運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1962-03-15 第40回国会 参議院 予算委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十七年三月十五日(木曜日)    午前十時二十三分開会   —————————————    委員の異動 本日委員井川伊平君辞任につき、その 補欠として杉原荒太君を議長において 指名した。   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     湯澤三千男君    理事            川上 為治君            鈴木 恭一君            平島 敏夫君            加瀬  完君            藤田  進君            田上 松衞君    委員            植垣弥一郎君            小沢久太郎君            太田 正孝君            大谷 贇雄君            上林 忠次君            小林 英三君            櫻井 志郎君            下村  定君            杉原 荒太君            田中 啓一君            館  哲二君            一松 定吉君            村山 道雄君            山本  杉君            亀田 得治君            木村禧八郎君            高田なほ子君            戸叶  武君            成瀬 幡治君            羽生 三七君            矢嶋 三義君            山本伊三郎君            田畑 金光君            市川 房枝君            牛田  寛君            奥 むめお君            岩間 正男君   政府委員    大蔵政務次官  天野 公義君    大蔵大臣官房財    務調査官    松井 直行君    大蔵省主計局次    長       谷村  裕君    農林政務次官  中馬 辰猪君   事務局側    常任委員会専門    員       正木 千冬君   公述人   早稲田大学教授 時子山常三郎君    日本開発銀行理    事       下村  治君    評  論  家 上原 専禄君    東京学芸大学教    授       細野 孝一君    東京大学教授  大内  力君    鉱山生活協同組    合連合会専務理    事       苅藪 豊作君   —————————————   本日の会議に付した案件 ○昭和三十七年度一般会計予算内閣  提出衆議院送付) ○昭和三十七年度特別会計予算内閣  提出衆議院送付) ○昭和三十七年度政府関係機関予算  (内閣提出衆議院送付)   —————————————
  2. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) これより予算委員会公聴会を開会いたします。  公聴会の問題は、昭和三十七年度予算でございます。  公述に入りまする前に、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。本日は御多用中にもかかわりませず、委員会のために御出席をいただきましてまことにありがとうございます。厚く御礼申し上げます。当委員会といたしましては、去る三月五日から昭和三十七年度予算に関しまして、連日慎重なる審議を重ねて参りました。本日及び明日にわたる公聴会におきまして、学識経験者たる皆様から有益な御意見を拝聴することができまするならば、今後の審議に資するところきわめて大なるものがあると存じます。  これより公述に入りまするが、進行の便宜上、お手元にお配りしてございまする名簿の順序に従いまして、各自二十五分以内で御意見を述べていただきたいと存じます。けさはお二人の予定でございまするが、お二人の公述が終わりました後に一括いたしまして質疑を行なっていただきたいと存じます。まず、時子山公述人にお願いを申し上げます。
  3. 時子山常三郎

    公述人時子山常三郎君) 時子山でございます。衆議院から参議院にかけまして、ただいま委員長お話のとおりに慎重審議を続けておられます。したがいまして、いろいろな角度、立場からすでに三十七年度予算につきましては、論議が尽くされてきておるのでございます。したがって、私本日ここへ参りまして発言いたしますにつきましては、なるたけそういうことが重ならないような視野から申し上げたいと思います。昨年七月から十一月にかけまして外国国際会議財政会議に出まして、ついでに池田所得倍増計画をめぐる世界経済動きがどうだろうかというようなことを兼ねまして二十二カ国を回って参りました。そういう点を含めてむしろ申し上げたいと思います。  まず最初に、三十七年度予算規模についてでございますが、今日までいろいろその規模につきまして、これは大型予算でないかというふうな御意見がむしろ一般的であろうかと思いますが、池田首相衆議院における答弁を拝聴しておりますというと、いや、大型でない、国際的に見て決して大型でないというふうな御答弁があったように新聞で伺ったのであります。私今度ワルソー財政会議に参りましたときに、アメリカのコルムという人が、自由主義諸国財政学者を代表いたしまして、一般的報告をいたしておりました。その中に自由主義諸国予算規模につきまして報告しておりましたが、それを思い出したのでありますけれども、それによりますというと、今日、最近の傾向から見ますと、自由主義諸国予算規模、たとえばフランスとかドイツとかイタリアなど、さらにアメリカ合衆国イギリスなどにおきましては、国民総生産の三〇%内外を充てておる、政府予算に充てておるというような報告があったのでございますが、こういう点から見ますというと、内容は、もちろん日本が軍備を持っておりませんので使い道は違っておりますけれども、国民総生産あるいは国民所得規模から申しますと、国際的にやはりそう大型でないということが言えるかと思うのであります。ただ、われわれの国内的な点からいたしますというと、昭和三十年度までは、一兆円をこえると日本経済の実勢力に耐えられないのだというふうに言われて、極力一兆円以内に三十年度まで押えられてきておりましたが、三十一年度から一兆円をこえ、そうしてたちまち急膨張いたしまして、この三十七年度におきましては、ついに二兆四千二百六十八億という巨額のものになっておりますので、そういう点を考えますと、確かに大型でありますけれども、しかし、今度はその内容に立ち入っていきますというと、三十七年度予算のたとえば前年度に対する増加分内容を見ますと、その増加分四千七百四十億円のうち、二千億円近い額が食管会計とか産投会計へ繰り入れられておる。あるいは地方交付税交付金、あるいは国債費増額に充てられるというような内容のものとなっておりまして、必ずしも政府が直接財貨やサービスを買い入れるために充てられていないということを考えますというと、その額の大きさに現われたほど、また内容的には大型と言えないのじゃないか。また国民所得との関係から見ても、大体日本の最近の予算規模というものは一五%台になっておるのでございますが、ただ三十七年度は一六%台に上ったという程度の大きさであって、そう大型というふうに考えられない。ただしかし、ここに危険なことがあるのでありまして、この点は注意しなければならぬと思います。と申しますのは、御承知で、もう私ここで申し上げる必要はないのでございますが、こういう経済成長期におきましては、政府収入自然増収というものは常に大幅に出て参るわけであります。最近の例を見ますというと、その増収分一般会計財政投融資、それから地方財政などに、こう言ってはなんですが、あまり計画的ではない形で繰り込まれて流されていっておるのではないか、そしてこの自然増収政府支出の増大を来たしておるのではないか、こういうふうなことが考えられるわけであります。それからこういう経済成長期におきましては、どうしても公共部門の立ちおくれとなりがちでありますが、それに備えて公共投資が大幅に要求されてくるわけであります。ところが、その公共投資によりまして経済成長条件が作られてきますというと、民間のほうでまた設備投資を拡充する。設備投資を拡充するというと、さらにまた公共部門の立ちおくれだというので、公共投資規模の拡大が要求され、すなわち全体としての長期計画というものがはっきり立てられていないというと、そういうふうな資金の流れというものが起こる可能性があるのであります。で、それが日本の今日の経済条件のようなところでは、結局国際収支悪化というようなことに行きついて、いろいろ問題が起こってくるのでありまして、どうして行きつくかというようなことにつきましては、今ここで詳しくは申しませんけれども、結局そういうことで、いつも繰り返してこの問題が国会論議されざるを得なくなる。そこで、問題といたしましては、所得倍増十カ年計画というものである以上は、もう少し計画的に大幅に出てくるまず自然増収というものを長期的なワクの中で処理するということが必要であろうかと思うのであります。また他方対外的に輸出伸張によりまして、高度成長経済政策を遂行する上において、どうしても対外的に依存しなければならない日本経済の宿命を考えまして、貿易伸張政策というものにもう少し重点を置く必要があるのじゃないか、こういうふうに予算規模に関連して考えられるのであります。  予算規模につきましては、大体このくらいにいたしまして、何か時間が非常に少ないようでございますので、簡単に申し上げたいのでありますが、次の問題といたしましては、今の私の申し上げましたことに関連して、自然増収を長期的に計画的支出をする必要があるのじゃないかということについて申し上げてみたいと思います。先ほど申し上げましたワルソー会議では、実は共産圏財政学者と、それから自由諸国財政学者とが第二次大戦後初めて会合をいたしました。経済計画ワク内における予算計画ということを共通のテーマとして論じたのでありますが、そこで財政政策の基本的なあり方としてこういうことを取り上げていたのであります。すなわち、まず第一に、もし政府が新たに手を加えなかったならば、次年度経済がどう動いていくであろうかということについての仮設的予測と、こういうふうに日本語に訳ぜば申し上げていいかと思うのでありますが、かりに設けた予測でありますが、仮設的予測というものをどうしてもしなければならない。経済白書が扱っておるようなことが必要だということであろうかと思うのであります。ところが、政府といたしましては、政府にとって第二に望ましい経済発展というものがある。たとえば日本の現在の池田政府立場で申しますと、所得倍増という結果をもたらすための計画的予測というものを政府が持っておるというのでありますが、第二番目は、そういう計画的予測の必要が起こる。ところが、この二つ予測仮設的予測にかかわらず、第二番目の政府が望ましい経済発展をもたらさんがための計画的予測というものを立てておりますが、この二つ予測の間に開きが出てくる、それを埋める必要がある、そこに財政政策が打ち出されるのだ、こういうことが論ぜられていたわけであります。この立場から見ますと、たとえばその開きというのは、日本の場合においては景気の過熱とかいう問題、あるいは国際収支悪化というような問題として起こってくるので、それに対してどうするかという財政政策の問題が展開されてくると思うのであります。従来、自由放任の時代には、経費ができるだけ少ないほうがいいんだということ。すなわち経費最低水準最善水準だというふうな一つのルールが主張されてきておる。第二番目は、収入は常に支出とひとしくなければならない。いわゆる均衡予算説でありますが、そういうことが主張されてきておる。あとでも申し上げますが、日本の今日の財政法は、この均衡予算説を堅持する自由放任過程を前提とした財政政策を予想しておるんじゃないかと思うのでありますが、そういうことが主張されてきておる。また租税というものは既存の経済関係にできるだけ影響のない仕方で課税さるべきであるということ、すべて自由放任という原則の上から、こういう財政政策が主張されてきたのであります。ところが、今申し上げましたように、新しい財政政策、それは最近フィスカル・ポリシーということを財政学者のケインズが言って以来、財政学者の方でもこれを問題にしました。そうでなくて、むしろ政府が積極的な何らかの手を加えていく、それためには経費増額も必要だということ、たとえば池田内閣所得倍増計画に関連して申し上げますならば、景気対策としての課税の必要も起こってこようし、あるいは国際収支悪化のためには金融の措置ももちろん必要でありますが、その他の財政政策を積極的に打ち出す必要があるのだ、こういうことが主張されてきておるのでありますが、こういう点から考えますと、先ほど申し上げましたように、政府自然増収に対する対策というものは、何かこう長期計画的という点から申しますと、十分なものがまだ措置されていないんじゃないかというふうに思うのであります。しかも、そういう積極的な政策をとらなければならない、今申し上げました財政学者の言うフィスカル・ポリシーという政策をとらなければならないということは、日本の今日までの実際がすでに示しておるのでありまして、御承知のように、昭和三十三年度予算におきまして、経済基盤強化資金ということで、その年の余裕財源の中から二百二十一億円をたな上げしておきまして、三十四年度にそれを取りくずして使うというようなことがすでに行なわれておるわけでありまして、先ほど申し上げました収入支出と常にひとしくなければならないという均衡予算説というものが、すでに実際においてくずされてきておる、あるいは最低のこの経費水準というものは最善水準だというようなことも、すでにそれほど昔のような重要性を持っておらない。場合によっては、国会の側から政府に対して経費増額を要求するということも私は今日の場合においてはあり得ることでありまして、そういう点から見ますと、予算審議におきましても、政府に対する計画性の必要ということをもっと強調する必要があるのでないだろうか。ところが、ここに問題になりますのは、先ほどもちょっと触れましたように、今日の日本財政法は、現在自民党政府が言っておられるような、フィスカル・ポリシイとわれわれは呼んでおります政策の実行を、実は予期しないでできておるんでないか。この単年度制をとっていたり、あるいは会計年度独立制というようなものがはっきりと打ち出されておるのでありますが、今申し上げましたような三十三年度以来の、たとえば経済基盤強化資金というふうなたな上げをやるとするならば、もっと弾力的な規定に変えて、そういうことができるような法律を作り上げなくちゃならぬのじゃないか。これを私ども今まで自民党政府社会党皆さんとのこれについての論議を伺っておりますというと、政府のとられる政策現実政策は、現段階のときどうしても必要だと思ういわゆるフィスカル・ポリシイ政策をおとりになっておられる。ところが、財政法がそれを予想していない形で作られておるので、社会党皆さんがおっしゃるように、財政法違反の疑いありということも確かにこれは言い得ることであると思うのでございますが、先ほどの自然増収長期的計画支出ということの必要に応じて私は財政法を全面的に再検討される必要があるのじゃないか、こういうふうに考えておるわけでございます。  第三番目といたしましては、さっき予算規模に関連して最後に申し上げました点でございますが、日本のような経済状態におきましては、この高度成長のはけ口を国際貿易に見出さなくちゃならないわけでありますが、ととろが、その点に対しましてもう少し政府が重点的に輸出に対する施策を進められる必要があるのじゃないか。三十七年度あたりも相当そういう意味では手は加えられておるようでございますが、もっと重点的にこの政策を進められる必要があるのじゃないか。たとえば、先ほどワルソー会議における財政政策基本的あり方ということを申し上げましたときに、もし政府が手を加えなければ経済がこういうふうに動くだろうというこの仮設的予測を行なう場合に、最近まで私ども見ておりますというと、池田政府のやり方では国内経済についての動き方についてはかなり詳しく資料をお集めになって予測を立てておられるようでございますが、国際経済との関係におきましてはいかがかと思うようなことを感ずるのであります。たとえば、最近の欧州におけるEECとかEFTAのあの動き、これを私は、実に資本主義経済のみならず、世界経済史の中における大きな大変化でありまして、日本の十カ年計画を立てられるにつきましては、非常に大きなファクターとしてこれを考慮の中に入れていかなければならないと思うのでございますが、はたしてそれが要素として十分考えられておるかどうか、こういうことが懸念されるのであります。今度私外国へ参りまして在外公館、大使、公使の方々、参事官の方たちとお会いして、いろいろこういう問題についてお話し合いをして参りました。御承知のように、最近は外交官と申しましても、通産省や大蔵省あたりからの経済アタッシェと申しますか、昔の軍のアタッシェに当たるような経済専門家が多数おられまして、私が前に若いころに留学しておりました当時の在外公館方たちから見ますというと、経済の問題について非常に造詣の深い方々がおられるのでありますが、そういう人たちといろいろお話しをいたしましたが、この日本の今までの政府政策を見ておりますと、必ずしもそういう人たちの貴重な体験なり意見というものがどこまで政府現実政策に反映しているかどうかということも非常に感じて参ったわけでございますが、さらにまた、もうこまかい財政上の措置については今日はもう省略さしていただきまして、こういう点からお話を進めさしていただきたいと思うのでありますが、まあ広く輸出伸張につきましては、国民的協力をもさらに得るというような形の重点的施策を打ち出される必要があるのじゃないか。ことにこれは今度外国二十二カ国を回りまして知ったことでございますが、われわれが書類の上で日本で読んでおったり、あるいはいろいろ聞いておったりしておるその奥に、やはりその国にとって現実のきびしい問題を処理するためにかなり思い切った措置がとられているように思うのであります。よくこの趣旨を明らかにしなければならないというようなことでいろいろ御意見を伺って参りましたが、卑近な例を申しますというと、イギリスあたりにいたしましても、輸出振興のためには、例の上等のウイスキーはイギリス人はこれを飲まないのだというようなこと、あるいはオランダに参りましたところが、オランダはあの有名なバターの産地であるにもかかわらず、オランダ人はマーガリンを食って、ほんとうのバターは食べないのだというふうなことを国民にやらしておるのであります。あるいはまた最近日本で問題になっておりますけれども、アメリカのバイ・アメリカン、シップ・アメリカンという国産愛用というようなものが思いのほか国民の中に浸透しております。またその他あまり公開のところで申し上げられないような措置アメリカあたりでもとっておるのじゃないかというふうなことを感じたのでありますが、こういうふうにして、一つ国民運動として輸出増強ということをこの所得倍増計画に連ねて強化される必要があるのではないかというふうなことをこの問題については強く感じて参ったのであります。  それから第四番目といたしましては、最初財政規模の問題に関連しで申し上げましたが、この高度成長政策というものは、基本的には科学技術振興に待たなければならないので、今日のような予算措置でなくして、思い切った大幅な科学技術振興措置をとる必要があるのではないか。国民所得の割合からいたしましても、たとえば、アメリカ合衆国あたりではその三・一%をこれに充てておるとか、ソビエトなどにおきましては二・二%充てておる。わが国におきましては国民所得に対しましてわずかに一・六%程度である。このパーセンテージは低いのみならず、絶対額といたしましても、予算規模が小さいだけに非常にわずかなものになってしまうのではないか。ところが、今度私EECEFTA、この方面を回りまして、なぜああいうふうな経済の復興が起こってきたのか、たとえば社会主義のほうから見ますならば、資本主義がすでに凋落していくのだ、こういうふうに共産圏あたりで教えられたようでありますけれども、あの欧州EEC六カ国、さらにEFTAの七カ国——EFTAの七カ国はまだ立ちおくれているようでありますけれども、EECの六カ国に至りましては、科学技術生産過程への導入によりまして、非常に大きな生産発展を遂げてきておりまして、今まで予想もしなかったような新しい経済現実というものがそこに展開されてきております。フランスドゴールあたりが、ドゴール政策がよかったというふうに言われておるのでありますけれども、その内容を見ますというと、やはり科学技術振興ということにおいてフランスが成功した、その過程においてドゴールがたまたま出てきたというようなことであの発展が可能になった。あるいはミラノを中らとしたあの最近のイタリア経済発展にいたしましても、技術革新を通じてのことである。あるいはオランダに参りましたところが、農業国と普通概念されておりますオランダが、最近の技術革新によりまして、もう工業国化しつつある。デンマークのような農業国も、工業化のために一生懸命になっている。さらに、チェコスロバキアとかポーランドの共産圏に入ってみましたところが、共産圏のほうも、自国工業化——技術革新によって工業化をできるだけ早く全うしたい、そのために共産圏の足並みが乱れがちになるというほどにまで自国工業化というものに熱心になっておるようであります。さらに、非常に後進国としてのアフリカに参りまして、ガーナとかリベリアを見て参りましたけれども、おくれた国はおくれた国なりに、技術革新導入して工業化に急ぐという風が見られます。あるいは、中南米七カ国を回りましたけれども、ここでも非常な技術革新に今熱心になっておりまして、ペルーの大統領日本に来たり、アルゼンチンの大統領日本に来たりしておりますけれども、結局、アメリカ経済に今まであまり依存し過ぎたが、今後は多角的に他の経済と結びつくと、そのために日本と密接な関係を持つ必要があるというので、技術革新の動機がああいう大統領日本訪問を促進さしておる、こういうふうに考えていいかと思うのでございます。たとえば、技術革新の実例といたしましては、ブラジルサンパウロ——日本人がたくさんいる町でありますが、それから移民がたくさん上陸いたしますサントスの港など、その過程におきましては、世界の第一線の技術導入されております。日本も、ウジミナスに一つ工場を作っておるようでございますけれども、あるいは石川島なども出て船を作っているというようなことでございますので、ブラジルあたりは、あの豊富な資源を、技術革新導入することによって工業化をはかり、自立をはかるということが非常に熱心に行なわれておるのであります。それに成功した程度に応じて、たとえば完全雇用状態が進んでいくとか、あるいは生産力がぐんぐん伸びるという現実が、今日世界の大勢でなかろうかと思うわけでございますが、こういう点から見ますというと、今日の所得倍増計画というものにかかわらず、新しい国の発展のためには、技術革新導入——これは単に生産過程ばかりでなく、社会関係、あるいはもちろん学問、技術の研究もそうでございますが、あらゆる文化的な側面において必要ではないか。これはもちろん、私今まで技術史観というようなことを言って参りまして、技術の進歩によりまして結局社会の発展を可能ならしめるというような前提の上に立ってきた関係で、特に私にそう見えるのかもしれないのでございますが、各国の実際の動きを見ますというと、今まさに技術革新期に臨んでおる。したがって、こういう時代の特徴といたしまして、世界に今日いわゆる指導者というものがおらぬ。昔、私欧州に参りましたときには、ドイツにはヒトラーがおり、イタリアにムッソリーニがおり、ソビエトにスターリンがおる。トルコにはケマル・パシャがおる。すべて指導者顔して、世界が自分についてくればいいのだというようなことで、盛んに各国において声を大にして語られておりましたが、今日世界のどこにも指導者顔をしている者がおらぬということは、結局指導者顔をするだけの基礎的な見方というものがだれにも立たないということでありまして、結局技術革新というものが一切を決定する時代になっておる。これは少しオーバーにお聞きになるかもしれませんが、中世から近代へのこの技術革新の時代に、トーマス・ホッブズが「読めば読むほど愚鈍になる」と言った有名な言葉があるのでありますが、これは中世紀的なものの見方、考え方で書かれた書物は、いくら読んでも近代的発展を理解する足しにならないというふうなことで、こういう発言をしたのでありますが、今日指導者顔をなし得る人がいないということも、今までのたとえばイデオロギーにいたしましても、資本主義とか、社会主義とかというものは、一つの概念されたものでは新しい発展を見通すことはできなくなってきておるというような、歴史の大きな変革期に来ておるのではないかと思うのであります。こういう時代には、やはり技術革新というもの、科学技術というものを国民の中に深く導入する。さきに申し上げましたように、単に経済の側面のみならず、国民生活の中にそれを取り入れて、新しい発展に寄与させるべきである。これも少しオーバーにお聞きになるかもしれませんが、かつて日本の国防というものは軍によって支持されておった。そのために、軍の将校というものは国家の経費あるいはその他の力によって養成されて参りましたが、私は、新しい平和国家としての日本の国防というものは、こういう科学技術のにない手を新たに養成することによって初めて達成され得るような段階に来ておるのじゃないかということを感じて参ったのでありますが、そういう点からいたしますと、基本的には科学技術振興ということが高度成長政策に対してもちろん必要であるばかりでなく、新しい国の政策として全面的に取り入れる必要があるのじゃないか、こういうふうに感じて参りました。  本日は、こまかい数字その他に触れることを避けまして、概論的でございましたが、こういうことを考えておりますので、できますれば、皆さん方の御審議の上で、多少でもお耳を傾けていただけるような点がございますれば、どうぞ御審議の御参考にしていただきたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
  4. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) ありがとうございました。   —————————————
  5. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 下村公述人にちょっと申し上げます。  本日は、御多用の際にかかわりませず、御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。これからお述べを願いたいのでありますが、時間は大体二十五分以内にお願いをいたしまして、下村公述人公述が終わりましてから後に、ただいまの時子山公述人と御一緒に、一括して質疑をお願いを申し上げたいと存じます。  それでは下村公述人お願いいたします。
  6. 下村治

