運営者
Bitlet
姉妹サービス
kokalog - 国会
yonalog - 47都道府県議会
nisalog - 東京23区議会
serelog - 政令指定都市議会
hokkaidolog - 北海道内市区町村議会
aomorilog - 青森県内市区町村議会
iwatelog - 岩手県内市区町村議会
miyagilog - 宮城県内市区町村議会
akitalog - 秋田県内市区町村議会
yamagatalog - 山形県内市区町村議会
fukushimalog - 福島県内市区町村議会
ibarakilog - 茨城県内市区町村議会
tochigilog - 栃木県内市区町村議会
gunmalog - 群馬県内市区町村議会
saitamalog - 埼玉県内市区町村議会
chibalog - 千葉県内市区町村議会
tokyolog - 東京都内市区町村議会
kanagawalog - 神奈川県内市区町村議会
nigatalog - 新潟県内市区町村議会
toyamalog - 富山県内市区町村議会
ishikawalog - 石川県内市区町村議会
fukuilog - 福井県内市区町村議会
yamanashilog - 山梨県内市区町村議会
naganolog - 長野県内市区町村議会
gifulog - 岐阜県内市区町村議会
sizuokalog - 静岡県内市区町村議会
aichilog - 愛知県内市区町村議会
mielog - 三重県内市区町村議会
shigalog - 滋賀県内市区町村議会
kyotolog - 京都府内市区町村議会
osakalog - 大阪府内市区町村議会
hyogolog - 兵庫県内市区町村議会
naralog - 奈良県内市区町村議会
wakayamalog - 和歌山県内市区町村議会
tottorilog - 鳥取県内市区町村議会
shimanelog - 島根県内市区町村議会
okayamalog - 岡山県内市区町村議会
hiroshimalog - 広島県内市区町村議会
yamaguchilog - 山口県内市区町村議会
tokushimalog - 徳島県内市区町村議会
kagawalog - 香川県内市区町村議会
ehimelog - 愛媛県内市区町村議会
kochilog - 高知県内市区町村議会
fukuokalog - 福岡県内市区町村議会
sagalog - 佐賀県内市区町村議会
nagasakilog - 長崎県内市区町村議会
kumamotolog - 熊本県内市区町村議会
oitalog - 大分県内市区町村議会
miyazakilog - 宮崎県内市区町村議会
kagoshimalog - 鹿児島県内市区町村議会
okinawalog - 沖縄県内市区町村議会
使い方
FAQ
このサイトについて
|
login
×
kokalog - 国会議事録検索
1963-10-15 第44回国会 衆議院 本会議 第1号
公式Web版
会議録情報
0
昭和
三十八年十月十五日(火曜日)
—————————————
議事日程
第一号
昭和
三十八年十月十五日 午前十時
開議
第一
議席
の
指定
第二
会期
の件 第三
外務委員長
の
選挙
—————————————
○本日の
会議
に付した案件
日程
第一
議席
の
指定
日程
第二
会期
の件
日程
第三
外務委員長
の
選挙
永年
在職
の
議員杉山元治郎
君及び、
松永東
君に 対し、
院議
をもって
功労
を
表彰
することとし、
表彰文
は
議長
に一任するの件(
議長発議
)
八田貞義
君の故
議員鈴木義男
君に対する
追悼演
説成田知巳
君の故
議員藤本捨助君
に対する追
悼演説西村力弥
君の故
議員牧野寛索
君に対す る
追悼演説原子力委員会委員任命
につき
事後
の
承認
を求めるの件
公正取引委員会委員任命
につき
事後
の
承認
を求 めるの件
中央更生保護審査会委員
在命につき
事後
の
承認
を求めるの件
公安審査委員会委員長
及び同
委員会委員任命
に つき
事後
の
承認
を求めるの件
運輸審議会委員任命
につき
事後
の
承認
を求める の件
日本放送協会経営委員会委員任命
につき
