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川村清一君 いただいた資科を見ますと、これは
昭和二十七年から
昭和四十一年までなんですが、この資料のうち、
北海道の冷害というのは、私の記憶では
昭和二十八年が冷害、二十九年が冷害、
昭和三十一年が大冷害、
昭和三十九年が冷害、
昭和四十一年は未曽有の大冷害、こういうことになっております。したがって、
昭和二十八年には収穫荷はずっと減っております。二十九年もずっと減っております。こういう年は
——三十年は作付面積も若干減るわけであります。で、三十一年にはまた大冷害でもって、収穫高が前年の半分以下に減りました。そうしたところが、三十二年には作付面積はうんと減ったわけであります。ところが三十三年、三十四年と、これはもう人間の弱さで、のど元過ぎれば熱さを忘れるで、また三十五、三十六、三十七あたりから大体、さっき言ったあれに、三十七年あたりからまたあおられて、ずっと多くなっている。三十九年は冷害でもって今度は収穫高は前年の三十八年の半分以下にぐっと減っておる。そうしたら四十年は作付面積がこれもまたずっと減りました。そして四十一年の大冷害でもって、収穫高が今度は大減収になりましたので、おそらく四十二年、ことしはまた作付面積が減っていると思う。四十二年の資料がございませんから、これは的確に申し上げられませんが。この数字によって判断しますというと、農民の方もそれは危険作物である、なるべくはこれはやめたほうがいいというように、これはやはり反省して考えておられるのではないかと、私はそう考えている。特殊な人は別として、一般にはそう考えられているのではないか。そうしてまた、
北海道庁あたりの行政指導も、そういう方向に指導されていると私は考えているわけであります。ところが、なかなかそういかないところに問題があるわけであります。ただいまの
お話もありますが、需要があることも確かであります。ですから全然やめろということはできないわけであります。しかしながら、
北海道の農業の確立はやはりこの適地適作主義によって寒地農業の確立でなければならないと思うわけであります。米をつくって危険な
地域は、なるべく米づくりはやめるとか、畑作においてもなるべく危険度の高い作物の耕作はやめる、そうしてやはり酪農、ビート、バレイショをつくっていく、こういったような方向に農業経営を指向していかなければならないと思うわけであります。このことは、農民自身も理屈としては知っていると思うのであります。しかし実際はこれはできない。なぜ
一体できないのかというと、農林大臣よくひとつこの点をお聞きしておいていただきたいと思うのでありますが、あるたんぼで冷害のために米が
一つもとれない。こういうことは絶対ありませんけれ
ども、これはたとえばの例ですが、ところがここに畑がある。この畑はビートやそれからバレイショは平年作であった。こっちは収穫皆無、こっちは平年作であった。ところがこっちのほうには、お米のほうには農業共済がある、農業共済で救済される。そこでお金をもらう。こっちのビート、バレイショの平年作で入ってくる収入と、農業共済から入ってくるそのお金の収入で、これがとんとんだというのです。大体同じだというのです。こういう私
どもには理解のできないような農政が行なわれているところに、危険であると知りながらも、これは米をやめるわけにもいかないと思うわけでありますし、それから豆はあぶないと思いましても、もしも凶作で三分作になれば、
価格が前年度の四千円が一万円にはね上がる、倍以上になるというようなことで、むしろ凶作を予想しながら豆をつくる、こういうようなことも実際に行なわれている。でありますから、酪農はやっても、それは牛乳の
価格の問題やビートやバレイショの
価格、あるいは農作物の共済、こういうものが非常に不徹底、あるいは全然考えられておらない。こういうところに
北海道の農業、いわゆる寒地農業を確立しようとして幾らこの行政指導をしても、農民自身も理屈としてはわかっておっても、実際にできないところがあると思うのであります。こういうのが
北海道の農業の
実態であると思うのでありますが、
一体こういう点につきまして、農林大臣どうお考えになられますか。農林大臣の御見解をひとつお尋ねしたい。
アズキの問題と関連して。