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1962-03-27 第40回国会 衆議院 法務委員会再審制度調査小委員会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    本小委員会昭和三十七年三月一日(木曜日)委 員会において、設置することに決した。 三月一日  本小委員委員会において次の通り選任された。       池田 清志君    稻葉  修君       林   博君    赤松  勇君       坪野 米男君 同日  林博君が委員会において小委員長に選任された。 ————————————————————— 昭和三十七年三月二十七日(火曜日)    午後一時十三分開議  出席小委員    小委員長 林   博君       赤松  勇君    井伊 誠一君       猪俣 浩三君    坪野 米男君  小委員外出席者         参  考  人         (一橋大学教         授)      植松  正君         参  考  人         (日本弁護士連         合会人権擁護委         員会委員長) 後藤 信夫君         参  考  人         (東京大学教養         学部助教授)  松尾 浩也君         専  門  員 小木 貞一君     ————————————— 三月二十七日  小委員赤松勇君同日小委員辞任につき、その補  欠として猪俣浩三君が委員長指名で小委員に  選任された。 同日  小委員猪俣浩三君同日小委員辞任につき、その  補欠として井伊誠一君が委員長指名で小委員  に選任された。 同日  小委員井伊誠一君同日小委員辞任につき、その  補欠として赤松勇君が委員長指名で小委員に  選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  再審制度に関する件      ————◇—————
  2. 林博

    ○林小委員長 これより再審制度調査小委員会を開会いたします。  再審制度に関する件について調査を進めます。  本日は、本件について参考人より意見を聴取いたします。  御出席参考人方々を御紹介いたします。弁護士後藤信夫君及び東京大学教養学部助教授松尾浩也君の二名でございます。なお一橋大学教授植松正君は後刻出席下さることと思います。  参考人方々には御多忙中のところ御出席いただきまして、まことにありがとうございます。本件につきまして忌憚のない御意見を承ることができれば幸いと存じます。  議事の順序は、まず参考人各位より御意見を賜わり、御意見開陳が終わった後、参考人に対する質疑を行なうことといたします。なお、時間の都合もありますので、参考人各位の御意見開陳はお一人二十分程度にお願いいたしたいと存じます。  まず後藤参考人にお願いいたします。後藤参考人
  3. 後藤信夫

    後藤参考人 まず、再審特殊性ということにつきまして、日常実務の面に携わっております弁護人側としての意見を申し述べたいと思います。  再審請求事件では、証拠書類が偽造であったとか、あるいは被告人人違いであったというような明らかな事由以外、証人証言虚偽であったというような原因によるところの事実の誤認、それを理由とするような再審請求の場合は、検察官裁判官も事実上あまり好まれないというような傾向が非常に強いのでございます。  その理由は、検察官有罪心証を得て起訴した事件だとか、あるいはまた裁判官が自由なる心証をもって事実認定して、それを基礎としての有罪判決を下した。その判決が確定した事件が、後日批判の対象になったり、あるいはまたその判決の是正がその後において要求されるというようなことは、これは当然の気持から見てこれを好まないというのがわれわれの常識だと考えております。これらは、検察官裁判官も、一たびその確定した判決は軽々しくこれを動かすべきではない、そういう一つ法的安定性を保持しようというような気持があまりに強いからではないかと考えております。また、再審の結果無実が判明するということは、必ずしも検察官裁判官の責任に帰するというわけではございませんけれども、場合によると、そのために検察官の失態とか、あるいは裁判官の不明、その黒星をみずから明らかにしなければならぬということにもなる関係上、検察官裁判官の威信が傷つけられる、それによって国民信頼を失うというようなことをおそれられるからであろうと、われわれ実務の面に携わっておるものから考えておるのであります。いずれにしても、再審制度があって、その手続が期待されているにもかかわらず、弁護人によるところの刑事訴訟法四百三十五条第六号あるいは四百三十七条を理由とする再審請求は、ほとんど従来いれられなかったというような事実から見まして、その証明は十分であろうと考えております。  普通、刑事事件の事実の審理は、第一、第二審を通じて慎重に行なわれますし、また事件によりましては、最高裁判所におきましてもその事実誤認がただされ、ほとんど間違いないものとされております。しかしながら、裁判というものは、これは神様がさばくものじゃございませんし、また科学的にこれを分析したり、機械的にこれを測定して判決するものでもございませんので、被告人供述あるいは事件関係者証言、それらがいろいろな事情によって往々にして真実に合致しないという場合が非常にあるのでございます。検察官人間でございますし、裁判官も感情の持ち主であるということは否定できません。従って、その不明あるいは誤解あるいは偏見によりまして、裁判そのもの誤りがないということは、断じて言い得ないのであります。従って千に一つ、また万に一つの誤った判決を生ずることは、これは当然でございます。だからこそ、そこに救済規定としての再審制度が設けられておるわけでございます。  申すまでもなく、一度確定した判決をまたやり直すという手続は、これは軽軽しく許すべきではございません。いわゆる法的安定性の保持ということはもとより大切ではございますけれども、その反面におきまして、一たび確定した判決といえども、もし冤罪のおそれがあるならば、高い人道的観点から、また基本的人権尊重という趣旨から、できる限り救済の道を開きまして、誤り誤りとしていさぎよくこれを是正し、無実の者をして冤罪に泣くことなからしむるということは絶対に必要でございます。われわれ在野法曹といたしましては、そうすることがほんとう裁判の権威を国民に示すゆえんであり、また国民をして裁判に対する信頼を保持せしめるゆえんであるとわれわれはかたく信じておるのでございます。  今、統計について説明いたしますと、最高裁統計がここにございます。これは昭和三十四年、三十五年、三十六年、最近三カ年の統計表でございますが、簡易裁判所地方裁判所高等裁判所最高裁判所を通じまして、再審請求事件を受理した件数は、三十四年が九十一件、それの中から再審開始をしたのが十四件、結果無罪になったのが十一件、三十五年は再審請求を受理したものは八十二件、再審開始決定したのが七件、無罪が四件、三十六年は六十八件の事件を受理して八件だけ無罪がございます。この表だけを見ますと、非常に率がいい、約一割程度無罪を認めていることになるのでございます。これには検察官人違いであったか、あるいは弁護人側からの請求事件によるものかは、その区別ははっきりしませんが、案外に率がいいのでございます。しかし、連合会調査によりまして、これを他の面から統計をとってみますと、これは総括的に申しますと、昭和二十四年から昭和三十五年まで十二カ年における有罪決定あるいは裁判を受けた人員は千四百九十五万三千二百七十二名でございます。その中から再審申し立て請求した者は千二百一名ございます。しこうして無罪決定あるいは判決を受けた者は五十四名となっております。これをもってみますと、約千五百万人の中から千二百名が再審請求をしたものでございます。率にしますと、約一万二千五百名に一名という割合の再審請求になっております。その中から無罪が五十四名ございますが、この率によりますと、非常にその率が辛い。しかも十四名は、おそらくこれは検察官側からの人違いであったというような明白な事実があり、その事実に基づく判決だと思うのでございますが、これから考えましても、ただいま申し上げましたように、一万二千五百人に一人くらいの無罪を主張する者があるわけでございますが、これは現在の検察官側相当有力な証拠をつかまなければ起訴しないのが現状でございますし、また裁判官から見ましても、疑わしきは罰せずという刑事訴訟法の大原則によりまして、大ていの場合は有罪にはしないわけでございます。しかしながら、先ほども申し上げましたように、事件関係者の誤った供述基本となって、そこに心証有力性を認められて、間違って無実の者が有罪判決を受けるということは相当あると思いますから、われわれ弁護人側から見ますと、一万二千五百人の中の一人の再審請求者、それを総括しまして十二年間における千二百一名の再審請求者は結局相当理由がある。全然虚偽再審請求をしたのではない。相当もっといい率が与えられていいんじゃないか、そう考えるのでありますが、そうでないということは、結局再審制度の道が非常に狭められているということに基因するものであると思っております。  当委員会が、吉田石松の五十年間無罪を叫び続けてきたその再審請求が、今回異議がいれられて棄却されたということを理由として、それを一つのきっかけとして、法改正について特段の御考慮を払っていただいたことに対しては、われわれ在野法曹、いわゆる日本弁護士連合会としては非常なる感謝の念を持っておる次第でございます。  