    公述人下村治君) 日本経済は、今日不景気になっているわけではないと思います。生産は上向きでありますし、消費もやはり着実に増加をしております。雇用の状態も非常に改善をしているということになっておるようです。国際収支は、最近数カ月間比較的安定をしておりまして、まずおおむね均衡を維持し得るような状態を続けていると言って差しつかえないかと思います。こういうような状態は、これはやはり、不景気と言うべき状態ではなくて、まず満足すべき経済状態であると言って差しつかえないのではないかと思います。生産が水準が高いのに関連しまして、製造業者の製品在庫がふえ始めているというような傾向が見え始めておりますけれども、これは昨年の日本経済が、生産能力の不足で、製品の在庫もむしろ不足ぎみになりかかっておったし、操業率も完全百パーセント操業率に近いような状態になっておった。言いかえますと、生産能力に対して経済が緊張状態に近づいておったということを頭に入れて考えますと、今日の状態は、経済が緊張から解放されて比較的正常な状態に接近しつつある姿を示していると考えるべきではないかと思います。国際収支の動向などについて考えてみましても、最近一月、二月、三月と信用状の面では輸出は比較的に順調に増加の傾向に転じておりますし、輸入は比較的安定しておりまして、輸出入の信用状面での姿は相当余裕のある輸出超過の姿を示しております。おおむね国際収支が均衡状態に近い姿を示しているということは、また将来の姿を考えてみましても、それに大きな変化がなさそうだということは、こういう面からはっきり言えるのではないかと思います。こまかな点を言いますと、いろいろな点が出てくるかもしれませんけれども、しかし大勢はそういう状態であるというのが今日の経済の姿であろうかと思います。それならば、こういう経済状態はさらに今後とも維持できるかどうか、今後日本経済は不況に入るのかどうか、こういうことが問題になるわけでありますけれども、今日までの状況から考えられますところでは、日本経済は現在のような姿を維持しながら着実な成長と発展過程をたどり得るのではないかと思わせるような状況であるかと思います。今後の経済動きを考えますときに、まず大事な点は、経済は、今日の状態では、急速に近代化し、合理化をすることによって、新しい成長を続けている経済水準といいますか、経済程度といいますか、それが急速に高度化をして、生産性を高めて、高い段階の経済に進もうとしておる。そういう状態を推進する基本的な力が非常に強くなりつつあるという背景があることだと思います。生産と在庫と操業率との数字の関係などから見まして、若干生産超過の傾向が出てくるかということが最近はよく論じられておりますけれども、そういう問題は問題としまして、われわれが考えなければならないのは、経済がこれから調整を起こすのは、今までと同じ経済において調整を起こすのではなくて、より高い水準に到達した姿で調整を起こす、前進をし進歩をしながら、その高い段階での調整を行なうような形で動いていくことだろうと思います。生産の関係から考えてみますと、ただ単に能力が大きくなったということではなくて、生産性を高めつつあるわけです。新しい近代的な産業を拡充をしているわけです。そういうように合理化をし、近代化をして、生産性を高めた上での調整がこれから起こるに違いない。輸出入の関係で言いますと、輸出力が強まりつつあるのです。生産性を高めていいものを安く作る能力が増加しつつある。生産余力がそれと同時に充実しつつある。一般的に言いまして、輸出競争力を強化するような姿で現在進行しておる。輸入品に対する競争力を強化するような形で経済が進みつつある。そういう基調を持って、そういう背景での調整がこれから起こるということであります。今日の生産の位置と今日の在庫の変化の位置とから考えて、将来それに対する企業家の反応が起こることだけは間違いないのでありますが、その反応を考えますときに、それが非常に大きなゆれと考えるべきであるか、あるいは自由な自然な正常な自由企業における調整運動の範囲内の問題と考えるべきかどうかということが大事な点だと思いますが、私は、その背景にある経済の基調が、今申しましたように、高度化をし、発展をしつつあるということから考えまして、今後の調整の動きは、自由市場における正常な調整の範囲内の問題として解決が行なわれるのではないかというように考えております。言いかえますと、今日から後の経済を考えますときにも、経済にいろいろな調整の運動が起こることは間違いありませんけれども、それはいわゆる景気調整といいますか、不況を通って、そうして不況の後にまた新たな状態が生まれるというような意味での調整ではないのではないか、不況を通らない形での調整、そういう調整の運動が進行していくと考えるべきではないかというように考えます。なわをなったような姿でいろいろな要因がからみ合って調整が起こるわけですけれども、そういう調整は着実な上昇の過程の上で起こりながら進行するということが、これから予想される状態ではないかと思います。もちろん、そういう状態が自然に出てくるということではありませんで、経済の情勢はわれわれの努力によって初めて作り上げられるというものですから、間違っていろいろなことをやって不景気を引き起こすようなことも不可能ではないわけです。これは、企業家、経営者側の間違いによって起こるというだけではなくて、当局の政策の間違いによっても起こり得るわけですが、今日の情勢全般から考えまして、間違ってそういうような不景気が引き起こされるような過程にあるとは考えられない、またそういう不景気を起こさなければ次の成長と発展過程に入ることができそうもないとも考えられないと私は思っております。そこで、こういうような問題を考えますときには、目先のいろいろな指標だけで考えますと、実はいろいろな解釈のしよう、考え方ができますので、なかなか断定的なことは申し上げられないはずでありますが、しかし、経済全体の大きな流れを頭に置いて考えますと、そこにおのずから判断が生まれてくるということになろうかと思います。経済が長期的に見てどういう位置にあるか、どういう流れの上にあるかということが、そういう意味で基本的に大事なことになると思います。日本経済は、現在非常に大きな歴史的な意味での近代化の洗礼を受けようとしていると考えて差しつかえないと思います。経済全体、国民全体が、いまだかってないような形で近代化の動きの中に巻き込まれている、大きな渦の中に巻き込まれようとしているというのが、今日の姿ではないかと思います。中小企業問題が最近非常に顕著になって参りましたけれども、この問題を考えますときにも、そこにある問題はこういう問題ではないかと思います。まず、いわゆる求人難で中小企業では人が雇いにくくなった、こういうわけですけれども、事の起こりは、日本国民全体に対する就業の機会が非常によくなったということであります。それに伴って、新規学卒者あるいは若年労働者の就業の機会が著しく向上し、その就業の条件が著しく改善されたということであります。その中で、中小企業の従業員の初任給であろうと、若年労働者の賃金であろうと、非常な上昇が起こり、非常な改善が起こって、いわゆる二重構造といいますか、所得格差という問題が、そういう面では急速に解消の姿を示しつつあるというのが、今日の姿であろうと思います。今日中小企業者が当面しております問題は、そういうような労働条件を確保しなければならない状態に追い込まれた姿で、中小企業をいかにして維持することができるかという問題でありまして、ただ単に、中小企業が経営が因る、何とか救済してもらわなきゃ困るというような問題ではないはずであります。日本国民を使うときには、今までのような安い賃金で使ってはならないような経済情勢、今までのように低い生産性でもって使うことが許されないような経済情勢が急速に現われたというのが根本であろうかと思います。そういう状態に今急速に変わりつつあるというのが中小企業の問題だと思います。  農業においても、同じようなことでありまして、二男三男問題は、今日農村にはすでに存在しない。これは、われわれの今までの農業問題の頭からいいますと、革命的な変化だろうかと思います。農村では、やはり今日は、過剰労働力をどうするかではなくて、労働力の不足をどうするかという問題に当面している。言いかえますと、そういう問題を通じて、農業は歴史的な近代化の革命をいかにしてやり遂げるかという問題に直面し、その運動の中に農民自身が入り込んでいるというのが、今日の姿ではないかと思います。  社会資本が非常に不足になっているという問題も、同じようなことであろうかと思います。道路港湾施設が不十分で、極端に不足になりつつある。下水道の施設もきわめて不十分である。こういうことは、要するに、今日までの日本の社会資本がいわば後進国的な標準で維持管理されてきたということが今日の日本経済にそぐわなくなってきた、日本経済がこれからたどろうとしている成長発展の状況から見て、日本の社会資本の状況は極端におくれ過ぎているということではないかと思います。  科学技術振興の問題も、同じことでありまして、技能者教育、あるいは労働者の移動性の改善の施設が不十分である、そういうようなことも同じようなことであります。要するに、日本がいまだかつてないような近代的な経済、近代的な国家、そういうものに向上し、脱皮をする過程において、われわれが今まで考えておったいろんな標準が、あまりにもスケールが小さ過ぎ、あまりにも水準が低過ぎたというような形が目立って現われつつあるということではないかと思います。  物価問題について申し上げますが、物価問題については、二つの面があろうかと思います。一つは国際競争力との関連における問題でありますし、いま一つ国民生活との関連の問題であるかと思います。国際競争力との関連で卸売物価の問題が出てきますし、国民生活との関連において消費者物価の問題が出てきます。大事なことは、この二つの問題は、異なった、質の違った問題である、ただ同じような物価問題ではないということだろうと思います。  日本経済が、国際経済の中に入って、経済の健全な成長と発展を遂げ得るためには、われわれは十分な国際競争力を維持できなければならない。その条件は、卸売物価に現われるわけであります。国際商品における競争力をわれわれが持っているかどうか、それは、卸売物価でありますとか、輸出物価でありますとか、そういうところに現われるわけでありますが、卸売物価にいたしましても、輸出物価にいたしましても、最近一、二年、あるいは三、四年をとりましても、日本の物価はきわめて安定した状態であります。昨年一時やや上がりぎみの姿を示したこともありますけれども、おおむね安定した状態であると言っても差しつかえない状態であるかと思います。さらに、先ほどもちょっと触れましたけれども、今日の日本経済状態は、生産力が拡充し、生産性が向上し、生産余力が増加し、操業率は低下気味であり、製品在庫は増加ぎみであるという状態であります。これは、卸売物価あるいは国際競争条件からいいまして、日本経済はすでにきわめてその立場を強化する方向に前進しつつあるということを示しているかと思います。  消費者物価が一番大きな問題となっておりますけれども、消費者物価を考えますときにも、やはり二つの問題があるかと思います。一つは、経済の成長と消費者物価上昇との正常な関係を維持するということであります。第二は、経済の成長過程において過渡的に出てくる問題があるということであります。消費者物価が上昇するということは、経済が成長し発展する場合においては当然な問題が含まれております。理論的な説明は省略いたしますけれども、一つの事実を指摘いたしたいと思います。それは、日本外国の消費者物価を比較すれば、物価にたいへんな差があるという事実であります。卸売物価につきましては、日本と西ドイツとアメリカと比べましても、ほとんど違いがないはずであります。物によってでこぼこがありましょうが、これは世界の市場が完全な競争市場ではないというところから出てきているわけでありますが、卸売物価の動きから見ましても、その水準から見ましても、われわれの物価は西ドイツやアメリカの物価とあまり違う状態ではありません。それにもかかわらず、消費者物価をとりますと、アメリカは西ドイツよりもはるかに高いし、西ドイツは日本よりもはるかに高いという事実があります。したがって、消費者物価というものは、これは経済が不健全であるから上がるのだと、消費者物価が上がれば必ずそれは不健全な経済を意味するということは言えないはずであります。成長と関連して、高い国民生活を維持している国におきましては、消費者物価はそれに応じて高くなっていなければならない、これが正常な関係であります。  これは、言いかえますと、経済が成長し発展した国においては、その成長の程度に応じて国民の労働力の値打ちがそれだけ高くならなければならない。その労働力の高い値打ちの反映が消費者物価の上昇である、これが正常の関係だということであります。大体において、成長率の増加に対する消費者物価の上昇率の関係は、二割五分か三割くらいと考えればよろしいかと思います。日本国民総生産は、一人当たりでおそらく一六、七%は今日一年前よりも増加していると思います。したがって、年率で五%前後の消費者物価の上昇が起こるとしましても、これは正常な関係と考えて差しつかえないのではないかと思います。昨年中ごろの状態は、おおむねこういうような状態であったかと思います。特に顕著な動きが見えますのは、実は昨年の下期になってからであるように思います。昨年の下期の動きは、今申しましたような成長率と消費者物価の上昇率と正常な関連が起こったものが大部分だとは必ずしも言えないような動きを示している、こういうように思われます。しかし、ここにも二、三違った問題がありますけれども、要するに、これは経済の成長に伴って過渡的の問題が現われたということだろうと思います。野菜の値上がりは特に顕著でありますが、一年前に比較して七割も上がっているというようなことは、これはいわゆる天候の条件、自然条件によって相当部分が説明されなければならない点だと思いますが、しかしそれが全部でないということも間違いない。それならば、その条件は何かといいますと、野菜の生産が国民経済全体の成長速度に合わせて合理化、近代化されなかった、供給の条件、経営の条件経済全体の成長よりもおくれているということがおもな点ではないかと思います。その点は、豚の値段と比較して考えてみればおのずからはっきりすると思います。豚においては、一年前の暴騰を消して、今日値下がりをいかに処理するかということが問題になるような変化が起きておりますが、その主たる原因は生産条件における変化であります。野菜におきましても、野菜の生産条件がもっと近代化し、合理化されれば、野菜の問題について今起こっているような問題はおのずから解消するというようなことになるべき情勢にあると考えてよろしいかと思います。似たようなことは、輸送の問題でありますとか、あるいは小売商の問題でありますとか、あるいは中小企業の問題を通じてあることでありまして、要するに、こういうところで、生産性の向上、経営の近代化、そういうことが経済一般の成長速度よりもやや、あるいは著しくおくれている。それがたまたま経済全体の成長に伴って所得水準、賃金水準の上昇の波が大きく出たために現われてきたと考えるべきではないかと思います。  いま一つの過渡的な問題は、これは経済全体の中で今日まで下積みに置かれておったような就業者が急速に所得の状態、雇用の状態が改善され始めたということだろうと思います。たとえば人夫でありますとか、いろいろな種類の職人とかいうようなものがありますが、こういう職業に従事していた人たち状態は、今日までの経済成長過程においては、相当程度に改善がおくれてきた。下積みにありますために、その下積みの圧力のために、条件の改善がおくれてきた。成長にもかかわらず、二重構造といいますか、所得格差が大きくなるではないかというような意見が出てくるような条件がそういうところにあったかと思います。今日その面が急速に改善されつつあるといいますか、変わりつつあるということではないかと思います。最近一年ないし半年の間にいろいろな人夫賃でありますとか、いろいろな手間賃というものの値上がりは非常に目立ったものになっておりますが、大工の手間賃、植木屋の手間賃、あるいは炭焼きの人夫賃、港湾労働者の人夫賃、あるいは家政婦の給料、あるいはクリーニングでありますとか、あるいは理髪屋でありますとか、そういうところの料金、そういうものに影響を及ぼすような変化が急速に起こったということだと思います。こういうような職種の人口は必ずしも小さなものではないのでありまして、今日の状態でおそらくこういうような職種に従業している人たちの総数は一千万人、あるいは一千数百万人にもなるかもしれないと思われるような状態だと思います。そういうようなところに今日急速な手間賃の上昇でありますとか、人夫賃の上昇でありますとか、そういうことが起こっております。一般工業労働者の賃金率の上昇は、最近のところでは一割——十数%といったような割合で考えられるような大きさになっておりますけれども、今申し上げましたようなところでは、それよりもはるかに高い、二〇%三〇%、四〇%といったような値上がりが起こっている。こういうことが最近の消費者物価の上昇に相当の影響力を持っているということは間違いのないことではないかと思います。  そこで、何がそういう問題の本質であるかということを考えてみますと、これは経済全体が歴史的な近代化の過程にあるということを示しているのではないかと思います。生産性の向上によって近代工業が前進しておりますけれども、それによって国民全体の就業の機会が拡充され、雇用の条件が改善されつつある。その波が今日九千四百万人の全部に広がり始めて浸透し始めたということだろうと思います。大工業でありますとか、大規模な商業でありますとか、そういうところだけではなくて、あるいはその影響を受けた公務員だけではなくて、さらに農業において重大な近代化の動きが始まっている。さらに中小企業においても同じような動きが始まっている。さらに先ほど申しましたような、人夫、職人といわれるような職種においても同じような動きが始まっている。国民全体が経済成長と所得の改善の動きの中に巻き込まれ、その流れを推し進めようとしているというのが、三十六年中に起こった現象のほんとうの意味ではないかと思います。ただこれが、国民全体として予期しない時期に、予期しない速度で、予期しないスケールで現われてきたということが、大多数の人にとって理解しがたいようなふうに見え、あるいはとまどいを感ぜざるを得ないことが多いということの主たる原因ではないかと思います。われわれの心がまえが経済現実動きにおくれておるということが、いろいろの起こった問題に対してわれわれが十分に正しい納得なり理解をし得ない大きな理由ではないかと思います。  要するに、こういう問題は、経済の成長の方向なり、成長の進み方なりが間違っていたがために、その間違いの結果として起こった現象ではないと考えるべきではないか。その問題が起こらないような形にするというには、経済の成長をとめることによって可能になるのではなくて、経済の成長の中で初めて解決が生まれる。そういう性格の問題であるし、また、そういう問題を解決することによってわれわれの今後の成長はさらに一そう顕著なものになるという問題ではないかと思います。消費者物価に関連する大多数の問題がそうでありますし、中小企業の問題、農業の問題、すべて同じような問題でありまして、要するに生産性の向上、近代化、合理化によって国民全体の就業機会を改善し、その生産性を高めることによって初めて物価を下げ、所得を上げるという問題の解決が生まれる。そういう事態にわれわれは当面しておるということではないかと思います。(拍手)
  7. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) ありがとうございました。   —————————————
  8. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) それでは、これから御質問を願いたいと思います。
  9. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 時子山先生に二点と、下村先生に一点お伺いいたします。  二点のうちの一つは、先ほど科学技術振興についての御公述を承ったわけですが、承りたいポイントは、六三三四制度が発足して、今日本には大学生が約六十五万人おります。しかし、大学院に進んでおる学生というものは、博士課程、修士課程ともに約八千人ですね。そうしてこの博士課程の充足率というのは、約五八%程度。だから量でも少ないが、適正な資質の大学院学生を確保し得ない。ことに工科系統は充足率二〇%ということですが、じゃ、六三三四制度における今の大学生と、旧制による大学生とを比べれば、長短がそれぞれあると思うのですが、その六十五万人の大学生中、博士課程がわずか八千人しか進んでいないという、このことは、外国の先進国のそれと比べた場合に、日本科学技術振興ということを考えた場合に、非常にアンバラで、私は重大な問題ではないか。この角度から、先生は、科学技術振興という角度から御所見を承りたいのですが、六三三四制のこの四の大学、その上に続く修士課程、博士課程について、どういう御見解を持ち、改革の必要があるとお考えになっておられるか。あるとするならば、科学技術振興というその窓から見ただけでも、どういう御見解を持っておられるか、これが一点。  それから先生にお伺いする次の第二点は、ここ二、三年間の国家予算並びに地方財政自然増収というものは、全く画期的といいますか、希有と申しますか、まれにみる増額を来たしておると思うのですね。この使途が計画的でない、長期的でないという御指摘でございますが、私は全く同感に思います。そこで承りたいポイントは、例年のことでありますが、予算案編成劇というものを先生はどういうふうにごらんになっておるか、国家予算の編成過程ですね。ともかく構想が次々に変わって、これは政府与党のあり方にもよりましょうが、日本の政党政治のあり方とも関連しましょうが、外郭団体がいろいろこれに作用して、平ったい言葉で言えば、莫大なる自然増収を食い散らして、そうして効率的な運用のできるような合理的な予算ができていないんじゃないか。また、地方財政についても、この二年ほど非常に増収されているわけですが、来年は首長の改選期となっておりますが、それを前にして、本年度の地方団体等のあれだけの自然増収を前提にしての予算の編成の状況も、全部が全部とはいいませんが、やはり政府が国家予算を組むときによく似た面があると思う。これらの点についての先生の御所見と、改善方法というものをどういうふうにお考えになっているかということを、先生の御公述に関して伺いたいと思います。  それから、下村先生に一点だけ承りたいのですが、私しろうとでよくわからないのですけれども、国会で池田さんがよく長い目で、長い目でとおっしゃるのは、下村先生のお話を承って、池田さんの長い目で見てくれというのがよくその出所がわかったような気がするのですけれども、ただ、先生に私は承りたい点は、失礼になるかもしれませんが、二、三意見を伺いたいのですが、やはり予算を組む場合には、安定均衡を保ちながら拡大ということが私は非常に重要なんじゃないか、その点において、ここ一、二年池田内閣の発足以来の経過を見るときに、やはりほめてばかりおられないんじゃないか、国民の各層に、ある層についてはほめていいでしょうが、ある層については非常な迷惑を受け、非難されてしかるべきじゃないか。たとえば三十六年度経済見通しと経済運営の基本的態度という、これは昨年の通常国会で当時の経企長官が演説された原稿ですが、この一節を読みますと、こういうことを書いてある。「経常取引で収支ほぼ均衡することとなるが、資本取引面では引き続き相当の黒字が見込まれるので、総合収支ではその黒字幅を多少減じつつも、全般として黒字基調には変化がないものと見込まれる。」と述べ、総合収支じりを二億の黒字と見ておったわけです。そうして今の時点にきて、実績見込みとしては約八億の赤、だからいわば十億食いつぶしたということになるわけですけれども、あわせて物価が歴史に見ないほど上がった。こういうことは、一会社が事業計画を立ててされるという場合にはそれでもいいでしょうけれども、一億になんなんとする国民の生活、生命を預かってやる政治家としては、やはりこのようなことは責められるべきではないでしょうか。安定均衡を保ちながら拡大するという原則からいって、私は非常に一部に犠牲がしいられてくると思う。相当の国民の犠牲をしいながら、そうして経済が結論的には伸びていく、成長していくという政治というものは、やはり私は弱肉強食の政治であって好ましいものとは考えませんが、確かに先生のお説を承っておりますと、大所高所から眺めた場合に、究極的にはそういう方向にいくであろうという、またいってもらわなければ困るとは思いますが、当面やはり一年やって、これは失敗だと思うのですが、そうとなれば、ここでそのひずみを積極的に是正しながら拡大をはかっていくということでなければならないんじゃないか。これで終わりますが、先生のお言葉を、言葉じりを取り上げるわけではありませんが、先生のお言葉を承っていますと、今でも若干警戒ぎみでありますが、日本の企業家の強気感というものは、先生のお言葉なり、それと通ずる池田総理のお言葉を聞いた日本の企業家の強気感というものは衰えるどころか、強まっていくと思います。その結果としては、藤山経企長官が演説された本年度経済計画の演説というものは、この十二カ月間でも相当狂ってくるのじゃないか。そうして結論的には一億ドルの赤字で済むような計画を立てられているわけですが、企業家の強気感をあなた方のような主張でさらにこれを衰えることなく強めていく、そういう心理的影響を与えるということになれば、とても一億ドルの赤字というようなことではおさまらないのではないか。次の年度で成長したら取り返すとしても、その過程において相当大多数の国民は非常な苦しみをしいられるのじゃないか、そういう経済政策というものは、僕は政府としては顧慮し、反省しながら進めていかなくちゃならないのじゃないか。私はそういう感じを持ったのですが、その点先生の御所見を承っておきたいと思います。
  10. 時子山常三郎

    公述人時子山常三郎君) お答えいたします。  まず最初の六三三四制というものができた。ところがその上に修士、博士課程の大学院の制度ができた。ところがその上の大学院課程に進む者が非常に少ない、何か考えられないかという御趣旨であったかと思います。まことにおっしゃるとおりでございまして、六三三四制そのものにつきましては、もちろん長短はございますけれども、私は今日まで相当の成果をあげてきていると考えているのでございますが、御指摘のとおりに、さらに大学院課程に進む者が非常に少ないのでありまして、また、優秀な諸君が残らない傾向があります。どこの大学にもそういう傾向が今日なおあろうかと思いますが、学部に入るよりは大学院に入るほうはやさしいという矛盾があるのであります。これはなぜかと申しますと、私どもがいろいろ若い諸君を見ておりますというと、そこで必要な学業をおさめ、研究を積んでも、社会に出た場合にそれだけの待遇をして下さらぬというところにあるのじゃないか。たとえば大学に教員として残るというような場合にも、昔はある候補者があれば、大ていみずから進んで残るという希望を述べてきて、その取捨に困るというような状態でありましたが、最近はそういう希望者が非常に少ない、非常に優秀だと思っていろいろ聞いてみましても、社会に出たほうがはるかに待遇がいいというようなことで残りたがらないのであります。そこで私考えますには、先ほども申し上げましたように、科学技術振興ということが新しい歴史の上に大きな意義を持つとするならば、若い優秀な青年諸君をそこに集中的に集めなければならないにもかかわらず、現状としては非常にそれとは遠い関係にある。さっきもちょっと触れましたが、かつては、国を守るというので、陸海軍の将校を国家の経費でもって、単に今日のような奨学資金というようなものではなくして、全生活を保障することによって国家がそれを養成したのでありますが、私は大学院課程のみならず、もう小学校の時代から、優秀な者はどんどんとそういう補助をすることによって天下の英才が科学技術の修業をするように集まるような基本的な措置が必要でないか。ことに、こういう席で申し上げますのはあるいは御遠慮したほうがいいかと思いますが、たとえば日清、日露のときには、当時の英才があげて軍に入った。それが日本の軍をして大きな成果をあげさせた。ところが今度の大東亜戦争、太平洋戦争の始まる前の大東亜戦争を始めたときの軍における英才と軍以外の英才の配置がどうなっておったか、ほぼわれわれと年代を同じういたしますので大体知っているのでございますが、あの人材の配置というものが、私今度の大東亜戦争、それから太平洋戦争に突入するにおいて失敗をした大きな原因ではないかというふうに非常に痛感いたしております。で、私どもつまらぬ者でも、戦争中書いたものを押えられたり、出版禁止されたりしておるのでありますが、何もそういう必要はないと思ったのでありますけれども、軍以外の意見というものは、あの戦争のときに十分この国のために動員されていなかった。ところが第二次大戦から、日本経済というものは非常な進歩を遂げておりますが、私どもの知っておる限りにおきましては、そういう方面の第一次大戦後のデモクラシーの勃興と、日本資本主義の勃興によりまして、英才がそっちの方面に集中しておる、その伝統の力が私は第二次大戦後のこの日本伸張に大きく貢献しておるのじゃないかというふうに考えるのでございます。そういう点から申しますと、ただいまの御質問は非常に私重要な意義を持つと考えますので、どうぞ皆さんのお力によりまして、そういう天下の英才が喜んで今日の科学技術教育のもとに集まるような一つ政策をおとりいただくことを、お願い申し上げたいと思います。  それから、第二番目は予算編成の問題でございますが、いろいろな資金があるけれども、その流れに問題がある。この予算編成についてどう考えるかというお話でございましたが、これも数年前の衆議院公聴会にもこういうような話が出まして、申し上げたかと思うのでございますが、予算の編成権は明らかに日本の今日の憲法の規定によりましては政府にあるのでございますが、ところが議院内閣制をとっておりますので、その基盤が、その当時の母体である政党にあるということ、この間の運営がうまくいかないところに問題があるんではなかろうか、こう思うのでございます。で、先ほども申し上げましたが、予算計画を立てるにあたりましては、まず最初に新しい政策の手を加えなかったならば、経済の流れなり、あるいはいろいろな要求というものは、どういうように流れていくかということを具体的に予測を立てまして、そうして、しかしながら政府としては、たとえば三十七年度なら三十七年度に、これだけの望ましい結果を得るような政策を必要とするという、この政策予測というものを計画的に立てられる必要があるのでございます。ところがその中にいろいろな要素が——今もちょっと御発言がございましたが、圧力団体と申しますか、そういう力がこう入ってくるのでありまして、問題は内閣におきまして基本的な政策というものをはっきり確立するといろこと、もちろんそれは党の政策が実現するのでございますが、内閣内閣立場においてこの政策を決定する。また戦争当時のことを申し上げますが、戦争中に軍のほうから強い要求が出ましたから、予算編成に非常に困ったことがございます。その当時の主税局長であった方々は現在代議士になっておられまして、あるいは長官にもなっておられまして——われわれ、その当時いろいろ議論し合ったのでございますが、そのとき閣議における先議確定というのが行なわれました。重要国策につきましては閣議で決定する、まずこれを予算化する。で、それ以外のものは、その重要国策の予算化が終わった後にこれを取り上げるというような方針がとられたかと思うのでございますが、今日におきましては重要国策というものを閣議で御決定なさる。その場合、党の要求というものを十分お取り入れになることはもちろんでございますが、政府政策として政府自体が、主体性を持って政策を確立されるところに重点を置かれる必要があるんではなかろうか。私ども外から見ておりますと、非常にいろいろ初めに出されてきた政策というものが変わっていく。こういう場所で非常に申し上げにくいのでありますが、一般的な傾向から申しますと、私ども見まして、むしろ大蔵省の案が、割合無難なものが出てきたと思っておりますと、その過程のうちに、だんだんといろいろなこの動きが出まして変化が起こってくる。この点はやはり政府政策に対するはっきりした態度を打ち出すということが問題であって、それが必要であろうかと考えます。この答弁であるいは御不満かと思いますが、そういうように考えますので、一応これだけ申し上げます。
  11. 下村治

