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1968-08-02 第59回国会 衆議院 本会議 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十三年八月二日(金曜日)     —————————————  議事日程 第二号   昭和四十三年八月二日    午後二時開議      故議員森清君に対する追悼演説      故議員馬場元治君に対する追悼演説      故議員山崎巖君に対する追悼演説      故議員和爾俊二郎君に対する追悼演説     ————————————— ○本日の会議に付した案件  實川清之君の故議員森清君に対する追悼演説  中村重光君の故議員馬場元治君に対する追悼演   説  稲富稜人君の故議員山崎巖君に対する追悼演説  吉田泰造君の故議員和爾俊二郎君に対する追悼   演説    午後二時五分開議
  2. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) これより会議を開きます。      ————◇—————
  3. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) 御報告いたすことがあります。  議員森清君は、去る六月九日逝去せられました。まことに哀悼痛惜至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る六月十二日贈呈いたしました。これを朗読いたします。   〔総員起立〕  衆議院は多年憲政のために尽力しさき国務大臣重任にあたられた議員正三位勲一等森清君の長逝哀悼しつつしん弔詞をささげます      ————◇—————  故議員森清君に対する追悼演説
  4. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) この際、弔意を表するため、實川清之君から発言を求められております。これを許します。實川清之君。   〔實川清之登壇
  5. 實川清之

    實川清之君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員森清君は、去る六月九日逝去されました。まことに痛恨のきわみであります。  ここに、私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしん哀悼ことばを申し述べたいと存じます。  森君は、かねてから病気のため療養につとめておられたのでありますが、私は、君のあの堂々たる体躯と、いまだ五十二歳という若さを思うとき、必ずや健康を回復して再び元気な君の姿が見られるものと確信しておりました。しかるに、全く思いもかけなかった君の訃報に接し、驚愕おくところを知らなかったのであります。  森君は、大正四年十月、千葉県勝浦市に生まれました。父君は、諸君もよく御承知のとおり、漁村に人となりましたが、近代的企業を次々に創設し、一代にして森コンツェルンを築き上げられた財界の雄であり、またかつて本院議員として活躍された森矗昶氏であります。そのすぐれた資質を受け継がれた君は、長じて成城高等学校を経て、京都帝国大学理学部に進まれました。昭和十三年卒業満州鉱業開発株式会社に入社し、鉱山技師となられたのであります。  翌十四年に召集を受け、二年余にわたり軍務につかれた君は、除隊後ほどなく父君の遺業を継ぐため日本冶金工業に入社し、社業に専念されたのであります。やがて戦争の惨禍は君の会社にも及びましたが、君は、戦後直ちに会社の再建に取り組んで、よくこれをなし遂げ、今日の発展をもたらす基盤を固められました。その間に、日本冶金工業昭和火薬の経営に示された君の手腕は、まことに刮目すべきものがあったのであります。  しかしながら、生来正義と理想に燃えた君は、かねて抱懐していた政治を通じて祖国に奉仕することこそみずからに課せられた使命であるとの信念押えがたく、ついにすべてをなげうって政界進出決意されたのであります。かくして、昭和二十七年三月、当時本院議員であった長兄暁氏の秘書となり、将来に備えておられましたが、同年十月第二十五回衆議院議員選挙が行なわれるや、千葉県第三区から勇躍立候補されました。「正しい政治、清く、美しい政治」をスローガンに掲げて戦う君の清新さと熱情とは、たちまちにして選挙民の心をしっかりととらえるところとなり、ここに君はみごと初当選の栄を獲得されたのであります。  新人森君は、ひたすら清新な政党政治の確立を目ざし、何ものにも動ぜず、また何ものをもはばからず、独自の道を歩まれたのでありまして、君の政治姿勢はつとに先輩同僚の注目するところでありました。