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1962-03-16 第40回国会 参議院 予算委員会公聴会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十七年三月十六日(金曜日)    午前十時十九分開会   —————————————   委員の異動 本日委員苫米地英俊君及び坂本昭君辞 任につき、その補欠として青田源太郎 君及び佐多忠隆君を議長において指名 した。   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     湯澤三千男君    理事            川上 為治君            鈴木 恭一君            平島 敏夫君            米田 正文君            加瀬  完君            藤田  進君            田上 松衞君            加賀山之雄君    委員            青田源太郎君            植垣弥一郎君            太田 正孝君            金丸 冨夫君            上林 忠次君            小林 英三君            櫻井 志郎君            下村  定君            杉原 荒太君            田中 啓一君            館  哲二君            野本 品吉君            一松 定吉君            村山 道雄君            山本  杉君            横山 フク君            亀田 得治君            木村禧八郎君            佐多 忠隆君            高田なほ子君            戸叶  武君            羽生 三七君            矢嶋 三義君            山木伊三郎君            赤松 常子君            田畑 金光君            市川 房枝君            牛田  寛君            奥 むめお君   政府委員    大蔵政務次官  天野 公義君    大蔵大臣官房財    務調査官    松井 直行君   事務局側    常任委員会専門    員       正木 千冬君   公述人    九州大学教授  高橋 正雄君    経済評論家   山田 亮三君    早稲田大学教授 末高  信君    世界経済調査会    理事長     木内 信胤君    文芸評論家   板垣 直子君    蒲田女子高等学    校教諭     永尾 義雄君   —————————————   本日の会議に付した案件 ○昭和三十七年度一般会計予算内閣  提出衆議院送付) ○昭和三十七年度特別会計予算内閣  提出衆議院送付) ○昭和三十七年度政府関係機関予算  (内閣提出衆議院送付)   —————————————
  2. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) これより予算委員会公聴会を開会いたします。  公聴会の問題は、昭和三十七年度総予算でございます。  この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。本日は、御多用中にもかかわりませず、当委員会のために御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。当委員会は、昭和三十七年度総予算につきまして連日慎重なる審議を続けておりますが、昨日に引き続きまして、本日の公聴会においても忌憚のない御意見を拝聴することができまするならば、今後の審議に資するところが大きいと存ずるのでございます。  公聴会の進め方につきまして申し上げまするが、午前のお二人につきましては、おのおの二十五分以内にお願いを申し上げ、続けて公述を行なっていただきましてから、そのあとで一括して質疑を行なうことにいたします。  なお、質疑のある方が多いと存じまするので、質疑及びそれに対しまする御答弁はなるべく簡明にお願いを申し上げます。  それでは高橋公述人お願いをいたします。(拍手
  3. 高橋正雄

    公述人高橋正雄君) それでは公述をいたします。  私に与えられました問題は、今度の予算についての一般的な点ということであります。二つのことを申し上げたいと思います。一つは、具体的な非常に個別的な問題であります。次は、一般的な点について申し上げたいと思います。  最初の問題と申しますのは、最近国会でも世間でも大いに議論になっております、占領中にアメリカから援助されましたガリオアエロアの金額を返すか返さないか、そういう問題についてであります。私は、占領期間中から、そういう援助日本としては返さなくていいだろうということを書いたり、言ったりしてきたわけであります。そのことについて、きょうここに持って参りましたのは、吉田茂さんの「回想十年」という四巻にわたります本の第三巻であります。それを読んでみますと、吉田さんの御存じの知識を利用しても私と同じような結論になると思いますので、そのことを申し上げて御参考に供したいと思います。回想十年の第三巻の十八ページ以下のところは、「講和方式米ソ対立——アメリカとソ連の対立ということになっております。その中で、吉田さんはこういうことを言っております。「「ポツダム宣言の第十二項に「前記目的」——前記というのは、降伏条項降伏の文書に入っているいろいろな条項だと思いますが、「「前記目的が達成せられ、且つ日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるるにおいては、連合国占領軍は、直ちに日本国より撤収せらるべし」」そう書いております。吉田さんはこうおっしゃったあと、しかし、「ポツダム宣言の諸目的が達成されたか否か、また日本平和的傾向を有する責任政府が樹立されたかどうかの判定は、連合国側が下すわけである。」、こういうことをおっしゃっております。そこで、だれか十分に権限を持っておる方がそういうことを判定され宣言したかどうかということが問題になるわけでありますが、吉田さんのこの本によりますと、そういうことをほかならぬマッカーサー元帥が宣言しているわけであります。同じ本の中でありますけれども、マッカーサーは、占領というのは長くとも三年くらいに限るべきであって、三年以上にわたる占領というのは、占領する国の側にとっても、占領される国の側にとっても、決して幸福ではない、腐敗をもたらし不必要な反感その他を起こすのだということを盛んに言われまして、それでは一体いつ日本占領をやめてもらってもいいのかということになりますと、マッカーサー元帥は、早くも占領開始一年半の昭和二十二年三月には、「対日講和の時期は既にきており、講和の成立と共に占領を終止すべき旨を声明した。」、吉田さんの本にそう書いてあります。そこで、そこから議論が始まると思うのでありますが、吉田さん自身もこう言っておられるわけであります。一般米軍日本居すわりを示すような方針が出てきた、何かというと米ソ対立講和の時期がおくれたことは確かであった、ころ言っているわけであります。ですから、マッカーサーの言葉によっても、吉田さんがおっしゃっておられるところによりましても、おおよそ占領一年半くらいで、新憲法が施行され、新しい憲法に基づく参議院・衆議院制ができましたころには、ほんとうからいうと、日本には講和条約を結んでもらう状態ができていたわけでありますが、それがそうならなかったのは、米ソ対立ということであります。当時の日本はまだ独立国でありませんので、米ソ対立については何の責任もないわけであります。そうしますと、アメリカ側の言い分からいっても、日本占領軍としている必要がないのに、その後もいたということは、日本占領とは無縁のことでありまして、米ソ対立の問題からくるアメリカ側国際政治国際政策の結果そうなったわけであります。  そこで、そういうことからどうなるかと申しますと、日本側としては占領費を払う義務はそのころからなくなったわけだ、こういうことであります。御承知のとおり、占領期間中に日本は四十八億ドルくらいの占領費を払っております。ですから、かりに占領期間を半分くらいで打ち切ったといたしましても、日本側としては、その半額くらい——二十数億トルは、いわば払わないでいい占領費を払っておるわけでありますから、このことを考えますと、ほかの点からいっても、そういうことがなくとも、ガリオアエロア援助というものは、当時の事情からいって、必ずしも向こうでも取ろうとは思わず、日本側でもいただいたものだと思っていたのではないかということを考えますと、どうも大局的に考えて、アメリカとしてもいまさらこんなものを要求しないほうがいいし、日本国民としても払わなくても決しておかしいへ理屈ではないのではないか。こういうことは、当然予算の問題と関連すると思いますので、きょうの機会を利用させていただきまして公述申し上げたわけであります。それが個別的な問題であります。  それから、一般的な点については、こういうことを申し上げたいと思います。日本経済状態をどう見るべきか、どう見ているかということにつきまして、日本側のいろいろな議論も非常に参考になりますけれども、外国の人がどう見ているかということを簡単に申し上げたいと思います。私もそう見ているんでありますが、そういうことが、必ずしも日本国内の一部の者だけではなくて、国際的にもそう考えている人があるのではないか、そういうことであります。その一つは、去年日本にオランダの新聞社の人が来まして、かなり長くおりまして、方々見て、帰りしなに、いろいろな関係で親しくなったものですから、「おせじばかり言わないで、何か痛いことを言ってくれないか。」と申しましたら、その方はこういうことを言いました。「どうも日本に来て、こんなに短い時間で大きなことは言えないけれども、日本人の心持がわからなくなった。」、どういうのですかと言いますと、「この道路、この住宅状態で、どこを押せばオリンピックを開けるような気持になるのですか、わざわざ恥をさらすためにそういうことをおやりになるのか。」ということであります。これは、昨年の日米合同経済委員会のときにも、アメリカ有力者新聞にそれとなく発言したところであります。これはどういうことかと申しますと、日本経済は一応は、何もかもひっくるめて統計数字だけで考えますと、成長が非常に早くて、たいへんけっこうでありますけれども、内部を見ると、決してそうは言えない。向こう常識日本に来て見ますと、どうも、こういう住宅、こういう道路、その問題は、ひいては予算の中で参りますと、財政投融資のやり方、公共投資、そういう問題になってくるわけでありまして、そういう点、われわれとしては大いに考えなければいけないのではないか、そう思うのであります。  それから、次の点といたしましては、これもアメリカの偉い経済人、財界の人の話でありますが、そういう人のお伴をして自動車産業を見たことがあるのであります。そのとき、その人は、こういうことを言いました。「軍艦武蔵軍艦大和を作ったほどの技術を持っておる日本産業界が、日本経済人が、たかが自動車ぐらいでアメリカとの競争をおそれる必要がありますか、幾らでもアメリカなんかの競争に負けない方法があります。」、それは何だと言いますと、「この会社はボディだけをお作りなさい、この会社はエンジンだけをお作りなさい、この会社は部品だけをお作りなさい、この会社は組立だけをすればいいじゃありませんか、もしそういう方式大量生産方式をやるなら、日本自動車産業アメリカあたりに負けるということはないんじゃないか。」、こういうことであります。この点は、何度もいろんな方面で言われておりますが、二、三日前には山際日銀総裁もおっしゃっておるようでありますが、日本では、それぞれの大資本系列が、似たり寄ったりの事業、似たり寄ったりの設備をいたしまして、おのおの企業といたしましてはベストを尽くしておるのでしょうけれども、日本全体としては、結局、なけなしの資材、なけなし資本を、不当に、むだに使う結果になっているわけでありまして、そういうことを外国人でさえ見るに見かねている状態であります。で、結局はものにならないような、あるいは完全にはものにならないような投資でも、投資が行なわれておる間は経済成長を大いに刺激するわけですから、その辺のところにあんまり注意をしないで見ておれば、経済成長けっこうということになりますけれども、その中を見ると、必ずしもそうは言えないのではないか、そういう点が心配になるわけであります。  それから第三の点は、これも外国の人のでありますが、あらためて申し上げるのも何でありますが、日本国際収支は、昨年の夏ごろから、ほんとうはもっと初めのころからあやしくなったのでありますが、去年の三、四月ごろにイギリスの有力な経済雑誌に、こういうことをすでに言っております。どういうことかといいますと、短期資金を借りて事業をやるなら、それは原料を買うとか、商品の売買の金融にするとかいうふうな意味ならわかるけれども、短期資金を借りて長く資本が寝るような設備投資などに回すのはおかしいじゃないか。ところが、近ごろの日本経済成長を見ているというと、日本長期にわたる設備投資のための資金が、日本国内短期資金という形で行なわれているだけならまだしも、外国のほうからまで短期資金をあさって、それを日本の円にかえるような形で長期設備投資をやっているのでは甘いか。そういう非常に危険な綱渡りをやっていて、いつまでも日本輸出が伸びて、たいして国際収支赤字にならないような状態ならかまわないけれども、どうも見ているというと、その点が心配だということを書いているわけであります。  で、今申しました三点を、予算といいますか、日本の国家の政策の問題に結びつけて申し上げますと、第一は、言うまでもなく、公共事業あるいは財政投融資の使い方の点で、日本予算というものは、はたして日本経済全体、日本の社会全体の安定した、調和のとれている発展というほうに向かっているか、そういう方向に向かうように貢献しているか、それとも一部の、つまり結果的にはばらばらになるような設備投資などに使われていないか、そういうものを刺激するようになっていないか、そういう問題に関係してくると思います。  第二の自動車会社の例は、自動車だけではありませんで、重要産業方面で、世界的には中小企業にすぎないような企業が、日本では大資本として、ビッグ・ビジネスとして、非常に大きな勢力といいますか、影響力をふるっておりますけれども、日本全体としては、決して、あるいは必ずしも望ましいことになっていないのではないか。その辺のところも、大企業というのは、外国とは必ずしも同じでありませんで、いろいろな形で、日本金融機関日本銀行財政投融資日本予算というものにおんぶしているといいますか、援助を仰いでおるわけでありますから、そういう点を、国会のほうで、皆さんのほうでよく御判断なすって、何といいますか、つまらないことにならないような、そういう御判断をなさるべきではないか、そう思います。  それから、最後に申しました外国資本を借りてということでありますが、このことは、私がここで申し上げようと思っておりましたことを、日銀総裁がせんだっておっしゃったようでありまして、だれでも思っているところであります。御承知のように、日本の大銀行は、こういうふうなことをすれば、結局は小さい設備投資がやたらに起こって、しかも、直ちに輸出能力までにいかないうちに、国際収支赤字になるということは、理屈では知っているわけです。しかし、ほかの銀行——自分競争関係にある銀行が、その系列の大産業、大企業にどしどし設備投資をやられているのでは、日本全体がどうなろうとも、自分のほうは黙って見てはいられないということで、自分のほうでもまた無理と知りながら融資をしているというのが現状であります。しかし、いくら無理をしておりましても、申し上げるまでもなく、金融機関一般向け企業貸し出しを盛んにやれば、手形交換のところで、その銀行が受け取るよりも、支払う分が多くなりますから、多くなれば、日本銀行に預金が十分ない限りは、どうしても日本銀行から借りなければやっていけないわけであります。そこで、日本銀行が貸さないといってがんばれば済むわけでありますけれども、日本現状では、もし日本銀行が大銀行に対してそういう態度をとれば、その銀行が参ってしまうのはもちろんのこと、その銀行系列になっている大産業中小産業が参るわけですから、日本銀行としても、そういうことは百も承知でも、きつい態度に出られないわけでありまして、こういう結果として、通常、申し上げるまでもなく、経済成長というのは、外国資金を借りた金だけではなしに、それとともに、国内においては、日本銀行貸し出し増加通貨膨張ということにつながってきているわけであります。そういう根本的な、つまり、通貨膨張信用膨張というふうなこと、そこへ設備投資はいくら伸びてもかまわないのだ、生産力が伸びれば伸びるほど輸出力が出てくるのだというような考え方が一部に強く支配しておりますから、その結果としては、だれもかれもが、やがてはいい生活ができるのだ、もう今のうちからいい生活をしていいのではないかということになりまして、国民全体の間に、浮わついたといいますか、消費を何よりも大事にする。一方では設備投資をしながら、貿易自由化に備えなければならないと言いながら、そういう、必ずしも計画のある、規律のある成長経済ではないものでありますから、変なところから投資ブーム消費ブーム、レジャー・ブームということが起こって参りまして、それが株式の値上がり、地価の値上がりということになりまして、ますます経済的に、実質的には根拠のない、基礎のない購買力が非常に多くなり、その結果は、何といいますか、需要と供給との関係需要のほうが多くなり、多くなれば物価が上がり、物価が上がれば輸出はできにくくなるということは当然なことであります。その辺のところで日本経済全体がうまくいっているならかまわないのでありますが、何べんも申しましたけれども、一方では国際収支のところに赤字というたいへんな問題があり、国内では、せっかく投資を始めても、それを完成まで持っていく前にストップさせられる——設備投資の縮小とか中止ということになりまして、なけなし日本生産力、資力が、必ずしも国民経済全体、国民全体の立場からは理想的に合理的には使われていないことになるのではないかと思うのであります。  私は、国会というのは、皆さんもこの重要な一構成部分でありますから、法律を作る、予算を御審議なさるところでありますけれども、予算にしても、法律にいたしましても、日本国民生活のどの点について干渉してはいけない、発言してはいけないということはないはずでありまして、ぜひ日本経済全体の立場から、日本国民全体の立場からお考えになりまして、ちょっと来た外国人からも、つまらない、簡単に批判されないような、そういうことになるべきではないかと思うのであります。  今、自由化が非常に問題になっておりますけれども、自由化のためには、日本企業の規模を大きくし、生産性を高め、コストを下げなければならないことは明らかでありますけれども、そのためには、合理的な計画的な近代化技術革新ということを大いにやらなければいけないんではないか、そういうふうに考えております。  なお、いろいろ申し上げたいことがございますけれども、与えられました時間のようでございますから。  御清聴ありがとうございました。(拍手)   —————————————
  4. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) それでは、次に山田公述人お願い申し上げます。(拍手
  5. 山田亮三

