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1964-03-13 第46回国会 参議院 予算委員会公聴会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十九年三月十三日(金曜日)    午前十時二十二分開会     —————————————  出席者は左のとおり。    委員長     太田 正孝君    理事            大谷藤之助君            斎藤  昇君            平島 敏夫君            藤田  進君            山本伊三郎君            鈴木 一弘君            高山 恒雄君            奥 むめお君    委員            井上 清一君            江藤  智君            草葉 隆圓君            小林 英三君            小山邦太郎君            木暮武太夫君            後藤 義隆君            河野 謙三君            佐野  廣君            塩見 俊二君            杉原 荒太君            田中 啓一君            館  哲二君            鳥畠徳次郎君            山本  杉君            吉江 勝保君            加瀬  完君            亀田 得治君            木村禧八郎君            瀬谷 英行君            戸叶  武君            豊瀬 禎一君            羽生 三七君            米田  勲君            牛田  寛君            渋谷 邦彦君            基  政七君            須藤 五郎君            林   塩君   政府委員    大蔵省主計局次    長       澄田  智君   事務局側    常任委員会専門    員       正木 千冬君   公述人    三和銀行頭取  上枝 一雄君    前IMF理事  渡辺  武君    日本フェビアン    研究所研究員  久保まち子君    国民経済研究協    会常務理事   松尾  均君    千葉大学助教授 清水馨八郎君    日本労働組合総    評議会事務局長 岩井  章君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○昭和三十九年度一般会計予算内閣  提出衆議院送付) ○昭和三十九年度特別会計予算内閣  提出衆議院送付) ○昭和三十九年度政府関係機関予算  (内閣提出衆議院送付)     —————————————
  2. 太田正孝

    委員長太田正孝君) ただいまから予算委員会公聴会を開会いたします。  きのうに引き続きまして、昭和三十九年度予算の問題について公述人方々から御意見を拝聴いたします。本日、午前中はお二人の公述人の方に御意見を伺うことになっております。  それから、これから順次御意見を伺いたいと存じますが、その前に公述人方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず当委員会のため御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。当委員会は、昭和三十九年度予算につきまして連日慎重なる審議を続けておりますが、きのうに引き続きまして本日の公聴会においても忌憚なき御意見を拝聴することができまするならば、今後の審議に資するところがきわめて多いと存ずる次第でございます。  これより御意見をいただきたいと存じますが、便宜上、公報掲載の順序に従いまして、お一人三十分程度で御意見をお述べ願います。お二人の公述が終わりましたそのあとで、委員から質疑がありました場合には、お答えをお願いいたしたいと存じます。  それではまず、上枝一雄先生にお願いいたします。
  3. 上枝一雄

    公述人上枝一雄君) ただいま御紹介をいただきました上枝でございます。  一般経済情勢予算ということにつきまして公述をするようにという御下命でございまして、私は予算についてはくろうとではございませんので、ほんとうにしろうと意見になるかもわかりませんが、若干考えていることを申し上げてみたいと思います。  現在の経済情勢を一べついたしますると、昨年末以来、預金準備率引き上げ、日銀の新窓口規制等、戦後第四回目の金融引き締め期に入っております。すでに倒産、不渡りの増加、さらにまた企業間信用の異常な膨張などから、警戒感相当高まっておるということは事実でございます。しかしながら一方におきましては、生産は予想以上に上昇いたしております。また輸入も大きく増加いたしておるということは注目すべきことであると存じます。これは産業界の強気がまだまだ改まっておらず、過去の過大な設備投資のためにコスト面圧迫から無理な操業を重ねているともとれるのでございます。もちろん堅調な末端需要とか、大きい財政需要もこれがささえになっていることは事実でございましょう。その結果、昨年一月から十二月までの年間通関輸入額は六十七億三千七百万ドルと、一昨年と比べまして約二割増加いたしております。これは輸出伸び率一〇・八%増しの約二倍に達しております。昨年は御承知のように小麦、砂糖という一時的要因による輸入増しもありましたが、中を拝見いたしますると、ほとんど各品目にわたって軒並みに輸入量増加しておるのでございます。その上、昨年末には輸入商人が貯蔵いたしております。したがいまして、本年に入りましてから通関輸入額は著しく増大するでありましょうし、それがまた、今後の為替決済に響いて、本年上期にかけまして国際収支に大きな圧迫材料となるでございましょう。これら膨大な輸入量は、見方によりますると、将来の内需とかあるいは輸出のかてとなり、今後三十九年下期の輸入を減少させる要因となるかもしれません。しかしながら、輸入原材料在庫率等からみまして、現在の高水準生産が続く限り、輸入量はなお減少の見込みがないのではないかと存ずるのでございます。したがいまして、われわれが開放経済下におきまして堅実な歩みをしようと思ったならば、何といたしましても財政金融政策におきまして、いま一段のきびしさを加える必要があるのではないかと存じます。この意味で、私の従事しておりますところの金融面におきましては、現在の引き締め方針を堅持するとともに、新施策をときに応じて行なうことが必要かと思っております。  以上申し上げましたことからも明らかなように、わが国経済にとりまして当面最大の問題は、国際収支であることは言うまでもございません。わが国の場合、経済政策の策定には国際収支見通し出発点となります。ところが、従来国際収支の問題に関しましては、経常収支赤字でも資本流入によって総合収支のバランスがとれておればよいではないかというような考え方もあったように思われるのでございます。たとえば、前回の外貨危機時の昭和三十六年がそうでありましたし、今回の場合も、経常収支はすでに昨年の年初以来赤字を続け、特に昨年十月以降は毎月五千万ドルをこえる赤字が続いているにもかかわりませず、それに対する経済運営態度がそれにふさわしいものであるかどうかということにつきまして、非常に疑問を感ずるのでございます。企業におきましては、損益勘定赤字であるのに、借金によって金が入ってくるからといって安閑としているわけにはまいりません。どうしても借金というのであれば、その借金はあくまで返済のめどがついたものでなければならぬと思います。国家全体といたしましても同じことが言えるのではないかと思うのでございます。それで、今後の経済運営に際しましては、早急にこの経常収支を均衡させるような具体的な計画を樹立しまして、それを軸とした経済政策を進めていくべきではないかと考えるのでございます。  このように国際収支の面から財政を見た場合に、最も重要なことは、何と申しましても、財政支出効率をもっと高められる必要があるということではないかと思うのであります。新年度政府予算案は、財政当局の御苦心によってまとまったものと存じまするが、当初の方針よりはかなり積極的な予算となりました。近年の予算編成を見ておりまして一番問題に感ぜられますることは、歳出面における当然増加要因が年々多額に上ってまいりました。予算編成弾力性が失われつつあるということでございます。一たびワクを広げた歳出は、それが実績となるものでございまするから、財政規模が年々膨張を余儀なくされ、それだけ新規施策に向ける余地が少なくなりまして硬直化してまいっております。その結果、新規施策向けの金を捻出するためにはどうしても税の自然増収が必要となります。それには積極財政経済成長を高めなければならないという、まことにおかしなことにもなりかねないと思うのであります。これを断ち切るためには、どうしましても歳出の底積みとなっている経費につきまして節減なり効率支出方向で根本的に洗い直しをしていく必要があるのではないかと思うのでございます。で、たとえば、総額五千億をこえるようになっております補助金関係では、経済環境の変化に伴いましてその必要性を失っているものもあると見られます。また人件費は年々一割から一割五分の増加率でふえております。予算規模全体に占める人件費の割合は、最近では一一%台に達しておる。いずれも削減の余地があるのではなかと思われます。また、そうすることによりまして重点施策が実現可能となるのではないでしょうか。国際収支の改善がぜひ必要だというのであるならば、新年度自然増収の大部分を、造船とか、観光とか、その他を含めた輸出振興のための重点施策に回すというくらいの意気込みが絶対に必要でないかと思うのであります。とにかく必要なものにつきましては万難を排して金をつける。しかし一面、削るべきものは削るというようなことでなければならないと思います。そうしてこそ、歳出効率を高め、財政生産性向上させることができるというわけでございましょう。  若干、話の筋道がそれるかもしれませんが、いまの財政の問題にも関連していると思いまするので、一言触れておきたいのは公営企業のあり方ということでございます。開放体制を迎えまして、世界企業ときびしい競争関係に入ろうとしておる現在、企業経営に携わる者にとりましては、どうして経営能率向上をはかるかが最大の関心事となっております。公営企業は、多かれ少なかれ財政資金を使っているわけでございまするが、それだけに生産性向上経営合理化という点につきまして民間企業に遜色があってはならないと思うのであります。今後わが国経済におきまして、公営企業の果たす役割りはますます大きくなると思われまするので、この際、特にこの点に御留意願いたいと思う次第でございます。  財政の問題で次に申し上げたいことは、現在政府では、これまでの高度成長過程を通じまして目立ってきました社会資本生活環境の立ちおくれ、中小企業、農業といったような低生産部門の立ちおくれに対しまして、それぞれ長期計画に基づいてこれを是正していこうとされておる点についてでございます。このこと自体は、まことに私はけっこうなことであると存じます。問題は、これらの長期計画資金面裏づけが伴っているかどうかということでございます。ここ数年来の経済成長は、あくまでも物の拡大が中心でございますが、金のほうのことは重要でないとはお考えになっていなかったと思いまするが、何かそこに、少し金のほうを粗末にしておったのではないでしょうか。このため高度成長過程を通じまして、金融面では著しいゆがみと混乱を招くことになりました。しかし、決して、物を拡大すれば金はおのずとついてくるといったようなものでございません。現に計画実行資金面でむずかしくなっているケースが出てまいっております。たとえば新産業都市の指定をめぐりまして、現在資金面での調達のめどが大きなかぎになっていると聞いております。次々と発表される計画を見ますると、新産業都市所要資金は、大ざっぱに見まして、一カ所平均年間に百五十億円はかかりそうだと存じまするが、この年間百五十億円のうち、政府資金は限りあることでもございまするし、過大な期待は無理でございましょう。としますると、大部分地方負担とならざるを得ないわけでございまして、地方、特に地方民間負担は過重となるものと存ぜられます。物の計画には常にそれに対応した金の計画資金面裏づけが伴ってこそ計画経済は円滑に実現できるのでございます。民間企業同様、財政におきましても物の面だけが独走することのないように、くれぐれも御配慮願いたいと存じます。  次に、資本蓄積の問題で一言申し上げたいと存じます。  開放経済となり、企業自己資本の充実の重要性は、すでに各方面におきまして唱えられております。本予算におきましても配当支出に対する免税幅の増大とかあるいは償却期間の短縮とか、いろいろと御配慮を願っておる次第でございまするが、各国と著しい懸隔のある自己資本比率を直してまいりまするのには、どうしても思い切った法人税の減税が必要であると存じます。税理論から言いまして、これはまことに不都合な話かと存じまするが、とくと御配慮を願いたいと思うのでございます。  最後に、貯蓄増強について一言申し上げたいと存じます。私は消費者物価抑制には、いろいろ手段はございましょうし、政府におかれましても目下重点的に考えておられることと存じまするが、私は貯蓄増強運動がやはり最も消費者物価抑制には重要でないかと思うのでございます。世間ではわが国貯蓄率ないし貯蓄性向は国際的に見ましてきわ立って高いので、これ以上の貯蓄奨励は不要であるというような意見がございます。確かにわが国個人貯蓄率は二〇%前後に達しており、米国、英国、フランスの六、七%はもとより、西独と比べましてもなお相当に高い水準にあるのは事実でございましょう。しかしながら、貯蓄の累積という点からしましたならば必ずしもそうではございません。たとえば米国の場合、貨幣貯蓄の残高は年間可処分所得に対しまして二・八倍に達しておりまするが、わが国では一・四倍強にすぎません。ただ預貯金だけを考えてみますると、米国の一・二倍余に対しまして、わが国もほぼ同額となっておりまするが、わが国の場合には大きな借金という問題がございますので、これはとくと考えなければいけない問題と存じます。このようにわが国は年々貯蓄額こそ大きいが、ストックとしてはまだまだ見劣りがするわけでございまして、今後とも貯蓄増強を必要とするゆえんでございます。ちょうど目下経済界国際収支の悪化に集約されている高度成長のアンバランスを是正するために、戦後四回目の金融引き締めに直面しているわけでございまするが、これは換言いたしまするならば、経済拡大国内貯蓄だけではまかない切れずに、外貨の食いつぶし、ないしは海外からの借金不足分をカバーしているという状態を何とかして改善しようということでございます。特に最近のように消費の動きが大きく影響している際には金融引き締めの効果にも限度というものがございます。最近の国民消費の内容を見ますると、単なる消費からは離れて、浪費とも見えるものがふえておるように思います。貴重な外貨を使いまして輸入するうちで、化粧品とか、美術品とか、切手とか、宝石とか貴金属、最近では愛玩用の犬すら見られるようになっております。消費を美徳化するのは、わが国の場合には、まだまだ尚早でございますし、国内消費を自発的に節約いたしまして、これを輸出に向け、また、輸入抑制しましてこそ長期にわたる国際収支の均衡あるいは進んで黒字を望むこともできるのでございましょう。この点わが国におきまして、貯蓄増強をこの際特に取り上げるべきだと思うのでございます。資本蓄積の進んだ現在欧米諸国におきましても、つとに種々の貯蓄増強の方策が打ち出されておりまするが、最近相次いで発表されましたロンドンの市中銀行決算報告書によりましても、預金金利引き上げを一様に主張しておるのでございます。このように欧米諸国では貯蓄の意義が見直されてきておるのでございます。わが国のように金の足りない国では、もっともっと金を尊重するように、場合によっては、預金金利引き上げるくらいの覚悟が必要だと存じます。その他、貯蓄をする者が得をするというような税制その他の施策はぜひ必要ではないかと思うのでございまするが、この施策に対しましては、ひとつ蛮勇をふるっていただいて、貯蓄増強のために大々的に国民運動を展開していってはいかがかと存じておる次第でございます。  以上をもちまして私の公述を終わりたいと思います。  御静聴をありがとうございました。     —————————————
  4. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 次に、渡辺武先生にお願いいたします。
  5. 渡辺武

