唱えてはおりません。  それから暴力の問題でございますが、私は、現在さまざまな多くの大学で起こっておりますああいう物理的な力を行使しての紛争、これはたいへん残念に思っております。しかし、そういう物理的な力が発生する基盤、あるいは背景、それを考えますと、ただいかに暴力がいかぬと幾ら言ったところで、あれがおさまるものではないということをやはり十分知っていただきたいと思うのです。たとえば東大闘争の原因になりました医学部の不当処分の問題、あれは暴力ではございませんでしょうか。本人の申し分を全然聞かないで、アリバイのある人間を、一方的に教授会が処分してしまいました、あれは暴力ではございませんでしょうか。私は、あれはちょっとたたいたとか、突き飛ばしたとか、そういうこと以上に、そういう物理的な力に数倍する、あるいは数十倍する一種暴力だと思います。いままでの大学はそういうことをやってきたわけです。学生に対しては切り捨てごめん、こういう処分を教育的処分という名のもとに一方的にやってまいりました。そういう大学秩序体系、それに異議を唱えておるわけでございます。口で言っただけでは大学当局が言うことを聞かない、こういう雰囲気はいままであったわけですね。そういう大学の姿勢に対して、非常に遺憾なことでございますけれども、ああいう物理的な力を行使してでも、いままでの大学あり方を正そうという学生が出てきたわけでございます。ですから、暴力を否定することはもちろんけっこうでございます。否定しなければいけませんけれども、それにも増して、ああいう不当処分、切り捨てごめんの処分をやるようなああいう大学の風潮ですね、それを問題にしないで、学生が行使した物理的な力、それだけを責めるのではやはり一方的である、私はそう思っております。そういう観点から、先ほどの私の発言が出てきたわけでございまして、やはりそれを十分考慮していただきたいと思います。  それからもう一つは、たとえば一月十八日と十九日に東大の安田講堂でああいう事件がございました。それで、あの日は学生は負けました。負けて、警察の前にもう降参してしまったその学生を、鉄のパイプでもってたたいたりして、足腰立たなくしてしまったのは一体だれでしょうか、あれは暴力といわないのですか。そういうことをやっておりますでしょう。そういう暴力は、学生の行使したいわゆる暴力の数十倍、数百倍の大きな力を持っておると思います。そういうことに対してあまり批判をされないで、学生のほうだけを一方的に批判される、私は、その姿勢が大学紛争あるいは大学闘争の解決を非常にこじらせておるというふうに思います。その点を十分お考えいただきたい。  大学の中はどんなにひどいところであるか。封建的な徒弟制、それからあるいはいろいろ大学の古さを表現することばがいままで幾たびも語られてまいりました。そういう大学内容が一体どんなものであるのか。教授による大学の独裁的な管理運営、あるいは私立大学でいえば理事者あるいは学長、そういう人たちが非常に大きな権限をふるって、教授会の自主性すらもなかった。ましてや学生教授会に属しておらない助手であるとか、事務職員であるとか、そういう人たちが全く無権利状態に置かれて、犬畜生扱いされておる、そういう大学現状がああいう不幸な事態をもたらしたものであるということですね。これを十分お考えいただきませんと、決して大学紛争解決いたさないと思います。大学現状はどんなひどいものであるか、それを十分お知りいただきたい、私はそういうふうに思います。
  103. 坂本三十次

    ○坂本委員 ただいまのお話は、私は初めて承りました。大学学生教授が犬畜生みたいなものだ、学問の自由も研究もない、そういうようなことは、国民に対して甘え過ぎてはおらないかと私は思います。これはやはりそれほどひどいものでございましょうか、私にはとても理解できないと思います。  それはそれとして、時間もございませんから、野党の皆さん方に時間がないとしかられますから、ひとつ学生の処分の問題について赤木先生に承りたいと思います。  学生の処分の問題、処分ということはいやなことですよ。いま生越先生は悪いことをしたときには、悪い暴力は当然だというふうにおっしゃいましたけれども、そういう個別的、具体的なことじゃなしに、学生の処分という問題について、悪いことをやった場合、暴力行為を明白に、客観的にこれが確認された場合ということですね。それについて、新聞でも伝えられておりまするが、自民党の中に、大学学長その他学生懲戒に関し権限を有する機関は、暴力行為その他大学秩序を乱す行為に対して適当な懲戒を行なうようにしなければならない、こういうふうな条文を入れることによって正邪善悪の、暴力に対するき然たる態度大学がとってほしいものだ、こういうふうな考えがあるわけでございます。それも午前の加藤学長のおっしゃったように、罪刑法定主義みたいなものでありまして、だれが見てもわかるような暴力でありまするが、侵入、封鎖占拠とか、あるいはまた施設を故意に破壊するとか、あるいはまた大学の管理に属する施設内において傷害または暴行をやるとか、あるいはまたつるし上げをやったり、面会を強要するとか、あるいはまた人のからだの自由を拘束するとか、あるいはゲバ極みたいな危険なものを大学の中に持ち込んだり、そこで火災びんをつくったり、保管するとか、あるいはまた大学の中で授業のできないようにむちゃくちゃに騒ぎまくるとか、あるいはまた一斉に授業を放棄することを学生団体が決定するように政治的に指導をするとか、こういうようなことを教唆、扇動するとか、こういうような明々白々たる事実の場合において、大学学生を処分すべきであるという声が自由民主党の中にも出ておるのでありますが、これにつきまして赤木先生の御意見を承りたいと思います。
  104. 赤木五郎

    ○赤木公述人 私の考えを申し述べさしていただきます。  各大学に学則がございまして、それにはそれぞれ学生懲戒に関する規定がございます。私ども大学でも、第八十五条に「学生が本学の規則に違反し、又は学生の本分に反する行為があったときは、学部長又は教養部長の申し出によって学長懲戒する。」特に退学の場合には、一、二、三とありまして、「性行不良の者」とか、「出席常でない者」とか、第三が「本学の秩序を乱し、その他学生の本分に反した者」という懲戒規定がございます。それが現在、学則が無視されて、行なわれていないところに今日の大学紛争大学の混乱の一つの大きな原因があると思うのでございます。大学懲戒処分というのは大学学長に発議権があるのではなくて、各学部長の申し出によって初めて学長は評議会にかけて、これを処分するというふうになっております。  そこで、私、そういう暴力行為などあったときに、当該学部長に早くこれを何とかするようにと言うのでありますが、当該学部教授会でその発議が行なわれない。そのために処分ができないということが現在の実情であり、それが今日の混乱の大きな一つの原因になっておりますので、現在の学則がいいと申しませんが、ぜひ適正な懲戒規程というものを設けて、これを必ず学長はやれるようにしたならば、大学秩序はかなり回復してくるのではないか、このように思っております。
  105. 坂本三十次

    ○坂本委員 終わります。
  106. 大坪保雄

    大坪委員長 八木徹雄君。
  107. 八木徹雄

    ○八木(徹)委員 時間の制約がございますから、生越先生に簡単に三問御質問を申し上げたいと思います。  先生のお話を聞いておりますと、現在の大学紛争の原因の中に、先進諸国の社会の矛盾、そこに一つの原因があるんだ、大学自体持っておる明治以来の古い体質に原因があるんだ、管理当局者の独裁的な運営に原因があるんだ、こういうような御指摘がございました。いまも坂本君からも質問がございましたが、私は最も日本的な大学紛争の特質の一つに、いわゆる学生間の中におけるあの分派的な、あるいは最終目的は一緒であるかもわかりませんが、戦術戦略において著しく違う、いわゆる民青だといい、あるいは全学共闘の三派の連中だといい、とにかく戦術戦略の違うこれらの連中が、ある意味においては目的意識を超越してお互いが主導権争いをするというような、そういう特異な現象というのが日本の一番特徴的な原因ではないかと思いますが、そのことについて何らのお触れがないということ。それからこういう現象に対して、いわゆる大学教授陣の一翼をになう生越先生として、これをどういう形で防衛するのか、防いでいくのか、それらについての構想を的確にひとつお示しを願いたい。第一点はそれでございます。
  108. 生越忠

    ○生越公述人 お答えいたします。  その前にちょっと、先ほど坂本先生が言われましたことの中に、ちょっと誤解があると思いますので、それを先に申さしていただきます。  いまの大学教授犬畜生問題でございますけれども、私はこういうふうに申しました。ことばは足りなかったと思いますので、ここで言い直さしていただきます。  大学には非常に強固な身分秩序がございます。教授、助教授、講師、助手、事務職員、学生、そういう縦の非常にはっきりした職階的な系列がございまして、たとえば東大の病院でいわれておりますように、教授は殿さまである、助教授はおつきの用人である、それから助手は御殿女中、それから事務職員なんというのは犬畜生扱い、そういうふうな現実がございます。そのことを申したわけです。ですから誤解のないようにお願いいたしたいと思います。そういう封建的な中世の社会にも似たような身分秩序、それがやはり大学紛争の原因になっているということを私は先ほど申し上げたわけでございます。  それから八木徹雄先生の御質問に対して私なりの考えを申さしていただきたいと思います。時間がございませんでしたので、この問題については触れませんでした。しかし私は、小学館から出ております「総合教育技術」、これの四月号で、科学革命時代における教師のあり方、たしかそういう題だったと思いますが、そういう題で短い文章を書きました中で、いま八木先生の御質問になられましたようなことは書いてございます。確かに学生諸君の間の分派的な争い、これが目的意識を超越して非常に争いをエスカレートさしておる、これは事実であると思います。これをどういう形で防衛したらいいのか。これはおとなの社会でもひどい派閥争いがございますですね。目的意識を超越した派閥争いがございます。国会の中でもございますね。会社の中でもございます。官庁でもございますね。大学の教師でもやっております。醜い派閥争いをやっております。たとえば東京教育大学では、筑波移転問題にからみまして非常に醜悪な派閥争いを、むしろ教師の派閥争いが主になって、それに学生が巻き込まれた形でいま闘争が展開されております。こういうことはどこの社会でもあることなんで、学生だけを責めてもしょうがないことですね。しかし、学生間の派閥争い、これはやっぱり遺憾なことである。これをなくするためには一体どうしたらいいかということですね。やはり大学を有意義なものにしていく、大学へ入ったことによって学ぶ喜びを感じさせる、そういう状態をつくるということ、これは国の責任でもあるし、公立大学については地方自治体の責任でもございます。大学教師の責任でもある。広く一般社会責任でございます。これもおとなの責任でございますね。このおとなの責任を回避しておいて、入っても何の役にも立たないような大学学生をたくさん押し込んで、何で大学学生が希望を持って勉学にいそしむでございましょうか。水増入学、これは私立大学では普通のことでございます。高い月謝を払って入ってくる。そこで行なわれている教育は、たとえば一般教育と称するものは、高等学校と同じレベル、あるいはそれよりもさらに低いようなレベルのくだらない講義が行なわれておる。これが現在多くの大学一般的な現状でございます。こういうことを放置しておいて学生が喜びを持って大学に通うでございましょうか。こういうことがやはり一つあると思います。  それから、たとえば三千億近くの国費が大学に投ぜられております。そのうち四分の一の国立大学学生に対して二千七百億の金が投ぜられておる。残りの四分の三の私立大学学生に対しては、財政投融資を含めてわずか三百億内外のお金しか投ぜられておらぬ。こういう不合理なこと、不公平なこと、こういうことをほったらかしておいて学生が文句を言いませんですか。そういう状態もとで私立大学を荒廃の極に追い込んでおいて……
  109. 大坪保雄

    大坪委員長 生越公述人、簡単に願います。
  110. 生越忠

    ○生越公述人 はい、わかりました。  そこで、まじめな勉強をせいといったところで、それでもまじめに勉強をする大学生が、やっぱりりっぱだと思いますけれども、そういう状態をほったらかしておいて、おとながやっているくせに学生が派閥争いをやっているのはけしからぬ、それをどういう形でとめたらいいのか、そういうことを言ったところで、解決はいたしません。やはり長い間の日本の文教政策、それがもたらした弊害が、特に私立大学に集中的にあらわれております。そういう状態をやはり直すということが先決ではないかと思います。
  111. 大坪保雄

    大坪委員長 生越公述人に申し上げます……。
  112. 生越忠

    ○生越公述人 はい。終わりました。
  113. 八木徹雄

    ○八木(徹)委員 生越先生に重ねてお伺いしますけれども、私の質問に答えていませんですね。問題をすりかえていらっしゃるということです。私は、もちろん学生も確かに大学を構成するメンバーであるということは自覚しておりますけれども学生教授との間には、やはり違ったものがあるはずであります。やはり大学学生のりっぱな人間形成をはぐくんでいくという、そういう責任を、教授である生越先生もお持ちになっていらっしゃるはずである、こう思うわけであります。  そこで、おとなの世界に派閥があるんだから大学の中に派閥があってもいいではないか、そんなこと聞いているんではないのですよ。その二つのものの争いが大学紛争をエスカレートしている。そのことが大学のまじめな学問研究というものの自由を破壊しておる。これは現実にちゃんとしてあるわけなんですね。それを、いわゆる善良な学生学問研究の自由を保障するためにも、教授であるあなたとしては、こういうものに対してどういう指導理念と、どういう指導体制で、こういうことをなくするようにされる心組みがあるのか。それはもう私たちの手には負えないことで知らぬことだといって投げてしまうのか、そこのところを端的にお伺いしておるわけです。
  114. 大坪保雄

    大坪委員長 生越公述人に申し上げます。質問者がきょうはずいぶん多うございまして、時間が少のうございますから、どうか簡単明瞭にお答えを願います。
  115. 生越忠

    ○生越公述人 この問題を簡単明瞭にと申しましても、簡単な解決方法があれば、これほど多くの大学学園紛争が起こるわけがございません。それから世界の先進国で去年からことしにかけて一斉に起こる、こういうこともございませんでしょう。ですから簡単にと申しましても妙薬がございません。  私は、少なくとも一人の教師として、学生に対してはいい講義をする。そのために少ない月給、少ない研究費、劣悪な研究条件、そのもとで私は最大限の努力をしているつもりでございます。その誠意を学生にぶつけること、これがやはり基本的には必要であろうと思います。  それからいまの若い学生が怒っているのは、やはり大学の矛盾と同時に、現代社会における矛盾、それをやはり摘発して直そうとしておるわけでございます。そういう学生と一緒に私たちもやはり大学の改革、それを取り巻いている社会の改革、それにやはり乗り出すということですね、そういうことがやはり大切だと思います。学生を、教授という管理者的な立場から学生動きを押えるということでは、学生がますます異常な行動に走るだけでございます。やはり教師と学生とは立場は違います。やっていることも違います。ですから、学生と一緒にストをやり、デモをやるということではございません。しかし、教師は教師なりに、教師の立場からやはり現在の現代社会の矛盾と取り組む、誠実に組り組む、そして現代社会の矛盾を直していく、その姿勢を学者、研究者あるいは教師としての立場から最大限にやっていく、その誠意が学生に通じれば学生はやはり教師を信頼するだろうと思います。そういうことで学生と教師との間の信頼関係を結ぶ、これがやはり根本だと思います。簡単に言えばそういうことでございます。
  116. 八木徹雄

