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1968-03-28 第58回国会 衆議院 法務委員会 第14号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十三年三月二十八日(木曜日)    午前十時四分開議  出席委員    委員長 永田 亮一君    理事 大竹 太郎君 理事 田中伊三次君    理事 高橋 英吉君 理事 中垣 國男君    理事 濱野 清吾君 理事 猪俣 浩三君    理事 神近 市子君       鍛冶 良作君    河本 敏夫君       瀬戸山三男君    田中 角榮君       千葉 三郎君    中馬 辰猪君       中村 梅吉君    馬場 元治君       村上  勇君    岡田 春夫君       河野  密君    神門至馬夫君       中谷 鉄也君    成田 知己君       野間千代三君    横山 利秋君       岡沢 完治君    山田 太郎君       松本 善明君    松野 幸泰君  出席国務大臣         内閣総理大臣  佐藤 榮作君         法 務 大 臣 赤間 文三君  出席政府委員         内閣法制局第一         部長      真田 秀夫君         人事院事務総局         任用局長    岡田 勝二君         内閣総理大臣官         房陸上交通安全         調査室長    宮崎 清文君         総理府人事局長 栗山 廉平君         警察庁交通局長 鈴木 光一君         法務政務次官  進藤 一馬君         法務省刑事局長 川井 英良君         厚生省医務局長 若松 栄一君         運輸省自動車局         長       鈴木 珊吉君  委員外出席者         厚生省医務局総         務課長     上村  一君         厚生省医務局医         事課長     黒木  延君         運輸省自動車局         参事官     岡田 茂秀君         参  考  人         (大阪大学教授瀧川 春雄君         参  考  人         (日本医師会々         長)      武見 太郎君         参  考  人         (立正大学助教         授         交通事故をなく         する会参与)  古西 信夫君         参  考  人         (交通評論家) 玉井 義臣君         参  考  人         (全国自動車交         通労働組合連合         会常任中央執行         委員法部長) 山口 泰男君         専  門  員 福山 忠義君     ————————————— 三月二十八日  委員岡田春夫君、河野密君、佐々木更三君、堂  森芳夫君及び西村榮一辞任につき、その補欠  として野間千代三君、神門至馬夫君中谷鉄也  君、横山利秋君及び岡沢完治君が議長指名で  委員に選任された。 同日  委員神門至馬夫君中谷鉄也君、野間千代三  君、横山利秋君及び岡沢完治辞任につき、そ  の補欠として河野密君、佐々木更三君、岡田春  夫君堂森芳夫君及び西村榮一君が議長指名  で委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  刑法の一部を改正する法律案内閣提出、第五  十五回国会閣法第九四号)      ————◇—————
  2. 永田亮一

    永田委員長 これより会議を開きます。  内閣提出刑法の一部を改正する法律案を議題として、審査を進めます。  本日、本案審査のため、参考人として大阪大学教授瀧川春雄君、日本医師会会長武見太郎君、立正大学助教授古西信夫君、交通評論家玉井義臣君、全国自動車交通労働組合連合会常任中央執行委員山口泰男君の御出席をいただいております。  この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。  参考人各位には、御多用中のところわざわざ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございました。  御承知のごとく、本委員会におきましては、ただいま刑法の一部を改正する法律案審査をいたしておりますが、本案につきまして、参考人各位にはそれぞれの立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、本案審査参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。  それでは、参考人の方々には、最初お一人十五分程度ずつ順次御意見をお述べいただき、そのあと委員の質疑にお答えいただきたいと存じます。  それでは、瀧川参考人からお願いいたします。瀧川参考人
  3. 瀧川春雄

    瀧川参考人 すわったままでよろしゅうございますか。
  4. 永田亮一

    永田委員長 どうぞ御自由に。
  5. 瀧川春雄

    瀧川参考人 私が、ただいま御紹介いただきました大阪大学瀧川でございます。  今回の刑法の一部を改正する法律案、これは第四十五条の後段の「確定裁判」を「禁錮以上ノ刑二処スル確定裁判」に改めるというのが第一点、第二点は刑法二百十一条の「三年以下ノ禁錮」を「五年以下ノ懲役クワ禁錮」に改める、この二点から成り立っております。  前者につきましては、私自身といたしましても、これはそれほど大きな問題がないと思いますので、第二点の刑法二百十一条の問について、いろいろ意見を述べさしてしただきたいと思います  二百十一条は、現行法法定刑に新たに懲役刑を加えるという点と、それからこの懲役刑と従来の禁錮刑の長期を引き上げて三年から五年にするという、こういう二点から成り立っております。懲役刑禁錮刑を区別するかどうか、あるいは懲役刑禁錮刑を一本にして一つ拘禁刑というようなものにするかというような点につきましては、いろいろ理論的な考え方はございますが、現在懲役刑禁錮刑は区別して認められております。禁錮刑はいわゆる非破廉恥罪とおもに過失に科する自由刑と、ずっと考えられてきたわけでございます。この二百十一条におきまして、これに懲役刑が新たに加えられるということになったわけであります。  今回の改正懲役刑が加えられるということは、近来の自動車運転に伴う事務過失致死傷事件の中には、実質的に見まして傷害あるいは傷害致死のいわゆる故意犯とほぼ同程度社会的非難に値するというようなものが相当数含まれておると、こういう認識のもとに行なわれたものであると考えられます。過失懲役刑を科するということは、従来の考え方からいたしますれば、かなり問題にされる方たちも多いと思いますし、またこれに対して納得をしない方たちもあろうかと存じます。しかしながら、特に交通事故におけるきわめて悪質で重大な人身事故に対しまして、ただ故意ではないというだけで禁錮刑ないし罰金刑によって処断せざるを得ないという現状は、刑法にはいろいろ目的がございますが、この刑法目的一つといたしましての社会的な一般予防機能とか、あるいは被害者及び家族をはじめ、さらに一般人の私憤とか公憤といった感情の処理の上からも、やはり不自然ではないかということが考えられます。そこで悪質重大な人身事故につきまして懲役刑を科するという主張は、私は首肯できると思います。ここで重大なことは、原則的に懲役刑が科せられるというのではなくて、特に悪質なものに対する手当てであるという、この点が非常に重要な点であると思います。今日のようにきわめて悪質な人身事故に対しましては、刑法がこれに対応するような手当てをするのは、私は当然と考えております。このことは、罰金刑をそのままにして刑罰上限、いわゆる上の限界だけを改正する態度から見ましても看取されるわけでございます。したがいまして、軽いものはあくまで軽く処断するという意味で、全面的な刑の引き上げをねらったものでないということははっきりしておると思います。  次に、これを刑法改正に持っていかずに道交法手当てでやるという考え方がございますが、もちろん今日のいろいろの重大な人身事故、これは自動車事故中心ではございます。しかし自動車事故中心ではございましても、やはり道交法で改めるとなりますと、刑法二百十一条の中の特に悪質なものが、基本的な刑法という法律から行政取り締まり法規に移ってしまいまして、刑法で処罰せられるものが、比較的軽いものになってしまうわけでございます。これは法体系上どうも本末転倒の感がございます。したがいまして、これは基本法である刑法改正するというのが私は正しい態度であると考えております。こういう重大な問題は基本法改正すべきであるというふうに考えております。  次に、刑の引き上げの点でございますが、もともと刑罰の上の限界、いわゆる上限はもちろん死刑とか無期刑というものの適用はございますが、有期刑の場合には、最高限というのはいわば抜かずの太刀でございまして、一応最高の限度を示しておるということになっておると思います。ところが、たとえば今日までの大きな事件としまして耳目を集めておりました三河島の事件であるとかあるいは猿投の事件では、三年という現行法最高刑が科せられておるわけでございます。しかも最高刑を科して、あの重大な人身事故に対してこの刑罰ではたしてよいのかどうかという点にも問題が出てくると思います。今回は五年ということになっておりますが、はたして五年で妥当なのかどうか、この点にも問題があろうかと思います。もちろん他の刑罰とのバランスというものがございますが、業務過失致死傷というものに対しましてはたして五年が適当なのか、あるいはこれでは軽過ぎるのか、この点はまたいろいろ他に問題があると思います。改正刑法準備草案二百八十四条、これも現在のところ一応法定刑は同じように五年になっておりますし、それに罰金刑も三十万円以下というふうに引き上げられておりますので、改正刑法準備草案のほうは全面的に刑の引き上げであるということが言えますが、今回の一部改正罰金刑はいじっておりません。ただ懲役刑禁錮刑というものを五年にきめた、こういうことになっておるわけでございます。  こういうふうないわゆる過失による致死傷でごさいますが、致死の場合、これは外国の立法例に照らしてみますと、過失によって人を死亡させたような場合は、それがめいてい運転であるとか、あるいは非常に不注意でいろいろの交通機関運転した、まあ怠慢であったというようなことを含めまして、ドイツ刑法では大体軽懲役でございますから最高が五年ということになっております。あるいはめいてい運転、これは車両、船舶、航空機も含めまして、こういうものについては同様の刑罰ドイツ刑法では規定しております。イタリアも同じようなケースにつきまして五年という線を出しております。それからブルガリア刑法、これはかなり重うございまして、十年以下という線を出しております。ルーマニアの刑法は六年以下という線でございます。それで、めいてい運転につきましては、五年から十二年という非常に重い刑を科しておるわけでございます。チェコスロバキア刑法は、三年から十年というふうにかなり高うございます。それからロシア刑法も、同じような事案につきまして十年というのを最高に規定しておるわけでございます。こういう点から見ますと、少なくとも重大な人身事故についての刑の引き上げでございますから、今回の五年に引き上げるということは、私は今日の状態から見て当然ではないかと考えております。  もちろん刑法改正だけで人身事故というものが解決できるものであるとは考えられません。もちろん道路をはじめ交通安全施設というものの整備、それから雇用者とか運行管理者などの取り締まり、あるいは交通規則、あるいは運転適格者の発見、いろいろの問題がございます。これらの問題を一つ一つ片づけていって、これらと相待って交通人身事故というものに対する対策が成り立つものであると思っております。こういうふうに、やらなければならないことは非常に多いわけでありますが、しかし、これらの点につきましては各省庁でも逐次いろいろな点で実施をしておられるように承っております。また、あまり事故の多い、特に自動車運転というようなものに対しましては、ドイツ刑法のように保安処分というものをもう一つ用意して考えなければならないかという問題も考えられます。しかしながら、保安処分の問題も含みまして、こういうふうな施策というものは一朝一夕にやれるものではございません。当面の課題は、現在の重大な悪質人身事故に対しましてやはり法律手当てというものをまずやるべきであって、それをほうっておくわけにはまいりません。まずやることはそういう施策が先であって、法律手当てあとであるというふうな御意見があるとするならば、それはやはり現在の当面しておる問題の解決には何ら役に立たないのじゃないかという感じがいたします。  このようにして刑法改正しました場合に、刑が引き上げられたという点につきまして、それでは本来軽かるべきものが重くなるかということになりますと、これは決して軽いものが重くなるというわけではなくて、重いものが重く取り扱われるという、それだけのことではないかと考えられるわけでございます。  私は、この二百十一条の改正につきましては、懲役刑が加えられたということ、それから刑罰引き上げられたという問題、この問題につきまして、以上のような意味におきまして二百十一条の今回の改正賛成いたすものでございます。  簡単でございますが、終わらせていただきます。
  6. 永田亮一

    永田委員長 瀧川さん、ありがとうございました。  それでは、次に武見太郎君にお願いいたします。
  7. 武見太郎

    武見参考人 今度の改正で、医療の面におきましてどういうことが考えられるかということについて述べてみたいと思います。  医療過誤の問題でございますが、実際の事例はいろいろございます。しかし総括して申しますと、結果が悪かったから医療過誤という問題が起きてくるのでございまして、結果がよかった場合には、その途中のプロセスにおきまして過誤と認められるものがあっても、それは過誤にならないというふうなことであります。医療の面におきましては、過誤と称するものが結果からだけいわれていいかどうかというところに、たいへん、同じような過誤の問題でも、その本質的な違いを考えなければならないと思います。  たとえて申しますと、手術をした結果、たとえば盲腸の手術をいたしまして虫垂を取ります。そのあと癒着して腸捻転を起こして死んだといたしますと、手術が悪かったのじゃないかということは一応疑われます。そして癒着を起こすか起こさないかということは、大体その人の体質によるものでございますが、あらかじめ予測することは非常に困難でございます。しかし癒着を防ぐような薬も最近は少しできてきておりますので、その薬を使ったか使わないかということがもし過誤の問題にひっかかってまいりますと、原則として、これをすべての例に使うというふうなことは普通はいたしておりません。そういう点で、結果の悪かった人から過誤としてこれが扱われて指摘されるというふうな問題が一つございます。  それから電子工学進歩によりまして、医師看護婦監視をいたしませんで、エレクトロニクス監視装置がたいへんに発達をいたしまして、分べんの監視装置もこのようなものが使われております。ところが実際には、ある事故が起きましたときに、このエレクトロニクス監視装置だけでいいかというふうな問題になってまいりますと、熟練いたしました医師看護婦が見て、顔色がどうもおかしいとか全身症状がおかしいといったことのほうが実際には適合する場合がございます。しかし二十四時間電子装置監視しておりましても、そのような先を予見するようなことは実際には困難でございます。現在そういうふうな問題でトラブルが起きております実際を見ますと、かえって進んだ電子監視装置を使っておりますところで問題が起きているところがいろいろございます。こういうふうに、新しい電子工学の導入によりまして、注意義務というふうなものにたいへん大きな変化が来ておるわけでございます。これも一つの大きな変化として考えなければなりません。  それから臨床検査がたいへん進んでおりまして、そのデータを尊重するということが治療の上では大切なことになっております。しかし、あしたこの人がどういうことを起こすかということは、そのデータだけからは言えないことでございます。たとえて申しますと、心筋梗塞をあした起こすかどうかということは、これは実際どのような検査をいたしましてもだれも言えるものではございません。しかし、きょう厳密な検査をいたしまして何ともありませんと言ったことが、あたかもあした何ともないというふうに考えられている場合が非常に多うございます。この場合には検査過誤があったのではないかというふうな問題が実際にはずいぶん起きております。  それから、医学方向がたいへん変わってまいりまして、麻酔というふうなものが進んでまいりました。新しい麻酔事故というものも私どもはたいへんに考えなければいけないことでございまして、もう一つそれが進みまして、生命中断というふうなことまで持っていくことができるようになりました。一週間くらい生命中断をすることは、今日では困難でなくなってまいりました。軽いのは冬眠療法というふうな形でまいりますが、生命中断というふうなところまでまいりますと、いままであった注意義務という概念がすっかり変わらなければならなくなってまいります。こういう点でも、注意義務というものは学問の進歩科学技術の具体的な発展によりまして、かなり医療の面では変わってまいりました。  それからもう一つ、今日のようにインダストリアリゼーションが盛んになってまいりますと、産業における慢性中毒管理責任というふうなものがたいへん問題でございます。たとえて申しますと二硫化炭素慢性中毒、これは人絹工場で考えられることでございます。急性の中毒とかいうふうなものになってまいりますと、すぐ原因と結果を結びつけることができまして、責任もわりあい明らかでございますが、慢性中毒の場合にはその責任が非常にむずかしくなってまいります。二硫化炭素中毒の場合には、最初五年間くらいは原因不明の高血圧という形でまいります。血圧を下げる薬を持続服用しておりますと、あと今度は肝臓機能障害を起こしまして、あとの五年間は肝機能障害でその手当てを受けます。しかし十年くらいたちますと全身が衰弱いたしまして、労務不能というような状態におちいる人も出てまいります。こういうふうなときにこの高血圧治療に当たった医者、あるいは肝機能障害検査で認めて治療に当たった医者は、その本質的な慢性中毒工場管理責任ある産業医としての立場からは、これは診療過誤の問題が提起されるおそれが十分にございます。こういう点で、慢性中毒管理責任というふうな問題になってまいりますと、医療過誤の問題も非常にむずかしい問題になります。  こういうふうな問題を総括いたしますと、医療と申しますものは、動機が病人をなおしてやろうという非常な善意から出ておるものであり、そして結果からだけ過誤という原因が追及されるというところに、たいへん医療過誤特殊性があると私は思います。そういう点で一つ大きな問題がありまして、個人性というものがたいへんに問題になると思います。防衛反応というようなものは個人的にずいぶん違いがございますし、アレルギーというふうなショックも個人的なずいぶんな違いがございます。そういうことで診療過誤原因が、患者さんの個体の特殊性によるというふうなものが非常にございまして、結果と原因とが一挙に結びつかないでいろいろ問題があります。  それらの点で、私は、医療過誤の問題に関しましては医師法の一部を改正していただきまして、こういう問題について専門的な医師法の、身分法立場で、行政処分だけでなく別の考慮をしてもらってもいいのではないかと思います。一般過失犯と非常に大きな違いがございます。  もう一つの問題は、新しい医学進歩をやろうとするときには十分な注意をいたしまして、新しい領域を動物、実験で完全にやって、この次は人間なら必ず成功できると思ってやりましても、第一回には成功しないことがずいぶんございます。何回かやりますと成功するようになりますが、最初の成功しないときにやったのが全部過失であるという結論がいまの立場からだと導き出される可能性があります。ですから刑量を重くされますことによって、新しい医学進歩をさせようとする熱意が押えられますことを私は非常におそれております。そういう点で、医療面におきます特別な配慮というものをお考えを願いたいと思います。
  8. 永田亮一

    永田委員長 武見さん、ありがとうございました。  次に、古西信夫君お願いいたします。
  9. 古西信夫

    古西参考人 古西ですけれども、今回の刑法一部改正案というものは、先ほど瀧川先生からも御指摘がございましたけれども、四十五条の後段改正という問題と、それから二百十一条の改正という二つの観点からなされているようですが、まず第一の四十五条後段改正、この問題については多くの人たちも異論がないところであろうと思うのであります。そこで、時間的な制限がございますので、その点については私も結論としては賛成だということだけをここで述べさしていただいて、第二の問題点であるところの二百十一条の改正という点に焦点をあてまして、私なりの意見を若干述べさしていただきたいと思います。  そこで、まず結論から申し上げますと、私としては二百十一条の改正という点については賛成ができないという意見でございます。以下、順次その問題点とその理由について申し上げることにしますが、まず第一に現行法懲役刑を加えるという点、この点については、少なくとも現行刑法基本原理を修正するということになるので、この点は反対だというわけでございます。確かに立法論としては懲役刑禁錮刑という区別をなくしろという意見があることは御承知のとおりでございますけれども、しかし現在の刑法根本原理としては、いわゆる破廉恥罪というふうなものに対しては懲役刑というものが科せられ、それからいわゆる非破廉恥罪あるいは過失犯というものに対しては禁錮刑が科せられるというのが実は現行刑法基本原理でございますから、そういったたてまえというものをここでくずすことには私としては賛成できないということでございます。この点については、先日法務委員会事務局のほうから送っていただいた逐条説明書を見てみますと、近時における自動車運転に伴う業務過失致死傷等の事犯の中には、いわゆる故意犯とほとんど同程度社会的非難に値するものが相当数見受けられるに至っているというふうに記述されているわけですし、それからまた同じく送付された資料に、重大な人身事故具体的事例というので百七十九件にわたって紹介してございましたけれども、私としては故意犯に属するところの、いわゆる未必の故意という、その考え方によって起訴できるような悪質な事案というもの、こういったものははっきりと故意犯だという形で起訴するという方向でやっていいのではないか。そしてそういう形でやれば実はある程度消化できるのではないだろうか。やはり過失犯に対するその科刑というものは、懲役刑を科すべきではないという考え方をここではっきりと示すべきではないかというふうな意見を私としては持っているということでございます。なおその点について、同じく事務局から送付されました資料の中で、故意犯により有罪とされた事例というので三十二件ほど紹介されておりますけれども、これらの事案と、それから先ほどの百七十九件というものの事案を比較してみますと、実は過失犯として起訴されたところの百七十九件の中には、いわゆる未必の故意ということによって起訴できるような事案が多々あるのではないかということで、その点では、少なくとも法務省で考えられているような問題点が何とか消化できるのではないだろうかというふうな考え方を持っているということでございます。  それから次に第二として、五年以下の懲役もしくは禁錮に改めるという点でございますが、この点についても他の業務過失罪、たとえば百十七条ノ二の業務上失火罪というのがございますが、これとの均衡上のアンバランスということを考えると、実は問題があるのではないかというふうに考えているわけです。つまり二百十一条の業務過失致死傷罪というのが改正されれば、懲役刑とか禁錮刑というのが五年ということになり、そして罰金刑は五万円以下というふうになるのでございますけれども、百十七条ノ二はそのままになっているわけですから、禁錮刑が三年で罰金刑は三千円だから十五万円だというふうになる。とすると、自由刑は二百十一条の業務過失致死傷罪の場合には重くて、そうして選択刑としての罪金刑のほうは百十七条ノ二の業務上失火罪のほうが重いというふうなことになってきて、そこに若干何かアンバランスというものが私自身としては感ぜられるということでございます。  次に第三に、問題点としましては、これはいわゆる罰則強化という問題は自動車事故の防止がねらいだというふうに言われておられますけれども、むしろ私としては逆になるのではないだろうかというふうな疑念を持っているので、反対をしたいというふうに思うわけです。というのは、同じくその法務委員会事務局から送られてきました資料中の、故意犯により有罪とされた事例というふうに紹介された幾つかの事件の中に、厳罰に処せられるというふうなことがあるので、何とかそれを避けようという意味で、言うなればひき逃げ犯的な悪質犯というものが醸成されているというような事例が幾つか紹介されているように思いますので、そういった意味から、むしろ悪質犯を醸成しているということになりはしないかということを考えているわけです。かつて私は学生時代に広島高検の、あれは検事正でしたか次席検事でしたか、やっておられましたところの樫田忠美教授が、犯罪心理学というので講義をされたことがありますけれども、私自身、その樫田先生がそのときに一つ犯罪心理学の講義の中で言われたことでいまだに記憶にある点があるわけですが、それはどういうことかというと、樫田先生が言われるには、犯罪者というものは、それに対する罰条科刑というものが重ければ重いほど何とかして逃げようという、逃亡に狂奔するという傾向が強い。ところが、しかもそういった犯罪者でそういった傾向を持っている犯罪者であるにもかかわらず犯行現場、その犯罪を起こした現場に一度立ち帰ってみるというふうな習性があるというふうなことを指摘されたことがあるわけですけれども、私はそういう記憶に基づいて、少なくともひき逃げ犯というものの心情というのは、まさに樫田先生が講義をされたそのことずばりではないだろうかというふうなことを私自身としては現在考えている次第でございます。その点についてまさに裏づけできるような問題が、実はけさ自宅を出るときに新聞を見ましたところが、けさの朝日新聞の朝刊に出ておりましたけれども、「重傷の女性を連去る ひき逃げか 不審のライトバン」というので、二十六日夜十一時四十五分ごろ、川崎市で女の人が倒れているというふうな通報があったので出かけていった。ところが現場には人影がなかった。そうしてそばにいたライトバンその他もいなくなっていたというので、言うなれば、そのライトバンというのが実はその女性をひき殺して、そうしてそのひき殺したのが、ただ単なる事故かと思っていたところが、これはその事実関係を見てみますと、すでに息がなかったという証書をしている人がいますので、まさに重大な死傷事故を起こしたというので、そのライトバンが連れて行って、そしてそれきり行くえ不明になっているというふうな事案がけさの朝日新聞に紹介されておりましたけれども、まさにそういったひき逃げ犯的なものを、罰則を強化するということによって懲役五年ないしは禁錮刑五年というのを科せられるとたいへんだという気持ち、あるいは損害賠償額というものについても、民事的に御承知のように千何百万というような判決が出ているというふうな傾向から、これはたいへんなことだというので、かえってそういった悪質犯を醸成するという結果になりはしないだろうかというふうな考え方を私としては感じているがゆえに、反対をしたいというふうに思ったわけです。なお、この点に関しましては、昭和四十年四月十八日の東京高等裁判所の判決が、刑罰をもってする威嚇より、まず規律の周知徹底が先決問題であり、これに努力しないで処罰の徹底のみを期することは本末転倒であるというふうな判決を下しているわけですけれども、その東京高裁の考え方こそ、まさに罰則強化というものに対する警鐘ではないだろうかというふうに、私としては感じているということでございます。  次に第四に、これらのいわゆる罰則強化という問題、これは二百十一条の適用が全産業労働者ないしは全国民に及ぶものというふうな事実であるがゆえに、これは慎重を期すべきであるというふうな考え方を私としては持っているということ。つまり、二百十一条にいうところの、「業務」というものの意味、内容については、人がその社会生活上の地位に基づき継続反復して従事するもので、人の身体、生命に危害を加えるおそれのある仕事を意味すると解するのが通説、判例だというわけでございますから、その適用というものは、まさに大幅になるということでございます。したがって、たとえば自動車、鉄道、船舶、航空機といった交通労働者のみが業務過失致死傷罪によって処罰されるのかというと、そうではなくて、そういった人たちが適用になるということはもう言うまでもないことでございますけれども、病院や診療所だとか、薬局だとかというふうな形で働いておられるところの医師だとか、薬剤師だとか、看護婦だとか、あるいは産婆さんというふうな人たち——先ほど武見先生から、医療過誤という問題に関してお話がございましたけれども、そういった、まさに医療関係に従事する人たちに適用があるというふうな問題が出てくるのではないだろうかということ。そしてさらには鉱山関係あるいは工場あるいは工事現場というところで働くところの労働者、それから幼稚園だとか小学校だとか中学校、高等学校というところで働いているところの教職員の人たち、さらには飲食店だとか旅館業あるいは食料品の生産販売業等々、もう数え切れないような人たちというものが、この刑法二百十一条の改正ということによって罰則、厳罰をされるという可能性が実はここに出てくるのではないだろうかということを私としては考えるわけです。その点について、最高裁判所の坂本武志調査官が、これは四十年の一月一日の「ジュリスト」の、これは特集号のような形で出ているところで坂本調査官が言っておられるのですが、二百十一条の科刑状況というものが、だんだんと裁判所によって厳罰化されているという傾向に対して、一つの警鐘的なことばを述べておられる。すなわち、「他の一般の罪、ことに殺人、傷害傷害致死などの罪の量刑と比較してみると、いささか重きに失しているのではないかとも思われる。」だからその点について、考え直そうというふうな問題が提起をされているということ、言うなれば、業務過失致死傷罪というものに対して、厳罰化するという傾向に対する一つの警鐘的なその論文を坂本調査官が書いておられるという点について、われわれとしては、これは看過できないのではないかというふうに考えているわけです。  次に第五に、このいわゆる罰則強化という問題は、これは去る三十九年の十二月でしたか、それから法務省が実施しているところの交通事犯禁錮受刑者の集禁処遇という、いわゆる開放処遇政策というものに逆行するということになりはしないだろうかというふうに、私としては若干の疑問を感じているというわけでございます。  それから、時間の関係がございますので、少し簡単に申し上げます。  次に第六に、いわゆる罰則強化について、今後の検察庁の求刑だとか、あるいは裁判所の判決をする科刑基準というものが、一般的に引き上げられるという傾向が出てくるのではないだろうかということを私自身としては若干感じているがゆえに、反対をしたいというわけであります。というのは、私の友人に何人かの裁判官がいますけれども、彼らのその言によりますと、物的証拠だとか人証、つまり証言ですが、こういったものなどを総合的に判断をして真実発見につとめるというのが、これは刑事事件の真髄でございますけれども、そういった自由心証主義によってまず有罪か無罪かということを第一に考える。いろいろな心証形成をしながら有罪か無罪か、この事案が、この犯罪者は有罪だという判断をすると、次にどこを出発点として考えるかというと、その罰条の科刑の内容は何か、たとえば懲役刑五年だということになれば、その懲役刑五年という最高刑を科すべきかどうかということを出発点として、言うならば上限を出発点として、そのものについては若干情状酌量する余地があるかどうかというふうなことなどを考えて、そして結局本件については情状酌量の余地があるから、有罪ではあるけれども執行猶予をつけようというふうな判断をする傾向がある。そういうやり方をしているとか、それからこれはよく問題になるわけですけれども、労働条件という問題について、劣悪な労働条件だからというふうな形で被告人が、あるいは労働組合側から主張される場合がよくあるわけなんですが、そういった労働条件だとか労働環境、こういったものについての被告人側の主張について裁判官は、構成要件論としてそれを解釈しようか、あるいは情状酌量論という形で解釈しようかという点については、いろいろ議論をなされているところである。それで少なくとも従来の考え方としては、情状酌量論という点で判断をしようという傾向であるがゆえに、その点については私の友人の裁判官などは、そういった交通事犯を解釈する場合、そういう主張が出た場合にどういう判断をしようか、しかしこれは構成要件論だから先に主張してください、情状酌量論だから、構成要件論の問題について主張したあとで立証してくださいというふうなことは、あまりこまかく言わないで、全体的な形でその点についての立証をさせておいて、そうしてあとになって、これは構成要件論として採用でき得る主張だというふうに判断するならば、そういう判断で無罪という判断をするだろうし、あるいは情状酌量論だという形で判断できる事案ならば、情状酌量という形で、有罪ではあるけれども執行猶予をつけるというふうな判断をするということなどがいわれておりますけれども、そういった私の友人の裁判官のことばなどを考えあわせてみると、言うなれば、この罰条を強化するということによって、かえって一般基準というものが引き上げられるというふうな傾向が出てくるのではないだろうかという点について、若干私としては疑念を持っているということでございます。  それから第七として、罰則強化というものは国民感情に合致するんだというふうなことがいわれております。それから先ほどの瀧川先生の御発言の中にもその趣旨のことで、したがって懲役刑を科してもいいのではないだろうかという御趣旨の御発言がございましたけれども、実はその点については、私自身としては、むしろ国民感情というふうに考えるとするならば、かえって厳罰に処さないほうがいいんではないだろうかというふうな考え方を持っているということでございます。というのは、これは朝日新聞の昭和四十一年十月二日の社説でございますけれども、朝日新聞としては、言うなれば交通事故が起きた場合の、その交通事故の追跡調査というふうな形で事故当事者の追跡調査をやったわけです。その追跡調査をやった結果、いろいろ判断をしてみると、実は加害者も被害者も両方とも貧しい。この社説の文言をそのまま紹介しておきますと、「ハンドルをにぎっている人も、貧しければ、路上ではねられた人もまた貧しい、といった社会の生活の実態の低さが、ここにそのまま露呈している」という趣旨のことが書いてある。このことは、皆さん方も御承知のように、加害者であるところのその自動車の運転者などが、結局損害賠償という形での相当な示談金など、そのものも多額になっているということから、それを支払うことができなくなって、言うなれば自殺をしてしまうという事例が幾つかあったということ。その点は新聞にも出ておりましたけれども、まだ御記憶にあると思います。そういった加害者自身がまさにそういう自殺行為を行なうような状態になっています。そして、これはちょっと失念しましたけれども、約二十年後でしたかになると、少なくとも三人に一人くらいの割合でドライバーというものが出てくるだろうというふうな言い方がなされている。そして最近よくいわれているけれども、交通事件に関するものは一億総犯罪者だというふうな言い方がなされている。とするならば、実は罰則強化ということは、国民感情という観点で考えるとするならば、むしろ自分がいつ加害者になるかもしれないというような実態が出てきているがゆえに、そして先ほど申し上げたように、もしも事故を起こした場合には自殺というふうなところまで追い込まれるような、まさに家庭上の生活が貧困であるというふうなことから考えると、かえってここで罰則を強化させないほうが国民感情に合致するということになるんではないだろうかというふうな考え方を私としては持っているということです。  それから最後に、罰則強化という問題については、これによって事故が何とかなくなるだろうという御趣旨のようでございますけれども、実はそういう罰則強化によっては事故はなくならないんではないだろうか。その理由は先ほどいろいろ申し上げたような点でございますけれども、もう一つ理由をつけ加えるとしますならば、最近の交通事故の実態というものをよく見てみますと、道路そのものについての交通環境の不備だとか安全施設の不備だとかいうふうなこと等々もいろいろ指摘はされておりますけれども、むしろ人間的な面から見るとするならば、ドライバー自身が実は人間的に機能不能というふうな形で、もうこれ以上のことは避け得ないというような、言うなれば不可抗力的な事案にぶつかることがよくあるんではないだろうかということ。たとえば、これも実はついこの間、二十二日の土曜日でしたか、NHKの交通問題研究班というのが十時十分から十時五十五分にわたって「現代の影像」という番組の中でそういった追突事故についてのいろんな調査をやっておりますけれども、これなど見てみますと、少なくともこのNHKの交通問題研究班がいろいろ見たところ、東京都内における交通量の、自動車時速四十キロという安全速度の中でいろいろ交通が流れている。そして車体と車体との車間距離というものは約四メートルくらいで走っている。ところが、もしもその流れの中で急に先頭車が急ブレーキをかけたとするならばどうなるかというと、実はこのNHKは実験をやっているわけですけれども、実験をしてみたところが、その四台とも全部追突という形で、例の人間を形どったダミーによって打撃Gなどをいろいろ調査しているわけですけれども、そういった科学的調査をした結果、結局追突事故が起こる。現実の四十キロという安全速度内でやっても、四メートルの車間距離という実際上行なっている車両の流れの中では追突事故が起こるというふうな実態になっている。それから、これは週刊朝日にもちょっと出ておりましたけれども、何日でしたかはちょっと失念しましたが、週刊朝日などでは、だから四十キロくらいで走るという場合には少なくとも車間距離は十メートル以上とっておかなければならないだろうということが指摘されている。十メートルくらいの車間距離をとるということは、すなわち現状の車の流れからいうならば、その間に入ってくる車が必ず出てくるということになるわけです。とするならば、追突事故という、むち打ち症という形でクローズアップされているところの原因である追突事故は、現在の交通量の場合にはもう避け得られないような実態になっているということが指摘されているということであります。  そして、最終的な私の結論的な考え方になるわけですが、このNHKの交通問題研究班がいろいろ調査をしているその考え方立場というものは、これは若干武見先生の領域に入ろうかと思うのですけれども、言うなれば交通事故という問題と医学的な観点から出ている問題ですが、御承知の国連の専門機関であるところのWHO、世界保健機構がパブリック・ヘルス・ペーパーというものを出しておりますが、その中で、世界における交通事故白書というので指摘をしているのは、世界で毎年交通事故によって約十万人くらいが死んでおり、数百万人が傷害事故を起こしている、これは文明国ではどんな疫病よりも多くて、いまや世界は交通事故を一種の疫病とみなして総合的な対策を立てなければならないというふうなことをそのペーパーの中でいっております。そしてその考え方は、言うなれば、これは敷田検事さんもジュリストに、「交通刑事学の必要性‐交通事故伝染病説を契機に‐」という形でいろいろ論文を書いておられますけれども、少なくとも現在の交通事故というふうなものは、伝染病における感染経路等々といったような問題と同じように科学的に解釈しなければならない、分析しなければならないのではないかということがいわれております。すなわち伝染病における三因子の感受性者というものが運転者だというふうに置きかえて、それから感染源は車両だ、感染経路は道路だというふうにそれぞれ置きかえて、伝染病学的な観点から交通事故の根本原因というものをアプローチして分析していこうというふうなことなどがいわれております。こういった考え方は、将来における分析という観点から一つ問題点を一応示唆しているのではないだろうかというふうに思うわけです。  最後に、私は先ほど二百十一条の改正の問題については反対だということを申し上げましたけれども、誤解されないようにしていただきたいのは、言うなれば交通事故に対する悪質犯といわれているような高速スピード違反だとか、あるいはひき逃げだとか酔っぱらい運転だとかいうものに対して厳罰にすべきだということについては、私としても反対はしない。むしろそういう形での罰則強化ということは当然のことであろう。が、しかし、過失犯といわれているようないわゆるそういった業務過失致死傷罪の場合に罰則強化することについては問題があろうというふうに思っているということです。
  10. 永田亮一