    公述人下村治君) 経済安定とか、均衡とか、成長とかということに関連しての御質問であったかと思いますが、経済は少数の質の同じ人間が営んでいるわけではなくて、日本の場合ですと九千四百万人が、北海道から鹿児島の果てまでにわたって住んでおって、それがいろいろのことを考えながら、いろいろの違った能力なり考え方を持って生活をしているわけですから、そういう国民が成長し、発展する過程というものは、必ずしも一様にはいかないというのが、私は現実だと思うのです。この九千四百万人の国民全体の生活水準を高める。その全体の生産性を高めることによって生活水準を高めるというのが、経済政策の一番基本的な目標になるべきだと思いますけれども、それを起こすためにはどういうことが具体的に必要かと申しますと、九千四百万人を同じように、同じ方向に、同じ速度で、同じ調子で変えていくということではなくして、その中に先頭を切る者があって、初めて全体が引き上げられるような変化が起こる。これが現実の歴史的な動きの姿だと思います。先頭を進む者はいわゆるラッセルをするわけでありますし、あるいはいわば突破口をそこで作っていくわけであります。したがって、当然にそれは少数者がまず先頭を進むということになりますけれども、これは少数者だけが先に進むということではなくて、そういう能力を持っている人たちがまず少数者であるという事実があるだけだと思います。そういうことが起こって、その影響が除々に国民全体に及んで、初めて国民全体の位置が高くなっていくという形で起こっていく。それも一様にいくおけではありませんで、いろいろの面が違った動きをしまして、いわば螺旋的にめぐりめぐって進んでいくというのが現実の姿であろうと思います。今日までの経済成長の中では、そういうような局面でのいろいろな違いが出ております。それが違った時期に、違った姿をとっているというのが実際の姿ではないかというように思います。ですから、先ほどお話がありましたけれども、一部のと申しますか、あるいは大部分のといいますか、国民の犠牲において経済の成長が推進されるということではないのでありまして、まず先頭を進む者が先頭を進むという事実があって、その影響なり、その恩恵なりが、やがて九千四百万人の全部に及ぶという形で、時間のおくれをとった調整が現実に今起こってきた姿ではないかと思います。大体そこに大企業の労働者の賃金水準が急速に上がっていくというのが今まで起こったことでありますが、今日起こっているのは、その影響がついに国民全体に及んで、中小企業、零細企業、農業にも及んでいるし、人夫、職人、すべての者に及びつつある。おくれて変化を起こすところでは、その変化がおくれているがために、急速に起こるという動きが出ているだけだと思います。ただそういう動きがあまりにも全般的に大きく、スケールが大きいために、今までどおりの頭でわれわれが考えておりますと、とかく戸惑ったり、ついていけなくなったりするという現象が起きているということではないかと存じます。全体としての経済が安定であるか、均衡であるかという問題は、これは長い目で見なければならないということは、私は、むしろそのほうが常識的ではないかと思います。船の例でたとえて申しますと、船の設計をする人たちは、安定性と乗り心地ということを二つ考えて設計をするように聞いております。安定性ということは復元力が強いということでありまして、極度に安定性の強い船はきわめて動揺の激しい船になるということであります。波があり、風があり、いろいろな変化のあるところに乗り出していくわけでありますから、その影響を受けて船はショックを受けます。そのショックを急速に回復することが安定性でありますから、安定性の強い船というのは動揺の激しい船ということになるわけです。したがって、船を設計するときには適度にそれを調整をして、動揺の低い、少ない船を作らなければならない。言いかえますと、乗り心地のいい船というのは、ある程度安定性を犠牲にした設計になるというようなことだろうと思います。船の設計でありますとか、飛行機の設計でありますとか、要するに技術的な面ではそういうように概念が比較的はっきりしておりますけれども、経済を論じますときには言葉がはっきりしておりませんために、安定とはすべていいことの集まりであるというように考えられがちでありまして、ここで言います乗り心地がいいということと復元力が強いということと、全部いいことだけを集めたことが安定であるかのように考えられがちでありますけれども、実は事柄はそうではなくて、動揺が激しい形で進まざるを得ないというのが経済一つの面でありますと同時に、そういうような動揺の激しい状態であれば国民全体は右に動いたり左に動いたりせざるを得なくなるということで、その程度はある程度犠牲にしなければならぬ。これは経済全体が円滑な、着実な成長を遂げるというためには必要な条件ではないかと思います。で、長い目で見るというのは、要するに安定とか均衡とかいう問題を、そういう形で考えるということだろうと思うのです。ただ単にその場その場の復元力を強めて、ショックがあれば直ちにもとへ戻すというような動きをすればいいというようなことでは、実は国民生活全体が不必要な非常に大きなショックを受けますから、そういう状態が起きないような形で、全体としてなだらかな成長の過程に維持できるようなことを配慮するということだろうと思います。しかし、それであるからといって、経済全体の動きが一定の速度で、たとえば一定の質で、あるいは一定の金額で伸びることが理想だということにはならない。経済の成長は人間が成長することですから、人間が将来の不確定な状態を予想しながら、その中にいろいろな努力をし、いろいろな創意工夫をしながら、新しいことを考えて、経済を作り上げていくという動きでありますから、すべてのことが計画どおりに、予想どおりに動くわけではないのです。当然にいろいろな予想しなかったことが出てきますし、意外な現象が出てくる。また、われわれ自身の能力そのもの、われわれ自身の計画そのものについても、初めやり出すときには予想もしなかったような可能性が出てくることも多いわけです。これが現実経済動きでありますから、したがって、日本国民全体としての創造力、生産性の向上発揮というようなことが現実に起こりますのは、必ずしも毎月々々毎年々々同じ速度で同じベースで進むとは限らない。したがって、そういうことが現実でありますから、経済はそういう状況に応じて、一方では安定性を強めながら、一方では動揺を少なくしながらという形で進むのが、これが現実的ということになろうかと思います。これは言いかえまして単純に言えば、長い目で見たらどうかということでありまして、もう少し俗っぽい言い方で言いますと、その日その日の、あるいはその場その場の目先の動きにとらわれて、それで右往左往すべきではないではないか。もう少し大局的な動向を見ながら、その動向に即した行動をし、その動向に即した調整をし、過渡的な若干の問題については、その動向に即した配慮なり警戒なりをするという態度をとるべきではなかろうかということだろうと思います。
  12. 木村禧八郎

    木村禧八郎君 お二方から、財政等一般経済についての貴重な公述を伺いまして、非常に参考になったのでありますが、お二方の御意見を聞いておりまして共通するところは、日本経済は非常に技術の近代化をめぐって変化をしているということでございますが、それについて私は常々感ぜられることは、その激動しつつある経済の基盤といいますか、これを運営する基盤がやはり変化に応じられなくなってきているのじゃないか。経済の体制なり、あるいは仕組みでございますね。これと最近の経済の非常な変化との間にズレがあって、利潤の追求を目的とし、自由企業を原則とする経済の体制に基本的な問題が起こってきているのじゃないか。今までの資本主義というこの経済仕組みなり、体制なりをここで変えなければ、長期的な政策といったって、これはできないだろうと思う。自由企業のもとで、いかに長期計画を立てるか。私は、今まで高度成長をやったのは、政府がやった政策に基づくものじゃないと思うのですね。皆計画と実際とは変わっちゃっておるのですね。非常な変革があるわけです。ですから、政府がむしろ何にもやらなかったほうが、かえってよかったのではないかと思うくらいなんでありますけれども、そういう前提に立って御質問申し上げたいのです。で、まず時子山先生にお伺いいたしたいのですが、財政計画的な編成なり運営なりですね。これを強調されたのですが、これはそのとおりなんですが、しかし今の経済の仕組みのもとで、経済体制のもので、そういうことは一体できるかどうかですね。そういうことをやるためには、これまでのような経済の仕組み、体制が変わってこなければ実際問題として私は困難ではないか。こう思うわけです。その点が一つなんであります。先生の御意見は非常に私は同感なんでありまして、そのためには、やはりその基盤となる今の自由企業を原則とするこの経済の仕組み、体制がこのままで、そういうことが行なわれるかどうか。どうしても私は突き詰めて参りますと、そこまで問題はいかざるを得ないのであります。われわれ、予算審議しておりますと、結局問題はどうもそこに突き当たるのですね。社会保障の問題を突いていっても、最後にいって、政府は不十分だ、不十分だというだけで、今後努力するということで、何回もそういうことを繰り返しているだけで、一向問題は解決されないのですね。ですから、その点との関係をまず先生にお伺いしたいのです。  それから財政規模について諸外国では大体国民所得に対して三〇%で、日本の今度の財政規模は一九%余なんでございますが、決して大きくはない。こういうお話なんですが、しかし財政規模を考える場合には二つの点があると思うのです。一つ国民の税負担の問題ですね。それから弔う一つは、景気の及ぼす影響だと思うのです。税負担から申しますと、なるほど税負担率はよその国より日本は低いのでありますけれども、しかし国民の生活水準から考えましたら、私は決して税負担率は低いとは思えないのです。それから戦前に比べましても税負担率はかなり重いわけです。戦前は国税、地方税合わせて約一二%程度でございます。三十七年度は二二%余になっております。戦前に比べては税負担は高い。諸外国に比べても、生活水準を考えますと、必ずしも低いことはないのであります。そういう点からみますと、諸外国はまあ国防の問題、軍事費の問題もありますけれども、それを別にしまして、税負担の面からいきますと、必ずしも諸外国に比べて決して私は低いものじゃない、こう思うのですが、諸外国は三〇%だから日本財政規模一九%余は、これは決して大きいものではないと、こう言われましたが、その点、私はどうももう少しこまかく考えていただくほうがいいとこう思いますが、この点伺がいたいと思います。  それから第三は、自然増収なんでありますが、大蔵大臣は、三十七年度予算は税収をもってまかなっておるのだから、健全の均衡財政であると言われておるのですが、その自然増収のもとになるものは、私は日本銀行の貸し出しが非常にふえてきております。金融面でこの民間の設備投資を非常に促進さしておるわけですね。そういう、私はまあ信用インフレと言っておるのですが、これは人によってまたいろいろ意見が違うかもしれませんが、必ずしも実質的な所得の増加に基づく自然増収の面ばかりではないと思うのでありますが、物価も上がっておるのであります。名目的な面もかなりあるのであります。ですから、自然増収というものもそういう面からはやはり考えなければならないのでありますから、そういう自然増収をもとにして財政規模を大きくしていく場合、これは私は健全ではない面があるのじゃないか。ですから、そういう場合には、もっと減税をして財政規模をやはり小さくする必要があるのじゃないか、こう思うのであります。その三点伺いたいと思います。  それから下村さんにお伺いいたしたいのですが、まず三点お伺いしたい。一つは今後の経済動向についてですが、最初お述べになったことは、現在の日本経済の情勢はおおむね順調にいっておると言われました。今後も大体そういう推移をたどるであろうというお話しでございました。例を鉱工業生産に一つとってみますと、鉱工業生産は一月は十二月よりまあ上がっておるわけです。大体通産省の鉱工業生産指数は三〇三か四くらいになると思うのですね。私は、今後大体そのような鉱工業生産の水準を推移するものとお考えかどうか。もし政府経済見通しで予想したような鉱工業の生産水準に持っていくためには、つまり年間五・五%の鉱工業生産の伸びに持っていくためには、今後よほど鉱工業生産を低くしませんと、年間とても五・五%にならないと思うのですね。下村さんのお話しですと、五・五%どころではなくなると思うのですね。大体現状程度をずっと維持するとしますと、かなり鉱工業生産水準は高くなるのじゃないか。したがって、成長率も政府が予想していたよりも、五・五%どころじゃなくて、七%、八%くらい、あるいはもっとになるかもしれません。もしそうでなく、政府経済見通しで予想している程度に持っていくためには、よほどこれから急速に落とさなければ、私はそこまでいかないのではないか。下期において政府の予想どおりにするためには、ものすごい金融引き締めかなんか、あるいは大型予算を組みましたけれども、それを繰り延べとか、節約とかそういうことでデフレ政策というか、そういうものをとらなければそこまでいかないのじゃないかと思います。下村さんはそうする必要がないとお考えなのか。また、鉱工業生産が現状程度で推移する場合に、国際収支が一億ドル程度の総合収支で赤字にとどまらないのじゃないかと思います。そういう点についてどうお見通しになっておりますか。  それから国際収支が大赤字になった場合に、下村さんのお考えは経済成長までも犠牲にして国際収支の赤字を無理に埋める必要はないと今までお書きになったものを拝見して了承しております。三億ドル、四億ドルの赤字になったってかまわないじゃないか、それは外国からの借金によって一時しのいでおけば、日本経済が大きくなるし、日本経済力もついてくるから、長期的に見れば、国際収支の均衡はとれるから心配ないとこういうように御主張になっているように伺っておりますが、そういうお考えなのかどうか、この点が第一点。  それから第二は、物価の問題でありますが、卸売物価と消費者物価は別の問題だというふうなお話しですが、私は別じゃないと思うのですね。最近の日本経済状態は、私は信用インフレの状態だと思うのです。そのために、なぜ卸売物価が上がらないかといえば、卸売物価は輸入をふやしておるから上がらないという点と、もう一つは、生産性が非常に向上しておるという点と二つの点があると思うのです。そこで上がらないのです。そこで、輸入があまりきかない消費者物価は非常に上がっておる。その一番の基本は何かといえば、高度成長政策つまり民間会社の設備投資を急速に行なうということが高度成長政策の基本になっていると思う。そこに問題があると思うのです。それがいわゆる行き過ぎだと言われておりますが、それが民間会社の生産設備が日銀の貸し出しを中心として、政府の予想した以上に急速に伸びた、これが根本の原因であって、そしてインフレ的現象を生じ、卸売物価については、国際収支の赤字の犠牲において卸売物価の値上がりをとどめておく。他方、生産性は向上したけれども、その分だけ値段を下げないという点もあるわけでありますけれども、それから輸入によってカバーされない面は、これは物価の騰貴ということである。ことに土地なんかは輸入できませんし、土地の生産をふやすとしても、土地の造成は微々たるものですから、輸入のきかないものほど私はやはり物価が上がっておると思います。ですからもとはやはり行き過ぎた民間会社の設備投資にある、こういうふうに思うのですが、その点はいかがですか。  それから第三点は、格差の問題ですが、先ほどお話しのように、やはり高度成長の結果、労働力不足から賃金が上がってきておるというお話ですが、しかし、格差はそれで縮まったとはいえないと思うのですね。他方において、それ以上に他方の人の所得がふえておるわけです。総理府で出しております勤労者の五分位階層別の可処分所得の伸び率を見ますと、高額所得層と低額所得層の伸び率に非常な差があるわけです。高額所得層の伸び率は高い、低額所得層の伸び率は低いのであります。ですから、なるほど低い人の賃金は上がったけれども、それ以上に上は上がっている。そうすると格差は私はやはり縮まっていないと思うのですね。これは相対的なものでありますから、生活と賃金は相対的なものでありますから、一応賃金は上がっても、他方においてそれ以上に高額所得層が上がった場合は、それは格差が拡大するわけなんです。私は、ですから格差は高度成長政策をやっていけば、その過程において自然に格差は縮まるという下村さんの御意見にはどうも納得できないわけですが、その三点についてお伺いしたい。
  13. 時子山常三郎

    公述人時子山常三郎君) 大へん大きな問題を与えられました。計画とお前は言うけれども、資本主義では限界があるんじゃないかというお話しでございます。その場合に、大村さんのおっしゃる場合の計画は、私ひとつの社会主義計画をお考えになっていらっしゃるんじゃないかと思うのでございますが、私の考えております計画は、自由な原則をそのままにしておいて、その自由な原則が自由に動くように、その環境条件を整えていくにはどうするかという建前で計画を考える必要があるのじゃないか。先ほど申し上げましたフィスカル・ポリシーというものはそういうものをねらっておるのでございまして、計画の意味といいますか、内容といいますか、が少し違ってくるのじゃないか。それからもう一つよけいなことであるかもしれませんけれども、資本主義ももちろん変わっておりますが、社会主義も共産主義も現実には変わっておるようでございます。私共産圏二カ国回って参りましたけれども、私どもが書物で、書類で読んでおるものとは非常に違った動きが出てきておるように思います。利潤分配制度なども、各工場に当てられております中央からの計画も非常にゆるんできております。これはブタペストのカール・マルクス大学の教授ということでございましたが、バックスという人の報告の中にもそれが現われ、むしろ意外に思ったのでありますが、したがいまして、これは問題が大きくて、私ここでその限界については申し上げるだけの十分の資格を持ち合わせないと言わざるを得ないと思います。  それから二番目の規模は国際的に見て大きくないと私申し上げましたが・しかし大きいじゃないか。たとえば税にいたしましても、税負担が重いじゃないかというお話しでございます。おそらく、税負担を軽くすれば、それだけ税収入が減るから規模が小さくなる、これだけの重い税負担をかけておるのだから、必ずしも規模が大きくないと言えないじゃないかというお話しだろうと思いますが、最近の予算編成をもちろん見ればわかりますように、社会保障とか公共投資とか新しい経費の必要がどんどん出て参っておるのでございますが、それらの点から考えますと、最近の規模というのは、従来のような自由過程だけを前提としていた当時の規模を頭に置くことは許されないのだ、いわゆる経費漸増の法則というものはある程度承認せざるを得ないのじゃないか。  それから税負担の問題でありますが、これはやはり国民所得というものがだんだんふえて参りますというと、それだけ税負担の能力が出て参りますので、私必ずしも日本の税は軽いとは申しませんけれども、しかし戦前とその比率を比較するということはどうだろうか。国民所得がふえてくれば、それだけある程度の比率の上でいいますならば、ある程度高い比率でも税負担に耐えることが可能なんじゃないか。そういうふうなことも考えられるのじゃないかと存じます。  第三番目の自然増収でございますが、これの多いのは、金融面の操作から生まれてきておって、必ずしも健全でないじゃないかというお話しでございますが、実は確かにそういう点があろうかと思いますが、しかし、最近ずっと政府予算編成を見ておりますというと、この自然増収が出ておるにもかかわらず、結局組まれておる予算国民所得の一五%台、三十七年度で一六%台にある程度ふくれてきておりますが、それを見合わせてみますというと、この自然増収は必ずしも不健全でないのみならず、また最近の政府財政編成を見ておりますというと、この自然増収によって新規政策を打ち出してきておる。最近の日本経済成長というものは、この自然増収をうまく使うことによって伸び続けるのじゃないかということも考えられますのでありまして、必ずしも自然増収が不健全で、そのために財政によろしくないというふうには考えられないのじゃないだろうかというふうに考えます。
  14. 下村治

    公述人下村治君) 第一点は、経済動向に関連した問題であったと思いますが、今日の日本の生産の状態経済運行の状態から考えまして、私は日本経済は、いわゆる政府見通しが想定したような筋書きに沿って動いてはいないというふうに考えております。したがって、政府見通しとは非常に違った形で推移すると思いますけれども、その姿は政府見通しとは違っているから不健全であり、警戒すべき状態であるということではなくて、その状態でおおむね安心して差しつかえないような推移をたどるのではないかと考えております。国際収支はそういう状態で、政府見通しで想定している程度のバランスを実現できるような状態にあるのではないか、今日の状態、今日まで蓄積された経済力の状態からいいますと、そういうように考えるほかないように思います。  第二点は、物価問題に関連しての御質問であったようでありますが、卸売物価と消費者物価との問題が異なった質の問題であるという点について、反対の御意見を伺いましたが、私が先ほど申しましたように、日本と西ドイツとアメリカの卸売物価及び消費者物価を比較いたしますと、卸売物価においては大差がない状態でありながら、消費者物価においては著しい違いが起きている。おそらく西ドイツは日本の四、五割高い消費者物価を維持していると思いますし、アメリカは西ドイツのさらに四、五割高い消費者物価を維持していると思います。このことは、消費者物価の問題と卸売物価の問題とは非常に違った質の問題であるということを私は立証しているのではないかと思います。国際収支の関連で輸入が大きくて、それで卸売物価をようやく維持しているのじゃないかというようなお話しでありましたけれども、この点は実際上、今日の日本経済生産力が充実した結果、そうして生産性が向上した結果、今後物価は下押しにならざるを得ない状態にある。最近数カ月は金詰まりの影響を受けて、いわゆる換金売りという形で相場を下げておったのが実体だと思います。今後現われてきますのは、日本経済が生産性を上げ、生産能力を拡充した結果として、物価の水準を下げていく、そうして卸売物価の水準を下げていくという動きが始まろうとしているのだと思います。その過程国際収支にいろいろなことが起こり得るわけでありますし、今日また起こったわけでありますが、しかし、大局から考えまして、国際収支経済関係は、ごく短期間的な動きで判断すべきものではないということは、一般に承認されていることだろうと思います。  資本の輸出入と経済成長との関連で考えますと、世界経済全般が国際収支の面としてはプラスもマイナスも出ないはずでありますけれども、その中では資本の輸出国と輸入国に分かれております。輸出国は先進国であり、輸入国は後進国であり、成長国である、こういうふうになるわけです。成長過程にある国においては、資本を輸入して、そうして成長を続けていく、それが着実な成長の姿であるわけであります。それは形からいいますと、御質問にありましたように、資本勘定での黒字を前提にして卸売物価を維持されているというふうに言えば言えるような姿をとるかと思いますけれども、これは成長の姿として自然な姿でありまして、特別的なことではないのではないかと思います。短期の資金の移動の問題もありますけれども、また、いわゆる短期資金ではなくて、経常勘定を含めた短期の国際収支のバランスの問題がありますが、この問題につきましては、御承知のようにIMFの規約を読みますと、はっきりしておりますが、短期の国際収支のバランスの赤字が、国の経済を縮小均衡の政策に追いやられないように、お互いに協力して信用の授与によって乗り切るようなことを協力してやろうじゃないか、ということになっております。これはいわば、健全にして正常な原則として受け取られているわけでありますから、短期的な国際収支のバランスと経済成長との関係は、ただ単に、赤字が出たら、その赤字が出たことが不健全であるとは直ちに即断できない、そういう問題ではないかと考えます。  格差の問題につきましては、これは現実にはいろいろな姿をとっておりますけれども、しかし大勢からいいまして、日本経済国民全体に対して、九千四百万人の中で四千五百万人が職を持って働いている。その四千五百万人に対して就業の機会を拡充し、その条件を改善し、全体の生産性を高めるような方向で急速な動きを示しているということだけは間違いないと思います。その動きがなければ、経済全体、国民全体として生活の改善ができないことも、これまた間違いのないところだと思います。人によって、地域によって条件が違いますから、その流れの中で、先を進む人とおくれる人とが出てくるのは、これは仕方のない面もあると思いますが、要するに、大事なことは、全体をそういう向上発展動きの中に入れ込むような努力をお互いにやる必要があるということと、その中で、うまく自力でもって乗れないような人があれば、乗り得るように援助をするということが必要であるというだけであろうかと思います。現実に、その動きの中で置き去りになるような不幸な人が、これもあることは間違いありませんけれども、それに対する援護といいますか、援助の問題は、経済全体として、国民全体として、高い生活、高い所得を上げ得るような人がふえればふえるほど、したがって、財政について言いますと、財政力の基礎が充実すればするほど、十分に手厚い援護ができるわけでありますから、一時的な姿だけで、全体の動きの方向なり、性格なりを即断しないほうが合理的ではないか、常識的ではないかというように考える次第でございます。
  15. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 皆さんに御相談いたしますが、公述人の各位におかれましても、時間を非常に差し繰って御出席を願っておりますし、また、重大な公述をいただいたのでありますから、皆さんといたしましては、それぞれみな御質疑をなさりたいのではないかと思いますが、いかがでございますか、まだ十分ぐらいよろしゅうごさいますか。——それではまだ十分ぐらいいいそうでありますから。
  16. 戸叶武

    戸叶武君 時間がないので一点だけお伺いします。それは時子山先生が言われましたように、財政政策の方向というものは、長期的な見通しと計画性を持つことだということに集約されておると思うんです。その財政政策の基調となるべきところの見通しの問題に関しまして、少なくとも池田内閣は大きなあやまちをこの一年間においても行なっておりまして、下村さんの言うような楽観論とはだいぶ違うと思うんです、現実において。それは、長期に見ればと言いますが、今の現段階の分析において、ニュー・ブロンティアのかけ声で立ち上がったケネディの経済ブレーンの見通しも、一九二九年の世界経済恐慌に次ぐ不況がアメリカを襲うているという認定のもとに、その危機感の上に立って、一国の財政政策の打開を試み、また、昨年イギリスのゲイッケルがやっている演説を見ても、イギリスは一九三一年の金融危機に次ぐ危機の上に立っているという形においてその国の方向決定を行なっております。日本においては、池田さんの背後に下村さんありというほど下村さんは頭脳のさえた方のようですが、話を聞いていると、愉快になって、非常に楽観的になりますが、世界財政政策の方向を決定づける基調というものは、そういう楽観論の上には立っていないんじゃないかと思います。具体的に私はお聞きしたいのは、三十年前の世界経済恐慌の中において、下村理論の出発点になっているかと思いますが、ケインズの学説が出ました。しかし、ケインズ学説が出るまでには、現実において社会的苦悩があったんです。三井三池のあのストライキ以上に深刻な炭鉱ストライキから、港湾とそれから運輸関係の三角同盟によって、政府をゆさぶって、政策の転換をやろうとしたができなかった。そういうときに、古ぼけた社会主義的な財政政策でもだめだ。そういうところに、ウォール街にゆさぶられ、イングランド銀行の総裁にゆさぶられ、スノーデンの没落があった。若いケインズあるいはクリップスはこれに対抗して、あの新しい方向を決定づけたと思うんです。そういうところから生まれたのが、完全雇用の学説であり、そこから発展したものが社会保障制度の確立への方向にきたと思うんです。それからニュー・ディールがあり、今日のあなたの考え方に一番近いエアハルトの経済政策にきていると思いますが、エアハルトの経済政策と、あなたの考え方の根本的な違いは、その内容の点だと思います。それはやはり完全雇用なり、社会保障の確立なりという以上に重視しているのは大衆購買力です。生産に従事している大衆労働者なり、農民というものの所得が増大し、安定しなければ、購買力というものが健全に出てこない。その購買力が生産を刺激し、経済を拡大して、一国経済発展を促すという考え方に立っているのですが、政治の上において一番重要なのは、変動の時代におけるそのプロセスだと思います。農民が六割切り捨てられるというのは残酷なことです。そういうことでもがまんしなくちゃならないときがあるかもしれませんが、そういう場合に、見捨てられていくところの、整理されていくところのこの中小の農家なり、零細農なりを救済するというのが先決でなければならない。所得均衡の下を高めていくというのが一番重視されなくちゃならないが、その点においては冷酷、そして没落していくところの地主に対しては特殊な恩恵を払う、こういう、政治の中において一番大切な変動のプロセスにおける愛情がない。大衆との結びつきがない。そういう独占資本の蓄積なり、設備投資という形においては、膨大なこの財政的な保護なり、金融の仕組みができている。この矛盾面にわれわれはぶつかって今悩んでいるのでありますが、どうもあなたのお話を聞いていると、俗に教祖様と言われているように、実に愉快にはなりますが、何か世界のこの変動が、一九〇〇年代の変動の中からロシア革命が生まれるまで、また、一九二九年から三二年の恐慌から第二次世界戦争が生まれるまで、恐慌現象と戦争、それから……。
  17. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 戸叶君、時間がだんだん迫りますから。
  18. 戸叶武

    戸叶武君 悪循環の中に今日まできているので、これはすぐにまだ戦争にいくとは簡単に考えません。しかし、今日この変動に対して、そういう楽観的な見通しと処方箋において一国の財政政策が率いられても安心かどうか。あなたにほんとうに安心感を深くする前に、もう一度お話を承りたい。  それから、時子山先生に、この財政政策の方向の基調というものが、そういう楽観的な形でいいものかどうか、その点をお聞きしたい。
  19. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 下村さんのほうが先のようですね。
  20. 戸叶武