    ○八木(徹)委員 もう時間ですか。
  117. 大坪保雄

    大坪委員長 もう割り当ての時間を超過しておりますが……。  久保田君に申し上げます。自由民主党の諸君に割り当てた時間を超過しておりますから、省いてよろしゅうございますか。
  118. 久保田円次

    ○久保田(円)委員 希望意見だけ、一問だけ。
  119. 大坪保雄

    大坪委員長 それじゃ一問だけ。久保田円次君。
  120. 久保田円次

    ○久保田(円)委員 一問だけ、私の申し上げるのは希望意見でございます。  きょうの公述人八人さんの中から、いろいろ御意見、さらにまたその質疑の中から、私なりに感じた一つ問題点を申し上げて私の意見にいたしたい、こう思うわけでございます。  われわれの家庭生活のその中から拾ってみたときに、どうして平和な秩序が維持されておるかということ、これはお互いの信頼感、家族間においての信頼感、これから出発しておると思います。そういうふうな中に立ちましていまの学園紛争を見たときに、やはり先ほど先生のおっしゃったようないわゆる教師と教えられる者の信頼感、これが欠けている。これが第一番である。いかにりっぱな法律をつくっても、この関係が土台にならなければ、これがやはり完全な法律とはいえないわけです。  そこで、いま当面しておるところの大学問題を処理するためには、教育の行政につきましての最高機関といたしましての文部省、それから大学側との信頼感というものが欠ければ、りっぱな法律をつくったって、これは絵に描いたぼたもちのようなものです。そういうふうな観点に立ちましたときに、いま私どもはこの法律案を審議しておるわけですけれども、われわれの責任というものは、要するに国民の世論の上に立ったところの立法をしなければならない責任があります。これが第一点です。  そういうふうな面から今後の運営につきまして、私の希望でありますけれども、やはりこの大学秩序を維持するためには原則としてのいまの信頼感、この上に立って、どうかひとつ大学側と、それから文部省側と、意見の疎通を欠かさないような、この基本を忘れずにして運営していただきたい、これが一つの私の希望意見でございます。
  121. 大坪保雄

    大坪委員長 帆足計君。
  122. 帆足計

    ○帆足委員 本日は各位から、午前中からただいまにわたりまして、有意義な公述人の御意見をそれぞれ承りまして、非常に感銘いたしました。  特に午前中におきましては、各位御同様に御造詣の深い加藤東大総長並びに長洲教授から、この問題のよるところ遠くしてかつ深いことについて、非常に論理的なお話がございました。ちょうどそれと対比いたしましてPTAの副会長さんから、まことにほほえましい素朴なお話もございました。さらにまた、技術者でございますから、社会科学のことには御経験ございませんから当然のことでございますけれども、赤木先生からたいへん苦しい御体験談を伺いまして、私も深く感銘いたしました。多くの方々から——私もやはり感情よりも論理を尊重いたしますから、論理的には、従来の大学が安きになれて、専制的になっているところほど反抗が強く起こっていること、それからこれに対する管理案の画一的、強制的、包括的または中央集権的なこと等々は、一つ一つ学校によって事情が違うから効果が薄いことが危ぶまれる。特に民主化の苦しい努力を通じて、これを通じて、教育界に初めて起こった民主革命ですから、この民主主義の試練を通じて新しい大学のビジョンをつくるよすがになるように持っていってもらいたい、こういうお話もございまして、深く考えさせられました。私ども議員といたしましては、すでに何十通という陳情書をいただいておりますし、たくさんの書物も集めました。ところが、東京都におきましては、都議会の選挙が昼夜の別なく二週間行なわれますし、また健康保険制度に関する強行採決というものが行なわれまして、それがちょうど私が便所に行ったときですから、廊下で行なわれていたそうでありまして、大紛争になりましたため、幾たびも徹夜をいたしまして頭脳もうろうといたしております。したがいまして、大いに冷水摩擦をいたしまして士気を鼓舞し、せっかく公述人各位のお話を承ったのですから、これを参考とし、いただきました資料をよく熟読玩味し、さらに頭を休めまして、集めてあります資料に十分目を通さなければならぬと思っております。  私は、赤木先生の御ふるさとと同じ岡山の六高を出まして、それも二度落第いたしまして五年かかりまして、さらに東大三カ年、合計八カ年、まことに痛ましい時代の青春を送りまして、インフレと戦争の時代を過ごしました。したがいまして、東大がこの問題の中心として起こってまいりましたから、御質問したいことは山積いたしておりますが、まだ質問の順序が回ってまいりませんで、文教委員でありながら一度の質問もいたしておりません。きょう許されました皆さん公述人の方への質問時間は十五分間、十五分皆さんに質問したからといって帆足計の質問終了、動議、終結というようなことになれば、前回は廊下で行なわれましたけれども、この勢いをもってすれば便所の中で行なわれるというようなことにでもなったならば、これは汚名を千載にさらすことになりますから、私はただいま質問いたしましても十分審議があとで続くということを、それだけのことは委員長から伺っておかなければ質問する元気が出ない、こういうただいまの心境でございます。世間の伝えるところによりますと、きょう公聴会が済んだならばこれでいいではないか。ええじゃないか、ええじゃないかというのは、明治維新の相ことばだそうでございますが、それで動議、終結、今晩採決、まさかそういうおろかなことが、あす、あさってあろうとは思いませんけれども公述人から承りましたことを熟読玩味し、さらによく学習してこそ、国家百年の計に役に立つわけでありますから、委員長、きょう十五分質問したからといって、質問打ち切りというようなことはございませんか。ちょっと各位の前で礼節に欠けることでございますけれども、念のために委員長に伺っておいて進めたいと思います。
  123. 大坪保雄

    大坪委員長 帆足君にお答えいたしますが、文教委員会大学臨時措置法に関する審議は、問題の性質上十分審議を尽くしたい、かような気持ちでいたしております。それで、どうかひとつ、質問者も多いし、時間が少ないししますから、本論にお入りになって質問をお続けください。
  124. 帆足計

    ○帆足委員 これで本論の半分は済んだわけでございますが、これだけでも非常な進歩でございまして、委員長の寛容な御理解に感謝をする次第でございまして、深くそれを信じたいと思う次第でございます。  第二にお尋ね申し上げたいのは、ほぼ大体のことは見当ついたのでございますが、学外のことは私はよくわかるのでございます。学外に起こっているさまざまのこと、ガラスが割れて、七面鏡のように若い学生の諸君に反射しておる。われわれでも、はたして常態であろうかとみずから顧みるほど、世の中の移り変わりは激しいのでございますから。何しろ、二十年前天皇が人間にならせられたときに、思えばパルテック艦隊の栄光も一朝の夢というか、今様にいえば一場のストリップショーほどのものになり、朝鮮、台湾、満州もわが手から去り、連隊旗も、進軍ラッパも、ただいやらしいとしか思えなくなってしまった日本でありますから、まず文部省の首脳部の方々は、おおむね自殺をし、学校の校長さん方は、世をはかなんで隠遁したと思っておりましたけれども、案外にお元気でございます。  これらのことを考えてみますと、学生諸君が、戦後二十年にして、原爆、水爆、月世界旅行を前にして、そして勝った勝ったというアメリカが、いまやベトナムから退却をする、そしてアメリカの青年が抗議して十二人も先週には焼身自殺をした。こういうような状況を前にして——さらに先日私は自衛隊に参りますと、戦車を特車といい、軍艦を軍艦と言えないのですから船舶と、こう申しております。これでは憲法第九条を文教の府が子供たちに教えることは、詐欺の入門書を子供に教えておるのと同じである。子供のときに詐欺の入門を教えて、どうして大きくなってほんとうのことが教えられるでしょうか。私は、インフレーションの問題一つにいたしましても、あまりにも考えるべきことが多過ぎる、指揮権発動の問題一つにしましても、またわれわれのあり方自身にしましても、国民の前に代議士は肩を張って歩くことすらできない。  したがいまして、そういう反省を込めてお尋ねいたしますが、外のことはよくわかりますが、学内のことが、その後離れておりますので、学内の主たる原因が、最も専制的であった学校が一番反発が激しい、これはよくわかるのです。現在の学校管理、学校教育方法等々につきまして、私はいずれ委員会で本格的審議が始まりましたら、これをただしたいと思っており、また要望したいと思っておりますが、現在の学内のしこりとして、最大の解決せねばならぬ問題は、物質的問題は私学の財政問題、官学でもそうでございますが、そのほかに制度上、教育管理上、教育方法の問題等について、施設もそれに伴うでしょう。最も緊急な解決を要する問題につきまして、諸先生から御意見を承りたいと思います。  医学のことはあとで伺いますから、先に石川教授並びに若い生越教授からお伺いしたいと思います。
  125. 石川忠雄

    ○石川公述人 いま学内において、一番何が紛争の中心になっておるかということでありますけれども、実は学内におきまして大学紛争が起こりますときにも、その学生の中には、実はいろいろな考え方がありまして、それでそのある考え方、つまり大多数の学生といってもいいかもしれませんが、そういう人たちが大体において持っておる考え方は、不満は、これはやはり学校のカリキュラトとか、あるいはその授業の行なわれ方とか、あるいは自分たちの希望が一体どういうふうに学校の中に反映していくかとか、そういうような問題が私は一番多いと思います。しかし、その反面、大学のたとえば運営そのものについて、自分たちが参加していきたい、あるいはその中で強い発言力を持っていきたい、現在の体制の中でそういう改革をやっていきたいという考え方を持つグループもございます。  それからもう一つは、やはり大学の外、つまり主として社会の矛盾とか、政治的な矛盾とか、そういうものに主たる関心があって、それを、つまり学内からそういう運動を起こしていこう、こういう形で、学内の問題をかりて紛争が起こってくる、こういうケースもいろいろあると思います。  私は、大学として十分に考えなければならないことは、むしろ大学の中に一体その授業が正しく行なわれているか、あるいは研究が十分に行なわれているか、それから教授そのものが一体ほんとうに真剣にその問題に取り組んでいるかどうか、あるいは学生意見というようなものが大学の中に反映され得るような道というのはどういうものか、こういうような問題を、私はやはり大学としては一番考えていかなければならない問題であると思います。  学外にあるいろいろな政治目標といいますか政治問題、政治的な矛盾とか社会的な矛盾、こういうものを、つまりそこに力点を置いて問題を考えるということになりますと、この問題については、実は大学というところはいろいろな考え方があるのでありまして、またいろいろな考え方が共存するということが私は大学のある姿であると思いますので、この問題については私はなかなか解決方法がないと思います。
  126. 生越忠

    ○生越公述人 お答えいたします。  帆足先生から出されました御質問、非常に多岐多様にわたっておりますので、短い時間で簡単に申し上げられませんけれども、まず、制度改革の面でございますが、やはりこれは現在の大学が、結局資格取得の場になっているということですね。卒業後に社会に出るための資格を取得するための場になっておる。そういう大学機能をやはり全面的に改めて、出入り自由な勉学の場にするということ、これがやはり根本だと思います。入学試験ということは、やはり入学試験によっていわゆる一流大学へ入るということは、会社の一次試験に合格したようなものである、こういう実態がございます。そういうことで、いわゆる有名大学、無名大学、その間にはっきりした差別が設けられております。社会でもやはり差別をして考えております。こういうことをなくして、やはり実力に応じて、自分の希望に応じて勉強をする場にする、資格を取る場所にはしない、それが根本だと思います。そのためには、国公私立の差別を廃止するということ、これが根本であると思います。現在ではそれほどまだ問題になっておりませんけれども、昭和四十年の慶応の闘争、四十一年の早稲田の闘争、四十二年の明治大学の闘争、いずれも学費値上げに端を発する私立大学紛争でございます。こういう紛争はいずれやはり起こってくると思います。こういう紛争を未然に防止するためには、やはり市民に向かって広く開かれた大学にする以上は、やはり国立、公立、私立の区別、これは全然意味がないと思います。この制度的な差別を廃止するということが第一であると思います。  その中でどういう教育を行なうか、それに伴って、やはりカリキュラムの抜本的な改革が必要であろうと思います。現在、大学へ入りましてすぐ受ける一般教育、これは、たとえば地学概論、物理学概論、化学概論、たとえば自然科学系列でございますとそういう概論風な講義がまずございますけれども、十九世紀の初めにできた学問体系を、第一章から順々に教えていく、こういうむだな教育が現在一般教育と称して行なわれております。こういうことはやはりやめるということですね。こういうくだらない教育が、どれほど、希望に胸をふくらませて入学してきた学生を失意のどん底に落とさせておるか、私どもはよくそれを存じております。  それから、先ほどからいろいろ御論議のございました、大学運営の民主化、抜本的改革、これがやはり必要であろうと思います。  それから、制度の改革だけではなくて、やはり大学あり方、教師のあり方を正すということでございますね。東大闘争の経過を見てみましても、初めはやはり医学部の封建制の問題とか、不当処分の撤回の問題とか、そういうものでございました。しかし、やはり闘争が全学規模に拡大し、さらに全国的な規模に拡大するに従って、やはり大学あり方、あるいは大学のよって立つ基盤、そういうものが問題にされてきております。  たとえば医学部の問題に端を発しまして、医療制度の問題が大学闘争の中で問われております。昨日から本日にかけて行なわれました健康保険法の問題でございますね、ああいったことなんかもやはり医学部の闘争の中で真剣に問題にされてまいりました。  それから都市工学科、これは新しい学科でございますけれども、こういう新しい学科、長い間の伝統も何もないような新しい学科が、なぜ医学部に次いで東大闘争の大きな支柱になってきたか。このことはやはり都市工学科のおい立ちそのものが問題であったということ、そういうことでございます。やはり高度成長に伴って都市化いたしました。その都市化に従って、都市計画技術者を大量に養成する必要が生まれました。そういうことで、たしか昭和三十九年に東大設置されました新しい学科でございますが、しかし、現実にはそういう都市工学科に学んでおる学生がどういう仕事をやっているか。やはり国から委託されたいわゆる委託研究、それに朝から晩まで追いまくられている現状でございます。そういう追いまくられている仕事が、都市の住民の生活にプラスになるような都市づくりならまだいいわけでございます。しかし、一たび地震が起こればまっ先に引っくり返るような都市がいまつくられております。たとえば昭和三十八年にできました八戸の新産業都市、あそこは去年の十勝沖地震のときには——私は地質学を研究しておりますから、若干そういう方面について知識がございますけれども、北海道よりも震度が低かったのに、なぜ青森だけに集中的に被害が起こったかということですが、これは工業都市をつくってはならぬような弱い地盤のところに工業都市をつくったからです。これは青森県選出の議員の方はよく御存じでございましょう。こういうことが、住民の生活を第一にしないで、企業の当面の利益を第一にするようなそういう都市づくりが行なわれているわけでございます。こういう都市政策を基盤とした都市づくりに自分たちは加担していいのかどうか。こういうことを都市工学科の学生大学院の学生研究生、あるいは助手、そういう若手の研究者、あるいは研究者の卵が、自分は何のために学問をやっておるのか、こういうことについて根源的な問いかけをしてきたわけでございます。そういうことに対して教授はもちろん答えておりません。アルバイトに追われております。政府からの委託研究に追われておりまして、自分たちは一体だれのために、何のために学問をやっているのか。自分のやっている学問が都市の住民の生活のプラスになるような方向に働いているのか、あるいは都市住民の生活を抑圧し、あるいは都市住民の命を奪うような結果をもたらすような学問に、都市計画に加担しているのではないか、そういうことを真剣に問いかけているわけでございます。  時間があれば幾らでも長くお話しいたしますけれども、時間がございません。そういうことで、大学あり方、何のために学問をやっているのか、こういうことが長い間の大学闘争の中から根源的に問いかけられてきた。このことが大学闘争をこじらせる大きな原因になっていると思います。でありますので、制度の改革はもとよりでございますけれども大学で行なわれる学問あり方、それから内容、その学問に取り組む教師あるいは学生の姿勢、それを正すということですね、それが一番大事であろうと思います。ですから、制度の改革と並んで大学を構成している教職員学生の精神革命と申しますか、それがやはり今日非常に大事であろう、私はこういうふうに思っております。
  127. 帆足計