事後
の
同意
を求めるの件
労働保険審査会委員任命
につき
事後
の
承認
を求 めるの件
地方財政審議会委員任命
につき
事後
の
同意
を求 めるの件 午後二時八分
開議
清瀬一郎
1
○
議長
(
清瀬一郎
君)
諸君
、第四十四回
国会
は本日をもって召集せられました。 これより
会議
を開きます。
————◇—————
日程
第一
議席
の
指定
清瀬一郎
2
○
議長
(
清瀬一郎
君)
衆議院規則
第十四条によりまして、
諸君
の
議席
は、
議長
において、ただいま御着席のとおりに
指定
いたします。
————◇—————
日程
第二
会期
の件
清瀬一郎
3
○
議長
(
清瀬一郎
君)
日程
第二、
会期
の件につきおはかりいたします。 今回の
臨時会
の
会期
は、
召集日
から十一月十三日まで三十日間といたしたいと思います。これに御
異議
ありませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり。〕
清瀬一郎
4
○
議長
(
清瀬一郎
君) 御
異議
なしと認めます。よって、
会期
は三十日間とすることに決しました。
————◇—————
日程
第三
外務委員長
の
選挙
清瀬一郎
5
○
議長
(
清瀬一郎
君)
日程
第三、
外務委員長
の
選挙
を行ないます。
天野公義
6
○
天野公義
君
外務委員長
の
選挙
は、その手続を省略して、
議長
において指名されんことを望みます。
清瀬一郎
7
○
議長
(
清瀬一郎
君)
天野公義
君の
動議
に御
異議
ありませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり。]
清瀬一郎
8
○
議長
(
清瀬一郎
君) 御
異議
なしと認めます。よって、
動議
のごとく決しました。
議長
は、
外務委員長
に
赤澤正道
君を指名いたします。(
拍手
)
————◇—————
永年
在職
の
議員杉山元治郎
君及び
松永東
君に対し、
院議
をもつて
功労
を義彰することとし、
表彰文
は
議長
に一任するの件(
議長発議
)
清瀬一郎
9
○
議長
(
清瀬一郎
君) おはかりいたします。 本
院議員
として
在職
二十五年に達せられました
杉山元治郎
君及び
松永東
君に対し、
先例
により、
院議
をもってその
功労
を
表彰
いたしたいと存じます。
右表彰文
は
議長
に一任せられたいと存じます。これに御
異議
ありませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
清瀬一郎
10
○
議長
(
清瀬一郎
君) 御
異議
なしと認めます。よって、さよう決しました。 ここに
議長
の手元において起草いたしました文案があります。これを朗読いたします。
議員杉山元治郎
君は
衆議院議員
に
当選
すること九回
在職
二十五年に及び常に
憲政
のために尽くし
民意
の
伸張
に努められたよ
つて衆議院
は君が永年の
功労
を多とし特に
院議
をもつてこれを
表彰
する [
拍手
] …………………………………
議員松永東
君は
衆議院議員
に
当選
すること九回
在職
二十五年に及び常に
憲政
のために尽くし
民意
の
伸張
に努められたよ
つて衆議院
は君が永年の
功労
を多とし特に
院議
をもつてこれを
表彰
する 〔
拍手
] この
贈呈方
は、それぞれ
議長
において取り計らいいたします。 この際、
杉山元治郎
君及び
松永東
君より
発言
を求められております。順次これを許します。
杉山元治郎
君。 〔
杉山元治郎
君
登壇
〕
杉山元治郎
11
○
杉山元治郎
君 ご
あいさつ
を申し上げます。 私が、本
院議員
になりましてから満二十五年にたりますので、
院議
をもって御丁重な
表彰
の御
決議
をいただきますことは、まことに身に余る光栄であむます。私が
政治
に志し、永年動続させていただいたことは望外のことであり、
先輩
及び
議員各位
の御支援による
たま
ものでありまして、厚く
御礼
を申し上げます。(
拍手
) ひるがえって考えてみますと、私は、初め気の毒な当時の
