○鈴木(義)
委員 私は民主
社会党を代表して両
法案に対して
反対の
意見を表明いたします。(拍手)
本
法案は、今日現存する
工業同等
学校や短期
大学やあるいは四年制の
大学のほかに、中
学校卒業後入学する五年制のいわゆる高等専門という
学校を設置しようというのであります。けだし
学校制度に対する根本的画期的な変更というべきであります。六・三・三というくらいまでを堅持して、その上に特殊な新分野の専門を履修する
学校を置くということであるならば、しかく根本的変革とは思わないのでありますが、六・三という義務的な、初歩的な
教育課程の上に手っとり早く実際的な軽便な
技術を主とする
教育の施設を置こうというのでありますから、大いに
考えさせられる点があるのであります。
第一に、
教育にとって手っとり早く役に立つということは禁物であります。
教育の理想はすぐには役に立たないが、しかし長い生涯を通して日進月歩の科学と
技術と機械等の進歩についていける
能力を養うにあることは申すまでもないのであります。単に特殊の
技術あるいは技巧といった方がいいかもしれませんが、特殊の
技術だけを身につけるというならば、昔の徒弟
制度のように、
学校というようなところへは全然いかずに、職人として親方のもとで幼少のときから訓練されればよいのであります。封建時代でもりっぱな職人はこの方法でできたのであります。明治以後、機械が
農業や
工業の
方面に導入されてからも、それが比較的簡単なものであった間は、尋常小
学校というごく初歩の義務
教育を終わっただけでもどうやらやれたのであります。農、工、商に従事する者は久しく尋常小
学校、せいぜい高等小
学校をやれば十分で、中学にいくことはぜいたくとされたものであります。ところが
昭和以後科学と
技術の進歩は長足でありまして、とうてい小
学校の
教育ではこれについていけなくなったのであります。単に年功と熟練だけではいかんともしがたいのでありまして、旧制の中学、新制の
高等学校以上の知能を必要とするに至って、かつて優秀であった職工が
職場から続々脱落する
傾向が顕著になって参ったのであります。実に悲痛な気持を持って中年の失業者になる者が少なくないのであります。これは学問や
教育を
軽視したむくいでありまして、先の見えなかった当時の文政当局、
政治家の責任であります。
今日の短大や
大学制度がこの点で万全であるかというと、決してそうではありません。しかしともかくも六・三の義務
教育の上にさらに三年というより高い一般普通
教育を経ているところに、あらゆる場合に対処することができる
能力を持っているという点に大きな強みがあるのであります。どんな
職業でも短大の二年や新
制大学の四年だけでものになるようなものはないのであります。
大学では専門の
職業のひな形を学ぶだけであります。
卒業後実務について何年か修練しなければ、とうてい一人前の
職業人にはなれないことは公知の事実であります。その点では最初は見よう見まねの小学、中学出の職人上がりや小僧上がりにはかなわないものであります。ただ
教育をよけい受けた者は、理解力や工夫力が豊かでありまして、いろいろの進歩、発達、変化に対応して、早くこれを理解し、それに適応していく
能力が豊かでありますから、出発点において劣っていても、間もなく追いつき、さらに追い越して、有能な
職業人になるわけであります。生産と文化の向上は、こういう人の多いか少ないかにかかっていることは、低開発国と比較してみれば、すぐわかることであります。
ところで、ここに提案されているような予備
教育は、六・三だけで、これは昔の高等小
学校卒にプラス一年だけであります。この六・三だけでいきなり
工業という専門の
職業教育に持っていこうとするものでありまして、昔の中学を出た者が一応役に立ったと同じ
意味では、間に合うところの
中級技術者、少し気のきいた職工、技手にはなるでありましょうが、この寿命がどのくらいであるかは大いに疑問なきを得ないのであります。手っとり早く役に立つということは、
企業家にとって、最初のうちは魅力でありましょうが、本人にとり国家としては、間もなく時代に取り残される人を作ることでありまして、国策としてとらざるところであります。
昔、高等
工業とか、高等農林とかいう高等専門の
学校がありましたが、これは確かに高等専門と言って差しつかえない。今度の高等専門
