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1963-10-15 第44回国会 衆議院 本会議 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十八年十月十五日(火曜日)     —————————————  議事日程 第一号   昭和三十八年十月十五日    午前十時開議  第一 議席指定  第二 会期の件  第三 外務委員長選挙     ————————————— ○本日の会議に付した案件  日程第一 議席指定  日程第二 会期の件  日程第三 外務委員長選挙  永年在職議員杉山元治郎君及び、松永東君に   対し、院議をもって功労表彰することとし、   表彰文議長に一任するの件(議長発議)  八田貞義君の故議員鈴木義男君に対する追悼演   説成田知巳君の故議員藤本捨助君に対する追   悼演説西村力弥君の故議員牧野寛索君に対す   る追悼演説原子力委員会委員任命につき事後   の承認を求めるの件  公正取引委員会委員任命につき事後承認を求   めるの件  中央更生保護審査会委員在命につき事後承認   を求めるの件  公安審査委員会委員長及び同委員会委員任命に   つき事後承認を求めるの件  運輸審議会委員任命につき事後承認を求める   の件  日本放送協会経営委員会委員任命につき事後の   同意を求めるの件  労働保険審査会委員任命につき事後承認を求   めるの件  地方財政審議会委員任命につき事後同意を求   めるの件    午後二時八分開議
  2. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 諸君、第四十四回国会は本日をもって召集せられました。  これより会議を開きます。      ————◇—————  日程第一 議席指定
  3. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 衆議院規則第十四条によりまして、諸君議席は、議長において、ただいま御着席のとおりに指定いたします。      ————◇—————  日程第二 会期の件
  4. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 日程第二、会期の件につきおはかりいたします。  今回の臨時会会期は、召集日から十一月十三日まで三十日間といたしたいと思います。これに御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり。〕
  5. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 御異議なしと認めます。よって、会期は三十日間とすることに決しました。      ————◇—————  日程第三 外務委員長選挙
  6. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 日程第三、外務委員長選挙を行ないます。
  7. 天野公義

    天野公義君 外務委員長選挙は、その手続を省略して、議長において指名されんことを望みます。
  8. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 天野公義君の動議に御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり。]
  9. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 御異議なしと認めます。よって、動議のごとく決しました。  議長は、外務委員長赤澤正道君を指名いたします。(拍手)      ————◇—————  永年在職議員杉山元治郎君及び松永東君に対し、院議をもつて功労を義彰することとし、表彰文議長に一任するの件(議長発議
  10. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) おはかりいたします。  本院議員として在職二十五年に達せられました杉山元治郎君及び松永東君に対し、先例により、院議をもってその功労表彰いたしたいと存じます。右表彰文議長に一任せられたいと存じます。これに御異議ありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  11. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。  ここに議長の手元において起草いたしました文案があります。これを朗読いたします。  議員杉山元治郎君は衆議院議員当選すること九回在職二十五年に及び常に憲政のために尽くし民意伸張に努められたよつて衆議院は君が永年の功労を多とし特に院議をもつてこれを表彰する    [拍手]     …………………………………  議員松永東君は衆議院議員当選すること九回在職二十五年に及び常に憲政のために尽くし民意伸張に努められたよつて衆議院は君が永年の功労を多とし特に院議をもつてこれを表彰する    〔拍手]  この贈呈方は、それぞれ議長において取り計らいいたします。  この際、杉山元治郎君及び松永東君より発言を求められております。順次これを許します。杉山元治郎君。    〔杉山元治郎登壇
