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1962-02-14 第40回国会 衆議院 決算委員会 第7号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十七年二月十四日(水曜日)    午前十時二十分開議  出席委員   委員長 鈴木 仙八君    理事 荒舩清十郎君 理事 木村 公平君    理事 高橋 英吉君 理事 小川 豊明君    理事 勝澤 芳雄君 理事 西村 力弥君       宇田 國榮君    鈴木 正吾君       藤井 勝志君    古井 喜實君       牧野 寛索君    久保 三郎君  出席政府委員         外務事務官         (移住局長)  高木 廣一君  委員外出席者         外務事務官         (移住局外務参         事官)     鶴我 七蔵君         外務事務官         (移住局業務課         長)      高良 民夫君         外務事務官         (移住局調査官)田村 坂雄君         農林事務官         (振興局参事官)橘  武夫君         農林事務官         (振興局拓植課         長)      三善 信二君         参  考  人         (日本海外移住         振興株式会社監         査役)     上塚  司君         参  考  人         (日本海外協会         連合会元ドミニ         カ支部長)   横田一太郎君         参  考  人         (元外務省横浜         移住あつせん所         長)      古関 富弥君         参  考  人         (元農林技官) 中田 弘平君         専  門  員 黒田 久太君     ————————————— 二月十三日  委員久保三郎君及び芳賀貢辞任に  つき、その補欠として野原覺君及び  永井勝次郎君が議長指名委員に  選任された。 同月十四日  委員久保田藤麿君、永井勝次郎君及  び野原覺辞任につき、その補欠と  して牧野寛索君、芳賀貢君及び久保  三郎君が議長指名委員に選任さ  れた。 同日  委員牧野寛索辞任につき、その補  欠として久保田藤麿君が議長指名  で委員に選任された。     ————————————— 二月十三日  昭和三十五年度一般会  計予備費使用調書  (その2)  昭和三十五年度特別会  計予備費使用調書  (その2)  昭和三十五年度特別会  計予算総則第十一条に  基づく使用調書(そ  の2)  昭和三十五年度特別会  計予算総則第十二条に (承諾を求  基づく使用調書   めるの件)  昭和三十六年度一般会  計予備費使用調書  (その1)  昭和三十六年度特別会  計予備費使用調書  (その1)  昭和三十六年度特別会  計予算総則第十一条に  基づく使用調書  昭和三十六年度特別会  計予算総則第十二条に  基づく使用調書 は本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  昭和三十四年度一般会計歳入歳出決  算  昭和三十四年度特別会計歳入歳出決  算  昭和三十四年度国税収納金整理資金  受払計算書  昭和三十四年度政府関係機関決算書      ————◇—————
  2. 鈴木仙八

    鈴木委員長 これより会議を開きます。  昭和三十四年度決算中、外務省所管について審査を進めます。本日も引き続きドミニカ移住問題について、参考人からの意見聴取及び関係当局に対する質疑を行ないます。  御出席いただいております参考人は、日本海外移住振興株式会社監査役上塚司君、日本海外協会連合会ドミニカ支部長横田一太郎君、元外務省横浜移住あっせん所長古関富弥君、元農林技官中田弘平君の四名でございます。  参考人各位には、御多用中本委員会に御出席をいただきありがたく存じます。本委員会におきましては、さきにドミニカより帰国された移住者方々から、現地実情、また帰国するに至った経緯等について実情聴取を行なったのでございますが、本日はドミニカ移住について、それぞれのお立場において関与された参考人各位から御意見を聴取いたしたいと存じます。参考人からの意見聴取委員質疑によって行ないますので、さよう御了承願います。  質疑を行ないます。質疑の通告がありますので、順次これを許します。木村公平君。
  3. 木村公平

    木村(公)委員 当委員会は、先般来ドミニカ移住問題につきまして、国政調査の一環として検討を加えて参ったわけでございますが、先般は、ドミニカ移住引き揚げ方々から、詳細に引き揚げ模様を伺いましたので、本日は、ここに御出席参考人諸氏のうちから、引き揚げ方々との主張がだいぶ違うようでございますから、その点について少し検討をいたしたいと思いますので、率直に一つお答えをいただきたいと思います。  特に中田弘平君は元農林技官で、現地調査をなさった方でありまして、この中田弘平君の現地調査の上に立って移住が行なわれたような模様でございますので、中田弘平君に対しましては、一つ後ほど十分いろいろ伺いたいと思います。  それから、元外務省横浜移住あっせん所長でありました古関富弥君に対しましても、若干お伺いすることがございますが、初めに私は、日本海外協会連合会の元ドミニカ支部長横田一太郎君に少しくお伺いをいたしてみたいと思います。  まず横田さんはいつドミニカに行かれて、いつまで滞在され、ドミニカにおいてはどのような研究あるいは調査をなさっておられたのでございますか、その点をまず伺っておきたいと思います。
  4. 横田一太郎

    横田参考人 私は昭和三十一年四月から昭和三十五年十二月まで、移住者方々の引き受け、定着業務をしておりました。
  5. 木村公平

    木村(公)委員 そういたしますと、引き受け、定着ということはよくわかりませんが、ドミニカおいでになって、日本から参りました移住者を引き受けて、そうしてそれに営農をさせるためにいろいろ助言をされたり、あるいは協力されたりしておられたのでありますか。
  6. 横田一太郎

    横田参考人 引き受けと申しますのは、船でトルヒーリョ港までお着きになりました移住者移住地まで輸送して、そうして移住地営農ができるようにドミニカ政府の係官と一緒にお世話するのであります。
  7. 木村公平

    木村(公)委員 そうすると、はなはだ失礼でございますが、横田さんは現地言葉事情なども、その前にしばしばおいでになってよく御承知であったのでございますか。
  8. 横田一太郎

    横田参考人 まず言葉は、私は東京外語スペイン語を出まして、外務省に奉職して在外が長い関係上、言葉についてはそういうことですが、現地事情は、四月に初めて私はドミニカに移ったのでありまして、移る前にドミニカ事情は何も知りませんでした。向こうへ着いてから第一回の到着が七月二十九日ですから、それまでの間、各移住地で必要なところを全部回ってさっと見たわけでございます。
  9. 木村公平

    木村(公)委員 そうしますと、入植後の営農状況地区別に分けて御説明願いたいのでございますが、横田さんは営農状況は十分御調査になっておるのでございますか、いかがでございますか。もしも御調査でありましたら、入植地営農状況地区別に分けて御説明いただいたら幸いです。
  10. 横田一太郎

    横田参考人 さっき申しました三十一年四月から三十五年の十二月までの間の——移住地が七つもありますから、今問題になっておるおもなところだけ申し上げたいと思います。  まず第一番にネイバ地区でございますが、これはギネオバナナですが、ギネオの輸出あるいはブドウ等の栽培で営農成績が比較的よかったのですが、そのよかった時期も長いように記憶しております。  第二は、ハラバコア移住地区ですが、これは気候もよく市場へも近いというので、移住地の中でも最も営農成績がよかったように思いますし、将来も期待されておりましたが、過重入植であったように思います。特産物はトマトで、特にあの辺ではないジャガイモができたということも不思議なところです。  第三に、ドベルへ地区は、入植移住者の方も非常に努力されましたが、カナル復旧工事が非常にむずかしくて——ド国側技術が十分でなかったことだろうと思いますが、失敗しまして、ついにハラバコア転住ということになりました。
  11. 木村公平

    木村(公)委員 この間参考人としておいでいただきました引揚者お話によりますと、ネイバ地区というのは、帰国者の持っておる写真などを見てみますと、石ころばかりの耕地のように、われわれは知りませんから思われるのでございますが、事実石ころばかりのようなところなんですか、どうですか。もしも石ころばかりでないような写真でもありますれば、向こうは資料を持って来ておるのですから出していただきたいと思います。
  12. 横田一太郎

    横田参考人 住宅地付近石ころが比較的多かったのです。その他の耕地については、石は若干あります。今写真ができてくると思いますが、あのようなところはごく少なかったように思います。
  13. 木村公平

    木村(公)委員 しかし、帰国者お話によりますと、石ころばかりの写真を見せて、全然営農が不能であって、営農の上からは不適地だ、だから、向こうへ行くと同時に、直感的にこれはだめだというので、他に転住を希望されたということが、文芸春秋等報告にも出ておるようでございますが、ほんとう営農には全く不適地であったかどうかということを、横田さんからも伺いたいし、調査に当たられた中田弘平さんからも伺いたいと思います。
  14. 横田一太郎

    横田参考人 私は不適地ときめることは不適当と思うのです。といいますのは、ネイバ地区は初めはちょっと見たところは石ころが多くて、非常に妙な印象を受けますけれども、あそこの移住者の方も、初めそういう関係転住の問題が出ました。そして転住することを決定したように思っています。ところが当時、初め着いてからじきに植えましたギネオがよく当たりまして、あれはドミニカン・フルーツ・カンパニーで買ってやる、技術的指導もしてやろう、金も貸してやろうというので、非常に期待しまして、二作までは非常にうまくいって、現金収入も期待以上にあり、いつの間にか今の転住問題は立ち消えになった状態でありました。
  15. 木村公平

    木村(公)委員 中田さん、御調査なさっていかがでしょうか。
  16. 中田弘平

    中田参考人 お答えします。私はネイバ地区入植適地調査をいたしまして、これは入植適地であるという判定をいたしました。そのときに——今、土とか石ころとかという問題が出ておりますが、土の調査も、与えられた条件の中ではできる限りの調査をいたしまして、常にかなり深い、まず一メートルくらいは土がある。それから、石ころはなるほど方々に散見されましたけれども、耕地として使う部分には一〇%か一五%くらいな石ころがまじっておるので、これは営農上大した差しつかえはない、将来こういうものをだんだん除去していけば、むしろいい耕地になるだろう。その地区乾燥地帯でありまして、水が豊富に供給されるかどうかということが、私の判断の一番ネックになったわけであります。水の問題については、ずいぶん神経質に調べましたが、これはドミニカ政府説明もよくありましたし、それから現地にも、現にこれは小さい水路でございますけれども、水が流れている水路がございます。そういうものの水源を探して参りました。もちろんドミニカ国政府農務官の案内を得て、この水源調査に参りました。当座入植者も、営農用の水としてはこれがあれば大丈夫である、もっとたくさんこの地区を広げて入植した場合はどうなるのかということを聞いたように記憶しております。それについてはドミニカ国政府なりあるいは政府から、間接でありますが、要するに日本大使館なり海外協会連合会等から御説明がありまして、ドミニカ国政府は大々的な水路開発計画も現にやっておる。それはどこにあるかということで、現在ある水路を見に行ったときに、一体どこへその水がくるのだということを尋ねたように記憶しております。そうすると、センター・ラインと申しますか、水路中心線を発見いたしまして、農務官説明によってもここに新しい水路を作る計画である——これは要するに計画でありまして、はたして実現するかどうかということについては、私が判断せざるを得ないような状況であった。それで、大使館にもそういうことを言って相談をいたしましたが、ドミニカ国政府の責任ある立場の人が、こういう計画で進めるのだということを言っておる。しかのみならず、大使館お話では、ドミニカ国というのは、約束をしたことはこれまでも守っておるのであるし、これはうそだろう、そんなことはできやしないだろうということは、言えないじゃないか。それじゃ、こういうものは将来できてくる。当座のものは水がございます。それで営農に適する土地である、従って入植適地であるという判断をいたしました。
  17. 木村公平

    木村(公)委員 営農適地であるとおっしゃることは、横田さんからも中田さんからもおっしゃるのでございますが、移住引揚者の持って参りました写真などをたくさん見ていると、われわれしろうとでございますけれども、営農適地とは表見的には見えないわけなんです。そこで営農適地であるといわれる証拠になるような写真か何かありませんか。口では営農適地だとおっしゃる。現実の写真を見てみると、われわれしろうとでは営農適地とはとうてい思えないような石ころばかりの写真がここへ出されてくる。そうすると、われわれは判断に苦しむわけですが、写真等がありますれば一つ御提示をいただきたい。  先ほどの横田さんのお話によりますと、バナナブドウネイバ地区で当初非常によくできた、そうしてどこかで引き受けてくれて高く売れたというようなお話があったが、そんなに作物ができておったとするなら、その後できなくなった原因はどこにあるかということも一ぺん伺っておきたいと思うのです。
  18. 横田一太郎

    横田参考人 私はその後の事情——昭和三十五年の十一月前の事情から考えますれば、おもなものはやはり水だろうと思います。
  19. 木村公平

    木村(公)委員 先ほどの横田さんのお話によると、ギネオというものが非常にできて、二作までくらいは良好であった。そうして移住を希望した者は一時はおったけれども、ギネオが大当たりであったために移住をあきらめたという御報告がありましたので、それならば、それほど作物ができたのに、できなくなった原因がどこにあるかと私は質問したわけです。そうすると、それは水だろうとおっしゃる。それから中田さんのお話によると、水が一番心配だからいろいろ調査した。ところが、向こう政府では、足りない水を補給するために水を引く計画もあるという話である。自分たち大使館に行っていろいろ聞いてみると、ドミニカ政府うそは言わないものである、だからその計画は必ず実行されるだろうと信じたので、水の点においても、現地報告としては、大丈夫だろうという判を押して報告したというようなお話があったのですが、しかし、その後計画がどういうようになったのか、水も出てこなくなったようでありますし、また、作物もとれなくなったようでございますので、その原因だと思われることをもう少し詳細に、中田さんからも横田さんからも伺っておかないと、これから私どもが質問することがむずかしくなってくるわけです。  それから、水の供給量は削減したのかどうか、計画通り設備がされなかったかどうかというような問題、それから、十二時間くらい給水があれば今でも作物ができるように、どなたか引き揚げてこられた人のお話があったのですが、現在十二時間くらい給水できる水があるのかないのかというようなこともあわせてお二人から伺っておきたいと思います。中田さんでは現段階のことはおわかりにならなければ、横田さんが一番新しく長くいらっしゃったんだから、横田さんからも伺いたい。中田さんは、向こう計画を信用なさったということもやむを得ぬかもしれませんが、日本外務省が、向こう政府うそを言わないんだと、そういうような外務省を信用なさって、多分この計画は遂行されるだろうと思っておったけれども、計画が遂行されなかったかどうかというような問題ですね、その点も一つ伺っておきたい。
  20. 横田一太郎

    横田参考人 さっきの御質問の点からお答えしますが、十二時間給水があればだいじょうぶだろうか、こういう御質問ですが、これは時間だけちょろちょろ流れてもだめです。その量によるわけですから、あのカナルが一ぱい十二時間出れば、私のおったときのあの耕地ではだいじょうぶと思います。そればかりでなくて、もう一つ大きい一本の水路をつけるということを言っていましたが、その事情は私今存じておりません。
  21. 中田弘平

    中田参考人 先ほど御質問があったことに関連いたしますが、ここに私が調査した当時の私が撮影した写真がございますので、その焼き増しをしていただきまして、これを一つ参考に見ていただきたいと思います。それはネイバ地区です。(写真を示す) それから水のことにつきましては、私はおっしゃる通り、当時のことはそういう事情でありましたけれども、その後どういうふうに推移したかについては、一向存じません。
  22. 荒舩清十郎

    荒舩委員 議事進行、関連して。  先ほどから木村君の質問に対してお答えがあったようですが、一体水のないところなんですか。それから雨の降らないところなんですか。それから水道設備——水道といっても、堀を流すことでしょうが、そういうような設備をあなた方は最初からよく知らないでこういうことになったのですか。そこのところをよく一つお話し願いたいと思うのですが……。
  23. 横田一太郎

    横田参考人 初めに作られたカナルは十分でありまして、(「カナルとは何だ」と呼ぶ者あり)堀です。水路です。水路はやや小さいと思いまして、そしてちょうど中田技官水源地にも行きました。そして、これだけでは移住者がふえては困るから、これじゃだめだが、この先どうなるんだということを聞きましたら、エンリキヨ湖という塩水の湖があるのです。そしてその上の方に自然の噴水、ほんとうの真水の出るところがある。その辺から水路を引いて、その土地を全部やる、これは全部でなくても、その付近をやるのに十分できるだろうと初めは言っていました。
  24. 木村公平

    木村(公)委員 ただいま中田農林技官のお写しになったという写真をここで拝見しておるわけですが、皆さんに順次回しますが、石ころは何にもないのです。場所ネイバじゃないのですか。
  25. 中田弘平

    中田参考人 それはネイバ地区です。
  26. 木村公平

    木村(公)委員 これは耕作地であることは明らかだと思うのですが……。
  27. 中田弘平

    中田参考人 まだ耕作ではありません。(「原野ですか」と呼ぶ者あり)開拓したばかりで、いまだ耕作に着手されてないところです。
  28. 木村公平

    木村(公)委員 これを掘り出したら石が出てきたのですか。
  29. 中田弘平

    中田参考人 というんです。私はわかりません。
  30. 木村公平

    木村(公)委員 あなたは、そのときには一メートルくらいは土があるという御調査で、この文芸春秋によりますと、なかなかあなたも一生懸命にやっていらっしゃるようで、「二日間にわたってネイバ地区を十分に調査し、土も取って都会へ運んで調べ、その上で優秀と判断し、それを発表なさった」というような御発言があるようですが、そういうことでございますね。
  31. 中田弘平

    中田参考人 そういうことです。
  32. 木村公平

    木村(公)委員 それでこれをごらんになって写真をおとりになって、そうして大体調べてみたところが、一メートルまでぐらいは土があった。日本でも三尺土があればいいとしたものですが、そこで大丈夫だというので土をまた都会まで運ばれて、優秀だ、土壌もいいというので、適地だということを報告されたわけですね。
  33. 中田弘平

    中田参考人 そういうわけです。
  34. 木村公平

    木村(公)委員 ところが、掘ってみると、一メートル下かニメートル下か知らぬが、あのような写真石ころばかり……。同じ場所なんでしょう。
  35. 横田一太郎

    横田参考人 これがちょうど植えたところなんです。入植したところです。   〔横田参考人木村(公)委員に写   真を示す〕
  36. 木村公平

    木村(公)委員 これを掘ったら石が出てきたのか、それともあの石ころのところは別のところですか。これは横田さんどうですか。われわれはわからない。
  37. 横田一太郎

    横田参考人 家の付近は、あの写真のように非常に石ころが多いのです。わざわざ石を集めたところもあるのです。その他石ころの多いところもあります。だけど、こういう耕地もあることも事実なのです。これを一つ……。
  38. 荒舩清十郎

    荒舩委員 関連して。今木村君の質問と御答弁とかなり食い違っておるようなんですが、一体耕作地として石もあれば岩もあるところもありましょう。しかし、そこへ移住したら十分農家としてやっていけるような見込みがあったとあなた方は判定したわけですか。
  39. 横田一太郎

    横田参考人 そうです。
  40. 荒舩清十郎

    荒舩委員 なお、水を十分とれるようにできるのだというお見込みだったのですか。そういうところをよくお話を願わないと、行かない人がここで話をし、質問をするのですから、この写真で見ると、ずいぶん土地もいいように見えるし、それから違う写真だと、何か石ころばかりのところのように見えるしするので、もう少しその周辺の土地事情や、それから雨量の問題、あるいは水の供給が、もう少し手を尽くしたらできたのかというようなことを一つお話を願って、審議を進めたらどうかと思うのですが、どうぞ御答弁願います。
  41. 横田一太郎

    横田参考人 私はさっき水の問題だと申しました。それで、私が着任して初めて行って調べたら、とにかくその時分は一番初めは二十四時間水を出していた。というのは二つのなにがありまして、一つ飲料水の方なのです。これは各戸へ水道が引いてあるのです。それで、今の耕作地の方へは、大きいカナルが一本ありまして、それからずっと流れるようになっている。それで、初めは非常に水が豊富でありました。その入植者の数と水との割合でございます。それでそのうちに天気が——あそこは妙なところでして、一メートルぐらいの違いのところで、ここまでは雨が降るがここは降らぬというところなんですね。どういう気象の関係かわかりませんが……。それであの奥にある山にたまった水を引いているわけで、天水というのはそう望めないのです。それがその付近耕作地がだんだん広くなったのか、ドミニカ側で初め二十四時間だったと思いますが、十二時間に削減し——それでもまだ、まあできました、水が割合ありましたから。それから私が帰るときは七時間だったと思います。あれは昭和三十五年の、あそこへ行きましたのは十月ごろだったと思います。
  42. 荒舩清十郎

    荒舩委員 給水がですか。
  43. 横田一太郎

    横田参考人 給水が七時間では、やや少ないというような私は印象を受けました。
  44. 木村公平

    木村(公)委員 それから元外務省横浜移住あっせん所長をやっておられました古関さん、いらっしゃるのですか。——これはなかなか重大なことのようですが、三十二年の十二月にドミニカ大使館竹内書記官一緒ネイバ地区へ行かれましたですか。
  45. 古関富弥

    古関参考人 参りました。
  46. 鈴木仙八

    鈴木委員長 参考人にちょっと御注意申し上げますが、御発言の際は、そのつど委員長の許可を得て行なっていただくように願います。
  47. 木村公平

    木村(公)委員 そのときにこういうことが——ここでも何度か出てくるのですが、石が多いという話を聞いて、石は三年くらいたったらくだけて肥料になるということをおっしゃったというのですが、これは神奈川県の小市という人も言っておりますし、嘆願書にも出ておるし、それから、この間ここでも移住者引揚者の二、三の方からもそういう話が出て、速記にも載っておりますが、これはどういう意味でおっしゃったのですか。
  48. 古関富弥