農民諸君
のありさまを見て、
日本農民組合
を創立いたしましたところ、立ち毛差し押え、
土地立ち入り禁止等
に
政治
的解決せねばならぬ
事件
が多いので、
農民組合
が各
労働組合
に働きかけ、
単一無産政党
を
結成
することにな。、私は、第一回の
中央委員長
に推されたのであります。かくして、
普通選挙
が始まえいますとともに、立候補せざるを得なくなり、
農村地帯
から立ちましたが、第一回、第二回は落選、第三回の
昭和
七年の総
選挙
から
当選
、本院の
議席
を得ましたわけであります。 不肖私は、
微力
にして
選挙民各位
の
期待
にこたえることはできなかったが、私として
最善
を尽くしてまいりましたので、
選挙民
の
皆さま
が今日まで支持してくださったものと存じます。したがって、今日の
表彰
ば、私のみたらず
選挙民皆さま
に対してであると感謝しておる次第でございます。(
拍手
) 幸いにして、
国民主権
に基づく新
憲法
が誕生し、
議会政治
もまた面目を一新いたしました。この二十五年の間、
議会人
として及ばずながら力を尽くしてまいりましたが、誇るに足る
功績
もなく、本日この栄誉を受け、いよいよ
責任
の重かつ大なるを思う次第であります。 私は、この際、さらに新たなる
決意
をもって
民主議会政治
の
発達
と
国民生活め向上
のために一段の
努力
をいたす覚悟でございます。 何とぞ、
諸君
の相変わらぬ御
指導
と御
鞭撻
を賜わりまするよう、切にお願い申し上げまして、ご
あいさつ
にかえる次第であります。(
拍手
)
清瀬一郎
12
○
議長
(
清瀬一郎
君)
松永東
君。 〔
松永東
君
登壇
〕
松永東
13
○
松永東
君 ただいま、私が満二十五年本
院議員
に
在職
したゆえをもちまして、
院議
をもって御丁重なる
表彰
の
決議
をいただきました。まことに感激の
至り
でありまして、つつ
しん
で
御礼
を申し上げます。 私が初めて本院に
議席
を得ましたのは、
昭和
七年の第十八回総
選挙
においてでありました。当時、
わが国
の
議会政治
は非常の難局に直面し、
政党人
は
議会主義
の
伝統
を守るために必死の
努力
を傾けておったのであります。私もまた、
先輩同僚
に伍して、及ばずながら力をいたしましたが、いわゆる五・一五
事件
、二・二六
事件
等突発し、続いて、日支事変起こり、太平洋戦争に
発展
し、民族不幸のどん底におちいったのであります。 このころ、
政党政治
の退潮に続く
わが国
運の不幸な成り行きを未然に防止することができなかったのは、まことに遺憾の
きわみ
でありました。今日、
国民諸君
が自由と平和の
生活
を享受し、われわれ
国会
に席を置く者が、ひとしく
議会政治
の
伝統
の上に立って、
民主政治
の
発展
のため、
いかよう
にも
努力
を注ぐことのできるときにめぐりあい、感慨ひとしおなるものがあります。(
拍手
) 顧みれば、総
選挙戦
の
たびごと
に、実力なき私は、いつも悪戦苦闘の連続でございました。昔の人の歌った「年ふりて渡りし橋を見返れば、さても危うく渡りけるかな、この一句に尽きるのであります。(
拍手
) しかもこの間
微力
にして公人として何らなすところもなかった私がここに
表彰
を受けましたことは、まことに身に余る光栄でありまして、これひとえに諸
先輩
並びに
同僚諸賢め
御懇篤たる御
指導
の
たま
ものにほかなりません。重ねて厚く
御礼
を申し上げる次第であります。(
拍手
) この上は一そう
決意
を新たにし、われわれ
国会議員
に寄せる
国民
の
期待
に十分にこたえられるよう、
議会政治
の健全な
発達
のために
全力
を尽くして励む所存でございます。
諸君
の御
鞭撻
のほどを切にお願いいたします。 まことにありがとうございました。(
拍手
)
清瀬一郎
14
○
議長
(
清瀬一郎
君) 御
報告
いたすことがあります。
元本院議長田子一民
君は、去る八月十五日逝去せられました。
議員鈴木義男
君は、去る八月二十五日逝去せられました。
議員藤本捨助君
は、去る九月十一日逝去せられました。 さらに、
議員牧野寛索
