○
石橋政嗣君 ただいま
議長から御
報告のありましたとおり、本
院議員綱島正興君は、去る五月二十八日逝去されました。まことに
痛惜の念にたえません。
しかし、私には、正直なところ、
郷土長崎の
ことばで語りかける
綱島さんの声が、いまだに聞こえるように思われてなりません。そしてまた、豪快に笑っている姿が、まだそこに見えるような気がしてはならないのです。とにかく
綱島さんは、からだや声が大きかったばかりでなく、あらゆる意味で大きな
存在でした。
ここに、ありし日の
綱島先生の面影をしのびながら、私は、
諸君の御
同意を得て、
議員一同を代表し、つつしんで
哀悼の
ことばを申し述べたいと存じます。(
拍手)
綱島さんは、明治二十三年三月、
長崎県北松浦郡田平町に生まれ、長じて第五
高等学校を経て、
東京帝国大学法学部に進まれました。
時あたかも、
大正デモクラシーの機運が次第に高まりを見せる中で、
学生時代を送られた君は、自然の成り行きとでもいうかのように
社会正義の一念に燃え、
政治に多大の関心を寄せられるようになったのであります。
大正六年、
同校卒業後、弁護士を開業した君は、同志とともに社会問題の
研究会を組織し、互いに研さんを積まれ、いつしか
実践運動に入っていくことになりました。まず
鉱山労働者のための
日刊紙「
鉱業日報」の発刊に取り組み、翌七年にはみずから
足尾銅山に入山、劣悪な
労働条件の
改善を要求する
鉱山労働者の味方となって
闘争に参加したのであります。この間、官憲の弾圧を受けて検挙されることもありましたが、いささかも屈することなく、いよいよ
闘争を拡大し、
大正八年には
足尾銅山、
釜石鉱山の
労働者を糾合して大
日本鉱山労働同盟会を
結成、みずからその会長となって世間の耳目を集めたあの
足尾大
争議にまで発展させ、直接その
指導に当ったことは、つとに広く知られているところであります。(
拍手)
かかる
労働運動のうねりは、やがて
農民の間にも影響を及ぼすところとなり、それが
小作争議となってあらわれるや、君は、新潟をはじめ秋田、山形、青森、
岐阜等の各地におもむいて、
農民組合の
結成に当たり、全国を席巻した
小作争議の
指導と
解決に心血を注がれたのであります。
このように、初期の
労働運動や
農民運動に尽くされた君の献身的な
努力はまことに目ざましく、その
功績はいつまでもいつまでもたたえられ、語り継がれていくであろうことを信じてやみません。(
拍手)
その後、君は、みずから感ずるところあって
実践運動から身を引かれ、やがて終戦を迎えることとなったのであります。そのとき君は、戦後のこんとんとした状況を深く憂え、荒廃した
農漁村を再建し、もって
祖国日本の復興と
国民生活の安定をはかることこそが、自分に課せられた当面最大の
責務であるとの
信念に到達されました。そして、
昭和二十二年四月に行なわれた第二十三回
衆議院議員総
選挙に際し、決意も新たに、
長崎県第二区から立候補、みごと初当選の栄を獲得されたのであります。
本院に議席を得られてからの
綱島さんは、各方面に活躍されたのでありますが、とりわけ有数の
農政通としてその
手腕力量を遺憾なく発揮され、その
存在は光彩を放っていたのであります。(
拍手)
戦後の
わが国農業は、あの画期的な
農地改革の実施をはじめとして、
幾多の問題に直面してまいったのでありますが、これら諸懸案の
審議にあたって、
綱島さんは的確に現状を把握し、将来への展望をもって
意見を述べられるのが常でした。じゅんじゅんと説くその
意見が大きな
説得力を持ち、いつも問題の
解決と前進に大きく寄与するところがあったことは言うまでもありません。
綱島さんは、また終始
農業の持つ
重要性を強調し、
農業に対し国がより積極的にあたたかい手を差し伸べるようつとめるべきであると主張し続けてこられました。「
安上がり農政などあり得ない」、これは
農政に関する
綱島さんの基本的な考えを率直に表明した
ことばでありますが、そこには、
農民に対する愛情と
農業問題にかける熱意のなみなみならぬことをはっきりとうかがうことができるのであります。(
拍手)
なお、
綱島さんが
農地報償の問題にこん身の
努力を傾けておられたことは周知のことでありまして、立場と見解を異にするわれわれも、そのひたむきな