やがて、河野一郎氏の知遇を得た君は、以来常に河野氏と政治行動をともにして積極的に支援し、同時に、みずからも政治家として大成すべく研さんを積まれたのであります。  昭和二十八年三月、同志とともに自由党を分党して鳩山内閣実現に挺身し、また、二十九年十二月、鳩山内閣成立とともに日本民主党国会対策委員長として国会運営の衝に当たるなど、少数党において幾多の辛酸をなめられたのであります。  自由民主党が結成されてからは、副幹事長文化局長あるいは全国組織委員長等要職を歴任し、党の運営近代化推進に大きく貢献されました。なかんずく、河野氏なきあとは氏の衣鉢を継ぎ、党の領袖として重要な役割りを果たしてこられたのであります。  君は、ひとり自由民主党において重きをなしておられたばかりでなく、本院においても商工、外務、地方行政等の各委員会あるいは沖繩問題等に関する特別委員会など、各方面に活躍して国政審議重責に当たられ、政策面においても君は高く評価されておられたのであります。  君は、また、さきに第二次鳩山内閣行政管理政務次官、第二次池田内閣通商産業政務次官として才幹をふるわれ、昭和四十一年八月には嘱望されて第一次佐藤内閣国務大臣に就任し、総理府総務長官となられました。  かねて沖繩全面返還の糸口として教育権分離返還を提唱されていた君は、大臣に就任するやいち早く現地を訪問し、ワトソン高等弁務官に対してこれを強く主張し、検討を迫ったのであります。分離返還について私たちは見解を異にしておりましたが、これこそ沖繩返還問題が具体的な形をとって提起された嚆矢であり、この問題についての論議が飛躍的に前進する大きな契機となったのでありまして、当時の客観情勢にかんがみて、その意義はきわめて大きなものがあったと申せましよう。(拍手)  君の名は、沖繩返還問題に一新局面を開いたものとして、九十六万沖繩同胞のみならず、われわれのいつまでも銘記すべきところであると存じます。  かくて、森君は、本院議員に連続して当選すること七回、在職十五年九カ月に及び、その間、わが国政の進展に残された功績は、まことに偉大なものがあります。  思うに、森君は、君の郷里外房の海に輝く太陽のように、あくまでも明るく、おおらかで開放的な方でありました。名門に生まれながら少しもそれを誇ることなく、むしろ進んで大衆の中に飛び込み、そこに喜びを見出すという豊かな心情の持ち主でありました。郷里に帰られると、あまと一緒になって潜水に興ずるという明朗濶達なスポーツマンであり、また、激しい政治活動の中にあっても寸暇をさいて絵画を楽しみ、書をたしなまれたという趣味の人でもあったのであります。まことに人間森君の魅力はくめども尽きぬものがあったのであります。(拍手)  君は、この人間性そのままに、「正しい政治、清く、美しい政治」を信条として政治生活を貫かれました。しかも、この政治信条を基調に、そのすぐれた洞察力をもって新しい時代を予見し、そして大いなる使命感をもってたくましく前進されたのであります。かつて、沖繩返還交渉の難問に取り組むに際して示された勇気と決断こそ、まさにその政治姿勢のあらわれにほかならないと存じます。  君は、また、体内に力強く脈打つ国を思う至情を、明日の日本を切り開く新たな力に転化して、常に政治の中につぎ込まれておりました。君に終始新鮮な印象が横溢していたのは、限りなく未来を追求する中で問題を把握し続けた政治家としての識見が、人々の共感を呼び、人々の魂をゆさぶらずにはおかなかったからと信ずるのであります。(拍手)  君こそ、まさに次代の日本をになうべき人であったと申せましょう。われわれ君を知る者は、いずれもみな、君の将来を嘱目し、多大の期待を寄せていたのであります。君もまた、みずからに課せられた責務の重大さを痛感し、一身を顧みず激務に没頭されたのであります。遠大な抱負希望を抱きながら、中道にして倒れた君を思うとき、まことに痛恨やる方ないものを覚えます。  内外情勢が激しく流動する今日、君のごとき前途ある有為政治家を失いましたことは、国家のため、国民のため、はかり知れない大きな損失でありまして、惜しみても余りあるものがあります。(拍手)  ここに、つつしんで森君の生前の功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼ことばといたします。(拍手)      ————◇—————
  6. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) 議員馬場元治君は、去る六月二十三日逝去せられました。まことに哀悼痛惜至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る六月二十七日贈呈いたしました。これを朗読いたします。   〔総員起立〕  衆議院は多年憲政のために尽力し特に院議をもつてその功労を表彰されさき法務委員長要職につきまた国務大臣重任にあたられた議員正三位勲一等馬場元治君の長逝哀悼しつつしん弔詞をささげます      ————◇—————  故議員馬場元治君に対する追悼演説