    ○帆足委員 いろいろ承りまして、せっかくお答え願いましたのに時間がございませんから……。  私の大学の時代、高等学校の時代には、先生は講義をする。生徒は、えへんと言えばえへんと書くという、いまでも続いておりますか知りませんが、そういう時代がありまして、そしてつまりませんから、一年肺尖カタルで落第しましたから、ノートを全部プリントにいたしまして、生徒たちが去年のノートを出しあってつくって、そのプリントを見ながら聞くことにいたしました。諸教授は、非常に進歩的な先生までたいへんおこりまして、そしてわれわれば直ちに停学処分に付せられまして、もちろん一言半句の抵抗もできません。当時朝日新聞の社説がこれを弁護してくれまして、岡山第六高等学校というところには、実に賢い子供たちがおるものだといってほめてくれました。学校は少しもほめてくれませんで、停学になりました。「マルクス主義」という雑誌をグラウンドのクロバーの上にうっかり置いて帰りましたのを見つかりまして、名前は書いてあるはずもありませんから見つかるはずもありませんけれども、それに帆足計様という隣の女学校のラブレターが入っておりました。赤と赤で合わせて一本ということで、とうとう一年間また停学処分になりました。  そういうこともありまして、古い学校というものは実に先生もわがままなものでありまして、三歩退いて師の影を踏まずという思いはいまも同じでありますけれども、ずいぶん専制的なものであった。  楽しみにして東大に来ましたら、東大もまたそれを大量生産しているだけでありまして、私は何番教室という番号すら忘れましたけれども、ほんとうにつまらないと思いました。図書館に行って三十分本を読みますれば、先生の三時間分の本は読むことができます。高等学校のときに落第しましたから、十字軍のことを少し勉強し過ぎまして、十字軍の原因は、高等学校の先生の言によれば八つだそうです。それを私は十二書いた、四つ書き過ぎたといってまた懲罰を受けました。そういうこともおそらく残っているのではないかと思いますが、時間がありません。しかし教授方法、それから受験の方法、入ってからの受験の方法、入学試験の方法、無数に改革すべき問題があって、これらのことを改革すればからっとしはしないかと思います。  そこで、お尋ねいたしたいのですが、赤木先生は技術者の方で、お医者さまでいらっしゃいますから、私は赤木先生がいちずに苦しまれておやめになった御心境を決してあだおろそかには思いません。自分が社会科学をやっておるから、別な観点に立っておるからといって、他の立場に立って苦労しておられる大先生のことを、とかく批判いたそうとは思わないのでございます。ただ、私のむすこは医学部でございますし、私の岳父は岡山の医大の学長さんを以前しておりましたが、あの医学部学生さんというのは大体ノンポリでありまして、大体そのころは俗物が多かったのです。私は当時文学青年でしたから、おやじのところに来るやつは何という俗物だろうと思った。その医学部学生が闘争の先端に立ったというのだから、これは驚きであります。  そこで、私はつくづく考えるのですが、むすこのことを、おい、むすこ、おまえあと何年おやじのすねをかじるかと言いますと、おとうさん、あと七、八年はかじらなくちゃ。そんなにかじっちゃ困る。多党化時代でございますから、パパもいつまでも議席におるとは限らないよと言うのでございますが、そうすると、昔はインターン、いまは研修医、それから医局員、今度は厚生省だいぶ出したといいますけれども、あれは設備料を含めて出しておりますから、むすこの手に渡るのは七、八千円でしょう。それでおやじを一ぺん連れていってハイボールを飲めば消えてしまうくらいなんです。ですからインターン、無給医局員など、そういう制度が、まだそのままお金もやらずに奈良朝時代の奴隷制度が続いております。  それから先ほど、大先生がいばって、その次が金魚のうんこのように続くというお話がありましたが、そういう純風美俗がございました。しかし、看護婦さんを女中のように取り扱っていた日本でございますから、看護婦さんの待遇がいかに劣悪であるか。ときどきバーに参りますと、看護婦さんがアルバイトでバーに来ております。こういうことは非常に危険なことで痛ましいことでございます。また夜の宿直のベッドもないところが多いし、ありましても、たくさん込みで寝ております。それから、医局員になりましても収入はわずかでございます。博士号というのが権威を失いまして、目標を失っております。そこでむすこたちは専門医制度、これで突っ込んでいこう。専門医制度というものの権威について、またそのカリキュラムについて、はっきりした裏づけがないようでございます。したがいまして、ノンポリといわれる医局員が、羊のようにおとなしい医局員たちが、トラのようになっているというのには、また立場をかえて冷静に考うべき問題が、今後とも先生が民間の病院長になられてもやはりおありのことと存じますから、やはり政治家がそういうことを心配しておるということを御参考にしてくださいまして、御経験から、それについてはこういう点が確かに足らないという点をお示しくださいますれば、今後の研究参考になると存じます。よろしくお答え願いたいと思います。
  128. 赤木五郎

    ○赤木公述人 私の考えておることを申し上げます。私、実は医学部の出身でございまして、ほとんど大学生活ばかりしてまいったものでございます。いま御指摘の点でございますが、確かに医学部は最も封建的な学部といわれまして、現在もなお、かなり改めてはまいりましたが、御指摘のような旧来の陋習が残っておることは事実でございます。しかしながら、医学部にどうしても宿命的なそういうふうな徒弟制度的なものが残らざるを得ないような幾つかの因子もあります。  たとえば学校教育だけでは実際に人間の命を預かることは、あるいは扱うことはできないというので、どうしてもみずから手をとって教える、あるいは教わるという面が残る。  それからいま一つは就職問題ですが、医学部に関しましては、病院へ勤務しまして、転勤ということがない。それで勤務したらしたなりでその一生をそこで終わるか、開業するか、別にそれをよそに希望する場合は、必ず自分の出身の教室のお世話になって、またよそへ行く、ほかの会社づとめのように、つとめておればだんだんと上がるということがないので、そういうことで、どうしても出身の教室にお世話にならざるを得ないというような点がございまして、勢い封建的なところもございます。  が、しかし、ともかく制度として非常に立ちおくれておる。ことに無給医制度というもの、これはぜひなくしていただきたい。現在、大学教授一、助教授一、助手六、七人が有給者で、あとが何十人おっても無給者でございます。で、大学の診療、あるいは研究教育の仕事は、大体この無給者がいなければできないような仕組みになっており、仕事量でございます。私ども病院長、私、国立大学の病院長もしておりましたが、これは絶えず文部省のほうにお願いして、これだけのものは有給者にしてほしいということをお願いし、これだけの、いわゆる無給副手の有給化ということをお願いして、文部省もかなりわかって努力していただいておりますが、大蔵段階でいつもアウトになるということでございます。これはぜひひとつ有給制度にするか、——しかし一方、これは国家財政の問題もありますので、無限の数をすることはもちろんできませんので、適正な数をして、あとの者は従来のように無給のままで入れるということを大学側もこれは絶対にしないようにするということが、大学の自粛もなければこれはとうてい成果を得ることはできないと思います。そうしたならば、いまの大学学部の徒弟制というものはかなり少なくなって、薄らいでくるのではなかろうかと私は思う次第でございます。  そのほか、研修医制度は、これは全く戦後アメリカの制度をそのまま取り入れ、日本では受け入れる体制ができてないのに研修医制度を受け入れたということで、これはぜひもう一度考え直す必要があるのではなかろうかというふうな考え方を私は持っております。もしもこれを続けるならば、ほんとうのインターン——いまは日本のはエクスターンで、宿舎もなければ何もない、こういう状態もとにインターン制度を受け入れたということは、非常に大きな間違いではなかろうかというふうに思っております。  お答えになるかどうかわかりませんが、思いつくままを申し上げました。
  129. 帆足計

    ○帆足委員 御答弁いただきまして非常に参考になりまして、いろいろお尋ねしたいこともありますが、他の方々がお待ちですから……。
  130. 大坪保雄

  131. 井上普方

    井上(普)委員 まず、赤木先生にお伺いしたいのでございますが、このたびの紛争が医学部から発し、また全国でも医学部のあるところに現在ではほとんど起こっておる。この原因は何かといいますと、先ほども生越先生が言われましたように、半封建的な身分関係にあって、大学人自身はあまりお気づきにならないけれども、特にインターンが昭和三十七年以来問題が起こってきた。こういう問題を突きつけられて初めていわゆる既成の教授、あるいはまた学界の有名な方々動き出した。しかも、それも登録医制度というような、何と申しますか、専門医という博士号にかわるものによって身分を縛りつけ、ある程度医局に、五年ないし七年間引きとめておくというような制度をつくろうとしたところにこのたびの医学部紛争があったと私は思う。  そこで、私は先生にお伺いいたしたいのでございますが、こういうような半封建的な医局講座制というもの、これを直さなければならないと思うのでございます。これに大学人として真剣にお取り組みになる機会があまりにも少なかったのではないか、特に医学部教授は、そのとおりだと思うのです。一例をあげますと、先般私が調べてみますと、昭和四十三年に東京大学の上田英雄教授が四十三年一年間に発表しております論文は、ひどいことに、トップネームを入れますと大体百六十八編発表されておる。ところが、あそこには医局員は百三十人くらいおるはずでございますが、その百三十人の医局員が発表しております論文というものは六十一編しかない。もう上田英雄さんというのは、梶山季之か、あるいはまた松本清張ばりに論文をおつくりになっておる。そして百三十人に余る医局員が、これが六十一点しか発表していない。これは明らかに下の研究者の業績を吸い上げて、学会において発表しておるのではないか、このような気がいたすのです。もちろん主任教授のアイデアにより、あるいはまたサゼスチョンによってつくられた研究というものを、トップネームで発表するのもいいと思います。しかし、そうでないものまでも含まれておるというような感が深くしてならないのです。特に医学部のこの体制を直さない限りは、絶対に医学の進歩というものはあり得ないと思うのでございますが、先生の御意見をお伺いいたしたい、それにはどうすればいいか、お伺いいたしたいと思います。
  132. 赤木五郎

    ○赤木公述人 ただいま御指摘のありました医学部から紛争が起こっておるというのは、東大はその明らかな例でございますが、ほかにも幾つかあるかもしれませんが、そうばかりでもございません。私のほうでは、そういう医学部からは起こっていなかったのでございます。しかし、御指摘のように、医学部が一番あとから——私のところではおそらく医学部紛争には加わるまいと私は思っておりました。学生諸君が話しに来ても、先生、私どものほうはだいじょうぶです、こういう話でありましたが、一たん起こってみると一番医学部紛争が根強いように思います、御指摘のとおり。それはアンダーグラデュエイトの学生大学生としての学内問題と、それから卒後の、いま御指摘のインターンの問題とか、医局のあり方の問題、それが医学部だけは二つ重なっておる。ポストグラデュエイトの問題とアンダーグラデュエイトの問題とが、二つ重なり合っておる。ほかの学部は、ポストグラデュエイトの問題はないのであります。そういう点で医学部紛争は非常に解決がむずかしい、このように私も思っております。  いま御指摘の上田英雄君の論文、こういうことは、いま聞いてびっくりしたような次第でございます。こういう教室員の仕事の上に乗っかるという態度は、私はこれは、こういうことではとうてい紛争処理はできないものである。また、こういう形が、あるいは風習が残る限り、大学としては、紛争が起こってもいたしかたないのではなかろうかというふうに思っております。  講座につきましては、私はほかの観点から講座制の解消というものを、昭和三十五、六年ころから言っております。いまの、よその大学は知りませんが、私ども大学では、講座解消というのは、ただ医局長を公選にしろとか、あるいは就職する場合は人事委員会をつくれとか、そういうふうな講座解消のしかたで、私はそれはだめだ、それはやってもいいけれど、ほんとうの意味の講座解消というのは、これからだんだんと内科、外科でも細分化してきます。学問が進歩すればするほど、内科でも、いままでは第一、第二内科といっておったのが、心臓循環器内科とか、消化器内科とか、あるいは外科でも脳外科とか、心臓外科とか、いろいろ細分化していく。そうすると、いままでのようにその教室、たとえば脳外科へ入る、あるいは心臓外科に入ったのではそれだけしかできない。ところが、社会一般は広く外科の技術を修得した人で、特に心臓外科に対してはたんのうな人を求めておる。そういう社会一般の要求と、現在のような医局制度で、セクショナリズムが、壁があったのではマッチしない。したがって、卒業すると、希望するところはどこでも行ける、外科であれば自分のスケジュールに従って、内臓外科へも行ければ心臓外科へも、自分の好みによって行けるような、そういう医局の壁をとるべきであるというのが、私の従来の主張でございまして、今後このような形であるべきであろうと自分では思っております。  それからインターン制度につきましては、ただいま申し上げましたとおり、これは再検討すべきものであろうかと考えております。
  133. 井上普方