    公述人山田亮三君) 公述いたします。  私に与えられました問題は物価の問題でございます。そこで、当面の物価の問題について申し上げます前に、やや長い目で見ました日本物価の基本的な動きというものを申し上げておきたいと思います。  物価の問題を考えます場合に、当然二つの側面が問題になりましょう。一つは、物価体系、つまりいろいろな物の値段お互い同士関係ということが一つ、それから第二番目には物価水準ということ、この二つが問題になるかと思います。  そこで、第一の物価体系ということでございますけれども、いろいろの商品の物の値段、あるいはまたサービス料金、そういった相互の関係というもの一定不変ものではない、非常に変わりやすいものであるということは、もはや言うまでもない常識であろうかと思います。ごく一般的に考えてみましても、国民経済発展する、国民の所得が上昇する、あるいは賃金水準上昇する。そういう状態の中で、そうした賃金水準上昇を、量産であるとか、あるいは合理化であるとか、そうした労働生産性向上によってカバーできる産業もございます。その反面、そうした合理化生産性向上余地の少ない、たとえばサービス産業であるとか、あるいは一部の中小企業であるとか、そういう産業もあるわけであります。そうなって参りますと、そうした賃金水準上昇がもたらします結果として、たとえば合理化余地があり、賃金水準上昇を吸収する余地のある産業の作ります物の値段と、そうでないものの作ります物の値段が変わってくるということは、当然予想されるところでございましょう。もともと日本物価体系というものを国際的に比較してみますと、二つ特徴があるかと思います。その一つは、総じて申しますと、重化学工業製品値段が国際的に見て高いということ、これが一つでございます。いま一つは、軽工業商品あるいはサービス料金というものが国際的に見て安いということ、これが二番目の特徴でございましょう。もちろん例外はございます。例外はございますけれども、大勢的に言えばそういう方向にある。そして、こうした日本物価体系特徴というものが何に原因するかといえば、これは言うまでもなく、日本経済がこれまでおくれていたということに原因がございましょう。つまり、重化学工業製品と申しますか、要するに、技術とそれから資本蓄積が必要でございます。ところが、日本産業が国際的に見ておくれて発展したという関係から、そり技術資本蓄積において十分ではない。当然外国商品に比べてこれが割高になることはあたりまえでございましょう。また、経済的に発展がおくれているがゆえに、日本賃金先進国に比べて総体的に低位にある。そうなりますと、そうした安い労働力を集約的に使う産業家庭工業であるとかサービス産業価格が、低賃金基礎に国際的に安くなるのは当然である。つまり、日本の従来の物価体系特徴は、日本経済のおくれというものを反映して存在していたということが言えるわけであります。したがって、日本経済発展成長していきます過程で、この物価体系、従来の日本経済がおくれていたがゆえに出て参りました特徴というものも当然変わって参りましょう。つまり、一方に重化学工業商品というものは、長い目で見れば価格が低下する方向にある。さらにまた、国際的にも割安でありましたサービス料金、あるいはまた軽工業商品というものが漸次価格が上がっていく。こういう物価体系の再編成方向日本物価現状の基調というものを貫いているように思います。  ところで問題は、そうした物価体系の再編成が今進みつつあるその場合、これが物価水準にどういう影響を与えるかということでございましょう。一般的、抽象的に考えますと、物価体系が変わっても物価水準は変わらない、そういう見方も成り立っております。たとえば、今申し上げましたように、一方に上がるものもあれば一方に下がるものもあるならば、ならした水準というものは上がらなくて済むじゃないか、そういう見方が当然できるわけであります。たしか昨年政府が発表いたしました物価白書というものがございまして、その物価白書の基本的な立場を流れております。物価体系は変わるけれども物価水準は変わらない、比較的安定を保つことができる、したがって、国民は少しも心配要らない、というような論理で貫かれていたように記憶しております。確かに、一般的に言えば、物価体系の変動と物価水準上昇というものは別問題であるべきはずでありますが、問題は、事実として一体物価がどのように動いてきているかということでございましょう。確かに、物価体系の変動が、抽象的理論的には物価水準上昇をもたらさないと言うことはできますが、事実として考えてみますと、特にそうした軽工業商品あるいはサービス料金値上がり影響を強く受けますところの消費物価は、やはり一貫して上昇方向にございます。これは、まだ所得倍増計画や高度成長ムードというものが出ない前の時期をとって考えて参りましても、たとえば昭和二十八年から昭和三十四年まで東京都の消費物価はどのくらい値上がりしたかと申しますと、一〇・四%上がっております。六年間で一〇・四%であります。あるいは小幅であると言われる方があるかもしれませんが、それにしても、基調として消費物価が上がってきているということは否定できない事実でございましょう。これは好むと好まざるとにかかわらず、善悪にかかわらず、そういう事実が過去にある。しかもそうした消費物価値上がりの傾向と申しますものは、総じて先進工業諸国に共通する現象でございます。たとえば、ごく短い期間でございますけれども、一九五八年を基準にいたしまして、六一年末の欧米各国の消費物価がどのくらい上がっているかを見て参りますと、わずか三年間でございますけれども、アメリカが三・八%、イギリスが七・二%、フランスが一五・八%、西ドイツが六・二%上がっております。もちろん外国物価が上がっているから日本物価も上がっていい、そろいうことは言えません。そうして物価を安定的に保つということが非常に大きな目標であることは言うまでもございません。しかし、このように事実として過去に日本消費物価が上がってきている。そうしてそれが一般の工業諸国に共通する現象であるとなりますと、外国でもできないことを日本政府ができると期待することはどうも私にはむずかしいような気がします。そうなりますと、やはり日本物価長期の基本的な趨勢と申しますものは、物価体系の変動を通じて特に消費物価の継続的な上昇という基調が支配しているのではないかというふうに判断せざるを得ないわけであります。  そうなって参りますと、それならば一体物価は上がるのは当然である、したがって、物価政策は必要がないのかということになって参りますと、そうではございません。おそらく逆である。つまり、消費物価が今客観的に上昇方向にあるがゆえによけいに物価政策というものが必要である。そうした消費物価値上がりというもの国民生活の各部面にどのような影響を与えているか。したがってそれに応じた対策をとるということがより必要になってくるわけであります。つまり、長期物価——消費物価でございますが、客観的に上昇方向にあるということが、逆にかえって物価政策の重要性を高めているのが現状であろうかと思います。ところが、残念なことに、従来の政府物価政策を眺めておりますというと、必ずしもそうした点に十分な配慮があったとは申せないかと思います。なるほど個別の価格対策というものはありました。豚肉対策がある、あるいは木材対策があったかもしれません。全体としての物価をどのように見、それをどのように持っていくかという点での大きな物価政策の確立がなかったというのが実際でございましょう。したがって、そうした政府態度は、逆に申しますというと、昭和三十五年から三十六年にかけての非常な物価値上がりというものを手をこまねいて放置してしまったということになったのではないかと思います。ここで東京都の消費物価指数を申し上げてみますと、三十五年は三・七%上がっておる。三十六年は五・二%上がっております。これは年間の比較でございますが、昨年十二月の数字を一昨年十二月に比べますというと九%上がっておる。なるほど、消費物価長期的に見て上昇の趨勢にあることは事実であるといたしましても、この値上がりはやはり異常であるというふうに言わざるを得ないかと思います。では、なぜ一体こうした異常な値上がりが生じてきたか。こまかいことはここで申し上げる余裕がございません。いろいろ政府のほうでも研究なさっておりますから申し上げませんが、ただこの異常な消費物価上昇というものが、国民の間に非常な物価に対する深刻な不安というものを巻き起こしておる。あるいはまた、それが政府経済政策にとって不信となって表われておるということを強調しておきたいと思います。現在政府国際収支改善のための政策を実施されておる。当然その中には消費の抑制、あるいは貯蓄の奨励ということもございましょう。しかしながら定期預金金利を上回って消費物価が上がるといったような情勢で、貯蓄奨励を説いてもナンセンスでございましょう。もっとも最近政府はようやく物価安定総合対策というものを決定したようであります。この十三項目にわたります対策を眺めておりますと、きわめて抽象的なものもあり、ある程度具体的なものもあり、当面の対策もあり、長期の対策もあり、予算措置を必要とするものもあり、必要としないものもあり、はなはだばらばらでございますけれども、一応とにかくこうした対策が出て、政府物価対策に本腰で取り組むという態度を示したのはけっこうであると思うのであります。けっこうでありますけれども、この対策を眺めておりますというと、はたしてこれで国民が現在持っております物価に対します不安感というものがぬぐい去ることができるかどうかはなはだしく疑問と言わざるを得ない。なるほど、この中にございます長期計画、いろいろな物価に対します長期の計画、これはおやりになってけっこうでございます。ある程度予算措置をつけることも場合によっては必要かもしれません。そうした点では長期物価政策がなかったのがこれまでの欠点でございます。こうした点で長期物価対策を打ち出されたことはけっこうでございますが、同時に国民の不信、不安の念をぬぐい去るために、やはり当面の緊急的な対策が必要であると言わざるを得ないのであります。そうして短期物価政策を、先ごろ決定されました総合政策の中で拾うて参りますと、たとえば金融引き締めを継続するという項目もある。自由化を促進するという項目もある。間接税の引き下げを物価の値下げに回すといったようなあれもある。さらにまた、公共料金の値上げを抑制するという項目、それぞれ確かにある程度当面の物価の強い値上がり傾向に対します一つの役割を果たすことは事実でございます。事実でございますけれども、たとえば公共料金の値上げを抑止するという項目がある。しかし、そういう総合対策がきまったとたんに私鉄の運賃の値上げが問題になってくる。もちろんこれはまだ決定したわけではございませんから、ここで私鉄の運賃を上げてどうこうと言うことはできませんけれども、しかし、もう近い将来に上がりそうな雰囲気が新聞紙上なんかでは散見される。そうなって参りますと、幾ら政府がこうした総合対策を決定したと申しましても、きめたとたんに、たとえば私鉄が上がったじゃないかということになって参りますと、そこに政府政策それ自身が単なる見せかけだけのもの、信用できないということで、国民の不信感をさらに倍加するという結果になって参りましょう。なるほど、私鉄その他の公共料金につきましては非常に問題がございましょう。公共的な事業でございますから、そうした公共的なサービスというものは今後長期にわたって国民に豊富に提供しなければならない。そうして豊富に提供するためには、ある段階において、従来の料金というものが割安になる段階もございましょう。したがって、今後の私鉄の輸送力の増強というものを考えた場合に、ある程度の私鉄運賃の値上がりというものは現在やらなければならないかもしれません。かもしれませんけれども、何さま時期が悪いわけであります。とにかくこうした異常な物価値上がりの時期である。しかも、政府がその抑制の一環として公共料金の値上げの抑制を打ち出しているのに、私鉄運賃の値上げをするというところに問題がある。もともと、そうした公共料金の値上げを押えるために、ことさらに財政資金を使うということは賛成でございません。賛成でございませんが、いやな言葉でございますが、今は物価にとってはある程度非常時と言えるような事態になってきているのじゃないか。そういたしますと、非常時には非常時の対策があるべきであって、つまり、本来ならばそうした方向は好ましくないけれども、非常時であるからこそということで、たとえば私鉄運賃なら私鉄運賃の値上がりを押えるということは、現在の段階ではきわめて重要ではないか。そのほかに間接税の引き下げを物価の値下がりにそのまま移すということを言っております。これにつきましては政府はいろいろ努力しているように聞いております。聞いておりますが、実際にはたしてそうなるかどうかということについて、今日国民としてはあまり安心できない面がある。少なくともこれだけ物価が問題になり、そうして政府も総合的な物価政策を打ち出しております以上、とにかく私鉄運賃は上げません、こういうものを下げますといったようなはっきりした手を幾つか打っていただく必要があるのじゃなかろうかと考えております。とにかく私が先ほど申しましたように、日本物価が、長期的に見て、特に消費物価値上がり傾向というものが現出する方向にあると申し上げましたけれども、平均せいぜい二%か二・五%の値上がりでございましょう。最近のように年間でとっても五%以上、一年の推移で言えば九%という異常な事態は放置すべきではないわけでありまして、これについての十分な抑制策の強力な展開ということを申し上げておきたいと思います。(拍手
  6. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) ありがとうございました。   —————————————
  7. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 御質疑を願います。
  8. 杉原荒太

    ○杉原荒太君 高橋先生にお伺いいたします。  ガリオアエロアは返す必要がないと言われる根拠は、先ほど述べられた点だけであるのか、それとも、それ以外の理由もあると見ておられるのか、それらの根拠の中で、どの点が返す必要がないとする最も大きな理由と見ておられるか、その点をお伺いいたします。
  9. 高橋正雄

    公述人高橋正雄君) もう一つの点として非常に大事なのは何だと思っているかという御質問でありますが、私は十分にそこを研究しておりませんので、はっきり申し上げられませんけれども、アメリカ予算制度の中で日本援助された資金の元がどういう形になっているのかということを調べることと、それから、アメリカの議会ですか国会の中で、日本に対するガリオアエロアはどういう性質かという討論があったはずでありまして、その辺のところを調べますと、おそらくアメリカ側議論を引用することによっても、今さら債務ですか債権というようなことにはならないという説明が可能ではないかと、そう考えます。
  10. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 お二方の先生にそれぞれの立場からお答えいただきたいと思います。  高橋先生にまずお伺いをしたいと思うのですが、先ほどの公述を承ってお伺いしたい点は、結論的に、昭和三十七年度の池田内閣経済計画なるものを修正する必要があるかないかという点についてどういうようにお考えになっているかということですね。そのことは、具体的に申し上げますと、最近の鉱工業生産の動きから、いずれはこれは輸入へも影響してくるであろうし、そうして総合収支じりを一億ドルの赤と、こういう経済計画のもとにすべてを推し進めているわけですが、今の時点に立ってこの計画どおり推進してよろしいものかどうか、先生の見通しを承りたいと思います。  あわせて、山田先生にお伺いいたしたいんですが、池田総理からいろいろこの席でも承りまして、またきのうは池田経済政策のブレーンである下村参考人から公述を承ったわけですが、ほんとうに腹の中でどういうふうにお考えになっておるかわかりませんが、少なくとも公の席でわれわれが受ける印象では、この経済成長の過程においては現在程度の値上がりというものはやむを得ないんだと、これは大きく日本経済発展する過程における一つの微動である、こういう印象をわれわれ並びに国民に与えるような言論をなされているわけですが、このことが企業家並びに全国民に及ぼす心理的影響というものは、私は見のがすことのできないものであると思うんですがね。これは私の私見ですが、そういう点について山田さんはどうお考えになっておられるか。私は、最近のこの物価の動きを見ておりましても、ともかくムードに動かされている点が多いと思うんですね。相当便乗的なものがある。こういうムードを起こし、便乗的なものが出てくることを誘発した池田総理の言動というものも、やはりある程度私は責任があるのではないかと、したがって今の時点に立って若干の反省のもとに公私の発言というものをある程度考えていただかなければならないのじゃないかと、かような私は感じを持っているものでありますが、それに対する御見解と、最後に、この消費物価指数が五・二%、あるいは昭和三十五年の十二月を昭和三十六年の十二月と比較する場合に、東京都において九%云々という数字を承るし、また経済指標等によって教えられるんだけれども、われわれの教わり方の実感では、とても五%、一〇%というようなものじゃないんですがね。これは山田先生は専門家なんですが、私そこのところわからないんですが、どうなんでしょう。何か統計数字のトリックというか、何か調査のとり方に誤りがあるんじゃないかと。まあ私は国会議員ですから、国民の所得からいえば相当な水準にあると思うんですよ。いただいているんですがね、それでも自分生活実感からいくと、とても五%とか九%というようなものでないわけなんですね。これは物価の専門家としてどういう見方をされておられるか、お教えいただきたいと思います。
  11. 高橋正雄

    公述人高橋正雄君) それでは私のところの分をお答え申し上げます。こういうことを申し上げて、おわかり願いたいと思います。私は、大正十四年に学校を出まして、私の友人は、まあそれぞれの方面で、過去において、あるいは現在でも、指導的な地位にある人がいるわけです。で、そういう連中と同窓会のときにこういうことを言うのであります。せめて日本の大銀行ぐらいが一本になって、大銀行全体が運用できる資金について、日本の大企業、大産業に対してどういうふうに資金を融通したらいいかということの計画は立たないものかということを言うのでありますが、それは理屈ではできるし、必要だということは自分も認める。しかし、お前の意見をいれると、われわれ大銀行の大重役はあしたからお払い箱になるから、それで原理としてはお前の言うことはわかるけれども、実際はやれないんだと、そういうことであります。  で、さしあたっての今度の計画につきましても、もし日本の大銀行日本財政投融資をつかさどる首脳部の方方と一緒になられて、そして日本で現在進行しております。目下昨年の秋以来投資を少しストップしろということでよたよたしておりますところを徹底的にお調べになって、日本としては当面は会社にはしばらく黙っていていただこう、そのかわりこっちのほうはどんどん成長さして自由化が来てもおそろしくないようなふうにしようということは、理屈からは簡単にできるわけでありまして、日本の現在の国会政府が一部の利益だけに動かされないで、日本全体の利益をお考えになるのだというのだったら、そういうことは決して不可能ではない。そういうことは自由企業制を一応建前としておりますドイツでもイタリーでも行なわれておりますし、イギリスでは最近保守党から言い出しまして、労働組合、日本でいえば日経連、経団連というようなところが一緒になって、今後のイギリスの投資を計画化しようじゃないかということを言っているのであります。イギリスでは、すでに現在でさえ、年々行なわれます投資資金の四割以上が国家の資金であります。財政の資金、それから日本でいえば財政投融資資金、それから国営企業資金であります。そこまで行っているイギリスでさえ、これからさらに民間投資の計画をしようと言っているのでありまして、それが日本だけがそういうことができないということはないと思いますので、その点そういうふうにやり得ないはずはないし、やるべきだ、そういうふうに考えております。
  12. 山田亮三

    公述人山田亮三君) いろいろ御質問があったかと思いますけれども、最初に、今の物価値上がり程度があたりまえのことであるといった言動というお話でございましたけれども、私は長期的に見て消費物価値上がり方向にあるのは善悪にかかわらず一つの客観的な事実だと申し上げましたけれども、最近の値上がりはやはり異常だというふうに見るべきであって、これがあたりまえだというのは少し言い過ぎであろうという感じを持ちます。  それから、二番目の、そうした池田さんや下村さんの言動が物価値上がりに大きく響いているのじゃないかといったようなお話でございますけれども、これはまあいろいろ考え方があるかと思います。単なる一個人が言ったから日本物価が上がるようなことでは、日本経済も情けない話であって、そこら辺が非常に問題になることですけれども、確かにおっしゃるように、ここ一、二年の間に日本産業、あるいは日本企業家といってもいいかと思いますけれども、非常に強気のマインドになったということは確かにございますね。そうしたことが日本の全般的な経済界の空気というものを、何かおせおせといった空気に巻き込んでいる。したがって、それが値上がりをよりやりやすくして、おっしゃったような便乗値上げをときにはもたらすということは確かにあったかと思います。確かにおっしゃるとおり、ここ一、二年の高度成長の雰囲気が物価値上げを助長する面は確かにございましょう。  それから、三番目の、消費物価が九%しか上がっていないというけれども、生活実感ではもっと上がっているのじゃないか。おっしゃるとおりでございます。たとえば個々の品物を取りてみますと、二割も三割も上がっているのはざらにある。大工さんの日当なんか、この半年ぐらいに倍増されています。大工さんは所得倍増になりましたけれども、使うほうにとってみれば、建築費がうんと上がるというわけです。個々の品物を取ってみますと、二割も三割も五割も上がっているものがあります。ですから、そういう九%というのは非常に小さいじゃないかということは、確かに実感としてはわかりますけれども、二十五円のものが五割値上がりした場合と、一万円のものがたとえば一割値上がりした場合と、つまり生活の全体に与える影響というものは確かに違う、わけでございますね。だから、最近の状況を見てみますと、高いものは、テレビやそういったものは上がらないわけです。そうして野菜だとかなんだとか、日常のものはどんどん上がっていますから、その値上がりという実感は非常に大きく響くわけでございますけれども、生活全体の中で占めるウエートと申しましょうか、そういうものから考えていけば、二十五円のものが三割上がってもそれほど響かない、こういう面がございます。そういう形で消費物価がいろいろな比重をつけて一応総合して九%という数字を出しております。もちろんこの数字の作り方にはいろいろございましょう。ございましょうけれども、しかしまあそれが全くでたらめなもので、実際に消費物価全体として二割も三割も上がっているかというと、やはりそうではないのじゃないかというふうに思っております。まあ十分なお答えではございませんけれども……。
  13. 田中啓一

    ○田中啓一君 山田先生にお伺いをいたしたいと思うわけですが、重工業の製品がいわゆる先進工業国の製品と比べて日本は高い、こういうお話でございました。私もどうも高い傾向を持つのだろうと実は思っておるのでございますが、はなはだ恐縮ですが、もしできましたならば、ごくおもなものでどういうものはどれくらい現在高いのだというようなことをお教え願えれば非常に幸いだと思います。  それから、もう一つ消費物価のほうでございますが、私はまあ農業とか食料とかということを大いに、私の利益から考えても勉強をして、改善をしなきゃならぬというように思っておるんでございますが、ただいま三十五年、三十六年の東京における消費物価の異常な値上がりということを御指摘になりました。そのうち食糧につきまして、何が異常な値上がりであり、食糧の小売物価体系というようなものを考えまして、一体どこのところを何とかできればもっと下がるとか、これ以上上がらぬとかというような工夫をすべきものかどうか。私はありゃせぬかと思うものでありますから、お伺いするわけでございます。何かそういうところに向かってひとつ努力を集中してみたいというような気が実はしておるものでありますから、お伺いをしておるわけでございますが、お願いいたします。
  14. 山田亮三

    公述人山田亮三君) 最初の、日本重化学工業製品が国際的に見て総体的に割高であると申し上げましたのは、もちろんこれは例外がいろいろございますから、日本ものが安いものもございます。しかし、総じていえば、これまでは高かった。要するに貿易為替が自由でございませんでしたから、そうした国内的な価格の割高を維持することができたわけでございます。ただ、最近やや情勢がいろいろ変わって参りまして、自由化ということが進んで参る。そうなりますと、たとえば石油化学製品のように、従来どのくらい割高でございましたか、二、三割は当然割高でございましたけれども、そうしたものも相当急速に下がってくる、そういう傾向は見えてきております。  それで、どういうものがどれだけ高いかということになりますと、物価の国際的比較というものは非常にむずかしいわけでございます。たとえば鉄鋼なら鉄鋼をとった場合に、鉄鋼業のほうに言わせれば、向こうの公式に発表されているもの日本国内物価は変わらないじゃないかとおっしゃる。ところが、向こうの鉄鋼業者が自動車会社に売っている値段というものは非常に低いかもしれない、あるいはリベートを出しているかもしれない。そういった点で非常にそこのところの判断がつけにくいんであります。どういうものがどれだけ高いかということを十分な資料をもって十分お答え申し上げられませんが、たとえば一番典型的に現われているのは自動車のようなものでございます。やはり生産のスケールが国際的にいってないところでは、やはり割高が生じているわけでございます。ただ最近の情勢では、確かにある程度そういう面での値下がり傾向が来ております。ですから、今度自由化がある程度進展していくならば、この点での引き下げは長期に見て可能ではないかと思いますけれども、ただ、国内的な、ある程度、何と申しますか、お互い同士の話し合いでこういった低落を押えるといった要因もございますから、そうした価格引き下げにはある程度行政的指導が必要じゃないかと、こういう考えを持っております。  それから、農産物の問題でございますけれども、実は私が一番聞きたいところなんです。といいますのは、いろいろ農産物の価格の問題について調べてみまして、流通経費その他の点に問題がある。流通機関に問題があるということで、いろいろ調査してみましたけれども、その調査が非常に不十分でございます。どういう形でどういう価格が形成されて、庭先相場と末端の小売相場の間にどういう関係がどういうふうになっているかということになりますと、非常に調査が不十分で、はたしてこうした不十分な調査で、ここを直せばいいといった処方せんが出てこないという感じが実はしております。ですから、この点は、やはり農産物の流通機構が確かに全体的な経済発展に比べて前近代的な形のままに残されていることは事実ですから、それを近代化するということが一つのきめ手になるということは、論理として、理屈としてはわかりますけれども、実際実情はどうなっているか、私は率直に申し上げまして十分存じておりませんので、確信のあるお答えができないのは申しわけありませんが、やはり流通機構に問題があるということはわかりますが、さてその先どうすればいいかということになりますと、私の見ました資料の範囲では、率直にいってきめ手がない。その点はもう少し政府のほうでもしっかり調査をしていただくことが必要なんじゃないかというふうに思っております。   —————————————
  15. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) この際、委員の変更につきまして御報告をいたします。  本日、坂本昭君が辞任せられ、その補欠として佐多忠隆君が選任せられました。   —————————————
  16. 佐多忠隆

    佐多忠隆君 高橋先生にひとつお尋ねしたいと思います。先生のお話で、たとえば自動車産業でいろいろなメーカーがおのおの一つの単位の製造をして、これが非常に不合理だから、各メーカーが一緒になって分業を合理的にやったらもっといいんじゃないか、少なくとも国際競争力を増すのじゃないかというふうな意見があったというお話ですが、もしそういうことにするとすれば、これは産業の再編成と申しますか、経済の再編成につながる問題でありまして、財閥であるとか、あるいは資本系列一つのグループ、そういうものを解体をしてしまって、財閥その他を解体をしてしまって、もっと次元の高い一つ産業体といいますか、企業体、そういうものを作らなければならないということになると思いますが、そういう意味での再編成を行なうべきだ、経済編成なり企業編成をすべきだという考えかどうなのか。もしそういうことをするとすれば、これは単なる、いわゆる自主調整という問題ではない、もっと次元の高い立場からの再編成であるから、国家が相当の役割を演じなければならない。そういう再編成の過程において国家がどういう役割を果たすかというふうにお考えになるかという問題。  さらには、もう一つは、これは大きな問題でありますから、ある意味では革命だと思うのです。そういうことが平和的に可能であるとお考えになるかどうか。そうしてまた、平和的に可能であるとすれば、どういう道行きを通るから平和的に可能だというふうにお考えになるか。そういう点をお示しを願いたいと思います。  それから、山田先生にちょっとお尋ねしたい。物価の問題ですが、ちょうど農産物価格の問題が出ましたので、豚の値段の問題をお聞きしたいのですが、御承知のとおり、豚は非常に大きく高下した。これは現在の政府あるいは自民党の農業基本法の矛盾をむしろ端的に暴露したものだと私たちは思うのですが、一体あの農産物価格、特にたとえば豚の価格というようなものを安定をさせるために、現在の畜産物価格安定法というようなものでいいのかどうか、法としてどこに欠陥があるのか、あるいは行政運営としてどういうことがなされなければならないのか、特に安定をするという問題と、それから一体適正な価格、豚価格について適正価格というのはどういうところあたりの水準を考えればいいのか。現在は御承知のとおり、一キロ二百四十五円で買い上げて、これを支持をすると言っているが、かりにこれが支持されたとしても、どうも養豚家に言わせると、原価を割ってしまって子豚代とえさ代をもほとんど償わない。したがって、労賃その他は完全に見込まれないような低価格というような問題もあります。それらの問題をどういうふうに見、どういうふうに施策を進めたらいいとお考えになりますか、その点を山田先生にお尋ねしたいのであります。
  17. 高橋正雄