    戸叶武君 ええ、下村さんが先です。
  21. 下村治

    公述人下村治君) 今日われわれが当面している問題の状況は、一九三〇年代に欧米諸国が当面した状況とは、私は根本的に違うのだと思います。われわれが今日当面している状況は、国際的に言いますと、国際的な金融的、経済的協力のもとに自由貿易でお互いに拡大均衡の政策を追及しようということでありますし、欧米諸国全体に共通して、お互いに成長政策によって国民全体の所得水準、福祉の状態を向上するために努力をしようということで動いているかと思います。その中でわれわれは日本の問題を考えればいいわけでありますが、その日本の問題は、これは経済全体が金本位によって制約をされて、どうにもこうにも動きがとれないという姿ではなくて、国民全体の生産性を高めることができれば、その生産性の向上に応じて国民の生活を高め、経済規模を大きくすることが可能であるというような状況に変わっていると思います。今日の状態は、四千五百万人の就業者全体が、今までよりもより豊かな、生産性の高い就業の機会を与えられようとしている。まだ完全でありませんけれども、しかし、いまだかつてなかったような就業の条件が与えられようとしているということだろうと思います。農村において次三男問題がなくなったということは、そういうことのひとつの象徴であると言って差しつかえないと思います。国民の中で、今までほとんど恵まれた就業の条件を見つけることのできなかったような人たちが農村に停滞をしている。それが次三男にしわ寄せがあったというように考えられますけれども、その問題がなくなるほど経済全体の雇用の状態、就業の状態が改善をされている。すでにそこまできているということでありまして、われわれはこの状態をさらに前進させることができるならば、それによってさらに一そう経済水準を高め、国民全体の就業の条件を改善できるはずであります。今日、国民総生産は一人当たり五百ドルという高さになっていると思いますが、これはイタリアよりも少し低い程度で、相当高い程度だと思います。しかし、西ドイツに比べますと、今日西ドイツは千二、三百ドルになっていると思いますが、その西ドイツが十年以上も前に実現した状態にすぎない。言いかえますと、われわれは依然として後進国からやっと脱却をしかかった程度にあるわけでありますから、われわれが努力をしていけば、さらに大きな変化を起こし得るだけの余地はまだあり余るほどあるというのが今日の状態だと思います。その残された領域に対して、われわれがさらに努力しさえすれば急速に前進できるんだといろのがわれわれの当面した状況でありますから、生産性を上げ、それによって経済のレベルを上げるということは、結局、国民全体の雇用の状態、生活の状態を急速に引き上げる結果になるということになるのは、これは間違いのないことだと思います。中小企業でありますとか、農業でありますとか、あるいはいろんな諸種のサービス業でありますとか、そういうところで今日動き始めていることは、やっと国民の全体がそういうような発展過程、近代化の過程に引き入れられつつある、そういう状況でありますから、それを促進し強化することが、政府なり公共団体にとってますます必要になるということは間違いありませんけれども、われわれが危機的な状況にあるとか、危機的な状況を解決しなければならないという事態に当面しているわけじゃなくて、それほど歴史的な近代化の動きをわれわれ自身が現に推進し実現しようとしているというような、それこそ建設的な意味での歴史的な課題を前にしているという点が、むしろ重要な点ではないかと思います。
  22. 時子山常三郎

    公述人時子山常三郎君) お答えいたします。まず最初に、池田内閣が見通しを誤ったじゃないかということでございますが、この点につきましては、私、先ほど予算規模に関して申し上げましたように、しいて申しますならば、世界経済とのつながりをつけることに十分でなかったじゃないかということでございまして、所得倍増十年計画を進めるとするならば、今後十年間の世界経済がどう動くかということを十分計算に入れる。同時に、たとえば設備拡充などにいたしましても、国際収支の上でのリミットを条件に設備拡充を認めていく。いろいろな措置があり得たかと思うのでございますが、そういう点において不十分な点があったので、三十六年度予算編成以来の問題が起こってきたのじゃなかろうか、こういうふうに考えます。  次に、現在の予算編成について楽観論過ぎることはないかというのでケインズを引き合いに出されたのでございますが、この問題につきましては、今の下村さんと私やはり同じように見るのでございまして、今日とかなり事情が違っておりまして、ケインズのあのフィスカル・ポリシーの考え方が出て参ったのは、一九二九年の世界恐怖に引き続いた一九三〇年代のいわゆる資本主義の停滞というものがある。そこに各国が赤字財政をどんどん出してきておる。ところが、赤字財政は不健全だと言っておるにもかかわらず、経済の停滞が赤字財政によってしのぎをとられておる。その事実をケインズがそのまま承認してあの理論が出て参っておるのでございまして、ケインズは何も頭の中で考えたわけじゃないのでございまして、事実をただ承認していろいろな形で持ってきた。そこで彼は自由放任の終えんを一九二六年に説いて、そうして積極的な政策の打ち出し方を承認するに至ったというのでございまして、そういう観点からいたしますと、今日の予算編成は大体において時代に合った傾向を持ったものだ、こういうふうに考えられないかと、かように存じます。
  23. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 公述人の各位に対してはまことにありがとうございました。  一時三十分に再開することにいたしまして休憩をいたします。    午後零時三十五分休憩    ————・————    午後一時四十三分開会
  24. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) これより予算委員会公聴会を再開いたします。  公述に入る前に、公述人の皆様に一言ごあいさつを申し上げておきます。本日は、御多用中にもかかわりませず、本委員会のために御出席をいただきましてまことにありがとうございました。御礼を申し上げます。  午後の公聴会の進め方につきまして申し上げます。公述時間は、二十五分以内にお願いをすることといたしまして、お一人ごとに質疑を行なうことにいたします。  なお、午後の公述は四名でございまするので、質疑につきましては、公述人お一人に対し二十分程度以内に切り上げるということにお願いをいたします。  まず、上原公述人にお願いをいたします。(拍手)
  25. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 公述に先立ちまして、公述の能率といいますか、効率といいますか、そういうものに関しまして、ちょっと卑見を申し上げたいのです。予算委員会公聴会について、特に教育文化方面の予算についての公述をしろというお言葉でございましたので伺ったおけでございますけれども、いただきました資料は、主計局でお作りになりました、昭和三十七年度予算の説明同じく租税及び印紙収入予算の説明、この二冊の書類だけでございます。検討いたしましたけれども、これだけでは三十七年度予算の内実を明らかにすることは非常に困難だと考えたのでございます。手元に若干の資料もございますので、それとまじえて見解を明らかにしたいと思いますけれども、公述の効果とかあるいは機能を考えてみますと、いただいた資料だけではどうにもならないという感じがいたします。  まず、全体について申し上げるわけでございますが、特に教育文化関係予算を拝見いたしますと、二つの意味でたいへんはでな予算であるというふうに感じたのでございます。  はでだと申しますのは、一つは、特に科学技術教育の振興という点に予算作成の大方針をきめられまして、科学技術教育の振興があたかも日本の教育全体の中で最も緊急で、最も大事だというような考え方が前提とされているわけでございまして、そういう点からいたしますと、科学技術教育の振興という点に限って申せば、ある程度まで予算化がなされていると思いますけれども、じみな教育の中身の充実という点を中心にして考えて見ますると、その点が今の科学技術教育の振興という点に比べるというと、比較にならないほど弱いという印象でございます。  第二は、これは必ずしも教育文化予算だけに限ったことではないと思いますけれども、特に教育文化予算について検討いたしますというと、予算政策的編成といいますか、それがあまりにもはっきりし過ぎているという印象を受けるのでございます。そこで申し上げる政策的編成といいますのは、特に文部省のほうで数年来やってこられました、たとえば、勤務評定であるとか、あるいは学力テストであるとか、そういうものをさらに今後も強めていこうとする、そういった仕事にかかわる予算のことでございまして、そういう点につきましては、数字は一々申し上げませんけれども、大へんはでに予算が組まれている。つまり二重の意味ではでな予算であるという印象を受けたというのは、以上申し上げました二つの意味においてでございます。  ほかの費目の場合に毛そうだと思いますけれども、特に教育予算のごときものは、そのときどきの社会の必要というものに応じて予算化が行なわれていかなければならない面と、教育の水準や内実を全体としてじみな仕方で上げていくという面と、両方なければならないと思うのでございますが、そのあとの点についての配慮が著しく不足していると、私は言わざるを得ないのでございます。  これから一々の費目について簡単に見解を申し上げたいと思いますが、第一は、このいただきました予算説明の中で、七番にあげております義務教育費国庫負担金でございます。これは三十七年度といたしまして、総額千五百四十二億という金額が計上されているのですが、その中で最も大きい費目は給与費でございます。この給与費を見ますと、確かに三十六年度から見ますと増額はされておりますけれども、そこの増額最初新聞などで承知いたしております文部省の当初要求額、そこでは五千五十二人分の増額が要求されておったわけでございますが、この主計局からいただきました書類によりまするというと、ごく少数のわずか千四百五人の増員になっている。もっともそれには学級編成を小学校五十六人を五十四人に改め、中学校の場合には学級編成を五十四人を五十二人に改めるということで、確かに学級編制上の改善がなされているとは思いますけれども、その点になって参りますると、中学校教育、小学校教育における理想的な学級編成としてヨーロッパやアメリカで考えられているところによりまするというと、大体が三十人ないし三十五人が常例でございます。たとえばアメリカでは三十人ないし三十五人、ソ連では三十名、イギリスでは小学校が四十名、中学校が三十名、フランスでは最低が二十五名で最高が四十名などになっておりまして、それを今回のいわゆる改善された学級編成というものと比べてみましても、そこには十数名ないし二十数名の開きがあるのであって、これでは望ましい学校教育はできないというふうに考えるのでございます。  次に、その中には教材費というものが計上されておりますが、その教材費につきましても増額がされているのはけっこうであると考えられますけれども、しかし大体今日の日本の義務教育というものが当然公費でまかなわれるべき分を父兄が負担している額が非常に多いということは、文部省などが毎年出しております教育における父母負担という統計書によっても明らかなことでございまして、この程度の教材費の増額では、父母負担の軽減からは遠いと言わざるを得ないのでございます。  その次は8でございますが、8の国立学校運営費というところを見ますると、これも昨年度から見るというと、相当額の増額になっておるわけですが、この増額がどういうところで行なわれておるかと申しますると、やはり大部分はこの科学技術教育の充実ということにかかわる予算増額でございます。たとえば社会科学だとか人文学の方面についての予算増額はほとんど見られていない実情でございます。これは科学技術教育の充実ということは、世界的に科学技術の進歩という点から見ると、当然なされなければならないことではありまするか、しかし特に現在この時点で充実がなされなければならないという教育は、単に科学技術教育だけではないのでございます。これは決して自然科学や技術の方面と社会科学や人文にかかわる面とでバランスをとるようにということを申し上げているのではないのであります。一方において科学技術の非常な進歩があると同時に、他方では世界の政治や経済や文化の構造と内実が基本的に変わりつつあるのであって、そういう変化の中で科学技術の進歩も科学技術教育の必要も考えられていかなければならないのでございます。そこで、もし科学技術教育の方面だけに力点を置いて、ほかに社会科学や人文方面における教育が、従来のままであるといたしますと、そこに大きいアンバランスが出てくるだけではなく、科学技術教育を、国民教育全体の中で、どう位置づけたらいいかという問題について、非常に弱点が出てくると考えられるのでございます。そういう点からしますと、先ほど言いましたように、科学技術教育の充実というその点は、もっともなことがあるとしても、それと当然あわせて考えられなければならない社会科学や人文学の方面における教育がそれと伴ってなされないという欠陥があるので、そういたしますと、科学技術教育だけが独走してしまって、国民教育全体として見るというと、困った問題が起きると言わざるを得ないのでございます。  また、その問題を離れまして、ここで特に申し上げたいのは、国立学校の運営の点にかかわりましては、従来でも大学における教員数が不足いたしておりまして、これは小中学校における教員不足と同じように、大へん大きい問題でございます。特に大学院というものが設置されましても、大学院の設置に伴う教員の増員というものはほとんどなされておらないのであって、現在における大学教授というものは、そのために非常に疲労こんぱいをきわめているだけではなく、そのために研究も十分にできないという状態があるわけですが、そういう状況に対する予算的考慮がほとんどなされてないという欠陥があると思います。やはり大学教員の問題に関するわけですけれども、教員の資質向上のために、これは戦後ずっと行なわれてきたわけですが、大学教職員の在外留学というものがあるわけですが、その在外研究費というものを見ますると、これは文部省で出していられる文部広報の三百二十二号でも明らかにされておりますように、去今の外貨事情もあって、前年同額の何々円にとどめざるを得なかったということが書かれております。つまり在外研究費が昨年と同額になっておるということ、これは大学教員の資質向上という観点からいたしますと好ましくないのであって、相当額の増額がやはり必要であったのではないかと思うのでございます。  その次は、第9の科学技術振興費でございますが、科学技術振興費につきましては、ほかの費目と比べますと、大へん相当額の増額がなされておるわけですが、この科学技術振興費というものは、単に文部省予算の中に計上されているだけでなくて、その他各省予算の中にも計上されておるわけですが、実は科学技術振興というものについては、この各省予算を適当にバランスをとって見るというようなやり方だけではだめなんであって、これは国家全体の統一的な方針に従って科学技術振興がなされるべきであると思うのでございますが、予算面からいたしますというと、各省からお出しになった科学技術振興費というようなものが、そこで単に機械的に総計されているにすぎないというような印象を受けるのでございまして、その点の科学技術振興における有機的、組織的な予算計上というものが必要だったと思います。  第10は、文教施設費でございますが、この点になって特に問題になりますのは、高等学校の建物整備といたしまして、三億九千三百万円の経費が計上されているだけでございます。これはもうだれでも承知いたしておりますように高等学校——この三十八年度から特に三カ年間にたいへんな問題になるだろうと予想される高校生徒の増員対策だけといたしてみましても、ここに書かれておるようなわずかばかりの経費ではどうにもならない。これも承るところによりますというと、高校生急増対策といたしまして、地方に五十億円の起債が認められたということがあるわけでございますが、大体予算を立てます場合に、この高校生徒の急増の問題を地方費でまかなっていくという発想法自体に私は根本的な疑問を持つのでございます。つまり、一方においてはそういう地方起債を認めると同時に、この高校の増設については特に私立の高等学校に期待するところが大きい。また公立高等学校におきましても、それはすし詰め教室でしのいでいこうという傾向が予算に現われておると思うのですが、こういうような国全体が考えていかなければならない問題を、今のような形で地方費でまかなうとか、あるいは私立学校におんぶしていくとかいうその発想法自体は、健康ではないというふうに言わざるを得ません。  第11は、教育振興助成費でございますが、そういったような点からいたしますと、特に日本の教育全体における私立学校の比重という問題がどう考えられているのかという問題が出てくるかと思うのでございますが、そういう点になりますと、確かに私立学校助成費といたしまして、若干の金額が計上されてはおるわけでございますが、先ほど申しました教育全体の問題を国の仕事として考えていかなければならない場合に、なおかつ私立学校におんぶしなければならないとした場合に、これだけの増額でいいのだろうかという問題が当然出て参ります。やはりその中に義務教育教科書費というものが七億計上されておるわけですが、確かに教育無償の原則というようなものに一歩近づく形を見せている点はけっこうであると思いますけれども、それは三十八年度からあとのことであって、三十七年度においては一四%教科書の価格が上がっておる。父母負担というものはこれで多くなるわけであります。それと同時に、義務教育教科書費というものの使い方などにつきましては、これも御承知のように義務教育教科用図書の審議会というもので扱い方が今後きめられていくように計画されておるように伺われますけれども、この審議会運営のいかんにもよりましょうけれども、これは私など国民立場からしますと、好ましくない教科書の国定化への誘い水になるのではないかという疑念もないわけではございません。  以上のようにいたしてみまするというと、本年度の教育文化予算につきましては、申し上げたい点がほかにいろいろございますけれども、全体といたしまして賛成いたしかねるという結論を出さざるを得ないのでございます。  これで一応の公述を終わります。(拍手)
  26. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) ありがとうございました。  御質問のございます方はどうぞ。
  27. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 先生に三つだけ簡単なことをお伺いしたいと思います。  その一つは、いい意味における大学の権威というものは、戦前、戦時中よりは低下しておるのではないか、こういう私は感じを持っている者です。先生お読みになったかも知れませんが、私は国立国会図書館で、ある週刊誌で大学教授の生態、アルバイトを中心にした生態特集をしてあるのを読んだのですが、びっくりしたわけです。ああいう記事が事実だとすれば、かりに七割が事実だとしても、これは重大な問題で、前期、後期にわたる青年諸君、学生諸君への影響はきわめて私は甚大であり、これは大学教授自体だけの問題ではなく、政治家として深刻に考えなければならぬ問題だと私は感じたのでありますが、先生週刊誌をごらんになられたかどうかわかりませんが、あれに近いような事態があるのかどうか。それからまた、かりにあれに近いような事態があるとすれば、われわれとしてはどういう心掛けで文教政策と取り組まなければならぬのか、政治家に対する注意喚起、警告という意味においても御所見をひとつ承りたいと思います。それが第一点です。  第二点は、先生は大学教授をなされておられるわけですが、特定いたしまして、東京商科大学の卒業生と現在の一橋大学の卒業生の、それぞれ長短があられるでしょうが、どういうように先生は把握されておられるか。総合的に、かつての東京商科大学を卒業せる学生諸君と、現在の一橋大学を卒業する卒業生諸君との力ですね、正しい意味の、社会に送り出される卒業生としての力というものを、どういうように見ておられるか、その所見を承りたい。  第三番目は、私は日本の教育界には、これは予算面にも一部象徴的に出ている面があるわけで、先生も指摘されておりましたが、日本のこの教育界には、教育の場にふさわしくない事態、現象というものがおりおり起こっていると思うのですね。これは一体原因はどこにあるのか。こういう教育の場にふさわしくない、好むと好まざるにかかわらず、だれに責任、原因があるかは別として、児童生徒の教育の場において、あまり好ましくない現象が起こる、これを解決するのには、われわれ政治家としてはどういう着眼のもとにどういう努力をすればよろしいのか、専門家の先生から見られた御感想なりお教えいただくとありがたいと思います。
  28. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) お答えを申し上げます。第一点につきましては、お話の週刊誌を見ておりませんので内容がはっきりわかりませんけれども、一般理論といたしまして、大学の権威にかかわるような好ましくない事例が出ているのではなかろうか。どうすれば大学の権威というものを高めることができるだろうかという一般的な御質問としてお答え申し上げたいと思います。  大学の権威という問題は、御承知のように、大学における教育と研究がどれくらい充実したものであるかという、その度合いによってきめられてくると考えるのでございます。もし大学における教育と研究の中味が貧弱であったり、広い世界日本の激動を十分に学問的、教育的に消化することができないような状態にあると、大学の権威というものは自然に下がると思うのでございますが、戦後その点について申しますと、特に大学の教授、研究の両面にわたりまして大学制度が新しくなり、当然教員の増員、あるいは研究費の増加が望ましいにもかかわらず、そういう点についての考慮がされることが非常に少なかったということと、大学の権威が十分発揮できないということの間に関係があると思うのでございます。一つは、それは大学の教員自体の責任の問題であり、覚悟の問題でありますが、同時に、大学の教育と研究を十分ならしめるための予算措置が十分講じられておらないということも大学の権威が十分確立し得ない理由だと、こう考えます。  第二の点につきましては、私は現在一橋大学にもう関係いたしておりません。一昨年の三月、一橋大学をよしまして、これは定年は、あそこは六十三才でございますけれども、大学の教員として大学教員が当然やらねばならない教育や研究というものが、与えられた大学教員というその条件の中では、とうてい満たすことができないということを考えた結果、定年以前にやめさしてもらったのでございまして、つまり特に東京商科大学と一橋大学との比較ということの問題でございますけれども、おそらくはまじめに大学で学生を教え、研究をやっていきたいと考えている教師にとりましては、大なり小なり私と同じような感想を持っているのではないか。つまりそれは、やはりこの一橋大学におきましても、ほかの国立大学と同じように、これは決して社会と遊離した教育や研究をなすべきところではないのでございますが、社会の進歩と、あるいはそういうものにふさわしいように教育の中身と研究の中身をやっていこうとする場合には、一橋大学ならずとも、あらゆる国立大学において非常な困難があるだろうということを申し上げたいと思います。  第三に、教育の場にふさわしくないような事態が方々の大学に起こっておるようだがという……
  29. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 大学でなくて、日本の教育界……。
  30. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 教育全体でございますか。おそらくはそのことは、学校教育も大学教育も、その中にいろんな政治的な動きが、大学や学校の中にもある。その点を問題にされたのじゃないかとまあ想像されるのでございますが、私の理想といたしますところは、学校とか大学とかにおいて、それが完全に政治の圏外に立ち得るようなそういう場であれば、それに越したことはないと思うのでございます。それにもかかわらず、ときに大学や学校の中で、というよりは、それの教員や学生生徒の中に政治的な問題に関心が起こってくるのは、政治のあらしが学校や大学の中に吹き込んでくるのであって、それは大学や学校のほうでそれを招いたのじゃなくて、世間の側から、政治の側から、そういう政治のあらしを大学や学園へ吹き入れてくるということが多いのじゃないか。つまり、どの場合にも大学の教員とか小中高の教員にかかわらず、教員として望ましいことは、そういう政治のあらしに大学や学校がさらされないということですが、そのためには、先ほど別の点についてのお答えで申し上げましたように、大学教育や学校教育で社会の歩みというものに即応したような教育の研究が十分できるということが前提にならなければならないのじゃないか、こう思うのでございます。お答えにもなりませんけれども、私の所見を、申し上げました。
  31. 岩間正男

    ○岩間正男君 私も三点ばかりお伺いしたいと思います。  終戦後の日本の教育改革の大きな目標としまして二、三点考えられるわけですが、その中で一学級の生徒の数という問題は、民主教育を打ち立てるためには非常に重要な基礎的な条件になっておるというふうに考えるわけです。先生もさっき指摘されましたように、小学校、中学校、それから高等学校も、今度の法案でそうなるわけですけれども、全部五十人、六十人くらいになる。こういう一学級の大量生産の教育を、戦前、戦時中と変わりのないこういう形でやっておいて、ほんとうに民主的な教育を実際打ち立てることができるのかどうか。これは非常に中心的な問題になると思うわけです。この点についての御意見を第一にお伺いします。  第二点ですが、これも終戦後の教育の一つあり方として、教育の機会均等を確立するということは、非常に大きな一つの目標になっているかと思います。ところが、年々大衆負担が軽減するどころか、だんだんと増加されてくるわけです。こういう形で税外負担の増大ということは、教育の権利を国民から奪いつつある、こういうふうに見られるわけです。これが現象的には、長期欠席、自然退学、こういう格好になってきているわけです。したがって、少なくとも今の日本財政経済状態とあわせて、どの程度まで大衆負担を軽減して、教育の機会均等をどういうふうにはかるべしと先生はお考えになっていらっしゃいますか。この点を第二点としてお伺いしたいと思います。  第三の問題ですが、教科書の問題とも関連しますが、大体、自分の子弟のために教育を選ぶ権利というものは、これは人民の基本的権利の一つだというふうに考えられるわけですけれども、だんだん国家統制が強化されて、中央集権的な昔の形に戻りつつある、こういうことが現象としてははっきり出てきていると思います。教科書の国定化の問題、先ほど先生もお述べになったのでございますが、こういう傾向は、少なくとも民主的な教育を打ち立てる憲法の理念、こういうものとは明らかに背反する方向、すなわち逆行する方向に実は行きつつある。その陰に、やはり軍国主義的な教育というものが再び復活する危険にさらされているのじゃないかということを考えます。この問題が、今、教科書という形で出てきておりますけれども、その教科書の編成権あるいはこれを実際選ぶ権利、こういうものは、あくまでも私は国民の基本的な権利の中にはっきりあるのだ、こういうふうに考えられるわけでありますが、この点についての先生の御意見をお伺いいたします。以上三点について。
  32. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 第一点の学級規模の問題でございますが、先ほどの公述の中でも申し上げましたように、ヨーロッパなりアメリカなりの諸国と比較いたしますと、日本の小中学校における学級の編成が、たとえばアメリカの三十人に対して、日本は三十七年度予算にいたしましても、五十二人ないし五十四人という工合になっておる。これはヨーロッパやアメリカの諸国に比較しますと、比較にならないほど日本の学級編成は悪いのでございます。そうなりますと、結果としては、一人の教師が把握することのできる生徒数に限りがございますので、教師の目から、はみ出る生徒は幾らも出て参ります。したがって、一人々々を見詰めて教育をしていくということが、現在のような学級編成では、事実大へん困難になっている。その困難にもかかわらず教師はやっておるようでございますけれども、大体が無理なのでございます。明治、大正以来の古くからの慣例もありますので、一学級三十人とか、二十五人というものは考えられないというのが国民の常識みたいになっておりますが、それはいけないのであって、当然に学級編成上は少なくとも三十人ないし四十人にこの際は定員をしぼっていかなければならないと思います。  第二の公教育における父母、大衆の税外負担というもの、それはつまりいろいろな実例がございますけれども、たとえば小学校とか、中学校におきましては、ある場合には人件費、つまり教職員に対して支給されるものをも税外負担で父母がやっている場合が少なくない。いわんや教材費とか、あるいは行事費になって参りますと、その大部分をPTA会費その他あるいは寄付金などによってまかなっておるという現状でございます。この点は公教育の建前からいたしましても至急に改めていかなければならない。その割合は一体どれくらいが適当であるかという問題でございますが、その点になりますと、公教育に関する、少なくとも義務教育に関する一切の費用——家庭教育の費用は一応別といたしましても——学校教育の費用の全部は国が負担していくようにしていくべきだと考えるのでございます。教育は決して国家というものが一人々々の国民なり、あるいは子供なりに対して与える恩恵ではないのであって、何か恩恵的な感じがなお諸方面に残っているかと思いますが、教育を受けるのは国民の権利なのであり、国としては無償で義務教育をやっていく義務がある。つまり恩恵的な考慮をのけてみますると、公教育における学校教育費の全額は、当然に国、それから部分的には地方費でまかなわなければならない。ただし、国民教育における負担が一部は国、一部は地方というふうに二つに分かれていることに実は問題があるのであって、それは地方で負担すればいいということの中には、やはり受益者の概念が入っていると思うのでございますが、教育は単なる教育を受ける者を受益者とみなすという考え方ではだめなんであって、そういう点からいたしますと、地方費で教育をまかなっていく、教育費をまかなうという考え方自体にも大きい問題があると考えます。  第三の点になりますが、教育の国家統制、これはやはり御指摘のような問題が非常に多いのでございまして、特に昭和三十年ぐらいから——と申しますのは、具体的には教育委員の公選制が任命制にされたその時点ぐらいから今日まで、教育の中央集権的な国家統制というものがだんだんと強まっているというのは現実でございまして、ことに今の私のように、どの大学にも、どの教育機関にも関係しない、ただ一民間人という立場で考えてみますと、私たちの払う税金がそういう国家統制のために使われるということは非常に不満でございます。  以上三点お答えいたしました。
  33. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 先ほど申し上げましたように、きょうは非常に多うございますので、質疑応答二十分と申しましたが、どうぞ高田さん簡単にひとつお願いいたします。
  34. 高田なほ子

