○
説明員(
三輪良雄君)
新潟の震災におきます
自衛隊の
活動状況の概要について、報告せよということでございます。
最初に、
陸海空別に、
数字的ないわばまとめを申し上げまして、二、三の個々の点について御
説明をいたしたいと思います。
陸上自衛隊におきましては、
東部方面隊から第十二
師団の主力、第一
師団の一部及び第一
施設団等の
長官直轄部隊、
人員にいたしますと
合計六千九百名、
車両は約一千二百両を
派遣をいたしまして、主として次のようなことを行ないました。
大きな
仕事といたしましては、信濃川の
堤防が沈下をいたしまして、これを締め切らないと、非常に水没をする
地帯ができますので、
堤防の上に
土のうを積み上げたのでございますが、
自衛隊の行ないましたのが、三十六万二千俵の
土のうを積み上げたと聞いております。
それから
給水が非常に急を要しまして、水は
あたりにあふれておりましても飲み水に困るわけでございますので、これを当日から
給水いたしましたが、
合計約四千六百万トンの水を
給水いたしたと聞いております。
それから
輸送でございますが、
車両と
航空機に分けて申しますと、
車両では、
人員を約二千二百人、二百トンの
物資を送っております。
航空機では、三百四十三人、
物資といたしまして、
陸幕のほうでは約二トンでございます。
なお、鉄道の
被害が非常に大きゅうございまして、どうしても急いで
復旧しなければならないというような御依頼がございまして、
レールの押し上げをいたしました。陥没をいたしました
レールを押し上げるのが、約五千三百メートル、砂利を敷きましたのが約一千立方メートル、
土砂の
排除が約一千六百立方メートルと聞いております。
それから
消火作業でございますが、実際の火を消しますことよりは、
石油がだいぶ流れまして、これをくみ取らないことにはその
あたり一帯が火の海になるということでございます。これをくみ上げましたのが、約二千五百キロリットル。それから
消火剤を
緊急輸送いたしましたのが、八十四トンでございます。
それから、
道路が非常にひび割れてなかなか自動車の通行ができません。これを
復旧をいたします
道路啓開作業といたしまして、約二十三キロメートル、それから
土砂の
排除が約九千立方メートルと聞いております。
なお、
防疫作業でございますが、ああいう
あとは主として
疫病等の
発生が心配されまするので、
薬剤の散布を約九十五万平方メートルにわたって実施いたしましたと聞いております。
海上のほうは、艦艇二十隻をもちまして、翌日早朝には
舞鶴から
新潟に
到着をいたしたわけでございますけれ
ども、主食九万一千食、あるいは毛布八千枚、
作業衣二万二千枚、その他
ゴム長靴、
作業靴、
雨衣、
かん詰め等を
舞鶴から
補給をいたしましたが、そのほか
海上では、先ほど申しました
土のうの積み上げに要しますどろを詰めました
土のうを、
小型上陸用舟艇で
輸送いたしましたのが、約二万二千俵と聞いておるのでございます。
航空自衛隊は、十七日から十九日の間に、
輸送機二十一機で、
化学消火剤四十一トンを
空中から投下をいたしまして、なおそのほか、
陸海空いずれの所属もやりましたけれ
ども、
ヘリコプター延べ二十八機によりまして、
東京−
新潟間の
人員輸送、なお
災害地内の
輸送等を行ないました。このほか、
地震発生直後に
偵察を行なったというようなのがおもな
仕事であろうかと思います。
これを時間的に少しくくだいて申し上げますというと、
地震の起こりましたのが十六日の午後一時ちょっと過ぎでございます。ほぼ三十分を経ました十三時三十分には
航空自衛隊のRF−86(
ジェット機)
延べ八機が同日十八時までに。なお、
海上自衛隊からP2V−7四機が十四時から十八時までに、
新潟市内あるいは佐渡の両津港あるいは村上市以北の
海岸線等を
偵察、写真撮影いたしまして、これを直ちにその日の夕刻までには総理並びに
災害対策実施本部にお届けをいたしまして、その後の
対策に資するようにお願いをいたしたのでございます。
人員の
緊急輸送でございますが、ちょうど
新潟の国体がありました直後でございまして、
新潟では
知事、副
知事あるいは
市長、
県警本部長、
本部長以下の
幹部その他の
方々が、あるいは
東京あるいは北海道に行っておられるというときに起こった、まことに不幸な事態でございまして、
知事さんは時間の
関係で
お送りできませんでしたけれ
ども、
市長さん、
警察幹部その他の、緊急にお帰りを願わなければならない
方々を第一陣として
ヘリコプターで
現地に
お送りをいたしましたほか、
政府代表として
派遣をされました
自治大臣あるいは
厚生大臣、
大蔵大臣、その他の
方々を
お送りをいたしておるのでございます。
給水作業は、先ほど申しましたように、非常に