君は、去る九月二十二日逝去せられました。 まことに
哀悼痛惜
の
至り
にたえません。 四君に対する
弔詞
は、それぞれ
先例
によりまして、
議長
において贈呈いたしました。いまこれを朗読いたします。 〔
総員起立
〕
田子一民
君に対する
弔詞
衆議院
は多年
憲政
のため尽力しかって本
院議長
の
要職
につきまた
さき
に
国務大臣
の
重任
にあたられた正三位
勲一等田子一民
君の
長逝
を
哀悼
しつつ
しん
で
弔詞
をささげます …………………………………
鈴木義男
君に対する
弔詞
衆議院
は多年
憲政
のため尽力し再度
国務大臣
の
重任
にあたられた
議員
正三位
勲一等鈴木義男
君の
長逝
を
哀悼
しつつ
しん
で
弔詞
を
さきげ
ます …………………………………
藤本捨助君
に対する
弔詞
衆議院
は多年
憲政
のため尽力された元
社会労働委員長議員
正四位勲二等
藤本捨助君
の
長逝
を
哀悼
しつつ
しん
で
弔詞
をさざげます …………………………………
牧野寛索
君に対する
弔詞
衆議院
は多年
憲政
のため尽力された元
両院法規委員長議員従四位勲
二等
牧野寛索
君の
長逝
を
哀悼
しつつ
しん
で
弔詞
をささげます
八田貞義
君の故
議員鈴木義男
君に対する
追悼演説
成田知巳
君の故
議員藤本捨助君
に対する
追悼演説
西村力弥
君の故
議員牧野寛索
君に対する
追悼演説
清瀬一郎
15
○
議長
(
清瀬一郎
君) この際、
鈴木義男
君、
藤本捨助君
及び
牧野寛索
君に対し弔意を表するため、
八田貞義
君、
成田知巳
君及び
西村力弥
君からそれぞれ
発言
を求められております。順次これを許します。
八田貞義
君。 〔
八田貞義
君
登壇
〕
八田貞義
16
○
八田貞義
君 ただいま
議長
から御
報告
のありましたとおり、本
院議員鈴木義男
君は、去る八月二十五日朝、
東京築地
の
聖路加病院
において逝去せられました。
鈴木
君のすぐれた
人格
、
識見
に日ごろ深い敬意を払っておりました私は、君の訃報に接して限りない
悲しみ
に打たれたのであります。 ここに私は、
諸君
の
お許し
を得て、
議員一同
を代表し、つつ
しん
で
哀悼
の
ことば
を申し述べたいと存じます。
鈴木
君は、
明治
二十七年
福島
県白河市に生まれました。つとに独立の
精神
に富み、かつ向学心に燃える君は、
中学時代
からみずからの勤労によって学資をつくりながら、不屈の闘魂をもって
刻苦勉励
を続け、
大正
八年には
東京帝国大学法学部
を御
卒業
になりました。次いで同学部の助手として
大学
にとどまり、
憲法
、
行政法等公法
の
研究
を続けられたのであります。
鈴木
君は、単に一学究に甘んずるをいさぎよしとせず、いち早く
社会運動
に注目し、
自己
の
研究
に精進しつつも、
友愛会労働学校
の講師として
労働者
の
教育
に従事し、また、
革新陣営
の
人々
の応援に奔走するなど、若い日の君の活動は実に目ざましいものがありました。このころの
鈴木
君は、
生活
の資を得るにも非常な苦しみをなめられたとのことでありまするが、その
苦難
の中にあって、きびしく
自己
を律しつつ学問に精励し、また、実践に驚くべき力を発揮されたのでありまして、この間に君が生涯の進路は確固として定まり、後年
活躍
の素地がつちかわれたものと信じます。
大正
十年から三年の周、
文部省在外研究員
として
欧米各国
に留学してさらに
研さん
を積まれ、認識を広められました。帰朝後は、直ちに
東北帝国大学教授
に迎えられ、
新進気鋭
の
進歩的学者
として
学界
の注目のちちに
後進学徒
の
指導
に当たられましたが、
昭和
六年には、
学識
を実務に生かすべく、
弁護士
を開業されました。
弁護士
となってからの君は、
社会法曹団
を
結成
して大衆の
利益擁護
につとめ、また、
社会労働運動
に携わっていた
先輩同志
の弁護に当たり、荘重にして理路整然たる弁論は、しばしば法廷を粛然たらしめ、聞く者に深い感銘を与えたのであります。
昭和
二十年十一月、新しい
日本
の
建設
に際し、君は深く決するところあって
政界