そこでわれわれ日本弁護士連合会は、司法制度調査会の議を経まして、再審制度のどういう点を改正願いたいかということをここにとりまとめたわけでございます。 一、刑訴法第四三七条の但し書はこれを削除すること。 二、若しこれを削除しないで現行法どおりとした場合は、本条による再審請求証拠に関する被疑事件は、準起訴手続によって処理すること。 三、刑訴法第四四七条第二項の「同一理由」とあるを「同一の事実及び又は証拠」と改める。 四、再審請求管轄は、請求人選択に従い、その裁判を言渡した裁判所又は直近上級裁判所とすること。 五、再審請求をうけた裁判所は、その決定をなすにつき、請求人希望により口頭弁論を開く特例を設けること。 六、刑訴法第四四八条の再審開始決定に対しては、不服の申立を許さざること。 七、再審請求棄却する決定に対する特別抗告理由として、憲法違反判例違反の外重大なる事実の誤認をも加えること。 八、刑訴法第四三九条第一項による再審請求権者として日本弁護士連合会長又は単位弁護士会長を加えること。この単位弁護士会長というのは各地方弁護士会長です。こういう点の改正要望しておる次第でございます。今簡単にその理由を説明します。  刑訴法四百三十七条のただし書きを削除するということは、再審請求につきましては、原審の有罪判決基礎となったところの証人偽証理由とする場合、その偽証であることの確定判決を得なければならぬという規定になっておりますし、またそれが得られないときには、その事実を証明して再審請求をしなければならぬということになっておりますが、このただし書きにおきましては、「証拠がないという理由によって確定判決を得ることができないときは、この限りでない。」こういう規定があります。  そこでこれをなぜ削除しなければならぬかと言いますと、この偽証の場合は、これを一応検察官から起訴してもらわなければならない。ところが、起訴した結果、偽証でないという判決があればこれはことにやむを得ませんが、そうでなくして、偽証の告訴をしても、検察官起訴しない、また起訴しないで不起訴理由として犯罪嫌疑がないという理由で不起訴になりますと、もうその一点で再審請求の道は完全に閉ざされてしまうわけでございます。その実例は、徳島のいわゆるラジオ屋殺し事件でその事実がきわめて顕著でございました。徳島事件では、西野阿部両名の偽証有罪判決の重要な基礎となった関係上、その両名がその後におきまして、偽証したのだ、悪かったという自白をしましてあやまった事実がございます。そこで西野徳島地方法務局安友人権擁護課長に対して偽証を自白し、それから徳島東警察署に対して偽証を自首し、それから今度は再審請求人から民事裁判を起こされて、偽証したための謝罪広告事件でございますが、その事件におきましても、自分が偽証であったということを認諾しております。また、そういう趣旨の文書も作成しておりますし、また阿部はやはり同様のケースをたどりまして、偽証を自白しあるいは偽証したことの手記を作成し、あるいは警察署にも自首した事実がございます。そこで、この両名の偽証理由として再審請求をしようといたしましたところが、検察官はこれを起訴しない。そこで今度は徳島検察審査会審査申し立てをいたしましたところ、同審査会検事の不起訴処分は不当である、本件起訴すべきが相当であるとの議決をいたしまして、また日本弁護士会連合会でも井野法務大臣清原検事総長に対しまして起訴するよう要望したのでございますが、結局においてはついに起訴しなかった。しかもその不起訴理由は、犯罪嫌疑がないことを理由にしたために、それを理由とするところの再審請求はついに棄却ということになりまして、完全に再審の道が閉ざされたわけでございます。しかも大審院の判例によりましても、犯罪嫌疑がないという理由によって不起訴処分がなされた場合には、これはもうそれを理由とするところの再審請求はできないのだという決定がありますので、ただいま申し上げました改正の要点の一と二に関連いたしますが、刑訴法四百三十七条のただし書きを削除して、もしこれを削除しないで現行法通りとした場合には、再審請求証拠に関する被疑事件だけは準起訴手続によって処理するように改正してもらいたい。御存じの通り、準起訴手続弁護士検事の代行をして裁判手続をする。  それから第三の刑訴法四百四十七条二項の「同一理由」とあるを「同一の事実及び又は証拠」と改めるということは、四百三十五条に再審請求理由が列挙されております。ところがその同一理由で二度請求できないという規定になっておりますので、たとえば吉田石松事件のごときは、一度共犯者という両名の者が偽証したということを理由再審請求をすると、もうその後どんな事情があろうとも、また相当証拠が見つかっても、もう再びその偽証理由とすることはできない。そこでそうでなく、「同一の事実及び証拠」と改めますと、その後有力な証拠が現われれば結局何度もそれを理由としての再審ができるんじゃないかという関係上、三の要望をするわけでございます。  それから四の、再審請求管轄請求人選択に従い、その裁判言い渡し裁判所または直近上級裁判所とすることの趣旨は、これは東京あたり裁判所では、裁判官の数も非常に多いので関係ございませんが、地方のわずか二名、三名の裁判官しかいない裁判所に対しまして再審請求をいたしますと、日ごろ一緒に親しく交わっているその裁判官が、同僚の誤判であるということを他の裁判官がこれを明らかにしなければならないというのは、人情的に非常にむずかしさがあるわけで、そういうときには、むしろ請求人選択に従いまして、むしろ直近上級裁判所でその再審請求を受理して裁判していただく方がいいんじゃないか、そういう趣旨で第四を要望するわけです。  それから、再審請求を受けた裁判所は、その決定をなすについては、請求人希望によって口頭弁論を開くという特例を設ける。こういうことは、再審請求は、単なる決定でございますために必ずしも口頭弁論を開く必要はないという建前になっております。そこで再審事件慎重性を考慮いたしまして、やはりこの再審事件だけは、請求人希望するならば口頭弁論を開くようにお願いしたい。  それから六の刑訴法四百四十八条の再審決定に対しては不服の申し立てをせざること。これは再審棄却するという決定に対しては、それを救済する異議とか抗告の道をやはり残しておくことは人権尊重建前から当然でありますが、再審を開始するという決定は、それ自体が決してまだ有罪無罪かはっきりしたわけではございません。もう一回裁判一つやり直してみようじゃないかというのが再審開始決定でございますから、それをあえて異議を言ったり抗告を許したりして封殺する必要はないじゃないか。これは人権尊重する趣旨から、この再審開始決定に対してはそういう不服の申し立てを許さないで、直ちに再審本裁判を開いて黒白を決するということが妥当であろう、こういう趣旨でございます。  それから七の再審請求棄却する決定に対する特別抗告理由といたしまして、憲法違反判例違反のほか重大なる事実の誤認をも加える。この再審棄却するという決定に対しては特別抗告のほか許されておりません。そこで高等裁判所再審請求棄却決定に対して特別抗告だけしかないということになりますと、憲法違反判例違反だけに限局されまして、高等裁判所の事実誤認は全然無視されるわけでありますが、今回の吉田事件につきましても、名古屋高裁がせっかく許されていた再審開始決定を、検事異議をいれて棄却した。その事実関係が重大な誤認がありといたしましても、最高裁としてはこれを再び審査する道が全然封鎖されておるわけでございますから、再審事件特殊性にかんがみまして、この再審請求については、いわゆる憲法違反判例違反のほか重大な事実の誤認を加えていただきたいということでございます。  それから刑訴法四百三十九条第一項による再審請求権者として日本弁護士連合会長または単位弁護士会長を加える。これは、再審請求者の中には、本人並びにその遺族なども請求権者として含まれておりますが、これは国家公益の立場から見まして、また人権擁護をその使命としておるところの公的な機関であるところの日本弁護士連合会長あるいは各地方弁護士会長にも、そういう権限を与えていただく方が適当じゃなかろうか、こういう趣旨から八の要望をする次第でございます。  そこで、なお、これにはございませんけれども、御参考までに一言申し上げますと、この再審事件は、とかく全国的の関係を持つものでございます。普通の事件でしたら、鹿児島裁判所決定があれば、鹿児島あたり弁護士異議申し立て特別抗告をする。これは場合によると三日あるいは五日でこと足りるわけでございますが、この再審事件についての弁護士側実例を申し上げますと、徳島事件で、徳島再審請求棄却する決定がありますと、三日の間に、また徳島にその異議なり抗告を出さなければならない。今回の名古屋事件におきましても、名古屋決定言い渡しがありますと、棄却の場合は三日以内、それから特別抗告の場合は五日以内にそれをしなければならない。ところが、とても内容を検討して、三日とか五日以内でその事実を検討して特別抗告事由あるいは異議事由等を検討するこは非常に至難でございます。そこで、何がゆえにこのような短期間を設けて、そういう人権尊重人権擁護の道を封鎖するか、この点、われわれ弁護人側としては非常に遺憾に思っております。一方において三日、五日の短期間異議あるいは抗告期間を制限しておきながら、裁判所は、それを受理すると、二年でも三年でも五年でも、いつまでもそれを緩慢な審理をされる。これは弁護側裁判側との対立関係上、非常に均衡がよろしくない、不当である、そういう見解をわれわれ持っておりますので、ここで一言申し添えておきます。  なお御質問があれば、あとで御説明をいたします。
  4. 林博