現地で急ぎ要求されたのでございまして、十七日から
給水を開始をいたしまして、
給水タンク四トン車五両、それから
水トレーラー、一トンの
トレーラーでございますが、これが八十七両、これをフルに使いまして、一回に約百七トンの
給水ができたのでございます。
浄水セットが、十八セット持ち込みまして、これが約一時間フルに動かしまして十トンのきたない水から
飲料水をとるという
作業をいたしまして、これを逐次配給をいたしたのでございます。
部隊の
派遣は、第三十
普通科連隊。新発田を出ました
部隊はその日の十四時十五分には
新潟に
到着いたしました。
最初に出ましたのは三百ほどでございますけれ
ども、
地元としては、非常に不安の中で
自衛隊の姿を見て非常に安心したということを、その後こちらから参りました者にこぞっておっしゃっていただいておるのでございます。十二
師団は翌日の未明四時五十分に
到着をいたしまして、
合計、先ほ
ども申しましたように最大のところでは六千九百名が出たのでございます。
海上自衛隊は十六、十七日に
自衛艦十三隻を
舞鶴港から送りまして、これが実は十七日の朝着きましたときにはまだ受け入れの体制もできておりませんで、この
物資が着いたということで非常にその瞬間的早さその他について、
地元からお喜びをいただいたということを聞いておるのでございます。
以上のような
活動をいたしましたが、御
承知のように、ああいう中でございますので、その後
建設大臣がごらんになり、閣議でも御報告されたと伺っておりますけれ
ども、ああいう中で実際に
最初の
活動をしてもらうのは
自衛隊によるほかはない。しかし、行ってみるというと、一番苦しい
作業を全部
自衛隊がやっておって、そのほかの機関が全く
自衛隊におんぶしておるという
状態はよくないではないかという御注意があったと、反面、
自衛隊の
活動については非常におほめをいただいたと聞いておるのでございます。
以上のようなことで全体の
活動の
状況の御報告は終わりますが、お触れになりました、非常に
危険物について身を挺してこれを防いだということでございまするけれ
ども、これは四
エチル鉛というもののことであろうかと思います。実は、四
エチル鉛というのがあそこにたくさん
ドラムかんで
倉庫に入っておったわけでございまするけれ
ども、これが
石油タンク——原油タンクが燃えまして、もしこの四
エチル鉛に燃え移ってこれがガス化した場合には、その風下、山ノ下町
一帯の人畜は
中枢神経を侵されて廃人になってしまうんだそうでございます。また、これを
搬出途中もしそれがそういうことでガス化するような
状態になっても非常に危険なことであったのでございます。そこで、これはもうその
倉庫の北側五十メートルのところに二万キロリットル
入りの
原油タンクがありまして、これがもうすでに燃えております。そこで、その炎が
倉庫から三十メートルのところに迫って、まあ炎が地をはっておるという
状態。したがいまして、その四
エチル鉛を入れております
倉庫内も
黒煙が充満をいたしまして視界ゼロ、
倉庫内の温度が五十度ということでございました。そこで十七日夜、これを何とか
搬出しなければいけないということで、第二
普通科連隊の
前原一尉以下七十名に下命をいたしまして、これがもうちゅうちょすることなくその
倉庫に
入りまして、
タオルで口を押え、普通は
ゴム手袋を使って扱うんだそうでございますけれ
ども、その用意がございませんで、地下足袋を手にはめてそれで持つというようなことをやりまして、十八日午前五時、無事この二百リットル
入りの
ドラムかん七十五本を
搬出いたしたわけでございます。先ほど申しましたように、これがガス化したということを考えますと非常におそろしいことであったということで、
地元の
方々から喜んでいただいたと聞いておるのでございます。なおもう
一つ、
水素ボンベがございまして、これまた、この
水素ボンベの
倉庫がその炎によって爆発をいたしますというと、それによってまたさらに他の油の
タンクに燃え移るというような、非常に危険な
状態になったのでございます。そこで、四
エチル鉛の
搬出に引き続きまして
前原一尉以下五十名がさらに
水素ボンベを出したのでございますが、これは八メートル・
ボンベが十二本ずつ一ケースに入ったもの四つでございまして、まあ非常に重いものでございまして、これを力を合わせて車に乗せて引っぱり出して、
安全地帯に
搬出をいたしたということでございます。これに当たりましたのは、先ほど申しました第二
普通科連隊のほかに百七
施設大隊が
入りました
混成部隊であるというのでございます。非常に危険が迫り、はた目にはなかなか入れないような
状態でございましたけれ
ども、ちゅうちょなく飛び込んでそういうようなことをやってもらったということについては、私
ども非常にありがたいと思っておるのでございます。