    永田委員長 古西さん、ありがとうございました。  次に、玉井義臣君、お願いいたします。
  11. 玉井義臣

    玉井参考人 刑法二百十一条の改正について参考意見を申し上げます。  結論から申しますと、私はこの改正案賛成でございます。  今度の二百十一条の改正案につきましては幾つかの問題点がありますが、ここではその二、三について私見を述べたいと存じます。  まず第一に、改正の必要性の有無が問題となりますが、私は次の二つの観点から改正の必要ありと認めます。  その一つは、近年になりまして、過失犯の質と量が著しく変貌を遂げ、従来の考え方では十分これに対処できなくなってきたためであります。機械文明が発達し、高度に社会的分業が進んでまいりますと、物理的にはわずかな過失でありましても、それが社会に及ぼす影響はますます大きくなってまいります。それが最も顕著にあらわれてきたのが、近時における自動車事故であります。小型乗用車でも、時速四十キロでおとなの二千倍のエネルギーを持つのでありますから、日常生活では許されるささいな過失も、ハンドルを握りますと大惨事に結びつく可能性が常にあるわけであります。この点を見れば、自動車は本質的に凶器であると申せます。ですから、凶器である車の運転には細心の注意が払われなければなりませんし、重い責任が課せられて当然であります。  ところで、業務過失致死傷事件の通常受理人員の推移を見ますと、昭和四十一年で約三十五万人の多きを数え、二十四年の四十三倍という激増ぶりであります。さらに、これを全刑法犯に占める割合で見ますと、二十四年にはわずか一・四%だったのが、四十一年には実に四二・四%を占めるに至り、最近の自動車の伸びぐあいと事故のふえ方を考えますと、刑法犯のうち二人に一人は業務過失致死傷事件関係になるのはもはや時間の問題といえます。過失犯というかつてのわき役が主役におどり出た感じがいたします。  さらに、量的な変化は同時に質的な変化ももたらしてきております。二百十一条関係で禁錮刑を言い渡された人員の推移を見てみますと、二十五年に百人強だったのが、三十九年には四十五倍の約五千人にまでふえ、そのうち、実刑を言い渡された者は千三百人強で、十九人だった二十五年の実に六十九倍という激増ぶりであります。これはそのまま酔っぱらい、引き逃げ、無免許、居眠り、高速度運転などによる故意犯と紙一重の悪質な交通事犯の激増と考えてよろしいのであります。しかも、二年以上の禁錮を言い渡された者を見ますと、三十八年四十九人、三十九年五十五人、四十年七十一人とふえ続け、法定刑の頭打ち傾向があらわれております。  このように、業務過失致死傷関係事犯の激増、うち九九%以上が自動車事故関係であるという事実、禁錮刑言い渡し数の激増、特に悪質犯と見られる実刑言い渡し数の激増、法定刑の頭打ち傾向と見てまいりますと、この刑法の制定された明治四十年、東京にわずか十六台の車しかなかったころの事情とは雲泥の差であります。自動車事故を全く想定せずにつくられたこの法律では、もはや現代の交通戦争に対処できなくなってきたと申せましょう。これが法改正の必要ありとする第一の理由であります。  第二の理由は、いまの法定刑上限である禁錮三年では、被害者やその家族の感情と、国民感情、すなわち世論を十分納得させられないケースがふえてきていることであります。たとえば一時に保育園児ら三十三人を死傷させた愛知県猿投町のダンプ事故は、その典型といえます。結果主義より過失主義という考え方は理解できますとしても、この罪に禁錮三年という罰では国民は納得いたしません。  私ごとにわたって恐縮ですが、私は四年前に母を交通事故でなくしたものであります。かなり大きな交差点の横断歩道を横断中の母は、めくら運転の暴走車にはねられました。加害者はスピード超過の上、一たん停止を怠り、フロントガラスの曇りをふいたとき初めて母を発見したが間に合わず、遂にそのままひいてしまったのであります。被害者家族にとって死の重みは日ごとに心に食い込み、加害者は一日一日薄皮をはぐように事故の苦痛を忘れ去るものであることを、このとき私は体験いたしました。しかも、加害者は遂に実刑とはなりませんでした。正直なところ、私はそのとき法の公平を疑いました。  ちょっと問題の本質からは脱線いたしましたが、私が申し上げたいのは、目には目をという応報主義一点ばりではありませんが、被害者やその家族、それに一般国民の感情を無視して、教育主義だけでは法の社会主義も公平も達成できないということであります。私は、いま仕事の関係上、いろいろな被害者の声あるいは国民の声を聞く機会を多く持つのでありますが、その多くの人々は、いまの悪質な交通事犯に対しては、現行法定刑の甘さを指摘し、厳罰を望んでおります。これが法改正の必要性を認める第二の理由であります。  次に、では、法定刑引き上げるのに、改正案の五年は妥当かどうか、懲役刑を加えることの是非についてでありますが、あと懲役刑につきましては、故意犯的な犯罪がふえていることを考えれば、選択的に懲役刑を取り入れたことは望ましいことだと存じます。法定刑の五年について申しますれば、外国の立法例からしましてまず妥当な線と考えられます。ただ、酔っぱらいのようにきわめて故意的で悪質な事犯に対してはもっときびしくてもよいと、私個人は考えております。  第三は、法改正科刑が総体に重くならないか、あるいはまた国鉄などの鉄道事故、船舶事故、航空機事故などに適用されないかという問題であります。いままでの判例を見ますと、最近ではこの心配とは反対に、単純な過失犯の刑は従来より軽くなってきておりますし、結果主義から過失主義への移行が読み取れ、法改正によって刑全体が重くなるとは考えられません。しかし、一般法定刑が上がれば科刑全般が上がるかのような心配が多いのと、事故激増につれて起こってくると予想される、何でもかでも厳罰にせよというヒステリックな世論に屈して刑全体が上がっても困りますから、何らかの措置をとっておくべきかもしれません。  今度の刑法改正目的が、ふえ続ける悪質交通事犯を予防する意味であるなら、鉄道事故など、自動車事故以外のものは関係のない道路交通法での改正をしてはどうかという議論がございますが、これは法体系をくずしますし、自動車交通労働者だけをいじめることになり、法の前にすべての国民は平等であるとする憲法の精神にももとりますから、無理であると考えます。しかし、自動車事故以外の事故につきましては、実際問題として、科刑が従来より上がることはないと思われます。たとえば国鉄などの軌条事故では、機関士、機関助手、運転手、車掌、踏切保安掛、転轍手などの業務分担がありますから、責任が限定され、法定刑上限を使われるようなことはきわめてまれであります。私は法律には全くのしろうとでございますが過去の判例を見ますと、不当に重過ぎるようなものは見当たりませんし、法定刑上限を上げて裁判官の裁量の幅を広げたほうが、より妥当な量刑がされるものと信ずるものであります。  最後に、刑罰強化で事故が減り、無謀運転がなくなるかという、刑罰一般予防的効果についてであります。刑罰強化で直ちに事故が減り、無謀運転が影をひそめると見るのはナンセンスでありますが、その効果を否定するのも、同様におかしいことであります。刻々と変わりつつある道路交通の諸条件の中で刑罰の効果だけを測定することは不可能ですが、かりにすべての条件を変えずに刑罰だけを強化し、その趣旨を徹底させることができるならば、かなりの効果を数量的に把握できるものと確信します。世帯持ちが、二十前後の若者より運転が慎重で事故が少ないという事実は、運転者の心にブレーキをかければ事故は減るということの証左でもあり、刑罰一般予防的効果を期待させるものであります。特に故意犯に近いものについては、かなりの効果が期待できるものと信じます。  しかし最後に申し上げたいことは、刑罰事故防止効果の限界についてであります。いかに刑罰をきびしくいたしましても、極度の緊張の持続を必要とするような道路交通環境では、人間の注意力は持続し得ませんし、労働強化による過労運転の温床を職場に許していては、刑罰の威嚇力も半減することになります。道路交通環境の整備、車の構造改善、運転者と歩行者に対する安全教育の徹底、交通取り締まり、労働条件の改善など、総合的な交通事故対策が推進される中で、初めて刑罰強化もその効果が十全に発揮されるのでございまして、刑罰強化だけを前面に押し出し、その効果を過度に期待することは非常に危険であることをつけ加えておきたいと存じます。  以上、簡単に刑法二百十一条改正につき賛成意見を陳述いたしました。
  12. 永田亮一

    永田委員長 玉井さん、ありがとうございました。  次に、山口泰男君、お願いいたします。
  13. 山口泰男

    山口参考人 刑法二百十一条改正の提案を見ますと、最近の自動車事故とこれに伴う死傷者数の増加の趨勢がまことに著しいからという理由と、質的にも高度の社会的非難に値する悪質重大事犯が続出しているからという、大別して二つの理由から出されているように思います。私はこの理由はとうてい納得することができませんし、反対であります。  膨大な事故による死傷者数の増加、つまり多数運転者を対象にしてその一大注意を喚起しようということと、悪質重大な事犯、つまり少数一部の者を対象にしてその刑罰をきびしくしようということの二つは、対象においても期待する内容においても、互いに相矛盾するものであります。  私は交通労働者の一員として、きわめて常識的に見て、だれが考えても悪質だと思われる者、むちゃだと思われる者、こういう事例に対するきびしい追及については、いささかも反対するものではありませんし、ためらうものではありません。しかし、実感と体験の上から申し上げますと、罰則強化、つまり自動車運転当事者に対する一種の威圧といいますか、精神的圧力、おどかしによって今日の事故というものをなくすることは、とうてい期待できないというふうに思います。なぜならば、自動車を運転する者として、だれ一人として好んで事故を起こしている者はおりませんし、また事故の統計から見ても、罰則強化が事故件数を減らしていないということは、昭和三十五年に道交法改正されて、罰金、科料においては実に十倍、体刑において四倍という形で一挙に量刑が引き上げられた後といえども、この手元に送られてまいりました、この委員会からちょうだいいたしました資料の数字を見ても、一向減ってはおりません。  また、事故ということは、私たち自身、運転者にとって日常最もおそろしいものとして考えられているものであります。実感としてみな事故をこわがってはおりますけれども、しかしその恐怖感といいますか、このおそろしさは、罰則がきびしいからおそれておるというのではなくて、事故は私たち自身の命と暮らしを根元から破壊することを結果としてもたらすからであります。だれが運転中に禁錮三年だからまあいいとか、それが五年になったらとうてい事故もできないなんというように思う人がおるでしょうか。実際に量刑を引き上げたからといって、事故そのものの発生の根本原因を排除するということにはとうていならないわけです。また、そういう量刑を引き上げることによって、運転中はなるほどそういうことを四六時中考えているということはないにしても、少なくも運転者の注意力を強めるということに役立つだろうというふうにもし期待してこういう提案がなされたとするならば、その効果というものもほとんど期待できるものではないということを申し上げたいと思います。  悪質重大な事故を引き起こした者について、現行法では量刑が軽過ぎるから一そうきびしくする必要があるというような観点から論じられておりますけれども、参考人として出てくるようにという通知と一緒に送られてきた資料、それを見ますと、該当事例のほとんどの場合、現行法最高刑になってもいないし、またその上限引き上げるという具体的な必要性というか、そういうものがうなずけるような形にはなっておりません。まして自動車事故のすべてをその結果からだけとらえて逆算したような形で、事故すなわち過失というふうに断定するということは、非常に非現実的なものだと思います。人間は無制限に注意力というものを幾ら強制されても、それに応ずることはできません。たとえば、昨年読売新聞に三悪ドライブという見出しで、警察官にかかわる自動車事故について報道されております。警察官というものは社会的に見ても責任感あるいは義務感、法知識あるいは注意力等、少なくも一般人たちよりも強いものを持っているというふうに私たちは考えております。したがって、その事故についての判断あるいはその措置のしかた、そういうものもまさに業務上という対象に対して考えたときには、一つの典型的な判断の内容が生まれてくるものかというふうに考えておりますが、その結果の事例を見てみますと、これは他の事例に比べると意外と思うほど軽くて、いままさに提案されておる最高限引き上げなくてはならないという、そういうものには一向にその論拠として使用されるものではありません。最も典型的な事例に対する業務過失傷害あるいは過失致死といいますか、その典型に対する厳正な判断の結果として生まれたものですらこういう形です。したがって私たちは、この刑法二百十一条の禁錮三年を懲役刑とあわして五年に引き上げるということについて賛成できかねるわけです。  私たちはそれとは違って、また自動車事故に対しては切実にその絶滅ということを考えております。それは自分たち自身の命をかけて考えておるわけですが、そのために各行政官庁にも今日まで幾たびとなく具体的な提案をし、また国会あるいは地方議会に対しても幾たびかの請願行動も行なってきましたが、まだそういう措置が具体的に笑っていないように思います。幾らかの前進はありましたけれども、この法案を変えることによって期待する効果以上の具体的な効果があがるはずのそういう安全の対策がまだはかばかしくいっておらないように思います。現在、全日本交通運輸労働組合協議会は、ほとんどすべての陸海空にわたる日本の交通労働者が結集しておりますけれども、この全交運を中心に何回となく繰り返してきた具体的な交通安全に関する提案、あるいは交通事故の絶滅に関する具体的な提案について直ちに御採択をされるように、また関係官庁がそれを実施に移されるように、十分な配慮と決定をお願いしたいというふうに思っているわけです。  昭和三十二年に神風タクシーのキャンペーンが行なわれたときに、労働省は一つの通達を出しました。賃金やあるいは乗務走行キロの制限、そういう形での内容を中心とした通達を出しました。昨年の十月三十日には運輸省が運輸省令というものを出しました。またことしの二月の九日には労働省が通達を出しております。いずれも不十分さはありますけれども、雇用の安定の問題、走行キロの制限の問題、労働時間の規制の問題低賃金と刺激的な歩合給制度の廃止の問題等、交通安全、事故防止に直接触れる内容のものが具体的に通達や省令として出ております。これらのものを厳密に、ためらいなく実施していくということは全事業主の責任でもありますし、その実施を求めて十分自分たちも実行に移していくということは労働者の責任でもありますけれども、そういう省令、通達が出るかたわら、一方ではそれと逆行するかのような動きも強まっております。すなわち、そういう省令を故意に無視したり、否定したり、踏みにじったり、月間三百時間以上にわたるような長時間の残業を押しつけてきたり、あるいは極端な累進歩合給をあらためて制定してみたり、そうして非常に多額の水揚げ高を強制して、その強制された水揚げ高に達しないものについての解雇を打ち出してみたり、そして、そういうことについての労働組合や労働者の抵抗については暴力団をも含めて弾圧を加えてみたり、そういう事例が幾つも起きております。そういう状態については、交通事故の絶滅、交通安全の確立という観点からすれば、まさに逆行した作用でありますから、いっときも早くそういうことが根本的に排除されるような具体的な決定を当委員会で出していただく、そうしてそれを全体の国民によって支持し実践に移してもらうということが、何よりもの交通安全の対策であるというふうに考えております。  私たちは、そういう観点から刑法二百十一条の今回の改正について反対の意見を持っておるわけですが、朝日新聞には、私たちのそういう反対の態度については一部の集団のエゴイズムである、いわば罰則を適用されないためのエゴイズムであるというふうな表現のしかたがありました。また読売新聞には、確かに、労働条件の改善なりあるいは安全施設の整備拡充なり、そういう要求は正しいし必要なことであるけれども、しかし国民はそういうことが達成される状態を待っておれない、交通事故はまさに当面の急務であるというふうな形で一つの主張が出ておりました。私たちは決してエゴイズムとも思っておりませんし、その反対に、最も効果ある交通事故の絶滅なり交通安全の確立なりの具体的な方策だと思って主張しておるわけです。そして、そういう主張を一がいにエゴイズムというふうに簡単に否定し去る、そういうような考え方の中にこそ今日の交通事故の真の原因があるというふうに考えております。また、国民は待っておれないといっておるというふうに伝えられておりますけれども、まさに命をかけて交通安全の確立、交通事故の絶滅を願っている私たち自身が待っておれないという気持ちであります。すなわち、直ちに大幅な予算措置を講じ、人員の適切な増強配置を行なっていただいて、真に人と車の分離交通状態を一日も早く実現達成するということに前進をしていただきたい。そういう御決定を当法務委員会のほうで出していただいて、全国民の共通して支持するものとしていきたいというふうに考えております。  これで参考人意見といたします。
  14. 永田亮一

    永田委員長 山口さん、ありがとうございました。     —————————————
  15. 永田亮一

    永田委員長 これより参考人各位の御意見に対し質疑を行ないます。  質疑の申し出がありますので、これを許します。大竹太郎君。
  16. 大竹太郎

    ○大竹委員 時間がございませんので、各参考人の方々に一点ずつお尋ねをいたしたいと思います。  まず瀧川先生にお尋ねいたしたいのでありますが、この二百十一条の改正の中で一番の問題点は、最高刑引き上げることによって一般科刑が重くなるのではないかという点であると私は思うのであります。それについて先生は最後にちょっとお述べになったようでございますが、最高刑が上げられても一般科刑が重くなることはないという点について、もう少し詳しくお述べいただきたいと思います。
  17. 瀧川春雄

    瀧川参考人 お答えいたします。  玉井さんから、刑罰引き上げだけが問題の解決ではないということを申し述べられましたが、これは刑事政策といたしまして——もちろん立法政策もその一環ではございますけれども、いろいろの問題をあわせて処理していかなければならないと思います。ただ今回のこの改正につきまして私の受ける感じといたしましては、この改正によってすべて交通事故を防止するというところに一番の問題があるとは思いません。ただ、今日激増しておる悪質な人身事故、こういうものに対しまして、人命尊重という観点から過失というものが質的にも量的にも変貌しております。その際に、いわゆる法感情としてただいままでの二百十一条というものの姿だけでいいかどうか、こういう問題だと思います。  そこで、これに関しまして全体の科刑が上がるのではないかという御心配、私はその心配はございませんと申し上げたわけでございますが、それはこの改正罰金刑はそのまま手を触れないようにしております。ただ、悪質なものを目標に最高刑を上げるというところに重点があると思います。したがいまして、事案が重ければ科刑が上がるのは当然であると私は思います。事案が軽いのに科刑が重くなるということはあり得ない、こう私は考えております。ただ、刑罰は脱落しておるということを前にラートブルフの論文で私は読んだことがございますが、年々ふえていく執行猶予の増加あるいは解釈法とかいろいろなものから推して、非常に多くの刑罰というものがだんだん軽くなる傾向にあるということがいわれております。しかし、それは今日わが国が当面しておりますような、こういう重大な人身事故というようなものが予想されなかった場合の論文であると私は思います。したがいまして、こういうふうな状況のもとにおいて二百十一条が従来のままでいいかどうかという点、そこに法感情といいますか法の評価の問題、そこに重大な問題があるのじゃないか、そういうふうに考えておりますが、それでよろしゅうございますでしょうか。
  18. 大竹太郎

    ○大竹委員 次に、武見先生にお聞きしたいと思うのでありますが、先生はいろいろ例をあげて、この医療過誤の認定というものはなかなかむずかしいものだ、したがって慎重にやってもらわなければいけないという御趣旨だったろうと思うのでありますが、それについては医師法改正その他が必要だという意味のことをお述べになっておりますが、医師法その他のことについては一向不案内でございますので、もう少し具体的に、簡単にお願いをいたします。
  19. 武見太郎

    武見参考人 先ほど申し上げましたように、原因と結果が直ちに結ばない非常に個人的な要素がございます。それからまた学問の移り変わりによりまして、注意義務というふうなものも変わってまいります。それから過失と認定できるかできないかということも学問の進歩によって変わってまいります。こういうふうに数年のうちに相当大きな進歩がございますので、こういうふうな問題を基本的には専門法の中で身分をきめる法律があってもいいと思います。そういう点で医師法改正を具体的に、医師身分法としての医師法の中でこういう問題を取り扱う。現在取り扱われておりますのは業務停止とか行政処分だけでございますが、これはもう少し具体的にきめていただきたいと思います。
  20. 大竹太郎

    ○大竹委員 次に、古西先生にお尋ねをいたしたいと思うのでありますが、先生は最初にこの二百十一条の改正には反対だ、こうおっしゃっていろいろ例をあげて説明されて、悪質事故は刑を重くするとふえる、しかもけさの新聞に出ておった例等をおあげになって、考えようによってはいまの刑でも重過ぎるのじゃないかとさえ聞こえるような御説明をされ、悪質なものを重く処罰することには私も反対ではないということを一番最後におっしゃったのでありますが、そういたしますと、重くすること、現刑を五年に改正することには御反対なのでありますから、現在までの具体的な悪質なもの、また想像される悪質なものに対する刑罰については、現行禁錮三年をもって処断すればそれで十分だというお考えなのでございますかどうですか。
  21. 古西信夫

    古西参考人 実は、その点は理由の中で私説明したつもりではあったのですけれども、少なくとも資料委員会のほうからいただいた事案の中に、言うなれば未必の故意という形で故意犯で起訴された事案というものは、これこそまさにひき逃げ犯だとか、あるいは酔っぱらい運転だとか、高速スピード違反だとか、こういったものはもう未必の故意だという故意犯で実は処断することができるではないかという意味で、私は、そういう関係のものについての悪質犯が故意犯でやれるならばそちらでやれるじゃないか、それをわざわざ現行法の二百十一条の改正という形でやる必要はなかろうというふうなことの趣旨のお話をしたということでございます。
  22. 大竹太郎

    ○大竹委員 次に、玉井さんにお聞きをいたしたいのでありますが、玉井さん、法律にはしろうとだとおっしゃりながら、なかなか法律的にお詳しいので驚いたのでありますが、やはりこの法上の改正で一番問題になる点は、瀧川先生にお聞きしたと同じく、一般交通事故に対する科刑引き上げられるのではないかということが、特に交通関係労働者等の反対の大きな原因になっておるのであります。それらの点についても相当お述べになったのでありますけれども、一般科刑引き上げられることに対して何らかの処置がとられなければいけない云々ということをおっしゃったように思うのでありますが、何か具体的にそれらについてお考えがございましたらお教えを願いたいと思います。
  23. 玉井義臣

    玉井参考人 これは法的効力を持つものではないかもしれませんが、この法案の附帯決議なんかの形で、結果主義よりも過失主義を優先させるというような形の文言を入れれば幾ぶんその解決になるのじゃないか、かようにしろうとながら考えたわけでございます。
  24. 大竹太郎

    ○大竹委員 次に、山口さんにお聞きしたいと思うのでありますが、山口さんは御商売柄いろいろ統計その他にお詳しいようでありますので、特にお聞きをいたしておきたいと思うのであります。  自動車事故にはいろいろな原因があると思うのでありまして、もちろんこの原因が重なり合って起きる事故、大部分の事故はそうだろうと思うのでありますが、大別いたしまして、運転者のいわゆる不注意過失による事故とその他の原因、たとえば被害者過失、不注意、また使用者、労働管理者の使用、管理のやり方が不都合であったとい、うこと、その他車両の原因、また施設等の不備、いろいろあると思うのであります。これはもちろん両方競合している場合もあると思うのですが、たとえば運転者のいわゆる不注意が五〇%以上あった事故と、その他のいま申し上げました被害者とか使用者、車両、施設等の不備、不注意等が五〇%以上あった事故とどちらの事故率が多いのでありますか。何かお調べになったことがございましたらお聞かせをいただきたいと思います。
  25. 山口泰男

    山口参考人 私たちは全国的に発生するそういう事故について、具体的にその事故原因種別を明確にしながらみずから統計を作成するという能力がありませんので、警察庁なりその他の関係の機関から出される資料を分析するだけなんです。しかし、私たち自身がいままでの生きてきた経験といいますか、実務に携わってきた経験からすると、完全に運転者のみの過失によるものとか、あるいは歩行者のみが完全に悪いものとかいうふうにはっきりと単純に区別さ蘇るそういう事故というものはまことに少なくて、事故そのものは何らかの総合的なものの結果として起きてきているわけです。したがって、その運転者の休養の状態なりあるいは精神に何らかの重圧がかかっているようなさまざまな原因というものもすべていろいろな形であらわれてきますし、もちろん歩行者や運転者の法規その他に対する周知義務というか、そういうものもあるだろうと思います。だから、この事故の発生の問題について私先ほど申し上げましたのは、労働条件の安定化、そういうものについて、原因の中に中心に出しましたけれども、それはもしこういう統計がこの委員会の力でとられるならば、たとえば労働組合が組織されている事業場と組織されていない事業場、労働条件がきわめて安定し、ある程度の高さを持った事業場とそうでない事業場、それを対照的に分けて統計をきちっと出していただくならば、先ほど私が主張した点、発言した点がおそらく一目りょう然数字になって出てくるというふうに思います。
  26. 大竹太郎

    ○大竹委員 いま一つ。これもお持ちになっておるか、そういう事故をお調べになったことがあるかどうかわかりませんが、お聞きしておきたいと思うのでありますが、最近は非常にアマチュア運転手がふえてきております。いま山口さんがおっしゃったのは主としていわゆるアマチュア運転手じゃないプロ運転手に関するいろいろの問題じゃないかと思うのでございますが、このプロ運転手とアマチュア運転手との事故を起こす率といいますか、こういうことについてお調べになっておられますか。
  27. 山口泰男

    山口参考人 具体的にはそういう資料というか、それを数字上こちらが持っているということはありません。先ほどの発言も、おもに当委員会出席するにあたって配付されたこの資料の中でいろいろ発言をしているわけです。だから、この資料以外の部分からの発言はあまりありませんから……。
  28. 大竹太郎

    ○大竹委員 質問を終わります。
  29. 永田亮一

  30. 横山利秋

    横山委員 瀧川参考人古西参考人にお伺いするのですが、私たちの審議の一つの焦点として、これが一体上限の悪質犯にのみ適用されることになるのか、それとも全般的な刑量をふやすのかということについて非常に論争を重ねておるわけです。参考人の皆さんの中にも、いや悪質犯だけに上限が延びるだけであって一般の刑が広がらないという方と、いやそうではない、実際問題としてはみんな広がっちゃって全般的に刑罰がふえる結果になるという御意見の方とあるようです。御存じのように、裁判官が実際やるもので、私どもはどんなにここでいろいろ議論をしても、それは議事録には残りますけれども、裁判官がそれを逐一読んでやるわけではありません。そしてかくのごとく三年間にわたって議論をしてきた問題でありまして、刑法の二百十一条の改正、つまり交通事故に対する刑罰をふやすというマスコミを通じての社会的な影響というものは、交通事故について刑罰がふえる、重くなるという一般的な印象が国民の中へも、したがって裁判官の中へもずっとびまんしていくことは当然なことではないか。つまり上限だけが延びるということであろうということは期待的な観測にすぎないのではないか。どこで一体かぎがかえるのか。裁判官の気持ちがこの法律改正によってこれは上限、悪質犯だけが刑罰がふえるというように、どこで一体裁判官の心理にかぎがかえるのかといいますと、過去の事例からいいますと、結局この法律の意図することは、前提として威嚇的効果を期待するということになります。事故をやったら五年以下になるぞという威嚇的な効果というものは、同時に、判決の内容においても、常にそれが裁判官の心理に影響をするものと考えざるを得ないのであります。両先生にお伺いしたいのですが、おそらく与党の人の質問の中ではその上限だけだ、一般には広がらぬと言うておるようでありますが、そういう国会の論議というものが裁判上にどうして一体かぎがかえるのか、その点について、かぎがかえる御意見がございますか、御両氏にお伺いしたいと思います。
  31. 瀧川春雄

    瀧川参考人 お答えいたします。  上限に限って悪質なものに適用があるという保証はない、こういう御意見のようでございますが、この問題は先ほども申し上げましたように、やはり罰金刑はそのままいらわないで、そしていわゆる禁錮刑懲役刑上限を上げておるという点が一つございます。それから、先ほど最初に申し述べさせていただきましたときに申し上げましたように、やはり過失というものに対して科せられるのは禁錮刑が原則でございます。したがいまして、原則的に懲役刑が科せられるということは、これは従来からの原理的な考え方としてもちろんそれは裁判官は御承知であると私は考えております。したがいまして、悪質なもの、そういうものにやはり上限が限られておる、こう考えざるを得ませんし、また先ほども申し上げましたように、明治四十年につくられましたこの現行刑法の時代の状況と、それと今日とではだいぶ事情が違ってまいっております。それで過失犯というものが質量ともに変貌したということも申し上げましたし、被害の甚大性ということから見ましてもずいぶん条件が違っておるのじゃないかと思います。そういたしますと、この二百十一条の現在のあの法定刑の形ではたして妥当かどうかということがやはり問題になってくるとしまするならば、やはりいろいろの事件について悪質なもの、そういうものがやはり従来よりも高い刑を受けるということは私は当然であると思いますし、いただきました資料で拝見いたしますと、医療過誤というような問題もかなり裁判所によっていろいろ違うようでございますけれども、相当な人命問題だと思われるようなものでも相当軽うございます。したがいまして、やはり最も重大悪質というものに限ってこれは考えられていいのじゃないか。そういうことの保証があるかどうかとおっしゃいますと、私はその保証は別にあるということは申し上げられませんけれども、しかし、それは裁判官の良識なり、裁判官の法律家としての法意識というものによって処理されるべき問題じゃないか、こう考えております。また、当然私の申し上げましたような線で裁判官は処理していくべき性質の問題である、こう確信しております。
  32. 古西信夫

    古西参考人 実は、先ほど私が申し上げたように、結論としては、一般的な科刑基準が上がるんではないだろうか。私自身の友人の裁判官から聞いた、言うならば伝聞証拠的な形での話だということで申し上げたわけですけれども、若干なおその点を突っ込んで説明してみますと、実は、これは検察官をやっておられる敷田さんがジュリストの三五五号、「交通事故と刑事裁判」という特集号の中で、「交通事故と刑事処分の動向」という論文の中で指摘をされておりますが、これは先ほどの玉井さんの御意見とも若干関連するわけです。というのは何かというと、玉井さんが、過失主義か結果主義かということについての附帯決議という形で明確にしておけば云々という御意見を出されたわけですが、敷田検事が分析しておられる裁判所の傾向として——これは敷田検事そのものが分析されたわけではございませんで、大阪地方裁判所の水沢、石田という両裁判官が大阪地方裁判所の傾向という形で書いておられる、それを引用しておられるわけですが、大阪地方裁判所としてはいわゆる結果主義である。すなわち「過失が如何に大であっても、被害者が死亡していなければ執行猶予になる率が多く、反面過失が小であっても被害者が死亡しておれば執行猶予になる可能性が少ないと言えそうである」というふうに、大阪地方裁判所の裁判官である水沢、石田両裁判官が大阪地裁の傾向を、いわゆる結果主義の立場に立った判決をしているということを分析されておるわけです。そしてそれに対して、東京地方裁判所の山本裁判官が、東京地方裁判所の傾向としては、大阪地裁の結果主義に反した過失主義をとっているという傾向の分析をなされているわけですが、これは「過失程度が比較的軽微なものに対しては、たとえそれによって生じた被害の程度が大きくても次第に寛容な態度で臨むようになった」という東京地裁の態度が指摘されているということから考えてみると、同じ裁判官でも——まさにこれは裁判官の自由心証主義に基づいて真実を発見するというのが裁判官としてのつとめでございますから、裁判官としてはこの事案をどういうふうに判断するかということについては、実は瀧川先生から、裁判官の良心に従ってという趣旨の御発言があったわけでございますけれども、同じ裁判官であっても、大阪地裁と東京地裁において、過失主義をとったり結果主義をとったりしているという、裁判官みずからの交通事犯に対する判断、判決のしかたの差違というものをここでは注目しなければいけないのではないだろうかということがあるがゆえに、先ほど私の意見の中で申し上げておいたわけであります。最高裁判所の坂本武志調査官が、ジュリストの「刑法改正と現代刑法思潮」という特集号の中で、その点についての分析をされ、少なくとも交通事犯に対する裁判官の判決のしかたというのが厳罰化してきている。しかし、交通事犯に対する厳罰化という問題と、一般的な他の犯罪、すなわち殺人罪、傷害罪、傷害致死罪とかいうふうな実際に行なわれておる判決との量刑の関係では、かえって交通事犯が厳格になり過ぎていないだろうかというような、言うなれば引き戻し的な論文を坂本調査官が書かれているというのは、まさに裁判官自身が実は迷っているということ、そうしてその点について坂本調査官が問題を投げかけて反省の一つの示唆を求めているんだというふうに私自身としては考えているがゆえに、結論としてはやはり一般科刑というものは上昇する傾向になるんではないだろうかということです。
  33. 横山利秋

    横山委員 武見参考人にお伺いしますが、医療過誤をめくる判例の動向——法律時報でありますが、これで拝見したところによりますと、最近この種の問題の民事並びに刑事事件がふえているようであります。これによりますと、誤薬投与または無断処方変更が十一件、責任あり。誤診または診断遅延十四件、ほとんど責任なし、こういう事例が出ておるようであります。  最近、国民の権利意識というものがこの医療過誤の問題についても相当出てまいりまして、加えて例の白い巨塔のようなものがたいへん社会的に興味を呼んだせいもあると思うのであります。そこでお伺いしたいのは——いまのここにおける議論は交通事故に限られておるので非常に残念だ。私どもはかねて主張し、政府側もそれに首肯して、実はその医師をはじめ多くの業務過失事故についてもあわせて議論をする気持ちになって、特に先生においでを願ったわけです。  そこで、妙な言い方をしますが、交通事故の問題に巻き込まれて、医師をはじめ多くの業務過失事故が、二百十一条によって五年以下の懲役ないしは禁錮上限になる。少なくともこの医師に関する判決の状況を見ますと、上限つまり三年付近というのは皆無、ほとんど軽微なものです。いま交通事故に関しては、お二人の参考人からお話しのように、上限だけになるか、あるいは全般が引き上がるかということなんですが、医師の問題が、今後さらに刑事事件なり民事事件なりが多くなる過程において、本法に対して批判的な御意見でありますが、重ねて、一般業務過失致死傷罪についての先生の代表的な御意見を伺いたいのであります。
  34. 武見太郎