    ○林小委員長 次に松尾参考人にお願いいたします。
  5. 松尾浩也

    松尾参考人 ただいま後藤参考人からお話がございましたように、裁判人間の営む制度である以上、絶対的な無謬性、誤りがないということを期待できないことは申すまでもないわけであります。その場合、誤判には二つ原因があり得ます。一つ法律解釈誤りであり、もう一つは事実認定誤りであります。再審制度は、この事実認定誤りから被告人ないしは裁判自体救済しようという目的を持った制度であることは申すまでもありません。この種の事実認定誤りに対しましては、最近非常に関心が高まっております。これはわが国だけの現象ではございませんで、アメリカでも、それからドイツでも、この種の誤判の事例を収集して、その原因を追及しようとした書物が次々に出版されておりまして、非常な関心を呼んでいる実情でございます。そのうちの二、三のものは、わが国でもこの二、三年間翻訳が続けて出ておりますので、一般に読まれているところでもございます。  わが刑事訴訟法の認めております再審制度は、明治以来何度か変遷を経ております。ごく簡単に申しますと、明治時代刑事訴訟法、旧々刑事訴訟法は、フランスに範をとりましたために、再審原因を非常に限定しておりまして、きわめて特殊な場合、たとえば殺人で有罪言い渡しをしていたところ、その被害者が実は生きていたということがわかったというふうな場合に限定したわけであります。それに対しまして、大正年代にできました旧刑事訴訟法は、ドイツ制度に接近いたしまして、包括的な再審条項、新しい証拠発見されたという場合に、一般再審を認める制度に移行したわけでありますが、ただその際、同じくドイツに範をとりまして、被告人不利益再審をも認めるということにしたわけであります。現行の新しい刑事訴訟法は、御承知のようにアメリカの影響をかなり強く受けているわけでありますが、再審制度につきましては、旧刑訴の規定をほとんどそのまま維持しましたけれども、ただ、不利益再審という点だけは削除いたしまして、再審制度被告人利益なものに限るという建前をとっているわけであります。  再審制度の本質は、いろいろと議論の分かれるところでございますが、突き詰めて申しますと、再審という制度には、法的安定性尊重という一つ理想と、それから実体的な真実発見というもう一つ理想とが拮抗対立する。こういう二つの考え方の対立刑事訴訟の全体を通じて見られるところでありますが、それが再審制度において、いわばその極点に達しまして、法的安定性を守るか、それとも真実発見を第一義とするかという対立が非常にあらわな形で出てくるわけであります。しかも、その真実発見というのがフランスあるいはアメリカのように、あるいは現行のわが制度のように、利益再審に限定するという建前をとりますと、それは即、被告人人権尊重というものと置きかえられて参りますので、その争いは、確定力の維持か人権擁護かという形の対立になって現われて参ります。そこで、人権尊重せらるべきはむろん言を待たないところでありますから、再審制度はできるだけ広く認むべきであると言えるかと申しますと、必ずしもそう直線的な論理では解決できないわけでありまして、その際、理論的な困難といたしまして、一つは、訴訟において絶対的な真実というものはついに発見できないということがあげられます。訴訟認定されますのは、いわば訴訟的な真実、いわゆる証拠という形をとった真実でありまして、究極における、いわば客観的な真実というものは人間の力を越えた世界にしか存在しないわけであります。真犯人あとで出てきた、有罪判決を受けたのは実は身がわりであったというような例をとりましても、あとで出てきた真犯人そのものが実は身がわりではないかという疑いが残り得る。被害者が生きていたという先ほどの例にいたしましても、ほんとうは生きているとされているのが、前の裁判における被害者と認められた人間であるかということにつきまして、なお疑問が残り得るわけであります。  さらにもう一つのやや実際的な難点は、再審制度を広く認めますと、それは比較的に再審請求の増加という形で現われて参ります。これは上訴制度一般と共通する問題でありますが、裁判所事件を処理できる能力、事件の数、事件の規模等にはおのずから限度がありますために、各国とも上訴の抑制ということには相当の考慮を払っております。再審というのは、ある意味では上訴以上に抑制さるべきものである。さっき後藤参考人は、裁判官検察官等を通ずる感情的な、いわば反再審的要素の存在というものを指摘されましたが、同時に、そこには乱訴をおそれるという気持が強く働いているであろうことは推測にかたくないわけであります。  そこで、以上のような矛盾する二つの要請の間に立って、各国の立法例は、再審制度をむろん必ずしも否定はしない。しかし、これを厳格な制限のもとに認めるという態度をとっております。大陸諸国、先ほどフランスドイツを例にいたしましたが、これらの国では、日本と同じように有罪判決、あるいはドイツの場合は無罪も含めますが、判決確定後に原判決をくつがえす新しい証拠が出てきたということを再審の原由として掲げております。これに対しまして、イギリス、アメリカのような英米法系の国では、必ずしもその種の再審を広くは認めないのでありますが、ただアメリカを例にいたしますと、かなり短い時間的な限定を置きまして、判決言い渡し後一定期間内に新しい証拠が出てきたという場合にはニュー・トライアルを認めるということにしております。しかし、むろん時間経過後に新しい証拠が出てきて、もとの有罪判決を維持するのはとうてい正義に合致しないという場合もあり得るわけでありまして、その場合の救済といたしましては、再審以外の各種の制度、特に恩赦という制度が活用されております。そのほかになおヘイビアス・コーパスの手続というものがあることも御承知の通りかと存じます。わが国では、恩赦の制度誤判救済に使えるかということは、必ずしも正面から議論されてはおりませんが、普通の恩赦制度の著書、論文等におきましては、恩赦は誤判を予想したものではないというふうに説明されております。しかし、裁判所判例の中には、再審を拒否した判例の中に、こういう場合の救済はむしろ恩赦にたよるほかはないのだということを言ったものが、大審院時代に現われておりますし、今回の吉田石松事件名古屋高裁決定、これは前回の再審請求棄却決定昭和三十四年に言い渡されておるのですが、その中には、再審は認められないが、他のよるべき救済手段にたよってくれという趣旨の傍論的な判示をしております。推測いたしますに、おそらく恩赦の制度があるということを言外に言おうとしたものではないかと思われます。  そこで、以上申しましたことを要約いたしますと、再審制度につきましては、二つの矛盾した要請があるために、その解決はきわめて困難であるということに帰着するわけでありまして、いわばこの二つの要請の調和のとれたバランスの上に再審制度を作っていかなければならないということになるわけでございます。  それでは現行の法制に改正すべき点があるかという点で、私、必ずしも考えをまとめて参りませんでしたので、ただいまのところ、申し上げることができませんが、今、後藤参考人から非常に有益な御示唆がありましたので、それについて多少感想を述べて責めをふさぎたいと思います。八点について改正意見をお述べになりましたが、そのうちの一部分だけを取り上げてみることにいたします。  第一点、第二点は、一括して四百三十七条ただし書きに関する問題でございまして、これについては必ずしも反対というわけではありませんが、なお十分な検討をしてみたいと思います。  第三点の四百四十七条二項の「同一理由」の解釈あるいはこの点の改正についてでございますが、この点は、吉田石松事件で十分問題にされておりまして、再審開始決定を取り消した名古屋決定も、この点を必ずしも狭く解しようとはしなかたつようでありまして、同一理由というのは、解釈の仕方によっては、後藤参考人がおっしゃったように、同一の事実または証拠と解する余地はあるように思われます。しかし事柄の実質においては、同一の事実または証拠と、やや広く解した方が適当であると思われますので、この点を明らかにするという趣旨改正されることは失当ではないと思います。  第四点の管轄の問題、これは従来から議論のあるところでございまして、再審請求管轄をもとの裁判所にやらせてよいかどうかという点、この点も、わが旧々刑事訴訟法、それからその模範となりましたフランス刑事訴訟法では、再審請求管轄いたしますのは、日本の言葉で申しますと最高裁判所でございまして、原裁判所ではないわけです。日本が今のような建前になりましたのは、ドイツにならって旧刑事訴訟法に移行したときからでございますが、この点については、もとの裁判官後藤参考人は同じ裁判所裁判官とおっしゃいましたが、実務の取扱例では、全く同じ裁判所のしかも同じ裁判官再審請求審理するという例が、必ずしも少なくないわけであります。これは憲法三十七条のいわゆる公平な裁判所という理念に反する疑いも必ずしもないとは申せません。この点についてドイツあたりでは、同じ裁判官がやることの方が実際上も便利だし、また確定判決の効力を尊重するという意味でもすぐれているというふうな意見もございます。この点は、まさに再審制度の意義をどう理解するかにかかってくるわけでありますが、人権尊重というふうに少なくとも数歩を進めたわが法制のもとでは、むしろ原裁判所を離れたところで審理してやるということは、十分尊重に値する御意見ではないかと思われます。  次の第五点、再審の場合には口頭弁論を開けという御意見でありますが、この点は請求人希望によりという限定を付されましたけれども、実際上ほとんどすべての請求人口頭弁論を求めることになると思われますし、そうなりますと、現在決定でやるという建前をとっておりますことをほとんど全面的に否定することになるわけでありまして、これは裁判所の負担の関係その他から、なお考慮の余地があるというふうに考えられます。  次の第六点、再審を開始する決定に対して、検察官の側から不服を申し立てることは禁ぜらるべきだという御意見につきましては、私も同感でありまして、むしろ、現在の上訴制度検察官からも上訴が認められているということ自体、若干の問題点を含んでおります。御承知のように、イギリス、アメリカの法制では、検察官の上訴は原則的に禁ぜられるという建前でありまして、わが国は、憲法三十九条で二重の危険の禁止という観念を取り入れましたにもかかわらず、検察官上訴を維持しております。上訴制度につきましては、アメリカでも検察官上訴をやった方がいいのだという意見もあるわけでございまして、なおいろいろと考慮すべき問題がございますが、少なくとも再審につきましては、ある裁判所再審を行なうべきだという判断をしたのを、次の裁判所がくつがえすということは、決して当を得ていないように思われます。  次の第七点、逆に再審請求棄却する決定については、特別抗告事由を事実誤認にまで拡張せよという御意見でありますが、この点は現行刑事訴訟法建前と抵触する面がありまして、私としては反対であります。御提案のようになりますと、最高裁判所一般の上告では事実誤認を言わせない、しかし、再審の場合にはそれを許すということになりまして、明らかな不均衡を生ずるように思われます。  最後に第八点、再審請求権者弁護士連合会長などを加えた方がよいという御意見はごもっともではないかと思います。  大体時間になりましたようですから、これで終わります。
  6. 林博

    ○林小委員長 植松参考人がお見えになりましたので……。植松参考人には御多忙中のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。本件につきまして忌憚のない御意見を承ることができれば幸いだと思います。まず参考人から御意見を承り、御意見開陳が終わった後、参考人に対する質疑をいたすことといたしております。なお時間の都合もございますので、参考人の御意見は二十分程度にお願いいたしたいと思います。植松参考人
  7. 植松正

    植松参考人 おそく参りまして、最初の後藤参考人のお話を伺い得ませんでしたが、松尾参考人のおっしゃったことに対しては、大体においてごもっともな御意見であると存じます。従って、松尾参考人を通じて間接に承知いたしました後藤参考人の御意見も、その限度においてごもっともな点を多く含むものと考えます。  今回、再審制度に関しまして、私にここで何かお話を申し上げるようにというお指図を受けましたについては、当然これが例の吉田石松氏についての再審問題に端を発したものであるということは、もう直感的に了解したのであります。そこで吉田氏に関する資料を当委員会から送っていただきまして、一応いただいたものの大要は拝見したのであります。もちろん、この事件だけがここで問題なのではないことはよく承知しておりますが、これが機縁になったについて、この事件のことをも考えてみたわけであります。  この事件につきましては、かつてラジオ東京であったかの放送を通じて、私は、本件請求人吉田氏とともに取材に行った新聞記者の話を聞いたのでありますが、そのときの感じとしては、まことに真に迫るような当時の状況を聞きまして、非常に請求人に同情の念を持った次第でありました。その後、幾変遷を経まして、先般日本弁護士連会会が大へん努力されたことも、少なくとも再審開始によってどちらかに事態が明白になることを希望したのでありましたが、それは裁判所の取消決定によってかなえられなかったわけであります。もとよりこういう請求は、ともかく真犯人においても往々行なわれるところでありますので、吉田氏がそうでないとも言えないのでありますが、弁護人請求の陳述において述べられているように、まことにまれに見る熱心さをもって自己の寃罪であることを主張している状況を見ますと、この状況自体も、やはり再審請求において、この事由ありやいなやを判断する上の直接の条文には当たっておりませんけれども、やはり証拠を判断する上において考慮をさるべきことであるように私も思うのであります。しかしながら、他面裁判所の棄即決定のいうところを見ますと、棄却したこともまた現在の制度のもとにおいてやむを得ないという感じを受けるのであります。やむを得ないというのは、裁判所棄却に私が大いに賛成だということではなくて、何とかこれは再審開始くらいには持っていってやりたい事件である。こうは思うのでありますが、しかしながら、再審事由ありやいなやを判断する裁判所の立場に立って、事由なしと判断することもまた可能である。まさにそのせとぎわに立っておる案件であるために、第三者から、これが不当であるとも言いかねるという意味において、裁判所のやったことももっともであるように感ぜられる次第であります。  そういう案件を直前にいたしまして、今度は再審制度を検討するということになるわけでありますが、私は、もし現在の憲法の規定というものから離れて、いわば憲法の改正があってもいいという前提のもとに立って考えれば、先ほど松尾参考人が述べられましたように、ドイツ式旧刑訴的な検察側からの再審請求被告人不利益の側からの再審請求をも認めて、真実発見のために制度を改めたいというくらいにむしろ思うのであります。しかしながら、実際問題としてそのような必要のある事件というものは希有、絶無に近いでありましょう。従って、ぜひともドイツ式にこれを改めたいと考えるわけではございません。現在の状況で見まして、先ほど二、三の点について後藤参考人及び松尾参考人が指摘された点の改正は、なるほどここで伺ってみれば、改正した方がよりよいのではないかと思われる点を持っておりますけれども、それを除きまして、私が急に考えた限り、特に現在の再審制度を改めたい、こう思うような点は見出し得ておりません。しかしながら、立法問題として特に御考慮をわずらわすべきじゃないかと考えることが、この吉田石松氏の事件に端を発して私にも浮かんで参るのであります。それはこの吉田氏を例にとりますと、すでに刑務所を出てから長い歳月を経ておるわけでありますが、現在の法律制度のもとにおきましては、刑法三十四条ノ二において刑の消滅という規定が設けられているにかかわらず、このような人について三十四条ノ二の刑の消滅による資格の回復をはかる道が閉ざされているということであります。これは無期懲役の者に対しても刑の消滅の規定を拡張して適用できるような制度にこれを改めるべきじゃないかと思うのであります。端的に申しますと、たとえば吉田石松氏については再審の道はすでにおおむね閉ざされた新しい証拠等が発見されれば別でありますが、一応閉ざされたという状態になっておりますけれども、この人は無期懲役になって、それが仮釈放の形で釈放されておるのであります。仮釈放になりますと、もしその後執行の免除を得れば刑法三十四条ノ二の適用を受けて刑の消滅による資格の回復が可能であるはずでありますが、無期懲役であるために、期限が無期であって、それでは仮釈放されても刑の執行の免除を得るということが現在は不可能であります。従って、何十年たっても依然として資格を回復できない、こういう状況になっております。もしこの人に三十四条ノ二のような刑の消滅に関する規定が適用されるようになっておりますならば、再審の道はかりに閉ざされましても、罪のなかった人と同じような資格の回復が現在できる。もとより無罪を得たのとは違いますけれども、こういう立場にある人にとって救われる一つの道であると考えるのでありまして、三十四条ノ二を、できるだけ無期懲役囚で、しかも仮釈放を受けた者にも適用可能なように立法することが、望ましいと考えます。  特に私の気がつきましたこととして、このことを申し上げて、一応のお話を終わることにいたします。
  8. 林博