大学とはだいぶ違う。これが今回の提案と異なるところは、六・一または六・二をやって、その上に中学五年を終わって入っていく。たとい三年でもみっちりこれらの予備
教育の上に専門の課程をやったのでありますから、ずっと役に立つ人間ができたのであります。
今回の
制度でいくと、六・三という義務
教育を終わっただけで、十四、五才で生涯の職種を選択して、早くも
職業教育に入れられてしまうのでありまして、自主的にその選択を誤まらぬということを期待することは、至難であると存ずるのであります。また特定の
職業に役に立つ人間を作るというのであれば、今日
大学で行なわれているような、電気とか機械とか応用化学とか土木建築とか繊維とかいうような、大まかな分類と職種では、実際の
需要に応じられるものではないのでありまして、数十、数百に分類して実習させる必要があるのであります。しかしそれは
学校を工場にすることでありまして、言うべくして行なうことはできない。してみれば、
教育の目的は、
学校で一応完成した
職業人を作ることにあるのではなくして、
社会に出て、どういう種類の
職場に行っても、自分の理解力と工夫力とによって熟練工となり、優秀な
職業人となって、無限に成長発展のできる素質、すなわち
能力を養うにあるわけであります。不景気な時代には、土木を出たのに機械の製造会社に入っておる学生を知っております。やはりりっぱにやっていっております。ほかに
職場がないからといってそういうところに入るのは、その人の
能力がものをいうのであります。それには一般的な基礎的な
教育が何よりも大切でありまして、極端に申せば、
大学までもすべて基礎
教育だけをして、世の中に送り出すのがよろしいわけであります。あまりにも早く専門
教育に入れ過ぎるというのがわれわれの
賛成できないところであります。
むしろ現在の
高校三年の上に二年だけ
職業教育をするならば、つまり短大の拡充ということになりますが、それも一案であります。また
高校の課程を二年にして、その上に三年の
職業的、専門的、
技術的な
教育をするというなら、これも一案でありましょう。純然たる職工級のものの養成ならば、現在の
工業高等学校を拡充すればこれまた足りるわけであります。
今回の
制度の改正は、どうしても半呑半吐のものでありまして、大局から見てとうてい
賛成いたしかねるところであります。実際は今日の
大学すら専門
教育としてはすこぶる不十分なものでありまして、
社会はほんとうに役に立つものとしては
大学院の二年ないし三年の
教育を要求しておるということを考慮すべきであります。とにかく妙な割り切れない
制度が生まれることを遺憾とせざるを得ないものであります。
次に、いろいろ
賛成しかねる理由は多々にありますが、この調子でいくとあまり長時間を要しますから、以下個条的に簡単に
指摘することにいたします。
その
一つは、この
制度が発足いたしますと、一年、二年、三年までは他の
高等学校と同じであります。少しの学課目の相違はあるかもしれませんが、ほとんど
工業同等
学校と同じであります。ところで四年生、五年生となると、これは年令的にも科目的にも短期
大学と同じであります。わが
国民の常として、肩書きとか資格とか特権とかいうものを愛好する
傾向がありますから、必ず心理的な不満を生ずる。
大学生と同等のことをやっておるじゃないか。待遇においても、資格においても
大学生と同じく扱えという要求が出てくるに相違ない。必ず短大
卒業者と同じく扱わざるを得ないことになるでありましょう。してみると、短大のほかにこの五年制
専門学校を設けることは混乱のもとでありまして、なぜ短大を拡大充実して
中級技術者の養成に努めないのであるかと申したいのであります。
それから中学を出るときがちょうど十四、五才、多くとも六才でありますから、このときに前途の方針を自主的にきめさせるということは無理でありまして、必ず先生がきめてやるか、親がきめてやるということに相なるのでありますが、後日自分の選んだ道が自分に適切でなかったということを発見するくらい悲痛なことはないのでありまして、そういう点も十分に考慮する必要があります。なるほど
政府の答弁のように、この
専門学校卒業後通常の
大学に入ることができるというのでありますが、
大学に入るために必要とする普通の教養科目をやっておらないのであります。実際は
大学に入ることがむずかしいし、入っても十分に能率を上げることができないという欠陥があります。
それから、これは最初わずかだけ建てるというならばどうにか間に合うかもしれませんが、一般の