    武見参考人 私はこの過失というものと死傷というふうなことを、交通問題を突破口として全体に広げられることについてはたいへんに問題があると思う。交通の問題は私の専門外でございますが、私も国民交通会議のメンバーで、専門委員もいたしておりますけれども、この問題について人類生態学的な立場から、世界的な問題として交通事故を考えるという考え方が近ごろ出てきております。で、人類生態学的な立場に立ちますと、交通事故と申しますものは、先ほど来おっしゃいましたように、一方的に原因があるというふうな場合が少なくて、回方に原因があるという場合が多うございます。それからまた、参勤交代の道路が今日大きなトラックが通るというふうなことで、交通構造の変化とかスピードの変化とか、そういうふうなものに地域の交通構造が変化してまいりまして、それに適応する能力を社会的に失ってきているという状態交通事故であるというふうな解釈を、ヒューマンエコロジーの立場ではしておる。こういうふうになってまいりますと、その過失というものが、道路のようなものの上で全く実見的に行なわれます過失と、それからヒューマンエコロジカルな立場において当然原因を求められなければならない過失との間には、大きな差があるはずだと思います。そういう点を簡単に、一方的な過失としてきめてしまって刑量を重くするということについては、私はヒューマンエコロジーの立場からこれは考えものであるというふうに考えます。  それから、そのような性格の過失という問題と、医療事故というふうな問題とを同一次元で処理するということは、根本的に私は間違っているように考えます。医療事故と申しますものは、いまお話しのように非常に指摘されることがふえてきておりますけれども、これは相当な注意をもってしても避けがたい事故が相当にふえております。これも医療内容の変革というものが相当に多いことと、それから看護婦が未熟であって教育が十分でないとか、それから看護婦の数が足りないとか、いろいろなことで事故が起きてくることで、相当な注意をもっていたしましても避けがたい場合が相当にございます。それから電子監視装置のようなもので十分監視したといたしましても、それがはたして人間が見たのといいか悪いかという点になりますと、これが鑑別がつきかねる状態であります。そういうことでございまして、私は、交通問題を突破口として他に全部広げられるということについては非常に問題がある。それから先ほど私が最後に申し上げましたように、たとえて申しますとじん臓の移植、これはいま心臓の問題が盛んになっておりますが、じん移植の問題にいたしましても、相当な注意をもって全関係者が努力いたしましても、最初から成功した例はございません。ただ一カ所、慶応大学で最近第一例が——第一例のまま成功したということは、非常に驚異として認められているのでございますが、その前にやられましたところは、成功する前に何例かの不成功例もあるわけでございます。こういうものを過失ということになってくると、学問の進歩を妨げることになりますので、医学上におきましてはこれを一般過失と考えて重い刑罰を科するということは、私は学問の進歩を押える点で非常に問題があると考えております。
  35. 横山利秋

    横山委員 時間がございませんので、玉井参考人一つだけお伺いして終わりたいと思うのです。  玉井参考人交通問題の第一線で非常に活躍をせられておりまして、敬意を表するものであります。特に最近いわゆるから判決と申しますか、裁判で加害者に対して何百万払えという判決が出たけれども、実行不可能になっておる。そういう事例を取り上げて非常にキャンペーンをしていらっしゃる方で、その点は私全く同感のところなのでありますが、刑罰をふやすことによって、かえってこの支払い能力を減殺してしまうことにはならないか。実際問題の話でありますが。私も交通刑務所へ行って加害者で収用されておる人の状況を見たわけでありますが、ほかの刑務所と違いまして、きわめてまじめに服務をしておるわけであります。そして必ず自分の机の上へ位はいをそなえて朝晩お参りして、まことに申しわけなかったというお祈りをしておる模様であります。被害者として、感情的といっては失礼でありますが、被害者の心理というものはよくわかるのでありますが、同時に親をなくし子供をなくし、家計に非常に困惑をされておる今後の問題を考えますと、あなたがやっていらっしゃる、から判決を実行に移させるということは非常に重要なお仕事だと思うのであります。もしもこの加害者を刑務所に収容する期間が長くなり、あるいは刑罰を重くすることによって、贖罪意識がそちらのほうに働いてしまう、ないしは照罪能力、賠償能力をなくしてしまう、そのためにますますから判決をふやしてしまうという可能性を、現実問題として私は心配するわけでありますが、どうお考えでございましょうか。
  36. 玉井義臣

    玉井参考人 から判決、から手形の内容について申し上げますと、ほとんどがもう支払うべき財産を持っていないということと、会社なんかの場合ですと倒産してしまっているということで、かりにこの人たちが刑務所に入らずに働いていたとしても、ほとんど支払い能力は期待できないというふうに私どもは分析いたしました。で、そのから手形をなくすための方策としましては、やはりもう強制保険の引き上げ以外にはない、あるいは私どもが主張しておりましたように、国あるいは基金、たとえば賠償公団的な基金が一時立てかえ払いをして、あとで加害者に求償をしていくというような方法をとらない限り、被害者への補償面での救済は考えられないというふうに解釈しております。ですから、繰り返しますが、たとえ刑務所に入る刑期を短くしましても、ほとんど補償とは無関係であるといふうに解釈しております。
  37. 横山利秋

    横山委員 まだ意見がございますけれども、時間の関係で私の質問はこれで終わります。
  38. 永田亮一

  39. 中谷鉄也

    中谷委員 瀧川先生古西先生と玉井さんに、同じ質問をしてお答えをいただきたいと思います。  私は、日本と工業生産力等で国情が似ていると思われるフランス、イタリア、西ドイツ、この三つの国を一応とってみたのですけれども、瀧川先生まず誤りがあれば御指摘をいただきたいと思いますが、フランス刑法はたしかその三百十九条で過失致死については三カ月以上二年以下の拘禁ということであったかと思います。イタリア刑法は十二年以上をこえることができないということで、長期が十二年を科すことができるように相なっていたと思います。西ドイツは、先ほど先生御指摘になりましたように、一年以上五年以下でございます。過失傷害につきましては、三年以下ということでございます。したがいまして、本改正案が成立をいたしましたならば、過失致死傷について懲役もしくは禁錮五年という本改正案は、フランス、イタリア、西ドイツ、日本の中でイタリアが一番重くて、次が日本、そうして西ドイツ、フランスが群を抜いて低いということに相なるだろうと思うわけです。そういう中で、死者の自動車一万台当たりの係数をとってみますと、日本が群を抜いて二六・四、西ドイツが一六・五、イタリアが二〇・二、フランスが一〇・一ということに相なっております。そういたしますと、一番刑の重いイタリアが日本に次いで事故率が多いのは一体どういうことなんだろうか。逆にいうと、刑罰を重くするということは交通事故防止にほとんど役立たないのではないかという問題を、私は従来から疑問として感じているわけです。そういたしますと、一番事故の少ないのが一番刑の低いフランス、日本はフランスの約二・五倍の事故数を誇っているわけです。  そこで、今度は強制保険の関係をとってみます。そうすると、強制保険でフランスは三千六百万円、イタリアが一九六五年の当時におきまして強制保険がなし、西ドイツが強制保険九百万、日本が三百万ということに相なっております。そうすると、事故の少ない数と強制保険の数とはまさに明確に一致するものと言わざるを得ない。この四つの国の中においては刑罰の高い国ほど事故数が多い。逆に言うと、生命尊重あるいは人間尊重ということは、立法政策の問題としては刑を重くするという方向ではなしに、自賠保険等に象徴されているあらゆる交通安全施策を行なっていくという方向に、私は刑事政策の面においてもそういう配慮がなければならない。私たちが強く反対をいたしますのは、安易に刑を引き上げるということをなすならば、全体としての交通事故の防止に役立たない、こういうふうに私は考えるわけです。しかし、いずれにいたしましても、立法政策上、はたして刑罰というものを上げたことがイタリアの例等をとりましても、少しも事故の減少には役立りていないんじゃないでしょうかという点につきまして、瀧川先生古西先生にお尋ねをいたしたいと思います。特に玉井参考人には、被害者感情の充足ということは、禁錮三年よりも禁錮五年といったほうが、被害者感情の充足になるだろうということは言えるかもしれないけれども、被害者の救済ということを放置した、被害者感情を国家権力によって充足させるというようなことは、結局加害者を刑務所にほうり込むという形において、一つの強制保険等による補償を支払わない、非常に低額に押えておく、要するに補償のお金はあまり入らないけれども、加害者が刑務所に行ったんだから満足しなさいというふうな、そういうふうな本末転倒した現象を生ずるのではないか、そういうことのように思いますけれども、この点についてひとつお答えをいただきたいと思います。
  40. 瀧川春雄

    瀧川参考人 お答えになるかどうかわかりませんが、いま御指摘のフランスが一番軽い、ずば抜けて軽い、それにいまイタリアが一番重くて、そして日本、ドイツというような順序になっておるということでございますが、この刑罰が重いところがかえって事故が多いということをいまお聞きしたわけでございますが、ただこれは私自身ドイツに一年余りおりまして、その経験では、やはり道路その他、それは非常によくできております。そしていろいろの施設も日本よりもはるかによろしゅうございます。そして国民全般のルールを守る意識といいますか、そういうものも群を抜いてわが国よりもよろしゅうございます。そういうふうな点から見ますと、たとえば、一般刑罰法規にいたしましても、あるヨーロッパの国がこうなっておるから日本は同じにしなきゃならないとか、あるいは日本が重過ぎるとか軽過ぎるとかいうことは、これはその国の事情によっていろいろ立法の問題は変わってくるんじゃないかと思います。そこで、いまのフランスが軽い、そしてイタリアが重いということでございますが、これはフランス人とイタリア人とのいろいろ法規に対する意識、また施設関係、そして事故の関係、そういうものと関連をしていろいろ国情が違うので、刑罰の多寡に差があるんじゃないかと思います。したがいましてわが国の場合、刑罰を重くしたからといって、決して交通事故の防止には役立たないといういま御意見でございましたが、私も刑罰を重くするということが直ちに交通事故人身事故の防止というものに直接役に立つというふうには考えておりません。いろいろしなきゃならない問題はたくさんあると思います。ただ、こういう業務過失致死傷という問題に対しての現在の日本における状態、その状態に対する法の評価、それが従来の三年というものでいいのか、それともやはり引き上げるべきであるか、そういう問題じゃないかと思っております。したがいまして、たまたまイタリアが刑罰が重いのに事故が多い、フランスが刑罰は群を抜いて軽いのに事故が少ないということは、これはいろいろその国の事情による差であると思いまして、ただ刑罰そのものに直接関係があるとは私は考えておりませんし、またイタリアがなぜそれだけ重くするかということになりますと、ヨーロッパの諸国のうちで確かにイタリアはドイツ、フランスに比べますと、一番文化の程度が、私は意識の点でもやや劣っておるのじゃないかという感じがいたします。そういう点からの取り締まりということで刑が重くなっておるという、国情による違いじゃないか、私はそういうふうに考えております。
  41. 古西信夫

    古西参考人 実は、言うなれば、お答えになるようなことは私の意見という形で先ほど申し上げたわけなんですけれども、念のため結論的に申し上げておきますと、私自身が大学時代に樫田教授から教えられたところの犯罪心理学的な観点から、かえって罰則強化は事故が増大化するというふうな傾向になるのではないかという点を、先ほど申し上げたというわけでございます。  そしてその点に関連して、若干なおつけ加えて申し上げておきますと、先ほどもNHKの交通問題研究班が追突という特集をやって、いろいろまさに科学的な交通事故原因追及ということを行なったという趣旨の発言をしましたけれども、実はそのNHKの交通問題研究班がその追突という特集のテレビ番組を組んだ最後の結論として、先ほど私が引用しましたけれども、ワールド・ヘルス・オーガナイゼーションの国連の専門機関がパブリック・ヘルス・ペーパーという形で発表したところの事故白書というふうなものの内容を、NHKとしての最後の結論として引用しているということで、若干その点を説明しておきますと、「交通事故による死傷者は文明国ではどんな疫病よりも多い。このまま進めば世界は、交通事故という名の疫病によってほろびてしまうだろう。それに対して、あらゆる科学の協力によって」、ここが大切だと思うのですが、「あらゆる科学の協力によって対策を立案すること、それは文明国の責任である。」というふうなことを言っている。このこと自体は、実は裁判所という司法機関によるところのいろいろな罰則強化とかなんとかということによって交通事故原因というものは追及できないし、そうして交通事故そのものを根絶することはできないということを物語っている一つの示唆的なものではないだろうかということで、これはNHK自身の結論的なことばとしての引用ではありますけれども、私自身としてもそれを引用さしていただきたい。  そしてそれと同時に、若干つけ加えておきますと、確かに交通事故というものは、すなわち疫病である、伝染病であるということと一つのイコールだという形についての問題点をまだなお究明しなければならないと思いますけれども、その態度というか、総合的な、科学的な観点から究明しなければならない伝染病に対して、お医者さんがいろいろその伝染経路その他について究明されるそのものの考え方、あるいは総合的な、科学的な分析のしかたというものが、まさにわれわれとしては学ばなければならないという意味、内容において、このWHOの事故白書という先ほど申し上げた結論というものをよくかみ合わして考えるとするならば、言うならば、罰則強化というものについては、事故の根絶ということにはならないのだという答えとして引用さしていただきたいというふうに思います。
  42. 玉井義臣

    玉井参考人 刑罰事故率の関係でありますが、これは瀧川先生もおっしゃいましたように、ほとんど関係ないのじゃないかと思われます。たまたまそういう数字になったのではないかと思うのでありますが、日本で非常に事故率が高いといいますのは、道路が発生史的におくれている。おくれているというよりも、もうほとんど自動車交通に合わないような道路であったというところに、こういう高い事故率になっているのだと思います。このほかの国につきましては、やはり道路の歴史とか自動車自体の歴史とかあるいは若干の国民性とかいうものが多少の違いを生んでいるんじゃないか、こういうふうに考えます。特に日本でこの刑罰を強化しなければならないと私が思いますのは、道路条件が非常に悪いために、歩行者事故が欧米先進国に比べまして非常に高い点であります。いわば欧米の自動車先進国では事故につながらないようなちょっとした不注意が日本では事故につながる。この点において、日本ではますます運転者に強い責任が課されなきゃならぬのじゃないか、こういうふうに考えるのでございます。  強制保険につきましては、フランスのほうはおそらく上限のほうを出しているんじゃないかと思うのです。事故率と強制保険の関係を見ますと、特に日本は低いのでありますが、これは日本で保険制度、保険思想が非常におくれておりましたために、何回かの引き上げをやりましたにもかかわらず、いまだにこのように低い。いま両国の国民所得はおそらく二対一ぐらいの関係じゃないかと思うのでありますが、いずれ近い将来に、フランスまでもまいらないかもわかりませんが、西ドイツあたりの水準にはなるんじゃないか、こういうふうに考えております。  それから、あとの点でございますが、恐縮ですがもう一度……。
  43. 中谷鉄也

    中谷委員 それでは重ねてお尋ねをいたします。  もう一度瀧川先生にお答えをいただきたいと思いますが、要するに、われわれ国政に参加している者として、イタリア並み、イタリア寄りというふうなことは、非常に残念なことなんです。逆に申しますと、先ほど先生のお話にちょっとありましたように、西ドイツに比べてイタリアは文化的な程度が低いんじゃないか、そういうようなこととも関係があるというふうな趣旨のお話がありました。われわれは文化国家をつくろうとして懸命に努力をしている。そういうふうな文化国家をつくろうとしているわれわれが、文化的な水準の低いイタリア寄りのような刑の引き上げ、少なくともそのようなかっこうの状態になるということは、非常に刑の威嚇主義ということだけが前面に出て、そうして、生命尊重、人間尊重などという、自賠法に象徴的にあらわれているようなその他の施策というものが行なわれていない。たとえば、先ほど玉井さんのほうが御指摘になりました、道路を中心とする施設等がよくないということは、過失程度を軽減する情状になることだろうと私は思うのです。そういうことは前提としてありながら、道路が悪いということは、逆に言うと、注意義務を尽くしにくいということなんです。にもかかわらず、道路をよくするということに全力投球をするのではなしに、そういう状態について刑を上げようという政治の姿勢と方向、刑事政策、立法政策全体が非常に危険なものを持っているのではないかということを私は指摘いたしたいのです。その点について重ねて御答弁をいただきたいと思います。  玉井さんに私がお尋ねをしましたのは、こういうことなんです。被害者感情の充足ということは大事なことだと思いますということをまず前提として申し上げました。したがって、刑をより高く科することによって、加害者が刑務所に入ったということについての被害者被害者感情の満足を得るということは、私は否定をいたしません。ただしかし、自賠法等にあらわれたきわめて低い状態に金額を押えて、被害者救済をお留守にしておいて、被害者感情の充足だけをはかるということは、逆に言うと、被害者に対して加害者を刑務所に行かしたのだよということで、その他の被害者救済がお留守になるのではないかという傾向が出てくるおそれを私は感じますということを申し上げたのであります。これらの点について、特に交通事故被害者のお一人として、ほんとうの被害者保護、被害者救済というものは一体何だろうかということについて玉井さんのお答えをいただきたい、こういう趣旨でございます。
  44. 永田亮一

    永田委員長 中谷君に申し上げますが、十二時五十分から総理大臣が出席いたしますので、参考人に対する質疑時間を割愛願います。
  45. 瀧川春雄

    瀧川参考人 ただいまイタリア並みということを申されたわけでございますが、刑罰の点から申しますとドイツ並みでございます。一日以上五年以下という軽懲役でございます。これはたまたまドイツ並みになったということでございまして、この意識というもの、いわゆる過失責任要素としての過失注意義務という問題においては、現在のいろいろな人身事故を見ますとかなり低いものがあるのではないかと思われます。これは残念なことでございますけれども、私は事実であると認めざるを得ません。その意味で、いまおっしゃいましたようないろいろな施策、文化的に向上させる施策は、あらゆる面から御努力いただくというのが当然であると私は思います。と同時に、この責任要素としての過失というものに対する注意義務という点におきまして、現在のわが国において、従来の二百十一条のままでいいかどうかという法の評価の問題であると私は考えております。ただ、その刑の引き上げだけがすべての問題に結びついておるというのではなくて、いわゆる過失犯というものに対する責任要素としての過失注意義務というような問題のあり方というものは、やはりわが国においては改正したような線に引き上げて評価されるのが妥当ではなかろうか、こういうふうに思うわけでございます。
  46. 玉井義臣

    玉井参考人 私は、この刑の引き上げと自賠による保険金の引き上げは別個に考えるべきではないかと思っております。現時点では、確かに自賠のほうの保険金は低いのでありますが、漸次高額化するに及びますれば、中谷さんのおっしゃるような心配はないのではないか、こういうふうに考えます。
  47. 永田亮一

  48. 岡沢完治

    岡沢委員 瀧川先生にお願いいたしますが、先ほど古西先生が刑法百十七条ノ二と今度の二百十一条とのアンバランスについて御指摘がございましたが、この辺について先生はどういうふうな御見解をお持ちであるか、お伺いいたします。
  49. 瀧川春雄

    瀧川参考人 ただいまの失火罪の問題とのアンバランスの問題でございますが、ただ、失火というものの現在置かれておる発生状況、それによる、事故による致死傷の問題というものと、おもに交通事故というものにおける中心は自勤車になるわけでございますが、そういうものとの発生の状況は、もううんと事情が違うと思います。その点と、もう一点は、非常に密接に人身事故につながっておるというこの点におきまして、ある程度の刑のアンバランスはやむを得ないのじゃなかろうか。それは失火というものの現在の発生状況、この現象の形態と業務過失致死傷というものの発生の現象形態が、やはり質的にも量的にもずいぶん違うという点で、もちろん論理的にはアンバランスがございまして、それは法全体としては是正することが望ましいかと存じますけれども、だからといいまして、失火をそのまま引き上げるという単純な論理ではまいらないと思います。その意味で、私は、ある程度のアンバランスはやむを得ないのじゃないか、そういうふうに考えております。
  50. 岡沢完治

    岡沢委員 私の質問時間が、御答弁も含めて七分しかございませんので、かってでございますが……。もう一点、瀧川先生に。他の委員もちょっとお聞きになったことではございますが、先生の御意見で、軽いものが重くなるのではないという御解釈、いま御指摘がございました。しかし、われわれ実務家としましては、一番心配なのは、上限が上がることによって業過事件として全体がやはり引き上げられるのではないかという実際の実務的な心配がございます。そういう点について、もちろん裁判をなさったりあるいは求刑をなさるのは検察官なり裁判官でございますので、学者の先生に御無理かもしれませんけれども、それを先生のような御解釈が正しく運用されるために、たとえば刑法のほんとうの権威者である先生から、今度の場合、この二百十一条の改正と業過事件法定刑一般引き上げとは無関係だということをわれわれとしては附帯決議でつけるつもりではございますけれども、学者の立場から何らかそれをチェックするような方法なんかもお考えいただけるか。たとえば刑法学会の問題として取り上げていただけるかという、そういう点について、一番心配な問題でございますので、御意見を聞かしていただきたいと思います。
  51. 瀧川春雄

    瀧川参考人 ただいまの全般的な引き上げになるのではないかという御心配でございますが、これはもう先ほども何度も申し上げましたように、罰金刑は全然動かしておりません。ただ、一番上限のところだけを懲役刑禁錮刑というところで動かしておるというところから、一番問題になるのは上が問題になるということでございますのと、それからやはり過失犯というものに対しましては、伝統的な考え方といたしましては、これは禁錮刑ということになっております。したがいまして、懲役刑をここへ同じように書いたとしましても、常に原則的に懲役刑が科せられるということには、私はならないと思います。これはあくまで悪質なものに対する例外的な措置である、こういうふうに私は考えております。それと、裁判官がこの判決をなさるわけでございますが、これは先ほども申し上げましたように、やはり裁判官としてはそういう点は御承知であろうと思いますし、また、裁判官はそれぞれ独立の立場でおのおの自己の判断に従って判決なさるわけでございます。したがいまして、地裁の判決と高裁の判決、最高裁の判決というものが、食い違う場合も出てくると思います。それはそれぞれの裁判官の独自の自由な心証によって得た判断によって出てきた結論であると思いますので、もしいろいろな点が心配であるということになりますと、もうそういうふうな裁判自体が非常に心配であるということにならざるを得ないのではないかと私は思いますので、この点は先ほどから申し上げましたように、上限においてこれはチェックされるべき問題である、悪質なものに対してチェックされる問題であると思います。なお、この点につきましては、いずれ、私も将来のことはわかりませんが、刑法二百十一条の一部改正というふうなことが論議に上がりますれば、当然学会その他でも問題になることであると思いますし、私はいま申し上げましたような考え方を、また機会がありますれば発言したり書かしていただくということはいたすつもりでおります。
  52. 岡沢完治

    岡沢委員 それでは古西先生に二点お尋ねいたしたいのでございますけれども、先生最後の意見として、重大悪質な犯罪者に対しては過酷な刑を科することには反対ではないということをおっしゃいました。そうすると、この改正はまさにその重大悪質な犯罪者を対象にして上限を上げるということでございますが、先生はどういう方法でその重大悪質な犯罪者に対して科刑を上げることに賛成だとおっしゃることを実現されようとされるのでございますか。
  53. 古西信夫

    古西参考人 その点は先ほど大竹委員のほうからも質問があった点なんですが、実はそういった悪質犯がいわゆる未必の故意だという形で故意犯として起訴できるではないか、そしてそのこと自体の事案としての事例が、すでにこの法務委員会事務局から送られておる資料の百四十七ページ以降に三十二件にわたって紹介されているということで、まず第一には未必の故意という故意犯で消化できるだろうということの意見を、私としては感じております。
  54. 岡沢完治

    岡沢委員 これで終わりますけれども、古西先生にもう一点。いまの未必の故意というものと認識ある過失との問題でございますけれども、こういう事故を起こす人は、好んで人を傷つけようとか、あるいは殺そうというようなことはまずないと考えます。まあ刑法の専門家に私からこういうことを申し上げるのは恐縮でございますけれども、未必の故意の解釈というものにつきまして、そう拡大的になされるべきではないと思います。そうしますと、考えられるのはむしろ認識ある故意の場合が多いわけでありまして、そういう点からいたしますと、先生の未必の故意でまかなえばいいという考えは、ちょっと私としては納得できないのでございますが、その辺について御意見を聞きたいと思います。
  55. 古西信夫

    古西参考人 私の意見としては、先ほどから申し上げているように、少なくとも悪質犯といわれているようなものは、すでにもう未必の故意で起訴できる事案ではないかということ。その未必の故意に至らないような事案については、言うならば道交法だとかいうふうな形での規制のしかたもあるし、そしてわざわざ現行法改正するということが、実はこの自動車事故に関するものだけではない、先ほどから武見先生などが医療過誤の問題について言われておりますけれども、医療過誤の問題は医師法だとかなんとかをかりに改正したとしても、少なくとも現在の場合の裁判官の、言うなれば注意義務についての裁判所の傾向というものは、かりにそういった法律があっても、裁判官として自由心証的に注意義務があるかどうか、専門的な立場での注意義務があるかどうかという形で判断されているがゆえに若干問題があるということなどを考えているがゆえに、実はそういう考え方を私としては持ったということです。
  56. 岡沢完治

    岡沢委員 時間の関係で終わります。
  57. 永田亮一

    永田委員長 山田太郎君。
  58. 山田太郎

    ○山田(太)委員 私は、本法案の改正にあたっては、人命尊重の立場から、それを重視して考えていく立場をとっている一人でございます。そこで、先ほど述べていただきました御意見の中で気にかかる点がありますので、その点を瀧川先生玉井先生、それから古西先生にお答え願いたいと思います。  先ほど古西先生の御意見の中で、罰則を強化すれば事故防止のかえって逆になるのじゃないかと、たとえば故意犯による有罪、ひき逃げ犯罪の事例をあげてお述べになりましたけれども、そのひき逃げ犯罪的な事例をかえって助長するようになるのではないか、これを一例にとってあげられたわけでございますけれども、これはゆゆしい問題だと思います。古西先生の御意見によるとそのようなお話でございますが、瀧川先生玉井先生と、あわせてもう一度古西先生にお話し願いたいと思います。
  59. 瀧川春雄

    瀧川参考人 古西先生のほうから、先ほどの御意見で、悪質犯を醸成するのではないかという御意見がございましたが、私はむしろそれは捜査能力その他の問題でございまして、パトロールその他そういうものの発見ということに科学的な配置なり施設を設ければ、醸成するということは私は考えておりません、別問題であると考えております。
  60. 玉井義臣

    玉井参考人 罰則強化によって悪質犯罪がふえるということは、ひき逃げに関してはその可能性があると思われます。しかし、瀧川先生がおっしゃいましたように、それは捜査の万全を期すことによってある程度防げますし、本案改正によって得られます功罪を比較すれば問題にならない、かように考えております。
  61. 古西信夫

    古西参考人 実はその点は先ほど来私がいろいろ申し上げているように、私自身が樫田教授からお教えを受けたところの犯罪心理学的な観点から、特にひき逃げ的な事案が醸成されるということになるのではないだろうか、そしてその点を若干裏書きするような形での、けさの朝日新聞の記事内容を御紹介申し上げたわけですけれども、実は法務委員会が出されているところのこの資料の百四十七ページ以降に、言うなれば故意犯として有罪とされた事例が、まさにその適例ではないだろうかというふうに私は考えております。警察官自身がそれを阻止しよう、あげようという形で阻止した。それに対して、その警察官を、言うなれば殺すような、殺人未遂ないしは殺人を行なうような形での意思のもとに自動車をぶつけてきたとか、あるいは逃げ出そうというふうなことが起きているということは、まさに私が申し上げているようなことを裏書きするのではないかというふうに考えて、そういう意見になったということです。
  62. 山田太郎

    ○山田(太)委員 もう一点古西先生にお伺いしますが、罰則を強化することによって事故防止のかえって逆になる、ひき逃げ犯を例にあげられたわけですけれども、これはひき逃げ犯だけのことについてでございますが、ほかのことについてはどうでございましょうか。
  63. 古西信夫

    古西参考人 実は、私自身が説明申し上げたのは、一応その三悪の中のひき逃げという点についてだけ、犯罪心理学的な観点からという問題で提起をしたということで、ほかの点についての、高速スピード違反だとかあるいはその他の酔っぱらい運転だとかいうことについては、これは問題外ではないだろうかということを、一応私現時点ではそういうふうに考えているということです。
  64. 山田太郎

    ○山田(太)委員 時間がありませんので、もう一点だけ古西先生にお伺いしたいと思います。これは、ことばは行き過ぎかもわかりませんけれども、罰則を強化することによって事故防止はできない、事故防止での価値はないという先生の論点があると思いますが、そうしますと、逆説的に言いますと、しろうと考えで恐縮でございますけれども、罰則を軽くしたならば、かえって交通事故を防止するのに役立つという意味にもとれるのでございましょうか。あるいはそれは全く別問題でございましょうか。その点をお伺いしたいと思います。
  65. 古西信夫

    古西参考人 結論を申し上げますと、実はそれは別問題だということです。なぜならば、実は過失犯そのものについての罰則を強化しても、ナンセンスだということです。なぜならば、過失犯人そのものは、そのことが悪いことだということについての意識そのものがない、それがまさに過失犯だということですから、それに対して幾らおまえの行為がいけないのだというふうな形でいったところで、実はナンセンスではないだろうかというふうな考え方を持っているがゆえに、そういう私の考え方になったということです。
  66. 山田太郎

    ○山田(太)委員 もう一点あるのですが、軽くするほうはどうでしょうか。
  67. 古西信夫

    古西参考人 だから、そういう意識で言うならば、結局重くしようと軽くしようと、過失犯というものについての関係では無関係という関係が出てくるのではないだろうか。そしてその意味では、私自身が先ほど来申し上げているように、WHOの事故白書などに出てきているような総合的な科学的な観点からの分析ということによっての事故をなくすという方向での問題が、むしろ正しい方向になっていくのではなだろうかという考え方を持っているということです。だから、端的に言うならば、法務委員会の今度の改正案の提案理由の中に、最近の交通事犯の実情にかんがみ云々というふうな文言になっているがゆえに、若干問題があるのではないかということが、私の結論だということです。
  68. 山田太郎

    ○山田(太)委員 もう一点だけ瀧川先生に。いまの御意見に対してどうお思いになるでしょうか。
  69. 瀧川春雄

    瀧川参考人 私は先ほども申し上げましたように、責任要素としての過失注意義務という点をやはり問題にいたします。したがいまして、主観的な行為者の心情というもの、これは考えられると思います。したがいまして、当該行為者が意識を緊張させることによって違法な結果というものを予見すべき義務というものは、やはりあると思います。具体的な事情から申しまして、こういう注意義務を尽くしておるならば、そういう結果の認識は可能であったろう、それゆえに違法行為のかわりに適法行為が期待せられたはずである、にもかかわらず、不注意のために違法行為に出たときに、刑法上の過失責任というものがある、私はそのように理解しております。したがいまして、この注意義務違反というものが刑法上の過失責任を特徴づけるものであるという前提に立ちますれば、刑法が違法な結果を過失によって惹起したものを処罰をするという旨を規定しておりますのは、これは人に対して当然その当該結果を発生せしめないために意識を緊張させるということをやはり要求して、またそれを期待しておる、こういうふうに考えられます。したがいまして、過失犯というものには全然そういう意味での心理的な効果がないかといいますと、私は理論的にはあると考えております。
  70. 永田亮一

    永田委員長 松本善明君。
  71. 松本善明

    ○松本(善)委員 時間がありませんので、賛成の代表的な意見であります瀧川参考人だけにお聞きしたいと思いますけれども、一つ古西参考人も一億総犯罪者ということばを使われました。それから玉井参考人も、この道交法過失致死傷事件というものが、刑法犯の大半を占める時期がきているというようなことです。この委員会の審議では、法務省はすでにこれが刑法犯の半分以上になるということを報告しております。そういうふうになっておりますことは、刑の威嚇的効果がなくなってきているということの一つの証明ではないかと私は思いますけれども、こういうふうに事件そのものは多くなっておりますけれども、一台当たりの事故数といいますのは、警察庁の報告によりますと、激減をしておるわけです。一台当たりの事故数というものは激減をしている。全体としてはずっとふえておりますけれども、そういう状態になっている。これは当然交通安全対策というものを個人の責任あるいは処罰ということに求めるのではなくて、やはりほかの安全対策というほうに求めるというのがほんとうではなかろうかと思いますが、瀧川参考人の御意見を伺いたいと思います。
  72. 瀧川春雄

    瀧川参考人 先ほどから何度も申し上げましたように、私といたしましては、交通事故対策という政策的な面におけるいろいろの問題、道路整備はじめいろいろの問題は、これはもう当然なすべきである、またこれが緊急の解決の方法であると思います。ただ、その場合に、現在の状況における人身事故において刑法犯としての評価が、いわゆる法の意識といいますか、法の評価として従来のあの法定刑の基準が妥当なのかどうか、私はこういう評価の問題であると考えております。
  73. 松本善明

    ○松本(善)委員 もう一点だけお聞きしておきますが、瀧川参考人、外国の、特に社会主義国の立法例をいろいろあげられましたけれども、先ほどの質問のときに、フランスあるいはイタリアの問題が出ましたときには、各国の実情によって考えるべきだということを言われました。まさにそうです。社会主義国におきましては、交通労働者の労働条件も日本の状態とは全然違った状態である。これをただ比較をして論ずるというのは正当ではないのではないかと思いますが、いかがでごさいますか。
  74. 瀧川春雄

    瀧川参考人 いま仰せのとおりだと思います。ただ、表面に出ておりますいわゆる刑罰上限の年数でございますが、それを御参考までに申し上げましたので、これが全部高いから日本も高くしなければならないということを申し上げたんではございません。ただ、いろいろの国で事情によってはかなりこういうふうな立法例をとっておるということを申し上げただけでございます。
  75. 永田亮一

    永田委員長 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ、貴重なる御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。     —————————————
  76. 永田亮一

    永田委員長 それでは引き続き本案に対する質疑を行ないます。横山利秋君。
  77. 横山利秋

    横山委員 実は私に許された時間は九分でございますが、猪俣さんの質問の関連質問を含めてお願いします。総理に時間の関係上、端的に三点伺いたいと思います。  いま参考人の皆さんの共通した意見として、五人の参考人が、本案賛成、反対はございますけれども、この刑を重くするだけでは事故防止にならぬ、こういう点は全く一致をしておるわけであります。こもごもお話しになる様子を考えてみますと、政府がなすべきことを十分に交通安全対策でなしていないという反論が生まれてきておるようであります。私の考えるところをもちましても、道路がどんどんできる。できるけれども、ガードレールはあとからつける。人が死ねば陸橋をつくる。あるいはまた事故があれば信号灯をつくる。こういう道路が、まず人命尊重という角度が伴っておらないというところが指摘される。それから武見先生がいらっしゃっておるんですが、武見先生は交通安全国民会議委員であります。私が交通安全国民会議を調べてみましても、結局鳴りもの入りで発足をしたけれども、実際問題としては単なる陳情機関、話し合い機関で、最初のものの考え方が十分に実行されておらない。それから私どもの党はすでに国会へ交通安全基本法案を出したけれども、政府並びに与党側は十分それに対して反応がない。そういう金のかかること、またやろうとすることについては、非常に消極的である。これらの交通安全の基本について、政府は言うばかりで、実際はなしていないではないかという点が、私の第一の問題であります。  それから第二番目の問題、これは法務大臣もよく聞いておいてもらいたいのですが、やはり参考人の中でも議論になりましたけれども、この法律は悪質犯を規制する、悪質の犯罪を重くするだけだと言っているのだけれども、実際問題として交通事故の犯罪全般の量刑を引き上げる結果になる、こう言っておるわけです。それで、それではいかぬではないかという点についてもまた、参考人意見は、言い方は別々でありますけれども、一致をしておるわけであります。裁判官にわれわれが影響させることは実際問題としてできない。しかりとするならば、検察当局あるいは警察当局にこの趣旨が一体政府として徹底させられるのかどうかという点が、第二番目の質問したい点であります。  第三番目には、やはり質疑を重ねてきたんでありますが、救急医療に対しては非常に各府県まちまちである。国も救急医療について経費を国庫支弁をして、救急医療に対して全力をあげろと私は言っておるわけでありますが、経常費の負担についてはまだ大蔵省がうんと言わぬと、こう言っておるわけであります。消防と警察とそれから医療、三つが現場でかち合って、何が一番大事か、事故原因が大事か人の命を助けるのが大事か、そういうような問題で行政が区々にわたっておるわけであります。何はともあれ、救急医療に国が公的機関で本腰を入れる、経常費をもって救急医療体制、応急医療体制を整備することが、今日の重要な課題であるという点についても、委員会で強く指摘をされた点であります。総理並びに法務大臣に対して、この点について御意見を承りたいのであります。
  78. 佐藤榮作