    古関参考人 私は移住あっせん所長の現職でもって三十二年の十月四日発のあふりか丸で移住者を引率して参りました。そのときに、ネイバ地区に入った家族が十五家族おりました。船は十一月の二日に着きました。そのときに、全部関係者が迎えに出まして、向こうからも農務大臣なんかが出て大いに歓迎しまして、それから移住者も、非常にいいところに来たという感想を述べて、官憲の歓迎にこたえた。そういうことでありまして、荷物の検査というものはほとんどやらずに、トラックに乗せて、その日のうちにネイバに運んだことを見まして、非常に安心して私は航海を続けました。  それから約一月ばかり、アルゼンチンからブラジル方面を視察いたしまして、帰りにドミニカに寄りまして、ドミニカの視察をしながらネイバに参りました。十二月初旬でございましたが、そのときに、どうせ私が引率して参りましたものですから、皆さんが集まってくれまして、いろいろなよもやまの話をいたしまして、そのときに、石ころがあるということはみんなが言っておりました。私も見ますと、家の付近あたりには石ころが多かった。ただし、耕地はそのときはすでに耕作してありまして、向こうでもってちゃんと整地をして水道を引いてやっておる。それで、私が行ったときは水は流れておりました。その土もだんだんとぬれて、ずっといき渡っておる。そこへ移住者はトマトかなにかの苗を盛んに植えておる。それから、大きな石と申しても、つけもの石くらいのものはあるのでありますから、それをわきに片づけておったわけです。それはうねにして片づけておった。そういう状態でございますから、私が皆さんに話したときに、石が多いと言うけれども、石の上にも三年ということもあるのだから、まあ皆さんごしんぼうなさいということを申しました。決して石が三年過ぎれば肥料になるとは申しません。私は外務省に入りまして、私の経歴上、移住問題をずっと手がけておりまして、また引率者としての責任上、入植者を激励するということが私の任務であるということを考えておるのでありまして、皆さん、最初からそうへこたれずに、せっかく海外に出たのであるから、意気阻喪せずにがんばって下さい、こういう激励の意味で申しましたので、石が三年過ぎれば肥料になるとは、決して申しません。
  49. 木村公平

    木村(公)委員 上塚日本海外移住振興株式会社監査役に伺いたいと思いますが、このドミニカという国は、伺うところによりますと、面積は九州と四国を合わせたくらいのカリブ海に浮かぶ共和国で、人口が二百七十万人、うち一割強が白人で、二割が黒人で、あとは混血児である。スペイン領、フランス領を経て、一八〇〇年独立して以来、百年間に政府が九十二回変わったという忙しい国柄である。この前まではトルヒーヨ元帥が独裁的に押えておったのですが、そういうところに移住適地として、このドミニカ移住の一番もとは、上塚先生が向こうへ行かれて、そうしてトルヒーヨ元帥にお会いになっておきめになったというお話を伺っておるのでございますが、歴史的に見ましても、百年間に九十二回も政変がある。政府が転覆されたり、変わったりしたというような、政情不安定な、しかも当時は極端な独裁政治の国だったのですが、そういうようなことも、外務委員長もやっておられた方でございますから、十分承知の上で、こういう協定をお結びになったわけでございますか、一つその点の内容を伺いたいと思います。
  50. 上塚司

    上塚参考人 お尋ねのドミニカ共和国が、成立以来非常にたびたびの政変をやりましたことはお示しの通りでございます。しかし、トルヒーヨ元帥が一九三〇年に政権を握りまして以来、ドミニカの政情は一変いたしまして、非常なる安定を続けて参ったのであります。彼は極力国内の産業発展に努めまして、そうして、かつて彼が政権を握る前は、海外に非常な借金をいたしておりました。また、貿易も逆調を続けておったのでありますが、彼が政権をとって以来、極力産業の発展と海外貿易の伸展をはかりましたために——私が参りましたのは昭和二十九年であります。これが最初であります。その当時におきましては、財政は全く革新せられて、一九四六年には外債ですね、それは全部返しました。それから、一九五三年には国内債も全部返しまして、一厘の借金も持たない国家にしてしまった。それと同時に、海外貿易が非常に発展いたしまして、私の参りました当時は、年間、毎年四千万ドルから五千万ドル程度の輸出超過になっておりました。従って、その貨幣価値は中南米を通じまして第一位にありました。最近まで、その価値はアメリカン・ダラーと全くパー、匹敵しておりました。平価であります。そういうように、このトルヒーヨ元帥が政権をとりまして以来、鋭意国内の発展をはかり、財政を改革し、行政におきましても、いろいろの社会制度をしきまして、そうして住宅問題のごときも、あるいは道路のごときも、非常なる改善をみておったのであります。そうしてこの大統領のもとに、私が参りましたときは、すでに二十余年の間平和なる、きわめて発展的な国家を作り上げておった当時でありました。しこうして、このドミニカ国日本との移民問題の起こりは、かねて昭和二十九年の初めごろから東京に駐在いたしておりまするドミニカの大使のグスマン・サンチェスという大使がたびたび外務省に参りまして、ドミニカ日本移民導入に対する希望を述べております。私も当時外務委員長をいたしておりまして、そういう関係からか、私のところにも同大使が見えまして尽力を請うところがありましたので、私もたびたび大使と面会いたしまして話を聞いてみますると、大使は、本国のトルヒーヨ元帥、これは大統領を長くやっておりまして、当時はその弟のエクトル・トルヒーヨという人に大統領の位を譲りまして、自分は元帥として陸海軍及び行政府の首脳部に立っておりました。その人の非常なる希望によって、日本の移民を導入したいという意思を日本政府に伝えておることがはっきりいたしたのであります。たまたま昭和二十九年にブラジルのサンパウロ建設四百年祭がありまして、日本政府からも親善使節を派遣することになりまして、私もその一員に加わったのであります。そのとき外務大臣は、かねて懸案のドミニカ移住の問題について、ぜひドミニカに立ち寄って交渉をしてもらいたいという委嘱を受けたので、私は政府のメッセージを持って向こうに参りまして、そうしてまず外務大臣、内務大臣、農林大臣等に会い、それから大統領のエクトル・トルヒーヨ氏及び今の元帥のラファエル・トルヒーヨ氏に会いまして、移民問題についての口火を切ったような次第でございます。ところが、このトルヒーヨ元帥は非常な熱意で、しかもきわめて活動的な人であり、頭も非常に早い人でありまして、私と当時ただ一人の在留同胞でありました代理公使の福島茂吉君と二人で参ったのでありますが、二人が元帥の部屋の戸をあけようとすると、彼は自分で戸まで出て参りまして、私を抱くようにしていすに据えて、そうしてとうとうとして向こうの方からいろいろの条件を申しました。たとえば、土地の問題あるいは住宅の問題、農機具の免税の問題、輸送の問題、そういう問題について、もうすでに研究しておって、日本に許すべき事柄を申しました。その事柄は、その後の実績を見ますると、完全に同元帥はこれを実行いたしておるのでございます。その点につきましては、先だって来移住者からも詳しく申し述べたことであろうと思いまするが、今の土地の分譲の問題、それから住居の問題、生活費補助の問題、諸般の公共施設の問題、これはことごとく彼が最初に言明した通りのこと——通りではない、それ以上のことを、実行いたしておるのであります。ことに生活費の問題のごときは、この間も申しておりました通りに、一家族の一人についてアメリカのダラーで六十セントずつを毎日給与いたしておりまして、最初は、最初の収穫があるまでということであったのが、一年となり一年半となり、ついに三年、四年もこの給与を受けておった者もあります。住居のごときは、御案内のごとくコンクリートのブロック建でありまして、屋根、壁、ことごとくコンクリートのスレートを使っております。そうして四部屋ございます。それに台所がついておる。こういうものを建てて給与いたしておるのでございます。かくのごとき補助金、生活補助を出し、あるいは住居を建ててまで迎えてくれた移住国というものは、わが日本の移民の行く限りにおいてこのドミニカ以外にはございません。かくのごとく非常に強い意欲を持って、そうして非常なあたたかい手をもって迎えるということが明らかになりましたので、私は帰りましてこのことの推進を建言したような次第でございます。
  51. 木村公平

    木村(公)委員 ただいまの参考人上塚さんの御答弁によりますと、海外移住の歴史にもまれなほど当時のドミニカ日本移住に対して熱意も示し、好意も持ち、あらゆる施設の施策の点についても万遺憾なきを期しておられることを自分たち現地に行って見届け、大統領にも会って約束もいたし、その約束以上のことが果たされておったというお話でございますが、しかしながら、その後トルヒーヨ元帥が暗殺されて、政情が一変して、それから後の日本人に対するドミニカ人のやり方というものに対しましては、必ずしも上塚参考人のおっしゃるような状態ではなかったようです。そこで、元帥が暗殺された後の移住者がどのようなこんぱいをしておったか、どのような困難を体験しておったかというようなことについて資料等がありますれば、これは移住局長から一つ伺っておきたいと思います。
  52. 高木廣一

    ○高木政府委員 トルヒーヨ元帥が暗殺されましたのは昭和三十六年の六月でございます。ごく最近のことでございます。移住者移住地についての苦情を言い出されたのは、昭和三十五年六月ごろからであると思います。そうしてドミニカ事情は、この前も申し上げましたように、トルヒーヨ元帥が暗殺される前の年の八月に汎米諸国から国交断絶を受け、経済封鎖を受けた。それから、その前の昭和三十四年の六月にキューバのカストロの侵入軍が、ドミニカのちょうどまん中のコンスタンサの近くにおりた。これが動揺を与えた。それで、トルヒーヨ大統領が賠殺されましてからの事情といたしましては、今のネイバ及びハラバコアの方々が帰りたいということを言い出されておった。それから、その時分には、治安とかその他の問題は、われわれは報告を受けておりません。むしろ治安の問題が起こりましたのは——昨年の十二月ハラバコアの一部の移住者が帰って来られる方と残る人の両方あって、ハラバコアにおいて盗難がひんぴんとあるとかいうような話を聞いたわけであります。それ以外の移住地においては、全然何らの変化がなかった、こういうふうに了解いたしております。
  53. 木村公平

    木村(公)委員 そこで、そういたしますと、元帥の賠殺後において移住者に困難が加わったということでなく、暗殺前すでに一年ほど前から政情が不安定であり、反米諸国からボイコットを食ったようなことから、農産物なんかの販路を失ってだんだん困ってきたということですか。
  54. 高木廣一

    ○高木政府委員 そのように了解いたします。  実はちょっと御披露をさしていただきたいのですが、先日も、ネイバからお帰りになりました久保文雄さんが、参考人として移住地の非常な窮状をお話しになっておって、あたかも最初からネイバ土地が悪くてどうにもならなかったのだというお話をしておられたのですが、実はネイバの方は昨年の三月急に問題が起こった。その問題は、さっきも話がありましたように、石ころが多いようだということで、半分かわりたいというような話もあったが、まず作ってみてからということで、その後三十四年、五年までむしろ景気がよかったということなんでございますが、この時分のことはやはりお忘れになって、苦しかったことだけが残っているのではないかと思うのですが、実はお入りになって一年後に、久保さんが郷里の徳島県の海外協会にたよりを出しておられるのです。これを比較していただきますと、実際の状況が、非常に悲観せられたときと最初の一年、二年の状況とがバランスがとれて、公平判断ができるのじゃないかと思いますので、ちょっと披露さしていただきたいと思います。  これはお入りになってちょうどまる一年目の手紙のようでございまして、昭和三十三年十月十五日付でございますが、それには「過日ドミニカの新聞には室戸台風以来の大きな台風にみまわれ伊豆半島、横浜、東京方面に甚大な被害があった事が報ぜられており、徳島は如何でしたか御伺い申し上げます。小生移住の際には一方ならぬ御厄介になりました。感謝いたしております。昨年九月二十三日小雨にけむる小松島を発ってから早くも丸一年を迎え感無量なものがあります。さてこのたびは絵と共に当コロニヤ(開拓者移住地)の模様などお報らせして少しなと後々の移住を志される人達のために参考ともなれば幸いに存じます。この絵をごらんの様にこんな美しい家に住んでおります。小生宅よりお隣りを望んだ絵です。添付してあります写真と参照して下さい。写真の方は昨年入植の際に写したもの、それを一年後の現在のそのままの姿を絵にしてみました。手前の家は」いろいろ色を書きまして「目もさめる様な美しさにペンキで化粧されています。少し離れた耕地から望むと巨大な花園の様です。台所、便所、別棟室は四部屋、そして家族数だけの上等のベッドが置かれ、勿論蚊帳、枕、純白のシーツ及びマットが付いており、屋根及び台所周囲は熱にたえる特殊な材料が用いられて一月当り一五〇〇ドル掛けたといわれるだけに立派なものです。移住者の住むには過ぎたる感があります。入植当時は未だ水道工事の最中で新築のホヤホヤでした。住宅三〇戸学校、教会、倉庫、事務所、管理官住宅(我々の世話をしてくれるドミニカ人の長)以上の建物がネイバ山脈の麓、目の前にはネイバ市、バウルコ平原を望む景色の良い緑の丘に建っていて」云々と書きまして、「丁度御伽話の中に居る様な雰囲気に包まれます。最寄りのネイバ市迄道程二キロ、募集要領にありました様に約束通り立派な直線のアスファルトの道路が最近に出来上り益々便利になりました。市からアイスクリン、パン、鮮魚等売りに参ります。ここでは毎週日曜日はドミニカ人も全部仕事を休みますので夜ともなれば公園で楽団演奏を聞いて憩い、かつ、情熱的な踊りにたのしく日曜の夜を過します。だからドミニカ人はみんな踊り上手です。小生宅では日曜日は映画をみに家族連れで出掛けます。」「「八月十五夜の茶屋」が来ました。」云々と書いてあります。「うちでは今バナナ園とブドウ園の建設に力を入れておりバナナは一本分上物で一ドル、下ツッ込みで七〇セント、アメリカの大きなフルーツ会社が買取りに耕地迄トラックで積みに来ての相場です。とにかくドルとペソと同値なので有利です。次にドミニカから飛行機で旅行するとすれば旅費は左の通りです。アメリカ、フロリダ半島のマイアミ迄大人往復一〇〇ドル、ニューヨーク往復二〇〇ドル、米領プエルトリコ島迄往復四一ドル、これで旅行出来ますから我々にも手の届かぬ夢ではありません。それからコーヒー園地区アグワネグロ入植の鳴門の五島さん一家も元気にやっている由聞きました。」というようなことが書いてあるのでございます。これは多分に現状を誇張せられ、家族を喜ばすようにお書きになったのだと思いますが、この前言われたような気分ではとうていこういうようなものは書けないのじゃないかと思います。  そのほか、たとえば神奈川県の海外協会にも、今度の運動の代表者になっておられます小市さんの手紙があり、日下部さん等も、いずれも一年以上たった、一年ないし二年半後の生活のことなんか書いておられます。これは神奈川県出身の日下部弘さんでございますが、「入植二年半生活も安定致しのんびりした気持で毎日過して居ります。」「現在、面積品種共にド国一番のブドウ園です。」云々といって、非常に安定したことを言っております。  小市さんは、やはり石ころがあって初め困ったことがあったのだろうと思いますが、「昨年お便りを差上げた頃植えつけたバナナがその後順調に発育し、この六月よりドミニカ・フルーツ会社に毎週四、五十本ずつ出荷しており、三万四千円前後の収入があった。今まで苦しかった過去一年が夢のようで、入植第一段階をどうやら突破できました。」云々というようなことが書いてあります。  その他各地からも同じようなことがございまして、われわれがドミニカを心配し出したのは昭和三十五年の六月ごろからでございます。ちょうどキューバの侵入があって一年目、そしてその六月は現地からの便りでございますと、生活補給金が減額ないし廃止されるような内報があったというようなことがございまして、これがやはり非常な動揺の原因ではないかというように思います。
  55. 木村公平

    木村(公)委員 ただいまの移住局長からのお話によりますと、その手紙が本物であることは間違いないと思いますから、初めは非常によかったように想像せざるを得ません。ところが、元帥が暗殺される一年くらい前からボイコットを食ったり、従って国内的にもだんだん手持ちドルも不足してきたでしょうし、おそらく輸出も減少したでしょう。そんなことから金がなくなって、補給金も減少せざるを得ないとか、あるいは打ち切らざるを得ないというような国内情勢に立ち至った。そんなことに非常な不安を覚えて、日本のあれにすれば昭和三十五年ごろから非常な不安を覚えて、帰りたがってきたということであるとすると、これはあながち移住政策の失敗だけで割り切ってしまうわけにいかないようなことになってくるわけです。  そこで私はここで移住局長に伺っておきたいのですが、今度帰ってこられた移住者の中で、今もなお内地におるよりは——ドミニカは困る、あそこは政情も不安定だし、元帥も暗殺されたし、現在もなおかつアメリカからきらわれておる、キューバ軍がおりてきたというようなこともあるし、伺うところによりますと、外人部隊に署名をさせられたというようなことまでも言っておる者がおるようですが、これは重大なことで、あるいはドミニカの国内法によると、移住者は義務としてそういうことに応じなければならないのかどうか、それは存じませんが、これは日本にとっては重大問題なんで、その点も中田さんから後ほど伺っておきたいと思いますが、この期に及んでは、引き揚げてきたあと、しからばどうするか、たとえば、先ほどもいろいろ社会党の諸君とも談合したのですが、石炭の離職者のように何とか一つ救ってやる方法はないかというようなことも、いろいろ実はわれわれの間でわれわれなりに考えておることもあるのですが、ところが聞いてみると、帰ってきた人の幹部の諸君は、むしろ内地におりたくない、今度は南米にでも行って、そして南米の新天地でもってやはりドミニカのような開拓事業に従事したい、内地でわずかな生業資金をもらって、ここで貧しい生活をするくらいならば、むしろ再び南米にでも行きたいということを、農林省あたりへ出向いて切望しておられるようですが、それはそうですが。移住局長さんのお耳に入っておりますかどうかも伺いたいし、外人部隊のことは、非常な誤解を受けますし、そして日本じゅうの青年に不測の不安を与えるようなこともありますので、中田さんから真偽のほどを、そしてもしも外人部隊の何かあなたが助言でもされたとするならば、ドミニカの国内法等から関連してやむを得なかったとか、何かそこに弁解、釈明をしておいていただくといいかと思うのです。
  56. 中田弘平

    中田参考人 外人部隊云々のことは、私は全然知りません。
  57. 木村公平

    木村(公)委員 それでは横田さんから一つ
  58. 横田一太郎

    横田参考人 これはレヒオンエストランヘーラの訳だと思います。私たちは映画に出てくるモロッコの外人部隊を想像しがちでありますが、これは全然違っていて、意味だけをとって訳せば外国人居留民団、これが私はこの場合最もよく出てくると思います。よくドミニカの外人部隊について述べられるときに、ドミニカ支部長という名前が出るのです。これが実際はドミニカ党支部長の場合があります。これはドミニカ党タハギン支部長というべきでドミニカ人です。それがいつの間にか党というのを略してドミニカ支部長がこう言ったとか何とか——官報に出ていましたので驚いておるのですが、私は仰せの通りそういうことを強制する権限もありませんし、強制できないのです。そういうことはいたした覚えは一度もありません。
  59. 高橋英吉

    ○高橋(英)委員 ちょっと関連質問を許していただきたいのですが、このドミニカ移住民の問題については、いろいろの点について論議されておりますので、われわれは最後にそれによって適当な判断ができるとは思っておりますが、一つ概括的にこういうふうな質問をしてみたいと思いますので、それに対してお答え願いたいと思います。  何と申しましても、ドミニカ移住民の人たちがむなしく恥を忍んで帰国されたということは厳然たる事実です。動かすことのできない事実なんですが、この原因がどこにあるかという問題、これがここで究明されておるわけなんです。たとえば、どこに誤算があるというふうに関係者の方はお考えになっておるか、移住局長お話によると、生活の助成金がなくなるようなことになったので、引き揚げてきたのだろうというふうにもとれるような御発言があるようですが、それだけのことなんでしょうか。そうすると、助成金がないとやっていけないということになれば、いわゆる移住民としての自給自足はできない、そういうふうなことになるのだろうかどうだろうかというふうな問題、すなわち、適地であったか不適地であったかというような問題、そういうような問題があるわけで、とにかくどこかに何か誤算があったのではないか、その誤算はどういうところにあるのか。先ほどちょっと御説明を聞きますと、過剰移住という言葉も聞いたのですが、過剰移住というふうなことはどういうふうなことになりますか。私は聞き間違いかもしれませんが、適正以上の移住民を送ったというふうなことになるのであるかどうか。そうすれば、どこに誤算があったか、手落ちがあったかというふうな問題になるわけですが、それぞれの観点から誤算があったかなかったか。誤算があったとすれば、どこにそれがあったかというふうなことについての御感想があろうと思いまするから、各関係者から大局的に、こまかいことは別にして、どういうところにこういうふうな悲劇が起こったか、こういうふうな間違いが起こったかということの御説明を願いたいと思います。
  60. 高木廣一