に入り、
日本社会党
の
結成
に参画、その
準備委員
となり、次いで
中央執行委員
に選任されました。
昭和
二十一年四月の
衆議院議員
総
選挙
には、衆望を負うて当時全県一区の
福島
県から出馬して、
みごと高点
をもって
当選
せられました。自来、本
院議員
に
当選
すること七回、十四年十カ月の長きにわたって
在職
されました。 本
院議員
としての君は、まず、
帝国憲法改正案委員会理事
として日夜精励、年来のうんちくを傾けて新
憲法
の制定に大きな
役割り
を果たされたのであります。(
拍手
)
昭和
二十二年六月、
片山内閣
の
司法大臣
に
就任
、次いで
法務総裁
となり。引き続き
芦田内閣
にもその任に当たり。当時の複雑な
情勢
のもとにあって、新
憲法
に基づくあらゆる法令の整備、ことに
司法行政
の確立につとめ、
国民
の
生活
と権利を守るために、
基本的人権
の
擁護
を
一大眼目
とする警察、検察、
裁判制度
の基礎を固めることに
全力
を注がれたのでありまして、その
功績
はまことに顧著と申すべきであります。(
拍手
) また、本
院議員
に
在職
中に
活躍
された
分野
はきわめて広く、
内閣委員会理事
をはじめ幾多の
委員会
の
委員
を歴任して
国政
の
審議
につとめ、その幅の広い
学識
と
経験
とは常に重きをなしておりました。
鈴木
君は、
昭和
三十四年十月新党の
結成
に参加し、
昭和
三十五年一月
民主社会党
の成立するや、
統制委員長
に
就任
、次いで
国会議員団長
の
要職
を経て顧問となり、党の
中心人物
として敬慕の的でありました。 また、君は多忙な時間をさいて
東北学院大学理事長
、
専修大学学長
、同
理事長等
を歴任して、私学の振興に大きな足跡を残されました。
学者
としては、日ごろ
研究
の成果である多数の
著書
のほか、百数十編に及ぶ
学術論文
を公にし、
昭和
二十九年には
法学博士
の学位を受けておられます。 思うに、
鈴木
君は、幼いときから体得された
宗教的信条
に根ざしたきびしい
自己規律
の
精神
と
正義感
をもって、みずからの信ずる
ただ一筋
の大道をまっすぐ歩み、障害に遭遇することに、たぐいまれな
努力
によってこれを克服し、すぐれた資質をいよいよ練摩するとともに、みずからの得たものを惜しみなく人に施して、常に心の安らぎを得た方であります。君は謹厳にして重厚、まれに見る
人格者
であり、君に接する者の尊敬と
信頼
を一身に集めておられました。 残念にも、今春より健康を害し、六月初旬ついに入院のやむなきに至ったのでありました。その後一時小康を伝えられましたので、私
ども
もわずかに愁眉を開いたのでありましたが、去る八月末病勢あら
たま
り、御家族の手厚い看護もむなしくなったのでありました。 君は私たちを残して永遠にいってしまわれた。いま私の胸にあふれるこの
悲しみ
、これを断腸の思いというのであろうか。一樹の陰、一つの川の流れ、そです砂合ちも他生の縁といいますが、君と私とは、
学界
より
政界
入りした点、及び同県人のよしみもあってか、その親密の度合いは、党を越え思想を越えて深かった。そして絶えず交情をあたためてきたのもあります。私は、君の
人格
に深く服し、君のごとき高潔の士を
先輩
として、また友として持つことを常に誇りとしてきたのであります。 ああ、運命の神は何という皮肉であろうか、私をして君の
弔詞
を、しかも、君が真心込めて
国政
を論じたこの議場において読もうとは。哀愁の情、一まつのさびしさは切片としてぬぐえ
ども
去らないのであります。
鈴木
君は享年六十九、
政治家
として円熟の境地に達し、今後の御
活躍
が大いに
期待
されたのでありまするが、いま君を失いましたととは、返す返すも
痛恨
の
きわみ
であり、
国家
にとって
一大損失
と申さなげればなりません。 ことに、いささか
鈴木
君の事績をしのび、その
人となり
を追慕して
追悼
の
ことば
といたします。(
拍手
)
清瀬一郎
17
○
議長
(
清瀬一郎
君)
成田知巳
君。 〔
成田知巳
君
登壇
〕
成田知巳
18
○
成田知巳
君 ただいま
議長
から御