  12. 杉山元治郎

    杉山元治郎君 ごあいさつを申し上げます。  私が、本院議員になりましてから満二十五年にたりますので、院議をもって御丁重な表彰の御決議をいただきますことは、まことに身に余る光栄であむます。私が政治に志し、永年動続させていただいたことは望外のことであり、先輩及び議員各位の御支援によるたまものでありまして、厚く御礼を申し上げます。(拍手)  ひるがえって考えてみますと、私は、初め気の毒な当時の農民諸君のありさまを見て、日本農民組合を創立いたしましたところ、立ち毛差し押え、土地立ち入り禁止等政治的解決せねばならぬ事件が多いので、農民組合が各労働組合に働きかけ、単一無産政党結成することにな。、私は、第一回の中央委員長に推されたのであります。かくして、普通選挙が始まえいますとともに、立候補せざるを得なくなり、農村地帯から立ちましたが、第一回、第二回は落選、第三回の昭和七年の総選挙から当選、本院の議席を得ましたわけであります。  不肖私は、微力にして選挙民各位期待にこたえることはできなかったが、私として最善を尽くしてまいりましたので、選挙民皆さまが今日まで支持してくださったものと存じます。したがって、今日の表彰ば、私のみたらず選挙民皆さまに対してであると感謝しておる次第でございます。(拍手)  幸いにして、国民主権に基づく新憲法が誕生し、議会政治もまた面目を一新いたしました。この二十五年の間、議会人として及ばずながら力を尽くしてまいりましたが、誇るに足る功績もなく、本日この栄誉を受け、いよいよ責任の重かつ大なるを思う次第であります。  私は、この際、さらに新たなる決意をもって民主議会政治発達国民生活め向上のために一段の努力をいたす覚悟でございます。  何とぞ、諸君の相変わらぬ御指導と御鞭撻を賜わりまするよう、切にお願い申し上げまして、ごあいさつにかえる次第であります。(拍手
  13. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 松永東君。    〔松永東登壇
  14. 松永東

    松永東君 ただいま、私が満二十五年本院議員在職したゆえをもちまして、院議をもって御丁重なる表彰決議をいただきました。まことに感激の至りでありまして、つつしん御礼を申し上げます。  私が初めて本院に議席を得ましたのは、昭和七年の第十八回総選挙においてでありました。当時、わが国議会政治は非常の難局に直面し、政党人議会主義伝統を守るために必死の努力を傾けておったのであります。私もまた、先輩同僚に伍して、及ばずながら力をいたしましたが、いわゆる五・一五事件、二・二六事件等突発し、続いて、日支事変起こり、太平洋戦争に発展し、民族不幸のどん底におちいったのであります。  このころ、政党政治の退潮に続くわが国運の不幸な成り行きを未然に防止することができなかったのは、まことに遺憾のきわみでありました。今日、国民諸君が自由と平和の生活を享受し、われわれ国会に席を置く者が、ひとしく議会政治伝統の上に立って、民主政治発展のため、いかようにも努力を注ぐことのできるときにめぐりあい、感慨ひとしおなるものがあります。(拍手)  顧みれば、総選挙戦たびごとに、実力なき私は、いつも悪戦苦闘の連続でございました。昔の人の歌った「年ふりて渡りし橋を見返れば、さても危うく渡りけるかな、この一句に尽きるのであります。(拍手)  しかもこの間微力にして公人として何らなすところもなかった私がここに表彰を受けましたことは、まことに身に余る光栄でありまして、これひとえに諸先輩並びに同僚諸賢め御懇篤たる御指導たまものにほかなりません。重ねて厚く御礼を申し上げる次第であります。(拍手)  この上は一そう決意を新たにし、われわれ国会議員に寄せる国民期待に十分にこたえられるよう、議会政治の健全な発達のために全力を尽くして励む所存でございます。諸君の御鞭撻のほどを切にお願いいたします。  まことにありがとうございました。(拍手