    ○林小委員長 以上で参考人の御意見開陳は終わりました。     —————————————
  9. 林博

    ○林小委員長 これより参考人に対する質疑を行ないます。猪俣浩三君。
  10. 猪俣浩三

    猪俣委員 ちょっとお聞きしたい。  さっき欧米でも、この再審の問題が非常に問題になってきて、相当の本が出ておる。日本でもそれが今翻訳されつつあるというお話がありましたけれども、その本の名前、発行所のようなものはおわかりでしょうか。
  11. 松尾浩也

    松尾参考人 日本語に翻訳されておりますのはジェローム・フランクの「無罪」という書物が児島武雄さんの手で翻訳されています。原著は「ノット・ギルティ」。それからドイツ人の弁護士でありますヒルシュ・ベルクの「誤判」という書物がやはり同じ名前で安西温さんの手で訳されております。それからイギリスのものとして、これはシリーズとして出ておりますが、すでに三冊ほど刊行されております。正確な名称は今記憶しておりませんが、日本評論新社から出ております。今申し上げましたのは全部日本評論新社であります。
  12. 猪俣浩三

    猪俣委員 お三人の先生方に一つ意見を承りたいのですが、今植松先生がおっしゃったように、吉田石松、その人の事件につきましてこの再審問題をこの委員会で検討するようになったのでありますが、そこで何とかしてあの人を助ける方法はなかろうかということを考えて、そこで立法問題にまで発展してきているわけなんですが、旧々訴と申しますか、明治時代の古い刑事訴訟法の時分には、とにかく自白の強要、拷問というようなことが盛んに行なわれたのであるから、これを今の再審制度をむやみに拡張してやると、これは乱訴の弊も起こるということも考えねばなりませんし、そこで何か限定する意味において、旧々訴時代に行なわれた裁判に対することについてのみ一つの意味の特別な立法で、刑事訴訟法改正じゃなしに、特別立法で何か再審のできる道を開く方法はどうだろうかというようなことが委員の間に多少話されているわけですが、そこでそういうようなことが、特別法ですよ、つまり刑法を改正するのじゃなくて、特別法で旧々訴時代の誤判と思われるものについての救いの道、たとえば今考えられることは吉田石松氏のほかに幸徳秋水事件、これも弁護士会は取り上げて今やっておられると思いますが、幸徳秋水事件の生き残りの人が今無実を叫んでおる。幸徳秋水事件というのは、後世の厳密な歴史家の考証においても、はなはだ疑問の事件であることは申し上げるまでもないと思うのですが、こういうものに連座した者を救う道がないだろうかというような考えがあるわけなんですが、そこでそういうふうに特別法を作りまして、そういう拷問の行なわれた古い時代の真実に反すると思われるような裁判に対する救う道というようなものを立法することがどういうものであろうかということの、まだ法案も何もあるわけではございませんが、ばく然たる問題ですけれども、そういうこともあり得るようなお考えであろうか、それは学問的に非常に無理があるというようなお考えであろうか、ばく然たることでございますが、皆さんのお考えを、まあいいことだとお思いなさるか、それはどうもやめた方がいいというような御意見であるかだけでもいいのですが、それを一つお伺いいたしたいと思うのです。
  13. 後藤信夫

    後藤参考人 これは弁護士側から考えますと、そういう旧訴、少なくとも旧々刑訴時代のいわゆる暗黒政治といいますか、権力主義が非常に横行していた時代に、拷問、虐待を受けて無実の者が罰せられたということは非常にあり得ることだと思っております。それが三年、五年、十年も、大ていの場合ならあきらめますが、今日に至るまでなおそれを叫び続けているという一つの事実と、それから新憲法が特に拷問なんかによる自白強要は効力はないと制定された趣旨から見ましても、やはり旧々刑訴時代の者が現に生存していられる。しかしそれを盛んに強調されて、自分の無実を晴らしたいというように考えておられるこの事実は、われわれは絶対的に人権尊重から見て、現に生存されておるからには人権尊重から見てもやるべきじゃないかと思います。ただいま植松先生は、刑の消滅の道が何かないかと言われますけれども、吉田のごときは、何も仮釈放であるがゆえにおそれておるわけではありません。あのまま冥途に行くということが自分の名誉と信用上絶対に耐えられないというところにあるのでございまして、やはり、これは真実はどこまでもはっきりしていただくということが非常にいいのではないか。それから、刑訴法の精神によりますと、疑わしきは罰せずということが大原則になっておりますが、そこを一たび通り過ぎまして刑が確定すれば、それから先は、もう疑わしきは罰せずではなくて、かりに無実の疑いが十分あり得てもこれを法的安定性からしいてこれをささえるという、そういうお気持には、われわれ弁護人側は大反対でございます。これはいわゆる新憲法の精神から見ても沿わないと思っておりますから、やはり、旧々刑訴時代のあの権力主義時代に発生した事件であって、しかも、それが数十年来、いわゆる四十年も、五十年も、今日に至るまでそれを叫び続けておるという人々に対して、しかもその人たちが生存しておる、その子孫も生存しておりますから、その人個人のみならず、子々孫々親戚、友人なんかのいわゆる人権と言いますか、そういう人の気持もくんでやって救済の道を与えられるということは、これは特に必要じゃないかと思います。先ほど松尾先生が言われましたが、私は、そう乱訴の弊はないと思うのです。過去の統計からいたしましても千五百万に対しまして千二百件、一万二千五百人に一人しか再審請求をする人がないのでありまして、多少緩和さられたかといって、これが続々と現われるということは私はないと思います。そういう趣旨で、そういう特別の立法をなされることに対しては、憲法の精神並びに在野法曹一つの考え方、人権擁護の立場から見まして、絶対賛成の意思を表示したいと思います。
  14. 松尾浩也

    松尾参考人 猪俣議員の御提案は大へんごもっともでありまして、おっしゃったような趣旨を、再審審理に当たられた裁判官方々がもう少し深く考えて下さればよかったという感じがするわけでございます。しかし、立法論として一般的な形で考えるということになりますと、やはり若干の難点があるように思えます。  一つは、過去のある時代の裁判を、後になって批判し直すという例は必ずしも乏しくはございませんけれども、それはおおむね国家権力の性格が非常に変わった、手早く申しますと、革命に近いような現象があったという場合に、前時代の裁判を批判し直すということでありまして、現在わが国では、なるほど新憲法の施行という事象はありましたけれども、刑事司法の面では、やはり昔の時代の刑事司法と現在のそれとがそれほど異質的なものだという考えは必ずしもないわけでありまして、その点は改めるべきだ、その批判を明らかにするために特に旧法時代の裁判について再審の道を緩和するとおっしゃるのであれば、また格別でございますが、その点はなお慎重を要するのではないかという気がいたします。  それからもう一点、乱訴の弊がないということを後藤先生もおっしゃいましたが、その点、実際にどうなるであろうかということは、将来の予測の問題でありまして、必ずしも明らかに私も言うことができませんが、ただ再審請求というのは、現行法でも死者のためにも行なうということが建前になっております。それを特に特例を設けて現在生きている者だけということにいたしますと、また一つ特例であるのがさらに特例だということになりまして、一般的な立法としては非常に特殊なものになるのではないかという気がいたします。
  15. 植松正

    植松参考人 特別立法をするとすれば、再審理由をもう少しゆるめるということであろうと思うのですが、そういたしましても、なかなか、なかったということを証明するということは困難でございますので、そう問題の事件を新たに反証をあげてくつがえす、たとえば拷問があったから虚偽の自白があったのだというようなことを新たに証明するということは、非常に困難であろうと考えられるので、わざわざ立法をして、いわば平地に波乱を巻き起こすようなことをいたしまして、今まで疑われなかった事件まで疑わしくなってくる、こういうような形をとるのは、どうもあまり望ましいことではないのではないか。やはり現行法がきめている程度の、せいぜいきめている程度の証明のあるものについて再審をするということでいいのではないか。もしこれをゆるめるとすれば、本日御配付をいただきました、——これは、後藤参考人からお出しになったのかと思いますが、司法制度調査会の「刑訴法改正再審)の要点」という書面の第三項によるような点、これもさっき松尾参考人がおっしゃったように、名古屋高裁判決は、必ずしもそう再審理由を認めないという態度ではないように思うのですが、そこを立法上はっきりさせるという意味で、この書面の三にあるようなことを入れるというならば、より運用が容易になろうかと思うのですが、せいぜいそのくらいでいいのではないかという感じを抱くのであります。
  16. 猪俣浩三

    猪俣委員 植松先生にちょっとお伺いいたしますが、先ほどおっしゃった確たる無罪証拠、いわゆる今の刑事訴訟法証拠というのはないけれども、その人間、長い間の生活態度と申しますか、そういうものを状況証拠と申しますか、そういうふうに取り扱って再審の対象にするというようなことも妥当じゃないかという御意見であったかと思われますが、それは今の再審制度ではできないわけでしょう。
  17. 植松正

    植松参考人 この制度のもとでも明らかなということの判断でございます。問題は、出てきた証拠自体を評価するのにそういう生活態度、あるいは何がしという人が四十数年間にわたってやってきた状況を見ると、一回も認めたことはなくて、しかも釈放されたとたんに出迎えた弟をなげうってまで警察署に行って、共犯と称する男を探してくれということを訴えて行った。それをずっと見ますと、やはりその状況を考慮に入れて新たに出てきた証拠を判断する、明らかかどうかということを判断すれば、そこに蓋然性は高まるのではないか。無罪認定する蓋然性は、ただ単にそれを見るよりは高まるのではないか、そういう意味で考慮していいと思うのであります。しかしながら、かりに、表現はいろいろあると思いますが、新たに立法して、無罪を何年間も叫び続けておれば、それを考慮されるのだということが立法上明らかになれば、今後においては、それを利用する人間も出てくるのであろう。だから、今そういう規定のない現在においてこの人を考えるときには、私はそれは考えられると思いますけれども、新たに立法するということになれば、そういうことは立法すべきじゃないだろう。どんな悪人であっても、最後まで無実であるということを人に思われることは望んでいると思うのです。その証拠には、無罪確定をしたときに、実はおれがやったのだと言っても、現在の訴訟制度のもとでは、それを再審によって罰する道もないわけでありますけれども、そういうことのたんかを切る人間が出てこない。実はそういう人間が出てきたら大へん頂門の一針でおもしろいと思いますが、出てこない。どんな悪人でも、そこのところは自分が無実であるように思われたいという欲望がすると思いますので、そういう意味で、そういうことを規定に盛ることは弊害が多いだろうと思います。
  18. 林博