報告
のありましたとおり、本
院議員藤本捨助君
は、去る九月十一日、
高松
市の自宅において急逝されました。まことに哀惜の情にたえません。 私は、
諸君
の御
同意
を得て、
議員一同
を代表し、とこにつつ
しん
で
哀悼
の
ことば
を申し述べたいと存じます。
藤本
君は、
明治
二十七年十二月、
香川
県大川郡引田町に生まれられました。長じて、
大正
六年、君は、
香川師範学校
を
卒業
し、
小学校訓導
として
児童教育
に当たられました。しかし、君は、向学の念やみがたく、翌年上京して
東京高等師範学校
に学ばれ、
大正
十一年
卒業
、
同校助教授
として教鞭をとられました。しかるに、君は、なおも
知識
を求めてやまず、東北
大学
に進み、君にとって新しい
分野
である
法律学
を
修得
ずべく、若い
学生
に伍して
刻苦勉励
されたのであります。
昭和
三年、学を終えるや、
郷土
の
高松高等商業学校
に迎えられ、
法律学
を講じられました。自来、
高等教育
に専念しつつ、みずからもひたすらに
研さん
を重ねられ、
昭和
九年から満二カ年間にわた。
欧米各国
に留学し、
学識
を深められたのであります。 この間、
日本民法総論等
、多くの労作をあらわし、輝かしい業績を
学界
に残されたのでありまして、私は
学生時代
、
郷土
の
先輩
である君の
著書
に接し、君の該博な
知識
に打たれたことを今との壇上で思い起こすのであります。
昭和
十二年、君は年来の抱負と高萬な
識見
とを
政治
に具現させるべく、第二十回
衆議院議員
総
選挙
に
香川
県第一区から出馬し、みごと
当選
せられたのであります。引き続き第二十一回総
選挙
にも
当選
の栄を得られました。 当時
わが国
の
内外情勢
は複雑をきわめ、
わが国議会政治
にとってもきわめて
苦難
の
時代
でございました。君がこのとき
国家
の安危を真剣に憂え、
政党人
として
最善
の
努力
を払われたことは、いまなお
郷土
の
人々
の脳裏に深く刻まれておるところであむます。 その後し
ぱらく雌伏
を余儀なくされましたが、
昭和
三十年二月、第二十七回総
選挙
に際して
決意
を新たにして毎び出馬し、本院に復帰されました。自来、引き続き本院に
議席
を占め、前後を通じて
当選
五回、十七年六カ月の長きにわたって
在職
されたのであります。 この間、
藤本
君は、その該博な
知識
と豊富な
経験
を生かして各方面に
活躍
されましたが、特に、
昭和
三十二年には選ばれて
社会労働委員長
の
要職
につき、懸案の諸問題と取り組み、
委員会運営
にその才幹をふるわれ、よく
委員長
の重責を果たされたのであります。 また、党においては
自由民主党総務
、
政調社会部長
、
四国地方開発委員会
副
委員長等
を歴任し、
政策
の推進、党務の処理に縦横の
活躍
を示されたのであります。 君は、
国民生活
の安定、
福祉国家
の
建設
こそ
政治家
の責務であるという信念のもとに、常に現実の把握につとめ、
政策
の立案に打ち込まれていためであります。ことに君は、君の一貫した
人間愛
から、
社会保障制度
の
発展
に
全力
を傾倒され、昨三十七年九月から約一カ月にわたり、
欧米各国
の
社会保障制度
をつぶさに視察するなど、たゆまない
研さん
に基づいて、
わが国
の
社会保障制度
の拡充に専念しておられたのであります。
藤本
君は、
温厚篤実
、すぐれた資性と強靱な意思を持っ
たま
れに見る
努力家
であるとともに、
責任感
きわめて強く、みずからの信ずる道を邁進するという人柄でありました。君はまた、寡黙の人で、事に処するにあたっては細心にして果断であり、人のためをはかっては誠実にして温情にあふれておりました。郷党から慈父のごとく敬慕されていたのは、けだし当然であったと存じます。 君は、
国会
の激務の中にあっても寸暇を見出しては常に東西の書籍をひもとき、新しい
知識
の吸収につとめられている君の姿に接し、われわれはひそかに敬服してやまなかったのであります。
藤本
君は、よおい六十八歳を重ねて、ますます健康であり、高い
識見
と粘り強い
実行力
とを備え、
わが国政界
