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大出委員 ということになりますと、ここで
一つ例をあげて私申し上げたいのでありますけれども、ある一人の現職でいま
国鉄公社に
おいでになる方に例をとりますと、満鉄で、
明治三十九年にできたのでありますから、非常に
長期に満鉄につとめている方があるわけであります。
現地満州で満鉄に入った方で、入って満鉄に十八年と七カ月在職しておられた。この十八年七カ月目なるものがつまり
ソビエト参戦、こういうかっこうになって
終戦につながっていったのであります。それまでに、満鉄だけに
勤続年数十八年七カ月つとめておられた。その後紆余曲折がありまして、
抑留だ
云々だいろいろございましたが、
日本に帰ってきて
日本の
国鉄におっとめになった。そして
国鉄におつとめになっているが、
在職期間満了でございまして、おやめになる寸前なんでありますが、その
国鉄在職年数が十八年と九カ月になる。この方の例をとりますと、満鉄に十八年七カ月おつとめになった、
日本の
国有鉄道に十八年と九カ月おっとめになった、こういうことであります。しからば、いまの満−
日ケースでいった場合に、この方の
恩給というのは一体どうなるかということなんです。これは足して
あとから端数その他は整理するのでありますから、そういう
意味で計算をいたしますと、これは大体三十七年四カ月になる。まあ約三十七年半。ところが、いま
国鉄は
共済年金をやっているわけであります。
共済年金は
御存じのとおり、かって
恩給法納金を払っていた方は十七年で三割三分三厘、
共済長期をおかけになっていた方が二十年で三割三分三厘、これを統合いたしまして二十年に切りまして四割ということにしたわけであります、
恩給は
共済年金という形に変わりました。そうしますと、これは合計いたしまして三十七年と六カ月おつとめの方が二十年分だけしか見られないのであります。そうしますと、三十七年六カ月から二十を引きますと十七年六カ月というものはこれは
通算をされないのです。じゃ一体、十七年六カ月というのはどこにいた
期間かといいますと、満鉄に勤めていた十八年七カ月のうち十七年六カ月は
通算をされない。そうなると、何とこの満鉄にいた部分の一年一カ月だけとっただけであって、
あとはほとんど切り捨てられたことになる。満鉄に勤めていたうちの十七年ばかりは全く切り捨てられて、
恩給の
勤続年数に一切入らないということであります。一生を
鉄道の事業に打ち込んでこられた方、
鉄道従業員として一生を働いてきた方、三十七年も働いてきた方、この方が
日本に帰ってきて十八年と九カ月、二十年に足らぬ、一年何カ月分だけを
満州時代の
勤続年数のうちから見られるだけで、
あとは全部すっぱり切られるということになると、それじゃ一体もらう
恩給というのはどうなのか。
日本から
満州へ行って帰ってきたあるいは
日本から
満州へ行ってやめたなんていう方の
ケースと違いまして
完全通算をされないのですから、同僚と比べて
恩給は半分しかもらえない、こういう結果になる。しかも問題は
満州で
現地採用で
満州の
鉄道へ勤めたんでありますから、
日本に
終戦後帰ってきて、満鉄が今日存在すればこれは子飼いなんですから相当な地位にいくはずでありますが、
日本に帰ってきた
関係で、
前任者はたくさんいる、前からポストのある人が一ぱいいる、だからその中でいつも下積みで、いつも登用されないで、今日でも
役職の面でも非常な格差がついている。ずいぶん不遇な
日本に来てからの十八年九カ月を送っておられる。だから
給料も他に比べてそれだけ上がらない。同等の人と比べて
給料のほうも、
役職が上がりませんからうんと低い。その上にまた半分近くも満鉄でぶった切られて、
最終在職年の最後にやめる
俸給が基準でありますが、その
俸給が非常に低いところにもってきて
通算期間が半分近くも切られる、この実情を黙って見ておけというのかどうかという問題ですね、実際問題として、現実に。だからそうなりますと、
日本に帰ってきて、本年は
昭和四十三年なんですから、
昭和二十年を境とする
終戦のときから考えてみますと、
抑留期間その他を入れると、大体いま
国鉄なり
電電公社なりにつとめている、
満州で採用されてこっちに来た
方々は、おおむねこの方と同じように十八、九年、二十年近く
日本にいるので、もしこれが二十年つとめている人の場合であれば、
満州の
期間は一年も一カ月も
通算をされないでまるまる切られて二十年で押えられる、こういうことになる。それじゃ、
日本の
国策会社として
満州で苦労されてきた年月というものは全く無
意味になってしまう。それを捨てておけというのかという問題なんですね。
恩給局なり
政府側の
答弁としては、
満州で採用されて
終戦で
日本に帰ってきた人、
日本から
満州に行って
日本の帰った人、
日本から
満州に行って
恩給年限に達して
終戦と同時にやめた人、何で一体この日−満−日、日−満という
ケースは
完全通算をして、満−日という
ケースだけは
最短恩給年限で切るのかという、ここ三年来の私の
質問に対して皆さんの答えは、
満州で採用された人は自由意思で採用されたんだ、
日本から
満州に行った人というのは大なり小なりほとんどがみずからの意思を拘束されて行ったわけじゃない、私も当時郵便局の現場におった、
満州郵政にたくさんの人が行った、偉い人で命令をされて行った人はたくさんあります。しかし末端のほうは全部ワクをきめて何人この際向こうで採るからというようなことで、青雲の志を抱いて出かけて行った人もあれば、一旗上げに行った人もあれば、向こうに行ったほうが徴兵の
関係でうまくいくということで行った人もあれば、千差万別で、みんな自由な意思で下のほうは行っている。そうなるとそのことを理由にあげること自体理由にならぬ。あくまでもこれは
満州鉄道なり
満州電電なりの
性格の問題なんです。これをどう見るか。さっき
岸総理の
時代に戻って、だからこそこの問題が当時前に進んだということです。そこのところが私どもとしては、幾ら
政府のほうでそういうふうに言われても納得ができない。
最後にもう
一つつけ加えておきますが、
総理もそういうことを言い出して一応の線がきまった
あとから、
恩給局の理由づけをした。当時三橋さんだったと思いますけれども、理由づけをした。ソ連参戦の日というものを持ち出して、そこを先にするということから始まって理由をつけた。だから、理由は
あとからついておるんですね。そこのところを考えますと、ほかのほうが
完全通算をされて、同じかまの飯を食ってきた人間が、
現地採用であったがゆえに
恩給年限を半分切られてしまうということは、いかに何でも放任しておくのは酷ではないか、こう私どもは考える。これに対する明確な反論というのを、私どもはいまだ聞いたことがない。だから、
塚原さんではないけれども、ありがとうございますの
ことばが出ても
あたりまえのことだと思うのですが、
総務長官、御反論があればひとつ承りたい。