    公述人高橋正雄君) お答えいたします。佐多さんの御質問を伺っておりまして、こういうことを思い出しました。それは占領当時でありまして、占領軍日本発送電会社を解体して、九つですか幾つかの企業に分けよう、日本製鉄所を解体して幾つもの小さいものにしようというふうな話があったとろであります。先輩の有沢広己さんと私とが、帝国ホテルかどこかで、お前たちはどう思うかという意見を求められましたので、われわれは反対をいたしました。で、もしアメリカ日本経済を小さくしよう、弱くしようというならそういう手もいいかも、れないけれども、今後の日本経済成長させようと思うと、日本では最近の技術に基づいたワンセット仕入れるだけで、もう十分な場合が幾つも起こり得るんだ。それから、日本のような小さい国民経済としては、幾つもの企業を乱立させて、自由競争させて、低価格でいいサービスを与えようというふうなのは、それは昔のおとぎ話で、アメリカでさえそうではないじゃありませんか。ですから、日本発送電とか日本製鉄というようなものを、せっかくまとまっているものを分断するのは、技術の進歩ということを考えてもおかしいし、国民経済の利益から考えても反対だということを申したのでありますが、そうしたら、そのときのアメリカ側の答えは、君たちは夢を見ている、日本一般国民、ことに労働者階級が非常に民主的に訓練され、組織されて、その労働者なり一般国民なりの意向を国会が十分に反映して、その国家がそういう大企業などを十分に監督できるようになってからならお前たちの言うことはいいかもしれないけれども、まだ早いじゃないが、一回り早過ぎるということを言われたのでありますが、ただいまの佐多さんの御質問に直接にお答えをいたしますと、私は、佐多さんがおっしゃったように、今の日本の大産業、いわゆる大資本といわれる辺のところを根本的に再編成することが必要だ、そういうふうに考えております。で、ビッグ・ビジネスとか大企業というのは、大きいことが悪いのではないのでありまして、技術の革新ということを前提にすれば、もっと大きくなってもらわなければ、今問題は大きくなった大企業が一部のものだけの、自分たちだけの利益で動く場合がこわいわけであります。そうなれば、当然国家が大いに干渉することであります。国家が干渉することを官僚統制とか何とかいいますけれども、それは日本の官僚諸君を国会が十分に管理監督できるはずでありまして、私は、日本国民から出てくる国会議員の方を信用いたしますので、そういう方々が国家の政府なり機構を通じて、日本の官僚諸君をも、また日本経済をも十分に日本の利益という見地からコントロールされるということの能力を信じて疑わないわけであります。
  18. 山田亮三

    公述人山田亮三君) きょうは物価のことでお話し申し上げましたので、物価の専門家ということになって、御質問が物価の問題に集中しておりますが、必ずしも物価の専門家ではなくて、まして豚まで手が回りかねるわけですが、豚の場合は、正直に申しまして、ビッグ・サイクルというのが国際的にもあって、価格の騰落が激しいというのが一般的な通説になっております。そうした点で、今回の場合は、それは特殊に激しく現われたということは言えると思います。そうした点で、ビッグ・サイクルがある。したがって、激しい変動があるんだから、豚の値段が上がったり下がったりするといってしまえばそれまででございますけれども、激しい物価騰落について一定の対策ということを準備するのは、これは当然かと思います。ただ、しかし、現在やっております政策がどうこうとなりますと、私も率直に言って、十分研究しておりませんし、実態もわかりませんので、無責任なお答えになりますので、その点はひとつかんべんしていただきたいと思います。豚まで手が回らない。
  19. 戸叶武

    戸叶武君 今の豚の問題を出したのは、豚だけの問題じゃないと思うんですが、やはり私たちの日常生活の中において、物価値上がりが池田内閣の値下がりになったというので、きげんをこの間損じましたけれども、これは毎日新聞の統計でも明らかなので、この問題は、やっぱり一応豚の問題は、そういう卑近な問題から、運賃の問題やそういう問題から掘り下げていけばいいんだと思いますが、やはり物価の問題で私は運賃の問題が非常に関係があると思うのですが、数年前やはり運輸委員長をやっておりましたときのこの運賃値上げに対する当局の主張というものは、とにかく政府のほうから、この公共投資がそういうふうに簡単にできないから、今まで国鉄は利益にならない線を開拓したり、それから公に対する学割や何かのサービスをしたりするのだから、とにかく値上げしなければやっていけないというのが苦しい言いわけでした。しかし、これはその当時から、もうイギリスなりフランスなり、こういう運賃というもの物価にすぐはね返ってくるので、そういうこの物価の変動を招かないために、政府の犠牲によって、財政投融資でまかなっているのです。そのときの言い分としては、国鉄はそういう公共性があるから、やむを得ない、からこの場合やってくれ、私鉄のほうにはこれを及ぼさないという口実でした。それが突破口になって、今日においては私鉄運賃の値上げとなっているのです。私鉄は、このごろ土地の値上がりや何かで新線を作るのは骨でしょうが、一番金のもうかるところをつまみ食いしているのです。大体私鉄関係に運輸省の古手はみな高給でもって吸収している。私立国鉄とまでいわれるほど私鉄というものはのさばっているのです。そういうふうにして、この運賃の値上がりというものが、物価値上がりというものを促進させないという例は、世界じゅうどこを見てもない。野菜から豚にまでみんな及ぶのです。そういうことを平気で政府がやっているところにあなたが指摘しているような面があると思うのですが、やはりイギリスやフランスでも現にやっているような、国鉄なり何なりの犠牲路線に対しての新設に対しては公共投資をする、利子の補給をやることは簡単にやって——そういうものは抑制すべきだし、あなたが言っているように、私鉄の場合だって、こういう非常時の場合においては、そういうことを排除しても運賃値上げというものを押えていただくようなことがなければ、物価に対して政府は熱意がないと見なければならないと思うのですが、やはりこの運賃と豚の問題だけに制約しますけれども、豚だって、政府が選択的拡大というので、米麦ではだめだ、もう畜産、果樹をやりなさいというので、みんな豚を飼ったのです。いなかの人はまじめです。そうすると一頭一万八千円くらいしたのです。それがたちまちのうちに今度は一頭九千円くらいに値下がりしてしまったのです。この間の河野さんの施政方針演説を聞いてみると、需要に間に合うようにもっと畜産を奨励しなければならない、これは官僚が書いたのを大臣が読むという習慣からきているのでしょうが、当面の問題に一つも対応した施策がないのです。政府は、このごろあわてて、物価の問題で評判が悪くなったからといって騒いでいるのですが、これは自由主義経済だからやむを得ないというのではなくて、政府の施策が大衆に及ぼす悪影響に対して、政府がひとつも責任を持たないのです。最低値段を一キロですか、枝肉を二百四十五円にするというけれども、二百四十五円ではとても農家ではやっていけないのです。やはり二百七、八十円でなければ豚を飼っても赤字なんです。まあひどく倒れては大へんだからというので、応急処置で食いとめたのでしょうけれども、生産に従事する人に対して、見通しと計画性のない、この生産を指導する政府の無責任というものは、これは政府としての価値がないのです。物価問題に対して今の政府と与党がふまじめだから、私は真剣にこの問題から池田内閣に対する穴をあけてやらなければだめだと思うのです。こういうふまじめな政府ができるところの運賃の問題でも、そういう政府がまじめに重点施策として農業政策で打ち出した問題でも、らっぱを吹きっぱなしで、ひとつもしりぬぐいをしない、そうして教祖様みたいのを連れてきて、高度成長すればみんな何もかも万能薬で済むのだ、私は、全くこれは国会なり国民を愚弄をしておる。もっと政治というものは真剣でないと、この物価値上がりに対して政治がコントロールする力がないから、政治がこれをほんとうにまじめに調整する力があるかないか、これは池田内閣だけでなく、政治に対する不信の分かれ道だと思います。この問題に対しまして、山田さんから、この物価の問題、それから高橋さんから、私はやはりナショナル・ガバーメントを通じてのほんとうのポリティカル・コントロールというものは、ほんとうに近代国家における重要な要素であって、それが物価の問題、金融の問題、財政の問題、もっと総合的な計画性が立たなければ、今のような政府はあってなきにひとしいものだと思いますので、そういうところからひとつ建設的な意見を出してもらいたい。(「質問だけすればいいのだ」と呼ぶ者あり)それが国会というものだ。君は何も知らないのだ。
  20. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 私語はおやめ下さい。山田さんの御答弁がありますから、お聞き下さい。
  21. 戸叶武

    戸叶武君 ふまじめきわまるじゃないか。たばこをぷかぷか吸っているだけで、ふまじめきわまるじゃないか。(「ヤジにも注意しなさい」と呼ぶ者あり)
  22. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 委員長の耳にはよく聞こえませんでした。
  23. 山田亮三

    公述人山田亮三君) おっしゃるように、現在政府物価政策に対しまして、これまで確かに比較的関心が薄かったということ、そういう関心の薄さの背景には、ある程度値上がりしていくのは当然だ、この程度の値上がりは、ある程度あたりまえだという気持があったことは確かに否定できないのじゃないかと思います。そして、ある程度私も非常時だと言ってしまいましたけれども、こうしたかなり大幅な物価値上がりを強行してしまった以上は、やはりそれなりに、先ほど申し上げましたように、現在の段階で非常時特定対策を発動いたしませんと、やはり国民としては、政府ほんとうに真剣に物価政策に取り組んでおるかどうか、非常に不安の念を持つことは御指摘のとおりでございます。その点につきましては私も同感でございます。ただ、公共料金値上がりを、すべて政府の財政資金でまかなってそれを押えるという考え方、これにはある程度まだまだ問題があるのじゃないかという感じがしております。たとえばヨーロッパその他の鉄道と日本の鉄道と比べて見た場合に、ヨーロッパの鉄道の場合には、明らかに斜陽化しておる。日本の場合には、必ずしもその斜陽化の程度がヨーロッパほどいっていない。そういう条件の相違もいろいろあろうと思います。そういう点で、皆すべて運賃の値上がりを財政資金の補給でもって上げるなという考え方は、ちょっと疑問がありますけれども、ただ、現在の段階では、やはり非常時である以上は、非常時対策としてこれを抑えるという態度を示すことが重要なんじゃないか、そういうふうに考えます。
  24. 高橋正雄

    公述人高橋正雄君) そうですね。先ほど佐多さんにお答えしたことの続きになるわけでありますが、佐多さんが先ほどおっしゃったことに私十分答えませんでしたけれども、つまり平和的に現在の憲法、現在の議会制度、政府発展改良させながら、日本経済全体について、特に正直で弱い人が損をみるというようなことがなくなるように計画ができないか、私はできると思っております。そういう計画をしながら、なおかつ、どこの国よりも自由、民主的なものが栄えるような、そういう体制が可能だ、そういうことを大いに政府国民も、国会ももちろんでありますが、研究してみる、みんなで考えてみることがわれわれの任務ではないかと、そういうふうに考えております。
  25. 羽生三七

    ○羽生三七君 両先生どちらからでもよろしいのですが、お答えいただきたいと思いますが、この物価の場合、先日もこの席で、関連質問で総理の見解をただしたのですが、この物価が上がるか下がるかということは、一般的、原則的にはもちろん需給関係できまることでありますが、その需給関係だけで律せられないいろいろな問題があると思います。たとえば今の物価値上がりの場合、たとえばサービス部門なんかで、総理がよく言われるそば屋の出前持ちもなり手がなくなったような、ことほどさような雇用の拡大という、そういう点から、このサービス関係では、人件費等の関係でいろいろものが上がることはあります。ところが、この間、木村さんと総理との論議の際に、大村さんが、これは金融インフレ、さらに進めばインフレ的な傾向があるのではないかということを言われたときに、総理は、いやデフレの傾向もあるという人もあるくらいだから、一がいにはそうは言えない。私も両論どちらがいいとも言いませんが、かりにもし総理の言うようにデフレ的な傾向が出てきた場合でも、直ちに一般的、原則的には物価は下がるわけですが、必ずしも物価が下がることにつながらない部面が、今の日本の公共料金あるいはサービス部門等のことを考えると、このデフレ的な様相が現われてきても物価の値下がりには通じません。そこで、そういう問題を質問した際に、総理は、それはコスト・インフレに入りかけておるんではないかと言われましたが、これは去年の十月の臨時国会で私が質問したときと全く違って、総理としては、これは全く新しい発言であります。私はまだコスト・インフレの段階とは考えておりませんけれども、今の物価騰貴はそういう面を持っておるのかどうかということが一つであります。  それからもう一つは、ごくこまかいことでありますが、先ほど申し上げたようなサービス部門等でやむを得ず——やむを得るか得ないかは、これはちょっと判断の尺度で違うかもしれませんが、かりにやむを得ない物価騰貴だという面と、それから最近の需給関係等から出てきた物価騰貴、そういうもの等、今直にここでそういう資料をお持ちかと言っても、こんなことは無理な話でありますが、何かそういう点で御判断をいただくような材料があるかどうか、この点をお答えいただきたい。
  26. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 両先生どちらでもけっこうでございます。
  27. 高橋正雄

    公述人高橋正雄君) それでは二人で分けてやります。  最初のインフレ、デフレ論であります。それについてはこう考えます。先ほど申し上げたことに続くわけであります。日本銀行貸し出し通貨増発が非常に多くなっているということは明白であります。それから地価の値上がり、株の値上がり、その他の高度成長ブームで、一般にあるなしにかかわらず、さらに月賦販売制度というようなものがありまして、非常に購買力が大きくなっておりますので、それに対しては、財貨の供給が必ずしも及びませんので、そういう点では基本的にはインフレ傾向があるということは言えると思います。しかし、資本主義経済というのは、自由経済と申しますのは計画のないところでありますから、ある部門では、もし政府国際収支のことを考えて金融引き締めなどをやりますと、その引き締め政策をじかにまともに強く受ける部門にはデフレ傾向があるわけでありまして、必ずしもどっちでなくちゃいかぬというふうにはきめられないと思いますけれども、基本的には依然としてインフレ傾向が続いておる。その中で弱いところ、谷間のところにはデフレの傾向があるのではないかと、そう考えます。それから、デフレになれば、一般論としては物価は下がるはずでありますけれども、その分野で大企業などが実質的に独占的な打ち合わせなり相談なりができるような仕組みになっていれば必ずしも下がりませんし、大企業でなくても中小あるいは職人の組合なんかでも、その団結ががっちりしていれば、必ずしもデフレになり、ものが下がるとは限らないと思います。  それからコスト・インフレについては、今問題になっているさなかでありまして、労働省の調査によりましても、短期的には、一時的には生産性の伸びよりも賃金が伸びておるではないかというようなことをいわれておりますけれども、過去数年、ここ一、二年の間の高度経済成長下で賃金値上がり物価値上がりとを比較いたしまして、物価値上がり賃金値上がりによるところがあるかないか、あるとしてどのくらいあるかということは、まだ十分には資料がそろっていないのではないか、そういうふうに考えます。
  28. 山田亮三

    公述人山田亮三君) ちょっと補足してお答えいたしますが、確かに物価は需給関係できまるものだ、しかし、何か需給関係以外なものがありそうだということを考えてみますと、要するに今日本経済がある程度構造的な変化を示している時代に入っておる。特に労働市場におきまして、とにかく豊富で低廉な労働力と見られておりました日本経済力が、高い労働力を大切に使う経済に変わってきておるということなんです。そうなって参りますと、そうした構造的な変化から、やはり物価が上がっていく面が多くなるわけであります。これは市場の需給関係以外に物価をつり上げる要因になっていることは事実であろうと思います。ただ、しかし、そうした構造的な要因が実際に値上がりとなって現われるのは、そういった需要がなければ上がり得ないということになって参りますから、この問題は必ずしも機械的に切り離して、これが構造的要因、これが需給関係の要因というふうには言えないと思います。たとえば労働市場の構造変化と申しましても、要するに労働力の需給関係が変わってきて、つまり需要超過になってきて、最近職人さんというのは非常に足りなくなってきております。大工さん、洋服のテーラーさんとか、足りなくなってきております。足りなくなるから賃金が上がる。賃金が上がるから、やはり洋服の仕立代も上がると、こういう傾向になる。しかも、一般国民は、デフレになりましても、別に月給が下がるということはないわけで、消費購買力が変わらないということになると、消費物価値上がりして、それが通る条件もあるわけです。ですから、構造的要因と需給関係の要因がからみ合ってやはり動いているのではないかというふうに判断しております。  これをコスト・インフレと呼ぶかどうかということになりますと、かなり疑問で、やはり今までそうした職人さんであるとか、あるいはサービス産業に働いているそば屋さんの出前持ちとか、そういった方々は社会の中でも地位も低いし所得も低かったわけです。これが上がっていくという過程で物価が上がるということは、インフレというよりも、やはり物価の構造変化で、直ちにこれをコスト・インフレと呼ぶには当たらないのではないかというふうに考えております。
  29. 加瀬完

    ○加瀬完君 山田先生にお伺いをいたしたいのでございますが、物価対策から見て、このたびの政府の物品税がはたして合理性があるかどうかという点について、二、三御指導を願いたいのであります。  一つは、諸外国の物品税は、大体消費支出弾力性というものが相当加味されておるものと思うのです。しかし、今度の政府の物品税は、あまり消費支出弾力性というものにウエートが置かれておらない。これではたして合理性と言われるかどうか、これが一点であります。  次には、それが具体的に現われますと、たとえば消費支出弾力性が非常に高い電気器具、あるいは小型モーターボート、あるいは高級な香水、オートバイ、書画骨董、こういうものが減免をされております。主として減免したものを見ますと、消費ブームをあおるようなものが減免されておるように思われます。そうすると、今度の物品税の減免というのは、消費ブームに刺激を与えたということにすぎないのではないか。高度成長にてこ入れをした、そういう意味の物品税の値下がりで、一般庶民の物価対策という点から考えれば、あまり関係がないというようにも思われるわけでございますが、この点について御指導を願いたいと存じます。
  30. 山田亮三

    公述人山田亮三君) 確かにおっしゃいますように、今日本国際収支改善のための引き締め政策をやっているその段階で間接税を下げるというのは、政策としてはおかしいわけですね。たとえばイギリスの場合でございますというと、昨年やりました国際収支改善政策の場合は、むしろ間接税を上げて購買力を吸収する、そういう政策をとっております。ですから、そうした目先の当面の国際収支改善政策からいえば、おっしゃるように物品税を下げてある程度消費をあおる——値段が下がれば消費が伸びるという形で、確かにおっしゃるとおりの消費をあおる効果があるかもしれません。しかし、その今の全体的な経済情勢からながめて考えますと、確かに物品税の軽減の仕方にはおっしゃるように問題はございましょう。ございますけれども、やはり当面の問題、国際収支対策も重要であるけれども、今の国民物価値上がり不安というものがより当面の政策としては重要であるということを考えますと、物品税を下げてある程度下げた部分を価格の引き下げに反映させていくということは、こうした物価政策の面を見ればそう悪いことではないのではないか、そう思っております。おっしゃるように、下げることは確かに消費を促進する、それは国際収支とおかしいではないかという点は御指摘のとおりでありますが、当面の政策の重点が、やはり国民一般に対する不安が非常に強くなっていますから、それに対する手として物品税引き下げによる値下がりをねらうということは悪いことではないのではないかという感じがしております。
  31. 加瀬完

    ○加瀬完君 その点はよくわかりますが、下げ方が、まあ極端にいうならば、ぜいたく品でも消費ブームをあおるようなものはずんずん下げている。生活必需品のようなものでも、むしろ下げないで、物品税だけを問題にしては物価対策にならないと思いますので、若干他の間接税、あるいは租税なんかの問題に触れますと、電気ガス税とか、あるいは一般たばこの税金とか、こういったものに全然手を触れないで、むしろ触れても小幅で、書画骨董といったような、これは生活には何も関係ないものを大幅に下げるといったようなことは、非常に合理性を欠くのではないかと思われるのでありますが、先生の御見解はいかがでございましょうか。
  32. 山田亮三