    公述人渡辺武君) ただいま御紹介いただきました渡辺でございますが、私は貿易国際収支についてお話を申し上げるようにということでございますから、国際収支の問題につきましていろいろ違った意見が言われておりますが、これについて考えます際に、やはり長期見通しと当面の問題とを分けて考える必要があるかと思います。当面の問題はあとにいたしまして、とりあえず長期見通しとして、一体日本開放経済下において対外競争力を維持し、国際収支の上におきまして大きなマイナスを生ずることなしにやっていけるかどうかということを考えてみたいと思うのでございます。  この国際的な競争をいたします上で第一に必要なことは、豊富であり、かつ質のいい労働力を持つことだと思うのでありますが、この点におきまして、ほかの欧米あるいはそれ以外の国との比較におきまして、日本は恵まれた地位にあると思うのでございます。日本の四千八百万の労働人口というものは、その量におきましても、ほかの欧米諸国から見ますと、まだゆとりのずいぶんあるものだと思います。日本でも人手不足ということもだんだんと顕著になってまいっておりますけれども、ヨーロッパに参りますと、非常に人手が足りない。極端な例では、たとえばスイスに参りますと、労働人口の三分の一が外国人であります。ドイツに参りましても、八十何万かの外国人労働者が入っております。イギリスでも西インド諸島その他から外国人労働者が入っております。フランスでも労働不足で賃金が上がっておるという状態であります。また、アメリカの場合には多少事情が違って、失業者が一方にありますけれども、これは私の考えますところでは、一方におきまして非常な高度の合理化が行なわれた結果、それによって生じた、機械によって置きかえられた労働力というものが失業しているという面もありますので、これは単に国内景気調整だけで解決できる問題でなくて、たとえば職場転換のための教育その他を伴ってなければならないのであります。機械を動かす人たちアメリカにおいても非常に不足をしておるわけであります。外国人がよく日本に参りまして、日本人手不足だというけれども、非常にまだゆとりがあるじゃないか、デパートへ行ってみれば、エスカレーターの下で女の子がおじぎをしているような、ああいう余分の人を使っている間は、日本人手不足というのもまだそれほど深刻なものではないではないかということを申しますが、確かにまだ、相対的に申しまして、欧米その他に比べてはゆとりがあると思います。もちろん後進地域と比較いたしますると、後進地域にたくさん人手はありますけれども、今度は質の点におきまして、日本のような教育の行き届いた、また器用な能力を持った労働力というものではありませんで、そういう点におきましても、日本労働の質及び量あわせて一般の国に対して強味を持っていると思うのであります。  また、日本生産性の問題から見ますと、これは確かにほかの国の生産性はかなり高い。たとえばアメリカ生活水準日本よりも五、六倍も高いし、また、ヨーロッパを比較いたしますと、日本の倍ぐらいの生活水準を持っておりますけれども、その高い生活水準でもって日本の製品と競争しているということは、それだけ彼らのほうが生産性が高いということも言えるわけであります。逆に申せば、日本はまだ生産性を伸ばす余地のある国であるということが言えると思うのであります。この生産性を伸ばすために日本としてもますます努力をしなければならないわけであります。  これまでの実績を見ますと、日本民間設備投資は非常に高い率になっておりまして、国民総生産中の民間設備投資の率というものは、ほかのどの国に比べましても一番高いというような状態であります。このことは、ある場合には、行き過ぎによって国際収支の当面の困難を生じまするけれども、長い目で見ますと、これはやはり日本がそれだけの合理化のための努力を続けておるという証拠であります。私は日本生産性向上については努力を要しまするけれども、これまでのような日本人のそういう意欲というものを続けて持ちましたならば、決してほかの国に負けるものではないと思っております。  もう一つ、対外競争力の面で重要なことは経済の安定であります。この点につきましても、もちろんいろいろ問題はありますけれども、日本財政が、戦後、比較的健全な状態を続けてきております。あと経済政策において、健全な政策を機動的にとり得るかどうかというところにもっぱらかかっているわけであります。国によりますと、財政上の大きなインフレを生じておる国が相当にありまして、財政原因となってインフレを生じている国におきましては、これを解決するのに非常に時間がかかりますし、抵抗が多いわけでありますが、金融面で処理できるということは、ほかの国に比べて、わが国においては有利な点であろうかと思います。  かように、私は長期的な見通しから申しますると、日本がいまIMFの八条国になり、また、OECDの完全なメンバーとなりまして、いわゆる開放経済下に置かれましても、競争していく力はあると思います。競争力があるということは、そういう開放経済下に入ることがむしろ日本にとって有利な面が多い、不利の面よりも有利な面が多いというふうに判断をしておるわけであります。それは外国から物が入ってまいりますれば、日本としてそれによる影響を受けますけれども、しかし逆に、世界全体が、もし自由化方向を進めていきますならば、競争力のある国は、大きなマーケットに対してさらに伸びていく力を持つわけでありますので、そういう意味で、私は長期的に見れば、日本国際収支は楽観していいというふうに思うのでございます。ただ、当面の問題をながめてみますと、そこにいろいろ問題があることは事実であります。  御承知のように、最近の実情は、貿易の上におきましては、輸出が昨年をとってみますと、暦年で見まして約一一%ふえましたのに対して、輸入が二二%もふえておりまして、その結果、貿易上の赤字が出て、その上に貿易外赤字がありまして、これを長期及び短期の資本の収入の超過によってまかなっておるというのが実情であります。  こういう点につきまして、一体どういうことが問題であろうかということを次に考えてみたいと思うのであります。最初に貿易赤字でありますが、そのうちで輸入がふえたということが、最近で一番の問題点ですが、これは大まかに申しまして三つの原因からきているように思うのであります。  その第一は、一時的な原因とでも申しますか、食糧の緊急輸入砂糖の値上がりとか、運賃が一時的に上がっているというようなこと、そういうような原因でありまして、これは確かに昨年の国際収支の上に悪い影響を与えましたけれども、一時的なものでありますので、また変わり得る要素だと思うのであります。  第二には、これは日本生産規模拡大し、成長を遂げた結果、それに伴う輸入増加であります。これは全体の中で、やはり約三分の一くらいはそういう理由だというふうに大まかに申せるかと思うのでありますが、これがもし行き過ぎでないならば、経済成長している段階においてやむを得ないものだと思います。生産がふえる場合に、その原料の輸入がふえることは当然でありますし、これを必ずしも問題視する必要はないと思うのであります。ただ短期的に見た場合に、原材料の輸入の積み増しをあまりよけいやるというようなことがあれば、これは確かにそのときに不当に国際収支圧迫すると思いますが、現在のところ多少そういう傾向がありましても、あまり顕著なそういう事情は見受けられないように思うのであります。  第三の輸入増加の要素は、これは国民の生活水準向上に伴います消費水準向上といいますか、こういうのがその原因であろうと思います。これは一方におきましては、自由化影響でもありますが、日本の場合には、ことに長い間、為替制限その他の制限が続いておりましたあとで門戸が開けましたので、外国品に飛びつくというような傾向も確かにあったと思いますが、一般的に国民生活水準が高くなり、いろいろの需要がふえたことに伴う輸入増加というものがあるわけであります。これは確かに問題を含んだ点でありまして、これについて行き過ぎを是正するような措置はとられなければならないと思うのであります。いまのような輸入増加に対して、それではどういう対策を考えるべきか、これは抽象的でありますが、一つには金融政策の機動性を持つということが必要だろうと思います。従来のような為替制限、貿易制限のできましたときにおきましては、国際収入が悪くなったときに、そういう手段に訴えて、これを緊急に是正することができたわけでありますが、開放経済下においては、こういう措置がとれないわけであります。したがって、その場合に全体の需要に対する調整を行なうのが金融政策の使命であろうと思うのであります。もちろん財政政策も大切でありますが、短期的に見た場合には、金融政策が機動的に動くことが非常に必要であろうと思います。そのためには時期を失せずに措置をとるということが必要なことだと考えるのであります。  第二に、いまの輸入増加に対する対策として考えられますことは、先ほど申し上げましたように、日本では、ともしますと、外国品について非常に、同じいい製品が国内にありましても、外国品を好む人があるわでありまして、そういうような行き過ぎを是正するためには、ある程度の国産愛用という精神を涵養する必要があるように思うのであります。これは私は極端な国産愛用運動ということは好ましいことではないと思います。あらゆる国が、たとえばバイ・アメリカン、バイ・ブリティッシュというようなことをやりますことは、これはほかの国に影響を与えることでありますから、日本の場合には同じような質を持った、またいい製品が安く国内で手に入るにかかわらず、外国品に手を出したがるという傾向がありますので、そういう点については是正をしていく必要があるように思うのであります。いまのような輸入増加がある程度続くことはこれはやむを得ないことだと思いますし、また、経済拡大の上において、これなしにやっていくことはできないと思うのでありますが、それを可能ならしめるためには、一方において輸出増加していく必要があるわけであります。先ほど申しましたように、昨、暦年におきまして、約一一%の輸出がふえたわけであります。これをさらに伸ばすことが必要なことは申すまでもないわけであります。そのための対策といたしまして、第一は申すまでもないことでありますが、経済外交の強化ということが必要だと思うのであります。私は海外におきまして、いろいろの機会に、国際会議でありますとか、いろいろな国際的な集まりに出た機会がございますが、どうも日本は現在の国力から考えまして発言力が弱いように思うのであります。いま日本のGNP総額を見ますと、共産圏については統計がはっきりわかりませんのでこれを除外いたしますと、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスに次いで日本経済規模としては大きいわけであります。イタリアよりも大きいわけであります。一人当たりにしますと、イタリアよりも下になりますけれども、経済規模全体といたしましては、世界の中で非常に大きなウエートを持った経済だと思うのであります。これだけの経済力を持っておる日本といたしましては、世界においてもっと強い発言権を持っていいと思うのでありますが、それがとかく日本としては、まあほかの国のひそみにならう、あるいは黙って、自分の国の問題になったときだけ発言をするけれども、世界全体の経済をどうするかということについて意見を持ち、またこれを主張し、ほかの国を引っぱっていくだけの力が弱いように思うのであります。そういう点で、これは人材の養成も必要でありましょうし、いろいろの施策が必要であると思いますが、いずれにいたしましても発言権を強化して、経済外交を強力に推進することが輸出増加の根本であろうと思うのであります。また、経済的に申しますならば、申すまでもないことでありますが、合理化を一そう促進していくことが必要であります。この合理化については、企業の内部の運営の合理化については、日本国内でも最近ずいぶんいろいろ議論をされ、また研究されておるのでありますけれども、私は単に企業の内部だけでなく、社会全体についてむだを排除した合理的な社会をつくることに心がける必要があるのではないかと思うのであります。外国に生活しておりまして、日本に帰ってまいりまして非常に感じますことは、非常に無益なことで忙しい国だという感じがいたすのであります。一応たとえば規則がきまっておりましても、あらゆることについて頼みごと、頼まれごとというようなことが非常に多い、こういうようなことはやはり社会全体の大きなむだでありますし、これが結局コストにかかってくると思うのであります。また、政府の公共投資というような面におきましても、これによってコストを下げるということが可能であります。いままでトラックで三往復できたところが交通が混雑して二往復しかできないということは、これはやはり日本対外競争力の上で影響するわけであります。公共投資を民間努力の裏打ちとしてさらに強化していく必要があるように思うのであります。  いま貿易の面について申し上げました。もう一つの国際収支上の問題は、貿易外取引の赤字であります。この貿易外の取引についての問題は、大まかに分けまして三つあると思いますが、一つは、海運保険その他の貿易の、いわゆる普通経費の増加であります。第二は、投資収益と特許料というような種類の対外支払いであります。第三は、海外旅行によるものであります。  この第一の海運保険その他につきましては、もうすでにいろいろの機会に御議論が出ておることであり、私から重ねて申すこともないと思いますが、要するに、船腹の増強、積み取り比率の向上というような面を通じて海運収支における日本赤字を減らしていくということが必要であり、これは努力をすれば、いま直ちにその効果は得られませんけれども、数年のうちに、その効果をあげることは可能であろうと思うのであります。  第二の投資収益と特許料の支払いというようなものが、これが相当固定的な対外支払いであることは間違いないところでありますけれども、これはある程度やむを得ないところだと思います。これは日本が、経済成長をいたしますために、外国の新しい技術を取り入れて、また、外国資本をある程度取り入れていく場合に必要な経費でありまして、これについては、あまりこれが不利な条件でもって契約をすることは確かに困りますけれども、適当な条件であります限りにおきまして、こういう数字がふえていくことは、一方における日本の利益を考えますと、それほど心配するには当たらないように思うのであります。  第三の海外旅行でありますが、これは現在まで、日本人が為替管理のために自由に海外に参れませんために、自由化によってどっと海外に人が行くのじゃないか。また、従来の例を見ましても、あまり役にも立たないような旅行をする人々が多かったというようなことがいわれておりますが、日本の観光収支を、収入と支出と両方を考えてみますと、従来、おおまかに申しましてとんとんでありました。しかも、その総額は、ヨーロッパ諸国の金額から比べるとはるかに小さい。そういうことを考えますと、私は、それほどこれは、神経質に考える必要のない問題だというふうに思っております。外国日本との接触を深めるということは、これは日本のような違った文化の中で発達をいたしてきまして、いま、開放経済下外国と緊密な関係を持っていかなければならない場合に、あまり、こういうことで神経質に考える必要はないと思います。海外に出た人の中で、あるいは適当でない行動をする人もあるかもしれません。外貨のむだ使いをする人もあるかもしれませんが、しかし、これはある程度は、そういうことを経て初めて中で効果をあげる人が出てくるわけでありまして、水に入らなければ水泳は覚えられない。水泳の達人が出るためには、多くの人が水に入る必要があるわけでありまして、そういう意味で、私はあまり窮屈に考えたくない。むしろ、この点で大切なことは、外国人をもっと日本に入れるような努力をすることだと思います。そのためには、豪華なホテルをつくることももちろん悪いことではありませんが、もっと安く日本外国人が来られるようにして、大ぜいの人が来る。たとえば外国の青少年が三等で、船でやってきて、日本で気持ちよく観光できるような設備というものが今後必要ではないかと思うのであります。これはヨーロッパの観光事業などと比べまして、そういう点を特に強く感じるわけであります。  いま貿易貿易外について申し上げましたが、この貿易及び貿易外が現在までのところ、赤字になっておりますのを、資本収支の黒字によってカバーしているというのが現状であるわけであります。昨年の資本収入は、一昨年に比べますと六四%もふえております。非常に黒字が多かった、収入が多かった、こういう資本収入が一体今後どうなるであろうか、また、どうあるべきであろうということを考えてみたいと思うのであります。先ほど上枝さんから、借金するばかりが能ではないというようなお話もございました。確かにそういう面があると思いますけれども、これは私は分けて考える必要があるように思うのであります。長期資本の導入、短期の資本の導入というものは相当性質が違うと、日本の場合に、日本高度成長をしていきます上におきまして、まだ長期資本を入れる必要はあると思いますし、それは必ずしも弊害のないことだと思います。これは私が世界銀行の理事をしておりましたときにも、よく問題が出たのでありますが、日本のような国は、長期資本を借りましたり、これによって日本の将来の外貨獲得能力をふやす力のある国だというふうに考えられておるのでありまして、そういう意味で、私はこれを無限にやっていいという意味ではございませんけれども、長期資本については、なお導入をはかることは、決して日本にとって不利なことではない。むしろ成長のためにある程度必要なことだというふうに思うのであります。ところが、この点につきまして、昨年は御承知のように、アメリカの利子平衡税が提案をされました結果、いわゆる外債という形で入ってまいります長期資本が、昨年の半ば以降において急速に減ったわけであります。外債だけをとってみますと、昨年の前半は一億二千百万ドル入りましたのに対して、後半は約半分の六千六百万ドルということになっております。そのかわりと申しますか、一方におきまして、いわゆる借り入れ金が相当ふえておるわけであります。この借り入れ金も二年とか三年とかいうような借り入れ金は、統計の上では長期の借り入れの中に入っているようでありますけれども、私はあまり日本が、たとえば外国の商業銀行等から借り入れをすることは好ましい方策ではないと思います。これはやはりほとんど短期に近いものでありまして、国内では商業銀行から金を借りまして、それを三年たてばまたもう一度更新するというふうにして、これを長期に使っておるケースが非常に多いのでありますが、外国の場合、そういうことは必ずしも期待できない。三年たった場合に、日本の将来について多少でも不安を持つところ、あるいは銀行の都合から考えて資金を必要とする場合には、これを打ち切る場合があるわけでありまして、こういうような不安定な借金をあまりすることは、私好ましくないと思いまして、むしろ長期の外債その他による資金を獲得することに重点を置くべきだと思うのであります。いまの利子平衡税でありますが、これは私はアメリカ政策として間違った政策だと思っております。これは日本政府もいろいろこのために交渉をしておられるわけでありまして、その努力は多とするところでありますけれども、先般の共同声明を見ますと、日本国際収支が非常に悪くなった場合には考えてもいいということになっておりますが、国際収支がそんなに恐くなった場合には、利子平衡税を免除してくれまして本借金はできないわけであります。これは私は意味のないことだと思います。また、これは長期的に見ますと、アメリカ国際収支から見ても、必ずしも賢明な方策とは思えません。アメリカは、対外投資によって一方で元利の償還を受けておるわけでありまして、長い目で見ますと、アメリカは決してマイナスではないのであります。当面の国際収支をよくするために、新たに出ていく金を押えればよくなることは確かでありますけれども、長い目で見て、アメリカ国際収支のためにも必ずしもいいこととは思えない。その上に、世界全体が自由化方向に向かって、資本の移動につきましてもできる限り自由にしようというその大きな方向に反しておることでありますし、また国によって差別待遇をするというような点も好ましいこととは思えません。しかし、これは見通しの問題といたしまして、アメリカの議会を通過するという可能性は相当あると思います。そういう状態のもとにおきまして、一体日本としてどうすべきか。その場合に一つ考えられますことは、アメリカ以外の欧州において、できるだけ長期の資金の調達をするということが考えられるわけであります。これは、ことしの初めに私がドイツに参りまして大阪の府市債の募集のお手伝いをいたしました。ドイツにおきましては外貨が非常にたくさんだまっておりまして、ドイツ政府経済政策としては、こういう外国からの投資がむしろふえて、非常に外貨がふえているような状態は好ましくないと考えておるわけでありまして、むしろ資本輸出をすることがドイツの経済政策としては好ましいと考えておるのであります。こういう金を日本に取り入れることは適当なことだと思います。また、先般政府がスイスにおいて一千万ドルの借款をいたしましたし、その他ヨーロッパにおいてドル建ての起債が幾つか行なわれておりますが、こういうことは長期の借款であり、条件が不当でない限り、私は今後も努力を続けていくべきだと思います。ただ、考えられますことは、ヨーロッパの起債市場というのは、アメリカと違いまして、まだ非常に限られたものでありまして、金額的に見てそれほど大きなものを期待できないように思うのであります。この暦年中に一億から一億五千万ドルも借りられればいいほうでありまして、アメリカの市場で従来調達していた金を全部ヨーロッパに振りかえるということは、現状においては望み得ないところであります。  もう一つの長期資本の調達の問題として考えられますことは、いわゆる直接投資、株に対する投資であります。これはいろいろ問題を含んでおることでありますけれども、これは利子平衡税もかかりませんことでありますし、また、日本に対してその成長を買っておる外国人は、日本と提携して仕事をしたいという希望は非常にふえてきております。そういう意味で、外国から日本と合弁で仕事をするような提案というものは今後相当ふえていくと思います。これに対して、一体日本はどういう態度をとるべきか。もちろんいろいろの風俗、習慣、法制の違います日本の場合に、たとえばアメリカとイギリスの会社が合弁して仕事をする場合よりも、非常にむずかしい問題をいろいろ含んでいることは申すまでもないことでありますが、しかし、外国資本が入ってくることをそれほどおそれる必要はないように思うのです。日本相当競争力を持ち、また技術を持ち、今日のような発展を遂げております際に、外国人が来た場合、これを受け入れて共同で仕事をやっていくというようなことについて、それほどこれを制限するような考えを持つ必要はないように思います。いまは長期資本のことについて申し上げましたが、短期の資本相当昨年中ふえております。たとえば昨年中に一億七千五百万ドル短期資本増加がありました。このうち、たとえば輸入増加に伴います輸入ユーザンスがふえるというようなことは、これは大勢によって生ずるところでやむを得ないのであります。それ以外にいまのような短期の借りあさりをすることは、私は日本のため好ましくないことと思うのであります。今般政府は国際通貨基金から金を借りることにいたしました。これは私はけっこうなことと思います。この前、日本IMFから金を借りますときに、その前にアメリカ民間の銀行から金を借りたわけでありますが、私は、そういう措置をとらずに、直ちにIMFから金を借りることに今回されたことは、非常に適当なことだと思うのであります。第一、そのコストがずっと安くなります。それにそういう国際機関の一定のルールのもとに金を借りるということのほうが、民間から金を借りるよりか好ましいことであることは申すまでもないところであります。いまの資本勘定の最後の問題といたしまして、日本は一方におきまして外資を入れる必要がありますが、同時に、今後は日本から対外投資をしてほしい、また対外援助をしてほしいという要請が相当強くなると思うのであります。これは、私はある程度はこれに応じていかざるを得ないというふうに思うのです。たとえば、国際機関に対して日本がいろいろな出資をしておりますが、そういう金額も今後ふやしてほしいという要求がありましょうし、また、日本品を海外に売る場合に、これを延べ払いで輸出してほしいというようなこともありましょうし、さらにもっと積極的な援助をする必要も出てくると思うのであります。ただ私は、日本は現在、資本について外国から相当輸入をしている状態でありますから、あまり大きな金を対外的に使う力はないと思います。しかし、そうかといって、私は日本が後進国のため何もできないんだということではないと思います。たとえば日本の明治維新以来の経験というものは、後進国にとっては非常に魅力のある一つの経験でありまして、これにならいたいという気分が非常に強いわけでありまして、日本において発達をいたしましたいろいろな技術というようなものを後進国のため役立てるということは、十分できることだと思うのであります。そういう意味で、技術援助というようなことを中心にして、後進国のために役立つような人を海外に送るということは必要だと思います。たとえば、従来移住ということは、日本の人口が過剰であるために、海外に頼んで人を引き取ってもらうという考えでありましたけれども、私は、今後の移住というものはそうでなくて、むしろ後進国に役立つような人を海外にどんどん出していくということだと思うのであります。また、これは日本国内にとっても、そういう青年が夢を持って海外に出て行き後進国のために貢献するということは、非常に好ましいことと思うのであります。  いろいろのことを申し上げましたが、日本国際収支につきまして、私は短期的にはいろいろ問題がありますし、これについてなお努力を要すると思いますが、長期的には、私は、日本は十分やっていくだけの実力を持っているというふうに思うわけでございます。  これをもって私の公述を終わります。     —————————————
  6. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 上枝先生、渡辺先生の御公述に対しまして質疑をいたします。
  7. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 上枝さんにまず御質問したいのですが、当面の問題について教えていただきたいんですが、最近新聞等でわれわれ承知しているのですが、鉱工業生産が非常に高い水準を示しているわけです。きのうも私大蔵委員会政府にただしたんですが、三十九年度貿易ですね、輸出入六十二億ドルでとんとんということになっているのですが、この前提となるのは、鉱工業生産九%と押えているのですね。ところが最近は、二月は前年同期に比べて二〇%以上も上昇率を示しているというわけなんです。それで最近では、大体九%の三十九年度の鉱工業生産の伸びを計算した基礎は、大体本年一月を一四七、それから三十九年度の平均を一六〇ぐらいに押えたんだそうです。ところが、一四七の基礎がもう狂っちゃって、一五五くらいになっているのだそうですね。そうしますと、六十二億ドルでとんとんにするためには、よほど鉱工業生産の伸びを落としていかなければならない。しかも、三十九年度に九%まで落とすということは、いま二〇%以上も二月は前年同期に比べて伸びを示しているわけです。かりにこれがずっと横ばいになったらたいへんなことになるわけですね。九%にするには、よほどこれからダウンさせていかなければならない。そうなると、これはたいへんなデフレ政策をとらぬ限り、そういうことは不可能になると、こういうように思うわけです。そこで、われわれ実際を知らないものですからわからないのですが、在庫はどんどんふえているわけですね。在庫がふえているのに、どうして鉱工業生産が落ちないのか。いままで借金して設備投資を非常にやって、収益の分岐点が高くなっているのでなかなか操業を短縮できないという事情もあるように伺っているのですが、その点がどうもわれわれ納得いかないわけです。しかも、政府はここで金融引き締めについては、日銀の公定歩合の引き上げ等については、これはいろいろな政治的な配慮もあると思うのですが、総裁公選とかそういうものもあってじゃないかと思うんですけれども、政府は公定歩合引き上げにあまり賛成ではないと、窓口規制等を強化して調整しようとしているのですが、このままでいったら、私は、三十九年度総合収支で一億五千万ドルの赤字という見通しですけれども、とてもそれではいかないんじゃないか、こういうふうに思うわけです。この点についてわれわれ実情を知らぬものですから、非常にどうも矛盾したいまの現実の事態になっておりまして、政府の言うとおり、三十九年度輸出入とんとんになるためには、よほどのデフレ政策をとらざるを得ないように感じられるのですけれども、その点ひとつお教え願いたいと思います。
  8. 上枝一雄

    公述人上枝一雄君) ただいま木村先生のお話しのとおり、先ほども私申し上げましたが、国際収支が非常に大事である、国際収支をなんとか均衡を保とうとする場合に、三十九年度だけを取り上げた場合には、私は非常に悲観的に見ざるを得ないのです。おっしゃるように、問題はやはり鉱工業の生産水準がどうして落ちないのかということが一番大切なことでございまするし、まあ、いわば、これだけ金融を引き締めているのになぜ落ちないのかということは非常に不思議といえば不可解なことではないかと、これはまあいろいろ見方があると存じまするが、私は、実はこれは流通機構の問題に非常に大きな関係があるんじゃないかと思います。御承知のように、最近ああいったことばに魅せられてと申しまするか、何か販売機構を変えないといけないというような風潮が産業界に多少見える。たとえば、スーパ一・マーケットは、これはもうあれをやらなくちゃいけないんだというようになりますと、それに向かって一瀉千里に大ぜいの人が向かっていく。それからアメリカでは、御承知のように、メーカーが直接マーケッティングをやって、そうして販売に当たっている例が非常に多うございまするが、日本でも最近は繊維なんかにおいても多く見られるのでございますが、大企業のメーカーが直接地方問屋にまで手を伸ばしておる傾向がうかがわれる。それから、生産にあたりましても、素材の生産だけでいいメーカーが、加工にまで手を伸ばすという実態、そういうことがいろいろかみ合わされまして、そうして流通部門が非常にふくれ上がっている、こういうことは言えると思います。先ほど申し上げましたように、最近の企業間信用の非常に大きな膨張をしたということと、ただいま申し上げました流通面に大きなふくれがきておる。これは製品とか、資材とか、そういった面でございまするが、それとうらはらをなしている、このように考えております。問題は、資本主義の本来の機能から申しまして、ここがあまりふくれますと、供給過剰になりまして、自然にこれは売れなくなって、生産をとめて、要するに、鉱工業生産が落ちるのだ、こういうことも一つの見方であろうと思います。しかしながら、最近の様子を見ておりますと、どうもその辺のところにわれわれ理解しがたいような点があるんでございます。  で、この問題は、手形期間を短縮したらどうかとか、あるいは親企業からの支払いを云々という問題で、ずいぶん各方面で御研究は願っておるんでございまするが、遺憾ながら、現在のところでは、なかなか、先生が御指摘のように、生産の落ちにくいような状態になっております。そこで引き締めが足らぬのじゃないかと、こういう点がすぐに指摘されるのでございます。この問題を客観的に見た場合には、確かにこれは引き締めが少しゆるいからこういったことになったのだろうということも言えると思いまするが、どうもわれわれ金融に携わっておる者は、昨年の末にきまりました日銀の新窓口規制案によりますと、ずいぶん引き締めは強化しておるわけであります。これは、貸し出し総額を見てもわかると思います。そうしますと、今後、それじゃこれに対してはどういう手を打っていったらいいか、新しい、機動的な一つの冷却するような方法はそれじゃ何かということになりますると、これはやはり私は金融政策をもう少しきびしくやる必要があるんじゃないかと思います。そうしますと、いままでのような窓口規制とか、あるいは預金準備率引き上げだけでなくて、それ以外のやり方も考えなくちゃいけないのではないかと、このように考えておるわけでございまして、いずれにいたしましてもこれは非常に重要な問題でございまするし、へたなやり方をいたしますると、倒産も非常にふえてまいっております。これが経済、政治全般に波及するようになるということも非常に困った事態でございまするので、その辺のところも十分検討しながら押えていくことを私どもは目下研究中でございます。
  9. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 もう一つ。ただいまのお話ですと、私は何も金融を引き締めろという意見を持っているわけではないのです。その点は非常にむずかしいわけなんですね。われわれ革新政党の立場に立っているわけですけれども、いたずらに金融引き締めで倒産とかあるいは失業なんか出て社会的に摩擦を起こすこと、これも避けなければならぬ。ところで、このまま行きますと、いま窓口規制をした結果、今度は企業間信用が非常に膨張している。へたをすると、何かのショックによって非常な混乱が起こるような気もするわけなんです。ですから、そこのところが、先ほどの上枝さんのお話ですと、日銀の公定歩合いの引き上げ、あるいは預金金利引き上げですね、そういうようなことを必要だというように承ったんですけれども、それもちょっとかなり困難で、預金金利を上げればやはり日銀の公定歩合いの引き上げということも問題になる。その辺が非常にむずかしいところなんで、それをわわれれも迷っているわけなんですがね、実は。  それからもう一つは、貯蓄増強については、預金金利引き上げも、あるいはまた税制面の問題もさることながら、可処分所得が増加するということがやはり貯蓄増加せしめる一つの大きな要因になると思う。それについては減税が足りないと思う。これは先ほどお話の下方硬直性で歳出膨張するということがあって減税も困難だと思っているのですが、私はやはり減税はもっとやるべきではないかと思うのですが、その点ですね。
  10. 渡辺武

    公述人渡辺武君) ごもっともでございます。私も、ただいまお話しの非常に大事な点は、金融引き締めだけがこういった時代における唯一の方法であるとは思わないのでございます。で、一番大切なことは、やはり消費の段階で多少変わった空気が出てきて、そして生産から流通にわたって過剰傾向が非常に著しくなってきた。その結果が生産が落ちるということが一番望ましいのじゃないか。  そこで、私は貯蓄運動の問題を強調しておるわけでございまするが、何と申しましても国民の一人一人がこれは物を買うよりは貯蓄するほうが得だと、そういう空気がなぜ起こってこないか、また、そういう空気を起こらせることをするのが政治の私は要請ではないかと思う。そういう意味で、御指摘のように——私は非常に商売に関係がございまするので、何かおまえかってなことを言うのじゃないかというようにお聞き取りになるかもわかりませんが、全体といたしまして、どうしてもこれは貯蓄に対しては貯蓄する人が得なようにということになりますると、結局利回りもいいようにしてあげなければいけません。それから一番われわれの仕事のうちで指摘されるのでございまするが、預金の秘密性の問題でございますね。これは預金というのは、どうもやはり皆さんどこにでもわかるような意味の預金というのは一人一人はありがたくないわけでございまして、この点をぜひもう少し税務当局なんかの御考慮をわずらわしたいところじゃないかと思うのでございます。それからまた預金利子諸税の問題になりますると、税理論からいつも問題になりまして、なかなかこれはむずかしい問題でございまするが、これまたいま一番大事なのは、何といっても、消費者物価とか、いまの生産の問題とか、国際収支の問題でございますから、税理論税理論として非常に大切でございましょうが、国民生活にこれは一番大事な問題でございまするから、時限立法でも何ででもよろしゅうございまするから、ここしばらくの間は預金を尊重するのだというところに一つしぼって大なたをふるっていただきたいと思うのでございます。  それから減税の問題でございまするが、この問題は御指摘のとおりでございまして、私も自然増収がこれほど大きくて減税の幅が小さ過ぎる、もう少しこれは減税に回してしかるべきじゃないかと思います。減税はもちろん個人にもはね返るようにしていただかなくちゃいけないし、いまの貯蓄ができやすいような意味裏づけができるような減税であってほしいということ、それからもう一つは、何と申しましても、これは個人も含めてでございまするが、日本で一番重要な問題は、借金政策と申しまするか、何か自己資本でやるということについて少し考えが変わってきておるように思うのでございます。私はいまの減税の問題とからめて申し上げるのでございまするから、ちょっとピントがぼけるかもわかりませんが、日本経済の運営についていま一番困っておる問題は、大企業といわず、中企業といわず、小企業といわず、事業をやるとすると借金でやるということがどうもあたりまえのような傾向を来たしておる。それから投資と資本の関係におきましても、投資のほうが先行してしまって、資本のほうはあとからついていく、そういう傾向が強いのです。昔のように、ある資本があってそれで投資をするという考えにしろと申しましても、これは技術革新の時代でございまするし、日本のように灰から立ち上がった国でございまするし、まだ戦後二十年でございまするから、これをすぐにというわけには私は参らないと思います。しかしながら、あまりにも何でも借金でやるというこの風潮を直さなくちゃいけない。その直すのには、もちろんこれはいろいろ学者諸先生方の一つの理論的な裏づけも大事であろうと思いまするが、しかし、何と申しましても、現実にそれが可能なような環境につくってやらなくちゃいけない。それが要するに減税でないか。いままでのところ、超均衡財政でいくのだ、残りはみな金融というもので処置をするのだと、こういうことが通説のようになってきておるわけです。それはごもっともでございまするが、このように大きな成長をした過程におきましては、いま申し上げましたように、なかなか金融だけではこれはむずかしいと思うのでございます。そこで、少しずつ問題を解決していくとしますると、いま申し上げましたような、自己資本で事業をやるのだ、借金ではやらないのだというような風潮にひとつ持っていくことが日本経済の運営の姿から申しまして一番大事なことであります。国もひとつ、ただいまもお話がございましたが、長期的に見てはだいじょうぶかもわかりませんが、とにかく国自体もどうも借金というものは、これはひとつ考えて、経常収支というものはどうしてもこれは均衡をとっていく、銀行は銀行でオーバー・ローンなんというのはこれはやるべきでないのだと、真剣にそれに取り組む必要がある。企業企業でやはり自己資本でやるのだと、こういう風潮がとれるような政治をやっていただくということが私ども経済界から見まして切望するところでございます。
  11. 戸叶武