    ○高木政府委員 私は率直に申しますと、今度のドミニカ移住問題というのは、戦後の移住のいろいろの弱さが積み重なって、そしてこういうふうになってきた。特にカリブ海の政情でドミニカ自身の国防費がとられて、いろいろの施設をすることができなくなったということが契機になって爆発したのであるけれども、深く掘り下げればあらゆる面においての弱さがあったと思います。  しかし、これは同時に、戦後の日本移住が始まりました道程のいろいろな不完全なところが出ておるのではないか。これは、今から振り返ってみれは、われわれはもっとこうした——将来になれば、今やっておることでもっとこうすべきであるというようなことがある。移住というものはいろいろな点で強化し、整備していかなければならぬ。たとえば、移住者の選考にいたしましても、いろいろ問題があったと思います。そういう点で政府も責任があったと言われればあったかもしれません。しかしながら、移住早々のときにおける状況としては、ベストは尽くされていたのじゃないかというふうに思います。  それから移住調査につきましても、専門家を非常にたくさん集めて精密調査をするということも、これもどこまでの程度そういう調査ができるかという問題があると思います。戦後早々のときには、一般的な、たとえばドミニカであれば、最初調査して、そしてああいうような恵まれた条件で行って、かりに一つのところがだめでも、また次のところに転住ができるような向こう政府計画でありましたから、そういう点を、たとえばネイバの場合なんか、現地大使館、海協連限りで向こう政府の資料に基づいて募集は始めましたが、あとから中田技官に行ってもらったというようなこともありましょう。こういう点も当時の予算その他の点から考えてみて、今から振り返ってみれば、これも足らなかった、あれも足らなかったということはあるかもしれませんが、それがはたして法律上の責任までいくかどうかという点は、非常にむずかしい点であると思います。  私自身は、この間もお帰りになった方が私に言われたのです。また、ここで証言せられたのですが、高木移住局長は、向こうで責任があると認めながら、帰ってきて今度は責任がない、そんなことを言っておる。これも私は実は釈明したいと思いましたのですが、ネイバ、ハラバコアでも同じことを申したと思いますが、あそこに参りましたときに、私は在外邦人のめんどうを見るのは外務省の責任である、ことに移住局長のポストにおりまして移住者を送り出す者としては、皆さん——ネイバであの当時でございましたが、窮状をほうりっぱなしにするというようなことはない、これはわれわれが一番責任を感じておるのである、従って、国援法ということによって皆様をお帰しするのであります、われわれは道義的な責任は十分感じております——言葉は必ずしもはっきりしないのですが、そういうことを言ったと思います。そして、しかしながら、これを法律上の責任があって損害賠償と言われると、問題はきわめてむずかしい、かりに裁判せられても、これは簡単には片づかないと私思います。見ればネイバ方々は、三十才前後の非常に若い元気な人である、だから、皆さんはお帰りになったら、一つその健康とここで苦労せられたその忍耐といいますか、それを基礎に置いて、それがむしろプラスになるようにがんばりなさい、そういう点でわれわれは就職その他はできるだけの協力をしましょうということを私言ったのです。そのときネイバの方で一番最初に——私名前を覚えないのですが、割合色の白い非常に感じのいい三十才過ぎの方でございましたが、立ち上がられまして、高木局長が言われた通りであって、自分がここへ来たのは、自分の自発的なあれで来たのであって、今度帰してもらうことはありがたいと感謝いたしておるのでありますというお話を、その方がせられたのを覚えておるのであります。  そういう意味におきまして、この移住全体に対して、少しでもうまくいかなければ、たとえ国際情勢はどうであろうと、われわれとしては、移住局長としての職において十分その責任を感じておるわけです。そしてこのドミニカ問題を契機として、日本移住がしっかりと進んでいくように、移住問題の解決においても前向きにやりたい、こういうふうに思っておりまして、当委員会で冷静にこの問題を各方面から検討していただいているのは、私としては非常に感謝にたえない次第であります。これには予算その他のことも必要です。あるいは人物の養成、これは非常に大事なことでございまして、移住の専門家というものはなかなかそうおりません。これを強化すること、これは年を追ってだんだん強化していかなければいかぬというふうに私自身は思っております。  しかしながら、一番の爆発点になったのは、ドミニカの財政不如意ということと貿易のストップということであると私自身は思っております。なお、この問題の解決については、ドミニカに今残って、自分らはここで将来性があるのだとがんばっておられる方が相当おります。それから南米における日本人もこの動向を見ております。そして、もしこの移住というものが政府の丸かかえであって、一たん送り出したら、いつでも、途中でうまくいかなければ、これは政府が全部責任を持って損害賠償までやらなければいかぬのだということになってきたなれば、日本移住は進まない。進まないのみでなく、これは大へんなことになっていくというふうに私自身思います。ですから、このドミニカの政情によって帰られた移住者、これは素質について、いい人も悪い人も一緒にして、われわれとしては十分同情をし、この人たちが立ち上がってくれることに協力するということと、今の法律上の責任で損害賠償ということになったら大へんだということの二つを、私としては痛感しておる次第であります。
  61. 上塚司

    上塚参考人 今、高橋委員の御質問の点につきましては、私も高木移住局長と大体所見を同じゅうするものでございます。しかし、私は一番根本の問題は、今度の移住者の精神的問題ではないかと思います。私は、今回のごとく大挙して集団的に移住者が帰国したということは、日本移住史においても初めてである。また世界においても珍しいことであろうと思います。この点について私は非常に遺憾に感じております。  元来、移住というものは、一国の国民が家族をあげて他の国に移りまして、そうしてそこで最後の地としてそこの産業に協力し、開発していくのでございまして、その国の法律によって仕事を進めていくのでございます。従って、この開拓当初の数年間、場所によりますと、行きましてすぐ原始林にぶつかって、原始林を伐採し、これを焼いて土地を整地して、それに植えて、そしてその植えたものから収穫して、初めて自分の食料を得ることができるというまでの間、少なくとも二年、三年という間は、非常なる労苦が続くものであります。そうしてその労苦が続いて、その難関を突破して初めてやや安定して、そこに安住の地を求めるという気持になるのでありまして、それまでの間には幾たびか煩悶し、おうのうし、懐疑して、そうしてある場合にはもう日本に帰ってしまおう、あるいは他の地方に移転しようという志を起こすことがたびたびあるのであります。しかし、今日ブラジルでも、アルゼンチンでもあるいはアマゾンでも、居ついてほんとうに成功しておる人たちは、そういう難関を乗り越えまして、そしてあらゆる苦闘を越えてそこに落ちついて、しかも単に四、五年ではございません、二十年、三十年、最も成功した人は、五十年の苦労を続けた人にして初めてそこに今日のブラジルにおけるがごとく、あるいはアマゾンにおけるがごとく、あるいはアルゼンチンにおけるがごとく非常に大きな成功を見ておるのであります。ドミニカの場合は、まだほんとうの最初の難関にぶつかったばかりのところに、大挙して帰るということになってきたので、これが私としては非常に遺憾であります。この難関を突破すべきものであると私は考えておる。そういう点から申しまして、私はこの賠償問題等がこの間から論ぜられて、しかも相当莫大な賠償を要求しておりますが、こういうことがもし議会において認められるということになりますれば、それこそ海外において——現に先ほど高木局長が申しましたように、ドミニカにも半数は残っております。これらの人は、ドミニカの前途に希望を見出して、そしてここでやっていけるということを確信しておるから残っておるのであります。こういう人たちの考えも考慮しなければなりません。あるいはブラジルでも、アマゾンでも、ボリビアでも、アルゼンチンでも、行ったすぐというものは、みな現実の悲哀の暴露に悲観する人が多くありますからして、そういう場合にこういうことがたびたび起こるとすれば、あちこちにこの前例にならって帰ってくる人も起こってくるだろうと思います。そういうことは、私は日本移住政策の根本を破るものと考えますから、その点について一言申した次第でございます。
  62. 高橋英吉

    ○高橋(英)委員 移住局長上塚さんから御答弁がありましたが、その他直接関係された方々に対して私質問したはずなんですが、とにかく各関係者の大局的な、この悲劇の原因といいますか、そういうことをどうお考えになるかということについてお聞きしたいのです。石ころがあったとか、適地であったとか、不適地であったとか、いろいろ議論はありましょうけれども、大体においてどこに原因があったか、今の移住局長のは大体話がわかったし、上塚先輩からは精神訓話を受けましたのでよくわかりましたが、具体的にいろいろ直接移住地関係について関係された中田さん、横田さん、そういう方々から、この悲劇の原因をどういうようにお考えになっているか率直な御意見をお伺いしたい。
  63. 中田弘平

    中田参考人 私は当時入植適地調査を担当いたしましたので、その立場からお答えいたします。話を簡単にするために少し例を引かしていただきます。  調査と一口に申しましてもいろいろな場合がございます。たとえて申しますと、利根川の水量の調査をするというふうなことになりますと、利根川の何カ所かを選んで量水標を立てて、その量水標のある場所の側の断面を精密に観測測定いたしまして、量水標の何メートルの位置で水の流速がなんぼであるかというふうなことを、長い間かかって観測決定いたしまして、しかも、量水標を今度は毎日々々測定、観測、記録いたします。そういうことを一年も二年も、十年も二十年もやっていきまして、初めて利根川の洪水時における水量はどうであるとか、あるいは渇水時の水量はどうで、利根川は一年でどういうふうな水を流しておるかということがわかるのであります。大へんひまも手間もかかることであります。また、農林省がやっております米の収穫高調査ということになりますと、これはある時点を限りまして、大へん大ぜいの、何千人かあるいは万をこすような人を動員いたしまして、一挙にもみの数の調査をしたり、あるいは株の数の調査をしたりいたしまして、それを集大成いたしまして、日本の米の収穫高はこれこれだというふうなことを決定しておると思うのです。ところが、私がこのたび担当いたしておりました移住適地調査、これが移住適地であるか不適地であるかということを判定する調査は、ただいま申しました例なんかとはだいぶ趣が違っておると思います。調査しなければならぬ内容はきわめて複雑多岐でありまして、利根川の水の調査とか米の収穫高の調査というような単純な対象ではございません。しかも、今高木局長からも御説明がありましたが、限られた時間に、限られた人数で、限られた資材をもって何とか結論を出さなければならぬということが求められておるのです。また、これはたとえになりますが、従って、やり方が、たとえば警察の刑事が犯罪の調査をするように、傍証固めに類するようなことをあらかじめずっとやって参ります。最後に推理と想像をたくましくして、こういうことが起こったに違いないというふうな結論のようなものを導き出して、それを現実に証拠をあげて、これはこうだということをやると思うのですが、適地調査も実はややそれに似たような感じがあると私は思っております。
  64. 高橋英吉

    ○高橋(英)委員 私がお聞きするのはそういうことじゃなしに、かりに具体的に言いますれば、質問の要旨は、適地と思われておるか思われていないか、すなわち、適地であったかなかったかということであって、その調査の過程とか、調査の責任の問題とか、調査の合理性というふうなことをお聞きしておるのではないのです。現実の姿の、帰ってこられた原因をお聞きしておるので、それは移住地として適地であったかなかったか、適地ということにしても、どの程度の適地であるか。移住局長が言ったように、生活補給金がなければやっていけないような、自給自足のできないような適地であったかどうか。ひどい土地で、ほとんど耕作不可能な不適地であったかどうか。そういう点の現在わかっていることについてお聞きしたいわけです。  それからかりに不適地だというふうなことに現実になっておるとすれば、適地であるという結論を出されたのはどういうふうなことかということは、その結論が出た上でまた別な機会にお尋ねするかもしれないのです。要するに、帰ってこられた原因はどういうところにあるとお考えになっているかということをお聞きしているのです。だから簡単でいいのです。
  65. 中田弘平

    中田参考人 それでは、前置きが長過ぎましたから簡単に申しますが、そういうふうなわけで、非常にいろいろな条件がからみ合わさったものを、短い時間に分析判断して適地と判定し、あるいはいなと判定するというふうにせざるを得ないのです。それで、私は当時調査のデータをすべて農林省に報告しておりますが、そういう条件をすべて考えまして適地判断いたしました。従って、今日この移住が失敗して皆さんがお引き揚げになったという原因については、調査者の立場といたしましては全然理解ができません。
  66. 横田一太郎

    横田参考人 私は、今回のことが何ゆえ起こったか、原因一つにしぼることは非常にむずかしいだろうと思います。いろいろな要素が含まれております。ただ私は海協連の支部長をしていた関係上、私の立場としては、移住者の方がどういうことを思っておいでになるか、どういうことを心に感じていられるかということを、今後ますますよく相談してやらなくちゃならぬということを感じておるだけで、原因については私は何もわかりません。
  67. 高橋英吉

    ○高橋(英)委員 今の中田さんでしたか、適地だというふうに判断されておって、今なお適地と思っておるので、帰ってこられた原因がわからないというふうな御答弁、御説明ですけれども、これはちょっと形式的なことになるのじゃないかと思うのですが、適地であって十分移住民として幸福な生活が送れるのだったら帰られるはずはないというふうに常識的にわれわれは考えるわけです。それについてはどういう御感想か。上塚さんみたいに精神的な問題に持っていかれる人もあるし、移住局長のように政情の不安とか貿易のストップとか、そういうところに原因を持ってこられる方もあるわけなんです。そういうふうな適地であるにもかかわらず帰ってこられたということに対して、疑問を持たないはずはないと思うのです。だから、想像でもいいのですが、御調査は、今御説明になったように完全なものではないわけなんだから、そこにやはり移住者の言われるような、適当でなかった点があるのじゃなかったか。その当時調査して結論の出たのとは違った、マイナス的な条件でもあったのじゃないか。そのマイナス的な条件はどういうことであったのかということについて、御研究とか御調査とかをなされて、何かそれに対する御感想が浮かんでおるかどうか。漫然と、ただこういう問題が起こって、あれは適地であったはずだが、どうしたのだろうというふうな疑問が起こっておるだけのことであろうかどうか、そういう点について御感想をお願いしたいのです。
  68. 中田弘平

    中田参考人 私は適地調査を命じられておりまして、たびたび申し上げましたように適地判断したのでありますが、その後なぜこういう事態が起こったかということについては、正直に申しましてわからないのです。いろいろ人間として想像はいたします。しかし、そういうことは私の想像にすぎないのであって、こういう席上で申し上げるのははばかりたい。なぜこういう事態が起こったかということはわからないというのが正直なところです。
  69. 上塚司

    上塚参考人 ただいままでもっぱらネイバ土地の問題について御質問がありましたが、これに関連いたしまして、前会の質問の中に、マソサニリョの漁業移民のことについて質問がありました。それに対しまして、川畑君が答弁いたしまして、マンサニリョ湾にほとんど魚がいなくなったということを申しておりました。この点につきましては、私、第二回目にドミニカに参りましたときに、第一番にマンサニリョ漁場を見に参りました。これは非常にりっぱなところで、ほとんど山紫水明の地といってもいいくらいのところに五戸の家が建っておりまして、その五戸のうちの二戸の人は、もう家がからになりまして、ほかの地で農業に転業いたしておりました。あとの三戸だけが残っておりましたが、そのうちの一人が川畑君、それからもう一人は福徳君、それから森山君というこの三人が残っております。そのうちの森山君のみが漁場に出ておりまして、あとの二人は家にとどまって遊んでおりました。そのときに私はいろいろお話を聞いたのでありまするが、やはりマンサニリョ湾の魚が減ってきたというのでありますが、マンサニリョというのは大西洋にすぐ通じたカリブ湾内のところであって、豊富な漁場のある地点でありますから、魚がなくなるということはないと思ったところに、森山君からの手紙が着いたのを私は見たのですが、それによりますとこういうことを書いております。マンサニリョ湾近くで網操業を中心とする漁法が不漁続きであったので、日本の夜だき、すなわち夜釣をまねて水中灯を使って操業してみたところ、半時間後には無数の魚が水中灯に集まってきた。それはサワラ、バルゴ(タイの類)フレイ(ブリの類)、オオカマス、その他いろいろの魚が集まってきて、一晩中つれ通しであったのです。それからこの方法によると、毎夜四、五十貫、四百ポンドから五百ポンド程度つれるので、自動車で遠くサンチャゴまで売りに行くようになった次第です、こういうことも書いておる。だから、土地と同じく漁場のごときにおきましても、その人々によって、またやり方によって、この収穫の度合いが違ってくることが明らかでございまして、川畑君はもっぱら引き網によって漁獲しようと試みたのである。それがもし夜釣等に変わっておったならば相当の収穫を上げたと思います。現に最初の一カ月間は、皆十分にとれるだけのものをとっておる。収穫も相当上げております。この点を参考までに申し上げておきます。
  70. 高橋英吉

    ○高橋(英)委員 それでは、関連質問ですからこれで私は質問をやめますが、今のいろいろな御説明に対しましては、まだ納得いたしかねる点があるので、何といっても事志と違って移住者が帰ってきたという事実は、厳然たる事実であるわけなのでございますが、これが反対の証拠といいますか、何かなまけものの人ばかりで、勤労意欲がないような人ばかりで、そのほか人間的に、人物的に欠陥があって移住に適しなかったというような、そういう証拠が上がらない限りは、われわれの常識は、何かほかに原因がなければ、適地でなかったというようなことでなければ、帰ってこられなかったというふうに考えざるを得ないわけで、いろいろこまかい点について質問したいのですが、これは専門の木村君初め、社会党の猛者も控えておられまするから、私は、最後に補充的な質問が必要であった場合にはいたしますが、とにかく上塚先生が言われたように、日本の歴史にも例のないような集団的な移住民の帰国ですから、これを軽く取り扱わずに、真剣に考えていただきたいと思います。
  71. 鈴木仙八

  72. 久保三郎

    久保委員 それでは、今お話が出ました問題から一つお尋ねしたいと思います。  上塚参考人にお伺いしたいでありますが、ただいまの森山さんという方からの書簡を御披露になりましたが、この書簡はいつのころでございますか。私には、入植というか、移住当時のものではなかったかと思うのでありますが、森山さんでしたらば、すでにこちらに帰っておられるわけであります。   〔委員長退席、高橋(英)委員長代   理着席〕  そこで漁業移民についてでありますが、漁業移民について先行すべきところの漁場の調査というか、そういうものはなされないままに、ドミニカ側の要請に基づいて早急に送り出したということであります。その後日本の水産庁の調査船の東光丸が、三十一年十月二十日から三十二年の七月二十九日まで中南米の漁場調査を行なった。その中で、ドミニカ近海の漁場、海洋調査を三十二年の五月二十六日から同じく六月九日までの約二十日間にわたってやった。手元にあるのはこの調査報告書の概要でございます。今お話に出ましたマソサニリョ湾についての調査報告はこういうふうに書いてございます。要点だけ申し上げますと、底びき漁業の可能性はほとんど皆無に近いと考えられたので、底びきによる調査は実施しなかった。調査としては集魚灯による沿岸回遊性魚類の集合状態の調査を実施したが、魚群の集合はほとんど認められなかった。あなたのおあげになった、いわゆる集魚灯による方法で魚はたくさんとれたというただいまのお話でありましたが、水産庁東光丸の調査によれば、集魚灯による調査は、魚群が集まって来ない、こういう報告があるわけであります。それで概括的にこの報告を見ますると、その後川畑さん以下五家族でありますか、これが各所を転々と回ったわけでありますが、各所における調査は、一貫して、このドミニカ沿岸においては、漁場として目ぼしいものはなかったという報告が当時あるわけであります。こういうことをお聞きになったでしょうか、いかがでしょうか。
  73. 上塚司

    上塚参考人 東光丸が調査に行ったことは聞いております。しかし、詳細にわたっては聞いておりません。しかし、私の見た森山君の手紙は、彼が実際に実行した結果を報告したものであり、また私が向こうに参りましたときにも、相当に漁獲があって、最初の一カ月ぐらいはほとんど毎日とって、これをサンチャゴなりその他の地方、遠方まで売りに行ったことを承知いたしておりますから、魚がいなかったということは、どんなことがあっても私は信じないのであります。
  74. 久保三郎

    久保委員 信じないとおっしゃられましても、いつのころ上塚参考人現地おいでになったのですか。それから、森山さんからの書簡はいつのころの書簡であるのか、その点を一つ
  75. 上塚司

    上塚参考人 その手紙の写しは、いずれ別に写しまして差し出すことにいたします。たしか私にあててではございませんが、ちゃんと保存しております。
  76. 久保三郎

    久保委員 現地おいでになった時期と森山さんの書面をいただいた時期はいつのころであったかをお尋ねしているのです。
  77. 上塚司

    上塚参考人 私が現地に参りましたのは、昭和二十九年の十月、これは最初のときで、まだ日本人はいないときです。それから三十三年三月です。森山君たちに会いましたのはそのときでございます。
  78. 久保三郎

    久保委員 森山さんから書面をいただいたのは何月ごろですか。
  79. 上塚司

    上塚参考人 それは移住会社の書類のつづりに残っております。
  80. 久保三郎

    久保委員 いつごろ。
  81. 上塚司

    上塚参考人 多分昭和三十五年の十月ごろと考えます。
  82. 久保三郎

    久保委員 そのごろは、この地にいなかったのじゃないですか、マンサニリョには。
  83. 上塚司

    上塚参考人 それはよく知りません、そのときに日付が下の方の横に書いてあるのを見たのですから。そのことは写しによってはっきりしたところはわかると思います。
  84. 久保三郎

    久保委員 多分その書面は移住された当初ではなかろうかと、前後の事情から判断するわけであります。私はあらためてこれは政府当局には申し上げますが、農業移民の問題には、石ころがあったとかなかったとか、水かけ論もありますが、少なくとも漁業自体については、これははっきりしていると思います。現実の報告と帰られた人の報告と、それから東光丸自体の報告も大体合っているわけですね。そういうことからいって、私はあとでいろいろ討論の時期もあると思うのであります、事前調査が全然やられなかった。中間調査の結果についても実は善後措置が完全でなかった。とにかく行ったのだからどこかでやれる。いわゆるじんぜんと日を送って、こういうみじめな姿で帰さざるを得なかったという結果が私は出たと思う。これはいわゆる法的に責任があるかどうかということを高木局長は非常に心配されておりますが、われわれ自体は、法的に責任があるかどうかということは最終の問題であります。その前に、当委員会としての任務は、政治的に移住政策に誤りなきやいなや、こういうことが問題だと思う。誤りがあったとするならば、どこに誤りがあったか。これはお互いに、行政府にある者も、国会にある者も、同じようにこの誤りは率直に認め合って、どうしたらいいんだというのが前向きの姿勢だと思うのです。ところが、どうも高木移住局長の先ほどのお話は、前半はよろしい。いろいろな矛盾あるいは誤りが積み重なってこういう結果が出てきた、こういうのであります。その上の反省に立ってのこの委員会の審議でなくてはならぬと私は思う。後段については不満であります。非常に忌避されておる。何か国家賠償もしなければならぬとか、そういう法的責任はございませんということを言っておる。そういうことではなくて、当然そういう結果になれば率直に国家賠償もしなければなりません。際これはあなた自身の責任でなくて、国としての責任問題だ。これはまだそこまでいかない。それ以上移住政策そのものに誤りがどこにあったかということを調べるのでありますから、そういう意味で御答弁をいただきたいと私は思うのでありますが、きょうは移住局長に別に聞きません。私は言いたいのです。それからもう一つ中田参考人にお伺いしたいのですが、それは、私の手元にあるのは、ことしの一月二十四日に、あなたが帰られた人と神田の学士会館でお話ししたときのメモであります。それで、先ほどのお話では、現地調査にはいろいろな制約があることも言外に言われました。これは移住局長もその通りだと思うのです。そこで、この中で、あなたの結論としては、不適地であるということは不適当である、こういうようなお話でありますが、それに間違いございませんか。そういう土地ではないと思う、こういうふうにやはりおっしゃるわけですか。
  85. 中田弘平

