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吉田泰造君 ただいま
議長から御
報告のありましたとおり、本院
議員和爾俊二郎先生は、去る七月十二日逝去されました。まことに
哀悼にたえません。
私は、ここに、
諸君の御
同意を得て、
議員一同を代表し、つつ
しんで
追悼の
ことばを申し述べたいと存じます。(
拍手)
和爾
先生は、
明治三十五年八月大阪市に生まれ、大阪府立市岡中学校から第四
高等学校を経て、
東京帝国大学法学部に学ばれました。
昭和三年
卒業とともに大阪市に勤務され、自来三十五年の長きにわたって市役所に
在職し、大産業都市大阪の
発展と市民の福祉増進とにひたすら奮闘されました。
戦後の大阪市は、申すまでもなく、戦災によってそのほとんどが焦土と化し、全市民の生活が混乱と窮乏におちいっておりました。
先生は、このようなきびしい状況のもとで作業部長、教育部長、
民生局長等の
要職を歴任し、この間戦災校舎の復旧、六・三制義務教育の実施、あるいは現在の福祉事務所の前身である
民生安定所の創設、また市営住宅の増設等に、なみなみならぬ
決意のもとに文字どおり心血を注ぎ、もって戦後の教育基盤の
整備に、また、市
民生活の安定と福祉
向上に大きな貢献をいたされたのであります。
しかるに、
昭和二十五年九月大阪市を襲ったジェーン台風は、営々として復興への歩みを続けていた市民に大きな打撃を与えたのであります。
先生は、直ちに被害地に急行し、濁流におののく市民の救援と激励に身を挺し、引き続き被災者の救済に当たられました。この不眠不休の活躍ぶりに市民は心から感謝し、いまなおこれを語りぐさとしているのであります。(
拍手)
先生は、この苦い
経験から災害防止のために万全の対策を講じられたのでありまして、その後幾たびかの台風に際し、風水害が最小限に食いとめられましたのも
先生の力に負うところが大きく、その功労は各方面から高く評価されているのであります。
昭和二十六年五月、
先生はその力量を認められて助役に任命され、以来三期十二年にわたり、市長を助けて卓越せる
手腕を発揮されたのであります。
大阪の
発展はすなわち
わが国の
発展であるとの
信念から、隣接町村の合併をなし遂げ、また海外都市との提携をはかるなど、大産業都市
建設のために尽瘁されました。また、「蚊とハエをなくする運動」、「町を静かにする運動」を強力に展開し、市民組織としての赤十字奉仕団を育成強化し、また、
昭和三十六年の騒動によって大きな
社会問題となりました釜ケ崎に一連の福祉施設を
建設し、さらに、産業の振興に伴って激しくなった地盤沈下の対策を樹立するなど、その
業績は枚挙にいとまがないのであります。
昭和三十七年十月、三十年余にわたって大阪に尽くされた
功績により、
地方自治功労者として藍綬褒章を受けられました。大阪に生まれ、大阪を愛してやまなかった、きっすいの浪速っ子和爾
先生にとって、これこそ至上の栄誉と感ぜられたことでありましょう。(
拍手)
昭和三十八年二月、大阪市を退かれた
先生は、長年にわたって胸に描いていた
地方自治の伸長と福祉
社会の
実現をはかるため政界に入る
決意を固められ、同年十一月、第三十回
衆議院議員総
選挙が行なわれますや
自由民主党から立候補し、
選挙民の熱烈な信望を集めて、みごと全国最高の得票をもって
当選されたのであります。(
拍手)
本
院議員としての和爾
先生は、念願の
地方行政委員会にあって、その
手腕力量を遺憾なく発揮されました。申すまでもなく、
地方行政が当面する最大の問題の一つは、全国的な規模で都市化現象が進行し、都市に過密と過大が、農村に過疎が顕在化しつつあることであります。なかんずく、人口の集中、交通量の増大、あるいはこれから生ずる産業基盤及び生活環境の悪化は、大都市の機能に一そう重圧を加えております。
先生はこれらの懸案に真剣に取り組んでこられましたが、大都市行政に直接携わった豊富な
経験と知識を有する
先生の声は、まさに真実の声として人に訴えるものがあり、その貴重な意見の数々は、
委員会審議にあたって欠かせないものがありました。また、党内の都市
政策調査会
委員としても、新しい都市
政策を打ち出すために尽力しておられました。都市行政の改革と
地方財政の確立には
幾多の困難がありますが、
先生は労を惜しまず献身し、着々として成果をあげられたのでありまして、私
たちのひとしく敬服してやまなかったところであります。
さらに、
自由民主党において、商工部会副
会長として中小企業の
近代化の促進に心を砕き、また、万国博覧会対策
特別委員会委員として、来たるべき万国博を成功に導くために苦心画策しておられました。
そのほか、インドの聖地ブッダガヤに建立する
日本寺の
建設委員、日独青少年交歓団の顧問あるいは日韓友和協会
会長として各地を歴訪し、諸外国との親善、文化交流に尽力されたことも、
先生の幅広い活躍を物語るものとして忘れられない事績であります。(
拍手)
かくて、和爾
先生は、本
院議員に
当選すること二回、
在職期間は四年九カ月でありましたが、その間、
国会議員の本務に精励し、著しい
功績を残されたのであります。
思うに、和爾
先生は、まことに温厚で、人情に厚く、心から親しみ信じ合うことのできる庶民的な方でありました。しかし、その反面、豪毅にして屈せず、しかも、てんたんとして悠揚迫らぬものがありました。
先生は、漢学者の家に生まれ、漢学の素養が豊かで漢詩をよくされましたけれども、そこには常に崇高な
人間愛があふれておりました。先年九十五歳の天寿を全うされた母堂に対して、最後まで心からの孝養を尽くされましたことは、広く人の知るところでありますが、
先生がだれからも敬愛せられ、幼児にさえ「ワニのオッチャン」と親しまれていたのも、この
人間愛がひとり家庭のみならず、あまねく万人の心に及んでいたからでありましよう。(
拍手)
先生は、またすぐれたスポーツマンでありました。学生
時代には十種競技の選手として活躍され、生涯を通じてスポーツに親しみ、そしてあらゆるスポーツを愛好されました。
先生が終始不言実行を座右の銘として行動されましたのも、スポーツ精神をそのまま体現しておられたからにほかならないと存じます。
和爾
先生は、お年六十五歳、ひたすら世のため人のために働き通されて、ついに生命のともしびを燃やし尽くされたのであります。
政治家としていよいよ
識見を高め、円熟の境地に達しながら、雄図むなしくなった
先生を思うとき、哀惜の情ますます深まるのを覚えるのであります。
いまや、
わが国は
社会構造の激しい流動期に直面し、解決すべき困難な問題が山積しております。このときにあたり、
地方行政に通暁した
政治家和爾俊二郎
先生を失いましたことは、惜しみても余りあるものがあり、本院にとりましても、
国家にとりましても、大きな
損失であると申さなければなりません。(
拍手)
ここに、和爾
先生の
長逝に対し、その功をたたえ、その
人となりをしのび、心から御
冥福をお祈りして、
追悼の
ことばといたします。(
拍手)
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