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久保委員 それからもう一つ、これは申し上げにくいことでありますが、結局公的の生活において、長い惰性によって今日まできている面がありはしないかという点。たとえば、これは私生活にわたりますが、何か安易に業者との
関係が——たとえば一つの例でありますが、業者がゴルフ大会を主催するといえば、易々諾々としてこれに乗っていく。あるかどうかわかりませんよ。一つの仮定として申し上げた場合、そういうのは、長い惰性の中で、通常のことだというふうに
考えられている、そういう
考えがまだ残っていやしないか。そうだとするならば、当然——これは一つの仮定の例でありますが、もしもそれに類似したことがあるとするならば、これは断じてこの際姿勢を正す一つの方針にしてほしいと私は思うのです。これは、私自身は非常に心配しておるのであります。そういう点でやらぬと、単に
職員一般に訓戒をしたとか、訓示を与えたとかいうだけでは、たとえば
総裁選で、こういうことが発生したから十分自戒しろというだけでは、これはいかぬだろうと思うのです。これはもちろん、働く者の
立場からの一つの規律というものもありましょうが、
国鉄ということを見た場合、やはり
国鉄首脳部としての、そういう方針なり何なりを具体的に生み出す時期ではないだろうかと思うのです。私は、どういう公的な生活をなさっているかは、逐一わかっておりません。しかし、私の感ずるところ、見るところ、どうもそういうふうに見られて仕方がないのです。私は、
東洋電機の問題はどう
発展するかわかりませんけれ
ども、それがないだろうというふうに思っております。そんな不心得の者がたくさんあるはずがない、こう思うのでありますが、先ほど申し上げたような業者の競争というものは、役人とか勤め人の
考え以上に非常に熾烈である。金もうけには手段を選ばずということも、これは一つの常識になっておる。こういう点を十分
考えていただきたいと思います。
そこでもう一つ、これは先般この
委員会で出ておる問題でありますが、
国鉄の信用の問題では、いわゆる
事故の問題でございます。これに対しては、それぞれ訓示というか、指令を発しているようでありますが、私は、
事故の真の
原因は、探求されておらないのじゃないかと思うのです。真の
原因というのは、いわゆる単なる不可抗力であったとかないとかの問題でなくて、いわゆる業務の遂行の体制についてどうなのか。あるいは今日あるところの
制度についてのメスを入れたかどうか。これは私の地元に起きた東海駅の
事故であります。この機関士は私の親友でありますから、私は非常に心配しております。まだ病院におるそうでありますが、しかし、この人情を越えて
考えた場合に、この東海の
事故というのは、われわれの常識をもってしては、こういう
運転法則は実際はないはずです。主要なる列車は、主本線を通すというのが
国鉄の原則であったと思う。ところが、今度はいわゆる二義的な貨物列車を主本線に置いて、主要な急行列車を側線、中線、こういうところを通過させるという
事態が、あまりにも便宜主義的な業務の遂行ではなかったか。これが一つであります。
さらにもう一つは、この間じゅう、やはり前後しておきた、山陽線であったかと思いますが、その
事故では、いわゆる濃霧のためというか、通信途絶のために、隔時法で
運転したという。隔時法というのは、私もよくわかりませんが、時間を限って出すということであります。これは、少なくとも明治五年に東京−横浜間に鉄道が敷かれたときくらいの話でありまして、最近のように列車本数が多い、さらに
関係の向きが多いときに、こういう隔時法的な
運転方式を許していいかどうか、こういうふうに思うのです。しかし、反論があるでしょう、そうやって通さなければ、現実の
輸送には応じ切れないのだという。しかし、
国鉄はそこまでやって
輸送しなければならぬ義務と
責任がどこにあるのか、危険まで予想されるような
運転方式をなぜとるのかという点であります。私は、最低限
国鉄が今日まで守ってきたのは、まず第一に、安全
輸送でなくてはならぬ。迅速というのは——安全、正確、その次は迅速、迅速は一番下と私は見ておるわけであります。なるほど、時代の要請でありますから、最近は迅速がおもになってきた。そのために、安全というものの範囲が非常に狭められてきたということは、
考えてもらわなければいけないと思うのです。幸い、聞くところによれば、さような
運転方式を再検討する時期だというふうに
考えられているようでありますが、私は、真剣に各方面にあるそういう矛盾を解決してもらわぬと、
国鉄の信用は落ちるではないか、こういうように思うのですが、いかがですか。