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坂田国務大臣 総理大臣が百年に一度のというか、そういう
一つの転換期に来ておる、
大学問題の原因の一端もそこにあるんだという、その把握はやはり正しいと思いますし、私自身もそういうふうな把握をいたしておるわけでございます。確かにいま
暴力学生というものによって、
大学の基本的な学問の自由とかあるいは
大学の自治、真に学問をしようとする
学生並びに教授、あるいは教育を受けようとする
一般学生というものが、十分にその研究活動、教育活動ができないということに問題があるというわけでございまするが、しかし、そのよって来たるところ、原因というものを
考えれば、私は、あらゆる機会に言っておりますが、単に
学生だけを責めてもそれだけで解決はできない。また、これを受けとめるところの
大学当局の古さとか、あるいは改善すべき幾多の学内問題もあるということも承知をしておるが、その
大学当局だけを責めても解決はできない。そういう気持ちの底には、いま
小林さんが申されたような意味において、広くは文明史的な
一つの原因というものが背後にある。それから近くは、戦後二十年の民主主義の弱さというものがあるいは象徴的にあらわれておる。あるいは単に
大学問題だけれ
ども、それは同時に
大学に入りますまでの高等
学校、中
学校、小
学校教育にも原因がある。あるいはその
学生を生み育ててきました父母、
家庭にも問題があるというふうに私は実は
考えておるわけでございます。したがいまして、この問題解決は、現在の
紛争は
紛争といたしまして、民主主義の敵でございます
暴力の排除ということには、われわれが一致して当たらなければならないが、同時に、この複雑多岐にわたる原因の究明なくしては解決はできない。したがって、相当長時間を要して慎重に各党でもお
考えをいただきたいし、また
世間の議論にも耳を傾けたいし、各
大学当事者の
大学再建のいろいろの方途も
考えたいと思う。そういうことを踏まえなければ新しい国民のための
大学というものはつくり上げられないのじゃないかというふうに思っておるわけでございます。
たとえて申し上げますと、その
一つは、
大学当局の古さとか、あるいは改善の余地ありというような点につきましては、
大学というものが学部自治におちいっておる。そして全学的意思の決定ができない。学部自治と申しますが、実はその弊害は学部閉鎖的エゴイズムというところまで発展をしてきておる。そういう原因はどこかというと、終戦後、われわれが六・三・三・四制度をとって、そして新制
大学の発足をいたしたわけであります。しかしながら、新制
大学は発足いたしましたけれ
ども、これはアメリカの教育視察団が勧告をし、また、その当時のわれわれの先輩の方が、これに対しまして、この道を選ぶということで六・三・三・四制度を採用されたわけでございます。そういたしますと、この六・三・三・四制度というものは、かつての旧帝国
大学というものとは理念的に違う。むしろ旧帝国
大学は、ドイツのフンボルト
大学あたりの、学問のうんのうをきわめ、そしてまた国家枢要の人材を育成するのが
大学であるという、こういう象牙の塔的な
大学であった。ところが、新制
大学になりましてから、その理念というものは、ドイツのフンボルト
大学は十八世紀でございますから百数十年も経ておるわけでございます。そのものの
考え方というものは旧帝国
大学にも受け継がれ、そしてまた新制
大学になりましても、なおかつ大部分の教授の頭、あるいは学者の頭にそれが払拭されなかったのではないか。制度としては、アメリカに育ちましたところの、いわば万人のための
大学という、そういう大衆化された
大学ということで始まっておるにかかわらず、それに徹し切れなかったというところに問題があるといたしますならば、いま御指摘のような意味において、時間的に申しましても百年の
一つの転換期にきておる。そして戦前においては八万くらいの大
学生でございましたけれ
ども、今日は百五十万の
人たちが各界各層から入ってきておる。また、その能力においても、高等
学校の成績が大体六〇%くらいであるならば高等教育機関に学べるという時代になってきておる。そういう意味合いにおきまして、やはり
一つの転換期である新制
大学をつくるときにその理念に徹すべきであった。
大学も、そしてわれわれ文部省もそうであったと思いますが、その点についてわれわれ文部省においても、はたしてその理念に徹し得たところの指導をやってきたかということについては、私みずからも反省をいたしておるようなわけでございます。
文明史論的に申し上げますならば、御承知のとおりに機械化文明、自然科学というものが異常に発達をして、人間というものは社会に対応し適応する力を持っておるわけでございますけれ
ども、この二十年間の自然科学の進歩というものに対して、人間がなかなか対応できなくなってきておる。そういうことがいえるかと思うのでございます。また、昔のわれわれの育ちました時代においては、文字へ活字を通じてものを
考え、思索し、思想が生まれ、文化が形成される、その中に育ってまいりました。しかし、戦後のこの異常な
テレビの発達あるいは視聴覚教育、視聴覚の
情報産業ということにおきまして、目、耳というような感覚的な、そういう形でものを把握し、あるいは知識を獲得し、そしてそれに対して意思を発表し、
行動をする。したがって、きわめて前の時代よりも衝動的、あるいは即物的反応を示すということは、これはやはり自由社会における、進歩した社会における特徴的な現象ではないかと思うわけでございまして、これはやはり
小林さん御指摘のとおり、世界的な広がりを持った
一つの共通した
若者たちの表現のしかた、あるいはものの受けとめ方、知識の獲得のしかたということにつながってまいるかと思うのであります。
その
一つの証拠には、たとえば
京都大学で追跡
調査をいたしております御承知の入学試験を受けて入りました
学生を調べてみると、大体一二%から一五%精神障害を受けておる。分裂症、ひどいのは躁鬱症、それからノイローゼ等々の精神障害、しかもこれは単に京大だけではなく、東大でもほぼ同じようなパーセンテージである。あるいはまた、アメリカのカリフォルニア
大学の一番有名なバークレー
大学においてもそのような傾向が見られる。あるいはコロンビア
大学においても、ケンブリッジ
大学においてもそうである。こういう現象は、やはり私は機械文明におけるところの人間疎外と申しますか、そういうものがいま問われておる時代であって、その意味において転換期だ。まさに百年の転換期であるという総理のこの認識というものは、私は正しい。その
一つとしてやはり
大学問題というものが出てきておるというふうに見ておられることについて、私は同じような
考え方を実は持っておるわけでございまして、この点はむしろ
小林さんもそのようにお
考えだと私は思っておる次第であります。