    井上(普)委員 私は、このたびの紛争の一番大きい問題は、先ほど石川先生、杉村先生、あるいはまた生越先生が言われましたように、研究体制と教育体制に私は一番大きい問題があったのではないか、このように考える。同時に学問あり方研究あり方、何のために学問をし、何のために研究をするのかを、率直に、根源的に問題を提起せられたのが、今度の大学紛争であろうと思うのでございます。しかも、いわゆる学者といわれる先生方は、この問題を学生さんから突きつけられて、初めてその問題に取り組んだのじゃないか。そこにはいままでの、あるいは学者、教授先生方の身分の安泰に乗かった一つの安逸さがあったのではないか、このように考えられるのでございます。  そこで、どういたしましても、このたびの大学改革を真剣に考える上においては、研究体制と教育体制を真剣に変革しなければならないと考えます。そこで私は、いろいろと本も読んでみたのでございますが、さしてきめ手がないので、ひとつ生越先生にお伺いするのです。  現在、大学におきましては、講座制とか、学科制とか、科目制とかあります。しかし、将来の大学の改革あるいはまた大学の変革をなす上において、現在最も問題になっておりますのは、講座制というこの古い、半封建的制度でございましょう。これを一体新しくするには、科目制でいってもやはり欠点もあるし、また学科制にいたしましましても欠点が出てくる。これをいかにして日本の風土に合ったものに直していくか、それがまた、国民大衆の役に立つ学問に直さなければならないが、この点ひとつお気づきの点があれば、お教えを願いたいと思うのでございます。  それからもう一つは、先ほども生越先生が言われましたが、市民に向けられた開かれた大学というおことばを使われました。文部省当局あるいは文部大臣が言われる、いわゆる開かれた大学というのは、これは産学協同の路線をさらにきつくするものではないかと私どもは憂えておるものであります。大学というところは、あくまでも基礎的な問題、基礎的研究に重点を置いたものでなければならない。しかし、現在の巨大科学の進歩によって、基礎的なものがまた応用面にも利用せられるし、応用的なものからまた基礎的な問題にまで理論的に波及をしていくという点で、非常にむずかしい問題があろうかと思います。  そこで私は、この市民に向けられた——文部大臣の言われる開かれた大学は、これは問題外といたしまして、生越先生の言われる市民に向けられた開かれた大学とは、一体どういう大学像を目ざしておられるのか、ひとつお伺いいたしたいと思うのでございます。  それから石川先生にお伺いいたしたいのでございますが、先ほども教官は苦しみ、悩みするところに教育があり、研究があるんだ、こうおっしゃられるし、まだまだいまの大学人の苦しみ、あるいは悩みというものは不十分だ、もっと苦しめというお話がございました。私もその点、一面においては、石川先生の言われる点において同感なのであります。したがって、その苦しんだあとに、一体どういう大学像を、あるいはまた学問あり方と申しますか、われわれは考えたらよいのであろうか。現在のごとく、こんな処分、あるいはまたこの大学運営に関する臨時措置法案なるものは、非常に治安維持的な発想に基づいて——こんなことでは私は大学紛争というものは、とても解決できないと思います。しかし、一刻も早く大学を正常化するためには、教授先生方の、あるいは学問に携わる先生方の御反省を大きく求めると同時に、新しい制度を打ち立てなければならないと考えますので、ひとつ苦しみ悩んだ上で、どういう大学像を石川先生は想定されておられるのか、ひとつこの点をお伺いいたしたいと思う次第でございます。
  134. 生越忠

    ○生越公述人 お答えいたします。  非常に井上先生の御質問、多岐多様にわたりますので、簡単にはお答えできませんが、まず講座制、学科目制の問題にからみまして、研究機関としての大学をどう改めたらよいか、この問題でございます。  私は、やはり最近の科学、特に自然科学が急速に発達いたしました。そういう状況もとで——やはり昔は一人でこつこつと研究室の中で研究しておれば、何がしかの成果が得られたわけでございますけれども、最近はそういう急速な科学の発達に伴いまして、研究の規模が巨大化、大規模化いたしました。それから研究内容が非常に高度化し、また複雑化、多岐多様化いたしました。そういう状態もとでは、大学だけが基礎研究機関だということでは、やはりだめだと思います。大学の外にもたくさんの研究機関、多岐多様にわたるいろいろな形の研究機関がたくさんできる。これがやはり必要であろうと思います。そういうことを前提として、研究機関としての大学機能をどう考えたらいいか、こういうことにまずなろうかと思います。  そういう場合には、研究の段階にはまず基礎研究がございます。それから応用研究がございます。それから開発研究がございます。たとえばロケットを打ち上げるような研究、これは開発研究でございますね。こういう研究大学でやるべき仕事じゃないと思います。そういうことを大学でやっておりますから、教授を頂点とした縦割りの講座制でやっておりますから、東大の宇宙航空研究所のロケットはいつまでたっても打ち上がらぬ。一発一億円、三発打ち上げれば三億円の損になっておりますね。こういうことがやはりあるわけでございます。やはり大学でやらないほうがいいような研究、それが、何でもかんでもとにかく大学の中へかかえ込んでしまって、そこでやるというような風潮がございます。これはやはり大学中心主義、大学優先主義、大学はほかの研究機関より一枚上なんだ、こういう風潮が大学そのものの機能をやはりだめにしてしまった、それから大学研究機関としての機能をやはり低下をさせてしまった、こういうことがあると思います。でございますので、先ほど御指摘のありましたように、やはり基礎研究に重点を置いた研究機関として大学をこれから育てていく。それから非常に大ぜいの人間と巨大な設備、多額の費用、それから大規模な施設設備、そういうものを必要とするようないわゆる巨大科学、ビッグサイエンス、これは大学ではやらぬほうがいいのではないか、こういうふうに思います。  そういう前提に立ちまして大学研究体制をまず考える必要があると思います。それで、大学の制度、学部組織には講座制、学科目制、課程制、こういうのがございますけれども、私は、先ほど井上先生が御指摘になられましたように、どの制度もやはりいけないと思います。特に講座制は、先ほどからいろいろ議論が出ましたように、これはやはり非常に硬直化した制度であって、学問の進展に応じていかれない。しかも、そういう縦割りの講座制の頂点に立っている教授が、終身雇用制のもとで、二十年かそこらに一ぺんしかかわらない。こういう制度のもとでは、講座制というものが大学で行なわれている学問を古い学問だけにしてしまって、新しい学問を取り入れることを阻害してしまっている。こういうあれがあると思います。  特に自然科学分野では、たとえば一流の科学者、最高級の科学者が、何歳のときに一番いい業績を出したか、こういう統計がございます。二十一歳から二十七歳といわれております。二十八歳を過ぎますと、もう基礎的な研究者としての能力が落ちてくる、こういうことがいわれております。二十一歳から二十七歳の年齢と申しますと、大学のせいぜい三年生ぐらいから大学院博士課程の年齢にかけてでございます。そういう人たちが実は最先端の研究をやっているわけですね。それで助手になったらもう古くなってしまう。こういう現実でもあるわけです。助教授になったらもっと古くなってしまう。教授になったらもう全然古くなってしまう。こういう現実がございます。それほど学問が急速に発達している。でございますので、やはり学問研究を高めていくためには、推進していくためには、やはり若い人たちの豊かな個性、それから創造的な能力、これを最大限度に引き出すようなそういう制度がやはり保障される必要がある。現在の講座制は、若い人たちのそういう創造的な能力を踏みつぶす、圧殺する役割りこそ果たしておれ、それを育てる役割は全然果たしておらない。私は、これは長い間の東大研究室における経験から身をもって感じます。  特に、先ほど御指摘になりました上田内科の上田英雄教授が、一年間で百何十編の論文を書いた。こういうことは何も医学部に限っておりません。たとえば東大の工学部で助手が論文を書いて教授のところへ持っていった。いつの間にかその助手の知らないうちに教授の名前で発表されておった。実際に研究した助手の名前は、謝辞の中に書いてあった。だれだれ助手に感謝の意を表する、そう書いてあったわけです。そういう例があるわけです。私は、その助手から訴えられました。一体どうしたらいいのか、泣いたらいいのか、教授を弾劾したらいいのか、どうしたらいいのか。弾劾すれば首になります。そういう状態もとでいわゆる教授は、助手あるいは大学院の学生、場合によっては学部学生、そういう人たちの血の汗と努力研究の成果を、著作権の侵害、あるいは盗作に似たような行為をやって取り上げて、いわばその助手の研究の上がりでもって飯を食っている。こういう現状でございます。であればこそ一年間に百何十編の論文が書けて、それで教授の名前で発表される、こういうことがあるわけですね。こういうことがやはり医学部においては特にひどかったので、医学部がやはり大学闘争の一つの原点になっておるということであると思います。しかし、それと同じようなことは方々にあるわけですね。そういう状態をつくり出したのは、やはり教授を頂点とする講座制というものが厳然と確立しておって、教授が独裁的な権力をふるえるということですね。助教授以下の研究者は、ともかく教授の命令に従わなければ追い出されてしまうとか、とにかく学問の自由を奪われてしまう、そういうことでございます。そういうことが全部の講座について、あるいは全部の大学についてあるとは申しません。民主的な大学もございますでしょう。しかし、多くの大学では、そういうことが現にあったわけですね。現在でも改めておらぬわけです。特にやはり講座制という制度が、たとえば先ほど井上先生の御指摘になりましたような産学協同体制を教授の意思だけによって大学に持ち込んで、助教授以下の人たちに、その特定の企業から教授が引き受けてきた委託研究の下請を、教授の命令によってやらせる。そういうことにも講座制というものが大きな役割りを果たしてきたということでございます。講座制があるために、助教授以下の研究たちは、教授の命令に従って、委託研究でも、場合によっては軍事研究もともかく従わなければいけない。それを拒否すれば追放される、あるいは昇格のチャンスを失するということがあったわけでございます。でございますから、講座制につきましては、どういう角度から見てもこれは廃止しなければいけないと思います。  しかし、学科目制がいいかといいますと、学科目制は、本来新制大学——戦後専門学校あるいは高等学校から変わったいわゆる新制大学でございますね、正確な新制大学は。東大も含めてのことでございますけれども、いわゆる新制大学、旧高専から格上げされた新制大学で置かれている制度でございます。これは研究を中心とした大学ではなくて、教育を中心とした大学で置かれている制度でございます。たとえばそこの大学学部に置かれている学科目の種類、学生の数、そういうものに応じて教員の定数がきめられております。でございますので、一つ学問分野のすべての研究分野の学者たちが、学科目制のもとではそろわない。講義の数がなければ、どんな重要な学問分野であっても、教員の定数は得られない、こういうことでございます。教育的なつまり講義を、どうやって行なうかという見地からきめられた制度でございます。それによって教員の定員がきまるということでございますね。ですから、学科目制というのは、やはり講座制のような徒弟制をささえるようなそういうファクターはないにしても、やはりこれは研究機関としての大学の制度としてはよろしくないと思います。  それで、私の考えでは、やはり研究テーマ、あるいはどういう教育を行なうか、そういうことに応じて、やはり機動的な、随時解散し、また随時新しくつくり得るような機動的な研究グループ、そういうものを基本としてこれからの大学をやはり運営していくべきであって、それで、一つ研究テーマの研究を行なってしまったら、それをつぶしてしまって、また次の研究グループをつくる。そういう機動的な研究グループ制度、これがやはり講座制にかわる制度であると思います。そういう機動的な研究グループ制度のもとでは、年齢とか、卒業年次とか、あるいは現在教授、助教授といったような不当な職階制がございますけれども、そういうことなしに、その研究グループの指導者として一番適任な人を、年齢とか、地位とか、卒業年次にかかわりなく選ぶ。それでそのグループの研究が終わりましたら、その研究グループの責任者はおりる。平の研究員になる。そういうことを基本として研究を行ない、その研究に基づいて教育を行なう。そういうことがやはり正しいのではないかと思います。  それから、そういう制度を保障するためには、何よりも現在行なわれております教員の身分についての終身雇用制、年功序列制、これをやはり撤廃する必要があると思います。やはり自分の能力、テーマ、希望、そういうものに応じて好きなところへ移り得るチャンス、これを確立するということがやはり不当な大学の格差をなくす上にも非常に大切なことであると思います。私自身、やはり二十年以上の研究歴がございますけれども、テーマが絶えず変わっております。変わるに従って移りたいわけです。移りたいけれども方々大学がみんな終身雇用で年功序列をやっておりまして、二十年かそこらに一ぺんしかポストがあきません。とにかく、よほど運がよろしくなければ移ることができません。そういうことでは、そこにおる人間自身がくさってしまうわけです。そういうことです。ですから、教員の流動を高めるような制度的な保障を何とか確立してほしい。それから単に教授あるいは教員を、大学の間で交流するだけでなくて、大学社会の間で交流する必要があるだろう。大学の教師が、官庁や民間の研究所の所員になる、あるいは新聞記者になる、あるいは社会人になる。それからまた、社会でいろいろな仕事をやっておる人が、たとえば一定期間また大学教授になる、そういうことが必要であろうと思います。  それから市民に向かって開かれた大学、これは文部大臣をはじめとしていろいろ言われておりますけれども、私は、やはりそれは基本的に必要なことであろうと思います。これからの大学は、やはりお上に向かって開かれた大学でもなければ、企業に向かって開かれた大学でもなくて、市民に向かって広く開かれた大学であるべきだろうと思います。そのためには、やはり出入り自由の大学にすべきである。新しい知識を必要とするようになる。やはり技術革新がこれだけ激しく行なわれるようになってまいりますと、いま習っている知識もすぐ役に立たなくなってしまいます。あるいは一つの仕事から他の仕事へ移っていく、あるいは専門を変えていく、そういうことも必要になってまいります。一生涯の間に三度も四度も専門を変えた、一生涯の間に五回も六回も職場を変えた、そういうことがこれから必要になってくる世の中でございます。そういうときには、大学で習った知識は役に立ちません。そういうことでございますので、やはり必要なときに、古い知識を新しい知識に取りかえる、そのために必要なときに自由に大学へ出入りする、それで資格を取るのでなくて、自分がこれからやろうと思う仕事をやっていく上に必要な勉強をそこでやる、そういう大学にする必要があると思います。ですから、十八歳から二十二歳までの間の一定の年齢の人たち大学に籍を置くのではなくて、一回社会へ出て十年間仕事をした、その人がまた大学へ帰る、三十か四十になってまた大学でやる。家庭の主婦が、子育てをやったあとでまた大学へ入る、そういう大学にする必要がやはり基本的にあると思います。そこで行なう大学研究あるいは教育内容は、やはり基礎的であり、本質的なもの、原理的なもの、そういうものを身につけるような教育であり、研究でなければならないと思います。職業教育機関大学からはずして、別のところに置くのがよろしいのではないか、そういうふうに私は思っております。そういった意味合いの大学をつくって、ほんとうに市民に向かって広く開いて、それで老若男女が必要なときには自由に出入りするようなそういう大学に改める。先ほど申しましたけれども、決して資格の取得機関にしてはならぬ、そういうことでございます。
  135. 石川忠雄