  15. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 御報告いたすことがあります。  元本院議長田子一民君は、去る八月十五日逝去せられました。  議員鈴木義男君は、去る八月二十五日逝去せられました。  議員藤本捨助君は、去る九月十一日逝去せられました。  さらに、議員牧野寛索君は、去る九月二十二日逝去せられました。  まことに哀悼痛惜至りにたえません。  四君に対する弔詞は、それぞれ先例によりまして、議長において贈呈いたしました。いまこれを朗読いたします。    〔総員起立〕    田子一民君に対する弔詞  衆議院は多年憲政のため尽力しかって本院議長要職につきまたさき国務大臣重任にあたられた正三位勲一等田子一民君の長逝哀悼しつつしん弔詞をささげます     …………………………………   鈴木義男君に対する弔詞  衆議院は多年憲政のため尽力し再度国務大臣重任にあたられた議員正三位勲一等鈴木義男君の長逝哀悼しつつしん弔詞さきげます     …………………………………   藤本捨助君に対する弔詞  衆議院は多年憲政のため尽力された元社会労働委員長議員正四位勲二等  藤本捨助君長逝哀悼しつつしん弔詞をさざげます     …………………………………   牧野寛索君に対する弔詞  衆議院は多年憲政のため尽力された元両院法規委員長議員従四位勲二等牧野寛索君の長逝哀悼しつつしん弔詞をささげます  八田貞義君の故議員鈴木義男君に対する追悼演説  成田知巳君の故議員藤本捨助君に対する追悼演説  西村力弥君の故議員牧野寛索君に対する追悼演説
  16. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) この際、鈴木義男君、藤本捨助君及び牧野寛索君に対し弔意を表するため、八田貞義君、成田知巳君及び西村力弥君からそれぞれ発言を求められております。順次これを許します。八田貞義君。    〔八田貞義登壇
  17. 八田貞義

    八田貞義君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員鈴木義男君は、去る八月二十五日朝、東京築地聖路加病院において逝去せられました。鈴木君のすぐれた人格識見に日ごろ深い敬意を払っておりました私は、君の訃報に接して限りない悲しみに打たれたのであります。  ここに私は、諸君お許しを得て、議員一同を代表し、つつしん哀悼ことばを申し述べたいと存じます。  鈴木君は、明治二十七年福島県白河市に生まれました。つとに独立の精神に富み、かつ向学心に燃える君は、中学時代からみずからの勤労によって学資をつくりながら、不屈の闘魂をもって刻苦勉励を続け、大正八年には東京帝国大学法学部を御卒業になりました。次いで同学部の助手として大学にとどまり、憲法行政法等公法研究を続けられたのであります。  鈴木君は、単に一学究に甘んずるをいさぎよしとせず、いち早く社会運動に注目し、自己研究に精進しつつも、友愛会労働学校の講師として労働者教育に従事し、また、革新陣営人々の応援に奔走するなど、若い日の君の活動は実に目ざましいものがありました。このころの鈴木君は、生活の資を得るにも非常な苦しみをなめられたとのことでありまするが、その苦難の中にあって、きびしく自己を律しつつ学問に精励し、また、実践に驚くべき力を発揮されたのでありまして、この間に君が生涯の進路は確固として定まり、後年活躍の素地がつちかわれたものと信じます。  大正十年から三年の周、文部省在外研究員として欧米各国に留学してさらに研さんを積まれ、認識を広められました。帰朝後は、直ちに東北帝国大学教授に迎えられ、新進気鋭進歩的学者として学界の注目のちちに後進学徒指導に当たられましたが、昭和六年には、学識を実務に生かすべく、弁護士を開業されました。  弁護士となってからの君は、社会法曹団結成して大衆の利益擁護につとめ、また、社会労働運動に携わっていた先輩同志の弁護に当たり、荘重にして理路整然たる弁論は、しばしば法廷を粛然たらしめ、聞く者に深い感銘を与えたのであります。  昭和二十年十一月、新しい日本建設に際し、君は深く決するところあって政界に入り、日本社会党結成に参画、その準備委員となり、次いで中央執行委員に選任されました。  昭和二十一年四月の衆議院議員選挙には、衆望を負うて当時全県一区の福島県から出馬して、みごと高点をもって当選せられました。自来、本院議員当選すること七回、十四年十カ月の長きにわたって在職されました。  本院議員としての君は、まず、帝国憲法改正案委員会理事として日夜精励、年来のうんちくを傾けて新憲法の制定に大きな役割りを果たされたのであります。(拍手)  昭和二十二年六月、片山内閣司法大臣就任、次いで法務総裁となり。引き続き芦田内閣にもその任に当たり。当時の複雑な情勢のもとにあって、新憲法に基づくあらゆる法令の整備、ことに司法行政の確立につとめ、国民生活と権利を守るために、基本的人権擁護一大眼目とする警察、検察、裁判制度の基礎を固めることに全力を注がれたのでありまして、その功績はまことに顧著と申すべきであります。