    ○林小委員長 ちょっと関連質問をいたしたいと思いますが、この吉田事件、非常に古い事件で、数十年間無実を終始一貫して主張し続けてきた。ところが、事実の証明はなかなか困難であるというような事態なのでありますが、英米法によりますと、何か態度証拠、ディミーナー・エヴィデンスというようなもの——人の表情、言葉、抑揚、態度等を証拠として証拠になるというようなディミーナー・エヴィデンスというものがある。またこれに関連して、法廷外の人間行動そのものを証拠とする行動証拠と言いますか、ビヘヴィヤ・エヴィデンスというようなことがあるそうでありまして、たとえば吉田石松事件のごときは、四十数年間無実を一貫して主張してきたというようなことが、このビヘヴィヤ・エビィデンスということになるのではないかというようなことが考えられるわけなんですが、今の問題に関連してくると思うのでありますが、こういうことが日本の証拠の上でどう考えられているのか。また、今の問題に関連するわけでありますが、立法技術上、ことに吉田事件の解決等にあたって何か考慮の余地がないものであるか、そういう点について一つ御三方から御意見を伺いたいと思います。
  19. 後藤信夫

    後藤参考人 行動証拠につきましては、吉田石松再審請求書に、特に重要性をそそぎまして、再審裁判につきましては、この判決確定後の本人の行動がどうであったかということは重要な証拠の資料となるのだということを特にうたっておいたのでございますが、名古屋高裁の四部では、十分その点を考慮して再審開始決定を下したのであります。ところが検察官異議に対する名古屋高裁第五部の決定書では、そういうことは全然考慮しない。その請求人に最も不利な個所だけを摘録、点綴、しかもそれを総合して判断されている。結局、これは裁判官の人柄、裁判官そのものの人間性が結局そういうことを来たすのではなかろうか。植松先生のお説のように、もしそういう裁判官が、そういう点にもほんとうに慎重な考慮をそそいだならば、吉田事件のごときはもう当然再審開始決定を維持していいのではないかとさえ考えております。  これは私、先ほど申し上げたのですが、再審事件については、もう原判決が確定していることだという考え方で、原判決の確定、それはイコール真実だ、しかもそれは非常に強力なものだというような観念にとらわれてしまっているのではなかろうか。ところが、判決によりますと、三鷹事件でしたか、最高裁で七対八という表決がございました。たった一人の裁判官が、そのときの気持次第で右に傾くか左に傾くかということになる。大きな差があるわけですね。この吉田事件のごときは、実際わら一本でつぶれるような実に弱い判決だ。そういう事件においてこそ、そういう行動証拠を非常に重要視して参考にすべきじゃないか。にもかかわらず、現在におけるわれわれ弁護人側実務上経験しております経過から見ますと、裁判官は、いかにも技術的に、しかも原判決の確定、法的安定性を維持するということの一点を強調されるあまりに、現在における再審制度を非常に狭く、かたく、窮屈に解釈されていわゆる被告人人権ということを相当制約されているような傾向が強いとわれわれは痛感しております。従って、行動証拠も何らかの形において裁判官がこれを採用していただくような——これは判例の面においてもいいし、また規定の面においてもそれを考慮していただく余地が大いにあるのじゃないかと考えております。
  20. 松尾浩也

    松尾参考人 態度証拠という観念は、通常は被告人の法廷内における態度あるいは証人の法廷内における態度というものについて言われているように思います。しかし、法廷外の行動まで含めて証拠とするということは、むろん理論上の障害があるわけではありませんし、法制上も裁判官は自由な心証によって証拠を判断できるわけでございますから、証拠資料とする余地は十分にあると思います。ただ現行法では、御承知のように伝聞証拠の制限がございまして、たとえば吉田氏が法廷外で甲という人物に、自分は無罪だと述べたという場合に、すぐに甲を連れて来て証言させるということは原則としてできないわけであります。その点の制限を除いて考えますと、法廷外における長年にわたる行動というものを、裁判官心証形成の資料として証拠とするということは、現行法ではむろん可能でありますし、また先ほどおっしゃいましたように、名古屋裁判所も、四部の方ではそれを考慮に入れたのではないかと思われます。
  21. 後藤信夫

    後藤参考人 ちょっと一言。吉田石松事件は二十一年間における在監中の事こまかい綿密なる記録があります。毎日のごとくあらゆる手段方法をもって無実を訴えたという。精神鑑定もあります。従って、法廷外のいわゆる伝聞証拠でなく、そういう一つの文書による、刑務所内における膨大なる記録そのもの自体から見ても、裁判所は十分な心証をとってもいいのじゃないか。ただいまおっしゃった単なる法廷外の伝聞ということが吉田石松の今回の再審棄却決定に対する重要な証拠基礎になったわけじゃない。
  22. 植松正

    植松参考人 これは結局、法にいわゆる明らかな証拠というものになるかどうかということになりますので、それは再審事件を受け持つ裁判官の自由心証の問題に帰着するのだと思います。そこで、法廷外において長い間叫び続けたとか、いろいろな行動があったということは、どうとるかは、それぞれの裁判官の考え方にかかると思うのですが、その場合におきましても、申すまでもなく、自由心証は経験則を無視するわけにはいかないので、経験則というのは、言いかえれば結局は健全な常識だと思うのですが、健全な常識から見て、そんなに叫び続けているのは無実ということの証拠だろうかということに考えがいくわけでしょうが、これは単に叫び続けたからといって無実だというふうに見るわけにもいかないだろうと思うのですね。やはり具体的事実に立脚して考えるのでありましょうし、かりに本件の場合におきましても、ほかの証拠がなくて、単に法廷外で熱心に無実を叫び続けたというだけであったら、それで具体的な犯罪事実があったかなかったかということを考える上に、だからなかったのだと考えるのはやはり行き過ぎだ、経験則的にいって行き過ぎだろうと思います。というのは、真実の犯人であってもそういう者も——そんなに長くやる者はほかに例がないと思いますけれども、それに類する主張というものは十分あることでありますから、たやすくそれで無実だろうと考えるわけにはいくまい、こう思うのですが、ただ本件の場合に、私は何か再審開始まではやってもいいのではないかと思うわけは、ほかに若干の証拠弁護人御提出のような証拠がございますので、それを判断する上に今の法廷外の行動を考慮に入れると、そこにかなり高い蓋然性を考えて、無罪言い渡しの可能性ありとして再審開始理由になるのではないかと思うのですが、それも結局は心証の問題ですから、裁判所がそう言う以上は何とも仕方がないのではないか、本件については私はさように考えます。
  23. 坪野米男

    坪野委員 そこでちょっとお尋ねしますが、現行刑訴と旧刑訴ですね、被告人利益ある再審請求理由に関する限りは、旧刑訴と現行刑訴とほとんど変わりがないように理解しているのですが、その点間違いございませんでしょうか。
  24. 松尾浩也

    松尾参考人 おっしゃる通りであります。
  25. 坪野米男

    坪野委員 同じですね。文体が変わっているだけで理由は一緒ですね。  そこでお尋ねしたいのですが、さっき植松先生から、無罪を言い渡すべき明らかな証拠という解釈を非常に厳格にされているように私理解したのですが、無罪証拠というものは元来あり得ないわけで、この場合も無罪を言い渡すべき明らかな証拠ということになっているわけですが、現実には裁判所判例その他では、無罪を言い渡すべき明確な証拠を新たに発見したというように、非常に狭く解釈しているように私は理解しているわけです。しかし、有力な学説なんかでは、法の要求するのは客観的に無罪たることの明白な証拠ということでなしに、裁判として無罪を言い渡すべき明白な証拠であればいいのだ。こういうように、要するに証拠不十分であれば無罪、厳格な有罪の明白な証拠がない限りは無罪なんだ、無罪の推定を受ける。被告人有罪の確証がない限りは無罪だという原則からすれば、証拠不十分で無罪を言い渡すべき事案であった。少なくとも新たな客観的な証拠によって、無罪であるかどうかは別として、少なくとも有罪を言い渡す証拠が不十分であるとして無罪を言い渡すべき証拠という認定があれば、再審理由になり得るのではないか、私はこのように理解しているわけなんです。旧刑訴時代のコンメンタールを見ますと、やはり明確な証拠とは原判決をくつがえすに足る適切な証拠という注釈も見たわけなんですけれども、原判決をくつがえすに足る明白な証拠、適切な証拠ということであれば、こういう新たな証拠が加われば、原判決有罪判決をくつがえして、証拠不十分でこれは無罪たるべきだという心証の得られる証拠であれば、これはやはりここに言う無罪を言い渡すべき新たな証拠ということになっていいのじゃないか。どうも裁判官の頭には、旧刑訴時代の、灰色は、疑わしきは罰するのだという頭、あるいは自白は証拠の王者というような観点から、どうも疑わしきは罰してきた傾向が従来あるし、戦後の新憲法下における裁判官の法意職あるいは憲法意識においても、無罪を言い渡すということは、裁判官に非常に勇気が要る。国家権力によって起訴された事案について無罪を言い渡すことは非常に勇気の要ることだ。私ども戦後の弁護士ですが、そういう経験から、無罪を言い渡すには裁判官になかなか勇気が要るということで、無罪の確実な証拠がなければ、なかなか無罪を言い渡せない場合が実際多いと思うのですが、しかし、現在の憲法なり刑訴の精神からすればその逆で、有罪の確証がない限りは無罪だというのが、当然そうあるべきことだと思うのですが、この再審規定における無罪を言い渡すべき明らかな証拠も、そういう観点からもう少し広く解釈すべきではないか。少なくとも、さっき猪俣先生からも御質問のあった戦前の拷問なりあるいは誘導尋問なりが行なわれた、しかも予審制度のもとにおける裁判、しかも自白のない、無罪を叫び続けてきた事案、さらにもう一つ要件を加えますと、ほとんど見るべき物的証拠の直接証拠なしに、状況証拠と、それからあと共犯者証言共犯者供述がほとんどきめ手になる証拠有罪を受けておるというような事案については、再審事由をもう少しゆるめる。あるいは少なくとも解釈上ゆるめるような、解釈でゆるめることが困難であれば、そのような時点を限って、そして再審制度を緩和する立法がなされてもそう不当じゃないのじゃないか。今日におけるすべての事件ということになれば大へんなことになりますが、古い事件の、拷問が行なわれて、あるいは予審制度のもとにおける、あるいは物的証拠を欠くような事案についての無罪を言い渡すべき明らかな証拠認定証拠法をもう少し具体的に書き入れるなりして、そういった立法が可能ではないかということを考えているわけなんですけれども、それについて学者としての御意見をお二人からぜひお聞かせ願いたい。
  26. 植松正

    植松参考人 明らかな証拠というのについて、これは先ほども申しましたように自由心証の問題ですから、結局、さきの確定判決において裁判所有罪を言い渡すに足る十分な証拠があると思って言い渡した、その後多少の証拠が出たというときに、もしその裁判所が、その証拠を前から持っていたならば多少判断が違ったのじゃないかという場合には、ここにいう明らかな証拠がということが今おっしゃる問題の中心かと思うのですが、どうもこれは私、名古屋裁判所判決で言っているようにやはり考えているのですが、それは一応確定判決というものは尊重しなければならない、法的安全率のために。これはどうしても動かない意見だと思うので、それをもとにいたしますと、確定判決があるまでは、それはなるほど疑わしきは被告人利益にということになりましょうが、一応確定判決があった以上は、今度はよほどはっきりした証拠がなければ、むしろ疑わしきは被告人不利益になるという事態が再審に関しては起こってもやむを得ない、被告人の方からいえばやむを得ない、制度からいえばそういうふうにあるべきだ、それは確定判決の効果を尊重するという面から言ってですね。ですから、明らかな証拠というのは、単に少し被告人に有利なものが出たというのじゃなくて、やはりくつがえすことが当然だと考えられるほど高度の蓋然性を持ったもの、百パーセントじゃなくてもいいけれども、きわめて高度の蓋然性を持った証拠がなければならない、こう解すべきではないか、こう思います。
  27. 松尾浩也

