○武内五郎君 私は、いま
佐野委員から質問があって、その中で、
激甚法の
適用、それから天災融資等の大幅な
適用についての強い
要望がありまして、同様に私も、それを広範に
適用して
災害に泣く地方の人々の救済をすみやかにやってくださるようにまず第一に
要望しておきます。
次に、私はまず第一に、七月の七日以降降り続いた
豪雨、長雨等によって各地に起きました
災害の基本的な問題について少々お伺いしたいと思うのであります。その場合に、一応
新潟県に起きました
災害を中心としてお伺いしたいと思うのであります。
まず第一に、河川行政のあり方であります。私は、河川行政のあり方について、
新潟県の栃尾市の奥にあります守門山――一千五百メートルの山でありますが、そこに
集中豪雨がありまして、それがそこから流れております刈谷田川;この刈谷田川が、栃尾市を貫いて見附に入り、長岡を通じて南蒲原の栄村、中之島村を通って三条を通過して信濃川に入る非常に屈折の多いジグザグな急流であります。これが今回も非常に荒れました。いま私が指摘いたしました地方は、
新潟県の穀倉地帯、古志郡から長岡、南蒲原という
新潟県の中央部で、しかも穀倉地帯であります。ここを貫いて流れてまいります刈谷田川が今回も荒れました。この刈谷田川は、私の記憶にありまするだけでも、すでに数回
災害を継続しておるのであります。近い例で申し上げましても、大正十五年に栃尾市だけでも
死者が百三十余名を出した大
災害、
昭和十九年にやはりそれに次ぐ大
災害が起きておる。その間、さらに
昭和二十六年、七年とまた続いておる。三十六年になって、かのいわゆる三十六年災という大
災害がやはり刈谷田川を中心として起きておる。今回また大あばれにあばれたのであります。私はまず第一にお伺いしたいのは、こういうような年々
災害を伴う、あばれる川に対する、
建設省が今日まで
災害を予想された防災等に関する工事をやっていたかどうかということが第一であります。今回私が
現地へ行ってみますると、私は、南蒲原の中之島、栄村、さらに上流にさかのぼって見附、栃尾市、その守門の山腹まで登って
災害のつめあとを見たのでありまするが、この刈谷田川はほとんど近代的な川という感じでは全然ありません。もう荒れほうだいの荒れようであります。護岸
堤防すらまずないと言っても差しつかえないくらいです。川の中央には、二トン以上の大きな岩が上流から流れてきて、それが山のように詰まっておる。この大きな石が急流に押されて岸壁を打ち砕いて、その打ち砕かれた岸壁からあふれた水が人家を流し田畑を荒廃さす、こういうのが今日の刈谷田川の実態であります。
そこで第一に、栃尾市等の地域では、こういう荒れた川を治めるために、上流に、適当な場所に防災ダムや砂防等の
施設を施していただきたいといってしばしば嘆願しておったそうでありまするが、しかもそれがかなり年月をたっているのにかかわらず、今日までその
施設を見ない、ついに今回の大
災害をもたらした。そういうような荒れた川を今日まで放置しておられることはまことにふしぎだと思うのであります。なお、私は
地元の人々から聞きますると、上流に山腹砂防やあるいは防災堰堤をつくるように話したところが、あまり経済効果がないからそう急ぐ必要もないだろうという
お話で今日までそのままになっております、こういう話も承ったわけです。これでは
災害をもたらすのはやむを得ないではないか、こう考えられましたので、これらについての
建設省並びに上流砂防、山腹砂防等を担当されまする
農林省の考え方はどうなっておるかお伺いしたい、これが第一。
その次、私は特にこういう
災害をもたらす
原因になっておりまする各官庁のお互いのなわ張りがうまく調整されない点があるのではないかということを事実において発見してまいりましたので、その点について
建設省と
農林省並びに
自治大臣のお考えを伺っておきたいのでありますが、そのことは、刈谷田川がジグザグな流れを経てようやく中之島地内に入ってまいりますると、中之島に、その土地では五百刈という地点に大ぜきがあって、この大ぜきの運用が思うようにいかないところに今回の
災害が起きたのだ、こう言われておる。そこで私は大ぜきを見た。大ぜきは固定ぜきと自在ぜきを
一緒にした構造になっておる。その自在ぜきが、板一枚取りはずしたりはめたりすることによって、一枚の板で水かさが五十センチの上下がある。ところが、今回もその大ぜき――自在ぜきの板の取りはずしが満足にいかなかったらしい、取りおくれたらしい。こういうことが、今年度ばかりでなく、三十六年度も、十九年においても同じことが繰り返されている。その自在せきの、その大ぜきの上流約五百メーターのところが、今回
堤防が
決壊して、
堤防のわきに深さ七メーター以上の大きな池が――池になったのでありまするが、これは
自衛隊や
地元民が土のうを積んで水をようやく防いだ。三万俵の土のうを積んでそこでようやく水を防いだ。ところが、今回こわれたその
個所からさらに三百メーターぐらい上流が三十六年度に
決壊した。さらに、やはりこれも、その三十六年度
決壊したところからまだ少々上流の地点で、十九年度にまた
決壊しておったんであります。で私は、こういうような同じような
災害が繰り返されておることが、ここにあの急流をせく大ぜきの結果ではないか、こういうふうに見たのであります。この点について、
建設省、その大ぜきの所管でありまする
農林省、さらに、幸い
自治大臣もおられまするので、こういう
災害を誘発したと考えられる
施設について今後どうしたらいいかということを、
自治大臣のお考えを承っておきたいと思うのであります。
もう一つ、さらにこの
個所から刈谷田川の下流に参りますると、今回
堤防が大きく
決壊いたしました猫興野という地点があります。これは右岸の
堤防がこわれた。ここはどういう状態でこわれたかというと、このこわれた
個所のさらに百メーターばかり下流に、いま棒ぐいを打った橋脚による仮橋がある。その上流の湾曲部がこわれておる。これは、この湾曲の部分にまず上流から強い勢いで激渡が突進してきた。その湾曲部に激突して、大きな反射で対岸にぶつかっている。その対岸にぶつかる前に、湾曲の部分にかなり広い土砂の堆積された州ができておる。その州にぶつかってなお激した水が、対岸にぶつかって対津
堤防を破壊した、こういうふうに見られるのであります。そこで私は、さきに申し上げましたような大きな石を運んでまいりまするあの洪水で、川の中央部にそういう石が山のように積もって、
堤防よりも、護岸地点よりもさらに高くなっている。それから、さらにその次の猫興野のごとき、土砂の堆積が途中にあって、そこにはカヤやヨシ等が繁茂して、永久的な河中に新しい土地ができている。こういうようなことが河川はんらんの大きな
原因になったのではないか。そういうならば、河川行政としての河川の処理、整備というようなものについてどういうふうに考えられて、将来こういう荒れた川を治めるためにはどういうふうな今後
対策をお持ちになっているかをお伺いしたい。まずそこからひとつお伺いしておきたい。