    戸叶武君 お二人からかなり政治に対するきつい要望がありましたが、そのとおりのようで、この二、三年来物価の値上がりの現象面だけを追及しておりますが、いま上枝さんが言われたように、貯蓄の問題あるいは借金の問題にいたしましても、物価が七・二%あるいは七・八%という値上がりをするようなときに、貯金をするのがばかで、結局、銀行に預金を送ることよりも、そんなことでは間に合わない一つの流れがある。また、事業をやる者が銀行から比較的安い利子で金を借りて事業をやれば、物が上がっていくのだから、これは一番能力のある手腕家がそういうことをやっていくのが一番事業のためになるという、一つの政治の流れ、風潮に対するはね返りだと思うのですが、そういう意味において、開放経済体制のもとにおける金融政策というものが、きわめて、いままでと違って、いままで以上に重要だと思います。そういう点では、いまのような、戦時中つくられたような、日銀法で規制されているような日本の逆三角の金融の中枢というものから大きな考え方の間違いがあると思うのですが、もちろん日本銀行の中立主義なりあるいは自主性なりといわれましても、最終的には金融政策そのものも政府の責任であることは間違いありませんけれども、あまりにも自主性がない。そして、もやもやして、あまり直接的な表現をすると政府政策とぶつかっちゃたいへんだというへっぴり腰でものを言っている。そこに非常に不明朗な形における停滞がわいておるのじゃないかと思います。  具体的にいいまして、第一にアメリカヨーロッパの区別を渡辺さんがやっておりましたが、アメリカの去年の七月の利子平衡税をする前に、すでに連邦銀行を通じてアメリカはドル防衛の立場から公定歩合の引き上げ、それから短期及び長期資金の国外流出抑制というものをはっきりと政策の上において出しているので、あの段階に日本アメリカの具体的な利子平衡税の手をわからないはずがないので、ジロンと大平さんの共同声明を見てくれればわかるというのに、幾ら見てくれてもわからないのは、とにかくジロンさんの立場からいくと、一分五厘程度の引き上げだから、利子の高い日本にはそれほどのショックはないのじゃないかというアメリカ的な観測の上に立っておるし、開放経済体制のもとに入っておるカナダにおいては、一晩に二億ドルからのショックが起きた。その通貨危機に対して、カナダ並みに日本でやってくれといったって、違うのだから、それはやれない。これはアメリカの言っていることが非常にはっきりしていて、なにか赤ちゃんがものをねだるような幼稚な形でもってアメリカにすがって、次の日米貿易経済合同委員会においても要請しておりますが、それよりほかにアメリカとの問題はあるのじゃないか。渡辺さんもきつく利子平衡税は間違いだと言っておりますが、それよりも、利子平衡税を生む前のアメリカのバイ・アメリカン、シップ・アメリカン、ドル防衛、アメリカのドルを防衛するのが至上であって、それがためには日本は犠牲になってもらってもいい、多角的な貿易でバランスがとれるので、日米貿易はアンバランスになっても差しつかえないというものの考え方、それを政治的に打ち破ることのできない日本の政治の貧困というものがこういう一つの大きなショックを生んでいるのじゃないか。  もう一つ今度は、ヨーロッパの問題が出ましたが、最終的にイギリスの二月の公定歩合の引き上げは、ドイツを除いてはこれがやはり出てきていると思います。アメリカの利子平衡税は直接的だからショックが大きかったが、あの慎重なイギリスが公定歩合を引き上げヨーロッパ各国の中において最終的だと思われる形で公定歩合を引き上げたということは、ヨーロッパから流れ込むところの資金の流れというものに一つの停滞を生むのじゃないか。  政府は非常に楽観的に池田さんなり田中さんが言っていますが、希望としてはよろしいのですけれども、ヨーロッパの現実というものが実は変わってきているのじゃないか。頼みがたいものに頼むといったアメリカにすがる態度、また、ヨーロッパに対する一つの希望、すべてつまずいているのじゃないかと思いますが、いまの三月危機が現実に来ましたので、上枝さんが心配しているように、二月はあれほどの倒産が出ている。十一月以来の不渡りと倒産の続出、ちっともゆるめられておりません。三月には二月をオーバーした現実の姿がここに出てきております。しかし、一九三〇年前後の金本位制をめぐるところのデフレ論、インフレ論と違った次元において私たちはものを考えなければいけないということは、木村さんの言われたとおりだと思います。単なる金融引き締めなり、単なる公定歩合の引き上げを私たちは要請するのじゃないけれども、いま政府のやっている政策というものの反省のない限りにおいては、しりぬぐいは金融の面に出ているので、一年間に三四・二%の通貨の膨張、同じく三四・二%にわたるところの何といいますか金を貸しているという現実の日銀の報告、現象面としての物価の上昇というよりは、そういう金融インフレのもとにおいて、金融インフレ政府政策のしりぬぐいの結果現われたのにしても、私はこれはとめどなく深刻な一つの危機が迫ってきたと思うのです。ぎりぎりの点に三月においては私はある程度まで爆発するのじゃないかと思いますが、これはお二人ともわれわれしろうとと違って非常に専門家で、海外の事情にも明るいのですが、いま非常に政府が楽観のラッパを吹いておりますが、木口小平が死んでからもラッパを吹いていたということですが、死んでからは問に合いませんから、どの辺でこのラッパの音が悲壮感に映るか、もっとどの辺で締めていくか、その辺のところを具体的にもっとお知らせ願いたいと思います。両方からお願いします。
  12. 上枝一雄

    公述人上枝一雄君) 具体的にお話し申し上げるということは非常にむずかしいわけでございまするが、一般論になるかもわかりませんが、心配をしていきますと、これはきりがないと思います。全体といたしまして、日本経済それ自体は結局日本人が運営しておるわけでございますし、日本人自体が世界に非常に優秀な頭脳を持っておりますし、非常に誠実な人間であるということも、これまた私どもは疑いたくないわけです。したがいまして、いま当面する非常に大きな問題と、将来にわたり長期にわたるところのわれわれがとらなければいけないといういろいろなやり方につきましては、私はおのずからここに良識というものが出てくると思うのです。いま先生からお話がありました過去の政策の問題の批判は、私どもは適当でないと思うのでございまするが、私はもっぱら前向きの意味におきまして、いま先生が御指摘になっておるような御心配は起こらないように私ども経済に当たる者が必死になって食いとめるというこの心がまえさえあれば、私は何とかこの危機は切り抜けられると思っております。  ただ、国際収支の問題だけは、先刻からたびたびお話が出ておりまするように、なかなかこれはそう簡単に均衡がとれるとは私は思わないのです。しかしながら、現在幸いにいろいろな意味欧米とも、性質上からいいましたならばあまりそういい性質のものではないかもわかりませんが、資本流入もある程度入ってくるということは間違いないようでございますので、これを一つのかてにいたしまして、われわれ心がまえを一応真剣味を加えていきまして、そして御心配になるような結果にならぬように、ひとつ大きな防波堤になろうというのが、私ども金融人の考えておることでございます。
  13. 渡辺武

    公述人渡辺武君) 上枝さんからお答えがございましたので、私は一つだけ付け加えて申し上げたいと思いますが、先ほど利子平衡税につきまして、私はあの政策が適当なものとは考えないと申し上げましたけれども、そのことは、私はアメリカのドル防衛ということは必要でないということを申し上げたのではないのでありまして、日本の国際間の取引によってためました外貨というものの大部分はドルで保有しているわけでありまして、このドルの値打ちが下がることは日本として不利であります。ドルの値打ちというものは、やはり私は維持していくように、われわれとしても当然協力していくことがわれわれの利益だと思うのです。ただ、その方法といたしまして、いまのような利子平衡税というやり方が適当でない、こう考えるわけでございます。その点だけちょっと申し上げておきます。
  14. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 渡辺さんにちょっと質問したいのですが、三点ばかり伺いたい。  第一点は、これまで日本経済高度成長をもたらした一つの大きな要素が日本の豊富な労働力と言われましたが、われわれからみるとこれは低賃金なんです。賃金が安い。諸外国に比べれば、賃金だけではないのですけれども、その他の労働条件が、非常に労働時間が長いんですね。労使関係だって非常に前近代的ですし、いろいろなそういう劣悪なる労働条件、これは豊富なる労働力というあなたは御表現ですけれども、内容はそうだと思うのです。しかし、こういうことが多少は変わってきたけれども、まだ存在しているから、今後安心であるというこの御意見には、ちょっと異論があるわけです。そういうヨーロッパとの低賃金なり労働条件その他が均衡化されて、なお、日本経済が発展していくような考え方をしていかなければいけないのじゃないかと思うのです。また、事実そういう方向に若年労働者の不足等からなりつつありますけれども、その着想にひとつわれわれ疑問があるわけですが。その他短期、長期にわたっての御意見は、それぞれ対策はやはりお示しになっているわけですから、この対策が講じられなければ、渡辺さんの言われた御意見が心配がないということにはならないと思うのです。ところで、国際収支の問題はずいぶん衆参両院で予算委員会あるいはその他の委員会で論議されたのです。それでぎりぎりのところ、結局貿易外収支に一番焦点がしぼられてきたわけなんですね。それで、これをどれ一つみてもみんなここ当分均衡化する見込みがないものばかりなんです。さっきの海運もそうでしょう、海運は努力すればなんとかなるというお話ですけれども、これは非常にむずかしい間間です。貿易量がふえれば船をふやさなければならぬ。船をふやすと港湾費がまたふえる。港湾費の占める率というのは非常に大きいのです。船をふやしたって積み取り比率の問題があります。OECDに入って、石油は二年後に自由化される。それから石炭とか鉄鋼とかは一年後に自由化されると、今度は荷主のほうが長期契約を渋るという問題が明らかになってきたのです。ただ、船をふやしただけでは問題は解決しない。荷主のほうが長期的な五年、十年の契約を渋れば、船をつくってもやはり積み取り比率が大きくならない。こういう非常にむずかしい問題があるのですね。そうしますと、宮澤長官のあれでは今後十年ぐらいに海運がとんとんにできればいいほうだというのですよ。それから、投資の収支についても、これは特許料とかあるいは外資導入の元利払いとか、それから今後従来の外債の利払いというものが重なってくるわけですが、これもそう短期に均衡しませんよ。それから海外の旅行の問題、これもどうしたってマイナスだと思うのです、長期的に見てですね。これはさっき悪いことではないと言いましたけれども、いい悪いは別として、いい面も私は決して認めるにやぶさかではありませんけれども、とにかく貿易外収支のアイテムを一つ一つ拾って検討してみますと、ここ当分これは改善の見通しはちょっと立たないのですね。じゃ、輸出のほうはどうかといいますと、さっきお話のように、これは経済外交とかあるいは合理化とか、いろいろ対策をお示しになりましたけれども、今度は輸出超過に相当なり得るかどうか、その輸出超過によって貿易外収支をカバーできるかどうか、どうしても今度は借金をしていかなければならない、借金をするとまた元利払いが出てくる、悪循環が出てくる。ですから、非常に構造的な問題を含んでいるのであって、どうもいま渡辺さんのお話を伺いますと、そう心配ないというかなり楽観的なお話で、いたずらに悲観する必要もないと思いますけれども、やはりいまの実態を踏まえてみますと、そう簡単なものではないと思います。こういう感じをわれわれだんだん突き詰めていけばいくほどそういうことに突き当たるわけなのですね。  その点と、それから最後は国際会議——私よくわかりませんが、これは利子平衡税とも関係がありますが、この間のパリの十カ国の蔵相会議で流動性の問題について話し合いが行なわれた、この流動性の問題について最近どうなっているのか、トリフィンとかその他の世界的管理的通貨の考え方とIMFとの考え方の間に差があるように伺っておるのですが、渡辺さんそのほうはお詳しいと思うのですが、最近はどういう方向になっておるのか、日本としてはどういう流動性については考えるのが正しいのか、その点についてお教えを願いたいと思います。
  15. 渡辺武

    公述人渡辺武君) お答え申し上げます。  最初に労働力の問題について申し上げましたが、私は、労働力の質及び量がほかの国に比べて豊富だという点を申し上げたのであります。日本生活水準全般がほかの国よりも現在のところ低いというのは、これは事実でありまして、一人当たりの国民所得で比較いたしましても、日本の場合ほかの国よりも低いわけでありまして、この点ももちろん日本の国際競争の上で貢献をしているわけでありますが、この点は日本成長に従ってこの生活水準を上げていく余地があるわけであります。これを上げるためにはいまの合理化への努力生産性向上というのが行なわれる必要があり、また逆に申せば、それができれば生活水準をさらに上げていくことができる、そういうことが言えると思うのでありまして、これは私は現在の日本生活水準がほかの国よりも低い、しかしこれは非常に早いスピードでもって上昇しておる、しかし、これが日本対外競争力の障害にならずに向上を続けていくことができ得る地位にあるということは、合理化余地がまだあるということだと私は思っております。  それから、また外資について、貸借両方を考えなければいかぬじゃないか、ごもっともなことでございます。一方でもって外国からの借金については確定した利息を払わなければならぬという場合に、もし日本の債権が非常に不安定なものをたくさん持っておりますならば、これは確かに問題であります。こういう点は常に心がけていかなければならぬ問題だと思うのであります。これは債権と債務と両方を考えながらいかなければならぬことはお話のとおりだと思います。また貿易外の収支につきまして、すぐにはなかなかよくならないだろうというお話がありました。私もそう簡単にこれが解決するとは思いませんけれども、しかし、いまの海運の問題にいたしましても、時間はかかるかもしれませんけれども、解決できない問題だとは思っておりません。それからまた投資につきまして、これが過去の投資の利潤の送金でありますとか、あるいは特許料を払うというようなこと、これは今後もふえていくと思います。ふえていきますが、これは片方でもって日本経済全体にとってのプラスを伴う問題でありますので、これと比較考量いたしてみますならば、このプラスのほうが私は多いと思うのであります。これはもちろんつまらない特許をたくさん外国から取ってくるならば、日本のプラスにはなりませんけれども、現在までの傾向で見ますと、外国の特許を利用してさらに日本から外国輸出をするというようなことも、全般的に見ては相当行なわれているように思うのでありまして、この点もあながちマイナスの面ばかりを考える必要はないように思うのであります。  海外旅行につきましても、これは結局さっき申し上げたとおりでございますが、確かに今後自由化されますと、日本からの海外旅行がふえると思いますが、しかし外国からもっと外人を入れて、日本の観光収入をふやすという道もあるわけでありまして、むしろこういうような交流が、また高い見地から見て、これは日本のために好ましいことだというふうに思うわけであります。  最後に流動性の問題についてお話がございましたが、いまパリで行なわれております十カ国会議のことは、これは発表されておりませんので、私ども承知しておらないのでありますが、これは一つの理想的な考え方をいたしますると、世界の中央銀行をつくって、そこから各国の国際収支の悪い場合に金を貸す、これも一つの理想的な考え方かもしれませんが、その場合に、現在の段階におきまして一番問題になりますのは、それではだれがそこの銀行の総裁になり、あるいはそこの意思決定者になるか。日本人がなるなら日本として問題がないでありましょうが、ほかの人がなった場合に、これが日本にとっていろいろ拘束を加えることになるのじゃないか。現在の国際通貨基金は、あくまで国際協力の機関でございます。国の上の国ではないわけであります。もし国際的に国の意思を強く拘束するような中央機関というものができますと、これに対して各国が従っていくのにはなかなか困難がある。国の主権の問題と関連いたしてきますので、この点が非常にむずかしいところだと思うのであります。そういうわけでありますので、現在流動性の問題が大体どういうふうになるか、これはまだわかりませんけれども、はっきりしておりますことは、一つはドルの切り下げはおそらくないだろう、それからまた、自由ないわゆるフラクチュエーション・レートと申しますか、相場の変動を認めるような制度ということは、これはやはり国際間の取引を阻害いたしますので、そういうことはおそらくとられないだろうと、結局現在あります国際通貨基金、IMFの機構というものを中心にいたしまして、その国際間で決済をするための資金の不足を生じた場合に、これを供給する資源を強化するという方向にいくものだと大体考えております。非常に簡単でございますけれども、それだけ御報告申し上げます。
  16. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 ちょっと、そのいまの資源を強化するというのはどういうことなんですか。
  17. 渡辺武

    公述人渡辺武君) 現在世界の各国が外貨をみんなそれぞれ持っているわけであります。金及び外貨を持っているわけであります。これは別々に各国が保有しているわけなんであります。結局国際通貨基金と申しますのは、各国からそういう外貨を持ち寄りまして、プールをつくって、まん中にプール資金をつくったようなものであります。そのプール資金から、各国が国際収支赤字になった場合には一時金を借りておく、国際収支がよくなったら返す。要するにまん中にプール資金を置いておきますと、資金全体が効率よく使えるわけであります。みんなが自分でもってふところ勘定を持っているより、銀行に預けておいて、必要ならそこから借りるほうが都合がいいのと同じわけでありまして、そういう資金が強化されますと、そうすると国際間でアン・バランスが起きましたときに、それを調整するために、その資金を供給する能力がふえるわけであります。そういう意味で、それを国際通貨基金そのものの増資という形でやるのも一つの方法でありますし、あるいはこの前のパリの協定によりましてできました六十億ドルの資金というようなものをさらにふやすというやり方もあるかもしれません。いずれにしましても、これは国際間のプール資金であります。そのプールをふやすという方向でいくものではないかと思っております。
  18. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 上枝先生、渡辺先生におかれましては、まことに御多用中、有益なお話をしてくださいましてありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。  午後は一時十五分に再開いたしたいと存じます。  暫時休憩いたします。    午後零時十六分休憩      —————・—————    午後一時三十三分開会
  19. 太田正孝

    委員長太田正孝君) これより予算委員会公聴会を再開いたします。  午後は四人の公述人の方に御出席をいただくことになっております。  御意見を拝聴する前に、公述人の皆さまに一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず、本委員会のために御出席いただきましてまことにありがとうございます。委員一同にかわりまして厚く御礼を申し上げます。  午後の公聴会の進め方につきまして申し上げますが、公述時間は御一人三十分程度にお願いいたします。  それでは最初に久保まち子先生にお願いいたします。
  20. 久保まち子

    公述人久保まち子君) 社会保障関係の問題について申し上げたいと思います。  三十九年度の社会保障予算によりますと、社会保障関係費は大体一九・二%増加で、一般会計予算の中の一三・二%を占めることになっております。しかし、その内訳を見ますと、生活保護費それから国民年金の中の福祉年金、これは大体公共扶助的性格を持っているものですから、この二つを合わせまして大体一千四百億円、それから社会保険費として出しておりますのが一千九億円、国民年金制度に出している国庫負担分は、これは年金としての実効を持っておりませんで、そのまま資金運用部に入りまして財政投融資資金として利用されておりますので、社会保険費として除いてみますと、生活保護費と福祉年金費を合わせました一千四百億円のほうがはるかに社会保険費のほうよりも大きくて、日本の社会保障制度が、一般に社会保障制度というものは防貧的制度であると考えられているにもかかわらず、救貧的要素がきわめて大きいと言わなければなりません。では、こうした日本予算の面で毎年額が増加しておりますけれども、一体どうしてこういうふうに救貧的要素がきわめて大きいのかという問題になりますが、それは一つには、一方で、かなり大きい低所得階層が存在していること。それから他方では、防貧的役割りを果たすべき社会保険がきわめて不備である。この二つによるのではないかと考えます。  まず、低所得階層の存在についてざっとながめてみますと、三十八年度の厚生白書によりますと、大体、低所得階層と呼ばれるものは世帯数で百三十一万世帯、人口で五百万人、そのうち十四歳以下の子供が三八・四%、これは一般世帯では三〇%になっておりまして、低所得のほうはかなり多い子供を持っている。それから六十五歳以上が七・二%、これは一般世帯で五・七%、こういった低所得層が片っ方存在しておりますが、この低所得世帯と申しますのは、白書の規定によりますと、家計支出を下のほうから順に高いほうに並べていきまして、そのうち低いほうから全体の世帯主の四分の一の数になる分を取った分を低所得世帯と呼んでおります。この低所得世帯を構成している人たちはどういう人たちであるかといいますと、零細自営業者、それから零細経営農家。で、これは農業以外の資本主義産業部門に職を持つことのできるような世帯員を持っていない農家、農業所得で主として生活しているような人たち、それから零細事業所で働く低賃金労働者、あるいは日雇い労働者、そういった人たちによって構成されているわけです。で、最近の経済成長世界の奇跡といわれている経済成長の中で、この低所得世帯層がどういうふうに動いていくかということを考えてみますと、しきりに賃金格差の縮小ということがいわれておりますが、これはすでにいろいろなところで指摘されておりますように、弱年層賃金の上昇によって平均賃金の格差の縮小がもたらされているのであって、中高年齢者層では、依然として大きな格差を持っている。それから、この成長下で、生産性の二重構造、これがどうなっているかということについてみましても、経済成長ブームで大企業による系列化が行なわれて、中企業、小企業と——系列化された優秀企業では、中堅企業へと発展していくことができる。それからまた政府の最近の中小企業生産性向上のためのいろいろな政策、そういったことも、やはり優秀企業が選択的に行なわれるわけで、ここで中規模企業の分解が行なわれまして、中堅企業へと発展するものと、低生産性企業として残るものとが起こるわけです。残余の零細企業とか、それから脱落してきた中企業、そういったものが依然として低生産性企業として残り、生産性の二重構造は、なかなか解消しにくいのじゃないかと考えているわけです。そうして、こういった低生産性企業を可能にするためには、低賃金労働がなければならないわけですけれども、それを可能にするのは、やはり労働市場の二重構造でありまして、これも解消の方向をたどっているとは申しますけれども、依然としてなかなか根強いものがある。  それからもう一つは、農業における低所得就業、これは一人当たり農業従事者の所得額が資本主義産業部門での低賃金労働者に比較しても低いくらいのところにあるというわけで、これらの人々は潜在的失業者として絶えず外部に流出しようとしている。そこで低賃金労働の供給は依然としてあり得るわけで、ここに生産性二重構造は存続すると考えるわけです。経済成長がいままでのような速度で進むとは考えられませんで、いずれ落ちると思うのですけれども、とにかく成長が進むとして、低所得層は、ある程度まではいまよりも小さくなるかもしれないけれども、依然として中高年齢層を中核とした一種の構造的低所得者層として残るのではないかと考えられます。  こういった一方の低所得者層に対して、社会保険のほうはどうなっているかと申しますと、社会保険の中心をなしています年金保険とそれから医療保険についてみますと、年金保険も医療保険も両方とも、被用者保険とそれから一般国民に対する保険というふうに大まかに分かれておりますけれども、内容を見てみますと、被用者保険と申しますのは、国家公務員共済組合、地方公務員共済組合、それから厚生年金と、そういったところでございますけれども、いずれも常時従業員五人以上を持っている企業に限られております。そうして、一般国民のための保険と申しますのは、その中に従業員五人以下の零細企業に働く被用者が含まれ、結局、簡単に申しますと、この一般国民のための保険であるところの国民年金制度——国民年金とそれから国民健康保険とは、日本における低所得者層を全く包含して、そのほかに自営業者を対象としていると考えることができるわけです。  で、この低所得者層を含んでいるこの二つの社会保険に大きな問題が含まれている。国民年金制度についてみますと、対象とするものが貧困者が非常に多いために、次のような問題が起こってくる。拠出額を高く引き上げることができない。そのために拠出額を低くして、なおかつ最低生活を保障するような年金を支給するため——まあ三千五百円ですが——それを支給するためには、拠出期間を長くしなければならない。そこで、完全給付のためには四十年の積み立てが必要であるというような結果が出てくるわけです。それからもう一つは、低所得者層で、所得が把握しにくいという技術的な理由から、均一額拠出という形をとっております。で、均一額拠出と申しますのは、いかにも均一という感じを受けますけれども、実際にはこれは強制保険でありまして、税率としてみますと、逆進税である。低所得ほど税率が高い形をとっております。で、この逆進税で納めました拠出金は四十年間積み立てられます。その期間、積み立て金は資金運用部に入って、財政投融資資金として利用されているわけでありますから、見方を変えてみますと、低所得者層に対する逆進税でもって財政投融資資金を融通しているということも言い得るのでありまして、全然年金支給という実効を伴わないこの社会保険のもとで、社会保障制度の中で、低所得者層はかえって圧迫をこうむっているというのが現状であります。こういった間隙を埋めるために、福祉年金ということが考えられておりますが、これはいろいろ支給条件がございまして、一種の公的扶助として考えられる。これはあとでまた申し上げたいと思います。  次に、国民健康保険についてみますと、これも先ほど申し上げましたように、対象としては大体国民年金の場合と同じである。拠出は、所得比例部分と均一額部分とが入っておりまして、国民年金の場合ほどではございませんが、やはりこれも依然として逆進税である。で、そのもう一つの特徴は、国民健康保険では、最近次第に現金の自己負担分を減少していく傾向にございますけれども、この自己負担分が低所得者を医療から遠ざける作用をしている。ちょっと資料は古くなりますけれども、社会保障年鑑から調べた数字でございますが、昭和三十四年に組合管掌健康保険、これは大企業が行なっている健康保険でございまして、そのほかの政府管掌健康保険の場合よりも、給付それから掛け金、いろいろな点でかなり有利になっているものですが、この組合管掌健康保険では、被保険者の年当たり受診回数は四・二回、政府管掌健康保険では、三・七、それから国民健康保険では、この自己負担分がありますために、二・〇という形で、半分以下に落ちております。もしも病気が各所得層に対して同じような割合で分散しているとすれば、これは明らかに低所得者は自己負担金のために医療にかかれないということの表現ではないかと考えるわけです。そこで、国民健康保険の場合には、所得再分配的観点から見ますと、むしろ逆進税によって、つまり貧困な人々は税金として保険料を納めますけれども、医療にかかれない。そのために、逆進税で所得の逆再分配が行なわれていると考えてもいいのではないかと考えるわけです。そこで、結局社会保障制度の中の重要な社会保険でありながら、所得再分配効果はあまり持っていない。もう一つ国民健康保険の中で重要な問題は、これに含まれております五人以下の零細企業で働く被用者に対して、病気で休養中の療養手当が出ていないことです。健康保険の場合には六〇%出ますが、国民健康保険の場合には、それがないために、江東地区のある病院で聞いたんですけれども、世帯主が病気になると、たちまちにして生活保護水準に落ちてしまう。そういう問題があります。これは厚生白書によりますと、生活保護開始理由の中の三〇%が世帯主の病気ということになっていることも、それを反映しているのではないかと考えるわけです。  で、このように見てまいりますと、日本の社会保障制度は、低所得者層にとってはまだ負担がある段階であって、給付がある段階ではない、受益の段階ではないと考えることができるのではないか。で、このようなために、何か事があるときには、生活保護にたよらなければならない。そうして公共扶助費が社会保障関係費の中で大きな役割を果たしていることになります。  ここでもう一つ、日本の年金制度について一つ問題がございますが、それは遺族年金と障害年金に関するもので、日本の社会保険は、依然として拠出した人が給付を受ける権利を持つ。すなわち拠出のできない人間は給付を受ける資格はないという形で考えられております。しかも、それは拠出とリンクして、拠出実績に応じた給付というような形の給付で、きわめて古い形の保険方式を依然として固執しているわけでありますから、そこから遺族年金、障害年金が、一種の、老齢年金を受けられなかった場合に、もらえるものであって、年金に対して掛け金ができなければ、障害年金も母子年金ももらえないという形になっている。で、そこから、たとえば母子年金というのがございますが、これは夫と死別した母子にだけ給付されるものでありまして、夫と生別した母子に対しては支給されない。この考え方は、国民年金から福祉年金に反映しまして、福祉年金でも生別母子には福祉年金は与えられておりません。この間隙を埋めるために、去年でしたか、児童扶養手当ができまして、これが生別母子に対して年金を出すような形をとっております。で、子供の立場から考えますと、父親を失って生活に困るということについては、何ら違いはないのでありまして、このような方法がとられたのも、結局は生活をする子供の立場から考えたのではなくて、年金保険という形式にとらわれた結果なったのではないかと考えます。  それから障害年金も同様でありまして、掛け金をする前に障害になった者は年金を受け取ることができない。公共扶助にたよるしかないというような問題が起こっております。  そこで、社会保険の将来について、どういうふうな形でしたらいいかというふうなことについて少し申し上げたいと思うのですが、社会保障制度の時代以前の社会保険のときには、職場のグループとか、ある特定の人々の間での社会意識の上にのっとった社会保険でありましたが、社会保障という場合の、社会の責任において生活を保障するという場合、社会は全国民的な規模に広がったものと考えられるわけです。こうした立場から考えますと、まず国民をグループ分けにしていろいろな社会保険をつくるのではなくて、全国民を対象とする社会保険でなければならない。それは国民の生活を保障する基本的な給付であるべきで、それは均一な給付であることが好ましいわけです。で、方法としては、いろいろな現在存在している各年金制度の基礎給付部分の統合というようなことも考えられますし、あるいは現在行なわれている福祉年金の範囲を広げて、それからいろいろな所得制限を排除して、年金額を引き上げるというような形で、経済成長に伴う国民所得の増加分をそういった方向に充てていくというような形も考えられます。その次に、積み立て制度の廃止ということがもう一つ必要なことだと思うのです。国民年金の例をとって考えてみますと、四十年間先の、給付を開始したときには、どういう財源から給付がまかなわれるかと申しますと、四十年先のそのときに労働している国民の拠出と、それから国庫負担分と、その四十年間に積み立てられた積み立て金からの利子収入と、この三つによってまかなわれるわけであります。この利子収入と申しますのは、別の考え方からしますと、この四十年間、当然老齢年金を受けられる年齢に達していた人々が老齢年金を受けなかったという犠牲の上において得られるものなのでありまして、これが社会保障制度の時代に、はたして国民がそのようなことを希望しているかどうかということは、もう一つ検討しなければならないんじゃないかと思います。で、結局この利子収入を除いて考えてみますと、いわゆる賦課方式といわれている目的税と、それから国庫負担分とでまかなうという方法と全く変わらないのでありまして、そういった方法を取り入れてやっていくことが好ましい。そうすれば、すべての国民に対して年金をきわめて早い期間に支給を開始することができるわけです。  それからさっきもちょっと触れましたように、三番目の形としては、年金を老齢年金とそれから遺児年金、障害年金の三本立てにする。それで障害年金は、老齢金年の掛け金があるかどうかではなくて、リハビリテーションの可能性に応じて、つまり社会復帰のための訓練と緊密に関連させたものとして支給される。それから遺児年金は、生活の資をもたらしていた父を、あるいは母を失った児童の生活を保障するものとして考える、そしてその遺児に対して支給するということが重要であります。第一、親が保険に掛け金をする能力があったかどうかで、その親を失った子供が差別待遇されなければならないという理由はごうもないのでありまして、この点、早急に改革する必要があるんじゃないかと思うわけです。  それから、年金は資産調査をしないで、すべての人々に支給されなければならない。で、年金をすべての人々に支給すると、それでは百万長者もみんな同じになると、いろいろな反論も出るわけでありますけれども、年金を支給しまして、その年金を所得に加算して課税対象にするという形をとりますと、間接的資産調査を経て、段階的年金の支給が行なわれるということが自動的に行なわれるので、そういった面の問題も解消されるのじゃないかと思うわけです。  で、先ほど申し上げましたように、社会保障制度の社会保険は、国民の生活を保障するための均一額でなければならないと申し上げましたが、それでは現行の所得比例部分についてはどうするかというような問題が起こるわけでございますけれども、この点につきましては、一般労働をしなくなった人々に対して、国が所得比例的な保障をする理由はさらさらないのでありまして、所得比例部分は、被用者とそれから雇い主との共済保険のようなものにするとか、事務費について国家が負担するだけで、その給付費について負担する理由はない。給付費に負担している部分は、すべて基本的部分の社会保障費に回していくべきではないかと思うわけです。  次に、医療保険について見ますと、先ほど申し上げましたようなさまざまな医療給付内容の不公平を、できるだけ早く是正するために、何とか統合する方法をとっていくことが好ましいということと、それから被用者に対しては、零細企業に働く被用者に対しても休業期間中の手当を支給することが望ましい。あるいは医薬分業を確立して、その上で医師に対する報酬問題が論じられることが重要である。さまざまな問題があります。もう一つ医療保険では、辺地の無医村とか無医地域の問題というのが起こっております。これはやはり辺境地域でも強制的に保険として医療費を取られながら、お医者さまがいないために医者にかかりにくいという問題が起こっているわけですが、なかなか、世界のどの国を見ましても、この辺境地域にお医者さまを定住させるということは困難なわけであります。ちょっと聞いたことなんですが、ユーゴスラビアで行なっている方法と申しますのは、辺境地域に行くお医者さまに対しては、何年周かそこにおれば、必ず中央に呼び戻して中央のポストを与えるという約束のもとに辺境にお医者さまが行くように仕向けていくという方法をとっている。これはかなり成功していると聞いておるので、御参考までに申し上げたいと思います。  最後に、家族手当の問題がいま問題になっておりますけれども、日本の家族手当制度を考えますときに、まず頭に浮かんでまいりますのは、多くの場合、賃金や俸給の中に児童扶養手当というようなものが含まれていることが多い。それからまた、税金の中に児童扶養控除が含まれております。この上、これに対して家族手当を支給するということは、なかなか理屈が——しなければならないという理由がないわけで、結局、貧困者に対して、資産調査の結果、家族手当を支給する、おまえのうちは貧しいから家族手当をもらうというような感じを子供に抱かせるようなことになるのでありますが、ここで、先ごろスエーデンのほうにまいりまして、家族手当制度でたいへん参考になるアイデアでありましたので、御紹介申し上げますと、スエーデンでは税金の扶養控除というものを排除してしまう。なぜこれを排除したかと申しますと、定額で扶養控除いたしましても、所得税が累進税でありますと、高額所得ほど児童の扶養のための家族手当を、多く国から受けておるということになるわけでありまして、これはきわめて不公平である。それで、税金の低いところでは扶養控除はますます小さくなって、結局納められないところでは扶養控除は全く持っていない、家族手当が全くない。そこで、すべての子供は親の収入、所得状況のいかんにかかわらず、同じように出発点を持たなければいけないというわけで、税の控除を廃止しまして、それからまあ西欧諸国では賃金、俸給は能率とか職種によってきまっておりますので、家族手当も入ってないわけですが、そこでそれらの財源を集めまして、すべての児童に対して家族手当を大体年三万八千円ぐらいですが支給しております。こんなのも家族手当制度をする場合の財源の一つのアイデアとして考えていただけるものじゃないかと思います。  大体それぐらいが、予算を拝見しまして私の浮かんできた考えでありますので、たいへんざっぱくでございましたけれども、ちょっと意見を申し述べさせていただきました。
  21. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 久保先生に対する質疑は、松尾先生の公述を終わった後に、御一緒にお願いいたしたいと思います。     —————————————
  22. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 松尾均先生。——おいでにならぬ前に申し上げましたことですが、今日はお忙しいところありがとうございました。それから、大体三十分見当ということになっておりますので、さようお含みをお願いいたします。
  23. 松尾均