    公述人山田亮三君) それは、私も十分に内容を検討しておりませんで、その点ではっきりしたお答えを出すことができないのですが、確かにおっしゃるようにそういう面はございましょう。ですから、その間接税の軽減についても、どのようなものを下げるか、あるいはまたその間接税の軽減のほかにかわるようなものはないかという点は、やはり十分に検討する必要があるわけでございます。現在のあれが細目に見ていいか悪いかということになりますと、それは別個な判断になるかと思います。その点は十分、それこそ皆さん方に審議していただきたい、そう思っております。
  33. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 高橋山田両御公述人公述はこれで終了いたしました。  午後一時に再開することにいたしまして、休憩をいたします。    午前十一時四十七分休憩    ————————    午後一時十四分開会
  34. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) これより予算委員会公聴会を再会いたします。  問題は、昭和三十七年度総予算でございますが、公述に入りまする前に、公述人の方々にごあいさつを申し上げます。  本日は御多用中にもかかわりませず、当委員会のために御出席を賜わりましてありがとうございました。委員会といたしましては、昨日来公聴会を開き、学識経験者でございまする公述人各位から有益なる御意見を拝聴して参りましたが、ただいま御出席の皆様からも忌憚のない御意見を拝聴できまするならば、当委員会といたしまして稗益するところ大いなるものがあると存じます。  午後の公聴会の進め方につきまして申し上げますが、公述時間は、大へん申しわけないのですが、二十五分以内にお願いをいたし、またお一人ごとに各委員からの質疑をいただいてお答えを願いたいと存じます。なお、質疑者も多いと存じまするので、質疑の時間は公述人お一人に対しまして二十分程度内外でお願いをしたいと存じます。  午後の公述は都合によりまして末高公述人のほうを先に繰り上げましてお願いを申し上げます。
  35. 末高信

    公述人(末高信君) これから公述を始めたいと思います。  まず、冒頭にお断わりをしておきたいことは、私は早稲田大学の教授でありまするとともに、総理府を初め、大蔵省、労働省、厚生省その他で多くの審議会の委員として関係をいたしておりまするが、本日の公述は一人の社会保障の研究者として私の意見を忌憚なく申し上げたい、関係審議会の論議や考え方とは何ら直接の関連のないということを初めにお断わりを申し上げておきたいと思います。  さて、社会保障は、毎日々々を病気や災害や失業、あるいは老齢、死亡という、いろいろな脅威にさらされて生活をしておる人々に対しまして、ただ一つの願いであり、救いでありまして、このような国民の心からの願いに耳を傾け、国民生活に対し基本的な保障を行うことは国家の厳粛な義務であり、したがって政治の根本であると存ずるものであります。池田内閣はその成立以来、社会保障を一応その公約の一つとして掲げておることは周知のとおりでございますが、それがはたして三十七年度予算においていかなる程度に盛られておるか、以下私の感想を述べてみたいと思います。  社会保障予算の検討を行なうのに先だちまして、社会保障の意義とその範囲につきまして一言しておきたいと思います。  まず、社会保障は、社会の責任において国民の一人々々の生きるということ、すなわちその生活を保障するための仕組みであり、国家の制度であると考えます。そうしてまた、この社会保障によって保障せられる国民生活は、食物を食うて、着物を着て、家に住むという、ごく普通の生活部面、換言すれば、お金でまかなわれる生活部面であります、さらに言いかえまするならば、社会保障は人間生活のうち、芸術的な生活部面や、あるいは政治的な生活部面などにつきまして保障を与えるものではございませんです。かくて社会保障は、金に関連する人間生活の保障であるから、したがって社会保障を行なうためには、国としてはお金の用意が必要であり、したがってそれがため、多くの予算を必要とすることは論を待たないのであります。  さて、このような使命を有する社会保障はこれを広義に解釈して、住宅はもちろん、主食である米を確保することや、学校給食などまでも取り入れる論者もございますが、そうなりますると、道路の整備や治山治水というようなことまで入ってくることになります。そこでここでは私はきわめて常識的に解釈いたしまして、病気に対する医療保障、老齢や遺族等に対する年金保障、それから雇用、失業に対する失業保障、それから低所得者等に対する生活保障の四つの部門からなるものと考えまして、三十七年度予算をそれら各保障との関連において吟味していきたいと思います。  まず、それら四部門の検討に入るに先立ちまして、予算の総ワクと社会保障予算との関係に触れてみたいと思います。三十七年度の一般会計は、二兆四千二百六十八億円でありまして、前年度に比しまして四千七百四十億円の増加となっております。これに本年度減税分として割り当てられました一千億円を加えますると、三十六年度予算に比べ、その財源として約五千八百億円の余裕を持った予算であると考えられます。このような余裕財源は、一千億円を減税に、一千億円弱を地方交付税に、それから公共事業にさらに一千億円を割り当て、教育費と社会保障費にはおのおの五百億円ということでございます。残りを雑件に振り向けているのであります。すなわち、三十七年度の余裕財源の配分におきまして、社会保障に振り向けられたものはわずかにその十分の一に満たないというのが実情でございます。もちろん、国家の行なう活動の全般をまかなうところの国の予算といたしましては、それぞれの項目の持つところの重要性は、これを了解するのにやぶさかではございませんが、このような余裕財源の配分は最も重点的に行なわなければならないものと考えます。池田内閣は三大施策の随一に社会保障をおいていると公約しているのでありまするから、あえて余裕財源の三分の一とまではいかなくとも、せめて五分の一の一千億円程度を振り向けるべきではなかったかと考えるものであります。  社会保障四部門のうち、まず医療保障を取り上げてみたいと思います。ここで目につきますことは、国民健康保険における給付費に対する国庫負担の割合を従来の二〇%から二五%に引き上げ、その所要予算といたしまして七十九億円を増加したことであります。第二は、結核精神衛生対策費といたしまして百三十億円を増加したことであり、さらに第三は、原爆症対策費に五億円を増加したことでございます。  これら増加費目のうち、結核に対して追いうちをかけるため、療養所への命令入所費として五十四億円を増し、また現代の文明病としての精神病患者の措置、入院費として四十二億円の増加を予算化したことは、私ども国民の同感を得るところでございます。原爆症対策費の大幅の増加は当然でございます。原爆症患者こそ最も明確な戦争犠牲者でありまして、それらの人々に対する援護は国の責任でございます。このたびの予算で爆心地から三キロ以内の被爆者の治療は国の責任となったのでございますが、私の考えるところによりますれば、これはさらに五キロ程度にまで拡張すべきであり、さらに治療に伴うところのいろいろ生活援護、手当、この予算に盛られている限りにおきましては決して十分とは言えないのであります。  国民健康保険の給付費に対する国庫負担率を二〇%から二五%に引き上げたこと、そのことは今日の段階といたしまして当然の措置ではございますが、私のここで一言申し上げたいことは、政府の医療保険政策は、総じてあまりに目前の事象にとらわれ、全く大局を見失ったものであるということでございます。医療保険がその効果を発揮するためには、まずその前提条件を整備しなければならないわけであります。すなわち、三十五年度をもって一応医療保険の皆保険は達成せられたのでございますが、全国的に見て、医師の適正配置ができていないため、地域によっては病気になっても医師がいない。したがって診療を受けることができないというかわいそうな国民が多数存在しているのであります。このような事態を解消するために、僻地医療対策をなお強力に推進し、今日義務教育の教員のいない地域が全国にないと同じように、全国に医師の適正の配置が行なわるべきであります。なお、国民健康保険やあるいは健康保険の被扶養者の五割給付は、これは少なくとも七割ないし八割の給付に改められなければ真の医療保障としての効果はないと思います。そのような医療保険の給付の改善のためならば、大義名分の立場から申しましても、被保険者もその保険料負担の増加に応ずるでありましょうし、国といたしましても、負担増加を回避する何らの理由はないわけであります。  また、国民健康保険で、給付費の二五%国庫負担が実現いたしましても、医療担当者への医療費支払いが従来どおり単価点数方式による出来高払いで行なわれるならば、保険者と医療担当者との間の抗争は依然として続くに違いないと思うのであります。このような両者の抗争の状態を放置するならば、医療保険は一方においては差額徴収のやみが横行するとともに、一方においては医療内容の実質の低下はこれを避けることができないと考えるのであります。  今日このような事態の到来を回避して、国民が安んじて医療保険によって自分の生命を守ることができるようにするためには、私はあえて申し上げたいのでありますが、イギリス方式を採用して、医師への支払いを俸給制ないし登録人頭式に切りかえるか、あるいは少なくともフランス方式を採用すべきであると考えるのであります。かくのごとき、医療報酬の支払い方式につての基本政策の転換を伴わない限り、医療給付に対する国庫負担の増加は、その場その場の応急的な措置に終わりまして、二十八才のスクーター医師が今日最高の収入を上げているそうでありますが、それらの人たちの収入を増加するだけに役立つのではないかとおそれるものでございます。  次に、社会保障の一つの部門として、年金保障について申し上げたいと思います。  三十七年度予算において、国民年金のうち、福祉年金を他の公的年金との併給を行なったために十一億円、さらに保険料の免除者に対しても国庫負担を行なうために十億円の計上をみたのであります。これらの措置は当面する問題の解決としては納得できるのでありますが、ここでも医療保障におけると同じように政府の施策がまことに末梢的であって、年金というものの意味するところを見失っているのではないかと考えます。年金というものは、それによって老齢者や身体障害者ないし母子家庭が、少なくとも納得し得る最低の生活ができることを保障するものでなければならないわけであります。国民年金のうち福祉年金を一挙にその線まで引き上げることはできないといたしましても、とりあえず現在の二倍程度には底上げをすべきであります。そもそも現在の千円というあめ玉年金の額は、社会保障制度審議会が三十二年度を基準として構想したものでありまして、その後の経済成長国民の年金に対する期待の高まりを考え合わせるならば、この程度の底上げは、けだし当然と考えられるのでございます。国民年金のうち拠出的年金は昨年から発足したばかりではございますが、これも少なくとも現行の三千五百円の二倍程度の年金額を目標として練り直すとともに、そのような年金額の増加に見合いまして、保険料も三十五才以上をたとえば二百円、それ未満は百五十円、今日よりも引き上げるとともに、それに対する国庫の負担も今日は拠出の二分の一国庫負担ということになっておりますが、これを同額国庫負担とするならば、私はただいま申し上げた程度の引き上げが可能であろうと考えるものであります。  次に勤労者、勤め人を対象とするところの厚生年金保険は、現在の平均支給額わずかに月四千円そこそこでございます。公務員の共済年金に比べて著しく見劣りがすることは周知のとおりでございます。これでは民間勤労者の老後の生活や、遺族の生活を保障することは不可能であることは明らかであります。また明年はこの厚生年金の計算を洗い直す時期にも当たっておりますので、政府といたしまして真に勤労者の生活を保障するに足る年金制度の確立を目標といたしまして、この制度の根本的改革を行なうべきであると考えます。  この際考えなければならないことにつきまして二、三申し上げたいと思います。その第一は国庫負担の増額であります。すなわち現行の厚生年金の年金給付は一五%の国庫負担を持っているのでございますが、これは明らかに低きに失しております。国民年金では三三%、失業保険では二五%の国庫負担率があることを勘案いたしまして、なぜ勤労者の年金のための国庫負担がそれよりも少なくていいか、ということは納得のできないことでございます。厚生年金のうち低額部分につきましては、二五%ないし三〇%の国庫負担を行なうのが当然ではないかと考えます。  第二点といたしまして、現在多くの企業において行なわれている経営年金については、一定の条件を付して、厚生年金のうちに報酬比例部分の通用除外の処置を講ずることが至当ではないかと考えます。  第三点は、厚生年金の底上げは低額部分を中心として行ない、国民年金における底上げとその歩調をそろえることが望ましいと考えます。  社会保障の次の部門として、低額所得者や生活困窮者に対する生活保障というものを取り上げてみたいと思います。三十七年度予算において生活保護の対象六十万世帯、百六十五万人に対する保護基準を一三%引き上げるための予算約四十億円が認められたこと、及び施設職員の処遇を一三%引き上げるための予算約十一億円が認められたことなど、一応注目に値いするところであります。しかしながら、この生活保護基準の引き上げは、厚生省の大蔵省に対する予算折衝の段階におきまして、二二%の引き上げの線が要求せられていたことは周知のとおりでございます。最近の物価騰貴を念頭におけば、一三%の引き上げでは実質的にはむしろ基準の低下であり、なんと理屈をつけましても社会保障の立場からいたしますると、敗北予算であると言わざるを得ないのであります。これでは先に述べた結核、精神病対策費の伸びや原爆症の対策費の伸びによるところの保護の向上も、帳消しになってしまうのではないかとおそれるものであります。ただ、この点に関しまして衆議院におきましてすでに大蔵大臣の言明したところによりますれば、保護基準を四十五年度には基準年次の三倍とするということでございます。われわれ国民はこの言明を長く記憶しておきたいと考えております。施設職員の処遇改善のための予算十一億円が新規に認められましたことは、多年の要望が実を結んだとも言えるのであります。これによって保母さんに対する給与は、平均九千百五十九円から一万飛びの百二十八円に伸びたにすぎないのであります。保母さんたちの毎日の労苦から見まして決して十分ではないと考えられます。職場がたまたま社会福祉の仕事であるからという理由で、そこで働く人の俸給を低く押さえておくというわが国の従来の悪風は、この際一掃する覚悟を持たなければならないと思います。  この社会保障に関連して一言したいことは、児童扶養手当が三十六年度より十二億円を増しました十五億円に伸びたことでございます。これは給付件数が七万から約二倍に増したことと、その額も第一子八百円、第二子六百円、第三子以下四百円というふうに増額したためでございます。その受給要件は年額十五万円以下の所得となっております。生活困窮の原因の一つは子供が多いということにあることは、今やすべての社会調査によって確認せられているところであります。さればこそイギリスやフランスの社会保障制度は、その重要な一環として家族手当を実施しているのであります。そうしてこれらの国におきましては、家族手当はすべての国民に対し資力、収入の制限なく行なわれております。このような家族手当によって児童の生活がすべて国によって守られるという裏づけがあってこそ、賃金制度を能率給に割り切ることができ、そうしてこの能率給によるところの賃金体系の確立あってこそ、すべての産業活動、生産活動が近代化することができるという事実を考えますならば、この現行の児童扶養手当制度を中核といたしまして、漸次本格的な家族手当制度に発展させる用意があってしかるべきであると考えております。  次は失業保障部門を取り上げてみたいと思います。ここ数年の経済が高度に成長したということを反映いたしまして、雇用失対の状態は順調に推移し、現在の失業者は約三十五万人程度となっております。この程度の失業者は欧米の常識でいうならば、その全部が単なる摩擦的失業者として考えられる数でございまして、何ら社会的な問題とするに足りないものでございますが、わが国といたしましては、その背後にあるそれに数倍する不完全就業者が、低賃金に悩んでいるということを考え合わせるならば、問題は依然として深刻でございます。ことにエネルギー革命によって、最近までわが国の重要産業であったところの石炭産業の斜陽化に伴って、炭鉱労働者の失業問題がもはや一日も放置することができない問題となってきているのであります。この問題を根本的に解決するための方策としては、産業政策を中心とする総合的な施策によりまして、経済の一そうの繁栄をもたらし、完全雇用の状態を実現する以外にもちろんあり得ないのでございますが、目前存在するところの不完全就業者を、より労働力需要している産業部門に転換し、また炭鉱地帯の離職者を需要地に移動させる等、労働力の地域間、産業間の流動化をはかるためには、一方において広域職業紹介の機構を整備するとともに、一方においては勤労者に対する技能訓練の制度を拡充しなければならないのであります。三十七年度予算においてこれら広域職業紹介機能の拡充、炭鉱離職者の移住資金、雇用奨励金の新設、職業訓練の充実等に約六十億円を計上せられたことは、必ずしも十分とは考えないのでございますが、政府としてその重要性を認識しているという意味において、私は高くこれを評価するものでございます。  現在わが国における雇用失業問題を考える者にとりまして、最も頭の痛い問題は、戦後において一時的の措置として始められた失業対策事業が、今や恒久的な事業として抜き差しのならないものとなり、それに従事している約三十五万の労働者が、失対適格者という世にも不思議な名前をもちまして、それに定着してしまっているという事実でございます。したがって三十七年度予算においては、一般失業対策事業で二百三十五億円、特別失対事業で四十一億円、臨時就労対策で八十三億円、計三百五十九億円が計上せられ、三十六年度に比較いたしまして二十九億円の増加となっております。そのうち一般失業対策の賃金単価をみますると、三十六年度の平均三百八十円に対しまして四百二十五円となり、約これまた一三%の引き上げとなっているのでございます。失業対策を一つの現実としてみれば、単価の引き上げも予算額の増加もまことにもっともでございますが、これを一つ事業としてみるときは、その非能率はこれを否定することができないばかりか、その就業者の多くは労働力というよりも、むしろ非労働力そのものでありまして、一種の救貧事業に堕していることは、何人もこれを否定することができないのであります。この失業対策事業は、今やこれを根本的に検討する段階にきているものと考えます。政府といたしましてもこの点にかんがみるところがあったとみえまして、三十七年度の新規項目といたしまして、日雇い労働者の常用化を促進するための経費一億三千五百万円が計上せられております。しかしながらこの対象人員は年間平均わずかに三千人にすぎませんで、五十五万人に上る全国の日雇い労働者から見ますると、まさに二階から目薬の程度の効果も疑わしいと考えます。かくて失業保障の部門における政府の施策は、三十七年度の予算面からこれを見ますると、労働力の確保、離職者の雇用のための広域職業紹介の推進、あるいは失業対策事業とそれに関連する日雇い労働者の常用化等、いずれもその意図するところはおおむね納得できるのでございますが、その予算はきわめて不十分であって、おそらくはその意図を十分に実現することができないと考えます。  以上、社会保障とこれを構成する医療保障、年金保障、それから生活保障並びに失業保障の各部門につきまして、三十七年度の予算に盛られている政府の施策について私の批判を述べたのでございますが、ここで結論として一言加えておきたいと思います。  戦後、歴代の内閣はいずれも国民福祉の充実と社会保障の推進とをうたっているのでございまするが、現実の社会保障費の国際比較としてILOの発表するところによりますれば、わが国は現在なお第二十六位に停滞しているのでございます。わが国の社会保障は言にして言うならば、形式、体裁だけはほぼ整っているのでございますが、その内容、実質に至りましてはまことにお粗末千万でございます。社会保障の名に値しない。特に年金保障の部門につきましてはその感が深いのであります。政府は勤労者、俸給生活者のための厚生年金にいたしましても、一般国民のための国民年金にいたしましても、その年金額をもって老後の生活、遺族の生活が守られていると考えているのでございましょうか。真剣にこの問題に取り組んでほしいと思います。三十六年度に対する三十七年度の予算の伸びは、総ワクにおいて二四・四%を示しているにかかわらず、社会保障予算では二〇%にすぎないのであります。池田内閣といたしましては、真に社会保障の推進を念願するならば、まず手始めに一九五二年のILOにおける社会保障の最低基準の条一約を批准し、その基準の線に沿いまして、現在の社会保障各部門の整備の拡充をはかるべきものと考えるものでございます。  以上きわめて簡単でございますが、私の公述を終わります。(拍手
  36. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 御質疑を願います。
  37. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 簡単に二点お伺いしたいと思います。  第一点は抽象的なんですが、憲法二十五条でいう健康にして文化的な最低生活の基準でございますが、先生はこの点についてどういうふうにお考えでございますか。生活扶助の基準につきまして厚生省は二二%引き上げを要求したが、二二%に実際には削られました。非常に不十分であるという先生のお話でございますが、この点まずお伺いいたします。  第二点は具体的な問題ですが、岡山県の療養所につきまして、先生も御存じと思うのですが、朝日訴訟というものが行なわれた。これに関連しまして、裁判所では、違憲の判決を下したわけであります。ところが厚生省は、これに提訴しているのですね。私はこれは厚生省は当然取り下げらるべきだと思うのですが、この点、先生の御意見を伺いたい。と申しますのは、朝日訴訟に関連して、先生が厚生省側の参考人として、裁判所で御意見を述べている速記録によりますると、朝日という人が、六百円の医療給付は低過ぎる、千円に上げてくれと訴訟を起こしたわけです。当時先生の御意見として言われていることは、最低生活といっても、これは切りがないのだ、東北なんかは、はだしで歩いている人もいるのだ、あるいはわらで用を足している人もいるのだ。だから決して六百円で不足ではないのだ。こういう御意見をお述べになったやに聞いているのであります。先生は社会保障の非常な権威者であり、大家でございますから、先生のそういう御意見は、これは厚生省側に非常に有利な材料として使われるのじゃないかと思うのでありますが、ただいま先生の御意見を伺っておりますと、非常に社会保障について御理解ある御意見でございましたので、その今厚生省が提訴しているのは、これはもう現在で六百円なんということではお話にならぬと思うのでありますから、当然これは取り下げるべきじゃないかと思うのでありますが、この二点についてお伺いいたしたい。
  38. 末高信

    公述人(末高信君) 社会保障が、国民生活を守る——健康にして文化的な最低限度の生活は、国によって保障せられるのだというのが憲法の規定するところでございます。何が健康で文化的であるか、何が最低の水準であるかということは、その時、その時代によって変わってくる。一定不動の水準というようなものはあるべきものではないというのが私の従来からの考え方でありまして、今もこれを変えておりませんです。すなわち、国民一般のこの消費水準と申しまするか、一般国民生活というものを念頭に置きまして、国によって守られるところの生活は、たとえばその六割がいいのであるか、五割がいいのであるか、国民の平均値として考えられるところの消費水準なり生活水準の五割がいいのであるか、六割がいいのであるか、あるいは場合によれば四割くらいまで下げるということも、またやむを得ないのではないかということは、これは議論の段階よりも、むしろ私は政治の段階ではないか。すなわち国会においてその線が引かれたということで、国民全体が一応その線を納得している、こういう工合に私は見ておりまするために、したがって第二の御質問の点でありまするところの、朝日裁判についての私の意見も、そういう私の基本的な立場から申し上げたわけでございます。この程度で私の……。
  39. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 ちょっと簡単にもう一つ。先生は生存水準と、生活水準との間に、やはり区別をつけられておられるのかどうか。今の先生の御意見ですと、イグジステンス・スタンダート——存在水準ですか、生存水準というようなふうに受け取られるのでありますが、憲法で規定されているのは生活水準、リビング・スタンダード、これはどうしたって健康で文化的な要素というものが入らないと、生活水準といえないと思うのですね。そこで、先生は、一般国民の平均値の四割ぐらい、ある場合には四割ぐらいと言われましたが、それは生存水準ではないかというふうにわれわれとしては解釈されるのでございますが、この点はどういうふうにこれを理解してよろしいのでございましょうか、先生の御意見を伺いたい。
  40. 末高信