    ○佐藤内閣総理大臣 最近の交通事故、これはほんとうにいわゆる交通戦争というその表現がされるように、不幸な犠牲者をたくさん出しておりますが、政府は、ただいま御指摘になりましたような人命尊重、そういう立場に立ちましてこれと真剣に取り組むという態度でございます。しかし、この問題は政府だけがどうこうするという問題ではなく、また国民すべての各界各層の御協力を得なければ、これは目的を達するものではございません。  そこで、政府がいままでとってまいりましたものは、すでに御承知のことだと思いますが、国民総ぐるみ運動を展開する、そうして各界各層に呼びかけ、その基本的な政府の考え方の方針、それに協力を得て進めていこう。その基本的な問題は一体何なのか。今回のような刑法の不備の補強、そういうようなこともございますが、何よりもまず第一に安全設備、これを十分しなければならない。これは予算の関係でずいぶん拘束を受けます。これは信号機あるいは跨線橋、いまのガードレールその他の問題にいたしましても、そういう意味でこれをいろいろ進めております。ことにまた、国会におきまして、皆さんから通園、通学児童の保護のために特別に考えるべきだ、こういう総ぐるみ運動の一環としての御協力もございますから、すでに立法措置がとられ、設備の増強がはかられておる。またさらに、交通秩序、これができ上がらなければなりません。そういう意味では、ダンプカーその他特殊なものについて、この運転規則その他を強化するとか、こういうような特別な責任も負わしておるようであります。さらにまた、一般の教育の普及、安全教育についてさらにこれをすること、さらにまたただいま御指摘になりましたように、救急医療施設が非常に不十分だ。したがって、これを整備充実する。ことに脳神経系の外傷等が非常に多いのでありますから、そのほうのお医者さんも弱いし、病院における諸施設もそういう点では劣っておる、こういうことで、これも特に力を入れておる問題でございます。また、後ほど出てくるだろうと思いますが、政府が今日までやっておりますのは事故の処理、それがただいまのような問題だけじゃなしに、賠償その他ももっとスムーズに行なわれるように、こういうような被害者の救済、こういう面にも十分万全を尽くそう、こういうことでただいまの国民総ぐるみ運動を展開いたしております。そうしてだんだん国民の関心も深まってきておりまして、政府自身もこの予算的な措置につきましては、今回など引き締め予算だとはいいますが、交通安全のための緊急施設、そのための予算はひとつ積極的に出そうじゃないか、こういうようなことで整備をしておる次第でございます。  この法律自身が万全でない、これはただいま御指摘のとおりであります。いま申し上げるような各種の施設と総合的に、しかも国民全体の問題として総ぐるみ運動を展開して、初めて近代的な交通戦争を勝ち抜くことができるのじゃないか、かように思っておりますので、その方向で努力するつもりでございます。
  79. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 この二百十一条の刑法改正をやると、すべての違反者の罪が重くなるのじゃないかという御心配の御質問でございますが、私たちはさようには考えていないのであります。いままで三年以下の禁錮であったのが、今度は五年以下の懲役または五年以下の禁錮というふうに最高のところは上がっておりまするが、最低のところは一つ法律には変更がないのであります。一般のものまで刑を引き上げるというような考えは、毛頭みじんございません。ただ、乱暴な運転をやるとかあるいは非常な不注意によって人命を損じたというようなものにつきまして、刑の幅を三年を二年上げて五年にするということは、これは私は非常に大事な、当然のことに考えます。御質問にありましたように、このおかげで一般の軽いものまで総括して全部罪が重くなるのじゃないかというようなことは、全然考えておりません。施行にあたりましては十分注意をいたしまして、すべてのものが重くなるようなことのないように十分な配慮をいたすつもりでございます。御了承願います。
  80. 佐藤榮作

    ○佐藤内閣総理大臣 ただいま法務大臣からお答えいたしましたように、いわゆる悪質犯を取り締まる、そういうところがねらいでございますから、正当なる業務を遂行し、そういう事故の起こらないように万全を期したけれどもやむを得ずして起きたというような情状酌量というようなことは、十分考慮されるべき問題だと、私かように考えておりますので、それらの点については、法務省からも立法の趣旨をよく関係の当事者には知悉してもらうようにいたしたいものだと思います。
  81. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 関連して。私は実は長男を自動車事故で即死させまして、精神的ショック大なるものがあったのです。自来裁判をいたしましたが、十三年かかりましてようよう解決いたしました。しかし、貨幣価値は全く違ってしまっておるわけであります。私は弁護士もやっておりまするので、損害賠償、慰謝料の請求を多く頼まれておりますが、どうも実例は、せっかく裁判をやって判決が確定しましても、加害者が全く資力がなくて弁償を受けることができない。その弁償を受けることができないために一家の生活も成り立たぬというようなこと、これは新聞にあらわれましたように、加害者も貧しく、被害者も貧しい、両方自殺者が出ているという社会状況であります。そこで私が総理大臣にお願いしたいことは、いま強制保険制度がありますが、死亡して三百万円、けがしたような場合にはずっと少ない。ところが、けがしたような場合において、一家の働き手が後遺症か何かで——その当時はよくて示談をしてしもうて、これ以上何にも請求しませんといって、あとから後遺症が出てどうにもならぬということが多々あるわけであります。なったとしても、加害者に支払い能力がなければどうにもならぬ。  そこで二点。一点は、強制保険の三百万円を、いわゆる上限をもっとふやす心持ちはないか。刑罰ばかりふやさぬで、そういう賠償金のほうも少しふやすお考えがあるかないか。第二点は、たとえふやしても、十分に被害者の救済ができない、また加害者にそういう資力もない、善意があっても資力がないという場合において、社会保障の意味におきまして何とか国家がその被害者のめんどうを見てやることができないだろうか。私は、考え方によってはできると思うのであります。これは大きな国の政策で、総理大臣でないと責任ある答弁を伺えないと思いますので、この二点について総理の御所信を承りたいと思います。
  82. 佐藤榮作

    ○佐藤内閣総理大臣 私は、損害保険、現行上限三百万円、これはさらに皆さん方の御意見によりましてもっと上限を上げるべきではないだろうか、かように思います。もちろんそれも、常識を飛び越しても困りますが、皆さん方の御審議によっては適当な金額がきまり得るのじゃないか、かように思います。  第二の問題といたしまして、猪俣君も御長男をなくされたということですが、おそらく皆さん方も大なり小なりいまの自動車事故にぶつかっておられるのじゃないかと思います。私自身事故を起こしたことはございませんが、車をぶつけられて、私のほうもむち打ち症にでもなるのじゃないかと心配したことがある。そういう場合に、ただいま御指摘になりましたように、自動車の故障、こわれたところを直すその話し合いでも、なかなか相手が乗ってこない。このことを考えますと、それはなくなられた方は、さらにいろいろな社会的地位等も違いますから、そういうことでお話しになると、たいへんむずかしい状況だろうと思います。とにかく加害者、自動車、まあトラック業者ですが、こういうものは資力、信用がなかなかないものですから、ずいぶん不都合なものが起こる。したがって、この事後処理——もちろん事故が起こらないようにまず第一はしなければなりませんが、やむを得ず起きた事故は、あと被害者も一応納得がいくというか、しんぼうされる程度にまで話がつくように、先ほどのように、せっかく訴訟はしたが、たいへん長い期間かかった、こういうようなことがあってはならないと思います。そういう意味で、この被害者救済の、病院の話はさっきいたしましたが、訴訟の問題等につきましても、特に早期解決するような問題はないだろうか、あるいは示談を進める方法はないだろうか、等々をいろいろ勘案しておるわけでございます。もちろん実情を訴えられれば、政府自身もそういう方の御相談に応ずる、こういうような処置もとっております。しかし、ただいま言われるように、被害者のその状況を何か社会保障的に考えられないか、こういうお尋ねでございますが、これは程度の問題も非常に相違いたしますので、まだそこまでなかなか踏み切れないのじゃないだろうか。今回ようやく原爆につきまして、皆さん方の御協力で超党派的に原爆被災者の保護の問題、補償の問題、療養の問題がきまるようでありますが、まだ交通事故被害者、そのほうはちょっとそこまでいきかねるんじゃないだろうか。これはやっぱり個々の、対々の、加害者と被害者とのその関係がスムーズに解決されるように政府は考えるべきじゃないだろうか。だから、先ほど第一問として損害賠償の総額の上限をもっと上げたらどうかということとも考え合わせまして、解決の方向へ進みたいと思います。
  83. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 終わります。
  84. 永田亮一

  85. 中谷鉄也

    中谷委員 簡単に二点だけお尋ねをいたしたいと思います。  一つは、昭和四十二年度の交通事故による死亡者の数が一万三千六百十八人、先ほど総理が御答弁になりましたように、文字どおり交通戦争であろうと思われます。しかも、そういう交通事故死者の数が鈍化の傾向を若干見せたことはあるけれども、負傷者においては増加している。なかなか減ってこない。そういうふうな中で政府としては交通安全基本法を提案されるわけですけれども、長期計画をこの機会に樹立さるべきではないか。特に事故防止に関する目標を設定さるべきではないか。別のことばで申しますと、年次計画を立てて、昭和四十二年に一万三千六百十八人の生命が失われているけれども、来年はこのくらいひとつ死者の数を減らしていくんだと、絶滅を理想としてそのような年次計画を含んだところの目標設定をすることが、交通事故防止について国民的な支持と協力を得る道だと私は思うけれども、この点についてまず一点お尋ねをいたしたいと思います。  第二点として、私がお尋ねをいたしたいのは、いわゆる青ナンバー、外交特権を持っている青ナンバーの事故率というものが、東京において普通の自家用の車の三倍ということになっている。これは青ナンバーの車については裁判をするわけにはいきませんけれども、事故を起こしていいといういわれは絶対にないわけです。この問題について、そのような傾向がここ数年来指摘されているにかかわらず、外務省は適切な措置をおとりになったというふうに私は思いません。したがいまして、このような青ナンバーの問題、いわゆる外交特権の上にあぐらをかいて事故を起こしているというようなことが万一にもあるとするならば、これは法秩序の上からいってもきわめて遺憾な状態であると私は思う。こういう問題について、警告的な要請をされるおつもりはないか。この点について、二点だけお尋ねをいたしたいと思います。
  86. 佐藤榮作

    ○佐藤内閣総理大臣 死者の数と、同時に負傷者の数と、この両方考えろ、お説のとおりであります。私どもは、できるだけ死者の数を減らそうということで努力しております。いわゆる国民総ぐるみ運動を起こしたその翌年はわりに成績がよかった。ところが、その後また数が非常にふえてきた。昨年はどうかというと、死者の数はまあちょっとわずか減った程度、しかし負傷者は非常にふえている。しかもこの負傷者が、御指摘になりますように、むち打ち症という後遺症としてたいへんおそるべきものでございますから、自殺した人まで出ておるということで、私はたいへん心を痛めておる問題でございます。したがって、ただいまはこれは一年一回かと思いますが、春、秋ぐらいに国民総ぐるみ運動を展開したらいいだろうと思っているのです。まあ一年一回の総ぐるみ運動では、各界各層の人が出てきております。これはいわゆる経営者もまた労働者も——その労働者も、乗客のほうのバスばかりじゃない、トラックのほうの経営者並びに組合の方が出てきている。また、先ほどお話がありましたように、被害者の方々、不幸な、あるいは足をなくしたような方まで出てきている。そして真剣にどうしたらいいかという相談をされる。また、愛児を、学童を奪われた父兄の方もお集まりになりまして、そして真剣に討議されております。そしてただいま言われますように、事故の減少の目標というか、件数をひとつ目標にして、それが絶滅——少なくなるように、そういう方向でこれからやっていかなければならぬだろうと思う。まだ私、ただいままで一つの長期計画を立てて事故件数を減らす目標を明示したということは聞いておりませんが、しかし、適当なる御意見だと思いますので、さっそく総務長官にその話を伝えることにいたしたいと思います。とにかくこの問題は、政府が責任のがれをするわけではありません、政府がなすべきことは当然しなければなりませんけれども、しかし、最近のように自動車がどんどんふえる、なかなか道路は思うようにいかない、こういう状況だと、事故を絶滅するということはなかなか困難であります。ことに、私最近の統計を見ておりまして非常に意外に思いますのは、自動車が多いと思う都会においては比較的に数が減っているのですが、いなかのほうにおきまして盛んに事故がふえている。これは設備の不十分ということもございましょう。確かに道路が狭いとかそんなこともあるだろうと思いますが、車の数も少ないのだから、そういうところは事故が減ってしかるべきだが、どうもそこらに総ぐるみ運動を展開する必要があるように思います。最近はマスコミにおきましても積極的にこの問題と取り組んでおりまして、そういうような新聞社の協力を得ているような府県だと、たいへん成績はあがっているようであります。各方面でこういう意味の努力をしたい。ただいま中谷君がおっしゃるような一つの目標を明示しろ、これは一つのいいサゼスチョンになりますから、ぜひともそういう方向へ持っていきたいと思います。  もう一つの青ナンバーの問題、これは私もたいへん心配しております。しかし、事故が起きた以上、私どもが日本の法律を適用して取り締まりに臨み、捜査に向かう、これはもう当然であります。ところで、いまの外交特権等があって、そういうもめはなかなかできない。皆さん方からもしばしば言われるのですが、こういう自動車事故、これは特権階級がどこにあっても困るのですから、そういう意味では、私ども厳重に日本の法令の取り締まりを厳達するつもりでございます。ただいま外交官等については外交特権がございますから、これはいわゆる警察庁がとやかくやるという筋はございませんが、外務省を通じてこれらの点で警告を発するようにいたします。
  87. 永田亮一

  88. 岡沢完治

    岡沢委員 物価を下げる、住宅をふやすということとあわせて、交通事故をなくするというのが、いま国民が国内問題として総理に一番期待する一つではないかと私は思うわけでございます。先ほど来おっしゃいましたように、またここでも明らかになりましたように、交通事故の死者、負傷者の数については、ベトナム戦争に匹敵するくらいの大きな犠牲者を出しております。この委員会におきましても、ただいまの論議でも、交通事故を起こした加害者を厳罰に処する、これが今度の改正一つ目的でもございますが、一方でまた救済問題については、先ほど猪俣委員をはじめとして論ぜられました。しかし、私は、先ほどここに武見医師会長がおられましたけれども、医学のほうでも予防医学ということが重要であるように、交通事故につきましても交通事故をなくするということがまず先行すべきではないかというふうに感ずるわけでございます。そういう点からいたしますと、総理も先ほど来総合的な事故防止対策として道路の問題とか安全設備の問題とか、いろいろお触れになりました。私は、ここでひとつ忘れられている問題があるのではないか。しかもまた、この法改正と同じように、あまり金がかからないで事故防止に役立つという問題点は、交通に従事する運転者の教育の問題ではないか。政治も人といわれます。また企業も人といわれます。やはり運転者教育ということが忘れられた事故防止ということは、ナンセンスではないか。欧米の先進国で見ましても、たとえば交通難を解消する、道路をよくする、しかし事故はなくならない。結局交通事故の防止と交通難の解消とは無縁ではございませんけれども、それがきめ手ではない。そういうことを考えました場合に、運転者教育についてこの際政府の考えを聞きたい。  具体的に申し上げますと、年間大体三百万人近い新しいドライバーが生まれるわけでございます。そのうち約二百万人は、これは自動車教習所、全国に千二百ほどございますが、そこを卒業していった生徒が新しく免許を取るわけでございます。二百万人の卒業生を出す学校というのは、おそらく私はほかに例を見ないのじゃないか。この二百万人の新しい運転者にどういう教育がなされているか、事故防止的観点からどういう対策が行なわれているかということを指摘したいのでございますけれども、現実に自動車教習所におきましては、たとえば法令の講義がございます、構造の講義がございます、技能の講義がございます。しかし、安全教育あるいは交通道徳については、義務としては一切教育は行なわれておりませんし、試験もないわけでございます。ここに一つの隘路があるのではないか。指定自動車教習所という制度がございますけれども、これは道交法中のただ一条によって規制されているわけでございます。警察庁の公安委員会取り締まり対象としては自動車教習所はございますけれども、いいドライバーをどうして養成するかということについての教育的な面からの教習所に対する規制とか、指導とか、一切ないのであります。こういう問題について、政府としてもぜひ総合的な立場から取り組んでいただきたい。いまの交通事故が、ある意味では、加害者である運転者も被害者ではないかという感じを私は持っております。それは新しい高度経済成長の犠牲者でもあるし、あるいはまた道路と車のアンバランスの犠牲者でもあります。また、交通道徳もマナーもない歩行者が、逆に事故をつくる。私は、ある意味では運転者は被害者であるということを考えました場合に、運転者も含めた国民全体の交通道徳ももちろん大事でございますが、とりあえずはこの新しいドライバーに対する交通道徳、安全教育について、どういう対策を今後用意なさるか。ことにもう一点だけ申し上げますと、先ほど数字的にお示しがございましたが、交通事故を起こす運転者の半分に近い数字は、運転免許を取ってから一年、二年、三年以内、免許取得後三年未満の経験者が半分近い事故件数を示しているわけでございます。ということは、逆に新しく免許を取る者に交通道徳を教育すれば、相当な成果があがるのではないか、私はこういう考え方を持っておりますが、総理の御見解をお聞きしたいと思います。
  89. 佐藤榮作

    ○佐藤内閣総理大臣 この交通労働者の教育の問題、これは、自家用車の場合はいまの教習所で検定してくれるということでございますが、同時にまた教習所の問題が一つあるようでございまして、ここにもっと公正に教習所で教育が授けられないと、いいかげんなことが、やられる、こういうような話がございます。また、運転者の適格の問題がございます。あるいはてんかんだとかあるいは精神異常者、そういうものが運転免許を持つということがある。あるいはもっとはっきりしているのは、普通に考えられることは、酒を飲んで、飲酒して運転する、そういうことをただいま取り締まりの対象としていろいろ気をつけております。酔っぱらい運転を一切やめるとか、また経営者のほうから見ましても、事業経営の立場から見ると、運転者の運転がいいか悪いかで事業経営にたいへんな影響を及ぼしますから、その意味においての教育は、事業者自身は十分注意するようでございます。また今度は労働者側のほうからいって、これも私は特別勉強したわけじゃなくて、いわゆる総ぐるみ運動から出てきておるのですが、労働環境が整備されないと、どうも事故が起こりやすい、こういうこともいわれておりますので、労働環境をよくする、こういうことについての積極的な要望も出ております。それらの点が両々相まって事故防止に役立つことだと思います。  もう一つ、教育の問題で必要なのは、学校に通学しておる児童、少年少女につきましても、十分交通道徳を守るといいますか、青信号を尊重するとか、こういうような事柄が学校でも教え込まれる。そうしてやはり運転者に私どもが要望するところは、歩行者優先というそのことばで表現しておるように、歩行者はひとつ優先してくれ。これをよほど気をつけてもらえば、もっと変わるのじゃないだろうか、かように思います。したがって、ただいま御指摘になりましたように、運転者に対する教育、これは広い意味の教育、これがたいへん大事な問題だと思います。(「運転者の労働条件が大事だ」と呼ぶ者あり)ただいますべての点に触れたつもりでございますから、不規則な発言にも答えておるかと思います。
  90. 岡沢完治

    岡沢委員 あと一、二分あるようでございますが、いま直接には私の問いにはあまりお答えにならなかった。というのは、広い角度から総理のお答えになるのはわかりますけれども、私は時間の関係上しぼって、年間二百万人はき出す能力を持ち、また現にはき出している自動車教習所に対して、教育内容、指導、監督という面についてのどういう方策をとってきたか。現在は自動車教習所に対しては、公安委員会がただ取り消しの対象、あるいは取り締まりの対象だと考えている。いい教育者をどうして養成するかというような面について全然指導も監督もしてない。また、私は現状ではその能力もないと思う。やはり教育的な観点から、あるいは総理府の立場から、多角的な面から、教習所に対する責任を負わすかわりに指導も監督もし、現在、たとえば自動車教習所につきましては、融資一つ見ましても、レジャー産業並みのバーやキャバレーと同じ基準でしか与えられてない。それでは基盤がよくありません。いい指導者が集まるはずがない。それではいい運転者が生まれるはずがない。私は、自動車教習所に社会的な責任ということについても強く要求するとともに、それに値する保護対策を国としてもおとりになる、指導体制もおとりになる必要があるのではないかということを指摘して、質問を終わりたいと思います。
  91. 佐藤榮作

    ○佐藤内閣総理大臣 私も、自動車教習所について同じ考え方を持っております。これがいわゆる運転技術あるいは運転法規等の知識、そういう技術を授けるばかりでなく——最近はやや営業化しておる。そういう意味で、この扱い方が一つの社会問題にまで発展しつつある、かように私も思っておりますので、ただいまの御注意のありました点は、十分気をつけてまいります。
  92. 永田亮一

    永田委員長 山田太郎君。
  93. 山田太郎

    ○山田(太)委員 総理に数点お伺いいたしますが、まず最初に、法をきびしくする以上は、政府においては道路灯をはじめこのような安全対策をやっておるのだというようなものが国民に明示されてこそ、この刑罰上限が上げられることもある程度納得がいくのではないかと思うのです。これに対する施策を怠っておるという意味ではありませんけれども、それに対する周知徹底がなければ、かえって国民の反抗的な感情をつちかうようなことがあるのではないかという点を心配する一人でございます。ことに人命尊重をことに強調され抜いておいでになる総理でございますし、先ほど数字もあげられましたけれども、一万数千人に及ぶ交通事故死で、ベトナム戦争の戦死者にも匹敵するようなことさえいわれております。これに対して、国民総ぐるみだけでなく、世界的規模において考えなければいけないという学者の意見もあります。その世界的規模において考えるという点について、総理はどのような御意向を持っていらっしゃるかということをお聞きしたいのが一点。  もう一つは、これはある高級官吏の方から聞いたことでございますけれども、いまの公害対策の問題にしましても、またこの交通戦争に対する問題にいたしましても、一応総理府において、総合的な見地から対策はとられているとはいいながら、あるいは立法措置は講ぜられているとはいいながらも、やはり現在の各省庁のセクショナリズムにおいてのこの対策のままでは、公害問題もあるいは交通戦争の問題も解決するのにはほど遠いのじゃなかろうか。もっと高度な立場から、日本においても、人命尊重を強調される佐藤総理において、これができるのではなかろうかというふうな意見もあります。現在のままの機構でいいものかということは、当然否定されなければならないと思います。なぜならば、世界で一台の車に対する交通事故は、日本が一番多いというデータも出ております。これは人命尊重を強調される佐藤総理にとって、恥ではないかと思うのであります。そこで総合企画というものをいまの機構のままでやっていったのではいかぬということは御承知と思いますが、それに対して佐藤総理のもう一歩進んだ決断が要るのじゃなかろうか。もっと機構を抜本的に解決するという点についての御意向をお聞きしたいのが二つ。  もう一つは、予算措置についてでございます。先ほども御答弁の中にありましたが、この引き締めの中においても、それを引き締めないで交通対策には万全を期しているという御答弁でございました。しかし、それではまだまだより一歩百尺竿頭を進めたとは言えませんので、この予算措置についてのもっと具体的な御答弁をお願いしたいことが一つ。  それから自賠責の問題についてでございますが、この自賠責の問題については前向きに考えていきたい、その御答弁は、これはむべなるかなと申し上げたいのですが、去年、おととしとこの上限額を上げてきております。現状を見ますと、任意保険と兼ね合わせてという当局のお話もありますが、これはあくまでも任意保険でございます。ことしにおいても、その自賠責の上限を上げるという佐藤総理の御意向はありやなしや、この四点についてお伺いしたいと思います。
  94. 佐藤榮作

    ○佐藤内閣総理大臣 PRの大事なことは、もう御指摘のとおりであります。先ほどの答弁のうちにも、新聞社、マスコミの協力を得ていると成績がいいと申しました。これはもう如実にやっていることをよく理解していただく、そういう意味だし、またみずからを守るということも、これはよく徹底するのだと思います。そういう意味で、さらに私ども力を入れなければならぬと思います。そうしてその規模は、ぜひとも世界的規模においてと、こういうことを言われました。たしか自動車の事故絶滅についての標語は、世界の念願事故絶滅とか、こういうようなものだと思っておりますが、これはもう世界的規模においてただいまやられているのだと思います。これはそれぞれの立場でそれぞれ御協力願うのが、必要なように思います。私は、こういう事柄も、政党、政府が率先してやらなければならない、その責任を果たさなくては申しわけないことだと思います。しかし、各党ともそれぞれの立場において、こういうものに協力していただきたいと思います。ことに公明党さんは、こういう問題には積極的である、かようにも理解しております。どうかひとつよろしくお願いします。  次の問題といたしまして、機構を整備しろ、こういうことを言われます。これは機構がなかなかむずかしいものでございます。この場合において、いまのお互いの協力関係、この協力関係で、事故絶滅をそれぞれの立場のものがそれぞれの目的一つにしてそこに意思統一をはかっていこう、これで私はいいのじゃないかと思っております。いま総理府が中心になりまして国民総ぐるみ運動の本部として展開しておりますので、ここへお出かけいただけば、皆さん方の御意見もよく浸透しやしないか。耳をかす——これはもうとにかく政府もずいぶん知恵を出しておりますけれども、政府の知恵だけでは不十分でありますので、皆さん方のお知恵もぜひ拝借したいと思います。そういう意味で、機構整備とは私は考えませんが、いまの機関でうまくやっていけないだろうかと思います。  それから予算の問題でありますが、予算の問題も、これまた政府が金さえつければいいというものでも実はないのでありまして、跨線橋、道路橋をつくるにいたしましても、その付近の住民の協力を得ないと、せっかく橋をつくりましょうと申しましても、ここへつくってもらっては困る、つまりどこか別の場所にしてくれというような希望がどんどん出てくる。そういう事例に実は幾つもぶつかるのであります。これは、もうその場所をあげてもけっこうですが、そういう意味で、予算が十分でないということもございますが、やはりそういう施設について付近の住民の方々の協力が望ましい、かように思います。いま特に皆さん方から注意されて事故が多発する通学、通園、そういうような場所で児童を守れ、こういうので、跨線橋をつくることを年度途中から手がけて、そしてそのほうの予算も目下考えておりますので、こういう問題は、順次御期待に沿うようになるのではないかと思います。しかし、いまの状況で、もうこれで政府がやるだけやりました、かようなことが言える状況でないことも、私は卒直に申し上げます。そういう意味で、皆さん方の御協力も得たいと思います。  それから自動車賠償保険の問題についてのお尋ねでございますが、これは先ほど猪俣さんからお話もございましたが、私は、皆さん方の総意として適当な金額がきまるだろうと思いますと、かようなことを申しました。政府自身も、そういう意味で皆さん方の御意向に沿うように協力したい。これも高ければ高いほどいいというだけのものではないので、実効が伴わないと困りますから、そういう意味でおのずからきまっていくだろう。三百万円に上げましてからまだ日も浅いのでありますから、その経過を見たいというが、私は、何らかもうちょっとふえてもいいのじゃないだろうか、こう思いますが、これは私個人の考え方でございます。よく皆さんと御相談を願ったらと、かように思っております。以上でございます。
  95. 永田亮一

    永田委員長 松本善明君。
  96. 松本善明

    ○松本(善)委員 総理にごく簡単にお伺いします。この交通事故をなくし、人命の尊重ということについては、これはだれも反対はないのであります。しかし、この法案につきましては、交通労働者をはじめとして非常に広範な反対があります。私たちも反対であります。交通労働者の反対が多くあるその原因一つですけれども、ここの審議でも明らかになってきたのですが、事故はふえておりますけれども、一台当たりの事故数というのは激減している。これは警察庁の統計でもそうです。ここから見ますと、個人の責任を追及するというところに問題を考えていくのではなくて、やはり安全対策、いま盛んに議論されておりますけれども、そこのところをやることこそが緊急の問題ではないか。ここでの議論でも、たとえば国鉄なんかではATS、自動停止装置をつけるということ、これと同じことを道路について考えますならば、歩行者と車が別々に交通している、いわゆる分離交通状態ということを参考人が言ったのですが、こういう状態、いわゆる歩道橋の完全な設備でありますとか、あるいはガードレール、こういうようなところにこそ、いますぐ緊急に金を出さなければ——この法案の必要性は、いま緊急なんだからということを盛んに言われますが、この金を出すことこそが——総理は、知恵をいろいろ集めていると言われましたが、知恵はもうけっこうだ、金のほうがよほど大事なのではないか。この金を出すということについて総理はもっと真剣に考えていただかなくちゃいかぬのじゃないかという点と、それからいままで各法務大臣にお話しして、今後検討するということになっていたのでありますけれども、この歩道橋とかガードレールとかの交通安全施設をつくることを安全管理者に義務づけるという問題、それから交通労働者の賃金、労働時間の問題をこれとの関係で検討する——これは前法務大臣も今度の法務大臣も検討するということを言われたのですけれども、法務大臣のところだけでは解決しない問題であろうと思う。金の問題、安全施設をつくることを管理者に義務づける問題、それから労働条件の問題、この三つについて、総理の御見解をお伺いしたいと思います。
  97. 佐藤榮作

    ○佐藤内閣総理大臣 金の問題は私はできるだけくふうするという考え方でございますから、先ほどの答弁のとおり、この上とも努力いたします。  ただ、私一つ申し上げたいことは、この法律自身が反対だとまつ正面から言われますが、やはり事故を起こしたその者を、その原因を十分考えないで、その責任も全く無視するということでは困るんじゃないかと思います。交通事故をなくしよう——車当たりの事故件数が減っておろうが減っておるまいが、とにかく一年に一万三千人も死んでいる、それの数倍も負傷者が出ている、こういう状況でございますから、これはやはり運転者自身も責任のある行動をしてもらいたい。そういう意味でこの刑法を直すということは、万やむを得ない措置だと私は思っております。こういうものがしょっちゅう適用されるような状態では困りますから、問題は事故を起こさないようにしてもらいたいのですから、そういう意味でひとつ努力していただきたい。  そういうところから、いま松本君から安全施設についての管理者の責任を義務づける、こういうことでございますが、道路管理者の義務づけというのは、なかなかむずかしいのではないだろうかと思います。ただいまの状況では、安全施設はまだまだ不十分です。ただいま言われるように、歩行者と車とが完全に別々になり、平面交差は一切なく、立体交差ばかりだということなら事故は起こらなくなりますけれども、それでも追突はまだあるでしょうから、そうもなかなか完全にはできますまい。しかし、その方向において努力していく。だから、義務づけのねらいはやはり安全施設を整備しろ、かように理解いたしますので、そういう意味において目的を達するようにしたいと思います。  それから第三点の労働条件、労働環境の整備は、私も先ほど触れたのでございますが、やはりなかなか勤務時間が長かったとか、過重労働であったとかという問題もありますし、また非常なノルマで運転しなければならないというような場合に事故は起こりやすいともいわれておりますし、そういう労働条件を適正化することについても、あわせて考えていくという考え方でございます。
  98. 永田亮一

    永田委員長 午後三時より再開することとし、この際暫時休憩いたします。    午後一時四十四分休憩      ————◇—————    午後三時三十三分開議
  99. 永田亮一

    永田委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  刑法の質疑を続行いたします。野間千代三君。
  100. 野間千代三

    ○野間委員 刑法二百十一条の改正問題に関連をして二、三お尋ねをいたします。  だいぶ論議も進んでおるようですから、私は一つの実例をもってこれがどういうふうに罰せられるのかという点について伺いますから、それぞれ関連のあるお役所のほうからお答えをいただきたいと思います。その実例ですが、これは横浜の金沢区で起きた事故でございます。はっきりするために、実名を申し上げますと、私の友人の堀江伝次郎という人であります。これが被害者であります。加害者の会社は、宇都宮市にある御幸貨物自動車株式会社という会社であります。これが四十二年の七月二十六日、横浜金沢区の富岡の道路上で被害者の堀江伝次郎氏が、自分の車が故障をしたので街路の左側に寄って応急処置をして、処置がし終わったとたんにこの御幸貨物自動車株式会社の貨物自動車が追突をするということになりました。この追突をされて、堀江氏は七カ月間入院をして、その間に四回大手術をして、いまだに腸閉塞、左半身がしびれている、しかも腰かけることができない、常に寝ているか中腰でいるかしかないという状態でいま呻吟をしているのですが、そこで調べてまいりましたら、これは金沢警察署でも明らかにしておるのですが、ブレーキが故障をしております。そのブレーキの故障は、使用者は承認をしております。その運転手は、事故が起きた直後に、たいへん申しわけないというふうに言っております。ブレーキが故障であって、積載もオーバーである。そして朝出発をする際に、出発点検を会社はしておりません。これは金沢署でそれぞれ運転手、会社、被害者等を調べた結果、明らかであります。したがって、警察の取り調べの結果は、すべて貨物自動車株式会社のほうに責任があるという判定が出て、しかも賠償、示談の要求に応じてまいりませんので、やむを得ず昨年の十二月訴訟を起こして仮処分の申請をいたしましたが、問題は半年も示談あるいは賠償のための話し合いの要求にも応じないということであります。これが実例の一つであります。  もう一つ、これは川崎にあった例でありますけれども、これは同じような事件ですから別段詳細には申し上げませんが、この川崎のほうの例の場合には、示談の話し合いが会社の事故係との間にやや成立をしたところが、会社嘱社長が考えておるよりも示談の額が五千円多いというので、会社側でその事故係を首にして話し合いを御破算にするということがありました。  私がいまお尋ねしたいのは、私はこれは会社側に対して安全運行に関して監査請求をする必要があるというふうに思って、監査請求をいたしました。その結果はあまり明確ではありません。したがって、この場合道路運送法上どうなるのか、これが一つ。それからもう一つ運転手さんはこの場合どうなるのか。刑法二百十一条に該当するのかどうか。明らかにこれは過失であります。一方、使用者側は道交法上どうなるのか。いまのいろんな法律によると、大体こんなふうになってくるのじゃないかと思うのですが、ほかに方法があれば、その内容について、それぞれ警察庁あるいは運輸省、その他あるいは刑事局長のほうから御答弁をいただきたいと思うのです。
  101. 川井英良

    ○川井政府委員 おそらく詳しく御説明になりました最初のケースは、そういうふうな事情でございますれば、警察において運転者の過失を認定した上で、検察庁のほうに事件送致が行なわれているのじゃないかと思います。事故は、年間五十万件近い事故ですので、私その具体的なケースについて検察庁がどういうふうな処分をしたかということは、いま直ちにお答えする資料を持ち合わせておりませんけれども、お話のような向きでございますれば、加害者側の過失が明らかでございますので、運転者につきましては、二百十一条違反として、あるいはその他の道交法違反をもくっつけて事件送致がなされ、また検察庁において適正な処理がなされているのではないかと思います。  それからそのいわゆる加害者のほうの会社の責任でございますけれども、いま承りましただけでは必ずしも資料が十分ではございませんが、おそらく詳しく調べていきますれば、加害者側の会社側におきましても道路運送法違反等の違反の容疑があるやにもうかがわれますので、もしありといたしますならば、その点につきましてもまた責任の追及も当然なされなければならないのではないか、こういうふうに思います。  それから賠償の点につきましては、これはおそらく保険に加入しておりますので、その範囲内においての示談なり、ないしはまた訴訟の問題が起きたと思いまするけれども、この問題につきましては、これは民事の訴訟におきまして適当な賠償が行なわれるというのが、現行法上のたてまえでございます。  その他の点につきましては、それぞれ関係当局の方からお答えをいただきたいと思います。
  102. 鈴木光一

