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横山参考人 まず、私の
身分でございますが、私は
昭和十四年以来いまの
柴田総長と懇意でございます。故
徳富蘇峰先生が、
横山さん、
柴田という男は非常な
長所のある男でございますから、どうかよろしくお願いしますということを、あたかも遺言のように懇々と頼まれました。またいろいろお世話になったことは、
お許しがあれば
あとでお話しいたしますが、そこで懇意にいたしております。
私の
身分でございますが、これは
舘長代理という名をいただいたのでございます。この
舘長といいますのは、あそこの国士舘というのは、舘というのは昔の塾、家庭的な
教育をするという、その塾の
長所と、それから当代の
学校の
長所を併有いたしまして、そうしていわゆる
知行一致、空理空論でない実際に役に立つ
人間をつくるというのが根本でございます。そこで私がその
訓育面といいますか、しつけの面を担当させられて、そうしてそこにおられます
三上さんとは机を並べて仲よくやっておったのでございます。
舘長代理という名は、世間で誤解を受けるといかぬから、いずれいい名に変えましょうということを言っておられますが、まだ忙しいので、そういう名は実際にもらっておりません。それから
訓育のほうに携わっております。
教授という名はもちろんございません。
それからその次は
鹿島先生との
関係でございますが、私が
上海の
報道部長をしておりますときに、
鹿島先生は
陸軍の
特務機関に
おいでになりました。いまの
柴田学長やあるいは
徳富、頭山その他の
先生の御好意によりまして、私が
昭和十四年の十月に
共産地区でいわゆる
産業技術の指導というのを行ないまして、非常に喜ばれまして、そこの援助をした人は、たしかここに
田村さんという
議員が
おいでになるそうでございますが、その
おとうさんあたりに、たいへん力を入れていただきまして、それで
田村先生の
おとうさんは向こうからたくさんの
技術家を連れてきて、
日本へ御
案内になり、それらの
技術家が非常に
日本の
産業技術の発達に驚きまして、私にどうかうちの
子供も頼みますから、
日本へ留学させてくださいと、ずいぶんたくさんいましたけれ
ども、私は孟子の
子孫以下二十名、
名望家の
子供を連れてきたのでございます。そこの晋県の知事の
補佐役が
井上肇と申しまして、
柴田学長の娘さんが結婚された人でございます。それが私を紹介したのであります。私の
地区はずいぶん断わりましたけれ
ども、どうしても
映画にとるというので、いまの共同通信が同盟という時代に「新大陸」という
文部省推薦の
文化映画になりまして、そこにみんな出ております。
これは余談になりましたが、そういうふうでこの
子供あたりが私が
上海へ参りましたときに非常に私を援助いたしまして、まことにどうも私の身に余る好遇を
シナで受けまして、それに協力してときどき
日本人と
シナ人との
懇親会、それをときどき来て援助していただいたのが
鹿島教授でございます。以来私は
鹿島先生とは非常に仲よくしておりました。
また、
鹿島先生のむすこさんが、たしか
読売新聞記者をしておられまして、若くしてたしかガンだと聞いておりますが、死なれましたので、その
告別式にも行ったような仲でございます。でございますから、この
三上、
佐藤先生あたりの問題が起こりましたときに、いわゆる君子は危うきに近寄らず
——鹿島先生のいまのお話でございますと、私がその
子孫まで何か脅迫するようにおとりでございます。ここではっきり申しますが、いろいろ
官報あたりを見てみますと、まことに
憎悪に満ちたものでございます。これはわれわれは何としても許されない。さような
学校であれば、今日
皆さんが
おいでになればわかるように、どうしてあれだけの
志願者が来るでありましょうか。またどうして
電話あるいは
手紙で激励がくるでありましょうか。これは
皆さんおいでになればすぐわかります。
そこで
鹿島先生に忠告をいたしましたのは、そういうふうな
鹿島先生とのかつての交友があり、しかも家庭にそういう御不幸があって、これ以上
鹿島先生に御不幸があってはならぬというので
——私は深く
明治天皇様を尊敬しておりますが、
明治天皇様の御製にも「あやまちをいさめかはしてしたしむが誠の友の心なる
らむ」と仰せられております。また
子孫のことをおっしゃいましたが、
鹿島先生は
陸軍の
特務機関に
おいでになりました。そこで
軍人勅諭は心得て
おいでになるだろうと思います。その信義の章に、かりそめなことをうべなって云々とおっしゃいまして、昔から「
英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき」とこうおっしゃっておる。そこで
鹿島先生を思うがゆえに、私は友人の義務としておいさめしたのでございます。わかりましたか。それは
往復文書があります。
そこで
暴力とか何とかおっしゃいますが、
鹿島先生の
手紙がここにありますが、こういうことが書いてあります。この間、もし
舘長その他が私に手でも上げたら、その場で張り倒してやるつもりでしたと、私はそういうことをいまだかつて上官にも、ことに、お聞きになればわかりますが、私は最も
暴力ということはいかぬと主張しておるものでございます。いいですか。それから、もし
自分を首を切ったならば
週刊誌に出しますよ、
印刷物をまた配布しますよ、これはいわゆるわれわれの言っている
印刷暴力じゃありませんか。何びとよりも
暴力をおっしゃるのは
鹿島さん
——そういうふうでありまして、われわれの行為が片端から
憎悪をもって迎えられた、これは私は
鹿島先生、どうして、何かどういう御経歴をお踏みになってこういうふうな
憎悪をわれわれに言われるだろうか、これははなはだすみませんが、
委員の方で
鹿島先生のためによく
理由を調査していただきたいと私は心から念じておるものでございます。終わります。