    中田参考人 私が適地であるということを判断したとたびたび申しておるのですが、ちょっと今の御質問ですが、はっきりわからなかったので、もう一度御説明願いたいのです。
  86. 久保三郎

    久保委員 あなたの先ほどからの御答弁では、大体一〇%から一五%の石はあった、しかしこれは耕地として不適当なものであるとは考えない、こういうことですか。
  87. 中田弘平

    中田参考人 そうです。
  88. 久保三郎

    久保委員 そこで、調査の結論としては、そういう結論をつけたということか。それともそうじゃなくて、制約された中においての調査では不十分であったということもやはり言外にあるのかどうか。もう一ぺん申し上げますと、調査の結論としては適地であるという判断をしたが、調査の方法、その他を考えると、しかも現実に帰ってこられた人の話を聞いた場合に、これはいろいろな制約があって不十分であったということは考えておりませんかどうか。
  89. 中田弘平

    中田参考人 先ほども少し申しましたが、私の調査が完璧であって、これで十分だということは、今申しましたような理由から、これを申し上げるこはできないかもしれません。しかし、私が与えられた条件の中でやりましたことは、これは一生懸命着実に農林省の調査方法として定められたことを実行したのでありまして、当時の状況といたしましてそれ以上はできなかったのであります。だから、外面的に申しまして、私の適地調査が完璧なものである、後々まで反省しても完璧なものであると言うほどの勇気はございません、正直申しまして、いろいろな制約がありましたので。しかし、与えられた条件の中では、私は一生懸命着実に定められた方式に従って調査した。その結果イエスかノーかを判断しなければならないのでありますから、イエスという判断を下したのであります。
  90. 久保三郎

    久保委員 そういう使命を帯びて調査に参られた。なお、会談の中では、すでに私が調査に行く前に、あなたたちはもう二カ月前に入植がきまっておったというような諸条件もあった、こういうことをお漏らしになっているようでありますが、私は別にここで言質を取ってどうこうじゃなくて、先ほど私が申し上げたような観点から、反省の上に立ってお互いがこれは調査をしなければならぬという考えでおりますので、だから私の申し上げたいのは、しかもこの会談の中では、写真のつき合わせまでして、やはりそうだったかというふうなことも出ております。私は一々読み上げるつもりはございませんが、しかし、あなたにお聞きしたいのは、率直に言って、こういう調査の方法では間違いもあり得るのかどうか、現実に帰ってきておるのですから。私は一言だけあなたに聞きたいのです。あなたが幸いに今もうすでに政府の中には入っておらない方ですから、そうだとするならば、前向きの移住政策のためにも、これはやはり率直に言ってほしいと思う。
  91. 中田弘平

    中田参考人 そのメモとおっしゃるのは、文芸春秋の記者の方と会見したときのメモですか。
  92. 久保三郎

    久保委員 そうかもしれません。
  93. 中田弘平

    中田参考人 そのときに、私は、一時間余りにわたって、文芸春秋の記者の方を中に置いて、引き揚げてこられた方の代表の二人と対談のような形でインタビューをやったわけです。それで、向こうは非常に苦しがっていろいろ実情を訴えられて、私はむしろそれを聞く側に立っておったので、最後に文芸春秋の方からどう思うかというような意味の御質問があったと思います。それで私はこういう意味のことを申し上げました。理由はどうであれ、今日移住に失敗されて引き揚げてこられた人たちに対しては、私は非常にお気の毒にたえないと思っておる、もしもその原因の一端が私の調査の不十分な点にある、不行届きの点にあったならば、これはまことに申しわけないことであるという意味のことを申し上げたのであって、私としては、それは一つの仮定でありまして、そういう想像も全然あやまちがないとかなんとかいうほどりっぱな人間ではございませんから、そういう想像もできるのでありますが、これはあくまで仮定のもとに、まことに申しわけないことである、そういうふうに申し上げた記憶がございます。それだけです。現在だから、私があやまちであったということは確認できないわけなんです。
  94. 久保三郎

    久保委員 仮定のお話というが、仮定じゃなくて、現実に国も認めて、国援法適用によって、この地区移住者を帰国させ、帰国した当人とあなたは対談をしておられるわけですから、これは仮定ではなくて、そういう土地を認めて外務省も国援法を適用したのでありますから、私があなたにお尋ねしたいのは、結局制約された中での調査では不十分な結果から、そういう土地もあることを知らないでといっては語弊がありますが、広い土地でしょうから、十分な調査も制約された中ではできない。ましてや結論を急がねばならぬという事態である。こういう制約があって、私の判断は誤ったわけではないが、不十分であったということだけを私は聞きたいと思うのですが、いかがでしょう。無理でしょうか。
  95. 中田弘平

    中田参考人 さっきも申しましたが、不十分であったかもしれないと申します。私が誤っておったということは、これは確認できない以上、申し上げられないのです。何べんお聞きになっても申し上げられないのです。
  96. 久保三郎

    久保委員 これは確認できないとおっしゃればそれまででありまして、あなたが公的な立場報告書を出し、さらにあなたの責任で勧告文も出しておられた現実と違ってきておるのでありますから、今さら、そうだった、やはりあそこは見なかったとか、調査が不十分であったということは言えないかもしれない。しかし私は率直に言ってほしかったと思う。残念です。というのは、はっきり申すと、あなたも含めて全部に責任があるということです。あなたの責任は回避されるわけじゃない。現実にこういう事態になった、だから、そういう石ころばかりあるところでなかったということで、どなたかおっしゃったように、精神力の問題だけで帰ってきたならば、これはなるほどそうかもしれませんが、そうじゃない。今日国援法の適用はそこだと思う。精神力の問題ならばこれは別個だと思うのです。いかがですか。移住局長、何かお話ししたいようですから、聞きましょう。
  97. 高木廣一

    ○高木政府委員 国援法を適用いたしましたのは、私はネイバの方にも申し上げたのですが、外務省は海外に行かれた移住者に常に目をつけて、ひもがつながっておるのです。昔は移住は棄民であるといわれた。サンパウロあたりではマラリヤで移住者が倒れたこともあり、いろいろなこともございました。しかし当時日本移住者を帰すということはなかったのであります。しかしながら、今日においては、われわれの考え方も違ってきて、政府の力がある限りは、今のような向こうの財政、政治、経済情勢において、少なくとも全般的に見て過剰入植というふうに思われて、ほかのところへ国内転住もなかなかうまくいかない。ことにネイバでは、昨年の三月から帰国を運動されて、全部一致団結して、一人も漏れないで帰るのだと言ってがんばっておられる状態も見まして、このままで放擲できないから、国援法の援助によって日本にお帰しする、これは棄民ではないのだということで、私皆さんに御説明したと思うのでありまして、今までにこんなことはなかったと言われますけれども、それだけに日本の力も強くなり、今日のわれわれの移住に対する考え方というのが前より徹底している、こういうふうに思うわけであります。
  98. 久保三郎

    久保委員 なるほどそれは理由の一側面だと思うのであります。鶴我事官現地へ行って最終的に取りきめたときには、その要素もあったかもしれないが、耕地全体に対しての問題があったからこそ、今日帰すことにきめたのじゃないですか。私は一つの側面だけとらえて問題を話そうというのではいけない。全般的な問題で、あなたが先ほど言ったいわゆる前向きの姿勢で反省しなければならぬというふうになれは、率直に——自分の責任を何か隠そう隠そうという態度は、少なくとも移住政策のトップにあるあなたは、この際とるべき筋合いではないですよ。これは事ドミニカの問題だけではなく、移住問題全体の問題ですから、そういう意味で私は聞いておるのです。その点はいずれ移住局長とは十分お話をしなければならぬと思いますけれども、きょうは参考人にだけお伺いしましょう。  そこで、横田参考人に続いてお伺いしたいのは、あなたは長いこと現地におられたのでありますが、現地におられて、土地そのものは、まず第一に、先ほどの話ではそういうはずはない、こういうことであったようでありますが、家の付近には石ころがあったが、耕地そのものにはなかったというふうに聞いております。問題は水だと言います。水のない土地が問題だという話をこの間帰ってこられた方が切々と述べておる。こういうものはその通りですか。どっちですか。くどいようですが、もう一ぺん聞きます。
  99. 横田一太郎

    横田参考人 私は地質や土地の専門家でないからわかりませんけれども、ダハボン移住地の近くに、ユナイテッド・ステーツの子会社のグラナダ・カンパニーが、ほとんどサボテンの砂漠みたいなところに、ヤケ川の水をポンプで揚げて人工の雨を降らせておる約六万タレヤのバナナ園があります。それを見まして、私は、この砂漠でも水さえあればできるのだという印象を一番初め行ったときから持っていた。それでドミニカ政府の農務技師に聞きましたら、ドミニカでは水は金だよ、だから水さえあればいいんだということを聞きました。そういうことが頭についておりましたから、どういうところを見ても、水さえあれば、とにかくできるという印象があったものですから、事実四年間、私もドミニカへ行って初めて農業というものを知ったのですが、とにかく不思議に思いまして、そういう表現をいたしました。
  100. 久保三郎

    久保委員 農業は経験がないという話でありまして、水さえあればというのでありますが、この水の問題もさりながら、土地の問題について、あなたはいろいろ各地も回られたと思いますが、回ったでしょうか。いかがでしよう。
  101. 横田一太郎

    横田参考人 回りました。
  102. 久保三郎

    久保委員 しかも、先ほどのどなたかのお話では、ネイバはよかった、将来もいいというようなお話をされたと思います。それは横田さんでしたかどうかわかりませんが、そういうふうに考えられたということはありますか。しかも今日まだそのままドミニカ定着しておる方があるわけであります。その人たちは、土地の条件等もいわゆる整っている方だろうと思いますが、今度お帰りになった方は、整っていない。だから、いいところもあるが、悪いところもあったというのではないかと思います。たまたま悪いところを配分してもらった方々が、どうにもならぬということで、今日帰ったのではなかろうかとわれわれは推測しておるのですが、いかがでしょう。
  103. 横田一太郎

    横田参考人 仰せの通りだろうと思います。それで、われわれの仕事は、各移住者の、いいところと悪いところと当たった方々について、ドミニカの農林省の役人に申し入れて、それを調整していくのでありますけれども、移住者の方は、いいとなれば無許可でどんどんそこへ入られる。たとえばハラバコアのごときも、過剰入植といいましても、ほとんど予定以上に入られた方は、大部分みな自分で入られた。ペデルナーレスの方から、ネイバがいいところだからというので、無断で移られた方があるくらいであります。
  104. 久保三郎

    久保委員 私の申し上げたことを御承認になったと思いますが、中田さんはいかがお考えになりますか。今残っている人もあるのですから、いい条件のところもあったが、悪いところもあったという事実を認めますか。
  105. 中田弘平

    中田参考人 想像といたしましては、そういうことが言えると思います。
  106. 久保三郎

    久保委員 次に、これは横田さんにお伺いしたいのですが、今のお話にもちょっと出ましたが、ハラバコアの過剰入植お話がありました。あるいはネイバもそうだというお話でありますが、過剰入植は、勝手に移動したので過剰入植になったと言うが、そこにも、移住政策なり、現地の指導が不行き届きであったということはいかがでしょう。認めますか。
  107. 横田一太郎

    横田参考人 私はそれを認めるも何もありません。私は、入植地に入ることが両国政府で決定しましたら、その移住者のいろいろな御希望なり苦情なりを聞いて、そして処理していただくのであって、認めるも認めぬもありません。そういうところは過剰入植だろう、こういうことを申しましただけです。
  108. 久保三郎

    久保委員 これはいずれ外務省に尋ねますが、過剰入植で困った面もあるようであります。さらに転住も勧めたようでありますが、転住先が過剰だ、こういうことで、そういう面にも、何とかここで一つ来たほどだからという考えもあったでしょうが、一つには何とかここでうまくやろう、こういうようなものが先行してここまできたのではなかろうかと、われわれは考えておるわけなんです。非常に不幸な結果になったと思いますが、そういう点の事前の調査というものが非常に不十分ではなかったか、あるいは送り出しの計画にも欠点があったのではなかろうかと思うのであります。横田さんは認めるも認めないもないというお話でありますから、お尋ねすることもどうかと思うのでありますが、いかがでしょう。
  109. 横田一太郎

    横田参考人 私はそれは——ただ私は、申し上げた通り、両国政府間でおきめになってやることでしたら、過剰入植の場合でもやっていただきますが、おきめにならないで、ここがいいからというのでお互いにどんどん入られたのでは、これは私が今申し上げたような過剰入植になる。ですから、ドミニカ政府の二部の人の許可をもらい、あるいは無許可で移られたその人のことを過剰入植と言っているわけです。
  110. 久保三郎

    久保委員 それから、一つやはり横田さんにお伺いしたいのでありますが、募集要項では自営開拓ということでしているわけなんでありますが、帰ってこられた方のお話では、いわゆる移民法ですか、こういうもので制約されるコロノであった、こういうことでありますが、コロノであったということはどうでしょう。そういうことなんでしょうか。
  111. 横田一太郎

    横田参考人 私は、コロノという、逆に若干なにがあると思うのです。それでブラジルにおけるコロノ、これはほんとうのコロノでしょう。ですけれども、ドミニカの国営の開拓地におけるコロノというのは、私は単なる入植者だろう。それで自分の作ったものがみな自分のものになり、自由にそれが処分できるということは、私は自営農だと思います。信じています。
  112. 久保三郎

    久保委員 しかし、今のコロニア法が手元にございませんので、まだ調べておりませんが、引揚者方々の持っている何というか、誤りがあるかもしれませんが、そういう訳文をちょっと拝見しますと、それから現地から引き揚げた人の話を総合してみて、たとえばこの管理官というようなものは拳銃をつって監視をされる。あるいは外出する場合にも許可が要る。それからもちろん作付にも許可を要する。作付については、募集要項についても何々を作らなければいかぬというようなことが書いてありますから、これはまあおわかりかと思うのでありますが、それからもう一つは、そればかりじゃなくて、作付不能な土地を、草をはやしちゃいかぬというようなことで、他に仕事をやろうと思ってもできない、こういうようなことなんですね。それからもう一つは、他の職業をやる場合には許されないということでありましたが、何かそういうようなものも将来できるんだというようなことが書いてあるわけなんで、こういう点もどうかと思うのですが、そういう面からいって、なるほどブラジルのコロノとは違う。いわゆるわれわれが日本において考えるところの自営開拓とはだいぶ違うと思うのでありますが、いかがでしょう。
  113. 横田一太郎

    横田参考人 その点は小作でも自営開拓だし、いわゆるアパセリーア、分益小作、利益分配小作制度という制度がありますが、これでも自営開拓じゃないのです。あそこはもうちゃんと平地化してありますから開拓ではないのですけれども、自営農であることは私間違いないと信じております。   〔高橋(英)委員長代理退席、委員   長着席〕
  114. 久保三郎

    久保委員 私は外国へ行ったことはございませんし、ましてやその移住地調査しておりません。外国の事情がわかりませんが、日本の基準でものを判断した場合、自営農家という場合は、自分で働く時間もきめられるし、あるいは作業の方法もきめられるし、ましてやその収穫物の販売その他はこれは自由でございます。ところが、先ほど言ったような制約があるということは、どうも自営農家とはわれわれは考えられない。その辺の啓蒙というものが募集要項ではされなかった。ただ土地は、五年なり十年たった場合には、国内法に基づいて所有権が与えられる、こういうようなことが書いてあるようでありますが、それでは非常に不十分ではなかったかと思うのでありますが、いかがでしょうか。
  115. 横田一太郎

    横田参考人 今の、管理官というのが拳銃をさげておって、出入りには許可証が要る。それは日本人向けでなくて、そこらにはやはりドミニカでもまだ未開の人もいまして、どろぼうもおりますし、その地方を旅行するときにも、係長以上は全部ピストルを持って歩くのが常識になっている。それでピストルを持って監視するから、監視というより私は保護というふうに——向こうの人も、考えてそう言っていました。出るのにはというのは、移住地におりますと税金も免除、あらゆる国内法の書類が要らぬ場合がある。いわゆるセドラという納税身分証明書ですね。そしてそれがなければ国内の遠いところは旅行できないのです。それにかわる許可書を管理官が出して便宜をはかっていた。私はむしろレッセパッセみたいな非常にいいものだと思っていました。そして、今の中には、そういうものはめんどうくさいからと言って、ちゃんと許可をもらって、今の納税身分証明書を受け取って、国内を自由に歩いている人もあります。近所の町へ行くというのには外出許可書は必要ありません。  それでよろしゅうございますか。
  116. 久保三郎

    久保委員 そういうことについて現地において、移住された方々から苦情として承ったことはないでしょうか。いかがでしょうか。
  117. 横田一太郎

    横田参考人 あります。そしてそのつど私は、このドミニカという、そういう方面のことを啓蒙するために、毎月、新聞らしき、あるいは新聞でないものを出していた。それに一番初めに納税身分証明書のことを書いてある。農業関係のいろいろな規則をそのつどやっております。これはドミニカの国の全部の法律を訳すことは大へんですから、そういう方面から、私はここに持っておりますけれども、毎月そういうのを一つずっとらえて、条件販売——条件販売というのは月賦のことですが、そういうもののなにを皆さんにお知らせするように努めておりました。
  118. 鈴木仙八

    鈴木委員長 ちょっとお待ち下さい。  参考人に重ねて御注意申し上げますが、御発言の際は、そのつど委員長の許可を得て行なっていただくようにお願いします。
  119. 久保三郎

    久保委員 次にお伺いしたいのは、特に横田さんにお伺いしたいのですが、移住された方々ですね、もうこれでは困るという問題が何べんかあったと思います。さらに国内的には、現地人というか、ドミニカ人等からいろいろな障害も受けたという報告を聞いています。そういうときに、彼らの訴えとしては、出先である海協あるいは大使館等が、どうもなかなか自分たちの思うように努力してくれなかったという一つの訴えがあるわけです、概括的に申し上げますと。もちろん外国のことでありますから十分とはいかなかったと思うのでありますが、そういう事情一つお聞かせ願うのでありますが、ついては、帰ってこられた方々のあなた方に対する感じとしては、どうもいろいろ問題があっても、ドミニカ政府にも対等の立場で話をつけてくれるような努力はせずして、先ほどからもお話があったように、何か移住者に対して押えつけるようなことがあった。特に——これはあなたの方じゃないと思うのですが、本国に対して、日本政府あるいは関係筋に直接要請するようなことはまかりならぬ、こういうようなことでいろいろ強圧を加えられた、こういうような話があるわけですが、いかがでしょう。
  120. 横田一太郎

    横田参考人 職務限界がありまして、海協連支部の職務は小さい問題ですから、取り上げないとかなんとかいうことは一度もありませんでした。そして、大きい問題は関係方面へみな一応したり、あるいは説明したりしていっておるのです。そして、今おっしゃった何とか、何かひどいことを言ったようにおっしゃいますけれども、言葉の強いせいか、それは私はやっていないと信じております。
  121. 久保三郎

    久保委員 先ほど否定されましたが、軍事訓練ですか、あれに署名したらどうかというお勧めはやはりしないのですか。
  122. 横田一太郎

    横田参考人 絶対にしません。強制ですよ。ただし、こういうことがあったときに、皆さんそうお書きなさいといって——あれは初めから申してよろしいですか、その説明を。
  123. 久保三郎

    久保委員 どうぞ。
  124. 横田一太郎

    横田参考人 これはさっき申しましたように、外人部隊という訳と同じなんです。それで一番初めに、ダハボンの上野日本人会長から、今のドミニカ支部長——ドミニカ党の支部長ですよ、それが全移住者に、外人部隊に加わらぬかと言ってきたのです。それはじきに、問題がなんですから、上野会長が大使館に伝えられたのです。どうしたらいいか。それで大使館でも、これは今とめることもできぬし、勧めることもできぬ、みな自由意思にしろ、こういう示達をなすったのです。私は、そのときいろいろな——私の単なる市民としての立場もありますし、アメリカ人、それからスペイン人、シリア人等が居留民団ですから、居留民団であれは決議したことなんです。それをドミニカ党がとって、そしてこれは一ついいじゃないかということを聞いて、そういうことを言ったのはダハボンのドミニカ党支部長だけだろうと思うのです。そのとき私は、きょう何で来たかというので、こういうふうな事情で来たと言ったら、それは日本人も入ってもらいたいね、こう言われましたから、外人部隊というのはどういうものだ、いや、これはモラル的なものだ、後から鉄砲を撃たなければいいんだ、ただ入ってトルヒーヨを支持するだけだ、アメリカ人もスペイン人もみな入っているのだ、そういうことでした。それでしまいには、だんだんシリア人とかそういう人が自国に帰られて、いつの間にかそういうことがあるのかすらわからぬくらいに、なくなってしまった。そして、しまいには、とうとうサント・ドベルヘ大学の学生を主体にして——おかしなものですけれども、学生の——今のを訳せば外人部隊ですが、そういうふうになった、それも結局半年くらいで消えてなくなった、こういう事情でございます。
  125. 久保三郎