において重要な
人材
として私
ども
は君の今後に多大の
期待
を寄せていたのであります。しかるに、いま君の急逝にあい、この
期待
のむなしくなったことは、
国家
にとって大きな
損失
であり、まことに
痛恨
にたえない次第であります。 君の志は中道で終わりましたが、生前君が薫陶された御
令息
が君の遺志を継ぎ、
政治家
として立たれる
決意
をされたと聞き及んでおります。君がなさんとしてなし得なかった多くのことを必ずや御
令息
の手で成就されることを私は信じて疑いません。(
拍手
) ことに、つつ
しん
で
藤本
君の生前をしのび、
功績
をたたえつつ、衷心御冥福を祈って
追悼
の
ことば
といたします。(
拍手
)
清瀬一郎
19
○
議長
(
清瀬一郎
君)
西村力弥
君。 〔
西村力弥
君
登壇
〕
西村力弥
20
○
西村力弥
君 ただいま
議長
から御
報告
のありましたとおり、本
院議員牧野寛索
君は、去る九月二十二日夜、
山形
市立病院済生館においてにわかに逝去せられました。まことにお痛ましい限りであります。 私は、ことに
皆さま
の
お許し
を得て、
議員一同
を代表し、つつ
しん
で
哀悼
の
ことば
を申し述べます。
牧野
君は、
明治
三十五年一月、
山形
県西村山郡河北町の
素封家
に
人となり
、郷里の
農学校
を
卒業
後、その
修得
の知能を広めて
未墾地
の開拓に従事せられたのでありましたが、君が青雲の志はこの仕事にとどまることを許さず、ついに意を決し笈を負うて上京し、千葉県出身の
元本院議員
である吉植氏に身を寄せて、
中央大学
に
法律
を学ばれました。 この間、
文字どおり寝食
を忘れ、
苦学力行
を続け、あらゆる困難を克服して、
昭和
五年、在学中に
高等試験司法科
に合格されたのであります。このことは君の頭脳の非凡さを物語るものであります。 越えて、翌六年、
中央大学
を
卒業
、
東京
において
弁護士
を開業、雄心ぼつぼつたる
青年牧野
君は、ここに洋々たる前途に向かって
第一歩
を踏み出されたのであります。
弁護士
としての君は、おもに
民事事件
の解決に携わって、庶民の
利益
と幸福を守ることをもって喜びとされたのでありました。 やがて君は、
国家国民
の
発展
と幸福を願う大志に立って
政界進出
をはかり、
昭和
十七年四月、本
院議員
に立候補し、戦後、
昭和
二十一年、
日本自由党
に入党し、同年四月の第二十二回
衆議院議員
総
選挙
に
山形
県から立候補し、よく本院に
議席
を占め、
政治家
の
第一歩
を踏み出されたのでありました。その後今日まで本
院議員
に
当選
されること前後四回、
在職
九年五カ月に及び、その間、
昭知
二十一年五月と、同二十三年十月の両度、第一次及び第二次
吉田内閣
の成立にあたり、
首相秘書官
に推され、戦後の多難な政局を担当する
首相
を助け、厚い
信頼
を受けられました。 さらに、二十四年には
法務政務次官
に選ばれて、新
憲法下
の
法務行政
に参画し、大いなる
役割り
を果たされたのであります。 また、
在職
中、
両院法規委員会委員長
、
裁判官訴追委員会委員長
の
要職
を歴任し、あるいは
法務委員会理事等
、特に
法律家
にふさおしい地位において
活躍
されましたが、本
院議員
として、
ひとり法務
のワク内にとどまらず、広く
国政
の全般にわたって
知識
を深め、
識見
を養い、
自由民主党
の得がたい
人材
として、いよいよ大成を刮目されておられたのであります。 昨年十月には、本院より派遣されて、
清瀬議長
とともに、
南米諸国
との親善を兼ね
政治経済事情
を視察し、かつ、プラジリアにおける
列国議会同盟会議
に出席して帰られたのであります。 一年前には元気に満ちて
海外旅行
に出られた
牧野
君でありましたが、いまはもう君のお姿はどこにもない、私
ども
はただただ
ことば
に尽くせないさびしさを感ずるのであります。 思うに、生前の
牧野
君は、いつも明るい温容をもってわれわれに接しられ、君が党派を異にする人とはとうてい考えられなかったのであります。一見して芒洋たる風貌と、温和で
邪心め
ない
人となり
は、君独特の魅力であり、