    鈴木(光)政府委員 お答えいたします。御説明の第一の事件につきましては、それぞれ担当しております警察署で事件を取り扱ったと思いますけれども、いまお聞きした内容によりますと、これは業務過失致死傷ということで刑法上の事件送致はしていると思いますが、その際に道交法上の法令違反もつけてやっておると思います。ブレーキ故障の問題につきましては整備不良の問題、積載オーバーにつきましてはそれぞれ積載オーバーの罰則がございますので、それをつけておそらくやっていると思います。その際に、整備不良と積載オーバーにつきましては両罰規定がございまするので、使用主についてもその責任を問うておるのではないかというふうに思います。
  103. 岡田茂秀

    岡田説明員 お尋ねの事案につきましては、私も初めて伺う問題でもございますし、私の担当しておる部面と担当いたしていない部面とございますので、あらかじめそれを御了承願いたいと思います。担当してない部面につきましてはいま至急担当の責任者を呼んでおりますので、それまでお待ちいただければ幸いだと思います。  私のほうの立場からいたしますと、問題は二つあろうかと思うのでございます。一つは、道路運送法に基づく運行管理に遺憾があったかなかったかということが一つの問題だろうと思うのでありまして、伺う限りにおいては問題があるのではなかろうかという感じはいたしますが、事件の詳細、担当等の観点から、この点はひとつあとで担当の者が来たときに御説明させていただくということで保留させていただきたいと思います。  それから次に、かかる場合に保険等がどうなるかというふうな問題は、私どもの所管といたしまして自賠法があります。その観点から考えてどうかということについてお答え申し上げたいと思います。  まず第一義的には、刑事局長さんから御答弁がありましたように、一般民事上の問題として訴訟あるいは調停というふうな手続をとられるのが本則かと思いますが、さりとて、お話しのように加害者がなかなかそれに応じないとか、あるいはその間被害者が非常にお困りだというふうな事情もあろうかと思いますけれども、これまた当然のことでございまして、したがいまして、自賠法によりますと、被害者救済という手続もありまして、加害者がなかなか示談に応じないとか裁判に時間がかかるとかいうふうな場合には、被害者請求の手続をおとりいただければ、自賠法の限度額において保険金をお支払いすることは可能かと思います。
  104. 野間千代三

    ○野間委員 大体いまお答えになったようなことが、この場合にそれぞれ適用される問題だろうと思うのですけれども、問題はだいぶたくさんあるのです。そのたくさんあるうちの第一が、運転手さんの置かれているところですね。おそらくこれはブレーキの故障がなければ、こういう過失はなしに済んだはずなんです。いま道路がだいぶ込んでおりますから、これはブレーキが故障で、しかもなかなか遠くのほうからとめるというわけにいかない。したがって、この運転手の場合には、全く万やむを得ない立場に置かれている——よく不注意なりあるいは過失というものは置かれている環境の中から出てくるというふうにいわれますけれども、これはそれの全く典型的例だと思うのであります。この場合に、この運転手は、いま刑事局長の答えられるように、今度の場合にはこれは懲役になるわけです。刑法二百十一条の改悪によると、懲役になる可能性を持っているわけです。七カ月で、死なずに済んだから、刑量はどうなるか知らぬけれども、極端な話をすれば懲役刑に該当をする。今度の改正によればそうなるわけですね。ところが、それを使っておって、これは運行管理も悪い、しかも積載オーバーもしておるということを承知の上で、朝出発をさした使用者はどうなるのですか。使用者の場合には、おそらく、いますでに七カ月たっておるのだけれども、何の処罰もないのですよ。金沢警察署でこういう内容であるということがはっきりしているのだけれども、まだ何もない。のうのうとちゃんと営業している。社長さんはちゃんとつとめておる。おそらく、これはうっちゃっておくと、このままになるのじゃないかと思うのですね。せいぜい、運行管理が悪いからというので、道路運送法上の多少の罰が加えられるのか、あるいはもう少し問題になってきて道交法上の罰金くらいになるのかという程度だと思うのですね。これはどう考えてもバランスがとれない、という程度の問題ではないですね。もっと本質的な問題じゃないですか。したがって、いま刑法二百十一条問題で長年論議になっておった、運転手だけを罰してどうするのか、これは、こういう事件が起きるための道路上の問題がたくさんある。そういう問題と、もう一つ、使用者側と運転手との関係がある。使用者が運転手よりももっと懲役十年とか二十年とかたいへんなことになってくれば、おそらく使用者はブレーキの故障あるいは積載オーバーのまま、朝の点検をしないまま走らせるということはなかったと思うのですね。使用者は罰せられないから、運転手だけが罰せられるから、こういう使用者が生まれてくるのですよ。私は国会で運輸委員のほうも担当しておりますので、こういう事件は毎回持ち込まれる。最近の動向は、被害者が訴えてきたら裁判をすればいい。弁護士を雇っておけばいい。何回も何回も裁判しておれば、そのうちにもう資力のない者は裁判ができません。そういう意味で私は川崎の例を引いたのです。川崎の例は私の友だちのつとめ人であります。家族四人で乗っておった。追突を食った。そうして奥さんはむち打ちになった。この人は残念ながら資力がない。したがって裁判ができない。交通相談所であるとか、あるいは私の知人の弁護士さんであるとかに骨を折ってもらっていまやっておる。しかし、裁判の提起はできない。この人はやはり自賠法でいう五十万円では済まないのですよ。いま言ったように堀江伝次郎さんのほうは、七カ月入院しておって四回も手術しておる。当然百万円くらいかかっておる。この人は資力があるから、やむを得ず去年の暮れになって決心をして仮処分の申請をして、仮処分はいましてあるけれども、本訴のほうに移っている。しかし、いつ解決がつくかわからないという実態なんですよ。被害者のほうはこういう実態に置かれる。その中にはおそらく裁判もできないという人もおるのですね。いま刑事局長の言われる四十二年の例ですか、事故件数が五十一万七千五百三十件。このうち人身で刑事事件になっておるのが二十九万五千三百七十六件、物件で事件になっておるのが十二万五千六百五十九件、合計約四十一万ですか、四十一万は事件になっている。やがて何らか片がつくでしょうが、これもやはりほとんどが運転手だけが罰せられるという結果ですね。それ以外に、五十一万の件数があったのだから、約十万は事件にならない。おそらく提起ができないということでしょうね。そういう実態ですよ。こういう実態をいまどうしようとしておるのですか。こういう実態を解決しよう。使用者に対しては道交法なりあるいは道路運送法なり、そういうものでこういうふうに罰します。したがって、運転手の過失にならないようにするという考えがまずあるのかどうか。やろうとしているのですかどうですか。
  105. 川井英良

    ○川井政府委員 一つ事故を想定いただきましたけれども、加害者のみならず、被害者双方にわたってまことに悲惨な状況が出てくるということ、それについて政府の立場からどういうふうな的確な施策を持ち、またそれをさらに推進していくか、こういうお尋ねでございまして、私も、その事故をなくするということ、不幸にして起きた場合においてそれを最大限に迅速に救済する、こういうことにつきまして、何とかして各省庁と連絡いたしまして的確な方策をさがし出すということにおきまして一生懸命に考えてきたものでございますが、刑法は申し上げるまでもなく、それらの方策の一環として考え出されたものでございます。それはともかくといたしまして、ただいま具体的にあげられましたような事例で、やや法律的な説明になりますが、ブレーキの故障があることを雇い主ないしはその事業を経営している者が事前に承知をしておった。具体的にこの車はブレーキがきかないのだ、故障があるのだということを承知しながら、自分の雇っておる運転者にその故障の車を運転させて業務の遂行を命じたというふうな具体的な事情がもし確認できるならは——先ほど警察庁の交通局長が御説明になりましたように、道路交通法には両罰規定がありますから、そういうふうな事情がなくても罰金の処罰が可能ですけれども、いま私申し上げましたような事情がもし確認できるならば、罰金ではなくて、道交法のその違反条項の共犯としての処罰が可能になるわけでございます。ただ、多くの場合におきましては、雇い主が明らかに車体に故障がある、しかも致命的なブレーキに故障があるということを承知の上でその雇い人たる運転者に対してその車を運転させるというようなことは、それはないことはないでしょうけれども、おそらく非常に少ないのではないかというふうに考えられるし、また車は、経験則によりましても、最初は故障はなかったけれども、運転の途中においてブレーキに故障が生ずるということも、私ども事件の調べをしておる者から言いますならば、間々そういう事例もあるわけでございますので、あとの場合におきましては、これは雇い主に対して道交法の両罰規定以上の責任を問うことはできないでしょうけれども、最初のような初めから知ってやらしたというふうな場合におきましては、むしろ両罰規定ではなくて、刑法の共犯の規定の適用によりまして、道交法の違反罰則そのものを運転者とあわせて同時に雇い主にも適用するということは、法律上可能であるわけでございます。その辺のところにおきましても、いままでもそういうふうにやっておると思いますけれども、今後十分にその点についての捜査の徹底を期して事故の絶滅をはかるということに努力したいと思います。
  106. 野間千代三

    ○野間委員 それは刑事局長、おことばではそういうことが言えるのです。言えるのだけれども、これがいよいよ実際に裁判になったりする場合に、運転手さんのほうはもう現実にあらわれているのですね。ところが、使用者のほうは会社の組織があって、運行管理者があるのだから、したがって使用者なりあるいは運行管理者がそれを承知しておったということを立証することは、きわめて困難なんですね。これはもう明らかなんです。ぼくはこれは金沢署に頼んで相当調べてもらった。調べてもらって、一つの方法として金沢署ではそういうふうに認定ができますという答えは出たけれども、いよいよこれが裁判になった場合に、はたしてそのとおり答えが出るかどうか。いままでの例ではほとんど出ないですね。実際には立証は困難でしょう。運行管理者なりあるいは使用者がブレーキが故障しておったことを承知の上で出したか出さないかは、ブレーキが悪いぞ、おまえそれでも行ってこいとは言ってないのだから、裁判でそれを立証することは非常に困難です。したがって、裁判でやっても、これはなかなか出てこない。せいぜい言われることは、朝の点検をしてないということだけです。したがって、運行管理上に問題があるので道交法上の罰則を適用する、罰金を適用するという程度でほとんどが終わってしまうと思いますよ。それは刑事局長が幾ら強弁されても、現実はそうです。したがって、こういう場合には、明らかに、使用者が知ろうと知るまいと、ブレーキに故障があり、積載オーバーをしている車を走らせたとすれば、それを走らせたという事実に基づいて使用者が責任を問われるということにしなければ、これは首尾一貫しないのじゃないかと思うのですね。その辺は確かに法体系上なかなかむずかしいでしょうけれども、そういうふうにしておいて、その上でまた二百十一条で運転手さんがどうなるかということを関連づけてくるのならば、まだ検討の余地があると言えるのだけれども、片っ方のほうは全然そういうふうに逃げられる道筋がある。しかし、運転手さんのほうは、自分に責任がないにもかかわらず過失を犯してしまったということで、いま問題になっているのですね。そういうことでは、よく皆さんが説明をされる、事故が減ってくるとかあるいは運転手さんの責任が解除されるとかいうようなことは、全くないですね。私は、そういう意味でこの問題だけをとらえてみると、いま刑法二百十一条の量刑を加重するというのは不当じゃないか。不当というよりも、それで事故がなくなるということにならぬじゃないか。これは実例で言えると思うのですね。したがって、これはむしろ自己の企業に対する責任です。交通問題で多くの事故が起きておりますけれども、これは運転手さんの責任の分もあるでしょうけれども、そのほとんどはむしろよくいわれる道路行政であるとか、運輸行政であるとか、あるいはこうした使用者の責任であるとか、国の責任であるとか、地方自治体の責任であるとか、そういうものをもっと総合的に体系づけて解決をして、それがちゃんと整って、さてその上でなおかつもし運転手に責任があるとすればそれをどうするかということにしなければ、ほんとうの意味事故対策としての刑法問題にならぬじゃないかとぼくは思うのですよ。これは、大臣いらっしゃらないけれども、次官どうですか。
  107. 進藤一馬

    ○進藤政府委員 使用者の責任も十分にあることでございまして、そういう面についても今後大いに注意していかなければならないと思いますが、やはり要は、その当事者が責任者でありまして、そういう点について、私どもはまずそうした交通禍をなくす意味におきまして、これはこれとして、それはそれとして、やはりやるべきではないかと考えております。
  108. 野間千代三

    ○野間委員 それは進藤さんらしくないな。いま言われることが、両方ともちゃんとやっていますと言うならわかるのだけれども、現実にやってないからやむを得ずそういうお答えになるのでしょうけれども、それはやっぱり片手落ちですよ。  そこで、次の問題ですが、もう一つの問題は、いまの問題でまいりますと、先ほど運輸省で答えられた被害者請求のことですが、もちろん被害者請求できめられた五十万の範囲の請求はできる。これはこの場合にしておるのだけれども、しかし七カ月も横浜市立大学の病院に入院をして、三回も手術をしている。しかもたいへんびろうな話だが、臀部の肉が片方なくなってしまったのです。したがって、これは五十万ではとても問題にならない。どうしてもこれは本人へ会社からきちんとした賠償をしてもらわなければならないことになりますね。  それともう一つは、五十万という金額が、最近の交通事故の場合に妥当性があるのかどうか。もちろん死亡の場合には三百万円だが、死亡の場合の三百万円の問題とあわせて、負傷の場合に五十万円というものは妥当性があるかどうか。これを上げる必要があると考える。私が申し上げた刑事事件になっている二十九万五千幾つかの人身事故の場合の内容が、最近は非常に高くなってきた。特にむち打ちだとか、たいへん高くなってきたので、それをどういうふうにしようとされているのかが一つ。  それから示談に応じない。話し合いに応じてこない。したがって五十万円の被害者請求で入院をする。治療を受ける。しかしそれで終わらないという場合には、どうなってくるか。川崎の例はそうなんだけれども、相手が応じてこないという場合には、被害者のほうはどうしたらいいか。
  109. 岡田茂秀

    岡田説明員 お尋ねがいろいろあったと思いますが、まず一つは、自賠法における限度額が五十万円で低くないか、上げなくてもいいのかというお尋ねがあったと思いますが、この点からまずお答え申し上げます。確かにいまお聞きする事例等におきましては、五十万で十分ということは言い切れないのではないかという感じもいたしますが、私たちがこの種の知り得る限りの全事案について調査いたしたところによりますと、ちょっと資料が古うございますが、四十二年の三月から五月について見ますと、五十万円で九一・五%近くをカバーいたしておるというふうな状態でございまして、片や任意保険と両々相まって被害者救済の万全が期せられるというふうに考える次第でございます。そうなると、一体任意保険のほうがどうなっているだろうということに相なろうかと思うのでございますが、当該会社が任意保険に加入しておったかどうかということについては私も関知いたしませんが、一般的には事業用の貨物自動車運送事業に従事する者は約八〇%強が任意保険に加入しておるという状況でございますので、一般的には先ほど申し上げた強制保険と任意保険でカバーできるのではなかろうかというふうに考えるのでございます。  それから次に、加害者が請求に応じなかったときにどうするかということでございますが、これは先ほど刑事局長が御答弁なさったように、やはり裁判に持ち込んでいただく以外に手がないのじゃないか。ただその間、先ほどから申し上げておりますように、自賠法では被害者救済の方法が別途ございます、ということになるのではないかと思うのでございます。
  110. 野間千代三

    ○野間委員 九一・五%がカバーできるという統計が出ておるそうですが、五十万で実際にカバーができるのは九一%いっておるのかどうか、ぼくらがいま相談を受けておる内容でいくと、たいへんむずかしいのです。そういうむずかしい例がたくさん来るのでしょうけれども。ぼくらが相談を受けておる場合の例は、とうてい五十万円ではどうにもならないという例が非常に多いのです。したがって、最近の傾向としては、これは相当な部分がたとえばカバーできたにしても、その中で、特にあとの問題があるのだけれども、相当大きなけがのものが結局はカバーができない。したがって、特にカバーをしなければならない性質の負傷がカバーができないという結果になるわけですね。したがって、そういうものをやはり保険で救済をするということが、保険のたてまえじゃないか。大多数ができるからそれでいいというものではないと思うのです。そういう意味で、きょうの主題とは違いますからまたあらためて問題にするつもりですが、やはり賠償額というものは、多少保険料金が上がろうとも、上げるべきだというふうにぼくは思います。ですから、これはひとつ検討していただきたいというふうに思います。
  111. 岡田茂秀

    岡田説明員 先ほどのお尋ねに一点答え落とした点がありますので、追加していまの御質問と関連してお答えさせていただきたいと思います。  先生がおっしゃる傷害の中には、後遺障害も含めておっしゃっておるのではないかと思いますが、御承知のように、後遺障害につきましては、昨年の八月死亡を百五十万円から三百万円に引き上げるというのと対応いたしまして、後遺障害は百五十万円から三百万円に引き上げておるわけであります。後遺障害が残るもので多額にのぼるものは、そのほうでカバーされるということになっておるのでございまして、一応われわれはそれを二つに分けて考えておりますので、念のためにちょっと申し上げておきます。
  112. 野間千代三

    ○野間委員 それはいいのですが、私があげた第一の例は、おそらく腸閉塞はなおるでしょう。それから左の半身のしびれもなおります。中腰でなければならぬというのも、肺門の傷のせいですから、なおります。したがって、後遺症は残らないという例です。ですから、後遺症問題だけではない。ですから、そういう意味で検討を要するというふうに思います。  それから、あとでお答えのほうの任意保険の問題が、これまた新しい問題があるのですね。最近は、特に貨物自動車の会社などでは、いま私が言ったような例がたいへんふえてきた。したがって、保険会社が契約することを好まない。これは御承知のとおりです。したがって、そういう問題も含めて解決をしていかないと、任意保険を加えれば解決がつくということにはなってこないのです。ですから、これはお答えですけれども、本質的な解決にはならないということは御承知だと思うのです。  それから被害者が裁判を提起しなければならぬという問題も、やはりいまの裁判制度ではお金がかかるから、そのくらいの金があるならば病院に入ろうということになるのですね。したがって、これも解決にはならないというふうに、刑事局長、問題は複雑なんですね。複雑というよりも、いまのところでは資力がない一般の勤労者階級、おつとめ人は、事故が起きたら解決がつかないという環境に置かれておる。一方事故を起こした運転手さんの置かれておる立場も、先ほど私が言ったようなこともあるのです。しかも、会社のほうでは任意保険にも入らないところもあるし、やりたいのだけれどもやれないということもあるのですよ。これが実はいまの交通の実態です。ですから、そういうものを総合的にちゃんと解決をしないで、一部分だけすればそれで事故が減っていくというような考え方では、これは交通問題の解決にはならぬということを十分に御銘記をいただきたいと思うのです。それに関連をして、いま私が申し上げたようなあらゆる方面の法規なりあるいは賠償の法律、法令なり、あるいは道路行政なり、そういう交通問題に関連、囲繞する多くの問題について解決をするための施策をもっと強化をするということを、政府全体としてもっと、よく首相の言う真剣に取り組む必要があると思います。  そこで、交通問題ということは、このように非常に多くの問題を含んでいる。最近の交通問題は、文明病といわれるぐらいに多くの問題を含んでいる。そこで私が最後にお願いをしたいのは、通常の裁判制度ではこれは間に合わない。いま交通事故からの原因なり、よってきたる原因なりをきちっと調べて、その上で罰則を適用すべきなんです。したがって、通常の刑事事件とは違う内容を交通問題というのは含んでいるんです。したがって、別段私はいまの裁判官の方をどうこう言うのじゃないのでありますが、あるいは検事さんをどうこう言うのじゃありませんけれども、交通問題というのは、いまは一種専門的な問題なんですね。昔とはそれは全く違う。したがって、原因がどこにあるのかということを精細に突き詰めていくだけの交通問題に関する理解力がまず前提としてあって、その上に審判が行なわれるということでないと、公正な裁判が行なわれないのじゃないか、あるいは公正な結論が出ないのじゃないか、また結論が出たものをどういうふうにするかということがわかりにくいのじゃないかと思うのです。そういうことから、かつて海難問題が起きて海難審判所ができました。ですから、交通問題の内包している問題を究明をして、それに基づいて結論をつけるという意味で、通常のいまの刑事上の裁判に移る前に、交通問題の、いまは海はありますから、陸、空に関する特別な審判制度を設置をして、そこでまず第一クッションでこの交通問題の審判をするということが必要じゃないか、こう思うのですが、これはいかがでしょう。
  113. 川井英良

    ○川井政府委員 業務過失の刑を上げるだけでなくて、万般の施策について真剣に取り組めという御趣旨、全く同感でございます。刑法の運用について、私ども真剣に、慎重を期することはもとよりでございますけれども、その他の一般交通施策につきましても、重ねて申し上げますが、関係当局と緊密に連絡をいたしましてますます善処をしてまいりたい、こういう覚悟でございます。  第二点の交通審判について特別な海難審判のようなものを考える必要はないかという御提案でございます。傾聴に値する御提案であることは言うまでもないことでございますが、二百十一条は、何も交通違反だけではございませんで、けさほどから問題になりました医療過誤、あるいはその他諸般の爆発の事故、あるいは最近問題になっております公害、ああいうふうなものにつきましてもすべて適用を見る法規でございますので、過去におきましても、そういうふうな事態についてこの法令が適用になった事例を幾つか持っております。   〔委員長退席、大竹委員長代理着席〕 そこで、この二百十一条というのは、刑法のほかの規定に比べましても、最も科学的な、専門的な知識を必要とする分野であることは、ただいま御指摘のとおりでございます。特に自動車なんかは比較的簡単でございますけれども、汽車とかあるいは航空機というようなものになりますと、同じ交通機関でも、非常に複雑な様相を呈しておりますので、なかなか原因過失の認定ということには苦労するわけでございます。私ども検察部内におきましては、長年こういうことにタッチしておりますので、わずかではありますけれども、それぞれその道の専門家の養成につとめておりまして、そういうふうな者をそういうふうな事件になるべく振り向けまして、迅速に、的確に事故原因をつかむということに努力をいたしております。しかしながら、それだけでは足らないで、裁判官の面におきましても適切な措置が必要ではないかということでございますので、もとよりいろいろの問題についていろいろな研究はいたしておりますけれども、その一環としてまたさらに検討を続けたいと思いますが、一つ問題になるのは、こういうふうなものが比較的審理が長引くということでございます。それはどういう点にその原因があるかということはいろいろまた問題がございますけれども、その前にまたさらにいろいろな組織を持ち込むというと、さらに一そうこれが長引くのではないかということも懸念されまするし、最近の事故におきましては刑事事件の判決が早く出ましてそれによって過失の認定がされますと、過失の認定がされたということと、その過失の重みなりウエート、幅なりがどの程度であったかということが民事訴訟のほうにはね返ってまいりまして、民事訴訟の面においては非常に有力な根拠、証拠になるというようなことで、最近民事訴訟と並びまして、この種の刑事訴訟につきましても、さらに一そう迅速化が叫ばれておるところであります。そこで、ただいま御提案のようなものを設けることがはたして迅速化に役に立つのか、あるいは逆にまたその迅速化ということについてブレーキになるかどうかというようなことにつきましても、私ども訴訟の専門家の立場から、実務の立場から真剣な検討をしなければならない、こういうふうに思いますので、いま直ちにそれについて賛成であるとか反対であるとかいうふうなことはお答えできませんけれども、従来から検討しておる事柄でございますので、なお引き続き検討をしてみたいというふうに考えます。   〔大竹委員長代理退席、中垣委員長代理着席〕
  114. 野間千代三

    ○野間委員 大体私の時間のようですから終わりますが、ちょうど大臣がお見えになったので、せっかくですからひとつお答えをいただいておきたいと思うのですが、いま刑事局長さんのほうからお答えになった問題なんですが、刑法二百十一条の問題は、午前中大臣のお答えによると、他の一般のもの、たとえば医療であるとか、あるいは学校の先生だとか、あらゆる仕事に関連をするところに今回の二百十一条は適用されることは否定できないと思うのです。ただ刑量の際にという午前中の御答弁であったようなんですが、したがって中心になるのは交通であるということですね。しかし、交通のほうを見ると、交通問題というのはいまは非常に複雑なんですね。しかも、いま刑事局長の言う自動車があり、鉄道があり、地方軌道があり、航空があり、海上があるというきわめて複雑です。その複雑な問題を、実はお見えになる前に一つの実例をあげて申し上げたのだが、ただ単に運転手の過失であるというふうに出てくる問題の背景に使用者の責任の問題がある、あるいは道路行政上の問題もある。あるいはそれが一たん結論がついてあとどうするのかという刑量の問題、あるいは被害者を救済する問題でも非常に広範多岐にわたっておるということですね。したがって、ただ単に刑法を変えるだけでは、もちろんこれは解決がつかない。むしろそのために、使用者が責任を負うべきものも運転手が責任を負って刑罰を受けて、しかも被害者は救われていないという結果が出てくる場合もある。そういうことをいま質疑を進めておったのですが、そこで私の頼みとしては、したがって、交通関係の施策全般にわたってやはりきちんとスタートが同じで具体的な施策をとって、その上で一つの問題としてこの刑法問題をやるべきじゃないか、という主張を展開してまいったんですが、それともう一つは、したがって、そういうことから、交通関係は非常に専門的な問題になっておる。知識もそれが必要なので、専門的な一つ交通関係の審判所というものの段階をつくって、そこでまず精細にきちっと調べて公正な判断を下して、できれば、そこでまず結論が得られる。その結論が不服ならば正常の裁判に移るというふうな制度を考えたらどうかというふうに実はお願いをして、いま刑事局長からお答えがあったのですが、局長さんのほうでは、事務的な立場でお答えのように承りますので、政治を担当する大臣として、交通関係のこういう問題について、いま私が言った問題でどうお考えなのか、ひとつお答えをいただきたいと思います。
  115. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 こういう問題は、刑事局長が答えたことが私は大体適当だ、かように考えております。ただ、私は、この刑法の二百十一条というものは、これはやったからといって、ずっと軽いのから何からみんなを重くするという意味は絶対になくて、ただ乱暴な行為をやって人を殺傷をする、あるいは著しく注意力を要すべきものにその注意力を欠いて殺傷をしたというような場合を、特に刑法の二百十一条というものは、そういうことが私は大きなねらいである、かように考えておるのであります。なおまた、いろいろいい方法がありますれば、私はそれは十分ひとつ研究をさせていただくといいと考えております。  ただ、簡単に申し上げますと、今日は御承知のように、人権というものは非常に重んじられるようになり、人命というものが非常に高く評価せられる時勢にもう変わってまいりました。そういう意味からいたしまして、乱暴な操作をやって人命を落とさせても三年以下の禁錮というようなことでは、人権尊重という点から見ても、非常にこれを上げたほうが適当ではないかという考え、それからなおまた、いろいろな施策をやりまして、交通事故を少なくする方策をやって、これとあわせて刑法の二百十一条を適切な改正をやって、あらゆる面からこの事故を少なくする、こういうことに役立てたいというのが、大体私の簡単に言えば率直な考え方でございます。
  116. 野間千代三

    ○野間委員 せっかく大臣の御答弁ですけれども、実際にいま政治で行なわれている交通問題の内容は、状況は、そう大臣が言われるような総合的な施策は実際問題としては進んでいない。したがって、この刑法改正による運転者、しかもその乱暴な運転者ということよりも、私が例を引いたのは、必ずしもその運転者は乱暴はしなかった。おいでにならなかったから知らないが、そういう例なんですね。そういうものでもやはり罰せられなければならない、この刑法でいけば。したがって、そういう意味で、いま大臣の言われたようなふうには政治の実態はいっていないので、したがって、私どもは刑法だけを改正して、大臣が言われるように事故が減ったり、あるいは交通問題が解決をしたということにならないのですよということを、実はいま質問しておったのですが、私のほうの時間のようでありますので、あらためて総合的な施策を急がれるように要求をして、質問を終わります。
  117. 中垣國男

    ○中垣委員長代理 神門至馬夫君
  118. 神門至馬夫

    ○神門委員 ただいま質問がありましたこの刑法二百十一条の改正問題ですが、これが最初に出されたのは、昭和四十年三月の第四十八回の国会からです。   〔中垣委員長代理退席、大竹委員長代理着席〕 もう三年にわたっております。国会は十の国会にわたっている。こういうふうに非常に長くかかって、今日まだ完全な意見の一致を見ていないのでありますが、大臣としましては、今日におきましても——昭和四十年に国会に提出されて、刑法二百十一条の改正の趣旨というものが説明をされております。そういう緊急性、必要性というふうなものについては、今日なお変わらないのか、こういう点について、まずお答え願いたいと思います。
  119. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 私は、交通事故が増加する、一万数千人の人が死に、六十数万のけが人ができる。これはもう実にたいへんな事柄に考えております。  それともう一つの理論としては、やはりだんだんに人権の尊重と申しますか、人命の尊重というのは、文化が進んでくればくるほど、国が発達すればするほど高く評価をせらるべきものである、かような考え方を私は持っておるのであります。そういう点からいたしまして、この刑法二百十一条は、もう三年、十国会の長きにわたって、その初めよりだんだん必要性というものが増してくるのではないか。人命の尊重は文化が進み、産業が進み、高度になればなるほど尊重せらるべき趨勢にあるという見地から見まして、私は必要性が高まってくる。これはことしもそうでありますが、来年、再来年となっても、文化が高まり、進んでくれば、人命尊重の見地からこういうことが非常に必要ではないか。それで、ほかの施策を全部やって後にやるというようなことをときどき承るのでありますが、とにかくこの六十数万の人間が死傷をするというようなのを、一つの事柄、二つの事柄ではなかなか全滅は期せられないのではないか。あらゆる有力な方法を無理のいかないように適用して、その理想に近づけるべきではないか、こういう信念からいたしまして、必要が薄らぐどころでなく、私は必要が増してきておるのではないか、大臣としては、そういう考え方を持っております。
  120. 神門至馬夫

    ○神門委員 大臣がおっしゃったように、この交通戦争という悲惨な交通災害というものは、これはたとえば政党政治の行なわれている国会内の各政党とも同じことであろうと思う、国民の感情としてもこの根絶を最も期待しております。そのように三年間も国会において議論されたにもかかわらず、各政党間において完全な理解、一致を得なかった。こういろ簡単な交通災害をなくそうというようなことに、そうイデオロギー的なものがからむはずがない。それがなおかつ対立をしているということは、非常にふしぎに思うのです。そのような根源は、一体どういうところにあるとお考えになりますか。
  121. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 その根源は、やはり何と申しますか、われわれの熱意、努力、PRといいますか、そういうことがやはりまだ十分でなかったのじゃないかと私は考えます。熱意、努力、PRが欠除をしておったのじゃないか、かように考えます。
  122. 神門至馬夫

    ○神門委員 三年かかって、そして廃案になったときもありますし、継続審議になったこともある、参議院に回ったこともある、そのような過程に十分議論し尽くされたものが、PRが足らぬとか熱意が足らぬということでの現在の不一致の説明ということになりますと、これはどういうふうに解釈していいのか。完全に一致を見るであろうと思われるような法案が、国会でこれだけ長く審議が続いたことは、おそらくないだろうと思うのです。ですから、あなたがおっしゃるPRという点において、これが浸透しないということはないと思う。それからあなた方の熱意がもしか足らないとするならば、これだけしつこく毎国会提案されなかったらよろしかろうと思うが、どうも熱意なのか、執念なのか、とにかく廃案になっても、反対されても、各大臣ともそうたいした効果がなかろうとおっしゃりながら、しゃにむにこれが提案されている。そうなってくると、熱意がないにもかかわらず、あなた方としてはメンツにこだわって、なおかつ現在強硬にこの法案を通そうとお考えになっている、こういうふうにしか経過的に見て考えられないのですが、あなたのいまおっしゃる答弁からすれば、どういうことですか。
  123. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 もうメンツにとらわれるなんということは、私は一番きらいなんです。世の中でメンツだとかいきがかりにとらわれるということは、一番きらいなんです。われわれとしましては、今日六十数万人のけが人ができるというような問題につきましては、これはもうありとあらゆる熱意とできるだけの方法を講じて、事故を少なくし、なくする。これはすべての国民が立ち上がらねばならぬ問題だと考えておる。それには私はこれは非常に有効な働きをなすものである。何となれば、やはり事故というものは、いろいろな原因がありますが、注意をすれば起こらなかったという場合に、注意力が十分でなかったというために事故というものが起こるのじゃなかろうか。だれが事故を起こすかわからないが、注意力が足りなかった、事故というものは大体そういうところがもとじゃなかろうか。そうすると、こういう法律改正になりますれば、これはもう私はいかに注意が必要かということがすべての国民にもまた一つのPRにもなって、非常にわれわれが予想しておった以上の効果が起こると私は考えております。何といたしましても、交通事故の何分の一かの原因は、注意すればよかったのに、注意力が足らなかったというための事故というものが相当あるのではないかというふうに、私は交通事故については考える。そういう点からいたしまして、こういう刑法改正というものは、やはり何としても時宜に適した最もいい改正じゃないだろうか。もちろん国としましても、これだけじゃなくて、午前にも話しがありましたように、あるいは歩道橋をつくるとか、あるいは道路をよけいまた整備するとか、学校の子供にもやはり交通道徳の必要を教えるとか、それは数えあげれば数限りなくやらなければなりませんが、私は、これはもうあらゆる有効適切な方策を講ずることに全国民が立ち上がっていい問題じゃないだろうか、そういうふうな考え方を持っております。その点ひとつ御了承を賜わりたいと思います。
  124. 神門至馬夫

    ○神門委員 そういうような目的を持つものであったら、三年間も一生懸命お互いに話をしたものなら一致しなければならぬはずなのに、一致しなかったということの原因はどこにあるかという質問をしたわけですが、どうも大臣もなられたばかりでありますから、その辺のいきさつはおわかりにならないようであります。まあその辺はそれとしまして、刑法二百十一条の改正目的については、いま大臣がおっしゃったように、刑法改正することによって交通災害をなくしたい、こういう目的があるのだ、こうおっしゃっておられるし、いままでの議事録等を見てみますと、いわゆる未必の故意として故意犯に紙一重のものがある。だから、刑罰の均衡上からいっても、悪質なものが出てきたのだから、過失犯に対する上限を上げて、刑期を長くする、あるいは懲役を課さなければいけない、こういう均衡論あるいはいろいろ質問が出ております。道交法との併合罪を用いてはどうか。しかし、他との過失犯との関係があるので云々、こういうふうに言っております。いわゆる刑罰の均衡という言い方ですが、それと交通災害を予防する、事前に防止する、こういう二つの目的が説明をされておるようです。このどちらもそれは必要なんでしょうが、どちらに主たる重点があるのか、お答え願いたいと思います。
  125. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 道交法でやったらどうかという意見も私は聞いたのでございますが、これはいまお述べになりましたように、刑法道交法というのは全然性質が違っておりまするし、またいまお述べになりましたように、他の業務上の過失致死傷刑法によっておるのに、これだけが道交法のほうにいけるものかどうか。しかも、道交法というものは軽いものを簡便な方法で処置をするというのが、大体のたてまえじゃないかと私は考えております。同じような仲間がまだたくさんあるのに、一つだけ道交法のほうに持ってくるというのは、これはどうも法のたてまえからいっても、刑法のたてまえを乱すのではなかろうかというふうな気持ちが私はするのであります。しかも、歴史から見ても、六十年間も一緒におったのが、その一部だけが道交法のほうにいくというのもどうかというような気がするのと、もともと道交法は、御承知のように行政犯のようなものでございまするので、これと一緒というわけにはいかぬ。いけば体系が乱れる、また人身事故事犯に対する倫理的価値判断に混乱を生ぜしめるような結果になるのではないか。いま言いましたように、刑法の体系を著しく乱すものである、こういうふうな理由からして、これは全く別に取り扱うことが適切である、こういうふうに私は考えておるのでありまして、何べんも言いまするように、人命尊重ということから言えば、反対の方は全部賛成のほうに回っていただくはずのものではなかろうかと、わが田のほうに水を引くかもしれませんが、何かそういうふうな気がいたすのでありまして、どうかひとつ御賛成を願うように、だんだんとお願いをしたい、かように考えております。
  126. 神門至馬夫