    公述人(松尾均君) 松尾でございます。私のテーマは国民生活と物価というテーマになっております。  国民生活と物価と申し上げましても、特に国民生活と関係の深い消費者物価、これにつきまして申し上げてみたいと思います。  結論から最初に申し上げますというと、なるほど物価は上昇している、そしてこれが国民生活に与えている影響が意外に大きいんじゃないかということであります。と申しますというと、御承知のとおり二、三日前に政府から国民生活白書が出されました。この白書によりますというと、最近の経済成長の過程の中で、国民所得も上昇した、それからまた消費水準向上したと、特に消費生活のほうは洋風化した、あるいは近代化したというようなことが指摘されております。確かにこの点につきましては、国民生活の改善が進んでいるということは認めなければなりませんわけですけれども、ところが、所得のほうの上昇がなかなか進まないということのために、国民生活の中に、特に消費生活の中に、いろいろな無理が生じているわけであります。たとえば、所得が向上しましても、第一に物価が上昇しますというと、言うまでもないことでありますけれども、国民生活は実質的に向上しないということであります。それからまた、特に最近目立つことは、消費者に対しましては、たとえば社会的デモとかああるいは宣伝とかいうような、いわば強制が加えられまして、外部的刺激が非常に大きいわけであります。そういうことのために、収入と支出と申しますか、あるいは所得と支出と申しますか、この間にかなりの無理が生じているわけであります。すなわち、消費支出というものは大体所得にいわば比例してと申しますか、あるいは相関してと申しますか、支出されるのが当然のことでありますけれども、この所得あるいは収入と支出との間の一定の相関関係が、かなりくずれているというようなことで指摘できるわけであります。非常に卑近な例でありますけれども、たとえば部屋は非常に狭い、しかしその中に電気器具あるいはレジャー用品が充満しているというような姿というものは、そうした所得と支出の相関の間に無理が入っているという一つの証拠じゃなかろうかと思います。ところが、そのような傾向というものは、いわゆる最近はやりの消費生活のパターンに注目しますというと、非常に大きないわば変化を生じさせているということがわかるのであります。たとえば昭和三十一、二年あるいは三年ぐらいまでは、特に食生活あるいは住生活と申しますか、このような基本的な支出のために、私たちは自分の収入の大半をさいておったわけでありますけれども、最近の消費生活のいわゆるパターンを見てみますというと、特にレジャー用品あるいは耐久消費財ということのために、いわば基礎的支出に比べまして随意的支出と申しますか、あるいは任意的支出と申しますか、そういう面に非常に大きなウエートがかかってきているわけであります。言いかえますと、今日では、いわゆる基礎的な支出以上に、この任意的な支出が大きくなっているということであります。これはもちろんいろいろな理由があると思いますけれども、一つは、やはり特に食生活あるいは住生活の関係の物価が非常に上がった。このための圧迫がやはり大きいということ、それからもう一つは、先ほど申し上げましたように、社会的デモあるいは宣伝と申しますか、この面の圧力が大きいということで、いわゆるこの家計支出に一つの変態を生じているということであります。最近しばしば消費生活に近代化が始まったといわれますけれども、はたしてこの近代化というものが、そのような基礎的な支出をいわばなおざりにしても、任意的支出にまあ支出するということを近代化と言えるかどうか。言いかえますというと、そのような消費生活の。パターンの変化というものは、非常に表面的なもの、まあそれが消費革命と申しますか、いわば擬装された消費革命と言ってもいいのじゃなかろうかと思うのであります。したがいまして、特に痛感しますことは、今日単に表面的な近代化と申しますか、消費生活のパターンを変えるというだけじゃなくして、むしろやはり安定的な生活改善というものが必要じゃなかろうか。特に日本では、近代化という以前に、もっと安定化というふうな政策方向が必要じゃなかろうかというふうに思うわけであります。この点、たとえば最近しばしば生活行政あるいは消費者行政というようなものが登場しておりますけれども、生活安定化のためには、特にこれは国民生活に対しましては、きめのこまかい手を打ってもらいたいということであります。  たとえば、その事例で、やや身近な事例でありますけれども、今日多くの人々は都心から郊外にかなり離れていっております。これは安い家あるいは安い家賃と申しますか、こういうものを求めて郊外に離れていっているわけでありますけれども、この場合に、交通費指数というものが、はたして物価指数にあらわれるかどうかということが疑問であります。いろいろな例もありますけれども、たとえば私鉄運賃なんかをとりましても、少なくとも私が調べましたところ、一つの駅から次の駅までの料金——最初の料金あるいは運賃が変わらないというと、物価指数にはおそらくあらわれないということであります。それからまたバス料金なんかにしましても、いわゆる一区の間の値段が変わらなければ、料金指数にはあらわれない。一区の間の距離が縮まっても、それは料金指数にあらわれないということであります。こういうことを考えますというと、単に物価指数というふうなものの上昇の影響のみならず、物価指数にはあらわれないような実質的な生活負担があるということであります。こういうことで、私たちはやはり統計を見る場合にも、物価指数は変わらなくても、実際は、たとえばバスの距離の短縮あるいは一区の料金がたとえば十五円なら十五円の走行キロが縮まっているというふうな、この実質的な負担というものが増大しているということ、こういうことはやはり見のがしてはならぬのではなかろうかと思います。  それからまた、消費者というものは非常におかしなものでありまして、物の値段が上がった瞬間には、かなり神経質になるものであります。ところが上がってしまいますというと、これに無関心になる面があるわけであります。ところが、やはり月末にきますというと、かなりの負担を感ずるわけでありまして、そのように、物価の変動には、上がってしまえば案外むとんちゃくだというような面があると同時に、他方で、やはり家計に圧迫が加えられます関係上、きわめてどん欲な面もありまして、たとえば景品とかあるいはいわゆる宣伝と申しますか、かようなものに非常につられることが多いわけであります。こういう点からしましても、不当な景品売りと申しますか、大売り出しあるいは不当な宣伝、こういうものに対しましては、確かに公正取引の立場からしまして十分いわば監視してほしい。そのようなきめのこまかいいわば政策がほしいと思うのであります。以上が一つであります。  それから、次に指摘しておきたい点は、この国民生活白書におきましても指摘されている点でありますけれども、消費生活が平準化したというふうなことが指摘されております。確かにこの点は否定できませんし、一面では全国民の消費生活がいわば平均化してきたということは、これは私たち国民としましてもいわば改善でありますし、さらにまた生産の面の大量生産とも結びつきますし、いわば前向きの方向だと思います。少なくともそのような生活改善のメルクマールだということは指摘できます。ところが、この平均化というものは、一つは統計上のできごとであって、たとえば家計調査にあらわれている国民階層の間の平準化であります。たぶん現在では二万五千円くらいが最低層になっておりますし、少なくともそれ以上の国民層の間に消費生活の平準化が起こっているということが指摘できるわけであります。したがいまして、いえることは、低所得者層とか貧困層とか、こういうものは含んでいないということであります。この点におきまして、特に私が申すまでもなく、一般の低所得者層というものは非常に緊要度の強いと申しますか、緊迫度の強い物資の値段の動きに影響を受けるわけであります。このようなことで、最近のたとえば食糧であるとか住宅の値上がりというものは、いちずにあるいは目に見えないわけですけれども、こうした低所得者層に大きな影響を与えているわけであります。したがいまして、まず指摘できることは、これらの層に対する対策としての社会保障につきましても、この物価の上昇というものを十分織り込んでほしいということ。それからまた肝心なことは、こうした物価の変動期におきまして、ややもすれば社会保障制度がその効力を実質的に失なう、あるいは社会保障制度に対する不信と申しますか、そういうものも芽ばえがちであります。そういう点からいたしまして、これらの層の存在というものをまあ見失ってはいけない。最近一万円年金その他出ておりますけれども、これは確かに社会保障制度の実質的な効力を存続するというような意味もあると思います。  そうしたことがまず第一に目につくわけですけれども、次に、この平準化というものが進んでいるというような点を認めるといたしましても、したがいまして、国民の消費生活が大体このように中産化しているというふうなことを認めましても、昨年の十月に公表されました経済企画庁の消費者動向調査、これから見ますというと、現在、まあその当時でありますけれども、消費者物価の上昇が一番影響を与えているところはどこかと申しますと、これはいわゆる中所得者層であるということを指摘しているわけであります。これは何を意味するかと申しますというと、やはり中所得者層というものは少しでもよりよい生活を持ちたいというような意欲の最も強い層であります。しかしながら、最近の値上がりが特に主食から副食へ、あるいは土地の値上がり、あるいは教育費の値上がり、これが大きいために、こうした中くらいの所得者層の生活向上の意欲というものを非常に阻害しがちであります。このために中所得者層がどういう動きをしているかと申しますと、消費支出に終わりまして、貯蓄というものが非常に減少しているということであります。これは今回の国民生活白書も指摘しておられるとおりでありますけれども、二十六年以降初めて貯蓄率が低下したというふうな記事が出ております。したがいまして、注目すべきことは、これらの中所得者層というものは確かに生活安定のために貯蓄に非常に関心を持つわけであります。ところが、こうした層において消費支出に回る金が大きい、したがって貯蓄に対する回り方が少ない、あるいは貯蓄ができないというふうになりますと、ここにいわゆる貯蓄に対する不信感と申しますか、物価高騰のために貯蓄ができないとなりますというと、貯蓄に対するいわば信頼感がなくなるということになるわけであります。たとえば一坪五万円なら五万円のつもりで貯蓄しておった、ところが、いまになりますと、一坪十万円ぐらいの建築費になったということになりますと、はたして貯蓄した意味があるかないか、いわば懐疑の念が起こるわけであります。そういうふうになりますというと、ここにやはり私は非常に重要なことだと思いますけれども、貨幣と申しますか、的確には通貨と申しますか、こういうものに対する不信感が出てきやしないかということ。少しどきつく表現をしますと、やはりインフレ的な気持ちになりはしないか。確かに貯金とか、あるいは社債に対する投資と申しますか、いわば関心が薄れてきているということは、そういうような一つの芽ばえじゃないだろうか。いま直ちに換物運動が開始されているという意味ではありません。しかしながら、そのような貨幣に対する関心よりは——ややそういうものが薄れてきているんじゃないかということであります。  したがって、私が指摘しておきたい点は、平準化というようなことがいわれますけれども、単にこれは消費財だけの、いわば物だけの領域で考えてはならぬだろうということであります。物だけじゃなくして、いわゆる貨幣も取り入れて考えなくちゃならぬ、貨幣に対する信頼感も含まなくちゃいかぬということ。それからまた、当然われわれは貯蓄をしまして生活安定というのが一つの大きなささえになっておりますから、そのような生活に対する気持ちと申しますか、生活感の安定と申しますか、こういうものも含まざるを得ないんじゃなかろうか。そういうものも含めて、やはり平準化というものを前向きに理解することができるということであります。幸い現在までは卸売り物価がやや安定しておりますから、消費者物価だけのぼりましても、いわば国民総生産の名目と実質というものの乖離——離れているのが少ないわけでありますけれども、通貨自体に対する信頼というものが裏目となりますというと、これは確かに現在の消費者物価の上昇がやがては卸売り物価にも響いてくるというような危険性さえも指摘できるんじゃなかろうか。この点少し先走りのようでありますけれども、しばしば指摘されますように、コスト・インフレというようなものからいわゆる真性インフレと申しますか、そういうふうな方向が芽ばえているということだけは、私たちは念頭に置いていいんじゃなかろうかと思うわけであります。  その点につきまして、特に政府政策としてお願いしたい点は、物価のいわゆる上昇ムードと申しますか、ムードの中身が複雑でありますけれども、たとえば政府がタッチし得る公共料金だけは少なくともこの一年、二年間はどうしても上げてほしくないということであります。もちろん公共料金は、これはわれわれの生活費の中ではウエートとしては大きくないわけであります。それからまた、公共料金は一般物価の中で、あるいは一般物価が上がった結果としての公共料金の値上げに違いないわけであります。ところが、やはり公共料金というものは物価上昇のテンポを早める、あるいはこれを拡大する大きな力を持っているということは否定できないわけであります。したがって、少なくともこの一、二年間はどうしても公共料金だけは上げてほしくない、私たちは公共料金の公共性というものをそのように考えているということであります。もちろん、公共料金の値上げというものは、あるいは公共料金を動かすということは、他の条件が一定ならば非常に困難だと思います。一、二年間据え置くということは、他の公共企業体の、事業経営体のあり方をそのままにしておいて、この公共料金を一定にしておくということは非常に困難であり、無理であると思いますけれども、少なくともそうした事業経営体のあり方にまでさかのぼって今後は検討していただきたいという点であります。  以上が第二点でありますけれども、以上をやや簡単に総括してみますというと、確かにこの数年間経済成長の中で、しかも物価も上がってきましたその中で、国民生活というものはどういう動きをしたかと申しますというと、所得が上昇した、消費水準向上した、あるいは消費支出の中身は近代化した、いわば洋風化した、それからまた消費生活は平準化したという点があります。これは一つのいわゆる大きな近代化の方向であります。ところが、他方、先ほど指摘しましたような家計支出のパターンが違ってきているという点であります。レジャー用とかあるいは電気器具その他の支出が非常に大きくなっている、基礎的な支出が少なくなっているということ、いわばパターンが変化しているということ、それからややもすれば中所得者層以上にややインフレ的な気持ちが芽ばえているということ、それから生活白書も指摘しておられますように、生活の気持ちと申しますか、生活不安と申しますか、確かにこの消費者支出は上昇したけれども、生活不安がどこかつきまとっているようなこと、こういうような面が他の面であるわけであります。したがいまして、これをプラス、マイナスしますというと、一体どちらだとなりますというと、いまや今日の時点に立って考えますというと、むしろマイナス的な面がだんだん大きくなってきているのじゃなかろうかというように考えるわけであります。したがいまして、今日の時点におきましては、あるいは今日並びに今後におきましては、生活の安定というものが非常に大きな対策方法の一つになるのじゃなかろうかと思うわけであります。  以上、生活実態を、特に物価問題をからめまして生活実態に触れましたけれども、最後に、このことと関連しますけれども、ごく最近における物価政策の論調というものは一体どう私たちは見ているかということを報告しておきたいと思います。と申しますというと、私が言うまでもなく、最近農業あるいは中小企業の製品が値上がりしているわけであります。しかも、これらの物価の上昇というものは所得の上昇となりまして、いわば二重構造の解消に役立っているという論議が非常に盛んであります。このため消費者物価の上昇も、いわば二軍構造の解消というふうな点から見ますというと、一つの必要悪じゃないかということで肯定すると申しますか、容認する政策があるわけですけれども、はたしてこうでいいかどうかという点であります。簡単に指摘します。  一つは、そのような価格上昇は、それ自体としましては、この所得の再分配のごとき作用を演じまして、二重構造を解消するといわれますけれども、この点ははたして大きく評価していいかどうかということであります。たとえば農村につきましても、あるいは中小企業につきましても、はたしてそれだけの経営の近代化に進んでいるかどうかということであります。端的に申し上げまして、なるほど製品の価格は上がったわけですけれども、いわゆる諸経費の値段も上がっているというわけであります。それからまた、少しでも経営規模なりあるいはこの経営を近代化しようと思えば、まあ土地制度あるいは資金繰りにぶつかるという点であります。こういう点からしまして、この農業及び中小企業におきましても、生産性を著しく上昇するほどの経営近代化というものがはたしてつながっているかどうかというような点、この点は疑問に思うわけであります。  それから、第二点としましては、先ほどちょっと触れましたコスト・インフレですけれども、単に生産性以上に賃金が上がれば物価が上がると、したがって賃金の上昇を抑えようというふうな、賃金と生産性と申しますか、この二点だけを直接的に結びつけて考えるというのは、やはり私はこれはいわば日本だけのできごとじゃなかろうかと思うわけであります。あまりにも日本的なコスト・インフレ論じゃなかろうか。それから、物価問題を生産性と賃金だけに結びつけまして論じますと、これは当然もう賃金と物価の悪循環論におちいることは事実であります。この点、現に欧米諸国におき委しても、賃金と生産性は論ぜられておりますし、賃金は生産性以上に上がることがあります。ところが、日本以上の物価の上昇があるかというと、そうではないことは言うまでもありません。こういう点からしまして、あまりにもコスト・インフレに神経質になるということはおかしいのじゃないか。第一に、それは経済成長が物価の上昇を引き起こしたというわけですから、そうしてそれが二重構造を解消したというわけですから、もしも物価の上昇というふうな面を選びますと、物価の上昇は経済成長やあるいは二重構造の解消になるというわけであります。したがって、もしも物価の上昇が相ならぬとなりますと、経済成長を押えなくちゃならぬということにもなりますし、あるいは経済成長を取り上げれば、この経済成長を進めれば物価の上昇もやむを得ないというような論理になるわけであります。こうしたことは、おそらく私は経済論理としてはおかしいのじゃないか。そうした物価の上昇と経済成長と矛盾するようなことは、これは少なくとも経済論理としてはおかしいし、全く不可解なことじゃなかろうか。こういう点からしまして、物価政策につきましても、もう少し一歩突っ込んだ政策というものが必要じゃなかろうかと思うわけであります。  それは何かと申しますというと、たとえば賃金が上がる、したがって物価も上がる、あるいは資本コストが上がった、生産性は上がっても資本コストが上がれば価格は下げないというふうな、コストによって直ちに物価を云云するということは、そうした生産のあり方と申しますか、企業経営のあり方と申しますか、ここに大きな反省が必要じゃなかろうかと思うわけであります。もちろん、市場が旺盛でありまして需要がマッチすれば、物価はコスト以上に上がることはあります。それはもう言うまでもないことであります。しかし、それ自体は決してアンバランスあるいはアブノーマルじゃないわけでありまして、しかしながら、今日のような物価上昇がはたしてそうしたような正常な関係に立っているかどうかということは、まさしく疑問であります。たとえば一定のコストを投下して、そうして生産したものは、必ずこれに見合う価格が社会的にも認められねばならないというような企業経営のあり方、これはやはりおかしいのじゃないかと思うわけであります。もしも需要不足のときは、こうしたことは減産あるいは操短と申しますか、こういうこともやむを得ないと思うわけであります。しかしながら、操短あるいは減産では物価の価格の維持ができない、むしろ滞貨金融までせなくちゃならぬというようなこと、そうして生産を続ける、あるいは企業経営を続けるというところに、今日の物価問題の根源があるのじゃなかろうか。言いかえまするというと、物価の政策は単に売り買いの過程と申しますか、流通過程の改善、流通過程の問題ではありますけれども、単なる流通過程上のできごとではなくて、この根源というものをやはり生産過程と申しますか、あるいは企業経営自体のあり方と申しますか、こういうところの問題として取っ組まなければならないのじゃないだろうか。それこそ、物価対策の正しい姿はそういうところにあるのじゃなかろうかと思うわけであります。  そういう面で、物価政策というものは、すべてやはり生産並びに企業経営のあり方につながっているというふうに思うわけでありますし、そういう点では物価政策の転換というものが、いま国民生活の安安化とともに迫られているような気がいたすわけであります。  少し大急ぎでありましたけれども、以上で報告を終わります。(拍手)
  24. 太田正孝