    高田なほ子君 三点についてお尋ねをしたいと思います。  先日、この予算委員会でも議論せられた点でありますが、青少年対策がきわめて不十分であるのに対して、文部大臣は、学校教育さえ完璧に行なえば青少年対策はほぼ完璧だ、こういう御答弁があったわけです。これについてはいろいろ異論があろうかと思いますので、この点についての御所見を承りたい。  第二点は、青少年対策を強化するこれは首相が演説の冒頭に述べておられるところですが、御承知のように、青少年対策は各省にまたがっております。現在約十人の閣僚が、演説の冒頭にあるように、まあ重点的施策としてされたのだろうと思いますが。わずかにそれは二百三十億に足りない——前年度と比べてわずかに二十一億の予算の増、これではとうてい青少年対策の完璧を期すなんということはできないのじゃないか。そこで、そういう前提に立って、なぜ青少年対策はかくもこの国の政治の面では冷遇されるのか、単にそれは行政上の問題だけではないのではないか、なぜ冷遇されるのか、この原因についてお尋ねをしたい。  第三番は、政府与党の方々の手によって、新聞紙上で承知いたしますと、青年憲章というものについて研究をされているようです。まだその内容等について私承知しておりませんけれども、青年憲章ということについて、その内容いかんによっては、むしろ非常な弊害を及ぼす危険性なしとしない。また、その制定の手続等についても相当の考慮がなければ、むしろマイナスの面が多いのではないか、こういう見解を持っているわけです。非常に概念的な質問でおそれ入りますけれども、青年憲章等の問題についても御所感を承っておきたいと思います。どうぞお願いいたします。
  35. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) お答えを申し上げます。  学校教育のほかに社会教育というものがあり、家庭教育というものがある。その全体が教育なのであって、青少年対策という概念自体が、実は青少年を国家がどう扱うか、どういう工合に処遇するかということを考える支点としては、はなはだ不適当だと思うのであります。そういう点からいたしますと、つまり義務教育九カ年は終わったけれども、高等学校へは行けない青少年に対して、国家として教育をしていく配慮がなされるべきであって、つまりそういった配慮を伴わない青少年対策というものには、非常に問題があると考えるのでごいざます。  で、なぜ青少年教育というものが軽く考えられているのか、冷遇されているだろうか、原因についての所見をただされたわけでございますが、これはやはり義務教育を終わった子供に対しては、少年に対しては、国家としても何も考えなくてもいいんだと、つまりそこで教育は終わったのだという考え方が強くて、およそ教育というのは生涯、終生やっていかなければならないのだという、そういう考え方がないということが一つと、それからもう一つは、学校の卒業生の場合でさえ——学校卒業生、つまり大学の卒業生の場合でさえ、十分にその人たちの生活保障ができ得ないような状態が一方にあり、いわんや中学校卒業だけの青少年に対する配慮をするゆとりがないのだということもあると思うのでございます。で、もしも青少年教育というものが、いわゆる義務教育九カ年だけで終わるべきものではなくて、先ほども申し上げました高等学校、これは政府の御調査によりましても九八%の者はせめて高等学校に行きたいというふうに考えている。そういう国民の子供の願いというものと、それからもう一つは、これからの日本の社会をしょっていくべき青少年は、やはり世界の進歩に伴って、少なくとも高中等教育を受けた者でないと社会の動きの意味を確実に理解することができないという、そういう立場からいたしましても、高中等教育というものを一般青少年に及ぼす必要があると思うのですが、そういった見解が政治の衝に当たっておられる方々にないということが、やはり冷遇の原因になると思うのでございます。  第二点の青少年憲章につきましては、御質問者のお考えのとおりでございまして、青年憲章というものの制定が望ましくないわけではありませんけれども、青年憲章の制定というような場合には、少しでも政府の考え方を押しつけるとか、ないしは、形式的には青年の意見を尊重したような形をとりながら、その内実はそうではないというようなことがあってはいけないのであって、青年憲章の制定については、青年自身の自主的、自発的な意見というものが基礎にならなければならないと思うのでございます。しかし、現在ではそういった青少年の全般的な意思というもの、青少年自体が青少年の憲章を作っていくというような条件ができていない。そういう点からしますというと、青年憲章の制定というようなものは早過ぎるというふうに私は考えるのでございます。  以上二点、これもお答えになりませんでしたけれども、所見を申し上げました。
  36. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 先ほど申し上げましたようなわけですから、きわめて簡単にひとつお願いします。
  37. 大谷贇雄

    ○大谷贇雄君 先ほど上原先生の教科書無償の問題につきまして、そのことが国定化への誘い水になるのではないかというようなお疑いの御発言がございましたが、私ども与党の者としましては、憲法にある義務教育無償の原則に基づいて、少しでも国民の負担を軽減したい、こういうことから、純粋の意味において来年度から教科書を無償にしたい、こういうことで政府は提案をしておるわけです。それが今、国定化云々というお言葉があるのは非常に意外なのです。その点についてはどうしてそういうようなお言葉が出たか、この際承っておきたいと思います。
  38. 上原専禄

    公述人(上原専禄君) 教科書の無償支給というものが国定化への危険が伴うのではないかということを申し上げたことについての御質問であったわけでございますが、現在すでに教科書国定化への動きというものは進行していると思います。思いますではなくて、私が昭和三十年ぐらいから作りました高等学校用の世界史の教科書というものは、その後、同じ内容に改良を加えたものでございましたけれども、教科課程の改変に伴って、それのりバイズド・エディションを出しまして文部省にその教科書の検定を求めましたところが不合格になりました。それは私だけではございませんで、同じような経験を持っている教科書執筆者というのがたくさんございます。それはどういう点が不合格になったのかという点も明らかなのですが、それは、たまたまそこに書かれております現代についての記述が、政府方々が主として考えておられることと違っているということと関係しているのでございまして、そういう一般的な傾向並びに個人の経験からいたしましても、よほど気をつけませんというと、教科書国定化への動きというものがこれを突破口として出てくるのではないか。教科書を無償で支給するようになってくるから国定化になるのではなくて、国定化への動きは現にもう始まっている。始まっているときに、それを促進するようなことになるのだと、こう私は自分の経験も中に入れまして申し上げた次第でございます。
  39. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 上原公述人公述はこれで終わりといたします。まことにありがとうございました。(拍手)   —————————————
  40. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 次に、細野公述人にお願いを申し上げます。
  41. 細野孝一

    公述人(細野孝一君) 私の担当いたしましたのは中小企業の問題でございますが、この中小企業の問題からいたしまして一般予算というものを一応ながめてみたいと思います。まあ、およそ国でありましてもあるいは役所でありましても、仕事をしようといたしますと予算が必要でございます。これは逆に、予算が少ないと仕事も十分できないという結論になるのでございます。この中小企業の現状というものは、まさにそういう状態にあるのじゃないかと思います。つまり通産省の、今年度と申しますか、三十七年度予算の中におきまして、中小企業庁の予算というものは二〇%にすぎないのでございます。ところが、中小企業の国民経済上におけるウエートというものを考えてみますと、これは皆様よく御存じのように、かなり大きなウエートを占めております。また、商業とかサービス業でございますが、この大部分というものは中小企業である。また、中小企業のウエートの最も少ないといわれておりますいわば大企業の活躍範囲の大きい製造工業というものを見ましても、この中小企業のウエートというものはかなり大きいのでございます。まあたとえて申しますと、雇用の吸収力というものを考えてみます。すると、この中小企業の雇用の吸収力というものは全体の六六%も占めております。またこれを、出荷の付加価値というものから考えましても同様でございまして、四二、三%を占めております。これをさらに輸出方面について、つまり今日輸出が不振で困っておりますが、わが国の輸出面というものを考えてみますと、わが国の輸出の全体の大体少なくとも私は五五%、多ければ六〇%というものが中小企業によって占められているのじゃないかと思います。つまり、これだけ大きな実際上のウエートを占めながら、どうしてこの予算上の措置というものがあまりにも小さいか。たとえば三十七年度の重要経費というものをながめてみますと、この重要経費の中で中小企業対策費でございます。これがどれだけあるか、わずか九十一億でございます。これをパーセントで申しますと一%にも達しない。〇・〇〇それから四%という、つまり千分の四といったような小さなものでございます。これを総予算から申しますと、さらに小さくて千分の三でございます。まあこの公聴会におきましては、幸いにして中小企業の問題が取り上げられました。まあそのウエートというものを考えてみますと、おそらく一〇%くらいのウエートを占めているのじゃないかと思います。中小企業の立場から申しますと、もうこれは名誉の至りだろうと思います。せめて来年度予算からでもおそくはないと思いますが、一%とは申しません、半%でいいですから、その半%ぐらいの予算というものを考えていただきたいと思うのでございます。また、こういうように小さい小さいと申しますと、いやそれは財政投融資のほうでめんどうを見ているというお話があるかもしれないのでございます。試みに、じゃこの財政投融資の部面というものをちょっと検討してみます。すると、三十七年度におきましては中小企業向けの財政投融資の合計というものが千百二十五億円でございます。この全体の財政投融資の二二%に当たっております。まあ大体この公述人のウエートと同じように、このくらいのウエートが認められておりますが、しかしながら、これはただそれだけのウエートという意味じゃなくて、もう少し別の意味で考えなくちゃいけないのじゃないか。つまり、中小企業に対しております大企業のほうに、もっと大きなウエートが置かれておれば、これはせっかくの財政投融資というものもおかしいんじゃないかと思うのです。すると、それじゃ簡単に日本開発銀行あるいはまた日本輸出入銀行でございますが、これは大部分大企業でございます。そうして財政投融資から出ております。すると、この二つだけで、どうかと申しますと、この財政投融資の全体のうちの二八%、これのほうが、はるかに大きいというわけです。  それよりも、むしろ過去にさかのぼりまして、この中小企業に対しまして、財政投融資で、ほんとうにめんどうをみてくれたか。これをちょっと振り返ってみたいと思うのです。すると、終戦後、十数年の間でございます、ざっと計算いたしますと、わが国における重要産業というもの、これは大部分が、大企業であることは申し上げるまでもないのでございます。この重要産業に対しましては、財政投融資のうちの大体四〇%が向けられております。ところが、中小企業はどうかと申しますと、わずかに七%、これじゃ——戦後でございますが、大企業というものが、だんだん近代化されまして、もうひとり復興していく、生産性は向上する、賃金は上がっていく。ところが、七%しか投資されなかった中小企業というものが置き去りになってしまった、これは当然の結論じゃないかと思うのです。これこそ、格差というものが出てきた一つの原因じゃないかと私は考えているのでございます。  また、現在たとえば、今申しましたように、ことしは千億以上の財政投融資がある。すると、あるいは見方によって、これでいいじゃないかという議論が出るかもしれませんが、これを、昨年から問題になっております所得倍増計画というものを考えてみたいと思います。この所得倍増計画の付録でございますが、中小企業の小委員会というものがありまして、そこで計算した数字というものをちょっと考えてみるのです。すると、三十七年度——本年度でございますね、財政投融資というものは、少なくとも千三百六十八億は必要じゃないか。これは非常に内輪で、しかもその半分というものは、インフレーションというものが起こっても差しつかえないというような前提において計算されたものでございます。もしインフレ的な考慮というものを抹殺しようといたしますと、小委員会におきましては、二千二百億の財政投融資が中小企業に必要だと申しております。そのうちの約千億以上というものが、設備金融でございます。すると、所得倍増計画においては、少なくともこの程度の考慮が必要である。ところが、現状というものは、あまりにも少ないじゃないか。これじゃ、十年たちますと、大企業は、所得は倍増するかもしれないが、中小企業というものは置き去りになって、依然として前と同じような状態に残されるんじゃないかという心配を感ずるのでございます。  かように考えてみますと、いや財政投融資ばかりを見るからいけないんだ。一般金融というものを検討してくれば、十分この中小企業について考えているんだとお考えかもしれませんので、少し一般金融の問題についても考えてみたいと思います。  大体、最近の数字から申しますと——最近と申しましても、去年の末ごろの数字でございます。その点、御了承願います。すると、どれくらい金融機関の融資の残高というもの、貸付の残高というものがあるかと申しますと、一口に申しまして十三兆億というものがあります。このうちの五兆億円というものが中小企業に向けられていると言われている、ごく、ざっと申しまして、全体の日本の金融機関の貸し出しの六割というものが中小企業以外、これは大部分が大企業でございます。そして四割が中小企業に向けられているわけなんです。すると、この四割の五兆億円というものが中小企業向け金融の残高でございます。このうちで、大体半分に近いものが、いわば中小企業の金融の専門金融機関によってまかなわれている。あとの半分よりちょっと多いものが、その他の一般の市中銀行あるいは地方銀行、全国銀行によっているものですが、それによってまかなわれているわけでございます。ところが、この中小企業専門金融機関の資金というものは、これはどこまでも中小企業のために確保された資金でございます。ところが、現実はこの資金というものが、ほんとうに中小企業の振興に、レベル・アップに使われているかと申しますと、現実には必ずしもこれを肯定することができないのじゃないかと思います。かなり大きな資金というものが、この大企業へ吸収されている現実でございます。これはコール資金で、やみコールが非常に高い。すると、この信用金庫、あるいは相互銀行でございますが、そうしたものが、このコールを使用して投資する。すると、その大部分というものが大企業へ流れていくという、それだけじゃないのでございます。ちょうど昨年でございました——昨年の秋でございますが、この金融の引き締めというものがだんだん強化されようとしていた。すると、私はある関東の小さな都市でございますが、その都市の診断と申しますか、調査最中だったのです。九月、十月、十一月でございます。すると、この金融の引き締めというものが起こるやいなや、さっそく町の大企業、まあ大企業と申しましても、五、六百人の工場でございます。三つトップの工場があるのです。その手形というものが非常に多くなってしまった。従来は手形を使わなかったものまで、この手形を急に使い出したのでございます。それからもう一つは、サイトが長くなりまして、今まで九十日であったのが百五十日、二カ月間長くなったのでございます。すると、この手形の増加、あるいはサイトの二カ月の延長、これは中小企業の資金というものが大企業に流れる一つのルートになったのではないか。つまり、その長い期間の、そしてまた手形になったその資金というものを、この中小企業の専門金融機関、今いった信用金庫あるいは相互銀行、信用組合、こういうもので割るわけなんです。そしてまた、金融業者に聞きますと、これを割らないと、この小さな中小企業者というものは、給料を払うことができないのだ。すると、地域産業のためにやむを得ないじゃないかという話でございます。すると、それだけのものは何のことはない、大企業の資金の穴埋めというわけなんです。  そういうふうに考えてみますと、せっかく表面的な数字は、なるほど中小企業に流れておりますが、現実には必ずしもそうとはいえないわけでございます。中小企業にほんとうの、それじゃ資金というものは、どういうものかと申しますと、これは先ほど申しました財政投融資に関連するが、商工中金とか、あるいは国民金融公庫、あるいは中小企業金融公庫というようなものでございます。  まあ、そういったようなものが昨年末、じゃあ残高でどのくらいあるかと申しますと、五千四百九十八億でございます。ところが、いかにもこれは相当多いじゃないか。ところが、片方日本開発銀行なんかの数字を見ます。すると、日本開発銀行一行におきまして、五千八百四十二億、これよりも、この三つを合わせたよりも多い。これを見ましても、いかに中小企業の金融というものが少ないかということがおわかりになるのじゃないか。つまり、財政投融資におきまして、案外恵まれていない。  それにもう一つ、大企業には日銀の貸し出しという、この創造資金による供給という、一つの何か魔法のつちというものがあるわけでございます。  十年ほど前でございますが、日銀の貸し出しが三千億だった一これがアブノーマルな、つまりオーバー・ローンの原因であり、これを改めなければ、日本の金融というものが正常化しないという議論が多かったのであります。ところが、現状はどうか。もうことしになりますと、一兆億円以上でございます。まあかりに、ことしの一月の十二日以降というものを考えてみます。これはいつも日本銀行券の発行高以上に日銀の貸し出しがある、しかも、この貸し出した金はどうかと申しますと、これが大部分大企業だけに流れているわけなんです。日本銀行、あるいはそのほかの説明によりますと、日本銀行の信用膨張でございます。これによってわが国の経済成長をささえるというような説明でございますが、日本経済成長をささえるがために、日銀がこうした通貨の発行方法をとっている。なぜそれは大企業だけを対象としなければならないか、つまり、大企業だけを直接の窓口にしなければならないかという、いかにも不平等じゃないか、国民経済発展の半分以上というものを中小企業がになっております。すると、やはり平等という原則においては、中小企業のためにも、こうした日銀の信用創造の門戸を開放する、開放する方法は幾らでもありますが、その方法を考える必要があるんじゃないかと思います。ともかく、一年間のうちに二倍半に日銀の信用が、こうした貸し出しが増大するということは、普通の状態ではないと思います。また、言いかえていえば、それだけ中小企業というものが恵まれていないということであります。  こういうことをいいますと、それは一般金融の話なんだ、一番必要なのは設備金融なんだ、この設備金融のほうだったら、何とかなるだろうという考えがあるかもしれないのでございますが、それでは設備金融はどうかと申しますと、わが国の設備金融、去年の数字でございますが、大体三兆三、四千億という数字でございます。ところが、この三兆三、四千億のうちで中小企業の設備資金、それはどのくらいかと申しますと、わずかに四分の一でございます。四分の三というものは、大体、大企業のための設備金融であるということがいえる、しかも、そのうちで、わずか四分の一のうちで、普通の全国銀行といったようなもののウエートというものが非常に小さい。もう少し中小企業に設備資金というものを与えてやってもいいんじゃないかと思います。  ことにこの全国銀行のうちの一つでございますが、長期信用銀行というのがあります。この長期信用銀行というものは、もともと長期のための資金を供給する機関である、いわば設備金融の金融機関である。ところが、このうちには御存じの日本興業銀行、日本長期信用銀行、また日本不動産銀行という三つがあります。この三つがありまして、ことに日本不動産銀行でございますが、これは、もともと中小のためというような意味合いにおいてできたと私は聞いておりますし、また大いに期待しておった。ところが、現実はどうであるか、どうも、あまり中小企業向けの設備資金というものが出ていないんじゃないか、下手すると、ほかの長期信用銀行なんかを対象にしまして、だんだん大企業のほうへ移動しかかっている。現に、この三つの銀行でございますが、この資金は、中小企業にはどのくらいいっているかと申しますと、大ざっぱに、去年の年末でございますが、六百億ちょっとでございます。つまり三つの銀行で、中小企業には六百億円しか出ていない。ところが片方は、大企業は九千億という数字でございます。せめてこの三つのうちで——日本興業銀行にいたしましても、あるいはまた、長期信用銀行にいたしましても、ある程度は中小企業に出ております。しかも、中小企業の専門の不動産銀行が、せめて三分の一ぐらい設備資金が、この辺から供給されたならば、非常に改善されるのじゃないかと思うのでございます。  話はちょっと違いますが、こういうような状態で、どうも中小企業の近代化というものを進めようと思いましても、なかなか進めることができない。  最近でございますが、民間におきましても、あるいは官庁におきましても、中小企業の系列化とか、あるいは下請化の問題、この系列的な下請の問題が非常に推進されております。ところが、これもひとつ悪く考えてみますと、この資金を吸い上げる一つの機関にすぎないのじゃないかという見方さえ成立するわけなんです。あまり意見を述べて恐縮でございますが、たとえば系列化によりまして、自分の資本金でなくて、他人にやらせる、中小企業にやらせる、しかもまた、それによって、中小企業の分野に大企業というものが、これによって進出していく。ただ、利益だけが大企業へ搾取されていくのだというような悪い見方さえ言えないこともない。これはもう少しよく注意して、そうして、もちろんこれが対策というものは、中小企業の組織化以外にはないと思うのでございますが、この組織化について、はたして予算的にも実際的にも、どの程度の考慮が払われているかということが非常に疑問ではないかと思う。あるいはまた、現在中小企業の予算上の大きな問題であります、一つの柱であります近代化資金というものを考えてみても、そうでございますが、いかにも画一的である。  たとえば国が四分の一出す、すると府県が四分の一、そうして業者が二分の一、これが貧乏県でありましても富裕県でありましても同じでございます。そうしてまた、どこへいきましても、同じように画一的な方法でございます。はたしてこれが賢明な方法であろうか、はたしてこれが中小企業のほんとうの援助になり得るかどうか、下手すると、中小企業のうちの大きいものだけに恵むような結果になっているのじゃないかと思います。  あるいはまた、事業の指導診断の費用というものが計上されております。ところが、そうした面につきましても、いわばマンネリズムに陥っているような傾向があるのじゃないか。また、われわれもときどき動員されるのでございますが、われわれを動員いたしましても、せめて人並みに扱っていただきたいと思うのですが、予算関係でそういうことはなかなか困難である。すると、優秀なわれわれの仲間の人がみな抜けていく。その診断の結果というものも、実に場当たり式な無責任なものがかなり出かかっているわけです。そうした点もよく考慮して、ぜひ予算的にも考えていただきたいと思います。  また、中小企業の問題というものを考えてみますと、現在、最初に申しましたように、日本貿易の半分というものは、中小企業者が占めております。そうなりますと、この貿易面だけを考えても、これはりっぱに中小企業の大きな仕事が出てくるのじゃないかと思います。いろいろ勝手な要求を出しますと、数限りがありませんが、要するに、その目的というものは、何とかして中小企業をレベル・アップしなければならないという問題でございます。  これは言いかえていえば、格差を解消しなければならない。大企業と中小企業の格差がこんなに大きい。これを解消することが必要じゃないか。その方法というものの一つは、これは設備の近代化でございます。それによって生産性を向上する。ところが現状は、金融事情から申しまして、あまりにもこれは不平等である。現在の格差の一番大きな原因というものは、この金融の不平等から出てきたのじゃないかと思います。また、もう一つのこうした格差解消の方法は、組織化でございますが、この組織化も、単なるしゃくし定木の組織化ではなくて、具体的な政策を、もう少し再検討する必要があるのじゃないか。  ところが、現在の予算というものを拝見いたしましても、それが少ないというものは、最初申し上げたとおりでございます。しかも、この少ない結果、自分自身で仕事をすることができない。悪い言い方を申しますと、みなおんぶしたような仕事ばかりでございます。府県にやらせる、協会にやらせる、あるいは組合にやらせる。あるいはまた、それ以外の学識経験者にやらしてしまうのだというようなおざなりで、しかもその間に統一をとった総合的な施策というものが欠けているのじゃないかと思う。言いかえて申しますと、現在の中小企業対策というものは、あまりにも断片的な対策にすぎない。これは、予算が少ないからやむを得ないかもしれない。まあこういうふうに考えてみますと、やはり最近言われております中小企業の基本法でございますとか、まあそういうようなものを、これは一例でございますが、そうしてその中小企業の基盤というものを整えまして、そうしてこれに対する総合的な予算というものをぜひ編成していただきたいというのが私の希望でございます。  どうも八つ当たりしたようで、いかにも勝手なことを申し上げましたが、この現在の予算に反対しているというわけではないのでございます。予算はどこまでも必要でございます。つまり、中小企業のレベル・アップに直接役立つような総合的予算というものを今後より以上に大規模で編成していただきたいというのが私の趣旨でございます。(拍手)
  42. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) どなたか御質問はございませんか。——では御質問がないと認めまして、細野公述人に申し上げます。まことにありがとうございました。   —————————————
  43. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 次の大内公述人はまだ見えておりませんが、公募せられました公述人苅藪さんにお願いしたいと思いますが、いかがですか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  44. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) それでは、苅藪公述人にお願いいたします。
  45. 苅藪豊作

