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国務大臣(
田中角榮君) 私も、せっかくの野々山さんの御発言でありますから、
国民各位に対しての
政府のはっきりした態度をひとつ申し上げておきたいと思います。これはもう何とかしてずるずるべったりに払うというような
考えでは絶対にありません。
先ほど申されたように、ヘーグの陸戦条約によってということでありますから、これはさっきからも事務当局から話しておりますように、無償とは書いてありません。無償ということは捕虜等の、自由を奪っている、拘束をしておる人たちに対する食料品その他は当然無償であるというものを除いては、無償と書いてありませんから有償ですという議論は、私から言わせればそんなことが議論になるとは思いません。
私は、精神というものがどういうところから出てきているか、世界歴史から見れば、いわゆる占領するという、被占領
国民の自由を奪っているという場合には、やはり戦勝国者としての傲慢さ、思い上がったこういうものでもって、略奪があったり、われわれは憲法に優先するのだという
考え方、大体被占領
国民の自由を奪う方向にいますから、こういうものに対しては、精神的にすべからく勝者といえども敗者の身になって、いわゆる人間的な立場で遇しなければならない。しかも、できるだけその国の歴史や伝統や組織を重んじなければならないという、こういう訓示的な、人類が当然
考えなければならぬ
一つの悲願をここに表わしたものであって、私はヘーグの陸戦法規というものは、これはなかなかいいものであり、また当然これは適用されるべきものだと思っております。しかし、ヘ−グの陸戦法規にあるような
状態で、被占領国に対して
アメリカが占領目的遂行のために当然の義務としてやった行為が、ガリオア・エロアもこれに含まれるであろう。一体含まれないものは何か、こういうことに第二段にはなるわけであります。私はその意味においては、ヘーグ条約の、無償であると書いてありませんから、これは当然だということはない。
アメリカは結局
日本に対して、これは
アメリカだけが占領したのではない。極東
委員会を作って戦勝国が多数国家の連合体として
日本を占領しておったわけです。ただ、占領軍
最高司令官が
アメリカ人であったというのにすぎないと思う。だから、われわれが議論するときには、
日本が戦争した六十四カ国の相手国というものが
日本を占領しておったという、合議体を対象としてものを
考える場合に、敗戦国
日本がその合議体に対して、どういう責めを負わなければならぬかということを、ずっと過去の例から
考えると、戦勝国に対しては賠償義務を負うというような問題が、第一次世界大戦までは歴史の示すとおりであり、
日本がかつて戦勝国に立った場合には、
日本が取り上げ側に回っておって、仮借なく取り上げておったわけであります。そういうことをずっと積み重ねて参りまして、
日本が時と所を変えて敗者の立場になって、占領されている。
そのときに、一方においては五十四億
ドルというような占領費の負担もいたしましたが、これは後の平和条約で請求権放棄をするという国際法上の協定によってやっているわけですが、そのときに
アメリカはこのガリオア・エロアの問題については放棄をしない。放棄宣言をしておりませんのみならず、逆にこの問題はいつの日にか
両国の間でもって支払い条件、
金額その他をきめようということを向こうが言っております。同時に、一方的にそれを押しつけられたのじゃなくて、
日本の
政府も
アメリカに対して、特に物を持てる
アメリカに対して
日本の実情を訴えております。歴代内閣は、いろいろな立場で
援助の救援を頼んでいるという事実があります。向こうが一方的に放棄をしないときに、
日本がこれを放棄要求をしたかとか、それから払わないでいいでしょうとか念を押すことは、当時の
日本としては——確かに押せればよかったかもわかりませんが、二十六年ですかのサンフランシスコ平和条約ではそこまでいかない。まあ賠償免除という問題もあったし、いろんな問題もあるでしょうから、それは将来払い得る
状態において
両国が
合意に達したときに払うということを
考えたことは、けだしこれは非常にスムーズなものの
考え方だと思う。
その後になって、今度朝鮮やなんかは放棄をされているじゃないか、
日本と西ドイツだけは逆に払うことにきめているじゃないかということも、すなおに状況を見ますと、イタリアやなんかは一ぺん参戦をしたけれども、
連合国側に
最後はついたし、
日本とドイツはあくまでも無条件降服のぎりぎり一ぱいまでいったからということも
一つの理屈であろうとは思いますが、それが直ちにガリオア・エロアの返済協定というものにそのまま援用をさるべき問題じゃないと思うのです。これはちょうど朝鮮やなんかに対して放棄をされたときが
昭和二十七年くらいなんです。そうしますと、結局二十七年当時に南朝鮮やオーストリアが、
日本や西ドイツのように払い得るような強い経済力を持っているときになれば、これは放棄宣言というものは行なわれなかったと思うのです。私はその意味において、
日本や西ドイツというものが、ある
程度日本の国力も充実をいたしておりますし、あらためてお互いが協定をして
合意に達し得る限界があったなら、これは外交の協定として支払い条件をきめようと、
アメリカはその時期まで待っておったわけであります。だから、私はこまかい議論になるかわかりませんが、南朝鮮やオーストリアに対して放棄されたものは、同じガリオア・エロアであっても、
アメリカの
政府でやっておる対外
援助というような大きなワクの中で、同じようなケースでもって、南朝鮮やオーストリアはそういうニュアンスでやられたものである。
日本は、少なくとも対外
援助を受けるような社会的
状態に
日本も西ドイツもなかったということで、両方が
合意に達したから四億九千万
ドルは払おう、こういうふうになったのだと。私は段階を追って素直にものを
考えていくと、少なくとも四億九千万
ドルを十五カ年間の年賦で
日本が払い、しかも使途に対しては日米の話し合いでもってやれるというような事実を
考えたときに、やはり
日本は素直に
債務として協定を実行することが一番正しいということを
考えておるわけであります。