    公述人(末高信君) いかなる社会構造のもとにおきましても、私の考えるところによりますると、全部の国民に平均的な生活を押しつける、すなわち所得は全部国民一人々々に均分してしまうということはできないと思うのであります、どういうような社会構造を持ちましてもですね。現に世界に存在しているいろいろな国がございますが、それらのある国におきまして、まあ国がいわば社会主義と申しますか、共産主義の体制をとって、一応全国民に対して生活を保障するというようなことをやっておりましても、働いている人と働かない者、その他いろいろの階層の区別がありまして、生活水準がおのずから違う。いわんや現在のような日本の社会体制のもとにおきまして、社会構造のもとにおきまして、たとえば十三兆円の国民所得、それを九千万国民で割りまして一人当たり十五万円、あるいはそれ以上になるかと思いますが、四人家族、五人家族というようなことを考えまして、全国民にそれを均分したところの生活を、所得を与えるということは、事実において行なわれないと考えますので、したがって、国の責任において現実に保障するところの生活水準、保障の水準というものが、やはり国民の総平均、働いている者も働かない者もこめての総平均よりも、ある程度下回る。それがまあ世界各国の例を見まして、やはり四割から五割というところが常識的に守られているように考えますので、今私もそういうような一応基準を口に出しながら私の見解を述べたわけでございます。
  41. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 ほかの方の御質問もおありと思いますので、最後に簡単にお尋ねしますが、私は国民生活水準をみんな機械的に均分にせよ、そういうようなむちゃなことを言っているわけじゃないのです。それは社会主義国だって差があるのですし、機械的に均分しちゃったら、むしろ不公平ですね。むしろ不均衡ですよ。差があるのは、これは当然だと思うのです。ただ、先ほど先生もお話があったように、余裕財源というのはかなりあるのですね、自然増収というものが最近は。ですから、そういう余裕財源を考慮に入れれば、日本憲法でいう健康で文化的な最低生活を維持するためには、まだ引き上げる必要があるのではないか。私の聞くところによると、国民所得は、アメリカの九分の一ぐらいです。ところが生活保護基準はアメリカの十九分の一ぐらいに聞いております。そういう点なんか非常にこれは不均衡だと思うのです。そういう意味で私は伺っているのでありまして、全部をみんな平均にしてしまえ、そんなむちゃなことを言っているわけじゃないのですが、ことにまあ朝日訴訟に関連して、あまりにあれが低過ぎるから違憲の判決が下されたのでありますから、それについては先生は、あれは厚生省はあまり面子にとらわれないで、常識から考えてこれは当然違憲の判決が正しいと、われわればかりじゃなくて、国民常識じゃないかと思うのですが、これは取り下げるべきじゃないかと、先生などからアドヴァイスされていただけば、非常に厚生省に対しても有力な取り下げるための影響を与えるのじゃないかと思いますので、最後にその点をお伺いします。
  42. 末高信

    公述人(末高信君) 木村先生の御意見、私もよくわかったのでありますが、そこで重ねて申し上げたいのですが、生活水準、ことに生活保護費における生活水準というものが、学問的にぴしゃり明確にきまるものであるかというと、そうはいかない。むしろ、国会その他における政治的な努力が積み重ねられて、逐次それは向上していくものと、今日の段階におきましても、木村先生の御意見を拝聴いたしましても、私はそういうふうにこの問題については考えているものであります。
  43. 佐多忠隆

    佐多忠隆君 今、先生が国民の平均生活水準というか、生活水準といいますか、そういうものの六割あるいは五割、あるいは四割というぐらいのことで考えるというような生活保護費についてのお話でございましたが、ちょっと私も数字を失念しておりますので、はっきりいたしませんが、東京都の標準五人世帯の平均生計費というのはどれぐらいになるか。それとの比較において、ここできめられているところの一万三千四百七十円、今度の……。これは一体何割ぐらいに当たるのか。したがって、さっきおっしゃったようなことからいって、これでもまだ低いということが出てくると思うのですが、それならば、四割とかなんとかというような問題は出てこないのじゃないかというふうにも思いますが、そこいらは数字的にどうなっているのか。ことに生活水準なり所得水準の低い日本においては——外国では、あるいは五割の場合があり、四割の場合があったかもしれない。国民所得なり生活水準自体の低いところでは、その平均に比較すれば、比率はもっと上がったものでなければ最低生活にならないのではないかというような気もいたしますので、それらの観点のところをもっと詳しくお話し願いたいと思います。
  44. 末高信

    公述人(末高信君) 私も今、この一万三千四百七十円の数字が、一般の所得水準に対して何パーセントに当たるかという基礎的な資料を持ち合わせておりませんが、・大体四〇%と私は聞いております。間違いでございましたらば、別のルートから、厚生省その他によってお確かめを願いたいと思いますが大体四〇%前後、下回っても一%程度、上回っても一%程度、大体四〇%というふうに私自身は記憶いたしております。それで、さらに先ほどから申しまするように、私の信念といたしましては、一般的な所得水準の低いわが国におきまして、かりにアメリカあたりが四〇%であるといたしましても、四〇%ではとても生活の保障はできないのじゃないかという御意見は、何とも申し上げることができない。そういうようなことについての究極の決定は、むしろ国会予算審議の過程において行なわるべきであるというふうに私は考えておるものでございます。
  45. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 一つだけお伺いいたします。先ほど各種年金について御見解を承ったのですが、国民皆年金という角度から、各種年金のアンバランスというものをどういうふうにお考えになられて、おるかということと、それから、さらにひとつ掘り下げて、公務員の恩給と年金の点について、先生にちょっと御所見を承りたい。恩給は給与のあと払いの性格があるということがいわれておりますが、今度の国会においても、恩給法の一部改正が出ておるのです。後年次における公務員のべ・アに伴って、スライド的に国民の税金で恩給を上げていくというこのことと、それから国家公務員には御承知のとおり国家公務員共済組合法が制定されている。今度地方公務員に対して統一年金として地方公務員共済組合法案が出ておる。これは社会保障政策の一環としてやっておるのだ、こういうことで、国家公務員の場合には、一割の国庫負担が給付金に対してある。地方公務員にはない。今後貨幣価値が変わって、後年次における公務員のべ・アがあった場合に、今の恩給受給者のべ・アをするように、共済組合による年金のべ・アをする場合に、それはその時代の国民の税金によってべ・アをするのか。その恩給と年金との関係から、私は、社会保障政策の一環としてするならば、国が責任を持って国がある程度の負担をするということが建前になるのじゃないかと思うのですが、国家公務員と地方公務員の場合に違う。それから恩給法の適用者と、それから共済年金の適用者、後年次において貨幣価値が変わった場合のべ・アを国民の税金でスライド的にやるのか、どういう形でやるのが適当か。その点、御見解を承っておきたい。
  46. 末高信

    公述人(末高信君) この各種年金の間のアンバランス総合調整という問題は、非常に大きな問題でありまして、社会保障制度審議会におきましても、一昨年来この問題に取り組んでおるわけでございます。そういう公の意見が確定するのも間近であると考えておりまするが、今御質問がございましたので、私個人——先ほどお断わりをいたしましたように、一人の学究としての私個人の意見、また見解を申し上げたいと思います。それは、社会保障としての年金は、国民年金一本でいくべきである、それをあらゆる階層に、全国民九千万国民に適用する、その上積みになっておる部分が職場年金として、その職場ごとの雇用主並びに従業員の方々の相談によりまして、適当に設定をしていく、こういうことが望ましいと考えております。したがいまして、国民生活を基本的に保障するところの国民年金の点におきましては、あくまでも国家が責任を負う、将来、経済成長であるとか、物価の変動によりまして、その年金額が生活の保障に足りないということになりますれば、そのときの、その時代の全国民責任において当然ベース・アップを行なうべきである。その限度におきまして、公務員といわず私的勤労者といわず、全勤労者は、一国民立場においてそれに均霑する。その上積みの部分につきましては、それぞれの職場におきまして、職場年金の姿においてこれを設定し維持すべきである、こういう工合に考えるものでございます。
  47. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 末高公述人公述は、これで終了いたしました。どうもありがとうございました。(拍手)   —————————————
  48. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 次に、木内公述人お願いをいたします。
  49. 木内信胤