    久保委員 それから、これは上塚参考人にお伺いしたいのでありますが、参考人の先ほどの話では、当初の口火を切るための御努力をなさった。そのあともおいでになりましたが、初期においでおいでになったわけであります。先ほど移住政策に触れる質問に対しての御答弁では、今日の問題は精神的な問題が主であろう、こういうふうにお話があったのであります。今まで各委員からもそれぞれお話がありました。答弁もありました。その中でやはり現実に土地条件というようなものも相当な比重になっていることは、事実だろうと私は思うのです。それでもやはり精神的な面ということに相なりましょうか。大へん失礼な質問かと思うのでありますが、もう一ぺん先輩としてお聞きしたい。
  126. 上塚司

    上塚参考人 私は、過去三十五年、アマゾンの開発に心を傾けておりました。その経験からいたしまして、開拓の当初にあたっては、先ほど申しましたように、いろいろの精神的、肉体的の困難に遭遇いたします。そのたびごとに悲鳴を上げてよそへ行き、あるいはやすきにつくというようなことで、当面の苦労をみずから避けていくというようなことをした者は、三十数年たった後において非常な差ができてきておるのです。その場所にがんばって、そして努力を続けてきた者は、必ず相当の成功を得ております。中には巨億の富を得ておる者もあるのであります。それで、その最初の難関を何とかして突破するだけの気力、開拓的精神、そういうものが一番必要でありますが、不幸にして私はそういう精神が欠けておったのではないかということを感ずるのであります。この間の陳述から見ましても、そう感ずるのでありますから、そういうことを申したような次第であります。
  127. 久保三郎

    久保委員 次に、中田参考人に最後にお伺いしたいのですが、ドミニカ調査の方法は、よそのたとえばブラジルあるいはアルゼンチン、そういうところでもやっている大体同じような方法での調査をなさったのですか。いかがですか。
  128. 中田弘平

    中田参考人 ドミニカ調査もほかの国の調査も同じようにやりました。
  129. 高橋英吉

    ○高橋(英)委員 関連して。  中田さんにお聞きしたいのですが、先ほどからの御説明を聞きますと、結局科学者としての理想的な調査というふうな、そういう立場からいいますと不十分であり、いろいろの条件の制約で不正確は免れなかったということにはなるわけですな。最小限度完全な完璧な調査ではなかったということになるわけですね。条件はいろいろあって——あなたの責任問題は別なんですよ。それはやむを得ないことなんですけれども、とにかく科学者的な理想的な立場からいえば完璧な調査ではなかったということ、ドベルヘの例など言われておりますし、いろいろ言われておりましたが、ああいうふうにほんとうに完璧といいますか、完全無欠といいますか、そういうふうな調査ではなかったということは言い得るわけですね。
  130. 中田弘平

    中田参考人 純粋な意味の、先ほど例をあげて申しましたが、今からいえば、これはこれまでやられている移住地調査がすべて完璧な調査であるということは言いかねると思います。
  131. 久保三郎

    久保委員 そこで、やっと中田さんからもお話が出たのでありますが、なるほどブラジルなどは歴史も古いしということが、一つ条件に大きな違いがあると思うんですね。新しいドミニカの開拓には、それ以上の方法と時間をかけてやるべきだとわれわれは考えるわけなんでありますが、そういうことを当時は考えられないで、やはり今までの国の調査と同じようにやったということでございましょうね。
  132. 中田弘平

    中田参考人 ちょっと私の答弁に誤解が生じているように思いますが、ドミニカ国もブラジル国もそれからアルゼンチンもそのほかの国も参りまして、その調査のやり方が同じであったということを先ほど申しました。
  133. 木村公平

    木村(公)委員 関連して。  二つだけ伺っておきたいのですが、先ほどの私の質疑の中で、横田さんに対する疑問の中に、外人部隊という言葉を使いましたら、それはとんでもないことだ、これは単に革命が起きたので、その自衛的なものだ、自衛団だ、それも強制したことはないというお話でございましたが、とにかく誤り伝えられて、外人部隊という言葉が実際は出ておるんですよ。だから、その点は、あなたが先ほどスペイン語か何かでおっしゃいましたけれども、はっきりこれは自衛団のような性格のものだとか、青年団のようなものだとか、目的とかその性格を誤らないように、一つ速記に載せていただきたいと思うんです。  それから、もう一つ、コロノの問題ですが、これはスペイン語ですか。
  134. 横田一太郎

  135. 木村公平

    木村(公)委員 そこで、この間移住者の方で引き揚げてこられた方がいらっしゃって、西部劇に出てくるような管理官がおって、作物の作付制限はきびしいとか、草一本はやしてもおどされるというような——オーバーかどうか知りませんが、そういうような言葉がすでにここで出てきたんです。それで、コロノというものは日本語に直せばどういうものであるか、言葉の解釈ですね。それからコロノの身分、地位というものを正確にここにお話しになっておかないと、後月誤りが出てくるんです。  それから、もう一つは、先ほどのあなたのお言葉を聞くと、コロノというけれども、事実上は自分で作付をして自由に販売もできるんだ、そうして外へ出るときには、何かあなたの方のお話があって、だれでも特典があるのだから、むしろ便宜を供与されるようなお話もあったのですが、われわれがここで引き揚げの方から伺った感じは、何かコロノというものは奴隷のような感じを受けるんですよ。あるいはソ連における国営農場に強制的に入れられて、そうして向こうで身分を制約されるというような印象を受けるんです。ところが、あなたのお話だと、単に小作のようなものだ、あくまでこれは自営だ、しかしながら土地は自分の所有はまだ得ていないのだから、土地を借りているということは認めざるを得ない。けれども、これはあくまで強制的にいろいろの制約を国から受けておるものでも何でもないということが本質だとするならば、われわれの受け取るコロノの感じとこれは違うんです。  それから、外人部隊というようなつまらぬ言葉が出てくるんですけれども、あなたはもっと率直に、そんなことじゃないのだ、外人部隊だなんてとんでもない、そんなことは憲法上できることでもないのだし、それは青年団とか自衛団のようなものだ、なぜそういうものができたか、しかもあわのようにできて、革命が終わればすぐ終わったということが事実であれば、事実をおっしゃっておかないと、コロノだとか外人部隊という言葉が使われますと、非常に間違った観念を日本の全国民に植え付ける心配がありますから、これを解明しておいて下さい。
  136. 横田一太郎

    横田参考人 まず今の外人部隊から説明申しますと、さっき申しました通り、モロッコあたり、フランスあたりでやっている外人部隊、自分の国籍を放棄して命を投げ出している月給取りの外人部隊を想像しますが、そうじゃなくて、レヒオンエストランヘーラ、そのまま訳せばやはり外人部隊なんです。ですけれども、私は、そういうことは、たとえばコントラトマトリモニオ、これは訳すれば結婚契約なんです。ですけど、ほんとうの意味は夫婦財産契約なんです。訳すときに非常に注意しなければならぬということがたくさんあるんです。これはスペイン語でなくて、私は、そのときにできたドミニカ語だろうと思うんです。その一番の起こりは、あそこの外人の居留民団が入植のときに、この際われわれも何か一つお助けしようではないか、そしてそのときにだれかが発案した、レヒオンエストランヘーラでいいじゃないか、一つやろうじゃないかというので、やったのであって、そんな印象を受けておりまして、中に演習に鉄砲をかついで歩いたと言った方があったようですが、そういう事実はありません。そして、それはしいて言えば、テスフィーレでお祭りが年に三、四回あるわけですが、そのときに、日本移住者にも出てもらいたい、特に婦人は着物を着て出てもらいたい、そのけいこをやった。それじゃないかと思う。実際には、いわゆる外人部隊で訓練したということは、私一度も聞いたこともありませんし、また見たこともありません。これはもうはっきりしております。そしてなぜこんなに問題が大きくなったか、私わからぬのです。
  137. 木村公平

    木村(公)委員 青年団とか自警団のようなものですか。
  138. 横田一太郎

    横田参考人 初めは、自警団もおかしいですけれども、ただモラルの——何と言ったらいいですか、ただトルヒーヨを何事があってもうしろから射たぬというような意味だけで今のアメリカ人たちは集まっていたようです。積極的に感謝の意味もあったようです。それだけでございます。だから、私は実態をそういうふうに承知しているものですから、そう心配いたしませんから、今度新聞に出て私も驚いているのです。  コロノの問題ですけれども……。
  139. 木村公平

    木村(公)委員 コロノもお尋ねしたいが、外人部隊について、今、鉄砲をかついで訓練したようなことがあったとするならば、それはお祭りの場合にそういうことをやったのかもしれない——お祭りの演技としてですか。いわゆる自警団や何かとは関係ないのだ、訓練した覚えはないとおっしゃるのでしょう、あなたは。自警団であるがゆえに、あるいは外人部隊であるがゆえに、鉄砲を持たせたわけじゃないのでしょう。もしも鉄砲を持って訓練をしたようなことがあったとするならば、訓練に似たような、ちょっと表面的に見てそんなような事実があるとするならば、それはお祭りの余興としてでもやったのではあるまいかというのですか。そういうことですか。
  140. 横田一太郎

    横田参考人 いや、そういうことは聞知しておりませんから……。私は、もしやったやったとおっしゃるなら、それはほかに全然心当たりがな
  141. 木村公平

    木村(公)委員 それでは知らないということですか。
  142. 横田一太郎

    横田参考人 知らない。やったということを聞いておりません。
  143. 木村公平

    木村(公)委員 それではコロノのことを一つ説明して下さい。
  144. 横田一太郎

    横田参考人 今のコロノというのは、訳せば、私は入植者と訳しましたが、コロノは普通コロノといって、訳してない。ただ、しいて訳せば小作人ですけれども、ドミニカにおる日本移住者は小作人でもないのです。なぜかなれば、アレンダミエント、賃借料を払ってない。ですから、そういう点においてコロノという意味のなんでなくて——日本人の居留民が、たとえばあそこに日本人会を作ったとするならば、日本人コロニアというのですが、これはコロノでなくったって、商売人だって、みなわれわれ日本コロノの題問だ、こういうふうに言うので、コロノ、コロノと広く使われますから、その一つをもって、これがこのコロノの意味だというふうに私は言えないと思う。それでよろしゅうございますか。
  145. 木村公平

    木村(公)委員 コロノにつていわれわれの受けた印象は、国営農場へ強制的に入植させられて、監督を受けて、西部劇に映ってくるような拳銃をつった者が厳重に監視をして、自由意思を制約するような印象を受けるのですよ、この前の引き揚げの方の話を聞いてみると。それが事実だったらよろしいですよ。そうでなければ、そんなものじゃない、コロノというものは、いわば日本から行った者は全部コロノとかなんとかいうのだ、これを訳せば入植者と訳するのだ、しかし商売人でもコロノというのだということ、それから、賃借料を出してないから小作じゃない、小作料を出しているわけじゃない、それから、小作で自分で作って自分で売れるとするならば——草一本はやしても干渉を受けるとか、作付制限というようなことが国内法に厳重にあるというようなもろもろの点ですね。つまり、自由意思がどの程度まで抑圧されるか。われわれの受ける感じは、コロノというと、何か自由意思の全くなき奴隷のような感じを受けることもあり得るかう、そこで、もっとそんなものじゃないということがあなたの目に映じたならば、真実の姿を言ってもらいたい。
  146. 横田一太郎

    横田参考人 今、出入りまで監視され、ピストルをつった管理官がおるから非常に束縛を受けておる——中には鉄条網を張ってあるところもあります。そういうところでは、私一番初め行ったときに、苦情が出ましたので聞いたのですが、いや、それはそうじゃない、これは牛どろぼうがいて——向こうの国の人が非常にどろぼうが多いから、それから守るためなんだ。それで、ある地区で、どうもどろぼうが多いから線を張ってくれということを言ったら、いや、この地区は線は張らないことになっている、この地区はどろぼうが出てもすぐにつかまるから、これは張らないでいいのだ、どろぼうの心配がないからいいのだ——たしかネイバも張ってなかったと思います。それは張る必要のあったところもあるのですけれども、これは今後じきにどろぼうがつかまるから、それほど厳重にやる必要はないから……。
  147. 木村公平

    木村(公)委員 コロノというのは日本人一般の呼称ですか。日本人というような意味ですか。
  148. 横田一太郎

    横田参考人 スペイン人のコロノもおります。国営農耕開拓地に入った者を、入植者というのをみな……。
  149. 小川豊明

    ○小川(豊)委員 私も、実はこの問題が起こってから、コロノというのはどういうものなんだと勉強してみたのですが、コロノというのは、あなたの言う入植者とも違う、また小作人とも違うのだな。しいて言うならば国家の雇用農、国が雇った雇用農のことだ。コロノからはこういう解釈が出てくるのではないですか。従って作ったものを売ることは自由なんです。ところが管理をする。草をはやしてはいけないとかなんとかということ、何を作ってはいけない、何を作れということは、作付上の管理、制約というか、これを受けるのは国家の雇用農ならば受けざるを得ないというのが、コロノに対する解釈ではないですか。今の木村先生とあなたの話ではどうもそこに食い違いがあるのですが、私はコロノとはそういう解釈をしておったのですが、違いますか。もう一回はっきりして下さい。
  150. 横田一太郎

    横田参考人 違っております。というのは、作付制限というのは——ドミニカはしいて言えば管理農業と言った方がいいと思います。国家的の一つの作付制限をする。大統領令という法律があると思うのです。それで全国で、たとえばある地方で理由がここに書いてあります。作物を勝手に自分であちらこちらで作ったら、それを市場へ持っていくのにあちらこちらに輸送しなければなりませんから、大体その地方で消費するくらいのユカはこれくらい作らなければならぬということは制限し得る。これはドミニカ一般の、今のハラバコアもそうです。これは食用のクッキングのバナナにも制限がある。これは農民全部の受ける制限です。さっきおっしゃったコロニア法にいろいろ作付を指定する。これはさっきの元のなにから来ている管理官がおるのですから、それでそれには若干の作る制限はありますけれども、私が今日まで聞いた制限はハラバコアの米の制限以外はなかったと思います。あとはみな自由だと思います。それは水が足らないから……。
  151. 高木廣一

    ○高木政府委員 このスペイン語のコロノの説明を補足させていただきたいと思います。  この言葉はブラジルにもございます。ブラジルの植民法では、コロノというのは農業地帯に入る者、農業移植者が全部コロノでございます。これは私有地であろうと、国有地であろうと、農業地帯に入る農業移住者をコロノと言っております。それから、通俗的には雇用農業労務者を言うわけでありますが、法律でいっておる場合は、コロノは農業地帯に入る者ということでございます。移住者の方がコロノだからといって非常に心配しておられるのは、農業雇用労務者のおつもりであると思います。自営開拓でないということだと思いますが、ドミニカの場合は、今のコロノは、ブラジルと同じように、そういう農業地帯に入る人をコロノといって、国営農業地帯であれば、そういう国営の地域に入る一定の制限もありましょう。そういうところに入る農業移住者であって、自営開拓であることには間違いない。しかしドミニカの一般的な農業政策でいろいろの制限がある。これは国有地であろうと、ほかのところであろうと、受けるのはやむを得ない、こういうふうにお考え願いたいと思います。
  152. 久保三郎

    久保委員 コロノについては移住局長にあとでお尋ねいたします。  そこで、横田さんにお尋ねしたいのだが、今のコロニア法に基づいた募集要項を的確に出していなかったことは事実ですね。だから、応募されて移住された方は、現地に行ってからというよりは——ここに外務大臣あての陳情書の写しがありますが、これはハラバコアの方の話です。一九六〇年の八月十五日にドミニカ政府の担当コロニア管理官が来て、全部を集めて、そこでお前らはこのドミニカ国のコロニア法のもとで働くのだと初めて宣告されたというのです。なるほど募集要項には、土地の譲渡の条項など、あるいは若干の作付制限の条項はありますが、コロニア法という法律は明らかにしていなかったと思うのであります。その点が明らかにしてあったかどうか。そう思っておるかどうか。それから、自作農階級の方においても、これによれば、コロニア法については一九六〇年の八月まで何ら知らなかったというのでありますから、そういう点の手落ちもあったのではないか。  それから、もう一つ聞きたいのは——聞きたいというよりは、なるほど今コロノの説明がありましたけれども、日本で言うところの自営農家というものとはちょっと違うということをお認めになりますか。いかがですか。二つだけ伺います。
  153. 横田一太郎

    横田参考人 私は、日本の自営農家がどういうものか、その説明をお聞きしなければわかりません。
  154. 久保三郎

    久保委員 お百姓のことを全然御存じないというのでありますが、今日土地解放もなされてから十何年になります。今日の農村ではみんな自営農業でございます。一部小作地もあります。たとえば小作人というのは、地主がおりまして土地を借ります。借りれば、これに対して今日は金納であります。金で一反歩千何百円払う。あとは作付をどういうようにしようが、販売をどういうようにしようが、労働時間をどういうふうにあんばいしようが、地主から決して制約を受けない。今日の開拓農家も同様でありますが、ただ一つ違うのは、土地の配分を政府、農林省から受けます。そこへ入植しますと、三年間は土地が自分のものになりません。三年後において初めて成功検査というのを——コロニア法にもあるようでありますが、成功検査を受けて初めてそこでよろしいということになりましてから、入植者土地の所有権を持つ、こういうことであります。あとの一切の制約は受けない、こういうことがあるわけであります。  ブラジルの方は私もよくは知りませんが、ブラジルの方でも自営農というのはそういうことではなかろうかと想像している。ドミニカといえども自営農というものがあればそうではなかろうか。いわゆる土地の問題、生産もそういうものがさつきのお話では国家の管理のもとで全部やっておるということでありますから、それは違うと思う。だから、日本の自営農という考え方とコロノという考え方が、小作人でない、あるいは自営農ということだとしても、日本の自営農とは違うということが現実にあると思うのですが、どうでしょうか。私の説明が是認されるならば、それと違うかどうか。それを言って下さい。   〔「自作農を知らなければしようがない」と呼ぶ者あり〕
  155. 横田一太郎

    横田参考人 それは、私は、自分の質問お答えするために、わかっておりますが、日本のがどうかと言われたときになんですので、伺ったのですが、それとは違うと思います。
  156. 久保三郎

    久保委員 その違うことは募集要項には書いてないということですね。現地へ行ってから、ハラバコアでは一九六〇年八月に初めてコロニア法というものを管理官から説明された。ああそうかということで、これがわかった。  なお、横田さんに海協の出先としての性格をお伺いするのですが、先ほどの御説明では、現地における引き受けと定着だということが先刻来ちょっとわからない。引き受けというのは来た者を迎え受けるというのですし、定着というのはそこへ定着させるというのですが、定着の中身はどういうことなんですか。中身というのは、たとえば  こういう問題が現地で起きたときには、営農の指導なり生産物の販売の指導なり、こういうことまでおやりになるのが海協の出先の任務でしょう。いかがですか。
  157. 横田一太郎

    横田参考人 海協連の仕事として大使館から指示を受けましたなにがここにありますから、読み上げますと、  「一、移住者の移民船からの引取り、及びコロニアまでの輸送援助、二、上陸輸送に関し農務省及び税関との連絡交渉、三、移住者の定植に関する事項、四、灌漑、用水路、コロニアの水の利用に関する事項、五、種苗、肥料、農薬等に関する事項、六、農耕機械器具、トラックタ一等に関する事項、七、鳥害防止、使役川獣等に関する事項、八、農作物販売の斡旋等に関する事項、九、傷病、入院等の斡旋等に関する事項、十、現地管理官との連絡折衝等に関する事項、十一、コロニアにおける紛争の調停等に関する事項、十二、移住振興会社の融資に関する事項、十三、ドミニカ政府の成人文盲撲滅運動に対する協力」これだけでございます。
  158. 久保三郎

    久保委員 わかりました。できておりますし、先般引き揚げた人の意見もいろいろ出ておりますので、これは後ほど差し上げますから、点検されていただきたいと思うのです。われわれはしさいにあなたからお聞きする時間がないのは、非常に残念に思いますが、先ほど私が申し上げたのは、  ここで言葉は悪いかもしれませんが、お互いにその衝にあずかった者は前向きの姿勢で反省すべきではないかということを基本に考えておりまして、決してあなたたちが現地におったから責任があるとかいう問題ではない。これは大きく日本国の全体の責任であるから、そういう観点からわれわれもその真実を知りたいのです。ところが、今あなたが読み上げられたいろいろなお仕事の内容からいけば、現実においていろいろトラブルなり問題が起きても、どうもそこまでいっていないのではなかろうか。それが人間的に足りないのか、予算の面が足りないのか、あるいはその他の制度上の欠陥があったのか、そういうところをわれわれは実際に知りたいのです。だから、私の言葉が強いから責め立てるようなことになるかもしれませんが、決してそうではなくて、真剣に考えてほしいと思います。  私は、時間の関係もありますから、これで終えますが、中田さん自身も今日では官界におらない方でありますが、あなたもやはりそういう広い意味の責任を考えられて——これは決してあなた個人の責任でなくて、制度の中における、機関の中の一つのこまとしてあなたはやったにすぎないのであります。だから、ここで何が真実かをわれわれが正しく判断するのに誤りのないように、午後からもやられるようですから、ぜひ御答弁をいただきたいと思います。私は真剣に考えております。ただ単に自分の都合のいいことだけでなしに、この点に欠陥があったというのなら、率直にそれを認め合うのが前進ではないかと思います。そうでなければ困ると思います。どうも午前中のお話では、くつを隔てて足をかくというようなことで、われわれが目ざすところには遠いところも多少あったように思います。  どうぞ、そういう点で、午後からはぜひそのようにお願いしたいと思います。
  159. 鈴木仙八

    鈴木委員長 午前中の会議はこの程度にとどめまして、午後も続いて質疑を行ないますので、参考人及び政府当局の方には引き続き御出席願います。  午後二時三十分まで休憩いたします。    午後一時四分休憩      ————◇—————    午後二時四十二分開議
  160. 鈴木仙八