  7. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) この際、弔意を表するため、中村重光君から発言を求められております。これを許します。中村重光君。   〔中村重光君君登壇
  8. 中村重光

    中村重光君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員馬場元治先生は、去る六月二十三日逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。  私は、かつて三十数年前、先生が初めて衆議院議員選挙無所属として立候補された際、同憂の士とともに応援したこともあり、その後、政治的立場を異にしながらも、先生との親交はきわめて深いものがありました。そして、先生の人格に深く敬愛を抱き、先生のごとき高潔の方を先輩として持ったことを常に誇りとしてきたのであります。(拍手)  ここに、私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしん哀悼ことばを申し述べたいと存じます。(拍手)  馬場先生は、明治三十五年十二月、風光明媚な雲仙岳のふもと、長崎県南高来郡南串山村の旧家に生まれ、長じて長崎中学から第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進まれました。先生は、つとに志を政治に抱き、勉学のかたわら内外政治問題について研究を怠らず、ひそかに他日を期しておられたのであります。  大正十四年大学卒業後、司法科試験に合格し、直ちに東京において弁護士を開業、持ち前の強い正義感と熱意とをもって奮闘し、少壮有為弁護士としていち早く頭角をあらわされたのであります。  その後郷里に帰り、昭和五年長崎市議会議員に立候補して当選、さらに翌六年には長崎県議会議員当選し、三十有余年にわたる政治生活の第一歩を踏み出されたのであります。  昭和十一年二月、時あたかもいわゆる二・二六事件の勃発する直前に当たる第十九回衆議院議員選挙に際し、新人進出が困難と目されていた長崎県第一区から無所属として立候補されました。形勢全く不利な中にあっていささかも屈することなく、初志を貫徹するため、日夜を分かたずわらじがけで東奔西走する先生熱情は、やがて郷党の支持となってあらわれ、みごと当選の栄誉をかちとられたのであります。時に年歯ようやく三十三歳でありました。  本院に議席を得られてからの先生は、終始熱心な態度国政審議に参加して、よく議員としての職責を果たし、また昭和十九年には小磯内閣厚生参事官として、多難な時局にあって厚生行政に参画し、その力量を遺憾なく発揮し、大いに将来を嘱目せられたのであります。  やがて、わが国に平和がよみがえるや、先生は、来たるべき総選挙に備えて準備せられていたやさき公職追放となり、自来五年余にわたり雌伏するのやむなきに至りました。  昭和二十七年十月、第二十五回総選挙にあたり、平和な民主国家建設決意も新たに、自由党から立候補して本院に復帰されたのであります。  先生は、その該博な知識と豊富な経験を生かし、国政の各分野に活躍されましたが、特に昭和二十九年には法務委員長要職につき、委員会運営にその手腕を発揮され、よく委員長の職務を果たされました。  昭和三十年十一月、第三次鳩山内閣成立とともに建設大臣となり、翌三十一年には首部圏整備委員会委員長をも命ぜられ、住宅の建設道路整備あるいは首都圏整備に関する総合計画とその実施等、当面する幾多重要施策推進に献身的な努力をされ、国民の要望にこたえられたのであります。また、その後六年にわたり、九州地方開発審議会委員として地方産業開発と育成につとめられました。  党においては自由党総務自由民主党総務代議士会長顧問等を歴任して党務に貢献し、党内に重きをなしておられました。また、政策面にもすぐれた識見を示し、特に自由民主党地盤沈下対策特別委員会委員長としてその対策樹立に鋭意努力されました。その努力は、去る第三十四回国会における与野党の総意を結集した地盤沈下対策に関する決議となって実を結び、その後の地盤沈下対策推進に大きな役割りを果たすことになったのであります。  昨年十二月、第五十七回臨時国会の冒頭、先生は本院議員として在職二十五年のはえある表彰を受けられました。その際、この壇上に立って、「一筋に国家の安泰と同胞の幸福のために全力をあげ、もって議会人としての責務を全うしたい」との覚悟を力強く披瀝されたのであります。