    公述人苅藪豊作君) 消費者を代表いたしまして、四点ほど実情を訴え、諸先生の審議の一端に取り上げていただければ幸いでございます。  まず、今日ほど物価問題が、国民特に勤労者、主婦の関心を引き起こしたことはないと思います。最近の内閣官房広報室の世論調査によっても、一年前に比べ、暮らし向きが苦しくなったというものが調査対象の三〇%にも達しております。その大部分が消費物価の異常な高騰であり、現政府の不信として、国民生活にいやが上にも怒りとして急速に高まってきております。先月下旬発表になりました経済企画庁の物価安定総合対策について種々検討してみましたが、これら個々の対策がどれだけ具体化されるか、きわめて疑問に思っております。特に消費物価の値上がりが政府経済政策の失敗によって起こったものではないという言い訳に立っており、個々の対策がきわめて抽象的であると思います。また、総合対策の立案、実施につきましても、担当各省が各様に対立、主張し、かつ、予算措置が不安定な段階で、われわれ消費者階層はうのみに信用し期待することはでき得ないと思います。  政府は、物価上昇ムードの濃化した一昨年暮れに、昨年度経済見通しを発表いたしましたが、三十六年度の物価動向は、消費物価で〇・七四%の上昇、卸売物価で〇・三%の下落と見込んでおりましたが、その後の予算編成で各種公共料金の値上げがきまり、その分を加えて、消費者物価の上昇率は一・一%と訂正されましたが、御承知のように、昨年暮れに至りましては、九%に近い急騰を示しました。このようなはなはだしい食い違いは一体どうして起きたのか。言うまでもなく、物価上昇を楽観した政府の机上プランと言って過言ではないと思います。  第一に、われわれ消費者生活に日常特にウエートを占めております副食品、調味料の上昇の原因を一時的現象として、自然に消滅するかのようなあまさで判断されたことも要因をなすのではないかと思います。たとえば、生鮮魚、野菜などの小売値は、生産者の手取りの二倍ないし五倍といった高値になっております。また、菓子、パン類等につきましては、昨年十一月、十円が十五円に、食パンが三十円から三十五円に値上げしております。めん類については、二十九年の二十円から四十円と値上がりしており、また、一昨年よりブーム的商品として現われましたビタミン入りジュースなどについては、五百グラム単位が、市価二百六十円のものが中間卸では百四十円になっている。その他必需品につきましても、同じことが枚挙に尽くせないと思います。これらの中でも、原料が値下がり、かつ、生産性が上昇している傾向にありながら、なぜわれわれ消費者のみにしわ寄せが来るのか。わが国の消費物価は、生産性が上昇してもなかなか下がらないという特色を持っております。すなわち、流通機構の矛盾であり、政府当局としましても、総花的抽象措置でなしに、真剣にこの欠陥の是正に思い切った重点策を立てて、流通機構の民主化を実現させてほしいと思います。さきの藤山大臣の国民生活省設置云々の答弁を聞きましたが、われわれ消費者は、将来の夢よりも現在の苦しみからいかに抜け出そうかと必死であります。当面早急に消費者保護の法的措置を強く訴えたいと思います。  われわれ消費者側といたしましても特に要望したいことは、公正取引委員会の強化策と並行して、従来とられてきましたこれらの種々委員会制度の機能が単なる情報機関であることを訴えて、ここにあらためて勤労者階層並びに婦人団体を主軸にした、行政効果のある物価監視委員制度を設けて、連鎖反応的な物価上昇の安全弁として、われわれの声をなまで聞いてほしいと思います。また、消費購買の唯一のとりでであります消費生活協同組合の設備資金増額と、新たに運用資金とをぜひ予算化してほしいと思います。現在全国で組合数が千余ございますが、厚生省予算は微々たるもので、これが実情を申し上げますと、二十八年度予算額が二千五百万であったものが、三十七年度に至りましては一千万円と、一組合当たり一万円程度になっております。これが年々実態把握を無視した減額措置になっておりますが、政府当局者の善処方を特に要望するものであります。  次に、物価値上がりムード並びに過大な消費ムードをわれわれにしわ寄せ助長させております宣伝、広告の攻勢の規制でございますが、ラジオ、テレビ、新聞、雑誌あるいは電車の内外を見ましても、平均五十近くの広告が下がっております。そうして夜は夜で、ネオンが空を焦がしているというような状態、この攻勢を一例にとりますと、薬品の国民人口一軒当たり年間六千円の売薬消費量というものは、世界に類例がございません。初めはきかないと思っても、繰り返し聞かされ、見ておりますと、次第に抵抗力を失うという心理効果をあおっているのが現状で、また、化粧品等についても同じことが言えると思います。御承知のごとく、この正月以来全国に蔓延いたしました感冒についても、各有名メーカー品のアンプル一本市価百円売りの卸値が、二十五円ないし三十円で中間業者に卸されている実態であり、この宣伝、広告費のウエートは、想像するだにおそろしい私たちへのしわ寄せではなかろうかと考えております。食料品の宣伝その他生活必需品につきましても、粗悪品、まがい品が肩を並べて、われわれにマス・コミを通じて押し寄せて来ております。昨年、労働省婦人少年局が行ないました勤労者世帯の消費生活調査の中で、「広告や宣伝を買いものの参考にしますか」との問いに対しまして、「する」と答えた者が一五%、「少しはする」と答えた者が五八%で、両者合わせますと、七三%の者がとにかく広告や宣伝を参考としているのは、相当高い注目率としていいのではないでしょうか。また、地方紙の調査の発表がございましたが、新聞広告の注目率も、一流雑誌では五〇%から七〇%になっております。近代企業では、いかに宣伝、広告の役割が大きなウエートとなっているかがうかがわれると思います。また、四媒体——新聞、テレビ、ラジオ、雑誌のおもな業種の費用を電通調べで比較してみますと、三十一年には約七百五十億だったものが、昨年はとうとう二千億を突破し、総人口一億、老若を入れまして、一人当たり年間二千円の広告、宣伝費が継ぎ込まれたことになっております。この五年間に約三倍もの力で私たち消費者の負担となって現われてきている。このこと自体の社会的役割への影響をどのように政府当局は考えておられるのか。公共的性格のものが、いつの間にか独占資本の番頭役として、単なる商業ベースにとどまっているにすぎないと言って過言ではないと思います。このような実情から、本年初め、広告界の関係者が広告協議会を発足させ、藤山大臣並びに郵政大臣も出席されたようにも聞いておりますが、その内容として、第一に、広告の消費経済に及ぼす影響と効果に対する検討、第二に、広告倫理に関する自主規制、第三に、広告活動による公共奉仕の推進などをうたって発足を見たものの、いまだに具体策もなければ、われわれ階層を裏切った、単なる独占資本家の気休め程度にすぎないと思います。政府としましても、いかにこのマス・コミの力の事の重大さがわれわれ消費者に負担になっているかを十分認識願い、これが行政規制措置を早急にとられるよう要望したいと思います。  次に、三十七年度は、間接税について減税措置を行なうことになっておりますが、間接税の中には、物品税のように、戦費調達のために設けられたような不合理なものも含まれているのでありますから、間接税を本格的に整理して、消費者必需品について、大幅の減税措置を実施するよう特に望みたいと思います。しかし、これらの減税分が業者のふところに吸収されてしまえば、小売価格は下がらず、消費者は何ら恩恵を受けないことになると思います。また、そのことが物価の下がる保証として何らきめ手がないわけであります。この点、行政監督の徹底化を要望申し上げたいと思います。なお、これが調整措置として、予算面で、ぜひ景気調整基金などの保有対策をとるべきだと思いますし、実施してほしいと思います。  次に、明年度から教科書無償配付が行なわれることになっておりますが、特別措置として、早急に、現在の低額所得者、特に地下産業労働者の中小炭鉱におきましては、賃金未払い等が顕著に現われ、その日その日の暮らしのやりくりにせい一ぱいでありまして、その家族の学童のみじめな登校姿は、昨年秋の担当大臣の視察状況で十分うかがえたものと思いますが、明るい社会建設、希望の持てる社会建設の上にも、すくすくと育成されなければならないこれら義務教育児童に対しては、政府としましても、積極的に本年度予算に組み入れてほしいと思います、また保育施設についても同じことが言えると思います。単に地方出先機関だけでは限界があり、中央の行政措置を切望するものであります。全般的共通の場で消化する中でも特別配慮がなされても、決して批判はないと思いますし、当局の血のある決断を願ってやみません。  次に、学校給食費の負担額でございますが、この四月一日から、区立小学校において、月額三百三十円が一挙に五百二十円と、約五割強の値上げが家庭に連絡がございましたが、この実態は、従来より内容を充実したいということと、物価値上がりを訴えておりますが、河野農林大臣は、豚肉と政府、補助によって児童にたんまり食べさせたいと言われ、われわれ保護者も喜んでいたわけでございますが、それもつかの間、そのしわ寄せがこのように現われたのでは、全く残念であります。子供に毎朝与えていた牛乳も、三日に一本減らさなければやりくりに困る、全国的にこの給食費値上がりが実施されようとしている現状を十二分調査の上、すみやかに保護措置を十分検討していただきたいと思います。  以上、結びといたしまして、われわれ消費者の実態を十二分把握、御配慮願い、諸先生並びに担当諸官庁の良識に訴え、生きた予算を実施されるよう希望いたします。(拍手)
  46. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) ありがとうございました。どなたか御質疑がございましょうか。
  47. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 一つだけ聞かしていただきます。  公述人は、生活協同組合連合会の専務理事をなさっておられますが、この連合会として、公募されて、公述するようにということでお出ましになられたのですか。それとも、公述人本人の御意思でおいでになられたのか。その点もあわせて承りたいのでありますが、そのことは、先ほどの公述内容が、あなた個人の意見か、あるいは連合会の大体の皆さんを代表する御意向かということを知りたいので伺うわけです。いずれにしましても、非常な意欲を持たれて公募されて来られたことに対して敬意を表します。  伺いたいもう一つの点は、一国の政治は、その予算によって象徴されるわけでありますが、先般毎日新聞で世論調査されておりましたですね。ごらんになられたかどうか知りませんが、もしごらんになられたとするならば、あの毎日新聞の手によってなされた世論調査の結果を、あなたとしてはどうごらんになっておられるか。あなた方の生活と結びつくという意味におきまして、予算に対して鋭い批判があったわけですが、あなたのお気に召すような予算を編成していただくには、今の池田内閣では工合が悪いということを申されているのじゃないかと思うのですが、さらばどういう内閣を作ってほしいというような念願を持たれておられるのか。素朴な御意見を聞かしておいていただきたいと思います。
  48. 苅藪豊作

    公述人苅藪豊作君) 私は団体の代表でございません。消費者を代表しまして、私が日ごろ考えていたいろいろな実情というものを、ぜひこの機会を通じて皆さん方に訴えたいと、こういうささやかな気持ちでございます。  それから、私は読売新聞は見ておりません。(「毎日々々」と呼ぶ者あり)毎日新聞も見ておりません。朝日新聞と経済新聞でございます。  それから、池田内閣に対して不満があるかどうか、これよりいい内閣を希望するのかという御指摘でございますが、現在日本の資本経済の中で、どなたがとられてもいろいろな不満はあると思いますが、私たち消費者にもう少し真実をつかんでいただく政策をぜひお願いしたい。ここで何党に希望いたしましても、実際問題として実現可能かどうか、事この辺につきましては、また消費者といたしまして、常に関心を持っておりますけれども、当面そういう理想を述べても仕方がございません。現実問題をどのように消化してくれるか、これを現政府に訴えて、また、良識ある諸先生の積極的な議会におきますところの私たちに実現できるような予算措置を講じていただきたい、これが念願でございます。
  49. 加瀬完

    ○加瀬完君 物品税のことを問題にされましたが、物品税、間接税を含めて、たとえば今度の物品税でテレビ、小型乗用車、電気・ガス冷蔵庫、扇風機、こういったようなものが一応物品税が下げられたわけです。しかし、一般の方の関心は、もっと一般のたばこの値下がりを要求する、あるいは酒の小売価格の確実に下がることを要求すると、こういうような声のほうが強いんじゃないかと思いますが、苅藪さんの職場、あるいはそれぞれの御近所の方々のそれらについてのお話し合いなどございましたら、あわせて御見解を承りたいと思います。
  50. 苅藪豊作

    公述人苅藪豊作君) 国会選出の諸先生が、婦人の方が多ければ、この内容も変わったと思いますけれども、先ほど御指摘の酒税、こういうものが今回大幅になりまして、直接家庭に響くところの物品税が、酒類の減額の半分である、こういうものがわれわれといたしましても、ただ御主人は喜びますけれども、家庭の直接の影響に対してはそうないんじゃないか。もう少し直接私たちに必要な税に対するところの考慮を願いたい。先ほど申し上げましたように、戦時中のいろいろな過程で副産物として現われたものが、何ら今の時点で整理されておらない。ただ平均的の数字をわれわれに訴えるだけでは納得がいかないと思います。
  51. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 苅藪さん、どうも御苦労さんでした。  それでは、苅藪公述人公述は、これで終了いたしました。   —————————————
  52. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) それでは、次に大内公述人にお願いをいたします。  大内さん、ちょっと申し上げますが、御多忙のところまことにありがとうございました。お話は大体二十五分以内として、またあとで各委員から御質問がございましたならば、あわせて二十分程度で質疑応答いたしたいと思いますから、御承知を願いたいと思います。
  53. 大内力

    公述人(大内力君) 私、大内でございます。  三十七年度予算につきまして意見を申し述べろ、こういう御要望でございますが、私は、主として農業問題の勉強をしておりますので、大体農林予算を中心といたしまして、二、三の感想を申し上げさせていただきたいというふうに思います。で、三十七年度の農林予算というものを拝見いたしますと、いろいろの問題がそこにあるように思うのでございますが、しかし、時間も限られておりますので、こまかい点まで立ち入りましていろいろのことを申し上げる余裕がないかと思います。したがいまして、その点は後に御質問でも出ますならば、できます限り私の考えておりますことを申し上げさしていただく、こういうことにいたしまして、とりあえず申し上げたい点を大体三つの問題にしぼりたいように思うのでございます。  その一つは、農林予算全体の規模というものに関連いたしますけれども、主として食管経費というものを中心とした問題でございます。まず、その点から少し申し上げますならば、御承知のとおり、本年度の農林予算というものを拝見いたしますと、全体といたしましては相当にふえているというふうに申し上げることができるかと思います。農林予算というのは、農林省所管のほかに、ほかの省所管のものも多少ございますが、一応農林関係予算というものを広くとりますと、三十七年度には二千四百五十九億円、こういうことになっているようでございます。で、この農林関係予算は、前年度予算、当初予算で見ますと千八百七十二億円であったわけでございますから、五百八十七億円というふうな増加になっております。それから補正後の予算と比べますと、補正後の予算は二千二百十八億だったわけでございますから、二百四十一億円の増大ということになります。これを前年度の当初予算と本年度の当初予算とを比較すると、こういう考えで比べてみますと、予算全体といたしましては、御承知のとおり、約二二・四%増加しております。それに対しまして農林予算は、三一・三%という膨張率になっているわけでございますから、その点だけから見ますと、いかにも農林経費が潤沢になったように見えるわけでございます。したがって、農林業のために、政府施策が大いに充実されたと、こういうふうに見ることも可能なように思えるわけでございます。しかし、よくその内容に立ち入ってみますと、この五百八十七億円の増加の中の三百二十億というものは、実は食管会計の穴埋めという形で使われてしまう、こういうことになっておりまして、その食管会計の穴埋めの分を除きますと、農林経費その他の部分の増加はわずか一七・五%、こういう計算になりまして、総予算の増加率をかなり下回っている、こういう計算になるわけでございます。そこで、この辺にわれわれはかなり大きな疑問を持っているわけでございます。もちろん国の予算の全体の規模というものは限られているわけでございますし、また、今日日本経済の引き締めということが要求されている時期でありますから、むやみに予算全体が膨張するということはむろん望ましくないわけでございます。したがって、かりに今の状況から申しますならば、農林予算全体の規模というものをそれほど大きくすることはできない、こういう考え方は一応納得のできることかと思うのであります。しかし、もしそうでありますならば、その限られた予算の中身が今日の農業の要求に最も適しているように、最も効率的に使われる、こういう点にわれわれは注目をしなければならないかと思うのでございます。その点から考えますと、この予算の中の非常に多くのものが、単なる食管会計の赤字補てんというだめに使われているということに、私としてはどうしても疑問を感ぜざるを得ないわけであります。で、もちろんこの食管会計の赤字補てんというものがすべてむだな経費だというふうには私は申し上げようとするものではございませんで、そには確かに今日、一方では生産者米価を維持する。他方では、ひっくり返して逆の面から申しますれば、消費者米価を相対的に低く押えておく、こういうことの上にある程度の役割を果たしている。こういうことについてはもちろん否定できないことかと思うのでございます。しかし、この点につきましては、御承知のとおり、きわめて多くの問題が今日出てきているように思うのであります。その問題をこまかに申し上げる時間はございませんから、ごく要点だけをかいつまんで申し上げますならば、一つは今日、御承知のとおり、日本の農業は大きな生産の転換をなし遂げなければならない、こういう段階に到達しているわけでございます。この点は国民の食糧の消費構造の変化という点から申しましても、また、いずれだんだん進んでいくであろうというふうに考えられます貿易自由化に伴う国際関係への農業の参加、こういう点から考えましても疑いをいれない事実でございままして、その中で、御承知のとおり、生産を大いに伸ばさなければならないものは、むしろ畜産物なり、果樹生産なり、あるいは蔬菜なりというような農産物でございます。それに対しまして、農政審議会でも需給の見通しを今作業中でございますけれども、大体の傾向から申しますならば、米麦というものは少しずつ過剰生産の傾向になるということは疑いをいれないことだろうというふうに考えます。そういう生産の大きな転換が現在差し迫っている。こういうときに政府の農産物価格政策という点から申しますならば、御承知のとおり、米麦、イモ類というようなものに非常に重点がかかっておりまして、そのためには莫大な経費を使っておりますが、成長農産物、これから大いに生産を伸ばさなければならない農産物に対しましては価格政策がきわめて貧弱である、こういう形になっておりまして、そこで三百で申しますならば、今日の政府の価格政策はかえって農業の生産構造の望ましい転換というものを阻害するような一つ条件になりつつある、こういう点に大きな問題が出てきているように思うのであります。  そこで将来の問題といたしましては、どうしてもこの農産物の価格政策というものを全面的に取り上げまして、成長農産物に対する価格支持政策を強化すると同時に、だんだんと過剰生産に陥る危険性のある農産物に対しましては、少なくとも生産を押えていくような弾力的な価格政策、こういうものを講ぜざるを得ない、こういう問題にぶつかっているように思われるわけであります。もちろんそのことは、一どきに、たとえば米の統制を一ぺんにはずしてしまうとか、あるいは米価を一度に二千円も三千円も引き下げるとか、そういういわばドラスティックな方法でやりまするならば非常にこれは混乱が起こりまして、望ましくない結果を生むかと思います。したがいまして、特に農産物価格政策のようなものは漸進的であるということが望ましいというふうに考えられますけれども、どうも現在の政府の農産物価格政策なるものを見てみますと、きわめて現状維持的な色彩が強いのでございまして、将来の見通しの上に立った長期的な価格政策計画というものが全くないと言っていいような状態にあるように思うのであります。そしてこの食管の経費の穴埋めという点に関しましても、いわばそういう現状維持的な価格政策ということをただ漫然と前提をいたしまして、そうして食管の穴埋めをするという形で予算が組まれているようにわれわれには見受けられるわけです。この点は私は大いに疑問とするところでございまして、もちろんその将来の価格政策の見通しを立てた上で、なおかつ食管の穴埋めが必要だ、こういうことでありまするならば、その食管の穴埋めの意義を評価することができると思いますけれども、ただ、現状の価格政策を維持しておくというだけのために農林予算の非常に大きな部分をさくということは、決して賢明な方策ではないだろう、こういうふうに考えるわけでございます。その点にまず第一の問題点を見出したいわけでございます。  それから第二番目の問題点としてあげなければならぬのは、今年度の農林予算におきましては、御承知のとおり、農業構造改善施策というものがその中心に据えられているわけでございます。この農業構造改善施策というものは、もちろん農業基本法に基づきまして、農業基本法の精神をいわば実現するための手段と、こういう形でもって組まれたものでございます。この経費は昨年から多少計上されておりましたけれども、御承知のとおり、今度の予算から非常に大幅な増額をされまして、そうしていわば新しい農業政策の中心的な位置を占める、こういうような条件を与えられているわけでございます。ところが、この農業構造改善施策というものにつきましても、実はさらに立ち入って見ますと、私は幾つかの重大な問題があるように思われるのでございます。それにつきまして、二、三の特に重要だと考えられる点だけを指摘して申し上げておきますならば、まず第一には、この農業構造改善施策という形で、今度政府が出して参りました農業政策、また、それに対する予算的な裏づけというものは、基本法で申します構造政策というものとはきわめて違っているということでございます。違っていると申しましても、全然無縁だとは申せないのでありまして、ある意味では、基本法で申します構造政策の一部分であるというふうに言うことは必ずしも不可能ではないかと思います。しかし、少なくともそれは基本法で考えておりますような構造政策全部をおおうものではございませんで、きわめてその部分的なものでしかない、こういうことをまず第一に申し上げたい点で、しかもその部分的であるという場合に、その部分がきわめて重要な部分あるいは本質的な部分をついている、こういうことでありますならば、まだしもわれわれとしては納得ができるわけでございますが、もし率直に言わしていただきますならば、私は政府の農業構造改善施策なるものが基本法で申します構造政策のいわば本質的でないものにだけ触れているのであって、本質的な問題にはほとんど触れていないというふうに申し上げたほうがよいのではないか、こういうことが一つの問題だと思うのであります。  これはそれだけ抽象的に申し上げたのでは、十分に私の申し上げたいことがおわかりにならないと思いますので、もう少し具体的に申し上げますならば、基本法で申します構造政策なるものは、言うまでもなく、いわゆる自立経営というものを中心といたしまして、新しい農業の状態に耐え得るような農業経営を作り出す、こういうことに中心的な課題があるように思うのでございます。もちろん、その自立経営というものは、自立経営と名づけられておりますが、単なる一本立ちの独立の自作農家ということではございませんで、これからの農業技術の発達というようなことを考えれば、当然それはいろいろの形で協業経営、基本法で申します協業化というものの中に組み込まれた形の自立経営でなければならない、こういうことは自明のことでございますけれども、しかし、それにもかかわらず、やはりそういうこれから変化して参ります農業生産なり、農業技術なりに対応し得るような自立経営ということを考えますと、それは少なくとも今の日本の農家の大部分の経営規模というようなものをもってしては、とうてい自立経営たり得ないわけでございます。したがって、構造政策の一番基本的な点は、その自立経営を育成するということでありますけれども、それを言いかえますならば、やはり農業経営規模の相当大きな専業的な農家というものを育成する、あるいは創設する、こういうことでなければならないというふうに思うのであります。ところが、この問題は、まあ口で申しますのは簡単のようでございますが、具体的に考えればきわめてむずかしい問題でございまして、今日の日本の農家、六百万の農家の平均規模は、御承知のとおり、一町足らず、九反ぐらいしかございませんし、しかもその三分の二は一町未満の農家でございまして、それを二町なり、三町なり、あるいは五町なりというような経営規模の大きい専業農家に、まあ数は少ないといたしましても、とにかく経営規模の大きい専業農家をその中から作り出していくということになりますと、これはきわめて大きな政策的な手を打ちませんと達成できないことだというふうに考えられるわけであります。しかしまあその場合に、きわめてむずかしいとはいいながら、そこでどうしてもわれわれとしては手をつけなければならない問題が私は二つある、一番本質的な問題として二つあると思うのでございます。その一つの問題は、言うまでもなく農用地を拡大するということでございまして、現在の、たとえば五百万ヘクタールなら五百万ヘクタールの農用地を二倍なり三倍なりに拡大することによって、農業経営を拡大する余地を作ると、こういう問題でございます。ところで、もちろんその場合に、農用地を拡大すると申し上げましたけれども、それは従来やって参りましたような開墾なり開拓なりと、こういう考え方とはきわめて違った考え方にならなければならないと思うのでございます。これからの農業は、先ほど申し上げましたように、畜産を中心といたしまして、果樹作なり園芸作なり、こういうものが成長農業部門として入ってくると、こういうことになりますと、新たに追加される農用地というものは、いわゆるこの田畑というような従来の耕地ではございませんで、たとえば家畜のための放牧地であり、採草地であり、あるいは果樹園のための山地の利用である。そういう形での農用地の拡大というものをどうしても考えなければならない、こういうことになってくるかと思います。で、その場合に最も現在大きな問題になって参りますのは、言うまでもなく山林原野の利用権がそれに適合した形で存在していないと、こういうことでございます。この点は一昨年でございましたか、農林漁業基本問題調査会で、ことに林業部会のほうでこれが取り上げられましたときも、非常に大きな問題になったわけでございます。そこでその基本問題調査会の考え方は、すでに答申案に盛ってございますので皆様御承知だと思いますが、まあ簡単に申しますならば、まず第一に、この国有林や公有林ないしは部落有林というようなものにつきましては、できるだけこの地元の利用のために、ことにこの畜産のための利用のためにこれを開放する措置を講ずべきであると、こういうことを一つうたっております。それから第二番目には、私有地につきましては、少なくとも土地を管理するような民主的な組織というものを各地方に作って、その民主的な組織が山林原野の私有地の部分を管理することによって、それを将来農業の発展のために合理的に利用し得るような方法を講ずべきであると、こういうことをうたっております。さらに、この里山近いところの林業地でございまして、現在の林業としてこれを利用している者がなかなかそれを開放したがらないと、こういうような場合には、たとえば国有林とこれを交換するというような方法を講ずることによって山林原野の開放を進めるべきだと、こういうことを言っているわけです。そういう意味で、まあいずれにせよ、今日非常に大きな問題になっておりますのは、そういう農用地を拡大するための山林原野の土地所有権なり、あるいは土地利用権なりの調整という問題でございます。その問題の解決なしにはなかなかこの自立経営を育成していくというようなことが困難だろうというふうに考えます。ところが、この問題につきましては、御承知のとおり、現在の農業政策の中には一かけらも出てこないと言ったほうがいいのでございます。その点でまず構造政策は本質的な部分を欠いているというふうに私は申し上げたいのでございます。  それから二番目は、もちろんこれは単なる農業政策の問題ではございませんで、国全体の経済政策の問題になると思いますけれども、やはり自立経営を一方で育成いたしますためには、零細な兼業農家というものをできるだけ早く整理をしていくという方法を考えなければならないと思うわけでございます。ところで、これを整理していくと申しましても、もちろん現実に農業経営を営んでいる人たちに対して、強制的にこれを立ちのかせるというようなことはもちろん不可能でございますし、また望ましくもない政策でございます。しかし同時に翻って考えてみますならば、今日の零細な兼業農家という存在は、実は決して安定的な存在ではないわけでございます。何と申しましても、かたわら農業経営を営み、かたわらたとえば工場へ働きに行く、こういうような二重生活をしていくということは、いろいろな意味で生活の負担を非常に大きくしていることでございます。それから同時に、またそれは農業の発展にとりましても非常に大きな障害になっている問題でございます。したがって、ここのところをやはりできるだけ整理ができるような経済政策を講ずべきであると思うのでございます。その方法といたしましては、言うまでもなく雇用政策に重点をかけなければいけないわけでございまして、農業以外の労働市場を拡大していく。単に量的に拡大するだけではございませんで、むしろそれに安定的な条件を作り出していくということが必要かと思います。その安定的な条件を作り出しますものは、言うまでもなく、一つは賃金水準をできるだけ高く維持して、農業を兼業しなくても一家の生活が安定的に維持できるような条件を作り出すということであり、あるいは失業や病気や年をとった場合に不安がないようにするような社会保障制度を完備するということであり、とにかくそういう安定的な雇用条件というものを与えるような、そういう施策が伴いませんと、農業の構造政策というものは進まないわけでございます。そういう点から考えましても、これは農林経費以外のことでございますから詳しくは立ち入りませんが、なお政策の不十分さというものはおおうべくもないわけでございます。いずれにせよ、私は以上申し上げました二つの点こそ構造政策の本質的な問題があると、こういうふうに考えているわけでございまして、それに対しまして、今の政府が考えております構造改善施策というようなものは、そういう本質的な部分には触れないで、ただ農村にある程度の金をばらまいて、そうしてたとえば機械化を進めようとか、共同施設を作ろうとか、そういうことをやろうという考え方でございますが、これはいわば土台を作らないで空中楼閣を作ろうというような考え方になる危険性が私はきわめて大きいのではないか、こういうふうに思うのでございます。そこで、この基本的な点についてもっと意欲的な政策が盛られなかったということを私は非常に不満に思うわけでございます。  それから今度はその構造改善施策自身の中に入ってみますと、これにつきましても私はきわめて多くの疑問を持っております。これも時間がございませんから簡単に要点だけを申し上げますならば、まず第一には、構造改善施策というものがいわゆる村作りという考え方と結びつけられているというところに大きな疑問を感ずるのでございます。この村作りという考え方は、御承知のとおり、昭和二十九年でございましたか、河野さんがこの前農林大臣をやられておりました時期に、新農村建設という形でもって打ち出された政策でございまして、ある意味では今度の構造改善施策はそれを発展させたというような形のものとして理解することができるかと思います。しかし、この前の新農村建設というのも、方法においては成功した政策とは言い得ないのでございまして、少し悪口を言う人は、新農村建設とは有線放送を作ることだというような批評をしているくらいでございまして、それ以外の効果がそれほど上がったとは言い得ないというふうに一般には言われているかと思います。その新農村建設政策を今ここでとやかく言う必要はないわけでございますが、私は今度のこの構造改善ということを考えますと、先ほどから申し上げておりますように、基本法の精神をほんとうに尊重いたしますならば、その中心的な課題は自立経営を作るということであって、村を作るということとは直接結びつかないわけでございます。言いかえますと、従来の村というものは自立経営を中心として成り立っているわけではございませんで、そこには兼業農家もあり、零細な農家もあり、専業農家もあり、非農家もある、そういう毛のがごちゃごちゃに入りまじったものが村であって、その村を主体といたしまして、何らか構造改善政策をやる、こういう考え方にどうも基本法の構造政策という考え方とギャップがあるように私には考えられるのであります。この点は、しかもこの構造改善施策の中で、いわゆるパイロット地区というものに関して申しますならば、そのおそれは比較的少ないだろうというふうに考えられます。実はパイロット地区というのは、大体二百町歩くらいを考えておりますから、かなり狭い範囲において自立経営を育成するというところに焦点を合わせると思うのであります。それに一般地区というのが抱き合わせになっておりまして、しかも一般地区というのは村を、市町村を単位といたしまして、それにある程度広く金をまいていこう、こういう考え方になっておりますので、ますます焦点がぼけておるように思えるのでございます。そういう意味で、構造改善施策というものを村作りという形で押えようという基本構想そのものが、はたして正しいのかどうかということを私はかなり強く疑問とするわけでございまして、この点にも問題を感ずるわけでございます。  第二番目の疑問といたしましては、この構造改善施策というものを見ますと、これがまた著しく総花的、羅列的になっておりまして、あらゆる事業がそこにあげられる、こういう形になっているのであります。しかし、今日の農業の技術発展ということを考えてみますならば、私は、おのずからそこには施策の順序というものがあるはずであるというふうに思います。これはもちろんそれぞれの村の自主的な条件とか、あるいはどういう作物を中心とするかということによって違うことでございますから、一がいには申せませんが、しかし一般的に申しますならば、何と申しましても、土地の整理というものがなければ農業の機械化もできませんし、農業の共同化もできませんし、集団化もできない。こういうことは自明のことでございます。したがって、もし構造改善施策というものを本式にやろうといたしますならば、少なくとも大部分の地区につきましては、私は一年間なり、二年間なりは土地改良事業に超重点的に予算を向けるべきで、機械を入れるというようなことは第二段階として考えるべきものだというふうに思うのであります。およそ土地を整理しないで機械を入れてみましても機械は能率を発揮することができませんし、かえって機械の利用のされ方がきわめてゆがめられてしまうということは、たとえば姫路周辺に今中型トラクターが入っておりますが、あの地帯の実例を見ますならば、きわめて明瞭にそのことを物語っているというふうに言わざるを得ないのであります。そういう意味で、どうしても順序なり段落なりというものは必要であると思われますのに、その順序なり段落なりが少しも明確にならないで、羅列的に、土地も改良する、機械も入れる、共同施設も作る、あれもこれもやると、こういう形で予算をつけていくという、こういう考え方自身に私は非常に大きな疑問を持っておるわけでございます。こういう総花的なまき方でいたしますと、結局また有線放送を作るというようなところに重点が移ってしまう、こういうふうになる危険性がきわめて大きいということを警告したいわけでございます。  それから最後に、もう一つ構造改善施策に非常に強く結びつけられておりますのは、農業近代化資金でございますので、これにつきましてもう一つ疑問を提起したいのであります。これの基本的な考え方が私は誤っているのではないかということは、すでに昨年の衆議院予算公聴会におきまして申し上げましたので、ここで繰り返して申し上げることを避けたいと思いますが、ただ要点だけを申し上げますならば、私はこういう農業政策を遂行するための金融に、農協の金にげたをはかせて使うというようなやり方はよろしくないというふうに思うのでございます。それは農協のほうから申しましても、そういうことをやれば、農協がいわば政府政策の下請機関化されてしまって、農協の自主性を侵害するということになりましょうし、逆に政策当局のほうから申しますならば、農協にいわばげたを預けるということによって政策の最終責任を政策当局がとるということがなくなってしまう、こういうことになるわけでございまして、いずれにせよげたばき金融という形は私は最も望ましくない形であるというふうに考えております。しかし、まあ干ての点には立ち入らないとしまして、近代化資金につきまして一番大きな問題は、世間ではこれを利子率の問題として考えているようでございます。そういう意味で、この七分五厘なら七分五厘の利子にするとか、あるいはやれそれを一分下げろとか、もう少しよけいに政府の利子補給をふやして五分にしろとか、いろんなことを言っているわけでございます。しかし、こういう議論には私は多少疑問を持っております。もちろん農民が利用できる資金というものは利子が安いということもきわめて重要なことでございますが、おそらくそれと並びまして、今日農村で一番強く農民が不満に思っておりますことは、近代化資金の償還期限がきわめて短いということでございます。御承知のとおり、たとえば果樹園なら果樹園を設けるというために金を借りるといたしますと、そのために何百万円かの金が要るといたしまして、その果樹園が実際に実を結んで農家に所得の増大をもたらしますのには、少なくとも十年はかかるわけであります。その十年の間は一文もある意味では金が入ってこない。農民は投資を続けていかなければならない。こういう立場に置かれます。そういう場合に、しかも借りた金のほうは、たとえば三年据え置きで五年間で返す、あるいは五年据え置きで十年間で返す、こういう形で与えますと、これは利子が高い、安いの問題以前に、農民はまだ収入がふえない以前に金を返さなければならないという形でございまして、こういう形で利用ができないのが当たりまえな話だというふうに思うのです。したがって、問題はむしろ利子率を下げるか下げないかということにこだわる以前に、もっと長期の資金、ことに据置期間の長い資金というものを考える必要がある。それを考えませんと、私は近代化資金というものはおそらく十分利用できなくなりまして、ワクだけのものを貸し出すということすら不可能になるのではないか、こういう感じを持っておるということを申し上げたいわけでございます。  以上三つの点を申し上げましたが、それが政府の農業構造改善施策というものに対しまして私の持っております基本的な疑問の要点でございます。  それから最後に、第三番目にもう一つ申し上げておきたいことは、これは今日非常な大きな問題になっておりますいわゆる地主補償の問題でございます。これはまだ法律措置のほうはついていないようでございますが、予算にはすでに国民金融公庫二十億円の予算が計上されているわけでございます。この地主補償につきましては、もちろんいろいろな問題があるわけでございまして、農地改革の際の買収価格が適正であったか適正でなかったかと、こういうことももちろんさかのぼれば議論をしなければならない点でございます。しかし、今は直接それに関係がございませんから、その点までは立ち入りませんけれども、先ほど最初に申し上げました基本法の精神をほんとうに貫いていくためには、今私的所有のもとに置かれております山林原野につきましても、いわば新しい土地改革の構想というものをどうしても持たなければならないということを申し上げた点と結びつけて、私はこの問題を考えてみたいというふうに思うのでございます。で、この新しい山林原野を中心といたしました土地改革というものは、もちろん前に行なわれました農地改革のような形で遂行するということは、今日のいろいろな情勢から申しまして不可能に近いことかと思います。しかし、そうかと申しまして、土地私有制というものを今のままで放任しておきまして農業構造の改善ができるかと申しますと、私はほとんど不可能であろうと言わざるを得ないわけであります。そこに何らかの土地の公共的な利用、こういう考え方に立ちまして、新しく利用権なり所有権なりの調整ということを考えざるを得ない段階に今日の日本の農業は来ているというふうに思うわけであります。そういうことを前提として考えました場合に、旧来の農地改革の際の地主に対しまして、すでにそれから十数年も経ておるにもかかわらず、なお補償をするというような考え方でそういう土地所有権をある意味では強化する、あるいは少なくとも土地所有という観念を特に強めるような政策をとるということは、将来の農業政策の問題としては、私はきわめて大きな疑問を持たざるを得ないわけでございます。で、したがってその過去の問題としてそれが補償に値するかしないかという議論をしばらくおくといたしましても、将来の農業政策の構想の中にこの問題を入れて見ましても、やはり大きな疑問がそこに出てくる、こういうことを申し上げたいわけでございます。  で、時間が限られておりますので、十分意を尽くしませんが、私の感じております要点だけを申し上げまして、御参考に供する次第でございます。(拍手)
  54. 羽生三七

