○本多
説明員 ただいまの点に関連いたしまして、この前のお話の中に時間の問題がございましたのですが、その点について私の方といたしましてはさらに再調査をいたしました。
それを若干
説明いたしますと、四人ばかりの
基地の労務に従事しておる人たちに当たっておるわけですが、まず第一番目には、佐世保
基地の衛生
責任者をやっております来山さんという人がおるわけでありますが、この人に事情を聞いてみますと、当日の状況は、その来山という人は事務所の中で仕事をしておったようでございますけれ
ども時間は、この人は、はっきり時計を見ておらないようですが、大体十時二、三十分ごろというような
程度の話でございますが、事務所内の通訳をしておる浦田雅男という人、この人は
あとから出て参りますが、この人から、メイン・ゲートに負傷者が出たからすぐ兵隊と
一緒に行ってくれ、それから、早岐町の樽美病院に運んでもらいたいというような指示を受けておるわけであります。この人が直ちに救急の薬品箱などを持ちまして、兵隊の車に乗って、二分くらい現地までかかるそうですが、二分間くらいで到着した。そのときにはどういう状況にあったかと申しますと、中尾さんが車の運転台に倒れておる。それから、
アメリカの兵隊が二人ばかりいて、その血をふいたりして介抱している状況であった。そこで、これはいかぬというので、すぐ担架を持ってくるようにということを言いまして、直ちに兵隊が担架と毛布を持ってきた。担架を持ってきて、それにみんなで手伝って中尾さんを寝かせまして、自分の車で運ぼうとしたときに、早岐町の方からものすごいスピードでサイレンを鳴らしながら救急車が到着した。そこで、結局その救急車に乗せて運んだ。こういうふうに申しております。
それからまた、佐世保
基地の輸送隊に勤務しておる運転手の須山という人、この人は救急車の運転手でありますが、この人の話を聞きますと、この人は佐世保
基地におるわけですが、当日の十時二十五分ごろ、ディビス一等下士官から、針尾の警備隊で負傷者が出た、すぐ救急車で行ってくれという命令を受けたので、自分は直ちに支度をして
基地を出発した。そのときに時計を確かめた。これは出発と到着は必ず記録するようになっておるらしいのですが、時計を見たら十時二十五分であった。十時二十五分に出発したわけですが、人命救助ということで、非常に急がなければならないというので、サイレンをならして時速六十キロ以上のスピードで出発、車内には兵隊と下士官が一人ずつ乗っていた。事故現場に到着したのが十時四十分ごろ、これは時計で確かめておりますが、十時四十分であった。結局その間十五分を要しておる。このとき現場の状況はどうであったかと申しますと、
日本人の労務者が二人ばかりと海軍の兵隊がおって、中尾さんという人をほかの車に乗せようとしておった。自分は直ちにそれを中止させて、この救急車に乗せなさいということで救急車に乗せて、すぐまたサイレンを鳴らして六十キロのスピードで引き返した。そうして、佐世保駅の近くに来たときに、同乗しておりましたディビス一等下士官が、
日本人の病院に運んだ方がいいだろうということを言ったそうです。そこで、自分が知っておる比較的
施設がいいといわれておる共済病院に運んだ。この共済病院に着、たときが十時五十五分であったということを言っております。
それから、もう一人は、針尾警備隊の通訳をしておる浦田雅男さんという人ですが、この人が当日針尾の事務所で仕事をしておったようですが、十時二十三分ごろ、事故現場の哨舎から、自分の側におるペイン一等下士に電話がかかってきて、電話を聞いてみると、負傷者が出たという報告であったそうであります。そこで、直ちに一等下士の命令でキャセディ兵長がすぐ自動車で出て行った。自分は、これはいけないというので、ボーガスという兵隊がその車でこれも現場に行くということになっておったので、来山という衛生
責任者の人に
一緒に乗って行ってくれということを言ったそうであります。
それから、もう一人の人は、これは針尾警備隊の労務安全
責任者である吉田さんという人ですが、この人は、当日は自転車に乗って
基地の弾薬庫を回って歩いてその異常を確めて歩くというような仕事をしておった人らしいのですが、この人は十時二十分前後表門の方に向かって自転車で走っておった。そうすると、事務所の方から非常なスピードで自動車が走って来た。非常にいつもと違ったうろたえたような
感じを自分は受けたので、それを見ますと、それには衛生主任の来山さんが乗っていた。これは何かあったのではないかと自分は直感したので、その
あとから自転車でついていった。そうして、現場に到着してみますと、そこでは、来山さんとそれから
アメリカの兵隊が、運転席に倒れておる中尾さんを抱き起こして、流れている血をふいたりして手当をしているところであった。それで、その来山さんという人が、これは衛生兵出身でそういうことがよくわかるそうですが、すぐ担架を呼んでくれということを米兵に頼んだ、それで、二、三分くらいで担架がそこへやってきたので、自分も手伝って担架へ乗せて、そのとき現場にかけつけてきた救急車に移したということであります。
それから、もう一人は西川さんという人でありますが、この人は
基地の警備員で、事件の当日は、弾薬庫見回りのためにちょうど十時ごろ
基地の北端の弾薬庫に着いたのだそうです。この弾薬庫から事故現場のメイン・ゲートまでは約二千メートル近くあるというのでありますが、そこで、弾薬庫で時計を見たときはちょうど十時だった。それから、そこを回ってちょっとたったときに、本人は大体一、二分ということを言っておりますが、例の被害者である中尾さんの運転する車が北の弾薬庫にやってきて、そこから折り返してメイン・ゲートの方に向かっていったということを言明しておるわけです。
こういう状況から
検討いたしまして、中尾さんが
最初にその歩哨の位置に行ったのが大体十時五分前後ということが言得ると思います。それから、そこでラングという兵隊を乗せまして事務所へ行って、用便を足して帰ってきておる。その間、本人の中尾さんの話では、大体自分は十五分くらいかかったように思っているというように言っておりますが、大体まあ十二、三分から十五分
程度が経過しておると見るのが至当であろうと思います。そういうふうに計算して参りますと、どうしても大体十時二十分前後に帰り着いたというように
判断せざるを得ないわけであります。十時二十分ごろにそこに到着して、ラングという兵隊がおりて、一たん哨舎の中に入りまして、それから出てきて点検をやって暴発をした。こういう事態で、その暴発の電話を受けたのが、その事務所では十時二十三分、こういうことになっておりますから、まず、われわれの
判断といたしまして、きわめて短時間であるということは、動かし得ないということに
考えているわけでございます。
こういう状況で、しかも、この前もちょっとお話いたしましたが、中尾さんの話を聞いてみますると、ラング二等兵あるいはペイト二等兵というものと中尾さんは、前から顔見知りであるわけですが、決してこの連中は平素から
日本人に対してとやこういう
感じを持っているわけではなしに、今まで自分に対してもそういうことをやったことはない、また、その当日も何事もなくきわめて順調に仕事をしておったので、とうてい自分をねらったとかそういう悪意があったとは受け取れないということを言っております。そういう諸般の状況を
考えまして、そこで拳銃をもてあそぶというような状況にはなかった、また、中尾さんに対して悪意を持ってそういうことをするというような状況もなかったということを
判断したことは、それで一応妥当であるというふうに私
どもは
考えております。