私は、先生のあのさっそうたる姿を忘れることができません。そこには憂国の至情と何事にも徹底せざればやまぬ気魄をもって、半世紀にわたる激しい風雪の時代を常に国民とともに歩んだ大衆政治家馬場先生面目躍如たるものがありました。(拍手)  かくて、先生は本院議員当選すること前後十回、在職実に二十五年九カ月の長きに及び、その間国政の上に、また議会政治発展のために残された功績はまことに偉大なものがあります。  先生は、平素中央政界にあって多端な激務に当たられるかたわら、常に郷土発展を念願されていました。郷土地理的条件にかんがみ、道路整備には格段の努力をされ、多年の懸案であった、長崎県の宝庫たる島原半島周辺の国道あるいは観光道路建設実現し、もって地域産業開発住民福祉向上に多大な貢献をし、あまねく郷党の景仰の的となっておられました。  思うに、馬場さんは、生来、はでを好まず、きわめて真摯な御性格の持ち主でありました。また外柔内剛、みずからを律するにきびしく、人に対しては謙虚にして寛容、愛情あふれた包容力の豊かな人柄でありました。  忘れもいたしません。昭和二十年八月九日、長崎市上空で炸烈した原爆は、瞬時にして幾多のとうとい人命を奪い、馬場さんもその惨禍をこうむり、私もまたその犠牲となったのであります。いままさに最期の息絶えんとする被爆者の、水を求め、阿鼻叫喚する姿、惨状目も当てられぬ光景は、馬場さんにとっても私にとっても終生忘れることのできない最大の悲惨事でありました。忌まわしい原爆のため、十二人の肉親を一瞬にして奪われた私は、ぼう然自失、生きる希望も失い、虚脱の中をさまよっていました。ある日突然馬場さんがたずねてこられ、私にやさしく手を差し伸べられて、「ともにがんばろう」とおっしゃった、あの馬場さんの慰めと激励のことばを忘れることができません。(拍手)その一言は、当時の私にとって、どんなにか心のささえとなったことでしょう。私は、あたたかい人間愛にあふれた馬場さんのありし日の姿が眼前にほうふつとし、新たなる涙を禁じ得ないのであります。(拍手)  先生は、かねて、「政治の要諦は愛と親切をもって事を処するにあり、いかなる政策も経綸も、その根底に愛と親切がなければ真の政治ではない」という愛の政治政治的信条とし、ひたすら政党政治の擁護と、真に国民とともにある健全な民主政治実現のために、一生をささげられたのでありまして、その輝かしい業績は、いつまでも後世に伝えられることでありましょう。  現下、内政に外交に重要な時期に直面し、われわれ議会人に課せられた使命もまた重大なものがあります。このときにあたり、先生のような豊かな経験と高邁な識見を持った政党政治家が、天命とは申せ、六十五歳という政治家としていよいよ本領を発揮すべき年をもって、こつ然として逝去せられましたことは、返す返すも残念なことであり、本院にとっても国家にとっても大きな損失と申すべく、哀惜の情ひとしお切なるものがあります。(拍手)  私は、ここに、馬場先生の生前の功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りいたしまして、追悼ことばといたします。(拍手)      ————◇—————
  9. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) 議員山崎巖君は、去る六月二十六日逝去せられました。まことに哀悼痛惜至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る六月二十九日贈呈いたしました。これを朗読いたします。   〔総員起立〕  衆議院は多年憲政のために尽力しさき予算委員長要職につきまた再度国務大臣重任にあたられた議員正三位勲一等山崎巖君の長逝哀悼しつつしん弔詞をささげます      ————◇—————  故議員山崎巌君に対する追悼演説
  10. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) この際、弔意を表するため、稲富稜人君から発言を求められております。これを許します。稲富稜人君。   〔稲富稜人君登壇
  11. 稲富稜人