    松尾参考人 疑わしきは被告人利益にという御意見趣旨を徹底しますと、再審制度だけでなく、第一審の裁判、刑事裁判全体についてそういうことをもっと強く立法上も認めるべきだというお考えに帰着するかと思いますが、そのために証拠法の中で明確な規定を作ったらどうかという問題につきましては、刑事訴訟法の歴史から考えますと、百年あるいは二百年くらい前の時代に、御承知のように法定証拠主義というのがとられておりまして、一定の法律で定められた証拠がなければ有罪にできないという制度が実際に行なわれたわけであります。しかし、それはどうも人間の合理的な思惟に合わないというところからして、特に法定証拠主義が廃止されまして、かわって自由心証主義という制度が登場してきて、現在では、およそ文明国の裁判だけがほとんど自由心証主義だということになってきております。それがしかし、さらに反省期に入りまして、もう少し合理的な採証法則というものを考えなければいかぬという意見は、またドイツにもございますし、フランスでも言われておる。わが国でも若干そういう見解が見られております。それを実際立法という形でやろうとしますと、これは非常な困難が伴うわけでして、イギリスやアメリカのように判例が中心になっておりますと、まだ弾力的な解決が可能でありますが、法律の成文の上で、どういう証拠がなければならぬ、あるいはどういう証拠があれば無罪にしろということを書くのは技術的にほとんど不可能に近いような感じがするわけであります。ただ、先ほど植松先生のお話にもあった経験法則というものはいろいろとあり得るわけでして、たとえばこの吉田石松事件について、共犯者の自白にたよっておる、共犯者の自白は非常に危険だということは、これは一つの経験法則でありまして、英米法では、共犯者の自白にはほかの補強する証拠が必要だということがよく言われる。さらにつけ加えますと、この事件では北河芳平、もう一人の共犯者、精神的に能力の低い人間だということが認められておりますが、そういう人間供述というのもしばしば危険である、検察官なり警察官の誘導にかかりやすいということも一つの経験法則であります。そういう点を考えに入れますと、この事件の最初の裁判誤りではなかったかという蓋然性は相当に高いということになりますが、そこで再審をなすべきかという問題になりますと、先ほど御指摘のように、新たな証拠という点で今のような点は一応落とされてしまう。もう一つ明らかな証拠というこの二つの制限をくぐり抜けなければならないことになります。立法論として、明らかなというのも削ってしまってはどうかという御意見もあり得ると思うのですが、ドイツの条文にもフランスの条文にも、明らかなという言葉に直接当たる言葉はないわけなんです。しかし、どちらにしましても、判例あるいは学説の上で新しい証拠でありさえすればいいのじゃなくて、ある程度判決をゆすぶり動かすに足りる証拠でなければならぬということが言われております。その程度がどの程度でなければならないか、確実性か、蓋然性か、あるいは原判決に対する疑惑かというような点が激しく論じられているという状態であります。この辺の消息も立法の上で表わすのは非常に困難なことでありまして、裁判官の考え方が次第に変わっていく、あるいは裁判官に対する裁判心理学的な教育が進むというふうなことがむしろより重要なのではないか。あるいはまた、検察官が、かつては無罪判決を受けると始末書を書かせられたというようなことがあるように聞いております。現在では考えることもできないような慣行でありますが、そういう点が改められていくということこそ大切ではないかと思っております。
  28. 坪野米男

    坪野委員 もう一点お尋ねします。今の名古屋高裁の五部の、異議をいれた棄却決定を読んでの私の感想ですが、綿密に検討したわけではないのですが、四部の再審開始決定をした事実認定に関して、しかも同じ審級の高裁の他の部の裁判官が、無罪を言い渡すべき新たな証拠であるかということ全般について検討するというのじゃなくて、その前審前——審と言いますか、開始決定をした判決理由の中からその矛盾を指摘して、無罪を言い渡すべき理由としては少し証拠が足りないのだというような認定を下して、そしてそれに対する抗告の道としては、特別抗告理由としては、憲法違反判例違反以外に道を封じられている。そういう同級の裁判所で——異議制度がそういうものでしょうけれども、異議で、再審理由の法律の手続上の有無についての判断ならともかく、無罪を言い渡すべき理由があるかどうかという実体的な理由についての判断を、同級の裁判所でこれをくつがえすということは、私は、ちょっと制度趣旨からいっても非常に疑問に思うわけで、むしろ、開始決定を許した判決の方が非常に詳細に、しかもわれわれから見て合理的な判断だと思うので、その点非常にこれは不利な決定だというように感じるのですが、その異議決定において、そこまで立ち至って検討することがはたして正しいのかどうかという点について、御意見があったら一つ松尾先生、お聞かせいただきたいと思います。
  29. 松尾浩也

    松尾参考人 この吉田石松事件では、再審を認めた裁判所高等裁判所でありましたために、今おっしゃったような矛盾が非常にはっきり出てきたわけで、四部が再審を認め、五部がこれを否定するという順序になる。もしこれが逆の順序ででも出てくれば結論は逆になっていたということが明らかでありますために、非常におかしな感じがする。しかし、さればといって、高等裁判所決定に対する不服をもう一つ上の裁判所へ持っていくということになりますと、最高裁判所しかありませんから、その点において現在の訴訟法の建前上できないということになるわけで、先ほど後藤参考人のお示しになった改正意見第六点というのは、この問題をもっと包括的な形で取り上げて、再審開始決定をした裁判所が、一審であろうと、地方裁判所であろうと、高等裁判所であろうと、およそ検察官の側からは不服の申し立てはできないという御提案でございますが、これが認められますと、今おっしゃったような難点はかなりの程度に解消すると思われます。
  30. 坪野米男

    坪野委員 結局、植松先生の御意見ですと、確定判決の法的安全性を守るという観点から、再審というものを非常にしぼって規定すべきだと、制度の精神からいってそのように理解しておられるようですけれども、しかし、日本の現実の裁判というものは、生きた裁判官によって行なわれておるという中で、しかも今われわれが問題にしておるのは、主として戦前の旧憲法下における、旧刑事訴訟法下における日本の裁判に大きな誤判事件がほかにもたくさんあったし、また明らかになっておらない点でもあると思われるわけですが、そういった点について、今のままの再審制度でいいかどうかという点について私は非常に疑問に思っているのですが、根本的な、抜本的な改正ということになりますと、法律体系全体の調和という観点から、われわれしろうとが思いつきで立法論を述べるのもどうかと思うわけですけれども、今具体的に問題になっておる吉田石松事件、その他戦前のこういった事件誤判の疑いが非常に濃くなってきておる事件に対して、この再審制度が非常に不備であって、障害になっておるとすれば、何らか合理的な単独立法、特別法における救済ということも国会においてなすことは、私は可能であろうと思うわけで、ただ、そのために現行の法体系と大きく矛盾しない、また、ただ個人石松を救済するということでなしに、やはり制度の一環として、そういった特別の事案に対する——特別といっても個別じゃありませんけれども、特殊の事案に対する救済の方法を何としても設けてやる必要がある。吉田君の場合、私たちの理解している範囲では、まあ無罪間違いない、こう思うわけですが、ただ前に何回か再審請求して却下され棄却されているということから、ますます現在の制度では、同一理由云々がひっかかってきて、救済が困難になってきておるというのが実情のようですから、またわれわれも専門家の意見を徴して研究をしてみたいと思いますが、その節にはまたいろいろお教えをいただきたいということをお願いして、私あまり勉強もしておりませんので、大してお尋ねすることもありませんので、一応私の質問を終わりたいと思います。
  31. 後藤信夫

    後藤参考人 弁護人側からの意見として申し上げておきたいことは、新憲法は、これは革新的な憲法でございまして、基本的人権尊重ということを特に強調しておりますが、再審の点につきましては、旧々刑訴、旧刑訴、それから現行刑訴の経過を見ますと、その面が非常に考慮されていないようになっているわけです。旧々刑訴から旧訴刑になったときも、検事側からの被告人不利益再審ができないという点が削除されたというような微々たることであって、基本的に人権尊重ということは再審の面においては全然無視されている形ですね。そこでこの吉田の事件を契機といたしまして、少なくとも再審の面における人権尊重については若干の改正を必要とするのではないか、そうすることが新憲法に沿うゆえんではないかとわれわれ在野法曹としては考えております。  先ほどちょっと言われましたが、証拠方法の点につきましても、自由心証主義が現行刑訴の手段でございまして、裁判官が自由な心証によって証拠を判断する。これは裁判官が何ものにもこだわらず、何も遠慮なく、自由な公平な立場で判断されるときには、この自由心証主義はまことに適切であると思うのです。しかし、再審に関しまして、裁判をやり直す、自分の同僚なり先輩なり、あるいは同一裁判所内において行なわれた裁判誤判であったというようなことを正す、それを是正しなければならぬというような事案に対する判断は、私は裁判官の自由公平を幾らか欠いているのではないか、そこにやはり若干の法改正の必要がある。この再審特殊性にかんがみて、この制度改正の必要があるのではなかろうかと考えます。  名古屋高裁の四部が決定した再審開始決定を、同じ同級審であるところの五部が逆転させる。これは制度上非常におかしいではないかというただいまのお説でございましたが、これはわれわれ全く同感でございます。従って、もしこれが再審棄却するという決定ならば、あるいはもう一ぺんやり直して、再審開始理由がありはしないかという慎重性を保持するために他の部がやってもいい場合もありますけれども、再審を開始するという一つ決定そのものは、何も有罪無罪決定するわけではないのだから、それを同じ部内で逆転するということは、裁判の審級制度の点から考えましても、われわれとしては非常に合点のいかないものでありますから、こういう点についても、何らか法改正の必要があれば一つ考慮願いたい。  それから先ほど松尾先生から御意見がありましたが、七項の特別抗告理由として、憲法違反判例の違反のほか、これに重大なる事実の誤認を加えるとありますのは、これは何も一般事件につきましては上告の理由になっておりませんが、最高裁みずから事実の誤認を正さなければ著しく正義に反すると認めるときは、最高裁みずから事実の誤認を正すことができるという四百十一条の規定を、この再審に関しては特別抗告理由として採用していただきたいという趣旨でございまして、これもやはり再審という特殊の事件の性質にかんがみて、何もこれは強要するわけではございませんが、最高裁みずからそういう事実の誤認を正さなければ著しく正義に反するという場合でありまして、最高裁の自由な裁量による、そういう道でございますから、松尾先生に一つ申し添えておきます。
  32. 松尾浩也