    鈴木委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。西村力弥君。
  161. 西村力弥

    ○西村(力)委員 このドミニカの移民募集の重要なる項目として、自営開拓農、これを一番最初に打ち出して、希望者の大きな魅力になった。その点についていろいろ午前中から論議がありましたが、外務省としては、この自営開拓農ということは、日本語として通常使われている百味、そういう趣旨で使ったと思うのですが、そうでなくて、それはドミニカにおける自営開拓農という趣旨だというならば、そういう内容を応募者にはっきりと理解させる努力をやったのかどうか、こういう点がまだ不明確なのです。われわれの常識としましては、先ほどから論議がありましたように、自営開拓農というものは、日本的意味においてはこうなんだ、その通りみんなは受け取っているんだ、こう受け取られることを承知してやった限りにおいては、その内容については親切丁寧なる解説がなさるべきであったのにかかわらず、それがなされているかどうかということになると、まことに疑わしい。その間どれだけの努力をなさったか、一つ説明を願いたい。
  162. 高木廣一

    ○高木政府委員 だいぶ前のことでございますので、書類では必ずしもはっきりしないのですが、先日私、当時ドミニカにおりました福島代理公使、今横浜のあっせん所長をしておりますが、これに聞きました。当時、今の植民法がドミニカにあることはよくわかっていた、そして日本移住者については、あの植民法そのままを必ずしも適用せられない、たとえばあの植民法によりますと、五十タレア以上は分けないことになっているのを、日本の場合は三百タレアまでというようなことがございまして、交渉をしていたというような話はしておりました。しかし、いずれにいたしましても、自営開拓移住というのは、普通にいう場合には農業雇用労働者に対する、自分の責任で農業をやる自営開拓という意味において、何らの疑いなく自営開拓移住、こういうふうに言ったものと想像いたします。これにつきましては、たとえば現在でも、ボリビア、パラグアイ、いろいろ自営開拓移住がございますが、ボリビアの場合は、向こうの国有地を二年間耕作をして初めて地権が得られる。それからブラジルの場合など、これは戦前でございますけれども、やはり八年とか十年の期限を経て十分開拓せられた場合に所有権が得られるというようなこともございますが、雇用農業労働に対して自営開拓移住、こういうふうに疑わずにしたものと思います。
  163. 西村力弥

    ○西村(力)委員 しかし、詳しい内容については、先日の引揚者の陳述によりますると、何ら聞かない、日本的な解釈、内容をもって理解して自営開拓農、これは大へん魅力だ、こう言った、こう述べておるのです。ですから、私が言うのは、そういう応募者に対して親切に手を尽くすということがなされたかどうかということなんです。それをどうなさったかということです。これは海協連の方でも直接にその衝に当たられたでしょうから、外務省と海協連と両方から、具体的にどういう努力をされたか、それを一つ明瞭にしていただきたいと思う。
  164. 高木廣一

    ○高木政府委員 移住者に申し渡したことは、募集要項の書類にも載っているわけでございます。あれに基づいて地方において実際どういうような説明ぶりをしたかは、実は書類が残っておりません。ただ、講習会なんか開いてやったようにも聞いておりますが、私は、それの実際的の、あの募集要項という書類に載っておる以上のことについては、正確にわかりません。
  165. 西村力弥

    ○西村(力)委員 海協連には何かありませんか。
  166. 横田一太郎

    横田参考人 私は、全然そのことについては存じておりません。
  167. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それは、あなたは現地におったらわかるだろう。  それじゃ結論的にお聞きしますが、この前参考人が、引揚者が、そういう詳しいことを聞かないで、まあ日本入植者のごとく、自営開拓農だと思って行った、それが行ってみたら全然違った、こういうことを言っておることは、これまたやむを得なかったと認められるかどうか。そういう点、やはり十分な努力をなさらなかったということを認められるかどうか。それはどうですか。そういうことを言うのは言いがかりだ、こじつけだ、それは十分に事前に説明してあります、こう言えるものならばそれでいいですが、言えないとするならば、ああいう引揚者の言い方を認められるかどうか。
  168. 高木廣一

    ○高木政府委員 今の御質問は、募集要項にある程度書いてございますこと、あれ以外のことでございますか。
  169. 西村力弥

    ○西村(力)委員 確かに募集要項には、何年間後にドミニカの法律を充足した場合においては、その土地はその人のものになるのだ、こういうことは示されてあります。それはわかりますよ。ところが交換公文にはどう出ているか、交換公文の、昭和三十一年三月二十七日付、ド国農務大臣発吉田公使あて書簡、これのあなたの方の責任ある訳によりますと、ずっと項を追いまして、(イ)からずっとありますが、その最後の(ホ)の段階にこういうことがある。「移住者はド国農務省が地質に従って彼等に指示する耕作を活発に推進しかつその整地及び生産を良好なる状態に維持する義務を負う。」こういう工合にはっきりと書いてありますね。ですから、やはりあそこの管理官が作付の指示をし、また草をはやしているとそれを叱責する、しかる、こういうようなことはその交換公文から来ているわけなんです。ですから、作付の指示を受けて、そうしていろいろ管理官の指示を受けておる。先ほどからのあれによりますと、管理官がピストルをつけているのは、部外者からのむしろ保護的な立場であるのだと言うけれども、この公文によると、この交換公文を実際に実行するための管理官であるとするならば、やはり入植者に対しましてはその耕作を活発に推進するように指示し、地質に従って作物を指持し、また良好なる状態に維持する義務を要請する、こういう役割をもって管理官というものが当たったのだということになるわけです。これは交換公文ではっきりしておる。こういうことであるとするならば、この点はやはり十分に説明されなければいかぬ。募集要項の中に、この交換公文の(ホ)の項がどこに示されてありますか。私がずらっと見たところでは、示されていない。
  170. 高木廣一

    ○高木政府委員 そういうふうに申してきますと、いろいろな問題で、あれも書いてない、これも書いてないということがあるかもしれません。しかしながら、ドミニカ政府がキャナルを作り、その他の施設をするために相当の金を使っているということもわかっておるわけであります。従って、せっかくこの農地に日本人なりスペイン人なり外人を入れた場合に、これを放棄していいかげんにやるということは常識でなかったことは当然のことであり、当時においてその程度の説明はもちろんあったと私は思います。
  171. 西村力弥

    ○西村(力)委員 そういう意味では、あれも書かない、かにも書かないと責められるがと言いますけれども、事の軽重ということは、やはりあるんではなかろうかと思うんです。「自営開拓農」、こういう大見出しで募集しておきながら、中身はこの交換公文で、作付の指示を受け、良好な状態に維持することを要請されて監督を受ける、こういうことに交換公文がちゃんとなっておるんです。ここのところはやはり大事な条項として、希望者に克明に親切に説明されなければならぬ問題であると思う。それが募集要項のどこに書いてあるかと言うんです。
  172. 高木廣一

    ○高木政府委員 前のあれを調べてみましたところ、本件について小長谷大使はこういうことを言っておる。「コロニア法の概要は日本出発前に日本海協連発行の「ドミニカ生活と労働」その他によってすでに説明を大要受けているはずである。また入植後も機会あるごとに説明してあるので、コロニア法を知らなかったということは不勉強を自白するものである。」こういうことを言っております。
  173. 西村力弥

    ○西村(力)委員 はっきりしませんでしたが、今のは小長谷大使からの書簡ですか。
  174. 高木廣一

    ○高木政府委員 はい。
  175. 西村力弥

    ○西村(力)委員 小長谷大使が横浜のあっせん所説明しているはずだとかなんとか言うことは、現地に行っている人たちをこっちでどういう工合に募集し、かつ教育したかということを向こうの大使からとって、それをあなた方が根拠資料にするなんということは、ちょっとおかしいのです。
  176. 高木廣一

    ○高木政府委員 ここに募集要項がございます。これは募集要項でございますが、「移住者の義務」「ドミニカ国の法令を守ること。政府が指定する場所において農業に専従すること。入国条件及び移住者の義務に違反したときは、日本へ強制送還される場合がある。」こういうようなことが全部書いてあるのでありますが、これについてのいろいろの説明は当然あったものと思います。
  177. 西村力弥

    ○西村(力)委員 あったものと思いますではだめなんです。それでは古関さん、あなたはずっとこのドミニカ移民に対しては横浜のあっせん所長として教育に当たられたはずでありますが、その間そういうことを丁寧に親切に、コロニア法の条文についても、交換公文についても、そういうドミニカの法律一般について、これこれの法律があるんだから、こういう条件で行くのである。この法律を遵守すれば、あなた方は土地を取得することができるんだ、こういう教育をあなた方はなさいましたか。そういうことが基礎になっていればいざ知らず、ただ単に言葉として法律を十分に満たせばというようなことを書いてあるから、教育したはずだでは、何ともしようがないじゃありませんか。
  178. 高木廣一

    ○高木政府委員 不幸にして私は当時おりませんでしたし、そういう書類がございませんから、さっき申しましたように移民募集要項とか、あるいはできる限りの資料を集めまして、確かめた次第であります。
  179. 西村力弥

    ○西村(力)委員 交換公文の全文を何もかも全部載せることはできないとおっしゃるが、そういう言い方はまずやめてもらいたい。それから当時私はその職でなかったからそのことはわからぬというようなことを言われるが、いやしくもここで審議する限りにおいては、あなたは現在移住局長のポストにあるのだから、その経過についてはほんとうに十分にポイント、ポイントについてはこまかく事情を知悉してわれわれに答える責任がある。それにもかかわらず、当時そうでなかったから私にはわからぬという工合に言いのがれすることは、われわれとしてはちょっと受け取りかねる。当然わからぬことはたくさんあるでしょう。あるでしょうが、今論議になっておるところは、この前からそうなんだが、引揚者諸君は、ことにそういうコロニア法についても交換公文の内容についても、作付まで指示されるとは思わなかった、こういう工合で、それを知ったのはいつだ、行ってから何年かたってだ、こう言っておるのだから、それは大へんだ、あまり誇大に宣伝し過ぎて募集している。これは外務省の責任になる。そこでその間の事情を調べようというのですから、従ってあなたはたくさんの手足を持っておるのだから、それを調べてここに出席されるのが当然じゃないですか。
  180. 高木廣一

    ○高木政府委員 移住の募集につきましては、国内でやるわけであります。県、地方海協等を動員いたしまして、農林省が担当してやるわけであります。もしできましたら、農林省の方からの説明もお聞き願いたいと思います。
  181. 西村力弥

    ○西村(力)委員 直接の担当は海協連ですか、そうだろうと思うのです。農林省が担当だと言いますが、そうすると、この件に関しては外務省の責任はないということになるのかどうか。その間の系統はどうなっておるか。、省と外務省とその系統を一つはっきりしてもらいたい。
  182. 橘武夫

    ○橘説明員 農業移住者の募集につきましては、所管は農林省と外務省の共管でございまして、実際行ないます海協連あるいは海外協会の指導は農林省が担当することになっております。農林省といたしましては、先ほど移住局長から御説明がありましたような募集要項につきまして、それの説明なり移住者にそれをよくのみ込ませることにつきまして海外協会に指導いたしたわけでございますが、今まで県その他に問い合わせました限りにおきましては、当時そういう募集要項については移住者によく承知さしたはずだというふうに聞いております。
  183. 西村力弥

    ○西村(力)委員 そうすると、コロニア法やそういうことについて、あるいは交換公文には作付の指示を受けるときまっておるのだから、そのつもりで行ってくれということをみな説明したというのだとすれば、この前言った人はうそを言ったということになるのですね。知らなかった、行って初めてがく然としたと言っておるのですから、うそを言ったということになるのですが、これはどうも私たちとしては、どっちがほんとうか、向こうの方は苦難の生活を経てきて、そういう現実に体験したことを言っておるのですが、あなた方は、そういう工合に聞いておる、そういう程度の御答弁しかないのですから、やはりどうしても向こう引揚者の言う方に肩を持ちたい気がするのですよ。そうすると、これはもう一度あの引揚者諸君を証人として呼んで、この点は明確にしなければならぬということになって参るのです。今農林省の橘さんがおっしゃったことを聞いておりますと、これはどこどこからそういう工合に聞かれたか、そういう聞き方はどういう方法でなさったか、御説明を願いたいと思います。
  184. 橘武夫

    ○橘説明員 これはこのたび帰国されましたドミニカ移住者を、出身の県のおもな県に対しまして、数県でございますが、電話でもって、どういう募集要項についての説明なり、募集の条件についての説明を当時したかということを、県を通じまして照会いたしました。古いことでありますから、わかります点と必ずしも明確でない点とございますけれども、募集要項についての説明なり、募集要項自身は最終的には応募者が決定いたしますまでにそれぞれの移住者には見せているということが返答としてあった。ただその募集要項の内容に、ただいま御質問がございましたような向こうのコロニア法という法律自身の名前でありますとか、あるいはコロニア法の具体的内容が必ずしもこまかく書いてあるというわけではございませんで、先ほど移住局長が申し上げましたような表現で書いてあるわけであります。その範囲のことにつきましては、説明がなされているということでございます。
  185. 西村力弥

    ○西村(力)委員 だからドミニカ国の法律を完全に守っていけば、最終的には土地は自分のものになるというけれども、その法律の中身について詳しく話していかないと、どういう法律があるのかということは応募者は全然わからない。あなた方はわかっていなければならない、そして説明しなければならぬですよ。だから詳しく説明なさるべきが当然である。ですから、私どもは、やはり引揚者諸君がこういう法律があるということは向こうに行って何年かたって知ってがく然としたということが、どうもほんとうに思えてならないんです。  それでは横田さんにお聞きします。あなたはスペイン語のたんのうな方でいらっしゃるが、ここにドミニカ国の移植民法というものの翻訳がある。これは正しいかどうかわかりませんよ。これは同じ入植者の立山吉之助というハラバコアの日本人会所属の人が訳したんですから、正しいかどうかわかりませんが、これを見ますると、やはり募集にあたっては丁寧に説明しなければならぬという条項がたくさんあります。それはどういうことかというと、たとえば第四条に参りますると、「国有植民地へ入植せんとする明らかな目的をもって渡航入国する外国人移住者は最初六ヶ月間の入植地に於ける生活(計)費及び営農費を支弁すべき充分なる資金を携帯しなければならない。」こういう工合に書いてある。ところが、この法律はこう書いてありまするが、この点に関する指導は、向こうは物価が高いから、なるべくよけいに持っていった方がよかろう、こういうことを説明している。募集要項には、物価が高いから持っていった方がよろしいとだけいっている。この法律には携行しなければならないということがある。こういう工合になっているんです。だから結果的には一緒かもしれませんけれども、法律条項に基づいてやはり携行しなければならないという条件で入植するとするならば、その条件に合う立場でやはり募集しなければならぬということになるが、この第四条は、横田さん、こういう訳で、大体御記憶ではよろしいかどうか、またそこに訳文をお持ちでしたらばこの点を一つ……。ドミニカ共和国移植民法第四条の第二項です。
  186. 横田一太郎

    横田参考人 これは仮訳ではこの通りだと思っています。
  187. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それじゃ第六条に参ります。第六条には「農牧開拓省は各人植地に当てうるべき耕作物およびその他の農業生産活動を指定することを得るものとし右の指定が行はれた場合は入植者はこれに従う義務を有する。」これが第六条第一項、これはどうですか。
  188. 横田一太郎

    横田参考人 これも翻訳はこの通りだと思います。
  189. 西村力弥

    ○西村(力)委員 明らかに指定することができるし、指定はこれを順守する義務を負う、こういう形で入植をするのです。  第七条に参りますと、「入植者が善行を保持せず、農牧開拓省が社会秩序及び植民地の作業に関して定める規則を守らない場合には、その契約は植民地管理官が、入植課長の許可を得て書類を作成した後、同省の単なる通告によっていかなる訴願も許されず解除される。入植者は当該植民地より退去しなければならない。」これは第七条の第一項。これによりますと、向こうの管理官の判定によって、いかなる訴願も認められずに、入植の契約というものは解除されて、国外に退去を命ぜられる、こういう工合になっております。これはどうです。
  190. 横田一太郎

    横田参考人 翻訳だけはその通りであります。
  191. 西村力弥

    ○西村(力)委員 私は翻訳を聞いているのです。だからいかなる訴願も許されずに解除される危険性を持っていかなければならぬ。しかも管理官の前提としては、もちろん善行を保持せずとか、秩序を保持せずとか、耕作の規則を守らないとか、そういう前提はありますが、それを判定するのはやはり管理官です。管理官が書類を作成していけば、訴願を許されないで解除される、こうなっているのですよ。これをあなたは認めるだろう。こういうことを農林省の方がそこまでみな説明したかどうかということ、これは重要じゃないですか。いやしくも日本国民を知らない外国に送るのですよ。移住執務提要によりますと、前から論議になっていますように、とにかく商業宣伝をも十分手本として、下品にならない限り、あらゆる方法、手段を繰り返し繰り返し動員することを常に心がけることが肝要である。この場合宣伝方法としては若干の正確さを犠牲にしても、より刺激的であることが必要である。この前から話になっておったのでありますが、こういうことを言っている。こういう心がまえでやっておると、こういうことは知らぬが仏で知らさぬでおこう、こういう工合になってきたのじゃないか、今になってしたはずです、したという電話がありました、こういうようなことだけしかわれわれは聞くわけにいかぬということになっておるのですが、第七条のこういうようなこと、訳文としてはそれは正しいということをお認めになられたわけですが、これが明らかにドミニカ国入植を規制する法律として現存しているわけなんです。だからドミニカ国の法律を守って——こういうことの中身あるいはいかなる立場入植することになるかというようなことを明確に判断させるには、このことは当然詳しく説明があってしかるべきでないか。これがなく、ただわれわれの日本語の常識からいって、自営開拓農というと、その辺の、戦後国内に開拓民として入ったと同じような形で行ける、こういう工合に踏んでいったということは、間違いじゃないかと思う。一体こういう点に対して、外務省当局として、募集のやり方にいささか親切さを欠いた、ぜひやらなければならぬ問題も知らせずに募集者を応募させた、こういうようなことをはっきりと反省して、認められてはどうなんですか。それは農林省当局もそのように御答弁を願いたい。
  192. 高木廣一

    ○高木政府委員 移住せられる場合に、できるだけ事情を詳しく言う、ことに大事なところは十分に言うという点で、不十分であったとおっしゃったわけでありまして、われわれとしても決してこれが完全無欠だとは思いません。しかしながら、同時に私昔のあれを聞きましたときに、植民法というのは必ずしもそのまま適用されておらないのです。まず第一の点は、その植民法では、その中へ入る者には、一人五十タレア以上やれないことになっておるわけです。そういう点は先方の政府と交渉を続けていたというお話を私は聞いています。それで実際の運用においては、この植民法があるけれども、できるだけ日本移住者のいいように、先方の政府と事実上交渉を続けていたのだと私は思います。そのコロニア法の適用ぶりについて、どの程度の説明をしたかということは、残念ながら私自身今十分の資料はございませんが、不十分であったと言われれば、あるいは不十分であったかもしれない。しかし、これはどこまで詳しく言うかということの問題であると思います。日本国内の内地開拓の場合に、さっきもお話がありましたように、必ずしも最初から地権が得られるわけでもなく、条件がついているということも聞きました。南米においても、さっき申しましたように、自営開拓においても、いろいろの国においてそれぞれの制限があることもこれは常識でございます。ただ常識でも、行く移住者がどの程度知っているか、できるだけ詳しく知らすということは一番望ましいことであって、われわれの当時においてそれが足らないということは、御批判があった場合に、私たちはあえて決して十分だったという反駁はいたしかねると思います。
  193. 橘武夫

    ○橘説明員 ただいま高木移住局長が申しましたのと大体同じ趣旨でございますけれども、当時のコロニア法のいろいろの運用のやり方、その他につきましてのいろいろ判断からいたしまして、ただいま申されましたような強制送還の問題でございますが、そういうことは抽象的な一般的な表現では募集要項にうたってございますけれども、それが十分に、ただいま御質問がありましたような趣旨において正確に知らせていたかどうか。今日から考えてもっと親切な表現の仕方なり説明の仕方なりがあったのじゃないか。その表現、文書に基づきましてさらにあとでどういう説明をしたかということにつきましては、先ほど申し上げましたように、今日必ずしもわかりかねますけれども、文書の上におきましても、もっと親切な綿密な表現というものが考えらるべきであったではないかということにつきましては、今日反省いたしまして、なお親切な心がけというものをもっとこのときにやることが望ましかったということは、率直に申しまして認めるべきだと思います。
  194. 西村力弥

    ○西村(力)委員 橘参事官お答えは私受け取りましょうが、高木移住局長の答弁は、何もかにも述べることも善くこともこれはできないのだということをおっしゃるが、また開拓移民法というものはそう厳格なものではない、五十タレアやるということは、五十タレアやらないという規定を破っているということをおっしゃられますが、五十タレアやろうと考えたけれども、今はやれない。これからはやるということはだんだんと調べてみますと、経過としてある。今はちょっとこっちに水も来ぬし、整地もできぬからやれぬ、だからその点は今やれないということであって、何も法を無視したことではない。だからその事例をもってコロニア法というものはそれほどきついものでないのだという言い方は、これは例のとり方としては非常に薄弱なものだ、こう言わざるを得ない。何もかにも書けないことは当然でしょう、何もかにも言えないことは当然でしょうが、事の重要さから言うと、このコロニア法なるもの、あるいは交換公文、そういう大本としてはっきりきめられるというようなこと、これは何もかにもの中に入るのかどうか。除外してかまわぬようなそれほど軽微な問題であるのかどうか。一体こういうことはこのドミニカに移民する人々の上にとって重要なことであるのか、軽微なことであるのか。あなたの判断を言ってみなさい。
  195. 高木廣一

