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鈴木(一)
委員 国立と私学の場合はまたかなり
事情が違うと私は思うのです。私学の場合は、授業料はどんどん値上がりしていく。経営上やむを得ないからこうしているのだと思いますが、のみならず、これも入学希望者が多いからそうなるのだろうと思いますが、たとえばある
大学のごときは、法学部の定員は六百名ということになっておりますが、実際は倍以上の生徒を収容しておる。おそらく入れた人全部出席したら机もないのじゃないかと思われるような感じがするわけでございますが、そういうふうにして高い授業料を払い、無理をして
学校に来てみて、あまりにも血の通わない空ばくたる
教育の場に来てみておそらく失望を感ずる。特に地方から出てきたような人は、アパートや下宿というところに住まいながら非常な失望を感ずるというふうなことは、私は想像にかたくないのです。また、そうした運動をする人
たちの運動方針なんかを見ますと、入学したときこそ大いに同志をふやす絶好の機会なんだというふうに言っておるようでありますが、こんなふうな
状態では、やはり多感な若い者でございますから、こうしたことは国家が悪いのだ、この国家権力を倒さなければよくならないのだというふうに思いがちだと私は考えます。したがって、そういう学生運動が苛烈になるような条件というものは、私は私学側にはたくさんあると思うのですね。しかし、
国立のほうの側では、授業料といいましても月千円くらいで、いまの
一般の学生の
状態から見れば非常な上位に置かれ、国家の恩典も十分そこに与えられており、恵まれておる立場だと私は思うのですね。にもかかわらず、こうした運動が起こり、もしごたごたしても当然一日くらいは
お互い停戦して卒業式くらいはやってもおかしくない、常識的なことが行なわれないということに対して、私はただ学生だけが過激なことをするのだ、他に意図があってやるのだ、革命予行演習だ、あるいは七〇年の安保に備えて
一つの地固めをやっておるんだ、組織固めをやっておるんだということだけでは済ませられない、えらいものがあるような気がするのです。
どうも私はこの点ふに落ちないというか、私
自身もどうしていいか
対策はわかりませんが、やはり私は、先ほど申し上げましたように、
教育の場における
大学側と学生側との日常からの対話というか、心の触れ合いがあまりにも少な過ぎやしないかというふうな感じがするわけでございます。これはこれ以上申し上げても切りのないことでございますが、これに対していろいろ法律に基づいて取り締まれというふうなことも言われておるのでございますが、やはりそういうふうな方法も
一つの方法かもしれませんけれども、かえってまた逆に刺激してそれを強めるというふうな結果もあると私は思いますし、また、われわれ微力ながら現実の政治に関与しておる者の立場の自己反省として考えられることは、しからば政治そのものが非常にりっぱにいっているかとなれば、必ずしもそうでもないし、またオーバーな報道かどうか知りませんが、ときどき政治家のいろいろな汚職とかが新聞にも報道される。と同時に、選挙そのものも権力とか金力とかいろいろなもので、私は決してりっぱに行なわれているとは思いませんし、学生
たちに対してそういう
方面にかり立てるような政治上のもろもろの悪条件も決して一方にないとは私は思わないわけでございます。ですから、いきなり頭から法律で取り締まってしまうんだというふうなことの前に、もう少し時間をかけて手を尽くすべきいろいろな問題があるのじゃないかと私は思います。
同時にまた、
お互い日本人の気質には、やむにやまれぬ大和魂的な、損得を度外視して、こうだと思うと、もうめちゃくちゃに突き進むというような気質というものも十分あると私は思うのです。たとえばことしは明治百年ですが、明治維新の場合でもそういうふうなことが見られるし、水戸の浪士の切り込みとか神風連とか佐賀の乱とか、あるいは西南の役とか新撰組だとか、過去にさかのぼってみれば数々のそういうふうな、もっと何とかならなかったかと思われるようなことが実際に行なわれている。ある者は国賊となり、ある者は忠臣と申しますか、国家のためだというふうな評価もされておるわけでございますが、いずれにしてもそこに共通した
日本人的な
一つのかたぎと申しますか、そういうものがあると思うのです。
ただ、こういうことがはたして時代の流れを推し進めるものか、あるいは時代の流れに逆行するものかどうかということは、私は学生も十分考えてみなければならないと思うわけであります。いまの