    稲富稜人君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員山崎巌君は、去る六月二十六日急逝されました。まことに痛惜の念にたえません。  かねて農民運動に携わっていた私は、君の令兄であり、かつて本院議員として活躍され、三たび農林大臣の職につかれた郷土先輩山崎達之輔氏知遇を得、しばしばお宅へ伺っては農業問題について教えを請うてまいりました。これが機縁となって君とも親交を重ねることとなり、自来今日まで、何かと御懇意に願っておりました。  いまや、私が敬慕してやまなかったこのごきょうだいはともになく、まことに寂蓼の感を禁じ得ないところであります。  ここに、私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしん哀悼ことばを申し述べたいと存じます。(拍手)  山崎先生は、明治二十七年九月、福岡県大川市にお生まれになりました。県内の名門校伝習館から第五高等学校を経て、東京帝国大学独法科に学ばれました先生は、在学中、高等文官試験に合格、大正八年卒業後、直ちに内務省に勤務されたのであります。その後、わが国は不況のあらしに襲われ、加うるに大凶作等が重なって、国民生活は極度に疲弊し、失業者が続出して、幾多社会問題が起こったのでありました。そのとき、若き行政官であった先生は、この窮状を救うべく、その若き情熱と英知を傾けて救貧制度と取り組み、昭和三年には英国等に出張して、その実情を調査するとともに、その立案について鋭意研究を重ねられたのであります。やがて、先生のその努力が報いられ、わが国社会政策史上画期的な立法であり、今日の生活保護法の前身である救護法が制定されたのであります。  昭和十三年一月、厚生省の新設とともに、初代の社会局長に就任された先生は、国をあげて戦時体制へと突入しつつある中で、ひたすら国民生活の安定と向上のため、社会福祉政策実現につとめられたのであります。  一たん静岡県知事に転出されましたが、同十四年には再び本省に戻り、土木局長警保局長を歴任し、次いで警視総監、内務次官に就任されたのであります。  昭和二十年八月、終戦となるや、東久邇内閣内務大臣要職につかれた先生は、廃墟と化した国土と戦いに疲れ果てた国民を前にして、国土の復興と民生の安定に日夜心を砕き、多事多端な政務に精励せられたのでありますが、その後、公職追放の身となられた先生は、沈思黙考、みずからの歩んできた道を顧み、また、わが国将来のあるべき姿について深く思いをめぐらしておられたのであります。  そして、「戦後の日本において、真の意味の平和主義民主主義を達成し、新しい住みよい社会建設するためには、信頼と信念政治実現しなければならない。」こう考えられた先生は、昭和二十七年、第二十五回衆議院議員選挙に勇躍立候補され、みごと当選の栄をになわれたのであります。  本院に議席を得られた先生は、みずからの信念の具現に身を挺して活躍されました。予算地方行政内閣等の各委員を歴任し、多年の経験とうんちくを傾けてあまたの議案の審議に当たられたのであります。  昭和三十二年一月、先生予算委員長にあげられ、終始公正な態度をもって円満に委員会運営し、与野党委員の信望を一身に集めて、よく委員長重責を果たされたのであります。  昭和三十五年、第一次池田内閣成立にあたり、先生は嘱望されて自治大臣国家公安委員長として入閣されたのであります。大臣就任直後、先生が、「音とったきねづかなどとはとんでもない。新憲法を基本に、心機一転、地方自治地方の振興に努力したい。」と語り、また、「治安は法改正人員増強によってなるものではない。折り目正しい政治によって民生の安定をはかることが先決である。」と断言されたのであります。私は、そこに先生の謙虚なお人柄となみなみならぬ決意のほどを、はっきりとうかがうことができるのであります。(拍手)私たちは、先生手腕に大いに期待し、先生もまた年来の抱負を実行に移すべくこん身の努力を尽くされておられたのでありますが、突如として浅沼日本社会党中央執行委員長が凶刃に倒れられるという事件が起こりました。先生は、暴力は絶対に排除しなければならないとの信念から、直ちにその職を辞して、責任を明らかにされたのであります。(拍手)  自由民主党にあっては、総務憲法調査会会長道路調査会会長財務委員長等要職を歴任されたのであります。  また、内閣憲法調査会会長として力を尽くし、地方制度調査会委員としても、過去の経験を生かしてその手腕を遺憾なく発揮されたのであります。  先生の御活躍はこれにとどまらず多岐にわたり、御専門の一つである国民健康保険に対してすぐれた見識を持っていた先生は、多忙な政務にもかかわらず、懇請を受けてその保険者団体中央組織たる社団法人全国国民健康保険団体中央会会長に就任されて以来、その後も引き続き国民健康保険中央会会長の職にあって、国民健康保険事業推進強化のために尽力されたのであります。この間、国民保険の達成、国保財政改善等に寄与せられた先生業績は、まことに特筆すべきものがあるのであります。  かくて、先生は、本院議員に連続当選すること七回、在職年数十五年九カ月に及び、わが国政の進展に残された功績はまことに偉大なるものがあるのであります。  