    公述人(木内信胤君) 私は、きょう、ここへ来て何か話せという御注文を受けましたときに、実は今の予算については、あまり勉強していないから、私が申し上げることはあまりないと申したのですが、ところが、世界経済との関係において、むしろ、現在の世界経済の動き、そういうものを話せというような御注文がありましたので、それで、あえてお受けして出てきたわけですが、したがいまして、私は、今度の予算に関しまして、あまり関心がないのですが、しかし、世界経済との関連もやはり申さねばならぬと思いますから、予算に関する私の見解見解というほどのものではございませんが、感想を——立場ですか、立場を一通り申しておきますと、私は今度の予算には、あまり問題を感じません。と申しますのは、深いところだったら、こまかいところだったら、大いにあると思います、けれども、それは、私の今の仕事に関係がないものですから、深いところは、よく知らない。もっと改良の余地はあるのでしょうけれども、それはわからぬ。大局的に見まして、予算は大型だったらいけない。今、日本は外貨で苦労しているのに、こういう大型予算を組んでは、それはインフレ的な傾向を助長するからいけないといったその大局観は気になりますから、私も注意しておりますが、それには私は、あまり問題は感じないのです。その説明は略しましょう。  そこで、ただし、じゃあこの予算に対して、あまり研究はしていないのかもしれないが、どう思うかといったら、あまり高い点をつけるつもりはございません。しかし、それでは野党の方が反対しておられる、あるいはいろいろ御意見を言っていらっしゃる、そのほうがいいのかというと、そうではないということも、あらかじめ申しておいたほうがいいかと思います。  ところで、今の日本経済は、予算というものが出ますと、予算にばかり引きつけてものが論じられるのは、日本国における一つのまずいことだと思います。だんだん予算というものの国家経済における重要性というものは実は減っているのだと思います。ことに現在においては、私は今の政府政策に非常に批判的でありまして、いろんな書き物を出しておりますが、たとえば文芸春秋の正月号なるものに論文を書きましたが、あそこで言うておりますように、実は日本経済は、とんだところへきているものだと考えている人間です。それに関しては、倍増計画の打ち出し方にまずいところがあるのだという私は意見でございますが、倍増計画そのものに関しては、産業計画会議の援助を受けまして、ことに六人の方がサインをして下さったのですが、その方々とともに、倍増計画を批判するというパンフレットも書いおりますが、それらに示しましたとおり、相当批判的です。  しかしそれは、一口に言えば日本人の、日本国民経済力というものは、その発展力から見まして非常な力があるのですが、その力を知らなかったのは、ついこの間までで、それを急に気がついて倍増計画ということになってきたのですが、その発展力を持ち扱いあぐんでいるような格好であると思います。日本発展力というものを、うまい姿で発展さしていけばいいものが、気がついて早々ということもありますが、うまくいっていないということになるのでありまして、文章に書けば、ずいぶん激しい批判の言葉を使いますが、まあ公平に第三者として点をつければ、そう今までと比べて、社会党の方にはお気にいらないだろうけれども、申しますと、社会党の方がおっしゃっていることに比べて、ひどく悪い点をつける必要はないと思います。しかし、これは直らなければならぬのでありまして、そこらの一般経済政策問題には非常に問題を感じますけれども、それと予算との関係というものは、必ずしも密接でないのであって、むしろ間接ではないかというふうに考えているのです。これが、私の予算問題に対する大体の立場ですから、そういったような考え方に立って、それが間違っていれば、それまでですが、そういうベーシスで聞いていただきたいと思う。  そこで御注文の世界経済について、どういうことを感ずるのかという点ですが、私は世界経済に対しては、今、日本国全体に非常に誤解が多いのであって、問題なきところに問題を感じ、ことに心配する必要のないところに心配を感じてやきもきしている、あせっているというのが大体の姿だと思います。  そこで今の世界をどう見るべきかということ、ことにどういうところに、問題なきところに問題を感じていると私が考えるかを、ちょっと申し上げますと、たとえばアメリカです。アメリカの景気の動向というのを非常に重んずる。これは誤りなんです。アメリカの景気の動向というのが騒がれますけれども、アメリカではそれは非常に何と申しますか、ジャーナリズムをにぎわしたり、あるいはみんな一生懸命考えたり、議論したりいたしますけれども、これは実にこまかいところに話があるのであって、それが世界に影響し、日本影響するにはするでしょうが、それが日本国においては非常に過大評価されて、気にし過ぎると思います。その証拠には、アメリカのほうは非常に不況になるはずであったのが、ケネディが出て間もなく、ケネディ自身の言葉に反しておりました。彼がまだ大統領選挙戦に戦っていたころは、共和党の政策は非常に悪いようなことを言って、これではたいへんなことだと言っていた。御自身がお出になってからであったのでよかったようなものですが、あまりまだ何もなさらないうちに、アメリカの不景気が終了してしまいました。そういうふうに、予想というものは非常に違いますし、その不況の間、日本が非常に困ったんでもなければ、好況になってきたからといって非常にいいわけでもない。そこらはどうも自己の分析が足りないので、原因を他に求めるようなところがありまして、いつも人に話を持っていく。これは一種の逃げですね。これは政府が逃げているという意味じゃありません。国民のインテリ層全部がそうだと思いますが、そういう関係にあると思います、というのが、世界に対する私の感じている誤解の一つです。  次に大きなものは、EECですが、EECが、まるでこつ然として現われたような、それがえらい強いものになって、アメリカさえ脅威を感じておるようなふうに国民に伝わるんですが、これは全然違うんであって、EECは、もっとゆっくりした歩みで歩んでおるものですし、何もEECだけ、あの六カ国だけが団結し、団結というよりほんとういうと、経済一体化ですが、経済一体化しているんではなくて、けんかしておるように見えておる、英国ともけんかしておるような際に——このごろは加入を申し込みましたので、けんかはやめたような姿に見えますが、けんかしていると思われた最中でも、経済のとけ合い現象、一体化現象が進んでいるんです。これを、ですからなぜそういうふうになるんだという大きな見地から見ていただけないかというところが、EECに対する誤解ですが、特にEECは、排他的グループだということが非常に宣伝されて、だから、日本はたいへんなんだという認識がはびこっていますが、それが非常に強いのですが、だからたいへんではないんで、EECはその全面において、日本から見れば非常に喜ぶべき現象です。またEECだけが特別なものではない。アメリカとカナダ、あるいはアメリカとカナダを合わしたヨーロッパとの関係、あるいは当日本国との関係においても、そのとけ合い現象、一体化現象は、しんしんとして進んでいるんで、けっこうだと思います。ですから、これをおそれずに、たいへんだという認識を捨てて対処するのがほんとうだと思うのですが、そこらのところが違っているように思います。  この問題は、もう少し深く申し上げますが、その誤解ですね、問題なきところに問題を発見してじたばたする、非常にあせるというのは、EEC問題において特に激しいと思う。そういうことを地域統合という言葉で呼んで、日本は、そのらち外だからたいへんだということは、東アにそういうOAECですか、それを作れとか、あるいは太平洋地域を作れという思想になって出ますが、それはそれとして悪いとは言い切れませんけれども、EECができたから、こっちも作るんだという考えで考えられたら、これは必ず邪道に陥るようになると思います。  次は、後進国ですが、後進国に関しては、後進国がどうだからたいへんだと言うとか言わないの誤解は、ないと思います、何となれば、後進国は、すべてあまりよくいっていないのであって、ですから、後進国がこうなってきたから、日本はたいへんだという感じは日本国にはあまりないと思いますが、ただし後進国が日本の舞台だという感じがあって、アジアが日本の将来だ、そこにはヨーロッパ人は入って来ては困るような印象で考えておるような人もあるし、そこでヨーロッパ人に負けたらたいへんだという考えでおる考え方もありますが、これらのものも違うと思います。  そういったようなことで、世界経済に関する、世界の動きに関する誤解が非常に多い。それは一口で言えば、繰り返しになりますが、問題なきところに問題を感じ、必要のない恐怖観念みたいなものをつい持ちたがるという格好になっておると思います。ですから、そこを除いていただくことが私は正しい理解であろうと思うのです。  そういう関係から見ますと、今の世界経済の動向というものをお前はどう見るんだという、私の見ております世界経済の動向を申し上げることが一番端的で早いと思いますから、それを申し上げますが、今の世界で私は大きな動向に三つあると思います。  第一点は、世界の先進国先進国というものは十幾つしかないと思います。十四、五を数えれば、それでいいと思いますが、日本は堂々たるその一員ですが、上のほうに位していると思いますが、その十四、五の国というものは、今申しましたEECがそれをシンボライズしているように、非常な勢いで一体化しつつあるんです。相互た解け合い現象を始めている。これが今の世界の非常な大きな態勢であって、なぜそうするのかということは、よく新聞にありました。今でもそれを信じている人が多いでしょう。EECというものは、ヨーロッパが米ソの谷間に入ったから苦しまぎれに作ったというあの感じ、これは全然違うのであって、米ソの谷間というものは存在しないんです。軍事的には存在しますけれども、ヨーロッパは谷間におりましたけれども、ヨーロッパは軍事的にはアメリカ側のお金をもらっている連中ですから。経済的には谷間意識がないと思います。ヨーロッパが戦後の疲弊のどん底にあったときといえども、ソ連よりは、はるかに上です。今日もそうですが、その関係は、ますます差は拡大すると思いますが、のみならず、ヨーロッパ人の意識において、ソ連を経済的には眼下に見くだしていますから、谷間意識は彼らにはないんです。その谷間意識が彼らにないにかかわらず、谷間に入って苦しいから作ったという見解を勝手に想像して作り上げて、それで、そうだと思い出すと、一人が言い出すと、みんながそう言うものだから、そうだと何となく人が思うというのが、そもそも間違いのもとだと思う。なぜEECができたということは——EECに限らない、なぜ先進国は、今一体化しつつあるかというと、こないだの戦争までは、第二次戦争までは、いわゆる列強という名によって呼ばれた国々、世界のリーダーですか、それらの連中は、相互に実にたびたび戦争をしてきた。平生も、平和なときも、いざという場合には戦争だという建前で国をなしていたのが、あの戦争を境にして、フランスとドイツをごらんになればよくわかるように、あるいはドイツとイギリスとをごらんになってもわかるように、相互の戦争というものは一切なくなったんですね。それは私は、人類の文明歴史というものが一段上の段階に出たということだと思います。そういう大きな思想的といいますか、人類の大きな歴史というものが、あの激しい戦争を境として、確かに一段上に出たんだという事実があるから、彼らは相互に戦争をする建前で平生から国を経営してきたということをやめましたから、たいへんな変化ですが、だから、それがそうならば、EECというのは、その中の偶然です、偶然、六カ国が境を接していて、話をすれば相互によくわかる、文化的レベルは同じだということにおいて、彼らが一緒の組合を作っただけであって、この動きというものでは、ですから、イギリスとフランスとの間にも、イギリスとドイツとの間にも、あるいはその他のヨーロッパ諸国との間にも、あるいはアメリカとヨーロッパとの間にもある。この現象は、日本人は、そういうふうに自覚していないかもしれないが、日本といえども同じことです。ですから、すべての進歩した国というものは、今の歴史の新段階に入ったことによって、その経済を解け合わせる必然性を持っている。それはやがて、ヨーロッパが新しい大ヨーロッパという一つの国のような、アメリカ合衆国のようになるかもしれませんが、必ずしも、そうなるからEECができるとは思いません。なってもならなくても、今の経済の一体化は進行をしているのだ。それが、六カ国のEECが——これは一つの偶然だと申しましたが、偶然にもっと大きなヨーロッパ国になるかもしれませんが、それとこれとはちょっと違う話ですね、とにかくEECというものを、そういうふうにお考えになって下されば、日本といえども、先進国である以上、また昔の列強であった以上、当然その波に乗っているはずですね。この波に乗るということは、そうむずかしい芸ではない。それを、なだらかに乗っていけばいいものを、むずかしく考えて、やつらがブロックを作るからたいへんだというように考える。これが非常な間違いですね。  EECは誤解を起こすわけがあるので、彼らの仲同士は、たとえば関税に関しては、やがて無税になりますから、ですから、たとえば、ドイツを相手として、フランスからドイツへ輸出したい、日本輸出したいといって、ドイツを相手にフランスと日本競争関係にあったとするなら、向こうは無税、こっちは有税ですから、幾ら下げてくれても、やはり税が残るとすれば差別がありますから、やはり負ける、こういう関係になります。ですから、彼らは排他的ブロックだからたいへんだという認識に多くの方がなるんですけれども、その点をとらえれば確かにそうですけれども、何もフランスがドイツへ輸出する、日本輸出する、その面で負けたとて、日本としては別に差しつかえないので、日本として問題は、EECを打って一丸とした全体に対して、思うように輸出が出るか出ないかということが問題でしょう。その見地から見るならば、彼ら同士の関係と、日本との関係に差があろうとも、差がありながら、すでに日本の彼らに対する輸出は盛大に進みつつあるのですね。この事実一つごらん下すっても、EECに対する誤解というもの、あらぬ恐怖観念というものをすっぱり除いていただいていいと思います。  それは、どのくらいふえているかというと、これは私が探し出した数字ではないので、この間、佐藤通産大臣が経団連ですかへ行って、最近にお話になったそうですが、そのときにお話になった数字を、私ちょっと原稿を拝見する機会に恵まれたので、その数字を知ったのですが、それに出てきます数字は、EECが活動を開始したのが一九五九年ですが、その前の五八年と昨年の六一年とを比べてみまして、日本のEECに対する輸出は六割六分になっているのだそうですね。その間における、その三年間における日本の総輸出というものは三割六分伸びているのだそうです。ですから、ほとんど倍に近いものがEECに伸びているのです。その間日本人は、EECができたらたいへんだ、差別的ブロックができたといって、不平を言っていたけれども、そのように日本は伸びているので、輸出が彼らに対して伸びているということは、もちろん彼らの繁栄の結果ですが、だから、ここにそういうブロックができて、今までの戦争のかまえを捨てて、解け合い現象を起こしたこと等々、いろいろな理由から、ここに非常な経済発展があるということは、日本から見れば非常にうれしいことです。アメリカの繁栄というもの日本のじゃまではなくて、日本にとっては非常にいいことであったと同じことになると思います。  そこで、今これはEECが、なぜ発展するかということにもなるのですけれども、今世界の大勢として、先進国経済を一体化させたという事実、その事実の内容を見てみますと、ここに、もっともっと大事なおもしろいこと、しこうして、日本人として喜んでいいことがあります。それは何かと申しますと、彼らの中において、国の大小、国の中に資源があるなしにかかわらず、生活レベルは同じだ、同じになりつつあるということ。EECの中では、オランダという国は小さい国で、国内資源は御承知のとおりゼロに等しいですね。石油もなければ鉄もなければという国ですね。ただ、平ったい、ともすれば海の水が入ってくるかもしれない畑もたくさんあるといったような、つまり貧しい天然資源しか持っていない国ですが、そのオランダの生活は、西ドイツと比べて、あの世界からもてはやされている西ドイツと比べて、少しも遜色がないのです。その西ドイツを含めて、EECの全体は、現在すでにアメリカのレベルに、これは追っつくだろうと思われているのですね。追っつきつつあると言っていいでしょう。言いかえれば、EECが追っつくなら、EECの中で遜色が少しもないオランダというものは、あの小さい国、あの人口過大、資源ゼロ、インドネシアを失ったオランダ人の生活が、何とあの大アメリカ人の生活と同じになるということです。それが現代の世界に進行している事実であって、これは先進国の間だけのことですから、私は先進国としてお話ししますが、先進国経済一体化ということは、同時にレベルの均一化を意味しているのです。  この事実をはっきりながめてみれば、そこに日本人としては大いに心を、何といいますかね、大きく持って、安心して、大らかな気持になる、なってもいい理由がそこにあるわけです。この事実を見るのが、私は実に大切であると思います。  私が思っております第二の現代における世界的な大きな動向とは何かと申しますと、それはマルキシズムというものが、いよいよ最後の場に瀕しているということだと思います。これはアメリカ等においては、アメリカもマルキシズムの説教に対して、大いに心動いたことがありますね。あの大恐慌の以前、あるいは大恐慌の最中——一九二九年から始まった大恐慌ですが、そのころだったら——その前でしたら、アメリカだって、ずいぶん共産主義者はいたのです。ドイツにヒットラーが出てくる直前は、まさに危かった。危いからこそヒットラーが出てきた。国民はヒットラーを支持したということに相なっておりますが、そういう状況を思い出してみますと、今は何と変わったか。アメリカ、ドイツ、オランダ、スイス、オーストリー、カナダですね、まあそれらの五つ、六つの国においては、マルキシズムのイズムとしての、いわゆる誘惑といいますか、呼びかけというものには、全然こたえがないと思います。確固不動の立場になりましたが、これはそれらの国においてイズムとしてのマルキシズムが、すでに、何といいますか、人が相手にしない、あるいは偉大な学説ではありましたけれども、過去のものだということがわかってきたことと思います。ところが私は、世界のレベルにおいてそれが今最後の場に、終末の場に臨んできたと思います。そこらはソ連の中においてもイズムとしてのマルキシズムというものは行方不明のように見えます。というのは、このごろはあすこも国を開きましたから、人が行けるようになりましたから、行ってごらんになる方が、ソ連の中においてもプライス・メカニズムといいますか、価格機構にたよらなければものが動かなくなってきたということです。これはソ連の経済がかなりよくなった結果だと私は思うのです。大いに祝福していいと思うのですが、ある程度よくなれば、まあ平たくいえば、テレビを見ようかということになれば、つまらぬ番組だったら消してしまう、スイッチをひねってしまいますのでテレビの用をなさないわけですね。そこでチョイスというものが出てくる。欠乏経済のときは配給で済みますから、作ったものはみなそれで片がつくのですが、今はうっかりするとマーケッティングを考えないと売れ残りが出る。これはまあテレビ屋に持っていけばいいということになるのでしょうが、そういう時代に入ってきたということはイズムとしてのマルキシズムが、私は、ソ連の国内においても行方不明になりつつあるのだと思います。中共のほうはむしろ農業において——ソ連においても農業がうまくいかないというのが顕著だと思うのですが、中共のほうはそれと逆に、思い切ってマルキストらしくやってみたいというのが人民公社だと思いますが、これはあのとおりの失敗なんですね。それらのことを考えてみますと、後進国の場面においてもこのごろはなかなか変わってきたのであって、マルキシズムの誘惑というものには人が乗らなくなってきた。その状態が今のアメリカ、ドイツ、百パーセント大丈夫になったという国のようになったら、それはマルキシズムというものは世界から忘れられるときですが、それがまだそこまでいかないところに世界のいろいろな事件が起こるわけです。ソ連がそれを使って——後進国はすべてうまくいっておりませんから、それとのコンビによって撹乱行為をやると非常な効果を出すという結果になります。しかしながら、よく落ちついてながめてみれば、イズムとしてのマルキシズムは死滅に瀕していると私は思う。これが非常な動向だと思います。こういうところに世界の動向があると思います。経済を論ずる場合に、どこの産物がどうなったとか、どこの税金がどうなったとかというようなことばかり考えていたのではそれは違うので、こういう大きな動向というものは世界を支配するのです。日本人が政策を考え、経済を考える場合には、やはりそういう動きがあるならば、それをそれと知って対処なさらなければならぬだろうと思います。これが私が考えて非常に大事な第二点だと思います。その今の死滅ということがほんとうに死滅してしまうと世界はずっと違った世界になる、そういう場は近いのだと私は考えますから、これは超重要な動向だと思うわけです。  第三点は、これは後進国ですね、後進国はすべてうまくいっていない。独立すればもとの親方、植民者を追い出してしまえば、今までは搾取をされていたのだから、搾取者を追い出せば、搾取がとまれば自然よくなるかのごとき心持で独立した国が多いでしょう。ところが、そうはいかないというのが顕著な事実ですね。後進国は実際国をなしていくことが非常にむずかしくて、どこもかしこもですからクーデターがあるというようなことになっておりますが、その結果として現代の世界においては先に申しました十五、六しかない先進国と後進国の間は非常なギャップができ、非常な違いができた、その差ができたというのが現代世界の大特徴で、これは共産主義とかなんとかといったそういうものとは、いわゆる東西の対立とはまるで違う問題をここに露呈しているわけです。これがいわゆる後進国問題ですが、私は世界の動向としてこれを考えれば、後進国関係においては、現在は頭の中で事件が進行しているのだと私は思います。その頭の中の事件とは、今までの開発方式というものではうまくいかないという自覚が出てきて、新しい道、開発というものに対する考え方、あるいは国というものに対する考え方もそうですが、それらのことが変化を起こしつつあると私は思います。これはまだごくごく進歩した人たちの頭の中にある変化であって、外には、たとえばケネディの演説に現われているアメリカの後進国援助政策にそれが見えてくるというところまではまだいきませんけれども、そうなるのも私はそう長いことではない、二年とか長くて三年くらいでそうなるんじゃないかという私は気がしますが、とにかく後進国に対する態度というものは、根本的には後進国においてでも、先進国側において毛反省されておるということが大変化だと思います。これが変わりますと、後進国の見方が変わって参りますから、したがいまして、世界の経済の実態も変わりますし、私どもが日本という国の経済政策を考える場合にも重点が変わってくるわけです。そういう変化が起こっておると思うのです。そういう変化を必要とする後進国ですから、先もちょっと触れましたとおり、後進国、つまりアジアにおいて日本がその地歩を譲っちゃたいへんだとか、早くあそこに進出してなわ張りを確保しておこうとか、市場をどうだとかいうことがございますけれども、そんなものではございません。資源に関しても、国内資源がないということが繁栄に影響がないということが見えてきた以上は、どこへ行って早く資源を開発して、そこになわ張りを張らなければ人に取られちゃってはたいへんだというあれは昔の意識であって、ああいう意識で日本対世界の関係を考えるのは誤りだというのが私の考えです。そんなことを基本に持ってものを見ておりますと、さて日本の対外経済政策はこれでいいのかと申しますと、ずいぶん悪い点がたくさんあると思います。ことに貿易問題、自由化の問題、保護関税をどうするとか、為替管理をどうするんだとかいろいろな問題がございます。それらのさばきがまずいから外貨危機にも陥っているのだろうと思いますが、それらを通じて世界の態勢の上からながめますと、それらの誤解を日本人が一掃して、正しい認識に立つとなれば、ここに出てくる政策といいますか、その政策の前の世界認識というものはどういうものかといいますと、今の世界というのはそうおそろしい世界ではなくて、人が言うようなおそろしい世界ではなくて、自分の身の振り方さえ正道に乗っていれば、実に何といいますか、安心して——勉強しなければだめです、利口でなければだめですけれども、利口であって、勉強して、秩序を守って、勤勉に働いていれば、経済発展をすることに障害というものが認められない実によき世界です。そういうふうに世界を認識していただきたいと思います。ところが、そのわけは、今のオランダがインドネシアを失い、資源がちっともなくてもああいうふうにいける、つまり何が経済レベルを決定するかというと、一にかかってブレーンなんです、知力が決定する。その知力を、近代科学技術を使い得る能力というものを国全体が組織によって使うようになればいいんですね。勉強しなければもちろんだめですけれども、利口であれば、そのレベルというものは近代科学技術を使う能力のレベルに応じて上がってくるわけです。現在科学技術を使う能力が日本人は世界で超優秀だと思いますから、超優秀な生活レベルになるはずのものです。ところが、そうはいかないのは、やはり一人当たり資本蓄積が少ないというようなことにさえぎられるわけですね。ですから一人当たりの資本蓄積、これは会社ベースだけで見てはいけないので、道路、港湾等みな資本ですから、そういう社会資本もあわせて考えまして、なるほどその資本蓄積が足りないから、今のところでは生活レベルはそういかないけれども、これは倹約してためていけばいいのですから、やがては追っつく、追っつくに従って同じになるんだ、そういう原理が世界ではすでに成り立っておると認めていただきたいと思います。そう考えますと別に心配逆ないんですね。急げば失敗をします。しかし、あせる必要はないんですね、今さら日本を取って食うやつはないんですから。ソ連関係は別です、ソ連、中共さんはちょっと考えを変えていただかないと、これは非常にあぶないと思いますが、それはマルキシズムの終末ということで片がつくだろうと思いますが、ここには大問題が残っておりますけれども、その問題さえ片がつけば、経済を上げていくということにそう大きな障害を感ずるということは私は誤りである。これは非常に乱暴なことを言うようですけれども、その誤りにとらわれていると何が起こるかというと、問題なきところから問題を感じてあせりが起こる。そのあせりから失敗が起こるということだと思います。現在の日本の貿易政策、対外経済政策にはそのあせりが非常に認められるから、それがいけないと思いますから、そういうものが来年の予算と比べてどうだといったならば、貿易をうんと発展させなければならないのに、それに対する予算の盛り方が足りないといったような批評がありますけれども、私はそういうのは当たらないのであって、そんなところに問題はないのだ、今申した大認識に立って、大きな心持で落ちついてあせらずにやるという心がまえがないところには、再び世界経済との関係においても、私は今度の予算との間にはあまり問題を感じないということに相なるのです。これは現在の日本政策がいいと言っているわけじゃありません。ただ予算との関係においてそうなるのであって、大事なことは、今のそういう認識を争う、しかし、その認識が間違っていればそれまでですが、そういう認識が正しいなら、そういう認識に早く日本の世論というものが達するようになってほしい、こう考えるのです。  これは予算と世界経済との関係です。(拍手
  50. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) この際ちょっと申し上げますが、板垣公述人が所用のために三時半には退席をせられなければならないことになっておりますので、木内さんに対する質疑は三時ごろに終わるようなお見込みで、御質疑がございますればきわめて簡単に、そして大体三時と、こういうお見込みでひとつ御質疑を願いたいと思います。
  51. 亀田得治

    ○亀田得治君 一点だけお尋ねいたします。ただいま、大内さんは、日本に対して取って食うやつはいない、しかし、ソ連と中国は別だというような意味のことを言われたわけですが、こういうものの言い方も、あなた自身が先ほどから非常に強調されておりました問題がさほどでもないのに、ことさらにこの問題を作って幻想を描いておるようですが、どうもあなた自身の一番排撃されたことに取りつかれておるような感じを受けたわけですが、実際にあなたとしてはそういうふうにお考えでしょうか。もしお考えであれば、ひとつ根拠ですね、そういう点をはっきり示してもらいたい。
  52. 木内信胤

    公述人(木内信胤君) もちろん実際に感じます。感ずればこそいわゆる自由主義陣営はあれだけの防衛をするわけです。根拠はそれだけですね。もしそれがないなら世界の防衛努力は要らぬということでしょう。
  53. 亀田得治

    ○亀田得治君 論争するつもりもありませんが、自由主義陣営で防衛態勢を作っておることがその理由だとおっしゃるわけですが、実際にそういう理由があるかないかということがその前に究明されなければならぬと思うのです。そのことがはっきりすれば、なるほど一方のほうで自由主義陣営が防衛努力をする。そのことも一つの根拠を持っておるかもしれない。それが前に究明すべきことをあとのところに持ってくるというような論法では説明にならないのではないか。自由主義陣営がそういうことをやっておるか、やっておらぬか、そういうことは離れて、ともかく向こう側が日本を取って食うおそれのある例外だと、こういうふうにおっしゃったわけですから、それ自身の根拠をはっきりと説明してほしいわけです。
  54. 木内信胤

    公述人(木内信胤君) これは世界の政治論争みたいになりましたが、いいでしょう。私が申しましたのは、自由主義陣営があれだけの防衛をしているのはその危険を感ずることだと。私が御質問に対する答えを言うならば、なぜ彼らは危険を感じているのだろう、それには理由がたくさんあるはずだと、これは五分や十分では言えないものもあるでしょうが、それと同じものを私は理由に感ずるのだと申し上げたのです。だからその理由づけというものはたくさんあるわけです。だから早い話、ケネディのところに行って聞けば、ドイツでもフランスでも行って聞いてくればいいということになります。しかし、それは特に日本を取って食うということを申し上げたのではない。朝鮮の二分割、南ベトナムの二分割、東西ドイツの二分割等々、それらの国はすべて彼らに世界を一歩々々共産化しよう、弱いところがあれば入ってくるということを意味している。そうであったからトルーマン——アメリカは戦後御承知のとおり、一応は非常な軍縮をいたしましたね。にかかわらず、そのときに東ヨーロッパがみなああいうふうになり、ギリシャにも手はつく、トルコにもあぶないということになったから、トルーマンの時代ですが、アメリカは軍備に立ち上がったわけですね。それらの歴史全部が証明しているのであって、これはなかなかそうでないという証拠が出てくるまではあぶないから、あぶないと思わなくちゃならない。これはもし言い出したら何時間でもかかります。これはあまりにも顕著なることであって、ほとんど言うを待たないことであると私は思います。
  55. 亀田得治

    ○亀田得治君 次元が違いますからこの程度にしておきます。
  56. 田中啓一

    ○田中啓一君 今、先進国は十五、六と、多く勘定してもこんなものじゃないかと思います。その他は後進国ですか、先進国のうちでも日本はどの辺の位置になりますか、これはお見方があろうと思います。私は先進国を具体的に数えていただきたいことと、その後進国あるいは中進国との何か本質的に異なるものを、これを私ども今後経済政策的に努力するのにいろいろ資料になると思いますので、ひとつこの際お伺いいたします。
  57. 木内信胤

    公述人(木内信胤君) 先進国、後進国の区別ですが、それを一人当たり国民所得を日本が今三百五十ドルになったということをいわれましたが、あるいはもう少しいっているかもしれませんが、アメリカは二千ドルあるいは二千何百ドルの数字を出して、それと比べて、これは生活レベルを現わしていると感じて、そういう分け方をする場合があるかと思うのですが、それは間違いだと思います。というのは、国の何といいますか、態様ですね、パターンですね、これが違えば、そういう数字の出方というものは非常に違いますから、この数字はあまり大きな意味を持たないのであって、むしろうっかり使うと間違いを起こす、しかしながら、ここに生活の物資を消費する量によって国によって非常に違うということは事実であります。けれども、それによってそれで見るというのはよくない。先進国、後進国を分けるのに一番いいのは、近代科学技術生活を上げる力ですから、その近代科学技術をその全面において駆使する能力、それを組織に乗せて騒使していく能力というものではかればいい、その全面においてはかることが大事であって、一部分はかるだけではわかりませんし、生活向上しません。なるべく全面においてはかる、そういう目で見ますと、日本人というものは、特に科学技術のありとあらゆることをやっておるのは日本の大特長、これはアメリカと比べても、ドイツと比べても、こんなに多方面技術を駆使している国民はあまりない。ですから、その意味ではかれば超一流。しかし、生活レベルは低い。日本は明治時代の歩み等がこれを妨げている。求めればやがて成り立つ、そうなれるということは言っていいと思う。そこで、先進国西国をあげろとおっしゃいますが、私はEECに加盟した六カ国は同じレベルですから、これを六カ国に数えていい。しかし、ルクセンブルグという国は、あまわにも小さくて人口も三十万ですから、これはベルギーと一緒に考えていただいても……。あと五つの国と考えると、そうすると、あとイギリス、スイス、オーストリア、スカンジナビア三国を入れる、つまりEFTAという組織の中からポルトガルを除いたものを合わせて十一、アメリカ、カナダで十三、日本で十四、その辺でとめてもいいが、フィンランドを入れてもいいが、あるいは豪州、ニュージーランドを入れますか、ニュージーランドは科学技術を使うと思うが、遺憾ながら工業が実に少ないので、あまり使っておると言えない。それらを数えると、十六ですね。  そこでその次に中進国のことをあげましたが、今の世界はどういうはずみか、これは非常に研究題目ですが、その間の発展のギャップが非常に開いてしまった。それですからあとの国はたとえばブラジルとかメキシコとかアルゼンチンとかいうのはその次にくるでしょうが、リオデジャネイロを見ると実にりっぱですけれども、国全体としてながめると、ひどい部分があって、国全体の力としては遺憾ながらあまり高い国と考えていない。ですから、これらも後進国ということに入れてしまっていいことだと思います。そのレベルで考えますと、意外に高い国が日本国民意識からお考えになれば当然と考えますけれども、台湾は非常に高いのです。今の十四、五を除いたその次にくるのは台湾だろうと私は思います。
  58. 佐多忠隆

    佐多忠隆君 木内さんが去年の暮れごろお書きになった日本経済の見通しですね、あの考え方はその後の経過に照らしてみて、現在はどうお考えになっておるかという点が一つと、それからそれに関連しますが、最近の日本の外資導入のいろいろな政策、特に長期の外資あるいは短期の外資導入、そういうことでいろいろな為替操作をやっていると思いますが、あのやり方に対してどういうふうにお考えになっておるか、為替危機の問題をどうお考えになるのか、その辺をひとつ。
  59. 木内信胤

    公述人(木内信胤君) 去年の暮れとおっしゃるのは文芸春秋に出た論文と思いますが、私はあのときには、これは本格的になおさなければ、病はむしろ深みに追い込まれていくという感想を述べておりますが、私はそう思っております。
  60. 佐多忠隆