日本においてああまでしなければならないのかどうか。民主的な法的秩序からいうならば、大体あらゆるものが十分備わっておる。一人一人の権利というふうなものも十分発揚できるような形に一応法的にはなっておるわけでございますから、あえてああいうふうな行動に踏み切らなければならない積極的な
理由というものは私としてはあまり考えられない。ですからもう少し、ただ取り締まるというだけではなしに、学生にもそういう反省の機会を十分与えつつ、またこれを善導するような
対策を、文部当局も、もちろんわれわれもそうでありますが、
大学も考えて、短兵急に事を処理しないで、時間をかける。一日ああいう暴力をふるうよりも、三百六十五日じっくり話し合いをしたほうがまだこれは世の中のためになるのだという方向へ持っていくように、文部当局もひとつ気長に、短気を起こさずに対処していただきたいということを特にお願いしたいと思います。決して私は彼らのやっていることを是認して、奨励する
意味で言うのではなくて、悪いが、しかしああいうふうな行動をとる
一つの客観的な要因も他にないわけではないと思いますので、特に申し上げたいと思うわけでございます。
それからもう
一つ、最後にこれは要望を申し上げておきたいと思いますが、私学に対して
政府もいろいろ直接間接助成もされておるわけでありますが、それでもまだまだ入学志願者を全部収容できないような
現状になっておるわけでございます。私は、こうした問題を解決し、あらゆる者に
教育の機会均等をという原則の恩典に浴せしめるためにも、
国立の
大学が中心になって、通信
教育というふうな制度もそろそろ開いてもいいのじゃないかというふうな感じがするわけでございます。ある者は高校を卒業して直ちに職場につとめてもいいと思います。ある者はまた昼間つとめながら通信学部だけで
大学を修了するということをやってもいいと私は思いますし、特にテレビのようなものは、コマーシャルとか野球とかいろいろなそういう娯楽だけではなくて、たとえばNHKの
教育テレビのようなものはこれに専属当たらしめて、そして単なる通信だけではなしに、テレビも併用するような形で
大学の通信
教育ができるようなことも
文部省として考えるということはどういうものか、
大臣にひとつお伺いしたいと思うわけであります。
私、なぜこんなことを申し上げるかというと、われわれによく就職の世話なんかを頼みにくる者があるわけでありますが、働きながら無理して各
大学の通信
教育を受けて
大学を出たという生徒は、おおむねやる気があるから初心を忘れずになし遂げたと思うのでありますが、非常に優秀な人
たちが多いわけであります。ただしかし、何となく世間では二部よりも一部を出た者を特に優先的に採るような傾向があるわけでありますが、折り入って経営者によくその話をしますと、よくわかっていただいて、しかもこの人
たちは世話した
あともその職場では非常に重要な
役割りを果たしながら、中堅幹部として働いておる者が非常に多いわけであります。ですから、どうしても通信学部に入ってついていけない者は脱落するのもやむを得ないと思いますけれども、その卒業する道を聞いてやることは国家としても非常に大事なことではないかというふうな感じが私はするわけでございます。ただ、こういうことを申し上げますと、普通の職場に働きながら一カ月なら一カ月のスクーリングをやることは非常に困難だという場合もあろうかと思いますが、これはやはり経営者の協力を得て、少なくとも年一回のスクーリングは、一カ月間は有給休暇を与えてやるというふうな、民間からも、経団連とか日経連とかいう
機関を通じて、これは財界も、ただ労働者
対策ばかりやるのではなくて、そうした国民的な課題に対しても積極的に協力するというふうな、
全国的にそういうムードをつくることによって、有給休暇を与えて、一カ月間ぐらいスクーリングをやる。同時にそのスクーリングも、全部東京とかそういうところに出ていかなくとも、東北なら東北
大学で通信学部を設けて、スクーリングをそれぞれ地元の
国立大学でやれるようにする。こういうこともやる気になればできるのではないかと私は思うわけでありますが、やる方法はともかくといたしまして、
教育の機会均等を実現し、いろいろな
意味で、高い授業料を払ってそれぞれの私立
大学に行かれない多くの生徒もあるわけでありますから、そういう人
たちの能力を十分発揮させる
意味からも、そういうものを考える必要がありはしないかというふうに思うわけでありますが、
大臣の御所見を承って、私の質問を終わりたいと思います。