(拍手)  また、本院議員在職中に活躍された分野はきわめて広く、内閣委員会理事をはじめ幾多の委員会委員を歴任して国政審議につとめ、その幅の広い学識経験とは常に重きをなしておりました。  鈴木君は、昭和三十四年十月新党の結成に参加し、昭和三十五年一月民主社会党の成立するや、統制委員長就任、次いで国会議員団長要職を経て顧問となり、党の中心人物として敬慕の的でありました。  また、君は多忙な時間をさいて東北学院大学理事長専修大学学長、同理事長等を歴任して、私学の振興に大きな足跡を残されました。  学者としては、日ごろ研究の成果である多数の著書のほか、百数十編に及ぶ学術論文を公にし、昭和二十九年には法学博士の学位を受けておられます。  思うに、鈴木君は、幼いときから体得された宗教的信条に根ざしたきびしい自己規律精神正義感をもって、みずからの信ずるただ一筋の大道をまっすぐ歩み、障害に遭遇することに、たぐいまれな努力によってこれを克服し、すぐれた資質をいよいよ練摩するとともに、みずからの得たものを惜しみなく人に施して、常に心の安らぎを得た方であります。君は謹厳にして重厚、まれに見る人格者であり、君に接する者の尊敬と信頼を一身に集めておられました。  残念にも、今春より健康を害し、六月初旬ついに入院のやむなきに至ったのでありました。その後一時小康を伝えられましたので、私どももわずかに愁眉を開いたのでありましたが、去る八月末病勢あらたまり、御家族の手厚い看護もむなしくなったのでありました。  君は私たちを残して永遠にいってしまわれた。いま私の胸にあふれるこの悲しみ、これを断腸の思いというのであろうか。一樹の陰、一つの川の流れ、そです砂合ちも他生の縁といいますが、君と私とは、学界より政界入りした点、及び同県人のよしみもあってか、その親密の度合いは、党を越え思想を越えて深かった。そして絶えず交情をあたためてきたのもあります。私は、君の人格に深く服し、君のごとき高潔の士を先輩として、また友として持つことを常に誇りとしてきたのであります。  ああ、運命の神は何という皮肉であろうか、私をして君の弔詞を、しかも、君が真心込めて国政を論じたこの議場において読もうとは。哀愁の情、一まつのさびしさは切片としてぬぐえども去らないのであります。  鈴木君は享年六十九、政治家として円熟の境地に達し、今後の御活躍が大いに期待されたのでありまするが、いま君を失いましたととは、返す返すも痛恨きわみであり、国家にとって一大損失と申さなげればなりません。  ことに、いささか鈴木君の事績をしのび、その人となりを追慕して追悼ことばといたします。(拍手
  18. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 成田知巳君。    〔成田知巳登壇
  19. 成田知巳

    成田知巳君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員藤本捨助君は、去る九月十一日、高松市の自宅において急逝されました。まことに哀惜の情にたえません。  私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、とこにつつしん哀悼ことばを申し述べたいと存じます。  藤本君は、明治二十七年十二月、香川県大川郡引田町に生まれられました。長じて、大正六年、君は、香川師範学校卒業し、小学校訓導として児童教育に当たられました。しかし、君は、向学の念やみがたく、翌年上京して東京高等師範学校に学ばれ、大正十一年卒業同校助教授として教鞭をとられました。しかるに、君は、なおも知識を求めてやまず、東北大学に進み、君にとって新しい分野である法律学修得ずべく、若い学生に伍して刻苦勉励されたのであります。昭和三年、学を終えるや、郷土高松高等商業学校に迎えられ、法律学を講じられました。自来、高等教育に専念しつつ、みずからもひたすらに研さんを重ねられ、昭和九年から満二カ年間にわた。欧米各国に留学し、学識を深められたのであります。  この間、日本民法総論等、多くの労作をあらわし、輝かしい業績を学界に残されたのでありまして、私は学生時代郷土先輩である君の著書に接し、君の該博な知識に打たれたことを今との壇上で思い起こすのであります。  昭和十二年、君は年来の抱負と高萬な識見とを政治に具現させるべく、第二十回衆議院議員選挙香川県第一区から出馬し、みごと当選せられたのであります。引き続き第二十一回総選挙にも当選の栄を得られました。  当時わが国内外情勢は複雑をきわめ、わが国議会政治にとってもきわめて苦難時代でございました。君がこのとき国家の安危を真剣に憂え、政党人として最善努力を払われたことは、いまなお郷土人々の脳裏に深く刻まれておるところであむます。  その後しぱらく雌伏を余儀なくされましたが、昭和三十年二月、第二十七回総選挙に際して決意を新たにして毎び出馬し、本院に復帰されました。