    佐多忠隆君 今でも……。
  61. 木内信胤

    公述人(木内信胤君) 今でもそう思ております。しかし、いろいろ策が打たれておると思います。その策の中には、私の見解に立てば弥縫策にすぎないのですね、その弥縫策はなかなか大きいものは成功しておりますから、その意味で実害というものはそうひどくは現われない。しかし、これは表面にはそうひどくなくとも、実際には病根は深いところにいっているんだろうと私は思います。その弥縫策の大きなものは全体で六億三千万ドルになりますか、あの新しい借款ができたことです。あんなにたくさんできるとは思わなかったのですが、よくもできたものと思いますが、これは成功であって、けっこうですね、だから実害というものを、とにかく問題をあとに回すことができますから、その間によくなればいいということにはなっています。  外貨行政ですが、外貨行政は非常に悲観的です。長期外資はもっと思い切って前から入れたらいいと思います。それに対して、実際には入れるという建前、私は為替管理委員会委員長をやっておりましたときから、日本国は一貫して外資は歓迎だという態度をとりながら、法律にはそう書きながら、実際は何だかんだという文句があって、思うように入っていなかった。これはよろしくない。それに引きかえて短期外資というものをむしろ歓迎する態度になったのは非常に失敗であって、短期外資というのは受けつけないのがいいのです。ユーロダラーというものが入ったことが、むしろあの二十億ドル、ピークに達した二十億ドルの中にそういう短期外資、つまりそれがあるから安心だと、そういうように向こうが取ると言ったら、引き揚げると言ったら抗抵できないものがたくさんありますから、したがって、それを取られたときを考えれば、二十億が二十億の価値を出さないのですから、非常にあぶないものに対して信頼をしたということであって、あれは大きな失敗です。今からでもいいから、ああいうものはなるべく受けつけないようにする、それを急に減らすわけにもいかぬでしょうが、やがてはああいうもの日本国は扱わないということになったほうがいいと思います。しかし、それにはいろいろ問題がありまして、それも国際関係と、これは要するに金利問題に落ちるのです。日本の金利というものは、融け合い現象ですから、日本先進国に融け合っていくのがいいのですけれども、その中で金利というものが、日本は高いのはあたりまえだと思いますけれども、それをしいて政府の力、誘導によって低金利を無理に作り出そうとかかってきたところに私は大失敗があると思います。
  62. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 戸叶さん、三時までに木内さんの御答弁ができますように、ひとつ御質問願います。
  63. 戸叶武

    戸叶武君 木内さんの後進地域における開発方式の変化というものに対して、具体的にもっと述べてもらいたいのですが、今伺っておるのは、要するに工業だけに力を入れていると、ビルマあたりでは農村自体を健全な形で発展していくことが先じゃないかという反省が生まれておりますが、そういうことも含めて……。
  64. 木内信胤

    公述人(木内信胤君) これは非常に大問題で、私はそれを研究するのが今のおもな仕事ですから、実は五分でお話しすることは非常にむずかしいのですが、大要を申しますと、後進国はさっき言った搾取した親方を追い出せば大丈夫だ、よくなると思っておったのは違っておったということはよくわかりますが、後進国がだめなのは、工業がないからだ、工業を興すには資本蓄積が要る、しかし、経済発展して、国民蓄積をするまで待ってはおられないから、借りてでも、援助を受けても、もらってでも工場を作ろうという考え方が大体支配的であったのです。それが違うのであって、工場を置いたところで、つまり資本を与えたところで、その資本は効率を出さないということが証明されておるわけですね。どこが悪いかというと、民度一般が悪い。民度の全体、つまり近代科学技術を使って、近代的な生活というものがそこに行なわれてこなければ、科学技術は使えない。工場があってもマーケッティングができない、信用組織が全然ない、貯蓄組織が全然ないというところでは、その工場は能率を出さない。それじゃこれはどうしたらいいか、民度全部を上げるというのにはどうしたらいいか、工業でない農業だということは、そういうことに対する動きの一端を現わしておりますけれども、つまり、これは農業を興すのではないんですね。国民全体のつまり近代化です。それにはどうしたらいいかという問題ですね。これは申すまでもなく急にはできないということになります。そこで出てくる思想は、だからあせってはだめだということで、なぜ後進国は早くよくなろうとするか、後進国が早くよくならなければならないような気持を与えるような行為は全部いけなかったのだ、つまり恩があだになるような関係がありますね。そんなところに、問題はもっと深い、むずかしいところにあって、非常に長期的なゆっくりしたものでなければならぬ。ことにその中に、国によってはいろいろ宗教的あるいは人生観が働くことを喜ばないとい崎、あまり希望しないのがずいぶん多いのです。そういう連中のしりをたたいて、無理に働かせて、無理に近代化する必要ありやいなやということも考えなければならない。ところが、後進国の為政者たちが、から手形を出して、自分が政治を担当すればよくなるということを言っている。ところが実際はそうはいかない、これが非常にむずかしい問題を呈している。また、ソ連さんの悪口を言うと怒られるかもしれぬが、その間隙に乗じて、撹乱行為が非常にやりいいという状況を呈している。だから、今のやり方は急に悪かったというわけにもいかないし、今から、本格的に考えれば何だということを、どうしても目ざめる必要があるだろう。そういうことを新しく考える人は考え出しているのだということを私は観察しております。
  65. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 木内公述人公述はこれで終わりました。どうもありがとうございました。(拍手)   —————————————
  66. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) それでは次に、板垣直子さんにお願いいたします。
  67. 板垣直子

    公述人(板垣直子君) 私に求められましたのは、文教予算についてでございます。  今年の予算全体が日本経済事情、社会事情から考えて非常に膨大であるという批判をされておりますけれども、時勢が進んで参りますと、予算を求めるものが非常にふえて参りますから、年々これから予算が大きくなるということは当然のことでございます。新しい問題に対して予算を組まないというわけにはいかないと思います。ただ問題は、以前の予算で整理してやめてもいいものがたくさんあるのに、それをそのまま放置して、なるたけたくさん自分のほうに予算を取ろうという、いわゆるぶんどり予算をやるのがいけないので、皆さん政治家は、その点を厳格に監視していただきたいと思います。  文教予算につきましては、先年に比べて全体が非常に総花的にふえておりますけれども、もっとふやしていただきたいものでございます。文教と申しますのは、その国家を建設するほんとうのもとなのでございますし、その民族を発達させるもとでございます。非常にじみでございますけれども、文教方面がしっかりしない国というのはだめでございます。で、今度の予算を見ましても、科学技術教育と科学技術振興費が非常に多くなっております。ことしの予算の重点はそこに置かれている。あまりに大きいようにもわれわれには見えます。その中には、原子力の莫大な予算が入っておりますけれども、これも決して非難すべきものではなくて、二十世紀は、非常に画期的な科学の発達期でございますから、日本でも、それに対して予算を組まなければいけないと思います。ことに、日本の国力の生命は工業力でございますから、科学技術教育、科学技術の振興は非常に大事でございますし、国民生活国民の福祉は、科学技術の発達に直結しておりますから、私はちっとも非難しようとは思いません。ただ、科学者というものは、純粋な科学的な追求心で研究をしておりまして、それが今すぐ名誉になるとか金になるとかということでなしに研究をしておりまして、それが非常に科学界に大きな影響になりますんで、たいへんいいことでございますけれども、科学者はまた、非常に独善的な、心のおごっている一面があると思います。それで、自分の科学に対する興味を進めるためには、国家の経済事情とか予算というものを考えないでやりたがる。その点は、非常にいけない一面があると思います。たとえば、きょう帰りて参ります南極調査でございます。すでに第五回が終了して、きょう帰って来る。あれが始められますとき、非難もあったようでございますけれども、とにかく実行されましたが、日本の戦後の非常な財政難の中で、南極に何十億という金をすでに使ったということは、私ども国民として納得のいかない点があるのでございます。しかもまた、継続しようとしております。科学技術振興者は全部科学者からなっておりますようでございますから、どこまでも科学のほうに予算を取りたがります。また、その大事な衝にあります科学者は、自分たちのほうに南極の予算を取らなくても国家の予算はくだらないところに使われているから、自分たちが取ってもかまわないと言います。地球物理学を南極で研究するのもけっこうでございますし、科学者はしたいのでございましょうけれども、国の予算というものの使い方には調整がなければいけないと思います。たとえば、この間も新聞に出ておりましたが、東大病院の建築でございます。東大病院は、日本で、設備の上から、新しい科学の設備の上から、一番いいといわれております。建物はまだ非常にみすぼらしい、内部が木造の、冷暖房もございませんし、部屋がきたなくて、狭くて、それで、付き添い人のふとんは廊下に積み重ねて、まるで火事で焼け出された人間のような、そういう病室があり、日本の最高の官立の病院の建築状態でございます。東大病院には、日本全国から難病の患者が集まりまして、非常にたくさん患者がいるわけです。その病院一つをまだ建てることのできない文部省の予算の中で、今後もまた、何十億という予算を南極に使うということはどういうものでございましょうか。西ドイツを例にとってみますと、西ドイツは、精神科学のほうでも、それから自然科学のほうでも、日本よりもはるかに優秀な歴史を持っております。また、戦後の復興ぶりを見ましても、日本よりもはるかに実質的に復興しておりますけれども、たとえば、自分の国が今何をなすべきか、どういう点で再建しなければならないかということを知っておりますので、南極調査なんかに加わっておりません。南極の調査のごときものは、世界中の持てる国がやるべきものでございまして、日本のように持たない国がこの後とも続けてやるということは、私は、文教予算というものは国家にとって非常に大事ですから、慎重に考えていただきたい。日本人は何でも、自分国内事情というものを考えないで、国際的なお祭り騒ぎの仲間入りをしたがる、一種の劣等意識というものを持っている。今度オリンピックが開催になりますけれども、前の文部大臣は、オリンピックに備えて、青少年にスポーツを奨励しなければいけないということを申されました。今の文部大臣ではございません。文部大臣の衝にあります者がこういう言葉を言いますことは、体育を偏重させることでございます。スポーツなんというものは、何でもないものなんであります。で、オリンピックはギリシャで始まりましたが、ギリシャ以来オリンピックというものは、アマチュアのスポーツ精神でやっていく。勝ってもいいし、負けてもいい。日本がオリンピックを開催することになりました以上、日本の国としての責任は、各国の選手が気持よく競技のできる、その受け入れ態勢を完成することなんでございまして、それは、国家として非常な責任なんでございます。けれども、日の丸をたくさん揚げなければならないということを、文部省においてそれを奨励をすることは体育偏重、青少年にからだを鍛える、運動すること、遊ぶことが一番青年にとって大事なことだというような印象を与えますから、私は、その点は深く考えていただきたい。日本に六大学野球競技がございますが、これを例にとりますと、たとえば、東京大学の学生は、六大学野球で、ちっとも勝たなくても平気なんです。勝とうと思って一生懸命やっておりません。あれが今のちょうど西ドイツの態度に当たるわけなんであります。東京大学の学生は、東京大学に入っていて学問を勉強するので、非常な優秀な意識を持って、自信を、誇りを持っておりますから、運動なんかに勝たなくても平気なんです。毎年負けても、何とも思っておりません。それがほんとうのアマチュアのスポーツ精神なんです。どうか日本態度もそうあってもらいたい。  来年度は、高校に入れない中学浪人が二十万に上るということを文部省が言っておりますけれども、これこそ実に国家的な大問題だと思う。少年の一生にとっても、このような国に住んで、高校に入れないということは、たいへんなことなんでございます。ですから、南極に使うようなその大金をなぜ教育事業——高校を建てる費用に使わないのでございましょうか。どうか皆様にお骨折りいただきたいと思います。  教科書の無料配布ということを申している方がございますが、さっき問題になりました先進国——先進国というのは、私の解釈では、古くからの文明国を先進国といっております。その先進国では、義務教育というものはむろん教科書がくっついている、それが理想的でございます。けれども、今の日本で、義務教育に教科書を無料で配布するというのは、たいへんな予算だと思う。私は、数字は明るくございません。その費用を、外国をまねして、そういうふうに教科書まで無料にして、非常な予算をそこにかける理由がございますでしょうか。保護家庭は、今でも教科書を無料でやっていることですから、教科書の代は、今後も各保護家庭に政府が与えますと、親が子供に買ってやれば、ちっともそこに子供がひけ目を感じません、自分の金で買ったような気持でおりますから、そういうふうにして、普通の親は、義務教育を受けている子供の教科書は、かねて予算を立てて、喜んで買っておりますし、子供も、本を買ってもらって喜んでおりますから、無理にそういう予算を取りませんで、無理がないというふうに、文部省は、健全な子供を教育する、発達さしていく義務があるばかりでなく、精薄児とか身体障害者、そういう子供も人並みになるたけ教育し、いい一生を送らせるようにする義務があると思いますから、そういう教科書の無料配付なんということの非常な費用を、そういう子供たちをしあわせにする養護施設にでも向けていただきたい。  時間が過ぎましたから……。(拍手
  68. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 板垣さん三十分までよろしゅうございますか。——それでは質問に入ります。
  69. 田中啓一

    ○田中啓一君 ただいまお述べになりましたうちで、高等学校の問題でございます。これは、中学卒業生が本年から急にふえまして、しかも大量にふえます。したがって、相当数が高等学校へ入れるように、私はもちろん高等学校を急増する必要があると思います。今度の予算にも、そういうことは相当に現われておるわけでございます。ところが、それに関連いたしまして、高等学校へ中学卒業生を全部入れる、全入学の問題、こういうものは相当に主張されておるように聞きます。父兄の心持になりますと、もっともなところも私はあるとは思います。思いますが、実は、全入学をやりまして、これはとてもいかぬということで、三十七年からはやめようという所もございます。それは高知県のことでございます。そこで、中学生を全部高等学校へ入れるような、全入学の制度をとるべきかどうか。そのことにつきまして御意見を伺いたいと思います。
  70. 板垣直子

    公述人(板垣直子君) むろん、高校へ行けない中学卒業生がたくさんございますけれども、入りたいと思うのが入れないのでございます。入りたいと思うのが入れない、それの、入りたいのを入れられないというのが、職業につく者を除いての二十万だろうと思います。ですから、入りたい者が入れないというのはいけないのです。そういう意味でございます。
  71. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 公述人は、非常にスポーツにお詳しいようですが、確かに学校スポーツには問題の点があると思いますが、御婦人、母親の立場から、選抜高校野球とか甲子園の夏の野球大会ですね。ああいうものなんかは、あなたのお目からどういうふうにごらんになられますかを承っておきたいと思います。
  72. 板垣直子

    公述人(板垣直子君) 私は、勉強盛りの子供に体育奨励の意味からああいうことをさせて、非常にあの青年期を除いてはみっちり勉強するということがないんですから、私としては、喜ばしいこととは思いませんです。勝とう勝とうということでもって、学業なんかをよそにいたしますから、毎年あれがあると、にがにがしいと思います。自分たちの学生時代を考えましても、体育ができるというのは学問ができない。頭の悪い、からだばかり発達した、つまり人間としてあまり上等でない……上等と言うと悪いですけれども、他日国のために、そういう頭の上で有為な人間にならないのが割合にスポーツに……そう言うと、スポーツの方は怒るかもしれません、むろん例外はございますから、その点は……。
  73. 高田なほ子

    高田なほ子君 文教予算について今いろいろお述べをいただいて、非常に私も共感するところが多いわけです。確かに文教予算がたいへん少ないということ、また、その予算の使い方に重点性を持たせるべきだということで、高校の問題を取り上げられた点、私も同感です。今特に義務教育の中で問題になっているのは、すし詰め教育の問題です。わが国では、御承知のように、学校教育法の中では、小学校の五十人以下というふうにきめられてありますけれども、どうもなかなかそれが実現できない。非常にこれは問題になっている点でございます。このすし詰め教育について、あなた、親御さんとしてどういうふうにお考えになっていますか。これは、高校の入学問題と関連して、大へん大切な問題だろうと思います。  第二にお伺いしたいことは、私ども同じ女という立場から、試験地獄の問題というのは容易ならざる問題だろう、こういうふうに考えておるわけですが、今、幼稚園から試験地獄が行なわれております。こういうことについて、日本の幼児教育、学校に入る前の小さな子供の教育がまだ義務制になっておりません、そういう所で試験地獄が行なわれる。小さな子供の教育というのは、これは当然やはり義務というふうにしていったほうがいいんじゃないかというふうな考え方を私は持っておるわけです。こういう点について御意見を承りたいと思います。
  74. 板垣直子

    公述人(板垣直子君) クラスが大勢でございますと、先生の手が伸びませんから、それはむろん、数が少ないほうが理想的ですけれども、今の事情としては、校舎の点もございましょうし、うまくいっていないのかと思います。今度の場合に、教育環境の改善という予算がございまして、その中には育英資金を増額しておりますが、校舎の新築、学級編成のそういうのが入っておりまして、けっこうだと思います。それから、学校の併合という問題も入って、このごろPTAがあまりに力を持ち過ぎまして、学校の行政に非常に関与して参りまして、学校統合の問題がむつかしいであろうと思いますけれども、交通地獄というのは東京全体にございますので、その点はまた対策があると思いますが、統合の問題は、やはり環境改善という上から、能率的にやっていくという上から、私はやはり望ましいことだと思います。それで、クラスが、数が少ないほうが、むろん教育が行き届いていいんですけれども、今の事情としてはどういうものですか、私はよくわかりません。  それから、試験地獄は、公立の学校に入っている限りはなくて済むんですのに、公立の学校以外に入れようとするんで試験地獄があるのでございます。ですから、それは父兄がよく考えて、公立の学校に入れることにすればよろしいと思います。児童の場合ですね。それから、幼稚園の場合でも、特別に有名な幼稚園に入れようとするんで、試験地獄になるんじゃないでしょうかしら。子供は、無理をしないで、才能を伸ばしたほうがいいと思いますから、そういう地獄は避けたいと思います。
  75. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 委員長、もう一つ。  板垣さん、たいへん失礼ですが、御中年の板垣さんのようなお方が御意見あられるということを知って、非常に参考になったわけですがね。もう一つ承りたい点は、あなた方の年配の方からごらんになって、今の若い娘さんですね、小中学校、高等学校程度の女生徒の教育、それからその教育の結果もたらされているものですね、それをあなた方の年代の御婦人からごらんになってどういうふうに見ておられますか、参考に聞かせて下さい。
  76. 板垣直子