    ○神門委員 大臣、あまり時間がありませんので、ひとつ簡単に質問の要点を答えていただけば、そういう要望のほうはよろしゅうございます。  いま私が言いましたのは、そういう法体系上の、たとえば刑罰の均衡をとるための目的が第一なのか、あるいは他面、いわゆる刑法そのものが、根本的に六十年来の刑法改正をしようという作業がなされている。その作業の完成を待たずしていま二百十一条を抽出をして改正をされようというのは、交通対策からだと言われておる。そのいすれが——どちらも目標であろうが、どちらのほうに重点があるのか、こういうことなのです。どちらに重点があるのか、これは簡単に答えてもらえばよろしい。
  127. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 どちらに目的があるかということでございますが、矛盾そごなくして目的が達せられる方法がいいのじゃないか。どちらということではなくて、一つも無理のない方法でわれわれの欲する目的が達せられるというのでいくと、道交法その他考えなくて、この二百十一条の刑を重くして十分そういうものに当てはめるということが、二つのどちらということでなくて、矛盾なくそれがいいのじゃないかという、そういう考え方を持っておるのです。
  128. 神門至馬夫

    ○神門委員 そういうことが並列的なウエートがあるということになりますと、そういう抜本的なものは、基本法としての態様を整えるためにいま一生懸命やっているのじゃないですか。そうすると、そういう均衡的なもの、法体系全体を整えるということについては、いまこれだけいろいろの意見の対立があるのに、その強行されなくてもいいと思うのです。あなたのほうの考えとしては、もうたいへんな交通災害が起こるのだから、これは早くやりたい、ここに緊急性があるのだ、こういうふうにおっしゃっているのだと思うが、そのつり合いを保つのが目的なのか、やはりいま交通対策が主要な改正をしなくてはならぬという目的なのか、この辺を教えてもらいたいということなのです。どちらも一緒のようなものだとするならば、これは法体系上の問題だったらこうまでせかれなくてもいいと思う、これほどでなしに、ほかにもたくさん問題があるのだから。
  129. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 私の考えは、端的に言いますと、交通事故を減らしていくという政策を思い切ってとっていこう、それに沿う最もよい方法を——交通事故をなくす、大減少をやっていくというねらい、政策のもとに、それに沿う最もよい方法を考える、端的に言うと、こういう考えであります。
  130. 神門至馬夫

    ○神門委員 どうも大臣の言われることがよくわからないようなのですがね。いわゆる交通事故というものを——何か議事録を見ますと、特別予防あるいは一般予防という刑法の目標を果たすためにも改正したいのだ、こういうことで、そのウエートというものは交通災害、交通事故というのをひとつ何とかなくしていきたい、こういうことにあるのだというふうに、これまでの三年間続いたこの審議の過程においては出ておるというふうに思うのですが、いま法務大臣がちょっとちょろちょろっと言われた内容がよくわからないのだが、そういうふうに解釈してよろしいですか。
  131. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 ただいまも申し上げましたように、交通事故をひとつ徹底的になくしていくという、これが私の大きな一つの、何といいますか、強いて言えば政策のいわば目的でございます。それではそれに沿う最もよい方法を考えていく。そのために二百十一条の改正をやろう、こういうことです。非常にわかりやすいと思うのです。
  132. 神門至馬夫

    ○神門委員 いまのはよかったです。いままではあまりよくなかった。いまのように言うてくれさえすればよくわかるのです。簡単にひとつ答えてもらえばよろしい。  それで大臣、そういう目的があるとするならば、禁錮懲役刑にして、三年の上限を五年の長期に延ばす。もちろん過失ならば、全体を重くするのではないから下限というものはそのまま置くのだ、こういうふうなことがいままでの趣旨の中に出ているのだが、このようにおまえがやったら懲役になるんだぞというこの法の威力、威嚇というふうなものがきびしくなれば、交通事故がなくなるかどうか、これはいままでいつも議論されたことなんです。よく議論されたことなんだけれども、まあないよりかましだろうと言う大臣もありました。まあまあしかし金も要るんだから、手っとり早く三を五に変えておいたほうが当面何とかそのというような、いろいろな議論も出ておるのですよ。具体的に言って、先ほどもありましたように、非常に命というものが尊重される人権尊重の傾向にあるもので、この前も示談で千五百万円という大きな金が出ましたね。裁判でも千三百五十万という金が出るようになる。そのような大きな賠償を加害者は被害者から要求されるという今日の状態の中にあって、刑法禁錮から懲役刑になり、また三年が五年になったのだから、何とか緊張しなければならないというようなことが、実際問題として業務過失というような、常に同じような仕事を繰り返しておる人やら、あるいは重過失、たまたまあった人がそういう事故を起こすといったような、そういう原因になる、こういうようにお考えになっておられたか。あるいはそれが具体的にどういうふうにいままでの事故原因から、そのような刑罰を加重することによってこういうふうになくなるという具体的な考え方が、どうもいままでの審議過程を見て、法務当局から説明がなされてないのですよ。そこに、さっき言いましたように、交通事故をなくしようという国民全体の期待に対するこの法改正に完全な意見の一致が見られない大きな原因がある、こう思うのです。非常にこの審議は長くなっていますから、新しく情熱に燃えておる法務大臣ですから、これをずばりさっきのように、よくわからぬ言い方ではなしに、一番あとのほうの、ずばっとわかる言い方で、ひとつお答えを願いたいと思います。
  133. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 この私の考えをずばりと申し上げますと、いままで人を殺そうとどうしようと、乱暴なことをやってしても、禁錮三年以下というようなことでは、昔ではいざ知らず、今日のような、賠償の点に照らしてみても、また人権が重んぜられる、人命が尊重せられる時代においては、もうこれが上がるのはしごく当然な成り行きじゃないかと私は考える。もし上げますればどういうことになるかといえば、注意力をふやしていくということになっていく。注意力をふやすということは、事故を減らすということになっていく。それで私は事故のもとは、やはり注意力が——いろいろありましょう。それはありますが、その原因一つは、注意力が足らないとか、注意力を怠ったという事故というものが相当あるのじゃないか。そういうものに対しましては、私はこれはもう当然上がったことによって注意力が一般にふえてくる。それはもうたいへんな効果に私は評価するのです。なぜかというと、事故というものは、露骨に言うと、やはり注意が幾分か欠けておったというのが、軽い事故にせよ、大きな事故にせよ、もとをただせば、やっぱり多いのじゃないか。そういう点から言うと、この効果は、実にたいへんな効果があると評価して間違いがないのじゃないか。そして軽いのをことさら重くする——法律の上を上げたからといって、何も全部の刑を一様に上げていくというわけでも何でもない。このために、午前にも言いましたように、下のところは一つも上げないのですから、ただ、上を三年を五年にするということで、これは私がつくった法律じゃないが、研究すればするほど、これは非常によく考えたものだというふうに私は考えておるのです。事故というものが注意に関係がないという前提を持つなら、いろいろまた意見があると思いますが、私は、事故というものは、やっぱり注意をいかに払うかということに大きな関係があるのじゃないか。酒を飲んでやったというのも、あれは、酒を飲むと注意力や何かが非常に散慢になるのじゃなかろうか。そういう点からいって、注意というものが事故の減少のあれだから、そういう点からいうと、こういう法律改正は、注意力を非常に増進する意味においていいし、下を上げぬで上だけを上げて、人命尊重、そういう点から無理はないのじゃないか、かように私は思うわけです。
  134. 神門至馬夫

    ○神門委員 注意力万能論的な立場、あるいは注意力第一義的な立場、あるいは運転者自体に事故の大半の責任はあるのだという、いま法務大臣の考え方、実はそこにたいへんな間違いがあると思うのですよ。これはここで長く議論する時間はないのですが、五十五国会において、ちょうど私もこの問題について質問に立ちましたときに前の法務大臣が見えておいでになりましたが、前の法務大臣は、事故原因は何かということについて、三つおっしゃっているのです。これをちょっと読みますと、「まあ、言いにくいことをずばり申し上げるということになりますと、最も大きな原因は道路にあろうと思います。」道路を第一に持ってきておる。それから「第二の原因というものは、運転免許制にあるのではないか。」こういうふうに第二をおっしゃっておる。「それから、これも国会の大臣の申します意見としては、言いにくいことでございますが、どうも歩行者にも重大な責任の一半があるのではないか、」こういうことをおっしゃって、「少なくともこの三点において反省をすべきものがある、こういうふうに私は見ておる次第でございます。」こういうふうにおっしゃっておる。これは、私は非常に正しい言い方だと思う。赤間大臣の場合は、運転者に責任のほとんどがあるとおっしゃっておるけれども、前法務大臣は、道路が悪かったり、あるいは免許制度という一つの制度が悪かったり、あるいは歩行者も気をつけないから、運転者ばかりの責任じゃない、運転者も悪いのだがというような意味の説明がなされておる。ここに、実際問題として大きな見解の違いがくると思うのですよ。総合的な一つ交通政策、各省庁にわたると思います、そういう中での総合的な対策がなかったら、いま交通災害、交通戦争、都市問題といわれる中の重要なこの交通問題の解決は、私はないと思うのです。ところが、ただ単に二百十一条を変えることによって大きな効果があるんだというような、大臣は少し思い過ごしをしておられる。ところが、前法務大臣はこういうことを言っているのです。「これだけで犯罪が根絶されたり、これだけで犯罪によって生じた被害が回復されたりするものではない。しかし、しないよりもよほどましだ、たよりない話でありますけれども。そういうふうに考えまして、」云々と、こうなっておる。いろいろやってみておるのだけれども、まあしないよりはしたほうがましだ、ないよりはいいんだからやる、ぜひ協力してくれというふうに、絶対的に、いま大臣のおっしゃったような考え方をしていない。していないということは、二百十一条に対する改正の緊急性というものの疑問があるとしても、ほかの対策を一生懸命やりましょうという熱意が一つここに出ていると思うのです。ところが、いま大臣のおっしゃるのには、これが注意力が第一だ、そうしてこの法改正をすることによってきわめて大きな影響力があるだろう、こういうふうな考え方があるとするならば、そこに現在、今日に至るまで意見が完全一致しない大きな要因があるんじゃないかと思う。これは根本的に改めてもらわねばならないと思う。それは歴代の——まだありますよ。これはずっと前の議事録を読んでみますと、法務省が独走しておりはせぬかということを、これは自民党の濱野清吾委員がおっしゃっておる。「法務省がこういうことをたいへんだから何とか実体法を改正して防止するという考え方以前に、直接の監督官庁はこれはいても立ってもいられないのが大臣の立場でなければならぬ。」、これは運輸大臣のことを言っている。「しかもそういうことが閣議で真剣に論議されないということはおかしい。」こういうことを濱野さんはおっしゃっている。ところが、そのときの石井法務大臣は、まあずっと飛ばして、「それは設備が悪いから起こっているのもたくさんあると私は思います。だからそれをやらないでいろいろなことを言うのは本末転倒なんです。だから、それをしっかりやらないで、罰するというほうをやるということは、ほんとうを言うとけしからぬということになります。」と、こうおっしゃっておるのですよ。ところが、それに対して——濱野さんいらっしゃるのですか、これはどうも。たいへんいい演説で、私は感銘を受けているのです。ところが、濱野さんは、「一向に閣議で真剣に取り上げてくれたことがないようです。」こうおっしゃっておる。提案されて一年たっているんですよ。「ようです。ただあなたが法務大臣としてお役所にいらっしゃる法務省だけは、法の威力によってこれを予防しよう、あるいはどうしてもいけないものは処罰しようという法律を出して、今日論議が戦わされているわけなんです。」こういうわけで、ほかは何もしないのに、法務大臣だけがいたけだかになって、刑罰を加重して、そうして処分して、いま法務大臣がおっしゃったと同じように、これさえやれば徹底的な効果があるんだというような思い過ごしをしているんですよ、こう濱野さんはおっしゃっておる。それに対して石井さんは、「趣旨はまことに賛成でございます。その心がけで相談していきます。」と、こうおっしゃっている。そうしたら、濱野さんは、「心持ちだけでなしに、やってください。私は身体生命が大事だなどと言って演説したってだめだと思うのですよ、」とおっしゃっておる。いま大臣は一生懸命そういうことをおっしゃっておるが、それはだめだ。「国民はついてこぬと思うのです。」「たった一人の大臣でも真剣にやってくれれば、これはできますよ、簡単なんですから。」こういう議事録があるんですよ。この辺が、実はこれは第一回、第二回の国会の議事録の過程で、これは実際の事故の実績を見ますと、三十七年、三十八年、三十九年と、高度成長政策によって一ぺんに事故がはね上がったのです。それでびっくりして、どうもそのときの内閣は、何とか銭のかからぬいいことはないかと探して、この際ひとつ銭がかからぬから刑法改正しておけということで、これは思いつきで出されたようです。ほとんど閣議では議論されていないということを石井さんもおっしゃっている。それが今日まで三年間も引っぱってこられたということは、一番最初に言っている——私は、何も掛け値はないんで、主観で言っているんじゃなしに、議事録をずっとひもといてみると、赤間大臣はなられたばっかりだから、昔のことはわからぬから一生懸命になっておるのだが、いままでの経過をずっと見ると、初代ほど、いわゆる提案されたときに近くなるほどの法務大臣は、この刑法改正に対して必ずしも大きな期待をしておらぬようです。それが万能だというような考えをしていないのですよ。それがだんだんあとになって提案したときのいきさつがわからぬ大臣ほど、これは万能だ、万能だと言われる。その辺に実はこの問題についてはたいへん重要な根源があるし、今日に至っても交通災害をなくしようという国民的課題が果たされない、それだけの意見一致が見られない根源は、そこにあると思う。私が一番最初に言ったように、三年たってもまだこれが大いに必要でありますということを大臣は自慢げに言われますが、刑法改正して交通災害をなくしようという威嚇主義的な政治のやり方というのは、愚の骨頂なんです。刑法改正してきびしくなくても、事故が三年間たった間にはこのように少なくなっております、なおかつよくしたいから刑法改正に協力してくださいとおっしゃると思ったら、ますます必要になってきますと自慢げにおっしゃっている。この辺は、交通災害対策として刑法改正をすることにおいては、赤間大臣は前のことがよくわからぬから一生懸命だけれども、交通災害が第一義の目的だとおっしゃって、そのことに対して政府が何もしていないということの何よりの証拠じゃないですか。一体大臣はここへ答弁に出られる前に、このような議事録をずっと一ぺん読まれましたか。読まれたとするならば、いままでの法務大臣答弁として出たことばというものはまことに竹に木を継いだような感じがするのですが、その辺はどうですか。
  135. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 私は、読んだところもあれば読まないところもあります。私は、これだけの大災害といいますか、大事故というものを何とかして少なくしょうということに一生懸命なんです。それで何もこれが万能とかなんとかというようなことまでは言いませんけれども、みんなその道その道であらゆる方法で災害を少なくするというのは、これは今日われわれ全部に課せられた一つのつとめである、かように私は考えております。いまお話しになりましたうちでわりあいに気にかかるのは、何か過度に重い刑をかけて威嚇するとかなんとか、そういったようなつもりはさらさらないのです。これはごくわれわれとしては適切なる刑罰で、何も重い威嚇的な考えはありません。乱暴な不注意きわまることをやってとうとい人命をなくさせた者に禁錮五年以下あるいは五年以下の懲役を科するということは、あまり乱暴な、威嚇とかそういうようなものでなく、当然な程度の刑であると私は考えて、威嚇の精神はございません。それから私が言うのは、注意をあまり力説したから、注意だけすればいい、そういうような考えはもちろんありません。やはり車はどんどんふえてくるし、先輩がおっしゃったように、道がそれにつり合ってできないとか、そういうことは当然言わなくても御存じのとおりでございますので言わないのでありますが、私がとにかく力説をしたのは、有料道路のような大きなものでも、やっぱり大事故はときどきよく起こるのです。なぜかというと、夜睡眠しないために、有料道路なんか走ってかえって大きな事故が起こる例をよく見るので、やはり注意をするということが事故を減らす一つの大きな要因である、これを私が力説をいたしたのでございまして、注意さえしていけばいいのだという、そういうような意味でも何でもございません。ただ、注意をするということは事故を減らす、それにはやはりこういう法律改正というものは、一般に警告、注意を与える一つの方法にもなるし、人命をそこなう者には適切な——過酷でない適切な刑を科するということは、何も不自然なことではないのじゃないか、こういうふうな私考え方を持っておるのです。施設も、これだけやれば万能だという意味ではなくて、やはり道路係の人には大いに思い切って道路の拡充強化をしてもらうし、歩道橋係の人には歩道橋を思い切ってつくってもらう、学校関係の者であれば交通教育をできるだけ適当に生徒の頭に入れてもらうというように、みんなそれぞれの道々で注意をしてもらうとか、この刑法改正することについてはだんだん必要が少なくなるのではなくて、事故がふえてくる、車がふえる、しかし道路がそれに伴わないから、ますます事故がふえてくるだろう。だから、こういうことを改正をすることが、事故防止の少なくとも有力な手段になるのではないか、かように考えております。その点ひとつ御了承をいただきたい。
  136. 神門至馬夫

    ○神門委員 この法案が今後何年まだこういうかっこうで続くかわからぬし、何国会にわたるかわからぬが、さっきのように刑法改正することによって事故が大幅に減るなんていう思い上がった答弁をなさらぬように、もう一つ抜本的なことを——法務大臣が何も交通災害を全部背負って立たなければいけないということではなく、あなたの主管ではないのですから、これはまだまだ運輸大臣、建設大臣という直接の主管大臣がおりますから、その株をあまり取らないようにひとつ心がけてもらいたいと思う。時間がそうないようですから、前の国会で聞きたいことがたくさん残っていたのでお聞きしますが、こういうことをおっしゃっているのですね。自動車の生産調整をしたらどうか。いわゆる道路網を中心とする交通安全施設環境が整わない、あるいは道路率というものが非常に低いにもかかわらず、どんどん車を入れておるから、これは免許によってカットする方法もあるでしょう。あるいは陸運事務所におけるナンバープレートによって制限調整をする方法もあるでしょう。あるいは生産調整として全国に見合ったようなやり方もあるでしょう。この中で生産調整の問題について日出内閣官房参事官は「御質問のような点につきましては、交通の総合政策上はきわめて重要なことだと思います。したがいまして、総理府といたしましても、今後の重要検討事項といたしたいと思います。」こういうふうに一年前におっしゃっておるのです。総理府のほうで重要検討事項だ、こういうふうにあのときにおっしゃったことは、私の言ったことをただ単に持ち上げられたのか、それとも真剣に本気で言われて、その後検討されたのか、この点をお考え願いたいのと、それから免許制度のときに、これだけどんどん押し込めば、学校の生徒を教室の机がないのに二倍も三倍も入れて勉強させるようなものです。ですから、免許制度のときに、免許そのものをカットするようなことを免許制度の中に何とか考えておいでにならないのか、あるいはその辺の免許制度を勘案しながら陸運事務所のほうでナンバープレート等の授与のときに何かコントロールすることを考えておいでにならないのか、この三つをとりあえずお答え願いたい。
  137. 宮崎清文

    ○宮崎(清)政府委員 交通事故も一部原因がその点に求められますが、特に交通渋滞につきましては、御指摘のように自動車の保有台数と道路の交通容量のアンバラということが一番大きな問題でございます。もちろん政府といたしましても、たとば道路整備五カ年計画を策定いたします場合、さらには二十年後の道路計画をどうするかという設計をいたします場合に、一応その時点において予測されます自動車の保有台数の伸びを考慮してつくっておるわけでございますが、率直に申しまして、現実にはやはり自動車の保有台数の伸びのほうがやや上回っている。そのために、最近におきましては、あちこちにおいて相当な交通渋滞を起こしているというのが実情でございます。そこでその場合に、これを解消する対策といたしましては、先ほど先生御指摘になりましたように、道路の交通容量を増加する。あるいは自動車の交通規制を行なう。さらには自動車の生産と申しますか、そのほうの規制を行なうという点が考えられるわけでございまして、これらはいずれも大きな問題でございます。実は先ほど御指摘になりました参事官は、私のところにおる参事官でございまして、もちろん私どもといたしまして、特に総理府は総合調整の立場にございますので、それらの問題を真剣に検討したいという心がまえは持っておりますが、ただ現在の時点におきましては、政府の方針として、まだ自動車の生産につきまして制限をするとかしないとかいうことは、結論は得ておりません。それと並行いたしまして、都市交通の渋滞化につきましては、最近いろいろ検討いたしまして、近く種々の具体策を行なうことができるのではないかと思っております。
  138. 鈴木光一

    鈴木(光)政府委員 お尋ねの中に免許制度ということばがございましたが、おそらく運転免許の問題かと思いますが、運転免許はわれわれ警察当局で与えているわけでございますが、運転免許には御承知のように資格年齢がございまして、それによって一つはチェックしているわけでございます。それからもう一つは、免許試験を実施しているわけでございますが、要するに運転するにふさわしい者に免許を与えるという制度にはなっているわけでございますが、その間若干必ずしも適正な運転のできない者に与えておるんではないかという御批判があるわけでございますが、私どもはやはり運転するにふさわしい者に免許を与えるという方針で、従来御承知のように、資格、年齢の問題につきましても、かつて軽免許というものがございまして、十六歳で資格を与えておったのを十八歳まで引き上げて普通自動車にするとか、あるいは大型の免許は二十歳以上、二年の運転経験がなくてはいかぬというような資格の強化をしているわけでございます。それから試験制度につきましても、内容的に充実するというような施策も講じておりますし、それから御承知のように、指定自動車教習所を卒業した者につきましては、技能試験を免除するという制度がございますが、指定自動車教習所の教習内容の強化といったものにつきましても配慮を加えておりまして、あるいは御期待の線に沿えない点もあるかと思いますけれども、考え方といたしましては、そういう方向に努力しているということを御了承願いたいと思います。
  139. 神門至馬夫

    ○神門委員 もう一つ、あのときに大切な問題として、前大臣である田中法務大臣が、いろいろやっているんだけれども、なかなかできない。できるものからやっていく。そのためには刑法二百十一条の改正も、こういうような話があった。ところが、そのときに私は霞が関ビルを出して、あれは一万五千人の人間が入って、展望台ができて、あそこに五千人くらい上がって、あるいはそこへ出入りするところの商人を考えると、二万から二万五千人くらいの一つのターミナルが必要になってくる。こういうことは一体どういうふうに考えられて認可をされたかということを質問したところが、建設省のほうでも、交通問題というのは建築基準法的なものを考えてなかった。運輸省のほうでも、あれが建つからというので、根本的にこの輸送問題を考えたということはなかったのです。そこで法務大臣はこういうふうにおっしゃっております。「おことばのように、小さい都市がそこに急に生まれてきたというだけの困難があるわけであります。」「いまお話を承っておって思うのでありますが、許可をいたします許可、その時点で、交通問題にいかに影響をするかということを考えていかなければ、真剣に都市問題と取っ組んでおるとは言えぬのではないか、こう私は考えます。法規の上で明文はありませんが、」「交通に及ぼす影響というものを念頭に置きまして、許可に対して何らかの手を打つ必要があるのではないか。」「ひとつ念頭に置きまして十全を期していきたい。これをおろそかにしておりますようなことでは、都市問題の解決をどこまで真剣に考えておるのかと言われてみて、返すことばが出てこない、」「反省の材料にいたしたいと存じます。」こういうことで謙虚に——あのときのなには、えらい各省のなわ張りがあって、全然横が通じていないものですから、大臣はそこらをうまくかわされたわけです。その後、その質問をして約十日ぐらいたって、ちょうど私が質問したような内容が出たのです。あそこにビルができるけれども、輸送問題というものは全然考えられていないということが、相当大きなスペースで新聞に出ました。ところがまた、その後浜松町にも建つことが認可されましたね。その後もいろいろ東京都の段階において、こういう超高層ビルというものの建築が計画されている。ところが、きのう建設省のほうにちょっと電話をしてみますと、何人入るかということは認可の段階においても全然検討しておいでにならないようです。うちは建築基準法によって、東京都が建築審議会をもって合法的に来さえすれば、それは認可するのだ。こういうことで、いま交通戦争によって刑法まで改正するということで関係閣僚懇談会ができて何とかやっているのだということは言われておるけれども、これだけ大きな都市の構造的大変革、超高層ビルが建つことによるところの流通変化というようなものについて、全然対応措置がないということは、この前の質問の中で出て、いまの田中前法務大臣の答弁になったのです。その後、この問題について、いまどんどん建築されようとしている現在の段階、超高層ビルになるであろうと思われる現在の段階において、この刑法に対する執拗な執念とあわして、いかに積極的に御検討になったか。そういう面について、ひとつ法務大臣と運輸省、建設省、関係のほうからお答え願いたいと思います。
  140. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 過密都市の問題に帰着すると思うのでありますが、これは自民党におきましても、社会党におきましても、都市政策については特別に調査会を設けられて、過密都市対策の調査が行なわれておるのであります。いまお述べになりましたようなものも、その中に十分取り入れて研究が行なわれて、私もいろいろとお手伝いをさせてもらったのでございます。この過密都市、過疎——また人口が減ってくる府県も相当あるのですが、この過疎対策というのは、いまお述べのように重大な問題で、これがまた自動車交通問題などに非常な影響のあることは、お説のとおりでございます。私は、過密都市をやらなければ、自動車交通その他でほんとうに困る。人口がふえぬようにやる方法はないのかというようなことも、あわせて学者の意見も聞きましたが、どうも人口集中というものを防ぐ方法は大体ないのじゃないか。東京にいたしましても、やはり十年か十五年かたつとまたばく大に人間がふえるし、大阪もそう、名古屋もそうで、人口というものはますますふえるほうにいく。ふやさないということはできぬ。それじゃそれに対する過密対策というものをいまから考えようというので、各党とも力を入れられておるように私は承知をいたしております。しかしながら、自動車をどういうふうにやるか。さきには何か生産制限の話も一部出ましたが、なかなか自動車の制限というものは、取り締まりの上からは、どこの道路は一方交通にするとかどうとかいう、その取り締まりの規則は徹底できると思いますが、自動車の数をふやさないというような政策はなかなかとりづらくて、これもやはり自動車の数はふえていくものと見ておいたほうが間違いがない。そうすると、過密都市に対する自動車対策というものは大きな問題になりますので、ますますいまの法律改正のようなものが必要になってくるんじゃなかろうか、そういうふうに考える。それからまた、事故にいたしますると、御承知のように、過密都市ばかりでなくて、過疎の農村におきましても非常に自動車事故というものが年とともにふえつつあるということを承知しておりますので、要するに自動車の台数はふえ、交通はますますどちらかというと困難性を帯びてくるという見通しのもとに諸施策を講ずることが安全である、かように私は考えております。
  141. 神門至馬夫

    ○神門委員 大臣のほうにえらい時間をとられて、それもはっきりした回答なしに。結局田中大臣がおっしゃったような、超高層ビルという、新しい都市の構造変革に伴う交通対策としては、何もしなかったということなんでしょう。過密問題としての一般論はできても、昨年の七月の国会から何とかしようと言っておられたそのことについては、何もない。一般論、本に書いてあることはおっしゃったけれども、こういうふうに具体的に何をしたというようなことは、全然出なかった。これは刑法二百十一条、二百十一条と、何か一つ覚えておられることを言っておられるが、抜本的な、大きな、政治の責任において果たすべきことを果たしてないという大きな証拠ではないかと思うのです。私らが国会でこうして質問することに対して答弁される、その場当たりの答弁をされて、何とか考えておこうということで消えてしまえばいいけれども、議事録には載ってしまうのですよ。議事録に載ってしまうことを一年たって尋ねてみると、一年たっても何も相談してないということは、一体この刑法二百十一条の執念、改正して事故防止をしなければならぬということ、それでなしに、根本的には大きな都市問題なり道路問題が事故の根源であるということをあなたもさっきおっしゃった。このことを解決しようという意、欲が全然ないじゃないですか。この辺に、ただ運転者のみに責任を転嫁しようという二百十一条のねらいがあると思われる余地というのですか、疑いがあるから、そこで一致しないのですよ。野党も、事故防止のために、交通災害をなくすために改正をしよう、ここに一致しないことは、そこにあるのですよ。何もやっておられなかったということであります。閣議で相談して、この問題は一体こういうことが法務委員会で質問が出たがどうしようかということを協議されるくらい、銭は要りませんよ。刑法二百十一条と同じですよ、銭が要らぬということは。銭が要らぬようなことでもやらないのだから、銭が要ることはよけいやらないということは、いみじくもここに出ておると思う。ですから、そういう点で、この二百十一条というような改正は引っ込めて、ひとつ根本的に、いま言うような継続的に、約束されたことはきちっと政治責任を果たすようにひとつやってもらう、そこに、交通災害、交通事故の根源をなくすることになるので、こういうことを要望しておきます。  時間が来ましたので、一応その他の関係の答弁をお断わりします。
  142. 大竹太郎