弁護士
とか代議士とかいういかつい肩書きのふきわしくない、庶民的な親しみを感じさせるのでありました。外柔内剛とは、まさに君のことでありました。(
拍手
) また、
後進
のために、君はよくこれを導き、よくこれを助け、どのような問題の相談を受けても必ずこれを解決して人を感動させたという、まことに温情あふるる人でありました。君に恩顧を受けた
人々
は、君の死を知り、声をあげて慟哭したといわれますが、
牧野
君のお人柄から推して、まことに当然のことと存ずるのであります。(
拍手
) 人徳と申しましょうか、郷里では、名や肩書きよりも、
牧野
君その人に対して限りむい親愛と
信頼
を寄せておったのでありまするが、一面、君が
郷土
に対して注いだ愛情は、
郷土
発展
の数数の業績とたって残り、
郷土
民ひとしく心から感謝しているところであります。
牧野
君は、日ごろきわめて健康体でありましたが、不幸にして今春病魔におかされ、手術を受けられたのでありますが、その後の経過よく、静養後再び健康を回復して、郷里
山形
県において
活躍
中、はからずも病気再発して、
山形
市立病院済生館に入院御療養中、秋風の立ち始める去る九月、本議会の開会も待たず、ついに不帰の客となられたのであります。 思うに、君のからだはもっともっと静養を必要としておったにかかわらず、急迫している政局は、君に無理をしいたのではなかろうかと、
議員
生活
のきびしさを思うとき、同情の念を禁じ得ないのであります。(
拍手
) 君は、若くして志を立てて刻苦精励、
政界進出
後は幾たびか苦汁をなめながらも屈することたく、いささかも老成した感じのない、いつまでも若力しい方で、今後の御
活躍
に
期待
されておったのであります。遠大な抱負と希望を抱きながら中道にして倒れた君の心中察するに余りあります。解散、総
選挙
を目前にして、不帰の旅路につく無念さは、本議場の
議員
すべてが理解できることであると思うのであります。
国家
多事のとき、前途ある
牧野
君を失いましたことは、本院にとり、
国家
にとってまことに
一大損失
でありまして、心から痛惜の情を禁じ得ません。 ここに、つつ
しん
で君が生前の事績をたたえ、その遺徳をしのび、もって
追悼
の
ことば
といたします。(
拍手
)
————◇—————
原子力
委員会委員任命
につき
事後
の
承認
を求めるの件
公正取引委員会委員任命
につき
事後
の
承認
を求めるの件
中央更生保護審査会委員
任命につき
事後
の
承認
を求めるの件
公安審査委員会委員長
及び同
委員会委員任命
につき
事後
の
承認
を求めるの件
運輸審議会委員任命
につき
事後
の
承認
を求めるの件
日本放送協会経営委員会委員任命
につき
事後
の
同意
を求めるの件
労働保険審査会委員任命
につき
事後
の
承認
を求めるの件
地方財政審議会委員任命
につき
事後
の
同意
を求めるの件
清瀬一郎
21
○
議長
(
清瀬一郎
君) おはかりいたすことがあります。 内閣から、原子力
委員会
委員
に有沢広巳君及び駒形作次君を、公正取引
委員会
委員
に菊池淳一君を、
中央更生保護審査会委員
に大塚今比古君及び松岡武四郎君を、
公安審査委員会委員長
に正木亮君を、同
委員会
委員
に大山菊治君を、運輸
審議
会
委員
に谷村唯一郎君を、
日本
放送協会経営
委員会
委員
に今井道雄君、靱勉君、七里義雄君及び松田恒次君を、労働保険審査会
委員
に加藤光徳君及び四方陽之助君を、地方財政
審議
会
委員
に武岡憲一君を任命したので、それぞれその
事後
の
承認
または
同意
を得たいとの申し出があります。 右各件はいずれもその申し出のとおり決するに御
異議
ありませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
清瀬一郎
22
○
議長
(
清瀬一郎
君) 御
異議
なしと認めます。よって、そのとおり決しました。
————◇—————
清瀬一郎
23
○
議長
(
清瀬一郎
君) 本日は、これをもって散会いたします。 午後二時五十二分散会
————◇—————
出席政府
委員
内閣官房長官 黒金 泰美君