    ○石川公述人 いま御質問があった最初の問題でありますが、大学の中の人間、特にこれは教員も学生もそうでありますけれども、もっと私は苦しんだほうがいいということを申し上げたのであります。先ほど岡山大学の前の学長のお話がありました。あのお話を聞いておりましても、ほんとうに大学の問題というものを真剣に悩み、考えた人というのは、実はそれは学校学長とか、あるいは何か責任の地位にあるような人たち、どうもそんなような印象すら受けるわけであります。  先ほども申しましたけれども、実は、私を含めまして、大学の教員というのは、確かにその安逸さになれてきたという側面はございます。これは、たとえば大学教授会というようなものがありまして、この教授会には非常に大きな権限がゆだねられておる。したがって、それだけに教授会はみずからにきびしくなければならないし、みずからの構成員の研究とか教育における熱心さ、献身さというようなものに対しても、もちろんきびしくなければならなかった。しかし現実には、実際には、たとえば自分の同僚である友人が、ある研究についても、あるいは教育についても、必ずしも十分でないことをしておっても、それはお互いのこととして見のがしてきた、そういうような側面が確かに私は大学の中にあったと思うのです。そういうようなあり方というものが、いま確かに問われているわけでありまして、その点から考えてみますと、大学紛争が起きて、それを構成している教授なり、あるいは教員全体が、この問題を自分のものとして受け取って、そして、その問題について最も真剣に考え、かつ苦しまなければならないはずだ。ところが、現実の紛争の中で、そういうことが、実際にすべての教員にわたってとは申しませんけれども、大部分の教員にわたって、そういうことがほんとうに行なわれているのかというと、私は、まだその程度は、それほど十分なものであるというふうには考えないのです。自分たちが、何か大学の構成員である、大学自体破壊されることはないというようなことからくる何となく安逸な空気といいますか、自分の問題としてその問題を取り上げない人たちがまだいるということです。こういうような状態の中から、ほんとうの意味での大学改革というような問題が生まれてくるだろうか。学生諸君にしても、たとえば一部の活動家の諸君——これは一部と言うと、よくいけないと言われるのですけれども、活動家の諸君が、かりに自分なりに問題を考えて問題を提起した。しかし、大部分の学生が、やはり同じような気持ちで、考え方は違っても、自分の大学の問題をほんとうに考えているかどうか、こういうことになりますと、よく無関心層ということが言われますけれども、そういう学生諸君も、私はかなりいると思います。そういうようなところで、先ほどちょっと申しましたように、緊急の救いの手を差し伸べても、それで大学にほんとうに自分の心の底からいろいろな問題を解決する、そういうような機運が盛り上がってくるかどうか、そこのところが、私は非常に懸念するところなんです。  そういう点で、そのことをまず申し上げておきたいのですけれども、そこでそれに続いて、それならば、そういう苦悩の中からどういう大学像が浮かび上がってくるのかというお尋ねだったと思いますけれども、その点については、実は私個人の考え方は申し上げられるのですが、実際には大学あり方というものについては、もっともっと奥深いところから討議され、奥深いところから実は出てくるだろうと思うので、どういうものが一体いい形として、あるいは将来の新しい大学の形として出てくるかということを、一般的にちょっと申し上げるわけにはいかない。ですけれども、私自身の考え方を申し上げますと、大学というのは、これはよく古典的であるということをいわれますけれども、先ほども申しましたように、思想の自由というものが存在するところでなければならないというのは、これは大前提だと思います。ですから、体制的な思考がその中で存在することができるし、体制を越えた価値を追求する思考も、その中で存在することができる。こういう姿が、私は大学の一番理想的な姿であるというふうに考えております。  そういうような前提を一応置きまして、一体そういうような姿に現在の大学の制度が適応できるような大学の体制になっているかと申しますと、必ずしもそうなっていない。それは大学を囲む社会的な環境といいますか、状況というものが変化しているということもたしかであります。特に最近は非常に急テンポで変化している。そのことが多種多様ないろいろな問題を大学に突きつけているけれども、実は大学がそれに柔軟に対応できない。したがって、そういうような柔軟な対応のできる体制というものを頭の中に描いてみて、それの一体どこに問題があるのかというふうに考えますと、現在の大学の制度を基礎にして考えてみた場合には、私は、やはり教授会自治の問題、この問題に実は非常に大きな問題点があるのだというふうに考えられます。  それからもう一つは、その教授会自治の問題が解決されれば、実はその問題もおのずから解決していくかもしれませんが、一つは、やはりもう一つの構成員であるところの学生の正当な考え方、正当というのは、価値を加えて言っているわけではないので、私が言っておりますのは、学生によって正しく代表された意見、こういう意味ですけれども学生の正しく代表された意見というものが、一体学校運営の中に、特に教育の側面にどう反映してくるかというその面だろうと思います。  その前の面で申しますと、実は教授会がどういうわけで今日あれだけ大きな権限を持つようになったのかということは私にはわかりませんけれども、しかし、いま考えてみますと、おそらくその前提には、学問的にも、人間的にも、識見の点でも、教授というものは非常にすぐれたものであって、そしてその人たちが、教育とか研究の問題について最も妥当な判断を下し得るし、大学運営についても、最も妥当な判断を下し得る、そういうような考え方というのがあるいはあったのかもしれません。しかしながら、今日までの事実を見てみますと、私は実際にはそうでなかったというふうに考えざるを得ないのですね。ですから、教授会を構成している人々というのは、実は自分の専門の学問については詳しいかもしれぬ。しかし、大学の問題全体についてはあまり詳しくないかもしれない。また、人によっては、研究に非常に力点を置いて、教育のことについてはあまり関心を持たない人もいる。実は多種多様であって、その人々は結局神さまではなくて、人間であるということがはっきりしたのだと思うのですね。そういうようなことから考えてみますと、私は今日大学の中で教授会というもの、もし先ほど申されましたように、教授、助教授、助手というような身分を撤廃するということになればまた別でありますけれども、もしそういうものが存続するということであるならば、やはり教授会の持つ権限というものは、私はもう少し限定したものにしたほうがよろしいというふうに考えます。  それからもう一つ、やはり教授会はみずからにきびしくなければならないという前提に立っているわけですけれども、現実にそれが十分に行なわれない。たとえば先ほどの例が私はどの大学にもあるのかどうか知りませんけれども、弟子の論文を自分の名前で発表するというようなことが行なわれるとすれば、これはたいへんおかしなことなんですけれども、しかし、そういうことがあるとするならば、あるいは教授会のメンバーであるということによってみずから怠惰であることが許されるとするならば、やはり教授会の外に私はそういうようなものを監督——というとちょっとことばが悪いのですけれども、しかし、そういう機関をやはり設置することも必要ではないだろうかというような気がします。やはり徹底したメリットシステムを、教授会の中、あるいは学部全体の中に導入していくというような形のものを考える必要があるのではないだろうかと思います。  それからもう一つは、学生意見をどう反映するかという問題でありますけれども、私は、基本的には学生というのは確かに教育を受ける側に立っているということは、これは間違いないと思うのです。しかしながら、その学生は、ただ教えられ、教育を受けるというだけではなくて、やはり現実のいろいろな社会の変化の中で、みずから問題を持ち、あるいはみずからの人生をそれに対決させて、そしていろいろな問題を持って大学の中に入ってくる。したがって、その人たちの関心というものは、実は教育体制をより柔軟化する上に私は意味があると思うのですね。それだけに、そういう意見大学の発展のために必要な意見であれば、それを吸収することはどうしても必要になってくる。ただ、その場合に、一体どのレベルで、どれだけのものを、どういうふうに吸収するのかということが問題でありまして、私は、この点についてはまだ考えなければならない余地がかなりあると思います。しかし、原則的にはやはり学生というものの持つ関心度の深さ、それからそれに対する責任とか能力の大きさというものによって、その各層のレベルの問題、あるいは度合いの問題というものを考慮すべきではないだろうか、そういうことであろうかと思います。  だいぶ時間が長くなりましたが、研究体制の問題につきましては、いまいろいろお話がありました人間の交流という問題も、私はこれは必要だろうと思います。しかしながら、この研究体制の問題を考えますときに、人間というのは実はいろいろな人がいるわけで、非常に教育には不向きな人もあるけれども研究的な才能というのは非常に豊かな人もいる、これはもういろいろであろうと思います。したがいまして、それを一律に大学の中で研究教育を同じようにやらなければならない、そういうふうに定義づけることが、はたして大学における学問の発展に意味があるかどうかということについては、私は多少疑問があるわけです。したがって、大学教授というものは、確かに研究教育をつかさどるのですけれども、しかし、より研究的な能力を持った人というのは、私は逐次教育体制の中からその役割りを減らして、そうして研究体制の中で生きられるような、そういうような状態に持っていくということは、私はどうしても必要ではなかろうか、そういうふうに考えます。  最後に、もう一つぜひ申し上げておきたいと思うことは、私は、やはり学問は何のためにするのか、あるいは学問は何のためにあるのか、こういう問題は実は、まあことばが適当でないかもしれませんけれども、やはり学問する人間一人一人のいわば思想性を問うている問題だというふうに思います。その思想性の問題ということを考えますと、それはたとえば自分が現世界を変革することに役割り、つまり自分の学問の役割りを感じる人もあるし、あるいは、先ほども申しましたけれども、そうではなくて、現代の世界を一つの体制的基盤の上に立って改革していくということに自分の学問の意味を認める人もあるし、そういう点は私は千差万別であろうと思います。大学の中で、たとえば何のために学問をするのかという考え方について、非常に詳細な点まで方向性を規定するということは、実はそれは大学自体の自殺にほかならない、そういうふうに考えております。
  136. 大坪保雄

    大坪委員長 唐橋君。  どうぞ簡単に願います。
  137. 唐橋東

    ○唐橋委員 時間が非常に過ぎましたので、簡単に杉村先生にお伺いをしたいわけなんです。  といいますのは、日本学術会議の件につきまして、責任者の江上先生に御出席を実はお願いしたのです。しかし、江上先生が会長立場でいらっしゃるわけでございますが、きょう京都の学会に出ておいでになる、こういうことなので実は出席不可能であったわけなんです。したがいまして、杉村先生学術会議の会員でおいでになりますので、このことについてひとつお伺いしたいわけなんです。  といいますのは、いまさら申し上げるまでもなしに、先日学術会議の決定として、大学運営に関する臨時措置法案についての申し入れというのを私たちも拝見いたしましたし、あるいはまた、大学問題について全国大学及び科学者に訴える声明というのも拝見させていただきました。したがいまして、この権威ある日本学術会議が、このような重大決定をなされ、この重要な申し入れをなされたことは、私たちはこれはほんとうに重視しなければならない、こう存ずるわけでございますし、このことにつきまして、実は学術会議のこの取り扱い、あるいは討論の中で、この公聴会において十分御意見会長の江上先生からお伺いしたがったわけなんですが、いまのような関係、あるいは時間の関係等もありますので、会員でおいでになる先生から、この経過の中で、特にこの公聴会においてこれだけはひとつ申し上げておかなければならない、こういうような点をひとつ率直にお伺いしたいわけなんです。以上です。
  138. 杉村敏正