    ○大竹委員長代理 横山利秋君。
  143. 横山利秋

    横山委員 同僚諸君の質問がいろいろな角度で行なわれてまいりました。顧みますれば、これで四国会にわたるのですが、私どもが質疑をいたし、あらゆる角度から議論を進めてまいりまして、少なくともその質疑応答の成果は、私はある程度ある。また私どももまた、交通安全基本法の国会上程、それからきょうも総理が言われたのですが、与野党一致で学童の通学路の確保の関係等の案件が上程され、通過され、私たちが、本末転倒である、本来なすべきことをなさぬという点について政府に警鐘を与えてまいりました効果は、私はあると思う。  ただ一つ——一つばかりではないのですけれども、先ほどからの質疑応答を聞いておりまして、赤間法務大臣個人の御意見かもしれぬけれども、よく考えてみますと、結局この法律の基礎となっておりますのが、いわゆる業務上必要な注意を怠るということであり、法務大臣も先ほどからるると、結局注意さえすればかなり事故は少なくなるという点を言われておることに、私は注目をせざるを得ぬのであります。この法律が国会を通過するかどうかわかりませんけれども、少なくともこの段階においては衆議院は通過するだろう。われわれ衆議院議員としての任務の一つのポイントにあたって、私は、法務大臣が注意さえすれば事故は少なくなっていくというその基本的理念について、将来裁判の場合、あるいは検察陣が起訴する場合のことを考えますと、きわめてこれは重要なものの考え方であると痛感をいたします。そこで、むしろ質問をするよりも、ここに非常に有益な論文がございますから、議事録に残すためにも、多少時間がかかりますけれども、論文を読み上げて、将来の指針にしてもらいたいと思うのであります。  その論文は、ドイツ連邦鉄道参事のヘンケル博士が演説をした「人間的な機能不能の心理学的特性」という、ちょっとむずかしい論文ではありますが、近代社会においての人間の注意義務という問題について、ごく端的に問題をえぐっておるように思います。同僚諸君にも少し恐縮でございますが、お聞き取りを願いたいと思うのでございます。  前半は省略します。「「人間的機能不能」という言葉は我々にとって耳馴れたものであり、また残念なことには最近の重大な交通事故によって再び問題になったのですが、この言葉の概念は明瞭ではありません。  その上、この概念には限定することの困難な感情的要素が含まれています。それにも拘らず私がこの概念にアプローチしようとするのは、最終的な定義を下すためではなくこの講演を進める上に必要な基礎を設定するためであります。  「人間的機能不能」という概念は、屡々我々が、例えば事故の際に、技術の責任と人間の責任を区分する意味で使用されています。例えば、「事故原因の八〇%は人間にあり、二〇%は技術の欠陥にある」という具合です。  しかし我々は「人間的機能不能」という言葉を性格的不能という意味にも用いています。「人間が道徳的人格として不能となった」といえば「義務を怠ることによって無責任に振舞った」とか、「信頼や誠実を破って道徳律に違反した」とかいうこと、つまり「道徳的に自主的な人格として期待されるような態度をとらなかった」ということを意味します。  我々にとって大切な意味における「人間的な機能不能」とは、「人間的な過失行為」と同義であります。この場合には、道徳的評価という問題から離れて、人間を行動し活動する人格として取り上げている訳です。行為という点から見ると、人間的機能不能とは「人間が、最大の善意においてさえ犯すかもしれない過失を犯した」ということを意味します。そして「人間的過誤」という言葉−ギリシャ語に「過つは人の性なり」という言葉がありますが‐この余りにも人間的な「過誤」という言葉は、既にザイベルト氏が開会の辞の中ではっきり使われています。  その一例を挙げれば、性格的に非のうちどころのない自動車運転者が、何十年も困難な状況の下でその腕前に折紙をつけられていたのに、大都市の交通でうっかり、「先行」を看過したために交通事故を惹起したというケースが挙げられましょう。以下、この種の人間的機能不能に問題を限定して述べることと致します。  さて、この人間的機能不能は、どのような形で現われるでしょうか?我々は、職業上または職業外の行為にとって重要な総ての精神的領域に亘って、この言葉を使うことができます。但し我々の行為能力の個々の領域についてだけでなく、全人格の領域についても、この言葉を使うことができます。何故なら人間はここでも、精神的な負担の重圧の下で過失行為を犯すことがありうるからです。  ここで、機能の個々の行為領域について、簡単に述べてみましょう。「知覚」においては、人間的機能不能は「見のがし」、「聞きのがし」および「錯覚」、「知覚ショック」として現われます。我々は心理学者としてこれを「統覚ショック」と呼んでおります。  次に「注意」ですが、この場合には、機能不能は主として「集中の不足」として現われます。「記憶」の場合には、「忘却」、「記憶像の偽造」、「記憶の空隙」として現われます?「思考」の場合には「考え違い」、「思考法則の違反」、「過誤」とし現われます。そして行為の場合には、「誤った行為」、例えば「言い間違い」、「タイプライターの打ちそこない」、「取り間違い」、「置き間違い」、「非合理な、また、間違った態度」として現われ、ひどくなると「閉塞」、「行動麻痺」または「ショック」として現われます。  要約すれば、「狭義の人間的機能不能は、自主的な秩序的な行動の操守がもはや行なわれないということによって特徴づけられる」と言うことができます。  次に、人間的機能不能の主な原因について述べてみましょう。人間が機能不能になるのは、人間の能力と負担力にはおのずから限界があるからです。その他の原因としては、年令による能力の減退とか、個人的な素質の欠陥とか、適性の欠如が挙げられます。」  ちょっと一服して、この場における雰囲気といいますか、考えますと、いま委員長がおるにかかわらず、休んでここにおるわけですね。先ほどちょっと居眠りをしました。これは、この部屋の中で委員長が一番みんなに見られて、注意力が一番必要であるからでありましょう。必要であるから、委員長がここにずっといることは、注意力の限界が来たからここに来たと思うのです。それから法務大臣が先ほど同僚諸君に指摘をされましたが、あなたが悪意をもって質問をそらしていろいろなことを言っているのか、あるいはあなたは善意で、質問の焦点があなたにはよくわからなくて、回転がおそくてわからなくて余分なことを言ったのか、どちらかであります。あなたが悪意で質問をそらして余分なことを言ったとすれば、これは問題になりません。別な問題であります。しかし、あなたがたび重なる質問に集中した注意力というものを用いないで、同僚諸君がここだけを聞きたいと言っても、そこを聞き間違えて、ないしは聞きのがして、聞いても忘れて余分なことを言っておるとするならば、これもあなたの注意力の限界がそこにあるわけです。余分なことでありますが、ちょっと。  「この点について、若干の科学的事実を述べることとします。  全エネルギー、即ち心理的および肉体的に我々に与えられている能力のポテンシャルは、無制限のものではなく、また無制限に再生できるものでもありません。即ち、我々は一つの才能を与えられていて、これは活用しなければなりません。この事は、労働心理学や労働生理学が認めています。それについては、我々のエネルギー活動の限界を正確な実験で証明したマックス・プランク研究所のレーマン教授とグラーフ教授の二人の名を挙げるに留めておきます。  さて、このポテンシャルには常に上下の波があります。スポーツを例にとれば最も手取り早いのですが、スポーツマンにとってはコンディションが重大な役割を演じます。ここでも、コンディションが、過失のない行為のために必要な力を発揮し得る状態になければ、人間的機能が不能に陥る可能性があります。  このポテンシャルの上下変動は、生物学的に非常に合理的な法則、即ち緊張と緩和の交替という法則に服しています。周知のように、オルガニズムは、緊張と緩和のリズムに従うようにされています。何故ならばこれこそ活力を維持し、使用するために最も経済的な形態だからです。  従って我々は、常にフルスピードで回転する動力機械を抱えている訳ではなく、「我々の能力のポテンシャルには生理学的な上下変動がある」ということを考慮にいれておかねばなりません。覚醒と睡眠もまた、このようなリズムのバリエーションであります。  我々がさらに、我々の力では制御できない日常のリズムの下に置かれていることについては先の講演者がすでに指摘されました。我々の能率が最も上昇するのは、午前の九時〜十一時と午後の五時すぎです。能率が低下するのは、正午と特に深夜(三時頃)です。我々はまた、能力のポテンシャルが外部の影響(外的要素)によって左右されることを知っています。が、ここでは天候条件の影響について述べてみましょう。  それには、ハンガリアの鉄道が約三六〇〇件の道路交通事故について行なった非常に興味深い調査があります。悪天候の気圧前線が形成された場合には、能力が二〇%減少するということが、この調査によって確められました。従って機能不能に陥る可能性も存在することになります。  もう一つ、労働心理学の重要な認識について述べてみましょう。最大限の緊張状態で連続して労働すると先ず労働の質が低下し、次いで労働の量も低下します。著明な労働心理学者であるヒッシェ教授は、これに関連して、「低下する労働成果」という言葉を使っています。」  ここでまた少しはさみますが、最近ジャーナリズムで自殺がある。あるいは急に神経麻痺で死ぬ人がある。あるいはきょうの新聞によれば、田さんが解説をおりたということがある。ああいうものは、近代社会において常に緊張を余儀なくされておる、全国民からテレビで見られている、緊張を余儀なくされていると、どうにもノイローゼぎみになって、これじゃからだがたまらぬという印象を与えておると私は思うのであります。ああいう著名な人でありますから、テレビをおりるということはたいへんなことだと思いますが、後任がきまらないのにおりてしまった。ああいう著名な人でありますからともかくとして、一般の労働者はそういうことを許されない。そこに今日の課題、法務大臣もよく考えていただかなければならぬ近代社会の特殊性があると私は思います。  「さて、能力ポテンシャルの一般的問題を二三の代表的な例をあげて御説明しましたので、今度は知覚の領域から幾つかの問題を取り出し、特に道路交通の例を用いて、お話ししたいと思います。先ず錯覚について述べてみましょう。  ぼやけた輪廓と面を持つ車両は、この頃の天候では、実際よりも遠く離れているように受取られます。皆さんは、山中で遠目の利く現象を御存知のはずです。即ち、フェーン(熱風)の吹く時は、遠い山も手にとれるほど近く見え、経験によってこれを修正しない限り、距離を余りにも近く誤測するものです。この現象は道路交通にも大きな影響を与えます。この頃の季節では、こちらへ向って来る車両の距離が過大評価されるので、追越しの際により多くの事故が発生します。  次に音響の分野についていうと、高音は、一般に実際よりも遠く離れているように受取られ一方低音は実際よりも近いように受取られます。速度の査定と関連して距離を査定する場合には、基準点が無いと屡々失敗を犯すものです。夜間に、或はアウトバーンの上で速度を査定することが非常に困難なのは、おおむねこの基準点が無いからです。  移動する物体‐例えば車両‐が接近する場合には、これが遠ざかる場合よりも、深層知覚の鋭さは大きくなるものです。ゲムビッツ氏の説によれば、査定誤差の大小と速度の大小との間には直接的な関係があるそうです。  さて、高速度の場合にはどのような錯覚が生ずるでしょうか?非常な高速度の場合には、抹消的な印象はもはや動かなくなります。物体の識別がもはや不可能なほどに高速度の場合には網膜の映像がチラチラして来ます。  もう一つの錯覚現象について述べてみましょう。この現象は稀にしか起りませんが、事故を誘発する恐れのあるものです。それは「希望的知覚」と呼んでもよいものです。例えば、自動車運転者が「確かに青信号だった」と自信を以て主張しているのに、実際は赤信号であったことが実証された場合です。当事者はこれを「責任のがれの言葉だ」と言っていますが、心理学的にみると、そのように簡単に片づけることはできません。運転者が何か重要な期限を遵守するために大急ぎで自動車を飛ばしていたということもあり得ます。そして彼に加えられたこの精神的重圧のために、知覚が希望的に操られて、客観的には錯覚となり、「青信号を見た」と確信するに至るのです。  この外に、いわゆる「観念的現象」というものがあります。路傍の樹木が自動車運転手に対して招き寄せるような魔術的な力を発揮し、これによって事故が惹起されるとか、運転者が意志の働きを失って無意識に樹木に向って事故に逢うとかいうのは、この現象が原因になっています。  次に「注意力」について述べますと、ノーマルな注意力というものは、三乃至八秒程度持続するものであって、注意力が、コンスタントに持続すると考えるのは間違いであります。我々が意識的に精神を集中し、注意力を高める場合でさえも、十七分間以上に亘って高度に精神を集中することはできません。  機能不能に関しては、エビングハウス氏が最初作成した「忘却曲線」の形式による正確な調査があります。この忘却曲線によれば、忘却は、実験により実証できる一定の法則に従っており、しかも経過した時間の対数に比例することが判ります。  次に反応動作(特に高速度の際の反応動作)の問題に触れてみようと思います。我々の能力の最大限界は〇・三秒の刺激時間に在ります。これよりも短い刺激を我々はもはや簡単に知覚し、これに対処することはできません。従って、非常に高速度の場合には、刺激の知覚限界の彼方に、過失行為を犯す要因が存在する訳であります。  このことは、労働生活にとっては、「労働は時間の圧力の下で質的に低下し、場合によっては、粗雑な労働となる」ことを意味します。最近起った一例を挙げれば、一九六一年にウィーズバーデンで開かれたタイプライティングの世界選手権大会において二つの競争が行なわれました。その一つは、間違いなく綺麗にタイプすることで、もう一つは、速く綺麗にタイプすることでした。ところで、優勝したタイピストは三十分間の高速タイプライティングにおいて一七、〇〇〇箇のキイを打ち、しかも二四のミステークを犯したのみでした。二四という数はそれほど多いものではなく、  一七、〇〇〇という数と比較すれば質的にも優秀なのですが、ここで大切なことは、「傑出したトップレベルの人でも過失を犯す」ということなのです。  さて、労働のテンポを下げることによって失敗を避けることができるとお考えになるかもしれませんが、心理学的にはそんな簡単なものではありません。何故ならば仕事の質は、必ずしも使用しうる時間に比例するものではないからです。  過剰の時間は、質の悪化を結果することもありうるのです。特に、心理的緊張や労働への関心がないとき、外の事を考えたり、気晴しをやったり、妄想にふけっている場合はてきめんです。こういう場合には、質の低下どころか、過失をすら演じがちです。  もう少し、重要な事柄について付け加えましょう。本来、多くの行為は、活気のあるテンポで実行する時にのみ成功するものです。たとえば式典の際の行進のように、意識的にゆっくりと歩くことは、我々にとって容易ではありません。それは、我々が普段はもっと速く歩いているからです。職人がハンマーを揮う場合にも、高速撮影のようにスローモーションでやれば確実にやれません。失敗するのが落ちです。  自動車を運転する場合も、同じことがいえます。この場合に我々は、てきぱきした自動的な行為をとることを必要とします。しかし、この自動的な行動は、「万事ゆっくりと慎重にやれ。時間を多くかけよ。そうすれば巧く行くものだ。」という処方箋から導き出すことはできません。自動的な行動といっても、それを時間的に過度に引き延ばすと、確実性を失ってしまいます。  まだ相当ありますので、委員長にお許しを願って、残余の部分を速記録の中に入れていただきたいと思いますが、いかがでございましょう。
  144. 大竹太郎

    ○大竹委員長代理 ただいま横山委員から要望のございました労働経済社発行の「交通事故刑罰」中、ヘンケル博士の「人間的な機能不能の心理学的特性」の論文中、残余の部分については会議録に掲載するに御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  145. 大竹太郎

    ○大竹委員長代理 御異議ないようですから、そのように取り計らいます。
  146. 横山利秋

    横山委員 ありがとうございました。     —————————————  タイプライターを打つ場合でも、過度に意識的に作業すると、反ってミスが多くなるものです。ミスを犯すことの最も少いオートマティズム(自動作業)は、なめらかなタイプライティングの流れの中に存在するのです。  次に、精神的な負担力の限界について簡単に述べてみましょう。我々は、作業に困難な状況が発生する時に特に過失を犯し易い、ということを知っております。例えば、突然右側ヘハンドルを切って隊列から離れる自動車とか、不意に道路に飛び出す子供です。運転者の全部が、直ちに正しく反射的に行動して危険を避けるために、情緒的な安定性(心理学的な平衡と平静)を所有しているとは限りません。一寸した驚きでも、高速度の場合には、ハンドルを切りそこなって事故を惹起させるに十分です。  我々はまた、反射機能の障害が不運を招くこともあるということを知っています。私は医者ではありませんから、病理的な分野については触れません。道路交通の分野から判っていることは、運転者は非常に狼狽しており、反射的に行動することが概ねできず、或は馬鹿げた事をしでかす(例えば、危険を避けるための動作をとらないで、方向指示器を動かしている)ということです。我々はまた家庭的な心配や、職業上のもめごとや病気などに因る心理的平衡の失墜が人間の機能を著しく阻害するということを知っております。これらの機能を低下させる原因が長く続いて、いわゆるストレスを惹起する場合には、特に機能が阻害されます。  このことは、「常に過大な要求が課せられるときは、最良の反射的行動をもはや期待できなくなり、事故が一そう発生し易くなる」ということを意味します。そしてストレスはまさに現代のび漫する悪であり、現代は、その性急さと刺戟過剰によって、過大な要求を課せられた現代人のエネルギーの最後の一滴をも絞り取らずには止まないのです。  行為の分野でも、例えばテコの操作を間違えたり、タイプライターを打ち損ったりという失敗を演ずるということは、特に指摘する必要もありません。従ってきまりきった手順で確実に作業が進められる場合でさえも、熟練工がふとしたことでミスをやることがあります。何故ならば、このオートマティズムでさえも、それが支障なく機能を発揮するためには、最も良く能力を傾注することが必要だからです。  次に、年令によって特徴づけられる変化について述べてみましょう。御存知のように、若い人はその奔放な動作のために過失‐道徳的な意味ではありません‐を犯し易いのですが、これは成年期の特徴として情緒や気分や感情が意識によって確実に制御されないからです。  このような制御する力が十分に強く蓄えられていない場合には、過失を避けるための自発的な矯正も巧くいきません。その結果、例えば、道路交通事故で最大の比重を占めるのは十八才から二五才までの若い自動車運転者ということになります。なお、このような若い人々は、その生涯を通じての能力の全盛時代に属している訳で、本来ならば過失などを犯すことはない人々なのであります。  さて、年をとるに従って能力は低下します。三○代になると、注意力と迅速に反射的に行動する能力が減退し始め、五十代の半ばにはいわゆる「能力の退行」が始まります。但し、誤解を避けるために申上げるのですが、精神的な能力は減退するどころか、最高の円熟期に達することができます。御承知のようにイマヌエル・カントは彼の哲学的名著(三大批判)を七〇代に書きました。  次に、個人的な素質によって能力を低下させる傾向のあるもろもろの欠陥について述べましょう。それは内気な性質の人の不決断な、逡巡的な、おどおどした態度であり、エゴイズムの強い人の適応性を欠く態度(道路交通において無遠慮な行動に出やすい傾向がある)でありますが、煮えきらないのも、ハッスルしすぎるのも危険です。我々は、害にしかならない熱情を「盲目の熱情」と呼んでいますが、これは当を得ています。なおこの外に、人間の欲求不満や、人生に対する否定的態度や、消極的な気分(ペシミズム)から生ずるもろもろの危険性がありますが、これは精神的な過失の培養土となるものです。常にくよくよしている余りにも感じ易い性格の人も、過失を犯す可能性を備えています。  最後に、突然発生した困難な事態を見極め、正しく判断し、的確に対処することのできない知能薄弱者を挙げなければなりません。  以上で、過失の背景となる精神的諸条件についてざっと述べましたが、これに付加えて、「過失を防止する上に、どういう事をすることができるか?」という問題に触れたいと思います。この問題に答えるに当っては、「これを何とか防止しよう」という意志が先ず前提条件となります。私は冒頭で、「ここでは人間的機能不能を道徳的機能不能として取扱わない」と申しました。従って私は、「人間は、道徳的な責任と性格的な円熟から、上記のような機能不能の可能性に対して何らかの防止対策を講じようとする意志を持っている」ものと前提します。この前提に基いて、先ず、「人間は善意だけを育成すればよい。そうすれば何事も起らない」という答が得られます。  さてつぎに、「批判的な心理学的考察を行なう場合に、善意は実際に何を行なうことができるか? 何が人間の力の外にあるか?」という問題を考えてみましょう。  錯覚を例にとってみましょう。人間が自己を‐例えばアルコールの濫用により‐能力低下の状態に陥しいれていない限り、善意の場合には、錯覚を防止するために対策を講ずる必要はありません。各人がその影響を受ける気象についても、同様のことが云えます。「私は、危険な天候の中に突入していることを知っている。私は今や二倍も精神を集中し二倍も慎重で、二倍も注意深くあらねばならぬ」と我々は云うことができます。しかしこの慎重であれという警告は、「場合によっては仕事をあやふやにさせる」という結果をもたらすことがあります。不安におびえている者に、二倍も慎重に運転せよと言うことは、彼を迷わせることになります。相手が向う見ずの男のときは、話は別です。この男に対しては、慎重であれという警告は、事故防止のための良策なのです。  我々が長時間に亘って全力を傾注していると、遅かれ早かれストレスに罹り、必然的に能力が低下する‐ということを、我々は知っております。従って「常に気を落ちつけ、過失を犯さないようにあらゆる手をうたねばならない」という指図は、必ずしも常に遵守できるものではありません。  善意は、忘却に対しても余り役に立ちません。場合によっては、善意は利益よりも損害をもたらすことさえあります。  皆さんは、試験の際に、死物狂になって努力してもはっきり判っているはずの答が容易に思いつかないことを記憶していられるでしょう。このような場合には、善意のメカニズムが簡単には働かないのです。従って、心理学的には、「求めるなかれ。さらば与えられん。」というパラドックスが適用されます。何故ならば、「求めるなかれ」によって、能力を妨げる死物狂の状態が弛緩され、この緊張の解けた状態において名案が思いつくからです。  次にお訊ねしますが、精神の現状を進展させるために意志は何を貢献することができるでしょうか? 私のできることは、回答しないことだけです。助け船となる思いつきは、意志の影響を受けません。思いつきは瞬間の恩寵の如何に懸っていますが、この恩寵は現われることもあれば、現われないこともあり、これを招き寄せることはできません。  ゲーテは巧いことを云いました。「我々は無意識のうちに常にベストをつくしている」というのです。このことは、交通心理学的にも全面的に力説することができます。ふだんは我々の意志の手の届かぬところにある非常用の予備力は、生命が危険な状態に陥った場合には、感情的な刺戟だけで発動されることができます。我々が最高度の非常事態においてこの予備力を必要とする場合には、意志の介入を俟たずにこの予備力を駆使することができます。  自動的な注意について前述したことを、ここでまた繰返す必要はありません。何故ならば、意識的な意志の介入は、場合によっては害をもたらすからです。「八九九番目の足の次に九〇〇番目の足を動かすのには、どうしたらよいか?」という疑問を考え込んで、答えることができず、途方に暮れて歩けなくなってしまったというむかでの話があります。これに関して運転教師は実際の経験から、「あまりにインテリ型の人は運転が下手です。それというのも、余りに考えすぎるからです。」と評しています。従って、「過失という困難な問題からの救助策は、必ずしも知性に求められるものではない。」ということが判ります。  さて、善意が過失の防止にさほど役立つことができないとすれば、少くとも、過失の回数を減らすために十分な時間をかけねばなりません。  これに関しては、私は既に必要なことを申し述べました。勿論、時間という要素は我々の作業の質を良くするのに役立ちます。しかし、速度は交通の大きな要素であります。もし私が、「万事ゆっくりとやりなさい。踏切では停車して、線路の方へ顔を向けて、列車が来はしないかと耳を澄ましなさい。」と云って、それが文字通りに至る処で行なわれたとしたら、交通は窒息してしまうでしょう。交通は幾つかの掟を守らなければなりませんが、「円滑な流動」ということもその掟の一つです。皆さんは御自身の経験によって、「あまりにのろのろと不安気に操縦する自動車運転者は、他人に事故を及ぼす危険がある」ということを御存知のはずです。従って、時間という要素だけから、過失の除去を期待することはできません。  時間がなくなりましたので、とりまとめてお話します。私の述べたもろもろのケースの中の二三については、人間的機能不能を防止するために打つべき手段は全くなく一その他のケースについては少しはある一せいぜい、一つの穴を埋めても又別の穴があくといった状態である。と私は考えます。  印刷の場合のミスプリントを例にとると、最も明瞭に説明できます。全然ミスプリントのない本は無いでしょう。最近或る出版会社がミスプリントのない本を出版することを大方針としてとりあげ、この仕事のために十二人の校正員を配置して、何回も徹底的に校正させました。ところが、表紙にミスプリントが残っているという始末でした。それは、各校正員はきっと他の人が校正してくれたものと考えていたためなのです。  このことは、人間の機能不能のすべての穴を埋めることが如何に困難であるかを物語っています。以上の事実から、我々は、「常に過失のない行為というものは人力の埒外に在る。従って、絶対に信頼し得るものはありえない。」と結論することができます。絶対に信頼し得るものを要求する者は、「人間は完全に機能を発揮する装置である」という観点から出発しています。ところが現実には、そうではありません。そして我々は「ありがたいことには」と付け加えなければなりません。何故ならば、もし人間が完全に機能を発揮する装置であれば、人間の意志の自由とか発展の可能性にとって具合が悪いでしょう。従って我々はこの場合にもホモ、サピエント(知識人間)として、人間であるための代価(機能不能)を払わなければなりません。  以上に述べたもろもろの心理学的事実から、責任問題の解答のためにどの範囲に結論が出るかということを論ずるのは、私の権限外のことで、それは先ず法律上の問題であります。しかし私は心理学者として、一つ付言しておきます。というのは、以上私の述べたことから、皆さんが人間の能力に関して非観的な見解をもたれる慣れがあるからです。我々人間は、原始時代に、今よりももっと静かな環境のために創造されたものだ、と私は思います。その後、我々の周囲は、平静だった過去の時代に比して劇的な激しい変化を受けました。距離の測定という例を考えてみましょう。畑を耕す農夫が山の距離を近く測りすぎたり、遠く測りすぎたところで、それは彼にとって大したことではありません。別に損害や事故が発生する訳ではありません。ところが、この農夫が自動車を運転して追越をするときに距離を測定し損なうと、事故を惹起します。  時間的な条件‐労働テンポとあわただしさ、時間の切迫と刺戟過剰、激烈な交通の発展1は、否応なしに現代の人間を絶えず緊張させ、息をつくひまが与えられないときは、人間を消耗させてしまいます。それは、人間が適応能力を備えているにも拘らず、能力のバランスシートを破産させてしまうほどのスケールで行なわれるのです。  人間が過大な要求の重荷の下で機能不能に陥ると、その機能不能は、「危険を発生し易い活動」—例えば高速度の稠密な交通‐において、屡々悲惨な結果をもたらす慣れが十分にあります。このような状況の下では、人間の能力の限界は、昔の静かな時代よりも一層はっきり現われます。  従って、我々はこれらの一般的に知られた事実と心理学的な認識に基いて、人間の過失を一層賢明に且つ一層正しく判断するようにしなければならないでしょう。  心理学者として、我々は‐医師と同様に1人間に救援の手をさしのべることを、我々の使命と考えております。  そこで私はジャーナリストの方々に対して、機能不能に因って身体や生命が損なわれた場合でも、事件を報道される際に、人間的機能不能の問題を理解ある態度で取扱って下さるようにお願いします。人力を以てしては、常に過失のない仕事をすることは不可能なのです。最後に私はまた鉄道人として皆さんにお願いしたいことがあります。それは、日夜全力を傾注して困難な業務を遂行している鉄道職員の一人が万一人間的な機能不能になったとき、それに対して理解をもっていただきたいということであります。     —————————————  そこで、私が引用をいたしました有名な論文は、先ほど冒頭に申しましたように、法務大臣が、いわゆる注意ということをすれば事故は少なくなるという点に、きわめて常識的といいますか、通俗的な観点を置いておられることに対して、今日の近代社会においてはそれはある限界があるということを、一言でいえば言いたかったのであります。この論文の最後にもそれを言っておりまして、「ジャーナリストの方々に対して、機能不能に因って身体や生命が損なわれた場合でも、事件を報道される際に、人間的機能不能の問題を理解ある態度で取扱って」もらいたいということを言っておるのです。したがいまして、この近代社会において、あらゆる階層において、人間が緊張の連続を余儀なくされる。特に交通事故において、緊張を余儀なくされる。その余儀なくされることについて考えなければ、ほんとうの交通事故をなくするという問題にはならない。過密ダイヤや労働過重や、あるいは経営者の労働者に対する過重な行動要求や、そういうものの観点こそ問題であり、あるいはこの交通戦争といわれることの問題のほうが先であって、人間に注意を常に要求し続けるということは、これは考えなければならないことだというのが、私の最も主張したい点であります。この点について、法務大臣の御反省の弁を伺いたいと思います。
  147. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 近代社会が、一部においては絶えず緊張を余儀なくせられる部面が相当あるという御説のように拝聴したのですが、そういうことでございますか。
  148. 横山利秋

    横山委員 あなた、緊張して——必要な注意を怠っていましたね、いま私が言ったことを。
  149. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 いや、一言にしていうと、緊張の継続というものがどうしても余儀なくせられる部面があるという意味に私はこれを聞いたのですが、そうですが。——それは仕事によりましては、確かにお述べになりましたように、注意力にも限界はありましょうし、それからやはりこの忙しい社会、職務によっては絶えず緊張を余儀なくせられるということは、私もよくわかります。
  150. 横山利秋

    横山委員 ですから、大臣は、そういう社会の中で、あなたの先ほどおっしゃったように、注意さえしておれば事故は少なくなるというだけではだめですよと私は言っているのです。だから、過重な労働や過重な環境の中で、注意をなぜしていなかったかということを言うのは無理ではないか、こう私は言っておるのです。注意しておるのは、これはあたりまえのことだ。しかし、人間的機能不能の段階、限界というものがあるんだから、そういう限界をはずしてやるような環境を整備しなければいけないし、かりに事故を起こしたとしても、どうしてそういう限界がきたのかという点を要因として考えなければ、けさほどもありましたが、情状酌量論ではだめだ、構造的要因として考えなければだめだ、 こういうことを私は言っているのですが、おわかりでございましょうか。
  151. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 私の注意論は万能でないという御説のように拝聴をいたしましたが、それは確かにそういう部面も私は認めます。しかしながら、一般の場合には不注意なために事故が起こるということも、現在の社会で相当認められる節があるのではないか。こういうこともあなたの説と合わせて、不注意のためにいろいろな事故が起こるということもやはり認めなければならぬのじゃないか、かように私は考えるのです。まして今度の二百十一条は、御承知のように悪質重大犯を処罰する、悪質で重大なのを処罰するというようなことが私、頭にありまするので、悪質重大ということになれば、やはり私の言う注意を著しく欠如——ちょっと足らぬくらいじゃなくて、相当な注意力を欠いた結果、そういうことが起こる。悪意ではないが、重大な注意力を相当欠いたから、そういう結果になる場合が多いのじゃないか、こういうふうに私は考えておるのです。
  152. 横山利秋

    横山委員 どうも歯車が法務大臣とかみ合わないのですけれどもね。しかし、かりにあなたのことばを引用すれば、悪質重大なものであるとするならば、これは未必の故意としていままででもやれるし、やってもいいではないかという声がすぐに私の口から出てくるわけですが、これはやめましよう。  私が先ほどからるる説得をしておりますのは、人間の注意力の限界というものについて法務大臣によく知ってもらい、検察当局やあるいは国、使用者すべての人たちが人間の注意力にも限界がある、こういう近代社会において、それがあるから、その環境を取り除くことに注意をしなければならぬ。それから起訴し、裁判する場合においても、結果だけ見て議論をするということは間違いであるということを十分に徹底してもらいたい、こういう希望を言っておるわけです。おわかりですか。
  153. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 お述べの点は全くそうで、私もあなたのおっしゃるように考えております。
  154. 横山利秋

    横山委員 時間の関係で最後に、総理府来ていらっしゃるのですか、私のきのうの質問の焦点はもうお聞きになりましたか、まだ聞いていませんか。——きのうここで質疑応答があって、責任のある省に来てもらいたいという、責任の省はあなたですか。それじゃ責任のある人が私の質問に対して回答してください。
  155. 栗山廉平

    ○栗山政府委員 人事局長でございます。きのうの先生の御質問は、交通事故で起訴された公務員が休職にされて、そのために給与が六割以下となった。この公務員が裁判で無罪になったときは、この休職期間中の差額を何か補償することはできないか、こういう御質問だというふうに伺っております。この問題につきましては、人事局の管轄になるかどうかちょっと問題があるわけでございまするが、私たちで調べました限りの点をお答え申させていただきたいと存じます。  この公務員が起訴されましてそれが休職になる場合というものは、先生御承知のごとく公務員法に書いてございまして、人事院の管轄かと思いますが、公務員法の第七十九条に「職員が、左の各号の一に該当する場合又は人事院規則で定めるその他の場合においては、その意に反して、これを休職することができる。」という条文がございまして、その二号に「刑事事件に関し起訴された場合」ということで書いてございますが、これは休職にすることができるという条文でございまして、必ずしも当然休職になるというふうにはなっておらないのでございます。  それからまた、この休職にする者はどなたかということになりますと、これはやはり公務員法で任命権者が休職にするかしないかという権限を持っておるということでありまして、およそ公務員が起訴をされた場合にその方が休職にされるかどうかということは、この任命権を持っております各省の大臣あるいは外局の長という者またはそれにその権限をまかされた者の判断——判断といいますとなにでございますが、その具体的な起訴の事情等をよく調べた上で、その判断によりまして休職にする、こういうことになるわけでございます。交通事故による起訴の場合も、当然これの方法によってやられるということになるわけでございます。  そこで問題は、休職になるかどうかというのが一つの問題でございます。それからもう一つは、先ほど申し上げましたように、休職になりますと給与が六割以下に減らされる、これはやはり給与法に書いてあるわけでございますが、無罪になった場合にそれでは何らかの補償をすることができるかどうかという問題になりますと、これは起訴にからんだ有罪、無罪の問題でございまして、休職の問題とはどうも場面が違ってくるのではないかというふうにわれわれ考えますので、どうも人事行政の中の関係でこれを解決する、先生のおっしゃるような方向に持っていくということを考えまする場合には、ちょっと人事行政の中ではなじまない問題ではなかろうかというふうにわれわれ考えられるわけでございます。
  156. 横山利秋

    横山委員 どうもこれ、どなたに文句を言ったらいいか、これは責任上、政府を代表するのは法務大臣ですから、法務大臣に苦情を申しますが、きのうの時点においては、この六割以下で数年間生活をするのは困難だから、しかもその人が無罪になった場合には、国家権力としてそういう無罪の人を起訴し、裁判で低生活を余儀なくさしたんだから補償すべきであるという点について、居並ぶ私に答弁された人は、趣旨は了承された模様であります。しかし、それには使用者ではなくして、統治者としての国がこれをめんどうを見るべきだということになり、一体どこの省が所管するかということになりまして、結局まあ堂々めぐりをして、きょう責任のある問題を管轄する省の人が出てきて、どうしたらいいか、法改正は何をどうしたらいいかということを御答弁をいただくことになっておる。いまのお答えはきのうの蒸し返しでございます。それでは困る。この際ひとつ政府が意思を統一して、どこの省がこの問題を担当し、その省は今後この問題について真剣に検討して善処するということを明白にしていただきたいと思います。
  157. 大竹太郎

    ○大竹委員長代理 ちょっと速記をとめて。   〔速記中止〕
  158. 大竹太郎

    ○大竹委員長代理 速記を始めて。
  159. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 いま調べましたが、関係するところがなかなか多いのです。内閣審議室とか人事局も関係がある。あるいは人事院、それからまた労働省にも関係がある。それぞれ関係のあるところをさがしまして、十分ひとつその関係者のほうで協議してあなたのところに御返事をする。できればあなたの希望に沿うようにやる、前向きで研究する、こういうことでいかがですか。
  160. 横山利秋

    横山委員 前向きで検討はいいですが、この際明白にしてほしいのは、これはまあ田中さん、前法務大臣もお約束になったことなんです。あなたのときになって大詰めですね。そこでまた責任があいまいになっては困るのです。ですから、赤間法務大臣が、私が責任を持って善処しますと、こういうことははっきりしてほしいのですよ。私は、結局は法務省の問題だと思います。統治権者として国が権力を発動して起訴し、裁判をし、なっていったのだから、結局ぼくは法務省の問題だと思います。だから、その意味で、厳密には言いませんけれども、私はそう思うのだから、法務大臣、私が責任を持って部内を取りまとめ、善処しますと、こういうことにしてください。
  161. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 法務大臣が前向きの姿勢でできるだけ努力をいたします。
  162. 横山利秋

    横山委員 できるだけというのを何で入れるのですか。責任を持って善処しますと言ってください。
  163. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 実現ができないときはどうなるのです。
  164. 横山利秋

    横山委員 そんなばかな話では、何のためにきのうからきょうまで議論してきてやったか……。
  165. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 できるだけ、関係者が寄って誠心誠意あなたの趣旨が通るように努力いたします。向き方は前向きで、ただ聞くというだけでなく、前向きの姿勢で関係者寄って、できるだけ御趣旨に沿うように努力いたします。(拍手)
  166. 横山利秋

    横山委員 誠意のあるものと認め、与党の諸君が万雷の拍手を送ってくれたので、必ず実現するものと確信をいたしまして、私の質問を終わります。
  167. 大竹太郎

    ○大竹委員長代理 中谷鉄也君。
  168. 中谷鉄也

    中谷委員 一昨日、質問の最終に米軍人軍属またはそれらの家族などの逮捕問題等についてお尋ねをいたしました。本日は本国会になりましてから五回目の質問をするわけでありますので、一、二点に問題をしぼりたいと思いますが、本日手渡しを受けました資料の2によりますと、「合衆国軍隊構成員、軍属又はそれらの家族による業務過失致死傷、重過致失死傷事件の受理、処理状況」という資料があります。   〔大竹委員長代理退席、委員長着席〕 それによりますと、いわゆる起訴率が昭和四十一年で三五・八%、昭和四十二年で三九・六%ということになっております。これはすでに配付されました「刑法の一部を改正する法律案についての資料」七七ページ以下の起訴率、たとえば昭和四十年七五・八%、昭和四十一年七四・六%、すなわち業務過失致死傷、二百十一条前段の部分を引用いたしましたが、これらを比較してどういうことになるのか、刑事局長の御答弁をいただきたいと思います。
  169. 川井英良

    ○川井政府委員 全体といたしましては大体七〇%をこえるところが、最近の業過の事件の起訴率でございます。それに比較しまして、いまお述べになりました米軍関係起訴率は四十一年度で三五・八%、四十二年度で三九・六%ということでございますので、米軍関係は全体の中から抜き出してみますと、かなり低くなっております。
  170. 中谷鉄也

    中谷委員 一昨日私は、かなりきついことを申し上げたかもしれません。要するに、本件刑法改正の中で一番われわれが心配することは、午前中総理の答弁の中に、特権の上にあぐらをかいておるというふうなことは非常に法の秩序の前にいけないことなんだ、こういうふうな趣旨の答弁がありました。検察官というのは、法の執行というものをきわめて厳正に、きわめて公正にやっておるのだ、こういう趣旨の御答弁が一昨日ありましたけれども、一体、こういうふうな米合衆国軍隊の構成員、軍属、それらの家族の起訴率が、率直に申し上げまして、日本国民、われわれの起訴率のなぜ半分にしかならないのか、これは一体どういうことなのか。この点について、事実は私が指摘をいたしました。いただいた資料によって起訴率が半分だということを指摘いたしました。こういうふうなことが、ひいてはほんとうに苦しい生活をしておる交通労働者、裏返していうならば、こういう人に対しては重い処分がないという保証はないということを常に指摘してまいったのです。なぜこんなに米合衆国軍隊構成員と軍属、それらの家族の起訴率が低いのでしょうか。これは検察官の良心に基づく御処分が、どういうわけでこう低くなっておるのですか、この点御答弁をいただきたいと思います。
  171. 川井英良

    ○川井政府委員 この起訴率が低いということについていろいろの見方があると思いますが、米軍関係の場合に、主として軍人が構成員ということになりますので、構成員の公務執行中の事故というようなものにつきましては、もとより向こうに裁判権があるわけでありますし、それからいままで取り急ぎ調べてみたところによりますと、日本人の場合に比べて被害賠償、示談の成立する率が非常に高くて、しかもそういうことについて非常に迅速である。これはアメリカなんかにおける交通事故に自然に訓練されてきて、そういうことになっておるかと思います。したがいまして、起訴、不起訴をきめる段階におきまして、示談ができておれば、何とか一回は起訴猶予でもよかろうというようなものにつきましても、示談ができないために、非常に被害者が処罰をあくまで希望するというふうな場合におきましては、一般の場合におきましてこれを起訴するということも検察官としてやむを得ないことでありまして、そういうこともかなり実情においてはあるわけでございます。ただ、米軍関係の場合におきましては、必ずしも数が多くないわけでございまして、いままでの事例を見ますというと、総体的にいってその示談の点が非常に高額で、しかもそれが迅速に行なわれているというようことも、起訴率がかなり低くなっている原因一つではないかというふうにも考えられます。  それからなお御参考までに、同じ表の中の上のほうに、軍人を除いた一般外国人についての起訴率もあわせて掲げておきましたが、これは「その他の刑法犯」という私どもの統計は、事実上はほとんどが業務過失と重過失でございまして、若干その中に、ここに書いてありますような器物毀棄だとか脅迫だとか、有価証券偽造だとか、あるいは場合によれば賭博というようなものが入っておりますけれども、大部分はほとんど過失事故事件でございます。したがいまして、純然たる過失事故事件だけの比較の表がいま手元にございませんので、正確なことは申しかねますけれども、四十年度には五〇・一%、四十一年度には四三・六%という数字を示しておりまして、過失犯を除いたその他の刑法犯というものは起訴率が高くなっておりますので、それを加味して考えてみますというと、一般在日外国人の事故の場合におきましても、全体の七二・何%というような起訴率と比べてみると、かなり低い数字を示しております。一般の外国人と米軍人との起訴率というものは、一般外国人のほうがいま申し上げました要素が加味されますので、やや高くなっております。こういう來雑物を除きますと、大体似たようなかっこうになるんじゃないかというふうにも見ておるわけでございます。したがいまして、そうすると日本人に重くて外国人に対しては軽いというようなことになるんじゃないかというふうな観察も一応行なわれますけれども、これらの点については、私ども、特に検察官が外国人に対して、特に米軍人に対して、あるいはその家族に対して、意識的に刑を軽くしているんだというようなことではないと思います。したがいまして、もう少し時間をいただきまして、将来この種の統計につきましてももう少し個別にわたりまして具体的なデータをそろえまして、その原因について、合理的な原因を追及してみたいと思っております。
  172. 中谷鉄也