    公述人(板垣直子君) 私は、男女共学の国立大学と一流の女子大学で講義をしておりますけれども、今の娘たちというのはしつけというものが非常にできていない、礼節というような方面ができていませんから、修身教育というといけないんですけれども、倫理教育ですね、倫理道徳教育という、そういうものは、しつけというものはあってほしい。そういう教育を受けている女子に限らず、中学だけで卒業する人、高校だけで終わる人なんかになると、なおそういう礼節とか、しつけというものがございませんから、義務教育のときにそういう、以前のような画一的な道徳教育でなくて、良識を養うそういう科目を教育をしてもらいたいというふうに思います。
  77. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) ありがとうございました。  板垣公述人公述はこれをもって終了いたしました。どうもありがとうございました。(拍手)   —————————————
  78. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 次に、永尾公述人お願いをいたします。(拍手
  79. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 昭和三十七年度予算について、一言私の意見をまず最初に述べまして、今の板垣先生と同一意見になると思うのでありますが、すし詰め教育の点に多少言及したいと思っております。  まず、昭和三十七年度予算が前年度の当初予算より四千七百四十億円、すなわち二四・三%増の二兆四千二百六十八億円の大型予算であります。これは思うに、経済の順調な成長を見込んで編成された三十六年度の予算に比べて二四.四%の増加率に匹敵するもので、経済環境が大きく変わった現今においては多少不安もないわけではありませんが、しかし従来の高い経済成長政策、すなわちそれによって生じたアンバランスを是正するためには、日本経済の順調な発展をこの上可能にしていくためにはどうしても必要なことであり、今のうちにこのアンバランスを是正するような施策をとっていただかなければならないと思います。たとえば道路交通の混雑、それから技術関係を中心とした労働力の不足が目立っております。港湾施設の改善などが目に見えて必要性が迫っておるのであります。したがって、まず公共投資の拡充、それから雇用対策の強化、文教及び科学技術の振興、社会保障の充実などが必要であります。さらに、今回の予算を見まするに、地方交付金も大幅に増額されておりますが、これは地域経済格差を是正するための当然の処置と思われます。  次に、文教予算でありますが、まず科学技術の振興に思い切った予算を組んでありますが、私立学校の助成にもいま一段の配慮を願いたいと思うのであります。まず、私立学校の教育振興助成費がきわめて少ないのではないかと思われるのであります。一般に私立学校は、世間で言われておりますように、寄付金が多いとか、あるいは入学金が多いとか、教育の機会均等を一部の有名校は逃がしておるというようなことが世間で言われておりますが、まず官公立学校と何ら変わらない教育内容をしておりながら、一切の運営をこれらの収入でまかなっておる私立学校としてはやむを得ないことであろうと思うのであります。まず校舎の増築問題、教員の待遇、この教員の待遇に関しても、一部の有名校を除いては、同じ子弟を教育していながら、官公立学校よりも三〇%あるいは五〇%という低い給料で、教員という聖職に甘んじて誠意努力しているのが私立学校の実情であります。  また、昭和三十八年度の高校進学者は史上最高といわれておりますが、これを今年度より何らかの手を打っていただかなければ、先ほど申されましたように、たくさんの進学浪人が出るのが実情でございます。そうしてまた、三年後には大学の問題も起きてくるのであります。ところが、よく考えてみまするに、来年を頂点といたしまして、高校進学生がまた逐次減少していく状態にあるときに、いかにこの中学浪人を救済する方策をとったらいいかということは、これは重大な問題であると思うのであります、たとえば、官公立学校、私立学校においても、二百五十何万の中学卒業生を救済するような校舎増築をしても、その翌年からもう恒久的に進学児童は何%かずつ減少していくのであります。したがって、これを今年度一年を境にして、史上最高の中学浪人を救済するような施策は何らかの形で講ぜられるのではないかと思います。したがって、そういうときに莫大な費用をかけて官公立学校を増設することは必要であるかどうか。それよりも、先ほど申しましたように、多少学校格差はありましても、同一内容の授業をやって教育基本法に基づいた教育内容をやっておる私立学校を充実していただき、そうしてこの私立学校における助成、すなわち校舎建築、あるいは設備、あるいは教員の待遇改善の面において一段の配慮を願って、学校格差を是正していだだけるならば、しいて莫大な費用をかけて官公立学校を増設する必要は、永久的に生徒がふえるのであれば必要であると思いますが、来年を頂点にして逐次減少していくという傾向から考えますときに、これは先生方皆さんの非常にお考えをいただきたいと思う点なのであります。  それから、まず私立学校に一定の規格を設けて、教育内容の充実、さらに教育の機会均等をはかると同時に、学校格差の是正に心がけるように、すなわち教育内容、学校行政、その他服務規程にある一定の法的に勧告する制度を設けるなり、あるいは専門委員を設けて官公立学校との格差是正に努力していただけたらよいのではないかと思うのであります。ただ私、自分の属している学校が私立学校で、現に私立学校の財政状態、すなわちつぶさに見てつぶさに経験しておるのであります。したがって、諸先生の皆さんにこの際声を大きくして私立学校の実情を訴えて配慮していただきたいと思うのであります。ただ公立学校をいたずらに増設することは、私立の学校の命取りともなるのであります。一般に私学はレベルが低いといわれますが、これは私学の一部の有名校、すなわちレベルの高い学校を除いては、大部方が実際とすれば低いのが実情であります。それというのは、設備といい、教員の質といい、官公立に多少劣る学校もこれはあってもやむを得ないんじゃないかと思うのであります。かような状態で、この史上最高の中学の進学浪人を救済する一環として私学にいま一段の御配慮をお願いしたいと思うのであります。  次に、義務教育用教科書の無償配付の点でございますが、私としては無償配付には大賛成であります。ただ一部の生徒にのみ配付するということは、学校内において非常にその生徒に劣等的性格を与える、将来の健全なる発育を阻害する何ものでもないと思うのであります。したがって配付をしないならば、もう一部生徒に配付する、要するに貧困家庭の児童に配付するというのでなく、全部に配付しないことがかえって望ましいことではないかと思います。ただその点にひとつお願いしておきたいのは、ただ北海道と東京と鹿児島というように地域格差がございます。たとえば群馬県の山の中とか、あるいは千葉県の海のはたとかいうふうな地域格差も考えて教科書の国定化には難があるのではないかと思います。  さらに、青少年の道徳問題でありますが、三十八年度から倫理の課程が設けられることになっておりますが、これは以前の修身のような復活は好みませんが、今の青少年の道徳意識の低下を思ったときに、これはやはり倫理、社会の充実、すなわち道徳的な教育は非常によいのではないかと思うのであります。  さらに、高等学校の就職時期でありますが、これは労働省からの伝達によりまして十一月一日ということになっておるのであります。ところが、現に十一月一日から就職試験が一斉に開始されているかどうか。これは関西においてはすでに七月、八月ごろ行なわれでおる。あるいは東京においても去年の実情でいいますと、九月、十月にはほとんど終わってしまっておる。そこで、ある一部の大会社あるいは企業会社が十一月一日だと思って待っておりました。ところが、すでに適当な人材はきまってしまっていないというふうな、正直者がばかを見たというような現状であったのであります。したがって、今年もはたして十一月一日になるかどうか。先日の職業安定所の会合におきましては、また十一月一日のようなんでありますが、期日は関西、東京を問わず、全国十一月一日ときめた以上はそれを絶対守っていただく。そうでない限りは、一流の知識のある人はともかく、知識のない人は、少しレベルの低い人たちはもう試験を受ける機会さえ逸してしまう。すなわち職業安定所を通して書類を出しても、全部書類選考によって返ってくるのが実情であります。これはなぜかといいますと、一部陰で就職採用試験をやってしまってもう採る人員がいない。ただ法的に十一月に書類を集めて返す。したがって、その期日を設けるなれば絶対にそれを守っていただく。期日を守られないなれば、これを全廃していただきたい。かように思うのであります。  以上、私の実際に経験し、また、きょう意見を申し述べたいと思いまして用意してきた案件でありますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。(拍手
  80. 田中啓一

    ○田中啓一君 教育の現場にいらっしゃいます方からたいへん適切な御意見がありましてありがとうございました。ちょうど高等学校においででございます。でありますから、先ほどの先生にはきわめてざっと御答弁を願ったままでお急ぎのようでありましたからやむを得ませんでした。中学を卒業して高等学校に進学を希望する者は全部入れるべきだ、そのように高等学校を作れ、こういうふうなお話でございましたが、私数字は申し上げませんが、中学を卒業して高等学校へ進学を希望する者の割合は急速にふえていくと思います。中学卒業生の絶対数がおっしゃるように来年をピークとしてここのところ急にふえて急に減る、そうしてまた数年たてば今くらいになってしまうということは私どもも同じように思っておりまして、また私立高等学校のほうにも大いに収容していただくような方策でいかなければなるまいということは同感なんでございますが、そこでいずれにしましても、希望者は全部入れるのがよろしいということでやれるかどうか。つまりいろいろな人が希望するだろうと思うのです。高等学校の教科というものは私は中学校に比べまして相当高いレベルに教育内容はなっておると思うのです。それを一体希望者は全部受け得る能力があるのかどうか。何か特別の工夫をすればまた別でございましょうが、私は今日の高等学校のやり方では、全部入れたのでは高等学校の教育というものはできなくなってしまうだろうというようなことを心配いたしますので、ひとつ高等学校においでになる永尾先生からその辺のところを十分伺ってみたいと思うわけでございます。
  81. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 私、高等学校に全員入学をする、希望者を全員入れるということは必要ないと思う。と申しますのは、会社においても学校においても一定の定員というのはあるのでありますが、ただその率をできるだけ緩和してやってほしい、こう思います。たとえば今のままの定員で申しますと、たとえば東京近辺の人口が、今から十年前の倍になっても、学校の定員は、二百名なら二百名と一律にふえないとしましたならば、その今から十年前二百名とったときに一・五倍であったとしますれば、今では三倍になっているわけです。で、三倍にもふえたのでは、これは明らかに少し行き過ぎではないかと思うのであります。これはちょっと学校の例をあげて恐縮と思いますが、東京開成学園で昭和二十三年ころの話ですが、あの当時、大体千五百名の入学希望者がありまして、とるのは二百五十人であります。で、小学校からの内申書は、大体三百名全員が全優なのだそうです。したがって、三百名全優だったならば、書類選考ではまず落とせないわけです。それはあれが一流の私立学校ですからやむを得ないとして、これが全部の高等学校にそういうふうなことが適用になったとしますれば、教育の機会均等をある程度阻害されていくのではないか、こう思いまして、競争率が何%、すなわち一・何倍かという妥当な線というのが見出せるのじゃないかと思います。その線で押えるのであれば、希望者が白痴に近い人であろうと何であろうとみな入れるという案には、あまり賛成できかねるのであります。
  82. 加瀬完

    ○加瀬完君 ちょっと先生に伺いたいのでありますが、私は私立学校を助成することに反対ではありませんけれども、先生のお説のように、私立学校にだけ補助建築をいたしましても、この高等学校の急増は解消できないと思うのです。で、四十年がピークでございますね。四十年がピーク、百二十三万人。一応対象にしておりますのは、公立に八十万、私立に四十三万。公立の八十万の中には、新しい校舎を建てて入れるだけでなくて、五十名定員を五十五名にするといったような形で入れておるわけです。しかも、これは私立学校も含めて高等学校は文部省の示しておる基準が守られておりません。したがって、急増対策である程度校舎の建築が進んで、それが特別教室なりいろいろの基準のワクにはまるような活用方法というのはあとで幾らでも出てくるわけです。当然基準であるべき校舎だけが備わっておらないわけですから、公立でも校舎増築が直ちにこれがむだになるということはないと思うわけであります。  それから先ほど午前中の公述人の中にもありましたけれども、結局高度成長とか、あるいは先進国に伍して産業発展をするといっても、問題は民度だと、こう言うのです。民度の問題だということになりますと、かつては中学校、女学校に進むのが高等教育であっても、もう高等学校の教育を受けるのは普通教育です。だから、希望者は全員入学という建前でなければ日本の民度は引き上げられない。そういう意味から、昔のように競争で大学コースに優秀な者だけ行って、あとの者を落とす、こういう意味では日本の民度を引き上げるための高等学校の教育というものは不可能になるのではないか。この点、若干先生の意見と私は見解を異にいたしておりますので、御見解を承りたいと思うわけであります。  それから、先生は東京の高等学校にお勤めでございますから、それほど切実には問題に責められておらないと思いますけれども、高等学校の助成費というものを国は出しません。しかし、地方に対しましては、国は私立学校に助成費を出すようにしてあります。しかし、自分の高等学校も建たないのに私立学校に助成費を出すわけにいかないから、七県は助成費ゼロにしてあります。東京都も含めて、国家財政がもう少し高等学校の急増対策に予算を盛らなければならないというお考えはございませんかどうか。あわせて以上三点お伺いしたい。
  83. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 高等学校に希望者を全員入学させることには、私今反対と申しましたけれども、全員入学できることは非常に望ましいことであります。また、日本の国が教育豊かな文化国家を目ざしているのでありますから、高校のみならず全員大学までも卒業して、教育豊かな国民になっていただきたい。これが、昔の大学と現在の大学と比べたときに、現在の大学は、非常にこれはまたむずかしい問題になるわけですが、学問が低下している。たとえば以前、六三制野球ばかりが強くなりという言葉がありましたが、私はこの点についてひとつ申し上げますれば、六三制必ず野球が強くなって、はたして学科が低下しているか。これは一がいには言い切れないと思うのであります。確かに昔の中学三年生と現在の中学三年生を比べたときには、国語、数学、社会、理科というふうな科目については低下しております。ところが、団体で協調してクラスを運営し、あるいは協議をやっていく、すなわち協調性の点においてはプラスになっているのではないかと思うのであります。  それで、先ほど申しましたように、高校を全員卒業できるような文化国家になることが望ましいのでありますが、一年間だけ、数で申しますれば、私はっきり覚えておりませんが、来年中学を卒業するのは二百四十六万ではなかったかと思うのです。今年が百九十八万ぐらいではなかったかと思うのであります。したがって、そこに五十万からの増加になっているわけです。その次ぐ年は二百三十五万くらいになっている。それがさらに十万ぐらいずつ逐次減っていくのであります。これをいかにするかということは、やはりここのところで、来年度全員高校希望者を収容できるようになれば、その次ぐ年には減っていくのですから、なおこれは収容できるようになることであって、できればそうしていただきたい。また、今私申し上げましたけれども、白痴に近いような高校進学希望者を進学させてもしようがないと申しましたけれども、それでも教育の仕方によっては、高校を出ることは少なくも中学を終わって実社会に出るよりも三年間もまれる。すなわち三年間むだに——むだ飯というのですか、食べたその実は一生涯のうちに必ず生きていくのではないかと思いまして、真の文化国家を建設するためにはやはり全員入学させることが望ましいのであります。あくまでも私は望ましいことで、これは私のほうでお願いすることは、できれば全員入学をお願いしたい。そういうふうに配慮していただきたい、こう思うのであります。  失礼ですが、もう一つの質問は……。
  84. 加瀬完

    ○加瀬完君 ことし、来年ですか、三十七年に急増対策のために校舎を増築しても、子供がだんだん減ってくるのだから、それがむだになるのじゃないかということだったのですが、むだにはならないのじゃないか。
  85. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) これは高等学校の一教室における定員が、三十何名とか、あるいは少なければ少ないほどいい教育はできるわけです。したがって、来年はおそらく五十名あるいは六十名、ひどいのになりますと七十名ぐらい入らなければ収容できないような状態も出現するのではないかと思います。したがって、校舎を増築しておくということは、将来三十名から三十五名くらいの理想的なクラス編成にすることができるのであって、これはむだではないと思います。要は、問題は多額の費用が、はたして来年度、全部収容できるだけの予算を組んでいただけるかどうかということが先決問題でありまして、その点に関してひとつ御説明していただきたいと思うのです。
  86. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 いろいろな公述人のいろいろな意見を承って、非常におもしろく感じているのですが、永尾さんに一つ二つ伺いたいと思うのですが、あなたの学校の新入生は、四月一カ月間に幾ら学校に納められますか。都立の高等学校とのその差が幾らであるかということと、それから国の予算に直接あるいは間接に関係あることで、あなた及びあなたの学校の生徒さんがそれぞれ最も不満を持っておられる点はどういうことか、参考に聞かしておいていただきたい。
  87. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 私、薄学のために、都立、要するに公立学校の現在の一カ月の月謝が幾らであるかということをはっきり私ここのところで申し述べる資料がちょっとないのでありますが……。
  88. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 あなたのところでは幾ら四月にかかりますか、入学費一切がっさい合わせて。
  89. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 私の学校では月謝が千五百円です。授業料が千五百円。それから施設費、PTA会費も入れて大体二千三百円だと思います。
  90. 加瀬完

    ○加瀬完君 寄付金。
  91. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 寄付金はありません。入学金が一万円です。
  92. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 それなら二千三百円だけじゃないでしょう。四月で幾ら納めますかと伺っている。四月一カ月間幾ら納められるか。そうすると一万幾らですか。四月の入学式には幾ら学校へ持っていくのですか。
  93. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 大体二千三百円だと思います。
  94. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 入学金は一万円でしょう。
  95. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) ええ。
  96. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 そうすると、一万三千円くらいになる。
  97. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) これは四月だけですか。
  98. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 私は四月だけ伺っておる。
  99. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) それから都立のほうは全部入れて千五百円ぐらいではなかったかと思うんですが、はっきりした資料は私ちょっとございませんので失礼いたします。
  100. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 それから不満な点は。
  101. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 生徒の一番不満な点ですか。
  102. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 生徒とあなたの、国の予算に直接関係のある一番不満な点は……。ありませんか。
  103. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 別に……。
  104. 田中啓一

    ○田中啓一君 私のお尋ね申し上げることに対して、御答弁を御訂正になりましたので、重ねてお尋ねいたしたいと思います。私は非常に教育的な見地から実は申し上げたので、あなたがどういう結論をおっしゃろうと、そんなことをとやこう、自分の気に要らない答弁をいつまでもつつく、そんな気持はないのであります。中学の卒業生は希望者全員入学さすのが望ましい、せっかく教育を受けたいと、こういうのであるから、何とかやりようもあろうからやろう、こういうお話しでございます。一面確かにそうしてやりたい親心と申しますか、そういうものはわれわれにもあるのでございますが、さりとて、一体今の高等学校の教課内容というものは、現在入っておる生徒でも、一学年百人入ったといたしまして、卒業するまでに、あの教科書というものは、数学とか物理とか化学というものがみなございますが、理解できたと御認定になれます生徒は一体何%でございましょうか。何%ぐらいはだめだと思われますか。私も多少教師の経験があるから申し上げます。そこで私は、その見地から申しておる。だから、高等学校の教課内容というものを、入ってくる者に応じて相当にお変になって、現在の文部省の定めておる教科課程というものを大変更しない限りは、これは全入学ということは、結局高等学校としてやりようがないことになるのじゃないか。私は、あれだけのものが、理解力がないと思われるものでも、何とかさらに三年教育していくということが無意味だと申しておるんじゃございませんよ。それはそれだけの社会に余裕があれば教育するにこしたことはないと私も思います。しかし、一定の教育水準というものをきめておいて、そうして中学卒業生は国民全部でありますから、義務教育でありますから、それを全部高等学校へ入れて高等学校の教課というものがこなせるかどうか、どういうふうにおやりになるか、それらの見込みと関連をしなければ、全入学ということは教育的にはどういうことになるだろうか。率直な御見解を伺いたいと思うんです。
  105. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) 中学においても、学校によっては、たとえば科目においては優秀組、劣等組というものをすでに設けておる実情もあるのであります。それを、たとえば語学とか珠算とかというふうな科目に、劣等組に入っている生徒、すなわち今度高等学校へ来て優秀組、劣等組、あるいは大学に行く前には進学組というようなものを設けなければならないようになるのであります。したがって、中学においてすでに優秀劣等の差、この区別、いい悪いはまた機会があったら申し述べるといたしまして、そういう区別をしなければ教課が進んでいかない現状から考えて、まあ学校を出るということは非常に無意味なことではないとは思いますが、学校を出ることは非常にけっこうなことなんでありますが、はたしてその高等学校の教課を、中学における、学校にもよりますが、下のほうの人がこなせるかどうかということ、すなわち、いわばばかではないけれども、少し知能が低下しているといって、中学は義務教育ですから三年までは進むわけです。ところが、その三年まで進んだ、女の生徒であれば顔がどうにかしっかりしているけれども、頭の内容はまるっきり中がからっぽである、しかし学校を出ておけばということで、出るということがはたしてどうか、ということは、男子の生徒の場合に、よくぐれたような、多少中学時代からたばこをすったり酒を飲んだり、いろいろな飲食店に出入りするような生徒は、たとえば高等学校へ行っても、学問を身につけても、本人がまずその素行が直らない限りは、学問ばかり身につけても、かえってなまはんかになってしまう。すなわち、多少ものを知っておればしゃべりたい。大体私どもよくあれしているのですが、黙っている人はばかか、りこうかわからないけれども、しゃべっている人はばかか、りこうかすぐわかる。しゃべらしてみると、人間はばかか、りこうかすぐわかる。しかし黙っていると、顔を見ただけでは、ばかそうな顔をしていても、りこうな人もいるし、りこうそうな顔をしていてもばかな人もおる。だからわからない。したがって、そういう一部の人は、これは必ずしも全員でなくして、省くのが妥当で、やはりさっき申しましたように、定員の何倍、すなわち一・一倍が妥当な線であるか、あるいは一・〇五が妥当な線であるか、どんなに素行が悪くても、成績が悪くても、入学させるということは、多少困難があるのではないかと思います。
  106. 加瀬完

    ○加瀬完君 もっと中学校の教育というものを信用していただかなければならないと思うんですよ。高等学校の学習に耐え得る者を、中学校は選定をして進学をさせるはずです。中学校の学習さえ耐え得ない者を、責任のある校長が、中学校の校長が高等学校に進めるはずはない。しかし、高等学校から見れば、その中でも優劣はつくでしょう。しかし、中学校の教育というものを完全にしていけば、高等学校の教育だけは、入れてくれるならばなし得るものがだんだんとふえてくることは、われわれ期待ができるわけです。たとえば五十何人という一組に押し込められて、これで高等学校へ行く完全な学習をマスターしろといったって無理なんです。しかし、教育の諸条件というものが整ってくれば、少なくとも校長の推薦する者が、高等学校の学習をなし得る素質を持った者が行くわけなんです。そういう希望者をこれは高等学校としては全部受け入れられるような体制というものにならなければならない。もう高等学校は高等教育ではなくて準義務教育ですよ。普通教育の延長ですよ。そうでなければ日本の民族というものは高まらないと思うんです。優秀な子供だけを教えるとか、教師のほうで選定して、いい者だけをとるなんていうことは、非科学的もはなはだしいと思うのです。その教師自身に選定の能力があるかどうかということも問題だし、間違いもある。だから高等学校に行きたいという者はまだ受け入れると、こういう体制に進むということが文教政策としては私は当然だと思う。この点おそらく同じお考えだと思いますけれども、念のために伺います。
  107. 永尾義雄

    公述人(永尾義雄君) どちらの先生の御意見もごもっともなことでありまして、私これはどちらであるということではないんです。ただ見解が多少、大体意見は同じなんですが、今の御意見は私ども決して中学校あるいは小学校の先生方を信頼していないというお考えになっていただかれては困るのでありまして、全部信頼いたします。ところが、まあこれは私のほうからのお願いなんですが、中学校で高校に進学推薦する場合に、まあ校長が推薦する。担任のあれに基づいて校長が推薦する。そこにある一定の線を設けていただきませんと、たとえばこちらの学校へいっては素行が悪いから落とされる。ところが、こちらの学校は素行ではかまわないでとってくれるというふうなことがありまして、学校には学校の運営方針というのがありますから、多少どうもこの生徒はクラスの中を悪くする可能性があると、ただそれを今先生のおっしゃいましたように、学校の先生ぐらいの者が、生徒を、この生徒は見た目が悪いから落とそうということは、これは非常に危険性があるわけです。確かに、はたしてそういうふうに三人で見ても、五人で見ても、これは人間の見ることですから、大いに間違いがある。その生徒を黙って入れてやったら、かえってその生徒が将来りっぱな有為な社会人になるかもしれないのです。そういう点を考慮いたしますと、非常にこれはむずかしい問題でありまして、中学の先生も高等学校の先生もみんな信用するのでありますが、やはり学校に、たとえば校長先生にこういう線の生徒はとってほしいという基準を設けさしても、人間のやることですから、これはどうも前に盗みの癖がある、あるいはたばこをのんで警察に補導されたことがあるからやめておこうじゃないかと、職員会議にかけられてまず校長先生なら校長先生、教頭先生なら教頭先生が反対しますと、それをしいて押して平の教員がおれが指導してやるから入れろというだけのことは、これはちょっと不可能ではないかと思って、私どちらの意見についてもごもっともなことだと思うのであります。
  108. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 永尾公述人公述はこれで終了いたしました。どうも御苦労さん。  以上をもちまして昭和三十七年度総予算に対する公述は全部終了いたしました。  明日は午後十時に委員会を開会いたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後四時三分散会