    委員長太田正孝君) ありがとうございました。  久保まち子先生と松尾均先生の御公述に対して、質疑がおありの方はお願いいたします。
  25. 林塩

    ○林塩君 久保先生にお伺いいたしたいと思いますが、社会保障の中の医療保障の問題につきましてちょっとお伺いしたいと思います。  先ほど、現在の医療保障関係のことでありますが、健康保険——健康保険といいましてもいわば疾病保険でございますね、これは組合がありまして、医療給付の格差が非常に問題になっている。いまそれで格差問題を是正するために統合していこうというふうな姿があると、けさの新聞にもそう出ているのでございますが、こういうふうに、これは拠金でございますね、国自体の保障でなくて、一応健康保険料というものをみんな出しております。それでもってまかなっているようないまの保険内容でございますが、それを統合していくということになりますと、非常に経済状態のいいところはいいけれども、そういうよくなりますに至ったまでの努力というものが相当あるわけでございますが、それを今度は、国民健康保険の問題は、国民健康保険財政がひどく逼迫しておりますために、非常に大きな問題があるわけでございますが、そういう低いところに高いところの資金を流して統合していって、そして医療保障問題を解決していこうという、そういうことについて先生はどういうふうにお考えになっていらっしゃいますか。先ほど統合していくというような傾向があるというようなお話でございましたが、それについて国の医療保障という政策からいってみて、それでいいものかどうか、御意見を伺いたいと思います。
  26. 久保まち子

    公述人久保まち子君) 先ほど申し上げましたように、社会保障ということは、社会全体の責任において国民全体の生活を保障するという考えに基づいた時代に、われわれは入っていると考えていきますと、社会保障のことが云々される以前の社会保険のときには、職場グループ、たとえば被用者グループ、大企業なら大企業労働者で集まった組合管掌健康保険、それから少し下のほうの政府管掌健康保険、それをはずれる人たちは、みんな国民健康保険という形になっておるわけであります。私が、先ほどおっしゃいましたように、豊かな組合管掌健康保険は、努力をして赤字を防いで、黒字になるようにしてきたというお話でございますけれども、一般に大企業労働者は、賃金もよく、生活水準も高く、そして栄養も十分とっている。そういう形から特に努力をしなくても結核が非常に少ない、そしてそのために要る費用が少なくて済んでいる、そういうような面からかなり黒字の原因が出ているということをちょっと、私自身詳しく調べたわけではございませんけれども、聞いたわけでございまして、同じ国民の立場からして、一部でもってそういうふうな黒字をもって豊かな付加給付を享受する、片方では、もう一つ健康保険の場合ですけれども、健康保険一般競争が、よほどひどく企業間の競争が激しくなければ、健康保険、社会保険に支出する部分は、物価に転嫁されて一般国民が負担するわけでございます。国民健康保険の場合には、それが転嫁されないで、国民が、被保険者が負担するという形になっておりまして、そこに非常に大きなギャップがあるわけでございます。もしも統合しないとしたならば、国民健康保険のほうも自己負担金を全部排除していいのじゃないか、そして国庫負担でもって全部まかなっていくようにすると考えるわけで、私は統合をしてプール、統合して全部の被用者の間で、全部の国民の間で医療保険をしていくのに対しては、私は賛成の立場をとっておりまして、豊かな者は豊かな者だけでまとまっていくというようなやり方をすると、貧困な人たちだけを対象とした社会保険の問題が浮かび上がってくる、社会保障の時代に適合した制度ではないと考えているわけでございます。
  27. 太田正孝

    委員長太田正孝君) よろしゅうございますか。
  28. 林塩

    ○林塩君 わかりました。
  29. 瀬谷英行

    ○瀬谷英行君 久保先生に最初お伺いしたいと思いますが、積み立て制度の廃止ということを先ほどちょっとお述べになりました。それは、たとえば四十年先のことを考えてみた場合に、いろいろ矛盾が出てくるという御趣旨のようだったのですが、それは私も、これはこういうことを指して言われたかどうかわかりませんが、郵便年金の問題で近所の人に言われたのですけれども、だいぶ前におじいさんが郵便年金をやっておいてくれたが、それが今日もらえるようになったら八十円だ、その八十円の年金をもらうために、市役所やなんか行っていろいろ戸籍抄本や何やらもらってくる、その手続に五十円かかった、バス代をかけるというと結局割りが合わぬのだ、こんなことを伺ったのであります。無理もない話だと思いましたが、これは戦争を契機とする非常な物価の値上がりということがあるわけでありますが、この経済的にこういう大きな貨幣価値が変わってくるということを考えた場合に、こういう積み立て制度というものを行なってみても意味がないんだという御趣旨なのか、あるいは制度そのものにやはり理論的に矛盾点があると、このようにお考えになっておるのか、その点いま少し御説明をいただきたいと思います。  それと、このせっかくの機会でありますから、おそらく社会保障制度について相当専門的に研究されておられると思いますので、外国の制度と比較をした場合、これは非常に話が大ざっぱになりますけれども、日本の社会保障制度、各種年金、われわれが聞いておりましても複雑多岐にわたり過ぎておるような気がするのです。外国の制度と比較した場合に、外国といってもいろいろあると思いますが、社会保障制度の発達をした先進国の制度と比較をした場合どういう点に特徴があるか、あるいは特色があるか、われわれがもし見習うべき点があるとすれば、たとえばどこの国のどういう制度がこうであるといったようなものがあるか。もし御存じでしたら、参考までにお述べをいただきたいと思います。
  30. 久保まち子

    公述人久保まち子君) 積み立ての問題についてまずお答え申し上げます。私が時間の関係で簡単にはしょってしまいましたが、積み立て方式については、あなたもおっしゃいましたように、物価の騰貴ということがありまして、ただ、社会保障制度であるために、その当時、支給当時のやはり生活を維持するだけの額を維持しなければならない。そうなってきますと、そのときに年金を受ける人の過去にさかのぼって拠出金を引き上げることができませんので、その不足部分については国庫が負担しなければならない。結局のところは、国庫負担分はたいへん大きなものになってくるわけでございます。そういった技術的な面から、私は将来は年金が価値が下がってしまうだろうということを考えないで、国が最低生活を保障するであろうと考えた場合に、国庫負担分はたいへん大きなものになってくる。そうしますと、一方で最初出発点のときには、年金制度に入れなかったような低所得者は、そのときに低所得者の人たちの老人になった人たちは、そのときにはやはり年金を受ける資格がなくて、年金に入ることのできた人だけが、非常に多額な国庫負担を受けた形で年金を受けることができるという、たいへん矛盾した不公平なことが起こってくるわけで、そういう技術的な面からも不合理であると考えるわけです。  それから次のよその国の問題についてでございますが、大体、いまの大ざっぱに見まして、いまの日本の社会保障、年金制度のようにたくさんのいろいろな年金が林立しているとか、あるいは組合管掌の健康保険、政府管掌の健康保険、健康保険組合同士の間で非常に差があるとかいう状態は、イギリスの第二次大戦以前の状態にきわめて似ておりまして、その状態に対してビヴァリッジは、単に修正するだけではなくて、いまこそ革命のときであるという形でビヴァリッジ報告書を提出しているわけでございます。その後イギリスは、その報告書に基づいて所得保障する国民保険と、それから医療保障をする保健サービスというふうに分けた形で、皆さんも御存じのすっきりした形をとっているわけでございます。  それからこの間参りましたスエーデンでは、一九二二年に初めて年金制度がしかれましたが、多くの資本主義国では、まず社会保険は被用者を対象にして、工場労働者を対象にして始まっておりますけれども、スエーデンの場合には、労働者も農民もすべてを含めた一般国民を対象として始まっておる。それ以来常にスエーデンの社会保障は、一般国民すべてを対象にした形で総合的に内容を充実していったということを聞きまして、そこに非常に大きな違いがあると思います。それから私が先ほど申し上げました国民の生活を保障する基本給付はすべて同じで、目的税でもってまかなわなければいけない。目的税と申しますのは、拠出金でございますけれども、負担のできる人が負担して、そうして受給資格のある人がそれを受けるという形でまかなわれるべきだと考えておりますが、それもスエーデンでは実行されておりまして、イギリスの場合といささか違った形ですが、スエーデンでは、所得比例税でまかなっております。イギリスは均一拠出制をとっておりますが、イギリスの均一拠出制というのは、やはりこれは逆進税でありまして、そういうところから保険的な計算はかなり強く入っていて、逆進税をとっておりますので、赤字財政——保険が赤字になってきて、拠出を引き上げると、そうすると低所得層に非常に重い税率になってくる。そこで引き上げる、引き上げないという問題が絶えず起こってくるわけです。  一般にいろいろな歴史を見てみますと、社会保障、保険の中で問題が起こってきますとき、長期保険で問題が起こってきますのは、保険数理、実際には国庫負担分と、それから雇い主、被保険者の三者の掛け金ではありますけれども、保険数理的なものに拘泥し過ぎたときに、常に物価騰貴に伴う財政危機、それが起こって改革を促進されているようなわけでございます。大体これでよろしゅうございましょうか……。
  31. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 松尾さんに簡単にお伺いしたいのですがね。一つは、これはどうも政府に質問しても、いつもはっきりしないんですがね。消費者物価の値上がり、特にまあその中で食料費の値上がりが非常に大きいわけですね。この所得階層別の影響です。まあ、政府に質問する場合、大体高所得層も低所得層もその影響は同じであると、こういう答弁ですし、また企画庁の調査も、大体そういう調査が出てきているわけですね。これは先ほど松尾さん言われました、非常な低所得層あるいは貧困層、そういうものは統計の対象になっていないんではないかというふうに思われるのですが、その点がどうもわれわれ実際にエンゲル係数が非常に高い階層とエンゲル計数の低い階層とに対して、食料費の値上がりの影響がほとんど同じであるというのは、どうもふに落ちないのですが、その点が一つ。  もう一つは、先ほど非常に適切な御意見を承りましたのですが、この物価値上がりの問題と貨幣価値の問題について、どうも一般に指摘が少ないと思うのですが、私はこれは社会保障本全面的にやはり物価の値上がり、貨幣価値の低下と関係があると思うのですが、ことに賃金について労働基準法で、賃金は現金をもって直接労働者に全額を支払わなければならぬとなっておりますが、その場合このスライド的な考え方がどうしても必要じゃないかと私は思うのですが、ある労働組合では、たとえば昭和電工なんかは、一時スライド制をとっていたのですけれども、しかしこれはまた、スライドにすれば賃金が上がってまたインフレ的になるという反論はあるのですけれども、しかし、私は何ら労働者の責任でもないのに——賃金というのは、実質賃金じゃなければならぬと思うのですよね。それが、何ら労働者の責任でないのに貨幣価値が下がって、実質賃金が低下してくるのですが、これはまた公債とか社債とか、そういう問題にも関連するわけですが、スライド的な考えですね、これはスライドをやるとますますまたこれが、支払い金額が多くなって、かえって逆にインフレ的になるという反論はあると思いますが、しかし、そういう被害者のほうから言えば、そういう点がどうしても必要でないか。それがいけないなら、政府がもっと消費者物価が上がらないように、貨幣価値が転落しないような基本的な政策をとらなければならぬと思うのですが、この二つの点について、御所見をお伺いしたい。
  32. 松尾均

    公述人(松尾均君) 前者の点ですけれども、特に食料費の値上がりが、階層別に影響がやはり違うんじゃないかということですけれども、これもやはり一つは、いまただされた点は、統計上なかなか把握できないんじゃないかということだと思いますけれども、確かに現在の家計調査というものは、所得がおそらく現在、三十七年並びに三十八年では、第一階層で二万五千円ぐらいが最低になっていると思います。したがいまして、もちろん低所得者階層の場合は、あらわれないわけであります。これはもう、申すまでもないことだと思います。  それからもう一つは、物価の上昇とそれが特に食料費なり、その他いわば弾力性のある非常に緊急度の高いと申しますか、これの高い費目と低い費目というものが、所得階層に対していかなる影響を与えているかということをやや古い統計ですが、これは三十六年の統計でありますけれども、これは特に労働白書にも出ておるとおりであります。消費者物価の上昇率が、特に緊急度の高い費目はどこに影響を与えているか、申すまでもなく、これは低所得者層であります。それから特に緊急度の低い費目は、もちろんこれは高所得者層に影響を与えているわけであります。しかし、その高い費目の中にどういう点をとるかということを申しますと、もちろん地代、家賃が入っておりますけれども、そのほかはたいがい食料費全部が入っております。言いかえますと、この食料費の値上がりの影響は低所得者層に大きいということは、こうした労働白書におきましても、一応明らかに出ているのではなかろうかと思うわけであります。現在特にそうした傾向が見られるのではないかという点。  それから第二番目の収入確保とスライディング・スケール制でありますが、スライディング・スケール制ということは、所得確保のために、歴史的にも早くから特に十九世紀くらいから各国の組合で取り上げられた事例がたくさんありますが、御指摘のとおり、やはりこれは賃金と物価と申しますか、御質問者の専門であるインフレと申しますか、こういうものの危険性を伴った——言いかえますと、スライディング・スケール制の成功した事例というものは、やはり非常に少ないのではなかろうかと思います。これはやはり賃金というものは物価のあとから上がる。御指摘のとおり、実質賃金、賃金とは言うまでもなく実質賃金であるというたてまえでありますけれども、どうしても現実には、やはり物価の上がり方が大きかったと申しますか、こういうことで成功した事例は少ないのではないかと思うわけであります。その点やはりスライディング・スケールというものは、あちこちで話題にはなると思いますけれども、収入確保の政策としまして、はたしてやはり妥当な方向であるかどうか。むしろ実質賃金確保の政策としまして、まあ物価の安定と申しますか、そういうことが私は必要ではなかろうか。言いかえますと、そのほうがやはり根幹じゃなかろうかと思うわけであります。もちろんこの点につきましては、現在のような生産なり企業経営のあり方からしますと、どうしてもやはり物価の安定というものは、経済成長の鈍化と申しますか、こういう論理とふしぎに結びつかざるを得ないところに、私はやはり日本経済の何かしらやはりおかしなところがあるのではなかろうか。コストと物価というものをそのまま直結する、まん中にやはり生産なり、企業経営なり、需要なり、そういうものが働かざるを得ないのではないか。そういうものが働くことによって、たとえばヨーロッパのように、生産性、賃金、物価というものが、やや安定しながら進むのではないかというような気がしますし、先ほどもちょっと最後に大急ぎで申し上げましたように、要するに、やはり流通政策、流通政策から申しますというと、おそらく先進諸国のほうが流通マージンが大きいわけであります。これは統計上把握できるところであります。これは先進諸国の場合は、安い生産コストと高い流通マージンと申しますか、それが一つの典型的な姿になっております。ところが日本の場合は、やはり流通過程の改善はもちろん必要ですけれども、ややさか立ちした現象ではなかろうか。それがどこに根ざしているかと申しますと、やはり生産自体、企業経営自体というもののあり方を、いまや再検討しなければならないのではなかろうか。非常に答案にならない答案でありますけれども、これで……。
  33. 太田正孝

    委員長太田正孝君) ありがとうございました。     —————————————
  34. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 次に、清水馨八郎先生にお願いいたします。先ほどおいでになる前に申し上げましたが、大体の御公述は三十分見当ということでございます。きょうはお忙しいところをおいでくださいましてありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。
  35. 清水馨八郎