    松尾参考人 ただいまの点について一言させていただきますが、最高裁判例で、特別抗告に関しても、ただいま御指摘の四百十一条が適用されるという判例が出ておりまして、現在の解釈でも、重大なる事実誤認を含めて四百十一条の理由特別抗告を認め得ることになっているわけでございます。そういう状態を前提にしまして、特に再審の場合に限り重大な事実誤認を加えるという立法がなされますと、むしろ解釈が逆転いたしまして、そのほかの理由による特別抗告の場合には四百十一条は使えないのだということになってくるおそれがあるのではないか、これが私のちゅうちょする理由であります。  ついでにもう一点申し添えたい点は、その前の第六項は非常に適切ではないか。先ほども申したのでございますが、吉田石松氏の事件は、ただいま最高裁判所に係属中だと聞き及んでおります。そこで、最高裁判所特別抗告棄却するということになりますと、ことにこの事件は、再審についてはほとんど絶望だということになってしまうわけですが、最高裁判所名古屋の五部の決定を取り消して再審をやらせるという判断をいたしますと、すでに一度再審開始決定がなされているわけでございますから、もはや再審への道には何の障害もないわけであります。そこで最高裁判所にまだ係属している間にこの六項が単独法として実現いたしますと、最高裁判所は四百十一条の第一号を適用いたしまして原決定を破棄するという可能性が出てくるのではないかと考えております。具体的には現行四百五十条の中から四百四十八条一項という規定を削除するということで足りると思われます。
  33. 赤松勇

    赤松委員 植松先生、私は全然法律家でも何でもないのでわかりませんけれども、学者の方なり専門家の方のものの見方と言いますか、視点と言いますか、そういったものが非常に客観的で、アカデミックで、それは大へんけっこうだと思うのです。またそうあるべきだと思うのです。しかし、現実に今吉田石松事件が論議になっておりますけれども、やはり歴史的なプロセスというものを抜きにしては、この問題は抽象化されてしまって、ほんとに象牙の塔的なものになってしまうのですね。私は、明治憲法時代の、いわゆる旧々刑事訴訟法当時と、民主憲法に移行した今の段階と明らかに区別をしなければならぬ。それは、御承知のように、いわゆる帝国憲法時代における裁判制度というものは非常に政治的であったということですね。つまり、ややともすれば国家権力に独立であるべきこの司法権が、国家権力に従属せしめられておった。そういう傾向が顕著に見えるわけです。それで、あの当時はそれが一つの国家の至上命令的なものであって、裁判官心証の上にはかなりの影響を与えておったと思うのです、幾ら身分が保障されておりましても。従って、私どもの経験から言えば、なるほど予審制度というものはありました。しかし、予審制度でかなり長い間予審判事が取り調べを行ないましても、それは警察及び検事局における調書の確認であって、実際には事実の探求について非常な努力を傾けてやったかどうかということになると、私は幾つかの事件を見ましたけれども、そういうことはとても考えられないのです。非常に機械的で、事大主義で、権力にこびるという面が非常に強かった。ですから、この間吉田石松をここに呼んで、後藤参考人からも御意見を聞き、それから本人からも意見を聞いたのですけれども、これは法務委員会委員諸君の心証としては、この事件無罪だ、こういう心証をみな得ておるのです。それならば無罪であるべき証拠はどこにあるかと言われますと、私ども困るわけでありますけれども、しかし、それは疑わしいものは罰しないということ、そうして本人の自白はもちろんないし、確固たる物的証拠がないのに、あのような判決を下したということについて非常な疑問を持っておる。この際、この司法権の権威のためにも、再審をして事実を探求してみても、その結果、あるいはその事実を確認することができないかもしれぬと思うのです。しかし、そういうことができないからといって、再審をしてはならないという理由にはならないわけです。そういう意味からいって、本人の心境からいえば、もう八十三ですから、あと最高裁に対する上告のある結果を待つだけだ、自分はこれで死んでいけば永久に殺人犯として汚名を着たままで死んでいくのだ、こう言って、この間も切々たる手紙をよこしまして、ぜひ海田庄太郎という共犯者を国会に呼んでもらいたい、そうして事態を明白にしてもらいたいと言ってきた。彼は裁判所に対しては全く不信任です。全然信頼していません。速記録をごらんになってもわかるように、ボロ裁判官という言葉を使っておるわけです。それが少し教育を受けた者なら、もっと的確な表現ができるでしょうけれども、とにかくとても供述することができないほど興奮の極に達しておる。八十三になり、五十年間無罪を主張して参った者が、事実罪を犯しておりますれば、あのような迫真力と言いますか、真実性と言いますか、そういうものはにじみ出てこないと思うのです。それをアカデミックに論理的に客観的に見て、抽象論で問題を処理していくということになりますと、社会正義が許さないということになってくるわけであります。  本委員会におきましても、いろいろ議論がありました。今の再審制度そのものを緩和したらどうかというような意見と、旧々刑事訴訟法の中で起きたあの特殊な、今坪野委員が御発言になったような、そういう範疇の中だけで問題を処理していったらどうか、そうでなければ救済の方法はないではないか。今お話しのように、最高裁がいい決定を出してくれたらいいが、もし請求人の期待と逆の結果が出ればもう絶望なんです。そういうことを考えてみると、彼も、この委員会で、私個人の問題ではない、第二、第三のこういう問題が起きないために私は戦っておるのだということを言っておりました。このことは、名古屋高等裁判所で、第四部の決定には、本人の委員会におけるわれわれの得た心証と同じような判決が書かれておったと思うのでございます。従って、視点をもう少し社会正義の立場に立って、あえて政治論とは言いませんけれども、社会正義の上に立って、問題を人道主義的に考えていくということが、私は決して学者的な良心を傷つけるものでも何でもないと思う。今、後藤参考人のおっしゃったように、無罪判決を与えろなどということを言っているのでなしに、あの判決については少なくとも疑問があるから、あの裁判が正しかったかどうかということを今の時点においてもう一度審理をしてみたらどうか、こういうことなんですから、私はこの範囲の人権というものが尊重されなければ何の憲法だ、こう言いたくなるわけですね。これが第一点です。  第二点は、いわゆる民主憲法において、しからば今の裁判というものが、先生方が御指摘になっているように良心的な、本来の裁判のあり方を示すようなことが行なわれておるかどうか、現実にこれを考えてみたいと思うんですね。これは例を出すまでもなく、極度に人手不足では、裁判所はたくさんの事件をかかえておる。そこへスピード審理が要求されますね。そういうことと相待って、ややもすれば、あなた方の考えておられるような良心的な審理が妨げられるということはおおい隠せない現実だと思うのです。私は、政治論をやっているのじゃなしに、現実を指摘しているわけですね。どこの裁判所でも、ごらんになればわかるように、ほとんどが検察庁の作った調書を大体確認するという程度で、非常に機械的に審理が行なわれているというように私は思うのです。ところが、松川事件のように国民運動が起きまして、そうして大衆的な運動が出て参りますと、初めて真剣にその問題と取り組む姿勢が実は出てくるわけですね。検察庁の方もまた真剣な姿勢が出てくるわけなんです。あの吉田がもし総評の組合員とか、あるいは共産党の党員であったならば、おそらく私は大規模な大衆運動というものが起きておると思のですよ。悲しいかな、彼はそういうう組織の人でもなく、全く孤立無縁、たよる裁判所は相手にしてくれないということで、今日まで泣き叫び続けてきているんですね。今の裁判制度にも誤認、誤審というものが多くあるのじゃなかろうか。問題を徹底的に客観的に追及して、もうこの判決には絶対私は自信を持つというようなものが一体幾つ行なわれておるかということは、ここにおる委員の方は弁護士をやっておられるので、みずからみな経験されておると思うのです。そういうように、私はあまりに政治論をやり過ぎるかもしれませんけれども、あの吉田事件の起きた背景をなす事態、それから今の民主憲法下において基本的人権というものが何よりも尊重されなければならぬという問題、そういう問題から考えあわせて、私どもはここで坪野委員の御説のように——私は、ほんとう再審制は大幅に緩和するのが当然だという考えを持っているのですけれども、しかし、それが法体系全体に影響を及ぼす、そうしてそういうことはなかなか困難だということになってくれば、これはまた恒久的な制度上の問題として一つ考えていく、先生方にも考えていただかなければならぬ、われわれも立法府として考えていく。しかし、さしあたり世間が裁判に対して非常な疑惑を持ち、本人自身も納得できない、国会の委員無罪心証を得ているというこの吉田事件救済する方法、それに局限をして考えることが、かえって立法府や司法権に対する国民信頼を高めることになりはしないか、こういうように考えておりますけれども、それについて何かいい方法があるかどうか、また私の言っていることが間違いであるかどうか、この点について御意見をいただきたいと思うのです。
  34. 植松正

    植松参考人 そうすると、結局本件に限って救済の道を講ずることはどうか、こういうことになりますか。
  35. 赤松勇

    赤松委員 旧々刑訴……。
  36. 植松正

    植松参考人 それが本件に限ってということになると、やはり特定の事件をとらえて問題にするというので、司法、立法の分立している制度の本旨からいって疑問があると思うのですね。しかし、制度全体としてもう少し緩和した方がいいんだ、こうお考えになるとれば、適切な緩和の方法が立てばこれはいいんじゃないかと思うんです。ただ、先ほどおっしゃったように、旧々刑訴の事件であるというお考えはわかるのですけれども、そういうふうに限定してやった場合に、非常に証拠がなくなっている。この事件も戦災で証拠が焼けちゃったということが今になれば障害なので、そういうことから見ても、実際問題としてどういう限定をしてやれるだろうか、非常にむずかしいように思うのです。乱訴という問題もやはり同時に心配せばるを得ないのも事実なんです。本件は、先ほど私が述べました際においでになりましたかどうか存じませんけれども、私としても、心証はどうもこれは疑わしい。だから、少なくも再審開始決定はあるべきだった、こういうふうには思っているわけです。ですけれども、明らかな証拠かどうかという点は、裁判官心証の問題ですから、どうもわれわれから干渉がましいことも言えないのではないか、こういう印象でございます。ですから、条文はこのままにしておいても、たとえば本件について言えば、一番問題は何とか庄太郎という人ですね。あの人の供述があいまいなんですね。あれがよほどはっきりした自由な精神状態のもとに、非常にはっきりとこれこれこういう理由によって吉田を引っぱり込んだのだということを述べた証拠でも出れば、これはりっぱに再審開始事由に該当すると思うのですよ。そこまで得ることをむしろ請求人側で、もちろんこの吉田老人自身はやれないでございましょうが、せっかく日本弁護士連合会が援助しているのだから、そういう方でもっとこれを固めたらどうかということを、私は本件については感ずるのです。
  37. 赤松勇

    赤松委員 大へん失礼しました。僕は北陸の方に遊説に行っておったものですから、今飛んで帰って来まして、先生の御意見を聞いていなかったものですから。そういうお考えであるとすれば、私ども非常に力強く感ずるわけです。
  38. 植松正