態度には感嘆せざるを得なかったのであります。
綱島さんは、また
離島問題の
権威として
自他ともに許すところでありました。早くから同憂の
諸君とともに
離島振興の
具体策をはかっておられましたが、ついに
昭和二十八年、第十六回
国会において、君みずから
提案者となって提出されていた
離島振興法の成立を見ることができたことは、まさに画期的な業績といわねばなりません。(
拍手)その後も、
離島振興対策審議会委員として引き続きこの問題に取り組み、着々と
改善の実をあげ、
離島の住民に対し多くの福祉をもたらしたのであります。
綱島さんの名は、「
離島の神さま」という賛辞とともに、これらの
人たちの間でいつまでも語り継がれていくことでありましょう。
また、
綱島さんは、
さきに選ばれて
労働、
農林水産、
内閣、懲罰の各
委員長の
要職につきましたが、その間、終始公正な
態度をもって円満に
委員会を
運営し、
与野党委員の信望を一身に集め、よく
委員長の重責を果たされたのであります。さらに、自由民主党にあっては、総務あるいは
政策審議会委員として党の
運営に、
政策の立案に尽力されました。
かくて、
綱島さんは、本
院議員に当選すること前後八回、在職十七年五カ月に及び、その間国政の上に残された
功績は、まことに偉大なものがあります。
思うに、
綱島さんは、人一倍旺盛な
正義感とたくましい
実行力をもって、みずからの信ずる道を邁進するというかたい
信念の士でありました。そして、
権威に屈せず、
毀誉褒貶を顧みず、ひたすら
国民大衆のために働き通されたのであります。
君は、豪放らいらくな性格の反面、きわめてこまやかな人情の持ち主でありました。私は、いまでも、
綱島さんが
内閣委員長当時、御家族に私を紹介する際、「おとうさんがお世話になっているのだから、よっくお礼を言いなさいよ」とおっしゃったあのやさしい慈愛深い
ことばを忘れることができません。(
拍手)
綱島さんは、また非常な
読書家であり、その
博識多才ぶりは、巧みな話術とともに、つとに知られたところであります。その人柄に接したものが、だれしも愛着を覚え、信頼を寄せ、敬慕してやまなかったのもけだし当然のことでありましょう。
私は、
綱島さんの訃報を耳にするや、とるものもとりあえずかけつけたのでありますが、そこに見たのは、あの大きかった
綱島さんではなく、うそのように小さくなった
綱島さんでありました。そこに
闘病生活のきびしさ、苦しさをまざまざと見た
思いの私は、それこそ心底からゆさぶられるような衝撃を覚えたのであります。五十
有余年に及ぶ
政治活動に殉じた人、全身全霊を
国家国民のためにささげ切った人の、それが最後の姿だったのです。
綱島さん自身は、そのことを不幸なことだとも、つらいことだとも
思いはしないでありましょう。これがみずからの生涯の当然の帰結だと信じておられることでありましょう。そして、取り乱している私に対し、「あとはいっちょう頼むばい」とおっしゃるに違いありません。しかし、私にとっては、一生を
国家国民のためにささげ尽くすということがどんなにきびしいものであるかを、ほんとうに
思い知らされたことでありました。そして、あらためて
政治家としての使命の重大さをしみじみとかみしめたのであります。(
拍手)
まことに
国会議員らしい
国会議員であった
綱島さん、いま七十八年の生涯を静かに閉じていかれた大先輩のあなたに、私は、心からお誓いしたいと
思います。あなたの十分に果たし得なかった志を継いで、必ずや
国家国民のため、
郷土のために、私も全力をあげて尽くしますと。
現下、流動激しい
内外情勢の中で、私
たち国会議員の
責務も一そう重きを加えつつあります。このときにあたり、独自の風格を備えた真の
議会人綱島正興先生を失いましたことは、返す返すも残念なことであり、本院にとっても、
国家にとっても、まことに大きな損失と申さなければなりません。(
拍手)
ここに、
綱島先生の生前の
功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、
追悼の
ことばといたします。(
拍手)
————◇—————
首都圏整備委員会委員任命につき
同意を求めるの件
漁港審議会委員任命につき
同意を求めるの件
鉄道建設審議会委員任命につき
同意を求めるの件