思うに、山崎先生は、望洋たる風貌と明治の風格を備えた信念の士でありました。たとえそれがどんなに小さなことであろうとも、一たん引き受けた以上はあくまでこれが実現をはかるという強固な責任感持ち主でありました。しかも、謙虚にしておごらず、温厚にして篤実、愛情こまやかなお人柄でありました。  先生の深い愛情は、その責任感と相まって、郷里人々にも惜しみなく注がれたのであります。郷土繁栄なくして国家発展はあり得ない、これは先生の終生を貫いた信念でありました。「先生は、たとえからだのぐあいの悪いときでも、われわれの悩み悩みとして一緒に飛び回ってくださった。」と郷里人々はいまになお涙ながらに語っておるのであります。郷里人たちにとって、まさにつえとも柱とも見える、かけがえのない存在でありました。  お年七十三歳、複雑にして変転きわまりなかった大正昭和時代を、ひたすら国家国民繁栄のために働き抜かれた先生の胸中に最後まで去来していたものは、わが国の将来への展望であり、郷里に対する限りない愛着であったに違いありません。(拍手)  現下わが国内外情勢はまことに重大な時期に直面いたしております。このときにあたり、先生のごとき強い信念と深い洞察力を持つ政治家を失いましたことは、国家国民のためはかり知れない損失であり、まことに惜しみても余りあるものがあるのであります。(拍手)  ここに、山崎先生の生前の偉業をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼ことばといたします。(拍手)      ————◇—————
  12. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) 議員和爾俊二郎君は、去る七月十二日逝去せられました。まことに哀悼痛惜至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る七月二十日贈呈いたしました。これを朗読いたします。   〔総員起立〕  衆議院議員従四位勲二等和爾俊二郎君の長逝哀悼しつつしん弔詞をささげます      ————◇—————  故議員和爾俊二郎君に対する追悼演説
  13. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) この際、弔意を表するため、吉田泰造君から発言を求められております。これを許します。吉田泰造君。   〔吉田泰造登壇
  14. 吉田泰造

    吉田泰造君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員和爾俊二郎先生は、去る七月十二日逝去されました。まことに哀悼にたえません。  私は、ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしん追悼ことばを申し述べたいと存じます。(拍手)  和爾先生は、明治三十五年八月大阪市に生まれ、大阪府立市岡中学校から第四高等学校を経て、東京帝国大学法学部に学ばれました。昭和三年卒業とともに大阪市に勤務され、自来三十五年の長きにわたって市役所に在職し、大産業都市大阪の発展と市民の福祉増進とにひたすら奮闘されました。  戦後の大阪市は、申すまでもなく、戦災によってそのほとんどが焦土と化し、全市民の生活が混乱と窮乏におちいっておりました。先生は、このようなきびしい状況のもとで作業部長、教育部長、民生局長等の要職を歴任し、この間戦災校舎の復旧、六・三制義務教育の実施、あるいは現在の福祉事務所の前身である民生安定所の創設、また市営住宅の増設等に、なみなみならぬ決意のもとに文字どおり心血を注ぎ、もって戦後の教育基盤の整備に、また、市民生活の安定と福祉向上に大きな貢献をいたされたのであります。  しかるに、昭和二十五年九月大阪市を襲ったジェーン台風は、営々として復興への歩みを続けていた市民に大きな打撃を与えたのであります。先生は、直ちに被害地に急行し、濁流におののく市民の救援と激励に身を挺し、引き続き被災者の救済に当たられました。この不眠不休の活躍ぶりに市民は心から感謝し、いまなおこれを語りぐさとしているのであります。(拍手先生は、この苦い経験から災害防止のために万全の対策を講じられたのでありまして、その後幾たびかの台風に際し、風水害が最小限に食いとめられましたのも先生の力に負うところが大きく、その功労は各方面から高く評価されているのであります。  昭和二十六年五月、先生はその力量を認められて助役に任命され、以来三期十二年にわたり、市長を助けて卓越せる手腕を発揮されたのであります。  大阪の発展はすなわちわが国発展であるとの信念から、隣接町村の合併をなし遂げ、また海外都市との提携をはかるなど、大産業都市建設のために尽瘁されました。