自来、引き続き本院に議席を占め、前後を通じて当選五回、十七年六カ月の長きにわたって在職されたのであります。  この間、藤本君は、その該博な知識と豊富な経験を生かして各方面に活躍されましたが、特に、昭和三十二年には選ばれて社会労働委員長要職につき、懸案の諸問題と取り組み、委員会運営にその才幹をふるわれ、よく委員長の重責を果たされたのであります。  また、党においては自由民主党総務政調社会部長四国地方開発委員会委員長等を歴任し、政策の推進、党務の処理に縦横の活躍を示されたのであります。  君は、国民生活の安定、福祉国家建設こそ政治家の責務であるという信念のもとに、常に現実の把握につとめ、政策の立案に打ち込まれていためであります。ことに君は、君の一貫した人間愛から、社会保障制度発展全力を傾倒され、昨三十七年九月から約一カ月にわたり、欧米各国社会保障制度をつぶさに視察するなど、たゆまない研さんに基づいて、わが国社会保障制度の拡充に専念しておられたのであります。  藤本君は、温厚篤実、すぐれた資性と強靱な意思を持ったまれに見る努力家であるとともに、責任感きわめて強く、みずからの信ずる道を邁進するという人柄でありました。君はまた、寡黙の人で、事に処するにあたっては細心にして果断であり、人のためをはかっては誠実にして温情にあふれておりました。郷党から慈父のごとく敬慕されていたのは、けだし当然であったと存じます。  君は、国会の激務の中にあっても寸暇を見出しては常に東西の書籍をひもとき、新しい知識の吸収につとめられている君の姿に接し、われわれはひそかに敬服してやまなかったのであります。  藤本君は、よおい六十八歳を重ねて、ますます健康であり、高い識見と粘り強い実行力とを備え、わが国政界において重要な人材として私どもは君の今後に多大の期待を寄せていたのであります。しかるに、いま君の急逝にあい、この期待のむなしくなったことは、国家にとって大きな損失であり、まことに痛恨にたえない次第であります。  君の志は中道で終わりましたが、生前君が薫陶された御令息が君の遺志を継ぎ、政治家として立たれる決意をされたと聞き及んでおります。君がなさんとしてなし得なかった多くのことを必ずや御令息の手で成就されることを私は信じて疑いません。(拍手)  ことに、つつしん藤本君の生前をしのび、功績をたたえつつ、衷心御冥福を祈って追悼ことばといたします。(拍手
  20. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 西村力弥君。    〔西村力弥登壇
  21. 西村力弥

    西村力弥君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員牧野寛索君は、去る九月二十二日夜、山形市立病院済生館においてにわかに逝去せられました。まことにお痛ましい限りであります。  私は、ことに皆さまお許しを得て、議員一同を代表し、つつしん哀悼ことばを申し述べます。  牧野君は、明治三十五年一月、山形県西村山郡河北町の素封家人となり、郷里の農学校卒業後、その修得の知能を広めて未墾地の開拓に従事せられたのでありましたが、君が青雲の志はこの仕事にとどまることを許さず、ついに意を決し笈を負うて上京し、千葉県出身の元本院議員である吉植氏に身を寄せて、中央大学法律を学ばれました。  この間、文字どおり寝食を忘れ、苦学力行を続け、あらゆる困難を克服して、昭和五年、在学中に高等試験司法科に合格されたのであります。このことは君の頭脳の非凡さを物語るものであります。  越えて、翌六年、中央大学卒業東京において弁護士を開業、雄心ぼつぼつたる青年牧野君は、ここに洋々たる前途に向かって第一歩を踏み出されたのであります。  弁護士としての君は、おもに民事事件の解決に携わって、庶民の利益と幸福を守ることをもって喜びとされたのでありました。  やがて君は、国家国民発展と幸福を願う大志に立って政界進出をはかり、昭和十七年四月、本院議員に立候補し、戦後、昭和二十一年、日本自由党に入党し、同年四月の第二十二回衆議院議員選挙山形県から立候補し、よく本院に議席を占め、政治家第一歩を踏み出されたのでありました。その後今日まで本院議員当選されること前後四回、在職九年五カ月に及び、その間、昭知二十一年五月と、同二十三年十月の両度、第一次及び第二次吉田内閣の成立にあたり、首相秘書官に推され、戦後の多難な政局を担当する首相を助け、厚い信頼を受けられました。  さらに、二十四年には法務政務次官に選ばれて、新憲法下法務行政に参画し、大いなる役割りを果たされたのであります。  また、在職中、両院法規委員会委員長裁判官訴追委員会委員長要職を歴任し、あるいは法務委員会理事等、特に法律家にふさおしい地位において活躍されましたが、本院議員として、ひとり法務のワク内にとどまらず、広く国政の全般にわたって知識を深め、識見を養い、自由民主党の得がたい人材として、いよいよ大成を刮目されておられたのであります。  