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川合政府委員 新潟地震の
状況並びに私
どもの
消防のとりました
措置につきまして、御
報告申し上げます。
タイプで印刷いたしました
資料を提出いたしました。その末尾に三県、
新潟、
山形、
秋田等の各県の
被害の一覧を添付いたしました。初めのほうに
昭和石油の
火災につきましてしたためました。この
報告書を出しました
資料の補足並びに要点を申し上げます。
二ページ目の第二パラグラフのところに書きましたように、当日の午後四時に
新潟県高田市の県の支庁からの
連絡によりまして、
新潟市の
被害の
状況を私
どもは知りました。その晩、
災害防御の担当をいたしております
課長を、大臣と御一緒に
当地におもむかせましたし、また私
どもの
消防庁長官は、その翌朝の六時に、これは
臨時災害対策本部の
現地本部長としてでございますが、おもむきました。その他この
火災の
特殊性からいたしまして、
技官二名を
派遣いたしましたし、また翌日の払暁には、私
どもの
技官が
自衛隊のヘリコプターに乗りまして
状況を見る等の
措置を行ないました。
以下、その
状況につきまして申し上げますが、御承知のように今回の
昭和石油の
タンク火災につきましては、率直に
反省いたしまして
初期消火に失敗をいたしました。
昭和石油の火がつきましたときに、
会社は
化学車を持っておりましたが、
応急の
措置ができませんでした。また当
新潟市の
消防署には
化学車がございませんでした。簡易なる
あわ薬剤を出す、いわば
簡易化学車とも言うべきものは持っておりましたが、本式の意味の
化学車は一台もございませんでした。さようなこともありまして、
初期消火に失敗したと率直に
反省せざるを得ない
状況でございます。ことに燃え出しましてから非常に
火勢が強まりましたので、
薬剤を
緊急輸送しなければならない
状況になりまして、
東京からその晩トラックで
警察のパトカーの先導の
協力を得まして急遽送りましたのをはじめ、翌日の払暁から
自衛隊の
輸送機並びに一
部分米軍の飛行機によりまして、この三ページ目に書きましたように合計十一万リットルの
あわ薬剤、それから
粉末薬剤、
ノズル等を
緊急輸送いたしたわけでございます。この
薬剤が到着いたしましたのが翌十七日の朝でありまして、大体二十時間くらいたっておったわけでございます。
そこでこの
薬剤によりまして
現地消防機関が
消火を試みましたが、これもまた率直に申しますと、
薬剤は届きましたが、
化学軍がございませんものですから普通の
ポンプ車の先を、送りました
ノズルにはめかえまして、これでやったわけでありますが、時間も二十時間たって非常に
火勢が強いものでございますから、この
方式ではだめでございます。
報告によりますと、
あわ薬剤をかけましても、
あわ薬剤か吹っ飛んでしまったような
状況でございます。普通の
ガソリンタンク等の場合には、
化学車を使いませんでも、普通の
ポンプ車に
ノズルをさしかえました操作できるわけでありますが、今回の場合はさような
状況でございました。
前後いたしますが、その十七日の朝
東京消防庁の
化学車五台を
当地へおもむくよう要請いたしまして、
東京消防庁の
化学車並びに近県の富山県高岡市の
化学車が
現地に到着いたしましたのは翌々日の朝になりますので、大体四十時間くらいたっておったわけであります。
化学軍がつきまして、先ほど申しましたように
薬剤はさきに届いておりましたので、
東京消防庁の
化学車が
先頭に立ちまして
——これは水を使いませんと、やはり
薬剤だけではだめでありますので、
現地消防機関の
ポンプ車を並べまして
中継送水をいたしまして、
東京消防庁の
化学車が一番
先頭でこれをやったわけであります。それ以後は大体
消火をいたすことができたわけであります。
この
状況につきまして簡単に申しますと、大体高さが一番高いところで三尺くらいというようなことでありますが、それくらいの