    ○羽生三七君 この大内先生がお話しになった最後の点が今後非常に重要になると私も感じるのでありますが、それと申すのは、政府施策が農業構造改善で、今度の予算を通じて見ても積極的でないという面はもちろんでありますが、それと同時に、私は非常に政府の農業基本法を最初に打ち出した意図と比較して現実は停滞をしているということに一つ問題があると思うのです。そこで、その点に関連して若干意見を述べてお尋ねしたいことは、最初政府が二町五反歩平均の農家百万戸を十年後に作るということをいわれたわけでありますが、これはなかなか私困難だと思うので、農業人口は減ってもそれが直ちに農家戸数の減少につながらないということ、それからもう一つは、先ほど先生もお話があったように、兼業農家がふえております。確かに、次男、三男には雇用の機会が非常に多くなって、むしろ農業に残る人なんか全然なくなって、長男の跡取りむすこさえ他産業に兼業として就業しておるという事実、それから年寄りや女による農業に変わりつつある。中高卒のいわゆる農業一年生の就業人口は、昔の四十万人ぐらいに比べて昨年はたしか七万六千人ぐらい、そういう中で、それでは農地をさっそく手放すかというと、都会地近郊は別でありますが、僻地における小さい町や市の周辺にある工場等へ兼業で就職して勤めましても、その俸給は微々たるもので、したがってその俸給だけでは生活できないので、依然として農地は手放さない。それから跡取りはもちろん、農業やる者はたとえパーセンテージは少なくとも農業を営んでおりますが、やがてこれらの人が老齢化していけば、そのあとにはたして今のような条件で新しく農業を継ぐ者ができるかどうか。今の三十前後から四十くらいの人も老齢化していく場合においては、その点が非常に顕著に現われてくるのではないかと思う。そうすると、私はある一定の時期においては、日本農業は発展的前進ではなくて、むしろ停滞の様相すら起こるんじゃないか、そういうことも考えられます。これは私現実に農村におって、自分の周辺を見ておって、兼業収入は確かにふえた、しかし、農地は手放さない。特に農業基本法の精神が自立経営の農家のいわゆる経営規模の、専業農家の経営規模の拡大にあったにもかかわらず、実際には共同化をしたり——作業あるいは消毒とかそういう行程における共同化はある程度できますけれども、いわゆる経営の面に、耕地面積の面に立ち至っての発展あるいは前進、そういうようなものが見られるような条件は今あまりない。ですから、私は日本農業はいろいろな構造的変化ということをいっておりますけれども、ある一定の時期には、むしろ生産力の面では停滞をするのではないかという疑いすら持てるのであります。したがってそれを打開するには、確かに今お話のような土地改良、その次の段階に備えての前提条件である土地改良を促進すること、あるいは今その他いろいろお話がありましたが、それらの諸問題を積極的に推進していく、特にまあ農地利用の、公共利用の点についてお話がありましたが、そういう問題に政府が積極的な熱意を持って、ある一定の期間長期にわたって継続的にそれを達成して、農業が近代化、合理化、さらに一そうの今の自立経営の面においての新しい農業改善というようなものが作られるような素地を作らない限り、私は日本の農業はある一定の期間むしろ停滞をするのではないかという憂いすら持つのでありますが、この辺の見通しはいかがでございましょう。
  55. 大内力

    公述人(大内力君) 今、羽生先生の御質問のございました点は、私も残念ながらある程度同感せざるを得ないものを感じておるわけでございます。今日におきましてすでに農村からは、ことに若い層を中心といたしまして、非常に急激な人口の流出というものが起こっておりまして、このことが農村の手不足というものをさしあたりきわめて深刻にしております。そこで、また農業の雇用労賃というようなものも、御承知のとおり、少なくとも先進地帯におきましては、すでに昨年におきまして千円の水準をこえております。それにもかかわらず、なお人が十分に得られない、こういうような状態に陥っているわけでございまして、このことがすでに今、羽生先生の指摘されましたような事実が現実にもう起こってきております。そういう事例を幾つも申し上げることはできますけれども、たとえば皆さんが統計をごらんになりますと、最近の牛乳生産でございます。牛乳生産で見ますと、まず第一に乳牛頭数の増大というものがきわめて停滞的になってきておりますし、ことに長野県とか北海道とかいうような酪農の中心地帯におきましては、かえって減少する傾向すら示しております。これは非常に——ついでに申し上げますと、これは非常に大きな問題でございまして、今農政審議会でやっております農産物需給の長期見通しから、申しましても、牛乳に関しましては少なくとも十年間になお三倍ないし四倍ぐらいの増産をいたしませんと、とうてい追いつかない、こういうことになっております。ところが、御承知のとおり、乳牛というものの増加率はきわめて低いものでございまして、一年に一ぺんしか、一頭しか子供を生みませんし、その子供は半分でございますから、雌だけをとって参りましても、きわめて増加率は低いわけでございまして、平均いたしますと、大体乳牛頭数を倍にするのに七年ぐらいかかるというのが普通の常識かと思います。そこで単なる計算から申しましても、十年間に三倍ないし四倍に乳牛頭数をふやすなんということは実際は不可能に近いことでございます。そういう意味で、乳牛に関しましては、需給のアンバランスというものがきわめて深刻だといわなければならないのでございますが、そういう問題を持っている酪農業におきまして、今申し上げましたように、乳牛頭数がむしろ減る傾向が出ている。これはもちろん飼料が高過ぎて乳価と引き合わないという問題もございますけれども、同時に手不足が乳牛の世話を十分になし得ないような条件を作り出しているということも原因でございます。それからもう一つ、さらに問題は、一頭当たりの搾乳量の石数というものを見ますと、これも昨年の夏ごろからだんだんだんだん減ってくると、こういう傾向が強くなっております。この原因はいろいろ考えられますが、専門家のかなり共通の意見として考えられますことは、やはり手不足のために特に搾乳回数が非常に減ってきている。たとえば従来三回搾乳しておりましたものを二回搾乳にせざるを得なくなりました。こういうようなことから搾乳量がだんだん減っていく傾向を示しているのだ、こういうふうに説明されているわけでございます。そういう意味で、すでに今お話のような手不足という問題が、たとえば酪農業の停滞ないし縮小というものを起こしつつあるわけでございまして、こういう問題は、今申しました将来の需給関係が、今のままでさえ非常に大きなアンバランスが予想されるところにそういう問題が入ってくるということになりますと、これはたいへんな問題になるだろうと思います。ことに牛乳のようなものは、そう輸入するといったって牛乳そのものを輸入するということはできませんから、これは将来の日本の農業の問題としてきわめて大きな問題だろうということが考えられます。それと同様の問題は、たとえば青森あたりのリンゴ園なんかにも起こっております。御承知のように、リンゴの袋かけのときに非常に大きな労働力を必要とするわけでございますが、この袋かけの労力というものは今日はほとんど得られなくなっております。得られるといたしましても、きわめて賃金が高くなって引き合わない、こういうことになっております。そこで農家の多くはスピード・スプレアーを入れまして、機械的に防虫作業をする。こういうことによりまして袋かけをなるべく避けようとする、こういうことを試みております。ところが、このスピード・スプレアーを入れますためには、ある程度リンゴ園そのものが集団化しておらないと入らないわけでございまして、こちらに五反とか、あちらに一反というように、ばらばらにあるところにはスピード・スプレアーを使いようがないわけでございます。そのために、たとえば青森のリンゴ地帯なんかでも、リンゴ園の経営が維持できなくなりまして、これを手放そうとする傾向すら見えております。そこで、青森でも地方によっていろいろ差はございますが、たとえば弘前とか黒石とかのリンゴの中心地帯は、数年前までは、たとえば成木付のリンゴ園と申しますと、一反歩が少なくとも三十万円か四十万円くらいしていたのでありますが、最近では少し悪い山間部のようなところのリンゴ園は十万円でも買い手がないというような状態になっております。こういうこともやはり日本の農業の発展が、今のお話のような労力不足というような問題に非常に妨げられておるということの一つの証拠かと思います。そういうわけで、現在の状態で、私はもちろん農業の人口が減ることがすぐに悪いとは言わないわけでございまして、むしろ農業の人口がなるべく減りまして、過剰人口の圧力が減ってくるということは農業の長い目で見れば発展のためには望ましいわけです。ただその場合に、人口の減少が悪影響を及ぼさない、むしろ農業生産の発展と結びつくためには、どうしても一方におきましては経営構造の改善ということが必要なわけでございます。つまり、労力不足を補うだけの機械的な装置というものが農業に入らない限りは、農業生産は衰退してしまう以外にはないわけでございます。その機械生産を入れますためには、先ほど申し上げましたように、何よりも農業の自立経営の規模を拡大するということ、それから兼業的な零細農家をできるだけ早く整理していくような手を打つ、こういうことでございまして、しかも今牛乳の例で申し上げましたように、この事態はきわめて切迫しているというように私は考えております。そんな十年、二十年先にやればいいというような問題ではございませんで、今のままで参りますならば、農業生産は停滞する傾向がきわめて強いわけでございます。需給のアンバランスというものに対してとうてい適応できなくなる。その時期がおそらく四、五年先にはきわめて大きなギャップがそこに出てくる、こういう予想を持っておるわけでございまして、そういう意味でこの政策もそれに十分応じ得るように、きわめて強力であり、かつ迅速であるということを要求されているというふうに感じております。
  56. 田中啓一

    ○田中啓一君 実は大内先生が農業にお触れになった最初からお聞きするとよかったと思うのですが、どうも予算委員はたいていみなかけ持ちなものでございますから、ようやくかけつけて参りまして、最初の部分をお伺いしませんでしたので、理解の不足があるかと思いますが、しかし、お伺いいたしました分は、まことに私は先生の肯綮に当たる御議論、同感の至りであります。実はきのうもそういう趣旨で質問をしまして、それを通り越していささか演説をしてみんなに笑われたような次第でございますが、そのうちで、今農業近代化資金お話がございまして、この農協の預金というものを農民に還流させるというような趣旨で、利子補給をしてやるということは、いわゆるげたばき金融で、これはどうもとらざるところだ、かりにやるとしても利子のみならず、年限が短いのではないか、こういうお話でございました。年限のことはむろん問題になっておりまして、おっしゃるように私は実情に合うように直すことは当然のことだと思うのでありますが、このげたばきということの本質ですね。農協預金というのは年々千億以上増加をしていきます。それからまた農家の貯蓄余剰を調べてみると、三千億を越すであろうと思われるような状態なんです。これが利子の高いところへかせぎにいく、こういう現状なんでございますが、しかも農業には多大の資金を必要としておる。そこで農林金融公庫の金をもっと低利に、もっと長期にして潤沢に融通すれば——むろん一応農林金融公庫という機関もあるのでございますからいいようなものでございますけれども、しかし、これはなかなか資金源がない。やむを得ず実は農協の金を農林金融公庫に預け入れさせて、そうしてほかの資金をつきまぜて利子を安くして、農林金融公庫の窓口から貸す、こういうことが一部やりました例もあるのでございます。そういうやり方もできないことはないと思います。それよりも、むしろ末端にとにかく単位協同組合というものがあって、整備されておるこの金融網というものを使って、そうして適切な機械化、有畜化、その他万般の必要資金をここから供給していく。こういうことを、これはあちこち賛成ばかりではない、反対論もあったのを、とにかくここまでやってきたわけでございます。そこへもってきて、どうもこのやり方は本質的にいかぬと、こういうお話でございますので、なぜそれではいけないのか、今お話伺っておりますと、政府がげたを預けて責任のがれのようなことになる、こういうお話もありましたように伺いました。実はなかなか政府は、あるいは行政機関は責任のがれしませんので、自作農創設資金にしろ、この金にしろ、みんな農林省、県庁に係があって、そうして貸付先まで指図している、具体的に。金融機関はりっぱなものがありながら、ただおっしゃるとおりに貸しておるというような実は現状なんです。むしろ私は干渉が過ぎるのではないか。そんなわけで、本質的にいかぬということがよく私理解できないのと、他にそれじゃかわるべき潤沢なる資金供給の道が立つであろうか、こういうこと、この二点をひとつ恐縮でございますがお教えを願いたいと思います。
  57. 大内力

    公述人(大内力君) まず、その第一の点でございますが、これは先ほど申し上げましたように、昨年も衆議院のほうで申し上げましたので繰り返しになると思いましてごく端折りましたために、あるいはおわかりいただけなかったかと思いますので、多少私の考えておりますことを補充させていただきたいと思います。  私の申し上げましたことは、一つは、つまりこういう農協の資金政府が利子補給ないし損失補てんをする、こういう約束をいたしまして、しかも今お話のように、それに行政機関がきわめてこまかいワクをきめまして貸し出しの目的なり、貸し出し先なり、貸し出し条件なり、あらゆることをきめまして貸し出しを命ずる、こういう形になることはそもそも農協というものの精神に反するのではないかということが一つでございます。言うまでもなく農協法の今日の精神は、農協は農民の自主的な組織であるということにあるわけでございまして、これは農協法の成主の過程から申しましても、従来の農業会なるものがあまりにも官僚統制の末端機構、こういう性格のものであったことがそれの解散を命ぜられる原因になり、したがって農協のできたときには、まさに農民の民主的な自主的な組織でなければならない、こういう精神の上に成り立ったものであると思うのであります。したがって、その農協の金、あるいは農協の貸し出しという事業に行政機関があまりに事こまかに指図をして、すべていわば行政機関の末端機構と同じようなやり方を農協にさせると、こういうことは農協法の精神をそもそも逸脱したことではないか、こういう疑問を持っておることが一方ではあります。他方では、そういうことをやりながら、実際には従来もこれはしばしば多くの村で問題になっておることでございますが、農協のほうから申しますと、そういう政府に命令をされて貸したんだから、したがって貸した金については必ずしも農協は責任がないのだと、こういう考え方になりがちでございます。したがって、その貸し出した資金の、そのあとの管理なりあるいはそれの回収なりについて必ずしも十分に意を尽くさない、こういう欠陥が一方では非常に出て参りまして、そのためにこの資金が十分貸し出されて毛ほんとうに生きて使われないということもございますし、またほかに流用されてしまうというような危険性も非常に大きくなってきます。また、しばしばこげつきまして損出が出てくると、こういうようなことも起こっております。ところが、他方では、いよいよ損失が出てきたという場合でございますが、その場合になりますと、これもたびたび問題になっていることでございますが、なかなか政府なり地方庁なりは、今度は損失が出たことについてはおいそれとは補償してくれないわけであります。で、それはむしろ農協のほうの責任なんだ、農協の管理が悪いからそういうことになったんで、したがって、これは政府が補償すべきものではないと、こういうようなことを申しまして、なかなかそれが一年も二年ももめるというようなことになって、これはもう、かりに農林省のほうはある程度認めてやろうといたしましても、大蔵省のほうはなかなか財布のひもをゆるめない、こういうような問題もございまして、もう数年来、昭和三十年からそういう地方が特にふえてきたわけでありますが、特に天災法に基づきます貸し出しなんかの場合には、そういう厄介な問題もきわめてしばしば起こしているわけでございます。で、そういう意味で、私はいずれにせよ農協の系統の仕事と、それから政府の行政的な仕事が、末端のところにおいてからみ合ってしまうという形になることは、いろいろな意味で望ましくないのであって、やはりそこは組織としてもはっきり分けて、あくまで農協は農協として、それから政府の仕事は政府の仕事として、末端まで責任が明確になるようなそういう体制をとるべきであろうと、こういうことを申し上げたかったわけでございます。  それから、第二の点でございますが、それでは一体どうしたらいいかという、こういう御質問かと思いますが、この点につきましては非常にむずかしい問題があることは、もちろん私もよく承知しておりますが、まず第一に、その場合に考えなければなりませんことは、言うまでもなく、農協の体質改善という問題ではないかと思うのでございます。今田中先生から御指摘のございましたように、農協は約、全体として申しますと、一兆円に近い預金を持っております。ところが、この預金がほとんどと言っては言い過ぎかもしれませんが、ごく一部分しか農業には還元しておりませんで、大部分は農業外に流出してしまうと、こういう形になっているのでございます。ところが、その場合には、まあもちろんその農協の採算から申しまして、なるべく金利の高いところに貸したいと、こういうことがあって外に流出するという問題ももちろんございましょうが、それと同時に、この農協の今の貸出利率、これはまあ大体安いもので九分、高いもので一割二分くらいになっておりますけれども、この九分ないし一割二分というような高い金では、農家としてはなかなか借りられない。ことに一時の生活資金なんというものなら借りられるといたしましても、農業改良のための生産的な投資にそんな高い金を借りるわけにはいかぬと、こういうことで、いわばそういう意味から資金需要がないわけでございまして、したがって、農協は貸したいと思いましても、むしろ貸し出し先がなくて、そこで単位農協組合はそれを信連なりあるいはほかの銀行なりの預金に持ち込まざるを得ない、こういう形になることによって、農業外に資金がほとんど流出しておるというふうに考えられるわけでございます。  ところで、この点で私が一番疑問に思っておりますのは、今日の単位協同組合の資金コストというものを計算してみますと、つまり単協が貯金といたしまして集める資金の平均的なコストがどのくらいになっているかということを計算してみますと、大体これは地方によっても違いますし計算の仕方によっても少し動きますから、そう正確な数字は出て参りませんがほぼ大見当で申しますと、私は四分五厘から五分五厘の間、平均すれば五分であろうと考えております。この五分という資金コストは、普通銀行に比べますと確かにちょっと高いのでございます。これは御承知のとおり、農協の貯金というのには定期性のものが多うございますので、したがって定期貯金の利子率が高いだけ高くなる、こういう問題がございますし、それから農協は銀行、郵便局との競争上、多少利子を高くしておりますので、そのために資金コストが高くなっておりますが、それでも平均いたしますと五分と考えてそう間違いはない。その五分で集めた金を農協がもう一度貸すときに、なぜ一割二分なんというべらぼうな利子を取って貸し出さなければ農協の採算がとれないのか、こういうことが私は非常に大きな問題だろうと思うのでございます。  この点は、なぜそういうことが起こるかという点は、私はいろいろ理由はあると思いますが、二つやはり問題があるように思うのでございまして、その一つの問題は、今日の単位協同組合が、御承知のとおりきわめて規模が零細でございまして、これも県によって違いますが、極端な場合には、青森県なんかそうでございますが、きわめて零細な農協がたくさんございまして、その農協がそういう意味で経済規模が合理的な単位に達していない。そのために非常に大きなコストがかかって、いわばむだなものが非常に多いということでございます。そういう意味で、やはりこれからの農協の体質改善の問題といたしましては、単位農協の合併というものを進めることによりまして合理的な経済単位というものを作り出していく、合理的な事業量の持てるようなそういう組合を作っていくということが、一つの問題ではないかと思うのでございます。  それから、もう一つの問題は、これはおそらく今の農協の勘定というのが、こういうことになっているのだろうと思うのでございます。つまり、今の農協は大体において総合農協でございますから、信用事業のほかに購買事業、販売事業、利用事業等いろいろやっております。ところが、この信用事業以外の経済事業というもの、ことに購買事業が一番大きい問題だと思うのでありますが、ここでは農協はむしろ必ずしも利益をあげていない。場合によっては赤字を出している場合もしばしばあるわけでございます。そうして農協の勘定というのは一種のどんぶり勘定になっておりまして、そこでそういう経済事業で赤字が出る分を信用事業でかせぎまして、そこで穴埋めをしていく、こういう経理になる傾向が非常にございます。また、そういうひどいどんぶり勘定にしていない農協でも、少なくとも購買事業なり販売事業のための資金を信用事業のほうから借りてくるというときには、利子を払わぬで、ただで借りてくる、こういうような計算でやっているのが普通だろうと思うのであります。そういうどんぶり勘定的なやり方をしておりますために、農協の経営費の負担というものが信用事業にしわ寄せをされて参りまして、そのためにきわめて高い金利というものを見込みませんと農協としては採算がとれなくなる、こういう形になっているのではないかと思われるのでございます。  そういう意味で、やはりこの協同組合自身の体質改善ということが先に立ちませんと、協同組合の資金を農業のために十分に活用することができないかと思います。もちろん、それにつけ加えて、もっとある意味でもう一つ重要なことは、今日の農協というものはいわゆる貸し出し体制というものが全く不整備でございます。これは近代化資金に関連いたしましてもわれわれは非常に心配をしているわけでございますが、今日の普通の単位協同組合は、御承知のとおり、大体一件当たりないし一戸当たり二十万円とか三十万円とかいうワクを、貸付のワクをきめまして、その範囲でしか従来は貸し出しをやらない、こういうやり方をしてきたわけであります。こういうやり方をしてきたのにはそれなりの理由があるわけでございまして、今日の農協の職員なり何なりの能力識見というような点から申しますと、とても貸し出した金を十分には管理ができないわけでございます。そこで、あまり大口に貸してしまうと非常に危険だ、こういうことから、農協は大体一口当たりとか一件当たり二十万円とか三十万円とかいうきわめて小さいワクを当ててきておるわけでございます。ところが、近代化資金の考え方からいたしましても、そんなものでは問題にならないわけでありまして、少なくとも一件当たり数百万円という金を貸さなければならない。そういうことは一体今日の農協でやれるのかどうかということ自体を私は非常に疑問にしておりますが、それはそれといたしましても、いずれにせよ、農業に金を貸すということは、銀行が金を貸すのとは多少違っておりまして、ただ農家に金を貸した、貸しっぱなしにしておけばそれで話が済むということにはならないわけであります。やはり貸した金はどういうふうに使われるか、それによって農業経営がどういうように合理化されていくか、どこからその資金を返すめどがついてくるかということを、絶えず農協は農家を指導しながらやっていかなければ、ほんとうに生きて金が動かないわけでございます。そういう指導体制が農協に全然ないといってもいいような状態でありますために、実際には、金を貸したくても貸せないような形にならざるを得ない。こういう問題があると思うのでございまして、そういうことも含めまして、要するに農協の体質改善ということを急ぐ必要があるわけでございまして、それができれば、私は、農協自身が少なくとも中期までの資金、十年から十五年ぐらいまでの資金につきましては、自力で貸せるだろう。その場合に、五分で資金を集めてくれば、たとえば七分五厘という今の近代化資金の利子率で十分貸せるはずだというふうに考えておりまして、必ずしもげたを必要としないだろうというふうに思うのであります。  しかし、それはある意味でお前の言うことは理想論だと、こういう御批判もあるかと思います。それは、さしあたり、そういっても、農協はなかなか右から左に体質改善もできないだろうし、これはやむを得ないということでございますならば、私はむしろ、同じ利子補給をするならば、近代化資金のように一件々々ごとにげたをはかせるというやり方は避けるべきであって、むしろ農協全体を強化するというような意味における資金源を農協に持たせるべきだというふうに考えております。これは戦争前におきましては、御承知のとおり、当時の産業組合中央金庫というものが三千万円の資本金を持っていたわけでありますが、その中の千五百万円は政府出資でございます。この政府出資は、創立後十五年間配当を免除するという形で、いわばただの金を産業組合中央金庫は千五百万円持っていたわけです。この千五百万円をファンドにいたしまして、産業組合の金融というものは、それの運用によりまして全体としての利子率を下げ得ると、こういう条件をもって動いていたわけです。ところが、今日、農協系統というものはそういう資金を全然持たないわけでございまして、そこに一つの非常に大きな問題があるように思うのでございます。もしどうしても農協が体質改善だけでは問題を解決できないということであり、そのためには政府が援助しなければ農民の貯金が農業には戻らないと、こういうようなことでありますならば、私は、むしろ思い切って、政府が農協に対して総括的に、今言ったような利用できるファンドを与えるべきである。それによって農協を強化していくという形で考えませんと、かえって農協を骨抜きにしてしまって、農協が健全に成長していくということを妨げる結果になりはしないかと、こういう点をおそれるわけであります。
  58. 戸叶武