    公述人清水馨八郎君) お手元に資料が渡っていると思いますけれども、私に与えられたテーマは、公共投資と広域経済となっておりますが、本日は、問題をしぼる意味で、前半の公共投資ということ、それも土地問題を中心として意見を述べさせていただきたいと思います。  世にいう社会資本生産資本のアンバランスの問題が非常にひどくなった、そこで、社会資本の充実こそ近代国家の必要条件であるといったような大義名分的なものが出てまいりまして、国づくりだとかのためには公共投資というのは非常に高い理想の投資であるといったようなことがいわれておるものですから、その絶対命令というか、その美名に隠れて、実はこれほど多額の金がこれほど無計画に、これほど非能率にむだに使われているものはないのではないかと考えるものであります。毎年予算を見ておりますと、公共投資予算だけが非常に拡大してくる。拡大の一途をたどっておりますが、来年度予算を見ても、一般会計においても、公共事業関係予算が六百億余になっております。これは全体の二〇%になっておりますが、さらに財政投融資を見ますと、それに関係した予算相当入っている。それから、公共投資とは何であるかといって、広義に公共投資を解しますと、学校とか病院とか、国家機関もすべて実は公共投資であるといったような考え方や、それから、地方自治団体がやるところの公共投資というものを集めてみますと、これはばく大な金になる。これは正確な計算ではないのですけれども、おそらく二兆円以上になっているのじゃないだろうか。つまり国家予算の三分の二が公共投資であるというような事実を見ますと、政治とは公共投資であるといってもいいほどの非常に重要な位置を占めているのであります。その予算増加においては、いろいろなものがふえておりますけれども、その予算増加率のトップがいつも公共投資である。公共投資は金がかかるものである。かかってもやむを得ないのだといったような当然ムードが支配しているところに問題があるのではないか。公共投資というものは、その大義名分をうのみにして、公共投資は金がかかる、かければいいのだと思い込んでしまって、実は公共投資の成果とかアフター・ケアというものが行なわれていない。公共投資というのは、予算がふえれば、それに応じて事業がふえるといったような正比例的なものではないのじゃないか。そこで、この辺で公共投資というものに対して、量から質の問題へ移っていかなければならぬのではないだろうか。   〔委員長退席、理事平島敏夫君着席〕  そこで、公共投資の計画化、あるいは効率化というものをもっとはからなければならぬのではないかと思うのであります。私企業設備投資をするということは、私企業にとっては、内部では一種の公共投資であります。その場合には非常に綿密な検査をし、調査をして、生産費の一部でありますので、その波及効果を考えて出発する。それに対し、国の公共投資のほうは、何と無計画、非能率、官庁ばらばらにその公共投資が使われている。たとえば住宅公団なんかはいつも例に引かれるのですけれども、かってに団地をつくってしまう。これに対して鉄道とか交通というような公共投資がそれに伴っていない。これを実際やればたいへんなことになるし、上下水道とか環境整備もこれに伴わない。そういうものは地方自治団体がまたやらなければならない。その一つの公共投資が、また次の公共投資を呼んでしまうわけですね。もしその次の公共投資が行なわれなければ、住民はその社会資本不足分だけやっぱり不足感を感ずる。せっかく公共投資をやってふやしたのに、かえって公共投資の不足感を感ずるという事態が起こってくるのであります。  このように、公共投資というものは次の公共投資を呼び、無計画、不用意な公共投資というものは連鎖反応式に大きくなっていってしまう。不用意な公共投資をやりますと、それに伴って地価を呼びます。その地価がまた周辺の地価を呼ぶ。地価が地価を呼ぶということになって、ますます動きがとれなくなる。こういうものに金をやたらにかけても全く意味がなくなってくるのではないだろうかと思います。  そこで、公共投資の調整とか統一というようなことが必要ではないかというのが次の点であります。予算の大きいものは官庁間で盛んにぶんどり競争をやりますけれども、相互の連絡調整というものが十分ないのじゃないか。さらに、投資基準というものが一体あるのかどうか。特に用地買収などでは、役所間では土地争奪戦が行なわれる、地価のつり上げ競争をやっている、補償行政なんかでも、各省ばらばらのこの補償をする、こういうところに何らの統一がない。このように、国家予算を一番食うものがこんなルーズに取り扱われているということは非常に問題ではないだろうか。  さらに、次は、いまのような公共投資を進めていきますと、公共投資の内部の中でもアンバランスが起こってくるような気がいたします。それがいつもいわれているような生産的な公共投資が非常に充実されてくる。産業中心主義的な公共投資は進みますけれども、半面、民生安定的な公共投資というものがおくれていくのであります。過日発表されました国民の生活白書にも、交通難とか住宅難とか公害というような問題はまだ十分解決されないし、いよいよ困難になってまいります。公共投資全般が非常に道路中心主義におちいっているような感じがいたすのであります。そうして大衆の通勤、産業のための公共道路というものは必要ですけれども、それに伴うところの大衆の通勤地獄というものが解消されない、そういうものには一体どれだけの援助をしているか、その間に非常なアンバランスがあるわけであります。で、私は、鉄道、特に都市交通に対してもっとこの公共投資がふえてもいいのではないかと思うのであります。政治とは道路をつくることである、鉄道のほうは忘れてしまう、鉄道のほうは企業であるから運賃でまかなえ、そういうような次第で、一向に鉄道のほうはよくならない。特に中央線なんかを見てみますと、中央線は、わずか八メートルの鉄道の敷地に、その沿線に五百万の人が住みついている。それが道路である甲州街道があったからその沿線に人が住んでいるかというと、それによって住んでいるわけではない。道路の効率からいって十三倍ぐらいの力があるわけであります。そこで、東京なんかを見てみますと、道路だけはどんどん進んでいる。現在何千億か使いまして首都高速道路公団ができておりますけれども、いま中央線の千駄ケ谷のところでもって道路と鉄道が並行して走っている。大衆はそれを見ながら、あれができた場合には、一体片一方ではちらほらと自動車が走る。片一方は三〇〇%の超満員である。どうしてこっちができないで向こうが先にできるのか。道路効率からいっても鉄道のほうが十三倍の力を果たせるにもかかわらず、道路は政治の責任であって、ただでもやる。ところが、こちらは企業であるからできないというところに、国民感情的に非常に何か割り切れないものがあるわけであります。鉄道が中央線の混乱を救うのにはもう一本ふやせばいいのである、わかり切ったことですけれども、その用地費がないとか、いろいろ金が足らない、割り引き率が高いといっていたのでは、企業の中では絶対にできないわけであります。ところが、将来ただになるところの道路のほうは先にできて、金を払うところの鉄道ができないということはどういうわけであるかというような疑問をわれわれは持つのであります。  次の問題は、さらにこの都市鉄道、通勤輸送を早く解消しなければ大事故というようなものが必然的に拡大するのではないだろうか、過大都市、あるいは経済成長のしわ寄せが、糸のような鉄道の上にしわ寄せられてくる。その需要と供給のアンバランスはますますひどくなって、三河島事故だとか、ああいうような事故はこれからも起こる可能性はもう非常に高くなっているのであります。都会の命綱である。そういう意味で、鉄道というものに対してもっと公共投資をふやさなければいけないと思うのであります。  さらに、次に、今度は公共投資の縮小と資金面拡大の問題でありますが、予算をふやすだけの努力をすればいいのではなくして、金を使う。金を非常に食うのですから、なぜ金を食うのかの問題点を排除するような行政的な配慮が先決ではないだろうか、金をとることじゃなくて、金を使わない努力をなぜしないのであるのかと言いたいのであります。それには、その次に、もっと価格機構、プライス・メカニズムというものをもっと利用して公共投資の費用に充てることができるのじゃないか、そういうような配慮が足らない。たとえば道路、港湾、鉄道のように、受益者負担者的なものが可能な公共事業というものは、価格機構というものをもっと応用することによってスムーズに建設ができる問題がずいぶんあるわけであります。今後日本ではますます公共事業はふやさなければならない。そういう場合に、いつでも予算だけからとってくるということになったらば、どこかで行き詰まってしまうので、経済機構の中に入れながらスムーズにやっていくという方法をもう少し考えたらどうかと思うのであります。私は、道路に対しては、さらに受益者負担的な考え方をもっと強める、鉄道については固定費、つまり鉄路の建設というようなものを、都市の鉄路の建設なんていうものは、もっと公共負担を強めなければいけないように思うのであります。そうして道路のほうと鉄道というものをもっと接近させるというような政策をとらないから、道路行政と鉄道行政がアンバランスになっていくのではないかと思うのであります。それにもかかわらず、最近都市の公営事業なんていうのは、皆赤字でもって非常に困っている。とにかく価格機構でもってどんどん投資をしていこうといっても、それが政治的に運賃が不当に押えられるというために、つまり価格機構に逆の行き方を当局が押しつけるということによって、ますますこのサービスが低下する。あとで結局はばく大な金を税金から出さなければならないという結果におちいるのではないかと思うのであります。  次に、企業の負担をもっとふやしたらどうかという考え方であります。自分の会社でやるべきことを実は公共がやってはいないだろうか。つまり生産費の一部であるものを公共の負担によってそれを利用しているという分野がずいぶんあるのじゃないか。一例として、最近私はトヨタの工場を見てきたのですが、トヨタの工場というものは、不毛の原野にぽんとつくった。そこで、中は非常に合理化されております。オートメーションでできている。そうして外へ出てきた自動車はどうして運ぶかというと、四本足があるものですから、道路を使って全国に売りさばいている。そうすると、取り付け道路というものは、結局この企業のコンベア・ベルトの延長でなきゃならない。だから、それを公共にやらせるのじゃなくして、やはり自分もその責任を持たなければならない、工場の延長としてやらなければいけない、そういう分まで公共がどんどん背負っているというような姿があると思うのであります。さらに、次のような問題があるのではないか。つまり国が基幹産業や民間の大企業にどんどん財政援助をする。そうすると、財政援助をした分を公共企業体は設備投資をどんどんやる、設備投資をすると、それに伴って公共企業が必要になってまいります。こういうことになりますと、国家は企業に対して二重投資をしたことになってしまわないだろうかという問題が出てくるのであります。  次に、費用をふやすためには公債の発行ということも考えられます。最近民間設備投資が鈍化しておりますし、国民の貯蓄率も高まっておりますから、こういうものを漸次公債などで吸収するということも一つの考え方でしょう。さらに、公共事業の経費の内容を見ますと、材料費、人件費、用地費というものに大体分かれると思いますが、この中で材料費というものは、これは道路などでは砂利とかセメントがおもなので、こういうものは国内にあるところの天然資源というものは、位置を変えればいいのですから、いままで日本にあった資源を位置を変えるから、幾ら金を使っても、どんどん日本の構造を変えるために使っているのですが、次に人件費というものが非常にかかっている。そこで、人件費を節約する方法としては、ここにも書いてありますような、こういうことも私は思いつきのようなことだと思いますけれども、あげてみたのであります。つまり公共事業というものは、実は失業対策事業と非常にマッチしているわけです。公共事業は失業対策と思われるほど、失業対策と相当ダブっているわけなんです。これは労働行政と公共事業行政が一致しているという点でいいのでありますけれども、労働生産性がきわめて低い。  そこで、第二番目は、自衛隊というものを、つまり言われているかもしれませんけれども、もっと動員したらどうか。公共事業と国土の防衛、治山治水というものは、外敵でなくて、内敵を防ぐという意味が防衛の精神に全く一致しているのであります。非常に機動性を持ち、機械力も持ち、労働生産性が高いのであります。   〔理事平島敏夫君退席、委員長着席〕  防衛庁の予算を見ると、半分ぐらいは人件費である。せっかく国が払っているのですから、その人件費をそこでダブらせるということによってさらにこういうことができるのじゃないか。現在各地では、自衛隊が、地方の自治団体の要請に応じて、道路の建設なんかを盛んにやっていて、非常に喜ばれております。非常に機動力がある、生産性が高い、そういうものとダブらしていく、公共事業行政と防衛庁の行政とダブらせていくというような考え方をもっととったらいいのじゃないか。  さらに、もう一つは、学校教育と公共事業というものを一致させてもいいときがきているのじゃないか。戦後の日本の学生というのは、何か一本欠けているように思うのであります。郷土愛とか国土愛というようなものが何か欠けている。そこで、こういうような国土建設というような事業に参加することによって理論と実践を一致させる。郷土教育にもなるし、そこで、現在の学生は、私は大学の先生でありますけれども、非常に余暇が多いのであります。春休みなんかは二カ月もあるのですね。二月、三月と休すんでいるという、この事実は一般の人が知りませんが、夏休みも長い休暇がある。二期制である、単位制であるということから、あり余るほどの余暇がある。そういうような余暇をもっと建設的なものに動員して、そうしてやはり単位を与え、卒業の資格にもする。昔のような暗い奉仕ではなくして、やはりアルバイト代を払って、そうして国土の建設、つまり国づくりと人つくりを一致させるということによってこの人件費を幾らかでも節約するということも一つと思います。  さらに、最後には、公共事業の予算を少なくするためには、土地問題の解決という問題に入るわけでありますが、御承知のように、土地問題というのは、公共事業は、用地が得られればもう九割完成したのも同じであるといわれるほど用地問題はたいへんな問題であります。用地費が全体の公共事業の二割を占めている。大都会では六〇%以上を占めてきている。だんだんふえる一方である。幾ら予算がふえても、それは一部地主にくれてやっているわけなんであります。公共事業の行く手をはばむガンは、何といっても土地問題であるということが明らかになってまいったのであります。こういうような土地問題を野方図のままにしておいては予算を立てる方法がないのであります。幾ら予算を立てたって、予算は幾らでも高まってしまう。何の役にも立たない。そういうものに対してどうして当局が疑問を感じないのであろうか。開発なんてすればするほど、これはたいへんなことになってしまう。開発貧乏というか、開発政策を打つ、あるいは公共政策を打ち出す、打ち出すとたんに地価は上がってしまう。その上がってしまってから公共が買いに出る。一千円であったものが一万円になってから公共が買いに出るのですから、たいへんな金が必要なのであります。このような状態で、たとえば新産都市というようなものが発表される、膨大な地域のものが一斉に値上がりする、地主は金を持ち、個人は金持ちになる。それを地方自治団体、国が公共投資をしなければならないのですから、公共は貧乏におちいってしまう。そうすると、それができたあとで、いよいよ工場がいくということになりますと、工場は、もうそんな高いところへはいけないということで、結局その指定地域の外にいかなければならない。そこはペンペン草がはえて何にもならないという——新産都市は、結局新不動産都市を指定したにすぎないということになってしまう。新産都市空洞化という現象が起こってしまいます。これが現実だと思います。つまり公共投資の現実というもの、真相というものはこういうところであって、幾ら金がふえたって何にもならないのですね。ペンペン草がはえて、結局はそこへは行けないで、その回りには工場が建つというような矛盾が起こってくる可能性があるのであります。したがって、土地に手を打たないところの開発政策というものは、土台を築かずして家を建てるにひとしいのではないだろうか。さらに、公共投資というものは、アフターケアというようなものが全然行なわれておらない、かけっぱなしで事後管理——予算を獲得するときにはものすごくやりますけれども、そのあとどうなっているかということは少しも見ていないんじゃないかということも一つの問題点だと思います。私たちが非常に不合理に感ずるのは、国家は固定資産税の評価の場合には非常に安く評価する、実際の五分の一くらいに評価する、公定に評価した値段が出るわけですね。そうして今度は買いに出動するときには、公共用地として買いに行くときには言い値のまた何倍かに買う、安く評価しておいてそれを高く買っているわけなんです。これじゃ幾ら金があっても足らないわけであります。しかし、そういうことが一体許されていいのであろうか。法律的にもこれは許されていいのかどうか。一定の価格を国が出して、それで自分でそれを破り、向こうの言い値に従って、そのやみ値に従って国家の財源というものをじゃんじゃか捨てるように使っていいのであろうか。税金をむだ使いしている。それがほんの一部の人に出さなければならないということ。これは早急にこの問題を明らかにする必要があるのではないか。いまのようにこの言い値に追従しているならば、人間の欲望ですから、幾らでも高く取りたいにきまっているわけでありますので、もちろん土地というものは、この辺で時価主義をやめて、上から提示主義、公示主義、下から言うのを待っているのじゃだめなんですね。上から公示するくらいの強い態度をとらなければならない段階にきているように思うのであります。土地収用制度をもっと強化することを主張したいと思うのであります。それで、道路なんかがやりっぱなしになっているところがたくさんありますけれども、やりっぱなしになっているということは、私たちはそれを見たときに、これはやりっぱなしになっている、時間がむだに過ごされているということは、やがてむだじゃなくて、むだどころの騒ぎではなくて、それだけ隠然として地価が上がっているわけです。その分また税金を使わなければならない。長引けば長引くほど金がかかるというこの矛盾。  次に物価と地価の関係。物価問題がだいぶ前から出ているようでありますが、私はこの現在の物格の値上げの基本は地価であるということを強く主張したいのであります。この土地問題というものは、単に公共用地が得られないだけではなくて、多くの人の基本的人権に住の問題が託されております。交通難も住宅難も、あらゆる現在の社会の基本である、国土の基本である土地というものの制度がないためにさまざまな現象が起こっているわけです。そういうものが物価とは関係ないように思われていますけれど、物価値上げの基本が地価であるということは、もう明らかだといってもいいのじゃないかと思います。つまり国富の、国の富というものの三分の二というものは大体土地なんです。その土地が、一体現在の資産を評価しますと、私の大ざっぱな計算で、民有地だけで二十兆円になっております。国民の基本である土地が二十兆円、それが毎年二割も三割も上がる、上がったからといってそれは外国輸出することもできないし、それに見合うところの何ものもないのですから、その分がどんどん紙幣が乱発される、その分インフレ化する。大都市の近郊、あるいは公共事業でもって鉄道を敷く、そうするといままで眠っていた地主が、眠っていた百姓がみんなたたき起こされてしまう。何千億という金がもう実際に商品として動き出すものですから、そこで見合うものが何にもないのに対してたくさん金をそこへ出さなければならない。終戦直後の物価インフレというものは、物が生産されないから物価インフレが起こった。最近の物価インフレというものの基底は、物価とはもう、けた違いに上がるところのこの地価インフレですね。これが下から突き上げているわけです。それを押えないで物価が押えられると、もう政府は全くナンセンスだと思うのであります。この間の国民生活白書とか、国民経済白書のどこを見ても一、二行くらいしか書いてないのです。この最も肝心なところが抜けているのです。基本を抜かして、ただその結果であるものを論じているように思うのであります。人件費が上がるから物価が上がるのだといいますかもしれませんけれども、地価が上がれば物価が上がらざるを得ないのですね。物価が上がるから人件費も上がる。だから物価も地価も人件費もあらゆるものが地価の皆被害者である。加害者を除外視して何か争っておるような姿が、いまの状態ではないかと思うのであります。そういうわけで、現在この政治の盲点の中に土地問題の貧困ということがはっきりしてきたと思うのであります。もはや開発問題を中心として、あらゆる現代的な課題の解決に土地問題をよけて通ることのできない段階にきておるのではないかと思うのであります。しかも、国会には有効な対策は全然ないし、真剣に論議したことを聞きません。国の統計資料の中に地価の統計がどこにもない。多数の統計官を擁している国家でありながら、地価統計というものはどこにもない。私たちは調査する方法もないわけであります、自分で調べる以外に。土地問題くらい押えやすいものはないはずですね。税金行政の対象になっておるし、登記行政、国家が中に入って所有が認められるようなものに対して全然統計が整備されてない。地価がどうなっておるかわからないというのは全く怠慢だと思うのであります。それでは、このような重大な問題がどうして国会で十分論議されないのかということは、この問題の重要性を国会や政府が気がつかないのか。それともこれを政治上のタブーとして取り上げないのかと言いたいのであります。現在の政治経済体制というものが、すべて古い地主を中心としたその土地の上に構成されちゃっておる。権力構造ができ上がっちゃっておる。だから、だれもこれを言い出さない。政治上のタブーとして言わないのか、いずれであるかと私は反問したいのであります。そして、この問題は個人とか地方自治団体のような下部構造ではどうにもならない問題であります。どうしても高い政治の場においてしか解決できない問題であります。そういうことがわかっていながら、政府、国会はどうしてこれをもっと大きく取り上げないのかと言いたいのであります。  この問題の重要性がわかってないということの原因として、地価対策がいままで幾らかありますけれども、その地価対策は何をやっているかというと、供給策しか行なわれてない。これが土地問題というものがわかってない証拠なんであります。土地が値が上がり、土地が足りないから土地を供給すれば、これは土地が下がるという供給策が正攻法になっております。供給すればするほど地価は上がるのであります。住宅公団がどんどんやる。やればやるほど上がる。新産都市なんか十三集めるとたいへんな量であります。工業用地はたいへん供給された。供給されればされるほど上がってしまう。学園何とか都市というものを筑波山ろくに指定した。東京都の四分の一くらいのものが供給された。土地が下がってもいいんですけれども、いよいよ値上がる。供給策ではどうにもならないのであります。つまり土地というものは需要供給の均衡の法則でもって地価がきまるような商品ではないのではないかと思うのであります。だから供給策では救われない。土地が不足しているから地価が上がるのではなくして、土地が余るほど地価は上がっておるのであります。最近土地は上がり出しておる。土地が足らないから地価が上がるのではなくて、余れば余るほど地価がむしろ上がっていくというような奇妙な現象が起こっておる。都市の近郊にも幾らでも土地はあいている。耕作を放棄した土地もずいぶんあります。商品としての空洞地——空閑地も至るところに見られる。宅地なんというものは有史以来供給時代ですね。新聞を一つ開けば幾らでも宅地は広がっておる。売りに出されておる。経済的に見合わないというだけで幾らでも土地はあるという事実であります。そこでいろいろな対策も小手先の対策はされておりますけれども、私はこの辺で、もう根本的な対策を打ち出すときがきているのではないだろうか、つまり土地基本法というようなものが必要な段階にきている。土地とは一体何であるか。土地の哲学というようなもの、国家、国土、国民というその基本である土地が、いままでのようなものでいいのかとうか。不動産——不動の財産であるといったような概念のままにしておかれていいのかどうかということであって、この辺で何か、こう一本筋をはっきりさせるときがきたのではないだろうか。そこにあげてある三つなんかも、その一つだと思うのでありますが、土地の絶対的な所有というものが、いつまでも守られていいかどうか、もっと社会的な条件つきな所有に変えなきゃならないのではないか。  第二点は、土地というものの価値というものは利用して初めて価値が出るのであって、所有によっては価値が生まれないのであります。土地は所有されるためにあるのではなくて、利用するためにあって、そして国富が上昇していくものであります。それにもかかわらず、所有だけが守られて、利と完いうものの義務が負われていない。利用の義務を負った所有でなければならないというようなものが入っていないということであります。所有制度は用備しているけれども、利用制度というものがない。遊ばしておいてもいいのだ。そして一般の時計だのめがねだの、あらゆる普通の物を持つと同じように所有権が認められているということ、そういうものではないだろうか。一般財産というものと土地財産というものは、区別してみなきゃいけない。国家を前提として、所有が認められているものであります。国がほろんだら持てない。あるいは島を見つけて、おれのものだということもできない。それが日本の国土であることを認めてから、そして登記されて、自分のものになるというのですから、国家が前面に入ることのできるものだと思うのであります。  第三番目は、土地は生産手段であっても、住宅のような生活手段であっても、それ自体利潤追求の目的に、対象としていいものであるかどうか、それ自身を金もうけの対象としていいかどうかというようなことに対して、やはりこの規制がされなければいけないのではないだろうか。かくて現代は、地域革命を迎えた時代なのであります。地域が革命的に変化して、社会革命が土地に投影して、土地の地域というものが、革命的に変化するときを迎えたのでありますから、土地というものは、リニューアルされたがっている、利用されたがっている。ところが、古い標本国的日本の土地制度のままに、ずっと押えられておる。そこで、土地は利用されたがっている。所有制度がそれをはばんでいる。利用と所有との争い、闘争によって、現在のこのような問題が起こって出てきたと思うのであります。近代国家の歴史というものは、封建的な土地所有制度から、いかに解放されるかという歴史であると言っても過言ではありません。このままに放置しますと、地主と非地主の格差、あらゆる格差の中で、地主と非地主の格差ほど大きなものはありません。時は金なり。空間も金なり、日本で調べてみると五%が地主階層、九五%は土地を持たない階層です。それが農家からどんどん出てきて、都市あたりにたくさん住んでおります。大部分の人は、土地から離れている人たちであります。庶民も自治体も国家も、いまや地価の被害者になってきております。それにもかかわらずこの不公正な取引が行なわれて、公正取引委員会なんていうのは、一体何を公正に取引しているのかと言いたいと思いますし、会計検査院というようなものは、何を検査しているかと言いたいのであります。土地問題が、世論や新聞に非常に強く訴えられている、これほど多くの人に関係し、これほど不平等が、これほど長く放置されているということは、一体どういうわけでありましょうか。国会議員は、これをおいて何を公共投資の審議だとかいって、何を審議しているのでありましょろか。つまり土地政策の貧困、混乱は、やはりこれは明らかに国会の怠慢だと思うのであります。  いまや国会が先頭を切って、この土地戦争、地価征伐に立ち上がってほしいのであります。暴利取り締まり令とか、独占禁止法とかいうような法的な根拠もあるのでありますし、地価のストップ令というものを、この辺でかけなければならないときであります。株式とか商品なんかストップ、百円上がればストップ、何でも皆ストップ、それに対して土地だけはストップ令がないものですから、とことんまで上がってしまう。しかも土地というものは、ほかの物価よりも、はるかに国家が押えやすいものなんですね。隠し持つことができないものなんです。必らず税金対象になってしまう。登記しなければ持てない。国家が中に入って所有が許されるようなものが、どうして国家が統計もなしに、それを押え、チェックすることができないか、私は不思議に思うのであります。残されたものはもう決断だけではないかと思うのであります。  以上、たいへん失礼なことを申し上げまして……。
  36. 太田正孝

    委員長太田正孝君) ありがとうございました。清水先生に対する御質疑はございますか。
  37. 瀬谷英行

    ○瀬谷英行君 資料を準備していただきましたので、たいへんわかりやすいのでありますが、最初のほうから逐次お伺いをしたいと思います。  2の(1)ですが、「価格機構の十分な活用」という点でありますが、「道路、港湾、鉄道のような受益者負担可能な公共事業は価格機構を応用することによってスムーズに建設してゆくことができる」というふうに書いてありますけれども、これを具体的に言うと、たとえば「(道路は更に受益者負担を強め、鉄道は固定費を公共負担に)」ということでありますが、これはガソリン税の値上がりといったようなことがいま問題になっておりますが、ガソリン税の値上げといったようなものは、そうすると、まあもっと強化してよろしいと、具体的に言えば、よしあしは別として、方向として。こういうことであるのか。それから鉄道の場合は、鉄道のことも、ずいぶん問題にしてきましたが、定期の割引率を初め、公共負担というのは約七百億か八百億ほどあるわけです。この公共負担のうち、定期の割引率のように割引率の高いものは、ある程度は、これはやむを得ない。値上げしてもやむを得ないということになるのでありましょうか。その辺についての見解を伺いたい。  それから「企業負担をふやせ」というのは、まあたとえば「公共投資の責任の一部を企業に負担させる」、これはこの前、私も委員会でちょっと触れたことがあるのですが、たとえば私のところは埼玉県ですが、会社なり工場がたんぼの中にできる。そうすると、工場はできたけれども、そこに通ずる道路というものは、全然整備されてないので、ダンプカーなんかが、砂塵を巻き上げて走るので、道がこわれる。沿線から苦情が出る。それから道路をこしらえるということを市や県が、いろいろ考えるようになる。あべこべの順序をしているわけです。だから、こういう場合には、工場誘致の場合の一つの条件として、その会社なり工場が工場をつくる場合には、必らず少なくとも県道なり国道に至る間の道路は、企業の負担において何とかこれは整備しろということを法制化をするということがよろしいというふうに考えられているのかどうか。  それから「公共事業の経費の内容からの節約」でありますが、自衛隊や学徒動員は、なかなかおもしろいアイデアであると私思ったのでありますが、なるほど人件費の節約をはかるというためには、そのかわりに、何々建設といったようなところの利益になるものが、ある程度犠牲にされて、そのかわり自衛隊なり学校の生徒にやらせるという方向をとらなければならない。そうすると、いまの資本主義機構の中では、そういうようなことは簡単には保守党の政府は、うんと言わないわけです。ある程度、社会主義の方向に向かわないことには、そういうことには、ふんぎりがつかないのじゃないかという気がするわけであります。現在の機構の面から相当の困難がありはしないか。アイデアとしては、私は非常に賛成しているのですけれども、そういう問題点が一つあります。  それから、土地の問題でありますが、ここへ来ると、もう政策の問題として、私は所得倍増政策そのものに非常に大きな欠陥があるのじゃないか。先ほどの松尾さんのお話のときも、流通過程の問題よりも、生産過程に問題があるのじゃないかという御意見がございましたけれども、所得倍増政策がもたらした多くのひずみといいますか、そういう点まで追及していかないことには解決がつかないのじゃないかという気がするのでありますが、現在の政府政策の根本にさかのぼって指摘をするならば、どのような点が指摘をされるかという問題についてもお伺いをいたしたいと思います。  それから、土地収用の手続でありますが、現在の土地価格を抑制する方向としては、需要と供給のアンバランスというものを改めていかなければならぬと思うのでありますが、当面、いま国会で準備されている法案としては、土地収用法改正といったようなことが、まだあがってきておりませんけれども、あるわけです。土地収用法改正の方向等について御意見等がございましたならば、これからの審議にたいへんに参考になるというふうに考えられますので、これもひとつ、お聞かせ願いたいと考えております。  それから、政府、国会に有効な対策がなく、国会も、真剣な議論も聞かないというふうに書いてありますが、私も数少ない予算委員会のチャンスをとらえて、土地価格抑制策あるいは交通政策等については、真剣に議論をしてきたつもりなんですけれども、一生懸命やっても、そういうことはあまりニュースにならない。新聞記事になるのは、日韓会談とか、ああいうのが記事になりやすいわけです。それはさておきましても、いままで、私自身が、ここでもって土地価格の問題について質問をした際の大臣の答弁を拾ってみますと、土地価格抑制策については、建設大臣は、なかなかこれはむずかしい問題で苦慮しております、こういう答弁だった。実力者の建設大臣が苦慮するんじゃ、あとはどこへ話を持っていったらいいかわからぬじゃないかということを私言ったのでありますが、もう一人の大臣から、だれだったか忘れましたが、言うはやすく、行なうはかたしと、これまた、あいまいな返事であった。こういうふうに、何回かのチャンスをとらえて私が質問した場合の答弁というのは、要するに、むずかしくてできないのだ、こういうようなろところに帰着をしているわけです。  そうなると、政治のタブーになっているのじゃないかという、あなたの御意見も、一応考えられるわけですけれども、公共予算を土地価格の問題で食われておるということについては、それこそ真剣に考えなければならないところだろうと思いますが、一部の地主であるとか、あるいは不動産業者の大きなもうけのために、大衆が非常に大きな迷惑をこうむっておる。こういう事態をこのまま放任をするということは許されないということになると思うのです。そうすると、それもつまるところは、土地の考え方なんですけれども、土地を、現在のような私有制度、それも極端に度が過ぎると思われるほど法律によって守られておる現在の土地制度のあり方にメスを入れなければならぬのじゃないか、こういう気がするのです。  土地を、しからばどうしたらいいかということですけれども、これも保守党の議員の方が、保守党が政権をとっている限り簡単にはいかぬということを言われたのですが、土地国有——国有というとちょっと刺激が強過ぎると思いましたので、私は建設委員会で、土地の公有の考え方を、この際、ここまで来たら打ち出さなければならないのじゃないかということを言ったことがある。そうしたら、土地公有ということは、重大な問題であるが、建設大臣であったと思いますが、それは各党共同提案でもって、何か提案をされたらどうかというような答弁があったことがありました。で、根本に触れるならば、やはり土地を公有、土地は個人のものであっても、ある程度のそれは制限をしなきゃならない。基本になるのは、土地公有あるいは国有と、そういう方向であるということをこの際、はっきり打ち出して、その投機の対象にならないように先手を打つという必要が出てくるのじゃないかと思うのでありますが、それらの基本的な構想については、どうあったらよろしいとお考えなるか、あわせて、たいへんたくさん質問いたしましたけれども、お答えを願いたいと思います。
  38. 清水馨八郎