また、「蚊とハエをなくする運動」、「町を静かにする運動」を強力に展開し、市民組織としての赤十字奉仕団を育成強化し、また、昭和三十六年の騒動によって大きな社会問題となりました釜ケ崎に一連の福祉施設を建設し、さらに、産業の振興に伴って激しくなった地盤沈下の対策を樹立するなど、その業績は枚挙にいとまがないのであります。  昭和三十七年十月、三十年余にわたって大阪に尽くされた功績により、地方自治功労者として藍綬褒章を受けられました。大阪に生まれ、大阪を愛してやまなかった、きっすいの浪速っ子和爾先生にとって、これこそ至上の栄誉と感ぜられたことでありましょう。(拍手)  昭和三十八年二月、大阪市を退かれた先生は、長年にわたって胸に描いていた地方自治の伸長と福祉社会実現をはかるため政界に入る決意を固められ、同年十一月、第三十回衆議院議員選挙が行なわれますや自由民主党から立候補し、選挙民の熱烈な信望を集めて、みごと全国最高の得票をもって当選されたのであります。(拍手)  本院議員としての和爾先生は、念願の地方行政委員会にあって、その手腕力量を遺憾なく発揮されました。申すまでもなく、地方行政が当面する最大の問題の一つは、全国的な規模で都市化現象が進行し、都市に過密と過大が、農村に過疎が顕在化しつつあることであります。なかんずく、人口の集中、交通量の増大、あるいはこれから生ずる産業基盤及び生活環境の悪化は、大都市の機能に一そう重圧を加えております。先生はこれらの懸案に真剣に取り組んでこられましたが、大都市行政に直接携わった豊富な経験と知識を有する先生の声は、まさに真実の声として人に訴えるものがあり、その貴重な意見の数々は、委員会審議にあたって欠かせないものがありました。また、党内の都市政策調査会委員としても、新しい都市政策を打ち出すために尽力しておられました。都市行政の改革と地方財政の確立には幾多の困難がありますが、先生は労を惜しまず献身し、着々として成果をあげられたのでありまして、私たちのひとしく敬服してやまなかったところであります。  さらに、自由民主党において、商工部会副会長として中小企業の近代化の促進に心を砕き、また、万国博覧会対策特別委員会委員として、来たるべき万国博を成功に導くために苦心画策しておられました。  そのほか、インドの聖地ブッダガヤに建立する日本寺の建設委員、日独青少年交歓団の顧問あるいは日韓友和協会会長として各地を歴訪し、諸外国との親善、文化交流に尽力されたことも、先生の幅広い活躍を物語るものとして忘れられない事績であります。(拍手)  かくて、和爾先生は、本院議員当選すること二回、在職期間は四年九カ月でありましたが、その間、国会議員の本務に精励し、著しい功績を残されたのであります。  思うに、和爾先生は、まことに温厚で、人情に厚く、心から親しみ信じ合うことのできる庶民的な方でありました。しかし、その反面、豪毅にして屈せず、しかも、てんたんとして悠揚迫らぬものがありました。  先生は、漢学者の家に生まれ、漢学の素養が豊かで漢詩をよくされましたけれども、そこには常に崇高な人間愛があふれておりました。先年九十五歳の天寿を全うされた母堂に対して、最後まで心からの孝養を尽くされましたことは、広く人の知るところでありますが、先生がだれからも敬愛せられ、幼児にさえ「ワニのオッチャン」と親しまれていたのも、この人間愛がひとり家庭のみならず、あまねく万人の心に及んでいたからでありましよう。(拍手)  先生は、またすぐれたスポーツマンでありました。学生時代には十種競技の選手として活躍され、生涯を通じてスポーツに親しみ、そしてあらゆるスポーツを愛好されました。先生が終始不言実行を座右の銘として行動されましたのも、スポーツ精神をそのまま体現しておられたからにほかならないと存じます。  和爾先生は、お年六十五歳、ひたすら世のため人のために働き通されて、ついに生命のともしびを燃やし尽くされたのであります。政治家としていよいよ識見を高め、円熟の境地に達しながら、雄図むなしくなった先生を思うとき、哀惜の情ますます深まるのを覚えるのであります。  いまや、わが国社会構造の激しい流動期に直面し、解決すべき困難な問題が山積しております。このときにあたり、地方行政に通暁した政治家和爾俊二郎先生を失いましたことは、惜しみても余りあるものがあり、本院にとりましても、国家にとりましても、大きな損失であると申さなければなりません。(拍手)  ここに、和爾先生長逝に対し、その功をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼ことばといたします。(拍手)      ————◇—————
  15. 石井光次郎

    議長石井光次郎君) 本日は、これにて散会いたします。    午後二時五十五分散会