    戸叶武君 農業基本法ができるときの動機は、西ドイツでも日本でも、所得の均衡というものを目ざして、生産基盤を培養し、それから農家所得の増大ということをうたっているのですが、それは農業が立ちおくれているからなのでありまして、それはやはり農林予算なり、あるいは金融的な措置を講じなければ、近代化も所得の均衡もできないのは事実で、ドイツでは、一九五五年に農業基本法ができた。翌年には一八〇%の農林予算がふえて、その翌年には二五〇%の農林予算がふえておりますが、河野さんが取った取ったと言うが、日本の農林予算はそれほどでもない。しかも、重点的にどこに均衡の方向を持っていくかというときに、私は大内さんの話を聞いておりましたのですが、やはり主要農産物の価格支持の問題は、列国の農業政策の基盤は主要農産物の価格支持ですが、ほかの失敗したところだけを見てきて、わが国の識者も非常にこの点においてはおびえているようですが、日本流でも、今米の七〇%が価格支持政策が行なわれているというけれども、農民が満足しているのは米ぐらいなものです。麦はほとんどだめでしょう。米以外に、たとえば専売事業になっているところのたばことか、独占資本が買い上げているビール麦とか、こういう契約栽培については一つの安定が若干あります。そのほかに問題になっているのは、豚肉が下がってしまった、あるいは牛乳の問題、鶏卵、鶏肉の問題、これらの農家所得の中において相当のパーセンテージを占める主要農作物ぐらいの日本流の私は価格支持政策というものができると思うのです。落ちたときに落ちたのを食いとめるのだという。今豚肉の一キロ二百四十五円じゃどうにもならないでしょう。だけれども、そういうところの具体施策がどうも欠けているのですが、やはり生産者から末端の消費者に移るまでの間の流通機構の抜本的改革の問題と、もう一つは農家所得の主要部分を占める主要農作物の価格支持の問題、これはやはりよその国でやったのが失敗したからというのじゃなくて、日本では日本としてやらなくちゃならないところへ来ていると思うのですが、先生はそれをどういうふうにお考えですか。
  59. 大内力

    公述人(大内力君) 今の御質問に関連いたしまして、私は最初に多少のことを申し上げたわけでございます。今の政府の価格政策というものが非常にへんぱになっているということに、大きな問題があるように思うのです。御指摘のように、畜産物なりあるいは果樹なり蔬菜なりというようなものは、ほとんど価格支持政策が従来なかったわけで、ごく最近になりまして畜産物価格安定法が通りましたが、これも御承知のとおりきわめて薄弱なものでありまして、とうてい価格の安定に十分に役立つとは考えられないものでございます。そういう意味で、政府が七〇%価格を支持しているというような言い方をしておりますが、実際は七〇%と申しましても、全体の農産物のうちの五〇%ちょっとは米なんでございます。米と麦と合わせれば、ほとんど七〇%になってしまうのでございます。実際は、ほかの農産物については価格支持政策がないと同然だと申し上げたほうがいいと思います。そういうふうに、価格支持政策が非常にへんぱでありまして、今日の価格支持政策というものは、もっぱら過剰農産物対策になり、しかもそれをむしろ解決しがたいようなところへ追い込んでいくという形になって、成長農産物に対する価格政策がきわめて弱いというところに、農業政策としての非常に大きな欠陥があるように思うのです。そういう意味で、この辺で価格政策そのものを抜本的に検討し直すべきだろうというふうに私は考えております。  しかし、それと関連いたしまして、もう一つ、今の御質問の点では、所得維持政策というものと価格政策の関連をどういうふうに考えるかと、こういう御趣旨ではなかったかと思うのでございます。この点につきましては、私はこういうふうに考えているのでございまして、つまり今日もちろん所得政策というものがきわめて重要な意味を持っているということは、そのとおりでございますが、本来この所得を均衡させるという政策は、少なくとも長期的な政策として考えますと、これは私は価格政策ではやれない。ことに価格をつり上げるという方向でやることは不可能だというふうに考えます。なぜ不可能かと申しますと、言うまでもなく、価格をつり上げますならば、生産がそれだけ増大する、経済法則に従えば当然生産がふえてくるということになりまして、そうなりますと、つまりそれが需給の均衡する範囲でふえてくる場合にはちっともかまいませんけれども、需給均衡をオーバーするところまで生産がふえてくるということになりますと、これはいかに政府ががんばってみましても、二年や三年は価格を維持できますけれども、長期にわたってはとうていがんばることができないわけです。したがって、価格政策にはそこに非常に一つ大きな限界があるということをまず申し上げます。  それから、もう一つ、価格政策で所得を維持すると申しますけれども、これは日本の場合でもそうでございますし、アメリカの場合でもそうでございますが、価格政策で維持するということができますのは、せいぜい農業の総所得の問題になってしまうわけです。つまり、農産物価格をある一定の水準にきめれば、それによって生ずる農業の総所得がどうであるかということは、一応政策的に調節ができるといっていいと思います。しかし、その総所得が、個々の農家にどういうふうに配分されるかということにつきましては、価格政策は全く無力だと言わざるを得ない。今日の日本の米の状態について申しましても、おそらく今の食管の約七百億の赤字というものを計算いたしますと、二千円幾らかなものが米について補償されているという形になっているかと思います。その二千円がどの農家にどういうふうに配分されているかということを見当をつけてみますと、おそらくその大半の部分は、きわめて上層の少数の農家に配分されているのでございます。一般の農家にはごくわずかなものしか行かない、それから全然行かない農家もむろんある、こういう形になりまして、その配分がきわめて不公平になっています。これはアメリカの農産物価格支持政策につきましても常に問題にされていることでございまして、ことに日本よりも経営間の階層差の大きなアメリカの農業の場合には、政府の価格支持政策のための金というものの八割ぐらいのものが上層一割ぐらいの農家に行ってしまうのだというようなことが指摘されまして、常に問題にされている点でございます。そういう意味で、つまり価格政策によってだけでは所得政策というものはとうてい達成できないのでございます。  そういう意味で、私は、価格政策というものは、まず一つは長期的に見ればこういうふうに考えるべきではないか。つまり、それはその水準を引き上げて、それによって農家の所得を増大させるというようなことをねらうよりは、むしろ価格を安定させるということによって農業経営が安定的に伸びていけるような条件を作る、こういう点に一つ重点を置いて考えるべきものだというふうに考えます。しかし、それは長期的な問題でございまして、今度は短期的な問題として申しますと、最初にも申し上げましたように、価格を急激に動かすということは農業経営にとってはとうてい耐えられないような打撃を与えるわけでございますから、したがって、価格政策というものはきわめてゆっくりやらざるを得ない。ことに農産物価格政策というものは農業経営がそれに十分対応できるだけの時間をかけてやっていく必要があるわけであります。そこで、いわばそういう農業経営の体制が整備される間を価格政策でつないでいくというような形でもって価格政策というものを考えるべきであろうと、こういうふうに思うのでございます。  そういうこの価格政策の限界というものを十分考えながら価格政策をやる必要があるわけでございまして、感想を言わしていただけば、今日たとえば米価の問題というものを論ずるときに、しばしばその米価をつり上げることによって所得を維持するのだと、こういうような議論が方々で聞かれるのでありますけれども、私はこの議論はきわめておかしい議論だと思うのであります。今申し上げましたように、米価をつり上げましても、それで所得が維持できるかどうかわかりませんし、維持できたとしても、それはせいぜい総所得を維持しているだけのことでございまして、いかなる農家の所得をいかなる水準に維持するかということは、価格政策では問題になり得ないわけです。その辺にどうも今日のたとえば米価政策に関する議論にも、きわめておかしな点が入っているように私は感じておりますけれども、そういう意味で、この価格政策の位置づけということがきわめて重要ではないかということで、お答えになっておるかどうかわかりませんけれども、申し上げます。
  60. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 田畑君、どうですか。
  61. 田畑金光

    ○田畑金光君 今、私の質問したいと思ったのもその所得政策と価格政策関係であったわけですが、今の御説明でよくわかりました。ただ、さらに、どういうことになりますか、結局今のような政府の価格政策をとっておりますと、ますます過剰傾向にある米麦の生産に重点が移って、国民の食生活の消費構造の改革からくる、たとえば畜産とか果樹、園芸、蔬菜、こういう面の生産を上げるということは今の価格政策のもとでは、政府のとっておる弾力性のない価格政策のもとではできないと、こう私たちは見ておるわけです。したがいまして、ここで考えられますことは、当然米麦の価格制度とともに、先ほど先生もお話しになりましたこの食管制度そのものについても、当然議論というものが発展してくるのじゃなかろうか、こう見ておるわけです。ことしの予算が農業予算において五百八十七億ふえたというけれども、そのうちの三百二十億は実は食管の穴埋めだ。そういう実態であるとき、当然ここに食管制度の問題についての再検討ということが要請されてこようと思うわけです。この点について先生はどのようにお考えであるのか。  それから、もう一つ、昨年来河野食管構想というものが発表されまして、これが非常に重要な政治問題に発展したわけであります。河野農相の考え方がどういうものであるかということは、われわれもつまびらかにいたしておりません。ただ、あの人が構想を発表した当時と、あるいは国会における質疑応答を通じだんだん明らかにされていったその時間の経過を見ておりますと、当時の考え方とあとの考え方には相当その発言が違っておる。あるいはニュアンスがあるように感じたわけです。ただ言えることは、おそらく河野さんの構想の中には、この食管制度の赤字から現在の米麦需給制度そのものに対する再検討というものが一つはあったんじゃなかろうか、こういう感じがするわけです。そういう点から見まして、河野食管構想についてはいろいろ政治問題に発展いたしましたが、先生のこの食管制度についての考え方はどうであるか、これをお聞かせ願いたいと考えております。  それから、第二の点としては、羽生委員の質問に先生がお答えになりまして、大体これもわかりましたが、ただ、最近の傾向といたしましては、仰せのとおり農村の労働力というものが非常に激減して、最近の傾向は、農村労働力は婦女子と老人に移ったということがいわれておるわけです。一昨年、池田総理が、所得倍増計画に関連して、十年後の農村人口というものはこれは三分の一にするんだ、こういうことで相当の物議をかもしたことは御承知のとおりです。ところが、一昨年前後はたしか農村人口は四割前後を占めていたと考えますが、今日の農村の人口はすでに三割を割っておる。農村において一番問題になっていた次男、三男の問題はほとんど農村にはなくなって、農村の跡取りむすこまでが非農業の面に出ていっておる、こういう深刻な問題に来ておるわけです。ただ、それでもなおかつ、人口は減っても農家世帯は減らない。ここに大きな問題があろうと考えておるわけです。  そこで、私は、先ほど先生のお話の自立経営農家というものをこれから造成していくことが政策の中心でなければならぬ。こういう点から見ました場合、世帯は減らぬが農村人口は著しく激減しておる、こういうことを考えたとき、そこに適正規模の農家というものを作っていくためには、いろいろ法律制度の改正も必要であろうと考えております。同時にまた、先ほどお話しのように、国有林の問題についても、あるいは私有の山林、林野についても、もっと根本的な民主的な改革が必要になってこようと考えているわけです。そういう点から見ますならば、私は、国家権力と申しますか、国家の作用というものがもっと農業政策に強く介入することによって、農村の適正規模あるいは自立経営農家の造成、こういうものが当然考えられなければならぬ段階に到達しておる、こういうように考えておりまするが、その点、ひとつもう一度御説明願いたいと思います。
  62. 大内力

    公述人(大内力君) 第一のほうの食管制度をどうしたらいいかと、こういう御質問でございますが、これはたいへん大きなむずかしい問題でございまして、ここで短い時間に軽々にいろいろ申し上げるということは、かえっていろいろな意味で誤解を招くこともございましょうし、必ずしもいいことではないように思うのでございます。しかし、まあ御質問がございましたので、ごくその基本的な考え方だけそういう意味で申し上げまして、こまかい技術的な点どうしたらいいかというようなことにつきましては省かせていただきたいと思います。  根本的な考え方から申しますならば、もちろん、私は今の食管制度というものは何年かかけてこれを合理的なものに変えていく必要があるというふうに考えております。ただ、その場合に、先ほどからたびたび申しておりますように、この農産物価格政策というようなものが、農業のほうの生産の態勢というものが整わないときにいきなり価格だけが先走りをして動くというようなことをいたしますと、農民にとっては非常に大きな打撃になりまして望ましくない結果を生みますから、私は、そういう意味でむしろ食管制度の改正をしていくならばもう少しやや長い見通しを立てまして、しかもそれについては、一年目にはこうする、二年目にはこうする、三年目にはこうするというようなかなり長期的な計画を持った上で手をつけるべきじゃないかと思うのであります。今御指摘になりました河野構想なるものにつきましても、私は一番根本的に疑問を持ちましたのは、そういう長期的な見通しがちっともわからないわけでございまして、当面自由販売されているものだけを公認する、こういうような言い方を河野さんはされていて、しかし、それから先どうするかということは一音も言われない。こういう妙な改革案であっては、われわれとしては賛成することも反対することもある意味ではできないわけでありまして、むしろそれが全体としての長い構想の中でどういうふうになってくるのか、こういうことについてのやはり根本的な計画というものが必要ではないか、こういうことを感じております。  そして、その点について申しますならば、これは少なくとも、この米価について申しますならば、急に生産者米価を押し下げていくというような政策はとうていとれませんし、またとるべきではない、こういうふうに思っております。しかし、そうかと申しまして、今までの食管制度の建前から申しますと、ほかの物価が上がれば、あるいはパリティ指数が上がれば、米価も自然に上がるとか、あるいは投入生産費がふえればまた当然米価が上がるのだ、こういろ形で、事実といたしましては年々米価が上がってくる。しかも、大体においてほかの物価を上回って生産者米価が上がる、こういう傾向があることは、米の長期的な需給の見通しから申しますと、私はきわめて危険な傾向を持っているというふうに考えます。そういう意味で、きわめてこれは妥協的なことでございますけれども、私は、昨年でございましたか、たしか衆議院公聴会の席上だったと思いますが、米価については当分据え置きということを考えたらどうか、三年なり五年なり生産者米価は動かさない、こういう建前をまず立てておいて、その中でできるだけ米作なり米作農業のほうに政府の投資を集中していくことによって生産性を高める、こういう形で農業の所得を高めていく、こういう方式をまず考えてみたらどうか、こういうことを申したわけで、これは据え置きということ自体にそれほど根拠があるわけではございませんで、むしろ考え方と申しますか、気持の上から申しまして、ただ米価を引き上げていくということは非常に危険だ。さればといって、今米が余るからいきなり米価を下げろというわけにはなかなかいかない。したがって、据え置きという考え方が出てくるのじゃないか、こういうような意味で申し上げたわけでありますが、ひとつそういうことを考えるべきではないかと思うのであります。  それから、麦につきましては、これはなお米よりもある意味ではもっと大きな問題を持っております。これにつきましても、昨年の衆議院公聴会で私は申し上げたことでございますが、麦というのは非常にむずかしい問題を持っておりますけれども、私は、むしろ麦の将来というものは、ちょっと逆のことを申し上げるようでございますが、むしろ大裸麦に中心が移るのではないかというふうに考えております。これはつまり、人間の食糧として考えるわけではございませんで、言うまでもなく、これから畜産が急激にふえていく。これのえさは今でさえ非常に足りないわけでありまして、年々えさの輸入が非常な勢いでふえておる。いつまでもその輸入のえさをふやしながら畜産を伸ばしていくということでは、やはりいろいろな意味で望ましくないわけでありまして、そういう意味で飼料の生産というものに非常に関心を払わなければならない。そうなりますと、どうも小麦よりは大裸麦のほうにむしろ中心を置いて考えるべきである。ただこれを人間の食料として扱おうといたしますから、むしろ問題が出てくるわけでございますが、思い切ってこれを家畜のえさだと考えて参りますれば、おのずから処理のしようもあるだろうというふうに考えております。そういう意味で、今の政府の麦対策なるものは、私は逆だというふうに思うのでございまして、小麦につきましては、私はどうも普通の人ほど楽観をしていないわけでございまして、日本の小麦がはたして生産の合理化なり品質改良なりによって輸入小麦に十分太刀打ちできるようなものになるかということにつきましては、どうも自信のある見通しを持ち得ないのでございます。したがって、小麦についてはむやみに生産を、大裸麦を転換さしてむしろ小麦の生産をふやしたらいい、こういう結論はどうも私としては出せないのでございまして、積極的に今すぐ日本の小麦を減らせとまでは申せないのでございますが、あまり小麦をふやさないで、もう少しいろいろな技術的な条件、はたして日本の小麦が世界的にも太刀打ちできる小麦になるかどうか、こういうことについてのはっきりした見きわめがつくまでは現状維持的な見通しをしたほうが安全だと、こういうふうな見方をしておるわけでございます。こういう意味で、むしろ麦の問題は、食管制度の中で考えないで、これを飼料対策の問題として考えるべきじゃないか。それから、小麦につきましては、今申し上げましたようなわけで、むしろ現状維持的な考え方で価格水準を考えなければならぬ、こういうふうに考えております。  最後に、食管に関連いたしまして当然消費者の問題というものが出てくるわけでございます。これにつきましては、私は、消費者に対するいわゆる配給制度なるものを今のような形で維持しておく必要があるということについては、むしろ否定的でございまして、これはある程度の準備を経ますならば、今卒然としてやめるわけには参りませんでしょうが、おそらく半年なり一年なり、やや時間をかけまして、準備態勢を整えますならば、もう消費者に対する配給制度なるものは撤廃してもいい時期ではないかというふうに考えております。  食管制度に関連いたしましては、一応それだけのことを申し上げたいわけでございますが、第二番目の点につきまして、ちょっと申しわけございませんが、質問の要点をもう一度お教え願えませんでしょうか。
  63. 田畑金光

    ○田畑金光君 簡単に申しますと、こういうことなんです。要するに、農村の人口は激減をしているわけです。働き手はいなくなり、老人と婦女子に労働力の重点が農村では移っておるわけです。しかし、所帯の数は減らぬ。そこで考えられることは、兼業農家が多くなったということ、あるいは零細農家がそのまま農村に残っておるということ。そこで、先生のお話のように、自立経営農家を作るということが今後の農村対策の重点であるとするならば、もっと、この際農村の労働力人口が激減したが、こういうような条件の中に自立経営という構想というものはどうして打ち立てらるべきか。これを言うならば、たとえば農地法の改正によって適正規模の経営農家を作るというような問題等もあるわけです。で、先生としては、こういう問題について、どうすれば、先ほど先生のお話の自立経営農家という建前に即して農村を漸進的に発展させ得るのか……。
  64. 大内力

    公述人(大内力君) わかりました。その点は先ほど申し上げた中でも二、三の点に触れたかと思いますが、したがって多少側面を変えまして、こういう問題を申し上げたらばお答えになるのではないかというふうに思うのでございます。  一つは、こういう事例でございまして、つまり今日一般の農村におきましては、先ほどお話のございましたように、跡取りに至りますまで流出をしておりまして、農家全体がくずれていくような傾向というものが非常に強く見られる、こういう傾向がございます。しかし、日本の今の農業地帯の中では、多少の例外的な地帯というものが見られるわけでございます。その一つの例といたしまして、たとえば静岡県のミカン作地帯というような毛のをごらんになりますと、ああいうところでは少なくとも跡取り層はほとんど全部が農業高校に行っておりまして、しかも農業高校を卒業した者はほとんど全部が帰って参りまして、農業経営をやっております。こういうことになりますのは、静岡県のミカン作というものは特に最近非常に所得水準が上がってきておりまして、大体平均的な一町前後の農家で、ほぼ百万円近い粗収益になっておるかと思いますけれども、とにかくそういうかなり高い所得水準があり、しかも将来の経営に対する希望というものが非常にあるわけでございまして、経営の合理化なり経営の発展なりによって、さらに伸び得るという希望を青年たちが持っているわけでございます。こういう地帯におきましては、決して青年が流出していく、もちろん次三男は出ていくわけでございますが、少なくとも跡取りが出ていくというような傾向は見られないといっていいのでございます。そういう意味で、私は農業というものがある程度一般的に所得水準が高まり、少なくとも、現在の物価水準なり何なりから申しまして、少なくとも百万円前後の粗収益があるような経営ができる、しかもその経営が将来性を持ち得るというような、そういうことになりますならば、おそらく農業の中に残る人口というものは十分出てくるものだろう、必要なだけの者は残るという形になるのではないかと思うのであります。  それから、もう一つ、今度は逆のことでございますが、先ほどからのお話のように、確かに農業人口はきわめて急激に減っております。年間にいたしますと大体四十万ないし五十万くらいずつ減っているかと思います。もちろん、これだけ減りましても、池田さんの言われるように十年間に四割まではとても減らないわけでございまして、千四百万のものが約一千万ぐらいに減るという程度のことではないかと思いますけれども、まあとにかく減っていることは確かであります。ただ、いわゆる兼業農家の比較的多い地帯、たとえば工場の周辺とか都市の周辺で見ますと、かえってそういうところは農家戸数が減っていないのでございます。むしろ農家戸数が増加する傾向さえ見せているのであります。これは、なぜそういうことが起こるかと申しますと、一つは、今まで専業農家としてやっておりました連中が、長男なり二三男なりが工場に働きに出ていく。で、親が残って農業経営をやっておるわけでありますが、親の力だけではとうていやり切れない。こういうことになって参りますと、結局従来の専業農家が、より規模の小さい、二つなり三つなりの分家に分裂をいたしまして、そうしてそのすべてが兼業農家化する、こういう形でもって農家戸数がふえていっております。それからもう一つは、たとえば愛知県の挙母の周辺などに広く見られるわけでございますが、トヨタの自動車工場なんかでは、今まで農家でなかった職工連中がかえって農村地帯に住みつきまして、できれば小さな農地を買い入れまして、そうして細君に農業経営をやらせると、こういう形で新たなる職工農家というものが加わってきておるわけでございます。こういう形で、なるほど農業人口は減っているようでございますが、実際には農家戸数は減らないのみならず、場合によってはふえると、こういう傾向が見えているということに非常に大きな問題があるように思うのでございます。  そういう意味で、私は、あとのほうから申し上げますならば、これはやはり日本の、さっきも申し上げましたように、雇用市場の条件あるいは労働条件というものの安定性がきわめて悪いということが、なかなかこの農業から離れられないような傾向を作っている。そこで、まあある人は、今若い世代がどんどん農村から流出していると、したがって、今農業経営をやっている連中が年をとったときには農家戸数が大幅に減るだろう、こういう予想を立てている人がございます。学者の中にもそういう説もございます。しかし、私はそれについては多少の疑問を持っているわけでございまして、むしろそういう今農業経営をやっている世代が年をとって農業経営がやれなくなれば、工場に出ているむすこが戻ってきてやはり兼業農家になるという形で家を維持していくという傾向のほうがむしろ強く出るのではないか。その辺にまあ日本の農業がなかなか自立経営を作り得ない、成長させ得ないような非常な難関にぶつかっている問題があると思うのでございます。これは先ほど申しましたように、しかし、農業政策といたしましては、もちろん主としてそれは農用地の問題として解決されなければならない問題でございますが、しかしそれ以上に重要なことは、やはり今申し上げましたような雇用政策及び社会保障政策というものをどこまで推し進めていくことができるかと、こういうことにどうも問題がかかってくるように思われるわけでございます。
  65. 湯澤三千男

    委員長湯澤三千男君) 大内公述人公述は終了いたしました。  大内さんどうもありがとうございました。  明日の公聴会は午前十時に開会いたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後五時四分散会