    ○高木政府委員 私、重要であると思います。それで募集要項では、第一回目のハラバコアについてはそういうことがはっきり書いてないが、あとはかなり詳しく出ています。この事情を私は当時の人に聞きましたが、今言ったようなことであります。私は政府の責任をできるだけのがれるとか、政府は責任がないのだということを一生懸命言おうとしておるつもりでは毛頭ございません。私は現在の移住制度、移住のやり方は必ずしも十分でない、必ずしもというよりも、もっともっとりっぱにしていかなければならぬというふうに思っております。ただしかしながら、程度もございますので、私そういう意味からいろいろの説明をしておるわけです。ハラバコアについては、第一回のは確かに書いてないが、その以後の募集の中には書いてあるという点を私自身も注意いたしまして、調べました事情を申し上げましただけでございます。
  196. 西村力弥

    ○西村(力)委員 あなたはこの交換公文、それから向こうにあるコロニア法、これは移民者にとってはやはり重要なものと認められたわけですね。これはやはり重要なものとしてしっかり説明しなければならないものであったと、かように認められたわけですね。そうすれば必然的に、そういうものが丁寧に説明されてないとすれば、そこに重大な手落ちがあったのだ。あなたは説明があったというようなことを言うておりますが、その確証はないので、やはりそういうことになると思うのですが、これはどうですか。
  197. 高木廣一

    ○高木政府委員 実際どういうふうに口頭で説明したかはわからないのです。募集要項だけで今われわれは判断しておるわけです。
  198. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それでは次に移りますが、入植にあたっては、責任ある、しかも精密な事前調査ということを当然なさったはずでありますが、そのためにどういう人々が現地に行かれたか。農林省の中田さんも行かれたわけですし、その前にも近藤技官と吉岡さん、そういう方が行かれた、こういうことになっております。ところがこのネイバ地区あるいはハラバコアの募集を開始する時期からいいまして、未調査の段階で募集を開始した、こういうことは外務省の万では認められますか。
  199. 高木廣一

    ○高木政府委員 未調査というとまた非常に誤解があるかもしれませんが、日本側における専門家の正式調査の前に募集がせられたという意味においては、私はその通りであると思います。
  200. 西村力弥

    ○西村(力)委員 コーヒー園にも送っておりますが、コーヒー園に入植者を送るにあたって、確信ある調査はどういう方法でなされましたか。
  201. 高木廣一

    ○高木政府委員 コーヒー園の入植につきましては、あのコーヒー園のあとを引き受けて日本移住者にやらすということでございますから、この土地調査なんかはしていないのではないかと思います。
  202. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それは全然こちらでは調査をせずに、向こうからの申し出でがあったからそこに送った、こういうことなんですか。
  203. 高木廣一

    ○高木政府委員 コーヒーのできているところでありますから、専門家の調査をしていなかったのです。
  204. 西村力弥

    ○西村(力)委員 引き受けるというのは、だれですか。
  205. 高木廣一

    ○高木政府委員 これは国境地帯でして、従来ハイチ人が入って耕作していたところを、ハイチ人をドミニカから追っ払いまして、そのあとへ日本移住者を入れたのです。
  206. 西村力弥

    ○西村(力)委員 引き受けるという主体者はだれだというんです。引き受けるというその人の言質を信じて、日本人を送ったわけですからね。引き受けるというのは、だれですか。
  207. 高木廣一

    ○高木政府委員 ドミニカの農牧省でございます。
  208. 西村力弥

    ○西村(力)委員 その点は一体十分と思われるかどうかですね。向こうで引き受けると言ったから、そこに送った。コーヒー園にいた方々引き揚げてきている人も相当おります。またそこにはドミニカの囚人の作業地があり、それも重罪人である。そういう囚人は午前中二時間の作業をやれば、あとは自由だ、そういうものに取り巻かれながら、ハイチとの国境においてそういう作業に従事するということになったわけですが、こういうようなことが引揚者の陳述によって、書類によってわかるわけなんです。ですから、その向こうの農商務省の言を全部信じて、それでやったというようなことは、明らかにこれは手を尽くしていなかった、不十分であった。極端に言えば軽卒であったんではないか、こういう工合にいわれるではないかと思うのですが、それに対する御見解はどうですか。
  209. 高木廣一

    ○高木政府委員 私どもも事情は詳しくわかりませんが、もしできましたら、この前向こうに行かれました古関氏、あるいはそこにおられます横田氏から答えていただきます。
  210. 西村力弥

    ○西村(力)委員 あなたはわからないと言うけれども、やはり送ったのはあなたの方からです。横田さんあるいは古関さんがおっしゃっても、どういう立場でおっしゃるか、その立場が明確でないと、私たちはその答弁というものはあまりはっきり受け取れないんです。しかし、直接にタッチしておる立場で、私たちはこういう工合に聞いておるし、見ておるということでしたらば、その立場で御答弁願いたい。
  211. 古関富弥

    古関参考人 私がこの前参りましたときに、コーヒー園の方をまず第一に見ました。そのコーヒー園は非常に山でございまして、そこに植わっておるコーヒーは、ずっと前にほとんど放棄したようなコーヒーでありましたために、あまりよくなっておりません。それからずっと山を登りますと、ある平地がございまして、そこにもコーヒーはなっておるのであります。その平地のコーヒーは、非常に地味がよろしいのでございまして、こんもりとコーヒーがなっておる。そういうところでございますので、報告では、そういういいところを主として移住者に分けてやる、それから向こうの希望としては、その放棄したコーヒー園を補植して、やってもらいたいというようなことを申し出ておるということでありますから、そういういいコーヒーを半々くらいに分けて、そのコーヒー園の仕立てをやろうということで、もしあそこのコーヒー園を引き受けるならば、少なくとも二百タレアくらいは割り当てて、その中に余作地というものを作る必要がある、コーヒー園でなく別に自作できる土地をつけてやる。それからこの山間の上の方に行く場合ですが、そのコーヒー園に入る方々住宅地からだいぶ離れておりますから、その事業地には中間の休み場所あるいは採取したときの貯蔵場所を作る必要があるだろう。こういうことを報告いたしました。その募集にあたっては私の報告したことによっているかどうかははっきりいたしませんが、そういう私の現地調査報告は出してあるはずでございます。
  212. 横田一太郎

    横田参考人 日本人が入植してから私は参りましたので、いつもではないのですが、行ったときはそうでもなかったものですから、囚人は下のペデルナーレス州から連れられてきたのだろうと思うのです。ときどき道路工事をやったり、あるいは土地の小さい豆を作っていたように思います。それでよろしゅうございますか。
  213. 西村力弥

    ○西村(力)委員 コーヒー園からは何家族帰られましたか。
  214. 高木廣一

    ○高木政府委員 一家族でございます。
  215. 西村力弥

    ○西村(力)委員 その点は、この引揚者名簿を見ますると、ちょっと解せないのですが、もっとたくさんだと思っておったのです。なお、これは私自身調査してみなければ、今ここですぐ反論もできませんが、もっとあるように見ているんです。いずれにしましても、コーヒー園の調査はほとんどなされてない。古関さんがちょっと行かれて、そうして現地の人に、石も三年たてば肥やしになるとか鼓舞激励されて、そのついでに見ていらっしたという程度古関さんの職業柄、初めから危険性のあるものだと断じて調査されたのでもないでしょう。また基礎的知識は、横田さんは農業のことはわからぬとおっしゃったような工合に、なかなかおわかりにならぬのではなかろうかと思いますが、いずれにしても、そういう点については十分調査がなされないままに募集されているし、またネイバ、ハラバコアという地区は、向こうのいろいろな資料、国連の何かの資料、そういうものだけに基づいて、そして募集を開始し、開始後中田技官を派して調査せしめ、そしてお帰りになったときにはすでに出発段階であった、こういうことになっている。そういう調査はやっぱりあまり甘味がないじゃないか、募集して、財産も処分して、講習も受けて出発しようとするときに調査した資料を持って帰られた。それからでもやめられないわけではないと思うのですが、そういう調査は明らかに無意味な調査である、こういう工合に思うのですが、農林省はどう思いますか。
  216. 橘武夫

    ○橘説明員 調査の時期がすでに募集開始の後であったということでありますが、それはもちろん時期としてもっと早い方が望ましかったということは、おっしゃる通りでございます。ただその後におきましても、その調査が無意味ということはありませんで、調査の結果によってそれが移住適地であるということがはっきりいたしますれば、その後における移住を取りやめまするとか、あるいはすでに移住した人たちに対しましてさらに転住を考えます。そういうための貴重な資料になるわけでありまして、調査自体が無意味だというふうには考えておりません。
  217. 西村力弥

    ○西村(力)委員 無意味でないとおっしゃるけれども、事は、これはやっぱりもっと先に十分に調査して、その調査結果に基づく責任ある募集をなされなければならぬということが原則だろうと思うのです。そのあとの再び繰り返すであろうあやまちを押えるという可能性もあるのだ、こういう意味づけというものは、これはやっぱり調査のために人を派し金を使うということからいうと、あまり正しいやり方ではないということは、だれでも言われるのではないかと思う。  ところで中田さんにお聞きしますが、中田さんは現地調査に行かれて、調査報告計を書くまでの間に、すでにしてハラバコア地区その他の募集は開始しておる。方針はすでに定まっておる。すでに動き出しているのだということを知っていらっしゃったと思うのですが、それはその通りでよろしゅうございますか。
  218. 中田弘平

    中田参考人 私が調査に参りますときに募集が開始されておったということは、うすうす知っておりました。あまり重大な問題でないと思いましたからうすうすと申しますが、存じておりました。で、なぜそれじゃそういうところを調査するかといいますと、私が調査するまでに、一応私の方の調査の目標として行く地区の情報というものは、相当よく集まっております。たとえばドミニカ国政府自体の調査の結果とか、そういうものを集めて情報としてあるわけなんです。その中でなお私たちがよく確かめなければあぶないじゃないかと思われる点も二、三あるわけなんです。と申しますのは、たとえばネイバ、ドベルへ地区の塩の問題なんですね。そういうものをよく確かめるという意味で調査いたしました。  それから先ほど私が調査に行ってその結果を日本に持って帰ってそれから云々というお話でありましたが、私は調査先から調査した結果は、すぐに取りまとめて飛行便で日本にたくさん送っておりますので、ゆっくり持ち帰ったという意味ではございません。
  219. 西村力弥

    ○西村(力)委員 まあその報告書はとにかく、いつごろ送られたか、十月ごろじゃないかと思うのです。ドミニカに入られたのが九月十八日ですか九月の十七日ですか、その辺だろうと思うんですがね。それから大体三週間にわたって御調査になったというのですから、どうしても大急ぎで送られても十月過ぎに報告書は本省に届いた、こういうことになるのじゃないかと思うのですが、よろしゅうございますか。
  220. 中田弘平

    中田参考人 日付をよく覚えておりませんけれども、ドミニカに私が着いたのは九月八日でありまして、それから約一週間後に報告書の第一便を送っております。それは十月といわず、九月の中旬に日本に着いているはずです。
  221. 西村力弥

    ○西村(力)委員 九月八日にニューヨークからトルヒーヨに行かれた、あなたの書かれたこの本にも九月八日と書いてありますが、ずっとこの本を読ませていただきますと、トルヒーヨからネイバに行き、ドベルヘに行き、それからコンスタンサ、ハラバコア、マンサニリョ、そうしてトルヒーヨに帰られて、一日はポカ・チカという海水浴場で静養をなさった、こういうようなことをずっと日程的に書いてあります。ですからネイバ、コンスタンサ、ハラバコア、ここまでの調査が何日で終わったか、九月八日に着かれてネイバ調査に行ったのは九月十八日、こうなっております。そうすると大体トルヒーヨに十日間いらっしゃったということになるわけですが、ずっとこうなって二十二日か三日おられたというわけです。この件については少し意地悪いようでしたけれども、農林省にその調査の日誌を詳しく出してもらいたい、こういうことを申しておりましたが、おいでになっておりますので、あなた自身からその日取りや何かをずっとお話し願えたら幸いだと思います。
  222. 中田弘平

    中田参考人 たまたま私が本を書きましたので、それがよく引き合いに出されているのでありますけれども、その本に十八日にネイバに行ったというのは、これはミス・プリントでありまして、そうではありません。ここに日程表を思い出して書いてありますが、ネイバに行きましたのは十一日であります。それからネイバからドベルヘを経まして一応十七日にトルヒーヨに帰っております。それで十七日、十八日はトルヒーヨに滞在して、次の調査の日程の打ち合わせや予備調査的なことをいたしまして、十九日に再び出発いたしまして、二十四日にダハボン地区に着いております。それから二十五日から二十八日まで、最後にトルヒーヨに滞在いたしまして、調査の取りまとめやそのほか雑用をしております。大へん申しわけないのですが、その本の十八日というのは明らかにミス・プリントでございます。
  223. 西村力弥

    ○西村(力)委員 こんなことをあまり言うのはおかしいけれども、十一日が十八日というミス・プリントというのはおかしいです。これは原稿の書き違いだ、こういうことになるのじゃないかと思うのです。あなたの記憶が、やはりちょっと間違っておったということになるのじゃないかと思う。それにしましても実際ネイバ、ドベルヘ、コンスタンサ、ハラバコア、これまではこれから入植させようとして懸命に、誠心誠意御調査なさっだたろうと思うのですが、その調査団というものはどういう構成になっているか。あなたと大使館の人と、そのほか向こうの農商務省のどういう人がついていったか。そのほか人夫や何かがどういう工合になったか、あるいは携行する調査用具はどういうものか。それは科学的に技術者として良心ある調査をしようとするならば、相当のスタッフを必要とし、また相当の機具あるいは薬品、器材というものが必要だろうと思うのですが、その調査団の構成はどういう工合になっていますか。
  224. 中田弘平

    中田参考人 非常に御意見はごもっともでありますけれども、私たちの参りました調査団というものは、団というほどのスタッフ、組織は持っておりません。大体私一人が調査をするような形になっております。ネイバとそれからドベルヘにつきましては、横田さんに道案内かたがた御同行を願って相談をした程度でございます。たまたま向こうドミニカ国の農務技師が滞在しておるのが見つかりまして、横田さんを通じてその人を仲間に呼び入れまして、お手伝いや何かを願った経緯もございます。それでは現地調査はできぬじゃないかということが言えるかもしれないのですが、この調査はそういう制約がございますので、あらかじめ現地に行くまでに、ドミニカ国政府がどういう意図でここを開発して入植地にしようとしておるのかというようなことについて、できるだけ詳しい資料をあらかじめ集めて参りました。それを検討して、なお現地に行かなければ目に見えないことがございますから、たとえば土の問題などは資料を集めても、ただ地味がいいんだとか、あるいは中等だとかいうような表現しかないといたしますと、これはどの程度いいのかというようなことを確かめるために土壌を持って帰って、それを自分の手元で分析して、これならばいいとかどうとかいう判断をするということをいたしております。もちろんいろいろな調査の道具などを持って歩くことは大へん望ましいのでありますけれども、私が持って参りましたのは八木式土壌検定器くらいなものでありまして、そのほか必要なものは現地でときどきそのときに応じて調達いたしまして、シャベルで土を堀るとか、棒切れで土の深さをつついてはかるとか、そういう程度のことしかいたさなかったのであります。
  225. 西村力弥

    ○西村(力)委員 その程度の調査しかできなかったのか、しなかったのか、する必要がなかったのですか、これは技術者として一つの重要な任務を帯びて行ったとするならば、もう少し万全の準備をなさって誤りのない調査をなさることが望ましいのではなかろうか、こう思うわけです。土壌検定器というものを持っていかれたそうですが、そうしてまたこの現地におられる同行の技師、そういう人にときどき手伝ってもらったといいますが、それは未入植地でありますので、同国の責任者が同行して、日本人をここに入れるのだという土地の指定を受けてやらないと、ばく然とこう見たのでは——これは先ほど午前の話を聞きますと、いいところと悪いところとがありますというような話でありますし、また向こうの方としましては、やはりいいところはドミニカ国の農民が相当入っているのじゃないか。これは前からの農民もおるでしょうし、国営農場等であって最初に入ったのは、やはり自国民を優先して入れているのじゃないか。こういうことになりますので、概観的にその地域のどこかをやってみて、それでこれがよろしという工合にはなかなかいかぬのじゃないか。そうすると一体この地区のどこに日本人を入れるつもりだったのか、それはどこの地区だってそう大きい数を入れるんじゃないから、方々にばらまくわけではないから、日本人の入植予定地というものは、向こうから責任ある説明を受けて、そこについて調べるというやり方でないと、これは正しい報告とはならぬのじゃなかろうかと思うのです。あなたはそうやってどこかをほじくり返して、土壌検定器でやってみたりしてみても、ここに日本人が入るのだ、ではここを調べていこうというようなやり方をなさったわけではないと思うのですが、その点どうですか。
  226. 中田弘平

    中田参考人 ネイバ地区などは、南米の移住地という頭のスケールから考えますと、非常に局限された狭いところであります。ネイバといえば、あなたがおっしゃる意味のここだと言って差しつかえないくらい狭いところで、百町とか百何十町とかが開墾されておるというくらいのものでありまして、パラグァイとかブラジルとかアマゾン地域のように、もうぼうばくとしてどこからどこまでかわからないというような感じは抱きませんでした。
  227. 西村力弥

    ○西村(力)委員 そうしますと、ネイハでもハラバコアでも狭い地域だからどこに行っても同じ土壌だ、土地条件は同じだ、その中から帰ってくる人と帰らない人がおるとすれは、土地のせいじゃないのだ、人間のせいだ、こういうような結論、上塚さんがおっしゃったような工合になるのですか、どうですか。
  228. 中田弘平

    中田参考人 そのことについては私はわかりません。何とも言えません。
  229. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それでは、私の聞いておるところによりますと、あるいは先ほど久保君がメモを取り出していたしましたが、外務省では移住計画というものは既定の事実になっておるのだから、それに制約される心理状況があった、こういうようなことをあなたは申されましたが、やはりそういうことをはっきり申されたのですか。報告書を書くにあたって、こうだということを文芸春秋の記者と話し合って言った、こういうことになっておりますが、それはどうですか。
  230. 中田弘平

    中田参考人 その話は午前に一応私は申し上げましたが、もう度繰り返しますと、理由は何であれ、私は引揚者に対しては非常にお気の毒だと思っておる。そうしてその引き揚げるに至った原因が、もしも私の調査の不行き届きなり不十分であったことに原因の一端があるならば、これはきわめて申しわけないことである、そういう意味のことを申しました。
  231. 西村力弥

    ○西村(力)委員 そうしますと、すでに募集を開始しておるのだから、やはりそういうことならばよいことずくめで、そういう結論を出した方がよいのだという気持が動いたということはおっしゃらなかった、こういうことになるだろうと思いますが、それは言うた言わないの問題でありますので、ここでどこまで詮議してもしようがないのでありますが、事によったら、やはり言うた言わぬというような問題というものは、はっきり証人としてお互いにやってもらわなければならないようなことになるかもわからないと思いますが、こういう点は意地悪のように聞こえるけれども大事な点として私たちは考えます。やはり、こういうところに今回の失敗のいろいろな原因があるのではなかろうかと考えるので、これを明確にしたい、こういうことで申し上げておるわけなのでありますが、いずれにしましても、あるいは募集要項にはドミニカの法律を云々ということもあったが、そういうことがほんとうに親切になされたかどうか、事前調査というものは、あなたの手により技術者の良心にかけた調査であったかどうかという問題、良心にかけてやったとしても、技術者としての良心を満たすにはそれだけの準備というのが必要だということは、これはあらゆる場合に言えるわけなんです。ところが、ただ一つ検定器だけを持って、人夫も使わずに、そういうような工合に行かれたということは、これはやはり問題であると思うのです。  それから第三番としてお聞きしたいのは、横田さんに聞きたいが、先ほどから外人部隊でいろいろ御論議になりましたが、お祭りの練習をしたのが演習と間違えられたのだろうということでありますけれども、署名をしたというのは、何に署名し、その署名はだれに出されるべき署名であったか、その署名を求める内容は、どう書いてあったか、それは知っているはずだからおっしゃって下さい。
  232. 横田一太郎

    横田参考人 署名は一枚の紙に——私はそれに立ち会いませんでしたが、あとダハボンの代表者が来て申しますのに、御承知のように署名ができない方もありますから、代筆で署名したりして、五十九家族が申込書というのに署名した。その書いてある内容というのは、名前と、それから国籍はあれには書いてなかったと思いますが、実際に持っておりませんからわかりません。それからコロニアは、自分のところで、行くあて先はドミニカ党ダハボン支部だと記憶しております。
  233. 西村力弥

    ○西村(力)委員 そうすると、白紙委任状みたいなものだね。自分の国籍と名前だけであって、そしてただ判こをついただけだ、それで横田さんはおれも入ったということを言うたそうですが、あなたも署名なさったのでしょうか。いやしくもインテリのあなたが白紙委任状に判こを押して出すなんということはあり得るはずがないじゃないですか。
  234. 横田一太郎

    横田参考人 サントドミンゴ大学の学生としてみんな出しますから、私もその通り名前を書いて、あとはみな向こうで書き入れてくれました。白紙委任状ではありません。用紙に、「レヒオンエストランヘーラ」と書いてありました。日本語で言うと、外国人居留民団とでも、しいて言えば訳せると思います。
  235. 西村力弥