    植松参考人 制度そのものとしては、ドイツあたりとも大体似たような制度ですし、ドイツについては一番重要なのは、被告人不利のための再審請求ができるということが大きな違いですけれども、それを除けばきわめて似ているわけで、この程度で、やはり比較法的に見てもいいのではないか、制度はそう考えている。本件については以上のように感じます。
  39. 赤松勇

    赤松委員 後藤参考人にお尋ねしますけれども、私、判決文をずっと読んでみまして思いましたことは、あれは海田庄太郎、それから何とか芳平というのがありますね。あれは死にましたが、精神状態がおかしいという工合に見ておりますね。海田庄太郎の方は、精神薄弱あるいは精神がおかしいということは言っておりませんね。その海田というのは現存しているわけです。そうして大体海田庄太郎の供述証拠にされているようですが、その海田が今埼玉県にいるということがわかったわけです。私は手紙を出しまして、ぜひ一ぺん会いたい。彼も同じような年輩ですから余命幾ばくもないわけです。それで何だったら自動車で迎えに行ってもいいし、私が埼玉県に行ってもいいと思う、ぜひ会いたい。そうして今植松先生がおっしゃったように、全然圧力を感じない、自由な立場において真実を述べてもらいたい、こう思っているわけです。しかし、このことは別として、ただ共犯者のその後の供述が、たとえば吉田は事件関係がないということの証言についてあいまいな点があるという話ですけれども、どうも今まで立ち会った新聞記者などに聞いてみますと、やはりその人たちの心証は、事件に吉田を巻き込んだということは明白だという心証を得ているというのですね。それで海田が死んじゃったら全然これはどうにもならぬわけです。従って、急ぐわけですが、そこでたとえば再審が認められて、海田を裁判所へ呼んで、海田が、事件に巻き込みました、吉田は真犯人ではございません——これは仮定論ですけれども、こういう供述証言をした場合には、有罪証拠はなくなってしまいます。つまり、彼を無期懲役にした証拠共犯者供述、自白が証拠になっているのですから、従って、その証拠がなくなると思うのです。そうなると、無罪判決を出す可能性が非常に出てくるような感じがするのですけれども、その辺のことなんかは、事件を担当されておる後藤先生などはどんなふうにお考えでございますか。
  40. 後藤信夫

    後藤参考人 共犯者の海田庄太郎は、法務省の人権擁護委員の方にも、あるいはラジオ東京の記者にも、やはり偽証したという趣旨のことは明確に述べております。ことにさかのぼって昭和十一年の十二月十四日ですか、藤田記者立ち会いのもとに、やはり偽証して悪かったというおわびを言っておるわけです。そういう明確な有力な証拠ははっきりあるのです。ただ彼が有名なうそつきで、そういう証言の中に、自分も免れたいというのか、潔白であったというのか、何かしらよけいなことを添えておるわけです。そこに疑いを持たれる。しかし、これは刑務所にいたときの記録にもありますが、これはもともと非常なうそつきなのです。そこでわれわれ委員は、第四部の裁判官を同道しまして、四十七、八年前の雇い主であった人がやはり七十くらいで生存しておるので、その海田庄太郎の人となりや性格、これは芳平も知っておりますし、それから同時に石松もよく知っておりますし、三人の性格をつぶさに聞いております。そういう直接、間接のいろいろな状況を総合して、四部は偽証ということを一応認めてくれたわけです。これは植松先生も松尾先生も学者としておっしゃるように、裁判官の自由心証なんだから、時によると、直接証拠だけでなく間接証拠そのものを信頼してもいいはずなのです。間接証拠だからだめだというのじゃなくて、直接証拠、間接証拠、それからいわゆる行動証拠、刑務所在監二十一年間における記録、それは何も自分は無罪無罪だと気違いみたいに叫んでいるのではない。再審申し立ての情願はする、刑務所の所員に訴える、あるいは神仏に三年間も祈り続けて、ついにそれがかいなしと認めるや、あきらめたというような諸般の事情がある。また、一例を言うならば、刑務所に入ったときは三十四、五才で、ほとんど無学で、かなしか書けなかった彼が、自分の無罪を晴らすために、この十年間ほど一生懸命勉強しまして、その当時の模様を事こまかに図解いたしまして、それを盛んに訴えているというようなほんとう無実の者でなければとうていできないという必死の努力を試みているわけです。しかもその手記を見ましても、その格調といい気迫といい、言葉の響きといい、ともかくいいかげんの者がそう言っているのじゃなくて、ほんとう無実を心から叫んでいるのだということがあれによってわかる。その最初の無学の者が、十年間において相当の字が書け、文章も書けるようになった。しかも、ことごとく無実を訴えるための必死の努力が二十年間において展開されていたというようなつぶさな事実が、直接、間接の証拠として裁判官の自由心証として有力な証拠になると私は思っている。にもかかわらず、この五部のいわゆる棄却決定をした裁判所では、そういうことには一顧もされていない。先ほども申し上げましたように、ただ何らか技術屋みたいに不利益なところだけをつづり合わせて検察官の代弁者のごとき態度をとっている。ということは、前回申し上げましたように、前回の請求棄却した裁判官が今度は逆に回って、自分と反対な決定をされたために、これは感情的ではないかと思われるほどの意気込みをもって逆転さしたという事実から見てもうなずけるのですが、そういう意味におきまして、私は、今さら庄太郎を呼んで聞く必要はない。ここにいろいろ資料が十分ありますから、それだけで十分だと思います。現在の状態は、この前四部の裁判官同道で越ケ谷の裁判所に出たときに、最初は、どういう生活をしているかという私の尋問に対して、生活保護法の適用を受けているのだと明確に答えた。一カ月に幾らの給与を受けているか、千八百何十何円ですと明確に証言した。それから、それに対しては自分で署名するか判を押すかと言えば、ちゃんと向こうから持ってきた書類に判を押して渡すのだと言う。そこでこの事件審査に入りますと、全然言葉を濁して言わないというような人物で、ついに医者を呼んで鑑定さしたところが、これは何ら言語障害を及ぼしていない。それから世話をしていたおばあさんを六キロにわたって呼びにやって聞いてみると、今までちゃんと言葉もわかるし、ものも言えたんだ。しかし肝心な現場の犯行になると口を閉ざして言わない。そういう特殊な事情があるのです。ことに医者が口をやって血が出たから、僕が痛くないかと言ったら、痛いという発言をした。それからしょうがないから隣の部屋におって、おばあさんとか医者の鑑定を尋問していると、今度は庄太郎はものを言いません。どうしてだと言うと、小便がしたくなった、便所はどこだということを聞きました。そういうときはものを言うのです。従って、こういう人間を呼んだとしても明確な証言を聞くことは不可能だ。従って、過去における諸般の事情を考慮するならば、庄太郎の証言は非常に確実に偽証したということがそれによって認定される、弁護人はそう考えております。
  41. 坪野米男

    坪野委員 ちょっと植松先生に私は参考までに申し上げておきたいのです。  先ほど私は戦前の裁判官——私は戦後の弁護士ですから、いわゆる戦前に教育を受けた裁判官の法意識ということについて申し上げたわけですが、検察官の場合も同様でして、この再審の開始理由の中に、偽証とかあるいは誣告罪が有罪判決が確定したとき云々とありますけれども、私たち十四、五年間の経験で、民事事件刑事事件弁護人側から偽証の告発をやって、検察官証拠十分であるという心証を得て起訴したという例はほとんどないのです。刑事事件検察官が、検察側に不利な偽証をやったということで、被疑者を権力でもって尋問して、そして偽証起訴している場合はあります。けれども、弁護人側から、特に民事訴訟などで明らかに二つ供述をした、それに供述調書を合わせて、しかもこれが忘れたとか、記憶喪失とか、あるいは認識の欠除ということでなしに、通常人の心理状態からすれば明らかにこれは意識的に偽証している。虚偽の陳述をしているという証拠が客観的に認められる場合でも、本人の自白がなければなかなか起訴ができないというのが現実だろうと思うのです。この偽証罪にしても、あるいは誣告罪にしましても、偽証有罪判決が確定したということ、あるいは誣告罪の有罪判決が確定したという例はほとんどと言っていいくらいにむずかしいわけですね。ですから、一切疑わしきは罰せずというのは被告人の段階だ、有罪判決が確定したあと再審段階では、もっと厳格な無罪の明らかな証拠ということでなければというような、今の理論としては一応そこに限界は区切ることはできますけれども、今言うた偽証罪だとか誣告罪というものは、そうたやすく実証ができないという実情と照らし合わせても、やはり再審制度がある以上は、再審において原判決をくつがえすに足る証拠というものは、証拠不十分で無罪であるべきを原判決有罪心証のもとに有罪判決言い渡したのだ、しかし、こういう証拠もプラスすることが、やはり無罪であるべきだったのだという心証を得られる証拠で十分であるべきだということを感ずる理由として、今の偽証の告訴などはほとんど告発が取り上げられておらない。また立証がきわめて困難だということから、制度の根本的な改革の上からも、はたして偽証有罪判決ということのままでいいのかどうか。法的安全性ということからいえば、ここまでしぼるのは望ましいが、あるいは誤判を正すとか、あるいは司法の威信を正すとか、あるいは実体的真実を再発見するという意味からいえば、私は、今の有罪判決の確定ということも、偽証とか誣告の場合には非常に厳に失する、実際の運用上厳に失するということもあるということ、御承知だろうと思いますけれども、私の経験から、ちょっと参考に申し上げます。
  42. 植松正

    植松参考人 おっしゃること、実情として大いに傾聴すべきことだと思いますし、御意見の、ゆるやかにするということもよくわかるのですが、ゆるやかにした場合には、せっかく三審制度で確定したのが、またちょっとした証拠が出てきても争われるということになると、ずいぶん困るんじゃないかという点を私は心配するものですから、反対の面も考えるわけでございます。  それからこの吉田石松氏の事件に関して、ちょっと今思いつきましたので、本委員会の御参考までに申し上げるとすると、庄太郎という人が大へんうそつきだということが、前からたびたび出ているものですから、これの精神鑑定というようなものが必要じゃないか。それからもう一つは、これは吉田氏に同情する面からいうと気の毒になるのですけれども、吉田という人も非常に熱烈に訴えている。これはいい言葉で言えば熱烈ですが、反対の面から言えば執拗、こう言えるかもしれないので、とかく精神的に病的な素質を持った人は、精神医学の方では好訴症という症状もあるくらいですし、間々そういうものがありまして、松沢病院の院長が訴えられたりした事件もたくさんあるくらいですから、そういう面からいっても、この人についても精神状態の健全性を証明してかかることが必要じゃないかという感じを抱きます。
  43. 後藤信夫

    後藤参考人 刑務所におきましてこう然として、自分は囚人ではないから労務に服しないと言って、実は刑務所内で非常に困ったわけです。そこでこれは何らか精神上の異常がありはしないかということのために、特に刑務所内で、精神鑑定を入れましてつぶさに精神の鑑定をした。それはもう証明済みでございます。
  44. 林博

    ○林小委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。参考人の各位には、御多忙中長時間にわたって貴重な御意見を述べていただきまして、まことにありがとうございました。  次会は公報をもってお知らせすることといたしまして、本日はこれにて散会いたします。    午後三時三十四分散会