あわの壁をつくってそれを押していくという作業を一日半、この
化学車が
フル運転したという
報告を受けております。
タンクの上から出ております火についてはもはやどうすることもできませんので、隣の
タンクに移るのを防ぐわけでありますが、お察しのように
タンク自身が焼けただれておりますので油が漏れてきて、その上に火が乗って隣の
タンクに移っていくわけでありますので、その空間、大体各
タンク間千数メトールあるわけでありますが、その間に
あわ消火剤の壁をつくって、一日半くらい
フル運転で火の
勢いをとめたわけであります。ちょっとゆるめますと、火の
勢いが強くて
あわの壁を押してきてしまう、押しっこみたいなことを一日半やりました。でありますから燃えております
タンクについては、燃え切ってしまうのを待つという
状況であったと言わざるを得ないのでございますが、流れ出て隣の
タンクに移るのを防ぐのに、ただいま申しましたような
状況を続けまして、自後は大体これを押え切ることができました。
四ページ目のおしまいに書きましたように
昭和石油の場合は八十基の
タンク——これは数え方がいろいろございますが、私
どものほうが
会社と確認し合った
計算方法で八十基という数字が正確というふうに思っております。この八十基のうち五十九基を焼きまして、二十一基だけをただいま申しましたことで防ぎとめておりますが、何
ぶんにも五十九基というものを焼き切っております。
亜細亜石油の場合は七基のうち四基を焼き切りまして、三基だけを食いとめております。この
消化剤の
緊急輸送のところで、三ページ目の六月十七日のところにありますように、
米軍が一万リットルの
あわ消火剤を送っております。それは一部には
米軍が上から直接
消火のために
消火剤を落としたがごとく言われておりましたが、これは間違いといいますか、不正確な表現でござまして、
米軍も、私
ども自衛隊機で送りましたのと同じ
緊急輸送をしたのでございます。したがいまして、直接火の上へこの
薬剤を落としたのではございませんで、現場の近くにパラシュートでこれをおろすということで、私
どものほうでやりましたのと全く同じ
方式でございます。そしてこの一万リットルは
米軍手持ちのものを送ってくれたわけでございますが、その
薬剤の質も日本のものと同じものでございます。
以上が
石油の
タンクに対します
状況でございますけれ
ども、申しわけないことには、その間におきまして、
民家——これはもう工場にほとんど入り組んだような
民家のところでございますので、防ぎ切れませんで三百二棟の
民家を焼いたわけでこざます。その間また四
エチール鉛あるいは
水素ボンベ等の非常に危険なるものにつきましては、これを十分重点的に守りますと同町に、また
自衛隊等の
協力で四
エチル鉛はこれを他に運んで、そして危険を防いだ
状況でございます。
以上が御
報告でございますが、今回の
火災にあたりまして、率直に現段階のわれわれの
化学消防につきまして
反省をいたしておりますし、ことに
民家を焼きましたことにつきまして申しわけないと思っております。お尋ねもあろうかと思いますが、私
どもの
科学消防の
反省のおもなる第一点は、かような
石油コンビナートとも言われるような高度の
石油化学工業の所在する
地域の
消防機関に
化学車のなかったということでございます。
東京から行きましてようやっと本式なものになった、かようなことでございます。
余談になりまして恐縮でございますが、
東京から行きました隊長は、戦争中パレンバンの油田を守った男でございまして、相当な経験を持ったえり抜きの男でございましたが、その技術もさることながら、
化学車がもしあったならということを
反省せざるを得ないのでございます。また現在の
危険物の
予防法規につきまして、
防油堤の高さ、あるいは
保有空地の問題等々、現在の法規的な面につきましてもこれが立ちおくれておったのではないかという
反省をいたしております。これら等々を思いまして、今後の
科学消防の充実について十分な決意と
反省をしなければならない、かように考えておる次第でございます。