    中谷委員 検察官が法を曲げて合衆国軍隊構成員、軍属と、それらの家族に対する処分を怠っているというふうな指摘はいたしておりません。ただ、しかし、全体としての統計の中で、弁償がかなり行なわれているのが起訴率が低くなった一つ原因だ、こう言われておりますけれども、こういう統計が出てきた中では、全体としてそれらの人に対するところの処分が甘いということは、今後分析をされるようでありますけれども、指摘をせざるを得ないと私は思うのです。そうすると、そういうことは、終始われわれが心配をしてまいりました、苦しい生活をしておる交通労働者が、結局事故を起こしやすいし、処分の対象になりやすい、検察官の手元においても。結局金持ちは助かるということじゃないですか。示談ができたものは起訴されない、示談をしないものが起訴されて刑務所にぶち込まれるということなら、結局刑法改正の刑の上限を上げてもろに被害を受け、そのことによってもろに処罰されるのは、貧しい生活をしている交通労働者だということが、刑事局長の答弁の中から出てくるじゃありませんか。はたしてこの刑法改正というものは、そのような結果と傾向を持つものなんですか。
  173. 川井英良

    ○川井政府委員 事故の犯罪でありますから、犯罪を犯した者が弁償した、示談ができているということでもって、検察官がその他諸般の情状を総合いたしまして許してやったほうがいいというふうに考えるボーダーラインのケースと、それからいかに示談ができ、弁償がなされましても法に照らして起訴して刑事責任を追及するというケースとは、おのずからその間に基準があると思うわけでございます。したがいまして、金のある人は非常に有利だ、金のない者は非常に不利になるということにはならないと思うわけでございまして、検察官が何百万といわれる事件すべてについていささかの瑕疵もなくやっておるかどうかということにつきましては、もとより謙虚に検討しなければならないと思いまするけれども、検察全体といたしましては、決してただいま御指摘のようなことにならないように、またそうあってはならないと思うわけでございまして、その点については十分戒心をしているつもりでございます。
  174. 中谷鉄也

    中谷委員 起訴率が低いのが、米軍人、軍属、家族は弁償するからボーダーラインの者が助かるんだということをおっしゃるから、それなら地獄のさたも金次第じゃないですか。われわれが審議している刑法というのは、結局貧乏人が助からない法律なんですねということを言わざるを得ないじゃないですか。私は、やっぱりこういうふうに米軍人、軍属の起訴率が日本人の半分に近いというふうなことは、検察官が法を曲げたとは言わないけれども、米軍人、軍属に対して主観的に判断が甘いということが指摘されてもしかたがないと思うのです。そういうことは人間のことなんだから。裏返して言うならば、苦しい生活をしておる交通労働者に対して重くなるということもあり得るじゃないですかということを、きわめて危険なものだとして私は指摘をいたしておきます。  次に質問をいたしたいと思いますが……。
  175. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 ちょっといまのに答えがしたいと思う。いまお話しになりましたことは、私は非常に重大なことに考える。私は、やはり日本の法律を適用するにおいては、外人であろうと日本人であろうと絶対に差があっちゃならぬと思っている。(「差がある」と呼ぶ者あり)あっても、私の考え方は。それからまた、金があっても金がなくても、法律の前には平等である、これを法務大臣としては十分徹底をさしていく、こういうたてまえを厳重にひとつとっていきたいと考えております。その点ひとつ御了承をお願いいたします。
  176. 中谷鉄也

    中谷委員 一昨日、米軍人のあの夫人について逮捕しなかったことがまさに正当だとおっしゃるような趣旨の答弁があったから、私はさらにそういう点についての統計数字をもって指摘をしたわけなんです。  次にお尋ねいたしたいと思いますが、要するに悪質重大なものについて、刑の上限の頭打ちのものを、刑法の一部改正によってそのようなものをまかなうんだ、こういう趣旨の答弁がもう何十回となく繰り返されたわけでございます。そこで、念のためにお尋ねをいたしておきますが、そうすると、今後起訴率、公判請求率は変わらない。少なくとも大幅には変わらない。さらに裁判所の実刑率等も変わらないだろうということは、刑事局長からお答えはいただけるのかどうか。ごく少数の悪質重大なものだけの頭打ちについての法改正だということになると、公判請求率、起訴率、実刑率というものは変わらないということになるだろうと思う。しかし、かりにこの刑法改正案が通過をして一年たったときに、公判請求率も、あるいは起訴率も、実刑率も変わっておったということになってまいりますと、法がひとり歩きしたんだということの説明では、われわれは納得できない。少なくとも検察庁のほうにおいて起訴率、公判請求率は変わらないのかどうか、この点をひとつお尋ねしておきたいと思います。
  177. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 いまのお尋ねは、これは何ぶん先のことでございますので、絶対に変わらないとか、あるいは減るとかふえるとかいうようなことは、私は申し上げにくいと思いますが、この趣旨は、いまお述べになりましたように、悪質重大犯の処罰、主として頭のところでありますために、この法律のために著しく起訴率がふえるとかなんとかいうことはあまり考えられない、かように私は考えております。しかしながら、この法律のためでなくて、車がふえて、道はそれに伴って広くならないということになると、事故が、法律のためではなくて、現実にはふえるかもしれぬというふうなことも考えられる。いまあなたがお述べなりましたように、法律によって件数が直接ふえることは少ない。それから、たびたび言いましたが、一般のものがまた罪が重くなるというような傾向は、絶対にもたらさぬ。御質問がとうも——法律のためにはあんまりふえない。その他の客観的な事情でふえるやら減るやら、ふえるほうがあるいは考えられるかもしれない、こういうふうに私は思います。
  178. 中谷鉄也

    中谷委員 違うのです。と申しますのは、御承知のとおり、起訴率は、昭和三十四年から申しますと、七五・九%、七六・三%、七八・六%、八〇・九%、七四・一%、七三・〇%、七五・八%で、四十一年は七四・五%と、起訴率はむしろ低下しているわけなんです。御承知のとおり、起訴率でございますから、受理件数がふえたということとは直接関係がないわけなんです。要するに、起訴率については、むしろ四十一年度は四十年度よりも一・三%だけ減っているという傾向があるわけです。ただ、しかし、私の感じでは、先ほどからわれわれが何べんも指摘をしているように、法の上限が上がったということは、全体としての処分が強化される、こういう傾向はいなめないんだということを申してきた。それに対して刑事局長などの答弁は、上限だけの処分だということを言っておられる。そうだとするならば、今後一年たったときに、これは当然統計の上で起訴率も公判請求率も出てまいります。しかし、求刑基準とか処分基準というものがあるはずなんだから、そういうものは法の改正によって、少なくともボーダーラインの点については動かされないということは明確に答弁されることだろうと思うけれども、その点について確認的にお尋ねしますというのが、私の質問なんです。刑事局長のお答えを求めます。
  179. 川井英良

    ○川井政府委員 ただいま大臣がお答えになりましたが、この法律が三年が五年になったということだけを理由といたしまして、直ちに起訴率を上げるとか、あるいは求刑の大体の目安というものを上げるとかいうようなことは、全く考えておりません。ただ、結果としまして、繰り返し申し上げておりますとおり、三年でまかなえないような悪質重大犯についてこういう手当てをしたいんだということを申し上げておりますので、三年でまかなえないような事態が出てきますと、四年なり五年なりという刑が出るということは、きわめて少ないでしょうけれども、当然予想されるところであります。だからといって、全体の起訴率をにわかに引き上げたり、それから求刑の目安というものをにわかに引き上げをしていくというようなことは、私ども全然考えておりません。  刑事政策は、おしかりを受けるかもわかりませんが、重かるべきは重くやり、軽かるべきは軽くすべきであるという、これがやはり近代の刑事政策であり、私ども法務省の役人として最も心がけていくべき点だと思いますので、起訴率が高くなるというようなことは考えておりません。
  180. 中谷鉄也

    中谷委員 それは全体の傾向としても、今後一年ないし二年後を見込んで起訴率というものは上がってこないだろう、さらに公判請求率も上がらないだろうという見込みを立てた上でそういうふうな基準を設けられるというのでなしに、全体の処理の中においても、統計の上でそういうふうな見込み、おそらく上がってこないということは確かだろうという趣旨で御答弁になっておられるわけですか。局長の答弁を求めます。
  181. 川井英良

    ○川井政府委員 いろいろ条件をつけられましたので、少し慎重になっているんですけれども、別に気持ちの上でどうということはないのです。先ほど申し上げましたときに大臣も慎重におっしゃいましたが、この法律を上げたということだけで、要するにほかの条件を加味しないということで——将来のことでごさいますので、交通事情というものがどういうことになってまいりますか、その辺のところは私どもいまから完全な予測はできませんので、いろいろな条件を加味してまいりますと、その見込みなり予想につきましては、幾らかの誤差が出てくる。これはものごと、将来のことを予想する以上当然なことだと思っております。この法律でこれだけの引き上げをしたということだけで、ほかの条件を別に捨象して考えた場合に、私は決していまの起訴率を上げたり求刑の基準を上げるというようなことにはならない、こういうふうに申し上げております。
  182. 中谷鉄也

    中谷委員 交通労働者を中心とした人たち立場から言うと、歯止めがないということになるだろうと思うのです。  その点を指摘をいたしまして、次の問題をお尋ねいたしたいと思います。要するに、三年以上の頭打ちのものについて、ごく少数だ、しかし、それらのものについて四年ないし五年の求刑をするということはあり得るだろう、こういう御答弁でございます。そういたしますと、従来からの法務省の説明は、大体二年以上という言い渡しは悪質重大犯だ、こういうことでございます。そうすると、本来二年以上という言い渡しが頭打ちをしているんだ。そういう二年以上の言い渡しが、今度の法改正をされた場合に、結局頭打ちを突破したところのほうで求刑をされ、科刑をされるというふうに理解をする。そうすると、全体として上げるんじゃないんだということは、二年以上というふうな科刑をされたものが、三年を五年に上げたことによって、三年を突破したところの求刑をするようなケースなんだということになってくると、科刑統計をとってみますと、三年とか三年以上、二年とか二年以上というものは、三年が五角になったことによって三年の上のほうにいってしまう。そうすると、全体としての求刑を引き上げていかないことには、将来の、昭和四十四年の統計とか四十五四年の統計の場合には、禁錮二年とか禁錮一年六カ月というものはなくなってくるということになってきますね。悪質重大なものについて二年の求刑をしたというふうなもの、あるいは二年六カ月の求刑をしたようなものを、頭打ちになっておるんだから、それを三年以上のところへ持っていこう。そうすると、従来二年というところに何件か出てきておる、一年六カ月のところに何件か出てきておる、そうすると一体、一年六カ月とか二年という求刑のところが、件数がうんと減るのか。ということは、従来どおりの求刑をしていればそういうことになりますけれども、やはり全体として上げていくことになるのじゃないですか。だから要するに悪質重大なごく少数のものだけではなしに、全体として上がっていく。一年六月と二年というものを今度三年と四年のところへ持っていく、そうすると今度一年のものを一年六月のところに求刑を上げていく。順ぐりに上がっていかなければどこかが空白になってしまうじゃないですか。結局全体としての求刑が上がると言わざるを得ない。一部上がるだけなんですよということはどう考えても納得ができませんが、いかがですか。
  183. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 大体の考えとしましては、交通事故が減るということがもう最大のわれわれの望みなんです。交通事故が減って死傷者が減るというのが望みで、刑罰を科することはただその手段なんです。われわれとしましては、たびたび申し上げるように、下は上げない。むしろほんとうに上げることが好きだったら、これは下も上げ、上も上げると幾分かそういう理論も成り立つかもしれぬが、なるべく刑をかけるということよりも件数が上がらぬように、事故が起こらないようにしたいというので、趣旨はわれわれもこの法案につきましては、いままでよりもたいそう重くなるというのは悪質なるものに限った、もうごく限定なんですね。悪質重過失といいますか、そういうものだけを上げるという、それに合わせて、底を上げぬとここに空隙ができるからつじつまを合わせるとかなんとかいうような、要するに右へならえというふうにじわじわとみんな上げるという考えは絶対に始めから持っておりませんから、どうかその辺はひとつ……。
  184. 中谷鉄也

    中谷委員 経験というふうなことがどれほどの価値を持っているかわかりませんけれども、いわゆる右へならえというふうなきわめて俗なことばを使いますが、要するに昭和四十四年とか四十五年の検察統計とか司法統計を見た場合には、上だけを上げるのだ、むしろ刑事局長が何十回となしに答弁されたように、下は上げないのだということになれば中が空白になりますよ、そういうふうなことをきちっとおやりになれますか。そうじゃなしに、上が上がる、二年とか三年のものは四年とか五年とかにするのだということになれば、理屈的にいえば、結局二年の求刑なんて、二年の科刑なんてものはなくなってくるのじゃないですか。底も入ってくるでしょう。二年が入ってくれば一年六月も入ってくる、一年もふえてくる。結局全体右へならえになって、全体の刑の引き上げになることは火を見るよりも明らかです。全体として上げるのですという説明なら、それに対しては反対ですけれども、それなりに説明として論理が通っておる。何か罰金を上げないことだけを言われてうまいことをおっしゃるけれども、中だるみになったり、中が空白になったりすることは経験上あり得ないと思うのです。全体としての刑が上がって、要するに交通労働者や運転手にとっては非常な威嚇がなされるということになると私は思うのですけれども、いかがですか。
  185. 川井英良

    ○川井政府委員 事件は生きているものでございまして、一件ごとにごく顕著な特殊性を持っておりますから、その事件に応じた具体的妥当な刑を盛るということが検察官、裁判官の職責であることは申すまでもないと思います。したがいまして、ただいまそれを算数的にいろいろ問い詰められますので、私も算数的に申し上げてみたいと思うわけでございますが、いままでお手元に提出してある資料は、裁判の結果がそこに三年とか二年半とか二年というふうに出ておるわけでございます。その前にいわゆる検察官の求刑なるものがあるわけでございます。そこでいま問題になさっておりますのは検察官の主として求刑でございますので、求刑についていうならば、二年の求刑をして一年半の判決があった、二年半の求刑をして二年の判決があったというふうなケースと全く同じケースについて、三年なり三年半の求刑をするというようなことは私はさせません。しかしながら今日最高刑禁錮三年でありまして、最高刑禁錮三年を検事が求刑した事件は何十件となくございます。しかしながら判決の結果は、一年半になったのもございまするし、二年半になったのも、あるいは二年になったのもございます。そこで問題は、三年で検事が適当だと思って求刑をしたものについては三年以上の求刑はさせないつもりでございます。しかしながら四年、五年の求刑をしたかったのだけれども、それに値する事件なんだけれども、最高刑は三年しかないので最高刑の三年を求刑した、その結果三年になった、二年半になったというようなケースと同じケースが今後出てくるとしますならば、そのケースにつきましては三年ないしそれ以上五年以下のところで求刑が行なわれることは当然なことだ、こういうふうに思いますので、私は宙ぶらりんというか中空というか、中身というものはそういう算数的なことで問答をしますならば出てこないはずだ、こういうふうに思うわけでございます。
  186. 中谷鉄也

    中谷委員 じゃ、重ねてお尋ねをいたします。従来の会議録によりますと、求刑については法務省においてそれを統括をする、そして求刑基準というものは明確にきめられているのだということでございます。求刑基準というふうなものについて重ねてお尋ねをいたしますけれども、従来とどこが変わり、どこが変わらないか。これは重大な影響があるわけですから、ひとつお答えをいただきたいと思います。求刑基準の内容についてお答えをいただこうとは思いません。しかしいわゆるその考え方について、いま一度確認的に答弁を求めておきます。
  187. 川井英良

    ○川井政府委員 求刑基準というものは、法務省が主体性を持って全国統一しているというようなものはございません。またそれは適当でないと思います。検察の独立性を認める限り、法務省というような行政官庁が具体的ケースに直接影響のある求刑基準についてその統一をはかるというようなことは、理論的に申しましてもそれから実際的に申しましても適当でありませんので、私はさようなことはいたしておりません。ただ、この種の事件というのは大体定型化されたものでありまして、いかに事件ごとに特殊性があると申しましても、大体似たようなケースがたくさん出ております。しかも刑法犯の五〇%をこえているというふうにたくさんになってまいりました。何と申しましても刑政の主眼は公平ということでございますので、公平な処罰が行なわれるようにということのために、各高等検察庁あたりが中心になりまして、その区域内における大体の求刑というものを、それぞれの各個別の事件特殊性は各主任検察官がもちろん決断することでございまするけれども、その前提としての基準を大体きめておこうというようなことで、各高等検察庁限りにおきましては、全部ではございませんけれども、それを持っているところが多いというのが実情でございます。したがいまして、こういうような法律が幸い御協力を得てもし成立しますならば、私は法務大臣にお願いいたしまして、次席検事なりあるいは検事正なり、刑事部長検事なり、直接この事件について責任を持つ者を早急に本省に招集していただきまして、国会で論議されました重要なもろもろの運用についての点その他につきまして、また自然求刑基準等にもわたりまして、十分な、慎、重な趣旨の徹底につとめましてあやまちのないことを期していきたい、こういう覚悟でございます。
  188. 中谷鉄也

    中谷委員 前々国会において津田政府委員が、求刑については法務省において総括をしておるから心配しないでいただきたいという趣旨の答弁があった。そういう趣旨で、やはりいまの刑事局長が御答弁になったのは津田政府委員の答弁と同趣旨の答弁というふうに、これも私は非常に関心を持ちますからいま一度念のために、要するに求刑については、私の見解によれば、かりにそういう中が空白になるようなことがあるとしても下限のほうは上げないのだということだけは、お約束と申しますか、そういう方針なんだということは御答弁いただけるわけですか。
  189. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 もうたびたび申し上げましたように、重大なるものに限って五年以下の懲役ということでありまして、一般の刑を上げるというようなことは責任を持って絶対にいたさない、こういうことをはっきりと申し上げて、順次上がっていくというようなことは絶対ない、さようにはっきりと私からお答えを申し上げておきます。
  190. 中谷鉄也

    中谷委員 厚生省の方に、業務過失致死傷事件医師の問題について、若干お尋ねをいたしたいと思います。  最近厚生省のほうでは、昨年の八月、医療過誤民事裁判例集というのを御編集になりました。そうしてその中には、たしか昭和三十年から昭和四十年までの判決例、全部で五十七例のいわゆる民事裁判例集が収録されております。そこで医師立場から、この民事裁判例の傾向として厚生省はどのような感じをお持ちになっているか、どういう点に現在の裁判傾向について医師は不安と不満を感じ、あるいはまた裁判についての希望を持っているか、これらについて厚生省あるいは医務局として、この収録した判例を詳細に分析検討された結果、何らかの感想と結論をお持ちになっていると思うけれども、そのことについてひとつ明確にお答えいただきたい。
  191. 黒木延

    ○黒木説明員 ただいまの御質問のとおり、昨年に判例集を出版いたしました。このときに、ただいまの御質問にありました点につきまして若干局長が感想を述べてありますので、その点につきまして申し上げてみたいと思いますが、それにつきまして相当に、医師立場ということもあったと思いますが、いろいろな面からいたしましてこの民事裁判例におきましては、どちらかというと普通の場合医師責任を重視する傾向が強い、こういう感じを抱いたようでございます。それが率直に、医師注意義務ということにつきまして、民事の場合につきましては少し重いのではないかという点を記載しております。
  192. 中谷鉄也

    中谷委員 要するに最近の傾向は、医者立場から見ると、被害の結果を非常に重要視される傾向が強い。そこでお医者さんにとっては不能なきびしい注意義務を要請せざるを得なくなっているような感がある、こういうことはお医者さんのいわゆる自然科学的な判断と裁判をされる裁判官の方の社会科学的な判断とがますます懸隔を増大しつつあることの証左であると見なければならない、こういう分析をしているわけなんです。  そこで、そういう立場からいいますと、私は次のような点を憂慮をいたします。事は民事判例についての全体の傾向の分析ですが、業務過失致死傷の刑が上限三年が上限五年の懲役もしくは禁錮ということで上げられた。そうすると、たとえば手術というものは本来傷害行為であると思うのです。いわゆる違法性を持たない傷害であることは間違いない。そういうふうなものについて、非常に高度に発達した医療行為を行なうというふうなことが成功するかしないかという一つの確率が非常にあやふやだ、しかしそれは非常に高度に発達したところの医療行為だというふうな場合に、業務過失致死傷という刑が重くなって、そのことについて医師が非常に大きく拘束されておるという中では、従来の旧式な通常の方法によって医療行為を行なう、そういう危険な、へたをすると業務過失致死傷に問われるような医療行為についてはやらない。要するに非常に憶病になる。そうしてそれが結局医学進歩にマイナスになるというふうな傾向が生ずるおそれがあると思うが、この点はいかがでしょうか。
  193. 黒木延

    ○黒木説明員 確かにいま御指摘のありましたとおり、医療の、ことに手術のような問題、特に最近進歩してまいりました脳外科あるいは心臓外科等の問題につきまして、法律上そういういろいろなむずかしい点があることは承知いたしております。しかしながらただいまおっしゃいましたように、普通の当該医療行為につきまして、単に機械的、一般的ではございませんで、通常の状態におきまして、その個々の当該医療行為を行なう場合に必要な平均的なものの注意というものを考えておりますならば、これは自然に、当然といいますか、刑事責任を問われるという事態はないようにと考えておりますので、そういうような場合につきまして、特に今後新しい分野の開拓その他につきまして制限、おのずから抑制が行なわれるというようなことは考えおりません。
  194. 中谷鉄也

    中谷委員 現場のお医者さんはそのことについて非常に関心を持っておりますが、医事課長という立場からはあまり抑制が行なわれないことを期待するということ以上のことは出ないと思いますから、次の質問に移りますが、要するに次のような場合は一体どうなるのですか、法務大臣と厚生省にお尋ねをいたしたいと思います。  と申しますのは、武見参考人のお話の中にもごくわずか出たのですけれども、いわゆる臓器移植、とりわけ心臓移植を行なうというようなことが南アフリカのほうで行なわれた。そういうふうなことの場合、そういう臓器が生きていなければ移植が成功しないというふうに思われる、そういうことらしい。そういう場合、片一方のそういう臓器が生きているということは、そういう個体の生命は停止していないと考えるべきだ。そうすると、そういうふうな命のあるものから臓器を摘出するというようなことは法律に抵触するものなんだろうかどうか。どうも私は抵触するのではないだろうかと思う。心臓移植の手術というようなものは、たとえば生命の尊貴というふうなものからいって、日本の医学の水準からいえばやれるだろうけれども、絶対にやるべきではないという説もある。これはお医者さんの中にも功名心にかられてこういうふうなことをやる人がないとはいえない。そういうわけで大臣の御見解、刑事局長の御見解、厚生省のこれに対する御見解、これらをそれぞれひとつお伺いをしておきたいと思います。
  195. 上村一

    ○上村説明員 いまお話しになりましたように、臓器を移植するために死体から臓器をとる場合と、それから生体から臓器をとる場合とがございます。それで死体からとる場合につきましては、まず死亡の認定をどうするかという非常にむずかしい問題がございます。現在の医学では、心臓の搏動なりあるいは呼吸がとまる、それから瞳孔反射、ひとみの反射でございます、それが消えるといったようなことを指標にいたしまして医師が死亡診断を下すというようなことでまいったわけでございます。ただ、いま御指摘のように、臓器移植というのが、心臓という、何と申しますか、人の生死の判断の機微に触れる事態になりまして、新聞紙上でも御案内のように、あるいは法学者、医学者あるいは宗教家等からいろいろな意見が出てまいっておるわけでございます。その結論を出すために、私ども相当慎重に検討しなくちゃならないと思います。  引き続いて申し上げますと、死体の場合には、現在御案内のように角膜移植に関する法律がございます。この角膜移植に関する法律が制定されましたときには、これは一つは、角膜の損傷によって視力を失なった人に対して角膜が移植できる技術は進歩したけれども、一方で死体損壊罪との関係があって、そこに問題がある、それから角膜移植をする角膜のあっせんをする人を取り締まる必要があるということで法律をつくったわけでございます。したがって、死体から臓器をとる場合には、そういう立法例がございますから、刑法の死体損壊罪との関係で立法措置をするほうが適当ではないかと思うわけです。  それから、生体から臓器をとる典型的な例がじん臓でございますが、じん臓の場合には刑法上の傷害罪に触れるかどうかという問題があるわけでございます。これにはいろいろな説がございましてなかなかむずかしゅうございますけれども、刑法傷害罪が成り立つか成り立たないかについて、そういった生体からじん臓を摘出することが社会的に相当の理由があるかどうかということで判断されることになるのじゃないか。私ども現在の時点ではいま申し上げたように解釈しております。
  196. 川井英良

    ○川井政府委員 緊張の極でいささか注意力を欠いておりましたが、たいへんめんどうな御質問で、慎重に答えなければならないと思いまするけれども、一般的に申しまして、医者注意義務というものはその他の業態の注意義務とかなり内容において変わったものがあると思います。これはいままで私どもかなりいろいろな事例を集めて研究をしたところでございまするけれども、過去にあった事例の中で、一人の開業医が、まだ一般医師界において病理的にもまた臨床的にも一般に明らかに認められていない療法を、ごく自分の個人的な研究心のあまり実際にそれを施療したというようなことでもって、たちまち三人の患者を死亡させ、三人に重傷を与えたというケースが過去に問題になったことがございます。こういうふうな場合におきましては、やはり医者として具体的な事情のもとにおいて最も妥当、また相当とする措置をとるべきであるにかかわらずとらなかったということで、医者過失というものが初めて出てくると思いまするけれども、先ほど想定になりましたような、ごく最近の医学界のできごとのようでございますが、まだそれについて十分私確信を持って、日本の法理に当てはめた場合にどういう結果になるかということについて即答するだけの研究を遂げておりませんけれども、結局武見参考人が申しましたように、結果があれば直ちにすぐ医師過失というわけではもちろんございませんで、法律的に過失があったかいなかということが初めて、医療過誤におきましても、医師の刑事責任の問題というものは初めてそういう場合に登場してくる、こういうことになりますので、しからば法律上の過失責任とは何ぞやということになりますと、また法律上の原則に戻りまして注意義務を欠いたということになるわけであり、しこうしてその注意義務とは何だ、こういうことでありまするならば、結果の予見ができたのにその予見をしなかった、あるいは予見されたにかかわらずそれを避けるために最善の措置をとらなかったということが、究極のところ法律上の過失の有無ということになってまいります。またその法理の原理を具体的なケースに当てはめまして、具体的な場合にはたして結果の予見ができたかできなかったか、それはできたかできないかということは、具体的な事情のもとにおいて水準的な医師の知識と経験というものに照らして判断されることになると思いまするけれども、さらにまた、予見ができたのに十分な最善の措置をとることができなかったかあるいはできたかというようなところで、最後の法律上の過失の有無ということがきまってくる、こういうことになろうかと思います。原理的原則の説明だけで、御納得のいくような説明にならないことはよくわかっておりまするけれども、ごく最近のまた具体的なケースにつきましても非常に検討困難な問題でございますので、でき得ればもう少し検討させていただきたいということでございます。
  197. 中谷鉄也

    中谷委員 こういう質問をさせていただいたのは、要するに東京大学の木本教授らを交えて、法務省と厚生省のほうで臓器移植法案の制定準備委員会というふうなものをつくろうという動きがある、このことをお聞きしたい、そういうことで、厚生省のほうからの答弁の中にかなり明確にお答えがあったと思いますけれども、かりにそういうことがあるならば法的な規制、角膜移植についての立法的な措置と同様なものを、少なくとも法的な規制が必要だろうという点。これは大臣にお尋ねしている。それが一点。  いま一つは、いろいろな議論があるでしょう。医学的な宗教的な、あるいはまた倫理的ないろいろな意見はあるでしょうけれども、法務省立場としては一体どうなのですか。臓器移植法案制定準備委員会等の審議を待って、法案立案をするかどうかは別として、ある程度の討議、結果が出されるまではこのような心臓移植などという手術はすべきではない、かりにそういうようなのをした場合は、業務過失致死傷あるいはひどい場合には殺人罪にも触れるということになるのか、それともそれは医者の良心にまかすのか、法的に規制し、そういうことはすべきでない、結論を待てと警告するのか、このあたりは一体どうなのか。これをひとつ大臣のほうから御答弁をいただきたい。
  198. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 お述べになりましたように、最近学界が中心になって、厚生省、また法務省も加わってそういう準備の委員会をつくろうというようなお話を聞いておるのでございます。そういうものの成立を見てひとつ法務省としては処置したい、こういうようなことであります。わかりましたか。
  199. 中谷鉄也

    中谷委員 局長にひとつ……。
  200. 赤間文三

    ○赤間国務大臣 それでは局長、政府委員から…。
  201. 川井英良

    ○川井政府委員 主として外国において行なわれている事例のようでございますが、外国で行なわれておりましても、それぞれその国の法理によりまして許されておる場合と許されない場合があると同じように、またわが国はわが国としまして独特の法体系を持っておりますので、同じようなことが行なわれた場合に、日本においてはたして刑法との比較等についてどういうふうな評価を受けるかということにつきましては、その新しい事態と、それから医学進歩と、それから人類の幸福という大きな目的と、それからいま言いました日本の刑法の法理と、あるいはその他医学関係の法理というものを総合勘案いたしまして、どういうふうな場合に許されるかというようなことは、これは慎重に検討を要しなければいけない問題だ、こう思います。  いま聞きますと、最近、学会が中心になりまして、厚生省の方々も加わりまして、この問題についての検討を進める段階にきているように聞いております。私どもも重大な関心を持つ事柄でございますので、法務省からもその問題について、許されるならば係官が出て、そして意見を聞いたり、あるいは意見を述べるというようなことに話を進めるようにいたしたい、こういうことでございます。
  202. 中谷鉄也

    中谷委員 最後に総理府にお尋ねをいたしまして、私の質問を終わります。  刑法改正案の審議に当たりまして、刑法上限を上げたからといって交通事故は減らないじゃないかということをずっとお尋ねし続けてまいりました。まあ、刑法上限を上げたからといって、それが直ちに交通事故の減少に結びつくものではないという御答弁も終始ありました。しかし、そういうふうな質疑応答とは別に、交通事故の絶滅をすることは、これはもうわれわれの仕事であり、悲願だと思うのです。ところが、午前中総理にもお尋ねをしたのですけれども、交通安全基本法をいよいよこの通常国会で提案したいという政府の意思がある。ところがその裏付けとなる長期計画というものについての立案がなされておらない。だから、その歩道橋をつくる、あるいはその車道と歩道とを分離するとか、いろんな施策をしたとしても、それは一万三千余の死者を一体年次にどれだけずつ減らしていくのかという、そのプロセスの中で施策が行なわれなければならない。施策があって、施策はこれだけの施策をしたというのでなしに、必ずその施策というものは、先行投資としてそういうものを減らしていくところの年次計画に沿うものでなければならないということなんです。そこで、長期計画が立案されておらないのだけれども、年次計画を一体いつごろまでにおつくりになるかということ。それから、一体総合施策の中でそういうふうなものを、私が指摘しているような、年々交通事故者の数を何%か減らしていくというふうな、そういう計画は責任を持って立案できるかどうか、これは刑法について強く私及び私の同僚は反対をしてまいったけれども、交通事故、ことに交通死傷者を減らすということは、これは国民として当然の悲願です。  最後に、そういう長期計画の樹立の意思と、計画のその具体的な内容はまだ決定していないにしても、そういうことについてどういうふうにお考えになっておるか。その構想をお聞きして、私の質問を終わりたいと思います。
  203. 宮崎清文

    ○宮崎(清)政府委員 交通安全施策につきましては、ただいま総理府がとりまとめ役になりまして、諸般の対策をいろいろ実施いたしております。項目といたしましては、御批判もあるかと思いますが、大体漏れなく網羅しておるつもりでございますが、ただ問題は、今後も増加が予想される事態に対処いたしまして、これを効果的に実施するためには、確かに御指摘のように総合的な長期計画の樹立が必要であろうと考えております。もっとも現在でもすでに一部、たとえば交通安全設備の整備事業三カ年計画というようなものもございますが、総合的な計画はまだできておりません。総理府といたしましては従来から、何とかしてそういう総合的な計画をつくりたいと関係各省庁といろいろ接触いたしておりますが、今日に至るまで、まだ成案を得ておりません。これはなかなかむずかしい問題がございます。  二、三申し上げますと、予算の問題を抜きましても、長期的な計画を立てますためには、その前提といたしまして、一種の情勢判断が必要となるわけでございます。この場合、交通の情勢判断というものは何かと申しますと、数年後に予測される交通事故の状況でございます。これはなかなかこの委員会においても御議論のございますように、交通事故原因が複雑多岐でございますので、これを的確に数年後の交通事故の情勢を見通すことは、なかなか困難でございますが、これも何とかやっていきたい、このように考えております。  第二は、ただいま先生の御指摘になりましたように、長期計画をつくる以上は、その達成目標が必要となるわけでございます。交通事故は、もちろん理想といたしましては、これをゼロにすることが望ましいわけでございますが、現実の問題といたしましては、なかなかそうはいたしかねる。そうなりますと、たとえば予想される交通事故、現実に申し上げますと、交通事故の死傷者数を大体当面どのくらいに押えるかということが問題になるわけでありますが、これもなかなかむずかしい問題でございまして、直ちにそういう結論を出すということが非常に困難でございます。したがいまして、現在では非常に総体的ではございますが、たとえば欧米の交通先進諸国との比較などをいたしまして、大体数年間でこのくらいまでに何とかとどめたいものだ、こういうようなことを考えております。  それから第三番目は、この達成目標がかりに設定されましても、これと個々の計画との関連性をどう結びつけるか、これもなかなかむずかしい問題でございます。  以上、申し上げましたように、長期計画につきましては、その必要性は十分承知いたしておりますが、いろいろむずかしい点がございますので、今後も検討してまいることといたしたいと思っております。ただ、そうも言っていられませんので、総理府といたしましては、現在まだ最終的に政府部内で意見の一致を見ておりませんが、かりに交通安全基本法というようなものを出します場合には、その一環といたしまして、長期計画の策定と、その達成期間というものをうたいまして、とりあえずは多少ラフな計画をつくることになろうと思いますが、試行錯誤的にそれを順次正確なものにしてまいりたい、このように考えておる段階であります。
  204. 永田亮一

    永田委員長 次回は、明二十九日午前十時より理事会、午前十時三十分より委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。    午後七時九分散会