    ○杉村公述人 大学紛争の問題につきましては、学術会議は、最初から、その解決のために権力的な関与、あるいは暴力によるもの、それは許されないんだということを前提にしてまいりました。そこで、結局学術会議は、初めから、大学紛争については各大学が自主的にその紛争解決をはかるということを考えてきたわけであります。その意味は、各大学と申しますのは、先ほどから話も出ておりましたように、大学紛争の直接の原因なり、あるいはその大学の特殊な事情というものは、それぞれその大学によってあるわけでございます。したがって、その場合に、先ほど申し上げましたように、大学紛争の原因といたしましてはもちろん共通するものもありますし、あるいは特殊のものもある。そしてその大学は、国立大学でありましょうと、あるいは公立大学でありましょうと、私立大学でありましょうと、それぞれ特色を持ってきております。そうしますと、解決のためには各大学が自主的に考えなければいけない。そこで、自主的にといいますのは、この解決につきましてかりに文部省のほうで強い権力的な関与の権限を持ちますと、これがかりに五年間ならば五年間というふうな時限的なものでありましても、大学の、あるいは学部教育研究というものの自由が阻害されるであろう。ある場合には、その存在自体が否定される。存在自体が否定されるといいます場合に、学問の、あるいは研究の、教育の自由というものはすでに考えないわけであります。そういう意味で、各大学が自主的に紛争解決する、その努力をするということを第一に考えてきたわけであります。  それから二番目には、この大学紛争の原因につきましては、政治的な問題、あるいは特に教育あるいは研究についての政府の施策の問題、そういうものがありましょうが、しかしながら、大学自体が従来の管理運営の機構、あるいは機構運営方法、これについて十分な反省を自主的に、あるいは自発的になし得なかったことは事実であります。直接管理運営の問題ではございませんが、先ほど大学学部のカリキュラムの問題について話が出ました。たとえば私の参加しております学部におきましても、カリキュラムの問題は、数年前から実は検討し続けてきたわけでございます。しかし、それにもかかわらず、事実上は委員会のつくりました案が実現できませんでした。私はそれにはいろいろな理由があろうと思います。その場合に、カリキュラムの編成ということになりますれば、直接関係いたしますのは学生自体であります。教員は教育が任務でありますから、学生のことを十分に考慮しなければいけませんけれども、しかし、教員が学生のことを考えるということと、学生みずからが自分の立場でカリキュラムについての不満を打ち明けるということとは、また別であります。そういう点から、たとえばカリキュラムの編成というものにつきましても、教授会は十分にその時期時期にその結果を適正に実現したとは考えられないわけであります。これは教授会という一つ大学機関運営について問題があった点でございます。これは単なる一例でありますけれども、現在の大学の管理運営方法というものにつきましては、多くの場合には、従来の慣行をそのとおりに実現してきたということが多かろうと思います。そういう点から見ますと、その内容が民主化されるということは当然であるとともに、内容の民主化を実現する一つの適正な方法は、大学のすべての構成員の意見を聞く、審議の中に取り入れるべき考え方を民主的に出さしめるというところにあろうと思います。そういう点で、第二番目には大学の管理運営の民主化ということが考えられてきたわけであります。  この七月七日に、学術会議は臨時総会を開きまして、そして先ほど御指摘の申し入れあるいはまた国民各位に訴えるということを考えました。このときには、第三に、大学は現在、紛争解決するために努力をしておるけれども、しかしながら、紛争の原因、あるいは紛争の形態その他につきましては、各大学に共通する分野が多い、そういうふうな共通の問題とか、あるいは大学紛争のうちでも最も根本的な問題については、互いに協力する必要があるだろう、そういう意味で、各大学で連携をして大学紛争解決のための努力をするということを考えたわけであります。それとともに、従来までは大学紛争が起こりましても、当該大学がその教職員あるいは学生をも含めてその解決努力をしてきたわけであります。しかし、大学問題は国民全体の問題であります。そうするならば、大学紛争解決するといいます場合に、大学自体がみずから責任を持って考えなければいけませんけれども、同時に、その場合に、国民各階層と意見を交流する必要がある、そのように考えたわけであります。この第三の点が特に七月七日の臨時総会において強調されたところでございます。  以上でございます。
  139. 大坪保雄

    大坪委員長 岡沢完治君。
  140. 岡沢完治

    ○岡沢委員 私は四人の公述の方々のうちで、石川先生は私の属します民社党が推薦させていただきまして、大体見解も一致いたしておりますし、共鳴するところが多うございますので御遠慮申し上げ、赤木先生の御意見は、最終的な法案に対する態度は私とは違いますけれども、問題の考え方等につきましては大体よく似ておりますので、赤木先生に対する御質問も御遠慮申し上げまして、時間の関係上杉村先生と生越先生を中心にお尋ねいたしたいと思います。  杉村先生は、私の京都大学時代の恩師でございまして、直接行政法を教えてもらった仲でございますが、こういう立場でございますので、遠慮なしに質問させていただきますからお許しをいただきたいと思います。  四人の公述人の御意見を聞かしていただきますと、大学が改革すべきたくさんの問題をかかえているという点では一致いたしております。また、暴力に対して反対であるという点でも一致いたしておられます。ただ、暴力に対する対し方につきまして、杉村先生と生越先生は、私から見ますとかなり理解があり過ぎる態度であり、赤木先生は非常にきびしい態度であるというふうに、分けてすなおに私は感じたわけであります。  この学生騒動に関連する東京裁判の公判を担当しておられます熊谷裁判長が、実力行使をもってしか貫徹できないような主張は合理的な説得力を欠く証拠ではないかという趣旨の御発言がございました。言うまでもなしに、われわれの新憲法下の社会というのは法に基づく社会法治国家でありますし、また近代国家が力の支配から法の支配、その法はいわゆる理性を立法手続を通じて実現したものというふうに解釈していいかと思います。そういたしますと、改革をすべき問題の取り組み方について、暴力を否定するということは、やはり私は最大の、また最も緊要な課題ではないか。やはり暴力と対決するということについては、教職員方々に勇気ときびしさを持っていただくのは当然許されることではないか。また、むしろ、そのきびしさの不足のゆえに、ある意味では紛争がエスカレートしたという要素もないとは言い切れない。けさも加藤先生にもお尋ねしたわけでございますけれども暴力は悪い、封鎖は悪い、あるいは投石は悪い、あるいは監禁は悪いとおっしゃっても、それに対する処罰をしなかった場合に、どろぼうをしてはいけない、人を殺してはいけないと言っても、犯罪に対して罰がなかった場合に、はたして人間は法秩序を守り抜くだろうか、それほど人間はすばらしい道徳的な存在だろうかということを考えました場合、やはり間違った行為に対しては、それ相当の制裁を受けるというのが法秩序の根本原則であり、また、そのことのきびしさを教えることが、教育の一面でもあるのではないかというように私は感ずるわけでございます。そういう意味から、暴力について私はあえてゲバルトということばはつかいません。私は、学生暴力も、やはり暴力団の暴力とちっとも変わらない。そのために警察官二人をはじめ、犠牲者をたくさん出しております。学生自身にも出しております。国有財産破壊されている。一般市民の貴重な生命、身体、財産が被害をこうむっている。こういうことを考えました場合に、学生暴力だからといって特に差別をすべきではない。目的のために手段が正当化されるというのは間違いだ。暴力は、暴力なるがゆえに悪いということを、はっきり言い切っていいのではないか。だからといって、われわれは学生が投げかけております問題に答えなければならない。そういう意味では改革についてはきわめて建設的に、積極的な態度をとりたいと思いますけれども暴力に対してはそれだけに、自由を守る意味からもきびしく対処したいと思うわけでございますが、そういう意味から、恩師の杉村先生と、学生に対して非常に御理解のある御発言のありました生越先生に、御意見をまず聞きたいと思います。
  141. 杉村敏正

    ○杉村公述人 問題は、学生が自分の主張を通します場合に、いま御指摘のような暴力、物理的な力を加える場合がございます。あるいはそうでなくして、たとえば授業放棄という方法をとることもございます。物理的な力を加えるといいました場合に、たとえば教室、事務室を封鎖するというふうに財産を対象にするということもありますし、あるいはおそらく御指摘の他人に対して傷害を加えるということもあろうと思います。そして、私は現に大学紛争に関係する学校におるわけでございますから、たとえば物理的な暴力をふるう学生が、正当な理由なくして他の集会を阻害するというふうなことは許されないだろうと思います。だから、そのような物理的な力というものは、同じ学生でありながら他の集団の表現の自由、集会の自由というものを阻害することにもなります。そういう意味で、私は、少なくとも物理的な力、特にそれが人に加えられるといいます場合に、その行為は放任できないと思います。  ただ、この場合に問題になりますのは、先ほどの大学の管理運営の改革の問題になるわけでございますけれども、処罰はすべきであるといいます場合に、現在の処罰についての要件の規定、それがたとえば学生の本分に反するということでいいんだろうか、あるいは処罰をするといった場合に、手続規定でございますが、学生に対する処罰の場合であっても、いわゆる適正な手続というものが踏まれなければならないであろう。あるいはその処罰をする場合に、どの機関が処罰をするのが公正であるかということについて、現に問題が残っております。そして京都大学の場合に、具体的な暴力事件が起こりました場合に、最近実は処罰は事実上しておりません。その場合に、いま申しました処罰の要件、あるいは処罰の手続、あるいは処罰の目的、性質ということについて、疑点があるということがあります。とともに、これを処罰をするといたしました場合に、その処罰が事実上十分に、いまの改革案も積極的に提起していない場合に、はたして効果があるかどうかということが問題になろうと思います。  と申しますのは、学生諸君のうちで、ある一定の場合に、物理的な暴力を人に対して加えてもよろしいという立場の少数の学生もあります。しかしながら、それに他のいわゆる一般学生といわれますけれども大学についてやはりいろいろな不満がある、要求がある、それが十分に実現されていない、そういうことが根拠となって、ある意味からいうならば革新的な学生とともに行動することがあるわけでございます。そのことを考えますと、われわれとしては、処罰をするということを考えます場合でも、一応一般学生、あるいは多くの学生に納得できるような大学の改革というものを実現するということがまず前提ではないだろうかと思うわけでございます。ですから、現在は京都大学の場合に処罰はしておりませんけれども、処罰に関する要件、性質、手続、そういったものを十分に検討した場合に、大学教育研究を阻害するという点において処罰をするということは可能であるし、またすべきものであろうと思います。
  142. 生越忠

    ○生越公述人 御質問にお答えするのはたいへんむずかしいのでございますけれども、これまで私が再三申し上げてきましたように、現在ああいう形でいわゆる暴力行為が行なわれておることは返す返すも残念なことではございます。しかし、それがやっぱりなぜ起こってきたかということですね。これは日本だけではなくて、やはり世界じゆうで、場合によっては日本よりももっと激しい形の大学闘争が行なわれているわけでございます。アメリカにせよ、それからフランスにせよ、そういう闘争あるいは紛争が発生している背景には、やはり現代社会の矛盾があり、またその現代社会の中に位置している大学の矛盾があるわけでございますね。ですから、それを解決することなしに、ただ学生の現象的な行為だけに対して幾らきびしく処分いたしましても、それだけでは根本的な解決は絶対にはかられないということを言ったわけでございます。  私は、物理的な力を用いまして他人のからだに対して危害を加える、そういったことに対して理解を示したことは全然ございません。そういうことは、いかなる理由があろうとも、いかなる場合であろうとも、絶対にいけないことは明らかでございます。私はそういう考え方は曲げたことはございません。ですけれども、いわゆる暴力に対して一方的にいかぬいかぬと言っているそういう議論が、あまりにも多過ぎやしないか。そういうことを言っている人に限って、自分の大学は一体どうなんだ、自分の大学人としての生き方はどうなんだ、そういうことに対して反省したことがあまりにもなさ過ぎるのではないか、そういうことを私は痛感しているわけでございます。ですから、単にいわゆる暴力学生に対してきびしく処分するということだけが根本的な解決では絶対ないのである、このことを繰り返し主張しているわけでございます。  それで、暴力の中には、物理的な力を用いて他人に危害を加える、そういう暴力がございます。それから国会の中で行なわれているいわゆる多数の暴力、少数意見の発言を封じる、こういう暴力もございますですね。それから場合によっては学生が自分たちの主張を教授あるいは大学に対して投げかける、それに対して教授学生は、それを無視して沈黙して相手にしない、そういう一種の——これは学生は沈黙の暴力と称しておりますけれども、そういうことばがいいかどうかは別として、そういういわゆる目に見えない形の暴力もあるわけでございます。そういう暴力が支配し横行しておりますと、やはり学生は、自分がせっかくまじめに問題を投げかけても、その投げかける場所がなくなってしまう。そういうことから、やはりああいう激しい行動は起こってくる。このことはやはり十分考えなければいけないと思います。  それから、従来は、教育的処分と称しまして、たとえばストライキをやった学生、それに対する処分をやってまいりました。それからストライキを提案した学生大会の議長に対しても、やはり処分が行なわれました。教育的処分と称してそういう処分が行なわれました。学則を破る、これは確かに一般的にいえばいけないことでございます。それは岡沢先生の言われるとおりでございます。しかし、学生たちはやはり新しい人間の生き方を求めております。それから新しい秩序を求めております。新しい価値を求めております。そのためには、いままでの、時代に合わなくなった古い価値観、それから能力観、そういったものを捨てようと思っているわけです。それからいままでの人間の生き方、それにかわる新しい人間の生き方、それを求めようと思っているわけです。そういう考えに基づいて一定の行動を起こす。その中で、先ほど八木先生からの御指摘もございましたけれども、やはりいろいろな形での不幸な形の派閥争い、そういったものが必要以上にエスカレートする、そういうことがございます。そういう運動の中でいわゆる暴力がしばしば行使される。これは非常に残念なことでございますけれども、やはりその背景には、新しい人間の生き方を求めているそういう学生の行動、考え方、それを秩序を乱した、そういう名目のもとに不当処分を行なってまいりました。教育的処分と称して、そういう行動を行なっている学生に対して、相当重い処分を行なってまいりました。そういうことに対する反発があるということを十分御承知おきいただきたいと思います。  それからいま問題になっております東大の文学部学生処分、これも東大の中のいろいろな先生方、一部の先生方が言っておられますけれども、もし事務職員のネクタイをちょっと引ぱった、それならば絶対に処分の対象にならなかったであろう。教授のネクタイを引っぱった、それで重い処分が科せられたわけです。事務職員のネクタイを引っぱったり、ちょっとこづいたりしたら処分にならぬけれども教授のネクタイを引っぱったり、こづいたりしたために処分になった。その根底には、先ほど私が申しましたような、ことばが不足であったので坂本先生から誤解されましたけれども大学の中にある不当な差別観、人間に対する差別意識、そういうものがやはり根底にあって、それを学生が問題にしているわけでございます。一人の学生に対する処分が、なぜあれだけの大きな問題になるか。この根底には、事務職員をべつ視する、教授は殿さま扱いになっている。教授に対してちょっとこづいたり何かしたことに対しては、重い処分を加える。そうじゃない人に対しては、何をやってもそれは処分の対象にならぬ。そういう大学の雰囲気、それからそういういままでのしきたり、あり方、それが問われているわけでございます。  でございますので、再三繰り返して申しますけれども、単にいろいろ行動を行なった学生に対して、大学の規則に照らしていろいろと処分する。それだけでは根本的な解決にはならないんだということです。これをやはり十分お考えいただきたいと思います。何よりもやはり大学が普通の社会に通用している普通の常識、それが支配する場所になりませんと、不当な身分差別、教授の特権意識、そういうものが横行しているような状態もとでは、それから学生とか、事務職員とか、教員の中でいえば助手であるとか、そういう人たちが無権利状態に置かれている、そういう状態もとでは、やはり新しい人間の生き方を求めて、あるいは新しい価値を求めて、あるいは新しい秩序を求めて、そういう人たちが異議を申し立てる、そのためにいろいろと指弾されるような行動に入る。これについて、単に暴力排除ということだけでは対処できないのではないかと思います。
  143. 岡沢完治

