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政府委員(
八木正男君)
昭和二十三年に
韓国ができまして、二十四年には当時の在日米占領軍司令部に派遣された
韓国代表部というのが
日本に駐在しておりまして、そして
昭和二十四年の秋、たしか十一月ごろだと思いますが、そのころに
韓国の
国民登録法という法律によって
日本にいる
韓国国民は
韓国代表部で
登録しなくちゃいけないということになりました。したがいまして、
韓国国民に
登録をした
人間というのは、大体
昭和二十四年ごろから以後できております。そして、
昭和二十五年その翌年に、
韓国代表部からの総司令部に対する強い要望に基づいて
日本政府に対する総司令部からの勧告が出まして、それによって、
本人が
希望する場合には
国籍欄を「
朝鮮」から「
韓国」と
書きかえてほしいという要望が取り次がれました。それを当時の法務総裁が承認して談話を出したのは二十五年でございますが、そして、翌年
昭和三十六年になりますと、今後「
韓国」と
書きかえを
希望してくる場合にはその者の
国民登録証の提示を求めた上で
書きかえに応ずるようにという訓令が出ております。そこで、逆に言いますと、
昭和二十五年に法務総裁が、これは五月ごろでございますが、「
韓国」というふうに
書きかえを認めた時期から、翌年
昭和二十六年のこれは二月ごろだと思いましたが、
法務省の
関係局長からの
指示によりまして
登録証の提示を条件としたまでの一年足らずの時期がございます。この間は、理論的にいいますと、
国民登録証の提示を義務づけていなかったわけでございます。ただ、実際は、当時の実情をわれわれが聞いたところによりますと、
韓国代表部から
韓国民の
登録を受けた連中が、非常な
韓国から見れば先鋭な愛国者たちでありますが、彼らが、
自分たちは「
朝鮮」と書かれるのは困る、
韓国民だから「
韓国」と書いてほしいという
運動を非常に何回も繰り返して、とうとう総司令部まで持ち上げまして、
日本政府は一ぺん司令部の勧告を拒否したことがあるのでございますが、あまりにも執拗な要望なのでやむを得ず勧告に応じたというような
事情でございます。したがって、当時
書きかえを認めるという法務総裁の指令が出た直後に一斉に押しかけてきて
書きかえをやった連中というのは、これはもう
韓国の中でも愛国心の一番強い連中でありますので、もしその当時
国民登録証を見せろと言えばみんな持っていたのに違いないのでありますが、しかし、それは事実問題と理論の問題とは若干食い違いますので、その約一年ほどの期間の間は
国民登録証の提示が条件とはされていなかったということはございます。そこで、先ほど申しました
政府統一見解の中に「その大
部分には
国民登録証を提示させたうえ」と書いてあります
理由は、「その大
部分には」というのは、約一
年間条件となっていなかった人があり得るものですから、それで大
部分と書いたわけでございます。