    公述人清水馨八郎君) 時間の関係で、簡単に気がついたことだけを申し上げます。  第一のプライス・メカニズムという問題は、御承知のとおりに、価格機構ですね、料金制度の中に合理的に入れていくことによって、これを乗せることによって、これを解決するということであります。  第二番目は、道路の自動車とか、ガソリン税というものは、相当な負担をしてもいいんじゃないか。これはやっぱり土地を持つと同じような意味を持つのじゃないかと思うのですね。単なる物を持つ、自動車を持つということが、それだけ公共の道路というものを占拠するという意味、あるいは他人を殺すという意味で凶器になるという、きわめて社会的な性格を持ったものを所有するのでありますから、それに対する非常に規制もあるし、社会的責任を、その料金とかいろいろなガソリン税とかというようなことで負担をする。つまり、道路というものと、交通機関である自動車というものは、通路と機関と一体的なものなんですね。それを交通機関だけ発達して、道路が伴わない。両者がアンバランスになる。鉄道は自分でつくって、通路と機関をつくっていきますから、ある程度バランスがとれている。そういうような考え方を、鉄道に似たような考え方、交通機関と通路というものは一体的に自分たちの責任として、ある程度やるようにするという考え方でいけということなんです。ところが、鉄道は初めから、そういう観点に立っておるのですけれども、現在の鉄道というものが、明治から大正時代すべてやってしまって、それ以来というものは、固定的な鉄道というものは、ほとんどつくっていないのですね。東京近郊を見てみると、はっきりしているのです。  で、通勤難が解決できない、解決できないのは、運賃が安いということにもっていってしまうわけです。運賃をそれじゃ二倍にしたから、この通勤難が解消できるか。運賃問題、単なる都市の交通難というものは、運賃問題を二割三割上げても解決できない問題なんですね。もっと国家的な立場でもって、これをどうするか。高速道路ひとり、どんどん張りめぐらせる、あれと同じぐらいの気持でもってやれば、できることなんです。この際、一挙にそういうものを、長い間やらなきやならないものを放置していたものに対しては、国が責任をもって、一挙にここで、この固定費は自分が持つようにして、ある程度やると、そうして鉄道も、国政だとか市政の一部にするという意味で、道路行政と鉄道行政をここで、ある程度接近させる必要があるということであります。  それから自衛隊や公共学校を使うと、建設会社が困るだろう、こういうことは、全然考えておりません。建設会社のために金を、公共事業をしているわけじゃありませんので、何もそれが困れば、そういうことは、また別な理論の問題だと思います。私も、これはアイデアであって、具体的に計算をしたわけではありません。政府のこの根本対策としての土地収用の強化、これはもっともっと強化しなきゃいけないと思います。  最後に、いまおっしゃった質問者の御意見は、私、大体において賛成であります。まあ国有にしてしまえとかというようなことを私も言っておるわけじゃありませんし、諸外国の例をみますと、皆うまくやっているわけですね。私有制資本主義社会の中でも、それに適応するなら順にうまくやっている。時代に適応するように、土地制度を順々に改めていけばいいやつを、二、三十年前のままにとめておくからいけないということなんです。土地は、この基本的な哲学、精神を一本入れるという意味では、占領軍のマッカーサー元帥が一番最初に、この問題を憲法二十八条に書いておったのですね。これを削っちゃってある、ここに問題があると思います。マッカーサー憲法の二十八条を見ますと、「土地及びすべての天然資源に対する究極的な財産権は、国民の総代表者としての国に存する」と書いてあるんですね。ほかの文章は大体がそのままなんですけれども、最も大事なところが削られてしまっているのですね。だれが削ったかしりませんけれども、ここがやはり問題であると思いますね。これが入っていれば、こういうことはなかった。究極的に、国があって初めて土地があるんだ。国のない国民というものは、ユダヤ人みたいに、領土というものを主張できないのですね。国家が前提であるということ。だから、天然資源の究極の所有者は国家であるというような考えが、やっぱりなくちゃいけないんじゃないか。この意味で、私は憲法の中にそういう考え方を入れていく必要があると思うのであります。
  39. 太田正孝

    委員長太田正孝君) ありがとうございました。     —————————————
  40. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 次に、岩井章先生にお願いいたします。  お忙しいところをおいでくださいまして、ありがとうございました。だいぶお待たせいたしまして、ただ、大体が三十分見当でおまとめ願えばけっこうだと存じます。よろしくお願いいたします。
  41. 岩井章

    公述人(岩井章君) それでは、いわゆる労働組合といいますか、労働者の立場から意見を申し上げます。  御存じのとおり、いま私たちは賃上げ闘争の準備をしているわけです。ことしの賃上げ闘争に参加しようとしている組合は、総評、中立という組合のほかに、全労系の組合も一五%ないし二〇%の賃上げを要求する。これが非常な特徴でありまして、ある意味では、二千六百万労働者のうちの相当部分が賃金の引き上げを要求している。これが非常な特徴だと思います。  いま私たちが要求していることは、一つは、賃金を大幅に引き上げてもらいたいということ。一つは、全国一律の最低賃金制度を確立していただきたいということ。それから、国民の生命と健康を守るための安全確保ということについて、もっとやってもらいたいということ。それから、ILO条約をすみやかに批准してもらいたいということ。それから、日韓会談というような平和と民主主義の問題についても、十分なやはり配慮をしてもらいたい。まあ大別すれば、こういう要求を中心にして準備をしているのであります。  そこで、私はきょう、こういう立場から、ぜひ参議院の皆さん方に、国政遂行の上で理解していただきたい、そういう二つ、三つの点にしぼって意見を述べたいのであります。  その第一点は、労働災害の問題であります。  去年の三池、鶴見二つの大きな事故を契機にしまして、この問題は大きな社会問題となってまいりました。そうして、三池の労働災害の犠牲者の多かったことは、御存じのとおり、正確にいえば、戦後の世界最大規模だといわれているのであります。被災者の数が千四百数十名、そのうち死亡した者が四百五十八名、入院中の者が二百数十名という数字が示されているのでありますが、しかし、実はこれら十数倍の労働者が、最近の統計では労働災害で死亡しているし、また、一年に八十万にのぼる労働者が労働災害によって一日以上の休みを余儀なくされているという事実を皆さんに知っていただきたいのであります。現在、労働基準法適用労働者についてだけ、しかも六一年をとってみますと、六千七百十二名の労働者が命を失いました。以後六千名台を割ったことがないのであります。このほか、船員法適用労働者の死亡件数は、六一年におきまして七百五十九名にのぼっておりますので、概数、一年の間に七千人の労働者が労働災害のために死亡していることになり、平均しますと、一日について十九人、一時間当たり〇・八人の割合でとうとい生命が失われているという状況にあるのであります。また、これを休業件数で調べてみますと、八日以上休んだ——休んだというか、休まざるを得なくなった人が、六一年において四十七万人、一日以上休む障害が八十万人という数字にのぼっています。そうして、こういう数字が、いうところの高度経済成長政策のもとで急激に増大しているということが統計の上で明らかになっているのであります。  三池の山の例で言いますと、三池闘争は、おととし——先おととしでしたか、三池闘争というのがあったのは御存じのとおりなんですが、それ以前は、一年の間にせいぜい一、二名の死亡でありましたが、闘争後の三年の間に、なんと四十名の生命が失われておるのであります。御承知のとおり、三池の職場闘争というのは、かなり有名なものとして言われたのでありますが、それは要するに、労働者の生命と健康を守るために仕組まれた要求である、こういうことをこの数字が示していると私は思います。そうして、あの闘争のあと職場闘争は否定されましたし、また制限をされました。したがって、三池の災害が炭じん爆発といわれておることは御存じなんですが、これは、ヨーロッパでは、二十世紀に入ってからは、ほとんど見ることのできない原始的な災害であります。もし坑内の炭じんを除外しておけば、もちろんあんな事故にはならないだろうし、酸素ボンベを設備しておけば、かりにああいう原始的な事故が起こったとしたとしても、被害をもっと小さくしたことができたはずであります。  率直に申して、日本企業では、労働者が要求しなければ、職場の安全確保に進んで経費をかける、こういう経営者はほとんど奇特な存在とさえ言えるのじゃないか。職場の安全確保は、経営者の当然の義務であると私は思うのですが、事実は全く逆でありまして、事故が起こると、それは労働者の不注意だ、こういうふうに責任のがれをするという傾向があるのであります。国鉄の鶴見事故でも、私は、その原因が過密ダイヤと線路の間隔にあると思うのですが、貨物の機関士や操車場の労働者が、連日、現在、ご存じだと思いますが、検察庁や警察に出頭させられて、調べられている。鶴見の事故に限らず、こうした災害では、一方的に労働者が業務上過失で訴追されて、経営者のほうは全く責任を回避する。これじゃ、あまりにも不合理じゃないか。  私は、労働災害に労働者の不注意が介在することを、全く何でもかでも否定するものではありません。しかし問題は、むしろ不注意は結果でありまして、原因ではない。特に事故対策という以上は、人間の不注意で起きたことが最小限度にとどまり、その事故が最も小さい形でとどまるようにすることが事故対策であって、いまの国鉄を中心したものを見れば、ちょっとした事故が起これば最大限になるような別に仕組みをしたわけじゃないのですが、結果がそうなっているのではないか。これはやはり、単なる一国鉄の問題じゃありませんから、国全体としても、そういう観点から取り上げていただきたい。  ある労働災害の専門家は、災害は九〇%までは労働者の疲労と関係があると言っているのであります。一般的に、労働時間が長く、あるいは労働密度が高い、それによる必然的の不注意状態こそ災害の大きな原因だと私は思います。つまり、労働災害は、機械、設備、環境、条件の不完全性が第一でありまして、第二には、労働時間が長く賃金が低い、そして御存じのとおり住宅事情が悪い。つまり、労働条件の低劣なところにその原因があるのじゃないか。このことは、最近の高度経済成長政策の中で、合理化政策労働者の生命と健康を守ることよりも優先されて強行されていることによって一そう深刻なものとなっているのであります。政府は、このような実情を無視することができない、そういうことで、一九五八年以降、産業災害防止五カ年計画を立てて、労働災害を五年後には半分に減らすのだ、そういう努力を一応してきたようであります。しかし現実には、半減どころか、先ほど申し上げましたとおり、かえって激増している、こういう状態であります。  また、その計画の一環として、労働災害防止法なるものを先国会に提出して、引き続いて提出しているわけなんであります。私どもは、この法案に賛成することはできません。それは、この法案は法令に基づいて業者団体をつくり、それに必要な費用を労災保険特別会計から補助するということを骨組みにしているのでありますが、ぜひ皆さんに考えていただきたいのは、これがいい悪いというよりは、そういう形がはたして労働災害を根本的に考える、あるいは起こさない、そういうことのために一体幾ばくの寄与をするだろうか。私は、安全対策の基本は、適切な法令に基づいてその適用を厳格に行なうことであり、また、労働災害によって最大の犠牲を受ける労働者及び労働組合の発言権を十分に確保することが一番中心だと思うのです。一番職場の安全なり危険なりというものを知っているのは、その職場の労働者であります。その職場の労働者の発言権をもっと保障する。それを整理して言うならば、労働者の同意権というものを少なくとも認めなければいけない。また、労働災害に対する監督に労働者の権限を強めることが同時に必要であります。また、ヨーロッパの先進諸国がやっていますように、他の職場の労働者が安全問題について——向こうのことばで言えば。パトロールする、そういう権限を与えている実例さえあるのであります。  私は、労働基準法の適用の状態を見まして、この法律が半身不随の傾向を持っている。監督事業場数は、ここで一つの数字を申し上げますと、一九四九年には約七十万事業場あったのですが、六一年には百七十二万と二・六倍にもふえている。ところが、定期的に監督を実施している事業場数はわずかに七十七万と減っているのであります。また、適用事業場総数に対する実施事業場の率は、四九年の五〇%から、六一年になりますと一〇%しか監督をすることはできない。また、これを基準監督官の数で言いますと、一九四九年には二千四百四十八名いたのでありますが、現在では二千三百九十八名というふうに減少している。こういう状態でありますから、監督によって摘発でほとんどできない、おざなりになっている、こういう実情なのであります。私たちは、監督官をもっとふやし、安全法規の強化と、安全基準を厳重にすることと同時に、違反に対する罰則を強めて、そして同時に、労働者の疲労という問題から、労働時間の短縮のために、先ごろ労働大臣もおっしゃっていましたが、ILOの第一号条約を批准する段階に来ているのではないか。また、労働者代表の企業内における発言権という点で、これを十分確保するためには、労働組合代表による災害。パトロールというような監視員制度を確立することも、先ほど外国の例でお話ししましたが、わが国でも緊急な対策の一つではないか。また、政府提案の労働災害防止法案について、つい先ごろ労働大臣に意見提出しました。そして抜本的な再検討を要求したんでありますが、労働大臣は善処を確約しているのでありますが、議員の皆さん方からも真剣な御配慮を要請します。また、労働災害は、交通難故、公害などとも深くからみ合った問題でありますゆえ、その点もあわせて、時間がありませんから私の意見は言いませんが、各位の御検討をわずらわしたいのであります。  次に、最低賃金制の問題について意見を申し上げたいと思います。  私たちは、業者間協定による最賃制は、労働者が最低賃金の決定に際して労使対等の立場で参加する正当な権利を奪っており、憲法第二十五条に明記されている健康で文化的な最低限度の生活さえ保障し得ないものであるがゆえに、これに対して反対であることを表明してまいりました。この間、労働者が、現行最賃法の廃止と、全国一律の最低賃金制の法制化を要求してきたことは御承知のとおりでありますが、一方、政府は、自由化の進展の中で、諸外国からのソシアル・ダンピングの非難を避けるためにも、従来の法第九条、十条中心の方針から、法第十四条、十六条の活用の態度に変わってまいりました。そして昨年八月、中央賃金審議会は、昭和四十一年末にあらためて全国一律の最賃制を含む総合的な検討をしようという答申を行ないました。しかし、最近の情勢を見みてますと、若手労働力不足からくる初任給のアップなどから、一万円でも実は実効性が乏しくなっていることを理解ししいただきたいのであります。しかも、今日の情勢は、日本で全国一律制が不可能でないことを明白に示しています。  私たちは、直ちに現行法を改正して、全国一律の最低賃金制の検討を始めていただきたい。私たちが希望することは、その一つは、全国一律の最低賃金制度を基本にして、その上に、産業別最低賃金の一般的拘束力の適用を積み重ねる制度を法制的に明らかにしてもらいたい。第二は、最低賃金額を決定する権限を持つ最低賃金委員会を設けてもらいたい。第三は、最低賃金額の決定にあたっては、労働者の生計費を基礎にして、生計費の上昇に応じてスライドする、こういう制度を採用してもらいたい。四番目には、最低賃金額と同じ額の家内労働者に対する最低労働報酬を規定し、これを保障する家内労働法を同時に設けてもらいたい。そして五番目に、ILO条約第二十六号、これは最賃制の条約なんでありますが、これをぜひ国会で批准をしていただきたい。荒筋だけを希望として申し上げました。  第三に、賃金と物価あるいは生産性、そういう問題についての見解を述べます。  私たちは、労働生産性の上昇率が、これは去年の率なんですが、一四%、三十七年九月から三十八年九月までの消費者物価の騰貴率を九%、したがって、一四と九を加えて二三%、少なくともこれだけの賃上げを実現したいといま準備をしているわけであります。ことしの春闘の要求は、こうした労働者の生活実態に根拠がありますから、政府も高姿勢だが、労働組合も高姿勢だとよく新聞に書かれるのですが、別に姿勢が高いわけでもありませんが、物価が非常に上がっているというこの事実の上に根拠が置かれているのであります。また、それだけに職場の労働者の決意は非常にかたいものがあります。私どももことしの春闘では五千円以上の賃上げが達成されない限り、さらに闘争を継続する、こういう決意で現在準備をしています。  この総評、中立の春闘共闘委員会ヨーロッパ並みの賃金を目ざしている理由は、わが国労働分配率が三三%という後進国並みの状態を、欧米のようにすぐ六〇%までいかないまでも、五〇%程度にはぜひ引き上げたい、そして日本の低賃金構造全体を打破したい、こういう考え方が基本であります。そこで、政府が、今月の四日でありましたか、経済関係閣僚懇談会において、賃金抑制方向を明らかにしたということについて、まず意見を言いたいのであります。このように政府の態度が、本来労使が対等の立場で自主交渉で賃金をきめる、あるいは労働条件をきめる、こういうものであると、従来は言ってきたし、またそれに干渉しない、こういうふうに言ってきたことを、この辺で変えたのかどうか知りませんが、賃金決定の原則に、国家が介入をする、こういう方向が出され始めたことは、たいへん注目しているのであります。政府の立場で、大企業の利益をそこなっちゃいけない、そういう心配がある物価対策は、すべてたな上げにしてしまって、いわゆるコスト・インフレ論によって労働者の賃金を抑制しようとしていることに、私たちはたいへん不満を感じます。コスト・インフレについて、政府は三十六年下期から賃金の上昇が生産性を上回ったことをただ一つのよりどころにして宣伝をしています。私たちは生産性の数字をある短い時期でとらえて指摘することには問題があると考えるのであります。たとえば、昨年の十月から生産性は賃金上昇率を上回りました。これは鉄綱が操短を解除したから、そういう形があらわれたんであります。で、このことは、不況に置かれると、労働者のほんとうの生産能力とは関係なしに、生産性の伸びが鈍化するということが、当然の結果として示されたのであります。労働省の生産性と賃金の統計によれば、昭和三十年を一〇〇として昭和三十四年の生産性は一二九・八、賃金は一二四・四、昭和三十五年は生産性は一四三・三、賃金は一三四・三、昭和三十六年は生産性は一五九・〇で、賃金は一五〇・二となっているのであります。このことは明らかに賃金の上昇が生産性のそれに立ちおくれていることを示すものでありまして、すでに政府資本家も認めているところであります。したがって、たまたま景気頭打ちの事態とぶつかって、賃金と生産性の関係が逆転したとしても、長期的な傾向として見るならば、それをコスト・インフレと宣伝することは、多分に政治的な意図が含まれていると言われてもやむを得ないと思うのであります。  私たちはさらに政府の統計によって問題を指摘したい。それは鉄鋼及び電気機器の賃金コストであります。昭和三十年を一〇〇とする昭和三十六年の指数は、鉄鋼の場合には九七・一とコストが落ちている。電気機器の場合には四八・〇というふうに半分以下にコストが落ちているのであります。ところが製品価格のほうは、それぞれ、鉄鋼の場合には一〇八・六、電機の関係が一〇八・三というふうに上がっている。私がここで言わんとすることは、鉄鋼、電機という日本を代表する産業について、その幅には大きな差はありますけれども、いずれも賃金コストは下がっているということが一つ。そうして二つ目には、それにもかかわらず、製品価格はいずれも上がっているという事実であります。これは池田総理がよく国会で答弁しておりますが、卸し売り価格は横ばいである、心配がない、こういう議論と一致したまででありまして、私どもから言わせると、たいへん不満足であります。わが国の工業水準はすでにヨーロッパ並みであるにもかかわらず、賃金はILOの統計によって見ましても、イギリスの二・七分の一、西ドイツの二・五分の一、そうしてイタリアの一・六分の一という数字であります。労働分配率は、ヨーロッパ諸国の半分で、トルコ、セイロン並みの三三%という数字は、どう考えて見ても、独占資本の利潤の不当なる高さを示すものじゃないか、こう考えるのであります。  こういう実態の中で、賃金の上昇によって若干資本の利潤率が低下することに対して、政府までも介入することになれば、それは明らかに不当であり、労働運動に対する干渉であると言わなければなりません。私たちは、いま政府が物価安定対策として、所得政策を取り上げることは誤りであり、物価対策は、むしろ管理価格なり独占価格にメスを入れること、さらには財政金融政策によって、総需要を調整するという正当な政策によってこそ処理さるべきだと主張いたします。  次に、私は税制について申し上げます。労働者の仲間は、最近賃金問題と並んで税金のことが非常な関心事になっております。それは地方税を含めて給与所得者の税金が非常に重いことからきていると考えます。先日税制調査会の中山会長が、衆議院の大蔵委員会で発言されたように、政府は税制調査会の答申さえふみにじって、給与所得控除の限度額を十四万円に押えました。一方法人税の配当軽課措置の拡大、投資信託の収益分配金の分離課税など、中山さんでさえ無用であると言われるような資本家思いの減税を行なっております。私たちは、税制調査会に対しても、私たちの要求を示してまいりましたが、それらの要求があまりにも生かされない。さらに政府の税制改正案もこれを拒否している、こういう態度に対して、たいへん強い不満を申し上げたいのであります。御承知のとおり、今日給与所得者は納税者の八三%を占める、そうしてその税負担はきわめて重くなっております。これを事業所得に比べると、八十万円の年間所得では約三倍に近い税金がとられているということになるのであります。給与所得者の免税点は、五人家族で年間四十二万八千円、それに対して配当所得者は年間収入百五十万となっていることからも、それがいかに不公平な差別課税になっているかが明らかであります。私がかねてから主張してまいりましたように、租税特別措置法によって免税となる税額は、国税、地方税合わせて三千億ないし五千億であろうと言われております。かりにこれを三千億とし、三十八年度の税法によって計算するならば、年収七十万円までを免税にすることになります。特に私は、私自身のことを申し上げてなんでありますが、私は昭和十二年に国鉄に入ったのでありますが、その当時、全国で勤労所得税を納めていた人は、わずかに七十六万人であります。最近はこれが約千八百万人、こういうふうに言われている状態。しかも、わが国の税制の特徴として、直接税の間接税に対する比重の重いことも同時に指摘せざるを得ません。これは低所得者層が知らず知らずに払っている間接税の額が、相当な額に及ぶことを意味すると考えます。私は給与の免税点を、五人家族百万円まで引き上げてもらいたい。労働者の退職金については、三百万円まで非課税としてもらいたい。まあ、こういう考え、要求を中心にして、それぞれ各員の御配慮をお願いしたいのであります。  また、この機会に住宅の問題について希望を述べます。御承知のとおり、今日住宅問題は、全国で約四百万戸不足だといわれています。これは単なる抽象的な数字問題ではなしに、親子六人が八千円の六畳間に入っている、こういう事情にあらわれておりますように、ある意味では——まあ、いま私が申し上げたのは、まだよいほうかもしれません——土地を買ったり借りたりすることはもちろんできない。坪二万、三万、あるいは五万、十万、こういうふうな金をどうして支払うことができるでしょうか。結局、諸外国でもやっていますように、また、いま清水先生からもいろいろ意見が述べられましたが、私は内容のことはもう省略いたしますが、政府全体、国会全体で、この住宅問題の配慮をしてもらいたい。土地問題の配慮をしてもらいたい。先日も池田総理に会った際に、住宅の問題こそは、池田総理がみずから超党派で、それこそ呼びかけて、各方面の知恵を集めるべき問題ではないか、こういうことを申し上げたのでありますが、とにかく私たち労働運動、労働者の面から見ましても、今後の国民生活向上の一番大きなポイントは、この住宅問題にあるというふうに申し上げて過言ではないと思うのであります。ぜひ皆さん方の御配慮をいただきまして、住む家がないから結婚ができないとか、あるいは六畳間一間に親子五人が入っていたために、小さな赤ん坊が圧死するとか、そういうふうな文明以前の悲劇をぜひ国会全体の力によってなくするように御配慮をいただきたい。  以上、おもな希望だけを申し述べまして、私の意見陳述にかえさしていただきます。     —————————————
  42. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 御質疑ございますか。
  43. 戸叶武

    戸叶武君 土地と住宅問題にしぼって岩井さんがやはり一番重要な問題じゃないかといわれておりますが、そのとおりだと思います。ちょうどイギリスでもいまから六、七十年前にこの問題が強く浮かび出して、大陸から入ってきたマルクスの剰余価値説よりも、不労所得の問題を中心として、大陸の社会主義よりも、現実的なイギリスの社会状態に適用されたところの問題が一つの社会主義の中に大きな要素となりましたが、いま日本でほんとうにこの問題を、清水さんも指摘しておりますが、真剣に取っ組んでいかなければならない点は、やはりこの資本主義分析の中における肝心な利潤追及の上における剰余所得だけでなく、社会的な環境の変化による不労所得がどういう層に流れているかということに対して、これを国が、あるいは自治体が責任をもって、これをつかみとれないで、それを税体系の中にも処理できないで、野放しになっておって、全体の連中がこれで非常に苦しんでいるというのが現実ですけれども、これは岩井さんでもあえて超党派的という言葉まで表現しておりますが、これはほんとうに国なり政府なり、国会なり、責任をもって、これに対する具体的回答を出さなければ、当面の問題として一番私は深刻な問題になっていると思うんです。実際、いま金融の問題等、税制の問題が日本ほど体系のない、でたらめな形で野放しになっているということは、もう資本主義秩序の中におけるアナーキーの混迷を生んでいると思うのですが、そういうことに対して、もう少し具体策としてどういうところからメスを入れていくべきかという、思いつきでも岩井さんなり清水さんからも、やっぱり指摘してもらいたい、そういうふうに考えております。
  44. 岩井章