    ○岡沢委員 私は、先生とは暴力の解釈が違うわけなんで、私の言っているのは物理的な暴力で、いわゆる犯罪の構成要件に該当する暴力です。先生のおっしゃるように、多数の暴力、あるいは沈黙の暴力というようなことまで暴力ということになれば、これは私は解釈は全く違ってくると思うのです。  いま先生のおっしゃったように、大学も、市民社会で当然通用しているような、暴力は許さないという常識が、どうして大学では逆に無法状態、違法状態が常態になっているかということが問題だろうと私は思うわけです。大学というのは、日本の今後の発展の指導的な立場に立っていただかなければならない存在であるのに、逆に最もおくれた、私から言わせれば力の支配に逆戻りしているような姿ではないか。そういうことについては、やはりきびしい態度で処していただくのが、むしろ学問の自由、大学の自治を守っていただくゆえんではないか。赤木先生がおっしゃいましたように、紛争解決のために学長権限を集中することについて、個々の先生方に聞けば九九%まで賛成であった。ところが、公開の席で、公的な立場の表明となると反対される。ここに私は、大学先生方の表現の自由が、少数暴力のために曲げられていると見ざるを得ないわけです。こういう点については、もっとき然とした態度を示してもらうべきではないかということを申し上げたかったわけでございます。  時間がございませんので、せっかくお越しいただきました生越先生と意見が違って恐縮でございますけれども、生越先生のようなお立場、私はまた教育者として、ある面では必要だと思います。しかし私は、大学紛争の背景を考えました場合に、権利は主張するけれども義務を忘れる、あるいは他人の責任は追及するけれども、自己の努力を忘れるという戦後の社会風潮にも一つの責めがあるのではないか。われわれは、もちろん基本的人権としての当然の学生の権利、市民社会の市民としての権利を主張することは、憲法上も当然許されております。しかしまた一方、日本古来の伝統であります、公のためには自分を殺してでもがんばろう、他人を先にし、おのれをあとにするという思想、あるいは公共の福祉のためには自分も最大の努力を尽くす、権利を主張するところに義務を果たすという風潮も、やはり私は教育的な内容としてお考えいただいていいのではないか。社会が悪い、政治が悪い、あるいは大学の機構が悪い、教授が悪いと言い切らないで、学生自身にも、生越先生自身が、給料が少ない、処遇も悪いけれども自分はがんばっておるというお考えを、きびしく教えていただくことも教育内容一つではないか。そのかわりに、われわれ政治立場にある者としては、教育基本法十条におけるような、勉強したい学生が、十分に静かな環境で、勉強意欲を持って勉強できるような教育環境を整備さしてもらうという努力を、政治家として、あるいはここにお見えの文部大臣としてやっていただく。しかし、学生はまず勉強していただく。教授はまず教えることに専念していただく。管理者は管理の努力を尽くしていただく。そしてお互いが自分の責任を果たしながら、大学に使命を果たしてもらい、また、社会が喜ぶような人材を養成してもらうということが必要な時期ではないかと考えるわけでありますけれども、生越先生の御意見を聞きたいと思います。
  144. 生越忠

    ○生越公述人 一般論としては、岡沢先生の言われるとおりだと思います。しかし、再三繰り返して言いますように、学生は教えられ、それから教師は教えるもの、つまり、管理するものとされるもの、そういうことでは、現在の大学状態、これからの大学のあるべき姿に多少マッチしないものがあるのではないかと思います。少なくとも大学というところは、それは教師は学生よりは年をとっておりますから、若干知識はございますでしょう。しかし、新しいアイデアを発見する、そういうことでは、必ずしも学生は教師よりも劣るとは限りません。先ほど申しましたように、二十一歳と二十七歳の間に一番有能な仕事をなし得る年齢がある。たとえば科学の場合ですと、二十一歳から二十七歳、数学や物理ですと、もっと若い。ということで、やはり教師と学生とは、一応教育者、学ぶもの、そういうことになっておりますけれども、それが同時に、支配するものとされるもの、管理するものとされるものということになってしまいまして、普通のお役所であるとか、企業であるとか、そういったところにおける上下の身分関係になってしまっては、ほんとうの学問教育はできないと思うのです。学生も教師から教えられるところはあるけれども、教師に教えてやるところもたくさんございます。教師も学生に教えてやる部分もありますけれども、また学生から教えられるところもたくさんございます。これは、親と子の関係でも同じだと思います。そういうことで、これからの大学において教師と学生とは一体どういう関係になったらいいのか。これから学問がどういうふうに発達していくのか、そういうことに対応して大学はどうあったらいいのかということを、そういうことの中でやはりはっきり考えていかなければいけないと思います。  先ほど岡沢先生が御指摘になりました、一般社会で許されていないことが、大学の中でなぜ放置されているのか、そのことについて、ちょっと申し上げてみたいと思います。  確かにいまの大学は、ある意味では無政府状態、動乱状態になっていると思います。一般社会では許されないことが、大学では放置されている。現象的に見ると、そのとおりのことがございますでしょう。ですけれども、だからといって、大学の中で、たとえば学則に照らして、これこれの行為をやった者をすぐ処分する、大学管理者学生に対して処分する、そういったことがいままでのような形で行なわれていいものかどうかということですね。教育的処分と称して、学則に違反した者をすぐ処分する、しかも、相当重い処分をする。普通のあれでいいますと、死刑に当たるような退学処分など、すぐやってしまう。ストライキを提案したというだけでもって、ストライキを提案した学生大会の議長をたまたまやっておったというだけで、退学処分になったような例がたくさんございました。それから、先ほども申しましたけれども東大闘争の発端になりました医学部、ここでは本人の申し立ても聞かずに、アリバイのある学生に対してやはり処分が行なわれました。この処分を撤回するのに、東大の場合半年かかりました。幾ら異議を唱えても、十分調べた上でやったのだから絶対間違いないのだといって開き直ったのは、ほかならぬ東大の医学部の当局者でございます。切り捨てごめんでございます。学生の分際で何を言うか、そういう態度教授の中にございます。そういう管理者的な、支配者的な態度、これが教員の間にある限りは、大学での学生と教員との間の好ましい関係、これはできるわけはございません。  でございますので、繰り返して申しますけれども学生のいろいろな行動、それを非難するのはけっこうでございます。それとともに、そういう行動を起こした責任は一体どこにあったのか、そういう問題に対するおとなの責任はどうなのか、それを十分やはり考えていただきませんと、一方的に学生が悪い悪い、そういうことだけでは絶対に解決できない問題である、こういうふうに思います。何か紛争が起こりますと、すぐ二言目には学生が悪い、そういうことを言う教師がおります、大学の中におります、社会の中におります。しかし、ほんとうに、現在起こっている大学闘争——先ほど申しましたように、これは日本だけでなく、世界じゆうに起こっております。大学闘争の本質をよく理解しておる者であれば、学生が悪いと言う前に、教師が悪い、おとなが悪い、こういうふうに言う人が、私はほんとうの大学問題の通であると思っております。やはり、大学闘争がどういう状態もとにどういう原因で起こって、どういう背景のもとにそれがエスカレードし、こじれておるか、そのことをもっともっと現実に即して十分お考えいただきませんと、単なる暴力排除のキャンペーンだけでは、これはだめなんだということですね、それを申し上げたいわけでございます。ですから、一般論としては岡沢先生の言われたことはそのとおりなんでございますけれども、やはり現在の大学の実態でございますね、それについての御認識をもっともっと深めていただく、それはどうすればほんとうに解決できるのかということですね、それについてやはり十分お考えいただきたいというふうに私は思います。
  145. 岡沢完治

    ○岡沢委員 一問で終わります。  生越先生に対しましては、もちろん先生のおっしゃることもわからないことはないような気もいたします。ただ私は、いまの先生のお説を聞いておりながら、ナチスが台頭したときに、イギリスでナチスの独裁に対する非難をする声があったときに、一部の人は、イギリス自身がインドに植民地を持っておって、何を非難する資格があるかということを言った人があることを思い出さざるを得なかったわけであります。  最後に、杉村先生、京都大学のことでございますが、先生は行政法ないし警察法の権威でもあるわけなんで、私は、先ほど申しましたような意味で、大学暴力を排除するということは至上命令、いま最大の緊急時だと思いますし、それについて赤木先生は、当然大学暴力に対して無力なんだから、機動力を要請してあたりまえだという御趣旨のお考えがございました。私も大体そういうふうに感ずるわけでございますが、京都大学は例の京大方式で、暴力に対しては暴力でという自衛方式をおとりになりました。これの是非ですね、あるいはその背景というようなことで簡単にお答えいただきたいと思います。
  146. 杉村敏正

    ○杉村公述人 おっしゃいました点は、一月に三日間にわたって大学の混乱がございました。そのときに私、当時こちらの学術会議がございましたので、最後の晩からしか見ておりませんでしたけれども、そのときの状況は、他大学の多数の学生が、暴力的に大学の本部構内に乱入するという少なくともうわさがありまして、そこで、学生部の事務室以外のいろいろな教室その他が封鎖されては困るということで、自然発生的に、大学の本部構内の周囲を板その他でいわば逆封鎖したということになったのだと思います。  そのときに、私の知ります限りでは、大学当局として、相手方が暴力を行使するから物理的な力でそれを防衛するということの決定があって行なわれたわけではないように思っております。ですから、そういう点で、その後京都大学では、大学自体は自衛力を持たないのだということを学生意見を述べまして、そして学生に、物理的な暴力の行使をしないようにというふうな強い要求をしたわけでございます。ただ、それにもかかわらず、事実上物理的な力でその後も教室を封鎖する、あるいは他の学生に対して傷害を加えるという行動が起こってまいりました。この点、大学自体が物理的な力を持って防衛しないということになれば、お話しのように警察力を借りるということが問題になろうと思います。ただ、私が問題にいたしますのは、その場合に、大学で警察力が行使されるといいます場合に、何びとが警察力を必要とすると判断するかいなかの問題に関するわけでございます。その点につきましては、私は警察官が、たとえば警察官職務執行法の規定に基づきまして立ち入りをいたします場合におきましても、その要件に該当する事実があるかどうかということは、大学自体が第一次的に判断すべき権限を持つべきだろうと思っております。そういう観点からは、大学内の問題につきまして、大学自体ではなくして、警察当局が第一次的に判断権を行使されるということに問題があろうと思います。それはある人は警察アレルギーというかもしれませんが、しかしながら、警察官大学に入りますといいます場合には、大学の当事者といたしましては、常に研究教育の自由という観念で警戒心を持つのが当然であろうと思っております。ですから、私は、物理的な暴力が不当に用いられます場合に、もちろん警察力によってそれを防止するという場合があり得ることは当然認めております。ただその場合に、やはり第一次的には大学当局に判断する余地を与えてほしい、こう考えるわけです。
  147. 岡沢完治

    ○岡沢委員 終わります。
  148. 大坪保雄

    大坪委員長 有島重武君。
  149. 有島重武

    ○有島委員 私は一点だけ伺います。  杉村先生に伺います。  学術会議の見解といたしまして、先ほど三つ、大学自主的解決と、それから管理運営の民主化と、三番目に社会との意見の交流、それから全大学との連携、こういった三つをあげられたと思うのでございますけれども、そのうちの第三の項目について、先ほど同僚委員の質問でやや詳しく、七月七日の臨時総会においてこういった問題が出たのだ、こういう話がございました。これにつきまして、少し具体的に教えていただきたい。三番目の問題でございます。
  150. 杉村敏正

    ○杉村公述人 第三番目の問題は、全大学の連携をするということと、国民諸階層との意見の交流をはかるということでございます。  そこで、前段の全大学の連携といいますのは、おわかりになりますように、大学紛争の生じている大学が多く、したがって、大学紛争解決のための措置とか、あるいは運営改善のための措置について、各大学で検討中でございますから、したがって、大学問題のうちの共通的なもの、根本的なものにつきましては、各大学で連携をして、その大学紛争解決のための案を考えていこうということでございます。ですから具体的には、かりに大学の管理運営改善ということを考えました場合に、各大学がそれについての改善案を現につくりつつあります。ですから具体的には、たとえば教授会の権限なり、あるいはカリキュラムの編成なり、あるいは学生の図書使用の方法について、あるいは学長、部局長について、学生がその選挙について参加をするかどうかというふうなことにつきましても、いろいろな大学で検討中でございますから、その点で連携をして検討を深めたいということでございます。  それから、あとの国民諸階層との意見交流をはかるといいます点は、現在までは紛争を起こしております大学では、その大学当局がおもに紛争収拾及び運営改善のための案を検討してまいりました。その場合に、大学みずからが積極的に国民のいろいろな階層の意見を——たとえばその改革を考えている人が、積極的に意見を聞きに参るとか、あるいはいろいろな階層の方々意見大学でお聞きするとか、そういうふうな手段は少なかったかと思います。そういう点で、大学自体大学紛争収拾なり、あるいは運営改善をはかります場合に、独善的であってはいけないわけでありますので、できる限り広く、多くの人々の意見を聞こうということが、この国民諸階層との意見の交流をはかるということでございます。  ただ、その場合に、国民諸階層といった場合に、その諸階層を代表するそういう方々をどのようにして選び得るかということが問題になるだろうと思います。そういう点で学術会議としては、特別に事例は示しておりませんけれども、単にたとえば産業界なら産業界、経済界という形、あるいは政界というだけではなく、あるいは労働組合その他、国民のできるだけ多くの立場意見を聞き得るような、そのような措置を講じたいというふうに言っているわけでございます。
  151. 有島重武

    ○有島委員 ただいまのことにつきまして、具体的に運営していく上には、やはりターミナルであるとか、情報交換のセンターというものが必要になってくるのじゃないかと思いますけれども、初めのほうの根本問題について、各大学がこれについて連携する、これをいまも岡沢委員のほう、あちらでもこちらでも提案が出されておる。そういったことについて、それを交換していくセンターというものは考えておられるかどうか。私ども大学問題の提案を通して大学問題の研究所というようなものを、ちゃんとコンスタントなものをつくっておいたらいいのじゃないか、そこに資料が集めてあって、そこに問い合わせればいろんなものがある、日本全国、あるいは世界各国のものが。そういったような資料と、それから情報交換をできるようにしたい、そういった場所を設立すべきじゃないかということを思っておるのですが、それについての御意見を伺いたい。  それから第二番目に、国民全体の問題であるから国民各層との交流が必要である、きょうもはからずもここにおりますのは、国民各層の代表みたいなものでございまして、意見の交換が行なわれておるわけでございますが、それから最近では新聞紙上で意見の交換がなされております。そういうようなことがございますので、これも学術会議として、今後何か具体的に、そういった意見の交換の場所といいますか、チャンスといいますか、そういったものを考えておられるかどうか、そういったことを具体的に聞きたかったわけであります。
  152. 杉村敏正