昨年十月には、本院より派遣されて、清瀬議長とともに、南米諸国との親善を兼ね政治経済事情を視察し、かつ、プラジリアにおける列国議会同盟会議に出席して帰られたのであります。  一年前には元気に満ちて海外旅行に出られた牧野君でありましたが、いまはもう君のお姿はどこにもない、私どもはただただことばに尽くせないさびしさを感ずるのであります。  思うに、生前の牧野君は、いつも明るい温容をもってわれわれに接しられ、君が党派を異にする人とはとうてい考えられなかったのであります。一見して芒洋たる風貌と、温和で邪心めない人となりは、君独特の魅力であり、弁護士とか代議士とかいういかつい肩書きのふきわしくない、庶民的な親しみを感じさせるのでありました。外柔内剛とは、まさに君のことでありました。(拍手)  また、後進のために、君はよくこれを導き、よくこれを助け、どのような問題の相談を受けても必ずこれを解決して人を感動させたという、まことに温情あふるる人でありました。君に恩顧を受けた人々は、君の死を知り、声をあげて慟哭したといわれますが、牧野君のお人柄から推して、まことに当然のことと存ずるのであります。(拍手)  人徳と申しましょうか、郷里では、名や肩書きよりも、牧野君その人に対して限りむい親愛と信頼を寄せておったのでありまするが、一面、君が郷土に対して注いだ愛情は、郷土発展の数数の業績とたって残り、郷土民ひとしく心から感謝しているところであります。  牧野君は、日ごろきわめて健康体でありましたが、不幸にして今春病魔におかされ、手術を受けられたのでありますが、その後の経過よく、静養後再び健康を回復して、郷里山形県において活躍中、はからずも病気再発して、山形市立病院済生館に入院御療養中、秋風の立ち始める去る九月、本議会の開会も待たず、ついに不帰の客となられたのであります。  思うに、君のからだはもっともっと静養を必要としておったにかかわらず、急迫している政局は、君に無理をしいたのではなかろうかと、議員生活のきびしさを思うとき、同情の念を禁じ得ないのであります。(拍手)  君は、若くして志を立てて刻苦精励、政界進出後は幾たびか苦汁をなめながらも屈することたく、いささかも老成した感じのない、いつまでも若力しい方で、今後の御活躍期待されておったのであります。遠大な抱負と希望を抱きながら中道にして倒れた君の心中察するに余りあります。解散、総選挙を目前にして、不帰の旅路につく無念さは、本議場の議員すべてが理解できることであると思うのであります。  国家多事のとき、前途ある牧野君を失いましたことは、本院にとり、国家にとってまことに一大損失でありまして、心から痛惜の情を禁じ得ません。  ここに、つつしんで君が生前の事績をたたえ、その遺徳をしのび、もって追悼ことばといたします。(拍手)      ————◇—————  原子力委員会委員任命につき事後承認を求めるの件  公正取引委員会委員任命につき事後承認を求めるの件  中央更生保護審査会委員任命につき事後承認を求めるの件  公安審査委員会委員長及び同委員会委員任命につき事後承認を求めるの件  運輸審議会委員任命につき事後承認を求めるの件  日本放送協会経営委員会委員任命につき事後同意を求めるの件  労働保険審査会委員任命につき事後承認を求めるの件  地方財政審議会委員任命につき事後同意を求めるの件
  22. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) おはかりいたすことがあります。  内閣から、原子力委員会委員に有沢広巳君及び駒形作次君を、公正取引委員会委員に菊池淳一君を、中央更生保護審査会委員に大塚今比古君及び松岡武四郎君を、公安審査委員会委員長に正木亮君を、同委員会委員に大山菊治君を、運輸審議委員に谷村唯一郎君を、日本放送協会経営委員会委員に今井道雄君、靱勉君、七里義雄君及び松田恒次君を、労働保険審査会委員に加藤光徳君及び四方陽之助君を、地方財政審議委員に武岡憲一君を任命したので、それぞれその事後承認または同意を得たいとの申し出があります。  右各件はいずれもその申し出のとおり決するに御異議ありませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  23. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 御異議なしと認めます。よって、そのとおり決しました。      ————◇—————
  24. 清瀬一郎

    議長清瀬一郎君) 本日は、これをもって散会いたします。    午後二時五十二分散会      ————◇—————  出席政府委員         内閣官房長官  黒金 泰美君