    公述人(岩井章君) 今お話しのあった税金のことで、まず私たちの思いつきというか、あまり詳しい事情がわかっているわけではありませんが、申し上げたいのですが、先に昭和十二年私が入ったときのことを言いましたが、全国で七十六万人、で、今日では千八百万人いま労働者が自分の税金で一番何を不満に感じているかといえば、手っとり早く勤労所得税をとられているものと、それから勤労所得以外の税金でとられているということばで言いたいと思うんですが、あまりにもこの差があり過ぎるということです。だから、皆さんほとんど知っておられるように、公共企業体の連中というのは、全国至るところに住宅を持っておる。決して高い賃金ではない、平均三万程度の賃金である。その賃金であるその賃金労働者でも地方へ行くと、その税金の納入額というものは長者番付の第一位のほうに出るわけです。納入のトップになる。これは決して農民の連中があまりにも低過ぎるとか、給与所得以外の事業所得のものが低過ぎるという単純な比較で、そういう意見は出ますけれども、私どもから見ると、そこに実は中心があるとは思えない。で、むしろ、もちろんそういう勤労者相互の間の比較のことも重要ですが、私の知っておる限りでは、もっと日本の場合には、税金の下のほうをはずして高額所得に対する累進課税を高めるべきだという意見も持つのです。たとえばきょうここに資料を持ってきませんが、わが国は最高がたしか七五%ですか、イギリスなんかでは、私のうろ覚えでは九五%−九五%というような税率がいいかどうかは、私は即断することはできませんが、少なくとも皆さんに考えてもらいたいのは、新制中学を出て、あるいは新制高校を出て初任給一万二、三千円の、まあおそらく食うに足る賃金だとは思いませんが、そういうものを取ればもう税金を取られる、ここにどうしても不満があるのです。もちろん労働者は単純ですから、隣近所に住んでいる農民との比較とか事業所得の比較をするのですが、私はその単純な見方より基本的にはそこに問題があると思う。私は——私ごとを言って申しわけないのですけれども、言うところの総評事務局長のほかに原稿料とか何とかありますから、いわゆる申告する一人であります。申告というものがインチキなものというと、国税庁におこられるかもしれぬが、私は相当勤労所得税とは違った条件にあると思います。だからよく私は例に出すのですが、日本で一番税金を出している人は松下幸之助さん、ナショナルの社長さんですが、こういう人は、おととしは二億五千万円の申告をして、去年は四億五千万円の申告をしておる。そういう状態を考えて、今の最高六十五というものでいいかどうか——私は何も松下さんにうらみはありませんけれども、あまりにもきのう、新制高校出た連中一万何千円に対しても税金がかかるわ、上のほうの松下に対しても日本独得の六十五とか、七十五まで押えておる、こういうところのあり方に私は一番不満があります。もちろん皆さん専門家ですから、私がさっき言った租税特別措置法というような問題についてはそれぞれの見方がありましょう。私はもちろんこれに反対です。私は何回か税制調査会に出ていて、この問題について多少経験があるのですけれども、租税特別措置法のことを責めるよりは——というと、言い過ぎるのですけれども、何はともあれ、もっと勤労所得税の下のほうをはずしてもらいたい。もうがまんができない。労働者だけが給料から天引きされておる、こういう状態というものは、私たちに言わせると大へん不満であります。特に皆さん御存じのとおり、この給料から天引きするという制度は、たしか昭和十五年にできた戦時立法であります。戦争に勝つという目的のために。そういう戦時立法がそのまま今なおかつ生きておるということももちろん不満です。しかし、そういう不満というものは、これは国民だから税金を心底納めないという人はおそらく労働者といえどもないと思うのです。あまりにも税金に開きがあるから、税金を取られたと、そういう言葉が普通言われるわけです。税制全体についてものすごいこれは議論があるのでしょうが、これはもう労働者、働く連中の気持ちを率直に言えば、何といってもそこに一番大きな問題があることをぜひ皆さんにも、それぞれの党派の立場があるでしょうが、少なくとも理解していただきたい。このままの推移でいけば、やがて勤労所得税を納める者が二千万、二千五百万ということにもなるわけです。そういうふうになっていったときのことを考えてみてもらって、いまのうちに何とかして下のほうをもう少しはずしてもらいたい。これはもう皆さんに、ある意味では心からお願いしたい。ぜひ取り上げていただきたい。  それから住宅の問題については、私はもうほとんどいい知恵がありません。いい知恵があれば池田総理にねじ込んで、早くこれをやれということを言えるのですが、しろうと流にはいろいろのことを考えます。しかし、一つだけ希望を申し上げておきますと、この皆さんからいただいた今度の予算案の中には、たしか八百五十億か九百億程度組まれているようです。しかし、ほかの全体を研究しませんから、おそらくそれだけではないと思う。私の知っている限りでも、炭鉱住宅が約一万戸とか、その他のものがあるのでしょうから、もう少し額は多いと思いますが、しかし、もう少し何か抜本的に国の予算全体でやってもらいたいのです。特に、いまも経営者の皆さんにお願いしたのですが、社宅で住宅事情を解決するという方向は絶対にとってもらっちゃ困るのです。それはなぜかというと、いまも、中小企業のおやじ連中だけの集まりでしたが、この連中が、大体どうしてくれるんだということになるわけです。ちょうどいま厚生年金の問題で議論が同じ角度から起きているが、大企業だけはそれでもやれるかもしらぬ。しかし、中小企業の連中は、一そう労働不足がそれにプラスされて、人が来なくなるのです。いまも商工会議所の労働委員長という人が強くそれを言っていました。私は、この社宅という制度をやって、日経連の前田さんがよくおっしゃるように、日本的労使関係ということをねらう意味も、それなりきにわからぬでもない。しかし、皆さんが御存じのとおり、八幡製鉄は日本で一番大きな会社なんですが、それでも社宅を持っているのはわずかに四分の一なんです。四分の三の連中は社宅にはいれないのです。いわんや、東京でも大阪でも名古屋でも、中小企業のおやじ連中が、住宅を建ててそれを材料にして若い連中を集めなければならないというような立場に、私は皆さんの手によって追い込んじゃいけないと思うのです。だから、余裕があって大企業が家をつくるのだったら、それはもうかってに——かってと言ってはおかしいが、つくってもいいと思う。しかし、国全体のいまの労働需給の状態を見て、中小企業の連中にも大企業の連中にも、均分に労働不足が——不足じゃない、実は偏在なんですけれども、解決できるような配慮をしていただきたい。私はもう心からそういうことを希望する。  そうして、もう一つ皆さんに知っておいていただきたいのは、社宅の問題も、やがては——大企業の場合なんですが、労働者にくれてしまう、と言うとおかしいのだが、最終的には手に渡るような配慮をしておいてもらいたい。昔だったら、皆さんお年寄りの方が多いんですから、昔のことを知っておられると思うのですが、退職金をもらってうちを建ててゆうゆう隠居することができる。この節隠居なんということは問題にならないのですが、とにかく退職金で家を買うなんということはできない。しかしそういう事情ですから、大企業が現実に社宅をつくるということは、これは避けることはできないのですから、その場合といえども、国全体の運営の面から見るならば、最後にはどういう手段でやったほうがいいかということの御研究が必要だと思いますが、労働者に渡る、そういうこともまた一面配慮をしていただきたい。まああんまり私、専門的に詳しくありませんけれども、職場の状態を見てそんなことを率直に皆さんにお願いしたいと思っております。
  45. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 清水さん、何かお返事ありますか。
  46. 清水馨八郎

    公述人清水馨八郎君) 終わったのでありますけれども……。  確かに不労所得の問題は非常に重大な問題であって、それによって、一部では何らなすなくして大金を握る。ほんのわずかな人が大金を握るから、その反対側で、何十万、何百万の人が困るわけであります。そういうことを平均化するのが政治だと思うのでありますけれども、それでは、じゃ、そういう人たちが地価を上げているのかというと、そういうことじゃないんですが、近郊の百姓は、自分で地価を上げるのじゃなくて、何となく上がってくることから計算してみると、ああこれ以上じゃなきゃ売らないとか、これ以下では売らないと言って——地主が悪いわけではない。結局、土地政策が何にもないから、まわりが上がっている、五千円だと思ったのが一万円なら、一万円でなければ売らない。土地というものは、いかに需要が多くたって供給が伴っていないわけです。埋め立てくらいしかないから、結局は供給が伴わないから、その供給を独占することができる。このように地価が上がってくれば、ほんの一部を売れば、もうあとは売らなくても一生食っていけるけれども、地価が上がっている最中には売る必要はない。だれかの土地を、だれかに所有されているのですから、いかに需要があっても供給が出てこないという、ここに問題があるわけであります。したがってこれは、小手先のいろんな細工をしてもだめなんであって、単なる需要供給なんていう問題じゃないんですね。そこで私は、先ほどから言ったような、結局もうこの段階まできたならば、国土基本法といったようなものでもって、土地とは何であるかというようなことを、もうきめてかからなければいけないんじゃないかと、こういうわけであります。土地に対して、じゃ、諸外国ではどうなっているかというと、わりあいそういうことは、幾らか土地は上がっていても、それに応じて土地問題というのはあまり起こっていない。つまり土地、ランド・バリューなんていうものの理解ができないんだといわれている国と、日本では土地そのものが売買される、どういうことなんだと、つまり土地というものは、上に利用されて、一体となって売買されるものであって、土地だけでもって売買されるということは、外国では考えられないといわれておりますが、これは戦後の個人の権利のインフレ化といいますか、これが非常に問題であると思いますが、国益優先というものと、個人優先というものがあって、中の公益優先という思想が、逆に全然日本には発達していない。国のために大損をしたんだと、その反対の、犠牲的精神よりも私益優先のほうに大きく振り子が動いてしまった。公益優先という考え方は、私益を守るための公益なんですから、そのまん中でとまらなくちゃいけないやつが行ってしまって、個人の権利が非常にインフレ化してしまっているところに問題があります。そういうわけですから、もう決断だけだと思いますね。そういう意味で、まず国土の実態というものを、この辺でもう徹底的に調べあげる。人口センサスと同じように、日本人の住んでいる土地というのはどうなっているのか、だれが、どのように所有されているかということを、土地センサスというものを徹底的にやる、やるだけでも意味があると思います。ちょっとした方便であるにしても、国が高い姿勢をとるんだということをやればいい。それでいまが天井だということがわかればいい。需要供給は、逆に供給が多いのでありますから。東京都内でも、三千万坪の土地があいているといわれております。十数年は家を建てるだけの、実際の実需要に見合う土地がありますから、それを整理してみれば、決して土地が足りないわけではない。日本くらい宅地適地が多いところはないといわれております。国土のほんの一%あれば、二千万の世帯がみな五十坪くらい持てる土地がありながら、土地が足りないというのは、単に供給なんかでは救えない。とにかく土地というものをどう見るかというところに、何か一本入れなければならないと思います。
  47. 瀬谷英行

    ○瀬谷英行君 三点ほどお伺いしたいと思います。一点と二点は岩井さんに伺い、三点については、岩井さんの先ほどの公述に関連して清水さんにお伺いしたいのです。  第一点は、いまお話がありましたが、たとえば国鉄の鶴見事故等において、関係者は、いまでも検察官に呼ばれてきびしい取り調べを受けているということでありますが、原因は、国鉄総裁自身がここで述べているように、過密ダイヤにあるということははっきりしております。線路の間隔が狭いというところにも問題があると思います。ところが、この間の予算委員会の総括質疑の際に、阿具根さんの質疑のときだったかと思いますけれども、三池の炭鉱の、あれだけの災害に対して、会社側に明らかにこれは落ち度があるということが考えられるにもかかわらず、会社側の刑事上の責任というものは、何ら追及をされていない。ほんのおざなりに一人の検察官が取り調べに当たっているというだけである。ところが一方において、国鉄の事故等の場合には、経営者側の政治責任がはっきりしているにもかかわらず、現場の労働者の落ち度というものを、ウの目タカの目でさがしている、こういうことは、明らかにそれは検察のあり方としては、片手落ちになるんじゃないかという気がするわけです。一体これは検察の制度上の問題であるのか、あるいは運用上の問題であるのか、あるいは取り調べの方法なり、検察官側の思想上の問題であるのか、一体どういう点に問題があるというふうにお考えになっているかということをお聞きしたいのが第一点。  第二点としては、安全対策の壁になっているものは一体何かということを、労働者側の立場から見た場合に、一体どこが急所であるかということを、ずばり指摘をしていただけないものであろうかということであります。それは、この安全対策でいうならば、やはり先ほどの清水さんのお話にもありましたけれども、道路と鉄道に対する投資のバランスが、つり合いを失っているということが指摘されました。確かに、道路に対しては四兆一千億の予算が国費として見込まれておりますけれども、鉄道は自前でもってやらなければならぬという立場になっております。しかし、かといって、現在の安全の面でいうならば、至るところに重大事故を発生する危機が横たわっているということも事実なんです。この場合に、一体投資をするならば、どういう面で、どういう方法で投資をしたらいいかということも、私は問題になろうかと思います。一応の考え方としては、鉄道に対する過小投資が——これは過去においてはまずかったということは指摘できるのでありますから、あらためてこの過小投資の分を取り返さなければならぬということは当然のことでありますけれども、資本主義経済機構の中の官僚機構でもって、投資の効果が十分に発揮できるかどうかということも、これは問題だろうと思う。たとえば中央線がもう行き詰まってきておる、もう一本線路を敷かなければならない、用地取得をするときにあらかた予算は食われてしまうから、予算を有効に消化し得ないところの経済構造というところにも問題があるんじゃないか、そういう点を考えてみると、投資を行なう場合にしても、いろいろ問題になってくるし、安全対策を根本的に解決するための壁が非常に多過ぎるということも指摘できょうかと思うのであります。これらの壁を取り払うためには、手っとり早いところ、どこに急所を向けたらよろしいかという問題があろうと思いますが、それを第二点としてお伺いしたい。  それから第三点は、住宅の問題について、これは岩井さんが触れられましたけれども、住宅の問題、土地の問題となってまいりますと、先ほどの清水さんのお話にも関係が出てくるわけであります。で、岩井さんのお話の中に、企業の責任において住宅の問題を解決すべきではないという御意見がありました。もっともだと思うのであります。企業の責任でもって住宅問題を解決する方向にいけば、大企業労働者の場合は何とかなるけれども、中小企業、零細企業の場合には、取り残されるという心配が出てくると思う。そういうことを考えるならば、当然国の責任でもって住宅問題を解決するという方向が望ましいというふうに思うのでありますけれども、しからば、その住宅問題を解決する場合に何が問題になるかというと、先ほどもお述べになりましたような土地の問題が出てくると思う。先ほどちょっと私も質問を忘れましたけれども、この土地の問題に触れる場合には、土地価格が上がったということと、日本経済政策の問題とは私関連を持ってくると思うのです。この問題で何回かここで質疑を行なった場合に、経済企画庁長官の答弁であったと思うのでありますけれども、物価の値上がりの中でも、一番大きな割合を占めるのは土地の値上がりじゃないか、この問題の根本的な解決策についてという質問に対しては、物価が上がっているということは、経済成長している一つの現象であるかのような答弁があった。はたして今日の経済政策の、経済上昇のバロメーターとしてみてよろしいのかどうか。やはり私は、経済政策そのものに、所得倍増政策そのものに大きな根本的な原因があるんじゃないか、病根もそこにあるんじゃないか、その病根を掘り起こさなければ、問題が解決できないんじゃないかという気がするわけです。それらの問題と、それから社会構造上の問題、たとえば住宅不足の中には、経済政策そのものにも問題はあるかもしれませんけれども、人口が都市に集中し過ぎてしまっておる、東京であるとか大阪であるとか名古屋であるとか北九州であるとか、こういう一部のところに産業なり人口が片寄り過ぎてしまって、それが多くの住宅難を生み、土地問題を生み、ということもあるんじゃないかと思うのでありますが、これらの都市計画なり、あるいは社会構造といいますか、こういうような問題を、一体どのような方向で解決をしたらよろしいとお考えになるか、との第三点については、清水さんにお伺いいたします。
  48. 岩井章

    公述人(岩井章君) 一番の鶴見事故に関連して、検察官のあり方について、これは抽象的に私の感想しか言えませんが、えてして日本の検察官がいままでやってきていることは、起きた現象のところを非常に追及する、それで、もちろん現象を追及することは、それは検察の任務としてあってもやむを得ないのかもしれない。しかし、だれが見ても、同時にもっと根本にメスを入れなければならないという状態が考えられ、あるいは発見できるような場合に、その根本にやはり同時に手を入れてもらいたい。それは感情的なことを言えば、今度の鶴見事故で、何で鉄道の労働者が数十人も検察に呼ばれているのか、私には全くわからない。あの場合の事故というものは、先ほど私の言ったように、事故というものの持っている原因を考えて、労働者の不注意というものが——まるですべてないとは言えない、そういうこともあるでしょう。しかし、さっきも言いましたように、事故対策というものの持っておる意味からすれば、注意し、注意し、なおかつ、起きたときに最小限にとどめるのが、これがいうところの事故対策だと思う。だから、鉄道のその後のやり方を見ていると、何か事が起こるとすぐ労働者の注意心に問題を帰着させる、たいへん不満です。私は鉄道出身だから、鉄道のことをよく知っていますけれども、機関士が知らぬ間に信号機を下げてみても……、そういうことをやったってだめなんです。そういう注意心を喚起することはもちろんいいです。しかし同時に、起きないために、また、起きたときに最小限にとどめるという措置をしなければならぬ。だから、検察官という立場でそういう点も配慮をしてもらいたい。つまり起きた事故を追及するということは、その次に再び起こさないためのそれは研究じゃなくて捜査なのかもしれませんけれども、そういう態度だと思います。だから、鶴見の場合にでも、あるいは三池の場合にでも——三池のときには、これは殺人じゃないかということで、訴えるということを一たんきめておるのですが、しかし、世間じゃ総評が訴えるというと、すぐ労働問題というようなふうにとられることをおもんぱかって、訴えることをしていないのですが、だれが見ても会社側の不注意です、あれは。だから、現実に、検察官のあり方は、この二つの事故を見て私は不満です。しかし、単なる不満というよりは、検察官のあり方といえども、社会公共の福祉全体の方向をねらうとすれば、こういう事故を契機にして、もっと病根の深いところへやはり目を向けてもらいたい、そういうふうにしてもらいたいということを希望としては考えます。  それから安全対策について、どんずばり何かということを言われたのですが、どんずばりは、私が先ほど申し上げましたように、その職場で一番安全か安全でないかを知っているのは、国鉄でいえば、国鉄の総裁じゃないのです。結局は、その職場に働いている労働者が一番知っているわけです。いま事故は、皆さん知っておられるように、建設業に非常に多い。この建設関係でも、どの職場に事故が多いか、危険があるのかというのを知っているのは労働者です。しかも、外国でも、どこの場合でも、ほかの労使問題は別にして、この事故問題に関する限りは、経営者側が労働者側に手を差し伸べて、完全に労使が一体となってやっているのです。で、私は、今度の国会に出されたかどうか知りませんが、例の労働災害防止法を考える場合に、いまの政府与党の幅を考えてみても、あの法律のたてまえが、労使が協同して当たる、そのくらいのことは、いまの与党の、まあやかましいことばで言えばイデオロギーでも許容できるところじゃないか。ところが、それさえ実は入っていない。御承知のとおり、業者団体に金を出して、労働者側は参与だということは、私はもうこの心がまえがいけないのじゃないか。だから、何もイデオロギー一般のことを言っているのじゃない。労働災害それ自体は、何といっても労働者が一番よく知っているのだから、その知っている連中の意見をどうすれば反映させることができるか、生かすことができるか、それを私は、一番一般的な事故問題としては言いたいのであります。  それから、もう一つ申し上げたいことは、これは同時に皆さんすでに当然知っておられることですが、最近の交通事故関係というものは公害とワンセットにしてものを考える立場に立っていただきたいということ、公害とは全く同一性格のものとして今日あるわけです。そういう点で、いわゆる日経連なんかでも指摘しておりますように、社会資本に対する投資が不足したということをおっしゃっておるが、この見方に決して反対ではありませんけれども、しかし、日経連が言うように、だから賃上げを押えろということは、私たちに言わせると、これはとんでもない見当違いのことを言っておるのじゃないか。社会資本全体の投資を強めることには賛成ですが、特に鉄道のことにだけ私限定して言えば、あのままでは、皆さんも知っておられるように、この次には中央線に事故が起こるだろう、そういうような物騒なデマが飛ばされておる状態なんです。これは、さっき私は線路の間隔のことを言いましたが、これを解決するには、清水先生のお話のように、ものすごく金がかかるが、徐々にそういう方向に持っていっていただきたい。あるいは羽田の空港は、皆さんとっくに調べて知っておられると思うが、もう同時に何十機も上空に待機しておる。こういうような状態をそのままほっておいたら、これはいけないと思う。いま政府はどこに第二飛行場をつくるという計画をしたか私は知りませんが、とにかく社会的な投資というものに対して、これから先のことは私たちの専門ではありませんけれども、もっとふやすという立場は私はもちろん賛成であります。特に皆さん方に国会の法律に関して配慮していただきたいのは、労働災害防止法それ自体に私はもちろん反対はしているが、単に反対とか賛成以前の問題として、もうちょっと深く検討した上であり法律の審査をしていただきたいということをお願いするのですが、あれは鶴見、三池の大事故が起こる前の法律なんです。だから、その後大事故が起きたのだから、さっき皆さんに申し上げましたとおり、労働大臣と話し合いをしまして、もっと抜本的なものを片方では準備しながら、その一環としてこういうものがある、この位置づけならまだ私はわかる。労働災害防止法なんという大体大それた名前をつけておることが、ちょっとたいへん恥ずかしいのではないか。経営者側は一億五千万くらい金をかけるということですが、そういうことはもうごく表面的なことで、抜本策をこの機会にぜひ国会において審議をしていただきたい、これが私の一番労働災害問題に対して希望を申し上げたいところであります。
  49. 清水馨八郎

    公述人清水馨八郎君) 私に対する質問ではなかったのですが、鶴見、三河島の事件をちょっと私調査したので、それについてちょっと一言触れさせていただきたいと思います。  私は、三河島、鶴見の事故について、その直後にいろいろ調べて、最近どこにどういう事故が起こっておるかと、東京近郊のやつを調べておりまして、次のようなことが指摘されておるわけであります。これは都心においてはあまり起こっていない——山手線の中のところには起こっていないで、郊外に起こる。それも、郊外といっても、郊外のはずれのようなところに起こっておる。どういうことかというと、都心では立体化されておるわけですね。外敵というものが全然入っていないで、立体化されれば外敵は入らない。ところが、郊外に行くと、鉄道が平面的におりてくるわけです。平面におりてくると、今度は外敵というダンプなり何なり、道路交通の矛盾が近寄ってくるということが一つと、もう一つは、操車場というものが郊外にあるわけです。その郊外から貨物がのこのこ出てきて、本線と触れ合う。三河島事故は、明らかにそういうところでもって、異質な交通機関がそこに触れ合ったところで起こっておるし、鶴見事故も操車場から出てきて本線と触れ合ったところから起こっておる。つまり、都内では、相当に交通機関が激しく、単にヘッドが短いということだけでなく、地下鉄なんというものは、やはり中央線と同じように二分間隔ぐらいで堂々と走っておるけれども、一回も事故を起こしたことがない。車内警報器が完備しておるから、一回も事故を起こしたことはない。これは何を意味するか。結局、効率のある交通機関ですから、もっともっと効率よく使えばいい。ところが、鉄道のほうは車内警報器が完全ではないし、しかもどういうところで起こっておるかというと、内敵、外敵が近寄るところに起こるということは——かつて東京というところはこのくらいの大きさの東京であった、ところが郊外に拡大してこのくらいの東京になったのだから、都市交通的な、市内交通地域的な状態を、そのままもうちょっとあと十キロぐらい郊外に交通地域を延長してやらなければならない時期にきておる。それで、都市交通地域と郊外交通地域の接点において起きておる。貨物もまだ出始めて完全に整備が十分されていない、貨物も運転士も整備されていないところでばったり会って、そういうものがみんな起こっておる。内敵、外敵を一緒に受けておるというようなことがわかったわけです。  それから、私に対する質問であったところの住宅問題でありますが、住宅問題は、高度経済成長ということと、それから人口の大都市集中ということがその原因ではないかということでありますが、確かにそのとおりであります。高度経済成長が少し行き過ぎて、それが進み過ぎた。そのしわ寄せが、人々に、どうしても都会に住まなければならない、農地を離れてどうしてもそこに行かされてしまうわけです。そういうことから急激に住宅需要がふえてきたことや、それから人間解放というような問題で、家族の分離ですね、子供が成人すれば何か部屋がほしいというのでアパートを求める。非常に家族の分離が行なわれてきたというようなことは、人間性のむしろ進歩であると思います。そういうようなことが一つと、それから、東京になぜ人が集まるのか、これを押えればいいじゃないかということですが、これはそう簡単にいけるものじゃなくて、世界中の人が都市へ都市へと草木もなびいておるというので、困った困ったということですが、なぜ都市に人が集まるかという背後を世界的に現代的に意義をつかむということがあまりなされていないと思います。そういうことをつかまなければいけない。ただそこに企業があるから、産業があるから都市に集まるのじゃなくて、もっとその背後に何かあるのじゃないか。都市は文明のバロメーターだ、都市が栄えるということは。なぜ東京に人が集まるのかというと、その背後にある何かを分析しなければいけないのじゃないかと思います。これはもっと私は大きな立場で、人間解放ということじゃないかと思います。だから、都市というような概念は変わってきておるのです。昔の都市計画でという都市ではなくて、新しい都市計画をつくらなければならない。その都市計画とは、古い都市の計画ではなくて、全然意味の違う都市を、二十一世紀を目ざすところの都市をつくらなければいけないということ。現在、都民だけの東京ではなくて、もっと今世紀の末には世界の九割の人口が都市及びその近郊に住むであろうという驚くべき集中なんであります。みんなが都市的な生活を欲しておるというこの事実を十分認めないで、お前入ってきてはいけない、おれたちのものだということは、行き過ぎであって、私たちは都市というものの入れものを変えさえずればまだまだ十分やれるのだという態勢——困るというのじゃなくて、もっと入るのだ、つまり都市というものは形ある都市から形のない都市へ——バゥンダリィ・シティではなく、バウンダレス・シティという、交通体系さえあればどこでもいいのだというときにきておるわけです。こういう狭い東京ではなくて、もっと伸び伸びした一都三県的なことを考えるとか、東京と大阪というものは、新幹線ができれば、それが中央線であって、それが日本の中央の都市化地帯であるというような、もっと広大な気持でやっていけば、いくら集まってきてもいいじゃないか、積極的に都市集中というものを考えなければいけないという立場でいろいろ考えておるわけであります。
  50. 太田正孝

    委員長太田正孝君) 公述人の各位におかれましては、たいへん御親切に公述くださいまして、ありがとうございました。厚く御礼申し上げます。  以上をもって昭和三十九年度予算についての公聴会は終了いたしました。  来たる十六日月曜日、午前十時から委員会を開会いたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後四時四十九分散会