需要に応ずるように
高等専門学校を増設するということになりますれば、教職員の不足というものは一体どうして解決されるのであるか。無理にただ間に合わせにそういうものを用いまするならば、実は実際の内容はこれに伴わない。看板に偽りのある
学校ができることに相なるのではないか。そしてすでに発表されておる教科内容等を見ますると、やはり専門科目に片寄っておりまして、ただいま申し上げる最も必要な一般教養科目というものが非常に少ないのでありまして、いわゆるごく小さくまとまった
技術人を作る、こういうことに相なることをおそれるものであります。
わが国においては、
大学の数がずいぶん多いことにおいては、世界的にも誇り得るのであります。短大を入れて五百数十もあるのであります。これを有効に使わずに、さらに
高等専門学校という間に合わせの
学校を作るということは、おそらくはこの
法律ができました後は争って私立の
学校では作るように相なるだろうと思うのでありますが、非常に
考えなければならぬ問題であると思うのであります。われわれは、現在ある
工業高校あるいは理科系の短大及び
大学の設備の改善を通じて学生の収容人員を大幅に増加させるということで解決していくべきであると
考えるのであります。現在の理科系の教職員の不足は、理科系全般を通じて優秀な
人材を確保するために、努めて待遇の改善あるいは研究設備の充実をはからねばならぬと
考える。また研究費が実にわずかでありますから、教官の研究費、学生の学費の補助、いろいろな道を通して充実をはかるべきであります。特に短大におきましては、研究の設備拡充また研究室の増加、いろいろ
産業界との協力による委託研究の受け入れということによって、連携を強化することが必要であると思うのであります。またわが国は文科偏重であることは否定できないのでありますから、理科系の拡大に努め、理工科系の方が多いくらいにすべきであるが、少なくとも同等の比率くらいまで持っていくべきである、こう
考えられます。
さらに教授の質を高めるために、研究設備を充実し、研究費を十分に給する。待遇をよくするという点も、一般の公務員との比率においてなかなかむずかしいことでありますから、研究費を給するということが
一つの方法であると思います。
それから、現在ある定時制の
高校は、大
企業において多く見られるいわゆる養成工の訓練施設などと、
関連しておるいろいろな
職業の地域
社会の協力のもとに、公共化して活用することが必要であると
考えるのであります。また中小
企業に働く
技術者及び労働者の
技術水準の向上をはかるために、中小
企業の
技術者、これは各
企業が自分でやるわけにはいかないのでありますから、国家が十分にめんどうを見てやるべきではないか。これらの労働者の再
教育の施設を整備いたしまして、いわゆる中年の失業者を作ることを防止するように努めなければならぬと存ずるのであります。
それから
産業の高度化によって生産性向上方策の推進が必要であります。これがためには、高度の熟練労働者を必要といたしますので、
職業訓練の徹底をはかる。諸外国がやっておりますような
社会教育、市民
大学というような設備を作ることによりまして、過去において相当の
教育を受けていなかった人々に対して、その人の知的向上をはかり、
社会的、経済的地位の向上と新しい
技術革新に対する適応性を得せしめるというようなことをやるべきであると思うものであります。ことに農漁村地域あるいは
工業地域等において、
農業、商業、
工業高等学校を中心とする
教育施設をいろいろな形で作るべきでありまして、こういう画一的な
高等専門学校というものは、名前だけであって、その内容は、先ほど来申し上げますように、察するに足りると思うのであります。
要するに、こういう
教育の
制度は、朝令暮改は最もよろしくないことでありまして、
産業界及び科学そのものの長期的な見通しの上になされるべきものでありまして、どう
考えても、私はこの五年制
高等専門学校なるものは、いわゆる間に合わせ的な、手取早くという、
教育の根本
趣旨に反する新しい
制度であり、従来の
制度を全体として変える場合に
考えるなら別問題でありますが、突如として六・三・三・四制の外へこの
制度を設けることにつきましては、
学校制度を破壊するものとして
反対の意思を表明せざるを得ないのであります。
以上をもって私の
反対意見といたしたいと思います。(拍手)