    ○西村(力)委員 居留民団というのに署名するなどおかしいじゃないですか、それは何か制約する意味があるのですからね……。私は外国人でございますので、居留民という判こを押す——あなたは外交官の経歴もあり、外語を出られた方で、みんな学生がやるからおれもやったなんという話はちょっと受け取れませんがね。署名を求めるのには……。ことに向こう日本以上に厳重ではないですか。日本で街頭で署名する場合には、大して内容を示さないで署名を求める場合もあります。しかし、それはいかぬという意見も相当強いと思いますが、外国のしきたりからいえば、署名を求めるにあたって、ただこれに判こをつけ、ああよろしいというような工合にはいかないのが普通じゃないですか。そういうところは、向こう日本以上に自己の権利、個人の権利なんというものの意識は相当進んでいるはずなんです。これはドミニカはもっと後進国だから違う、ことに当時はトルヒーヨ元帥の独裁であるから違うということも言えるかもしれませんけれども、そういう権利意識というものは日本人以上に強い、こういう工合に私たちは推測できるのですがね。あなた方自体が、判こを押したときに、ただ外国居留民団と書いてあるから、みんなが押すからおれも押した、それだけで済みますかね。その判こを押す意味というもの、こういうことはやはり明確に理解された上でなければできないはずだと思うのですがね。
  236. 横田一太郎

    横田参考人 私は、私のなにでみなと一緒に読んで、そのときに不審なところも何もなかったのです。それでレヒオンエストランヘーラと書いてあるのですが、ほとんどみんなやるのだからやろうじゃないか、お前もここにいる以上はやれということでやりました。  それからダハボンの場合は、一週間みなで討議して、そうしてダハボンのドミニカ党支部へみな自分の意思で行って——私は、このときおりませんが、私の方の北村指導員がついて行って、全部判こを押して、納得をしてやったという報告がきております。
  237. 西村力弥

    ○西村(力)委員 ですから、討議するのには、その内容を素材として出さなければならぬ。あなたも読んだとおっしゃるけれども、やはり外国居留民団、こうなってずっと中身が書いてあるのでしょう。それについて概略御説明願いたい。
  238. 横田一太郎

    横田参考人 中には何も概略書いてありません。ただ一枚の紙に——私の場合は、大学の何か名前がタイプで打ってありました。それに自分で書いて出しました。
  239. 高木廣一

    ○高木政府委員 この件について小長谷大使に問い合わせましたら、こういう回答がありましたので、ちょっと御披露申し上げます。  「外人部隊の件につき、その後小長谷大使に当時の事情につき照会したところ、左の通り回答があった。  昭和三十四年ドミニカで外人部隊が組織されるという情報があったので、同大使は日本移住者に対し加入が勧誘されはしまいかと憂慮していた。  当時のド国農務省監理官が外人部隊加入を強制したかどうか事実調査は困難であるが、その頃ドミニカの単一翼讃政党たるドミニカ党の全盛期で官吏は全部党員で党の指令に服していたので加入の勧誘を行ったことは事実である。  なお、当時の事情については、昭和三十四年三月二十六日付ダハボン日本人会長より小長谷大使あて「外人軍団申込署名について」なる報告とお礼を兼ねた書状がある。  要点は、(1)先般電話を以て御照会致しましたところ大使館員及び海協連支部職員を派遣下され早速移住者懇談の機会を与えられた点につき日本人会を代表して厚く御礼申し上げる。(2)十六日約六十名が北村主事と共にドミニカ党支部長に面会を求め、署名の目的を尋ねたところ、イ、万一ド国が外国と事を構える際、署名された方に協力して頂くかも知れない、しかし日本人が銃を持つことはあるまい。ロ、現在の如き情勢下においてト元帥に対し、どの位の協力者があるかの資料にしたいと答えた。(3)移住者各位にその旨報告致し賢明なる諸氏なるため、署名の強制はしないが、希望者は署名されたい旨申しましたところ、今日迄五十九名が署名致しました。(4)署名の結果現地人の日本人に対する態度は次のように変りました。イ、ト元帥に対する協力につき感謝された。ロ、子供達の悪口もなくなった。ハ、外出につき手続が簡単になった。二、移住地周辺の現地人が従来以上の好意を示すようになった。  書簡の要点は以上のようであります」そういうような書簡がここにございます。この件に関しまして、小長谷大使は、本件について大使館意見を聞かれた場合に、これはドミニカに永住する日本人が自身できめるべきであって、大使館は、これに入りなさいとか入ってはいけませんとは言えない趣旨のものであるということを言われたように報告してございます。
  240. 西村力弥

    ○西村(力)委員 今の件は、いろいろ移住者の環境が何かにつけてやはり大使館あるいはまた海協連に世話にならなければならぬという環境にもあったらしい。また現地状況を本国に通知すると、生命が保障されない云々というようなことまで言われているということを聞いておりますが、そういう環境下にあって、やはり相当危険を承知で署名せざるを得なくなったのではなかろうかと思うのですが、しかし、そういうことはこれは重要な問題ですから、海協連としての指導としては、もっと先に今のような中身は十分に説明していかなければならぬのじゃないか、こう思うのですが、まあいずれにしましても非常に奇異な感じを持ちますし、あなた自身が大学生としてみんながやるからやったというような立場でなさったというようなことは、どうも私としてはいいことであるとは考えられないのであります。  以上のようなことをお尋ねしまして終わりまするが、しかし、この前の引揚者の陳述と今回の関係者の陳述というものに相違点が相当ありまするので、これをどうするかという問題は、私たちやはり委員会立場から相当検討しなければならぬのじゃなかろうか、こういうことを委員長に申し上げます。  私の質問を終わります。
  241. 鈴木仙八

    鈴木委員長 小川豊明君。
  242. 小川豊明

    ○小川(豊)委員 一、二点お尋ねしますが、尊敬する上塚先生が長い間移民のことについて御努力を願ったわけですが、今度おそらく世界にも類例がないだろうと思う集団帰国というようなこういう事態が起ったということは、これは移民史上にちょっと類例のないことじゃないか。従って、先生のような非常に長い間この問題で努力なさってこられた方にとっては、感概無量な点もあるだろうと思うのです。そこで、私どもここで考えなければならぬ点は、なぜ一体こういう事態が起こったのか、それからこの起こった事態をどう処理するのか、それから今後の移民行政というものはどう立てていくべきかというようなことが、やはりこの問題の焦点になってこなければならぬと思うのです。  そこでもう各委員方々からいろいろ質問があり、お答えもあったので大体わかっているわけなんですが、ただ一つ私どもに割り切れないのは、先般ここへ来て帰国された方々が言われたことと、それからきょう政府移住局並びに農林省の方々あるいは調査に渡られた中田さんですか、こういう方々の御答弁の中でも、まだ食い違いは多々ある。たとえば土地の問題からいっても、そちらから出てきたのは、全くいい土地であるという写真がある。片一方から出てきたのは石ころだけの土地である。けれども真実というのは一つしかないんですね、二つはないんです。だからよかったのか悪かったのかどちらかしかない。それが雲泥の差というか、片一方は石ころだらけの土地である、片一方は全くいい土地であると言う、こういう事態が出てくるところに私は問題があるんじゃないか。ことに私どもとしては、往々民間同士は利害関係というのがありますからこれは全くそごする場合があると思うのです。しかし、移住局にしてもあるいは農林省にしても、これは役所です。これは日本の機関です。しかも日本の移民政策というものを強力に推進する最高の移住局という機関ですから、ここの言うことにうそ偽りがあるはずはないので、私どもがここで期待したのは、今までできたことについて、こういう事態になったことについて、調査にも落度があったか、これは私は当然あったと思うのです。というのは、今までお聞きしておっても、この募集から移民までの期間が非常に短かったですね。それから現地調査について、その調査の期間も調査の方法についても、十分な用意も時間も持ち得なかったということは、これは中出さんの答弁でわかります。それから、移住してから日常であるとかコロニアであるとか、これは自営と管理農業との相違ということになってくるのでしょうが、この点についても非常に相違がある。けれどもそういう点より私は問題は、移民をするというからには、今までの私どもの記憶しておる移民というのは、適地の選定というものに対してと同時に、その受け入れ態勢の整備、検討というものにまず十分な調査が行なわれるというか、配慮が行なわれていくわけです。それから、今度はそれにいく職業、これは農業とは限りません。この場合には農業といいましょうか。その現地における農業、いわゆる職業としての農業の訓練というものを十分になされなければ、これは成功するはずがないのです。なされなければならなかった。そればかりではなく、資金から資材の準備もしていかなければならない。さらに、私は、移住後の指導というものもなされなければ、当然なし得ないだろうと思う。こういうことをなさるのが、私は移住局の任務じゃないかと思う。にもかかわらず、今までの御答弁では、この点は遺憾ながら私どもは、ああいう局としてよくそこまでやった、そこまでやってもこういう事態になったのだから、これはまあ全く不幸なことであったとは言い切れない点があるわけです。私はその点において調査が十分でなかったということを認めざるを得ない。  そこで、今までのものを要約してみると、移住局長お話をちょっとさっきメモしたのによると、やはり戦後移住の弱さが積み重ねられてこういう結果になったということであるし、それから農林省の振興局は、もっと慎重かつ親切にやるべきであったと反省しているという御答弁に要約できると思うのです。ここで問題は、先日からずっと気を配って聞いていると、どうもあなた方役人の方には、その責任をこうだといえば、あとこの悲惨な事実に対して責任はお前さんの方にあるのだというので押えつけられるのじゃないかという点にばかり頭がいって、事態を正視するという考え方がいささか乏しかったのじゃないかと思う。この間も移住局長は、ドミニカへ行く行く先は本人が決定するのだから、私の方の責任ではないというようなことを言われた。これは速記に出ていますが、たとえば九州へ行くなら九州へ行くということを決定するのは私です。切符を買うのは私です。その場合に行く先を決定したのは私だけれども、汽車が転覆した責任は切符を買った私にあるわけじゃないでしょう。それと同じことですね。こういう事態になったというこの事実ですよ、大ぜいの人が私財を売り払って希望を抱いて向こうへ渡って、しかも悲惨な状態で帰らざるを得なかったというこの事実を、われわれはもっとお互いに直視して、これを今後どうするかという、ここに持っていかなかったならば、これは幾らやっていたところが、最後になったらば、またもう一回向こうへ行って石があったかなかったか見てこなければどっちかわからないというような結果になる。冗談ではないのです。この問題については、私はどうしてこういう事態を生じたかということを、もっと謙虚な気持で突き詰めてみる。  それから、私はあなたの方にもまだもう一つ疑問があるんだが、どうしてもだめだから帰国をするように取り計らったんだ、どうしてもだめだ、本人たちがだめだから帰りたい、帰りたいからというだけであなたは判断するはずはないわけで、それには客観的な、これではとてもだめだという一つの事実がやはりあったから、これは帰国を取り計らうことになったんだと思うが、その点もまだ明確に出ておらないのです。けれども、それよりも、これよりも、帰られた方々、あなたの方では二、三日前何百万か必要だと言われた。これは問題だと思うのです。お気の毒なことは事実だが、じゃそのままけっこうだと言った場合に、今度は、今外国へ出て苦労している人たちが、それじゃおれらも帰った方がいいと言う心配もなきにしもあらず。そういうことも政治としては配慮しなければならぬということも私は認めるけれども、同時に、この人たちの更生の道を開くということも、これはあなた方の責任ばかりでなくて、お互いにわれわれの責任でもなければならないと私は思う。と同時に、今後の移住行政といいますか、移民行政といいますか、これを一体どうするか。ここに私は大きな欠陥があると思う。欠陥があるからここでこういうような議論が行なわれているのであって、再び今後こういうことを繰り返さないために、私はもっとこの問題について検討もしてみたいと思うのですけれども、しかし、いかに検討しても、要は今後の移民行政をどうするか。これでいいはずはないんだから、今後どうするかということ、ここに帰着してくるわけです。ところが、その問題に触れたいと思って、きょう時間をいただいて触れたいと思ったんですが、この問題を重視して農林水産委員会でも取り上げられるということになると、ここで軽々に結論を出して、今度農林水産委員会とここの決算委員会の結論が食い違ったとなったら、これまたわれわれ目も当てられないものになってくるので、そこで農林水産委員会の経過を見ながら、十分に農林水産委員会とも打ち合わせもして、この事態の解決に当たりたいと思うのです。  そこで、最後に一言私はあなたにお尋ねしたいと思う。実は中田技官には十分にお聞きしたいと思ったんですけれども、これは西村さんその他皆さんがお聞き下さったからやめまして、移住に対する最高の責任者としてあなたにお尋ねしたいのは、責任の問題に融れるんでなくて、今後こういう事態が起こらないようにするために、調査ももちろん十分にしなければならないこともわかります。調査だけではなくして、その後における送ってからの指導や、そういうものに対してあなたの方にも欠けるところがあったんではないかということを考えるんです。そういうことに対して、あなたの方は欠けるところはなかった——欠けるところがあったと言うと責任問題が出るんじゃないかと思う。ここで私はあなたの責任を言うんでなくて、今後の移民行政をどうするかという点から、あなたに率直にそういう点での意見を伺いたい。
  243. 高木廣一

    ○高木政府委員 ただいま小川先生のお話しになりましたことに、私も非常に感銘いたす次第であります。それで、現在の移住が決して十分でない、むしろ非常に不十分であるということは、私痛切に感じている次第であります。これに関しては、予算ももっととらなければいけないし、人の養成、これは予算、金だけでなくて、時期その他の努力も要ります。そういう点で十分でないという点は、私万々責任を感じております。そうして今度のように移住者が帰ってくるということは、移住の責任者として、外務省における最終的な責任者として、非常に責任を感じている次第であります。そういう意味におきまして、私最初からいろいろ御答弁しておるところに、何か責任をのがれるような印象を先生方に与えているように思いまして、非常に残念に思う次第であります。これは私の言葉が足らない点が非常にあって、誤解を与えた。私自身は、諸先生が感情を抜きにして、非常に冷静に判断して、移住の将来のためを思っていて下さることがよくわかるのであります。ところが、移住につきましては非常にむずかしい問題がございます。一つは、この前も申しましたが、非常に昔式の、あるいは非常に精神主義的な移住の考え方もあります。たとえばカリフォルニアにおけるインヒリアル・ヴァレーの開発、これは、人力でできないものを日本人がやったということでございますが、こんなものを要求するのはとても無理であると思うのであります。  それから、これからの移住というものは、ただ人を出して、労力だけを出すということではいけないので、できるだけこれらの移住者技術を与え、資材を与え、そうして入った所が発展しやすいように、もっと政府も援助しなければいけないということで、移住地における基本道路なんかの建設には予算をほしいということも言っているのでありますが、これはいまだもらっておりません。もちろんこれは、毎年少しずつはふえておりますが、これはまだまだ足らないと思っておる次第であります。しかしながら、同時にこういう政府の考え方が、他方、移住者の方に、自分らは政府のまるがかえである、従って、行ってから帰るまで全部政府の責任であるというような印象を、これは南米の人にも、どこの人にも与えることは非常に悪い。  これは一例でありますが、一昨年カリフォルニアの短期派遣労務者が帰ってきますときに、サンフランシスコ、ハワイで、アメリカの労働は奴隷労働であると、ごくわずかな人ですが、新聞記者に語っている。それがAPに伝わってアメリカで非常な反響を招いたことがございます。これらの派米短期労務者は、純アメリカ人あるいは日系のアメリカ人の農家で三年働いて帰ってこられたのでありますが、この日系の連中が非常に憤慨しました。白人から侮辱されるのはまだしんぼうできるけれども、日本人から侮辱されたといって非常に怒ったのでありますが、そのとき私ちょうど南米から帰りで、カリフォルニアのこれらの派米労務者のところをずっと回りまして見ますと、彼らはメキシコから来た労務者と相接して日本人だけの宿舎にいるわけであります。そこで大体自動車を持ったり、あるいは食事がとてもひどいというので、朝の食事はどんな食事かと行きますと、卵が目玉でハムがあって、それからオートミルやら何やら、こういうことでは日本の大学の寄宿舎よりごちそうじゃないかと言ったら、いや、私たちはこんなものは好かないのだ、てんぷらと刺身がほしいのだということを言う。これはもちろん言っている本人は主観的でありましょうけれども、そう思い込んでいるのです。それでわれわれも非常に驚きまして、よく調べてみると、結局これはアメリカの留学試験なんかに落ちた人が、留学のようなつもりで行った。そういう人だから、行ったときはカメラを持って——働く気がなかったという人が中心で、そういうわずかな人が問題を起こしたということがわかり、その後の募集におきましては、ほんとうに地方の農村で苦労して働く人を送りましたところが、非常に評判がよくて、最近では三年働いて帰りますと、百万から百二十万円の金を持って帰り、そうして日本ではもっともっと出したいと言っているのですが、肝心のアメリカでは、かつてこういうことを言われたことも影響し、アメリカの失業問題もあって、今は非常にむずかしくなっておるのであります。これは非常にぜいたくな方の極端であるのであります。この間のかげんをどういうふうに持っていくかということが、移住の一番むずかしいところであると思うのであります。それで、政府はもっともっと援助しなければいかぬと同時に、移住者には、もっともっとがんばる性根を確立してもらわなければいかぬ、こういうふうに思うのです。  ドミニカにつきましては、今度帰られた人が全部悪いんじゃなくて、むしろ大部分いい人であると思います。しかしながら、これはこの前も申しましたように、昭和三十五年八月にドミニカがラテン・アメリカ諸国から国交断絶を受けて、経済封鎖を受け、船が全部ストップして、かつてカリビア海の繁華の遊覧都市とされていたトルヒーヨが、もうすっかりホテルがさびれ、一ペソ一ドルといったのが、すっかりペソの価値がなくなり、作ったものが高い値段で売れぬというようなことも非常に影響しておるのであります。こういう事情も考えてきますと、これは移住者の責任ではない。しかしながら、これを全部しからば損失補償をするかどうかということになってくると、非常にむずかしい問題でございますので、そういう点は政治的に諸先生方十分御検討下さいまして、どうしたらいいか、それから、残っている移住者に対して、たとえば、これは何ら根拠はないと思いますが、現地からの便りでは、先へ帰られた方々は三百万円近くの損失補償をもらい、政府ドミニカから全部引き揚げる決意をしたから、君らはタイムを失せず早く帰れというような便りが盛んにきているというお話もございました。こういうことの成り行きということも、われわれ責任者として非常に感じておる次第でございます。しかし、移住の態勢、移住政府の力の入れ方が足らぬということは、諸先生方から御叱責を受けましたが、われわれ自身も痛切に感じておる次第でありまして、将来もっともっと強化していきたい。そういう点では、われわれの責任が十分果たされていないと、深くざんきしておる次第であります。
  244. 小川豊明

    ○小川(豊)委員 移住局長の決意というのを伺ったわけですが、私もこれ以上そう多くの、あれがどうであった、こうであったということは、水かけ論になると思うのです。この表を見ても、ドミニカヘ二回調査に行っておるが、さっき皆さんは日数を言ったが、金額で百六万五千円と二百八十万円、二つ支出されているわけです。わずか四百万足らず、それで何十日間も歩いたって、私が行ったって、これじゃとてもやれるはずがない。調査はほとんどしていないと同じことです。酸度検定器か何かぶら下げて行ったらしいので、この調査報告で見ると、酸性であるかないかだけが報告されているところを見ると、酸度検定器ぐらい持っていったでしょうが、開拓の適地であるかないかという調査一つもされていなかった。中田さんをとがめるわけでないが、そういう一つの予算措置というものが、移民に対して非常におろそかである。これはあなた方反省しなければならぬことである。それぞれの家族はみな自分の資産を売り払っておる。しかも、先般聞くと、急に行くようになったので急いで処分したので、土地や家屋敷を安く売らざるを得なかった。そういうふうにして行くところに、訓練もなされていなかったということは、これでもわかる。そういうふうにしてあっちに行かれ、行かれた結果は、思うようにいかなくて帰らなければならなかった。行かれた方々は何と言うか。私どもはこじきをしようと思って行ったわけでも、物もらいに行ったわけでもない。苦労することはわれわれも覚悟していたが、いくら苦労しても何しても、この土地ではとうてい営農はできないから帰る決意をしたんだということを言っておるわけです。それは営農適地であるとかないとか言えば、さっき言ったように水かけ論になるが、そうでなくて、そこに一家をあげて行くからには、なまやさしいことでは帰ろうという決意は出ないと思う。できる限りがんばろうというのが通例だと思う。それをがんばり得なくて帰らざるを得なかったところに、事情はどうであれ、移民行政としてあなたが最高の機関におるのだから、こういう不幸な事実、非常に犠牲の大きかったこの事実を反省されて、今後再びこういうことをなからしめるというあなたの決意、同時に、農林省も、外務省移住局に協力するというようなことでなくて、一体になって移民行政をもっと完璧なものにしてほしいと思う。これではまるで、言葉は言い過ぎになるかもしれぬが、移民というよりも向こうへ持っていって打っちゃってきた、棄民みたいだと言われても仕方がないことになってしまうので、今後こういうことのないように十分な対策を立ててわれわれにも示してもらいたい。
  245. 西村力弥

    ○西村(力)委員 資料を要求したい。移住局長は予算が足らぬと仰せられますが、三十六年度はまだ終わらぬので、三十五年と三十四年と、この二カ年間くらいの外務省移住関係の予算とか、海外協会の予算とか、それから支部が各地にありますが、移住会社の貸付金、これは返ればいいのですが、回収不能があると思うので、そういうものを全部プラスして移住者の総員で割って、一人当たり何ぽかかるか、三十三、三十四、三十五年度くらいの移住関係のすべての費用の積算をして、そうして一人当たりどれくらいかかったか、これを一つ資料として出してもらいたいと思う。普通の商業ベースから言いますと、おそらくこれだけの金をかけて送ったんじゃ間に合わぬという、簡単な結論が出そうな資料になるじゃないかと私は思うのです。しかし、そこにはやはり国策でありますし、そういう資料が出たら、今後の移民のあり方は、農業移民だけでなくて、もっと別な方向にいったらいいじゃないかという転換策も考えられるので、隠しだてなく一人当たりの費用というものを資料として出していただきたい。
  246. 鈴木仙八

    鈴木委員長 よろしいですね。  参考人各位には、長時間にわたりまことに御苦労さまでした。委員会を代表して一言ごあいさつ申し上げます。  本日はこの程度にとどめ、これにて散会をいたします。    午後四時二十七分散会