    ○杉村公述人 全国大学の連携をはかるといいます場合には、たとえば学術会議にも、各大学で改革の案を考えられました場合に、その資料を送ってこられるところもございます。また、たとえば国立大学協会であるならば国立大学だけでございますけれども国立大学協会の会合で、各大学がどのような方法で、あるいはどのような程度大学の改革についての案が進んでおるのかというふうな情報の交換が現にされているようでございます。そのほか、いま申し上げましたのは国立大学協会だけでございますが、あるいは公立大学、あるいは私立大学の協会でもされているかもしれません。しかしながら、そのようないろいろな組織がございますけれども、できればすべての大学意見を交流するほうが望ましいわけでございますから、おっしゃいますように、何らかのそういう大学改革のための研究所というものができれば、それはますますよろしいだろうと思っております。  それから、国民諸階層との意見の交流の点でございますが、これは学術会議としては具体的にいま考えを持っておるわけではございません。ただ、御承知かもしれませんが、現在のところ、学術会議の会員個人が大学学長と懇談会を開いたりいたしまして、その後、学術会議の会員が多くの場合に呼びかけに、あるいは世話人となりまして、近畿なり、あるいは関東なり、あるいは東北なりにおいて、この教員の大学問題について考え一つの組織をつくっております。これは教員だけでございますけれども、できれば私個人といたしましては、そのような組織が各地域に教員中心として出ておりますが、その場合に教員だけでなくして、その他の階層に、その地方ごとに集まっていただいて、意見を交換するというふうな形にすればどうであろうか、こう考えております。
  153. 有島重武

    ○有島委員 おおよそわかりました。各大学ないしは各階層でもって行なわれているその力が結集されて組織化されて、それで大学問題を前向きに解決していく上の推進力になるのではないか、そういった時期が来ているのだろうと私も思いますし、それから学術会議もそういった決議であったのではないかと推察するわけでございますけれども、ネコに鈴をつければいいのだということはわかっているが、じゃだれがその鈴をつけるかという問題ですね。そういった点で、やはり学術会議のような立場が、一番ふさわしいのではないかというような気も私はするわけです。そういった面に今度は人とお金、そういったことになると思いますけれども、そういった問題を私どもに遠慮なく言っていただいて、それこそ協力して、そして問題を具体的に解決する方向に早く進んでもらいたい、そのように思う次第でございます。  質問を終わります。
  154. 大坪保雄

  155. 石田幸四郎

    ○石田(幸)委員 私から二、三点お伺いをいたしたいと思います。  まず、赤木先生にお伺いをいたしたいのでございますが、先生は岡山大学においでになりまして、実際の紛争を体験、またその処理に当たられて非常な御苦労をなさっているお話をるる伺ったわけでございます。しかし、先生が最後におっしゃったことは、この法案だけでは解決がなかなかむずかしいのではないか、そういう意味をちらっとお漏らしになったように伺ったのでございます。  そこで先生の御意見の中では、特に学長権限強化する、こういうような問題については御賛成のように、私お話も承ったわけでございます。しかしながら、この大学運営に関する臨時措置法案につきましては、いわゆる教職員の給料カットの問題であるとか、あるいは学生の育英資金の打ち切りであるとか、こういうような問題も非常に大事な問題ではなかろうか。こういう点から見まして、私たち大学の自治、学問の自由に対する本質的な問題に抵触しているだけではなくて、この法律が施行されても、その実効がなかなかあがらないのじゃないか、こういう点に私は力点を置いてこの法案を見ているわけでございます。先生が、この法案の中におきまして、どの点が紛争解決のために有効であり、あるいはこの点は紛争解決の助けにはならない、こういうふうに二つの面から、これは分析をお願いしたほうがはっきりするのじゃないかと思いまして、こういう質問をするわけでございますが、有効な点と、それから、かえって紛争を激化させる、あるいはまたこの法案の実効があがらない、こういう点についてのお考えを承りたいと思います。
  156. 赤木五郎

    ○赤木公述人 私も、この法案だけで問題が解決するというふうには思っておりません。大学制度の抜本的な改革、あるいは社会制度の改善などによらなければ、紛争の真の解決はあり得ない、このように考えております。ただ、この法案によっていままで無関心な教職員、あるいは学生、あるいは非協力的な教職員、こういったような者が、少なくとも自分の問題として真剣に取り組むであろう。そして、それによって解決が早く得られるのではないかというふうに考えております。いま紛争処理に困る点は、こういう層が多い、一向に関心を持たないという層が多いのですが、これはもう今度は身近な問題として考えるに違いないという点が有利な点である。また、この法案がその趣旨のとおりに運用されるならば、これは大学教育研究の中身には触れていない。ただ、紛争収拾大学運営改善が、大学管理者の手によってやりやすくしやすいようにしてあるという点で、私は紛争解決を早める役立ちをするであろう、このように思っております。ただ、いま御指摘のありましたように、紛争反対、あるいは中立であった学生までこの累が及ぶとか、あるいは何らの権限もない、あるいは責任もない事務職員までが賃金カットされるというようなことは、これはどうも何とか——一部が悪ければ全体が悪いというような非教育的な面があるのじゃなかろうかというふうに考えております。  そのほか、先ほどからも御指摘がありましたが、臨時の大学問題審議会ですか、それによって休廃校などをきめるということのようでございますが、これも人選を誤り、あるいは運用を誤ると、非常に危険をはらむのではなかろうかというふうな考えを持っております。
  157. 石田幸四郎

    ○石田(幸)委員 杉村先生にお尋ねをするわけでございますが、この臨時措置法案につきまして、先ほど先生が冒頭に述べられたお話を承って、大体私は納得をしたのではございますけれども、いまもちょっと申しましたけれども大学の自治の本質問題に抵触する、それから実効があがらない、この二つの問題について、どちらに力点を置いて先生はこの法案をごらんになっておりますか。
  158. 杉村敏正

    ○杉村公述人 私は、この法案につきましては、学問の自由、大学自治という観点から、文部大臣権限というものが不当に強化されるということをおそれます。そしてそれは、教育統制ということは、将来の国民の問題になってまいります。したがいまして、私は、特に法律的な立場に重点を置くからと思いますけれども、これが行なわれた場合に、紛争というものは激化するであろう。だから、そういう意味からいえば、私は、紛争収拾のために、この法案は十分な効果を持つとは思いませんけれども、私は、重点としては、やはり文部大臣権限強化、あるいは学長権限強化のほうが大きな問題だと思っております。
  159. 石田幸四郎

    ○石田(幸)委員 もう一点、杉村先生にお尋ねをするわけでございますが、教育公務員特例法第十条の規定がございますが、この教育公務員特例法と、この大学法案の関連について、特に人事の問題についての関係を、先生はどうごらんになっておるか、この点をお伺いをいたしたいと思います。  特に私が問題にしておりますのは、午前中も加藤学長にお伺いをいたしたのでございますけれども、第六条における補佐機関あるいは審議機関、執行機関、こういうような中におきまして、特に補佐機関と執行機関においては、その構成員の任命は、学長の申し出に基づいて文部大臣が行なうもの、このようにきびしく規定されておるわけでございます。私は、ここに文部大臣の拒否権が明確にあると思うわけでございますが、従来の慣習は、教育公務員特例法の規定によっていままでは行なわれていたと思うわけでございます。そうしてみますと、この大学立法のほうが、はるかに文部大臣権限が強くなってくるわけでございますから、教育公務員特例法第十条の規定というものは、へたをすれば、だんだんこれは力が弱まってくるのじゃないか。少なくともこれは五年の時限立法でございますから、五年間に限っては、こちらの大学立法のほうがはるかに人事面における影響は強いのではないか、このように考えて、その点について若干心配をしておるわけでございますけれども、先生はいかがお考えになりましょうか。
  160. 杉村敏正

    ○杉村公述人 私は、その場合に、たとえば副学長その他の任命につきまして、この法案では「学長の申出に基づき、文部大臣が行なうものとする。」こうなっております。むしろその場合に、学長がどのような方法で副学長を選ぶかというところに問題があろうかと思います。私は、むしろ学長が自己の判断だけでなくして、副学長ということになれば、この法案では評議会、あるいはその他の機関権限の一部を譲渡するということも可能でありますので、したがって、むしろ学内において、学長が選任する人についての意見をどのように構成するかというところが問題になろうと思います。そして私は、教育公務員特例法の解釈から、やはり学長が申し出をした場合には、文部大臣としては、形式的に任命権を行使されるものだと考えております。
  161. 石田幸四郎

    ○石田(幸)委員 あまり時間も長くなりますので、それではその問題はやめにいたしまして、石川先生にこの法案に対する御見解を承りたいわけでございますが、いわゆる実効が伴わないという点に先生は力点を置かれるのか、あるいはまた、大学のそういった自治の本質問題に抵触するから、それが将来大きな影響を与えるのじゃないか、こういう面に力点を置いてこの法案を見られておるのか、どちらでございましょうか。
  162. 石川忠雄

    ○石川公述人 私は、実は昨年、私の大学において起きました米軍資金問題を直接担当したわけですけれども、私が実際に紛争それだけを取り上げて、そしてそれをいわば紛争がなくなる——それは本質的に問題が解消されたわけじゃなくて、ただ紛争だけが解決するというようなことでかりに問題を見るといたしますと、そうすると、この法案というのは全く実効性がないとは考えません。その点では実効性があるかもしれない。ただしかし、この法案考えられますことは、先ほども申しましたように、何か大学の人間そのものが、ほんとうに考えなきゃならないというところまでとにかく落ち込んでいない段階で、それを途中から救ってしまうというような感じがするのです。そういうことは、やはり大学の今後の、ほんとうの新しい大学あり方というようなものをつくり出していく、つまりそういう過程で、何かそういう途中で救うということが、私はあまり意義がないんじゃないかという感じがするということが一つです。  それからもう一つは、確かにいまの学長、これは実は学校によってその権限あり方というのは千差万別でして、国立大学と私立大学の場合は非常に違うし、私立大学の中でも、学長が非常に権限を持っているところもあれば、実際には教授会の協力なしには全く動けないというような学校もあるわけです。ですから私は、その点が一律には言えないと思います。しかしながら、確かに紛争そのものを解決するためには、いまの状況の中で学長が力を持つということは、それだけの効果はあると思うわけですけれども、しかし、そのことによってかえって逆に、たとえば教職員とか、そういうものとの間にギャップができるというおそれもなきにしもあらず、実際にはそういう形がどうも出てこやしないだろうかという心配があるわけです。もしそういうものが出てきて、学長が自分自身の判断だけで問題をかりに動かしていく、教授会の協力がなくても自分はやるんだということでやるというようなことが起こってまいりますと、かえって実は紛争は混乱した状態が出てくる、そういう可能性といいますか、危険性がどうもあるようです。そういうようなことから私は考えまして、まだ時期的にこういうような問題をわきから救う必要はないじゃないか、大学自身が実はもっと考えたらよろしいというふうに思うわけです。もちろん、この提案理由を読んでみますと、もう大学社会的な職責を果たせなくなっている、もう何かしなければならない時期である、こういうふうに書かれているわけですね。私もそういうようなことがあり得るだろうということはわかりますけれども、しかし、それをかりに途中で中途はんぱなところで紛争解決というような形だけで問題を処理してしまうと、かえってそのことが長い将来にわたっての日本の大学あり方としてはまずくなりはしないだろうか、そういう感じがするわけです。
  163. 石田幸四郎

    ○石田(幸)委員 最後に、杉村先生に一点だけお伺いしますが、ストライキ権の問題について先ほど生越先生がいろいろおっしゃったわけでございますが、現在すでに立法反対のストライキが数多く起こっております。この間、この大学立法の逐条審議に入る前に、ストライキ権の問題で私は文部当局に確認をしたのでございますけれども、これはいわゆる第二条の大学紛争の定義、その中におきまして「大学の管理に属する施設占拠又は封鎖授業放棄その他の学生による正常でない行為」というふうに規定されておるのでございますけれども、このストライキはいわゆる紛争大学認定の要素になるか、このように質問をしました。文部当局におきましては、この立法反対のストライキは紛争大学認定の要素である、こういう明確な答弁が出てきたわけでございます。  先生は法学部教授でいらっしゃいますし、ストライキの問題につきましてどういうふうにお考えになるか、あるいは学生処分の対象とすべき問題であるかどうか、あるいは学生にストライキ権を認めるべきであるとお考えになっていらっしゃるかどうか、そこら辺の御関係を最後に明かしていただきまして、私の質問を終わりたいと思います。
  164. 杉村敏正

    ○杉村公述人 学生がストライキをいたします場合、学生が多数で議決をいたしました場合には、多くの学生がみずから自分の教育を受けるということを放棄しているわけでございます。そこで、私は教員の態度といたしましては、そういった場合に、かりに少数の学生でも授業を聞きにくるといいます場合に、そこに授業に出ていくのかどうかということが問題になるだろうと思います。もしもかりに自治会その他の学生の自治団体の決議で授業放棄というものを可決いたしました場合には、それは他の学生も拘束されるのだとおそらく自治会としては主張するであろうと思います。そこでその場合に、少数の学生がなおも授業をしてくれといいます場合には、私の考えとしては、私は授業をしたいと思います。ですから、そういう意味からいえば、学生のストライキ権ということで、教員のほうも当然講義をすることを休むというふうな制度は望ましくないと思っております。  それから処罰との関係につきましては、私は先ほど申し上げましたように、物理的な暴力によって特に他人に対して傷害を与えるということは許されないことだと思います。それに対して私は、学生のストライキをいたします場合に、やはりある種のことについては、学生自治会その他の自治団体がストライキをするということもあり得ると思います。ですから私は、学生授業放棄の決議というものが、当然に懲戒その他の処分の対象になるとは考えておりません。
  165. 大坪保雄

    大坪委員長 以上を持ちまして公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人の各位におかれましては、長時間にわたり、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとう存じました。厚く御礼を申し上げます。(拍手)  以上をもって大学運営に関する臨時措置法案についての公聴会は終了いたしました。午後六時四十八分散会